南相馬市鹿島区烏崎村にも津神社あり慶長津波の後に建てられた?
仙台、名取の津波の歴史-ここでも警告は無視された
鯨引き
<由来・沿革>
烏崎の津神社の丑(うし)年4月第1日曜日の浜下りには、2つの山車(だし)が伴います。1つは小舟の上に張り子の鯨を乗せたもの、もう1つは直径1.5m程のやはり張り子の蕪(かぶ)で、いずれもリヤカーなどに乗せます。
http://www.city.minamisoma.lg.jp/bunkazai/minzokugeinou.jsp

鯨の碑があったのはこの神社の裏だった?津神社とは津波と関係している。松川浦の津(つのみや)神社もそうである。そこは高台にありそこに逃げて助かった人がいた。でもそれが津波を記念して建てられたものと明確に自覚して伝えられたとも思えない。烏崎の津神社も松川浦と同じ様に慶長津波のあとに祭られた。400年前の慶長津波は今回の津波とにて大きなものだった。相馬藩政記に700人死んだと記録されている。当時にしたら700人は多い。でも記述はそれだけなので記録としては余りにもインパクトがなさすぎたのである。慶長津波から一か月して相馬市に小高にあった城を移した。それは津波の被害の復興のための事業としても同時に行われたと津波の経験で推測している。
そもそもいつ神社が祭られたのかわかりにくい、津神社あるところは港に近く家が密集していた所とは違っている。ただこの津神社は松川浦と同じ様に慶長津波のあとに祭られた。なぜ鯨引きとかの
祭りが行われているのか?鯨の碑や金比羅の碑があるが明治に建てられたものである。江戸時代からあったものではない、でも津神社自体は慶長津波の後に建てられたとすると古い。それでもそうした大きな津波の後に人が住むのかという疑問がある。
古老の話によると、慶長津波の後に福島県相馬地方の武士であった相澤家、
大友家、柴崎家などが移住して中野集落ができたと言伝えられる。相馬の地名
にちなんで中村屋敷、吉田屋敷とよばれていた。この地は現在も住宅地である。
(六郷の会)
http://www.stks.city.sendai.jp/citizen/WebPages/wakachu/
archives/sagufuji.pdf
名取りの方に慶長津波の後に開拓に入った相馬藩の侍がいたということはその被害があったからこそ開拓に入った。人手が必要としたから開拓に入った。とすると烏崎辺りも漁業というより開拓して米を作り住むことだった。仙台辺りまでの海岸は漁業はそんなに盛んではない、むしろ津波の後にも開拓する人が必要だったように稲作をすることが第一と考えられていたのだ。だから烏崎でも大内村との間に袋村があり田を作るために開拓して海岸線に住むようになった。それは慶長津波の後である。烏崎の町のあった近くに水葵が咲きだしたのもそのためである。この花は水田に咲くからである。表土が流されて咲きだしたという不思議がある。
津波の被害があってもその頃は稲作中心の社会だったのでやめるわけにはいかなかった。だから津波の後にもかえって人手が必要となり名取とかで開拓したのである。だから烏崎も津波の後でも開拓して水田を作ることが優先された。それが今の常識とは違っていた。たとえ大きな被害があっても米を作らねば食べていけないからそうなった。
江戸で消費される米の三分の一を仙台藩がまかなっていた。その米は石巻港から運ばれていた。この米の量は多い。仙台藩にとって米は輸出品でありどうしても生産を止めることができないし増量することが強いられていたのである。
一方今回の津波の被害は現代的なものだった。
仙台でも名取でも山元町でも住宅地が被害にあった。仙台の若林区とかは仙台市街から住宅地を求めて住んだ人なのである。新興の住宅地でありそこは別に米をとるために開拓するようなものとは違っていた。山元町の被害も大きかったのは新興の住宅地として海側に開発された地帯だったからである。山元町だけで700人が死んだのは多すぎるからだ。そして20年前に学者が津波が前にもここには来ているから住宅地にするのは危険だと警告していた。最近を地下の土壌検査で津波がかなり奥まで来ていたことが実証されていたのである。その貞観津波のことで東電にも福島原発が危険だと警告していた。確かにこれは最近わかったことでもやはり科学的に実証されたということが信憑性が高いものとなっていたのだ。しかし警告した学者は住宅を開発する人々により脅迫電話とか受けてその後はあまり言えなくなったという。
20年前にそういう事実があった。これも原発事故とにている。人々は高度成長時代にただひたすらた利益を求めて突っ走っていった。福島の原発でもコストカッタ-と異名をとった社長がいたのと同じである。ただひたすら利益だけを求めなりふりかまわない、それに歯止めをかけるようなことを言わせないという全体の雰囲気があった、空気があったのだ。原発でも地元でもそうである。利益があればいい、危険のことなどあとまわしにされた。だから天罰だったということも原発と同じ様に津波の被害にあった仙台から名取などの海岸地帯の人にも言われる。
『仙台平野の歴史津波―巨大津波が仙台平野を襲う』(1995年。絶版)という著書を出し、地震による大津波に警鐘を鳴らし、対策を構築するよう提案してきた在野の歴史研究者がいます
これも15年前であり警告する人がいた。ただ相馬の浜通り辺りでは津波の伝説すら聞いたことがない、そういうのも残っていなかった。貞観津波が相馬の奥まで来ていたということは学者によって地下の土を検査して実証されていた。でもそのことを真剣に考える人はいなかった。ただあれだけ海の近くに住んでいると不安になる。津波が来たらどうなるんだろうとか常識的に心配になる。ただ400年も津波がこの辺では来ないから安心していた。やはり400年という歳月が津波の被害を全く風化させて忘却させられたのである。自分は。海から離れた町に住んでいるから直接的恐怖は感じないにしろ小学校辺りまで津波でないにしろ夢で波にのまれる夢を何度も見た。あの前に家は少なく見通しがよく海に通じていたからである。その小学校の前まで津波が来たことに驚いた。夢が事実になった。夢も何かを語っているのだ。ともかく松川浦でも烏崎でも津神社があり津波を記念して神社が建てられたとしたらそのことをもっと語られていれば警告にはなっていた。でも実際は神社というのは何のいわれなのかいつ建てられたのかわからないのが多いのである。400年も過ぎると謂われさえ不明になる。
津(津の宮)神社の謎 (やはり慶長地震の津波を伝えたものか?)
http://musubu2.sblo.jp/article/48005137.html
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