平泉の金色堂と京都の金閣の相違
(金色堂は意外とつまらないと感じるのか)
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金閣の朝日に映えてまばゆしや
常磐木の松の緑の添えにつつ
水面に写るその影の夢ならじかな
朝の冷えしも千年の都に
塵はらいその姿永遠に保たむ
三代の栄耀(えいよう)一睡のうちにして、大門の跡は一里こなたにあり。秀衡が跡は田野になりて、金鶏山(きんけいざん)のみ形を残す。まづ高館(たかだち)に登れば、北上川南部より流るる大河なり。衣川は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落ち入る。泰衡らが旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め、夷(えぞ)を防ぐと見えたり。さても義臣をすぐつてこの城にこもり、巧名一時の草むらとなる。「国破れて山河あり、城(じやう)春にして草青みたり」と、笠うち敷きて、時の移るまで涙を落とし侍(はべ)りぬ。
夏草やつはものどもが 夢の跡 卯の花に 兼房見ゆる 白毛(しらげ)かな 曾良
かねて耳驚かしたる二堂開帳す。経堂は三将の像を残し、光堂は三代の棺(ひつぎ)を納め、三尊の仏を安置す。七宝散りうせて、珠(たま)のとびら風に破れ、金(こがね)の柱霜雪(そうせつ)に朽ちて、すでに頽廃空虚の草むらとなるべきを、四面新たに囲みて、甍(いらか)を覆うて風雨をしのぐ。しばらく千歳(せんざい)の記念(かたみ)とはなれり。
五月雨の 降りのこしてや 光堂
光堂を奥州の雨露から守るためには、膨大な財政的負担がいる。ほぼ10年か20年に一度は、金箔の張り替えを繰り返さなければいけない。結局、政子死後、50年ほど過ぎてから、光堂を守るためには、これをすっぽりと覆うことが一番経済的という判断が下された。そして正応元年(1288)、現在の鞘堂が建立されたのである。本来であれば、金色堂は、金箔を張り替えながら、金色に輝く姿で、関山の中央に黄金の蓮のごとく、光り輝いているべきものかもしれない。
http://www.st.rim.or.jp/~success/sayadou02_ye.html
金閣と平泉の金色堂は同じ金色でも相当に違っている。平泉の金色堂は鞘堂が残っているが覆堂というものに隠されていたのである。雨風にさらされていたら金色には保てない、いちいち金箔も張り替えるものもいなくなっていた。千年の都今日とではそういうことができた。金色堂が残ったのは覆堂や鞘堂があったからである。隠されて残っていたというのに魅力が生れた。だから芭蕉も良くのこっていたなとふりのこしてやの句ができた。
でも芭蕉が見たのも鞘堂に入っていたものだったのである。
だから平泉の金色堂は荘厳な内陣の装飾に魅力を感じるという人もいることはわかる。
そこにアフリカの象の牙まで使い贅をこらして作りあげた最高の工芸品だったということである。平泉の金色堂はやはり奥の細道のみちのくのわび、さびの風情なのである。
それは何か孤立しているそこだけが華麗な美を極めて残ったという感じがする。
一方京都の金閣は趣を異にしているのはそれがいつもあからさまに何も覆われず金色が映えていることにあった。だから日の光に映えるし前の池にも写っているし雪の金閣もすばらいし美を現している。四季の移りで金閣が美を極めて映えているのだ。
だからこの美に魅せられる人がいても当然である。
京都には金閣があれば銀閣があり秀吉の黄金の茶室があれば利休のわびさびの茶室がある。秀吉の黄金の茶室をいちがいに否定はできない、それもまた美でありそれと対象的に金閣の美がある。そこに千年の都の豊かさがある。平泉の金色堂にはそういうものがない、単体であり孤立している、金色でもそれが京都の金閣とは全く違ったものなのである。
やはり美というのは自然が根本的に作るのであり自然の背景がないと本当の美は生れない、金閣は自然に映えるということで魅了されているのだ。朝日にまばゆく輝く金色は鞘堂に覆われた中で輝く黄金の輝きとは違っている。
金の魅力はやはり色あせないものをもっている。ヨーロッパなどでは黄金は富の象徴であり美の象徴というものでもない、日本は黄金を美の象徴としたともいえる。
平泉が意外とつまらない、見るべきものがないという時、金色堂にしても単体であり七堂伽藍も消失したしただ柱の礎石のみか残っていた以前として廃墟の跡なのである。廃墟の魅力が平泉なのである。だから金色堂の輝きは確かに華やかさがあっても金閣とは違っている。確かに金閣のように自然の中に映えるようにしてあればまた違っていた。
朝日に輝く金色の色が見えることになるからだ。その相違は大きいということである。
だから金閣にしても自分でも訪ねたとしても一回くらいであり一日の時間の変化で季節の変化で見ていない、他の人たちも地元でない限り関西近辺でないとそんなに見れない、だから本当の美がわからない、自分はただ想像で今は詩を書いている。
また旅というのは旅する行程で違って見える。芭蕉は繁華な石巻を見て淋しい平泉に向かって行った。
十二日*、平和泉*と心ざし、あねはの松・緒だえの橋*など聞伝て、人跡稀に雉兎蒭蕘*の往かふ道そこともわかず、終に路ふみたがへて、石の巻といふ湊に出。「こがね花咲」*とよみて奉たる金花山*、海上に見わたし*、数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて、竈の煙立つヾけたり。思ひかけず斯る所にも来れる哉と、宿からんとすれど、更に宿かす人なし*。漸まどしき小家に一夜をあかして、明れば又しらぬ道まよひ行。袖のわたり・尾ぶちの牧・まのゝ萱はら*などよそめにみて、 遙なる堤を行。心細き長沼にそふて、戸伊摩*と云所に一宿して、平泉に到る。其間廿余里ほどゝおぼゆ。
不思議にこの行程は今でも一致している。石巻から石巻線は面白い、その駅の名前も・・・何かものさびている。
冬田の中の石巻線、短歌十首と詩
http://musubu2.sblo.jp/article/35518385.html
石巻線枯野のあわれ城あれや小牛田につきて平泉へゆく
湧谷には伊達藩の城があった。あの辺は何かもの淋し地帯である。
奈良時代に黄金がとれた地帯としても知られていた。
長沼というのは大きな沼だったのだろう、品井沼とか干拓した場所もある。・・もある。干拓される前だから日本では湿地帯が多く沼が多かったのである。海岸沿いでも沼とつく地名が多いのである。平泉までいたるにはそこに大きな野が原が田んぼが広がっていたのである。ただまだ田んぼではなく沼や野や原が多かったのだ。
そういう荒寥とした風景の中を平泉の金色堂にいたりその輝きを見たのである。
それはこのみちのくにこれほどの輝きを見た驚きがあった。
芭蕉が見たみちのくは荒野の風景だったからである。だから旅は新幹線で東京から二時間ちょっとだと来ても旅にはならないし金色堂の感動もないのである。
− 中尊寺の金色堂と鞘(さや)堂 −
http://www.el-saito.co.jp/cafe/cafe.cgi?mode=res&one=1&no=2972
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