「慶長奥州地震津波と復興」 蝦名裕一を読む
(慶長津波の後に伊達藩から相馬藩へ塩作りが伝播された)
北屋形村 釜前 東釜前
八沢浦 小魚を漁して浦舟20艘、13漁船、七荷運舟 浦辺に塩場、釜屋あり 村人塩を焼く
南海老村
常願壇
この地を常願壇という、往時常願なるも者八沢塩場を開く、故に常願明神と崇め塩釜7社の内に加えこれを祭る
北海老村
地勢小山多し東方平地北方瀬浦塩場多し
塩入 釜舟戸
下海老村 高屋釜
塩崎村
相馬中村藩における塩田開発
慶長津波から程なくして製塩事業が開始されたという話しがあります
松川浦の辺りの和田村に村社塩釜神社があります
江戸時代に記された塩釜神社の縁起によれば元和元年に諸国を徘徊している堀内玄番という老人が訪れました。
この人は千葉県の行徳の出身で和田村にとどまっているうちこの村が故郷の行徳ににているのでよい塩場になるだろうと見込んで村の人に製塩法を伝えました
これにより和田村には相馬藩領内でも最上級の塩場が完成しこの場所を玄番壇という地名がつけられました。
塩害の土地で塩の生産
塩害で農業が困難になった地域に塩の生産をはじめる
川村孫兵衛が製塩事業を伝えた場所はその地名に(釜)の字が用いられていた
伊藤三郎左衛門という孫兵衛と同じく長州からやってきた浪人でした。
伊藤三郎左衛門元和6年(1620)8月に仙台藩の重臣である佐々若狭と川村孫兵衛に呼び出され塩田に適する場所を見立てるように命じられました
この本は慶長津波のあとに水田として利用できなくなった土地を塩田にして復興したという趣旨である。
そういえば塩田として活用すれば一番適していたことになる
つまり塩作り塩田の歴史から慶長津波のことを解明してゆくことに焦点をあてた
塩田の歴史も失われたものが多くわかりにくい、わずかに地名などに痕跡を残している
この本を読んで塩田で塩作りで津波からの復興をしたというとき、相馬藩でも塩田作りに着手した。和田村は松川浦の奥まった所であり波静かであり塩田には最適だったのである。
そして相馬中村藩でも塩田作りが伊達藩よりは遅れていても和田村ではじめられた。
のちに塩は相馬藩では原釜で作られ重要な産業となり飯館村まで塩の道が形成された。
飯樋には塩の役所があり60人が住んでいたとか塩は相馬藩にとって大きな役割を果たした。
当時の産業は木材とか塩とかでありそのために争いが起きたことでもわかる。
入会権の争いであった。当時では木材は石油に匹敵しているし塩の価値も高かった。
アフリカの砂漠では塩と黄金がとりひきされていたとかそれだけ貴重なものだったのである。
北の山側に塩会屋あり、今あやまりて鳥屋前という、(塩崎村)
亘理郡高屋村鳥屋崎浜とあるのもなぜだろうか?
それから高屋村とあり高屋釜と下海老村にある。
相馬藩と伊達藩は戦国時代は争ったけど戦国時代が終わると平和な時代になり交流が深まった。
だから相馬藩内には伊達藩から来た神が多い、小牛田神は山神でありこれが一番多い。
その他に信仰に類するものも多い。館腰という地名があったがこれも信仰として相馬藩内にも伝わっていたのである。
例えば相馬中村城の大手門の門の瓦は滴水瓦であり朝鮮系統の技術の伝播であり伊達政宗が朝鮮出兵で伝えたものらしい。
伊達藩から入ってくる技術があり伊達藩との関係が相馬藩では深いのである。
「伊達と相馬の境のさくら、花は相馬に実は伊達に」というのはまさにそうである。
だから慶長津波の後に塩田開発が相馬藩でも行われたという時、それは伊達藩が先であり伊達藩の人が技術を伝えた。
それで同じような地名がつけられた。
慶長津波のすぐあとに相馬藩士が伊達藩に移住したのか?
中野村でありその時城もできていた。
それなのになぜわざわざ伊達藩に津波の跡に移住する必要があったのか?
これも塩田開発の技術習得のために移住させたのかもしれない、その後相馬藩でも松川浦の和田をはじめとして塩田開発が行われた。
ただ藻塩焼くとか原始的な状態であったことは推測できるが塩田となるとこれはかなり
高度な技術だからどのくらいの規模で行われたかはわからない。
北屋形、海老村にあり塩崎村にもあったかもしれない、なぜなら塩崎村まで津波が来ていて塩害に苦しんでいた。
すると塩田にしたのかということもありうる。
ただその資料はないのでわからないのである。
塩田の歴史もなかなかわかりにくいのだ。
八沢浦 小魚を漁して浦舟20艘、13漁船、七荷運舟 浦辺に塩場、釜屋あり 村人塩を焼く
八沢浦というのも謎である。ここは漁業だけではなく塩を焼いていた。ただ塩を焼くとなると藻塩焼くであり原始的な製法になる。
ただ塩場となると塩田のような小規模のものがあったのかもしれない。
自分が一番気にかかっているのは七荷運舟があったということである。
これは明らかに外洋に出るそれなりの大型の船だったのか?
七つの種類の荷物を運ぶとなるとその七荷は何だったのか?
塩が運ばれたのか?何を積み出したのかも謎である。
たた船は出入りしていたことは確かであり八沢浦は深い入江であり港に適していたのである。
古歌として八沢浦八景が残っているけど都の人たちは八沢浦に船で入ってきたのかということである。
もしそうだとすると歌の解釈もかなり違ってくる。
その歌もいつの時代かわからないけど八沢浦は明らかに港であり船の出入りがあり
現実に大型の船も出入りしていた。
また松川浦には名取の船乗りが難破したという名前を記した碑が貝殻地蔵にあった。
海の交流はなかなかわかりにくいが今回の津波は相馬から伊達藩内から岩手県まで海を意識させられたのである。
もしおやく海女の苫屋を霧と見て滝の沢辺に落つるかりがね
高瀬さす八沢が浦の夜の雨に波のうきねを明かしかねつつ
磯桜八沢が浦の夕浪に色をみだせる雪の遠山
塩釜の浦浪遠くてる月の影もへだてぬ秋の夜すがら
藻塩焼くとなれば原始的な塩を焼く風景である。ただ塩場があったとなると塩田の小規模なものがあった。
この歌は船旅として八沢浦によったとしたらこういう感覚になるだろう。
波にゆられるて波の浮寝ということは船で寝ていたからそうなった。
船で八沢浦に来たということはこの歌の読み方が違ってくるのだ。
だから八沢浦が元の美しい入江にもどったというときただ想像ではなく現実としての
八沢浦が再現されたから驚きだったのである。
参考年号表ー元号の最後の年を明記
1591 大正
1595 文禄
1614 慶長 1611 慶長津波
1623 元和
1643 寛永
1647 正保
1651 慶安
1654 承応
1657 明暦
1659 万治
1672 寛文
1680 延宝
1683 天和
1687 貞享
1703 元禄
1710 宝永
1715 正徳
1735 享保
1740 元文
1743 寛保
1747 延享
1750 寛延
1763 宝暦
1771 明和
1780 安永
1787 天明
1800 寛政
1803 享和
1817 文化
1829 文政
1843 天保
1847 弘化
1853 嘉永
1859 安政
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