冬の日に古い楽器に偲ぶヨ-ロッパ
晩秋や楽器作りや古き街
石畳踏み古き楽ひびく
鐘のなる石畳の路地冬に入る
ハルダンゲル・フィドル(Hardanger fiddle)。英語ではハーディングフェーレ(Hardingfele)。飾りのついた小型のヴァイオリンのように見えます。
http://tokuhain.arukikata.co.jp/oslo/2010/02/post_18.html
音楽は苦手だけど一時期理解しようとして楽器をやったがうまくいいかなかった。ただ暇だからクラシックを聞いて理解しようとした。それで教会のミサ曲の古いチェンバロの音が心に残った。あういう音楽はやはり当時の街の雰囲気とともにあった。それは石畳の古い路次を歩めばその音色はしんみりととけこむのである。音楽もその当時の街と一体化してあった。現代はあらゆるものがごちゃまぜになってしまった。一つの音色はない、あらゆる音色があり統一されない、クラシックとポピュラ-が一緒にひびいてくる。現代は常に調和がない世界なのである。
楽器も偶像とまでは言わないけれど目に見える形あるものという点で偶像と同じと考えられていた)、人間の声による歌だけが重んじられていたのです。
http://poco-a-poco.chu.jp/lothlorien_music/03/post_66.html
ボ-カルしかなかったというのも意外である。ユダヤ教から発した一神教では偶像崇拝ほど怖いものはない、人間は宗教というときほとんど偶像崇拝に陥っている。偶像崇拝しないだけで宗教はわかる。イスラム教を見ればわかるだろう。唯一の戒めは偶像を崇拝しないことである。なぜなら人間は偶像崇拝に一番陥りやすいからである。日本なども神道でも偶像崇拝に陥っているから怖い。何か偶像を拝んでいるようで怖いのである。八百万の神も偶像になる。そもそも日蓮宗でも真宗でも紙に書いた題目を拝んでいるけどそんなものに神があるはずもない、だから当然そんなもの破る人もでてくる。それを破ったからといって何も起きない・・・・それは神ではない、ただの紙にすぎないとなる。それは自分が実証しているし他の人もそういうことはわかっている。偶像はいづれすべて破壊される運命にあるのだ。だから偶像崇拝は最大の戒めだったのである。偶像崇拝はまた強制される。戦時中の天皇もそうだったともいえる。人間が神を求めるとき偶像を神とする傾向が古代からあったのだ。
ヨ-ロッパの魅力はやはり歴史である。その歴史もヨ-ロッパ全体が重層的になっている。だからこそルネサンスが生まれた。ヨ-ロッパを歩けばどこでも歴史を感じるのである。ただその歴史を現場で理解することはむずかしかった。それで今思い出して勉強して歴史をイメ-ジする作業をする。そういうことが冬の静かな日にあっているのだ。

冬の石畳の街
古い石畳の路地
その道を踏み歩む
古いチェンバロの音がひびく
中世の静かな街並み
人々はひっそりと暮らしていた
奥まった部屋に身をつつみ
女性は顔を出さない
教会の晩鐘が鳴り
冬の日は路次深くさし暮れる
石の壁は歳月経て重みを増している
その石にチェンバロの音が厳かにひびく
石の城、石の教会、石の市壁、石の橋
石に刻まれたヨ-ロッパの歴史
遠い昔を石に偲ぶ


ヨ-ロッパの中世はやはり江戸時代である。江戸時代も城がありヨ-ロッパと共通していたのである。日本とヨ-ロッパの歴史は共通していた。もしかしたら明治維新が成功したのもそういう江戸時代の歴史があったからかもしれない、封建制があったのはヨ-ロッパと日本しかなかったからである。
アメリカなどは全く異質の国だった。歴史もなく突然大平原とかに現出した国なのである。その驚嘆を詩にしたのがホイットマンだったのである。何にもない所に都市が現出したのである。
写真はここがいい
http://bellano.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-3107.html
石畳の道を切り取って良く見たら確かに日がさしていた。前画面からきずかなかったのである。
部分を拡大化すると部分詳細に見るということがあった。写真の見方でもいろいろ方法がある。