万葉集の枕詞などがなぜわからなくなったのか?
(自然から遊離した文明は言葉の力を詩語を喪失した)
空見津 倭國 青丹吉
そらみつ やまとのくに あをによし
常山越而 山代之 管木之原・・・
ならやまこえて やましろの つつきのはら
なぜ万葉集がなぞなのか?枕詞というのが未だに謎である。そらみつは空見津であり空からみた大和の国をほめたたえる言葉だというが空に満ちる-空満つ-とも解釈できる。空か関係していることはまちがいない、ではどうして空から見る感覚が生まれたのかというのも古代にすると不思議である。
地上から見上げる感覚はあるけど空から見下ろすという感覚はリアルにもちにくい、高い塔もない時代にどうして空から見えるのだろうかとなる。言葉の感覚としては空満つというのがなにか力強い。空(そら)はまさに空(くう)をあてた。これはからっぽのことである。だから空っぽな空間は何かで満たさねばならない、例えば大仏殿のような大きな建物は空に映えて満たす感覚になる。
なぜ万葉集が解読できないものがかなりあるのかというと人間は自然の生活からかけ離れてしまったからである。万葉集は日本の自然と結びついた原始的感情の発露でありそれは直観的にしかわからない世界である。理屈としては解読できない、そらみつ・・・はその言葉の直観的感覚としてそらに満ちるなのである。これも一つの日本の発祥地に生まれた詩語である。日本語でも最初は詩語として言葉は生まれた。ほとんどの言葉は詩語なのである。
日本人でも文明人は自然とかけ離れた生活になったというとき言葉も詩語だなどと意識しない、今や言葉は数字のようにこえなっている。深遠な言葉の意味の喪失の時代である。言葉が死んだというときまさにそうである。そもそも人間の言葉がどこから生まれたかというと自然から生まれたのである。自然なくしてこの神が創造された宇宙-自然-大地がなくして言葉もありえないのだ。その自然から遊離した文明生活になると言葉も形骸化する。リアルな存在感を失うのである。言葉は自然と結びついて言葉の力、言霊の力が発せられるのである。例えば「石」という言葉があるとする、その石をさすものは何なのか?石といっても無数の石の形があり色がありと違っている。石は言葉にするとき実は具体的に存在する石から石を認識しているのだ。自分が石を詩にするときは必ず故郷に存在する具体的な石から発想している。まさに現実にその石があるからこそその石から言葉が詩が生まれている。
ところが東京のような大都会になると仙台くらいでも石というときその具体的な石を思い浮かべない、抽象化した具体的な石ではない。具体的だというとき石のある場所が極めて大事なのだ。何か存在するとき場所と切り離せず存在する。万葉集では地名が大きな役割を果たしているのは場所がそれだけ大事だからである。場所から発想する、地名から発想することが多いからである。万葉集は奈良という日本の国が起こった大地と山と密接に結びついている。具体的に存在する自然と結びついている土着的なものだった。そこに言葉の力が呪術的なものとして言霊として働いているのだ。そこに今の言葉との詩との大きな相違がある。この辺で橲原にある立目石というのがある。この石は橲原村の入り口にある。場所が限定されてこの石がある。石の力はここから発せられる。抽象的な石ではない、その場所が限定された石なのである。石でも固有名詞化した石なのである。
橲原の立目石かな冬になり久しく行かじもそを思うかな
万葉人が歌ったものはたいがい抽象的なものではない、一般的なものではない、具体的にどこどこにある石を歌ったのである。そこに言葉の力が発せられた。そらみつ大和の国はというとき大和は実は一地域の名前だったことでもわかる。それが日本全体をさす国の名になったのである。具体的な一地域、村が大地の上にあってそうなったのである。ミクロコスモスがあってマクロコスモスに発展したのである。自分が相馬という一地域にアイディンティティを求めたのと同じである。
現代の人間がなぜ生に充実感がないのか?人間はただ常に経済化され政治化されるのか、経済の一単位であり政治の一票としてしか数えられるないのか?カルト宗教団体も全く現代文明の物質化した中にあり単に一票としての数としての価値しかない、もはや数としてしてしか人間は計られない、そこで人間は極端に矮小化される。蟻のようにされてしまうのである。人間の存在も自然の中で存在感をもつのであり自然から離れた存在感を失う。上野霄里氏の言う原生質や原生人間とはそういう自然と一体化した人間なのである。万葉人にはその自然と一体化した原始的心情としての歌が生まれた、詩が生まれたのである。恋愛でも今の恋愛とは違う、自然のなかでも鳥が歌で呼び合うような歌になっていたのである。現代のようなあらゆる技巧をこらすものとは違う。人間が同質化、一体化、アイディンティティを求めるのが自然から離れたらどうして偉大になれるのか、生の充実感が得られるのか?だから人間は巨大な都会では高層ビルに比べたら蟻のようなものになっている。ただ蟻のように徘徊して矮小化される。そこに万葉時代のような自然と密着した歌が生まれようがない、その言葉の元になる自然がないからだ。だから言葉が死んだというとき自然から離れて人間が存在感を失ったということである。万葉集時代の復活をしろといってもその自然が失われたところではありえようがないのである。奈良でも東京のようになったらもう万葉時代を偲ぶことすらできない、まだその自然が残っているから万葉集の歌と具体的に結びつく自然が残っているから生きているのである。大阪などにも結構万葉集の歌は残っている。
百済野の 萩の古枝に 春待つと 居りしうぐひす 鳴きにけむかも 巻8−1431
百済野といってもそこはもはや家やビルが密集したとき偲ぶことすらできない、でも百済野と地名化したときここに百済の人が住み着いてかなり年月がたっている。移住して落ち着いたからこんな歌が残された。萩の古枝に象徴されるように住んで古くなったからこの歌が生まれた。なんとものどかな雰囲気を伝えている。地名として定着するには百年くらいかかるかもしれない、でも野がなくなればイメ-ジもできなくなる。奈良にはまだ郊外に野が残っているから万葉集の歌も生きているのである。
みもろの厳白檮(いつかし)が本(もと)、白檮(かし)が本(もと)、ゆゆしきかも、白檮原童女(かしはらおとめ)-古事記
この歌もまさに厳白檮(いつかし)という具体的に存在する樹と童女が一体化して存在する。その童女は神に仕えるものとなる巫女になったのである。だからそれは処女であらねばならなかった。そういう何か自然への神聖な感覚、畏敬が喪失したのが現代なのである。それは津波でも原発事故でもそうである。江戸時代までは農耕も葉山信仰などで自然と密接に結びついていたものである。その生活そのものが自然から離れて存在し得ないものだった。山から水が供給されて田があり米作りがあった。そういう自然の循環の中で人の営みは営々とつづいてきたのである。そういう生活が急激な文明化でうしなわれたとき自然より電気の力が太陽の力に匹敵するのだとなる。それが原子力発電になると原子力が太陽であり原子力信仰にまでなっていたのだ。それが事故で一瞬にして破壊されてしまったのである。マヤ文明では太陽信仰でありその太陽が衰える、太陽の光が衰えることを一番畏れていて人間の命が犠牲にささげられた。
まさに現代は石油であれ原子力発電であれ石油がなくなることは文明の死を意味するから戦争さえする、命は石油のために犠牲にされる。原子力発電も人間の命より大事だと犠牲にされる。現実事故では一人も死なないというけど避難してすでにその過程で百人以上は死んでいる。人間は石油がなくなると車も動かなくなるから、石油のために戦争になり命が犠牲にされる。そういう大きな観点から見ている人は少ない、文明そのものを見直さなければ解決しえない問題である。そういうとお前は電気なしで生活しろとかなるが電気を何に使うかでありあらゆるものに使うということの制限になるのだろう。人間の生活は制限すること減らすことが苦手なのである。
スピ-ドもそうだし量的拡大もそうだし制限したり制約したりする思想がないのである。増大の思想があるだけなのである。だから江戸時代などは制限された極めて自然と調和した省エネ社会だったから世界的にも見習うものがある。人間は結局グロ-バル化のうよに無限の欲望の拡大は地球すら破壊してしまう。制限された制約された中で生きることが自然に適ったことなのである。そこに幸せを見いだすべきなのである。
英語で石にaがつくのとtheがつくのでは違っている。aは抽象化した石であり実際に自分でみた石とは違う。theとなると自分で実際に見た知っている石のことなのである。その差は大きい。それを
「万葉集の枕詞などがなぜわからなくなったのか」などで書いた。万葉集は一般的な抽象化したものを歌ったのではなく実際に見ている、theの世界だった。だからaとtheの相違は意外と大きいのである。現代はthe の世界ではなくaの世界、抽象的な世界に生きている人が多いのである。だから血が通わないとういことがある。
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