飯館村の喫茶店の椏久里(あぐり)の思い出
(二年過ぎて飯館村を思う短歌十首)
人々のここに集いて様々に話せし日やそれもなくなりぬ
飯館に住みにし人の様々に思うことあれ二年のすぎぬ
飯館に住みにし人の何思ふ思いで深く帰れざるかな
嘆けども仮設暮らしの身につくや飯館は馴れ二年のすぎぬ
故郷は遠きにありて思うもの思い出深き暮らしなるかも
庭広く花々映えぬその家も人の住まずに夏も淋しき
川俣に来ればここに暮らしあり古き農家に春の日暮れぬ
川俣に別れし道は山木屋につづくとあわれ春の日暮れぬ
飯館村に行けばよる場所というと椏久里(あぐり)という喫茶店しかない、あそこは単なる喫茶店ではなかった。特製の自家製のパンを作っていたのである。それがおいしかったのである。飯館村だったらとれているのは米だから米パンでもいいかなと思うがやはりパンは麦でないと味が出ない。
飯館村では外からもあの店にはよっていた人が多い。だから今になるとあの店は価値があったなと思う。この辺で起きていることは未だに信じられないことである。津浪で村ごと消失するとか原発事故で町や村がなくなるなど想像もできなかった。そしてもう二年もすぎたのである。
仮設暮らしも二年すぎるとそれなりになれたということもあるかもしれない、しかし不思議なのは飯館村で暮らした歳月は長いしそんな簡単に忘れられるものではないだろう。他でもそうである。
そこに暮らした時間が長ければ長いほど思い出は深いものとなる。だから仮設暮らしの人々がどんな心境でいるのか不思議である。いくら自分がその代わりに短歌にしてみても本人の思っていることはまた違っている。飯館村の特徴はみんな一軒家でありそれも森につつまれていて庭も広々としていた。人間の住まいとしては理想的だったのである。だからそういうところから仮設とか都会に暮らすとその相違が大きいのである。広々とした家や庭やその回りは森につつまれている。そういうところから都会や仮設で暮らすのはあまりにも違いすぎるのだ。
思い出というときそれは今生きている人だけではない、飯館村は江戸時代からの歴史があるからそこに生きていた人たちは死んだ人の思いがこめられている。飢饉の時は苦しんだからその人たちの苦しい思い出も残されている。そういう思い出が失われることはどういうことになるのか?
葦が茂り原始の状態に還るのかとなると一旦人のすんだ所はそうはならない、人の思いがこもった場所だからそうなる。もし原発事故で人がすまなくなった町村はどうなるのか?過去は忘れられる。そこに人が住んでいれば過去を思い出すことができるがその土地を離れたらできない、その土地と共に思い出が歴史が刻まれているからだ。
いづれにしろ時間がすぎて価値がでてくるものがあり一旦失われて価値がでてくるものがある。思い出というのはそういうものである。その時
はその価値がわからないのである。青春などもたちまちすぎてしまう。その時はしかしその価値がわからないのである。そしてものの価値は思い出はその場所とともにある。場所が意外と大事なのである。椏久里という喫茶店は飯館村という山村にあったことが価値があった。都会にあったら他の喫茶店と変わりないだろう。福島市に古民家を改造して再開してもそこには場所の価値がないのである。相馬市の花屋のことを書いたけどあそこも場所の価値があった。駅前の店は前は場所の価値があった。今でもス-パ-は便利でもモノを買うという価値しかないのである。
啄木の短歌の特徴は故郷であり何でもあれつまらない日常的なことが何か人生で貴重なものになった。それが彼独特の天才的感受性で短歌にしたのである。それはすでに15才のときにできたのだから天才だったのである。そして27才で死んだからすでにその時60才くらいの心境になっていた不思議があるのだ。故郷のことでもあれだけ思い出深いものになった。故郷は遠くにありて思うもの・・まさにこの辺の不思議は住んでいた場所から離されたからそうなってしまった。いろいろなものを見直すことになったのである。それは一人一人また思い出があるからわほからないにしろ一旦長く住んだ場所を離れたらそのことを思い出深いものとして見直すことになるのだ。
だから椏久里(あぐり)という喫茶店はもう二度とあそこでコ-ヒ-が飲めないのだから思い出だけになったから不思議であり価値が大きくなったのである。なぜなら人生でも青春が失われれば老いれば二度と帰ってこないと同じなのである。その時は二度と帰ってこないのである。二度と帰ってこないものはそれだけ価値が大きい。もう二度と経験できないからそうなる。つまり椏久里で飲んだコ-ヒ-にしろパンの味にしろそれを味わうことができなくなったのである。福島市でできるかとはできるが飯館村の場所で味わうコ-ヒ-の味とパンの味は違っていたのである。その場所が味を深めていたのである。
いづれにしろ川俣にでると暮らしがあったが飯館村にはもうない、その相違が大きいのである。
暮らしがあってこそ思い出がありうる。その暮らしもまでいな暮らしとか目指していた。
所得も福島県では一番低いものであった。だから原発マネ-は入っていなかったから飯館村は悲劇の村になった。ただ警戒区域になっていないから人が入れるので他とは違っている。
全く無人の村とも違っているのだ。ただこれからどうなるのか?
やはり人が帰って住む人もでてくる。でも前のようにもどることはないのか?みん,な模索中でありわからない、ただ一旦離れてみて思い出が深くなりその価値を見直したということはある。
つまり当たり前であったものが実は金では変えられないような価値があったということがあるのだ。いくら補償金をもらってもそうした価値は金ではとりもどせないことがあったのである。
盛岡の中学校の露台(バルコン)の欄干(てすり)に最一度我を倚らしめよ
これとにていたのが椏久里(あぐり)だったのである。啄木には啄木調が作ったから独特だった。芸術でも印象派という手法が生まれたときそれは芸術の新たな分野が生まれた。そういうことができるのはやはりどんな分野でも天才なのである。でもそのあとにそれをまねする人が普通の人でもでてくる。ともかく啄木の短歌は60才以上の老境になって作れるものであった。だから凡才である自分でも今になって啄木調の短歌が作れたとなるのだ。
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コメントありがとうざございます
椏久里でコ-ヒ-飲みパンを食べていたときは
それが特別なことだとは思っていませんでした
今になるともうあそこでコ-ヒ-もパンも食べられないとなると貴重な時間だったなと
つくづく思います
飯館村の人もそれぞれ離れてしまったので
今になると自分の住んだ場所を
どんなふうに回想しているのか不思議です