原発の安全対策は戦術ではなく戦略が必要だった
(日本は巨大技術に向いていない)
戦略(strategy:ストラテジー)
全体的な方針。
変更は困難。
戦術(tactics:タクティクス)
戦略に基づいて細かい個所を決める。
戦略に基づいていることが必須。
変更は可能。
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-SanJose/7769/hard2a/senryaku.html
人間は日々個々の戦術に生きている。目の前の利益を獲得することは戦術である。あらゆる人がどうしたらもうけられるかとかどうしたら売れるとか日々の戦術に生きている。人間は宿命的にそうなっているのだ。戦略を考えるのは特殊な人であり一般人は日々の糧を得るための戦術に生きているのだ。ところが戦略となると個々の利益を得る戦術的思考と違ってくる。全般的総合的な視野が必要になってくる。でも日々の生きるための戦術に生きている大多数の人にとって戦略的に思考することはできない、それを担ったのは戦国時代なら君主になる。戦争になったら総大将になる,城主になる。
信長とか秀吉になり家康になる。戦略的に優れていなければとても勝つことはできない、布陣するにもそれは戦略であり戦術ではない、大軍の布陣は戦略であり個々の戦いは戦術になる。戦略は戦争の最初に決められてあとで変更しにくい。戦術は戦争のなかでも変えられる。戦略全体を見渡さなければ作れない。地形とか相手の人間を見たり様々な視点から決めれる。天候なども関係してくる。
総合的判断力が必要になってくる。諸葛亮孔明などは戦略であり戦術家でもあった。そういう人はまれである。
●現代文明は総合的に判断する戦略家は育たない
戦略を考えるとき何も戦争のときだけではない、平和時でも戦略となると総合的判断が必要となると学問でも最初は総合的に見る人が偉大とされていた。それが哲学者だったのである。学問のはじまりは哲学からはじまった。総合的な視野をもった人が学問の指導者だった。今回の原発事故で問題になったのはまさに総合的に考える指揮官がいなかったことが事故につながった。現代は無数に細分化して専門化しているときそれらを総合する人はいなくなった。総合する人はどういう人かも思いつかないだろう。今は総合してものを考える人、哲学者が一番低い位置にある。というより総合家は存在しえないし見えないのである。すべてが専門化して部分化し細分化している。それが原発事故につながっていた。
原子力発電は戦艦大和を作り動かすのとにている。国の命運を背負って作り動かすものだと学者が言うときそういう気概と総合的な力を結集して運営するものだったのである。でも専門家同士の意志疎通もできないし総合的に判断することができなかった。社長でも国の首相でもできなかった。唯一実務を担当した現場の所長がその役割を果たしたのである。それだって原発を建てるときは力をもっていない、社長がもっていても社長はコストカッタ-として知られていた。それが安全をないがしろにしたのである。様々な危険が指摘されても真剣に考慮しなかった。原発にしても生きるか死ぬかだとかそういう戦国時代のような意識をもっていない、そもぞれの専門家もそうした意識をもっていない、建設するにしても地盤やら地震やら津波のことやら天候のことやら歴史的な災害の記録やら何やら総合的判断が必要とされていたけどそれをできる人はいなかったのである。現代文明自体がそういう総合的にみること自体不可能になっていることもありそれが要因となり大事故につながったともいえる。
太平洋戦争でも最初から戦略がまるでなかった。真珠湾攻撃でも追い詰められて暴発したのであり戦略的なものではない、その後もずっと暴発的侵攻であり戦略的侵攻ではない、戦術はあっても戦略なき戦争だったのである。あれだけの戦争となれば世界的総合的戦略が必要になるがそれはまるでなかった。ただ暴発して戦略無き無謀な戦線の拡大だったのである。そして医者のような責任意識に欠けていた。医者は何かに言っても手術するとかなると責任をもたされるから責任意識が強い。だから手術するとき合併症のリスクのことを盛んに言っていた。、、、なになにだから危険ですよ何度も言っていた。原発を運営するものにはそういうことはなかった。だからリスクを覚悟するということもありえなかった。ただ安全だ安全だとしか教えられない、だから事故があっても避難することもできない、安全しか教えられていないからどう避難していいかもわからなかったのである。結局個々に専門家は原発にかかわっても総合的に見て判断する人はいなかった。要するに全体の責任者は誰もいないのである。だから戦争のときと同じ様に誰も責任者をとる人はいないのである。想定外の暴発だとなり戦争と同じだったのである。
●日本は巨大建造物を作るのに向いていない
確かに日本の技術が優秀な面はある。それをあえて否定するものではない、しかし技術はすべての面で優秀ではない、原子力はやはりフランスとかアメリカの方が進んでいたのである。安全対策も進んでいた。アメリカは宇宙開発のように巨大な技術開発に向いている。ここは地球なのか火星なのかとかそんな広大な土地であり宇宙基地を作るにしても向いている。原子力発電所も巨大技術でありそういう巨大なものを扱うのには向いている。これは中国でもそうかもしれない、万里長城を作ったような国だから巨大なものを作るのには向いているのかもしれない、スケ-ルが日本では考えられない巨大なものを作る。エジプトのピラミッドもそうである。大陸には巨大なものを作るのに向いているのだ。日本はそういう巨大な技術を開発するのに風土的に向いていなかった。日本は太平洋戦争でも指揮系統もばらばらであり全体を指揮することすらできなくなっていた。そううい全体を戦略的にみることが苦手なのである。戦術があっても戦略がなかった。
戦略となるとき技術だけではどうにもならい、技術は戦術なのだ。技術家は戦術家である。細分化して技術にこだわり個々の技術を極限まで追求する。でも大局的総合的にみることは養えない、あくまでも全体の部品の品質向上などには適格になるが全体を見る眼は備わらない、技術はあくまでも戦術である。戦略はその技術家を応用する総合家でありそういう総合家はまれである。そうした人を育てるのも専門化した現代では育てられない。これだけ複雑になるとその全体を見渡せる人はいないのである。最後はバベルの塔のように破壊されてしまう。現実にそのあと言葉が通じなくなったということは専門化してそれぞれの分野で言葉が通じなくなっていた。これは現代がまさにそうである。あらゆるものが専門化してその専門家の間で言葉がすでに通じなくなっていたのである。結局そうして文明は崩壊する運命にありそれを誰もとめることができない、悲観論になるのである。
戦略は眼前の利益をあげる戦術的なものではなく長期的なことも戦略である。現代はすべて眼前の利益に眼前のことに関心があるが長期
的なものは関心をもてない、だからめまぐるしく変わる世界になる。長期的ビジョンをもって戦略をたてて結集することはありえない、民衆自体がすべて毎日眼前の利益をあげる戦術に生きている。そういう人達を導くには常にニンジンをぶらさげないとついこない、長期的なことを言ってもついてこない、民主主義はそういう民衆が大衆か指導者を決めるのだから当然眼前の利益を与える人を選ぶ。長期的に国家をどうしようかと言う人にはついてこない、民主党の政策が子供手当てとかすべてにんじんをぶらさぜたものであった。それが地震やら津波やら対外問題で崩壊したのである。今や国家自体がどこも世界恐慌の恐怖におびえている2。そういうなかで子供手当てとかなどただ眼前の利益を与えることもできなくなった。国自体がつぶれるかもしれないというとき別な国家的問題に立ち向かう総合的戦略が必要になる。しかしそうした総合的戦略を出すには民主主義ではできないという矛盾につきあたっている。民主主義は大衆主義でありそうした長期的なものに眼が向かない、日本を長期的にどうするかなど考えない、目の前の利益のみ追求している。そういう人達が要求するのは目の前の利益であり長期的なものではないのである。でも目の前の利益のみに眼を奪われていると原発事故のように全体も崩壊してゆくことになる。
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