今なぜ抽象画がなのか?
(社会と人間が抽象化しているから)ピカソ泣く女
抽象画というのはやはり時代の背景があった。何でもそうだけど芸術も時代が作り出すものである。これから逃れることはできない。ルネンサンスが時代の枠を破ったのは中世の時代を終わりにしたのは瞠目すべきことだった。そのルネンサンスが現代の基を作ってきたともいえる。
自然の見方がまるで変わってしまったからだ。それまでは宗教画であり風景画すらなかったからである。それは写実的な科学の時代のはじまりでもありレオナルドダビィンチに象徴されていたのだ。
ただこの時は人間が主役であり人間がかえってクロ-ズアップされた時代である。人間の肉体にあれほどの美を見いだしたのも中世ではありえない、肉体は否定されていたからである。
それはギリシャの時代にもどったわけである。
抽象画はルネサンスとかとは根本的にに違っている。ルネサンスは人間の復活がテ-マであり極めて人間が前面に出た時代である。それが近代化、工業化、大衆社会になった現代とは余りにも違っているのだ。現代を象徴する絵画がピカソであるいうときまさに象徴的である。人間がもはや人間の原型を保てなくなった時代である。そこに人間の悲痛がアイロニ-とともに表現されている。それは人間が人間足り得ないものとして表現されている。それはとりもなおさず現実社会の反映なのである。
●現代は職業も無数にパ-ツ化される
現代はすべてが抽象化されている。人間はそもそももはや一個の個性ある全人間ではありえない、極端化すれば数字になっている。番号で呼ばれて怒った人がいるが現実は人間は数字であり番号化しているのだ。統計学がもてはやされるのもそうである。人間とは統計的数字でしかない、宗教でもカルト宗教団体になればただ数だけが問題にされる。それが一票になり権力志向となる。数は権力だというとき権力を志向するものは数を志向する。権力とは金と数(票数)だというのもわかりやすい。
権力を目指すみんなそうなってしまう。
人間は現代社会で生きるというとき必然的にパ-ツ化される。職業自体が無数のパ-ツ化したものである。だからとんなに職業についても部分化したものとしてしか意識されない。ただ奇妙なのは福祉関係などは何か人間と直接向き合うから相手を数字として意識できないから人間的な仕事なのだけどあまり社会では重要視されないしやむをえない無駄としての職業とされる。でも職業をみていると人間が自動販売機と同じ様に見えてしまう。高度成長時代の自営業の店屋や町工場でも家族経営だとするとなにか人間的なものがあった。家族で経営していたから人間臭いものがあった。農家でも茅葺きの家などは生活感がどっしりとあった。それがコンビニとかス-パ-になると何かそこで働く人はロボットのように見えるしレジなどでも働く人はロボットのように見えてしまう。現実にス-パ-のレジはお客さんが自動的に金を払うシステムができていることでもわかる。何かあらゆるものが機械化自動化オ-トメ-ション化されるのである。ますますそこに人間的なものは消失してしまう。
●昔は職業に人間臭いものがあった
昔だったら職業でも人間臭いものがあった。江戸時代だったらなおさらその人は何をしている人か一目見てわかる。農民は農民、職人は職人、商人は商人である侍は侍である。それぞれが果たす役割がはっきりしていたわかりやすい社会だったのである。だから人間的だったのである。それは封建的閉鎖社会だとか批判があるけど別に歴史は現代を知るためにはかえって過去を知らなければならない、過去の時代によって現代が相対化されて現代をしりうるのである。現代は現代だけから知り得ようがないのだ。だからお前は電気のない江戸時代に帰れとかいうのはではない、歴史を知るということは現代を知るためでありその社会がいいとか悪いとかを言うためではないのである。そもそも歴史の総体などわかりえようがないからだ。
田舎はまだ社会として人間的なものが自然とともに残されている。でも原発事故でもわかったようにこれもまたやはり現代社会を象徴として起こったものなのである。なぜなら原発という建物があってもその回りの人はかかわることもできない、そこで何がされているのか皆目わからないものだったのである。そこに立ち入ることもできない巨大な非人間的機械としてあるだけだった。確かに東電の人が働いていてもそこに人間が働いているということも意識されにくいのである。そしてその中で働いていた人も外部を意識していない、人がいるということも意識していない、だから事故が起きたとき住民が危険だからと避難させなかった。原子炉だけを心配していたのである。東電の人もそこの住民のことを意識していなかったのである。最近賠償問題で東電の人と直接かかわり東電にも人間がいたとか認識するようになっているのだ。現代はこのようにどこでも人間の存在が希薄化された時代なのである。機械が存在して人間が存在しない時代ともなる。
●生活感覚がない現代の社会
人間がともかく抽象的な存在、数字のようになっているとき芸術もそうなりやすい、だから抽象画が盛んになるのもわかる。パソコンができて余計にそうなった。都会自体が田舎と違って極めて抽象的なのでありそこに一個の人間を意識するということがない。だから四季の街で表現したような一つの抽象画となってしまう。人間はどこでも何か生活感がなくなっいる。ただ農家とか漁師とか地元の職人とかはまだ生活感をもっていた。その話を聞いてフログに書いた。まず会社員とかなると生活感覚がなくなる。一つの細胞みたくなってしまう。農家に嫁いだ女性がいたけどその話を聞いても何らそこに農家の生活感覚がないのも不思議だった。身なりも制服を着ているからそうなるが全く農家だということを思わせるものもない、ほとんど土いじりもしていないみたいだ。とてもその人が農家に嫁いだ人とは思えないサラリ-マン家庭の主婦である。昔だったら農家に嫁いだら農家の嫁というのでその生活感覚がにじみでていたろう。それが全くない不思議なのである。農家もそれだけ変わってしまったのだろう。農家らしい農家すらなくなっているのかもしれない、みんな背広を着たサラリ-マンになったのが現代なのである。
共産党では党員を細胞としているのもわかる。それはカルト宗教団体でもそうだしみんなそうなっているのだ。みんな細胞でありパ-ツ化しているのだ。
そうなちらないとするとアウトサイダ-になってしまう。ニ-トなどが生まれたのもそうした社会の要因があった。時々個人が社会でクロ-ズアップされるのは犯罪のときである。それも無差別殺人とかはとくにそうである。その時のみ個人の経歴がどうだとかこの人はどう育てられたのとか親のことを問題にしたりする。犯罪を犯さないから社会の一労働者ロボットでありその個人のことなどなんら関係しないのである。
職業自体もパ-ツ化している。最近この辺で住宅が建ったとしても地元の大工が建てているのとはちがう。大手の住宅会社が部品を組み立てるようにしてアパ-トでも一個建てでも建てている。プラモデルのように組み立てる作業でありこれも昔の大工の感覚ではないのである。
前にも書いたけど石一つとっても無数の個性ある石がある。しかし現代では抽象化して a stoneになってしまう。the+形容詞+stoneとはならないのである。人間も様々な個性があってもそうである。一つの抽象的数字でしかないのである。だから個性を主張する人は天才などは耐えられないからニ-チェや上野霄里氏のようにアウトサイダ-化するのである。どうしても大自然と調和してリズム化するとなると無数に部分化した社会ではありえないからだ。
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非常に不躾ですが、ハイフンを長音符の代わりに使用されるのはおやめになった方がよろしいかと・・・