2014年04月26日

慶長津浪で相馬藩政記に700溺死、伊達藩で5000人死亡 (この事実の重みを知っていたのか)


慶長津浪で相馬藩政記に700溺死、伊達藩で5000人死亡

(この事実の重みを知っていたのか)


慶長16年 1611年(11月13日)慶長三陸津波 相馬藩700人溺死、伊達藩5000人死亡とも

今回の津浪の被害で盛んになぜあんな危険な海岸に接して人が住んでいたのだろうと何度も言われる。
今になるとそれは当然である。
ただ浜通りなどではほんとんど津浪のことが語られないのだ。
確かに伝説のようなものが二三残っていた。
それについても知っている人は極まれだったろう。
でも相馬藩政記に700人溺死と記されていたことは今になると重大である。


相馬藩で700人、伊達藩で5000人死亡


この事実は今回の津浪と同規模だったのである。
この事実に一番驚愕しなけれはならなかったのは誰か?
それは今回津浪の被害にあった海岸に接して住んでいた人たちだった

津浪は毎日海を見ている人にとっては本当と一番怖いものである。

相馬藩でも宮城県でも海に面していても例えば自分の南相馬市でも
海岸に接している住んでいる人たちとそうでない人たちがいた。
海をじかに見て毎日暮らしている人たちとそうでない人たちがいた
今では松原などがあり海はさえぎられて見えない
海が見えないということは海を毎日意識することはない

ところが海に直接面して日々海を見て暮らしている人たちがいる。
この辺の浪は荒いからその浪の音を毎日聞いて寝る人たちもいた
その人たちにとって海は怖くないかと感じていた。

ただ自分もよく小学校前までゆくとそこからは人家が少なく
田んぼが海まで広がっているのでその小学校前まで浪にのまれる夢を見ていた。
今から思うとそれが津浪だったのである。
自分の住んでいる街は海からは相当離れていると思っていた。
だから海に対する意識は海に接して海を毎日見て生活している人たちと
海が近くても海が見えない浪の音も聞こえない
地域に住んでいる人たちの意識は相当に違っている。


相馬藩で700人、伊達藩で5000人死亡


慶長津浪でこれだけ死んだという事実を知っていれば恐怖感は違っていた。
それが毎日海を見て荒い浪の音を聞いて眠っている人たちが
この事実を知っている人はいたのか?
郷土史を研究している学者でも自分でも知らなかった。
この一行が注目されたのは今回の津浪か起きてからだったのである。


ただ時事問題の深層で相馬市の奥まで津浪が来ていてその砂が
ボーリンク調査で発見されたということを興味本位で自分も書いていた。
そんなところまで津浪が来ていたのということはあったが真剣に考えなかった。
それは貞観津浪の砂だったのであり400年前の慶長津浪ではなかった
もし400年前の砂だったら歴史的記載の事実と一致するから危機感をもったかもしれない。
貞観津浪のことは国史にも記されて京都の人たちにも知らされていた。
だからそのことは全国的に知られていたのである。
だから東電に警告したのは貞観津浪のことであった。
慶長津浪のことではないし相馬藩政記に700人溺死と記されたことを例にしていない


結局歴史の重大な事実でもそれが注目されていなかった
相馬藩政記にはことこまかに跡継ぎ問題や戦争のことは記されている。
でも700人溺死という事実は注目されなかったのである。
そのことに一番恐怖すべきは海岸に接して住んでいる人たちだった。
松川浦であれ海老村であれ烏崎村であれ萱浜であれ・・・
その海岸に接している人たちはその事実を知っていれば恐怖しただろう
それは宮城県地域ではさらにそうだった。


結局本当に当事者になるのは同じ地域でも地域によって違っている。
原発でも毎日原発の煙突を見て暮らしている人とそうでない人たちは危機感が自ずと違っていた。
南相馬市でも30キロ離れていたから自分では危機感をそれほどもたなかった。
となると危機感をもつべきだったのは津浪でも原発事故でもすぐ近くに住んでいた人たちとなる。
ただ飯館村などはそうした危機感とは遠い所にあった。
それは原発というものがどういうものかわからないことにあった。

津浪の後には被害者は海が怖くて近づけないとか津浪がトラウマになって
精神障害に陥っている人たちが紹介された。
それはこの辺でも3キロ離れたところで津浪の被害にあった人は海が怖くて近づけないという
何か幽霊でもさまよっているようで夜が怖いとか言う

実際に津浪の被害にあった人達とあわない人たちの差も同地域では大きい。

「八沢浦が元の美しい入江にもどった」ということを書いて被害者がここで泥に埋まった
子供の死体を発見されたのだと正気なのかとも批判された。
つまり同じ地域でも津浪の被害にあった人たちとあわない人たちは違っているのだ。

これは別に津浪でなくても日頃でもそうである。
人はいろんな困難に出会うし苦しみがある。
でも自分に関係がなければ無関心なのである。
あそこの家で何かあったのとかなるだけなのである。


だから今回も海老の浜が津浪の跡にタンポポが一面に咲いていて
明るさに満ちていたなどと俳句にした。
以前としてそんなことが言えるのかと被害者の立場にたてばそうなる。
ここで家族や家を失った人たちよすれば何が明るさに満ちているとなる
以前としてそこに長くいられなかったとかなる。
では自分もそういう気分になれというのだろうか
暗く沈んで悲しいふりでもしていろとなるのだろうか?
これもまた疑問なのである。
あえて喜ぶ必要がないけどやはりタンポポか一面に咲いていることは明るく感じたのである。
津浪の被害にあわない人たちは同じ地域でもそうなるからその差が大きいのである。


同じ地域に住んでいてももっと海側に住んでいた人たちは今になると
津浪のことを知って恐怖すべきだったとか言われる。
それは浜通りでも松川浦とか海老村とか烏崎村とかは海に接して家が密集していた。
だからその人たちと海から離れて住んでいた人たちの感覚は違っていたからである。
人間はやはり当事者意識が生まれるのは同じ地域でも違っていた。
犯罪でも近くで凶悪な犯罪が起きればテレビのニュースで遠い所で報道されるのとは
違った危機感をもつのと同じなのである。


歴史とはもともとは事実を基にしている。
その事実が忘れ去れる
何が事実かもわからなくなる
今になれば


相馬藩で700人、伊達藩で5000人死亡


この慶長津浪の事実がいかに重大なことか再び事実でもって証明されたのである。

posted by 老鶯 at 23:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係
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