2013年09月18日

津波より二年半過ぎた小高浪江を訪ねる (秋の日の俳句短歌



津波より二年半過ぎた小高浪江を訪ねる

秋の日の俳句短歌)

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かなりの坂を登る

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北原の津神社
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小高の村上のパノラマ写真

浦になった景色

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この松は枯れていない
緑がある


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津波で沼になった

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請戸川

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桃内駅


自転車に海にいでけり夏の蝶

海展け朝花に舞う夏の蝶
朝の海白波よせて夏の蝶
露草や御影石の墓海望む
秋の海望み萱浜(かいはま)墓残る
津波跡残れる松や秋燕
敢然とノスリの姿秋の風
秋日さし相馬双葉の境松
街道の一里塚や秋の暮
松により浜街道や秋の海
上浦の坂に望むや秋の海
大杉にしみ入る秋の蝉の声
磨崖仏千歳の杉や木下闇
陽をさえぐ千歳の杉の木下闇
十五夜の月まんまるに平和なれ


秋の日や津波に流さる碑のあわれ萱浜に刻む死者の名前を

津神社参道苔むし隠されて残る社や秋の日さしぬ
津波跡浦となりしや雁群れて水面の光る朝の光りに
秋風の薄なびかせ浦に吹く雁の群れつつ水面光りぬ
二年半線路を覆う桃内駅虫鳴く声や秋の日暮れぬ
訪ねけり小高の城の跡を踏む秋の日さして昔偲びぬ
なおしきり秋の蝉なく小高城その跡たずね我が帰りけり
幾世橋(きよはし)をわたりて浪江秋日さし浜街道のつづきありしを
請戸川流れの早み浪江にそ二つの川や秋風さやけし


今日は秋晴れになったので二年半過ぎた小高や浪江に行った。浪江は町まで入れる。町から二三キロのところで通行がとめられる。それにしても浪江に入れたのは意外だった。原町区の北原から島商会のある所へ登る道に「津神社」があった。これは不思議だった。ええ、こんなところにあったのと気づかなかった。鳥居のあるずっと奥に本当に隠されるようにあったのだ。かなりの坂を登る。あそこまで高いなら津波から逃れられた。あの高さはやはり四〇〇年前の慶長津波の記憶があって津波をさける所に神社を建てたのである。ただ地元の人でもきづいていないのである。

小高に入ると村山の貴船神社があったところ一時期相馬の城が移動される予定地だったが縁起が悪いと原町区の牛越城に移った。確かに縁起が悪い場所だった。津波に襲われたからだ。近くは堀があり浦となっていた。そこに雁が群れて浮かんでいた。鴨もいたが雁が多かった。そして不思議なのはノスリが敢然と津波をまともにうけた枯木に止まっている。ノスリは敢然としている。ノスリは津波の跡に草原化してノネズミが増えたので住み着くようになった。その光景も不思議である。

それから村上を去ってまた坂をのぽると綿津見神社があった。あれも高いところにあり津波からまねがれた。高いところが沼になっているのは津波が残した沼である。
そこから高台をゆくとあの辺は東北電力が原子力発電所を建てる予定地になっていた。あそこは高いから津波から逃げて助かった。つまり原発はあそこに建っていれば高いから津波の被害からまねがれたのだ。東北電力は女川でも高い所に建ててかろうじて助かった。ぎりぎりだったけど助かった。それは東北では津波のことが頭にあったからだった。それはおそらく副社長だけの一存というものでもない、津波に対して危機意識をもっていた。東電はもっていなかったのである。

そこから浪江の方に行くと相馬と双葉の境の松というのがあった。こんなところにあったのと初めてしった。まだまだはじめて知ることが近くでもかなりあるのだ。

浪江からは双葉郡であり車のナンバーも「いわき」になっているのだ。この相違は大きい。海岸沿いを浪江まできて六号線の方に出た。浪江の町まで入れた。今回はすぐひきかえした。途中瓦を直している家があったからやはり浪江には住む人がいるみたいだ。請戸川が台風のためる水がでて勢い良く流れていた。浪江は二つの川があるし高瀬川渓谷は景勝の地だった。そこに行けないことが残念だったが町まで入れたのは意外だった。

帰りは浜街道を帰ってきた。その前に小高で上浦というところにでた。井田川を回りでてきた。井田川は大正時代に開拓された地である。ずいぶん広いと思った。八沢浦とにていたが広かった。あれだけ広ければ相当な米の収穫があり相馬藩は経済力が拡大したことを実感した。ただあそこは八沢浦のように注目していなかった。

井田川もあれだけ広く海だったとすると都の人も注目していたはずだが歌は残されていない、八沢浦は残されていたので注目した。でも津波で広い海になったとき見に行けばよかったが混乱していて行けなかったのが失敗だった。もう二度と見れないから失敗だった。ともかく山の方が上浦となっているのだからやはりあの辺まで浦だったのかそれだけ海が進入していたのだろう。

それから小高によってみて小高の城の跡に登った。浮舟城などとなぜついたのか?おそらくやはり回りが海が進入していて湿地帯がせまっていたからかもしれない、小高駅をこえて津波が来たのには驚いたからだ。

まあ、津波で人が子供まで無残に死んだのだから俳句とか短歌とか絵とかまでそんなことを芸術などでなぐさめられないと批判された。でも自分はそうは思わないのだ。
今回でもこうして人が小高でも浪江でも踏み入れば生きたものとして蘇ってくる。
小高の城跡でも人が入りその地を踏むことで歴史が活きてくるのだ。誰も人が入らなくなったら俳句にも短歌にしないし絵にもならないしまさにゴーストタウンとなってしまうのだ。人が入ってくることで過去も活きてくる。人が入らなければあらゆるものが死んでしまうのである。


陸前浜街道は浪江双葉まで相馬藩でありイワキに通じて江戸まで通じるとき活きていたのだ。それが寸断されたとき道も死んでしまう。ただ浪江に出口一里塚というのがあり何か浜街道を旅した気分になった。今日は秋晴れであり風も気持ちよくサイクリングには向いていたのである。ともかく浪江は高瀬川まで行かないと行った気がしないのだ。ただ町まで入れたので浪江まで行った気がして良かった。次はもっと中に入ってゆきたい、ただ警護の人がいるので町内まではは入れがさらに中には入れない、ただ仙台からきていた人も入っていた。その人まで放射線を計る機械をもっていた。それほど関心をもたせたのがこの辺だったのである。町中は0.4くらいなので低いから人が住めるのかもしれない、幾世橋がありこれも今までは関心をもっていなかった。幾世橋の名前は幾代もつづく橋としての願いがあり相馬の隠居した殿様が名付けたのである。今まで注意しないものを津波や原発事故の後に関心をもつようになった。
津波や原発事故はいろいろな面で意識を変えたのである。何が大切なものか?そういうものが見直された。


帰りによっ大悲山のまがい仏でもあの千年の大杉は迫力があった。だからなお秋の蝉が盛んに鳴きその声はその大杉にしみいる。それがまさに「静けさや岩にしみ入る蝉の声 芭蕉」になっていたのだ。ともかく道を直していたが道が活きればそれなりに復興もありうる。まず道が大事だということがあった。道がイワキまで通じれば復興したなと感じるだろう。鉄道でもそうである。それだけ広域社会だから道が大事になっているのだ。いづれにしろ双葉辺りは余の森であり相馬藩の殿様の余の森として領地とされていた。それと同じように今はイワキまで通じない森と化してしまったのである。
交通が遮断されると通じなくなると江戸時代にもどったような気分になる。
現実はバスと仙台まで通じるがバスは何か疲れるし遠くに行きたくなくなった。
電車はやはり遠くに行くには欠かせないのである。ただこの辺は電車が通るのは六年先とか原発事故のあった双葉を通るのはいつに名のかわからないのである。


今日は十五夜のまんまるの月がでていた。何か平和を感じた。これは自分の一身上のことでも辛いことばかりだった。今はなんか余裕ができた。それでも家事でも何でも一人でやっているからまるで小間使いであり駒ネズミのように動いているのだ。
とにかく今日は浜街道をまた旅したようで気持ちよかった。風も涼しく疲れなかったから良かった。やはり秋はサイクリングニは一番向いている。

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