2014年06月16日

中世の磯部館の海側から移転は慶長津波が関係していたのか? (伊達氏もかかわり中村城移転は相馬氏の支配を確立するため)


中世の磯部館の海側から移転は慶長津波が関係していたのか?

(伊達氏もかかわり中村城移転は相馬氏の支配を確立するため)

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鬼越館の近くまで津浪が来ていた。
浪の浸食により移動したと記されているが何かしら慶長津浪も関係していたかもしれない
なぜなら鬼越館はいつ建てたか不明となっているからだ


●佐藤氏が磯部館から鬼越城へ


築城年代は定かではないが永禄6年(1563年)頃に佐藤伊勢好信によって築かれたと云われる。佐藤氏は源義経の家臣佐藤忠信・継信兄弟の後裔を称し、好信ははじめ岩城氏の家臣であったが、後に相馬顕胤・盛胤に仕えて軍奉行を務めた。天文11年(1542年)伊達輝宗との合戦の功により磯部・日下石など宇多郡の内六ヶ村を領しはじめ磯部館(佐藤伊勢館)に居を構えた。しかし、
海水による浸食が激しく鬼越館を築いて居を移したという。

好信の子佐藤宮内為信は永禄9年(1566年)伊倶郡小斎城代となり移ったが、天正9年(1581年)謀叛を起こして伊達氏に仕えた。これは父好信が郡左馬助の諫言により三ヶ村の所領を没収され、天正7年(1579年)無念のうちにに病没したことを恨みに思い、郡左馬助を討って亘理元宗を介して伊達氏に属したもので、伊達氏においては家格を一族に列せられた。
 鬼越館を築いたのは、相馬氏の家臣であった佐藤伊勢守好信である。佐藤氏は磯辺・日下石等6ヶ村を領し、もともとは海岸近くの磯辺館を居館としていた。しかしそこは波浪による浸食が激しくなってしまったため、永禄6年(1563)、鬼越館を築いて移り住んだ。『相馬氏家譜』には「伊勢好信、磯辺の館より立谷東山館を築いて住居」とある。この立谷東山館というのが、この城館のことであると思われる。
 天正9年(1581)、詳しい経由はわからないが、当時の城主佐藤為信は、相馬義胤にそむき、伊達輝宗に属した。そのため相馬氏に攻められることとなり、鬼越館は落城し、佐藤氏は伊達氏のもとに身を寄せていった。

http://homepage3.nifty.com/otakeya/hukusima/soumasi.htm

立谷家の「鬼越館」の近く立谷邑中屋敷に1335年頃に立谷の館を構えました、今も館の後が残っています(道の駅そうま)の西側500メートル当りで外堀も残っています、

佐藤好信は源義経の家来であった佐藤忠信・佐藤継信の子孫を名乗る。今の福島県浜通り地方を中心に活躍し、その名に恥じぬ勇名を馳せた。

もとは富岡城(楢葉郡)にいた岩城氏の重臣であったが、相馬氏の武勇を慕い富岡右京進・富岡美濃らと共に相馬領へ来て相馬顕胤・盛胤の二代に仕えた。草野直清・青田顕治の反乱鎮圧戦などで活躍し、軍奉行として優れ、数多くの功績を立てたが、それを妬んだ別の家臣の讒言に遭い、軍奉行職を解かれたうえ、所領を没収された。これを恨みながら、まもなく死去したという。


佐藤為信

佐藤 為信(さとう ためのぶ、天文 (元号) 天文11年(1542年) - 天正19年(1591年))は相馬氏の家臣。佐藤好信の嫡男。
小斎城代として重用されたが、父・好信が讒言により減封され、果ては憤死に追い込まれたことを恨みに思い、讒言した家臣を討って相馬氏から伊達氏に寝返った。その際伊達氏の一族に迎え入れられている。佐沼合戦における佐沼城攻略の際に、兜の八幡座を鉄砲にて射抜かれ討死。

「東奥中村記」と言う奥州相馬藩の史書が有って(相馬市史5)、これによれば、相馬氏の家臣「佐藤伊勢」が、小高の浜から船に乗って、宇多郡磯辺の城の椎葉勢に乗込み、夜討ちして、士及び雑兵の首60余級を討ち取った事が書かれている。その他には、松ヶ江辺に夜討ちして敵を脅かす事、両三度に及んだと言う。この様に海(水)上とかの活躍は、奥州相馬氏の南北朝時代(北朝方としての相馬文書)とか、戦国時代の史書を探せば、未だ有るかも知れません。尚、相馬氏には「奥相秘鑑」と呼ぶ史書が有って興味深いが、これ等は近世期の編纂資料で有って、果たして天文年間の正確な資料でしょうか。小高城からの出騎の項に「神岡館」と有るのだが、これは「福の隷書体」を「神と誤って」表したものでしょう。正しくは「小高町の福岡字有山」に有った「福岡館」でしょう


相馬氏と水運ー4(東奥中村記)半杭正幸
http://red.ap.teacup.com/hangui/2915.html

半杭氏も海運に注目して残された文書の記録に間違いあることを指摘しているのだから
磯部館が山側の鬼越館に移ったのはいつかは確定できないのである。
津浪だったのを浪の浸食としたとういのはありうるのである。

●在地勢力を支配下に置くことに相馬氏は四苦八苦

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この記録の中に何か慶長津波のことが隠されている。相馬氏は小高に本拠地の城を置いていたが村上に城を移転したが火事があって縁起が悪いと原町の牛越城に移転した。
それはもしかしたら塚原や村上などで湊を支配していた岡田氏などの抵抗にあったのかもしれない。ここは自分たちの領地だとかなり火をつけられたということもある。
相馬氏は領地がまだ安堵されていないから秀吉にとりいることや後に家康にとりいることに必死だった。牛越城では実際に領地を没収される危機に直面していたのである。

慶長津波を考える場合、こうした当時の戦国時代の相馬藩内は中世以来の豪族が館をもち支配していた。だからこうした有力な豪族を支配下に置くことに腐心していた。

特に古代の宇多郷、今の相馬市地域はまだ伊達氏の影響力が大きかった。
もともと今の相馬市地域は伊達氏が一時支配していた地域でもあり相馬氏が進出することには抵抗があった。
小高を中心とてして北に向かい相馬氏の支配を確立しようと腐心していた。
だから今の鹿島区は北郷であり小高から見て北になるから北郷になった。
一連の城の移転は小高では湊を所有していた岡田氏をおさえようとする動きであり
牛越城は今の泉かんが跡にやはり湊をもっていた泉氏をおさえるために作られた。

そして中村城移転はこうした在地の中世以来の豪族を相馬氏が支配することだった。

今の相馬市地域は伊達氏がまだ勢力をもっていた。伊達氏をおさえるためにはどうしても中村に城を移転せねばならなかったのである。
佐藤氏の息子が丸森の金山城の城主となって伊達氏に寝返ったとかでもわかる。


天正9年(1581)、詳しい経由はわからないが、当時の城主佐藤為信は、相馬義胤にそむき、伊達輝宗に属した。そのため相馬氏に攻められることとなり、鬼越館は落城し、佐藤氏は伊達氏のもとに身を寄せていった。

「東奥中村記」と言う奥州相馬藩の史書が有って(相馬市史5)、これによれば、相馬氏の家臣「佐藤伊勢」が、小高の浜から船に乗って、宇多郡磯辺の城の椎葉勢に乗込み、夜討ちして、士及び雑兵の首60余級を討ち取った事が書かれている。


これなども小高に湊がありその小高ら磯部の湊へと船にのって夜討ちしたということはそれができる船の運行があり湊があったということである。
小高でも磯部でも今のような砂浜ではなく入江のようになっていたのだろう。
だから湊にしやすい船が入りやすいものとなっていた。

ただこうした記録もどこまで史実なのか半杭氏も書いているようにわからないのだ。
鬼越館でもいつ作られたかも実際は不明なのである。だから年代通りでもないことがある。鬼越館の名は鬼は鬼門であり北を意味しているから北風が吹きつけて通りすぎる所となるから位置的にはそういう場所である。
ただ慶長津波の前の数十年間は戦国時代の激動の時代であり相馬氏の支配は確立していない、伊達氏に一時黒木氏が加担して鹿島の田中城で戦いがあったように伊達氏と相馬氏の争いは鹿島から中村地域移動したのである。
相馬氏はまだ相馬藩として支配を確立していない有力な豪族のおさえるために四苦八苦していたのである。


●相馬藩は財政難で慶長津波のすぐ後にも高い役金を課していた


時代的にはずれているから慶長津波とは関係ないとなるがそれでも慶長津波の近くに
波の浸食が起きたというが時代がずれて記されているかもしれない
文書に残っているからとすべてが正しいとはならない、そこには粉飾があり年代もずれている場合があるからだ。実際に記述の間違いを半谷氏は指摘している。

なぜ慶長津波のことが記されなかったかというとそれは伊達氏でも伊達政宗は一言も津波のことに言及していないのは相馬氏と同じだった。
当時の藩主と津波の被害を公にできない事情があった。
ただ伊達藩では慶長津波のことを他の氏が記している。

記録したり宣伝したり何か伝えるにも権力が必要になる。権力あるものは集団は大宣伝ができるから真実は曲げられる。
マスコミもまた一つの大きな権力である。メデアは権力だというときそうである。
常に権力によって情報は操作されるのである。原発でも批判は封じ込められていた。
本を出すにも確かに出ていたが隅の方に冗談のようにSF小説のように置かれていたのである。
本を出版するにも権力が必要なのである。
それだけの被害にあったのだから本来は被害にあったものが直接訴えればいい伝えればいいのだが
権力かないとできないということもあったのである。


三本塚周辺の開発


慶長年中、比屋
海上より潮押揚海辺村々之者人馬多潮水におぼれ横死、田畑殊之所外荒所罷成候所、元和之頃、御上より荒所開発望令族開発可仕由御触、右ニ順て家友、当初へ取移三今之屋敷(二ツ屋敷)ヨを構へ住し、熟地見合、田畑十五町余り開発,子孫へ伝え候(佐藤家家譜)

この津波の後、相馬地方の相沢、大友、柴崎氏が当地の荒地開発にあたっと言われます


佐藤家とは相馬氏の磯部の伊達氏寝返った佐藤氏一族のものなのか?
ここに相馬氏の武士が移り開拓したとなるのか?
相沢氏は伊豆の相沢郷が出自であり柴崎氏は千葉の我孫子に柴崎城があり相馬柴崎とあり相馬氏系統である。
佐藤氏も磯部館の伊達氏に寝返った佐藤氏なのか、何か相馬氏とつながりある所に開拓に入った。
不思議なのは相馬藩内でも伊達藩と同じような慶長津波の被害にあったのにこうした開拓に入ったという記録は一切ないのである。

中村城普請、江戸屋敷の普請の費用、参勤交代による費用などがあり在郷給人にその他寺社方、職人などに至るまで百石につき山両一分の割りで慶長18年から元和二年までの間、役金をおうせつけられた。
さらに財政が苦しく二分増しの三両三分とされた。
給人はこれまでも困窮していたためにその収入で上納もできかね、重代の大刀、刀、武具、家財まで売り払い下男下女まで売り払って役金を収めた。
これでは苦しいと役金の免除を申し出た。
でも殿は参勤交代の金も工面できないと許さなかった。
その後役金が免除されないなら知行地を返上したと再三訴えた。
このために他藩に行く者もあった。

寛永八年(1668)百姓の騒動があった。
切腹させられ給人が6人ほどいた。

百姓どもが訴訟申し上げたのは給人衆の知行開発があまりに多い故、山野がゆきづまり百姓たちが春の草を刈る所、馬をつなぎ、稲を干す場所もなくなっていて]困ったからである。
(奥相馬秘鑑ー森鎮雄)



慶長津波の後に起こったことを知るてががりにこの記録はなるだろう。
相馬藩ではまず慶長津波の後でも財政難で役金が給人からとらねばならなかった。
そもそもこんな財政状態で津波の被害の復興などありえないだろう。
相馬藩では寛永八年(1668)頃まで50年後まで津波の跡は開拓もされず放置されていたのである。給人がこういう状態のとき、相馬藩を出てよそに出る武士もいたというとき、それが相馬氏一族の相沢氏とか柴崎氏だったのである。
ただ慶長津波から50年たつと盛んに郷士の開発が行われて在地の土地の住民に迷惑にさえなって切腹させられた武士まででてきたのである。
約50年すぎて相馬藩では活発に津波の跡でも開発が盛んに行われるようになった。
それまでは放置されていたのである。

つまり伊達藩と相馬藩は慶長津波の対処が違っていたのは事情が違っていたからである。こういう財政難でも津波の被害を訴えたりそれを取り上げたりまた津波の被害のことを
外に言うこともはばかられた。
当時は戦国時代でありなるべく藩が力あるものとして外部に見せねばならなかった。
それで伊達政宗がハデな演出して伊達者と全国で知られるようになったのは実際は藩は貧しい農民が主なのだがハデに装うことによって隠していたのだと言う人がいた。
陸奥には西のような豪商もいない農民が主体の社会だったからである。


●慶長津浪の被害者の忘れられていたが思い出さされたこれもカルマ


慶長津波のことが文書に記されなくてもやはり慶長津浪に由来するものがその時あった。新地の地蔵森の伝説や相馬市の諏訪神社の津浪伝説は貞観津浪の時のだという。
慶長津浪に関しては本当に記録も伝説もほとんどないのである。
それは相馬藩の戦国時代の特殊な事情がそうさせたのである。
伊達藩は伊達政宗の支配が完成していていた。ただそれにしても伊達政宗も慶長津浪には言及していないのである。
それも外にそうした困窮状態を口外することが戦国時代では不利になるという意図があった。でも内部では津浪の跡を開拓する作業すでにはじめていたのである。
そこはすでにもともと田畑となり開発されていた場所である。

相馬には荒地の方がもともと多かったのだろう。
だからこそ相馬氏の相沢とか柴崎氏とかが伊達藩の開拓に入ったのである。
相馬藩ではそもそも相馬氏が在地の豪族をまだ完全に支配していない、統一していなかった。そこで津浪の後にも役金を徴収していたのである。
だから給人が反乱を起こすような所では伊達藩でも外に出て領地を得て開拓した方かいいとなって移住したのである。
なんらかそういう不利な所に移住するには事情がある。
越中などの移民にしても飢饉の後の荒地に来るのは来る方に事情があったのである。

相馬氏にとって慶長津浪はやはり財政難に拍車をかけたしいいものではなかった。

ただそれで在地の勢力がそがれたので津浪の後に中村城へ移転を結構できて統一できたというプラスの面もあったのである。
そして津浪から50年後は盛んに郷士の開拓が行われて在地の農民や漁民や山民が迷惑になり訴えるようになった。
50年という津浪の跡の原野でも塩分はなくなり開拓して田にもできたのである。

慶長津浪の被害者は不運に不運が重なったのは戦国時代という中で起きたことである。
まず津浪が起きた2年後に役金を課しているということ自体、相馬藩で津浪の被害者を
援助するとか復興するとかありえない状態だった。
津浪がさらなる財政逼迫を生み幕府で助けるわけでもないしかえって江戸城普請とか参勤交代とかで出費がかさむ。給人にしてもまるで暴力団への上納金のように役金が払えないと暴動まで起きることが実際に画策される。

何か海老村の善次の伝説はこうした当時の事情があり天守造営にかりだされたのだがその土地の支配者が輪蔵館などが出したのだがその館の支配者にとってはしたくないことだった。でも一方で行かざるを得ないという事態に追い込まれていた。
そういう板挟みの中で津浪の被害の後に天守造営にまつわる伝説が生れた。
支配者同士の争いで戦争で民衆が犠牲になることは世界でもあった。
権力をもっているものがさらなる権力をえるために戦うがそのために民衆が犠牲になるということがある。


原発事故でも権力をもつものが政府指導ではじめてその土地の民衆が利したとしても
やはり犠牲になったということはいえる。
結局この世の中今だって弱肉強食の世界は変わっていない。
相手が弱った時攻められる。そういう経験を自分もしてきたから人間は怖いと思う。
相手が弱ったから同情するということはない、戦国時代は特にそうだったのである。
常にその地位が脅かされていたのである。相馬藩も牛越城の時、改易になるのを辛うじて逃れた。その領地も地位も安泰ではなかった。
そういう時慶長津浪が起きたのであり犠牲になった民衆は犠牲にされ忘れられたのであるその数は多かったが例えは太平洋戦争で三百万人死んだと一手も四〇〇年もたてばその一人一人のことなど忘れてしまうだろう。
いつまでも戦没者供養などしていないだろう。三百万人死んでも忘れられてしまう。

今回はすぐに犠牲になった人たちの供養碑が建った。それは四〇〇年後にも残るだろう。ただ四〇〇年後がこの辺がどうなっているかなど想像もできないのである。

慶長津浪と同じ規模の津浪が襲ったからこそ四〇〇年前のことを考える。
もしまた日本が戦争があって何百万人死んだとなればまた太平洋戦争のことでも真剣に考える。
歴史もカルマであり繰り返しなのである。カルマは本当に個々人でも厳しいものがあり
逃れることができない、何か先祖のカルマを津浪の被害で意識されたということがあるのだ。
人間は常にカルマを負った存在だということを津浪が意識させたということはある。
津浪でも四〇〇年でも定期的に起きるものでありそれは科学的にそうでありそうた災害に人間は備えることができなかった。
個々人でも何代も前の先祖が戦争で人を殺していたからその償いのために看護師になっているとか言う人もいた。長い眼で見れば歴史でもありねその地域地域にもある。
地域の独特のカルマがありその中で生きている。相馬藩は津浪が起きた時、こうした特殊で戦国時代の事情があって津波の被害者は忘れられてしまったのである。


参考にした本


「仙台平野の歴史津浪」ー飯沼勇義

飯沼氏は実際に津浪のことを警告して仙台市にも訴えてしいたし南相馬氏の博物館にも来て津浪を警告していた。でもとりあわなかった。

郷土史というと好事家が暇で研究しているという感覚になる。
でも実際今回の津浪で郷土史というのは郷土全体を視野にした長い歴史を探求するものでありそこには重大な使命が隠されていたのである。
盛んに地名まで津浪と関係あるのではないかとか神社は津浪をまねがれたとか様々なことが津浪で浮き彫りにされた。
日本では災害が大きな歴史の中に組み込まれていたのである。
ただ災害は百年に一回とか四〇〇年に一回とかなると忘れる。
それが忘れたことが災いにつながっていた。

カルマは個々人でも意識されない、でも今回のように同じことが起きればカルマを意識させられるのである。
例えはアメリカが日本に原爆を落としたことはアメリカのカルマである。
でもアメリカ人はそのカルマを意識しない
それがそのままでありえない、アメリカにも原爆が落とされた時深刻にヒロシマに原爆を落としたことを真剣に考えるようになる。
9・11のビルの崩壊もそうしたカルマが現実化したということはある。


posted by 天華 at 22:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係
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