本の読み方
(本は読むとは著作者の心を読み自分なりに解釈すること)
●引用は極力すべきではない
繰り返すが、「自分の言葉」を使って、自分の疑問とその答えを中心にして要約文を書かねばならない。やってはいけないのは、本文の文章をそのまま使うこと。これは、やってはいけないよ。
http://www.osaka-kyoiku.ac.jp/~shakai/seiyosi/howtoread.htm
本は読むより読まれているということが多い。本を読んでもびっしり大事な所に線をつけたりしていたがそれも無駄だった。本は相手ののみこまれ読まれてしまうのが多い。若いときは結局、経験もないのだから相手の言いなりになる。知識の量も経験もある人にただ読まされることになる。それは別にすべて悪いことではない、いいことを言っていれば記憶に留めるのは悪いことではない。でも読書はカルト宗教団体に入るとにている。一方的になりやすいのである。引用することは相手の言っていることをそのまますることであり自分なりに解釈したものではない、自分の文脈で解釈していないのだ。引用は確かに効果的になることはある。自分も引用したが自分なりの解釈をしていない引用もあって失敗だった。インタ-ネットでは何でも軽く書いていいから書いたがもっと要約したこれこそ自分が言いたい核心だいうものを書くべきだった。それは今からでも手直してインタ-ネットでは書ける。読書も相手の書いたものを自分なり読むということが大事なのだ。相手のペ-スのままにすべてただ自分が読むのではなく読まれてしまうのが読書には多い。
●他者の基準が基準になり安いこと
古典でも絶対化してはいけない、古典にはどうしても読まれてしまい自分の解釈ができにくい。それだけ中味があるのだから自分のようなものには自分なりの解釈はできないと思ってしまう。人間は結局、すべてのものは自分なりの価値づけするほかない、どんなにベストセラ-で売れていようが知的分野や芸術とかの分野では自分が価値の基準になってしまうのである。そんな能力は自分にはないといっても現実的にはそうされてしまうのである。だから絵画でも詳しくない人は他人の基準に従うのである。ベストセラ-を読むのは他人の基準に従う人が多いからである。みんな買って読んでいるからいい本なんだよとなる。これはカルト宗教と同じである。みんな入っているあれだけの数の人が入っているのだからそれだけの価値があるとなる。数で判断されているのだ。それに疑問を抱いても考えたり調べるのがめんどうになるからそうなる。第一カルトなどは権力をもっているから批判した本が極めて少ない。批判した本を本屋に置かさせないのだ。それだけの力をもっている。
原発事故でも原発に反対する本はあっても隅に追いやられていた。反対の学者もマスコミに呼ばれて声高に主張できなかった。もっと創価でも真光でも幸福の科学でもこれはカルト団体で権力を操作することを目指しているとかそういう批判の本は出ない、出せないようにしているのだ。書店はまた売れない本は置かない、カルト宗教団体では金があるからその会員が買ってくれるからお得意さんだとなる。ある時大きな書店は「幸福の科学」の本が入り口に山積みになっていた。一番目立つところに置かれていた。一般人はなかなか買わないにしても会員が大量に買えば売れるものとして置かれている。
●時代が変わって理解しにくくなる理由
ともかく古典でもそれがどういう価値があるのか、解釈すればいいのかは自分で価値づけるほかないのだ。そういう作業がないかぎり古典も活きてこない、権威ある本となっていてもそうである。古典というときそれはなぜ古典になるかというと時代の影響がある。どうし現代では芭蕉のような深みのある俳句ができないのかと不思議であった。それは現代の環境と江戸時代の環境が余りにも違っていたからだ。第一車もない、電気もない世界だ、高層ビルもない、鉄道もない、音もほとんどしない世界だ。そういう世界で今とはまるで違った感受性が磨かれた。現代は感受性は自然に対しても歴史に対しても乱れ悪くなっている。「須磨寺や 吹かぬ笛聞く 木下闇-芭蕉」どうしてこの笛の音が聞こえてくるのだろうか?芭蕉は自分の生きていたさらに過去の人に同情して深い俳句を作っている。現代は過去から聞こえるものも騒音とかで打ち消されているのである。古典は明治時代のもの古典になっているけどやはり明治時代は江戸時代の延長であり江戸時代の感受性がまだ残っていたから古典として残った。その時侍のことを具体的にリアルに理解していた時代だった。だから武士道なども書けたのである。武士が何であったのかまだ父とかが侍だったとかなればわかるのだ。
●本は読むより眼を通すという読み方が最善
本はじっくり確かに読む必要があるものもある。でも長い本は結局読めなかった。なぜなのだろうか、おそらく長い本はそれだけ労力がかかるからだろう。長い本は相手を読むことがむずかしく読まれることが多くなるのだ。相手のペ-スにのまれてしまう。あなたはこちらの言い分を全部読んでから何回も読んでから著者のことを語れよとなる。そういう本と人とつきあうことは骨折れるから全集などいろいろ買ったが積んどくで終わった。どんな本でもその本の全部を理解することはできない。部分的には理解できることがある。自分の今の本の読み方は読むというよりはさ-と眼を通して自分にとって必要なものをピックアップして利用するという感覚になっている。だから長い本はなかなかそうしにくいから読んでいない、でも一部が利用できなるなと思うとそこだけを記憶して利用する読み方である。だから一時にあるテ-マに関したことを十冊くらい手にとり眼を通している。それは読んでいるのとは違う。自分なりに新たに再構成するために読んでいるのだ。
ただあるテ-マで書くときどうしてもそれに関して深く知りたければある程度の多くの本を参考にせねばならない、なぜなら人それぞれに必ず詳しい分野があり専門家がいるからそうなる。とても自分だけでは解釈しきれないからそうなるのだ。でもいくら専門家が語っても自分なりに解釈しない限り本も宝の持ち腐れだった。家が傾くくらい本をもっていてもそうだった。本を買うだけで知識がふえた感覚になっていたのだ。本はもう装丁とかにこだわるより中味が大事である。装丁とか表紙の部分で重くなっているのだ。
本は重くなりすぎているのだ。本は写本のように秘密めいて情報を独占するようなものとしてあった。本はあくまでも知識を伝えるものであり紙に書いた活字で伝えるのと電子本でもインタ-ネットでも伝えることは変わらない、すると効率的に読書するには電子本でも電子化してもかまわないということである。それで内容には変わりない、内容の有る無しは決められない、その価値づけは読書する方がすることには変わりないのである。
最近ニ-チェとかマキャベリでも要点を書いて解釈している本がでているけどあういうのが受けるのは結局全部読めないからである。それでもある程度はその本の趣旨を説明しているので読書になる。でもそういう古典的なものは人によっていろいろ解釈できるのである。ある人がある部分をとりあげある人がある部分をとりあげる。自分でもニ-チェとかマキャベリでもそうした要点をとりあげて解説できる。10人いたら10人の解釈があるのだ。本になるとそれが何でも権威化して特権化するから偏るのである。ある人の解釈は参考になっても自分なりの解釈をしないかぎり本を創造的に読んだことにはならない。ただコピ-しているだけでは読書にはならないのだ。
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