2013年07月13日

三陸町の波伝谷は津浪の伝承を伝える名前 (古代史は真野の草原の歌から石巻からさらに三陸まで結ばれていた)


三陸町の波伝谷は津浪の伝承を伝える名前

(古代史は真野の草原の歌から石巻からさらに三陸まで結ばれていた)

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三陸の伝統文化を伝える波伝谷(はでんや)は、戸倉神社を残しすべて、津波に流された。
神社が丘に打上げられ、神社を信奉したという伝説と同じ歴史が繰り返された。

●渡来人がかかわっていた船の伝承


三陸の伝統文化を伝える波伝谷(はでんや)は、戸倉神社を残しすべて、津波に流された。
神社が丘に打上げられ、神社を信奉したという伝説と同じ歴史が繰り返された。


常陸国で造船された大型船が海底の隆起で座礁し、波で船が転んだ谷、
最近七世紀後半の水軍による蝦夷征伐に関する古代史でも注目されている。

「安永風土記」にある水戸辺村の村名の由来として「当村は当郡北沢村不動尊百済国より御渡波成候節塩釜津浦へ御到着岸に付往古は塩津浦と申候」


戸倉神社及び神社下の船沈池がある。百済よりの船は、嵐にあい塩津浦にて風待ちしていたところ波が押し寄せ船が沈んだ、この場所を沈船池(明神池)であり船にあった宝物と共に祀ったのが戸倉神社だという。


戸倉大明神縁起


常陸国の一つの宮鹿島神宮に迎い奉りその神宮に配祀してある所の天児屋根命を守護神として二神を小型の船に奉遷し・・・・供奉の人々は神慮を畏こみて別に大形の船に乗り東海に回航して波伝谷にいたり碇を下した揚陸の機の到来するを待て滞留数旬に渉る然るに一夜海底隆起して丘陵となり海波荒み立ち上がり波に轉しられて船は遠く水面を離れて戸倉山の谷に在り供奉の人々驚きて引き下すんとなすとも船動かずこれにてここに宮殿を造営して三神を相殿に祀りこれを小鋭神社と称して波伝谷という名称もままたここより始まると


波伝谷の民族

http://www.thm.pref.miyagi.jp/archives/book_pdf/minzoku/hadennya_minzoku.pdf



この縁起は相当に歴史的に意義深いものがあるかもしれない、今回の津浪で意識されたのは福島県の浜通りから岩手県の宮古から海岸地帯が実は一つの海洋文化圏であったことが共通認識された。
岩手県とか宮城県はリアス式海岸であり明治にも津浪があったから津浪地帯だと意識していたが実は仙台の沿岸地帯や名取とかから亘理-山元町から浜通りは一つの海岸を共有した海への歴史をもつ共通の場であったことを知ったのである。福島県というとき中通りと会津があるけど海とは関係ない、山との関係が深い。だから地理的歴史的になかなか一体感がもてない地域だった。
今回の津浪で明瞭になったのは宮城県から岩手県とその海岸地帯は津浪の被害にあい共通の海の文化圏に庵たことを意識させられたのである。
大和朝廷の水軍による蝦夷制服はまず常陸からはじまり徐々に塩釜から三陸方面と伸びていた。常陸の鹿島神社は船と関係していた神である。船の操作にたけた人々が祀った神ともとれる。その船の建造や操作にかかわったのは渡来人の技術者であり百済国の人がまず塩釜に来て戸倉に移って来たとか百済の船が沈んだという池の伝説などがあったのも何か百済と関係していた。百済王敬福が宮城県遠田郡涌谷町の黄金の採掘に来たことは有名である。「すめろぎの御世栄えんと東なる みちのく山に黄金花咲く 大伴家持」は有名である。

この歌によってみちのくが黄金の国であることの伝説が生まれた。それとと同時に古代において大和朝廷が水軍の蝦夷制服がありそれが伝説化して残っている。それが「みちのくの真野の草原・・」の草原は萱が繁っている場所ではなく地名説を出して前に書いた。草(かや)は伽耶(かや)の国に通じるとも書いた。ここでは百済であるが伽耶は後に百済国になった。その前は伽耶だったのである。

そして今回の津浪で塩崎の船着とか市庭と地名が残るところまで津浪が押し寄せたのである。常磐線の線路をくぐり津浪が押し寄せたことには驚いた。船も六号線まで流されてきた。だから万葉時代は海だったことを明確に意識させられたのである。真野の草原と歌われたのが南相馬市の鹿島区の真野郷だとされるが一方で石巻に真野があり萱原という地名が今も残っているからそこが真野の草原だとしていた。ただ歴史的遺物や文献からは南相馬市の鹿島区の真野が有力だとされている。唐神という地名が残っているのもそうである。唐は韓(から)であり朝鮮半島のことである。それでも三陸の波伝谷というと石巻からさらに奥でありそこにもこうした伝承が残っていることがそれを示している。現実に石巻からは真野公という木簡も発見されているから明かに常陸から真野一族の製鉄族とみられる一団が海沿いを移動していたのでありそれは三陸の方にも伸びていたのである。
だから津浪によって古代史も見直されるということがあった。常陸から福島県の浜通りから宮城県から岩手県の海岸地帯は一つの共通の場として海を通じて古代史も形成されたのである。そこには深く渡来人がかかわっていたのである。唐神という地名が残っているのもそうである。


●波伝谷の津の宮村はまさに津浪の村だった

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さらに津浪で注目すべきは波伝谷では津の宮神社がありそれは一つの村を形成していた。津の宮村となっていた。これは津浪があって祀られた神である。でも津の宮神社を中心にして村が形成されることはなかった。それは津浪に由来する村となるからだ。だから三陸は津浪に度々襲われているのだからそういう村があっても不自然ではないのである。ただ南相馬市の鹿島区の烏崎に津神社があった。これは結構大きな神社だった。だけどその由来は津浪であったことが忘れられていたのだ。なけぜなら鯨の祭りをしていて鯨の碑があったり金比羅の碑があったから津浪を記念した神社とは地元の人も思っていなかったのである。

松川浦の津の宮神社はまだ津浪を意識していたらしい。なぜなら津の宮神社に逃れれば助かると実際に逃げた人がいた。ちょうと津浪を逃れる高台にあった。でも烏崎の神社は平地にあり今回の津浪で完全に消滅した。一方家が集中していた烏崎の集落の高台にあった八龍神社はぎりぎりで残った。その石段は急でありあぜあのような高台に作られたのか不思議である。

そもそも平地に作られた津神社のあったところと家が密集していた烏崎はどっちが古かったのかとなる。地形からするとどうしても真野川の沿岸であり河口が広がっていたからその川岸の袋村が江戸時代になくなったように津神社があるところが八龍神社より古いとも思えない、もともと浜町とあるから家が集中していたところが古い町だったのか?港ははあとからできた。南相馬市でも実際に津神社は12もあったのだ。それが津浪に由来していることも忘れていたのである。福島県かち宮城県から岩手県の海岸沿いに津神社があれば400年前の慶長津浪に由来していたのである。ただそれを意識的に学問として警告していた人はまれだろうしいなかった。今回の津浪でみんな意識させられたのである。

岩沼でも津浪で押し上げられた船の伝説が残っていてそれを聞いた東北電力の人が津浪を恐れ女川で高くして原発を造り助かったのである。もちろん津浪は岩沼辺りではそんなに襲っていないが女川では津浪は400年前でなくても経験している。その相違の方が大きく危機感を作り出していたともなる。福島県の浜通りではまず津浪の危機意識がほとんどなかったのである。それが東電の原発を一旦高くして作ったのにコストカットとして知られた清水社長とかの意向があり低くして津浪の被害にあったのだ。自然災害も日本では度々あり歴史そのものが自然災害史のような所があり天皇がその自然を畏れ災害をないことを祈る役割があった。自然災害は天皇の責任だとまでなっていたのである。

それほど日本では津浪でもそうだが自然災害が国をゆるがすものとなるから歴史的にそうなったのである。それがこれだけ文明化したとき自然の恐ろしさを忘れてしまっていたのである。科学文明が自然を征服したような奢りになっていたのである。数学の確率で百万年に一回しか事故は起こらないとか真面目に言う科学者がいた。その根拠がどこにあったのか?全く科学者も科学的だとなり全能の神のようなことを言っていたのである。ともかく奢りとか油断が原発事故を引き起こした。
日本の土地がどういう土地だかも忘れていたのである。地震や津浪がどれほど恐ろしものか?
それは神戸地震で知っていたが津浪は忘れていたのである。


ともかく波伝谷の民俗というのは興味深い、いかにそこに暮らしが形成されてきたか?その村の全容が記されている。その村が今回の津浪で壊滅的被害にあった。もはや村が消滅するような危機になった。志津川町のちの三陸町は湾が穏やかでいい所だと思っていた。何回か電車で行った。岩礁に大きな浜菊が咲いていたのが印象的だった。三陸とか岩手県のリアス式海岸の町は湾があるから穏やかに感じていた。陸前高田市でも広田湾がありあの湾が穏やかに感じる。福島県の浜通りとか荒い波が打ちつけるのとは違っているからである。だからあんなふうに壊滅的被害を受けたのは余りにも悲惨であった。女川もそうだった。湾があって穏やかだと思っていたところがみんな壊滅的被害を受けたのである。なぜなら町が海岸に密着してあったからそうなったのである。村とは違い街があったから被害が大きくなったのである。


●志津川町は(三陸町)は浜菊が印象に残っていた


岩礁に浜菊大きく湾暮れぬ


志津川の湾の巌に大輪の浜菊咲きて夕べ明るし


わが国の本州、茨城県から青森県の太平洋側に分布しています。日当たりの良い断崖や砂浜に自生し、高さは50〜80センチになります

茨城県から青森県というとき今回の津浪の被害にあった地域の範囲だった。ただ函館にも津浪が押し寄せていたことには驚いた。函館を津浪が襲ったらどうなるのか?何か今回の津浪はそうした恐怖が現実化したのである。


この花は南には咲かない北方系なのか?南方系と北方系で花を分けるのもいい、文化圏も植生と同じく別れることがある。浜通りの地域が真野の草原地域が植生的にはマルハシャリンバイが奄美大島から流れてきて南相馬市の鹿島区の海老の浜が南限の地だというように地理と文化的歴史が一致していることがあるのだ。福島県の浜通り南方的植生であり最近をナギという木の苗のうようなものを相馬市の駅前の花屋で買ったけどこれは熊野神社の御神木にもなっている。凪ぎ(なぎ)草原をきる、なぎるでありナギになった。それが海のことをいうのに凪ぎとなった。草原と海が通じている言葉なのである。津浪でなぎ倒されて海岸近くが草原化しているの風景とも一致する。草原は人為的なぎ倒す、刈っていないと森化してゆくのが日本の風土である。なぐ、なぎという行為は草原を維持するために常に必要だったのである。

歴史は自然から始まっていてその自然に人間がいかにかかわってきたかが歴史でもある。だから常陸から茨城県から宮城県から岩手県、青森まで一つの自然的歴史的文化圏として見直す作業が必要なのである。福島県は会津があってもそこは山国文化圏であり異質なのである。むしろ福島県の浜通りは常陸から宮城県や岩手県の海岸地帯と共通の文化圏を形成していたのである。

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