なぜ相馬藩では慶長津浪が伝えられなかったのか?
(伊達藩の政宗が中央政治とかかわり相馬藩は小藩で情報が伝えられなかった)
1579年 (13歳)
陸奥国磐城三春城主、田村清顕の娘、愛姫と結婚。
1581年 (15歳)
相馬氏攻めで初陣。
●家督相続
1584年 (18歳)
父、伊達輝宗の隠居により、家督を継ぐ。
●奥州南部平定
1589年 (23歳)
陸奥国岩代の摺上原の戦で蘆名義広を破り、奥州南部を制圧。
陸奥国岩代の黒川城(会津若松城)に本城を移す。
●秀吉に臣従
1590年 (24歳)
小田原城攻めを行っていた豊臣秀吉に、ギリギリのところで伺候し臣下につく。
1591年 (25歳)
惣無事令違反、領内での一揆(葛西大崎一揆)を煽動した疑いなどから、米沢など約150万石から陸奥国陸前玉造郡など58万石に減封となり、岩出山城(岩手沢城)に入る。
1592年 (26歳)
文禄の役(朝鮮出兵)に参戦。
出陣の際の装束が派手で、「伊達者」の語源となった。
●青葉城
1601年 (35歳)
仙台城(青葉城)を築城し居城とし、初代仙台藩主に。(60万石)
伊達藩の死者-5000名
相馬藩の溺死者700名
一カ月後相馬氏が小高より中村に今の相馬市に城を移す
相馬藩の武士、津浪の跡に開拓に入る
1613年 (47歳)
支倉常長を慶長遣欧使節とし欧州へ派遣。
1614年 (48歳)
大坂冬の陣に参陣。
1615年 (49歳)
大坂夏の陣で、豊臣方の後藤又兵衛を討つ。
「政宗領所、海涯の人屋、波濤大いに漲り来り、悉く流失、溺死者五千人、
世にこれを津波と曰うと云々
……
時に海面滔天、大浪山の如く来る。肝を消失し魂を失するのところ、こ
の舟彼の波上に浮びて沈まず。しかる後、
波の平らかなるところに至る。こ
の時心を静め眼を開きてこれを見るに、彼の漁人住するところの郷辺、山
上の松の傍なり、
これ所謂千貫の松なり。
すなわち舟を彼の松に撃ぐ。波濤退去
の後、舟松の梢に在り。
…
政宗これを語る由、後藤少三郎御前に於てこれ
を言上す。」
『駿府記』には伊達政宗に献上する初鱈を獲るため侍2人を遣わし、漁人らは潮色が異常であるとして難色を示したものの、「主命を請けて行かざるは君を誣するなり、止むべきにあらず」とて出漁した漁人らは津波に逢い漁人の生所なる山上の千貫松の傍に流れ着いたが、家は一軒残らず流失したとある[1]。この『駿府記』にある「松平陸奥守政宗献初鱈、就之政宗領所海涯人屋、波涛大漲来、悉流失、溺死者五千人、世曰津波云々」が、文献に現れる最古の「津波」という語句の記述とされる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E9%95%B7%E4%B8%89%
ビスカイノの三陸沿岸の探索は1611年(慶長十六年)七月七日、徳川家康に対して日本の東沿岸の測量や造船などに関する朱印状交付の為の請願書を提出したことに始まった。・・・・・
伊達政宗との出会い
旧暦五月十四日、ビスカイノ達の暦では六月二十四日だった。(この日は聖ファン(ヨハネ)の日)
彼は隋員と一緒にミサに参加するため聖フランシスコ会の修道院に赴いた。
その時、政宗が多数の士卒と騎乗の士を率いて江戸市街の木戸に着いた時、ビスカイノ一行を見た。
政宗はすぐさま伝言を送り、火縄銃を発射する様子を家臣たちに見せたいと伝えた。
要望受け射撃が実行され、出し抜けに二回発射されたので、政宗は驚き両耳をふさいだという。
他の者達の馬は大音響に混乱し、主人達を地面に投げ落として逃げ出し、食料などを積んだ馬は転倒し大騒ぎになった。
この出来事をきっかけに両者の交流が始まった。
この日がサンファンの日であることから、サン・ファンバウティスタ号の船名になったという説があるが、定かではありません。
慶長津浪死者数
伊達藩 5000
相馬藩 700
5,000 / 700 = 7.1
...............................
宮城県死者-9537
9,537 / 1,606 = 5.9
なぜか死者数の割合が同じだという不思議である。相馬藩は磐城は入っていないがほぼ割合的には同じ人数が死んでいる。ただ慶長津浪でも今回でも圧倒的に伊達藩が宮城県の被害が大きいのである。
そしてなぜこれほどに伊達藩では慶長津浪の記録が残された。その原因は当時伊達藩は東北をたばねる一大大名であり秀吉も恐れたし家康も恐れていたのである。全国制覇をもくろむ地位にあった。だから政宗の動向は常に注意が払われていた。
伊達藩で起きたことも中央政府に報告され監視されていた。
津浪が起きた時、隠居中の徳川家康をめぐる政治情勢を記した日記。1611年(慶長16)8月1日から15年(元和1)12月29日までの約4年半に及ぶ駿府記で記録されたように徳川幕府から情報が拡大化した。それはスペインの使節からもヨーロッパに報告されて記録された。
伊達政宗の時代は国際的な時代だった。政宗は仙台にいる日数は少なく絶えず大阪の秀吉の伏見城や京都に滞在していた。そこに愛姫(めごひめ)が人質として住んでいて仙台には帰ることなく住んでいた。だから当時でも国際的視野をもつことかができたのである。
そして津浪の情報も外部との接触がありつたから伝えられ安かった。つまり情報は戦国時代辺りだとどうして伝わったかというとそうした政治の中枢部に影響していないと伝わらない。それは多賀城で奈良や京都の人がかかわりちょうど貞観津浪を京都の官吏も武人も目撃して京都に伝えたのである。それで末の松山がみちのくの歌枕となり残された。
それは京都の人がかかわって全国に知られるようになったのである。
当時だと情報は中央中心にしか伝わらない、地方の情報や事件はほとんど伝わらない、中央政府とかかわったとき伝わり歴史に記録された。そういうシステムになっていた。
みちのくの歌枕もそうした情報の伝え方でありその歌を通じて遠いみちのくをイメージしていたのである。写真もない何もない時代は歌枕が頼りになる。だから短歌は一つの情報伝達の手段でもあった。それが後世に残された。ただ事実を伝えるより短歌の方が興味をひくということがあった。事実の羅列だと無味乾燥になってしまうかちだ。
記録にしても無味乾燥だとただ事実の羅列だと興味をひかないから庶民まで事実自体が残らないということがある。今でもテレビで事件をあくことなく放送しているのは見ている人が興味をもつからである。それが下賤でも興味本位でも一応テレビを通じて全国に伝わるからそういうことがあったという事実を全国で認識する。
短歌はそういう興味をひきつけるものとして情報を後世に伝えた。
相馬藩がなぜ慶長津浪のことが溺死者700名しか記録がないのか?
津浪の記録の空白地帯になっているのか本当に謎である。
その一つの原因が相馬藩が中央に影響を及ぼす力のない小藩だったことにもあった。
相馬藩のことは伊達藩を通じてしか中央に知られなかった。
ただ戦国時代に石田三成が相馬藩内にきている。鹿島の田中城にもきている。それで三成の旗が野馬追いに出ていたのである。ここでは直接かかわっていたのである。
そのあとは家康の徳川時代はかかわっていない、伊達政宗を通じてしか相馬藩のことは知られないということがあった。
それは伊達藩中心の世界があり伊達藩が中央政治とかかわりそれが歴史記録となった。
中央とかかわらないと歴史として記録されない、少数民族の歴史が消失するのとにていたのである。情報は常に中央の権力中枢から発信されている。それは今でもマスコミが情報発信の中枢をになっていたことで同じである。地方から全国に発信するこはむずかしかった。インターネットはそれを打ち破るものとして生まれた。南相馬市の市長がYUTUBEで世界にきけ窮状を訴えて反響があり世界の百人に選ばれたということでもわかる。
インターネットは地方からも一応発信する機会を与えたのである。
それでも中央が中枢となり情報は発信されやすい。情報を発信することも権力をもつことなのである。例えはキーワードでも自分のサイトに来るのをみていると京都 俳句とか
奈良 俳句とか鎌倉 俳句とかか一番多い、仙台 俳句などほとんどないし相馬 俳句や短歌で調べている人がほとんどいないのである。そういう有名な場所に集中しやすいのである。だから京都 俳句とあったらそこからまた東北でも相馬でもリンクをたどれるようになっていると注目されるのである。情報の注目度は今でも中央に偏るのである。
インターネットでも発信する能力があっても注目されなければ知られないということなのである。ただ今回は福島県は相馬でも原発事故で世界まで注目されたのである。
だからフクシマから来たというと誰でもわかる、悪い意味で有名になったのである。
だから自分のサイトもまた500名とか訪問者が増えた。常時リンクが1000とかなっている。ただ福島県とか相馬意外からどれくらいの割合できているか今のサーバーでは分析できない。外部からも相当来ている。
半分以上は外部からのものだろう。それは原発事故がが世界的興味となり注目されたからなのである。
慶長の津浪の被害が当時も甚大だったのにそのあと三年後に大阪冬の陣とかに出陣したり相馬藩でも出陣しているその後ヨーロッパに使節う派遣したりとどうしてそうした大事業ができたのか、それだけの経済力があったのか、今なら被災地はうちのめされて復興にはなっていない、この辺は原発事故だからまた事情が違っていても慶長津浪では大きな被害にもかかわらず大きな事業をしているのは謎である。津浪の被害にあった田は十年くらい塩害で回復しなかったというから余計にそうである。今なら技術が発達しているからそういうことはない。ただ当時は農業中心の社会だから農業に対する熱意が全然違っていた。いくら被害があっても農業でやるほかないということでは一致していたからである。
今の状況とは相当違っている。今は漁業でも農業でも衰退産業であり高齢化でありそういう所に津浪が襲ったので壊滅状態になった。この際やめた方がいいという人が多いのも当時とは事情が違う。
それでも南相馬市の2009年の広報で大きな地震が宮城県沖で来ると警告していた。津浪も警告していた。それも真剣に読む人はほとんどいなかった。東電でもとりあわなかった。女川原発が津浪の被害を辛うじてまねがれたのはやはり仙台には津浪の記録や伝説があり三陸とも近いのだから福島県とは違っていた。福島県は津浪の記録の空白地帯だったのである。だから東京電力となると余計に危機感がなかった。
だから原発は東京に建てるべきだったというのは正論だったのである。
そしたら緊張感で仕事していたし危機にも備えていたのである。
責任の重さの感じ方がまるで違ったものなっていた。
それでも東京にばみんなが反対するから建てられない、それなら建てるべきではなかったとなる。
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