2014年06月07日

南海老村に残る中村城天守造営にたづさわった大工の伝説 (これは唯一津波の伝説なのだろうか?)



南海老村に残る中村城天守造営にたづさわった大工の伝説

(これは唯一津波の伝説なのだろうか?)

藤金沢堤の傍らに塚あり、上元塚と名づく、六十六部回国上元なる者の塚という。
在昔村に匠人善次なる者あり、中村城天守造営の時日々中村にいたり造工たり。
深更に及び家に帰る。円光塚よりいず。転々として大いなること茶銚のごとし。
その光青色なり。また垣の如きもの路に横たわる。善次中刀をぬきこれを切って
通行す、この如きこと数回なりという。記者言う、狐狸の如きもの怪か。

その後善次病死して棺を出す。時に大原村二森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで
雲中に入る。宝蔵寺の僧これを聞き走り来りり七重の袈裟を雲中に投ず。
声ありて曰く、「おいか」と。

棺おく雲散じ空晴れてこれを葬るという。是の世に希有のことなり。
知らず「おいか」とは何の言なるか。
ある人いふう葬礼の諸品を海水に洗えばすなわちこの怪異ありと。



南海老に伝わる鹿島町誌に記された伝説は何なのか?
何か皆目見当もつかないような内容である。
ここで大事なのは 、中村城天守造営の時日々中村にいたり造工たり
こう記されていてこれは中村に城が移転された時天守造営にたずさわった大工だったということである
。中村の城には相馬藩の城は殿様が倹約のために民を困らせるから作らなかったとか伝えられるが天守は作られてあった。
のちの話として相馬の殿様が名君であったとか美化されて話しが作られたのである。
こういうことはよくあることである。
権力者は常にそういうことをしている。
だから歴史書も当時の支配者となった勝者となった権力者が記しているのだから
公平なものとしては記されていない、何かそこに今回の津波のことが記されていないように肝心なものが欠落している。
それは原発の安全神話が作られて政府や東電やマスコミが一体となり情報操作したのとにている。


それよりここで問題なのはこの伝説が慶長津波と関係しているのがどうかである。
南海老なら確実に津波の被害が慶長津波でもあった。
そして中村に城を移転したとき天守造営にかかわり毎日通っていたのである。


寛永18年(1641)将軍家光公は上覧に供すべしと命ぜられ、
その頃、相馬の家譜、官禄、勲功・・・・の文書はつまびらかでなく
探したが見つからなかった。

天守の梁に結びつけて置いた包物を発見して、筆史がこれをおろしてみると金の輪に九曜の紋がついた菱皮の籠があり、
中には八幡大菩薩の文字の旗、証文、雑文などが百余通が入っていた。


天守の梁と奥相馬秘鑑にでている。天守閣はあったのである。


円光塚よりいず。転々として大いなること茶銚のごとし
また垣の如きもの路に横たわる。善次中刀をぬきこれを切って
通行す、・・・・


これは茶碗のようなものがそれも大きなものが転々としたという、それは津波で流された日用品を意味しているのか?
垣とは垣根であり壁の意もあり路をかなり大きなものがさえぎっていた。
何度もそのことがしったということは長い間津波の後に残された瓦礫のうよなものであったのか?
南海老なら津波の時、そういうことはありうる。


その後善次病死して棺を出す。時に大原村二森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで
雲中に入る


死んだ善次の棺が持ち運ばれてしまった。これもなぜなのかわからない、大原村と関係あることは確かである。
それよりも


葬礼の諸品を海水に洗えばすなわちこの怪異ありと


ここで海水で洗うととありそれも葬礼とありこれはもともと津波で死んだ人たちのことにまつわる話しかもしれない、津波で死んだ人たちの遺品は海水で今回の津波でも洗われていた。
六十六部回国上元なる者の塚ということはこの人は仏教の修行者であり
もしかしたら津波の被害者を弔ったのかもしれない、その時、津波の被害者の遺品などを海水で洗ったことからこんな伝説が生れたのか?

こじつけになるかもしれないがこれは一つの津波の被害があったがそのことを訴えたが
相馬藩では戦国時代の最後の仕上げの時代でありそんなことにかまっていられなかった。つまり南海老村なら津波の被害がありそれを訴えてもいいはずである。
それができないことがこんな伝説に残ったとも推測される。

その犠牲者になったのが善次という大工だったのである。

「善次よ、中村城の天守造りに励んでいる時か、津波の被害の惨状を見ろ
こっちの方で働くべきなことはいわなくてもわかるだろう」
「そんなことを言っても殿様の命令には逆らえないんだよ、首が飛ぶよ」


南海老に住んでいた善次は慶長津波の被害をまのあたり南海老だから見ていた。
その時、中村城への天守の造営にかり出されたのだがうしろめたいものを感じていた。
それで夢にうなされていたりして怪異なことが起きた。
垣が路をさえぎるということは中村城に行くなということの例え暗示かもしれない。
中村城の天守造営をひきとめるものが何かあった。

ただ「おいか」というのがわかればいい、これもどう考えても「おいか」とは「おまえ」の意味だろう。
なぜ死んで入った棺桶が大原の方から来た黒雲にもちあげられたのか?
これもなぞだけど何かの祟りだったのか、善次という中村城天守造営にたずさわったものは何か呪われたのである。
そうではないか?中村城の天守造営にたずさわることは名誉なことであり
こんな怪異なことが起こり得ようがないのである。

これは民間で伝えたものであり相馬藩政記などには記されなかった。
六十六部の墓とは津波で死んだ人かもしれない、ともかくこの伝説を津波で解くと
それなりに辻褄があう、いや合わせているのかともなる
津波に関する伝承が全く記されていないからこれが唯一そうなのかと思った。

この伝説も何なのか本当は皆目わからない、ただ中村城の天守造営に日々たずさわっていた大工が南海老村にいたということは大事である。
その時、慶長津波が起きているからである。



垣はkakinojoii1.jpgの字である

posted by 天華 at 15:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係
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