南相馬市鹿島の墓地の謎は深い
南相馬市鹿島区の御子神社の脇の墓地で話しする

南相馬市鹿島区町内の墓所の宝永の碑
http://musubu2.sblo.jp/article/36445497.html
木下の墓はこの裏ににあった
光明真言を唱えつつ大師堂に向かいます。
「おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどまじんばら はらばりたや うん」
(移動のとき光明真言を唱えるのは有縁無縁の霊魂を供養するため)
空海の密教の祈りの塔だった。これは随分立派な塔だと思った。これが自分の墓のある場所にあったことを知らなかった。。神宮寺跡ととあるから寺があったところであり墓地ではない、その寺がなくなりそのあとが明治以降墓地になったのかもしれない、宝永四年は1707年だからこれは古い、それから今日の発見は天保の小さな碑があったことである。これには気づかなかった。余りにも小さいから気づかなかった。でも天保とあるから確かである。ただ刻まれている文字が不可解なのである。
これが何を意味しているかわからない、その碑を発見したのはまたいつもの八九才の自転車に乗っている老人が墓にいたためである。なぜ墓にいるのかと思ったら墓を調べていたのである。あの人はそれなりにかなり鹿島区の昔を調べていたのである。自分も墓を調べていたから二人で墓を調べることになったのである。墓は江戸時代は粗末な石で作られていて砂岩だから崩れているというのは確かである。いい石では作られていない、今の墓石はほとんど中国から来ている。御影石とかだからいい石である。そういうことをその人は指摘したしあの大きな宝永の碑も崩れやすいものだが崩れていない、それにしても一枚岩でありどうしてその当時これだけのものを見つけて運んだのか、どこから運んだのかとか話しになった。あれだけのものを運ぶことは当時は容易でない、相当に人数を集めた大がかりなものになったことは確かである。
この墓地でわかったことは宝永(1707)の碑-天保(1830)の碑が発見されたのだからその間にここは何だったのか?墓地だったのか?そうでもないかもしれない、天保の碑は墓だとは限らない、何かのおまじないとか何か人が死んだから建てたものとも違う感じなのである。すべての碑が墓とは限らない、墓は墓としてそれなりの形がある。古いの五輪塔である。墓地にあるから墓とは限らない、宝永の碑は密教の祈りの碑であり墓とは関係ないのだ。ここが墓になったのはいつなのかというのは定かではない、江戸時代なのか明治以降なのかわかりにくいのだ。墓がこれだけ増えたのは明治以降なことは確かである。多くの墓は明治以降一家の墓となって増えたからである。
その89才の老人はしきりに平民と士族、侍は言葉が違っていたとかサルスベリの木のことか侍でないものは庭に植えてはいけないとか植えなかったとか言っていた。つまり明治以降大正まで士族と平民は江戸時代から身分がつづいていたのである。だから「おんなれ」という言葉を使う侍の子孫がいて士族の家ではまだその言葉を使っていたのである。ただこの「おんなれ」が何を意味しているのか?
御なれ・・であり御成りのなまったものかもしれない、侍では客をを来ることをそういうっていたかのかもしれない、何か平安時代の古文にあるような古い言葉がかえって辺境に残っているのも不思議である。沖縄と青森に残っている。
「てぎ」→「面倒」の意→「大儀」(漢語の転)
「ほいど」→「強欲、けち」等の意→「陪堂(ほいと:現在の共通語ではあまり使われない仏教用語。物乞いのこと)」(漢語の転)
今から1000年以上前に詠まれた和歌に、東風(コチ)という言葉がある。
これは今でも、沖縄では東風平(こちんだ)という名前や地名に残っている。
トンボのことは「あきじゅー」とか「あーけーじゅー」と言うが、日本古語で
トンボは「あきつ」と呼ばれていたそうだ。
妻のことは「トゥジ」と言うけど、これも古代語の名残りらしい。
http://aimori.ti-da.net/e2581335.html
沖縄は本土に比べると地理的、文化的にも特殊な環境にあり、隔絶されていた面がありました。ですから一度伝わった言語が本土と同じよう
には変化せず、そのまま残っている
http://www.mugisha.net/hougenhusigi.html
東風(こち)吹かば・・・のコチである。こちらとかあちらとかの言葉がありこちらに吹いてくるからコチとなった。確かに青森と沖縄はまさに辺境であり平安時代の古語が残った。日本人の貴族が最初に入って言葉を残したのだろうか?言葉から歴史を探るのもかかせない、方言はまた土地の歴史を如実に語っていることがある。「トゥジ」とは母刀自(ははとじ)と万葉集にあり妻のことで戸主のことであった。
刀自(とじ)」という言葉。ご母堂は「徳」という名前なのですが「徳刀自」と出てきます。何という奇妙な名前なのだろうと思っていたら、甚與茂氏の夫人も「はる子刀自」と出てきて・・・
http://www.miyamoto-net.net/column/talk/1220436131.html
その人はまたチャ-チャ-は爺(じじい)のことでありその言葉を使っていたのを聞いたという。調べてみたら爺爺(チャ-チャ-)駅というのがあったのだ。
国後アイヌからチャチャと崇拝と親しみを受けた山らしい、その端正な姿は知床からも見ることが出来ます。私も知床峠から美しい爺々ヌプリをみた一人です。文字通りアイヌ語でチャチャヌプリはおじいさんの山という意味です。
するとアイヌ語というのを東北でもこの辺でも使っていたのかとなる。チャ-チャ-などとおじいさんを言わないし聞いたことがない、これも不思議だと思った。でも明かにそんな言葉を使っていたことはアイヌ語が東北にそれも福島県などにも残っていたのかとなる。日本全国の地名をアイヌ語で説明することは一時なされたが今はほとんど否定されているがこれは謎である。
ともかくその人はかなり土地のことを調べている。虐殺された鎌倉時代の岩松氏のことも知っていて殺した方の子孫らしい、四人の家来がいたが一人は名字を変えたのである。恐れたためでありあとあとまで祟りだとかこの辺では恐れたのである。400年前とかの話でこの辺で明確に残っているのはこの事件のことである。子供まで殺されたので一族が皆殺しにあったので記録にも残り伊達政宗などもそのことを知っていた。この辺では大事件だった。だから今日までその影響があるのだ。名字を変えた子孫も残っているからだ。
身近な所では木下家の墓があったことである。これは自分の家の近くにあり自分の家も木下材木店が請け負い、材料を提供されて建てたものである。ただそれも40年前となっている。その後にすぐに木下材木店は倒産した。そこで倒産した跡に自分が行った記憶がある。社長室とある看板が家が壊された跡にあった。倒産してからは夫婦は団地かマンションなのか住み込みの管理人になったとかいろいろ言われた。そこの墓碑を見たら三人死んでそこに埋まっていた。63才と73才で死亡と記されていた。それは政と名前についているからまちがいない、父親も政とついていたからその字をもらったのである。これは三人しか名前が記されていないから一族みんながこの墓に埋まっているわけではない、ただ故郷に墓だけ残っているのが結構あるのかもしれない、自分の原町の実家の墓も実家はなく墓だけしか残っていないのである。ともかく事業に失敗する人は無数にある。一家離散もありめずらしくもないのだ。そういうことは今でも日常的に起きている。自分の実家の家時代も機織工場を起こして倒産してその子供が一家離散とかになり悲劇を生んだのである。その責任は警察所長をしていた父親にあった。慣れないことをして会社経営したからそうなった。経営の失敗している人は無数にある。自殺している人もその中でかなりの数だろう。ただ今や木下材木店を覚えている人はまれだろう。
60代の人は覚えているだろう。自分は忘れていたけどここに墓があったというので驚いたのである。墓はやはり人が死んでもそのあとも残っているのである。
木下と墓のみ残り跡絶えぬ故郷の墓地秋の日暮れぬ
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天保の碑は明日写真に出します
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