2014年01月22日

枯野(人間的な二両の電車)


枯野(人間的な二両の電車)


冬の山暮れるや二両の電車行く

円墳のいくつか冬日さしてあり
灯のともる二両の電車枯野行く
野良猫の今日も来たりぬ冬の暮
松一本この道行きて冬深む


枯野を夕べ灯がともり二両の電車が行く、何か不思議なのはその灯が家の灯のようにも見える。極めて人間的なのである。あの電車でもこの辺でも8両だったからこんなふうに人間的に感じたことがない、つまり何でも小型化すると人間的になる。人間味を帯びてくる不思議がある。巨大化すると非人間的になる。それは建物でも高層ビルとか巨大な建物は非人間化する。東京は巨大すぎてもう人間的なものを感じない,人間的なものは排除されてしまう。巨大な機械が毎日動いているように思う。

それは電車でもそうでありすべてがそうである。人間は機械の歯車になる。
それは巨大な会社とか工場でもそうである。何でも人間は巨大化すると非人間化するのである。店屋でも巨大スーパーになると人間よりただ物があるという感じになる。


小さい店だと何か人間が主人になっていて売るものはその人間に従属する感じになる。
売るものは貧弱でもそうなっている。すでに巨大スーパーでは人間主人でなくて物が主人なのである。社会全体でもそうなっている。膨大な物があふれてその物の中に人間は埋もれ消えている。物は豊かになっても人間は矮小化されたのが現代である。
人間は膨大な物に商品にふりまわされている。


なんか変なのだけど仮設の食堂でも女主人が一人暇そうにタバコを吸って客を待っている。その姿が人間的に見えたのである。忙しかったらそうした感覚がでてこないのである。昔の小店には何かそういうのんびりしたものがあったように思える。
今はチェーン店が多いから何かそうした地元の小さな店は廃れた。


現代のめまぐるしい社会はあらゆるところで人間的なものが喪失してしまったのである。もちろん原発など部外者は全く知り得ないかかわれない代物だった。
事故後にはじめて東電の社員が直接来てかかわるようになったのである。
それまでは特別の人しか東電の社員とはかかわっていない、だからそこに人間的つながりなどなかった。だからいち早く東電社員は事故の時、地元の人なとかまわず逃げたのである。もし何か地元の人と密接な関係ができていたらそうはならなかったろう。
でも原発とかは部外者がかかわりにくいものだったのである。


今はどこでもここに人間がいるなとか感じない、機械なのかロボットなのか物が優先されて人間は主役ではないのである。物が少なく人力の時代は不便でも人間が主役になっていたろう。道でも人間が主役ではない、車だから人間が歩み道とはまるで違っている。
車しか見えないし車では誰が行き来しているかわからないのだ。


今日たまたまボランティアの青年と六号線そいの牧場であって馬をみて話をした。
その馬は競争馬でいい馬だと話した。そんなことができるのはその青年が小高かの方から歩いてきたからである。歩いていると自ずと話すことが多くなる。
自転車でも話しかけられたりするし話したくなるのである。
車の人は話しようもないし人がいるのかさえわからない、ただ車という機械が突っ走るだけなのである。現代社会は常にそうした相手が人間なのかそれとも機械なのか物なのかわからなくなっている。
ただ何でも小型化すると人間的になるのである。二両の電車は何か鉄道模型のうよにも見えるのだ。鉄道には思い入れがあるから特別関心があるからそう見るのである。

これからの時代は高齢化と老人社会になるとかえってこうした昔の小さな店のような感覚のものが好まれるようになるかもしれない、
人間的なものをかえって求める時代になる。それは小型化したものなのである。
グローバル化などあまりにも世界が大型化してしまった反動として小型化する世界が求められるようになる。
巨大なものは必ず非人間的なになる。アメリカでも中国でも巨大すきるからその権力も巨大化して非人間的なものを必然的に作りだしてしまうのである。

結局機械でも小型化すると人間的になる。二両の電車は極めて人間的だから自然にも風景にもとけこむのである。
考えてみれば採算がとさないとするとぜいたくだともなる。でも電車がない世界は淋しものとなる。
鉄道か好きだからどうしてもそう思うのである。


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