気仙沼の地図から今回の津浪の被害をよむ
(山と海の狭間の地形で土地がなく海側に宅地を広げた)
気仙沼復興街作り調査
http://web.sfc.keio.ac.jp/~shimnov/kesennuma_reconstruction_research.pdf
(網地島の伝説)
文永3年(1266)建立の神石碑が鈴木寛也氏宅の角にある。この後方の東森山頂上には、部落の人たちが海上安全を祈願した安波大明神が祭ってある。
寛永18年(1641)頃には寄磯の人口は30人以上になり平和な年月を送っていたが、天保4年(1835)に大飢饉が起ったため部落民は食料を確保するため悪天候の中へでも出漁せざるを得ない状況が続いていた。
そんな危険な綱渡りの様な漁を繰り返していたある日、渡辺平五郎という人が出漁中の時、天候が俄かに悪化し風浪高く荒れ狂い、小船は大破して乗組員全員が絶体絶命の危機に陥った。がしかし一心で安波大明神を念じたところ、辛うじて海岸にたどり着き危機は逃れる事が出来たという事故が起きた。(この渡辺平五郎が遭難した場所は以後平五郎根と呼ばれるようになった)
http://ajisime.web.fc2.com/txt/yoriiso.htm
安波祭( あんばまつり) (浪江町請戸)がありこれは気仙沼にもあり茨城県の太平洋岸から伝わり太平洋岸にそって伝播した。気仙沼に安波山とあるのがまさにそうである。
気仙沼の中心にあるように鎮座する山となる。前にも書いたけど今回の津浪は非常に海を意識させられたのである。津浪の被害にあった茨城から岩手県までその範囲は広範囲でありこの一体はもともと海と密接な関係を保ち生活していた地域だった。だから共通の海の文化があった。その海が忘れられていたのである。確かに漁港があり海が港が中心のように見えても実際の生活は海の幸より工業化して海で暮らす人はみんな魚をとって暮らすわけではなかった。それを象徴していたのが牡鹿半島だった。あそこには小さな港が点々と孤立したようにあった。零細な自給自足の港であり近年はもう漁期業でも跡継ぎがいないとか漁獲高にしろ牡蠣の養殖であれ落ち込んでいたのである。
漁業は衰退産業になっていた。これは日本全国で同じでありそれで女川の原発で働く人が多いというときまさに福島県の浜通りとにていたのである。
ただ漁獲高は10倍とかあり福島県の浜通りとは規模が違っていた。
漁業だけでは生活していけない、農業だけでは生活していけないとなっていて原発に頼るようになり事故が起きたのである。
津浪が来たから漁業が成り立たないのではなくその前に衰退していて津浪の一撃で致命的な打撃を受けたのである。
気仙沼の地図を見るとその成り立ちをたどることができる。つまり海岸沿い海に直接接している所はもともと海であり塩田になっていた。そしてさらにそこを埋め立てたのが新しい町、新浜町だった。その埋め立て地域か一番被害が大きかった。
古町は前の町であり海岸から離れている。そして三日町八日町と市がたつ所があり八日町まで津浪が来ていた。また寺や神社があるところは比較的高い所にあり津浪をまねがれた。それは人が住んだ順序を示していたのである。
人は最初海に接して住んではいない、そこは湿地帯とかであり塩田になった。
こういうことは海岸沿いで同じである。海であった所を湿地帯などを干拓して人が住むようになった。防潮林として松原を作ったのも白砂青松の日本的風景を作っていた。
それは人工的に作られたものだった。それが津浪で根こそぎ破壊されたのである。
なぜこれほど津波の被害が甚大になったのか?それはまさに共通している原因か海であった所を開拓して埋め立てて田にした。それから気仙沼辺りでは街にしたし仙台や多賀城では海に接して街が広がり住宅地となってったのである。それが被害を大きくなった主要な原因だった。もともと気仙沼とかに津波は度々襲ってきている。津波の供養の碑もあった。それても海側を埋め立てて人家をふやしていったのである。ここでも日本の国土の狭さが影響していた。なぜなら土地が狭いから海側に干拓しても埋め立てても広げざるをえないことがあった。気仙沼なとどをみればわかる。後ろ山が迫り土地がないのである。
だから埋め立てて土地を作る他なかったのである。これは日本全国どこでも同じである。海だったところを干拓したり埋め立てて土地を確保して米を作りまた市街地として人家を拡大したのである。仙台は特にそうだった。
津波も一つの自然現象とみるとき、自然に逆らって生活圏を広げたのが日本だった。
その原因かあまりにも土地が限られていることだったのである。日本人が満州に憧れたのは広大な土地があったことなのである。それが戦争の原因にもなった。土地バブルが起きたのも素ためである。日本の地形はどこまでも平坦な土地が少なく海と山の地形である。海と山のはざまにわずかに平坦地がある地形である。特に三陸から岩手県の地域は後ろが山がそびえ住める場所は限られていたのである。そのことは津浪の被害を大きくした根本原因である。
網地島の伝説でもわかるように日本自体が小さな島にも例えられる。そこで生活するには厳しいとなる。飢饉が起きたときやはり島でも食料が米など入らず苦しくなった。
それで海が荒れても漁に危険を犯して出でざるをえなかった。
相馬藩の原釜でも飢饉で死んだ人が結構いた。それはやはり漁業だけでは食料をまかないためだった。魚は定期的にとれるものでないから定期的に収穫がある農業が必要だったとなる。日本だけではもう人口が増えてやっていけないとなり満州や戦後はプラジルとかに移民になった。それも農業するためだったのである。農業には土地が必要だからそうなった。
今回の津浪の教訓は何なのか?それはいろいろあり様々な問題提起の場所になった。
明らかなことは自然に逆らうことは大きな危険がひそんでいたことである。海に接して人家をふやしつづけたのは人間側の事情である。でも自然から見ればそんなことは知ったことではない、自然には自然の営みがあり人間側のいいようにはならない、津浪も別に人間に敵意を抱いて起きたわけではない、津浪は自然現象でありそれは例え400年に一回でも起こるものなのである。だから自然に逆らう人間側に責任があったとなる。
自然は無情だというのも確かだが闇雲に自然は害を及ぼすものとも違う。
人間側で自然と調和する方法はあった。それができないのはまた日本の自然条件があったということがある。やはり自然は何か必ず制限するものがありその制限を越えると危険なものとなり自然から制裁を受ける。
原発事故でもそもそも核を破壊するとかは科学者でも神を畏れぬ不遜てものだったとか謙虚に反省している人もいる。原子力は何か人間の思い上がりの結果生まれた面があった。人間には常に限界がありそれを突破することはできない、神の領域がありそれを越える事がてきない、神のみが全能だからである。それを越えようとするとき今回のような天罰が下るようなことが起きてくる。
ともかく人間はまずその風土に適合して暮らすことを自然から要求されている。いくら土地がないにしろ日本には日本の恵みがある。それを活かし生きる他ない、それを越えて逆らう生活は今回のように大きな災害に見舞われる。日本の土地には土地の宿命がありそれを越えることはできない、原発は地震国の日本には適合しないものだったのである。
津浪がくる前にすでにこわれていたように原発は思った以上ずさんに作られていたのである。ともかくそれぞれの国にはそれぞれの風土がありそれに適合したように住むほかない。日本の国土が狭いにしろそれが美を作っていたし恵みもあった。その中で暮らす他なかったということである。日本の人口は6000千万くらいが適正規模だというとき1億2千万はもう日本の国土では養え切れない人口になっていたし海側に発展しようとしてもそこには無理があったのである。だから人口抑制が自然の働きかけであり少子高齢化も自然の成り行きだったともなるのである。
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