2013年10月25日

秋雨の情緒(今年の気候は変則的だ)

 


秋雨の情緒(今年の気候は変則的だ)

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庭広く舞いつつ去りぬ秋の調
二羽舞いぬ小雨にぬれつ秋の蝶
言い残すことなおあれや残る虫
秋雨にぬれて烏や里に住む
秋雨に鴨も雀も吾もぬれる


窓の辺にしばらくあれば一二枚木の葉の散りて雨しととふる

庭広く大きな石の一つかな秋雨しとと心鎮まる
秋の薔薇三輪残り吾が町の駅の淋しく雨しととふる

雨しとと石にふるかも山茶花の白き一輪咲き開くかな

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普通秋雨というと9月だけと今年は梅雨が8月まで長くつづきそのあと秋になったのかと思った。でも一時お盆が過ぎても暑かった。9月も暑い時があった。そして10月まで台風がきた。何か温暖化で今年は今までになく変則的なのである。
だから今は秋雨なのかと思う。そんなに強い雨ではない、しとしとふっているからだ。

烏が一羽電線にとまり雨にぬれながらとまっている。そういう姿はいつもみている。すると烏に人間も共感する。雨にぬれて買い物にゆく途中で見るから余計にそうなる。
人間と同じように烏も同じ里に故郷に住んでいると感じる。
都会ではそういう感覚がなくなる。自然の生き物でもそうは感じない、故郷の同じ一員のようには感じないのである。


石にもいろいろな個性がある。その個性に気付かないのだ。石の形もあり大きさもある。自分がみていたのは隣の大きな石なのである。形が平べったく隠れてある。隣の庭は広いから自分の部屋から見える。するとその石を意識するのである。自分の家の庭でなくてもいつも見ているものは心に深く知らずと記憶されているのだ。

石でも樹でも長く見ていると人間は自然の事物と一体化する。そういうふうに人間も自然の一端にあるのだから自ずとそうなってゆく。ただ自然はどこにでもあり故郷にだけあるのというのではない、ただ長くいるとどこであれ自然と一体化してゆくのである。
啄木があれだけ故郷を思ったのは東京という大都会にいて自然にふられることがなかったからである。もし自然豊かな所にいたらその自然に共感していたのである。

それでもあれだけ故郷を思うということは感性がよほど豊かだったのだろう。
なぜあれだけ感性が豊かだったのか普通では考えられない、感性は実際は長い年月で作られていたのである。あんなに若くてあれだけの感性をもっていたことか不思議なのである。感性というのも訓練であったのが自分だったからである。

今は冬も近くなっている。でも台風が来ているから秋である。確かに晩秋という感じがしない、秋深むという感じもしない、でも木の葉散りはじめている。それでも秋深むという感覚になれないのが今年である。

庭は一つの自然であり金持ちの家でも隣に大きな庭があると自然を感じるのだ。
豪邸には妬みが起きるが自然はかえって恩恵を与える。隣が大邸宅でも森のうよになっていたら都会でもそこが自然になるのだ。それが自然の不思議さである。

posted by 老鶯 at 15:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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