2012年12月06日

寒烏(カラスには仲間意識がある)


寒烏(カラスには仲間意識がある)


びゅうびゅうと北風唸る仮設にも

寒烏一かたまりや風唸る

十羽ほど枯木に烏黒々と群れて動かじ北風唸る
我が庭の小松をゆらし北風のうなり吹くかな耐えてあれこそ

石の陰なお一輪の岩桐草咲きひそまりて北風唸る

今日の風は木枯らしというものでもなかったのか?嵐の風だったのか?すさましく一日吹いた。
烏が枯木に黒々として十羽くらいとまっている。それがなんとも身にしみるというか何かみんなで黙々と北風に耐えている姿がある。烏には他の鳥とは違って仲間意識がある、仲間意識が感じられる。鴨も仲間といつもいるから仲間意識が感じられる。俳句だと寒烏である。

鷺とか椋鳥とか雀でもそんなに仲間意識は感じられない、群れているのだけど数が多いからかもしれない、烏は数としては十羽くらいがいつも群れているから仲間として適当な数になる。鴨も百羽くらい群れているときあるから多すぎるとなる。烏が一番数として適量だからよけい
仲間として群れる鳥として意識するのである。

仮設もこのくらいの風だとどうなっているのか、風が隙間から吹き込んでくるかもしれないしかなりゆれるかもしれない、仮設もそろそろ二年になる。仮設で暮らした経験も不思議だろう。特に会津とか遠くで暮らした人はどう思っているのか?毎日故郷に家に帰りたくて泣いている年配の女性がいたからそういう人も結構いるきかもしれない、仮設に暮らした人でないとこれまたその気持ちはわかりにくい。

結局原発事故でも骨身にしみたのは住めなくなった警戒区域の人たちである。その人たちは原発の恩恵も一番受けていたのである。共産党で一部反対していたがほとんどの人は反対していない、原発で働いている人が多かった。原発はどこでも金のなる木だったのである。山尾三省はロウソクを使っていたのか、電気がなくてもロウソクでも家族一緒に暮らしたいという人が警戒区域に大熊辺りにいたことでもわかる。そういう人たちは原発事故の被害を骨身にしみて感じた人たちである。自分はそれほど感じないにしても警戒区域に入れないとか風光明媚が自然を鑑賞できないのがもったいないのである。特に浪江は高瀬川などがあったから余計に感じる。5年間も警戒区域で入れないというのが惜しいし理不尽なのである。飯館は別に自由に村の人でなくても出入りできるからいいのである。

小高の人でも帰りたくないというとき隣の浪江が警戒区域で荒れているからその影響を受けるから嫌だという。浪江は街が放棄され自然状態にもどっている。荒れ放題になっているのだ。その影響を隣であれはうける。すぐ隣がそんな状態では嫌だというのわかる。東京のような都会だったら美しい自然を失うということはない、でも田舎だったら美しい国土が汚染され失うのである。その罪は重いのだ。東京のような都会が大事にされるのは美しい自然があるからではない、自然は消失しているのだから自然がなくなるということもないのだ。だから本当は原発は東京に作るべきだったのだ。
今回の津浪でも東京だったら事故にもならなっかたかもしれない、津浪の被害はなかったろう。

原発を東京に作れと主張して本を出していた人がいた。でもそれは冗談かSFの世界の小説のようにされてしまって注目されなかった。それは注目されないように東電や政府で情報を操作していたのだ。書店も出版社も実際は巨大な権力に操作されている場所なのである。確かにそういう本が出版されても誰もそんなもの注目しない、戯れ言のようにみられていたのである。それはそのように操作されていたのである。戦争でも日本軍が勝った勝ったとばかり報道していれば勝っていると思っていると同じである。情報は必ず権力によって操作されてしむけられているものなのである。


今日も家事に追われて一日が終わる。湯豆腐は簡単である。豆ご飯も簡単に作れた。少しでもこうして料理ができるようになると楽である。料理は手間がかかりすぎるのだ。だから簡単なものしか作れないのである。

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