2014年01月24日

像ではなく言葉で考えていてはまともな文書(詩)が書けない (万葉集の時代は自然と一体化していた言葉-「心に青雲」の解読)


像ではなく言葉で考えていてはまともな文書(詩)が書けない

(万葉集の時代は自然と一体化していた言葉-「心に青雲」の解読)

像ではなく、言葉で考えるのはダメである。言葉(文字)で考えて、それを言語として表出しているとまともな文章は書けないということだ。
http://kokoroniseiun.seesaa.net/


中華人民共和国と呼称するあの国は、「人民」と「共和」は日本語である。
 「人民」は、明治期にpeople の訳語として使用されるようになったが、古くは8世紀ごろに日本で使われていたとされる。

「共和」は周の時代(紀元前1046〜256)の暴政を敷いた脂、(れいおう)の故事からくる。

 脂、は財産を独占して周囲に分け与えることをせず、大乱が起きた。王が王宮を逃げ出したため、やむなく2人の臣が政を預かって国を立て直した。そのときの元号が「共和」だったので、それにちなんでrepublicの訳語として引っ張って来たのだ

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万葉集は全部もともとは大和言葉である。その大和言葉を漢字にあてて残した。その時日本には文字がなかったのである。でも言葉はあったのである。原始的な民族でも言葉のないものはない、人間である限り言葉はある。話し言葉が書く言葉の前にあった。
だから日本人の源流を探る時大和言葉のもっている意味を探ることがわかりやすいとなり本居宣長が大和言葉と唐言葉を分けたのである。
その時日本人は相当に混乱した。それは実際は今でもその混乱をひきづっている。
漢字のもっている意味をなかなか理解しにくいし中国で発明されたものでも日本人の使っている漢字の意味は全然違ったものとなっているのだ。ただ「心の青雲」のプログの作者が述べているように「人民」「共和」がすでに奈良時代辺りから使われているとするとそんなに古いものかと思った。
「人民」「共和」は普通は明治以後に生れた造語された言葉だと思うのが普通だからである。そもそも人民という感覚は江戸時代にはないはずである。ただ民(たみ)という日本語はあったのである。


やまがたに 蒔ける青菜も 吉備人と 共にし摘めば 楽しくもあるか 仁徳天皇


高き屋にのぼりて見れば煙けぶり立つ民のかまどはにぎはひにけり(新古707)


西暦五世紀初め頃の大王。応神天皇の子とありあの仁徳天皇のあの巨大な前方後円墳の主なのかと驚く。この時すでに吉備がでてくるのだから吉備も古いのである。
仁徳天皇の古墳の大きさは近くに行ってみてもわからない、空から見ないとわからないのだ。前方後円墳という形もわからない、特に回りに人家が密集しているからあそこにあれだけの大きな古墳があることが当時の様子がわからなくなくしている。
みちのくの正式な歴史は奈良時代からすると近畿はそれよりさらに古いからその古さから歴史を実感できないから東北では日本の歴史を実感できないということがある。
東北は常に辺境にあったからである。

こういう歌はそもそも中国にはありえないだろう。中国は民とは目をつぶすという象形文字の意味だという、民は見えないようにて奴隷のように従わせるという意味だろう。

これは日本でも見ざる聞かざる言わざるということが人民に強いられていた江戸時代にはそういうことがあったから中国だけではないともいえる。ただすでに「人民」「共和」という観念が生れていたのか?
それは日本という国がそもそもそうした「人民」とか「共和」という観念を持ち得たからなのか?そんな古い時代からそういう観念を持ち得たのか、ただこの言葉は日本人が新たに作り出した漢字だとすると日本の社会にその言葉を受け入れる素地があったともなる。中国ではそういう素地は全くないからだ。つまり天皇とは中国の帝王とは違うものだった。でも仁徳天皇の古墳を見ればどれだけ巨大な権力の持ち主かと思うのが普通である。

古墳というのが何になのか?権力の象徴なのかというとこれまたわからないのである。
東北などでは南相馬市の原町区の桜井古墳も大きいが誰のものかなど全くわからないのである。

ともかく言葉は「像ではなく、言葉で考えるのはダメである。」というときこれは本当である。そのことで前にもいろいろ書いてきた。石と岩の詩を自分が書いた時、それは故郷にある具体的な現実に存在する石と岩なのである。その石と岩にも個性があり名前をつけたのである。the stone the rock なのである。

万葉集時代の感覚はみな具体的な回りの自然を基にして言葉でも歌でも作られている。
だからある言葉は密接に回りにある具体的な自然のものと結びついていたのである。
恋愛の歌でも現代のとは違っている。像としての自然感覚が具体的な像として体に身についていたのである。


奥山の岩本菅を根深めて結びしこころ忘れかねつも 笠女郎


まず現代ではこんな感覚になる恋愛歌などありえないのだ。だから当時の女性もまた現代の女性とは感覚的に違っていた。自然の原始性が身についていたとなる。
自分は石とか岩をテーマにしているからこの歌の意味が良くわかるし詩にもしてきた。
現実に奥山の岩を写真にして紹介してきたように田舎ではそういう場所がどこでもまだあるのだ。


万葉人は自然⇒人事社会であり現代人は人事、社会⇒自然を歌う傾向がある。自然の具体的な像をもっていないのである。また東京のような所に住んでいればもちえようがないのである。そもそも自然から離れて芸術はありえないのだ。だから現代芸術でも思想でも歪んだものとなる。宗教でもカルトになるのは自然から離れた都会で生れたものだからである。そこには自然から岩とか山とかから発想される自然が欠けているのだ。
科学時代になったときますます自然から離れたものとなり自然を心としない自然から遊離したものとなっていった。
ものとは心でもあるからものと心は遊離したものではなく一体のものだった。ものとは自然のことでもあった。神道とは明治以降の祭り上げられた天皇とは違った自然と一体化する日本人の心にあった。

いづれにしろ東京のような大都会ではそもそもが像として結び得る自然がない、だから言葉が言葉にならない、言葉はただ商業のために工業のように数字のようになっているのである。だからロゴスも破壊され無秩序になりカオスになっている。毎日高層ビルを見上げていれば高層ビルが実際の具体的なものでありその他にはないのである。
富士山にしても浮世絵では確かに見えていた。でも高層ビルの都会になるともう何かぽつんとしか見えない、江戸でも富士山はだから日常的に像として結びついていた。
今は高層ビルがとおっていて見えないのである。

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