2013年07月14日

草原化した世界(それは遊牧民の世界である)


草原化した世界(それは遊牧民の世界である)


草なびき草原わたる風すずし

草原に境のなしや風涼し
草原に区切りのなしや夏燕
雨しとと老鶯鳴くや草深し


草原の感覚というのも不思議である。これは何度も書いてきたけど日常的に草原の風景に接していると心まで変わってゆくだろう。ここは別にモンゴルのような草原ではない、ただ確かに草原とにた感覚を経験する。草原の感覚と田んぼの感覚はあまりにも違うものだったのである。
田んぼだったら一反二反とかその土地を区切りその狭い土地の所有感の上に世界観すさ成り立つ、つまり日本人はそうして狭い土地にこだわるのはそういう生活が歴史的に水田によって培われてきたからである。大地を狭く区切りそこが俺のものだという狭い了見が当然うまれるし隣をそうして狭く区切ったことで意識する。どっちにしろ狭い了見しか生まれない民族だったのである。

その田んぼにしても五反田百姓であり狭い土地でなんとか生きるほかなかった。そういうふうに土地に制約させれて土地にしばられて生きざるを得なかったのである。だから満州のような広い土地に憧れたのもわかる。満州にもモンゴルのような草原があり遊牧民が住んでいる。

草原の感覚はまず信じられない広々として感覚である。区切るものがない世界である。だからこそまたあういう大陸では区切るものが人工的に作られた国境が必要になった。壁が必要となり万里の長城が生まれた。しかし万里の長城は山の尾根に作られていたから草原とか砂漠の平坦な地域とも違っている。ともかく日本人の特質はこの狭い土地から作られたことは確かである。異常に隣を気にするのも隣と狭い土地を区切って生活する他なかったからである。その土地風土によって宿命的に作られた民族性がある。日本人のいじめとか陰湿さはそうした狭い土地から離れられないかことから起きてくる。


まずモンゴルのような草原に行ったら全く世界観も変わるだろう。どこまでも草原がつづく世界である。そこには区切るものがないのだ。だからどこまでも国境を感じられないから常に移動しているからそのまま移動していたらモンゴルの世界帝国が生まれとまでなる。そういう広い世界で養われる世界観は日本などとはまるで違ったものとなっていたのである。大局的に広い視野で見れる感覚が自然と培われていた。狭い土地にこだわる必要はないから雄大な発想が生まれた。つまり田んぼと草原の相違はあまりにも大きいのである。そのことを毎日草原化した景色を見て思うようになった。

こういう世界にいたら思想そのものも変わる。こだわる狭い土地がない、ただ草がなびき風がふきわたる。そこには区切られたという感覚がなくなる。


広々と草原を吹きわたる風
馬の脚に心地よく吹くその風
馬は本能的にその草原を
どこまでもし疾走したくなる
その果てしない草原に馬が与えられた
風を切り馬はどこまでも疾走してゆく
遠くから吹き渡ってくる風が心地よい
境のない草原を疾走してゆく
そして花々が一面に咲き
草原は一つの大きな絨毯となる


こんな詩にもなるだろう。野馬追いも近いけど馬というのは草原に一番あっているのだ。日本にはこうした広い草原がないのだから遊牧民的感覚がわからない、遊牧民はあれだけ広い所を生活の場としていたのだから自ずから大帝国を成したのである。日本にはそうした大帝国を作り得る土台がなかったのである。

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