山形県の旅の回想の短歌
(秋から冬-七ヶ宿街道など)

上山近くや姫の面影の鏡清水に秋の夕暮
上山秋の灯ともりあわれかな七ヶ宿より我は来たりぬ
上山一夜泊まりぬあわれかな秋の夜ふけぬ安宿に寝る
上山残れる雪に城見えて電車の去りぬ春はまだしも
峠駅下れば見ゆる福島や江戸への道のなお遠しかも
仙台ゆ山寺に入り山形や雪踏み入りぬ馬形部落
山寺の対面石に雪残り流れの清く我の向き合ふ
何故にここにありしや山寺に北畠神社秋深まりぬ
南朝の形見と残る神社かなみちのくの奥戦いの跡
深々と雪に埋もれて山形やなまりの強く冬深まりぬ
山形に雪はふりつむしんしんと小国は遠く旅の日思ふ
数県の雪に埋もれて家淋し羽前南駅一時とまりぬ
最上川船は通らじ雪埋もれ春を待つかな冬は長しも
最上川虫なきかすか船着場ここにそ昔舟は寄るかな

●旅の楽しみ方
【第一段階:計画立案する楽しみ】
【第二段階:実体験する楽しみ】
【第三段階:写真を楽しむ楽しみ】
【第四段階:旅行記を書く楽しみ】
http://www.gulf.or.jp/~houki/essay/zatugaku/whytravel/whytravel2.html
ここで現代の旅で大事なのが3と4である。ここは実際は一つのものである。旅行記を書くというときそれは旅を思い出して書く、回想の旅である。回想するためには記憶をたどらねばならない、すると人間は忘れやすいから記憶をたどれなくなるのだ。特に外国などは変わっているから記憶しにくいから写真は本当に大事だったし貴重な宝物になっている。そしてそれがどこでとったかさえ不明になる場合も多い。日本の場合はあとで回想することが何度もできる。それでも忘れ安いのである。ただ東北だったらだいだいの地形が頭に入っているからわかりやすい。それでも電車で行っただけではわからない。上山(かみのやま)に行くのに自転車で小坂峠を越えたけどとんでもない坂だった。嫌になって上りたくなくなった。たいがい坂は歩いて上っていた。あの坂はどんな人でも急なので歩いて上るほかない。小坂峠どころではない大阪峠だった。その坂を越えると上戸沢から下戸沢となりなにか名前もひなびているし何か淋しい道のりとなっていた。それは白河街道を通って会津に出たときと同じだった。あの道も今はさびれた道になっている。昔の街道はさびれた裏道のようになっている所が多いのだ。道は変わってしまった。街道で不思議なのはなぜ急峻な山道を越えたのかということである。あのような道を駕籠でゆくとしたら大変な労力がかかる。それは陸前浜街道の鹿島区の一石坂もそうなように坂がきついのに回り道していない、結局昔は急な坂道があっても山があっても最短距離を選んだのである。その感覚は歩いてみないとわからない、少しの距離でも遠回りすると歩いた場合かえって遠くなり目的地に遅くつく、早くつくためには坂があっても最短距離を行った方がいいのである。自転車だって二三キロ分かれてそこで休むかと思ったら往復5キロとかなり時間がかかるのである。先を急ぐとすると回り道は時間がかかるのだ。歩くことは常に先を急ぐということがあったのだ。まずこれは車の旅とは余りにも違いすぎるから感覚的に実感できなくなったのだ。峠駅は電車でも昔の峠だから名前がついた。力餅とか売っているのも面白い。峠を越えるのは大変だったのである。
旅を充実させるには現代はでは確かに外国までも広く旅はできる。でも中味のある旅がしにくい、それで大事になるのが回想の旅であることがわかった。東北辺りだったら回想の旅もしやすい、まず地理をしること地形をしることだがそれが感覚的にわかりやすい、それでも今の旅は車がないと電車の旅が主流になるから昔の街道のことは閑却されやすいのである。自転車で行けるところはそれなりに行っても限られていた。だから上山というとき上山は車窓から見た上山城しか記憶していないしそういう所が多いのである。一回だけ七ヶ宿を通ったのでこうしたし短歌もできたのである。秋の夕暮れに鏡清水に姫が顔を写したとかあり上山の近いので現実味を帯びて想像した。そこから上山についたのはすでにとっぷりと日も暮れて街の灯がともっていた。そしてやっと安宿に泊まることができた。旅情は安宿にあるが現代はホテルは高すぎる。ビジネスホテルでも高い。温泉旅館は高すぎるから数えるくらいしか泊まっていないし泊まらなかった。安く旅するならヨ-ロッパでも外国の方が向いている。日本は交通費でも何でも高すぎる。上山城は2万五千石だけど城が小さくても残っているのがいい。それなりにここが城下町だったことが外からみてわかるからだ。相馬藩は六万石でも城がないから城下町だということすら意識されないのだ。
七ヶ宿街道は日本海側や山形秋田から参勤交代に来るときは福島市に出て奥州街道にでたときここからまっすぐ江戸へ通じると意識しただろう。でも今のように福島市に出たら新幹線で二時間だとはならない、まだまだ遠い感覚である。その遠い感覚が旅だったのである。今でも地形は変わっていないから想像はできる。福島市に出る奥州街道はみちのくの幹線道路だったことは昔も今も変わらない。小坂峠を越えると広々とした平野が開ける。山形は山に閉ざされた地域でありかえって最上川を通じて酒田に結ばれ日本海から北前線で大阪や京都に結ばれていたのだ。紅花で栄えたというのも最上川の交通があったからである。日本では河の役割はあまりない、最上川だけは交通路となっていた。人間の社会は交通によって繁栄したりしなかったりすることがはっきりしている。参勤交代の道でも昔の街道はそれなりに人が行き来するからその街道沿いは栄えるということがある。ところが鉄道ができたとき交通路が変わったから昔の街道はさびれたのである。最上川の舟運も北前船もなくなった。そうすると最上川沿いもさびれることになったのである。人間は遠くても不便でも交通が発達すると便利な所が要所となる。
東北でも福島県でも広い、会津は一つの大きな国であり雪国でもある。山形も雪深い所だから一般的に東北には雪国が多い。ただ浜通りから太平洋沿いの石巻辺りまでは海側であり海の風土でにかよっている。今回津波にあった地域は風土的に共通していた。むしろ会津と山形とか新潟は風土的に雪国で共通している。雪に閉ざされる感覚は浜通りの方では理解し得ないのである。それで今回浜通りで原発事故で会津の仮設住宅に住んでいる人がいる。その人たちが会津の雪に埋もれ雪かきしてい姿がある。はじめて身をもって会津の雪を雪国の体験をしているのだ。そこで冬を越すのだから本当に会津の人の気持ちがわかる、雪国の人の気持ちがわかる。東北でもこうして風土の違いがあるからなかなか一つのものとして理解しにくいのだ。
山形も深く雪に埋もれる県である。宮城県との境が山寺に出る辺りにありその境がはっきりししているからここから山形だと意識しやすい。必ず面白山とかが深い雪に閉ざされるし雪国に入ったということが意識される。春になっても雪が長く残っているから宮城県と山形県の境は一番境として意識しやすいのである。山形県で面白かったのは郷土料理として納豆汁があった。それがなんともこってりとして雪国風である。土地のとれたもので工夫して作ったのが郷土料理である。仙台のハゼの雑煮も石巻の長面で焼いたもので栄養があるようだ。今回の津波で被害を受けたがハゼをとりはじめた。海水と淡水が交じるところでハゼがとれる。北上河の河口でものんびりと釣りしていた人がいたがあの被害は凄まじい。テレビで見てもそうなのだからそこに行ったら茫然としてしまうだろう。あれだけ人家が密集していたのだから被害も大きかった。
七ヶ宿街道
http://www42.tok2.com/home/kaidoumiyagi/sitigasyukukaidou..html
ここは相当に専門的である。こういうのがサイトにあると助かる。インタ-ネットをたどって旅を深められるのだ。
本ではなかなかこういうふうに読めないのである。一つの相互的関連として検索し読みまた創作するとき
知識は創造は無限に広がってゆくのだ。
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