2011年11月25日

冬の菊(仕事は生きがい)


冬の菊(仕事は生きがい)

変わらずにここに勤めむ冬の菊


誠実に勤め変わらず冬の菊


冬薔薇しみ入る色や夕暮れぬ

今日は冬の菊というときあっていた。山は雪になり寒かった。北風も吹いた。
最近この年でわかったことは人生の真実や芸術なども実際は本当に単純なものだった。
シンプルなものでありむずかしいものではない、むずかしく解釈する必要もない。

菊というとき昔は女性の名前に多い。今はわけのわからない名前になった。名は体を現すというときやはり名前も大事である。キクという名前は日本の伝統的なものを伝える名前である。
皇室の紋章が菊であることも菊も日本を象徴したものとしてある。
ただ野菊などはドイツには日本と同じ様に咲いていた。ドイツと日本もにた所がある。
ヨ-ロッパは意外と日本とにている。中国はかえって日本とにていない。やっぱり大きすぎることが影響している。


菊は秋でも晩菊から冬の菊になる。寒菊となるとさらに一月以降の寒い時である。今日は山も雪であり飯館も雪だったろう。飯館には人は今住んでいない。やはり自然でも自然だけでは自然も活きてこない。人間があってこそ自然も生きる。人間は自然と共に生きるとき喜びがあるのだ。そのために自然のように心も清くないと自然も映えないのである。人は人間に勤めるというよりまず自然に勤めるものではないか?この美しい自然に勤める、都会だとそこはビルだらけであり家だらけであり自然に勤めるという感覚はでてこない、田舎だとまず自然と接するから自然に勤めるとなる、大きく言えば天地に従い天地に勤めるとなる。仕事が勤めるというとき根本にそういうことがある。


今のこの辺の状態は異常である。仕事ない人であふれている。別に避難している人でも一人10万もらっているとしたら生活には困ることがない、でも何もすることがなくなり繁盛ししているのはパチンコ屋だけだというのは異常である。パチンコ屋には車が一杯である。知人もパチンコ屋で働いている。人間はやはり収入のことばかりいうけど仕事なかったら淋しいだう、生き甲斐もなくなる。

そして仕事は勤めというより宗教的な意味もあったのだ。農業なんか本当は仕事自体からすると最も生き甲斐のあるものではなかったか、米が安い、野菜が安いといっては農家はやりたくないというけどもともとはそうした消費のことを考えなければ仕事自体は最も天然に従う聖なる勤めのごときものではなかったか?それをつくづく放射能災害で荒地になった農地を見て感じたのである。仕事がなくなった農家の人も自分のしていた仕事のことをつくづくふりかえっている。牛ととも働きたいというときやはり牛と共に働いていることが生き甲斐だったとなる。そういう農家の人が商店とか工場で働けるものだろうか、そういうことをやはり避難した人自体が感じている。


冬薔薇にしてもその色が深く不思議に夏の色とは違っている。深くしみ入るような色になっている。冬は趣がある。人間最後に冬となり老年こそ最後の豊かな実りの時だったのである。

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