2012年11月13日

冬野(原野化した冬野)


冬野(原野化した冬野)


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晩菊の仮設にあわれ一年半

晩菊の隣も病気は高齢化
晩菊の色合い深く住みつきぬ
冬薔薇二両の電車待つあわれ
冬の野に薊の野菊とともに咲く

アキツ二羽かすかに消ゆる冬野かな

晩菊というのは冬の季語でもいいみたい、冬菊というとまた違った感じになる。あるところに長く住むとその場所の色に深くそまってくる。相馬でも海から山から住んでいる場所が多様だった。
飯館であれ浪江の赤字木(あこうぎ)などは山の中であり海側に住んでいる人とは環境が相当違っていた。明かに人間は住む場所によって住む場所を変えると心も変わるのである。

だからこの辺で仮設住宅というのはなんとも不思議なのである。住んでいる人もそうだが見ている人もそうである。ただ一年半以上すぎるとなじんでくる。仮設の不思議はまさに仮の宿である。旅の宿ではないがそれとにた仮の宿になっている。それで長く住める住宅を建ててもらいたいとはいうのもわかる。実際に建てた所もあるがなかなか土地とかの問題もあり建てられないのである。日本は土地が狭いから簡単に移住できないのである。チェルノブエリであれだけの人が移住できたのは土地が広いからである。


葛尾(かつろう)村でセイダカアワダチラソウは繁茂していた。これは繁殖力が強い、この辺でも草刈りしていないところは伸びている。ただ人が住んでいるし田畑でも掘り起こしているから全部があのようにはならない、人が住まないということはやはり自然も荒廃してくるのだ。もともと人間の手の入っていないところだったらそれはそれで自然の状態だったのかもしれない、一旦人間の手が入って放置されると荒廃してくる。アフリカのような自然のままの状態ならそれはそれで原生の野生の自然状態なのである。たいがい自然は人間の手が入っている、人間に自然も管理されているのだ。だから人間が管理しないと荒廃してくるのである。


アザミはすでに冬あざみである。野菊もともに咲いている、冬野というとき刈田の風景になるのだがそれがない、原野になっている。ただこの辺は人が住んでいるから全部がそうではない、一部だけそうなっている。ただ刈田の風景が普通だったからまさに野にふさわしい風景になっているというのは確かである。


アザミと野菊がともに咲く、田舎らしい風景だけどやはり人間は経済的にも平等でないとこうはならないだろう。田舎でも今は経済的格差がある。ただ普通は家をもっている人が多いから余り目立たないが家をもたない人は貧乏が目立つ、相馬市の病院の近くの住宅は何か事情がある老人が住んでいるというのもなるほどなと思った。子供に見捨てられるということはそれなりの理由があるのだろう。みんな親でもまともとは限らない、子供もそうである。親と子と血縁だからといっても年をとるとそういうことで判断しない、親でもひどい親がいたら子供もその親を親と思わないし憎むこともある。逆に親の方からみれば子供と思いたくない縁切りたいというのもある。だからこの世の中血縁だけですべてが決まるわけではない、そういう親子は逆縁となっている。親子として生まれるべきではなかったから来世は血縁でも別々になることは確かである。この世の中血縁がすべてではないのだ。


いづれにしろ荒野になっているから冬野らしいともなる。刈田の風景とはまた違っているのだ。

 
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