2014年06月09日

なぜ慶長津波のことが相馬藩で700人溺死としか記されなかったのか? (歴史は勝者と権力者によって記されから無視された)

 

なぜ慶長津波のことが相馬藩で700人溺死としか記されなかったのか?


(歴史は勝者と権力者によって記されから無視された)

南海老村に残る中村城天守造営にたづさわった大工の伝説
http://blog.sakura.ne.jp/pages/my/blog/article/edit/input?id=99130060


歴史というのは例えば大和王権に対して蝦夷が抵抗したことはわかっている。
では蝦夷が何者かというとほとんどわからない
ただ蝦夷は強大な大和王権に抵抗する勢力だった
それはアイヌの一部が交じっていたかもしれないし
最近では大阪辺りでナガスネヒコや物部などが政権争いに敗れ
東北に逃れて在地の勢力を従い反抗した
その中にさまさまな勢力がありカヤ(伽耶)族も交じっていたかもしれない
伽耶というとそれだけ古い渡来人であり日本に土着化していたのである


歴史が勝者の歴史としたとき、勝者の側にたって歴史は記される。
だから蝦夷は賊とされ征伐されなければならないものとして記される
それは鬼ともされるが実際はそうではない、むしろ鬼としたのは征服側である
だから蝦夷のことをいくらわかろうしとしても資料がないからわからないままである
大和王権のことはいろいろと記されても蝦夷のことは記されない


それで柳田国男はそういう権力者側、支配者側ではない民間の人たちの側にたって歴史を見る作業をしたことに功績があった
文字で記されない民間人が伝える口碑を解きあかして民間人側からの歴史を見させるようにした。
そういうことが今回の津波にもあった。

これだけ巨大な慶長津波のことが記されなかったのか?
それはやはりその時、戦国時代の終わりであり津波の被害のことなどに
復興などに財源を使えなかった、大阪の陣の出費やら江戸城の普請などに
かりだされた時期でありそういう余裕がなかった。
そして相馬藩ではまだ開拓されない原野が津波にあい被害が少なかった
とはいえ700人溺死と記されていたのだからそれだけの被害があった

ではそれは誰が死んだのかというと謎なのだけどやはり漁労民などが主に死んだのだろうただその内訳は不明である、その手がかりとして南海老村に残された伝説を引用した。

南海老という場所や中村の天守造営にたづさわった大工の伝説である。
それが何か慶長津波を示唆しているのだ。
茶銚が大きくなり転々としたというのは津波に流された様子であり垣が路をさえぎったというのは津波で流されたものかもしれない
六十六部の墓から青い光を発したというのも海の色を思わせる。
この六十六部は仏教の修行者であり津波の被害者をとむらったのかもしれない
海水で洗うとこの怪異があるというのはそのことを示唆している。
海水で遺品や死体を洗ったかもしれないからだ


そして中村の天守造営は大工にとって名誉なことなのに引き止めるものがあった。
その理由は何なのか?
それが何か自分などが探求した慶長津波のことが記されなかった無視されたことに通じている
この大工は何か呪われたようにして死んだのである。
普通だったら天守造営にたずさわったものなら代々の名誉として記される
それが南海老村の伝承では呪われたものとなっている
これは相馬藩政記に記されたのとは違い民間人側から記されたのである。

歴史に記されないくても何かそのことで民間人の間で伝説が残される
蝦夷にても大和王権側には記されないがアラハバキ神社などが残された
何かは痕跡は残される、だからこの南海老村の伝説は何か記されなかったことの
象徴的なものであり謎がここにあるかもしれない。


「天守造営より津波の被害の復興のために善次は大工は働け」

そういうことがまわりからあったが主君の命令でできなかった。
それで津波の供養をした六十六部の墓から青い光となり茶銚が転々としたとか
垣が路をさえぎったとか津波のことを生々しく思い出させるものを示した
ただ藤金沢は高い場所だから津波は来ていない
でもすぐ近くには津波が来ていて被害があった


相馬藩の主君は

「善次よ、津波より天守の造営に勤めよ、津波の被害のことは忘れよ」
「そのことはわかりますが津波の被害も甚大でありこちらでも働かねばならないのですが・・・」
「主君に逆らうのか」
「滅相もございません、ただあまりにも津波の被害が大きく仲間も死んでおりますので・・」
「それよりも天守造営こそ大事だ」
「わかりました、わかりました」
その時、相馬藩の歴史を記す筆吏が
「津波の被害のことはいかがいたしましょうか」
「まあ、人的被害は大きかったが原野が主に津波の被害にあったから米は例年のようにとれるようだ、だから700人溺死とかしるしておけ」
「700人では多くないでしょうか」
「だいたいの数でいいよ、これだけの津波だからそのくらいは記しておかないと・・」
「かしこまりました、おおせの通りにいたします」


こんな調子だったのかもしれない、ただその津波で死んだ人たちは善次にその無念がふりかかって善次は呪い殺されたともなる。
つまり700人溺死した怨念がここに残っていたのかもしれない、
あとで相馬藩で民のことを思い天守は財政的に苦しいから民のために使うため作らなかったなどと言っているが実際は天守造営を中止した。
それはその時津波の被害があり何か天守を建てるのをためらった
津波の被害者のことを恐れて天守を作らなかったのかもしれない
それがあとで相馬藩の主君は名君で民のことを思い天守は作らず民のために作ったとなったのかもしれない・・・・


いづれにしろ当時の慶長津波のことを解きあかす資料はほとんどないから
これが唯一の資料かもしれないとしたら貴重である。
ただ伝説の解釈はいろいろあるが中村城の天守を造営していた大工が南海老村にいたということは大事である。
時期的にも場所でも津波の被害と深く関連していたからである。

posted by 天華 at 13:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係
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