2013年11月23日

南相馬市原町区大原に死んだ斉藤茂延さんを偲ぶ冬の短歌十首 (人を通じて親しみ深くなる場所)


南相馬市原町区大原に死んだ斉藤茂延さんを偲ぶ冬の短歌十首


(人を通じて親しみ深くなる場所)

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橲原やたまゆらに消ゆ冬の蝶
水の音倒木あわれ冬紅葉
鳥隠る鳴き声かすか冬紅葉
冬紅葉一木ここに村古りぬ
大原に眠れる人や冬紅葉
大原の荒地となりて寒烏
大原や寒烏三羽日も暮れむ


大原を冬にたずねてあわれかな形見と残る家の淋しき

大原の杉木立の中墓所ありて冬の日さしつ我が参るかな
五輪塔二つ古きを杉木立の墓所に埋もれて冬の日暮れぬ
知る人の妻の死すあと二年過ぎ夫も死ぬあわれ冬のくれかな
病院に大原語るその人の眠れる墓や冬の日さしぬ
大原に代々生きる人にあれその墓参り冬の日暮れぬ
大原の墓所の近くに竜胆の数輪なおも咲きにけるかな
大原ははや山に陽も没らむ短き日かな死ぬははやしも
大原の山中田畑開きしを継ぐものなくて荒地となりぬ
大原の山に通じる道歩み暮らしを思ふ冬のくれかな
大原に生きてここにし眠るかな跡継ぎなきを祖(おや)は悲しむ
大原に思いのこして死ににけりその人思ふ冬のくれかな

大原ゆ深野を通り豪蔵や長野にいでて冬のくれかな

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墓所に入る道

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文久からはしまっているから古い

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これは相当古いだろう、年代がわからない

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この五輪塔も古い感じだ
いつの゛時代なのか?
大きくはないから名だたる侍ではないかもしれない


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ここは田んぼだったのか畑だったのか
先祖が開墾した場所だった



橲原から橲原渓谷に入り大原の方を回ってきた。何か今年の紅葉は変だ、いつものような紅葉の色がでていない、もう秋が終わり紅葉の季節が終わってしまったのか?
すでに冬紅葉の色であり秋の紅葉の色がなかったのか変だ。
今年は晩秋とか秋深しという感覚もなくなっていた。

斉藤重信ではなく茂延であり平成24年(2012-5)5月に死んでいた。ということは2011-3月に原発事故があったから約一年事故の混乱から生きていて死んだのである。
事故が影響して死んだということもあるかもしれない、心労とか重なったかもしれない、その二年前に妻が死んでいた。その妻が死んだことが痛手だった。なぜなら病気になったとき介護されなかったし大原の家に一人で猫と一緒に住んでいたからである。

近くにも75歳の人が六年前頃死んでその苦労を語っていた。良吏などもてきず泣いていたという。それは自分もそうだったから家事で苦労したから同情した。

その人は糖尿病で妻をなくして自分も糖尿病になり糖尿病の食事制限の料理をしている。その人は津浪の被害にもあっていた。一応床上まで来たからそれなりの被害だった。
海から遠いからたいしたことないと見ていた。でも津浪は低い波でも物が流れてくるから被害か大きくなるのだ。ともかく夫婦でも妻が死んで夫だけ残ると悲惨になる。
料理とか家事のことがなかなかわからないからである。自分も五年くらいしていても料理のことがわからないのである。めんどうくさいから外で食べるのが一番楽だし外で食べた方がうまいのである。


大原という地域はいつも幹線道路だけを通っているとわからない、ある地域を知るにはやはり幹線道路だけを通っているとわからない、全体を知るには村を歩き回らないとわからない、今日は大原を山の道とか歩いた。山の方に入る道が四方にあった。山と密接に結びついていた暮らしがあった。それで戦後食料難で猿まで食ったという話は本当なのだろう。

ともかく病院は暇であり閉ざされた空間で話す人も斉藤さんだけだった。だから大原の話を聞くのが日課だった。そして何か自分自身も大原の人のようになる気分になったのは不思議である。そして病院の窓からは大原の方が見えていたのである。
病院の一カ月は長いのである。病院は刑務所ともにているのだ。

だから病院で一カ月斉藤さんと一緒にいて大原が親しくなっていた。ある土地に思い入れができるのは人を通じてそうなることがある。ある人と親しくなってその土地への思いが生れてくる。そして死んだということを大原の人がやっている仮設の食堂で聞いたのは二三日前だったのである。実際に死んだのは2012年の五月だった。80歳というとそれなりに生きたとなる。平均寿命は生きた。でも何か農家で跡継ぎがいないということなどで息子に頼んでいた。でも原発事故で大原は放射線量が高く避難した人が結構いるし今でも若い人たちは住んでいない、道であった老人はここに棲むほかない、相馬市の仮設に入った人もいるがもどってきた。区長がだめだとか盛んに言っていた。

大原でも南側よりの斉藤さんの家がある所は放射線量が高い、一地域でも違っていて補償金も違うとめんどうになる。一地区でも分断されてしまうからだ。

墓かあった所はす杉木立に隠れて隠されるようにあり墓所としてはいい場所だと思った。そこは江戸時代からしった墓所だった。たいがい村の墓所は江戸時代からある古いのか多いのだ。斉藤家は古い家だという、でも斉藤家の墓は三つあり一番上の斎藤家かさらに古くそこから分家したのかもしれない、こういう村で姓が同じだと親戚であり分家したのが多いのである。五輪塔も小さいけどかなり古いと思われるものがあった。これはいつの時代になるのか?何かわからない、名前すらないからわからない。大原という地域もまた古いのである。

そこから深野に出た。深野はフコウノの呼んでいた。そこはまだ大原だと思っていた。
大原は一三〇軒あると聞いたから大原のつづきだと思っていたが深野になっていた。
深野のおばしちゃんが福寿草で自分の母親と一時同室だった。それから長野に出ると
「豪倉」というバス停があった。あそこをバスが止まるのか通っているのかと思う。
ただその名前から江戸時代のものであり豪蔵は飢饉のために米や食料を備蓄していた蔵だったのである。今は名前だけが残っているのだ。


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