2014年04月10日

津波の後の三年後磯部台畑を春に訪ねるエッセイ


津波の後の三年後磯部台畑を春に訪ねるエッセイ

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台畑

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寄木神社

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その畑は隠されていた。家の前の一区画の小さな畑である。ここは小高い丘であり崖のようになっていてそこを上らないと見えない、たまたま残雪の蔵王が見えて桜の木があっておりしも咲いたのでその桜を視界に入れた写真をとろうとその崖を木の根につかまって上った。そこに思わず畑があった。そこには梅林があり梅がまたおりしも紛々と匂っていた。確かに家は下から見えたのだがここに畑のあることは梅が咲いていることは見えなかった。


ここに上ってみたらここは複雑な地形であり丘陵でありそこに家があり畑があった。地名は台畑だからあっていた。
そもそもこういう丘に住むということは不便だと思う。上ったり下りたりするのも不便である。ここに人はいつから住み始めたのだろうか。人と土地の関係で大事なのは一体いつからそこに人が住みはじめたかである。江戸時代から住みはじめたらそこは古い場所である。でもここは住みにくい場所である。だから意外と新しい場所なのかもしれない。

その小高い丘の上から下る畑の中に道があった。そこの畑には人がいた。こういうところに家があり人がいることか意外だった。その畑の下りる道に薪を積む家があった。薪の風呂に入っているのだろう。結構薪を積んだ家を街中でもみかける。薪の風呂はあったかさが違うという。だから薪の風呂は今は贅沢である。確かに家が見えても隠されるような場所にあった。なぜか地名に一畑とかある。それは一つの畑である。小さな畑かもしれない。
一反田という地名もありこれも人が住み着いて名付けられた地名である。
日本では土地が狭く耕地が山が多く得難い、だから畑にするにしろ田にするにしろ平坦な地は少ない、だからこそ海側に平坦な地を求めて開墾して広い田を作ったのである。

そこが今回の津波で被害にあった。
狭い土地でも畑にするといろいろなものか収穫できることがわかった。小さな一つの畑でもそれなりに野菜がとれて収穫がある。だから自給自足するくらいのものはとれたといえる。だから小さな一つの畑でも田でも日本では貴重なものとなっていた。

この隠されたような場所の不思議はすぐ下まで津波が推しよせていた。磯部村は人家も多くそこは壊滅した。その人家が密集していたところは原始の状態では砂州のようになっていた所である。なぜそんなところに家が密集していたのか?
その後背地は広い干拓された田であり津波で一時広い湖のようになったことには驚いた。この小高い丘から高い丘の方の家は津波の被害をまねがれた。

磯部では500人が死んだとか被害が大きかった。だからこの小高い丘に住んでいた人は助かったのだからほっとしているだろう。

磯部村はもともと古磯部という地名があるようにそこも入江になっていてそっちに先に人が住んでいた。その入江は狭く干拓しやすかったのかもしれない、その低い場所に住んでいた家は流された。その家の数は少なかった。今回壊滅した磯部の海岸沿いは悲惨すぎた。今や何もない、そこは松川浦とつながっている。
そして寄木神社というのがありこれも津波からまねがれた神社である。石段も残っていてそれからまた上だからかなり余裕があった。この神社の謂われは何なのか?
石巻の方から移住してきたとか碑に記されてあった。姓は君島である。

磯部村は江戸時代からありここの津波をまねがれた隠された土地はむしろ新しく人が住んだ所かもしれない、不便なところだからあとから開墾して住み着いた。その丘の平坦な地に畑を作り家を作った。斜面も畑になっていた。

ここで感じたことは人間の住む場所は特に日本のような狭い土地の少ない場所ではこうした丘のような所でも人はすむ。むしろ壊滅した海岸沿いの村はもともと人が住むには不自然だったのである。こうした小高い丘にこそ人は先に住んだのである。
ただここが住んだのが江戸時代からであり古いのかはわからない。古い碑などがあれは目安となる。墓地もそうだが墓地はもっと高い場所にある。

しかしそれにしても今回の津波だけは恐ろしいことはなかった。津波の被害にあった人が家が上に吹き上げられたのをこの丘から見たという。その人も被害者だった。その光景を見たら信じられないもであり恐怖におののいたろう。
津波から三年目にしても磯部でも何ら変わっていない。荒寥とした風景があるのみである。ただ新しく道路が松川浦の方に向かってできたのは変わっていた。

磯部からも残雪の蔵王が大きく見えていた。前に家がなくなると視界が開け蔵王が見えやすくなったのだろうか、こんなに蔵王を見えたことはなかった。蔵王がかなり迫ってきて見えるのである。ここから蔵王までの距離は相当にある。それでも見えるのだからやはり蔵王はかなた標高が高いことがこれでもわかる。山は美しく見える場所がある。
富士山でもそうである。山は見る場所や視点によって見え方がみんな違っているのである。だから山を知るにはそうしたきれいに見える場所から見ることである。
山形県側から見ると蔵王は美しくに見えないのである。


こうして小高い丘の上にその隠された家があり一つの畑がありそこに紛々と梅がにおい桜が咲いてかなたに残雪の蔵王が見える風景は美しい。原初の状態にもどれば今田んぼになった所も一時海のようになったから入江の浦のかなたに残雪の蔵王が見えた。
この丘の方に新しく家を建てた人もいる。もう海岸沿いには家は建たないだろう。
一つの畑が丘の上に隠されるようにあり家もあり何かここに春の平和を感じた。

やはり寄木神社などはその土地の一つの拠り所であり最初に住んだ人が祭ったのだから
その土地の先祖を祭ったともなる。だから津波で壊滅した磯部の海岸沿いをその神社から見る時何か不思議である。

要するにその神社を要として村が開かれその子孫が代を重ねてすんだ。その碑にあった君島とかはその土地に最初に住み着いた人なのだろ。その神社はその土地の根っこのような存在だったのだろう。今、その神社に立ってみると全く津波の前とは違った感懐を抱くのである。これだけの人家が消えてしまうと磯部村そのものが成り立たなくなるだろう。
三分の二以上消失したら村が成り立たない、未だに磯部の人は仮設に住んでいる。
ここでも復興するとはどういうことなのだうと思う。ここには人が住まないとなると復興は別な土地ではじまるとなる。
ただ村の根っことしての神社は残っているという不思議があるのだ。


隠されて一畑に人梅匂ふ

posted by 天華 at 23:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係
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