2014年06月02日

相馬藩内の慶長津波が伝えられなかった謎? (結局伊達藩の記録から相馬藩のことを推測するほかない)



相馬藩内の慶長津波が伝えられなかった謎?

(結局伊達藩の記録から相馬藩のことを推測するほかない)

相馬藩世紀、第一御年譜(利胤)の慶長16年10月28日条には、「海辺生波にて相馬領の者700人溺死」

正式な文書としてはこの一行が唯一だと言ってもいい、浪江の同慶寺に「同年一〇月廿八日、奥州筋生波(津波)上波」と記されています。津波記したものだとするは文書で残っているのは他にないだろう。津波が一般化するのは慶長津波以後になるがこの表記はまだ一般化されるまえだからこの表現になった。津波にはいろいろな表現がありまだ一定していなかった。慶長津波以後一定したのである。
同慶寺は南北朝時代の記録もあり古いから残ってていも不思議ではない。

そしてこの津波が襲って溺死した人が700人とあるがその内容も全くわからないのである。
その後に津波にどう対処したのかもわからない、ほとんど津波に関することが浮かんでこないのである。
例えば700人溺死とあれば当時にすれば今回の津波被害に匹敵する大被害だったのである。
他ではそうした資料が残っているが相馬藩内には残っていないのである。
だからなぜこうした歴史の空白が生じたのかということがかえって疑問になり知りたいとなるのも不思議である。

つまりそもそも700人溺死とあるがその人たちはどういう暮らしをしていたのか、
漁業を主にしていた人たちなのか、田畑を作っていた人たちだったのかそうした死んだ人がどういう人たちだったのかも皆目見当もつかないのである。
ただ海辺に住んでいた人たちだということは見当はつく、でも海辺といっても
その時漁民だけではない農耕していた人達がいたかもしれないし生業が何かも全くわからなのである
結局だから伊達藩の資料を基にして相馬藩内の津波でも想像するほか手がないのである。
物産に鰻、百貫、鮭八十尾、鰯四百駄と記される漁業中心の村だったと
次の資料にあるごとく純粋に漁村が成り立っていた。ここで鰻(うなぎ)百貫というのが興味深い、
なぜなら屋形の老人から父親が明治のとき、川俣町まで天秤棒かついで鰻を売りに行っていたというのだた。
そんなところまで天秤棒かついで行けたのかということが信じられないのである。
ただ鰻が結構貴重な食料であった。海辺では鰻がとれる。天然の牡蠣もとれる。
和田村の老人は松川浦では鰻でも貝でも浦でとれくものを食べていたという。
放射能など関係ないと言っていた。85にもなっていたらそうなる。鰻は自分の父親が田んぼの畦で
ミミスを餌にして穴にさしこんでとっていた。その待つ時間が長いのである。
当時にすれば鰻は栄養価も高いし売れるということもあった。
当時の生活というのも様々な観点からイメージしてゆく作業は必要である。

(家蔵)によると寛永九年(1632)に開発がはじまり、
寛文三年(1663)二木村から分離する。正保二〜三年(1645〜6)頃
の「正保郷帳」に田五貫五十五文・畑壱貫七百三十文とあり、水損と注される。
「名取郡地誌(=皇国地誌)」によると明治
十年(1878)頃の戸数は五十三、男二百六・女百八十五、馬三十一で、舟
が五十七艘あった。物産に鰻、百貫、鮭八十尾、鰯四百駄と記される漁業中心の
村だった。 (平凡社「宮城県の地名」参照)
(六郷の歴史)

ここの六郷では相馬藩の侍の家臣団が移住して中野村まで形成していた。
伊達藩では津波の後にも大規模な開拓が行われたし塩田作りも行われた。
それだけのことができたのは伊達政宗など家臣団が陣頭指揮で復興事業の開拓でも塩作りでもかかわっていた。
そういう藩全体が津波の復興事業にかかわりかえって前より豊かになっていった。
でも実際の津波の被害状況は今回の津波のように凄惨なものだったのであり
そのために村を捨てた人もかなりいた。
今回の津波でももう住めないとか復興自体あきらめた人もいた。
最も被害の大きかった村が壊滅して消失した所には伝説が残らないという時、みんな死んでしまい語る人がいないということだった。
現実に津波で壊滅して村ごとなくなったこの辺では磯部や海老や烏崎村の状態がそうだった。
なんにもない、なんにもなくなってしまう、村があったということすら信じられなくなる。そのように全く消えてしまった町や村も過去にあったのだ。
草戸千軒とかそうであり最近発掘してここに町があったということが実証された。
多賀城辺りにも津波でそういう市場を成していた町が消失して不明になっていた。
相馬藩でも記録がないということはそういうふうに村ごと消失してしまって語るものものもなくなっていたからかもしれない、
つまりそれほど津波の被害は恐ろしいものだったということである。その様相は三年たっても何ら変わりないのである。

慶長津波の後の復興のために中村に城を移転したというのはビスカイノの報告が残っているのでありえない。
ビスカイノが城を訪ねた時、城が破壊されて工事中だったと報告されていた。
つまり城はすでに津波が来る前から建設されていた。
慶長地震でその工事中の城が破壊されていたのである。
南海老村に中村天守造営にたずさわった大工がいたと鹿島町誌に記されている。
その怪異の伝説は何を示しているのか?津波のことも関係しているのか
なぜならその時南海老村にも津波が襲っているからである。
この記述からは津波の被害のことより中村城の天守造営が優先されていた。
津波のことに関しても鹿島町誌には何の記述もないのである。

何か相馬藩は家臣団でも積極的に津波の復興のための開拓などにかかわった記録もない、
そして不思議なのは中野村に居住していた藩士の家臣団が六郷に移住して津波の後の開拓に携わっていたのである。
普通だったら相馬の侍の家臣団が率先して津波の後の復興のために開拓に入っていてもいいはずである。
伊達藩ではそうしなければとても復興の開拓ができる状態ではなかった。
相馬藩内でも同じなのに伊達藩へ移住してそこで開拓に従事したことが解せないのである。
このことが何か津波の後の相馬藩の特殊な事情があった。
だから相馬藩内の津波に関しては知る資料がない、伊達藩内から相馬藩のことを推測するほかないのである。
塩田の開発でも伊達藩が先でありそのあとに相馬藩内で行われた。

ただ不思議なのは津波の跡は所有者がいなくなり誰の土地だか不明になり新規に参入しやすい状態になっていた。
それで寛永九年(1632)に開発がはじまり、寛文三年(1663)二木村から分離する。
その頃は田畑なくしては生活が成り立たないから常に土地を求めていた。
分家するにも土地を与えないとできなかった。すると誰の土地でもなくなった津波の跡は格好の開拓地になったということもある。
だから現代の考え方とは全然違っている。今だったら誰もすでに農業などやりたくない、
津波の前からも農業は金にならないと跡継ぎがいないとか問題だった。
その当時は農業中心だから土地が最も大事なものだったのである。
だから津波の跡の誰の所有地でない土地は貴重だったとなる。
今はとても農地としして利用するなど考えないだろう。

津波からの復興というとき慶長津波のことは現代では時代が違いすぎて同じようにはできない、
観光などというとまた反発されるが漁業とか農業とかの側面ではなく
現代的な復興となるとそれも一つの手であり他にも現代的価値観に基づかないと
復興はむずかしくなるだろう。ただこれだけの変化があるとき、被害でうちのめされたにしても
新しいものを作り安いということはありうる。
何にもなくなったのだから全く新しい発想のものが作り安いことなのである。
それが何なのかはそれぞれの立場によって違ってくる。
ソーラパネルがはやっているが何か自然景観を壊すので自分では嫌なのである。
お花畑にしたらいいとかなるとこれまたお前の頭はもともとお花畑なんだよとなる。
でも何か新しい発想で新しいもの作り出さなければ復興がないことは確かなのである。
伊達藩で津波の跡が無所有の土地となって新規の人が参入しやすくなったという時、
漁業でも農業でも既得権で外部から参入しにくくなっているがそういう古いものが津波で問われる、
なぜなら何もなくなったとき、新しいものが入り安いからそうなる
posted by 天華 at 22:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係
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