2012年11月29日

冬に訪ねる-見逃していた岩切(俳句連作) (岩切の歴史は古い-古代から鎌倉時代の要所)


冬に訪ねる-見逃していた岩切(俳句連作)

(岩切の歴史は古い-古代から鎌倉時代の要所)

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360度パノラマ-クリック
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干し柿や昔をたずね岩切に
あまたの碑ここに集めて落葉かな
岩切の石の仏や木の葉散る
瞑目す石の仏に冬日かな
なお残る冬の薄日に仏かな
結跏趺坐二体の仏冬日射す
東光寺石仏古りぬ冬紅葉
みちのくの塩釜街道冬の暮
今市橋海よりの風冬鴎
今市橋朝に渡るや冬鴎
今市橋朝に渡るや雪の嶺
岩切に中世語る枯芒
岩切の川沿い歩み葱畑
街道に三所と残る冬の暮


忘れらるや愛馬をまつる碑の一つここに残りて落葉たまりぬ

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元禄2年(1689年)5月8日(新暦6月24日)、芭蕉は仙台を立ち、十符の菅・壺碑を見ている。  かの画図にまかせてたどり行ば、おくの細道の山際に、十符の菅有。今も年々十符の菅菰を調て国守に献ずと云り。
元禄9年(1696年)、天野桃隣は「十符の菅」のことを書いている。


 仙台より今市村へかゝり、冠川土橋を渡り、東光寺の脇を三丁行テ、岩切新田と云村、百姓の裏に、十符の菅アリ。又同所道端の田の脇にもあり。両所ながら垣結廻らし、菅は彼百姓が守となん。

[無都遅登理 五]


 元文3年(1738年)4月、山崎北華は『奥の細道』の足跡をたどり、奥の細道、十符の井を訪ねている。

是より奥の細道。十符の井を尋ねて。沖の井に行く。三間四方程の岩なり。周は池なり。里人は沖の石といふ。千曳(ちびき)の石も此あたりと雖も。里人は知らず。末の松山は此所より遙に海原に見ゆ。


『蝶之遊』
http://members.jcom.home.ne.jp/michiko328/iwakiri.html




岩切は仙台から近くても歴史があるところであり見逃していた。それはなぜかというと鎌倉時代から江戸時代になって急速に変化した。仙台市は伊達政宗が戦国時代を経て青葉城を築城して仙台市が繁華な街として発展した。鎌倉時代は原野だったのである。これは鎌倉市もそうである。江戸城は鎌倉に幕府があったとき原野であった。そのあと徳川家康が幕府の城を作り百万都市になった。その前は原野だったことがわからなくなっている。大阪だってそうである。あそこも湿地帯であり埋め立てて秀吉によって作られた都市である。秀吉の城は本拠地は京都の伏見城だった。そこに最上氏や伊達氏が屋敷を隣り合って構えていたのである。愛姫(めごひめ)もそこに長く住んでいた。つまり大阪であれ江戸であれ仙台であれあれだけ人口が増えると過去というのがその人口の多さによってかき消されてしまうのである。現代から過去をさかのぼり歴史をみるというとき常にこうした錯覚が生まれる。もう鎌倉時代の様相は時代がたって全くその環境が変わってしまったからそこから過去を偲ぶことは容易ではないのだ。岩切という所もそういう鎌倉時代の要所でありそれが仙台や塩釜が発展して過去が忘れ去られたのである。


鎌倉時代は今の七北田川と湊浜が結びついていて船で物資を運び河原市場や冠屋市場が栄えた。七北田川は前は冠川(かむり)であった。川を遡ると泉の方に冠橋というのがあるから地名が残っていることでもわかる。岩切が要所となったのは一つは川を通じて海と結びついていたことである。そこで物資が集まり安かったのである。鎌倉時代になると海の交通も開け始めていたからである。そこで川も重要な交通路になった。もう一つは奥大道とか秀衡街道とかがあり平泉まで通じていた。


社殿。この場所は秀衡街道(ひでひらかいどう)が通っていた場所で、街道に塚を築くために測量に用いた縄を納めて祀った、と言い伝えられています
http://sendai-jinjya.jugem.jp/?page=1&month=201008


こういう社があるのもやはりここは今と同じく道が交差する幹線道路だった。だからいくつもの道ができて交差していた。もともとここに多賀城の国府があったとか言われているから古代からもみちのくの道があった。十符の菅菰を調て国守に献じたというのもそのためである。地理的にも平泉や塩釜や松島やさらに湊浜にも通じている要所であることが地理的に納得がいくのだ。ここは福島県だと郡山ににている。郡山は福島県の入り口でありイワキにも会津にも福島市にも通じている要所だからこそ発展したのである。地理的要因がいかにその地の性格を決めるかわかる。


みし人も十府の浦風音せぬにつれなく澄る秋の夜の月


ここで浦風というとき海を意識しているのだ。ただ今は住宅が密集しているから意識できない、でも冬鴎が飛んできて自分は海から吹いてくる風を感じた。浦風だったのである。風から海が近いことを意識したのだ。冬になれば北風だがあの風は海から吹いてきたから東風(こち)だったかもしれない、この風は春になると吹き始める風である。でも七北田川の海の方角から吹いてきた。今回の津波で海が奥深くまで入り込んでいたことが証明された。多賀城駅の砂押川を津波がさかのぼり潮水があふれて被害にあったことには驚いた。古代から鎌倉時代は冠川と砂押川が一つであり結びついて湊浜に流れでていた。砂押川でも高砂でも砂を押すだから海の波によって砂が押されるという地名である。そこに津波が押し寄せたというのもつながっている。高砂というのも砂が高く積もっている地域だからこの辺は海岸地帯の砂原だったのである。津波が来た地点に貝場という地名があるがこれも縄文人が貝をとっていた所かもしれない、丁度津波が来た境目だったからである。八幡地区には「塩入り」「塩窪」「塩留」笠神地区には船塚がある。これは南相馬市の鹿島区の真野の草原とにている。なぜなら津波で塩崎まで津波がおしよせてそこには船着とか市庭という地名が残っていたからである。ここもそれとにているのだ。船塚は船着と同じであり船がそこまで入ってきていたのである。そしてこの川は多賀城とも結ばれていたのである。だから末ノ松山が多賀城に近いしそこで津波にも流されず残ったから都にもみちのくの歌枕の地として知られたのである。あそこの前がかつては海だったし沖の石が残っているのもそのためである。


ともかく歴史というのは常に変わりやすい無常の世界を示している。かつて繁栄したところは早々と忘れられてしまい何なのか不明になる。一つは交通が変わるということである。宮城県は交通に恵まれていた。特に松島や塩釜など入江や島が多く海からの交通が早くから開けた。石巻が繁栄したのもそのためである。それは鎌倉時代から始まっていたのだ。古代の多賀城にはすでに大道が作られていたというのもそのためである。岩切には古い道から新しい道も作られて幾重にも道が重なっていた。紙屋道とあるのは紙も生産していて重要な産物となっていた。金売吉次の屋敷跡もありここを本拠地として活躍していたらしい。当時のいろいろな産物が岩切に集ったのである。そこで一遍などもここにより浄土なる松島を目指した。信仰者、巡礼者の一団が松島に向かいそこで命を終えることを願ったのである。だから松島は中世の修行場であり死に場所でもあった。


ただすでに江戸時代になると中世の市場は河原などに埋もれてしまって不明になった。古市とか古町になった。今市とは新しいようで江戸時代にできたのだから新しいのである。今の市場だから新しい。そういうことでも錯覚する。今市が古いと思っているけどそうではない、すでに中世の繁栄はここにはなく移動している。古町というのは全国でどこにでもある。古町と新しい町は距離が離れていない、隣り合っていることもある。狭い場所で繁栄の場所が移っているのだ。古町温泉とかあったけど山の方にもそういうふうに常に古くなってしまう町があった。小さな町でも村でも古町になりやすいのだ。今でもシャッタ-通りができたようにス-パ-や巨大ス-パ-に買い物が移って町自体が古町になるのと同じである。交通が変わるとまた都市はたちまち衰退するのである。江戸時代船運で栄えた湊はみんな廃れている。そこで遊女が増えて船乗りを引き留めようとしていたとかのいろいろな伝説が残っている。人間の社会は交通によって栄枯盛衰があるのだ。それは世界的にも同じである。シルクロ-ドは海の交通が開かれると衰退して砂に埋もれてしまったのとにている。世界的に見ても交通が変わると急速に衰退してしまうのである。原発事故の被害にあった相馬地方なども常磐線から六号線から交通が断たれたから物資の流通が断たれたからそれが回復しない限り衰退してしまうというのとにている。古代からでも現代でも交通は重要であり都市の栄枯盛衰をになっていたのである。



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塩釜街道

三所は細所であり細工場であった。中世の地名だった。川沿いに葱畠があり今市橋から泉岳とか雪の嶺が望まれた。ここが住宅が密集していて昔を偲べないと思った。多賀城の方には密集している。ところどころ畑があり今の季節は葱があっている。葱は冬の季語だった。葱は魚の臭みを消すとかいろいろ使い方があった。塩釜街道沿いには何か昔のものが残っているのか?神社などがあれば偲べる。
ここを仙台の方に歩けば昔が偲べる、多賀城跡の方がまだみちのくの道が偲べる。

俳句作るにしてもこうして歴史を知らないと作れない、「十符の菅菰」というものも何か良くわからないけどこれも相当に古い由来があることは察せられる。枯芒が冠川になびいていてこの辺はまだ昔の面影が残っていたのである。多賀城の方に行くと砂押川があっても住宅が密集してとても昔の風景は市街に埋没した。でも津波で砂押川があふれたからここが海が近いとあらためてわかったのである。末ノ松山もそれで再び脚光をあびたのである。他にも東光寺にはあかぎれ地蔵とか愛馬の碑が忘れられるようにあった。あかぎれはしもやけのことかなぜあかぎれとしたのか何かあかぎれと碑がにていたからだろう。かぎれとかしもやけは良く母が洗い物してなっていた。昔の洗い物は冷たくあかぎれとかしもやけになりやすかった。今は温水でありならないから死語になった。まずあかぎれと名づけられたのはあかぎれに悩まされたから連想したことはまちがいない、他にも地蔵には青麻・・というのは眼病にきくとかで祈られたり下の病気は地蔵に小便すると直るとか何か必ず病気と関係しているのだ。東光寺と相馬は古くから関係していた。東光とういう刻まれた碑が台田中になった。中世から関係していたのかもしれない、その伝説も残っている。明かに僧侶が来ていたのである。青麻という碑も相馬にあり伊達と相馬は関係が深いのである。


岩切の古城
http://www.stks.city.sendai.jp/sgks/WebPages/miyaginoku/09/09-12-01.htm


冠川は昔はいづこ石仏の冬日さし眠り枯芒かな


いづれにしろ岩切は中世からの霊場でもあり市場でもあり歴史が交差する場所だった。明治以降では愛馬の碑というのもめずらしい。太平洋戦争では馬が必需品でありそれで当然馬も死んだのだから碑があっても不思議ではない、でも愛馬の碑とか戦争にまつわる話はあっても碑はここではじめて見た。そもそも馬頭観音碑が全国に無数にあるとき戦争で死んだ愛馬の碑がまれだというのもかわいそうだとなる。戦争というのは馬まで意味なく死んだともなる。実際に馬頭観音碑は平和なときに人間と共に働いたから助けてくれたから碑がある。戦争というのは動物にとっても無惨だったとなるのだ。人間は本当に忘れやすいのである。中世ともなると本当に遠い過去だが確かにそこに生きていた人々がいたのである。それを偲ぶことが容易でなくなる。現代だってたちまち人はわすれさられてゆく、一見そう見えないにしろ同世代の人がすでに一割五分死んでいることでもわかる。次々に死んで忘れられてゆくのである。そして何が残るのか?わずかなものしか残らないのである。
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