忘れられた川や海への視覚
(津浪で海が意識された-多賀城の近くにも津浪-相馬藩の中村へ城の移転の謎)
●多賀城跡に吹いた海の風
陸奥のおくゆかしくぞおもほゆる壷の碑外の浜風 西行
多賀城の壺のいしぶみに立って外の浜風を感じることは普通はない、そこが海への視覚が失われたためだった。岩切のことで書いたけど鴎が七北田川にそい飛んできてそのことを俳句にした。そしてそこで冬だったけど海から吹いてくる風を感じたのだ。川をさかのぼって吹いてくる風である。鴎も意外と川をさかのぼって川を道として上流に飛んでくる。多賀城駅の側を流れる砂押川がありそこにも鴎が飛んできたのである。多賀城のあったところの近くにも砂押川が流れていた。これは小さく感じるが古代ならそれなりに広いものだったかもしれない、堤防もないから古代の川は広く流れていたのである。多賀城辺りで今は市街地化してほとんど海を感じられない、完全に都市の景観の中に海は遮られて見えない、まず海を感じることがないのだ。だから多賀城で感じたのはむしろ遠くに見えた蔵王とか泉が岳とか連なるみちのくの冬の山だった。そこにすでに雪の冠雪がありここから大和を奈良を望んだら古代ではどれだけ遠いかと感じた。
冬の山さえぎ遠くは大和かな
こんなふうになる。そこに海の視覚は全く欠落しているのだ。そこでどうして西行が外の浜風を感じたのかと今なら思うだろう。ところが今回の津波でわかったことは海が実際は近く古代は海は近くに望まれていたのだ。多賀城でも海は近い感覚の場所だった。市街地化した建物などがなければ海の風を吹くのを感じられる場所だった。海は江戸時代までは北前船などや塩田を作ったりと生産交通の場であり漁業も盛んだから海は生活と密着していた。縄文時代から海は豊かな漁場であり松島辺りだと貝が大量にとれる住みやすい場所だったのである。東北博物館でもいかに多くの種類の魚をとって暮らしていたかわかる。縄文人が食にまずしいということは一概に言えない。新鮮な魚や貝には恵まれていたのだ。日本自体が縄文時代は海の幸に恵まれていた。今回津波に襲われた所は実際は海の幸が豊富な所であり縄文人がその幸に恵まれて暮らしていたのである。
江戸時代までは海や川の交通が大きなものとなっていた。明治になると鉄道になり交通としても忘れられてしまった。陸の交通はいろいろ山などが障害となりむずかしかったから川や海の交通が欠かせなかった。飛鳥でも奈良でも大和川とか大阪の難波の海と通じて交通があった。それは万葉集にも歌として残されている。
万葉集巻九・1775
古くは泊瀬川と書くことが多かったが、これは大和川を溯ってきた舟がここで停泊する瀬であったことに由来するのであろう。事実、仏教伝来の地とも言われているこの場所は、大和川を通じ瀬戸内海、ひいては大陸ともつながる交易の地であったと推定されている
後に「つばいち」と呼ばれるようになったこの場所ではあるが、万葉集の時代以前は「つばきいち・つばきち」と呼ばれていたであろうと考えられている。「山辺の道」「上つ道」「泊瀬道」「山田道」「横大道」といった古の主要道が交わる立地に恵まれたこの地は水上交通の要衝であっただけではなく陸上交通の要でもあった。
http://soramitu.net/zakki/?p=543
川の交通は大和川となると難波の海まで通じていたから長距離であった。でも川の交通は短い距離でもあった。むしろ短い距離が多く水駅がもうけられた。水駅は川の駅だった。南相馬市の泉官衙跡、廃跡も新田川と結ぶ運河があったことが発掘でわかった。新田川を利用するとしてもその距離は短い、さらに運河まで作ったというから荷物を運ぶのには川は古代ではどうしても必要だったのだ。泉官衙跡には米などが結構大量に運ばれていたのである。それで神火騒ぎがあったことでもわかる。米などを貯える倉もかなりあったのである。水駅というとき中世にもそれが継がれていた。
岩切で考察したように河原市場があったということでもわかる。舟が湊浜を通じて昔の冠川(かむり)から荷が運ばれていた。海を結ぶのが中世までは川だったのである。交通における海と川の役割は現代になり全く見えなくなっていた。交通が変わり時代が変わるのである。江戸時代は鉄道ができて交通が変わり栄えた港は過去のものとなり歴史を偲ぶだけになってしまったのである。鉄道から車になったらよけいにそうである。川でも海でも交通として死んでしまった。ただ自分は旅をしたとき船旅を相当した。北海道に行くとき必ず太平洋フェリ-で苫小牧に行き北海道を回ったのである。
一日泊まっても北海道に行くには便利だった。船の交通は陸よりずっと便利なのである。もちろん昔の船は今の船とは大違いにしろ危険にしろ船だとかえって便利だから北前船で栄えたのである。
●相馬藩の成立にも船の交通が関係していた
小高から中村へ(戦国武将相馬義胤の転換点) 岡田清一
http://www.tohoku-gakuin.ac.jp/research/journal/bk2011/pdf/bk2011no09_01.pdf
をインタ-ネットで読んで面白かった。中村に相馬義胤が城を移動した理由を考察している。小高を根拠としていたが海岸の村上に城を移動して
原町の牛越城に移動したりとしたのはなぜか?それは一つは在地に根を張る一族の権力を弱めるためだったという。その一つの証拠として泉官衙跡があった泉田氏を改易したことにあった。ということはここでは何か湊が古代から中世とかまであり海との交通があった。何らか海との関係が継続していた。桜井古墳も海に近く新田川の川岸にあった。川と海が交わる要所にあったのが桜井古墳だったのである。津波は桜井古墳のすぐ近くまできていた。何か津波を想定していたような場所にあったのである。そもそもなぜ泉官衙跡があんなに海に近い場所にあるのか?それが疑問なのだがやはり何らか海との交通があったのかもしれないととるのが自然になる。そこで古代から開け泉長者とかその継続として泉田氏が勢力をもっていたのである。それでそれをそぐために牛越城を相馬氏が構えた。相馬氏はまだ在地の勢力をまとめるまでにはなっていなかったのである。
村上に城を作ろうとしたのは湊があったからともとれる。海への視点があった。海は塩田であり漁業であれ交通であれ古代から重要なものであった。松川浦の宇多の湊は知られていたらしい。磯部も重要な湊の役割があった。南相馬市の鹿島区の海老も今生きている90才の人が言っていた。海老から帆掛船が出ていたとか湊があった。確かにそれは江戸時代である。江戸時代になると新田開発が盛んになるから海側へ干拓して住む土地が広がっていった。だから中世からの湊がありそこに交通があり物資や人が往来するということが想像しにくい、むしろ村が拡大したのは新しい村ができたのは米を作る開拓ができるようになったからである。それで青松白砂の風景ができた。田んぼを塩害から防ぐために防潮林の松林が海岸線に延々と作られたのである。それが今回の津波でほとんどなぎ倒されたことは衝撃だった。400年前にも今回と同じ慶長の大津波があった。その時の被害も大きかったが相馬藩から宮城県の六郷に移住している武士がいた。そこは津波の被害が大きい所だった。相馬の和田で津波の被害にあった農家の人が言っていたが塩害でも米は育っているという、意外と津波でもそれなりに回復して米は作れたから伊達藩ではどうしても江戸に米を売る必要があり津波の後も米作りをしたから相馬藩の人もそこで必要とされたのである。
いづれにしろ海の交通とかは忘れられ安いのである。古代になると特にそうである。みちのくの真野の草原(かやはら)は湊だった、地名だったと自分が解釈したが塩崎の船着とか市庭とかの地名が将にそれを示していたのだ。多賀城でも市街地化しているけど船塚とかあり海が奥まで入りこんでいたし沼も多かった。多賀城下まで砂押川をさかのほって津波がおしよせたのである。歌枕の末の松山が当時の津波と関係していたことがその時有名になったのは今回の津波でも証明された。
相馬藩では中村に城を築いたのは伊達に対抗するためだという説が大方をしめていた。それだけではない内部の時代の変化に適応するためでもあった。もし海の視点があり船の交通のために中村に城を築いたことが一つの要因とするとこれも意外だなと思う。
それは義胤が
この見聞が影響したというのも面白い。でも宇多の湊は中村城下からは遠い、それでも当時はもっと内陸に海が入っていたのでそうでもなかったかもしれない、ただ海の視覚から中村城を築いたとは地理的には地元の人でも思えない、むしろ背後の山を防御として意識したとか思う。松川浦でも中村城だと遠く感じる。小高はむしろ海が近いし津波が小高駅まできて小高城まても近い距離にあった。不思議なのは慶長の津波の一か月後に中村城が築かれているのだからなんらか津波の影響があり中村城を作った。内部的事情があり津浪があったのだから小高では危険だとなり中村に移動した。
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