2011年10月10日

女郎花野菊桔梗


女郎花野菊桔梗


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そのままに流さる船や秋の風


おみなえしに野菊のそえて桔梗咲くよこしまのなき花にあるかな


森深く一つ二つや蝉の声なお聞こえつつ秋の夕暮


天地(あめつち)の静けさここに極まるや蝉の声かすか秋の夕暮

芸術とかが才能だと思っているかもしれないが確かに啄木とか賢治とかわずかの天才はそうかもしれない、でも才能なくても芸術を極めることができる。芸術のバックボ-ンは倫理的なものである。
徳を追求している。つまり美とか禅とか義が一体であり別々のものではない、愛もそうである。
よこしまなき心に自然の美も映える。よこしまなきというとき別に人間は罪を犯すものだし過ちも犯すから罪を犯すなとは言えない、悔い改めろとは自分にしても他者にしても言える。


ただよこしまな心にはどうしても自然の美は映えない、ピカソなどの絵は本物の芸術ではないというとき美には邪なものもあるということになる。そういう美は本当の美の表現ではないということはある。天才的な人がモラルに欠けている場合があるからだ。天才でなくても普通人でもモラルをもっている人はいる。その簡単なモラルを維持することがむずかしいのだ。嘘つかない人がいないように特に今では社会の上層部は何かしら悪に染まっているように正直であること、嘘をつかないということ自体最高にむずかしいのである。だから江戸時代は素朴な人がそういう簡単なモラルに生きた人が多かった。農民とか職人でも嘘をつかずに生きられた。今は会社員だからその会社がモラルなき会社になっているのが多いからその会社に属している人はまた自分が正直であろうとしてもなりえない状況になっているのだ。


だんだん秋も深まる、天地(あめつち)の静けさが田舎にはまだある。そういう静けさがあるから田舎に住む。ところが今のこの辺は騒乱状態である。それでこういう所に住んでいるのが嫌になる。
そして飯館村でも高瀬川とかも近くの風光明媚な所にも行けなくなった。それがこの辺に住んでいても損になった。そういう自然に囲まれていることが心落ち着かせることだった。それがなくなったときなんかイメ-ジ的にもひどく損なわれてしまったのである。外から放射能地帯というイメ-ジしかもたれなくなった。これも大損だった。とても金で賠償などできない、東電の賠償も期待したほどにはならない、結局ここに住むことは大損にしたならなかったと結果的にはなる。それでも長年住んだ所は簡単に移れない、老人は移れないのである。


まだ蝉が鳴いている、天地の静寂にその声を聞く、今年は長く鳴いているのか、そろそろ秋もかなり深まってくる。除染で草はかなり刈ったから草ぼうぼうとはなっていない、この辺はいつになったら正常化するのか?もう半年も過ぎて流された船も一つの定着した風景となってしまった。

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