2011年09月23日

秋の俳句十句-柿など(南相馬市原町区片倉村ほか)


秋の俳句十句-柿など(南相馬市原町区片倉村ほか)

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子育地蔵


栗実り空家となりて淋しかな

石神に子育地蔵や柿なりぬ


表札に佐藤とありて柿実る


街離れ大木戸村や虫の声


片倉村草茫々や秋の蝉


片倉村墓所にひびける秋の蝉


墓所二つ訪ねて暮れぬ残暑かな


小高区は立入禁止秋陽没る


船一つ夕風涼し小島田に


柿なりぬバスに帰りぬ旧街道




写真で高松の空家などを紹介したけど栗とかユズでもそうだったが果実類には放射性物質が蓄積しやすい。果実類は食べにくいのである。それでも自分は地元の梨とか食べている。これもどれだけ危険なのか結局わからない、用心している人は地元の老人でも食べない、昨日相馬市のレストランで話していた人はそうだった。

片倉村から陸前浜街道に出て小高の方に行った時、立入禁止区域になっていた。そして引き返した。この辺の道路は車がめっいり減って昔の街道にもどったようになった。車が通らないといかに静かになるかわかる。それは六号線でもそうだった。夜間のトラックも走らないからそれだけでも静かになり車が走りやすいのだ。それで経済は停滞してしまっているのだが江戸時代にもどったような気分になるのも不思議である。江戸時代なら他所との交通がほとんどない世界である。旧街道だけが唯一の外部に通じる道だったのである。小高にも行けないから秋の陽が没るというとき南相馬市は縮小されてしまった。

石神に子育地蔵があったけどこれも地元に子育するならいいがそれも外に出ていく人が多くなれば無意味化する。近くの石神小学校は閉鎖されていた。そういう異常状態を混乱は何なのか?それが現実として未だに受け入れられない人が多いだろう。自分も一体これは何なのか、理解しにくいのである。市町村が崩壊することなど想像すらしたことがないからである。

鹿島区の小島田には津波で流された船がまだかたづけられないである。それは今や一つの風景になっている。異常事態が定着して一つの風景になる。旧街道をバスにのるというのも何十年ぶりだとかなる。バスはやはり人間的な面があった。だから旧街道を走るのに向いていた。なぜなら一つ一つの近隣の地域を走るからである。それでバス停の地名が心に残るのである。電車だったらそうした狭い地域のことはわからない、より地名が身近になるのはバスである。バスは地名をより親しくするのである。だからバスにのる旅はそういう点で旅にはいいとなる。ただバスは便数が少ないから乗ることができないのである。いづれにしろ旅どころではない、毎日生活に追われている。旅は十分したからいいとなる。ただ思い出は旅にあった。今も心の中でいつも旅しているのだ。


柿の季節になったけど表札に佐藤とあったの句にしたけど佐藤などありふれているけど相馬地方には多いから苗字を見るのもその土地を知ることである。柿の季節になった。柿はその土地に定着する、柿は昔から日本にある。柿は何かもっとも故郷をイメ-ジするものではないか?柿があり素朴な村々がある。


柿の話
http://www.musubu.jp/hyoronkaki1.htm


つまりこの辺ではそうした素朴な風景すら失われた。柿が食べられないというのもそうである。
故郷から大勢離れた人がいてそのことについていろいろ書いてきた。そもそも故郷は何なのだろうということを書いた。それは故郷から離れてしまうとか漂流被災者になるとか信じられないことが起きているからだ。


年老いて故郷離る人あわれ三条市に逃れつづる日記よみぬ


http://blog.goo.ne.jp/minamisoumashi-hinan/c/58f2cdf763249235e825b9417cd1b998/4


このプログは避難した人の記録である。これも一つの郷土史の記録となる。こんな体験すること自体ありえないからである。この人が書くには花が咲くには花だけではない、茎とか根があり土がありそういう大地の上に花も咲くとか書いている。つまり花は芸術とか文化だとするときその基盤には農業とかの第一次産業がしっかりと大地に根付いていてあり街があり安定していない限り芸術文化の花は開かない、一体そういう基盤が崩壊してしまったらもうただ生きているだけの人間になってしまうのではないか?なんとか食うだけの貧しい生活である。この土地に豊かな人間生活全体の花が開くことはなくなってしまう。そういう異常事態にどう対処していいかもわからない、ただみんなうろたえ狼狽しているだけである。避難した人々は漂流被災者になっている。市町村から自治体からの絆から切れてしまうとき漂流者になる、法的関係が切れるときそうなる。そんなことありえないことだったから考えもしない、市町村との絆など普通は考えない、普通にあるものである、今やその普通にあるものが失われたから毎日その異常事態を考えざるをえないのである。

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