2014年01月19日

南相馬市の鹿島区の横峰溜池ー西高松ー深野(豪倉)ー長野ーイオンー駅前シャーター通りー六号線の新しいレストラン (この道筋で南相馬市を考える)


南相馬市の鹿島区の横峰溜池ー西高松ー深野(豪倉)ー長野ーイオンー駅前シャーター通りー六号線の新しいレストラン


(この道筋で南相馬市を考える)


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ここにも新しい家が建った
鹿島区では新築ラッシュである。

二本の樹は津波の跡にも残っているけど人間化した樹なのである。
だから人間を見ているのである。

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ここの牧場も広いから跡地をどうするのか


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深野のバス停

ひびきあふ二本の樹や冬の朝
朝飛翔梢の高きに冬の鳥
豪倉やここにまた来て冬の暮

新年や山鳩五六羽なごむかな

数十羽凍れる堤に鴨群れて山に日さしぬ冬の朝かな

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鹿島区の寺内から横峰堤を回り西高松から深野にでて長野を通りイオンにより駅前通りを来て六号線の新しいレストランによった。そこで見えてきたものは何か?

西高松には廃棄された牧場があった。牧場は広いからその空き地利用に困る。もう牛を飼うということはないのだろう。するとその跡を何に利用するのか?
ただ荒地と放置していてまた元の森にかえるのだろうか?

西高松から今度は深野(ふこうの)に出るとそこにいつものように「豪倉」というバス停がある。その地名は郷倉のことである。飢饉の時のために米など食料を貯えておく倉があった所なのだ。今はただ地名だけになっている。でも地名は明らかに歴史の遺産なのである。あそこで意識されるのはこの豪倉なのである。他にはなにもないからだ。
今回の津浪原発事故では二週間は米とノリくらいで過ごした。そして米もなくなったとき、鹿島区では古米が配給されたのである。それで助かった経験をもっている。
まさに郷倉の役目を果たしたことがあって見直したのである。
災害であれ飢饉であれ貯えておく必要があったのである。
相馬藩では飢饉の経験からそうした対策がとられるようになった。
でもあそこの地名を注目している人はまれだろう。
ただ地名の寿命は長いのである。建物がなくなっても地名は残っているのだ。
もし地名も消えれば過去の歴史も消失するのである。


長野からイオンに回って駅前通りを行ったら何か原町の通りは本当に震災前より格段にさびれ方が激しい、本当にシャーター通りになり何か異様なものさえ感じてしまう。
そもそも震災前からも駅前通りはさびれていた。とにかく時代にあわなくなったのだ。
結局町の興亡はどこにでもありどこにでも古町がある。
それだけ町は変わりやすいのである。ただこれだけ大きな街がシャーター通りになるのは街のイメージとしては影響が大きいから原町は深刻である。
もう根本的に大改造しなけれはばならないがそれがむずかしい。
それだけの財源もないし街が大きすぎることも問題である。
そして人間はどうしても明るい所にひかれる。
何か駅前通りはさらに暗くなっている。
喫茶店でもレストランがあっても何か暗いなのである。
レストランンでも見晴らしのいいところはそれだけで価値がある。
食事もそれだけでうまくもなる。
それが駅前通りにはないのである。明るさが欠けている。

相馬市も暗い感じになるのだけど城下町の風情がまだ残っているから違っている。
原町のシャーターと通りは深刻である。改善が容易ではないからだ。
図書館だけがモダンな明るさをもっているだけになっているのも淋しいのである。
図書館はもともと閑静な所にあるもので駅前にふさわしいかどうかはわからない。
むしろイオンのようなものがかえって駅前にあった方が人は集まる。
そうした街作りをした所もあった。


六号線の方はそうした暗さを感じない、レストラン街であり前と同じようににぎわっている。新しいバイキング風のレストランも開店したのでよった。
一〇〇〇円は高いかもしれないが喫茶店としても機能しているので自分には良かった。
原町には六号線沿いに喫茶店がないのが困っていたのである。
でもあそこは喫茶店の代わりにはならない、なぜならランチだけであり三時間くらいで終わるからである。だから今までも開店していたのは知っていたが時間の関係で入れなかったのである。
ともかく駅前通りにはほとんど行かない、何かやはり暗いというのが影響している。
全体の雰囲気が影響している。何か本当にゴーストタウンのようになっている。


山鳩が五六羽集まっていた。そこになごみを感じた。今年は山鳩のようなものが集まりなごみ平和でありたいというのが自分の願いである。
これまでも書いてきたが自分が困ったとききた人たちは獣だった。
自分を苦しめるために来た人たちだったのである。
まあ、まだ新年なのだろう。


今日は市長選挙だけど誰に入れていいかわからない。
結局老人は老人にやさしい人を求めるのもどうしようもない。
自分の利益が大事になるのも選挙である。
なぜならまず一人暮らしの老人のことなど政治で考える人がいないだろう。
どれだけ自分はそのために苦しい目にあったか?
今でもあっている。
そういうことを考えるだけで実行しなくてもそういう人がいいとなる。
そうなると誰に入れるかわかってしまうが人間は利己的なものなのである。
自分の利益しか考えない、だから利権政治になるである。
誰を選んでいいかわからないからそうなってしまう。






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