2014年05月22日

相馬藩が中村に城を移転したのはなぜか? (津波の後の復興のためなのかー伊達藩の政宗の政策から推測した)


相馬藩が中村に城を移転したのはなぜか?

(津波の後の復興のためなのかー伊達藩の政宗の政策から推測した)

●慶長時代には海側に住む郷士はいてもわずかだった


青原氏からの質問があって確かに700人溺死の中に郷士もいたの
だから藩で全く津波の被害を無視したという自分の説には疑問だというのもなるほどなと思った。
相馬藩は他より郷士が多い、農民兼侍だったのが郷士である。
だから野馬追いの時は原町とか相馬とかでも街内からでるのはほとんどないのである
農家の在の方から出るのである。
だから海側の村でも必ず郷士の末裔で野馬追いに出ている家がある
ただ慶長津波が起きた時、どれくらいの人が海側に住んでいて郷士だったのか
それはわかりにくい、海側に住んで郷士の人がどれくらい被害にあったのかわからない。

ただ海岸に接した村は比較的後から住んだ人たちが多い。

鹿島区では海老村でももとは海側でなくて後ろの田のある地域に住んでいた。
それが塩をとるとか港ができて海に進出するようになり海老村になった。
右田村も真野川沿いであり湿地帯であり開拓されたのは江戸時代でも遅くなってからである。
大内村は古く山側に住んでいた人たちは今回の津波でも助かった。
そして大内村の出村のような袋村は真野川の河口と海岸に接していたが消失した。
江戸時代に村としてあったが消失したのは真野川の洪水とかで稲作ができなくなったのだろう。

八沢浦も明治になってから開拓されたのでありだから妙見神社が祭ってあった。
小高の井田川は大正になってから開拓されたのである。
だからそういう住むのに適していない場所に郷士が入ったのは慶長時代以前だと
少ないかもしれない、ただ確かに郷士がいないということはありえないだろう。

だから津波の被害にあったら郷士が藩に窮状を訴えたはずである。
でもそうであったら余計に何らかもっと藩で対策を考える、その窮状を記録してもいいはずである。
その辺の事情が記録がないのだからわからないから推測するほかなくなる。
つまり郷士が津波の被害にあったらもっと何か藩でもその窮状に対して
どう対応したかなど記していてもいいということも考えられる。
そのことが700人溺死としか記されていないのだからやはり無視されたともとれる


●伊達藩の政宗の政策に習ったのか?


なぜこういう説が出たのか?それは実際は何ら根拠のないものであった。
ただわかったことはこの説は伊達藩から政宗の政策から出ていたのである。
それをプログに書いていた人がいる。


@領内の金山の管理の徹底、開発の推進→慶長十七年二月より
A徳川家との関係強化→慶長十六年十二月十三日、江戸城は将軍徳川秀忠御前における
嗣子虎菊丸の元服。秀忠よりの「忠」の一字拝領
B遣欧使節派遣による海外交渉・貿易の実現→財政を豊かに。国を豊かにするため。


遣使船サン・ファン・バウティスタ号の建造。これは、石巻・牡鹿地方という三陸津波の一大被災地で行った一大公共事業です

アマーティの『伊達政宗遣欧使節記』の第十二章には「国王(政宗)は大急ぎで船の建造に取りかかるように命じ、その作業に八〇〇人の大工と七〇〇人の鍛冶、それから三〇〇〇人の人夫を投入した。」(翻訳『仙台市史 特別編8 慶長遣欧使節』平成22年刊
http://blogs.dion.ne.jp/honmarukaikan/archives/10071959.html

ここに公共事業と明確に書いてあるのでこの辺を参考にしていたのかもしれない。
津波被害で伊達藩内だけに目を向けていては復興できない、
それよりも対外的にスペインまで目を向けて津波の被害を克服しようとしたという説である。
そのような大災害の時、外国に目を向けて貿易で復興しようとしたというのも当時からすると
スケールが大きいというかその目的が何であったのかは明確にはなっていない。
徳川幕府に家康に対抗するためにだとも言われる。
まだ天下取りをあきらめていないから最後の手段をスペインの協力をえて天下をとろうとしたともなる。


ただその船の建造も大事業であり今なら復興の公共事業になっていたことは言える。
資金は金山から生れたのか?やはりそれだけの財政の裏付けがないとできない。
その時幕府では援助しないからである。むしろ政宗の弱体化を望んだろう。

つまり伊達藩の政宗がそうした津波の被害の復興をどうしたのか?
それを相馬藩では知っていて相馬藩でもこの際、中村に移転しようと決心したのか。
相馬藩では対外的には伊達が最大の敵なのだからその境の中村に城を移転するのが一番ふさわしかった。
その時、移転するとはり城下町の整備が公共事業的なものとなったことはありうる。
ただ伊達藩のようにそうした記録がほとんどないので資料がないので証明するのはむずかしく推測になるだけである。


不思議なのは


相馬市
「城は破損し再築中」「同市も海水の漲溢に依り海岸の村落に及ぼしたる被害
の影響を受けたり」(『ビスカイノ金銀島探検報告』)

http://www.dcrc.tohoku.ac.jp/surveys/20110311/docs/20111202_04_ebina.pdf


ここの相馬市とは東京の方になっているのはなぜなのか、間違いなのか?
相馬藩について『ビスカイノ金銀島探検報告』で百行くらい記されているというがその内容はわからない。
これが相馬市のこと中村城のことだとすると今の城の所まで津波が来たのかとなる。
川をさかのぼってくることがあるからどういうことなのかわからない。
ただ城は破損し再築中とあれば津波の被害があり再築していたとなる。

ということは慶長津波の前にすでに城はあり工事はしていたが藩士や主君が移動したのは
別に津波があったからではなく津波の前に移転することは決まっていて工事していたともなる
そうなれば別に津波が起きたからではなく前からの計画ですでに工事もしていて津波にかかわらず実施したとなる。
ただ津波の被害があったことが移転に何らか影響していたことは推測される。
でもそうした記録が一切ないから推測の域を出ないのである。


●相馬藩士が慶長津波の後に伊達藩に開拓に入った謎


古老の話によると、慶長津波の後に福島県相馬地方の武士であった相澤家、
大友家、柴崎家などが移住して中野集落ができたと言伝えられる。相馬の地名
にちなんで中村屋敷、吉田屋敷とよばれていた。この地は現在も住宅地である。

(六郷の会)
http://www.stks.city.sendai.jp/citizen/WebPages/wakachu/


これは結構大規模な移住だった。中野というのは中村のことである。
なぜ相馬藩での被害も大きいのに伊達藩に藩士が開拓に入ったのか?
伊達藩では積極的な津波復興の奨励策をとり人を呼び込んだ。
だから相馬藩でも入る人がいた。それも藩士だということはそれに従うものは
その家来や従者がいるから侍でないものも従ったのである。
これもなぜなのかというと謎である。


つまり相馬藩で被害が大きいのだからまず相馬藩内の復興が優先されるはずである。
それがなぜ相馬藩士が移住したのか?
ここにも一つの相馬藩の慶長津波のことを解く鍵がある。
相馬藩の被害が大きく復興できないような状態に陥っていたのか?
伊達藩でも被害は今回と同じく相馬より被害が大きかった。
ただ伊達藩では相馬藩より復興策が政宗の陣頭指揮でとられていた。
相馬藩は小藩だから対策がとれなかったのか、資料がないのでわからないのである。


相馬藩士が移住したのは郷士であれ被害を受けて相馬藩内で生活できなくなり
奨励策をとっていた伊達藩に移住した。その時伊達藩でも被害が大きいから人材が必要だった。
それにしても相馬藩内はその時どうなっていたのか?
相馬藩士自体が見捨てて他藩にゆくのか?
これはやはり相馬藩内での慶長津波の結果として伊達藩に移住した。
その理由はわからないにしろそういう激動を体験した。
津波であれ原発事故であれそういう激動の時に人は移動しやすいのである。
避難民であふれるようにそんな緊急事態が起きていたのだろう。

ただ津波の被害を受けてまた津波の被害地に移住するというのも何なのだろうとなる

いづれにしろ相馬藩と伊達藩は敵同士でも密接な関係があり
伊達藩から相馬藩のことが解きあかされることがある。
まさに中村への城の移転が津波の復興のためとか公共事業のためとかの説がでてきたのは
伊達藩に政宗の政策にならったものを相馬藩でも実行したのだという説になったのである
ともかく資料がないので推測になる。
慶長津波が政治にどう影響したのかはこれもあまりにも大きなテーマだったのである。
リスボンが地震で衰退してしまったように甚大な災害は歴史を大きく変えてしまうことがあるし
日本は災害の国だから特に天災が国に影響することが大きかったことは確かなのである。

posted by 天華 at 15:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係
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