南海老村は漁村ではなく干拓された田の地域だった
(津波の被害にあっても田んぼを作らねば生きていけなかった)
南海老村の領域には広い田んぼがあった-クリック拡大
そもそもどういうふうにして海老村でも烏崎村でもできたのか?
磯部村でもそうである。
そこは海岸線に密集して家が人が集まってできた村である
だから何か漁業と関係してできたように見る
でも最初は漁業はそれほど盛んではなかった
鹿島区でも小高区でも縄文時代の前期は海側に集落がなかったのだろう
後期になり海側に進出して集落を形成した
だから縄文時代も海の幸の恵みは受けていた
だから鹿島区の桜田山の下に縄文時代の遺跡があり
そこにはいろいろな魚が食べた跡や鹿を食べていたことがわかっている
つまり魚も食べたし鹿も食べた
「狩浜」なとの地名は鹿などを狩りしていたから海側でもついた名だろう
鹿島区では桜田山の下辺りが海からかなり引いた所だから縄文時代は
住むには適地だったのかもしれない
山側の北海老村に古墳があるというとき今の南海老村はその後に住む人が集まった
ではなぜ南海老村がすでに人が住んでいて
慶長三陸津波の12年くらい後にまた住みはじめたのか?
それは日本の土地が山が多く平地は湿地帯が多く米作りする土地がなかった
葦原瑞穂の国というときそうだった
平地があっても湿地帯が多くまた山が多いから米作りする土地が確保しにくかった
中世でもまず鹿島区では江垂の中館とか屋形でも山側に敵から守るための
館(たて)を作った、館とつく地名は中世の城であった
それは多々敵から守るというだけではない、
平地が湿地帯であり住みずらいということがあった
湿地帯には害虫も多いし蛇や蟹や害になるものも多い
それで蛇田とか蟹田とかの地名はそういう所に田を作ったからである
また沼田という地名が非常に多いのもそのためである。
今回の津波では本当にあちらこちら沼が生れて湿地帯化したのである
まず縄文時代のような狩猟と漁労とかの生活では人口は増やせない
一定の人口しか保てないだろう。
弥生時代になり稲作がはしまり飛躍的に人口がふえる
それだけの人口を養えるのが稲作だったのである。
だから北海老村に大きな藤金沢の溜池がある。
それは拡張されて大きくされた
その功績があった人の名も伝えられている
その水は南海老の田んぼに流れていたのである。
南海老村は御刀神社の辺まで広がっていた
つまり南海老村は田んぼの領域が広い
漁村とは違っていて田んぼが干拓されてできて南海老村ができた
だから結局なぜ津波の後に12年くらい後に干拓して住みはじめたのか?
普通ならもうそんな津波の被害のあるところには人は住まない
ところが当時の事情は平地がない、米作りには平地が土地が必要だった
山側では稲作する土地が得られないである
すると現代のように津波の被害のあんたところはこりごりだと街に移り
そこで会社にでも入って新しく生活をやり直そうとかにはならない
そういうことは簡単にできない
生きる糧はその土地にしかないのである
するとどうしても津波の被害にあってもそこで米作りする他ないとなる
それが津波の後の12年後くらいでも住んだ理由なのだろう
それは伊達藩でも同じであった
米はすでに江戸に船で運び商品として売っていたから津波の後でも
米作りをやめるわけにいかなかった
結局日本は土地がない、山国であり土地が極めて制約される
平坦な土地も湿地帯であり条件が悪いからそこで苦闘した
田下駄とか下駄は湿地帯で米を作るためのものだった
下駄の起源がそこにあったことでもわかる
湿地帯との苦闘の歴史が下駄を生み出したのである
磯部村でも南海老村でも烏崎村でも海岸線に家が密集して人口が集中したのは
漁業のために見えるが違っていた
その後背地は広い田んぼであり稲作をしていた
大内村で海老村と同じ地形があった
山側に先に館が作られ海側へはあとに人が住んだ
それが津波で明確にわかった。
海側に住んだ人は津波の被害にあい山側に住んだ人は無事だったからである
その後に南海老村が上海老村とか下海老村とか人口も増えたのは
それは海と関係した仕事が増えたためである
何らか塩を作る技術とか舟を作る技術とかがもたらされ
海の幸を得ることができて南海老村は人口が増えた
ともかく慶長三陸津波では相馬藩で700人溺死している
その数は当時からすれば相当な数であり被害である
そのことはすでに海岸側に人が相当数住んでいたからそうなった
縄文時代あたりだったらそんな被害はない
もともとそこには住んでいなかっただろうからである
結局自然の制約を越えて無理に田んぼでも干拓して造らねば人口はふやせない
稲作文明も人工的文明でありそれは自然に逆らうものがあった
それは文明というものはみんなそうである
ただ稲作は第二の自然であり松原もそう見ていた
ただ原発でもそれは文明の成せる業でありそれが自然の報復を受けた
津波もまた自然に逆らって海側を干拓して田んぼを作り集落を作った
そのことが津波の被害を大きくしたのである
でも稲作文明を維持するためには土地が必要であり
そこにまた住まざるを得ない宿命になっていたのである
だから原発がやめられないというとき文明をやめることになるからできない
原発と心中するほかないと言った時、稲作文明にも言えたのである
日本にはふえる人口を養う土地がない
これが満州まで土地を求めて戦争までになった
日本の悲劇がここから生れていたというのも日本の歴史だったのである
不思議に今もその問題は継続している。
津波や原発事故で全壊した家が南相馬市で4600軒もあった
そして住宅地にする区画が900も必要だという
そんな土地がどこにあるのだろうかとなる
でも実際は広大な田んぼはまだこの辺にはある
そこに建てたらいいじゃないかとなる
でもそこは農地であり簡単に宅地にはできない
その発想は以前として土地が大事であり農本主義的発想である
農か基という発想である
それは自分も田舎は農本主義であるべきだと思う
でも津波や原発事故でそうもいかなくなっている
つまり復興住宅の用地がそれだけ必要なのである
そうなると田んぼでもつぶしてそこに建てる他ないということにもなる
それては農業は破壊されてしまうとなるのもわかる
そのことは津波の被害があった慶長三陸津波の時と同じなのである
いづれにしろ津波原発でこの辺で課せられたものはあまりにも大きすぎたのである
だからどうしたらいいのだろうとなるときただ困惑するだけだと今でもなっている
「もう農業なんかみんなやめたかったのだからこの際やめる」
そんなふうになるのもわかる
では農業やめてこの辺は何を主要産業にするのだろう?
結局浪江町のように廃炉事業の基地の街にしようとなった
そんなものしか思いつかないのである。
後は核の廃棄処理場でありそんな市町村が何なのだろうとなる
殺伐とした風景となった原発事故の廃墟の街なのだろうかとなる
石炭全盛時代に栄えた街が衰退する、夕張などと同じになるのだろうか
津波から原発事故から三年過ぎてもその被害が大きすぎるから未来が見えないのである
それにしても自分はいつも海側の田んぼを見ていた
黄金色に実る稲穂の原をみて松原を見ていたのである
ただそこは右田の松原であり南海老村の領域が先立ったとは思わなかった
これも意外と地元のことですらなかなかわかっていない
農業はやはり実地に農業している人でないとわかりにくい
屋形の農家生まれの人の話を聞いて実感したのである
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