2012年10月17日

南相馬市鹿島区の町内の墓地の碑の謎


南相馬市鹿島区の町内の墓地の碑の謎

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不詩朗謡


不詩(文)朗謡-朗詠

朗謡-朗詠・・・暗唱
詩に文にせず暗唱せよ
謡(うた)いなさい


これもなぞである。最後の字はわかりにくいが不詩朗は読める。朗は名前だと思ったが違う。
朗謡-朗詠かもしれない、ただこれが何を意味しているのかわかりにくい、詩にしないで朗詠しなさい、暗唱しなさいなのかとなる。詩文にしないで暗唱して覚えなさいということなのか?
推測すると天保となるとまだ庶民では字を書けたり読んだりできる人はまれだったろう。
字が書けたり読むことが普及したのは江戸時代後半、特に幕末辺りに寺子屋が増えて読み書きができる庶民が増えたのである。ここは一つの寺子屋のような役目を果たしていたのかもしれない、暗唱することに学びの重点があったからこのような戒めの碑を建てたのだろうか?他に儒教が普及してそうした戒めの碑がほかにあったようだ。


何らかの戒めとしてここに碑を建てた。ここはだから寺であった。この碑を建てた時、神明寺という寺になっていた。ただ寺でもここに墓があった、墓地になったともいえない、なぜならここは武家の墓がなく庶民の墓であり明治以降に増えたのである。武家の菩提寺が寺だとするとここはそうではない、ただ最初は神社であり次に寺になりそのあとに寺がなくなり幕末辺りに庶民の墓が作られた。
庶民の墓が砂岩で作られていたからである。庶民が墓を作れるほどの財力をもったのは幕末である。天保辺りではまだそれだけの力が金をもつことはまだこの辺ではできていないはずである。


鹿島町誌に鹿島御子神社は神主青田六之頭御奉行・・・小奉行桑折・・青田・・導師長命寺別当神宮寺とある。青田とか桑折の姓は相馬藩では古い。ここは神社であったがあとに寺の領域になったのである。


元禄一五年、戸数元禄(1689)-享保(1716) までは二四〇戸あったが天明(1782)になり百三九戸に減った。天明の飢饉の影響で半分に減ったのである。天明山と相馬市の近くにあるのは飢饉の影響でそこに碑を建てたのが由来かもしれない、


天明の大飢饉で相馬藩の農業は壊滅的打撃を受け、農民の数も減ってしまった。時の藩主は他国の農家の次男、三男を移民させて農業の復活を図ろうとし、諸国に声をかけた。その呼びかけに呼応した富山の農民達は、門徒宗僧侶の導きのもと厳しい監視の目を盗んで国抜けし、相馬を目指して数百キロの辛い旅に出た
http://musubu.sblo.jp/article/14814569.html


この時から越中などからの真宗の念仏を唱えるものが移住して墓を残したのである。

鹿島村が発展したのはやはり街道沿いにあったためである。もともとは田中城とか岩松氏の屋形とか江垂の中館が中心であり鹿島村は街道ができて発展した。原町もそうであり原町村で武家が一人しかいなかったことでもわかる、文字通り原っぱだったが街道ができて発展した。その証拠は原町市内とか鹿島町内から野馬追いにでるのは極めて少ない、一軒くらいしかないのである。それは原町市内でもそうだし相馬市内でもそうである。相馬市内だと城があったから城づめの侍の子孫が残っているようで残っていない、野馬追いに出る家はまれである。郷士が多かった相馬藩では農家から村から野馬追いに出る人が多いのである。
posted by 天華 at 10:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代
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