海老村は慶長三陸津波の一二年後にかなりの人が住んでいた
(海老村の歴史は古く先に人は海岸沿いに住んだ)
福島県南相馬市鹿島区北海老字藤金沢110
あそこの喫茶店はどうみても屋形村である。海老村とは思えなかった。
そこで前に書いた海老村の発展経路が間違っていたことに気づいた。
なぜなら南屋形村が岩松氏の阿弥陀寺があり鎌倉時代にさかのぼり一番鹿島区では古い。
その南屋形村から海の方に向かって北海老村と南海老村となったと解説した。
しかし北となると方向が違っていた。
南屋形から見て北の方向にはない、北屋形村が八沢浦の方にある。
それは明らかに南屋形から見て北の方向になる。
ただ北海老村が明暦からの記録がある
南海老村は寛永からの記録がある
慶長元年 1596
1611年12月2日(慶長16年10月28日)、慶長三陸地震津波で相馬藩で700人溺死
元和元年 1615
正保元年 1644
慶安元年 1648
承応元年 1652
明暦元年 1655 検地開始
万治元年 1658
寛文元年 1661
延宝元年 1673
天和元年 1681
貞享元年 1684
元禄元年
南海老村の方が北海老村より記録的には古い、南海老村は新しいものかと思った。
すると南海老が北海老村より古いとなる。
そうなると海側に進出してそれから山側の北海老に住居を広げたのかとなる
山側は津波の後にかなり新しい家が建っているからそれなりの土地があった
そこは津波の来ない高台にあった
では南海老が北海老より古いとするとこれも解せないのである
ただ地形を見ると南海老であれ山側はかなり急な山の斜面になっているから
人は住みにくい、屋形の北海老はまだ住むのにはいい
それでも南海老から北海老村に別れて発展したというのも解せない
北屋形村から北海老村に山側から発展するのはわかる
でも実際は南海老に人家が寛永時代から集中したのである
人口が集中したから下海老村と上海老村は南海老村から分かれたのである。
北海老村ではない南海老村に集中した。
そこは海に面して今回の津波で壊滅した地域だった。
そして最大の謎は慶長三陸津波の後の寛永元年に鹿島町誌に記録がでている。
慶長三陸津波から一二年しか過ぎていないのにそこに人が多く住み始めて
田まで作られていた。
何らか慶長津波では今回のようにそこはどうなってしまったのか
その時はまだ人がすんでおらず津波で人が死んだりしなかったのか?
津波で死んだとしてそこに一二年後に住み始めたのだろうか?
現代の感覚では住めないというのが普通である
もちろんそこが津波の被害にあったかどうかは皆目不明である。
ただ慶長三陸津波は今回と同じくらいの津波だとすると何らか被害があった
その時どれくらい南海老村に人が住んでいたのかわからない
ただ南海老村が屋形より古い記録があり人が古くから住み始めた。
それはもともとあそこは海側は湊ととなっていて塩などをとっていた。
魚もとっていた。明治時代には帆掛け舟もみかけたと聞く
すると海の幸を求めて早くからそこに人が集まったのか?
でも慶長津波から一二年後にそんなところに人が集中するだろうか?
今回のように北海老村の山側に住居を写して北海老村ができたのか?
何かここにも慶長津波の謎を解く鍵がある
慶長津波は烏崎にもかなりの被害を与えた
ただそこがどういう状態だったのか
人が住んでいたのかどうか
ただ記録的には岩松氏が上陸した地点であり
すでに人が住んでいた。
だから慶長津波の被害があった
つまり一見浜側は新しく住み始めた人たちだったとしているがそうでもないのかもしれない、
田んぼがなくても米がとれなくても魚介類をとっていれば縄文人のように一応飢えずに暮らせるということもある
だから海側でも早い時期に人が住み始めたということがある
慶長津波をもし南海老村で経験した人がいてその一二年後に住みはじめることがあるのか?
その頃は津波に対する考え方も違っている。
三陸ではあれだけの被害があってもやはり海側に何度も住んでいる
それはそこが魚介類がとれて便利だからである
だからここでもそういうことがあったのだろうか?
つまり生活の糧を得ることが先決であり
津波の被害より当時はその方が大事でありまた住み始めたとも考えられる
今の時代との考え方は違っているからである
ただ今回の津波を経験した人は怖くて絶対に住めない
だからその当時だって津波を経験したら住めないと想像する
それでも背に腹は代えられないと住んだのだろうか?
追記
北海老村に古墳群があったから北海老が南海老村よりは古い地になる。
南海老村にはないし貝塚も鹿島区では発見されていない
するとなぜ南海老村が鹿島町誌では寛永からの記録があるのか
それは魚介類をとるためとも思えない
田があったとするとあそこは津波の後も田として開拓した
慶長津波の後に相馬藩の侍が伊達藩の津波の被害のあった地点に開拓のために移住した。
津波の後でも開拓していたのが当時の状況である
すると海老村もそれとにた状況があったのか?
慶長津波から一二年後でも開拓する場所を求めて田を作った
そこは無所有の土地でありそこで早くから開拓に入った
他の土地は岩松氏などの所領であり開拓に入りにくかったのか?
伊達藩でもそこに開拓する人手が必要になり敵方の相馬藩の侍でも受け入れた
いづれにしろこの謎もまた深い
でも一つの発見でありまた研究すれば津波のことがわかる可能性はある
ただその資料は少ないしその謎の解明は容易ではない
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