人間は自ら痛みがないと無責任になる
(100円でも金を寄付することをしぶる、痛みがでてくるから)
津浪で家を流され家族まで失った人たちがこの辺でもかなりいる。
でも不思議なのはそうした同じ小さな町に住んでいても津浪の被害のない人は
その痛みを感じていないことなのだ
だから海老の浜で別荘があり他にも家があって流されたな・・・
あの別荘は一千万で売り出していたけどゼロになったなとか
そこで家族や家を失った人たちの痛みを感じないことなのだ
なぜなら津浪で何の被害もない人は感じないのである。
でももし人間は自分の金を百円でも千円でも盗まれたら頭に来る
それは金持ちだって同じなのである。
それは自分の金だからである。
ところが他人のものになると一千万で売り出された家も津浪で流されたな
もったいなかったなとかは言っても本人は全然痛みを感じないのである
だから被害にあった人からすればずいぶん非情だと思うだろう
現実に村自体消滅したような所でも同じ地域に住んでもそういう面がある
そうしたら他から来る人は興味本位で見に来る人はいくらでもいる
観光気分で来る人はいくらでもいる
それでも千円でも寄付しろとなるとそうはならない
なぜなら自分の出す金だから痛みをともなうからだ
すると千円でも寄付すれば痛みをともなうことになる
そしてその金がどういうふうに使われるか千円寄付した人でも考える
よそ事としてではなく自分の痛みがあるから真剣に考える
その寄付がどこかに寄付を集める人に勝手に使われるとかあると
千円でも寄付した人は怒ったりするのだ
それだけ寄付した人は当事者意識が生まれている。
ともかく何でも自分で金を出さない人は自分に痛みがともなわない
例えばある人は一千万盗まれたとか言っても何の痛みもない
それは他人の金で自分の金ではないからだ
でも盗まれた本人にすれば金持ちでも痛みがともなう
なぜ官僚が莫大な国の税金を無駄使いするかというと
国民の税金であり自分の金ではないからなのだ。
何兆円の金でもそれは自分の金ではない
もし自分の金から出していたら千円でもどう使われるか真剣になる
そういうふうに痛みをともなわない金は無駄に使われやすいのである
なぜ人は他人の苦しみに無関心なのか?
それは自分が何の痛みも感じないからなのだ。
人が殺されても痛みを感じない
でも自分がその被害者になったら死ぬまでも延々と恨みつづけるだろう
ついに復讐して殺すということもまでも毎日思いつめる
でも他人は痛みがないからそんなに恨んでも無駄だとか他人事として言うだけである。
だから同じ地域に住んでも家族が死んで家が流された人たちの痛みを共有していない
それは自ら何ら痛みを感じていないからである。
むしろ家と土地ある人はこの辺は値段が上がって良かったなとかなる
人間はつくづくそうして利己的なものなのである。
他人が一千万盗まれようが殺されてすら無関心なのである
盗まれる方が殺される方が悪いんだとかなり無責任でいられる。
それは自らが何ら痛みを感じないからである。
だから日常的に他人の苦しみには無関心なのである。
津波の被害者もあんな危険な所に住んでいたのがあまりにも無警戒だった
住んでいる人もにも責任があった
原発事故でも周辺地域は責任があり自業自得だとか言われるのである
具体的に金を払うということは金持ちでも痛みをともなっている
ただその金がどういうふうな金なのかでまた相当に違っている
百万円を建築現場で汗水流して危険を犯しても稼いだ金と
遺産のように何の苦労もしないで入って来る金は違っている
だから若い時苦労して土地と家を買った人は
その家に特別愛着があり離れたくないという
ところが遺産として家をゆずり受けた人にはそういう気持にならない
なにか家に住んでいても間借りしていたよう気分なのである。
その家を建てるために何か努力したわけでもなく
痛みが苦労がともなっていないからである。
でも結局、津浪の被害にしても家族や家を流された人たちが
その現場に立ってどういう思いになるのか?
それはその本人しかわからないのは被害のない人には痛みがないからなのだ
故郷を離れて避難した人たちでもあいつらは補償金でぜいたくしている
それらは国民の税金であり、多少でも自分でもその税金を出している
なんであんなに補償金がもらえるんだとかなる
反面避難した人たちもなぜこんな苦しみを受けねばならないのかということがある
その痛みもなかなか他者にはわかりにくいからである
つまり人間は他者に同情するとき、自らも痛みをともなわないとできない
それは一つの犠牲になる。
千円でも寄付すれば痛みがともない犠牲ともなる
つくづく他人の金だと無責任になる痛みをともなわないからそうなる
金は具体的に痛みをともなうものだからわかりやすいのである
どんな金持ちだって勝手に金を出さないのはそれなりに痛みをともなうからである
身銭を切るというのはそれだけ痛みをともなうのである。
それは貧乏人だったら百円の寄付でもすれば痛みがともなう
その差はあるにしても金持ちが全く痛みをともなわないかというとそうではない
その度合いは違っていても痛みがある
人間が他人の苦しみや不孝に無関心なのは痛みをともなわないからである。
少しでも自らが痛みを感じれば無関心ではなくなる
百円でも千円でも寄付すると痛みをともなうから違ってくる。
その時苦しんでいる人と不孝な人と共有するものがでてくる。
ただ口でかわいそうですねとか言ってもそこには痛みがともなわないからだめなのである
現実はその女性は口だけでは盛んに心配しているんだよとか言っているけど
全く愛情もなにもなかった
だから自分たちが借金で追い詰められるようになったとき
入院して苦しんでいる自分に借金を要求してきた。
一種の恐喝だったのである。
それには弱い立場にあったから逆らうこともできないから恐怖だったのである。
痛みをともなわない同情は同情にならない
でも千円だって人間は寄付したなくないのが普通である
自腹を切る、身銭を切ることがいかに少ないかでもわかる
他人の金なら税金なら湯水のように使うが自分の金だったらそんなことできないのだ
だからボランティアなんか無駄だというがそうでもない、
泥を運び津浪の被害の家で手伝ったことはそれなりに労働という痛みをともなっていたからだ。
だから人間は自ら痛みをともなわないと不孝な人たちとかかわれないだろう。
ただ歌を歌ったりしていたのでは痛みがともなわないから同情したとはならない
かわいそうですねとかは誰でも言うことができる、でも痛みをともなうことはできない
百円すら寄付することをしぶるのが人間なのである。
ただ何か痛みを犠牲をともなえば不孝な人たちと深くかかわってくる
それは大きな犠牲ではなくても百円の寄付でもそうだったのである。
百円すら一体どう使われるのだろうかと無責任にはならないのである。
一兆円とかでも自分の出した金でないとなんら関心がないのは自分の金ではないからなのだ。
この世のことを考えるときやはり金というのは具体的わかりやすいから例にされるのである
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