2014年05月12日

津浪で再現した真野の入江 (大内村は山側に住んでいた人たちは助かった)


津浪で再現した真野の入江

(大内村は山側に住んでいた人たちは助かった)

●津浪が明らかにした真野の入江

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真野の入江ーバノラマ写真

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中世において、川津は長田の名前で呼ばれていました。その長田に「長田市庭」と呼ばれる場所があったことを示す古文書があります。永仁七年(1299)二月十一日付の、長田余一昌重宛て大仏宣時・北条高時連署の関東下知状に「市庭村」という地名が、長田西郷に含まれています
http://blogs.yahoo.co.jp/zett_59_turtlehead/11208687.html


島大通りと、島大向かいの学園二丁目あたりは江戸時代以降の干拓地、すなわち中世は「海」とも呼ばれた広い沼沢だったので


「笠津灘」という小字があります。現在のみしまや楽山店が所在するところです。ここも津という名がついていることからして、河港が存在したことがわかります

八日市庭・三日市庭(下市庭)などの市庭(地名)と魚座・相物座・御器座などの商業座、さらに上座・中座・下座の座地名について
http://www2.ezbbs.net/cgi/bbs?id=mietyusei&dd=40&p=23


地名には何か共通性がある。市庭というとき全国的にある。市庭⇒市場になった。
でもそもそも市庭がいつ頃から生れた地名なのだろうとなる。
一般的には中世で継続して使われていた。でも平安時代から奈良時代にもあったのだろう
座となると明確に中世的地名だが東北地方にはないからそれだけ東北地方には商業は発達していない証明でもある。

ところが市庭というのは南相馬市の塩崎村にありこれはそこが海だった時に名付けられたとすると奈良時代までもさかのぼる。
万葉集時代にもなる。
だからそこが真野の草原(かやはら)であり草原は地名だという根拠にもなる
塩崎には船着という地名もあるから船が来ていたのである。
それを証明したのが今回の津浪だったことに驚いた。
船着辺りまで津浪が来ていた。そして船が実際に流されてきたことにも驚いた。
今回の津浪は明らかに奈良時代辺りの環境を再現したのである。

●大内村の曽我船(そがふね)地名の謎

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島とつく地名も湿地帯がありそういう場所に名付けられている。島通りというのもそういう地帯だった。
小島田も真野川にそってあり湿地帯であり離れた島のようになっていたのだろう。
そののち開拓されて田になって小島田となった。
北右田、南右田とあるが右田も真野川沿いであり湿地帯でありあとから開拓された。
烏崎村に接した真野川沿いに袋村があったが消失したのは真野川の洪水が度々あって
使いなくなったのだろう。明らかに大内村の人が土地を広げて開拓したのである。


慶長津浪から1611年基点にして歴史をみることが普通になった。
その時代前がどういうものだったかその時の村の状態はどうだったのか
実際にあったのかなかったのかというのが郷土史で重要な問題となった。
慶長津浪の前に小島田に八龍神社があり川子のはそれより古い。
すると烏崎村の八竜神社も津浪にすれすれで残ったが津浪の前に建てられたのかもしれない、
なぜなら慶長津浪の後ならもっと高い所に建てる、すれすれには建てないからである
いづれにしろ小島田でも大内でも津浪の被害にあった。それでも被害が少なかったのは
そこが比較的古い村だった。海老村でも海に面した所はやはり新しい村だった。

ただ烏崎村は特殊であり鎌倉時代から人が住んでいた。それは漁労関係の人が小屋を建てて住んでいたのだろう。

地名から考察すると鎌倉がら船で来た岩松氏が烏となづけたのはそこが空の州だったからである。
何もなかったからその名がついた。実際にそうだったのである。
烏から烏崎村に変更されたのは崖の下に村落があるからそこが崎のようになっていたから変更した。
港があった所はもともと牛島とかの地名であり湿地帯だった。


そして大内村が確かに被害があったかなぜ少なくてすんだのか?
それは大内村は道をはさんで山側と元の海側に住んだ人に分かれていたのである。
山側に住んでいる人も多くそこは助かったから烏崎村のような壊滅状態になっていない
そこに不思議なのは曽我船という地名が化石のように残っていることなのだ

そがふねとはそががさかのぼるという意味で船がここからさかのぼるのが見えたから名付けられたという、
この地名はまず不思議である
普通そんな名前つかない、それだけ船が来るのが見えたから名付けられた。


それよりもソガとはソグからきていて何かをソグである。海の波が寄せてきてソグところであり
曽我船はさかのほるの意味ではない、
黄昏る(たそがれるーソガレルであり浸食する意味であり減退してゆくとかの意味になる。)

塩崎村の船着でも市庭でもそうである。それがいつの時代のものかはっきりしないのである。
ただ奈良時代から発しているというのはその時そこが
海だったことは明らかだからであるそれが津浪で証明されたのである。
大内村はもともと海だった海側に家を作った人たちは古い家ではない、
道をはさんで山側に家があった人たちが大内村を作っていた。
だから大内村は被害があっても村としては残っている。烏崎村は壊滅したから悲惨なのである。
津浪は太古の自然の状態とか歴史的村の発展状態とかを明らかにしたのである。


●東松島の元の鳴瀬町の白萩の地名の謎


東松島の被害状況を見ると元の鳴瀬町の白萩とか浜市とかは津浪で被害が大きく壊滅状態になった。
そこは海からかなり近かった。そこに浜市とあるのは江戸時代にあったとして
もその前にさかのぼるかどうかわらない、牛綱村は後方でありそれは古い。
浜市は新しい、白萩という地名はやはりもともとそこは海に近く鳴瀬川にそってあったから
度々洪水の被害を受けていた。だから萩がはぎとられるという地名になったのは信憑性があるのかもしれない
、白い萩が繁っていたという名がつくのは普通ないからである。

でも不思議なのは浜市方面に漁をするための使う綱を運んだからその名がついたというとき
牛綱村の起源が浜市に由来するのも不思議である。
普通は逆でありもともと牛綱村があって浜市に進出したからである。

「白日別」の「白(しら)」は「しらす」、つまり「治める、統治する」の意味である。



接ぎ
はぎ
歯軋り
はぎしり
剥ぎ取る
はぎとる
端切れ
歯切れ
はぎれ
脛を齧る


古事記」上巻


 波の穂より天(あめ)の羅摩(かがみ)の船に乗りて、鵝(ひむし)の皮を内剥(うつはぎ)に剥ぎて、衣服(きもの)と為(し)て、帰(よ)り来る神有り。・・・少名毘古那の神ぞ。

萩(はぎ)は剥ぐから生れた言葉なのだろう。白というのは知らすであり治めるだからはぎ取り治めるなのか?
そこはともかく何かをはぎとり住むようになった。
萩という花とは関係ないだろう。

萩と荻はにている。萩の前は荻だったのかもしれない、萩を区別できなかった。


おそらくヨモギ(くさよもぎ)という意味のことをおっしゃっているのでしょうが、上述のように「萩」の原義にあたります。しかしヨモギは、日本では草餅などに使うことから春の香草として知られ、俳句の季語でも春に分類されます。それだけに字に「秋」が含まれるのはイメージにそぐわず、これを字形の似た「荻」で代用して、「萩」の字は国字としてハギの意味で使われるようになったのでしょう(ハギは日本ではよく自生しますが中国ではマイナーな植物のようで、本来の漢字があるかどうかは不明です
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1422402179


「 荻の葉のそよぐ音こそ秋風の
     人に知らるる はじめなりけり 」 紀貫之 (拾遺集)


荻(おぎ)には「風ききぐさ」という異名があります。
水辺に繁殖するその草は背丈が高く、細長い葉や茎は風に靡いて
さやさやと音を立てます。
http://manyuraku.exblog.jp/10708377

オギから沖(オキ)という言葉が生れた。荻が繁っているところは陸地から離れたところでありさらに離れた海かオキなのである。言葉は身近なところから意味が拡大してゆくのである。


●大内村は元の海側の家が被害か多いが山側は残った


大内村は道路を挟んで元の海側と山側で明暗を分けた。山側の家は一部被害があり残らなかったがほとんど残った。
道路をはさんで元の海側は北側は残らなかった。
ただ海老村や烏崎村のように壊滅しなかった。
それでも被害はそれなりに大きかった。あそこてトラックの運転手が津浪を来てから必死で逃げて助かったという、
津浪を見て逃げるだけの距離が大内にはあった。
でも元の海側に面した所では家は一部を残して消失した。
もともと海側に家を建てた人は新しい人たちだったのだろう。

大内村から真野川に沿った地域と海に面した地域に進出した開拓した人たちがいて江戸時代に袋村があったが消えた。
真野川の洪水や湿地帯であり維持できなかった。
まず川にそった地域もいい土地ではない、洪水があるからそうなる。

つまり人間はもともとそうした災害のある所には住まない、縄文人も住んでいなかった。
ただ住む土地を広げるために悪条件の場所に進出したのである。
そこは危険地帯であり開拓するのもむずかしいし危険地帯だった。
だから袋村は江戸時代にあったが消失した。
真野川の洪水などで維持できなくなった。

大内村は今山側に蛙が結構ないていた。蛙まで山側に移った。田んぼには水がないし住めない、
山側には蛙が増えるというのも蛙も津浪の後に住む場所を変えて繁殖しているのだろう。
自然の生物は適応力が人間よりあるから繁殖できるのだろう。

大内村は大内氏がはじまりであり大内という姓の家があった。
その大内氏は鎌倉から烏崎に船で上陸した岩松氏からはじまっている
大内村はだから烏崎村や小島田村より古い。
ただ八竜神社は州てに慶長津浪の前に小島田にも川子にも大内にもあったし
烏崎村の八竜神社は慶長津浪の前に建てられたのだろう。

ともかく慶長津浪でも相馬藩内で700人溺死したとなると今回の死者と同じくらいの被害があった。
でもその時は海老村でも烏崎村でも八沢村はもちろん明治以降だから人か住んでいない、
するとその死者の数がかなり多い、すてにそれだけの津浪の被害を受ける人たちが住んでいたことになる。
すでに海側に住んで漁業する人たちかなりいたともなる。
ただ今のように津浪警報もないから急激に来て死者も多くなったのか?
その死者がどうして生れたのか全く不明なのである。

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烏崎でも海が近くても残った家

真野の入江と八沢浦
http://www.musubu.jp/manoirie.htm

posted by 天華 at 15:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係
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