2018年10月20日

責任をとらされる人が一番真剣になる (責任をとらない人は信用できない)


責任をとらされる人が一番真剣になる

(責任をとらない人は信用できない)


原発は安全ですよ、百パーセント安全です

では事故になったら責任とりますか?

誰もとらない

地元の人は責任をとらされる



投資信託はもうかりますか?

もうかります

責任はとりますか?

とりません、手数料だけはもらいます

責任は頼んだ人がとるんです


結局人間は責任がつきまとっている、生まれたときから何か責任を果たすためにカルマを果たすために生まれて来たのかともなる
責任をとらないものは無責任になる、だからこそ百パーセント安全だというが事故になったからと誰も責任はとらない、そして地元の人が責任をとらされた
故郷に住めなくなった、では地元の人に責任がないのか?
それはあるにしろないにしろ誰かが責任をとらされるのである

責任を取らされる人が最も真剣になるべき

責任をとらない人は真剣にはならない、どうせ事故を起きても責任をとる必要はない
東電では社員が月給が減ったわけでもない、みんな税金で補償金を払っている
痛みもないのである、そして責任を負わされたのは地元の人だったのである
だから責任を負わされる人こそ真剣に対処する必要があった

百パーセント事故はないですよといくら政府とか官僚とかマスコミとかが学者が言ってもその人たちは責任はとらない、罰せられることもないからである
地元の人たちは故郷に住めないという罰を与えられた、責任をとらされたからである

銀行の投資信託でもそうである、その仕組みはわかりにくいから理解できない
それを銀行がすすめる、銀行は信用できると思いまかせる
でも損したからと責任は一切とらない
とらされるのは頼んだ人なのである
そうしたら一番真剣になるべきは頼んだ方なのである
銀行は別に損することは絶対ない、責任はとらないからだ
そもそも株とか投資信託でも銀行は知らないのにすすめている
でも銀行が知らないとか関係なく頼んだ人は責任はとらされる
そしたら株でも投資信託でも頼んだ人が責任をとる
損してもあなたの責任ですよとなる
だから知らないですまされない、知らないのならやるなとなっていたのである

原発だってそうである、政府とか官僚とか御用学者とかマスコミが安全神話を作った
でも事故になったからと誰も責任はとらない
責任をとらないからこそ100パーセント安全ですよとか安全神話を作ったのである
もし事故になったら死刑になりますよとなったら誰もかかわらないだろう
もう真剣に命がけでやるから安全にも万全を期するとなる
そうしたとしても人間のやることにミスがあるから百パーセント安全だということはありえないのである
万一が必ずあるからだ、何が起きるかわからないのが人間社会だからである

ただ事故が起きてからはもう地元の人はそれを知ったのだから今度は確実に事故が起きても補償はされない、福島の原発事故の被害を知ったからである
こういうふうになるけど作ってもいいですかとなっているからだ
リスクを覚悟で地元に作らせたとなり補償はないとなる

いづれにしろいくら政府でも官僚でも学者でも技術者でもマスコミでも安全だと言っても責任はとらないということがわかった
戦争でも同じ構図だった、国民に戦争をさせたのはそうした指導する人たちだった
でも国民は戦争に熱狂していたというときまた国民にも責任があったし
現実に3百万人の国民が死んで責任をとらされたとなる
それを承知で戦争に国民が参加したのかとなるが必ず責任はとらされる

だから民主主義社会ではそうして国民が主権者なら情報でも開示させて納得させる
説明責任があり秘密主義になってはならないのである
原発のことはわからないといっても説明はされるべきなのである
何かあっても秘密のベールに原発はおおわれていて御用学者が安全を言う
素人は何も言うなという、でもその人たちが責任を負うならいい
責任をとらないとしたら地元の人が戦争では国民が責任を負うことになるから知らないですまされないのである
それは投資信託でも同じだった、知らないではすまされなかったのである

知らないならやるな

こうもなっていたのである、そして知らないですまされなくなる、責任は必ずとらされたとなるのである
posted by 老鶯 at 08:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2018年10月19日

原発事故と地銀がすすめる投資信託はにていた (リスクを言わない、説明もしない、実際はわかっていないのにすすめる)


原発事故と地銀がすすめる投資信託はにていた

(リスクを言わない、説明もしない、実際はわかっていないのにすすめる

科学者はメルトダウンしたことを知っていた→でも嘘ついた

銀行は投資信託をがもうからないことを知っている→でもすすめる

それはなんのためなのか?

利益が出るからである、御用学者でも利益が得られるからである

知っていて嘘をつく、それは利益がえられるからである
それは科学者や技術者の良心に関係している

武田邦彦氏がyoutubeでそういっている

何が犯罪になるかというと知っていて意図的にそれが悪いとしてもすすめる
もし知らないでしていたら犯罪にならない
盗むにしてもこれを盗むということを意図して意識していれば犯罪になる

でも意図せずして盗むことがあるのか?

それはむずかしいのだけどある人がコンビニでいろいろ苦しみ悩んでいるとき週刊誌をみていてうっかりパンをポケットに入れてしまったのである
その人は全く意識していない、第一その時その人が多額の金を盗られたのである
だからパン一つくらいならどうでもいいと思うがもし意図して盗めば犯罪になる
でも外から見てその人は確実に盗んだとしかみえないのである
それでもその人には盗む意志は全くなかったのである、意識も意図もしないでいろいろ苦しみ悩んでいてそれで週刊誌を読んでいて注意がそっちに向いて意識せずにポケットに入れていたのである、それは防犯カメラに映っていたのである

だから意図しない意識しない犯罪がある,それは殺人だってあるかもしれない、思わず意識せずに事故のように起きる犯罪もある、だからつくづく人間の問題は犯罪でも複雑なのである、知的障碍者とか精神障碍者が犯罪を犯しても罪にならないのはそのためである
罪の意識ももてないからそうなる

では科学者はどうかとなると科学者は素人より科学について知っている、知っていて嘘をつく、原子力とか核になると素人はわかりにくいからそこで嘘をつく、でも科学者は知っていて嘘つくから犯罪になる
私はそんなことを知りませんよ、そうならまた原子力の専門家として失格だともなるからだ、そんな人がなぜ原子力を扱っているのだと責められることになる
知らないならそんな危険なものを扱うなとなるからだ

銀行でも銀行員が説明もしないで株がリーマショックの時買ったのを元にもどしたとき投資信託に回した、説明しないで投資信託に回した
その時私は営業の人はプロですからまかせてくださいと言ったからまかせたのである
でも実際は投資信託を売り手数料を確実にとるためにそっちに回したのである

投資信託を売れば確実に利益になる、投資信託は損することが多いがそれを言わない
それで今はやりのを買わせる、その時はもうもうからないのである
今株が上がっているとき売る理由がない、説明もしない
そのことで説明責任が問われて実際に裁判にもなったのである
医療でも一応説明責任が必要なのである、だから手術の時などしている

原発でも同じである、安全、安全といい私たちはプロですからまかせてください
絶対百パーセント事故は起こりませんと言ってリスクのことは一切言わない
それは銀行より悪質だとなる、なぜなら銀行では一応リスクのことはあいまいだが言うからである、また素人でもある程度わからないにしろ株はリスクはともなうことは知っている、でも私の場合はいろいろ他にすることがあり調べられないから銀行にまかせたのである
人間は何でも知りえようがないしできないからプロにまかせる
ところがそのプロは一切責任はとらないのである
それは原発関係者でも銀行でも同じである、銀行は確実に手数料はとりますがあとはリスクがあっても一切責任は頼んだ人がとるのである

百パーセント安全ですよ、ではそれで責任をとりますかとなる
今回の原発訴訟でも誰もとらない、百パーセント安全だということの責任をとらない
責任をもって百パーセント安全だと言ったじゃないですか?
その責任はどうするのですか?そうならリスクはありますと最初から言えば良かったのである、そのリスクを納得してもらい利益を供与しますからは言えばよかったのである
だから事故になっても何の備えもなく一番危険な山側に避難させたのである

要するに地銀の支店長も株のことはわからないと言っていた
ではなぜ知らないことをすすめるのか?
一方で営業の銀行員は私は金融のプロですからまかせてくださいと言わせているのか?
地銀で営業している人はそう言っている
その人たち原発関係者と同じ共犯なのである

だから原発は核のことは本当は科学者も全部はわかっていないからリスクがある
それを安全だとしか言わない、知っていて今度はメルトダウンしてもしないとか事故後も科学者は嘘をついている
もし事故が起きたら責任はどうするのですか?
死刑になりますよとかなれば軽々しくは原発を作れなくなるのである
最初からそれだけの覚悟が必要になるからである
そもそも今回のように幹部でも誰も責任をとらないからまた原発をはじめることになる
死刑になるら科学者でも自分はかかわりたくないとなるからだ

オウムの事件で何の理由をつけても人を殺したらあなたたちも殺されますよという覚悟で人を殺すならいい、でもそういう覚悟がないのに何かその時の調子で安易に人を殺した
そして死刑になったのである、死刑という責任を負ったときその重大さを重い責任を自覚したのである、責任が自覚されないからこそそういうことをしたともなり死刑になってはじめて自分たちのしたことの重大さを意識して反省したとなる

原発はこれだけ被害があったのに誰も責任をとらないからまた同じように原発を再開するそれは責任をとらないからである、もし誰か責任をとらされて死刑になったら誰も科学者でもかかわりたくないと断るようになる
東電でも社員でも一切責任はとらないし損したことはないのである
みんな税金の負担で賠償していて東電は何の痛みもないとなるからだ

いづれにしろ科学者でも知らないことをすべきではないとなる、また地元の人でも知らないことを安易に利益になるからと原発を積極的に誘致したのは責任があったとなる

知らないことはやるな!

それは科学者でもそうだし株でも投資信託でもそうだったともなる
知らないことがやる奴は悪い責任があるとなる
投資信託など仕組みが複雑でわからないからだ
それでだまされやすい商品なのである、だからこそ銀行側でもすすめているのである
相手が客が知らないということですすめる商売は今の世の中複雑だから多いのである
株は経験のないわからない人はやるなというのもわかる
そこで痛い目にあっても自己責任にされるからである 



posted by 老鶯 at 14:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2018年10月16日

原発訴訟−津波は東電で想定されていたが隠していた (極端な秘密隠蔽が大事故になった−マスコミも知っていて知らせなかった)


原発訴訟−津波は東電で想定されていたが隠していた

(極端な秘密隠蔽が大事故になった−マスコミも知っていて知らせなかった)


保安院は06年にも想定以上の津波対応を求めたが東電は具体的な対応をせず、08年になって初めてシミュレーションを実施。最大15・7メートルの津波が第1原発を襲う可能性があると想定したが、それに見合った対応は見送られた

【スクープ速報!】「想定外の巨大津波」は実は想定の範囲内だった!震災から5年、東電が「巨大津波」を予測できていた「新証拠」を福島原発告訴団・代理人の海渡雄一弁護士が岩上安身のインタビューで証言!

「何度も司法記者クラブで話したが、新聞は記事にしなかった」衝撃の事実をIWJで公開!!

数百億円の費用がかかると。さらに、防潮堤を建てると地元住民の反発により、原子炉をストップさせなくてはならない可能性があると。つまり、高い防潮堤ができれば、津波が来れば原発も危険なのだと住民が感じるからというのが理由です。だからこの問題はこの問題は『いったん』先送りして、何年も先に土木学会で調査してもらうということにしました。



お隣の女川原発はすでに貞観タイプを想定して報告書を原子力安全・保安院に提出ずみだった。女川と同じ貞観タイプの波源を想定すると、福島第一は4m盤の非常用ポンプが運転不能になることもわかっていた。



原発の問題は過度に秘密主義になっていたことである

「想定外の巨大津波」は実は想定の範囲内だった!震災から5年、東電が「巨大津波」を予測できていた「新証拠」を福島原発告訴団・代理人の海渡雄一弁護士が岩上安身のインタビューで証言!

「何度も司法記者クラブで話したが、新聞は記事にしなかった」衝撃の事実をIWJで公開!!


何度も話したが記事にしなかったというのは重大な報道の意図的な隠蔽だったのである
だからマスコミは信じられないとなったのである、今回の原発事故でもあらゆるマスコミが「安全神話」に組みするものであり
危険は報道されない、それは多額の800億円とかの宣伝費が電機連合とかから流れていたからである
それだけの金が電気連合にあったとなる、それで原発を推進させたのである

新聞は記事にしなかった、福島県の福島民報と民友でも報道しない
なぜなら民報は福島県の出資が50パーセントであり官報と同じである
原子力村と一体化した仲間だったからである
だから報道すらしない、その報道されないことで関心がもたされないのである
つまり報道されないことに重要なものがある
記者クラブで話しても報道されなかったのである
福島民報でも民友でも記者クラブにかかわっているから知っていたとなるからだ

問題は原発というのは過度に秘密主義になるのは何か危険を言うととめられるとか住民が騒ぐとかで何も知らされない、そして事故になったとき避難訓練もしないから浪江の人たちは一番危険な山側の津島に逃げたのである
住民は何も知らなかったのである、それで東電の社員が海側に逃げた方がいいと教えられて住民が海側に戻ったのである

東電社員は危険を知っていた!!!!!

東電社員は科学者集団であり優秀だなとつくづく思った
第一この辺で津波が起こるなど聞いたこともない、津波は来ないとこの辺で確信にもなっていた、貞観津波は800年だから千年以上前だとするともう来ないという感覚になる
でも東電ではそれを想定していたから優秀だと思う
女川原発はもともと最近でも三陸で津波があったとかあり危険を感じていたから違っていた、福島原発は津波は来ないとみんな思っていたのである

この問題の核心は何か?原発の過度な秘密主義が事故になった
別に公開してもいいのだが地元のマスコミですら報道しない、報道管制がしかれていた
それは戦争と同じである、一切不利な情報は出さないのである
勝ったという情報しか出さないのである

なぜこれが今になって重大なことだったか?
それは危険も恐れずに公表していれば

この辺にも15メートルもの津波が来るのか?

これを知っただけでも津波への警戒が生れていた

するとそういう警戒があれば津波だというとき時間的余裕が40分ほど地震が起きてからあったかち頭にそのことが入っていると避難して助かった人もいるかもしれない
まず津波は来ないという確信までになっているから避難しなかった人も多いのである
もしこれが公表されて注意されていたら東電にいろいろあっても感謝されたとなる
やっぱり東電は優秀な科学者集団だとなっていたかもしれない
つまりあまりにも過度な秘密主義になっていた
それは常に原発は危険だということを言うことはタブーとなる
科学者はいろいろ危険を知っていても言わせない、御用学者を使って言わせない
少しでも危険を言うと地元でも不信感になり原発がとめられるからである
それで知っていても報道機関は地元でも報道しなかったのである
ここにマスコミの責任もあったのである
なぜならマスコミと東電は一体であり宣伝費をもらっていたからである

原発がそもそせ危険なことは東電でも科学者でも最初から認識していた
だからこそ東京に作ればいいのだが離れた福島なら安全だということで作った
そこからして原発は危険だからそうなったのである
そしてわずかでも危険を言うことはタブーになり「安全神話」が保安院とか東電とかマスコミとかが一体となり作られたのである

原発は近くにあっても一般人は立ち入ることもできない、厚い秘密のベールにつつまれていたのである、そこにも専門家がいて何も知らされないのである
それは専門家時代でイリエチが指摘したことである

お前ら原子力のことが核のことがわかるのか?
お前らは医学のことがわかるのか?
お前らに法律のことがわかるのか?

こうして専門家に牛耳られる、そして結果的に何か事故が起きても医療ミスが起きても専門家集団は権力をもっているから明らかにされたり罪にされることはなかなかないのである     

何か重大なことが知らないうちに進展している!   

そもそも政治でも関心をもたないと重大なことがそこで決められあとで知ってもどうすることもできない
その関心をもたせることがマスコミ、報道機関の役目なのだけど実際はその役目を果たしていない
重大な事実すら知らされないのである                                                      

はじめから危険なものは作るべきではなかったともなる
日本では地震が多いし津波だって起きるから外国とは条件が違うからである
その危険を言って納得されないなら作るべきではなかったのである
現実に全然原発でも地元の人でも何もわからないかというとそうでもなかった 
新潟県の巻町では住民投票で反対が決まり作らせなかった

結果は投票率88.29%、投票総数 20,503票、原発計画反対が12,478票(61.22%)、賛成が7,904票(38.78%)でした。そしてその後も、2003年12月に東北電力が「計画断念」の声明を出して、30年以上に渡る長い議論に終止符が打たれました 

ただここで問題なのは原発は一地域の問題ではない、広範囲なものになるからもっと広い範囲で是非を決めるべきものだったのである30キロ内とかだけではない現実にこの辺は福島市まで影響したし福島県全体の問題に波及したからである
住民投票となると福島県全部を巻き込むものとしてする必要すらあったのである
現実に避難者は福島県全体に避難したしまた周りの県にも避難したからである

いづれにしろ原発の極端な秘密主義が今回の事故をまねいたのである
別に科学技術でも危険はある、完全な安全などないのである、だから交通事故は一定程度死者もありそれを容認して車社会になっている、鉄道だって完全な安全はない、どんなにししても事故がおきないとは言えないしそのことはみんな承知しているのである
飛行機でもそうである、そのことで事故があれば責めはするがある程度容認範囲にある
ただ原発だけはそうはいかなっかた、ちょっとでも安全ではないと言えなかった
そのことが大事故につながっていたのである、だから最初から政府でも東電もでも科学者もそのことを知っていたのである
でも「安全神話」を作り必死に秘密を守り知らせなかったのである、それが大事故になりとりかえしのつかないものになったのである。

私もインタ−ネットで原発事故の六年前に相馬市の奥まで津波が来たというボーリング調査があった、それは貞観津波のものだった、それをホームページで報告していた
だから確実に貞観津波はこの辺でも大きな被害があった
ただその時はこの辺は人があまり住んでいないから人的被害はあまりなかった、慶長津波の被害は大きかったが記録には何も残っていない
ただ700人溺れ死んだと相馬藩政記に記されていただけなのである
その時この津波があるとすると双葉とかの原発にも津波が来ると私が発想する、イメージできればかなり違っていた
なぜか原発に無関心だったのである、30キロ離れているから関係ないと思っていたのである、原発事故は広範囲に影響する
それが今回の事故でわかったのである

この期待を持って発掘を試みたところ、厚さ数pの砂の層が仙台平野の広範囲にわたって分布 している事実が明らかにされました。様々な地球科学的分析により、砂は津波によって運ばれ堆積 したと結論されました。地層に含まれる木片の放射性炭素年代は、砂層の堆積年代が貞観の時代を 示唆しています。す同様の砂層が相馬市でも発見され、津波堆積層の広がりから正史の記録に誇張 はないと判断され、津波は仙台平野を水浸しにしたのは事実のようです。

貞観津波の数値的復元に成功しました。 これにより、仙台平野の海岸で最大で9mに達する到達波が、7・8分間隔で繰り返し襲来したと推定されました。

相馬市の海岸には更に規模の大きな津波が襲来したようです。将来予測は、科学の最大目的の1つです




posted by 老鶯 at 08:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2018年10月06日

責任をとらない,自覚しない、そしてまた同じことをする (戦争も原発事故も同じだった)


責任をとらない,自覚しない、そしてまた同じことをする

(戦争も原発事故も同じだった)


人間は何かというと責任が問われると思った、責任が問われるのは重要な地位にあり権力を持っている人である、権力という時それは今なら金が大きな権力になる
金で人を支配できる世の中だからである
それで東電とか電事連とかから莫大な宣伝費がマスコミに流れた
しかし戦争と同じく今回も誰も責任は問われていない、責任を課せられないのである
これだけの重大な被害があったのに過失致死傷にもなっているのに責任が問われない
それはなぜなのだろうかとなる
そういう無責任体制がもともと日本人にあったからだとなるのか?

戦争の責任は別に日本だけにあるのではない、アメリカにもあるしヨ−ロッパ側にもあった、なぜならなぜアジアまで進出する理由があるのか?
そんな遠くからなぜアジアまで来て侵略して自分の領土とする納得する理由があるのか?植民地にする理由があるのか?それは一方的なものであった
アメリカとの戦争でもアメリカに正当な理由があるわけでもない、真珠湾攻撃だってそれはアメリカがしかけたものだともされる
アメリカに別に正義があって戦争したのでない
とにかく日本を潰したいということでした戦争である
要するに喧嘩両成敗なのである、そしてアメリカが原爆を落としたことはこれはどんな言い訳をしてももう人類に対する重大な犯罪だった、それがカルマとなってアメリカに永遠にふりかかる、だから原子力発電でも核兵器につながるから最初日本にもたせたくなかったというのもわかる、また北朝鮮のような小国をあれほど恐れるのも核の呪いがありアメリカは日本に原爆を落としたことで恐れているのだ

でも一方で日本はどうだったのか?その責任は問われたのか?責任を果たしたのか?
これもほとんどなかった、これは別にアメリカが裁けるものでもない、日本とアメリカの喧嘩両成敗になるべきものだったが勝者が敗者を裁いたというだけである
そもそも戦争というそのものが犯罪なのである、その犯罪は裁かれることもないし責任を問われることもない、でも確実に何か事を起こすと人間は責任を課せられる
その責任とは三百万人が死んだということである
この事実はあまりにも重いのである、天皇もその罪を担うことになった
天皇にも責任があった、これも逃れることはできないことだったのである
天皇は神ではない、それで神ではないとしてアメリカにGHQに命乞いして助かったとされる、天皇が罪人となることは日本人にとって耐えられないこととなったからそうなったともなる

ともかく人間社会で例えば犯罪を犯しても別に反省することもない人も普通にいる
第一その人は犯罪の自覚がないのである、自覚がないから反省もしないし罪の自覚もない犯罪を自覚する人はそれだけモラル的には優れている
なぜなら犯罪を自覚しない、そういう人は自覚させられない限り犯罪したとも思わないとういこともある,いろいろな理屈を並べて自覚しないことがある
オウムだってそうだろう、宗教のためにポアしてもいい、殺すのは罪にならない、むしろ救済だとして殺人団体になったのである
人を殺すことになんら罪悪感もなく自覚もなく殺したのである
そういうふうに殺人すら理屈をいい正当化されるのである
戦争でもそうである、おそらく本当は戦争自体が人類の罪でありどちらが正しいとういことはない、どらちにも正義があるからだ
ただ力の強いものが正義だとされる

戦争でも誰も責任はとらなかったが300万人が死ぬことで責任をとらされた
原発事故でも誰も責任はとらないが地元で故郷に住めないとか荒廃してしまった
責任は地元でとらされたのである
でも事故を起こした「安全神話」を作った人たちは政治家でも官僚でも東電でもマスコミでも誰も責任はとらない、裁判になっても裁判する法の官僚にも責任が問われた
東電に天下りしていたとかなるからだ、そこで利益にあづかっていたからである

そもそも責任を明確にしないことは善悪でも明確にしないことである
あいまいに終わり何が悪いのか罪なのかすらわからなくなる、結果的に日本軍を正義の戦いで死んだのであり英霊として祭ることになる
そうなれば別に日本の戦争は聖戦であり誰も責任は問われないのである
日本の英雄として祭られることになり戦争を推進した人たちは褒められるべきものであり責任を問うことなどしなくてもいいとなるのだ
でも300百万人が死んだことや原爆を落とされたことは永遠に消えないのである

つまり日本がアメリカに謝るとか韓国や中国に謝るということではない
何か責任があるという時日本は永遠に中国や韓国に謝ることになりそのことでつけいれられて賠償金を延々と要求され悪者にされる
でも戦争の責任はアメリカにもありヨ−ロッパにあったのだから不公平だとなる
でも日本は攻め安いから責めているだけなのである
人を裁くなと神が言う時人は人を裁けないからそうなる

いづれにしろ戦争でも原発事故でもその責任の所在を明確にして責任をとらせないかぎりまた同じことが起きる、それは何が責任なのかも明確にしないからである
もし責任の所在を明確にして責任をとらせれば次はそれでその過ちと罪を自覚するから同じ過ちはしないとなる
でもそれが明確にならないとするとやはり同じ過ちを日本人は繰り返すことになる

原発事故は国家的犯罪で起きたとういことがある、「安全神話」は日本の権力をもつものによって作られたからである
そこにはマスコミも明確に入っていた、マスコミという報道機関も犯罪者だったのであるそれは朝日新聞が戦時中戦争をあおったことと同じである
朝日新聞も東電の幹部に中国に招待接待されていたとき事故が起きたことはそのことを象徴していたのである

要するに責任というとき権力をもつものがまず責任がある
権力がなかったら何もできない、報道すらできない、そしたら責任をもていってももてないのである、マスコミは六局は報道する権利を与えられていたから責任を言われる
特別な権利を与えられていたから責任を問われる
それは政治家でも官僚でも東電でもそうである、御用学者でもそうである
「安全神話」を作ったのはこうした権力をもった人たちだったからである
それは戦争の構図と同じだったのである
日本は神国であり天皇は現人神(あらひとかみ)であり神であるから戦争に負けないと同じだったのである、そうしたものは誰なのか?
国民も加担して戦争に熱狂していたというとき原発は電気が必要であり国民が望んだものだというのとにているのである
つまり国民が望んだものだから国民にも責任がありみんなに責任があるから結局誰も責任がないとなる、それは戦争を起こした構図と同じなのである

そうなると誰も犯罪であっても自覚しない、悪いとも思わない、別に東電でも月給が下がったりしないし被害はそれほどない、評判が悪くなったとしてもそれほど実害がない
でももしオウムの幹部のように死刑になったらいくらなんでも自分はなぜ死刑になるのだと反省するだろう、現実にオウムの幹部は麻原にだまされたとその時反省したが時すでに遅しであり死刑にされたという責任をとらされたのである
死刑になるくらいの責任をとらされてはじめてその罪でも過ちでも人間は自覚するとなるそれで死刑になったことは外から見ても厳しいなと見るが当然だったともなる

東電の幹部でも官僚でもマスコミでも御用学者でも数人でも死刑になったらどうなるのか?

その時その責任の重さにふるえあがり責任が否が応でも自覚されるのである
だから原発事故でも誰も責任をとらない,とらされない、その罪の自覚はない
あれは津波という天災の結果であり責任はないとなってしまう
そして戦争でも同じだが原発事故でも反省しないから原発推進にまたなるしなっている
人が死んでいるわけでもないとか軽くみる、でも故郷に住めないということは甚大な被害だったのである、これまで積み重ねた歴史が奪われてしまった
それは人生と同じである、自分たちが生きた証が故郷にあった時そこに住めないということで奪われたとなるからだ



posted by 老鶯 at 19:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2018年10月04日

どこまで自己責任なのか? (自己責任になるための条件−なんでも説明責任はある −原発も同じだった)


どこまで自己責任なのか?

(自己責任になるための条件−なんでも説明責任はある
−原発も同じだった)


自己責任とは何なのか?
これも良くわからない、人間が生きる時本当に責任がつきまとっている
なぜなら常に何らかの判断決断を強いられるからである
それは軽いものだと買い物がそうなのである
正直買い物では失敗しているがそれは全くの自己責任なのである
レンジを量販店で買った,それはいろいろなことができるものだと思った実際は普通のレンジとなんら変わりないものだった、3万したが何かいろいろできるように思ったのであり思わせるようになっていた
店の人はその時説明していない、店の人は売る時必ずしも商品の説明をしない

だからかえって通販だとレビューがあるからそれでみんな判断している
量販店でも売るということが念頭にあり商品の説明より売ることが成績になるからそうなる、商品の説明は二の次になる
そして商品の数が多すぎて売る方も説明しきれないということがある
もちろん買う方にも問題がある、商品を知らないで買うな何を買おうがそれは買った方の自己責任だともなる
でも店の人はどうしても売るということが頭にあり商品のことを良く説明しないのであるそれレンジはもともといろいろなことに使えないものだったのである
だから普通に一万くらいのものを買っていれば良かったとなる 

とにかく商品を売るという時必ず説明責任があることは確かである
それは売る方の責任なのである、それを果たしていなければ買った方の自己責任とはならない
例えば銀行で投資信託を売るのはなぜか?
別に売るのはいいとして投資信託は説明されてもわからないし売る方にとって必ず最初に手数料が入るから売る方は絶対に損しない商品なのである
一応説明したとしてもわからないのである
株だったら別に安い時に買い高くなったら売ればいいのである
投資信託はそういうものではない、素人はには売り買いもどうしていいのかわからない商品である、だから銀行が一方的に決めるのである
何かそうして売ってまた買わせると手数料は売買料金として銀行に入るのである

それで分散投資というのは間違っていなかった
でもなぜ株が上がっているのにリートとか投資信託に回したのか?
銀行はプロですからまかせてくださいと言った
私は知らないからまかせたのである
ではまかせたとなればまかせてくださいというならまかせられたか人にも会社に責任が生じる、でも銀行は一切責任はとならない、株が上がったり下がったりするとかリスクはつきものだとか言い訳がいくらでもできる商品だからである

では全く銀行に責任がないのか?全部自己責任なのか?

もし自己責任にするなら説明責任を果たしてその買う客に決断させることである

なぜ分散投資がいいとして株が上がっていたのに売って投資信託にしたのか?

そこで説明が必要だったのである

説明責任を果たしてその客に判断させて決断させる

そうなればその責任は銀行にはない、商品を買った客の自己責任なのである

ところが私は金融のプロですからまかせてくださいと勝手に判断して決断して客に売った場合の責任は明らかに売った方の銀行にもある
つまり銀行側でも別に責任を問われない売り方がある
それは説明責任を果たすことだが銀行側とか会社側の利益を優先して銀行にとって都合のいいことをすすめるのである
人間社会では必ず説明責任がありそれを果たしていれば別に責任は問われないのである

私たちはていねいに正直に説明しました、あなたが今度は判断して決断してください
株を売りますか?今は上がっているし売らない方がいい、待ちましょうとかなる
でも勝手に銀行員は投資信託の方に株から回したのである
その時判断したのは銀行員であり自分ではない、そもそも前から私たちは金融のプロですからまかせてくださいと言っていたからである
その時点で客は判断も決断もまかせられない、まかされたのは銀行側なのである
その営業員だったとなる、営業の人が決断して判断したのである

そうはいってもあなたはもともと知らないから悪かったのだとなり自己責任にされる
何か商品を買うことでも自己責任である、でもその商品の説明責任は売る方にある
それを果たしていれば売る方でも責任はないのである
でも商品でも知らないと買い物に失敗する、判断しにくい時があるからだ
その時仲介約の店員とか銀行員でも売ることだけに熱中して説明はおろそかする
ただ銀行側が利益を優先して客には説明しない、またされてもわからないものがある

順序としてはまず説明をする→客が納得する→客に判断決断させる

こういう手順にするのが順序でありそうなれば売る方も責任はなく客の自己責任になる
ともかく何でも自己責任だとされるが実際はそうではない、こうした手順があって自己責任が問われる

それは原発でもそうだったのである、最初から「安全神話」を言って絶対に事故は起きないからと説得するとなるとその責任は明確に政府とか東電とかにあった
そしてその安全神話を信じたマスコミにも責任があった
なぜなら宣伝費として電事連から莫大な金をもらっていたからである
この責任も大きかったのである、金をもらったことで大きな責任があった
責任が人間につきまとっているし金でも責任がつきまとっているのだ
そして責任は誰かが必ずとらされるのである
戦争で300万人死んだのもそうである、原発事故で故郷に住めなくなったこともそうである

原発ではまずその土地の人への説明はない、原子力のことなど核など説明してもわからないとういこともあった、ただ最初から「安全神話」を作って何も説明しない
説明する必要もなかったのだ、なぜなら「安全神話」になっていたのだから事故は起きないと保証していたのだから避難訓練も何もしなかったのである
する必要もない、百パーセント事故が起きないと言っていたからである

だからその責任は原発を作り説明責任も果たさない政府とか官僚とか東電とかそれに宣伝費をもらって加担したマスコミにあった
でも原発事故では誰も責任を問われないのである、これもなぜなのだろうとなる
もちろん地元の人にあった、それは商品を買う時と同じである
ちゃんと説明してもらわない方が悪いともなるからだ
もともと金が欲しいなら何でもいいということであり原発を作らせた方も悪いのだとなる

ただでは原発を作る時そんな説明はしない、「安全神話」を言うだけである
銀行員の言うように私たち金融のプロですから任せてくださいとなっていたのである
原発のプロですからまかせてください、事故は百パーセント起こりませんと言って作ったのである、そうなると地元の責任はどこまで自己責任になるのか?
そもそせ責任が誰にあったのか?それが良く追及されていないのである
ただ今回のような事故が原発にあることを証明したから他の原発のあるところは事故になっても今度は補償できないということになると科学者が言っている
そういうリスクがあることを具体的に知ったしそれを承知で原発を受け入れたとなるからである

いづれにしろ常に自己責任が問われる時代である、でも自己責任になるのは説明責任とか十分に果たしてその後で判断させて決断させるなら自己責任になる
でも社会でそうなっているのか?
もしその自己責任を言うなら今回は政府でも官僚でも東電でもマスコミでも切腹ものだった、でも誰一人として責任は問われていない、マスコミだったら電事連から莫大な金をもらっているのだから返却して被害者に配分すべきだとなる
それが責任の取り方である、マスコミはテレビ局でも特別六局に許可されている特権を与えられているからである

結局そういう責任を果たさないからもうまた信用できないとなる
結局あとはお茶濁すようにしてごまかして誰も責任を問わないのである
もちろん説明をするように問わない地元の人にも自己責任はあった
金に目をくらんだ地元の人にも責任はあった
ただまず説明されなければ判断しようもない、いくら原子力のことなど説明してもわからないではすまされない、投資信託の仕組みがわからないというだけで説明が必要ないとかない、わからないならわからないことはやらない方がいいという決断にもなる
株がわからない人はやるなと言う人もいるからだ
原発は説明されてもわからないからやらないという決断もあるからだ

ともかく日本人の問題は責任があいまいになり誰も責任をとらない
そして国民全員が責任があるとなり誰も結局とらないのが戦争だったが実際は3百万に死んだ責任は必ず取らされるのである
それが日本人の自己責任だったとなる、そういうふうにアメリカに負けたのだからそれは日本人の責任だとなる、アメリカに別に正義があるわけではないにしろ責任は必ずとらされるということである
日本にアメリカが原爆落とした責任はかならずいつかとらされる
カルマとなりアメリカにふりかかってくる、それが北朝鮮の核を極度に恐れたり何か今でもおののいている
それは自らの罪業を自覚しているからである

オウムでもそうである、あれだけのことをしたのだから今になって死刑にされた
人を殺したものは殺されて当然だとなる
どんな理屈を言うおうが宗教だったとか言おうが人を殺せば殺されても仕方ないとなる
その責任をとらされたのである、だから何であれオウムに入ったことを後悔しても死刑になった時遅かったとなる

別にオウムを疑いやめることはできたからである、それは自己責任だとなりその責任が死刑だったのである、もしそういう責任を自覚していたらそうはならなかったかもしれない何しろ人間社会は責任が必ず問われる、最初からその責任を自覚していればいいのだが自覚していない、原子力でも事故になれば責任をとる、切腹していいという覚悟ならかまわないとなるがそれがないのである、それで江戸時代に庶民は侍になりたくなかった、責任とらされて切腹されるのが嫌だったからである
別に責任を問われないとなると重大なことでもこれから決断して戦争でもまたする
責任は問われない、ただ戦争を決断した政府が行政の人たちが責任をとる
それなら決断してもいいとなる、でもその責任はまた国民にあるとか他国にあるとかいろいって責任をとらない、そういう日本だとまた同じ大失敗をくりかえすとなる

カルト教団とかに入っている人も無責任なのである
そういう組織団体に入ると自分一人の責任は問われない
何するにしてもそれだけの数があり何百万人も会員がいるのだから
その人たちの一人一人の責任は問われないのである
それは戦争でも国民全部の責任だとなれば一人一人の責任は問われないと同じである
だからそういう組織団体に入る人は無責任であり信じられないとなる、何かそこであったらただ上からの命令で動いていただけだという、それはナチスと同じである、上の人から命令されたからと平気で人を殺したからである

組織団体は無責任であり無責任になるために組織団体に属しているとなる、なぜならそうした大きな団体組織の責任は問いにくいからである
こうして責任感覚の希薄さとか深刻なものがないから軽はずみな行動もできる、もし最初から重大な責任が課せられているとしたらとても原発など作れないし人の金を説明責任も果たさないで勝手にすることはない、ただ必ず誰かが責任をとらされる
商品を買ったものが損したとして客は責任をとらされる
だから責任をとらされるのはまた客であり原発なら誘致した地元の人たちですよという自覚が必要なのである
責任をとる覚悟がないものは重大なことは重大でないにしろ簡単にその役をになうべきではないとなる
それは原発事故のように戦争でも甚大な被害をだす、命を失うという責任をとらされるからである





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2018年09月30日

仮設暮らしは昔の長屋のようにいいものとしても体験した (かわいそうだけではなかった)


仮設暮らしは昔の長屋のようにいいものとしても体験した

(かわいそうだけではなかった)

 不衛生な環境でしたから、 子供がよく死にました。 統計はありませんが、 長屋では4、 5歳くらいの子供がよく死んだと聞きます。 長屋には年寄りも含めていろんな年代の人が住んでいました。 昼間に両親が働きに出ている間、 子供たちは長屋の老人たちとも自分の家族のように接して遊んでいたのです。 ですから子供が死ぬと、 長屋全体の悲しみとなりました。
死んだ子供のために大家さんが地蔵をつくってくれることも多かったようです。 

原発事故では誤解がある、津波と原発事故の避難者が混同されたのである
津波被害者は家族も失い、家も失い、住んでいる村とかさえ失った
その衝撃はあまりにも大きかったのである
そして仮設に住んでいたのは原発事故避難者と津波被害者が交わて住んだのである
原発避難者には手厚い補償金が支払われた
それで仮設で暮らす人を補償金がもらえない人はうらふましく思っていたのである
津波被害者は最も反発していたのである
その待遇の差があまりにも大きかったからである

だから何か外部から見たとき誤解がある、両方が一つのものとして見られた
それは原発避難者が圧倒的に多いということでもそうなった
そして原発避難者と津波被害者は違うのだが同じように見られた
ただ小高でも津波被害者はいたのである
両方の被害にあった人もいた

ここで誤解が生じたのは原発避難者が常にかわいそうだとされたことである
NHKでもマスコミでも原発避難者を応援する立場にたった
だから相馬市のトマト農家が飯館村の人を雇わないということをテレビで訴えさせたのである、全国で見た人は相馬市のトマト農家は冷たいというように見るようになった
これも原発避難者と津波被害者がいることによる誤解を生んだ
飯館村は原発とは関係なかったのだから特別同情があってもしかるべきであった
ただ相馬市には津波被害者が相当にいて苦しんでいたのである
補償金は相馬市では全くもらっていなかったからである
それで働かないで遊んでいる仮設の原発避難者を見て怒っていた人も多かったのである
この辺は複雑になって外からわかりにくくなっていた

でも仮設暮らしというのがそんなにひどいものだったのか?
部屋は確かに狭いし長屋のようになって隣が気になって嫌だということがあった
でも人間の生活は悪いことがあっても同時にいいこともある
仮設で暮らしていた山の奥に住んでいた年配の女性は毎日会えるから楽しいと言っていた仮設に暮らしている人がみんな暗い顔していたのか?
明るい顔をしていた人も多いのである

それはなぜか?

原発避難者の場合かなりの額を補償金をもらった、一か月百万とかもらった人もいる
そこが津波の被害者との大きな差だった
一財産築いたという人もいる、あらゆることで補償金がもらえたからである
そして毎日のようにボランティアがきて炊き出しをしたり娯楽を提供したり何かとしてくれた、これも仮設暮らしをいいものにしたのである
その時仮設を提供した地域では補償金がもらかないから不満になっていたのである
特に津波被害者は同じ仮設に住んでもその差が大きいから怒りにもなっていたのである

私が仮設に住んでいる人と親しくしたわけではないが、暗い感じはない、何か明るい楽しい感じにも見えた、これは住んでいる人でもいろいろあるから誤解がまた生まれる
それは外部の援助とか応援が常にありボランティアが来ていたということも影響しているそこで皮肉なことに仮設暮らしの人は毎日パチンコとかギャンブルになっていてそのことでまた怒っていた
ただこれは行政の問題もあった、本当は地元の人が除染でも復興する仕事を与えてさせるべきだった、毎日ギャンブルをしている人をみたら回りでは不満になるからだ
行政というのも全く良いものとして働かなかったのである
第一働くと給料をもらうと補償金がもらえないというなれば誰も働かないからである

ともかく仮設がすべて悪いとはなっていてかった,外国の難民生活とはまるで違っていたからである
「私たちは消費して金を使って地元の人を助けているよね」と知り合いの女性が言ったときそうである、それは現代社会を反映したものだった
消費者は王様だとなっているから金を持っていればそうなる
だから地元で働く人がいても金をもっていればギャンブルして遊んでいてもいいとなる
でも周りからみればこれはなんなのだとなった
仮設暮らしは経験していないが何かそこにはいいものがあったことは確かである
それはみなんかわいそうな被害者として外部からも扱われたし補償金も多額だったからである
田舎では本当に明日食べるものがないとかガス電気がとめられたとか困窮している人がいた、その人は常に原発避難者をうらやましがって批判していたのである

江戸時代のことを興味がある、それで長屋の暮らしとはどういうものだったのか?
引用したサイトでそのことを書いている
長屋では子供が多く死んだ、それは農村でも子供で死ぬのが多かった
そのために地蔵を作ったとなる、長屋でも京都辺りでも地蔵盆とかあるのはそのためだった、長屋は一つの家のようになり精神的連帯が生まれたから悲しみも共有していたのである、つまり長屋というのでも人間生活には悪い面があってもいい面も必ずある
時代でもそうである、江戸時代が貧乏だからすべて悪いとはならないし現代が豊かだからすべていいものとはななっていないことでもわかる

かえって現代はそうして長屋のような共同がなくなり精神的にも連帯がなくなったからである
長屋には何かそうした精神的連帯が生まれたのである
それで三陸辺りで津波の被害者が老人が仮設に住んで喜んでいたのである
それはそこに長屋の共同生活が生まれて一人暮らしでも気遣ってくれたからである
今老人は孤立化しやすいのである、社会でもそういう社会である
長屋では老人が住んでいるとしてそこに住んでいる子供は家族の一員のようになり老人も孤立しない、それよりその時代は老人といってもまた80歳とかの人はいないから別であるにしてもそこは一種の大家族のようになっていたから子供が死ぬと長屋のものみんなで悲しんでいたのである

だから誤解しているのは仮設の人がみんなかわいそうであり同情すべきだと強制のようにされた、NHKでもマスコミでもそのことでは一致していた
だから仮設を建てて受け入れた地元では批判することはできなくなった
南相馬市では小高と鹿島は反目するようになった
小高の人にすれば全国の人は遠くからかけつけて応援しているのになんなのだ
金の不満ばかり言っているとなり仲たがいするようになり分断されたのである
金になると人間はうるさい、それで飯館村でも補償金のことでもめて二つに分断したのである

外部の人でもボランティアでもかかわるとき地元の事情に通じるのはむずかしい
紛争地域でもそうである、そこに介入するとかえって悪く影響することもある
ボランティアはもともと行政がするものでありそれを無料で仕事させることを批判している人もいる
人間の世界の複雑さは善意をもっていてもその善意が思ったように通らないことである
その善意もは悪く作用することすら普通にある
善意でしたとしても迷惑な場合がある、障害者でも本当は自立したい、だから駅で盲人を手をとって電車に案内したとき嫌がっていた
その人は自分で電車にのれるからだ、ただドアをあけるくらいはしてもよかったが手を取って誘導するのは嫌がっていたのである、自分でできることは自分でしたいのである

ともかく仮設暮らしというのは外部から理解しにくい、でもそれが全部悪いことではなかった、いい面がかなりあった、それは今の社会が失ったものが再現したともなる
長屋暮らしは共同であり精神的連帯が生まれた
ただそれは仮設に暮らしている人たちの連帯であり仮設を提供した人たち地元の人はそういうことはなかった、そこには反目があった
ただ老人問題を考える時長屋暮らしというのが意外といいものだったということである
女性にとってもそうであり一人暮らしの老人にとってもそうである
毎日顔を見合わせて気遣ってくれるということがあったからだ

今の社会は本当に無縁社会とか孤立しやすいのである、そういうシステムの中で生活しているからである
一番の問題は何か物質的経済的にも精神的にも共同するものがない
そこに介在するのは金だけになってしまった、金さえあればいいとなる社会である
そこに人間と人間の関係も金だけの関係となってしまった
それが貧乏であっても江戸時代の長屋には共同生活がありそこで悲しみも共有されたとなる

ただ江戸時代でもこれも必ず誤解してみている、時代があまりにも違うから今からみるから誤解になる、そこで暮らしたら地獄だったともなるからだ
ただ仮設暮らしは悪いことばかりではなかった、いい面も多かったのである
それは特殊な状態が生まれてそうなったとなる
だから何かそこで原発避難者に対して過剰な同情が生まれたのも問題だったのである
でもマスコミでもNHKでも応援したから何も言えなくなったのである
今でもそういうことで反発しているからだ
そして南相馬市などで内部では分断されてしまったのである
それは飯館村でも他でもそうである、行政でも何かかかわり指導して働く必要があったが何もなかったことも問題だったのである

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日本の地方の自治体の依存体質(原発事故の原因) (日本では自治体は市民共同体という意識が育っていない)

日本の地方の自治体の依存体質(原発事故の原因)

(日本では自治体は市民共同体という意識が育っていない)


ほとんどの先進諸国には、交付金制度に類似した財源調整制度があります。皮肉なことに、アメリカにはありません。そこでデトロイト市の破産が起こるわけです。

ただしアメリカの自治体は、警察、消防、都市計画などが主な仕事で、日本のように市民生活全体をカバーしているわけではありません。だから破産しても、パトカーが減ったり、街灯が点灯しない程度で済むわけです。

地方に原発を作ってしまえば、その地方は原発の補助金べったりになりますから、補助金を切られるとボス猿以下、生活が困窮してしまうので、何が何でも「お上」の言う事を聞かないといけない。例えその近隣地域の市民、市長が原発が危ないから止めてくれと言っても、

「いやいや、我々は補助金がないと生きていけないから、原発が危険だろうが何だろうが原発を維持します」


社会というのはどこの国でも歴史的に形成されている
だから社会をみるとき同じ民主主義国だから同じだとはならない
アメリカでも歴史的に形成された過程を見ないとわからない
ヨ−ロッパでは都市が形成された歴史には都市が一つの国家となっていた経過がある
だから城壁をめぐらして他の都市から攻められるの防いでいた
そこに市民共同体というのが生まれた歴史的経過がある

日本にはそもそもそうした歴史はない、パスポートにcitizenという欄がありそこに所属する市を書かされる
これはやはり日本の感覚ではわからない、ヨ−ロッパの歴史から生まれたことなのである
つまり社会で歴史的に形成されているからそうなる
日本なら行政単位が村であり村が自治体の機能としてあった
治めるのは侍だけど村にはそれなりに自治体としての機能があった、ただそれは市民共同体とかとは違って小規模であり大きな政治機能は藩がになっていた
その藩とはお上のことでありそれに従うということで成り立っていた、そこでお上に従属するという態度が自ずと生まれた

アメリカや外国では政府のことを信用していないという
だから個人情報でもうるさい、政府に知られたくないとなる
日本はお上を信じて従う性質がある
そもそもアメリカでは西部劇でもそうだがインディアンが住んでいて無法地帯に牧場とか作る
でも守る者はいないから銃をもって自ら守る他ない
だからこそ銃社会になっている、そういう歴史があるからそうなったのである、日本では戦国時代が終わると刀狩りが行われて
治安が保たれたのである

アメリカの自治体は民間でするものが多いというときそもそもお上に頼ってやっけいけない歴史的なものとしてあるからだ
治安でも自分のことは自分で守らねば生きていけなかったからである、だからアメリカは個々人が自立していなければ生きていけない厳しい社会だったとなる

明治以降外国の制度とか思想を受け入れたとしても日本の歴史がありそれを変えることはむずかしかった
歴史的に形成されたものとしてあるものを簡単には変えられないからである、だから未だに日本社会はそういう体質なのである
日本は市民という感覚ももてない、自立して市民として社会を積極的に作ってゆくという感覚がともしい
そういう歴史的経過を経ていないからである
お上の力が強すぎるのもそうである
そうして原発でも安全神話が今のお上によって形成された
政府と官僚と大企業とマスコミとかが一体となり原発神話が形成されたのである
そして住民は補助金頼りになったのである

ただ不思議なのはでは過去の日本の村では自立心がなかったのか?
それがあったともなる、なぜなら村単位で自給自足の生活をしていたから東京からとか中央政府から地方交付税とかもらっていない、それぞれが地域で貧しくても自給自足の生活していたから
経済的にも自立していたから中央にも政府にも頼っていないから精神的にも自立していたというのも意外だとなる

富めりとも翁の身には知らざらん木の間のけむり絶えずのぼりて
(大和田建樹)

この短歌は富む人があっても翁の自分には関係ないことだ
自分はただ年老いても炭焼きして生活している、都会の人には頼らないという意味である
こういう自負があったことも不思議である
人間は貧しくても自立心というのをもてることがある
貧乏だと依存するとばかりみるがそうでもない
かえって豊かな生活をするために依存して自立心がなくなる
それが原発事故で判明した
豊かな生活をするために依存体質が自治体でも生まれていた
地方が補助金頼りだという時それはどこでも地方交付税の割合が大きくそれがないと運営できないからである
そこで自立心が失われお上の言いなりになるだけだとなる
経済的自立というのが大事だとなる
ただそうなると貧しくなるから誰も同意しないのである

現代はあまりにも贅沢な暮らしになれてしまったからである
その贅沢の味を覚えると減らすことができないのである
一旦うまいものの味を覚えるとまた食べたくなる
これは猫でも同じだった、魚を与えるとまたせびるからである
その味を覚えているからである
ただ自立というとき貧しくても自立することはできるということは知るべきである
かえって豊かになると贅沢すると自立心がなくなる
これを国家にすればもう石油がなければどうにもならない、死ぬほかない、戦争する他ないとしきりにいうときもそうである
でもぎりぎりになったら炭でも生活できるしそうしてきたのである、電気はここ50年くらいしか十分に使っていないのだ
戦後10年は裸電球一つしか家になく電気製品もゼロだったからである、戦前も同じような生活だったからである

今回の原発事故では地方自治体も問われた
富岡町長の5億円入っている金庫が津波で流されて探してくれと頼まれたとかも噂でもそうである
原発にはそれだけの金が流れる、その後の除染作業とかでもそうである、何兆円のも金が湯水のように使われたからだ
地方公務員も批判の対象となる
地方公務員は優遇されすぎているのは本当だからである

普段まともに仕事もせず、市内のサービス残業やブラック企業は何ら知らぬ存ぜぬで通しているにも関わらず、税金だけは必死で集めようとする

こうなるのはわかる、自分たちの生活を優先するからそうなる
これは具体的でわかりやすい、江戸時代だった年貢を納めさせなければ侍の生活が成り立たないからそうなる
そういう体質は公務員に受け継がれているのである
公務員は何かと得するようにできているからである
国家レベルでも財政難を言って消費税を税金をあげようとするのもそうである
官僚とかは国民から税金をとり生活している、だから税金をとることには熱心になるからだ
だから今のような貧乏化する社会では公務員への反感が強くなるのである、官僚となると東電に天下りしたのが多いからである

自治体とは自ら治めるということてのだが実際はそうなっていない,中央に依存したり大企業に東電に依存したりと自主的な自立したものではなくなった
飯館村などはまでいな生活とかで炭焼きで自立していた村と多少はにていたが原発事故で破壊されて補償金をどれだけもらうかだけが関心の的ととなってしまった
飯館村は別に原発とはほとんど関係していなかったからだ
ただ原発は金になるから東電に働きに行っていた人はいたのである、そさだけ原発は事故前でも経済的影響が大きかったのである




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2018年09月21日

責任が厳しく問われた原発事故 (責任の重さを自覚しないで行動する危険−戦争も同じだった)


責任が厳しく問われた原発事故

(責任の重さを自覚しないで行動する危険−戦争も同じだった)


戦争始めるときなぜ戦争したのか?
そもそもその原因が未だにはっきりしない
戦争するくらいだから明確な理由があってもいいし説明できるはずである
結局右の見方としては経済封鎖とかで追い詰められたからだとなる
もう戦争するしか道がなかったとそれはアメリカが日本を追い込んだからだ
それが戦争のり理由だったとなるのか?

ではまず戦争を始めるとき誰も3百万人も死ぬとは予想していない
むしろ戦争がはじまったとき日本は勝つと信じていたのである
実際に初戦はシンガポールを落としたり勝っていたしまた日本は必ずしも戦力でも劣っていなかったとされる
その後アメリカが参戦して敗北した
戦争でも予想しないことが起きて敗北した
その時でも3百万人も死ぬということは誰も予想していないのである

最初からそうした犠牲があり覚悟あって戦争したならいいが日本は神国で勝つと国民もおもいこんでいた、思い込まされていたからそんなこと思っていなかったのである
だから戦争をはじめるときもしこれだけの犠牲があるとしたら覚悟したら戦争がはじめられたのか?

「あなたがたの息子は戦争で死にます、犠牲は大きくなります」
「息子が死ぬのが戦争か嫌だな、戦争はどんなことしてもやめるべきだ」

「俺たちが戦争にかりだされて死ぬのか、嫌だ嫌だ、もっと生きたい、20代で死にたくない、恋人もいるし結婚もしたい、子供だっている、死ぬのはいやだいやだ
戦争なってしたくない、国のためとはいい死にたくない死にたくない・・・」

これはあくまでも結果論になるのが戦争を始めるとき3百万人が死ぬということを予想して覚悟して始めてはいない、みんな戦争は勝つとしてはじめたのである
それでいくら特攻隊とか短歌を残しているけどそれを称賛する人がいるけどそこにはなんで死ななければならないのかその苦悶がにじみでている
いくら国のためだ天皇のためだといってもそこに死にたくない、20代では死にたくないという苦悶がにじみでているのだ

結果論から責任を問うことになったが必ず行動の結果として人間は責任を課せられる
責任から逃れられないのである、もしその責任を覚悟して事をはじめるならいい
でも予想外のことが起こり悲惨な結果になった、そして3百万人が死んだ予想外の結果に責任を問われる、それは重い責任をとらされることを覚悟していないからである

原発事故でも同じだったのである

「事故は絶対に起こらない」
「本当ですか」
「百パーセント保証する」
「では事故が起きたらどうするのですか?」
「確率として百万分の一しか事故は起きない」
「それを保証できるのか、もし事故が起きたら責任はどうするのですか
あなたは腹を切れますか」
「起きないから考える必要はない」

数学者が百万分の一の確率でしか事故は起きないと計算していた、でもそうした発言は事故前には多かったのである、それは戦争は絶対に負けない,日本は神国だから絶対に負けないというのと同じだったのである、負けたら事故が起きたらどうなるかなど考えないのである
結果論にはなるが戦争に負けた時どうなるのか?
また原発事故が起きたらどうなるのか?
そのことを考えて行動はしていない、原発の場合は「安全神話」が作られていたから事故が起きたことを想定しないから何の準備もなかった
放射能を測定するスピーディとか機械があってどこに放射性物質が流れるのか知ることができたがそれさえ自治体に知らされなかった
そして浪江では津島とか一番放射能が高い所に山の方に逃げたのである
そしてアメリカにまず連絡して日本人には連絡されなかったのである
つまり事故は絶対に起きないとしてはじめたのだから事故が起きたらどうなるのかは考えていなかったのである

そして事故が起きたことで今度は誰も責任をとらないのである
責任を誰もとらないとしても確実に責任をとらされるのが人間社会である
戦争では三百万人死に原発事故では故郷に住めなくなった
原発事故では一人も死ななかったからたいしたことなかったとか言う人もいる
でも故郷に住めないということは最大の被害だったのである
それは歴史の消失でもありそこに生きるもののアイディンティティでの剥奪でもあったからだ、それは精神的に相当な深刻な被害だったのである

ただ地元でもこうなる結果を予想していないからこそ地元の人も責任も問われた
例えば漁業組合で盛んに汚染水が海に流れて魚がとれないということを主張して補償金をもらうし事故前ももらっていた
ではもし原発を作る前にもし事故が起きたことを想定していたらどうなるのか?

「事故が起きたら魚は放射性物質に汚染されてとれなくなりますよ」
「そんなことはならないと事故は起きない」
「もし起きたら魚はとれなくなります、それでもいいのですか?」

そのことを真剣に考えた漁業組合の人はいない、むしろ補償金だけに目をくらんでいたし地元では金のことしか考えていなかった、個々人でも金をもらえればいいとしか考えないのである
リスクのことを考えないのである。株でもは投資では必ずリスクがある
もうこのリスクだけは逃れられない,国際情勢とかも関係しているから自分も株を知らないで投資して失敗した、でも銀行でも一応リスクのことは言っていたからまた違っていた戦争と原発では本当は始める前から相当なリスクを考えて覚悟してするべきものだった
それは株とも違う命にかかわる危険なことははじめる前から予想できたからである
戦争は人を殺すことだからそもそも危険である
原発は専門家なら放射能がいかに危険なものか知っていた、その覚悟があって原発でも作るならいいがなかった

でも失敗すれば大きな責任が課せられてその責任から逃れられない、確実に誰かが責任をとらされるのである
事業するのはいいとしてもその結果の責任が問われる、借金にりく首が回らなくなり自殺する人も普通にいる、そして親戚でもなんでも周りに多大な迷惑をかけるのである
そうしたら俺は優秀だから事業して優秀なことを示してやるとかで事業を始められたら周りの人は迷惑になるのだ、その人の一存で事業は始められる、でも事業は一人ではできない、周りの賛同が必要になる,でもそんなことを考えないで事業をはじめて失敗したら借金になり周りに迷惑をかけるのである

結果論にしろ誰も重い責任を自覚して事業を戦争でも原発ではじめていない
だから戦争と原発では実際は責任をとった人がいないのである
むしろ戦争はアメリカにしかけられたものであり大義がある戦争だったという論理になりそうなれば責任をとることはないのである
ただ戦争は賛美されるだけである、そうなれば3百万人は英霊となりほめたたえられるだけだとなる、要するに戦争は成功したのであり責任は誰にもないとなるのである
だから戦争という時そこに日本の大義があるとしたらその大義を貫くことが求められる
でも実際は戦後はただただアメリカに服従するだけで戦前にあったもの戦争中にあったものを全否定して70年が過ぎたのである

日本人は責任をとらない、ということは何かするにも始めるにも責任をとらないからはじめられるとなる、責任を厳しく問われる、失敗したら切腹させられるとなったら簡単に事は始められない、でも責任はとらないとなれば安易にはじめる
その結果が重大なものとして被害があってもそうなるのである
責任は確実ぱ誰かがとらされるのである、だから戦争では三百万人が死に原発事故では故郷に住めなくなったのである
プルトニウムは二万年消えないとかなったのである
とりかえしのつかないことになったのである。

だから今なら原発は事故になったらこういうことが起きる、責任をとらされると福島の原原発でわかったのだからこれから原発を作ることは運営することはそれだけのリスクがあるから今回の福島のように手厚い補償はしないと言う人がいるのも一理ある
事故が起きたらどうなるのか福島が示したからである
だからその覚悟をしてやれとなるからだ、事故が起きても今度は補償金は出ませんよ
その覚悟で原発を作ってくださいとなるからだ
故郷に住めなくなることも証明したからである
それでも覚悟してやるとしても原発は事故が起きたら広範囲だから地元だけではないからまた地元のエゴだけで推進してもらうのもこまる
戦争だってそうである,あらゆる人を巻き込むからである

事業するということもそうでありその事業が俺は優秀だから優秀さを示してやるとかで事業を起こされてはみんな迷惑になるのである
でも事業者は失敗すると自殺したりするから責任をとらされるのである
原発事故では一人も責任を感じていないとってもいないのである
科学者から政治家から官僚からマスコミでも誰も責任をとっていない、普通たいしたことがないようでも会社の不祥事とかで自殺したりしているがしていない
そもそもが責任を感じてすらいないからそうなる
ただ利益をえることしか考えていなかったのである
別にリスクがあっても事業することは全部悪いことではない、でもそのリスクの責任はとらされるのだからそれを覚悟してやるならいいがそうではなかったのである
結果としてもうとりかえしのつかないことになり責任を地元ではとらされたとなるのだ

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2018年09月12日

原発が日本に作られた経過 (正力松太郎からテレビで宣伝されることで始まった)


原発が日本に作られた経過

(正力松太郎からテレビで宣伝されることで始まった)

原発はなぜ日本で50基以上も作られたのか?
地震国の津波もある日本にもたらされたのか?

それは政治的意図があり安全性より優先された
政治的意図とはアメリカの意向があった
日本はアメリカの従属国だから逆らえなかった


衆院議員に当選した正力松太郎・読売新聞社主とCIAは、原子力に好意的な親米世論を形成するための「工作」を開始する。原潜、読売新聞、日本テレビ、保守合同、そしてディズニー。正力とCIAの協力関係から始まった巨大メディア、政界、産業界を巡る連鎖とは

1958年ディズニーの科学映画『わが友原子力(原題Our Friend the Atom)』の放映、そして東京ディズニーランド建設へと続いていく。その連鎖の一方の主役が正力であり、もう一方の主役がCIAを代表とするアメリカの情報機関、そしてアメリカ政府であった。

正力松太郎は結局は総理大臣にはなれなかったが、初代科学技術庁長官に就任、
アメリカの原発製造企業(その多くは原潜や原子力爆弾、戦闘機なども
製造しているGE社などだった)から原子炉を購入して始まったのが日本の原発政策
だった。


原発には最初から不純な動機があった、安全性とかも追求されていない
湯川秀樹博士が原発は時期が早いとしてまだやるべきではないと言ったのは科学者として原発の危険性を知っていたし日本がまだ原発に対しては未知であり技術的に無理があったからである
ただそうした無理があっても強行されたのは個人的な欲と意図があったためである
そしてアメリカの意図もありマーク1という旧式の原子炉が与えられたのである

ここでメデアとかマスコミが原発の宣伝部隊となったのである
ここからすでにマスコミとかは事実だけを報道するのとは違う、明らかな意図があり放送する,だからこそディズニーの科学映画『わが友原子力』の放映をした
映画だと庶民に親しみやすいからである。
テレビでも親しみやすいからである、ただまだその時テレビは普及していない、だから映画だったとなる、アメリカではテレビで放送されていたのである


ここでその映画見られる、他では映らなくなっている、ここも削除されるとか書いてある
科学技術というのはもともと両側面があった、それは人間の歴史が始まって以来そうだったのである、石器を発明すればそれは強力な殺傷武器となり大きなマンモスでも倒すことができて人類は増えたし世界中に広がった
それで最近はマンモスを追って日本へシベリアからやってきたブリヤートが縄文人だったとかいう説がでてきている

石器の発明はまさに画期的なことでありそれは原発とは比べようがなくても同じ性質のものだったのである
なぜならその石器は平和的に使えば強力な生きる手段となる
でもそれを悪として利用すれば人間でも殺すことができるし現実にそうなった
原発でも同じである、それを平和利用すれば強力な生活の手段になるが悪く利用すれば今度は石器のようにはならない、人類が滅亡するほどの協力な武器となる
また今回の事故のように平和利用でも事故になればもう人間は住めなくなる
平和利用でも原発事故で人類は滅びる恐ろしいものだったのである
つまり文明の発展とは逆に大量殺戮の時代でもあった
強力な科学技術兵器がそれを可能にしたからである

1958年はまだテレビは普及していない、白黒の小さいものでありその時テレビの前に群がったことを覚えている、つまりテレビが出たときものすごい反響があった
みんな食い入るようにテレビを見ていたのである
だからテレビがその時放送の主流となっていったのである
その時はテレビの番組というよりテレビで映画のように動画が見れるということで大人気になったのである。
それまではメデアはまだ活字の時代であり動画は映画館で見るほかなかったからである
そして当時はまだ蒸気機関車でフィルムが運ばれてきていたのである
テレビは電波だからリアルタイムで報道できる、ニュースでもそうである
その相違は大きかったのである
人間は今何が起きているのかを知りたい、そのことでニュース番組が今でも視聴率が高いことでもわかる

いづれにしろ原発の危険性が無視された、そしてチェルルブエリで事故が起きたときも日本では危機感がなかった、ロシアはずさんなのだとか技術力がないのだとか日本は違うとか日本の科学技術力を自慢していたのである
だからこそ「安全神話」が作られていたからである。
人間はグロ−バル化しても国際化しても日本は外国のことに敏感にならない
スマトラ津波の時もあれも日本のように津波の備えができていなかったのだと言っていたそして東日本大震災が起きた、その時日本は津波の備えができていないので同じように信じられな被害になった

日本は島国で海外事情にうとくなる、そのことはこれだけ情報化しても変わらないのかもしれない、陸続きでないということは常に外国に対して危機感がもていなのである
外国がいつ攻めてくるかわからないという危機感を持てないのである
外国を知らないから島国で誇大妄想的にもなる、奢りにもなる
それが太平洋戦争の敗因にもなっていた、インパール作戦では突然大河が現れそれにはばまれて苦しみ敗北したとかある、日本にはそうした大河がないからそうなった
予想もつかない事態に地理に遭遇して敗北したとなる

そもそも日本が地震国で災害多く津波もあるという自分の国のことを考慮しなかった
そして安全よりまずアメリカの押し付けとか正力松太郎の野望の道具として原子力が使われたりしていたのである。
その動機が不純だったのである。自分の野望の達成のためとかなればそれは日本国民を無視したものだからである、そういう不純な動機にも問題があった
原発はそういうものでなく国の運命を左右するようなものだった
そして50基もの原発が日本に作られた、そして地震が最近頻発しておびえていなければならないのだ
その最初の責任の発端は正力松太郎にあったとなる
この人が力を持ったのはメデアをテレビで放送できたからである
それで読売巨人軍が大人気になったのもテレビ放送ができるようになったからである
ともかく戦後十年すぎて60年くらいはテレビの時代だったのである。
みんな茶の間でテレビを見ていることは影響が大きかったのである

だから不思議なのは今茶の間でyoutube見ていることである
ええ、誰でもテレビ放送できるのとなる、それが結構見ているのはやはり動画だとわかりやすいからだと思った、文章だとわかりにくいし大衆は読まないからである。
ただより深く知るには文章なのである
でも映像の力は本当に大きいなと実感する、その宣伝力も強大なものとなる
だからこそマスコミが大きな力をもったのが20世紀だった
ナチスが生まれたのはラジオだったという思想家がピカートなどがいた
テレビの前はラジオだったのである、子供の時は粗末なラジオがあるだけだったのである飯台一つにラジオがあるだけの生活だったのである
ラジオにもそんな宣伝効果があったとしたテレビの映像がどれだけ庶民に影響してかおしてしるべきである。

テレビによって世論が形成されたし政治家でもテレビで有名になった人が司会者とかが参議院選挙とかでトップ当選したのはテレビでなじみになっているからその影響力が大きいから有名人となりあれだけの票を集めたのである。
それは本でも「冠婚葬祭」とかの本がベストセラーになり百万部売れたり芥川賞の「あかづきちゃん気をつけて」などが売れたのは宣伝力だった
中味はどうでもいい、それを本屋の目立つ所に置くだけで売れた
なぜならそもそも本屋には本の数はその時でも膨大なのにわずかしか置いていなかったからである、本屋に置くだけで目立ったから売れたとなるのだ
今は情報化社会になると目立つことがむずかしい、様々な情報があり容易に個人でもテレビ放送できる時代になったからである
一局のテレビ放送から千局万局の放送となったらもうある一つのものが目立つことはできなくなったのである





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2018年09月10日

金には責任がつきまとっている (補償金問題でもめた原発事故周辺−権利には責任が課せられていた)


金には責任がつきまとっている

(補償金問題でもめた原発事故周辺−権利には責任が課せられていた)


資本主義とは金の世の中である、金であらゆる価値が決められる、江戸時代だったら身分社会だから金ですべてが決められるのではない
いくら金があっても商人でも侍にはなれないのである
でも幕末になると侍が貧乏になり侍の身分も売られたりしていた
金が実質的に力を持つようになった

金とはなになのか?金にはいろいろなものがまとわりついている
ここでは金とは明らかに責任なのである
江戸時代でも十両盗んだら打ち首にされたとか厳しい
それは金の額で責任を問われていたのである。

時代劇で金をもらったからと殺人をする、金をもらった分を返さなければならないから嫌でもしたというときもそうである
金をもらうことは責任が生じるのである
それが悪い金でもそうである、資本主義社会になったらもう金ですべての価値が計られる金で計られないものは価値がないものとされる
人間でもそうである、いくら地位があっても収入が低ければその人には価値がないのである、江戸時代の身分社会ではないからである

金というのはもらえばいい、高くもらえばそれだけいいと考える
盗むにしても多ければ多いほどいいと考える、でもその額によって責任も本当は違ってくる、でも少額でも高額でも差別がないということがあるが本当はそうではないと思う
金の額によって責任が課せられているのだ

ある人は墓を守ってくれと3百万円を受け取った、跡継ぎがいないからそうなった
でも自分も関係していたが自分は知らなかった
だけど自分も関係した実家の墓だったが今になるとそんなものを引き受けないで良かったとなる、墓を守るということは簡単なようで簡単ではない
そこには死人が埋まっていて簡単に墓を廃棄もできないからだ
その家の持っているカルマすら背負うかもしれないからだ
実家ばどうも何か悪いカルマを背負っている、それを前に書いた
だから前は墓参りしていたしかかわっていたが今は一応兄である死んだ人の墓を自分の墓の脇に作って供養している
金はなんでももらえばいいと思うが何か必ず責任か課せられているのである

この辺で起きた原発事故の補償金でもそうだった
一番もらったのは船主である、漁業組合関係である
この補償は手厚かった、事故前も原発を建てるとき漁業権を東電に売り渡したから
補償金をもらん魚などとれなくても生活できていたのである。
そして原発御殿が建っていたと今では言われる
このことは追求してきたが何が問題だったのか?

そもそも漁業権は海は誰のものなのか?
そのことから問われる問題だったのである。

補償金をもらえばいい、高ければ高いほどいい

こう船主であれ漁業組合関係は思って補償金をもらっていたのである
だけど今になるとなぜ漁業組合は東電に漁業権を売り渡して金をもらっていたのか?
そのことが批判される、それはなぜなのか?

金をもらっていたからだ

そこに責任が課せられていたのである。漁業権の権利はあるが権利にはまた責任が課せられていたのである
そしてその権利をたてに補償金をもらっていたことに大きな責任が生まれていたのである海は誰のものか?漁業組合のものだとなっていたからだ
ではもし漁業権とか海を自治体で協議していたらどうなるのか?
例えば漁業権を東電に売り渡すにしても自治体で議会でも協議して漁業組合に7割とか補償金を配分してあとの3割を自治体でもらうとなっていたらどなっていたのか?
自治体にも責任が生まれ自治体となれば市民全員にも責任があったとなる
でもすべて補償金は漁業組合でもらうことになった
だから原発事故が起きたときその責任が重く問われた

なぜ勝手に漁業権を東電に売り渡したのだ

権利をあるのがわかるがその責任はどうするのだ

だから金には必ず責任が課せられているのである
大工さんに頼んで雨漏りの修理をしてもらったが実際は全く直っていなかった
でも金はあとからあとから足りないととられた
そして結構な金が無駄になった、でも責任は全くとらない
金を損したというだけである

資本主義社会では金の社会である。金をみんなできるだけ欲しい何でも欲しいとなる
でも金の額によって責任が課せられている
金のある人が資本主義社会では責任を課せられている、身分ではない,社会の責任というとき金を持っている人、富裕層になればなるほど責任が課せられているのだ
だから富裕層がタックスヘイブンとか税金逃れしたりすることは許されないのである
金があるからとそれを浪費することも許されない、社会のために使うことを要求される
だからいくら金があっても有効に使えない者は金をもつ資格がないのである
銀行も何かわからなっかったが大金持ちでありその金を今は貸付先もなくうまく使えないつまり銀行は金をもっていてもその金を有効に使えないのだから不要だとなってしまうのである

ともかく原発事故の補償金でもなぜこれほどもめたのか?
双葉とか大熊とかは多額の補償金をもらった、億の補償金をもらった人が多いだろう
その人たちがいわき市に2万人とか移住して家を次々に建てたとき地元の人が不満になった、なんであの人たちは家を建てられるのか?
こっちにはそんな金などないのにうらやましいとなりその不満で事件も起きたのである
つまり双葉でも大熊でも実際は金をもらえるということで積極的に原発を誘致した
そして事故後も補償金をもらい新しい家を次々に建てている
でもいわき市の人は補償金はもらっていないのである
そして双葉とか大熊とかは積極的原発を誘致して金をもらったのではないか?
その責任はあるのではないか?
それは全国的にもそれを言う人たちはいた
事故前も事故後でも原発では勝ち組なんだよとか盛んに言われたのである。

つまり金には何であれ責任がつきまとっている
自分の住む所でも原発の補償金をもらっている、正直一人70万はもらったのである
隣の相馬市は6万くらいしかもらっていない、いわき市でもそうである
だからもし自分の住んでいる所でもっともらっていたらお前も責任があるのにそんなことが言えるのかと責めらても仕方がないのである
金にはこうして常に責任が課せられているのである
ただ原町になると3倍もらっているとか言われる、それは30キロ圏内であり強制避難区域になったからである、だから原町の人は文句を言わないのである。
そして南相馬市は補償金によって分断されたのである




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2018年09月04日

公益を目指すべきが個益になり社会は分裂分断 (原発事故でもそうであった、ただ公益共益が何かは決まっていない)


公益を目指すべきが個益になり社会は分裂分断

(原発事故でもそうであった、ただ公益共益が何かは決まっていない)

人間の経済活動でも社会活動でもそもそもは公益を目指すべきものだった
ところが資本主義であれ民主主義であれ私有権とか個人の権利のみを主張して認めるものとして明治以降変えられた
だから今になると江戸時代が遅れた封建制で民はただ税を納める搾取する対象として見られていた
入会権でも山で採れるも山菜でもまた木材でも共有する共益になるものであり個益は許されない、だから何か古いものが常に遅れたものとして西欧化されたとき見るようになった入会権とは別に遅れたものではなくその当時の人がみんなで仲良く生活するために考えた知恵から生み出されたものである
人間はそもそも公益とか共益なしでは生活できないからである。

資本主義が自由市場主義で市場の原理にまかせる、見えざる手にまかせるというとき私有の追求になった、公益とか共益は自ずから個々の私有とか利益を求めるとき達成されるとしたルールだったのである
でもそれがうまくいっているかとなると公正な世界市場などありえなかったのである。
それはアメリカを中心にして金融で支配される世界支配のための金融になっていた
第一ドルがアフリカの奥地まで通用することがアメリカが支配していることなのである。実体経済と関係なくドルという紙幣をすれば世界を支配できるとなるからだ

なぜこの辺で原発事故でいろいろもめたのか?
それはやはり公益とか共益とかなくなりみんな個々人の利益を求めるだけになったからである、補償金でも個々人に与えられたからである
本当は自治体に与えられたものなのだが個々人に与えられたから個々人はその金で自分の勝手に使うとなりそうならめんどうな苦しい避難区域に住みたくないとなり外に出たのである、それだけの資金があったし金さえあればどこでも住めるとなるから外に出た
もうばらばらになってしまったのである 

いわき市に二万人も双葉や大熊や富岡の人たちが避難して次々に家を建てたというとき地元では不満になった、そこで家など建てられない人たちも多いからである
なんてあの人たちはよそから来たのに家を建てられるのかとなった
その家も建て売り住宅の会社だからできた、そんなに多くの家を地元の大工では建てられない、ほとんど外部の会社が一週間くらいで組み立てて建てたからできたことである
でもいわき市の人たちから見れば双葉とか大熊とかの人たちが公益共益として原発を積極的に誘致したのである
それが事故になって住めないとなっていわき市に避難したときあなたたちはあなたたちで原発を誘致して決めたのだから放射能汚染してもそこに住めともなる
それがあなたたちの責任だともなる、何か今回の原発事故は距離に比例して責任が課せられていたのである。飯館村をのぞいてはそうである
20キロ内は避難区域になり30キロ内までは補償金がもらえた、ただ30キロからはずれても鹿島とか久ノ浜は多くはないが一応補償金はもらえたのである

例えば公益とか共益というとき漁業権でもそうである
それは漁業者だけが持つ権利になっていたとき漁業者は漁業権を東電に売り渡して原発御殿を建てていたとなる
今でも原町でもこの辺でも立派な家を建てているのは船主であり漁業関係者だとなる
原町で大きな石の庭を作ったのを見たがそこは船主の家だった
トリチウムを海に流すな魚が汚染されるというけどテレビで死活問題などと放送しているけど漁業関係者は特に船主は生活には全く困らないのである
まず30年とか楽に補償金で生活できる、それだけ原発事故の後の処理はつづくからである
魚を一匹もとれなくても困らない、むしろトリチウムを流すなと交渉して補償金をつり上げることができるのだ、これも矛盾しているのである
それはこうして他でもそうだが組合も一見労働者のためのように見えて私益を追求しているからである。利権獲得のために動くからである
電気関係の電事連も原発で働き収入を得るのだから原発に反対はできない
そこは労働者も利益共同体となっているから電事連からマスコミに巨額の宣伝費が出ていたのである゜

山でも私有権をが明治以降認められた結果無数に分割されて共同で何か利用できなくなった、共益というときグロ−バリゼーションでもそうである
自由市場競争が公正な世界を作るというのもそうではなかった
結局アメリカ一極の金融支配でありそれに対抗しているのがロシアとかだったが排斥される、シリアの問題も実はシリアではIMFに加入していない、ドルが通用しない社会主義国家だったのである
それにアメリカでは不満がありロシアに対抗して反政府運動が自由の旗印のもとに行われた、その結果はいいものではなかった、ロシアの支配下にあった方が良かったのである
なぜならシリアに行った人がシリアの人は素朴だとと何度も言っていたからである
それなりに貧乏でも平和に暮らしていたのである。
それが欧米とロシアの対立で壊された、クリミアでもアメリカ側の金融支配がありそれが対立の原因になるし中国でもそうである
グロ−バリゼーションによって後進国でも利することはあるが金融でも支配するためにある

公益など世界レベルにはない、アメリカとかに利するものとしてグロ−バル社会があるとなるからだ
この辺でもなぜ地域社会が破壊されたのか、それは何度も書いてきたけど公益の共益の共同体を越えて金だけがばらまかれたためである
漁業関係者がそうであり原発事故の補償金でもそうである
地域共同体を越えて金がばらまかれた、すると一億円とか以上もらえればも自治体のことなど考えない、その金で外にでて楽して暮らした方がいいとなったのである
それも放射能汚染があるから悪いとはされないからである。
そうして自治体は破壊されて崩壊したともなる
補償される権利があるとしても自治体の復興のために使われたわけではないのである。

いづれにしろ公益とか共益といってもそれが何なのか?
原発でも別に金になればいいとしか考えない人もいる
原発は金になるものとして受け入れて賛成していたのである
それは市町村でも公益的な共益となるものとして賛成していたのである。
例えばソーラーパネルでも最近自然を景観でも破壊する抑制するべきだというときもそうである、
ソーラーパネルは原発事故のために安全な電源として奨励された
それは公益にかなうものとしていたるところに設置された
でもそれが公害にもなりつつある、だから公益共益とはなにかということが実際はわからないのである、一般的には便利なものが公益共益的なものとなる
民主主義だからみんなが多数のものが決めたことは公益になるとしても結果的にならないこともある

いづれにしろ会社でも会社の利益のみを求めたらそれが社会に認められて成功するとはならない、事業を始める人でも失敗したがその人の経営理念は自分が優秀だと認められたいということからはじまり田舎では金にならないから金持ち相手に全国相手に事業を起こしたのである。
そこに共益とか公益はなかった、自分の利己的エゴから始まったともなる
だからその事業が失敗しても同情しにくいのである

公益的とは何か共益は何かはまた共生とは共存とは何かにも通じている
自分は景観を大事にしてもそれは金にならないから金になるなら公害があってもいいとかなる人がそれなりに多いからである。
だから公益とは何かというとき多数がいいと思うものが公益なのかとなる
多数であれば何でも許されるのか?
その公益を決めるのはどうして決められるのか?
それが結構むずかしい問題なのである。
例えば小さな畑で野菜を作っている人は農業はそれが利益を産まないにしても公益性がある、環境の保存とか景観の維持とかがある、それはこの辺では原発事故以後荒地化しているのが多いからである。農業は自然と深く関係しているから公益性がある
荒地になっているよりはそこに野菜を作り花でも咲かせると景観的にいいとなるのであるそれは公益であり共益になっているのである。
でも利益を生まないものには投資しない、銀行でも金を貸さないのである。
どうしても経済優先だから原発だって誘致された、それは公益共益でもあったからである
だから公益共益とか共生とか共存とかは思想的問題であるのかもしれない
一つの価値観を共有することで公益とか共益は何か決まる
もし車などいらなくてもいいとして暮らすこともできなる
その為の不自由があまりにも大きいからそうならないだけでありもしみんながそう決意すれば車がない生活が公益に共益になるのである
原発だってみんながいらない決意すればそれはできる
でも原発とかなると国と関係して国際関係とも関係してくる
アメリカには逆らえないとかなり日本ではやめることができないとなる

ともかく共益とか公益がどうして決められるのか?
それをよくよく考えてみるべきであり人は公益共益を優先して生きるべきものであり
それがなくなりただ私有とか私権とか私益のみの追求となるとき共同体でも破壊されてしまうのである、金だけでもそうしたことは解決しないのである
かえってこの辺の補償金で分断されたように公益共益を損なうものとなる
ただ人間は便利なものぜいたくを追求する、それが公益出り共益になりやすい
人間の欲は限りない、それを抑えろといっても反対されるだろう
なぜ原発が金のなる木だったからこそ積極的に地元でも誘致されたのである
小高の腕のいい大工さんでもそうである、家を建てて借金していたから原発を作れば金になるからいいと言っていた、その息子でもいい車に乗っていたりした

つまり人間の欲を抑(おさ)えろということは共益にならない、共益になるのは人間の欲を満たすものだとなってしまう
そんならお前は寺で肉も食べない最低限の生活をする出家僧になれ、修道院に入り世俗的欲をたつ生活をしろとなる、それは共益とはならない、便利なこと豊かな贅沢な暮らしができることが共益だからである
ただいくら欲を抑えられないにしても限度があった
人間の欲は切ないからである。いい家が欲しい、いい車が欲しい、いいものを身につけたいとかうまいものを食べたいとか今はきりなく欲望が拡大する
欲望はさらに高い地位につきたいとか自分を優秀にみせたくて事業した人もいる
人間の欲望は経済的なもののに加えて地位が欲しい名誉が欲しい、優秀であると認めさせる、そのためにしのぎをけずっているともなる

ただ公益共益というときそうした利己的動機を否定するものが公益共益にもなる
利己的なもの個益を否定して公共のために共同体のために尽くすということもある
実は共同体にはそうして公共のために全体のために共同体のために犠牲が強いられることがあるのだ、人柱伝説などでもそうである、公益事業のために犠牲が強いられる
戦争で3百万人が死んだというときもその戦争は共同体の命運を賭けたものであり犠牲が強いられたとなる、それはその時はみんなが戦争に積極的に公益と思って参加したとなるからだ、だからただ便利になるからとか欲望を満たすためにだけではない、他の理由でも人間は死ぬまでの犠牲を払うともなる

戦後はギブミチョコレートとなりただ日本人は欲望の追求となりなりふりかまわず世界にトランジスターを売りに行ったとなる、そして高度成長になったのである。
資本主義ではその欲望が肯定される、欲望があった方がいいとされるからである
今の若者は常に欲望がかえってたりないから駄目だともなっているのである
そのために人は働くとなるからである、でも何が間違ったのか?
その欲望も限度を越えたとき危険な原発も積極的に誘致されたとなる
もう欲望の故になんでもいい金になればいいとなっていたからである
現代ではみんな金の亡者になっているからである
何かそこに歯止めがなくなっているからである、それで原発は積極的に誘致されたからである、そして事故になってからは補償金をもらえばいい、もうそれがすべてだともなる
何か復興とかは関係なくなっていた、何か公益とかではない、自分たちがどれだけ補償金をもらえるかもらうかしか関心がなくなったのである
それも共同すれば共益になる、だから共益というのは何なのか?
それが問題だからみんなで考えねばならないのである。


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2018年08月30日

なぜ原発事故の補償金でもめたのか? (金のみがすべてとなって共同体がは回りが無視されたため)


なぜ原発事故の補償金でもめたのか?

(金のみがすべてとなって共同体がは回りが無視されたため)

この辺でなぜ補償金でもめたのか、それは共同体というのが眼中にない、ただ多くの金を得ればいい、周りのことは関係ないとしてより多くの補償金をもらうことだけが関心となり市町村でもそこに住む人たちは争うようになりいがみあうようになり分断されたのである。
なぜそうなったのかというと現代社会の反映があった、村とかでももしそこが昔のような村だったら家族のように考える、村を守り維持するたの金として補償金を考える
でも補償金は個々人の家族に与えられたのである
すると個々人のことしか考えない、そこにはもう村という共同体もなくなっていたのである。だからできるかぎり補償金を多くもらうことしか関心がなくなった

飯館村でも小さい村だからまでいな村として共同体のつながりがあると思っていたがなかった、ある人は噂にしろ酪農していて9億円補償金をもらったとかなればどうなるのか?もう村のことなどどうでもよくなる、そういう人は村を捨て他に移り暮らすとなったのである。もう村という共同体のことなど考えなくなる
補償金は他でも共同体に村や町や市に与えられたのではない、個々人に与えられたからそうなった
あくまでもその金は共同体のものであったが個々人に与えられたことによって共同体が崩壊したのである。もともとそうした市場経済に生活していたのだからそうなったともなる
漁業をしている人たちは原発事故前も漁業権を東電に売って補償金をもらい原発御殿を建てていたとかわかった、それを周りの人はみんなもらっているわけではないから羨ましがっていたのである
共同体というとむずかしいけど要するに回りのこと隣近所のことでもあったのだ
「なんであそこではあんなに金がもらえるのだ」と回りで思う
それは同じ地域に住んでいるからそう思うのが当然なのである

昔の江戸時代の村だったらそんな金が入って贅沢することは許されないからである。
みんなで分けるべきだとなるからである
つまりそこで共同体というものが喪失した結果としてそうなっていたのである
ただ金だけをもらえばいい、周りは関係ないとなっていた
漁業権はもともと俺たちの権利であり周りの物には権利がないとしていたのである
でも海は誰のものかとなれば今になれば自治体のものだったということがある
そして漁業権を与えられていたのは海の資源の保護であり東電に漁業権を売るためのものではなかったからである。

共同体とはこうして考えると回りのことであり隣近所のことでもあったとなる
なぜ漁業者だけが船主だけがそんな補償金がもらえるのか?
それが回りの人に容認されていなかったのである。その回りの人たちは共同体のことである、共同体が容認していないのに金をもらっていたから不満だったのである。
そういうことは他にもある、なんであの人は金をもっているのだとなるときそれが回りの人が認めればいい、あの人は金をもっているけど市町村でも貢献した人だとか地域のために尽くした人だとかなっていれば文句は言わないのである。
それは国単位でもそうである、ビルゲイツとかジョブスとかコンピュターを発明した人が巨額の財産を得ても回りから容認されているから文句は言われないのである。

要するに金でもそれが回りから共同体から容認されればその金についてととやかく言われないのである。
でも共同体というのを無視して隣近所を無視して金を得るとなると不満になる
だから金というのはそうして共同体があって流通されるものである。
共同体の方が先にあってその後に金がついてくればいいのだが現代は先に金があって共同体があるとなる、その共同体も金によって分断され破壊される
なぜなら共同体自体がなくなっているからである、グロ−バル経済でもそうである
そこに世界共同体などありえないからである。そこで巨額の金が誰かわからないものに回ってゆく、数パーセントの人たちに金が入って世界を支配するとまでなる
そもそも世界共同体などはない、共同体となるとそんな大きな規模でそもそも作れないからである。
ただローマ帝国でもモンゴル帝国でも貨幣が流通するときそれなりに共同体が形成されたから貨幣がその範囲内で流通したのである。
もし共同体がなければ金は流通しないからである

この辺で起きたことは仮設には毎日のように外部からボランティアの応援が来ていた
でも地元の人は応援しなかった、それで小高の人などは鹿島の人は補償金について文句ばかりいう、一体なんなのだ、俺たちが苦しんでいるのに何なのだ、マスコミでも外部の人でもかわいそうだと思って援助しているのに何なのだと不満だったのである
でも実際は仮設は楽しい面もあった、長屋のようになり女の人たちはいつでも会えるから楽しいと言っていたし補償金ももらえたからいいと言う人もいたのである
そして知っている人は「私たちは鹿島で金を使って助けているんだよ」と言っていた
まさに消費者は金あるものは王様だとなっていたのである。
別に助けてもらうとかなんにもなかったからである
でも福祉でも介護でも優先的になりそれで迷惑になった人たちがいたのである

これが極端化したのがいわき市に避難した人たちだった、二万人も避難して次々に補償金で家を建てたから地元の人は金がないので建てられない人も多かった
それが次々に家を建てる、ベンツには乗るとかなり病院では優先的になるとか地元の人が迷惑になったから事件も起きたのである。
金があればなんでもできるという社会になったときそうなったのである
なぜまたそうなるかというと二万人の人が移住して家を建てる時、とても地元の大工でも建築関係でも間に合わない、ところが今家を建てるのは大手の建売住宅会社でありその人たちが一週間くらいで組み立てて建てる、地元の大工はかかわらないのである
するとどうなるのか?もし地元の大工だったらいくら金でやれといってもやれない
いわき市の人が優先になるとかなっていた、それが広域社会だとなくなる

広域社会とかグロ−バル社会になるとそれだけ金の力がまた大きくなっている
別に金があればどこに住んでもいいし金がある人が優先される社会なのである。
つまり金ですべてが計られる社会である
江戸時代は身分とか別な要素で人間を計っていたが今は金だけですべてが計られる
ホテルでも旅館でも金で部屋は決められる、金が高ければ最高のいい部屋があてがわれるもてなしされるのである。病院でも金があれば特等室に入れる
それで浪江の請戸の人は相馬市の病院で特等室に入り家を建てると豪語していたのであるでも周りの人がどうみるかとなると良くは見ていないということを考慮しないのである

いづれにしろ現代の広域グローバル経済は共同体なき経済でありそこには冷酷な市場の原理しかない、それはこの辺の補償金でも自治体が分断して破壊されたようになる
まず共同体があって経済があるべきなのである。そうしないと家族が共同体の核としてあり延長としての共同体も分断して破壊される、もう分断して破壊されているのである。
だから本当に金というものが何なのか?それをどうするのかは現代の深刻な問題なのである。金だけを求めてゆくと共同体は分断して破壊されてもともこうもなくなる
社会は荒廃してしまう、現実に荒廃している、みんな共同体より金さえあればいいんだとなっているからである。
回りの人でも国レベルでも福島の原発事故の補償金については容認していない
あいつらどこまでも補償金としてねだる、原発乞食だというとき国民も容認していないのである
だからそんな多額の補償金を権利があるとしても払うこと自体何なのだろうとなる
それがみんないい方向に向かうならいいが自治体は分断されていがみあうにようなったからである。
復興につなかっていないからである、水俣病のときも補償金で駄目になったというのと同じだったのである。

いづれにしろ原発事故で起きた問題は現代の社会の歪(ひずみ)が現れたものでもあった金だけが突出して共同体を越えて力をもつ、するとどうなるのか?
共同体は破壊されるのである。現実に補償金で自治体も分断された
飯館村でも9億円を牛を飼っている人がもらったとかそれが噂でも億の金をもらった人たちが普通にいるのは確かなのである。
そうなるとどうなるのか?かえって飯館村という自治体は共同体は分断されて崩壊する
当然補償金をもらってもう飯館村を出るという人たちが増える
極端にしろ9億円もらって外で贅沢した方がいいとなるのが人間だからである。
もう飯館村にはめんどうだからかかわりたくないとなってしまったのである
ただそういうことが共同体で容認されるのか?
そんな金をもらった人を周りの人は容認するのか?
いくらそういう権利があってもしない、すると外部の冷たい目にさらされることになる
それは回りの人たち、共同体では容認していないからである
金というのが突出して力をもつとき共同体を破壊させることを示したのがこの辺だったのである。

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2018年08月15日

失われるや家や故郷の記憶 (精神的なもの目に見えない価値は受け継がれにくい)


 失われるや家や故郷の記憶

(精神的なもの目に見えない価値は受け継がれにくい)

双葉町には特攻隊を訓練した飛行場があった、それは原発のあった地域でありそれを記録するもの伝えるものがいなくなった、地域はばらばらになり崩壊した
記録でも記憶でも伝えるものがいなくなれば伝えられない
記録や記憶はやはり共同体がないと伝えられないということがある
なぜならそうした歴史の記録とか記憶はその共同体にとって重要なものとなっていたからである
津波の記録がこの辺で二行しか記されていなかった、700人溺死としか記されていないでも一応記されているのだからそれが嘘とは思えないから津波があったとみる

不思議なのは最近リバースモゲージとか家を担保に銀行で金を貸すという
そこで家の価値は耐震性があるのが第一であり後は省エネになっているとかである
家の価値は日本では10年過ぎると半分に下落するという
それは家というのを土地とか家という建物しか見ていないからである
建物は価値がなく土地だけだとなる、それで地方では家に価値がないから銀行ではそういうことはしない、それを価値をあるものと見ないからである

この辺で起きたことはこうした故郷とか家で営まれたものの価値は賠償されない
なぜなのか?それは金で計ることができない価値だったからである
だから賠償の対象になるのは家でもその建築物であり土地でありその他は賠償対象にはならない、それは土地や家のように具体的に見えるものでないからである
家というのはただの箱ではない、そこで家族が長い間暮らしたものとてし家がある
するとその家に精神的価値が付与されているのである
日本では家というというときただのハウスではない、家というとき代々の家という意味もあり侍だったら御家中となっていた、お家大事になっていた
それは建物だけを言っていたのではない

その家で暮らした人なら家族の思い出としての家がある
外からの人だったら家はた快適に安全に暮らすものとしてしか見ない
そこでどういう営みが行われていたか考慮しない
そこは単なる一区画の土地であり家という建築物でしかないのである
ただその家で自殺者が出たとかなると縁起が悪いとかなり売れない
それはやはり家には何か建物だけではない、何かそうした住んだ人の何かがまとわりついている、だからただそれを家という箱のようにみて古い家を買ったりして住むと災いを受けるとか不安になる、それは人間には物は物ではない、ものには心がつくものだからである

故郷とか市町村でもその地域地域によってかもしだす雰囲気がある
その雰囲気はやはりその土地土地で長い歴史のなかで作られた来たものである。
だから避難区域になった所で人が住まなくなった、廃墟の街となりゴーストタウンになるでも依然としてここに住んだ人たちが幽霊となっても住み続けているという感じになる
先祖が故郷には代々生きて葬られているからである。
それは墓だけではない、その土地全体になお生きているという感じになる

家族がみな死んだが自分の家にしてもそうである
何か長く一緒に家族が生活したということでその記憶がこの家からにじみでてくる
なおまだ家族がいるような気分になるのが家なのである
ただ他人から見れば外部から見ればそうしたものは何の価値もないのである。
ただ耐震性とか安全性とか利便性とか値段しか関係ないのである。
そういう物の怪(もののけ)とか何か精神的なものは金で計れない、だから賠償の対象にならないのである。
でも本当はそういうものに価値がありそれが失われたことが大損失だと気づく人もいるだろう、それはいくら賠償金もらっても取り戻せないものだからである。

津波で流された江戸時代からあった右田の松原は貴重だった
それは単なる木ではなく長い間故郷の原風景として心と一体化したものだった
だからそれがなくなったことは精神的な面でも喪失したものが大きいとなる
それはもう二度とありえないものとなりただ記憶としてしか残っていないのである
そして次の世代の人は何もわからない、ただ風力発電の風車が回っていることが風景となったからである
江戸時代にあったものでもそうである、江戸に縦横に水路があり舟が行き来していた
その中で生きていた人たちがいてその風景と一体となっていた
それは高層ビルの谷間になりもう回復できない、その時代にあったものは永遠に回復できないのである、その時代に戻ることは絶対にできないのである。
ただ残されたもので想像の世界でしかありえない、でもその想像する時その当時のものとはまるで違ったものとして想像しているかもしれないのである。

こうしたことでこの辺では人が住まない区域ができて相当に金で計れないものを失った
いくら賠償金をもらってもそれをとりもどせないのである
人生でも決してもう一回やり直すことはできない、過去にもどることもできないし青春にももどれないのである。
人間は金で計れるもので生きている、毎日の価値を計るのは金である
食料でもいくらで買って得した損したとかで暮らしている
でも金で計れないものが人間関係でもその営みのなかに生まれている
ただそれが金で計れないから意識しないのである
空気が最も大事なものでも意識しないと同じである
ただ故郷を失うとか家族が死んで残ったものは記憶でありそれが貴重なものだとしても
他人には外部の人には価値として計れない、見ることはできない

鉄道を利用しないのに鉄道を廃止させたくないというとき鉄道には長い歴史がありそこに人間の営みがつづけられてきた、出会いがあり別れがありそこに様々な人間の営みがつづけられてきた、何かだから駅でも鉄道でもレールにさえ愛着を感じる
何か哀愁を感じるのが鉄道なのである。それはただ物を人間を運ぶというたげではない
人間の営みが演じられたものがそこに付着しているからそうなる
だから鉄道がなくなると淋しいとなるのはただ鉄道という物や人を運ぶものがなくなるのではない、そこに営まれた人間の汗と涙でも付着しているからである
そこに何か哀愁が生まれる、ただ人が乗らないとかもう鉄道は不便だからいらないとなるが一旦廃止にしようとすると反対があるのはそれは鉄道は長い歴史の中で単に物を運ぶとか人を運ぶものではない、人間の営みとともにそこに人間の情がのりうつっているからである。高速には車には何かそうしこたものを感じないのである

人間は毎日金のやりとりで金で価値を計って生活している
でも人間の営みにはそれだけではないものが必ずある
それは金で計れないものでありそれこそ貴重なものだったと意識させられる時がくる
それは人生の最後に来るかもしれない、本当の価値は金にはなかったな、ともに苦労して喜び、悲しみ生きたことだったなとかなり涙を流す
青春時代の歌を歌って涙を流している人がいた、それはその時代が永遠に戻らないからである。失わたものは永遠にもどらない、それは時代でもそうである
過ぎ去った時代は永遠にもどらない、そこは想像の世界であり決してその時代に生きた実感ではありえないのである。
その時代に作った俳句でもその時代でしか作れないのはそういう時代が過ぎ去ったからである、それを体験することは不可能だからである、ただ想像する世界としてしか過去はありえないからである。右田の松原は何の痕跡もなくなったようにそれはただ記憶としてあるだけである、次の時代の人は全く想像すらできない、なぜならその片鱗すらも何も残っていないからである

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2018年08月13日

コンビニ強盗で逮捕されたのは、南相馬市鹿島区の会社員・小松 悟容疑者(35)。 (原発事故の多額の補償金でモラルが崩壊した)


コンビニ強盗で逮捕されたのは、南相馬市鹿島区の会社員・小松 悟容疑者(35)。

(原発事故の多額の補償金でモラルが崩壊した)

28日未明、福島・南相馬市鹿島区のコンビニエンスストアに包丁を持った男が押し入り、現金を奪おうとする強盗未遂事件があり、35歳の男が逮捕された。

駅で小高の人に話を聞いてびっくりした、新聞とっていないからわからなかった
六号線のコンビニで強盗があったという、その人は双葉の人だと言っていた

なぜ双葉の人が強盗するの?

まだ避難区域になっているから十二分に補償金をもらっているはずである
みんなそれでうらやましがられている、だからなぜなのか?信じられないとなる

実際に鹿島では新築の家が次々に建った、豪華なのは庭が広くて家も大きい
それは船主の家が多いかもしれない、この前あったのは磯部の人であり船主だと思う
二人はそうである、つまり鹿島には相当に外部からの人が移ってきて家を建てている
この前は浪江の人が新しい家を建てていた
まず船主だと金には困らない、事故前も事故後も十分な補償をされているからである
汚染水でも漁業組合が東電と交渉すれば上積みされる
だから魚をとるより補償金で十分に暮らしていけたしそこに原発御殿が建ってうらやましがられていたのである。それは船主であり他の人はもらっていないからだ

その小高の人は鹿島の厚生病院に母親が入院して電車できている
車がないから電車で来る、でも電車だと原町から一時間おきではない、半分以下になるから不便である
その人も補償金のことなのか?兄弟五人いてもめているという、ハンコ押してもらうのに離れているから困っているというのもわかる
何か大きな金が入るともめるのだ
その人が言うには飯館村で酪農家が9億円もらったという、それ本当なの?
双葉辺りでも酪農家はもらっている、牛一頭いくらと補償されているのかもはしれない
大熊の酪農家が5億円もらっていたというのも聞いた
事業している人も多額になる、それで浪江の事業している人が仕事くれと仲間に言ったらお前ら金もらっているから仕事する必要がないだろうと言われたという
何億もの金をもらっているからである

今小高の人は浪江は5000万多くもらっていると不満になっている
まずこの辺ではこうして補償金のことが飛び交うだけなのである
第一酪農していたらもうけることもわずかである
それで飯館村ではまでいな村として県内でも所得が最低だったのである
それがもし本当に9億円も入ったらどうなるのか?
完全にモラル的にも狂い崩壊する
そういうことがあり一時金をもてあました人がいわき市で札びらを切って歓楽街で遊んでいたから顰蹙をかった、新築の家も次々に建てたから地元の人にうらやましがられて事件も起きたのである

何か原発事故以後この辺は多額の補償金をもらいモラルも崩壊した
小高の人が仮設でフィリンピンの女性を引き入れていたとか聞いた
金があまっているからそうなったのである
飯館村では残る人と金をもらって外に出る人たちで争っている
本当かどうかわらないにしても9億円とかもらったらもう完全にモラルは麻痺する
当然補償金もらって村を捨てる、働く気もなくなるのである
それで水俣病の時も補償金をもらうことで堕落して復興もなにもできなくなったと言う人がいたがここも同じである
もうモラルが崩壊しているのである

飯館村は素朴なまでいな村だとかなっていたし実際そこの人とかかわらなくてもそこの雰囲気は何か花が高原の村に映える場所だったのである
それが原発事故以後変わり果てた、土は削りとられむき出しになり放射性廃棄物の山となってしまった、そうして荒地化したのがその心も荒地化した
ただ補償金をむさぼりくらう餓鬼のようにこの辺ではなったのである
今になると小高はそれほどもらえないとも思った
ただその人により財産により額は違っている、だからその額でまたうらやましがり争うことにもなる
一時は小高と鹿島は険悪な状態になったのである

原発はそもそも事故前からそうして金になるものとしてこの辺の人はむさぼりついた
金になればいいしかなかった、それで小高に東北電力が原発を建てるときすぐに賛成した小高の大工さんは金になるからいいといっていた
みんなそうである、金になれば食らいつき何でもいいとなっていたのである
金の亡者となっていたのである
そもそもがここだけではない今の資本主義社会はみんな金を求めてモラルが崩壊している自分が介護して病気して苦しんでいる時も狙うの金しかなかった
それで事業に失敗した人は自分を殺すのではないかとまでなり恐怖になった
金に追い詰められた人しかこなかったからである
もはや他人は人ではない、金でしかないのである。
こいつからいくら金がとれる,金にならないなら関係ないとなる
どうしてそうなるのか?その欲が深いし限りないからである
見栄えもある、俺は成功者だと吹聴していたからである
そして借金してまで豪華の家を建てる人も普通にいたのである
そうなっているから金のためになんでもすると事故前からこの辺ではなっていたし世界的にもそうである、金がすべての世界になっていたのである

いづれにしろ飯館村でもモラルは崩壊した、までいな村とかの村作りどころではない
9億円もらったらそんなものふっとんでしまう、豪勢な浪費家になるのか?
何になるのか?その金で何かもめてくる事件も起きるのかとなる
ただ双葉の人がなぜ強盗までしたのか?
その理由が金がないからだとしたら全く解せないことである
ただ鹿島区にはとにかく外部から入ってきている人が多くなった
それだけは確かでありそこで事件が起きることもある
その外部といっても今は工事関係者ではない、双葉とか大熊とか浪江とかでも入ってきているからである、そこで地元の人と軋轢が生じることもあるかもしれない
ただそういう話はここでは聞いていない
小高の人が仮設に入っていたときは人が多いし補償金を鹿島の人はもらえなかったのであもめていたのである。

その人たちは毎日パチンコでありギャンブルであり遊びほうけていたからである
ただ最近鹿島でも高速は無料になったとかはある
小高、原町、鹿島と南相馬市は合併しても補償金で分断されたのである
ただ補償金でも浪江でも飯館村でも小高でもその内部でも財産に差があり補償金に差がある、酪農家とか事業している人は法外な補償金になっていることは確かである
船主もそうである、だからそういう人は豪勢な家を建てたのである。

いづれにろこの辺は補償金がいくだとかしか話題がなくなった
みんな血眼になって補償気金をもらうとするだけである
その額が大きすぎたこともありそうなったのである
その差もあるからまたそこで内部的もに分裂しているのである
だから人間は金は必要でもそうして法外な金が入ることは危険になる
常識とか平常心とかモラルがなくなる、金にもの言わせるような人も出で来る
その人たち飯館村だったら牛を飼い貧乏だか山で山菜をとり素朴な生活をしていたのである、自分はかかわらないにしてもそういう村だからこそ癒しがあった
こうなるともう癒しもなにもない、ただ光景としても殺伐であり人心も殺伐としたものとなった、までいな村などもうない、ただ補償金をむさぼりくらう人たちしかいないとなってしまった、いくら立派な学校を建てても大人たちの人心は荒廃してしまったのである
そういう場所には花が映えるだろうか?それが残念でしかたがないとなる
それが飯館村の人の責任ではないにしろそうなった事実があり悲しいとなる
posted by 老鶯 at 13:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2018年08月11日

原発を東京に作れというのは正論だった (人は住んでいる場所に一番関心をもつ)


原発を東京に作れというのは正論だった

(人は住んでいる場所に一番関心をもつ)

人間は住んでいる場所に一番関心がある
当然住んでいる場所だといろいろ直接影響するからである
原発でも浪江だと請戸港から原発の煙突が見えるのだから関心をもつ
角のことはからないにしてもそれだけた近くにあれば関心をもつ
もし事故が起きたならどうなるのかなど想像する人もいる
でも離れていると関心をもたないのである

なぜフクシマに原発を東電で建てたのか?
それは300キロ離れていれば東京は安全だと思ったし
とても東京では反対があるから建てられないとなり福島に建てた
すると東京に住んでいる人たちも安全だとなり容認した
そこが間違っていたのである
東京の人たちも離れているからいいや,こっちには関係ないだろうとなる
東京の人たちも無関心になっていたのである。
でも東京に原発が作られたら恐怖で四六時中監視する人もでてくる
東京には科学者とか技術者がいるからさらにうるさくなる
常に原発はそうした人たちの監視にさらされるから安全を完全にしないと運営できなくなっていた

ところが福島とか離れると東京の人たちも関心が薄れる、安全だとなり容認するようになっていた、そこに落とし穴があった
人間は住んでいる場所だとささいなことでも気になる、この辺では土を削りとられた所が多い、それを毎日見ていると景観的に嫌だなとなってしまう
それは毎日見ているからである、見ざるをえないからである
一時的にいるなら通り過ぎるなら嫌でも離れれば見ないからいいのである

人間は住んでいる場所だったら身近だから自分のことのように考える
でも離れてしまうと他人事になってしまうのである
原発事故の避難区域でも故郷から離れて暮らしているとやがて住んでいた故郷のことでも無関心になってしまう、そこが何になろうと関係ないとなってしまう
土地をもっているけど放射性廃棄物になっても金にならからいいやとかなる
もし住んでいたらそんな危険なものは置くなとなるが離れていると関心がなくなるのである

だから人が住まないとどうなるのか?
その住む場所に誰も関心がなくなる、別に放射性廃棄物でもあってもいいやとなる
金になるからいい、どうせそこに住んでいないのだからいいやとなってしまうのである
住んでいれば住みやすいように自ずと努力するが住んでいないなら関心もなくなる
そこはやがて放置され原野化して政府の土地となり放射性廃棄物場になりやすい、現実住んでいないのだから反対する人もいないからである
住んでいないことは実際は権利を失っているのだ、だから土地でも空き家でもそうして利用されていない土地でも家でも所有の権利を失うのが自然なのである。

それにしてもすでに小高に東北電力の原発が建てられる工事まではじまる予定だった
そこに建って事故が起きたら南相馬市とか相馬市とかには住めなくなっていたのである。でもそのことを知っている人も少なかったのが怖い、何か報道でも取り上げないとそうなる、原発を建てる土地を買い知事の許可があれば原発を建てられると法律ではなる
それが異常なことだったのである。
事故になれば南相馬市でも相馬市でも住めなくなる
その時は南相馬市は合併していない、だから小高だけで決められることにもなっていたのも怖い、原発というのはこのようにあまりも建てるにも広域的な議論もなにもなかったのである。ただ地元の大工さんは景気良くなるよとしか言わない
地元では金のことしか関心がなかったのである

人が住まないとそこは無関心地帯となる、それが自然の原始の状態にもどるわけでなはい政府のものになり放射性廃棄物となったり何か他のよからぬものに使用されたりする
そこには誰も住んでいないのだから反対する人もいないからである
そしてそこに住んでいなければもともと住んでいる人も無関心になる
ただ何でもいいから金になればいいとなり土地を売ることになる

例えば無人駅でもそこを管理する人がいない、すると勝手にされるということがある
確かに監視カメラとかついていたり隣の駅で見ていたり連絡はできるが無人駅ということはその駅を管理する人がいないのである。
そうなると許可なしに何かをする人がでてくる
ボランティアで善意でもJRではどうにもならないともなる
いくら自動化しても全部責任を持てない、ロボットは責任を持たないからである。
無人化することはどうしても勝手にされるということをさけられないのである。

いづれにしろ東京に原発を建てろというのは正論だった
それができないなら原発は建てるなともなっていた
でもその正論は正論にもならない、何か風変わりなSF作家が提案していように見られていた、そういう本も出ていたが隅に追いやられて冗談かとまでなっていたのである。
それほど「安全神話」は強固に作られていたのである。
それは核が庶民にはわからないこともありそれ故にさらに強固な安全神話が作られた
日本の技術は優秀なのだといううぬぼれもあった、そもそも核と原発の技術はアメリカが基でありアメリカに指導されて作ったから日本の技術力で作られていなかった

そしてアメリカでは古い型のマーク1の原子炉を商売として売りつけていたのである。
これは明治維新の時古い武器を売りつけられたのと同じだったのである。
つまり自国の技術力でやれればいいのだがアメリカはアメリカで日本は遠いから無関心になり危険なものでも自分に及ばないから古い型の原子炉をうりつけたのである。
自国だったら身に危険を及ぶからそういうことはできないのである
国は国で離れていると無関心になり危険がないから親身にならない
ただ金儲けとして危険なものでも売りつけるとなるのである
ここにグロ−バル化経済の問題がある、自国だとうるさいが外国だと安全は食品でもなおざりにされる、どうせ外国人が食べるのだからいいやともなるからだ 

「遠くの親戚より近くの隣人」というように親戚でも遠くになると何しているわからなくなり無関心になってしまうのである、むしろ日々顔合わせている地元の人の方が頼りだとなってしまうのである
報道でも福島県の福島民報とかあるけど民友もあるけど福島県でも広いから福島の市町村単位でそこに住んでいる人が報道するのがいいとなる、なぜならそこに住んでいる人が一番関心があるからである
真野側で水質検査をいつもしていると放射性物質はどのくらい高いのかと気になるのである
それは近いからそうなるのである。だから福島県でも広いから報道はそこに住んでいる人がすべきだとなる
それがインタ−ネットである程度可能になったから自分も報道のようなことをするようになったのである。

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2018年08月05日

小高復興の一試案 (牧場などを作り車の通行禁止で江戸時代にもどる)


小高復興の一試案

(牧場などを作り車の通行禁止で江戸時代にもどる)

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小高に三年ぶりで行った不思議を書いた,前よりは人は帰っているけどやはり通る人が少ない、通りに歩く人も見えない、ただ前からは通りはどこでも歩く人がまれである
車時代になってからそうである
ただ小高で感じたことは車が通らないから江戸時代にもどったような気分になった
やはり車というのがいかに社会に影響しているか実感した
一時大きな街で歩行者天国を作り車をしめだした
小高では別にしめださなくても車が通らない、6号線は通っても通らない所が多い
車が通らないとどうなるのか?江戸時代にというか車ない社会にもどったようになる
それは戦前でも戦後十数年でもそうだった
車が普及したのは高度成長時代になってからである

輸送の手段は遠距離になると蒸気機関車時代があり貨物輸送の貨物列車の時代があった
近間では馬車の時代がありリヤカーがあった、それで梨を売るために相馬市まで鹿島から運んだというのもそのためである、でも今からすると距離があるから苦労だった
ただあまり遠くまでは行かない、近間で用をたしていた
馬頭観世音がこれほどなぜ多いのか?それは馬で荷物を運んでいた輸送の主役だったからである、だから江戸時代の馬頭観世音はまれであり明治時代以降のが多いのである
馬が人間を助けてくれたから供養のために馬頭観世音をいたるところに作ったのである
まず馬車だったら遠くに荷物を運ぶのは無理である。
それで鹿島の右田の農家では肥料となる草を橲原(じさばら)から運んでいたという話を聞いた、橲原に入会権の山を所有していたのである
つまりその頃は近間でなんでもまかなっていたのである
なにか小高ではそういう時代にもどっいたという感覚にったのも不思議である

自分は江戸時代に関心をもつようになった、それは江戸時代には今の時代に失ったものがあるからだ、だから時代劇を良くみている、その風景がなつかしいとなる
江戸でも舟が縦横に行くのはベネチアのようでありその風景にひかれるのである
それはただ過去を美化しているということもあるが江戸時代には旅人でも歩いていた
それがみんな絵になっている、この歩くことを感心してみているのも時代である
今は旅人はいない、歩いて旅している人がいることはいるが車の騒音の中に消されてしまうのである、浮世絵のような絵にはならないのである
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小高の復興というときそれをどうするのか?
これはあくまでも自分の試案でありアイデアでありそんなことできるのかともなる
何か空想的になってしまうのが自分だからである
関わる人、交流する人を増やしその中から住民と「外の人」が精神的な豊かさを分かち合う

ここでどうして「外の人」と精神的な豊かさを分かちあうのか?

夕張で炭鉱がありそれを活かす取り組みをした、その例に習えば小高では野馬掛けの野馬追いの原型の行事があり牧場に向いているともなる
もう田畑は草に埋もれて草原化した、もうそこを田畑にすることは無理だと感じたからである、ではどうするのか?
牧場化して馬を放牧するのがいいのではないか?そして乗馬などをさせるのである
そして回りは車も通らないから車をしめだすから江戸時代にもどるともなる
ただ車で来る人が多いからそうもならないかもしれない、ただ車をしめだして江戸時代にもどる体験をする、車が通らない地域を作るのである
車を通るとしても制限するのである

これはあくまで試案であってそんなことできないということはある
一番の問題は田畑というのがみんなここに所有者がいて牧場にするからと勝手にできないこの辺でも畑の半分が未だに荒地化している、でも所有者がいるから勝手にできない
無料でも貸すと所有者は言っても誰も畑で野菜作りなどしない
その手間と労力が大変であり金もかかる、自分が支援したが一年で10万はかかる
その収穫はこの前太いキュウリをもらったがあとはなかった
田畑を活かすことは楽ではないから前々から高齢化などで受け継ぐ人がいなくなっていたのである。

明治後で失敗したのは私有権を過度に認めたことである
山でも平地でも海でもそうだったのだ、だから土地が細分化されて利用しにくくなったのである。漁業権のことを書いたが補償金を得るために自分の家の前の海にも権利があるとして交渉していたのである
それほど私有権が強固なものとして権利を与えた結果何か公共的な用として利用しにくくなったのである。
江戸時代までは入会権とかあり山でも共有であり村を単位にして土地は共有していたのである
だから荒地があると村では困るので村全体でその荒地をみんなで元の田畑にもどした
草が生えてきて隣り合う畑をもっていると困るからである
田んぼでもそうである、水の共同利用とかありそれは個々人が私的に利用できるものではなかったのである。農業は自然が相手だから土地は共有になっていた

現実に飯館村で補償金をもらって土地を売った方がいいというときそこが放射性物質の廃棄物になっては困るのである。なぜなら土地はつながっていてその放射性物質が現実に保管されないで流れ出したからである、それは南相馬市の方に流れてくるからである
だから過度な私有権を認めたことは失敗だった
現実に荒地化している土地をもっている人はそこは自分の土地だから売らないとなれば貸さないとなれば何もできなくなる
牧場とか大きな土地利用をするにしても一人の地主が反対すればできないのである
ただこの辺ではそうして荒地のままに草ぼうぼうにしていいのかということが切実な問題となっているのだ
だからこれをなんとかしようとするときいい知恵はないかのかとなる
何かそういう知恵を出し合うことも必要なのである

おそらくいくら土地をもっていても無駄でも何か金になると土地をもっている人はかがえているのかもしれない、例えば放射性廃棄物の処理場とかになり金になると考えているのかもしれない、それは私有権があるから自分だけの利益しか考えないからそうなる、後はソーラーパネルが一番有力なのかもしれない、あれだけの土地が空いているとそうしやすいからだ
そのために土地を保有しているかともなる、そうなったら景観は乱されるから江戸時代の街作り構想は消える
ただ土地を有効に生かす方法がないとそうなる可能性が強いとなる
それをするとするとしたら海側であり山側はしないということもある

何かこの辺で問われているのはそうしした共同性の回復だったということもある
それが失われたからそういうことが望まれる、それは江戸時代の村への回帰でもある
そんなも古いものはあてにならないというのもある
でも明治以降の私有権の強固な権利とか共同性の喪失とかが問われている
一方であまりにも大企業の力が強くなりそれが市町村でも自治体でも今回のように東電によって破壊されてしまうことをまざまざと見たのである
江戸時代の村は別に理想的なものではないにしろ自然と共生した共同体だった
でもそれも巨大な大企業によって破壊された、またグロ−バル化社会の影響もありもうそうした世界の中で経済が動くようになった
その時肝心なものが見失われたということ喪失したことがある
結果的に自然は放射能物質で汚染されてとりかえしがつかなくなり家族はばらばらになり共同体は失われてしまった、原発事故前からもそういう状態はあったがここでは拍車がかけられて田畑は草ぼうぼうになり人が住まなくなったのである。

ただ江戸時代にもどれと言っても電気がない世界に住めるのかとなる
エネルギーは炭になるのかとかなる、囲炉裏が復活するのかとかなる
そんなことができるのかとかなる、それは無理だとなる
でも何かそういうことを志向するのも今回の原発事故でありうることなのかとも思った
江戸時代だと夜は真っ暗な世界である
小高などは街まで真っ暗だった、そこにイルミネーションをして電気を使うより提灯でも使えば江戸時代にもどることができる
街全体が江戸時代にするとそこで江戸時代の気分が味わえる
ただこれは他で江戸時代を再現して観光している場はある
ここが違うのが現実に江戸時代にもどったような場なのである
特別な場所が江戸時代になっているのではない、街全体が回りがそうなっているからだ
それがテーマパ-クなどとは違っている、そこに現実に人が生活しているからだ





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2018年07月21日

養う(やしなう)という言葉の意味 (原発であれ今は会社や科学技術が養っている)


養う(やしなう)という言葉の意味

(原発であれ今は会社や科学技術が養っている)

養う(やしなう)とは社(やしろ)のやしからきている、養うとは狭い社を範囲にして養うということが生まれたのかもしれない
日本人の世界観は村が起源になっている、だから狭い範囲で生きてきたからそうなった
働くという言葉も端を楽にするということは家族単位から生まれた言葉なのである
なぜ養うということを問題にしたかというと村で暮らすときその周りのものを活かしていくほかにそこに住むことはできない、人間は村でありそこで住むことがまず優先されたのである、そこに住むためにいろいろと苦労してきたのである。

そこに住むためにはその土地にある資源をすべて活用しない限り生きていけない
だからその土地にあるものなら何でも利用することになる
肥料がないから糞尿を利用するとかもそうである、それは江戸時代なら江戸でもそうだったのである、あらゆるものを捨てないで利用していた、そこでもったないという言葉が日本から生まれたのである。

海でも平地でも森でも山でもそこにとれるものを何でも利用する、すると人間はどういう感覚になるのか?
その土地に住みその土地のもので生きるとなれば海で魚がとれれば海に感謝する、山で木材をとり炭を作れば山に感謝する、平地で米がとれれば感謝する、神にそうした恵みがあることを感謝する、つまりその土地に養われていたからこそ社(やしろ)中心の生活となり養う(やしなう)になったのである。養われるという感覚になったのである。

そういうふうにして生きていた時どうしてもそこに今の感覚とは相当に違っている
つまり今をそうした時代と比較すると今は何に養われているのか?
その時の感覚では魚がとれれば貝でもとれれば海に感謝していた、平地でコメがとれれば米がとれて生きられるとなり米がとれてその土地で生きる養われるという感覚になっていた、山でとれるものでもそうである。すると山に感謝していたのである。

それが現代になるとどうなったのか?
グロ−バル化経済になるとどうなったのか?
みんな田舎であれ金に養われているという感覚になる
日々の生活は買う生活なのである。自分自身も一人で家事をするとき毎日何を買うかが問題なのである。その種類が多いからわからないのである。
何を買うかを知ることが日々の糧を得ることである、糧(かて)という感じでも米の量となっているが米と密接に結びついていた

そして買うということは金が必要になる、今はみんな金に養われているという感覚になるそれだけグロ−バル化して世界の商品が入ってくるからである。
その土地のもので生活している人は田舎でもわずかなのである。
膨大な商品を買う生活なのである。そのためには金が必要だとなる
そこで金の比重が増大化してゆく、みんな金が一番大事なものであり金に養われているという感覚になる
本当は米なしでは生活できないとなるのだがその前に金なしでは生活できないとなっているのが現代なのである
ただそういう感覚は現代になってから極端化したのである

村の社に祈る時それはその土地のもので養われるから祈っていたのである。
今はそう思っている人は田舎でも農家でもいない
例えば漁民でも本当は海に養われているとなっていた
でも魚は取るだけでは生活できないとなり東電に漁業権を売り渡した
養うのは海ではなく東電という大企業なのである
他でも農家は農業だけではやっていけないから田舎でもみんな会社員になっている
すると会社に養われているのであり村の社とは関係ないのである。

田舎でも何が生活の糧になっているのかとみると農業ではない、土木建築関係の会社に雇われるものも多い、すると田舎で養われるものはそうした会社であり農業ではないとなるそこが現金収入を得る場だからそうなる
田舎でもやはり収入がないと現金を得ないと生きていけないからそうなる

自分自身の一身上の利害を度外視してもし村長とか町長とか市長の立場で考えると
この市町村をどうしてここに人を住むようにできるか?
何をもって養うことができるのか?
それを考えると農業では金にならないから土木建築関係で金を得る、そのためには仕事が必要である、それで国に公共事業の費用をだしてもらい道路などを作りすぎたのが現実なのである。それは金にならないと田舎でも生きていけないからである。

ただ人間はこうして自然から離れ自然に感謝しなくなった、また自然も畏れなくなった
人間を養うのは石油であり電気であり科学技術だと思うようになった
そうなると東電に感謝しろとかなったり科学技術を産みだす科学者が神官となったのである。原発はまさにそうだった、それは石油で動いているのではない
科学技術の力で動いていたからである。
だからその原発が神のごときものとして崇拝するまでになる
そして「安全神話」は作られた、科学者でも技術者でも神のごとくに崇拝されていたからである、医者が今神様のように崇拝されているのともにている
科学技術が養うというときそこには自然はない、海にも山にも人は感謝しないのである。山に木材があっても外材で無用化されて炭にもならずただ無駄なものとしてあるとなる
その時人は山にも感謝しないし羽山信仰なども過去のものであり祈ったりしない

しかしその時何が起きたのか?
原発事故が起きてそうした海のものや大地のもの山のものがみんな汚染されたのである
そして住めなくなったのである。住むということを第一にしていたのが人間である
その住むことができないということはそもそもその土地のもので養われているという社会でなくなっていたからである。
だからこそその土地に愛着することもなくなる、みんな別に農民でもないからである
だから浪江の人は二本松に工場を移転してその人も移住したとなる
つまりその人も会社に養われていたのであり別に故郷のものでその土地のもので生きていたわけではないからそうなった
養っていたのは会社なのである。

そうした社会には実は危険なものがひそんでいた、一旦科学技術の粋を集めた原発でも事故をおこせば壊滅的被害になりその土地にも生きていけなくなることであった
まず住むことを第一にして人はその土地のものを活かして生きる
それがなくなりただ科学技術こそ神となり原発ともなるとき危険があった
人間はもはや原発に養われ電気に養われているとなったからである。
その事故はプルトニウムが二万年消えないとかになってしまったのである。

ただ人間はその土地で生きるということは何か養うものがないかぎり生きていけない
もし市町村の長になればそれをどうするかと強いられる
そこで金がなければ養えない、金を稼がなければ養えないとなる
それは膨大なものを外部から仕入れて買う生活だからそうなっているのである。
そうなればどうしても金を稼ぐことが強いられるからである。
農民でも実際は今は買う生活である。だからみんな金を求める生活となる
糧が米なら米の量によって養われる人数でも決まるとなる
でも米ではない、金があることによって養われるというときその金をいかにして稼ぐのかということが問題になるのである。

ただ養うとは何か日本語として英語とかにはない意味がある
言葉はその国の民族の歴史から生まれているから意味がある
養うとはいい日本語だと思う、養うとは人を養うということとかその土地で養われるとかもともとは社を中心とした村社会から生まれた言葉である
だから養うというとき食料だけではない、その土地で養われることは美的にもそうであるその土地の景観でもそうであり自然に養われるということがある
その時その土地の自然を通じて心も養われるのである。
自分の場合は食料よりそうした自然とか文化的なものに養われるということになった
でも現実問題としてはその土地で養われて住みつき生きることこそ第一でありそれがなくして養われることはありえないのである。

ただ金に養われるということそれで安心なのか?それで住めるのか?
そういう不安はあるだろう、物価が倍になれば金の価値は半減するし金の価値は一定ではない、紙くずにすらなる
だからその土地に住み養われるということは本当は金だけでは不安なのである
それを証明したのか原発事故で現金収入を得ていたのが一挙破壊されてしまったからである。科学技術は金を産みだすがそれも一挙に事故で崩壊したようにそうした科学技術の産物は一時的なものとして消失する危険があるのだ

だから何に養われるのか?それを問い考えることになった、それを追求してきた
でも時代を逆戻りして炭で暮らすわけにはいかいない、その方策は何なのだろうとなる
ただ養うというとき昔だったら一応村という単位で考えていた
今は会社とか工場とか東電のような大企業でありそこで現実に多くの人が働いて金をもらっているのだから養っているのはそうした会社だとなる
だから戦前から江戸時代のように海から魚をとれたり貝をとったりし米を収穫したり山の材木を利用したりして生きている感覚がないから自然に感謝したりしないのである
でも事故が起きたりするとその頼ったものが一挙に崩壊して住めなくなったのである。
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2018年07月13日

無関心が原発事故の原因にもなった (「安全神話」が無関心にさせて作られた)


無関心が原発事故の原因にもなった

(「安全神話」が無関心にさせて作られた)

原発に関しては 「見ざる、聞かざる、言わざる」だった
見ようともできない、聞くこともできなし言うこともできない
「安全神話」が政治家、官僚、東電とマスコミが一体になり強力に作られていたからである。
原発に勤めていた人も「安全」だと言っていたから常に脅迫的に地元でも安全を言っていたのである、だからそうして原発で働いている人も多いからそういう人たちが身近に回りにいるから地元でも何も言えないし聞くこともできない

自分の住んでいる場所はちょうど30キロ圏外であった、でも30キロ圏外でも放射能の影響はあった、でも遠いから関係ないと関心もなかったのである。
それより福島県全体で関心をもたされなかったのである
それで今になって関心をもたないということが怖いことになることを知った

無関心・無視はやがて罪になり自分に襲い掛かる『なぜナチスを阻止できなかったのか−マルチン・ニーメラー牧師の告白−』

はじめにやつらは共産主義者に襲いかかったが、私は共産主義者ではなかったから声をあげなかった。 

つぎにやつらは社会主義者と労働組合員に襲いかかったが、私はそのどちらでもなかったから声をあげなかった。 

つぎにやつらはユダヤ人に襲いかかったが、私はユダヤ人ではなかったから声をあげなかった。 

そして、やつらが私に襲いかかったとき、私のために声をあげてくれる人はもう誰もいなかった。 

原発も同じだったのである。関心をもったのは補償金とかそこで働くと金になることしかなかったのである。また関心をもたされなかったのである
誰も警告もしないしただ「安全神話」になり日本の技術者は優秀だから日本では事故にならないとかなっていた、それは津波でもそうである、スマトラであれだけの被害があったのに日本ではスマトラなどでは津波のことわからないからあんなに被害があった
日本だったあんなふうにはならないとか言っていたのである。

国家規模になるとわかりにくいが自治体はいろいろなことで直接関係してくる
だから政治を学ぶには適している、具体的に身近に利害にも関係してわかりやすいのである。
ただ南相馬市でも原発にはほとんどみんな無関心だったのである。
なぜなら東北電力で小高に原発を作られることでも無関心だった、知らない人すらいた、自分も知らなかったのである。ただ家で庭を作ってくれる大工さんが原発できるから景気良くなるよと言っていてそうなのかと思った
でも小高にできるということはかなり危機意識をもつ、いくら原子力のことを知らなくても小高は近いからである。わからないにしても不気味だとなる

ともかく漁業権を東電に売り渡して土地を確保してそれで知事の許可で原発が建てられるということが今になると信じられないとなる
これだけの広範囲な被害になるのが原発事故だという認識がないからそうなった
そんなことを教えられらないそうなった
第一東電では事故の時、スピ−ディで放射能を計ることができた、風向きでもそれで計りどこが放射線量が高くなるか知っていた

しかしそれを浪江町とかに知らせないで浪江町民は一番放射線量が高い対馬に町長の命令で避難したのである。
そのことを教えたのはアメリカだったのである、つまり日本は事故になっても何ら対策できない、アメリカに教えられているだけだったのである。
それで「安全神話」が作られていたのだからそれは権力によって作られたものだった
これは共産主義国家と同じだったのである。
中国の最大の問題は共産党一党独裁であり習近平にさからえば刑務所送りとなる
北朝鮮ではただちに銃殺になる、それと原発に関しては似たようなものだったのである。
民主主義はとにかく賛成と反対がある、一人でも反対する者があれば一応その意見を聞く言わせるというシステムである、なぜなら多数がすべて正しいとはならないからである
反対でもその意見を言わせて判断する,それだけも民主主義になりうる
それすら原発ではなかったのである。
反対意見を聞けばそういうこともあるのかと思う人がいるからだ
でも全くそういう反対意見も言わせないとなるともう民主主義はない、中国や北朝鮮の独裁国家と同じなのである。原発に関してはそうなっていたのである。

それで何もなければいいが事故になり住めなくなったりナチスのように大被害になる
その死者数も膨大なものになるから怖いのである。
ともかく情報でも権力があるものに握られて知らされない、第一権力をもっているのが官僚であり警察でもそうだかそういう人たちとかかわるとき簡単に情報も得られない
それで権力に従うだけだとなる
福島民報は官報と同じである、県で50パ―セント出資しているからである
そういうところに完全に国とか官僚の言いなりになるだけなのであり全く期待できないのである。
だからマスコミとかNHKすらあてにならないのである
みんな「安全神話」に加担したからである、科学者は技術者は御用学者と化していたからである 

いづれにしろ無関心というのは怖いと自分でも思った、原発に無関心だったからである
また無関心にさせられていたともなる、そういうなかで「安全神話」は形成されていた誰も危険を言うものはいなくなっていた、議論すらしない、議論も大事だと思ったが反対を言うこともできないのだからどうにもならなかったのである。
確かに危険を言う人がいたがそれが何か「安全神話」の前に冗談なのか奇異に見られていたことでもわかる,今になると原発は東京に建てるのが筋だったのである
危険だと思っていたからフクシマに建てたのである。
それだけ「安全」というのなら東京に建てても良かった、送電線も作らなくてもいいからコスト面でも良かった、それをしないのは東電でも政府でも危険と思っていたからであるそういうことを議論にすらならなかったのである。
議論もできなかったのである。ただ一方的な安全神話だけが権力によって形成されていただけなのである。

ともかくこの辺は民主主義が何か問われたし自治体とは何かも問われた、政治にかかわらざるをえない場所になった、それは具体的に見えるものとしてかかわらざるをえなくなったのである。
漁業権に疑問を持った人もいなかったし無関心だった,でも今になるとそんな権利があるのとかなる、ただまず漁業権がどうなんだとか言うと漁業組合の人たちににらまれるから事故前はまず言うことすらできない、そこだって権力をもっているからである。
今だから言えるようになったのである。
結局情報も権力によって左右される、操作される、そしてそれが大事故になり後で真実が暴露されるとなるのが人間社会であり人間の歴史だともなってしまう
ともかく無関心だということが大きな罪であり大きな事故につながることは確かだったのである。
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2018年07月12日

原町の菊池ス−パ−の回りの豪邸は船主 (庭だけで1千万以上かかっている?)


原町の菊池ス−パ−の回りの豪邸は船主

(庭だけで1千万以上かかっている?)

菊池ス−パ−の回りの立派な家は庭が広くそこに置かれた石が大きい
だから石が好きだから自分は感心していつも見ていた
でも今日その家が船主の家であることが分かった
車を見たらその中に・・・丸とか書いてあったからだ
これは船の名前だからである。

それでなるほどこれだけの庭と家を作れるのだなと納得した
この辺では新築の家が次から次と建った、そしてそこはニュータウンとなった
その家を見ていると2500万タイプの建売住宅と5000万クラスに見えるもものがある
でも庭だけであそこう見たら二三千万かもしれない、石が意外と高いからである
一千万は軽く越えているだろう

ただ鹿島区にはあれだたけ立派な庭はない,それなりの家はあるが庭にはあんな大きな石はない、ただそこでも船主の家がある、それはやはり車で・・・・丸と書いたものがあったからだ、ただニュータウンには鹿島区の人が建てた人もいるがどうも外部から来た人たちが建てたらしい、磯部の人が建てたは聞いた、どういう人が住んでいるのかわからないのだ、他にも小高とか浪江でも双葉とかでも建てているかもしれない
補償金を一億とか軽くもらっている人がいるからだ
だからあれだけの庭を作れるとやはり船主だったのだと納得した

とにかく船主とか漁業権の問題は法律的にどうなっているのか疑問である
なにかそこを追求していない、なぜ漁業権を東電に売り渡すことができたのか?
そして事故前も多額の補償金をもらえたのかというのも納得いかないのである。
それで原発御殿が建ち回りからうらましがられていて不満があった
それは何か漁業権というのが本来の権利ではない、東電に売るための漁業組合の利権化していたのである。
そしてそもそも漁業権は資源の保護とかのための権利であり法である
東電に売り渡して多額の補償金を得るためのものではなかった
なぜそんな権利があったのかということ行使できたのかも納得いかないのである
原発は漁業権を得ることと原発を建てる土地を確保するだけで知事の許可で建てられたというのも信じられないとなる

なぜこういうようになったかというと事故が起きてそうなった、事故が起きなければとやかくあまり言わないしわからなかったのである。
ここに全く民主主義が機能していなかったのである。
原発を建てるとき漁業権が漁業組合とか船主のものでなければ自治体のものだったらそれは自治体に属する人たちの賛同が必要になる
議会でも議論することが必要になる、そこには賛否両論があるがともかく議論は議会でする、そして最後は市長選となり原発賛成と反対の政策を主張して決着する
その手続きを踏むことが民主主義なのである。
それがないことは民主主義が全く機能していなかったのである

ただ漁業組合の漁業権が自治体と別に設定されていて自治体から認可されていたわけでもない、そして東電に漁業権を売り渡す権利があったかどうかもわからないのである。
それはいろいろな解釈があったとしてもそれが正当な権利として認められるかは疑問だったのである。一つの過去からの慣習してあったのでありだからといって東電に売り渡す権利があったとは思えないのである。

別に金持ちがいてもは正当なものであれば回りでは何も言わない、それは地元に貢献したとか共同体で認めるものとして金持ちもいるからだ
例えば500万かけて石を組んだ庭を作った人がいた
その人は歩合制でトラック一台分でいくらとかもらっていた、その人は倍もそうして荷物を運んで金をためて若い時に家を建てて庭を作ったのである
そういう人には別に誰も文句は言わないのである。
パソコンを発明したビルゲイツとかジョブスとかそういう人がけた外れの金持ちになってもアメリカにそれだけ貢献したのだから誰も言わないし認められているのである。

でも船主とか漁業組合で漁業権を盾にして金持ちになったとか原発の補償金で金持ちになったというのは納得いかないとなる、他でも被害した人たちがいても大方は何にももらっていない、なぜそれほど手厚くするのかということでもめたからである。
原発御殿から原発長者になったと人がいてそれが回りから承認されるのか?
それは国民からの眼もあり許されるのか?なぜならそれは国民の税金も入っているからである。
相馬市の総合病院でも特等室に入って家を建てると言っていた人もやはりそういう船主だったのである。
請戸の人だったからである。

まず船主とか漁業組合に加入している人でも生活には困らない、魚が一匹もとれなくても困らない、事故前もそうだったし事故後も手厚い補償金をもらいつづける
それは廃炉までとかなるし多分30年とかも継続されるのである。
だからこそ生活は保証されているから豪邸を建てることができたのである。
原町だと鹿島より地価が高い,でも原町だとあれだけの家を建てても目立たないかもしれない、原町は広いし家も多いしいろいろな家が建っているからである

いづれにしろ金になればいいとかしか今は考えなけどそれだけで社会がみんなが認めるのか?そうはならない、自分も石が好きだから庭を見て感心するけど認めることができないその庭でも汚れたものに見えてしまうのである。
この世の中金の世界になっても金ですべてができる通るとはならないのである
回りから共同体からの承認が必要なのである。
共同体というとき大きくは国家でもそうだし小さいと村単位にもある
そういう共同体の承認があって金も許容される、それがなくなると世の中に不満が鬱積していつか爆発する、格差社会と階級社会はだから金持ちにとっては非常に危険になる
下層階級化した人々が襲うようになる、一揆のようなことが起きるからである

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2018年07月10日

土着性が失わた現代の生活 (万葉集の歌から学ぶー原発事故の原因も)


土着性が失わた現代の生活

(万葉集の歌から学ぶー原発事故の原因も)

あをによし 奈良の山なる 黒木もち造れる室(むろ)は 座(ま)せど飽かぬかも
  〜聖武天皇 『万葉集』 巻8-1638
  
黒木取り草(かや)も刈りつつ仕へめどいそしきわけとほめむともあらず ?大伴家持

人間の生活の充実感というとき金があれば何でも満たされると今ではなるが本当の充実感は得られない、都会だったら田舎でも今は買う暮らしである
何を買うかが暮らしである、その買うということがグローバルになる
例えば庭で葡萄か何か果実でも野菜でも育てわずかでもなるときそこに充実感を覚える
エデンの園ではエデンの園の中に果実でも木の実でもふんだんにあった
それは遠くの外から金で得るものではなかったのである。

それで飯館村の人が山菜などとって暮らしていたがそれができなくなりすべて金で買う生活になった時不安になるというのもわかる
何か生活の充実感がなくなる、それは土着的生活がなくなったからである。
今なぜ故郷とかに愛着がなくなったのか、それはすべて金で買う生活をするようになったこともある、もし農家が8割とかの社会だったらその土地でとれたもので生活していれば
親からその土地でとれたものを与えられて生活していれば親のありがたみとかその土地のありがたみとかを実感して暮らしているから自ずと愛郷心が生まれる
そしてみんなが農業していれば同じ心情になるから連帯感が生まれる

黒木取り草(かや)も刈りつつ仕へめどいそしきわけとほめむともあらず

一方でその時代でも平城宮とか都が生まれるとき農業は軽んじられてきていた
現代は農業や漁業や林業は軽んじられていた、それに従事する人は一割にも満たない
たから親でも農業などやるなとか跡継ぎいなくなっていた
田舎でも土着的生活をしている人は少ないのである。
商業的工業的生活しているのが現実でありみんな会社員なのである。
サラリーマンなのである。だから土着性が薄れている
すると愛郷心でも起きにくい、物は金で買うことでありその土地のもので生活するということでもないからである。

家を建てるにしてもそうである、外材であり大会社が一週間くらいで家を組み立てるだけである、昔は半年くらい普請にかかっていたから一大事業になっていた
大工も土地の人でありその材料もその土地から提供されていたのである
自分の家も柱を橲原(じさばら)からとれたもので作ったといつも姉が自慢していたのである。すると橲原と結びつく土着的なものしとて自覚する
農業でも右田の人は馬車で橲原に入会権として土地をもっていて草を刈り運び肥料にしていた、ここでも右田と橲原は山と結びついていた
水でも山から水が流れてくるから田んぼは山と結びつき葉山(端山、羽山・・・)信仰が生まれた、羽山とは低山なのである。それは田んぼと関係して生まれた稲作と関係して生まれた信仰である。

そういうふうにその土地にあるものをできる限り活かして生活していたとき故郷はありえた、ふるさとの山はありがたきかなという心情で啄木でも一致していたのである
それが失われたときまたふるさとというものはただ一時的に滞在するような感覚になる
それで原発事故で簡単に町でも村でももぬけのからのように人がいなくなったのである。もちろん放射能の影響のためだともなるがそんな簡単に故郷を離れるということはやはりそういう社会になっていたからだともなる

ともかくこの歌のいいのは何かその土地に生活することの充実感が満ちている
それに共感したのは自分の家がそういうふうに作られたことで感じた
自分の家でも広い八畳の間がありそこで寝ていると家は安らぎの場となる
家を建てるその土地に家があるということはやはり土着したことなのである。
その土地に根を張ることなのである、そして家というのは実は人間の寿命より長い
人が死んでも家は残る、家の方がつくづく寿命が長い、古い家は百年とか二百年とかもっている、外国だと石とかなると千年でも存続し続ける
人間の寿命は短い、家の寿命の方が長いから遺産として残るのである。

だから家は一代で終わらない、万代(よろずよ)までとなっている、そのように家の寿命が長いことで充実感がある、そこに住んで飽きることがないとなる
しかし人間は死ぬ、しかしその家は残っているのである、二代目三代目として住んでいるだから家は一代だけではない代々受け継がれるものとして残る
ただ現代の家はそうした重みはなく何か一時的組み立てて後は分解するという感じになっている、土地の材料でもないし土地の大工もかかわらないのである。
そこにどうしてもその土地に暮らす充実感が得られないのである。
そういうことで原発事故を契機に簡単に離散して分散して帰らなくなり誰も住まない土地となってしまったのかとも考察したのである

海でも魚をとっても暮らせない、農業しても生活できない、林業は外材であり金にならない、では何で暮らせばいいのか?
原発がいい、それで漁業者は漁業権を東電に売り渡し金にした、農業でももともと金にならないから農業だけはやるなと子供が親に殴られたという話も極端でもそうなっていたのである。その子供は原発や建築現場で働いたからである。
そして原発事故で漁業も農業も林業も一番痛手受けた、でも前々らかそういう一次産業は金にならないとなり誰も熱心にその生業にたずさわろうとはしなかった
それで生業を返せと抗議するとき矛盾しているものを感じたのである。
あなたたちはどれだけその生業を大事にしてきましたか?
なんとかその生業をやめて金にしようとすることしか考えていなかったでしょう
それを今になって生業を返せというときそれはやはり補償金を欲しいしかない
ちょうどこの際これを口実に金を東電とか政府からむしとればいいとさえ極端になればなる、金をもらうだけもらう、それを堂々と主張できるともなる

人間はともかく何か矛盾した存在なのである。お前は何なのだ、ただ金があるからのんびりとしている、風流とかで旅したりしているが農業とか漁業とかの苦しみをわからない
そうしてし必ず人は責められるところがある、そして矛盾してくるのである
だから三野混沌などは極貧のなかで農業してきたのだからそういうことはない
でも山尾三省になると何か貧乏を売り物にしているというふうに見られるのである
パンが贅沢だとなれば現代生活では何なのだとなるからだ
どうしても共感するものがあっても現代では受け入れられないのである。
三野混沌になるとそういうものではない、農民はそうして生きたのでありリアリティがありその言葉も重いものとなるるのである。
ただそんな厳しいことを習う人は現代では一人も農民ですらありえないのである
それだけの時代の差が生まれてしまったのである。
逆にわずかな土地にしばりつけられて奴隷のように働くしかないとも見れるのである。
農業でも過酷でありそこから脱するために苦労してきたのが人間だともなるからだ
ただ先人の求め苦労したことから現代を対比させて学ぶということは常に必要なのである現代をしるためには歴史を知らねばならないとなる、歴史から学ばねばならないとなるのである。

精神的損害は金では賠償できない (原発事故でも犯罪でも他でも同じ)

三野混沌の土着的生活が現代に問うもの (原発事故で故郷まで失ったものへの教訓)

我ながら自分の文章を読んで感心しているのも不思議である。
ここから発展して続編として書いていることがわかる
ただ自分の書いたものでも忘れているのである。

われわれの文化を悩ませる、「駆り立てる衝動」は、現代にとどまることへの躊躇となって現れる。より多くを求め、よりよくなるために過去を捨てていかなければならないわれわれには落ち着きだけではなく、根もない、われわれは同じ場所にとどまってはならないのである。それは職業や生活水準だけのことではない、家族や共同体さえも知らぬ間にだが確実にわれわれがとどまってはならない場所になりつつある
上向きの社会移動性とは単に地位的、階級的、物質的な上方移動を意味するのではない、それは地理的な離別、すなわち両親の価値観や趣味からも遠ざかってゆくことも意味する。(豊かさの貧困ーポール・L・ワクテル)

この引用文はなるほどと再確認した、

地理的な離別、すなわち両親の価値観や趣味からも遠ざかってゆくことも意味する

まさに三野混沌とかの親や祖父母の価値観など受け継ぐ人はいないなのである。
ただ豊かさを求めて金だけを求める価値を求める社会になっているからだ
だからこそこんなに簡単に町でも村でも解体したともとれる
どうしても放射能だけの影響だけこんな簡単に町とか村が解体して荒地と化することが考えられないからである。
現代文明は土着性の失った社会であるから他でもこういうことが何かをきっかけに起こるのではないか?
明治でも三陸津波でも一万人死んだとかあるがその後もそこで漁業して人々は暮らしていた、なぜなら土着した生活だからそこを離れて生活しえようがなかったから危険な港の近くで便利だから生活をつづけたのである。
結果的にはそうして津波の被害があっても元の状態に戻ったということがあるからだ

そしてなぜ原発事故では老人だけが取り残されて若い人が流出したのか?
放射能のためだとなるがそこに若い世代と老人の断絶があったからかもしれない、そもそも今の老人の親の価値観を受け継いでいる人はいない,三野混沌などの言葉など知る人もいないし伝えてもいないだろう
ただ金を求めて原発を積極的に誘致したのである。
結果として今度は金になり豊かになっても原発事故で今度はその親が子供から捨てられたともなる
でも子供は実は原発て親が働いて豊かな暮らしをしたとい矛盾がある
そして親を故郷に残して捨てたというのもまたそうしたカルマがやがてカルマがめぐってくて苦しむかもしれない
カルマの法則が常に人間社会には適用されるのである。カルマから人間は逃れられないのである。
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2018年07月09日

なぜ警察官の犯罪がなくならないのか 飛松 五男. (東電のフクシマ原発には警察もかかわり反対できなかった)


 なぜ警察官の犯罪がなくならないのか 飛松 五男.

(東電のフクシマ原発には警察もかかわり反対できなかった)


東京電力 は 26 日、 中央省庁 や 地方自治体 など 役人 OB の 天下り を 51 人 受け入れ て いる と 明らか に し た。 内訳 は 嘱託 が 48 人、 顧問 3 人。 警察 OB が 32 人 と 最も 多く、 海上保安庁 出身 も 7 人 いる と いう。


前掲 ニュース で 東京電力 に 警察 OB が 32 人 いる と 報道 さ れ て い ます。 東京電力 の グループ 会社( 約 100 社) も 含めれ ば、 さらに 大勢 の 警察官 が 天下り し て い ます。 全国 の 電力 会社 でも 同じ よう な 状況 です。   関西電力 の グループ 会社 に「 きんでん」 という のが あり ます。 電力 インフラ 設備 の 工事 を する 会社 で、 私 の 元 同僚 を はじめ、 警察官 が 何人 も 天下り し て い ます。


警察 を 退職 すれ ば、 年金 が 月額 20 万 〜 30 万 円 支給 さ れ ます。 そもそも、 きちんと 人生設計 を し て い て、 見栄 を 張ら ない 生活 を し て い たら、 不労所得 の よう な 天下り は 必要 ない はず です。

 しかし、 報道 さ れ なかっ た ん です。   事件 でも 事故 でも、 日々、 マスコミ は 警察 から 情報 を もらっ て い ます それ を 止め られ たら、 商売 あがっ たり です。 だから、 基本 的 に 警察 を 批判 する 報道 は でき ない と 考え て ください。 

警察は巨大な実質的力を行使できる力をもっている武装暴力組織である。権力とは何なのか?それが常に自分の課題になった
なぜならカルト宗教団体でも権力を追求している、すると最も権力があるのは実質的権力を持っているのは警察組織にゆきつくのである。だから警察権力を動かせばなんでもできるとまでなる
確かに法律とかがあり勝手にできないことはあってもこの元警察官が警察官が犯罪しているのが日常的だという
それで正義感の強い警察官は自殺するのだという、若い警官が自殺したとかあるのはそのためなのだろうか?
それは警察組織を守るために闇に葬られるという

原発事故がどうして起きたのか?なぜフクシマ原発が作られたのか?
そういうことを追求するとその原因も複合的である、一つにはならない、だから文明そのもののが原因しているとも考察した
ただここに追求していけば原発は国の権力であれあらゆる権力がかかわっていたのである。
そもそもなぜこんなに東電に天下りしているのか?
警察権力が東電や政府の下僕として使われていたのかとまでなる、まず警察となれば庶民でもみんな恐れている、自分も関わりたくないので充てる。
警察とは誰もかかわりたくないからだ、マスコミすら警察から情報を得ているから批判する報道はできないと言っている
マスコミが朝日新聞社でも原発には反対したり報道できなかった

原発の「安全神話」はこうして国家権力であれ様々な組織権力で作られたのである。電事連があるとしたらそれは組合であり原発推進だからその組合には共産党系だって参加しているとしたら野党すら反対できない構造になっていたのである。
原発に反対することはもう不可能になっていたのである。
要するに原発というのは想像を絶する巨大利権の塊りだったのである。
それは原発事故以後でもそうである、巨大ゼネコンに除染とかで何兆円とかの金がつぎこまれる,その金を賠償金にあてた方がいいとも思った、補償金にしてもこんなに莫大なものとなる、そういう巨大な金を動くということに驚いた
百円とか千円の金勘定しかできないものにとっては想像を絶するものだったのである。
東電自体が子会社がありその利権も巨大なものだったのである。

政治家+官僚(検察警察)+マスコミ+東電+電事連(組合)とかの合体した権力が一体となっていたのである。
こういうものにもはや反対も批判もできない構造になっていたのである。
民主主義社会は国民が主権者であり権力は国民のものだというシステムなのだけど実質の権力は官僚機構にあり中でも警察は武装組織であり一番権力の中枢にある,検察や警察を監視したり裁いたりできないからである。
本当は国民が検察や警察を監視したりすることがあって正常に機能する、でもそれができない構造になっているのである。
庶民でも警察は一番怖がっているからである。自衛隊は日常的にはかかわらない、警察は交通事故でもなんでも庶民の生活に深くかかわって存在して権力を振るう立場にあるからだ
警察は庶民を常に監視できる立場にあるからだ
だからカルト教団でもオウムでも警察に会員を入れるとかする、創価でも警察を抑えようと会員を警官にしようとしたりする
権力を操作しようとしたら選挙で議員を増やせばいいともならない、実質の権力は検察や警察がもっているともなるからだ 

そして巨大な権力と権力は結びつく、警察組織が暴力団から上納金のようなものを巻き上げているというときもそうなのだろう
暴力団といっても警察組織には頭があがらないからだ、警察を動かせることは一番大きな権力になる
ただ庶民は警察組織のことはわからない、巨大な組織のことはわからない、それらがどういうふうに動いているのか?
庶民はそうした巨大な警察権力とはかかわりたくない、だから警察に反抗するようなことはしないのである。
ただなぜ原発事故が起きてこんな悲惨な結果になったのかと追及してゆくと何かこうして警察までかかわっていたのかとなる
その証拠がなぜ検察であれ警察であれ海上保安庁まで天下りしていたのかということである。
そもそも東電と海上保安庁がどんな関係にあるのか?これも不可解なのである

原発事故は原因が一つではないにしろこうして巨大組織権力が結託して起こしたものである。
「安全神話」はこうした巨大権力が結託して作られたのである。
これに反対したり批判したものはどうなるのか?
検察でも警察でもかかわるとしたらどうなるのか?
反対して批判する者は公安とか警察の監視に置かれて何でもいいから犯罪者にされて捕らえられとまでなる
実際はそうなっていたのである、その結果としてとりかえしのつかない原発事故となり故郷を失い住むことすらできなくなったのである。その責任者は誰なのか?それは地元の人にあったとなるがやはりこうした巨大権力が結託した犯罪だから誰も罰することはできない,ただ津波がそれを明らかにして罰したともなると私は追求したのである。

人間社会でもこうしてもう罰することはできないものがある
それで天が神が罰せなければもうどうにもならないということがある
原発にはアメリカもかかわっていたとすれば背後にアメリカがあるとしたらまたもう反対は不可能である
原発はそういうものとして作られた、それが津波で崩壊したのである。
とすると津波は人間の悪を正すものだったという見方を出てくるのである。
いづれにしろ戦争であれ人間が個々の悪ではない、国家の悪とか人間社会で正すことはできない、それでこの世の滅びが最後に来る最後の審判が来る、この世そのものが神によって罰せられる裁かれるのである
そもそも検察とか警察とかも悪だというときどうにもならないのである。罰することも正すこともできないのである。

利権ばかり追求する巨大組織会社により歪められる

 (権利はrightであり日本にも中国にもその意味はない)
そこに人間の組織の限界がありそれが原発事故につながったのである。


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2018年07月01日

小規模漁業と農業の崩壊 (原発事故で漁業権の矛盾が露呈された)


小規模漁業と農業の崩壊

(原発事故で漁業権の矛盾が露呈された)
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管理の分断化と規制の弱体化は、最も身近にある海岸線においてでさえ、共通した課題となっています。そしてその海岸線を越えたところにある公海(海域の70%に相当し、国の管轄を超えて毎年11万トンもの魚が収穫される海域)は「未開拓」のままです。

公海の管理がなされていないという事実は、トロール漁や他の破壊的な漁業手法による、持続”不可能”な搾取を可能にしてしまいます。10億人以上の人々が、魚介類を主要なタンパク源としており、沿岸部に住んでいる数百万人もの人々の食料は、彼らの地域の漁業に完全に依存しています。

しかしながら、破壊的な漁業が原因でそれら沿岸地域の漁業は減少し続けており、地元の人々は食料と生きる術を他で探すことを強いられています。これは既に西アフリカで起こっており、「ヨーロッパへの不法移民」という前代未聞の形で、沿岸漁業が崩壊した結果として現れています。

 Okineの夫はアックラ沿岸の小規模漁業に従事する数千人の漁師のうちの一人だ。彼らは沖合いで操業する近代的な外国漁船にはとてもかなわないのだ。
ジェームスタウンの漁民集落の頭のAto Sartohは「多くの仲間が犯罪やおかしな仕事に手を染めた、政府や関係機関が, 我々を見捨てているからだ」とIRINに語る。

弱い立場の、零細漁民の立場に配慮することこそが「漁業の民主化」であって、漁協の利益確保のために、漁民の営業を圧迫することは「民主化」への逆行です。
☆ 漁民あっての漁協であって、漁協あっての漁民ではない。
主客の転倒は、お国のための滅私奉公と同様の全体主義的発想ではないでしょうか。



海は理解しにくい、海は境界がない、海をまず所有するということになじまない、土地だと境界を作りやすいし土地でも国として所有できる、海は所有しにくいのである
だから公海の方が多くそこで自由にどこの国でも魚をとっている
それを可能にしたしのが技術の発展だったのである
社会を変えるのが技術だということは歴史で示されてきた
原発事故も技術の発展で起きたことである。

江戸時代でも戦前までも基本的には日本でも自給自足地産地消が基本的な生活であり地元密着型である、その土地からの養分で生きている植物とにていたのである。
だから零細な漁民がいて漁港が日本の海をとりまき点々とあった
それは沿岸漁業であり遠くにはいかないが遠洋漁業とも発展した

漁業というのもその土地に根ざしてあったのはその土地でしか暮らせない、技術がないから暮らせないのである。
でも技術が発展するとそうした小規模の漁業でも農業でも破壊されるのである。
点々と地域に根ざした漁業より大規模な資本と技術で大きな船で大量に魚をとる
遠洋漁業もする方が金になるとなる、小規模な漁業は効率的でないとなる
それは小規模農業が成り立たなくなるのと似ているのである

技術の発展はいいように見えてもまたその反動がある,悪い面を必ずもたらすのである
だから何か技術の発展がなんでもいいように見えても必ず悪い面をもたらすから本当はそれも考慮しなければならないのだが人間はしない、技術はどんな分野でも全面的に肯定されるし推進することを要求されるのである。
核の開発などでも発明などでもそもそもしない方が良かったという判断もありえたが人間はそういうことをしないのである

この漁業の問題も技術の発展と関係していた、大型の船が根こそぎ魚をとり魚が減るということもそうである、技術の発展がなければこうはならなかった
そして海には境界がないから余計にそうなったのである。
つまり地域に根ざした零細な漁業でも資本主義社会では成り立たなくなる
大きな資本で会社を作り大型の船で大量に魚をとる方式になる
農業でも大規模農業しか成り立たなくる、零細な農民はすでに田でも委託している
田舎が農民から成り立っているのかとなると今はそうではない、一割にも満たないのが農家でありそこで成り立つのはトマトをハウスで作るとか花を作るとか果物を梨を作るかとなる、この辺では梨農家は農家として成り立っているのである

漁業でも小規模な零細漁民は後継者がいないとか成り立たなくなっていたのである。
ただわからなかったことはこの辺では港のある所に原発御殿が建っていた
漁業権がありそれを東電に売り渡して補償金をもらっていたからである。
だから別に魚をとれなくてもいい生活ができていたのである。
そして矛盾しているのは原発で汚染水がとまらないと漁業組合が抗議する、すると補償金が増える、だから実際はもっと汚染水を出してくれとまでなるとまで言える
つまり漁業組合でも原発事故でも金には困らないし真っ先に近くでも新築の家を建てた
金には困らないから立派な家を建てたのである。
それは避難区域の人がいわき市に2万人も避難して次々に新しい家を建てたのとにている
そして家の前の海にも権利があるとして主張して補償金をもらおうとしていたのである。

NHKで新地の漁民のことを放送していたが魚が放射能汚染で売れないとかなんとか同情していたがそれがしらじらしいとなる
漁業組合では別に魚がとれなくても補償金がもらえる、それも廃炉まで30年とかなると長いのである。ほかの人は確かに補償金をもらったがすでに打ち切られているからだ
これも元を正せば技術の発展の結果として起きたことである
核の技術がありそれが地域を根こそぎ破壊するようにもなったのである。
でも漁業権というけどそれはもともと漁民がその土地で暮らせるための権利である
東電とかに売る権利などなかったのである。
それを法律的に見たらそんな権利がないのである。
そういう権利が漁業権ではないからだ、だから今になるとなぜそんな権利を漁業組合がもって東電に売り渡したのかと怒りにもなる
それは権利の乱用だったのである。
NHKはいい放送してもここでも真実を報道していない
ただ報道するときもし自分のようなことを報道したら誰も取材してくれないのである

でもNHKの怖さは見る人が多いからそうなのかとなってしまうことである
そのことが誤解を生み危険なものとなる、真実が報道されないことは原発事故につながったからである。「安全神話」が作られて事故につながったからである。
問題は漁業組合だけに漁業権があるとしてそれを乱用されたことである
自治体がその漁業権をもっていたら東電でも政府にノーと言えたからである。
漁業権は自治体のものであって漁民のものではない、そうした権利は時代とともに変わるのである。

法律はルールは絶対ではない、サッカーでフェアプレーの差で日本が最後は攻撃しないでも買ったけどそれこそフェアプレーではなかったという批判にさらされた
これもルールを作ったのはいいが乱用された例である
法律とルールは絶対的なものではない、時と場合によっても変わる
それは警察が一方的に職務質問するのもそうである。時と場合によるがそれも無視されるのである。

いづれにしろ船主などはあまりにも優遇されていた、権利が濫用されていたのである。
ただ大きな視点で見れば技術の発展が社会を変える,技術は常に肯定されるからそれをとめることはできない、零細漁業とか零細農業は資本主義社会では破壊される
つまり巨大会社組織となりイオンが進出して小商店がつぶれてシャッター通りになったとかそういう時代の流れがあり漁業でも農業でも小規模なものは成り立たなくなる
「小良ヶ浜」など双葉にあったけどそこは狭い場所であり港もなく船を海岸にあげていたのである。三陸辺りでも点々と小さな漁港があった、それはその土地に根ざした漁業だったのである。
小良ケ浜とは「おらがはま」であり俺の海だという主張していて名付けられたのである

原発でも核の発電も小さい原子炉で発電すれば事故になってもこんな大災害にならないというとき何か大きなものは何でもいいという発想は問題なのである。
何か風力発電は自然に作用されたものでありそれほど悪くないなと見た
風景としても風で回るから自然的だなとも見る
ただソーラーパネルは景観とか土地を悪くするから問題である
山だと土砂災害などが起きて危険なのである。
ただ自然エネルギーは恒常的にエネルギーをとれるから尽きることがないからいい面はある、石炭でも石油でも枯渇したりするし値段が高くなったりするからである。

技術の発展が何でもいいということはなかいことを歴史は示している
その反作用がかならずありそれが社会を破壊する、その時今回の原発事故のように甚大な被害をもたらすのが技術である。それはコミニュティや社会そのものを破壊するのであるそして小農主義とか地域主義とかが見直される、地方創生などというのもこうして今まであったものが破壊された結果として志向されるようになったのである。
技術発展が科学がすべて社会に良いものとしてもたらされないのが人間なのである。
その認識が希薄なのである。大規模なものがすべていいともならない
なぜならもともとあったコミニュティが破壊されることは深刻なものとなる
それがこの辺で原発事故で証明されたからである。

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2018年06月23日

金のことまであけすけに話す復興住宅に住む浪江の人 (補償金で老後は金で困らない)


金のことまであけすけに話す復興住宅に住む浪江の人

(補償金で老後は金で困らない)


浪江の復興住宅に住んでいる大工の人は話すきである
だからなんでもあけすけに話すのである。
金のことまであけすけに話している

「俺は3千万円くらいもらったんだよ,それで金があってもしょうがないから新しい車買ったよ」
「車買った人が多いみいだ、それでねたまれたこともあるからな」
「俺も気をつけているよ,この前ジュースのぺットボトル盗まれたからな、それで警察に行ったけど相手にされなかった」
「警察は大きな盗みで証拠がないと相手にしないよ、この辺でも貧乏な人がいるから気をつけたほうがいいよ、近くでも今は安心できないよ」

その人は金のことをあけすけに言う

「この復興住宅は7年間家賃払っていると自分のものになるんだよ」
「そうなの,相馬市の津波被害者の復興住宅もこれとにているけど1200万とかで宇わなければ自分のものにならないと聞いた」
「でも電気でも水道料でも払わなきゃならない、俺は毎日風呂に入るからガスの風呂だと金がかかるんだよ、8000円とかかかるな」
「でもそのほか年金もらっているのか」
「大工していたからその時積み立てていたからもらえるよ、11万だよ
その積立ししていたとき高いとは思っていたがな」
「国民年金よりはいいよ,原発で補償金ももらったから金に困ることはないな」
 「知っている人だけだよ、妾もって暮らしている人いるよ」
 「ここでもフィリピン人の女を仮設に呼んでいた小高の人知っているよ、金回りが良くなってそうなった、厚生年金の上に補償金だからな」

何か金では補償金では浪江の人の方が恵まれている、浪江の人はまた小高とも違う、全部避難者にされたからである

「今度町長選挙あるけど浪江町長は病気だったんだ」
「癌だったんよ,外から来る人が町長候補になる,後は地元の農協の人だな」
「こうなるとかえって外部の優秀な人がいいということがあるな、何かとめんどうだからな、ここでも南相馬市長に不満が多かったからな
「浪江は町の通りをイノシシが歩いているよし家は荒らされている
ハクビシンとか他の野生化したものも増えている、復興住宅が建って帰った人もいるけど買い物に原町まで来るのが大変だと言っていた」
「買い物できないと生活できないよ,小高では小さいスーパーできるらしい、浪江はその点厳しい、原町まで車でも30分かかるからな」

最近その復興住宅がある近くの小高が住んでいた復興住宅は壊されて整地されている

「あそこにコンビニできるらしいよ」
「ええ、本当なの,ここにも家が増えたからそれを見込んでらしい」
「シシドのスーパ−できたのも鹿島は人口も減らないし新しいが今でも作られているからな、寺内で仮設が建ったときすぐにセブンエレブンができたんだよ」
「ここからは近くていいよ,歩いて行けるからな」

こんな話をしたが金のことまであんなにあけすけに言う人はいない
あういう状態だから原発避難者は仕事はしないのである。
でもあそこを見ていても中のことはわからないなと思った
車持っている人が少ないというが車が前に置いてあるのが多いとみていた
実際は老人がほとんどであり車を運転できない人が多いという
その人は娘と一緒に暮らしているがほとんど老人なのである。

浪江町の復興住宅でも住んでいるのは老人だし飯館村でも立派な復興住宅に住んでいたのは老人だったのである。
若い人たちは子供とともに方に移り住んで帰ってこないのである。
何かこの辺でおかしなのは前にも書いたが補償金をもらいすぎてもう仕事はする気ないのは浪江町の人でも同じである。特に老人ならしないのである。60代以上ではしない
こんな状態で復興などできるのかと前から書いてきたのである。
この大工さんなら一応年金をもらっているしその上に補償金をもらうし娘とも暮らしているし楽だとなる,老後の暮らしに困ることはないのである。
小高より補償金では恵まれているのである
ただそれが移り住んだところで貧乏な人もいるから良くは見られないのである。

とにかく原発避難者は恵まれている、相馬市の松川浦近くの復興住宅はにたような作りであり安物である。その大工さんもわかっている、これを作ったのは東京の会社であり復興住宅の見本として作ったとある
安上りに作る見本だと言っていたからだ
それでも7年間家賃を払って住んで自分のものになるのだから恵まれている
津波の被害者にはそういうことがないからだ
浪江と小高の人たちはにたような状況なのだが浪江の方がもっと復興することがむずかしい、ほとんど人が住んでいないくてイノシシが街を歩いているとなるからだ
そして帰るのは老人だけなのである。
まるでゴーストタウンに老人が住んでいるだけだともなっているからである

何か疑問なのは小高の人は一応南相馬市だから別である
浪江の人たちの問題は南相馬市民ではない,とすると介護でも市民サービスでも南相馬市でするほかなくなる
でも浪江町民だからそれがどうるなのか?
南相馬市民になればいいと言っても補償金とかの関係でなりにくいこともある
でもそこも何かわからない、南相馬市ではこうして老人ばかり残されても介護関係などで金がかかる、ただ別に浪江の人でもわずかでも若い人たちもいる
現実にその大工さんは娘と暮らしているからだ、他にもそういう人はいる
だから南相馬市の力になることはありえる
ただ行政的にはかなり問題をかかえているのである。
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2018年06月20日

荒地が回復しないのはなぜ (村の共同性が失われたため)


荒地が回復しないのはなぜ

(村の共同性が失われたため)

この辺では原発事故以後荒地が増えた、一部は回復しても依然として荒地が多い、周りに荒地が多いと草が伸び放題であり畑にも影響してくる
草刈は今では村の農家の共同作業になっている
田んぼでも畑でも荒地になると困るから村の共同として荒地にしないことを村の共同体があったときはしていた
村の土地は農業中心の時は共同地の性格が強かった
明治以降の私的所有はなかったのである。
土地とかとは自然環境と一体だから私的所有になじまないのである。

飯館村は離れているから放射能が関係ないとはできない
回りの山や森から放射性物質が流れてきてダムにたまりさらにセシウムが泥に付着して川から流れてくる
それで放射性物質の貯蔵庫として土地を売るのがいいと飯館村の人はなる
なぜならもう住めないとなり一億円もらって村を出る方がいいという人が多いからである飯館村だとまだ昔の村落共同体のようなものが残っているようにも見えるが実質はその考え方でも生活でも変わりない面があった
腰化に山菜を食べるとかでは違っていたが工場もありそこが働き場所ともなっていたからである。原発事故後その工場では人が働いていたが牛を飼うと農業はできなくなったからである。
今も帰って生活している人は別に農業している人ではない、会社勤めの人だった

江戸時代の村は自然村でありまさに自然から自然に成り立った村であり人工的要素は少ないのである、生態系に制限されて作られた村なのである。
右田の農家の人が橲原(じさばら)に所有する山をもっていた、入会権をもっていた
それは草など運び肥料とするためだった、だから農業でも山と密接に関係していたのが日本の農業だったのである。
そして津波で家が流されてたので橲原に土地をもっていたので右田村の人はそこに家を建てているというのもそのためだったのである。
農業中心の社会ではそうして生態系に依存する社会だから自然から離れてありえない社会だったのである。

なぜ荒地が回復できないのか?
それはすでにそうした江戸時代からつづいていた村落共同体は喪失している
欠入りとかあるとき欠けた土地に外からでも入る人が江戸時代にはあった
この辺では天明の飢饉のとき越中から大量に移民がその欠けた土地に入ってきて荒地を開墾して元にもどしたのである。
それが今荒地のままなのか?避難区域でもない南相馬市では依然として荒地化したところが多い、放射能の影響がそれほどでもなくても荒地が多い
それは結局すでに農業社会から工業商業社会に田舎でもなっていたからだとなる
農業の生産力は一割にも満たないとか田舎が農民なのかというとほとんど会社員なのである。近隣でも何をしているのか働いているのかわからないのである。
最近ではトラック運転手が多いなと気づいた、田畑があってもすでにそれがしめる役割は十分の一とかに低下していたのである。
つまり田畑をもっていて耕作していても割にあわない,現金収入になりにくい、そして田でも委託する農家が多い、その家はサラリーマンになっている
農業だけでは暮らしていけない時代なのである。

大原の前田という地名のある所の農家は草分けだったのだろう、前田というときそこが最初に開かれた地名だからである。
なぜなら遠田という地名もありそれは前田からかなり遠くの山の中に田があったからである。村の中心がありそこが前田であったのだその家は古い家であり今は空家となっている、他にも三軒くらい空家になっている
その家の息子は市役所に勤めているから空家化したのである。

こうして共同体が喪失することの影響は実際大きい、それをあまりにも極端に現れたのが原発避難区域だったのである。もう農業は回復しない、田畑は数軒とかで回復してももともと農業はそんな数軒でなりたつものではない、村で共同で維持してきたからである。
水の管理でもそうだし草刈でもそうだしそれがもうできないから荒地になるだけだとなった

そしてもう一つ重要なことはそうした共同体が喪失したとき、歴史も消失するということである、農家では戦国時代が終わり百姓が家として成立した
それまでは農家は存在しなかったという、そこで文書の保存がなされた
それが郷倉に収められて保存されつづけてきた、その文書は重要なものでありだからこそ火事で焼失したりするから村人で郷倉に収めていたのである
郷倉とは村の歴史の保存蔵だったのである
それは図書館のように事務的に保存するのではなく村人の意志があって保存された
図書館には何かそうした村人の市民でも意志があって存在するとなっていない
図書館の成り立ちは本当は郷倉にあったとなる

それから江戸時代の村では先祖を大事にする、それは一つの土地に代々土地を受け継いで生活してきたことによる
現代のように人が移動するのか普通の時、先祖のことは考えなくなるからだ
先祖のことを考えないということは歴史的に長い目で社会を見れないことに通じている
今というときからしか何も考えられなくル、過去はそこには存在しなくなるのである。
その時ものの見方が浅博になってしまうのである。 
原発事故避難区域でもそうした共同体も丸ごと失われたのである。
するとその土地の歴史も断絶して喪失する、先祖がどう生きて何を残してくれたかも不明になる
その時先祖も死んで何もなくなったのではない、実は死者はその土地でも家族でも生き続けているものなのである。
でもそこに生きる人がいなくなれば死者もさらに二度死ぬことになる
そうしてそういう場所では死者も幽鬼のように彷徨うようになる,それは廃村化した村ではすでに起きていたのである。

この辺ではそれが大規模にそうなったのであり今まで経験しないような悲惨なものとなったのである。
津波の被害地でもそういうことが起きた、村ごとなくなれば同じである。
ただ津波だとまだ原発事故のように二万もいた住民が一斉にいなくなるようなことはなかった
だから原発事故の被害は計り知れないものだったのである。
ただその原因が放射能被害だけではない、そもそも昔からあった農村共同体の崩壊があり原発事故で拍車をかけて喪失してしまったと自分は見ている
だからこのことはどこの田舎でも現代だと起こり得る、村に人がいなくなり廃墟化して、土地は荒地化してゆくのである。
それを回復することができなくなるのである。   

この辺で起きたことも現代という時代を反映して起きたのである、避難して来た人が「私たちはここにきて回りの人も金を使って助けているのよ」こういうことは一見おかしいように見えてもそうではない,それは現代を反映しているからである。
消費者は王様だというとき金さえあれば王様なのである。その人が特別変わった人でもないのである。
都会では東京などでは田舎なんかインフラに金がかかるから俺たちの税金が無駄に使われるから田舎などなくてもいいと言う時もそうである、食料は外国から金で買えばいいとなっているからだ
江戸時代だともう食料はその土地でとれなければ飢え死になる、他から食料を簡単に得られないからだ
相馬藩が飢饉になっても伊達藩が援助しない、今ならかえって遠くの人が援助する

この辺では仮設に入った人たちを絶えず外部から来た人たちが応援し援助していたからである
肝心の仮設に入った人たちは毎日ギャンブルにパチンコ通いだったのである。
これも現代を反映した矛盾であり光景だったのである。
そして南相馬市は避難区域となった小高と鹿島に仮設に暮らした人たちとは補償金でもめて分断されて協力がなくなったのである。
小高の人たにすれば俺たちは困って苦しんでいるのに鹿島の奴らは何なのだ、情も何もないのか、遠くから来た人たちは同情して援助してくれるのに近くでも援助もしない、金のことで文句いうだけだとなっていたのである。
村が江戸時代のようにあればまず村人が共同しないかぎり生きていけない、今は金さえあれば共同はする必要ないとなる
だから一億円補償金もらったら若い人はみんな出て行って帰ってこないのである。
放射能の被害だけではない、こういう社会に生きているのだから何か万一こうした事故でも村でも市の単位でも崩壊することの見本なのである゜

百姓の力(江戸時代から見える日本)−渡辺尚志

この本はいい本だった,何かわからないことでもこうして本を読むと一気にわかることがある
これまでは田舎だとまず本が買えなかった、それで学問するには相当に不利だったのである。
仙台まで行かねばならないとなるとそれだけでもう学問できないとなる
今はアマゾンで古本がボタン一つで買える
それが安いから前より本を買っているのである。
今はインタ−ネットもあるから知的環境としては田舎が不利になっていないのだ
郷土史を研究するにも全国と連携できるからいいのである。

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2018年06月02日

南相馬市では補償金で分断された (他の地区のことは配慮しないのが問題だった)


南相馬市では補償金で分断された

(他の地区のことは配慮しないのが問題だった)


原町の人が鹿島に商売に来ている,鹿島で商売している,鹿島の人に買ってもらっているそれで原町の人は医療費とか高速はまだ無料になっていると言う
それは差別ではないかとか言うとそんなことしりません,私にはどうにもなりませんからなにかそっけない返事である。

それは小高の人達もそうだった,極端なのは私たちは買い物して鹿島の人を助けているのよ,と言っていたのである。
これには驚いたけどみんなそんなものだったのである。
私たちは何か鹿島の人に世話になっているのただ土地を借りてあとは金を使って助けているのよというくらいのものだった
だから小高の人に補償金のことを言うと怒っていたのである。
故郷に住めなくなったのだからそんなこと当然だから鹿島の人が不満を言うのはおかしいとなっていたのである。

それは原町の人が仮払い金と市の予算から財政から100億円を出すというときネットで凄く反対していた人がいるのである。
それはあまり目立たないものだったから知っている人は少ない
でも原町区ではそう思う人が結構いたのかもしれない
なぜなら市の財政となると直接影響するからである。
ただその時仮払金だから後で別に東電とか政府から支払われるものだったからそんなに反対する必要もなかったともいえる
ただ何か仮払金のことが自分はのみこめなかった
ただその時市の財政から金が出るということで反対だったのである。

その後原町区では30キロ圏内なので医療費とか無料であり高速も今まで無料だったのである。それはずいぶん長いものだった
なぜなら医療費など鹿島区では一年もみたないくらいで打ち切られたからである。
これも早かったと思う,高速も無料にならなかった
これも大きな差別だったと思う
それは30キロで区切ったから政府の責任だったともなる
それでここだけではない都路辺りでも30キロで分けられたからそこで補償金で争いになったのである。
だから政府が悪いといえばそうである。

ただなんというか原町でも小高でももらうのは当然でありそのことで文句は言うなとなっていた,そのことを言えば険悪なものとなる
でも鹿島とかで商売したり関係がある,それでなにかしら考慮していいとも思った
ただ一人あった真野川でシジミをとっていたばあちゃんはしきりに鹿島の人はかわいそうだと同情していたのである。
真野川までシジミとりにきていた,真野川は鹿島区に入るから勝手にシジミとっていいのかとも思った,ただその時は震災後まもなくであり何か管理するものがいなくなっていたのだろう
その女性は例外的な人だったろう,普通は鹿島の人が補償金で差別されたことなど考慮しているものはいないのである。

だからそのことはを言うと怒る人が多いのである。
30キロ内でもらうのは当然だということであり鹿島は30キロからはずれたのだからもらえないのはしかたがないとなっていたのである。
でも問題はそうだとしても何か鹿島の人に対して全く配慮しないし原町でも小高でももらって当然でありそれに文句言う奴は許せないとなっていたのである。
だからNHKでも飯館村の人が補償金をもらっているから相馬市のトマト栽培農家で雇わないというときそれはなんなのだと暗にそのトマト農家を批判させていたのである。

でも相馬市のトマト農家では補償金がもらえない津浪被害者を優先しただけなのである。その辺のマスコミの報道でも常に小高の原発避難者でも優遇されていた
だからなんで補償金のことで文句言うのだと怒るのである。
お前らは同じ相馬に住んでいるものなのに冷たいなとなっていたのである。
現実に毎日のようにボランティが原発避難民の仮設に来ていたからである。
すると外から来る人の方が同情してあたたかいなと思っていたのである。
そのこともあって余計に地元の人に不満だったのである。

でも地元の人でも鹿島でも自分でも苦しいことを書いてきた,病気でも介護していて苦しんでいた,でも介護でも小高の人達が優先だったのである。
だから迷惑かけたということもあったがそんなこと関係ないとなっていた
何かそうして鹿島区は除外されたし配慮されなかったのである。
何かそういう気持ちがなかった
自分たちは苦しいのだから鹿島の人達は同情して助けるべきであり補償金もらえるのも当然でありそれをとやかく言うのは許せないとなっていたのである。

小高でも原町でも今では浪江でもそうして原発避難者には何か回りの人への配慮が欠けていたのである。
自分たちは被害者でありかわいそうであり同情されるべきであり補償金もらって当然でありいくらもらっても足りないとまでなっていたのである。
それだけの被害を受けたのだから当然だとなる
でも原町区となると一旦避難したが割と早くもどった
鹿島区でも避難した人達が半分ほどいたのである。
だからそれなりに被害があったし今でも自分は水道の水は飲まないでペットボトルを飲んでいる
それを言えば相馬市でも同じである。原発避難者には常に不満を言っていたからである。現実には毎日バチンコ通いでありギャンブルだったのである。
だからそんなふうにして遊んでいるのが何でかわいそうなのかということになったのはまた当然だったのである。

確かに原町は30キロ内であり小高は避難区域になったのだから補償金をもらっても当然だったしそう政府で決めたのだからどうにもならないということはある
でも原町区のばあちゃんでも鹿島はかわいそうだとよとか配慮していた人はいたのであるだから問題は補償金問題もあるし医療費高速無料とかの問題もある
しかし最も大きな問題は鹿島であれ回りの人への配慮がなかったのである。
それでいわきでは原発避難者を排斥するいたずらなどが起きた
その時は混乱していてもう原発避難者様様になっていたからである。
原発避難者の言い分は何でも通るともなっていたからである。
それに何かを言う奴は非難されたのである,マスコミもそうしたから余計にそうなったのである。

それでも混乱していたから二三年はしょうがなかったかもしれない,でもその後7年間とか同じ状態だったのである。
やっと回りの人に配慮して仮設を出るときモチを配ったというのはよかった
それがたいしたものでくてもそういうことを配慮できるようになったと思ったからだ
鹿島にも金をよこせといわないにしろ何かしら配慮が必要だったのである。
同じ南相馬市民としての配慮が必要だった
そういう気持ちが全くなかったということが問題だったのである。
少しでも原町区の人とか小高でも鹿島の人には補償金などで申し訳ないことです
何かそうした気持ちが少しでもあれば良かったのである。
そういう気持ちが全くなかったことが問題だったのである。

また鹿島の人でもそれを押しつけることは出来ない
だから表立って言う人はいなかった,でも不満が鬱積していたのである。
やはり人間は気持ちが大事でありそれが争いの元になる
他者への配慮がないと人間関係はうまくいかない
これは行政にも問題があった
なぜ鹿島区の議員が仮設の小高の人を応援して選挙の時回って歩いていたのか?
南相馬市だからそうなったが鹿島区の人達の不満をないがしろにしていたのである。
ともかくこれも南相馬市として合併したからこそ生じた問題でもあった
同じ南相馬市民じゃないかとなり協力せねばならないとなっているのだからそうなったのである。

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2018年05月30日

南相馬市の鹿島区の不満 (高速と医療費は無料にすべきだった)


南相馬市の鹿島区の不満

(高速と医療費は無料にすべきだった)

なぜ鹿島区が同じ南相馬市なのに差別されたのか?
それは30キロ圏内と外で区別されて補償金ももらったが少なかった
30キロ内だけは手厚く補償されたのである。
それは政府でそうしたのだからしかたがないということはあった

でもなぜ医療費とか高速とかが無料にしなかったのか?
その面だけでも南相馬市として平等にすれば良かったのである。
医療費でも一年以内とか早い時期に鹿島区は打ち切られた
ところが原町区では高速でも医療費でも無料化していたのである。

それで最近市長が変わり秋から高速が鹿島区でも無料になるという
それも遅かったなとなる
この資金も実は市の財政から出るから市の支出になるので問題なのである。
なぜなら一時鹿島にも補償しようとしたときネットで鹿島には市の財政から金を出すなと言っていた人がいるからだ
その時一時的に市の予算から100億円を仮払い金として出すことに桜井市長が決めたからである。
それは市の財政から出るから反対していたからである。
今回だって市の予算から高速無料の金が出れば不満な人が出てくる

なにかこうして合併したのはいいものの小高,原町,鹿島でうまくいかなくなったのである。
鹿島では小高への反発は大きい,小高でも鹿島への反発は大きいのである。
つまりどこに金を出すか,福祉関係でもその他でもそうである。
そこでもめたのである。一番得したのは原町に予算が集中するから得だったとなる
今度は小高にしても病院でも金を使っていいのかともなる
その負担がまた大きくなるからである。
帰っている人は30パーセントくらいだから維持することインフラでもなんでも予算が使われるからである。
前のようであればいいが限界集落のようになっているからだ
そこに金をつぎこむと南相馬市全体の予算がへり影響するからである。
これは全国的にみても限界集落などに金使うなとジジババしかいない津浪の被害地に金をつぎこんでも無駄だ官僚が本音を言ったことと同じである。


30キロで国が区切ったのはそんなに補償できないからそうした
別に放射線量の問題ではない,30キロの内と外で別に変わりないからである。
政府の都合でそうなっただけなのである。
それでその境目に住んでいる人は女性が泣いて訴えていた
子供も喧嘩しているとかなっていた

これも今頃そうしたのはおかしいのである。
最初から医療費と高速無料とかは平等にすべきだったのである。
補償金にしてもやはり区別してその差が大きかったのである。
原町区は30キロ内だから手厚くされたのである。
それより相馬市の人も絶えず不満を言っていた
相馬市では一人6万とかもらって終わったからである。

いづれにしろこの辺は合併したのはいいにしても小高と原町はいいとしても鹿島は除外されて不満になり協力できないような状態にしたのである。
その責任は誰あるのか?市政にあるのか?
鹿島の議員にしても仮設に入った小高の人を応援していたのである。
これもやはり南相馬市の議員だったら小高の人も同じ一票だからそうなったのである
それが合併したことで変わったことなのである。
タグ:原発補償金
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2018年05月29日

真野川で鮎の稚魚を放流(2018-5-28) (放射能の心配はあるが・・・)


真野川で鮎の稚魚を放流(2018-5-28)

(放射能の心配はあるが・・・)


「アユ釣り完全復活へ稚魚放流」 (NHK福島 2015/6/2)


アユは華奢で骨が細く柔らかく、丸ごと食べるのが普通ですが、骨にストロンチウム90が
蓄積されている可能性もあり危険です。

広大な太平洋で獲れたベニザケでさえ、無視できない量のストロンチウムが蓄積、検出されているのです。

ある福島県庁職員がこういったとも伝えられています。
「阿武隈川の底は原子炉なみで、とても公表できません」 
(原発問題 2013/2/17)


昨日南相馬市鹿島区の真野川で郡山から来た人が鮎を放流していた,稚魚といっても大きかった,若鮎という感じである。
真野川ではしょっちゅう水質検査していた,でもその数字は教えない
何か放射線量とか原発事故前から公表されないのである
したとしてもマスコミが福島民報などでも大きく報道しない,それは福島民報が県の出資が50パーセントだから原発の不利な情報は報道しないのである。
それがいろいろ問題を引き起こしたのである。

危険が知らされない→危険が現実になる

津浪でも東電は10メートルの津浪が来ると試算していた,それを知っている人がとれだけいたのか?
危険が報道されないしわからなかったのである。
それで報道の役割を果たしていなかったと気づいたのである。
報道するにもまず権力がないとできないのである。
マスコミは巨大な権力である,だからこそ権力をもっているからこそ東電からでも莫大な宣伝費が流れていたのである。
世の中は銀行でもそうだがそれも権力を持っている,ただ金を右から左に流すだけの仕事ではないか,そんなことで利益を得るなら楽だとはいう見方もある
そういう権力がある所には金が自ずと回ってくるのがこの世である。

鮎は子供のとき父親がとってきて食べていた,その時鮎は大きかったのである。
父親は鰻釣りと鮎釣りとかしていた,それがいいオカズとなっていたのである。
その頃貧乏だからそうなっていた,その後鮎は何か小さくなった
鮎釣りをしていてもその鮎は食べてもうまくない,実がほとんどない感じである
久慈川の鮎を買ってきて食べたがこれもうまいものではなかった
冷凍したものだったのだろう
鮎でうまかったのは新潟県の小出の魚野川の塩焼きだった
その川の前に食堂がありとれたばかりの鮎を出していたのだ
別にそれは高いものではない,魚野川に鮎がいくらでも泳いでいるからだ

真野川とか原発事故周辺の川の放射能汚染はどうなっているのか実際わからない
ただ阿武隈川河口で泥としてたまっていた放射線量が相当に高かった
泥についてセシウムなどが流れたからそうなった
今は溜池の除染をしている,これもやっかいでありどこまで効果があるのかわからない
回りから泥はいくらでも流れてくるから焼け石に水だとなってしまうからだ

時間がたてば放射線量が減ってくるのか?それもわからない
部屋のなかは0・2で今も減っていない,だから放射線量というのは減らないともなる
鮎はこれまでも食べれるようなものではなかった
今釣りは食べるというより釣りそのものを楽しむようになっている
釣ってもまた放している,海の方ではまだ釣った魚は食べていた
右田の松原のあるところではいつも釣りする人がいた
でもやはり釣りをしている人はいる,川ではいなくなった

放射線の問題はなかなか真実が素人にはわからないことである。
わからないから危険を言う人は極端になるし安全だよという人も何か目安かあっていっているわけではない,そして放射線の問題はそうして隠されやすいのである。
どこまで危険なのか見極められないから困るのである。
そして過剰に反応する人はするししない人はしないのである。
別に老人だとそんなもの関係ないと飯館村では山菜まで食べていたのである。
老人の場合は奉仕斜線はほとんど関係ないのである。

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2018年05月24日

一度の失敗が致命的にもなる (回復することができないことも-人間は信頼が大事)


一度の失敗が致命的にもなる

(回復することができないことも-人間は信頼が大事)


一度失敗したら取り戻すのに二・三年かかります。

事務的なことでもこう言われる,失敗はなんでも尾をひく
失敗にもいろいろある,軽い失敗も大きな失敗もある
まず原発事故のような大事故があるともうその信頼は回復することは不可能である。
科学者が政治家が何を言っても信じられない,マスコミもそうだった
その人たちは「安全神話」を作ったからである。

だから原発にたずさわった科学者でも事故現場に行ってガレキを拾ってこいとネットで言われた
武田邦彦氏などは科学者であり原発の仕事にも従事していた
だから責任があった,その信頼は失墜したのである。

では原発をそれでも海外に輸出するとかするのもわからない,日本で失敗したのを外国に輸出するのかとなる
その信頼を回復することはもう不可能に近い
確かに一回くらい事故はあるだろうとなるが原発ではそれが許されなかったのである。
その被害はあまりにも大きすぎたからである。
だからどうしても日本で原発はできないということを証明した事故だった

一回の失敗でそれは決められないということはある
でも一回の失敗が致命的になることもありうる
原発の場合がそうだった,そもそも事故があってはならないから「安全神話」が作られたのだ,それが一回の事故でもろくも崩れさった
その信頼は回復できない

日本も戦争で負けて3百万人が死にうちのめされた,もう天皇が神だとか神国などと誰も信じない,天皇への現人神(あらひとかみ)信仰は完全に崩れ去った
天皇自体は自分は神ではないと宣言して国民の信頼を得るために歩いて回ったからであるこれだけの大敗北と失敗があれば誰ももう日本は日本が神国だとか強いだとか信じない
原発でもそうである。日本が技術が優秀だという奢りは打ち砕かれたのである。

人間は失敗すると何か信頼を失うとそこから立ち直ることが容易でなくなる
まず事業などは普通は一回失敗したら終わりである。
立ち直る人もいるがほとんどはできない
そして失意のなかに終わり死ぬともなる
それだけ一回の失敗の重みは大きいのである。
それを自覚されない,一回くらいどうってことないとも思う
でも人間にはチャンスは人生の中で何度もないのである。
何かチャンスは与えられても何回もはないのである。
ビジネスでもそうだし他の人でもそうである。
人生は長いから何度も挑戦できるとはならない
たいがい一回で終わりやすいのである。
だから逆に一回のチュンスで成功するということもあるのだ

銀行員でもそうだった,まかせられたがその能力がなかった
分散投資するのがいいというがその銀行員自体が銀行側のノルマ達成のために自分がもっていたリーマンショック前の株を売って投資信託に回して損させた
もしそれを分散投資しているのがいいからと投資信託に回さなかったらかなりの利益が出たのである。
つまり客をもうけさせて営業の銀行員も銀行ももうかる方法はあった
それは株を売らないことだったのである。投資信託に回すことではなかった
もしここでそうしていれば損した分の穴埋めもできたしもうけたとうことでまた投資に回した,投資信託に回した,そうすれば客でも銀行側にとっても利益をあげていたのである。
こうして投資で一回失敗するとあとはまかせる気分になれない
自分はまかせたがその金を有効に使い利益を出せなかったということで営業担当にも銀行側にも不信感をもつようになったからである。

もちろん知らないでまかせた自分にも責任があったが自分は素人だし知らないからまかせたのである。だから自分だせけに責任があるとはならないのだ
実際にまかせてくださいと胸を張ってすすめたからである。
その営業担当の人がもっとうまく説明していれば自分でも決めることができたし
その営業担当は客に説明してそうさせるべきだったのである。
分散投資といっていのにもっていた株を投資信託に回したからである。
そのことで信用できなくなった
もう二度と頼むことはできなくなったのである。

原発でもどうしても科学者でも政府でもマスコミでも信用できなくなる
マスコミでも広告費をもらって安全神話を作った方だからである。
そういう人達を信用できるのか?
戦争のとき朝日新聞が一番戦争をあおったとしきり言うときもそうである。
そういうことがあると信頼できなくる
信頼できないということがやはり致命的なのである。
アメフトでも一回の反則ですべてだめにしたとまでなる

人間は万能の神ではない,だから絶対ということはありえないけど「安全神話」が作られた,絶対に安全だと言っていたのである。
銀行員にしても私にまかせてくださいといっていた
その投資の仕方も素人とほとんど変わりなかったのである。
ただ分散投資の考え方は間違っていなかったがそれを破ったのである。
だからもう信頼してまかせることはできない

原発でもビジネスでも一回の失敗が致命傷になる,それを回復することは至難になる
だから人生に何度もチャンスがあると考えてはならない
チャンスは一度限りでありこれを逃したらあとがないとまで考える必要がある
一度成功した人は逆にまた成功しやすいのである。
ただこの世で失敗したとしても人間として失格することはない
事業に失敗しても別に人間として失格したわけではない
ただ社会が認めないというだけである
ただそういう人は世間体を一番重んじるから耐えられないのである。
どこまでも見栄を張ろうとしている
借金してまでも見栄を張ろうとしている,失敗しても認めない
そういう人は人を殺しても成功者になろうとするから怖いとなる
その人にとっては世間に認められることがすべてだからそうなる
つまり事業の失敗=人間失格とはならない
人間の存在価値は事業がすべてではないからである。


いづれにしろ人間は信頼が第一だというときどこでもそうだろう
家政婦とか家に入ってくる人は一番信頼が大事である。
だから本当はよほど信頼がないとまかせられない
現実に家捜ししていたり家政婦はその家の人となり悪いとなると相当な災いとなるからだそして信頼そのものが簡単には築けないのである。
それで十年とかある家に勤めている人は信頼できるとなる
また他でもその人は信頼できるとなる

会社でも最近信頼を失うことがいろいろある,信頼を失うとその信頼を回復するにはもう並大抵のことではできない,れだたけ人間というのは人間会計でも信頼が大事なのである人間社会はそもそも信頼関係があって成り立っている
それがなくなるともう商売でも人を雇うこともなにもできなくなる
「あなたは信頼できる人です」となったときその人にはやはりいろいろ重要なこともはまかせられて金持ちになる下地ができたともなる
信頼がなかったらまず重要な仕事でも何でもまかせられないからである。
だから本当は信頼を失うことは怖いことなのである。





タグ:信頼が大事
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2018年05月20日

南相馬市に双葉准看護師学校できる (人手不足が深刻でそうなった-他の新施設)


南相馬市に双葉准看護師学校できる

(人手不足が深刻でそうなった-他の新施設)

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この風車はドイツから船で運ばれた

鹿島駅ではドイツ人とあったからそういうことだった

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消防隊殉職者の碑

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防災用の備蓄倉庫
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こじんまりして小さいと見た
中でみんなで食事していた


双葉郡内8町村で運営する公立双葉准看護学院が10日、東京電力福島第1原発事故による休校から6年ぶりに南相馬市原町区の仮設校舎で再開し、26人の学生を迎えた


これだけ医療レベルが高くなっているのに、
一番患者さんに身近な存在が准看護師でいいのでしょうか。

医師に言われたことだけをするのなら、
“医師助手”を養成すればいいではないですか!
私は ずっとそう感じています。

看護師は医師の助手ではなく、医療チームの一員です

正看護師と准看護師の給与の違い

30代とか40代が多い,資格がとりやすいからである。
人手不足を補充するにも好都合なのである。



rさもこの辺では人手不足のためである。,看護師はひっぱりだこであり原発事故で流出した
それで病院では下働きのような人を働かせている
准看護師は看護師の助士であるが人手不足で必要としている
看護師の仕事を減らす必要があるからだ

NHKの縮小ニッポンで舗装していたようにもう日本は働く人が減少している
シルバーセンターではもう生きがい探しどころではない
若い人に求人しても人が来ないからシルバーセンターに来ている
そうして若い人と同様な過酷な労働を強いられて死んでいる人もいる

ただ老自転車はできる限り働きたくない,働かない人が膨大にいる
その人たちはどうしているのか?
毎日パチンコでありあとはパークゴルフである。
そこは老人でにぎわっている,あのように過酷な労働をしているのはまだ一割にも満たないだろう
人間はもう働きたくないのだ
家に来た人も前は介護施設に働いていたが嫌だとやめた
その人は盗んだ方いいとなり実際に盗んだ
もう一人の67歳くらいの人も小さな畑は一生懸命しているが後は何もしたくない
病院通いと金をせびりにくるだけである。
40代の息子は東京に出稼ぎに行って帰ってこない

日本に外国人を呼ぶにも今や日本はそれほど魅力的ではないから来なくなる
ベトナム人も台湾に行っている,言葉をしゃべなくても介護労働している
もう人がいないのだからそういう余裕がないのである。
だから日本のしている日本語を学んでから介護などといっていたら誰も来ない
外国人すらもう日本には来ないのである。

相馬の里という介護施設ができた,介護でなくても元気な老人が住めるものでもあるらしい,そういうものも増えてくる
建物を見たら中で老人がみんなで食事していた
個室はあるにしてもあれだと共同生活だからうまくやれるのかと思う
でも一人暮らしだと家を管理するのがめんどうになる
近くであういうもの直接見たのは参考になった

とにかく原町にもいろいろ新しいものができた
原町は広いからわかりにくい,原子力センターもできた
それはこの地域らしいものである。


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2018年05月16日

人間は必ず歴史でも何かで判断が迫られる (判断にいたる理由を問い-原発も同じだった)


人間は必ず歴史でも何かで判断が迫られる

(判断にいたる理由を問い-原発も同じだった)

科学者が判断するのか
政治家が判断するのか
住民が判断するのか

原発を作る判断をしたのはなぜなのか?その理由は何なのか?
それは読売新聞の社長の   の私的利益追及もあったのと政治の問題として日本がアメリカに支配されたからいわば一時植民地のようになったのだから原発が日本では導入するのがまだ技術的には早かったが作られた
その理由は政治的経済的理由なのである。経済的理由になると一番多い,常に判断は経済理由が多いからである。
原発でも盛り土して高くしたのも削ったのは地下に電源を置いたのはコスト削減のためだった,それが命取りになった

原発はアメリカとの関係で政治家が判断したものでもあった,科学者は湯川秀樹博士などは日本ではまだ原発を作るのは早いと反対していた
それだけまだ日本は原発について技術的に導入できるものではなかった
それでアメリカのお古のマーク1型の原子炉を買わされたのである。
後進国がソビエトのお古の武器で戦争させられているのとにている

では住民はどうかというと住民も原発に賛成した,それは経済的理由で判断した
双葉や大熊地域はその頃出稼ぎ地帯であり貧乏地帯だった
それで積極的に原発を誘致したのである。
だから原発をただおしつけられたというのではない,それだけの利益が得られるから賛成したのである。
漁業者は補償金を事故前も事故後ももらっていた,それで漁業権を東電に売り渡した
それは経済的理由でそうなった
原発はそれだけ経済的効果が大きいからそうなった

人間は常に判断を強いられる存在である。日常的に何かを買うにしても判断を迫られる
買うべきか買わないべきかと判断が迫られる,判断をしないと「あるべきかあらざるべきか」となり躊躇しているうちに判断する機会を逃してしまう
ではどうして人間は判断するのだろうか?
それは必ず理由がある,その動機がある
歴史的にも大きな判断成される,それにも理由があって判断している

太平洋戦争に日本が突入した理由はなになのだろうか?


政治家の判断
軍人の判断
天皇の判断
経済的判断
マスコミの判断
住民の判断
科学技術的的判断

この時は軍人の判断が優先された,それに天皇の判断もあったから今とは違っている
科学技術的判断とは軍事力になっていた,どれだけの軍事力をもっていたかで戦争の判断になる
また良く言われるのはアメリカに石油がとめられて経済制裁されて戦争に追い込まれたという理由である。それは経済的理由で判断したとなる
では住民はどうか,戦争をはじめるとは関係ないとなるのか?
住民をも熱狂していたというから住民も戦争に賛成していたのである。
そして盛んに朝日新聞は戦争をあおったということもあり戦争の理由になる
そして日本の場合は天皇も関係して宗教も関係して日本は神国だから負けることがないという神がかりにもなった,そのことも戦争をおしすすめたのである。
これだけ十代なのことを判断するにはそれを押し進める理由があったと今では解析する

歴史は何かが起きる,何かが判断されてその結果として歴史が動く
でもただ闇雲に判断されるのか?。そこには必ず理由がある,犯罪でもなぜ起きたのか?
その理由がありその動機をまずみる,それが歴史に学ぶことであり個々の人生に学ぶことである。

失敗したらなぜ失敗したのか?

その理由を問う,そこから人間は学んでゆく,二度と失敗しないのにはどうしたらいいのかとなる
事業に失敗した人は多い,ではなぜ失敗したのか?
その理由は何なのか?それを学び事業起すことが必要になる
人間は判断して失敗することが無数にある
卑近なことでも失敗する,買い物でもそうでありまた結婚とかでもそうである。
結婚の理由としてただ好きになったとかもあるが金持ちだからとか地位があるとかだとかいろいろある,戦国時代ならみんな政略結婚である。
そういう条件をつけて結婚しても離婚が多い,その判断をどうするのかとなる

人間は至るところで判断を迫られている,何かを判断せざるを得ないのである。
あるべきかあらざるべきかとなる,原発もそうだったのである。
ただ原発に関しては深く考えられて作られたのではない,危険があることを深く考えていない,経済的理由と政治的理由とが科学的理由より優先されたのである。
そういうことは常にある,人間は現実に力をもつものが金だからである。
いくら金を否定しても現実に金で動く人がほとんどだからである。
逆に金で動かない人は金に余裕がある人なのである。
そうすると意外と成功するかもしれない
投資でも余裕資金でしいれば意外と失敗しないかもしれない
自分が投資に失敗したのは銀行側が銀行の利益を優先していたからである。
株が上がっていたのに投資信託に回したのは銀行側が手数料でもうかるからであった
もし銀行側に余裕があるなら投資信託をすすめなかったともなるからだ
それは原発をすすめた理由と同じなのである。
原発は金の成る木だったからその経済的効果が大きいから目がくらんだのである。



タグ:判断の理由
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2018年05月15日

原発事故後の避難区域の判断を誰がするのだろうか? (科学者,政治家,住民なのか?)


原発事故後の避難区域の判断を誰がするのだろうか?

(科学者,政治家,住民なのか?)

科学者が判断するのか?
政治家が判断するのか?
住民が判断するのか?

原発事故の解決の複雑さはどこから生じているのか,科学者が科学的合理的判断でできればそれにこしたことがない,数学の数式のようにできればいい
それができなくなった,武田邦彦氏が事故前は一ミリシーベルを厳守を言っていた科学者が事故後は100ミリシーベルトまでいいとか言うようになった
全く科学者が白だったのが赤というようにもなった
それは戦争が終わるとアメリカ一辺倒になったのとにている
第一科学というのは人間社会と違って変わらない真理を追及している
それもころっと変わることがおかしいというのは確かである。

そもそも原発は科学者の意図だけで作られたのではない,政治的意図が強く働いて作られていたのである。
政治的意図が働けば科学者の科学に基づいた判断も無視される
日本には地震があるから原発は向いていないとしても作られたのはなぜか?
それは政治的意図が働いていたのである。
アメリカの要請もあり日本でも核武装のために原発が必要だということもある
プルトニウムを生産しておく必要がある
日本ではすぐに原発があれば核武装できるからである。
それは政治的意図でそうなっている
だから原発は簡単に危険だとしても廃止できないのである。

科学的問題
政治的問題
経済的問題
社会的問題

原発というのは事故でも複雑である。四つくらいに分類できるがさらに複雑である。
経済的問題は常に人間には日常的につきまとっている
原発もその時社長だった人がコスト削減を押し進めて功績があり社長になった
一時土台を高くして削って地下に電源を置いたのはコスト削減のためだったのである。
それが致命傷になり津浪が来て事故になった
経済的問題は常に人間社会では最優先される,世の中金だとなるのが現実である。

原発の複雑さはこれらのことが複合的に関係しているからである。
科学だけでは判断できない,処理できない,政治だけでは処理できない,判断できない
経済的問題としてだけで判断できない,社会的問題としても判断できない
社会的問題というとき自分が追及したのは文系だからそこを重視したとなる
つまり故郷という場に住んできて歴史的アイディンティティを築いてきた
老人は特にその場で生きることが人生だったとなるから離れがたい,それで放射線が危険
でももどりたいとなる一方で若い人は放射線が危険だから帰らないとなる
チェリノブエリの事故の20年後の調査報告を読んだら恐くなる
それは科学的問題なのである。
自分が主張したのはそうあってもでは故郷を閉鎖してチェリノブエリのように人を住めないようにしていいのか?

その問題は政府では東電でも補償金を払いきれないし移住させることもできなということで避難区域を解除して住まわせようとしている
でも現実は若い人は流出してもどってこないのである。
そのことを批判してもどうにもならない既成事実になっているからである。
科学として見ればチェルノブエリを参考にしたら帰れないとなる
年間一ミリシーベルでは帰れないからだ
そして報告では放射線が低くても時間がたつと蓄積され病気とか奇形とか遺伝子に影響されるという報告がある
そういう報告に知るとまた恐怖になるのである。

つまりこの原発事故の問題の複雑さはどう対処していいのか判断つかないのはこの四つの問題が複雑にからんでいるからである。
例えば浪江町から避難した人が復興住宅に住んでいる
そういう人は帰らないという,でも時々は浪江に帰り見に行っている
では帰らないとして避難先で今度は毎日昼間から酒を飲みアル中になっている人もいる
避難先でそういうことをつづけていたら回りから非難される
でも実際は老人が多いから何もしない,ただ補償金がたりないというだけである。
補償金をもらって暮らすということしかもうないのである。
だから復興とは何なのかそれも外から見てわからないのである。

この四つの問題がありどういう判断をするのか?

科学的判断で決着するのか

その場合はチェルノブエリのように閉鎖区域を作りそこには人を住まわせない

政治的判断で決着する

それは避難区域を解除して人をなるべくもどし住まわせる,それを政府ではすすめている
ここには経済的判断もある,そんなに補償金を払い続けることができないからだ

住民によって判断させる

これは帰る人,どっちつかずの人,帰らない人に分かれる
でも住民にしてもどうしていいのか?
科学的判断なら帰れないのである。
でも老人なら最後は故郷で死にたいとなるのが生物としては自然なのである。
何か家というのは単なる箱ではなく思い出が詰まった精神的なものなのである。
だから老人は帰ったのである。
チェリノブエリでも老人は避難区域でも帰って農業していた
でも病気になって取り残された老人が苦しんでいたからここでもそうなる
でも若い人は帰らないのである。世代が分断されたのである。

何かこうして中途半端な状態のままになっている,だからチェリノブエリのように避難区域には住まわせないとしたらすっきりしたともなる
ただ30キロ圏内だと無理である。この辺では南相馬市なら人口の一番多い原町区が入るからである。その移住は日本では不可能だからである。
矛盾しているのは浪江町長でも飯館村の村長でも二本松とか福島市に新しい家を建てている,マンションを買っているとなるとこれまて矛盾しているのである
復興を指導する人がすでに住まないでできるのか?
何かこれも四つの問題で複雑化しているからである。

科学者が判断するのか
政治家が判断するのか
住民が判断するのか

それがわからないのである。科学者は事故後は科学的判断をひるがえしたからである。一ミリシーベルトから100ミリシーベルトまで変わったのである。
政治家が判断するのか?
それも政治家は経済的コストを優先して補償金をこれ以上払いたくないから避難区域を科学的判断を無視して解除したとなる

では住民が判断するのか?

若い人は帰らないと判断した,住民が判断してそうなったのである
要するに科学者が判断するのでもない,政治家が判断するものでもない
誰が判断するのか?
それは住民しかない,いろいろ自分も外部から言ったけどそれは判断の材料にすぎないのである。
だから避難区域の人から批判される,それはそこに住む人が苦しんでいるとしても関係ないから面白がっている,傷に塩ぬって楽しいかとしかならないのである。
ただ現実に避難者が住んでいるからその人たちが昼間から酒飲んだりしたりギャンブルしているパチンコ屋に通っていたら非難されるのも当然なのである。
そのことすら避難者は批判すると怒る
そして俺たちは被害者でありかわいそうな人達でありいつまでも永遠に補償されるべきだとなっているのだ
それを批判する奴は非情な許せない奴だとなる,それをマスコミは応援するから認めるからそうなる

ともかくこの問題の解決がむずかしいのはこうして科学的問題だけではないものとして政治的問題から経済的問題から社会的問題から故郷を失うことはどういうことなのかとそうしたものが複合的になって現れたから複雑であり解決策が打ち出せないのである。
要するに科学的問題でも低放射線量でも時間で蓄積され危険だというチェリノブエリの調査報告がある
その科学的判断を重視すれば住むことはできないと住民は判断する
一方で老人などは別に先が短いからそういう判断は無視して住むことを決断する
若い人は科学的判断を重視して帰らないのである。
政府では補償金をはらいたくないとなり避難した区域を解除して住まわせようとする
自分は外部からコミニュティとか歴史とか重んじると帰って復興して欲しいともなるし
経済的問題でもやはり復興してもらわないと財政的にも困るとなる

こうした思惑が複雑に入り組んで混乱しているのがこの辺なのである。
科学者がこうしろ,政治家がこうしろ,では住民はどうすればいいのか?
結局住民が最終的に判断するのか?
若い人は現実にしている,帰らないと判断した
ただ老人は残った,それは自分が前々から主張していた,コミニュティの維持とか歴史の維持とかその場で築いてきたものを重視する立場からである。

いづれにしろ科学的判断も政治的判断も住民の判断もどれも正しいとはならないだろう
ただそれを選択するのは住民しかない,現実に帰らない人は帰らないのである。
そこですでに住民が判断したのだからそれをくつかえすことはできない
あとは帰るのか帰らないのかわからない人だがそういう人は帰らないだろう
なぜならおそらく10年すぎても20年すぎてもそういう人はそう言っているからである。
そのうちもう年とるから帰れなくなるからだ
するとこの先帰るのは老人であり老人だけで復興できなるのかとなる
外部の人が応援するにしてもそもそも老人しかいないとなると復興できるのかとなる
やはり何か強い住民の意志がないと復興とか無理なのだろう

自然災害で北海道に移住した十津川部落の人達は一致団結して移住したからできた
ここにはそういうことはない,住民自体がばらばらになっているから復興は無理なのかともみる,それはそれとしてではこれからどうするのか?
それは別に内部だけの避難した人達避難区域の問題だけではない
現実に避難した人達がここに住んでいるし南相馬市では小高区は以前として南相馬市であり財政負担があるからだ
一体病院を再開したとしてその負担はどうするのか?
いろいろな負担があるから一層原町とか鹿島とかに住まわせた方がいいという政治的判断もありうるのだ,経済的問題としてそうなるのである。
いつまでも補償金の援助はない,後三年で援助がうちきられるときそういう経済的問題も深刻なものとなるからだ
もう住民は分断され復興の意志もないというときもう見切りをつけるという判断もありうるとなる,そういうところにいつまでもかかわっていることは経済的にもできないし政治的にもできないとなるからだ
そういう判断を強いられる時が否応なく来る,それは後三年が目安となる


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2018年05月11日

原発事故に対しての理系と文系の対処方法 (文系も問題解決には不可欠な場になった)


原発事故に対しての理系と文系の対処方法

(文系も問題解決には不可欠な場になった)

津浪とか原発事故が提起して問題はあまりにも多様だった,主要なものは放射線被害だから理系の科学者がその解決の任にあたるものだった
そもそも原発そのものが理系の優秀な人達が運営していたからである。
現代は科学の時代だというとき理系が支配する社会だともなる

理系の原発事故の対処方法として放射性物質を出したのは理系が運営している原発でありその処理をするのもやはり理系である。
放射性物質は目に見えないからその対処方法を文系は知らない,でも文系でも絶えず放射線量をマイクロシーベルとかで計ることを強いられたのである。
だからこの辺では毎日その数字を見ていたのである。

放射線量とは数字でしか計れないからでる,だから文系でも理系の方法を学んでいたのである。ただ詳しく理解するのは本当にむずかしかった
でもなんか放射線は水でさえぎられるとかセシウムは泥について付着しているとか放射性物質は減らないというのも知った,事故のときと同じように放射線量が計られるからである。
放射性物質が泥についているというとき樋の下は屋根から集められた放射性物質が付着して高かった
放射性物質については限りなく詳しく研究されているが素人には文系に理解できない
そこで自分には原発事故を追及できないものがあった
その対処方法にしても今度は田畑の土をはがしてとりのぞき除染するのも理系の仕事である。そういうふうに理系の仕事が多いのである。

でも一方で文系的なものからも原発では追及された,まず歴史というのが津浪に関係していたからである。
自分は理系の人に原発を運営する人に一番感心したのは津浪が10メートル以上くると東電の理系集団の人が科学的に予測していた
その予測していたことでそれを防ぐ対処をしなかったことで裁判になったのである。
でも津浪が10メートル以上のものが来るということを予測していたことに感心した
ただそのことは大きく伝えられなかったのである。
マスコミでも伝えられなかったのである
もしそのことがだいだい的に放送されていたらそんな津浪が来るのとこの辺の人は驚き恐怖になっていたはずである
だから東電の専門家以外でそのことを知っていた人は少なかったろう

そもそも原発は秘密裏に行われていて隠蔽されているものでありそうした危険情報も表に出なかったのである。
そのことが今になると一番の問題だったのである。
そこにマスコミの責任は果たされなかった,福島民報でも民友でも危険性は指摘しなかった,福島民報は官報と同じであり50パーセントが県の出資で成り立っている
だから国の言いなりであり危険は伝えなかったのである
マスコミは文系でありそもそも科学にうといから役に立たないというときそうだと自分も思う,原発のことなど放射線のことなどでもそれを扱える理系の人がいないのである。
マスコミはほとんど文系だからである。

ただ文系でも原発に関してはいろいろ追及するものがあった,それは避難区域化したことなどで起きた,それを自分はこれまでプログで追及してきた
郷土史の面からまたは哲学的な問題としても追及してきた
自分の一番の大きな疑問はなぜこんなに簡単に町とか村が解体して廃墟化したことの驚きだった
浪江町だと二万人とか人口があった,それが一挙に廃墟の町となった驚きである。
それは確かに放射線というのが怖いとういことをすりこまれた,遺伝子が破壊されて奇形が生まれとかも怖いことであり限りなく恐怖が与えられたからしかたがないという面はあった

でも自分はなにか放射線だけではない,現代社会の問題もあったのではないかと追及した現代社会は絆のことを津浪や原発事故後盛んいに言われたがそんな絆が田舎でも希薄化していたのではないか?
何よりも便利な生活をしたい,金があればいいという社会になっていた,それは田舎でも同じである。
だから漁業者は東電に漁業権を売り渡して補償金で事故前も裕福な暮らしをしていたのである。農業はただめんどうで苦しいだけで金にならないからやりたくない,後継ぐ者もいないとかなっていた,農業の価値は田舎でも全生産の一割にもみたなくなっていたのである。林業も外材で山をもっていても金にならないとなっていた
そういう社会は農業とか漁業でも林業でも軽んじるのである。
ところが田舎で生きるということはそうした第一次産業の上に成り立っている
それは自然の中に生態系の中に生活しているのが田舎である。
それが都会と東京などとの大きな相違なのである。田畑は生態系の中に組み入れられた第二の自然だからである。
東京とかなるともう生態系というのはないのである。
ただ放射性物質で東京の水源のダムも汚染されたとき生態系を意識したとなる
東京でも生態系から無縁では生活できないのである。大気も生態系の中に入るからである

津浪でもそうだが原発事故となると余計に事故後でも文系として対処する問題があった
その問題は多様になっていたのだ,だから蛙が鳴いた時何か復興したと自分が書いた
それは生態系の復活であり蛙も共に生きていた仲間だったと意識したのである。
それは鷺がもどったときも感じた,生態系から考察すると理解になるが文系的に文学的に表現したのである。
そして故郷とは何か?その根源的な問題を避難区域になった所で否応なく普通の人でも考えてしまう,廃墟化した町とは何なのだろう,一体故郷とは何なのか,故郷は当たり前にあるものだと思っていたからである。
だから故郷について考える,故郷を哲学的に考えるようになった
こんなこともありえないことだった,ただ自分は故郷は生態系とかからアイディンティティ化して詩などを書いてきた,ただそれは故郷に住んでいる人にも関心ないものとなる
経済的利益としての故郷は考えるが自然を森や木や岩や石を精神的象徴として考えることは故郷の人でもあまりないからである。
ただそうしたものは自明のものとしてあった,自明のものとしてあるから意識されていなかったのである。

自分は未だにそのことは考えているしなぜ故郷でもこんな簡単に捨てられるものだったのか?もちろん放射線の影響があるからこそだからしかたないとはなる
でもそれだけでも納得いかないのである。
この辺では江戸時代の前から人が住み続けている,歴史もある,そういう場所が簡単に捨てられて廃墟化したということが納得いかないのである。
故郷とはそんなものだったのか?便利な生活が金があればどこでもできるということで故郷の価値は消失したのか?何かそういうことが納得いかなくていろいろ追及して書いてきたのである。

自分が住んでいる場所は30キロからはずれているから避難区域にはならなかった
だから本当にこういうことを感じるのは考えるのは避難区域になった人達でありその人たちが今どういう気持ちでいるのかとなる
故郷から離れた人でもそうである。結局今は金があればどこに住んでもいい,ならば便利な所に住む,そういう社会であり故郷の価値は消失したともなるとも見る
ただそこに以前として深く考えさせられものがある
それは極めて文系的なものなのである。それは科学とは理系の思考とは違うのである。
何かそこに理系と文系の問題が具体的に現れた場だとも思った
だから理系が主にしても文系的な問題の追及もこの辺では重要なものとして現れた

それで理系と文系のことを考える場として原発事故周辺は適していると思った
なぜなら具体的問題としてありその対処方法は理系的なものが主としても文系的なものとしても追及せざるを得ないからである。



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2018年04月27日

原発事故で荒地化したことの問題 (占有権から考える)


 原発事故で荒地化したことの問題

 (占有権から考える)


賃貸マンションについて所有権があるのは大家さんで、占有権があるのは賃貸契約をしてそこに暮らしている住民といったイメージです。


住宅の所有権が自分にあることに気づかないまま、Aさんが20年間(※)、所有の意思をもって、平穏かつ公然とその住宅を占有した場合、Aさんはその住宅の所有権を取得することができます

占有権【せんゆうけん】

自分が利益を受ける意思で、物を現実に支配している事実状態を占有といい、占有に基づく権利のことを占有権といいます。
例えば、実際は他人の土地なのに、先祖代々自分の土地だと思い込んでいる人が、その土地に家を建てている場合、その人は土地を占有していることになります。また、自分の土地に家を建てている人も、占有者です。このように、法律上の所有権の有無にかかわらず、物を事実上支配している状態そのものを保護しようとする権利が占有権です。

@の段階においては、物を貸しているだけなので所有権は山田から変わりません。しかし、Aの段階で正式な手続きを踏んで物をお店に売った場合、物の所有権が店に移ることになり、こうなると山田はゲームを取り返すのが難しくなってきます(第192条:即時取得)


法律となるとめんばどうであるが「占有権」というのは意外と生活の中で生じる問題かもしれない,ここで一番わかりやすいのが借りた本を古本屋に売ったとしらもうとりかえせないということである。
つまり借りた人に権利が移っているのである。
これが理屈的に変だ納得しないとしてそういうものしとて法律が作られてきたのである。だから貸しても返さない人には貸すなとここではしている

占有権は例えば誰だかわからない土地を耕して野菜を作ったとする,それを土地をもっている人が何も言わないとしたらその土地は20年とかたつとその土地を勝手に耕した人のものになる
だから荒地がありそのままにしているとそこの土地の所有権もなくなるということがあるつまりその土地を利用した人に価値があり権利があるとなる
それで地主よりそこで耕作している小作に権利があるとなったのが戦後で土地は小作のものになったのである。

なぜこんなことを考えるかというとこの辺では荒地が多くなったからである。
それより町自体が住めなくなり荒地化したのである。
でもそういうふうにして人が住まなくなるとその土地は管理するものもなくなる
荒れ放題になる,とすると誰かが勝手にその土地に住んで耕作した場合どうなるのか?
所有者がまだいるから勝手に耕作するなと言う,でも荒れ放題でありそこを耕作する人の方が価値あるとなる,第一そんな荒地をもっていても何の価値も意味もないからである。ただ土地をもっている人はそれで金にしようとしている
放射性物質の廃棄物処理場にするとか何かそうした金になることがあると思って所有している、だから自分の土地を勝手にはさせないとなる
でも利用されなければ荒地のままであり何の役にもたたないのである。
そういう問題がこの辺では生じている,荒地がいたるところでふえたからである。

「まわりがこんな葦原ではうっとしいでしょう
この葦原をどうにかならないものですかね」
「この田んぼをつくりつづける以外のことが私にできようか」
日本の国家にとって日本本の国民にとって数枚の田んぼにどんな価値があるでしょうか
だからこそその周囲の田んぼは放棄され荒れた「耕作放棄地」と化しているのです
日本国家その荒廃を防ぐこともできませんでした
(農本主義が未来を耕す-宇根豊)

この本ではこう語り農の大事さを説いている、ここでは荒地化しているなら隣の国の人が来て耕すことも歓迎されるとも言っている
これをとりあげたのはまさに原発事故でこの辺が田んぼでも畑でも荒地化したからであるもう土地を所有しても何の価値も意味もないのである。
だから誰かがここに入ってきて田んぼでも畑でも耕作地にすることが土地を活かすことになる
ただ土地をもっていた人は土地をもっている意味も理由もなくなっているのである。
土地をもっている人はすでに多額の補償金をもらった,でもそれで土地を活かすことではない,放棄して別な土地に移り帰ってこないのである。
だからそもそもが町自体に住む権利もなくなったのかもしれないのだ
ただ町に住んだそれで被害にあった、だから永遠に補償しろとまでなっているのは変なのである。

だから復興というときそうして他に移り住んだ人にはその土地や町に住んだ権利を放棄したともなる,だから外からでもいいからそこでその土地を利用して活用する人が権利があるともなる,それは本を借りた人がその本を売っても占有権で罰せられないと同じなのである。何か理不尽に見えても占有権の思想はそういうものなのである。

つまり復興というとき現実問題としてそこに住んでいた人達でも帰らない人が多数なのである。ではその後ををとするのか?
還ることを待てっていても帰らないのである。ではその町とか土地の権利があるのかとなる,もう所有権も放棄したのである。
だから誰かが勝手にその土地を利用しても文句は言えないとなる
むしろ歓迎すべきだともなる,ただ時々自分の土地を見まわりしている人はいる
浪江でも近くに住むとそうしている,だから全く放棄したわけではないのである。
でもその土地を所有してもそれを活用できないものには権利がなくなるのである。
いつまでも荒地化している所があるがその土地を活かせないならその土地をもっている所有権も消失する,でも避難区域にならなかったところでは原町でも鹿島でも相馬市でも新地でも他でも土地をもっていれば住宅地とかなり売れるから手放さないとなる
ただ荒地が以前として多いから困るのである。

要するにもともとだからこそその周囲の田んぼは放棄され荒れた「耕作放棄地」と化しているのです
日本の国家にとって日本本の国民にとって数枚の田んぼにどんな価値があるでしょうか
だからこそその周囲の田んぼは放棄され荒れた「耕作放棄地」と化しているのです

それは日本の国家でもない国民でもない,その土地に住んでその土地をもっている人がそういう考えになっていたのである。
だからこそ東電に漁業権がある漁師は海を売り渡し補償金をもらい,東電で働いた方が金になるとして歓迎したのである。
農業だけはするなと親に子供が殴られたというのもそのためである。
親が全く農業の価値など認めていないからである。
それだけ農業だけで生活することは豊かになるとむずかしくなっていたからである。
でもそういうことが仇(あだ)となり全く町自体が荒地化したのである。
それはまさに農業を軽視した結果としてそうなっているのかもしれない
そこに住んでいる人達が農業が常に金にならないから跡継ぎもいないとかなっていたからである。
そういう人々の心の反映が現実化したともなるのかもしれない。
農業と電気を比べるとその差があまりにも大きいからである。
まず収入の多いのは電気とかガスとかのエネルギーか関係で働いている人達だからである農業関係では金にならないからである。

ともかく復興を考えるとこの荒地化した問題がある,それは避難区域になったところだけでない,荒地になっているのが多いのである。
それより全国で農業は継ぐ人もいなくなり過疎化して限界集落化して日本全国が荒地化することが多くなるのである。
そして少子高齢化で空家が膨大に増えてゆくし土地は荒地化してゆくのである。
この辺ではそうした未来を先取りして極端なものとして現実化した場所なのである。

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一番高いのがエネルギー関係でありそれから通信関係であり金融業とかなっている
その他は低いのである。だから当然東電社員の給料は高い,事故後も高いのである。
でも金融業とか高いのはおかしいかもしれん、株とかで大儲けしているのは何か理にあわないのである。そのことで格差社会になり社会をゆがめているのである。
いづれにしろこの辺の状況は何か現代の問題を極端化して反映した場所なのである。



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2018年04月22日

水田の効用は米がとれるだけではない (風土に根ざした生活がないと原発事故のように住めなくなる)


水田の効用は米がとれるだけではない

(風土に根ざした生活がないと原発事故のように住めなくなる)


水田の役割はイネを育てることだけではない、日本各地に無数にある水田はダムの三倍もの貯水能力を持っている
森林につぐ第二のダムなのである。

水田に貯えられた大量の水は洪水を防ぐばかりでなく、土壌を保温することによって例外を防ぐ効果もある
微生物の活動を促進し,土の生命を守る
・・・他の作物と比べて非常に連作性が強いのが特徴である。
(農に還る時代-小島慶三)

この本でも指摘しているのは水田の効用である。自分は景観から田んぼを見ていた,でも水田は自然環境と融合したものであり様々な効用がある
水田というとき米というとき米を買う人は米を食料としてしか見ていない
だから米が高いとか安いとかうまいとかしか見ていないのである。
それは田舎に住んでいてもそうである。
ただこの辺では津浪とか原発事故で田んぼが荒地化したとき景観が変わったので自分も田んぼとはなんなのだろうと見た
田んぼは別に田舎で普通にある景色だからである。それがなくなったということが信じられないことだったのである。
田んぼは自然景観の一部のように見ていたからである。

俳句の季語で春田というとき春になって田になる前の状態である。
でも田んぼが荒地化したらそうはならない,そこは田んぼにならないからである。
田植えもしないしただ荒地になっているだけである。春田とあればこれから田んぼになるものとして生活感覚で春田となっていたのである。
俳句となると何か実際の生活と離れたような鑑賞するだけのもののように見えるがそもそもそうした稲作とかと深く結びついて生まれてきているのである。
だから芸術が実際の生活から離れてありえないのである。

「げんげ田」で春。「春田(はるた)」に分類。昔の田植え前の田圃には、一面に「げんげ(紫雲英)」を咲かせたものだった。鋤き込んで、肥料にするためである。いつしか見られなくなったのは、もっと効率の良い肥料が開発されたためだろう

この本でそうした農についてその重要性を指摘している,水田は保水能力、第二のダムというのもそうである。
これも意識しないがもし回りに水田がないと乾いた大地だけのもの,畑だけになるどうなるのか?
土があたためられて熱くならないか?水田は水だから空気を冷やすことになる
例えば海側だと夏は海の影響で涼しい,盆地になると福島市のように異常に夏は暑くなるのである。でも水田があると水で冷やす効果があるとなる
土壌を保温することそうである,畑は農作物は土地の温度に敏感なのである。
土の温度によって生育が作用されるのである。

そして連作できるというのがやはり稲作の水田の大きな強みである。
なぜなら麦とか畑を作ることはヨーロッパなどで連作できない,土の栄養分が維持できないから連作できない

農業には連作障害というものがあります。
同じ土地で、同じ作物を作り続けると作物の生育がだんだん
悪くなっていくという現象です。
これは別にヨーロッパだけでなく、世界のどこで農業を行っても
起きる現象です。
(現在の日本でもです)
そのために、一部の土地を休ませて地力を回復させようというのが
三圃制のポイントです。

今は化学肥料があるからしていないとここでは書いてある

日本の米文化は特殊
specialtopic_food/komegasuki.php


牧畜は乳をミルクを利用する,そこからバターとかとる,そして麦文化と牧畜は一体である。なぜなら麦はパンとして食べるしかないし牧畜で利用する乳とかバターとかが食文化になるからである。麦文化は米文化より古い,文明が起きたのは麦文化地帯である
エジプトもそうでありすでに麦からビールを作っていたからである。
広大な麦畑が大陸には見られる,土地が広いことが三圃制農業などを発展させた
稲作は土地集約型農業でありそれが日本では山が多く森林が多く保水能力があるから適していたのである。土地が狭くてもまずどんな山奥までも田んぼがある
こんなところにもあるのか,それは隠れるようにあるからわからないのである。
それで隠し田として税金逃れしていたということを実感する
つまり日本の地形が複雑でありそうして隠された場所があるからそうなる

そして麦文化牧畜文化と肉食文化も一体である。麦だけではまかないえない文化であり肉食が必然的に発達したのである。日本の特殊性は邪馬台国の時代から馬,牛,羊がいないとういことだった,だからタンパク質は魚からとっていたとなる
魚と菜の文化だったのである。そういう風土であり大陸的な荒々しさのない文化がはぐくまれたとなる
例えば馬を飼い馴らすのと田んぼで米をとるのとは人間の気質まで影響する
それは今でも海で魚をとる漁師と水田で米を育てる農民とでは気質が違うのとにている
漁師の性格は荒っぽくなるし一攫千金を目指す,大漁になればそうなるからだ
そういうことは日本では各地で見られるのである。

自分は風土から世界を見るということに興味をもっていた,風土に根ざす生活から人間をみる,世界をみる,ただこれも風土というと世界を見ないとわからないし大陸のことは日本ではわかりにくいのである。
多少海外旅行して理解することがあったがなかなか日本人には大陸のことが理解できないのである。風土は一年を経験しないとまたわからないのである。
冬と夏ではまるで違ったものとなるからである。
最初に文明が発達したのは麦文化と牧畜文化が発達した所でありそこから都市が生まれたのである。川の側だったというとき川にもいろいろ効用があり貿易もあって都市が生まれたのである。

この風土に適合してこそ人間の生活がありうるしそれを無視すると今回のような原発事故とかで自然環境が破壊されて住めなくなった
文明は自然環境の破壊からはじまっている,焼き畑農業でもそうである。農業の一番の問題は肥料だからである。肥料をどうするかということで森を焼き払って灰を肥料にして畑にしたからである。土の栄養がなくなるからヨーロッバでは三圃制農業になったのであるだかち土というのを注目していないけど土が文明を作っているというのもわかる

それでソーラーバネルとかでも必ず自然破壊になっている,まずソーラーパネルで光りさえぎられるからその下の土が死んでゆく,すると農業はできなくなる
ソーラーパネルでは住宅地の側にあるものがあり反射して熱くなる
森の中に作ると土壌が雨で流出するとかになる
だからこれも自然破壊でありいいものではない,ところがなぜいたるところにソーラーパネルが作られるのか?

それはグローバル経済のためだったのである。森の木材はグローバル経済で外材を利用するから無用となる,すると山の森をも荒れる,山をもっていても金にならない,役に立たないとなりソーラーパネルにして金にしようとなる,それはグローバル経済が影響してそうなっていたのである。
つまりグローバル経済はこうした国々の風土とかに育てられた文化を破壊するのである。地産地消ではないからだ,グローバル経済になったのは高度成長時代からである。
自分の子供時代は炭がエネルギーだったからである。まさにエネルギーも地産地消だったのである。もちろん木材もそうだった,それで橲原(じさばら)のキコリから自分の家の柱を使ったとか自慢していたのである。
高度成長からグローバル経済になったとき風土に根ざした生活が破壊されたのである。

ただ江戸時代でも東北地方で飢饉があったのはグローバル化経済とにた現象が起きていたのである。
伊達藩では伊達政宗が米を江戸に石巻とから船で運び売っていた,米が商品作物となり
地元の人が米を食べることができなくなっていたのである。
まず米を売ることを第一にしていたからである。

伊達藩では藩をあげて北上川水系の改修と湿地の新田開発に取り組み,江戸への産米輸送に力を注いでいました。当時,伊達藩では「買米制」という制度をつくり,お百姓さんが年貢を納めたあとの余った米をも藩が買い上げ江戸へ送っていたのです。このため米どころであってもお百姓さんは満足に米を食べることができませんでした。「百姓食物常々雑穀ヲ可用食之事」(米を食わず雑穀を食うべし)という「百姓法度」が出されるほどでした。

ご法度(はっと)から生まれたから法令でそうしたとなる,こういうことはグローバル経済で起きている,タイでは海老養殖して売るために地元では食べないとかなっているしコーヒーだけを作らせて安くなって地元では食料飢饉が起きたとかある
グローバル経済は何かこうして外国からいろいろなものが入ってきていいようでもその肝心の地元で暮らすのに必要なものが喪失する
それで森林でも木材が利用されなくり荒廃するのである。それは日本だけではない世界的に起きている現象なのである。
アメリカでは売るものがないから牛をもっと買いとかオレンジを買いとかなる
それはもともとあったその国々の風土に根ざした文化を破壊するのである。

原発事故はまさにこうしたその土地の自然を破壊して住めなくしてしまったのである。
農業でも漁業でも金にならないと地元の人は東電と政府に金をもらってこうした人間の生活の根幹となるものを売り渡したのである。
それはこの辺だけの問題ではない,そんな農業や漁業より外国に売る車が大事だと国家ではなる,車を売れるからバナナでも食料も輸入できるのだとなる
だから都会では地方の農業などいらない,税金の無駄だとしている
食料は外国から輸入すればいいとしている,その時どうなるのか?
日本の国土は荒廃してこの辺のようになる,人が住めなくなるのである。
そして結果的に都会もやがて荒廃して廃墟化してゆくのである。
外国から食料も入らないということは別に国と国の関係が悪くなればある
何か工業文明がすべてのようになっている,そこに落とし穴があり遂には人間は住めなくなる,それをこの辺は原発事故で証明したのである。




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2018年04月17日

「農本主義が未来を耕す」宇根豊著を読んで・・・・ (原発事故で問われた農の大切さ、でも農民も金が第一だった)


「農本主義が未来を耕す」宇根豊著を読んで・・・・

(原発事故で問われた農の大切さ、でも農民も金が第一だった)

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仕事の相手としての生きもの(自然)との関係を意識していることです
それは近代化によって滅びてゆいくものの最たるものが自然だったからです

国益のために在所の人間と自然,人間と人間のつながりまで成長を求めるのはおかしい

農は食料を生産しているのではなく自然からの恵みをくりかえし引き出しているのに世間の人はわかっていない

農は過去から引き継いできたものを責任もって未来に引き継ぐことを重視しているのに
現代人は現世のことばかり考えている,それにこの継承は社会と共同責任を負うべきではないか

農は自然からの恵みの一部(食べ物)をカネに換えるが生き物,草花,風景など食べ物以外の恵みを繰り返し持続する限りにおいてそれをカネに換えることなく無償で国民に提供しているのに気づいてもらえない

田んぼが荒れればその一帯は完全に百姓の手から村の手から離れてゆくのです,人間と自然と向かい合う場が消え自然と人間の共同体が消えてゆくのです
もう一つ大切なことは自然への情愛と村の情愛が滅ぶのです


震災6年後にもどった故郷の景色 (ふるさとの秋(詩)

田んぼが回復しないと復興を感じないのはなぜか? (田んぼと蛙は生態系で一体化したもの)


この本は自分の考えてと全部が一致していた,農本主義とかむずかしい思想のことではない、誰が読んでもわかりやすい,ほとんど知識が必要ないのである。
なぜこの本が手にとるようにわかったのはこの辺が現実にこの農が人間の基本となるものが原発事故で破壊されたからである。

田んぼが荒れればその一帯は完全に百姓の手から村の手から離れてゆくのです,人間と自然と向かい合う場が消え自然と人間の共同体が消えてゆくのです
もう一つ大切なことは自然への情愛と村の情愛が滅ぶのです

まさに現実としてこの辺はそうなったのである。今は避難区域になったところはそうなっている
でもそもそもこういうことは津浪や原発事故前から農民自身がそうした生活を嫌がっていたのである。金にならない農業などしたくないとなっていた
それで農業していた親から農業だけはやるなと殴られたという話を聞いた
その子供は原発とか建築現場で働くことになったのである。

そして今になって生業が奪われた補償しろとか抗議している,そもそも農にかかわる人達でも農を生業を大事にしていたかその価値を重視していたかとなるとないのである。
そもそも原発事故になる前にも農業をやめたいとなっていた,だから事故で補償金もらえればかえって都合いいとかまでなっていた
後継ぐ人もいないからこの際補償金をもらってやめた方がいいとなっていたのである。
すでに漁業で東電に政府に補償金をもらって海も売り渡していたことでもわかる
漁業も農業と同じであり金にならない,跡継ぎがないとかでやる人がいない
すると東電に補償金をもらって生計が成り立つ,船主などは特別補償されていて
原発御殿が建っていたのである。事故後も船主は格別であり補償金が海が汚染されたといっては抗議すれば確実に増額されてゆくのである。
だからいち早く新築の家を建てたのはと船主だったのである。

生業(なりわい)とは米の生産だけではなく,生活全般なのである。農業とういだけではない,昔の自給自足の生活はそうだった,納豆まで家で作っていたからである。
昔の農家は自給していて何かを買うということはまれだったのである。
だから何かしら絶えず料理するにでも水は井戸だし薪を燃料にしたり炭もそうだし自給自足を基本としていたのである。それが生業(なりわい)だった
そしてその生業を奪われたから補償しろと今になり農民でも叫んでいるのに違和感がある現実に何もすることなく仮設に住んだ人達はパチンコ通いだったのである。
それで回りから批判された,一部は仮設の前で畑を作っていた人はいた
ただほとんど毎日パチンコ屋通いであり昼間から酒飲んで何もすることがなくなったのである

生業より,金をくれ,一億円くれたら土地も生業もいらないよ

前からこうなっていたのである。生業といっても今は何かあいまいだからである。
原発事故でそれが補償金要求するのに見直されたのでありもともと一億円もらったら原発事故無くてもそういうものは価値がないから売り渡していたのである。
畑や田んぼがを道路になったり住宅地になって金になればいいと常に言われていたからである。

だからこの本で農本主義のことを熱く語るのは心から理解できる,でも肝心のその農にたづさわる人がそうだったのかというとそうではないのである
やはり農に関してはそれにたずさわる人だって田舎でも少ないし第一田舎に住んで農のことがわからない人が多いのである。
自分でも農業がわからないのである。ただ自分は自然と一体化するアイディンティティ化することを詩など書いてきてしてきた
それも農が基本にあって成り立つものでもあった

だからこの本で蛙でも雀でもなんでも自然と一体化して農があり農民にはそうした生き物への愛情があるというのには共感する
つまり農とは自然と密接に結びついているから自ずとそうなるのである。
生き物と蛙でもなんでも直接仕事の中で接するから愛情が自ずと生まれる
ペットでも犬でも猫でも直接接していると愛情が生まれる
なんか淋しいから猫を飼ってそれを経験したのである。
だから津浪や原発事故以後,蛙がいなくなり鷺もいなくなった
蛙の鳴き声も聞こえなくなったし鷺も飛んでいなかったのである。
そして蛙の鳴き声が夜空の星々に木霊したとき復興したなと感じたのである。

ケロケロケロ、田んぼがもどった、ケロケロケロ
俺たちはここに住む、俺たちの生きる場がもどった
ケロケロケロ、うれしいな、仲間ももどってきた
みんなで思い切り合唱だ
夜空には星が一杯輝きここが俺たちの生きる場だ


それは白鷺が五〇羽くらい近くの巣に集まった時もそうである。
蛙でも白鷺でも田んぼがあってそこに蛙などの生き物がいて生きることができていたのである。自然と密接に結びついているのが農なのである。それは漁業でもそうである。
そして一番美しい光景は人間の営みが自然の中にあり調和していることなのである。
それは農だけではない,例えば海を見てなにも見えないと淋しと思う
でも船が航行していると海も活きて見えるのである。
だから農だけが自然と調和するということではない,風力発電などは風の力で回り電気を起すとして自然と調和しているのかともなる
でも森とかには風力発電は調和しない,ソーラーパネルだってそうである。
科学技術はなんらか自然を破壊するものなのである。

そしてこの本の著者は放射能に汚染された米を食べるべきだという,それを食べることによって農が守られ共同体が守られるからだという,そういう観点から汚染された米を食べるということをしている人はいない
でも農が共同体を維持していたときその米を食べないことは維持できないことになるからだ,だから老人などは食べるべきなのである。
ここでは放射能に汚染されることよりそうした共同体の維持の方が大事だとしているのだそのことは飯館村などを見たらわかる,そこで学者が放射能の除染して田んぼの表面の土などをとる必要がなかったとして自ら飯館村にすみついたのである。
自分も飯館村の惨状を見たら愕然とした,土ははぎとられて田んぼも畑もない,ただ放射能に汚染された土のフレコンパッグとかソーラーパネル工場とかになる
景観が壊されたのにはがっかりしたのである。
飯館村はまさに生業(なりわい)が根こそぎ破壊されたのである。
山菜をとって暮らしていたのが普通だったし所得が低いが自然との共生がまだあったからである。
ただ今では補償金で村は二分されているし人はほとんど住んでいないのである。

なぜこれほど補償金のことしか原発事故以後話題にならないのか?
もっとどういう暮らしがあったのか語られるべきなのだが語られない
ただ生業を返せというがそれ以上に補償しろ金をよこせとかしかない
そもそもそんなに生業を大事にしていたのか,そこに価値を置いていたのか?
それ自体が疑問なのである。
やっぱりそんなことより金だよというのが農民が求めていたものだともなる
第一農民というが田舎で農業している人は一割にもみたない,農業のことを知らないのである。ただ都会と違うのは農業しなくても田んぼや畑がありそれを見ているから違っているのである。別に農業しなくてもそれで農業と結びついているのである。
だから津浪や原発事故以後田んぼがなくなったから田んぼがない田舎は田舎なのかと思ったのである。

いづれにしこの本は深く共感した本だった,自分の追及してきたことでもあったからである。だからさらに検討してゆくことにした

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2018年04月04日

浪江の人がアル中で入院する (浪江に帰らないとして一体何をして暮らすのか?)


浪江の人がアル中で入院する

(浪江に帰らないとして一体何をして暮らすのか?)

 東北会病院(仙台市青葉区)に8月から3カ月入院し、先日退院したばかり。52歳の時にアルコール依存症で入院した経験があるが、それ以降は断酒会に入って酒と縁を切っていた。眠っていた病を呼び覚ましたのは、震災による生活の激変だった。

 被災者を支援している「ふくしま心のケアセンター」によると、平成24年から26年までの間に約2万人からの相談があり、その多くが精神的に不安定な状態から身体に異常をきたす「身体症状」や、一時的なイライラ感など「気分・情動に関する症状」を訴えているという。


復興住宅に住んでいる浪江の人と良く合う,その人は陽気な人で大工をしていたという
いつも昼間から酒を飲んでいるので赤い顔をしている
大工をしていたがその道具も親戚の人にくれたとか言っていた
そして知っている浪江の人がアル中で入院したという

この辺でも原発避難者でも昼間から酒を飲みパチンコ屋通いでありギャンブルであり遊んでいる人が多かった,そのことに回りの人は不満だった
自分も介護など苦しんでいたのでそうだった
介護でも優先されたのは避難者だったからである。多額の補償金をもらえたことにも不満だった
それで鹿島と小高は仲が悪くなった,今でもそのことを尾をひいている
お前らずいぶん補償金をもらったのだからいい思いしたのだから今度は自分たちで町を復興させろとなる

男性はそうしてギャンブルとか酒を飲んでいたが女性はかえって仮設暮らしを楽しんでいた人達も多い,なぜなら長屋のような暮らしになり隣近所と親しくなって話するから女性はそれほどでもなかったのかもしれない,そして大金も入ったからほくほくだったということもあった
なにしろ毎日のようにボランティアが来てかわいそうだと応援していたからである。
だから自分たちはかわいそうであり支援されるべきものだという意識になった
だから鹿島とかで回りの人がなぜ支援しないのだと怒りになって分断されたのである。
それは今も尾をひいている

今度は浪江の人達が復興住宅に入った,だから良く浪江の人とあう,それも病人とか老人が多いのである。大工をしていた人も年であり大工をこの際やめたとかなる
浪江の人は帰らないというしではその後どうするのか?
結局補償金とかで暮らして帰らないとなるのか?
何か宙ぶらりんになっている,帰って復興してゆくんだという気持ちがない
たいがい帰らないとなっている,では移住先で何をするのか?
何もせず毎日酒を飲んでいるのか,そして入院してまた迷惑をかけるのかとなる

ただそういう人と接してではその回りの人はどう接していいのかわからないだろう
回りの人の目はあいつらはただ昼間から酒飲んで遊んでいるだけだと見られる
でも浪江は近いから車で通っている人もいる,その人は浪江に帰るためにそうしているのかもしれない,ともかくなにか宙ぶらりんな状態になっている

もし大工をしていた人がここでも大工をつづければ別に問題はない
でもそれができない,年でもあるとかできない,では何をするのだろう?
毎日昼間から酒を飲んであとはやはりパチンコ通いだとかなる
そういうことが回りから許されるのかとなる
もう7年も過ぎているしそんなことがいつまでだらだらつづくのかともなる
農業でも3年していないと体がなまりできなくなるという
もう7年も過ぎたら何もできないとなる
それは宮城県の津浪の被害者でも同じである。
アル中になって入院している

ただこれは退職後の人生が長くなり何もすることがない人が増えたのとにている
それが深刻になったのが津浪や原発被害者である
その解決方法は何かとなるとむずかしい,第一復興といっても浪江の人でもやる気がなくなっている,帰らないという人が多い,若い世代はもう別に暮らしがあるから帰らない
その間で宙ぶらりんになっている人達も多い
それも老人が多いのである。その大工さんは娘とかと一緒に住んでいるみたいだからまた違っている

そもそもではそういう津浪の被害者とか原発避難者とかと回りの人がどう接していいのかそれを現実に感じる,あなたはこうしなさいと言うことも簡単にできないだろう
現実問題としてはそういう生活をしている人を回りの人が受け入れことはないことは確かである。帰らないにしてもそうである。
そして小高の場合は南相馬市民だが浪江の場合はそうではない
だから復興住宅に住んでいる浪江の人が行政に不満を言っていたがそういうことも言えるのかときついことを言えばそうなる
そうした権利とかもあるのかとさえ言われるだろう

ただそもそも復興は誰がするのか?誰が主体になるのか?
そのことが自分には前から疑問だった,いくらなんだかんだと外野から言っても一体復興るのは誰なのか?
お前がなんだかんだいうならお前は復興の主体になれといってもなれない
何もできないからだまっていれという人もいた
それも確かである。だから自分は実際は何も言いたくない
でも小高でも南相馬市であり経済的負担とか市政として直接関係してくる
現実に鹿島に補償金を一時的市の財政から出すときそれに強く反対する原町の人がいたのである。それは同じ南相馬市民だからである。
では小高に今度は復興させるとしてやはり病院とか再開すると市の財政から金を出すことになる,そういう要求があるから無下にはできないのである。
同じ南相馬市民だからである。

結局この津浪被害でも原発事故とかでも回りを全体をまきこむものとなった
第一南相馬市に何千人という浪江町民がいることがそうである。
もう浪江町民だからと分けることもできない,一体となっているし生活でもそうである。つまり原発事故はこうして広い範囲の人をまきこむのである。
自分は30キロ圏外だから原発は関係ないと思っていたのである。
でも30キロでも40キロでも鹿島と相馬市でも実際の放射線量は変わらないのである。
それで相馬市の人は補償金をもらえないから不満なのである。

もう浪江町民だからどうのこうのというより福島県でもその被害にまきこまれている
でもその主体となるのは誰なのか?
肝心の浪江町民であれ飯館村民であれ村長は外に出て村の中では暮らしていない
孫でも学校ができても村外から通わせているのである。
ただいつまでもそうして宙ぶらりんな状態にいることができるのか
30パーセントはそういう状態にある,もう若い世代で帰らない人は帰らない
その人たちはかえってすっきりしている
故郷を捨てたとわれてもそれですっきりしているのである。
別に帰るとか帰らないとか悩む必要もないからである。
問題は宙ぶらりんになっている人達なのである。

復興住宅でも浪江町に住んでいれば別だが町外にありそれも復興しにくい状態にしているともかくそういう人達が現実に身近に暮らしているし関係せざるを得ないのである
ではどうしたらいいのかとなると回りの人でも困惑しているのである。
いつまでも昼間から酒飲んでぶらぶらしていては困るとなる
しかし実際はそういう状態がつづいているのである。

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2018年03月20日

老人と病人ばかり増えてくる (夕張のようにこの辺もなってくるのか?)


老人と病人ばかり増えてくる

(夕張のようにこの辺もなってくるのか?)


夕張で見たのは辺境の貧しさではなく、唐突に終わりを告げた豊かさと、偽りの希望の残滓だった


昔は市立の総合病院だったものが財政破綻で縮小して診療所に改組したのだ。いまは市内にCTやMRIが1台もなく、人工透析も廃止して、病床数は171から19に減ってしまった。

そもそも貧しい山村であれば、このようなかたちで破綻しない。石炭産業が盛んで人々が集まったからこそ、夕張は他の地域よりもずっと豊かだったし、国のエネルギー政策転換の煽りを受けて急激に寂れてしまった訳だ


夕張と原発事故周辺はにている,そもそもエネルギー政策として石炭産業に頼った街だったからである。10万から一万に人口が激減した
石炭産業により異常に繁栄した結果だった
それはこの辺でも原発ある所は原発に頼る,でも一旦事故になったり石炭から石油とかにエネルギー政策が変わると一挙に衰退する
だからこれは限界集落とまた違ったものとしてそうなったのである。
エネルギーが石炭から石油に変わる,鉄道でも車に変わるというときこうした大きな変化が起きてくる

夕張のような状態が避難区域で起きている,もう町は運営できないような状態になっている,医療でもゴミ収集でも水道でもサービスが受けられない,受けるとしても馬鹿高くなる,すると若い人中心にここには将来がないと移住してゆく
住民がいないと公務員の役所に勤める人も失業したり月給が減りやめる人もでてくるそういうところで働きたくないともなる
それは浪江の人と良くあうけど浪江の人は浪江町であ南相馬市とか相馬市でも相当数復興住宅とか団地に住んでいる
浪江の人達を南相馬市でかかえるようになったのである。
小高はまた別であり南相馬市民としての問題だった
小高は浪江の人から言わせるといいとなっているのだ
実際浪江で電車で行ったとき街中には誰も住んでない,廃墟の街になっていた
あれを見ると帰る気がなくなるのがわかる

この辺の問題は全国的な問題,少子高齢化とかがあるが極端になる,それは夕張とにてくるのである。
ただまだそうした深刻な状況にはなっていないがいづれそういう深刻な状況になってくるなぜなら老人と病人が多いのである。
駅に来た人も浪江の人だった,病院に来る
杖ついてっと歩いている,妻が補佐している,子供たちはみんな散り散りになった
南相馬市でもなく遠くに去ったとなる,つまり老人と病人が南相馬市に移った人でも多いのである。
そうした人達を南相馬市でもかかえることになったのである。
そういう人は補償金で金をもらっているから老夫婦でも家を建てたという
でもそういう人達はもう生産労働をしない,ただ介護とか医療とかで南相馬市の人達に世話になるだけなのである。
一応金をもっているにしても人手不足人的負担も大きくなる
なぜなら浪江町でも若い人が南相馬市に移るというのではなく他に移住してしまっているからである。
そして取り残された老人達が復興住宅や団地に住んでいる

それから浪江町にしても土地があっても固定資産税がとられるとかありそうした家でも土地でも負の遺産になる,補償金がもらえるときは土地や家の賠償があった
でもそれがなくなればもうない,そして生産活動はできないのである。
果たしてそういう社会が成り立つのだろうか?
それは日本全国の少子高齢化の問題が夕張でもそうだが極端なものとして現れている
自分の家に来ている人も毎日のように病院通いである。
それで自分に負担を強いる,つまり老人と病人の街と化しつつあるのだ
そういう人達増えすぎればかわいそうだとか愛だとかも成り立たなくなる
その負担の大きさに個人でも家でも市町村でもつぶれてゆくともなる
もう夕張では透析もないとすると生きるためには外部に出るほかないとなっている

愛とか同情とかが成り立つのは余裕ある場合なのである
現実自分は全く余裕ない人が自分が介護の時とか自分が病気の時来た
だから犯罪にあい,事業に失敗して借金に追い詰められた人は金を欲しいというだけで迫ってくる,死んでくれれば金が入るとまでなってくるから恐怖だった
つまりそういう状態に市町村全体が追い詰められる
財政的余裕もなくなれば今まで受けていたサーヒスすら受けられなくなる
馬鹿高いものとなるからその金も払うことができない

南相馬市ではあと3年で原発の国からの支援が切られる、それで財政的に苦しくなる
それは市全体に影響する,この辺は何かと原発事故でも国からの支援がありかえって潤っていたということがあった
それもなくなる,だから夕張のように深刻な状態になる
それが最も顕著に現れるのが医療とか介護関係でありそういうものは負担が大きいからである。人的にも財政的にもそうである。
それは国全体でもその医療費が膨大なものとなり国がつぶれるとまでなる
つまり老人と病人で国がつぶれる危機とまでなる

そうなると老人を尊ぶ人などいない,今でもいない,早く死んでくれとなり病気になったら治療より早く死なせろとかなるかもしれないし現実になっている所もある
何かこうなるとかわいそうだとかいっていたら若い人たちとか世話する人からみると
もうその負担に耐えられないとなるのだ
それは自分が家族二人の介護で経験したことである。
一人はひどい認知症だった,一人は最後まで死ぬ一週間前まで立ってポータブルトイレに行っていて寝たきりでもなくオムツもしないから自分のようなルーズなものでも介護ができた
そして介護が終わったから自分ではふりかえり恩返しができたから良かったと思っているでもみんながそうはいかない,みんな介護でも事情が違ってくる
それは家族だけで処理できればいいが自治体とか国の負担にもなるし若い人の負担にもなる,実際に介護しなくても税金でひかれるからである。

いづれにしろ地方はさらに疲弊する,地銀も投資信託であこぎに稼ぐほかないとか銀行がなくなるとかあったりこれから地方はさらに衰退する
最大の問題は老人と病人が増えてそれがプレッシャーとなり自治体すら維持できなくなるそして老人が老人をめんどうみれない,頼れないのである。
老々介護とかなると過酷だし老人は将来の街作りをしようにもできない
それで小高に帰った老人が死ぬことしか考えられないという言っていた
こういう人が帰って何するのか,ただそこで死を待つだけにしかならない
そこは墓場の街になるのではないか?

ただそうして老人がみんな無用なものかといえばそうでもない,経験があり次世代に教えることができるものもある
でもとにかく老人と病人が多すぎることなのである。パークゴルフ場では元気な老人がいることはいる,でもどうしても老人はやがて病気になりやすいし介護状態になる人が増えてくるのである。
街に出ると杖ついて歩いているような人が目立つ,そういう人が増えることはとても活気ある街にはならない,地域振興の協議会などがあっても年配の人が多いだろう
すると何か街の将来を考えるとしてもできない,ただ老人クラブのようになってしまうかもしれないのである。

結局病気になったとしても一二週間で死ぬ,介護を最低5年とかさらに十年とかなるともうできなくなる,そうはいっても見捨てるわけにいかない
そういうジレンマにおちいる,家族を介護してもそういうことが起きているからだ
いくら愛だとか言っても限度がある,若い人がそれで人生を犠牲にされたらあとで親だって恨まれるのである。
そういうけど自分でも病気になり介護になれば頼らざるをえないのである。
ただ団塊の世代などは数が多いので2025年ころはもう負担が増して自治体でも国でもつぶれるというほどまでになる
そういう時期はすでにもうすぐであり始まっているのである。





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2018年03月11日

帰還しない原発避難者 (老人だけが取り残される)


帰還しない原発避難者

(老人だけが取り残される)

なぜ原発避難者が帰還しないのか?それにはいろいろ理由がある
7年過ぎた結果移った先で家建てたり子供も7年過ぎたらその移った先で別な暮らしになった,故郷のことを知らないという子供すらでてきている
津浪のことを知らない子供すらいる
それから放射能が怖いということもある
放射能は実際はどういう危険があるのかわからないものだからである。
もし心配すればきりなくなる,なぜなら遺伝子にどういう影響与えるのかもわからないからである。何世代も見ていないとわからないとしたら長く時間がかかる
それよりそんな長い時間を生きている人は考慮できないのである。

とにかく家を外に建てた人は帰らない,家建てた人は多いのである。
浪江の人でも老夫婦でも原町に家を建てたとか聞いた
そういう人も帰らないのである。
帰った人でも小高で30パーセント帰ったとなると多いがその中味はほとんど老人なのである。
それで困っているのが病院と老人ホームで介護士などで働く人がいないということであるそれはどこでもそうだが老人ホームが人手がなくて運営できないのである。
それは若い世代が流出したからなのである。
でもおばあちゃんとかおじいちゃんとかが住んでいる
すると家族として町を考えるとそういう若い世代が世話するのが責任がある
でもこの際,姑と一緒に暮らすのが嫌だから外に出たという話も聞くのである
そして取り残されたの老人だったとなる
そうした老人の町が成り立つのか?それでもう町は存続できないとみている人が70パーセントとかいるのもわかる
少子高齢化の影響とかが極端なものとしてこの辺では影響している

それはここだけではない,宮城県でも岩手県でも被害にあった人達は65歳以上の高齢者が多いのである。津浪の被害で死んだ人達も高齢者が多いなというときもともと65歳以上の人達が住んで多かったからそうなったのである。
若い人は少ないというときそれだけ少子高齢化であり地方は農業でも漁業でも跡継ぎがいないとやめる人が多かったのである。
大原の農家の人はそうだった,5町の田んぼをもっていても一人で農業していて息子は跡を継がない,公務員になっていて街内に住んでいたからである。
そして今は空家となっている
漁業の場合は事故前から原発の補償金をもらっていたからそれで生活も成り立っていた
事故後も補償金がもらえるから生活には困らないのである。
そうでなければ農業のように廃業する人が多くなっていた

それはここだけではない女川でも原発再稼働してくれとなっている
それだけ原発頼りの町になっているからである。漁業では暮らしていけないからそうなる
また復興できないというとき時代も影響している
復興というときそのレベルが高いのである。病院も必要だ,買い物のためにのスーパーも必要だ,介護施設も必要だ,・・・今まであったものが当然あるべきだとなるからだ
戦後の焼け野原から復興したとき何もない,でも若い人が戦地から帰ってきた不便な所に開墾に入った,そういう所で苦労した人はそこに特別の愛着があるというのもわかる
本当にそうして開墾に入った場所が多いのである。
その時なぜそういう過酷でもそこで生活したかというとそれしか方法がない,職がない
もともと戦争で生きる死ぬかを経験して来た人達だから苦労をいとわないということがあった
今は違う,生活レベルが高く設定されている,元のような町でなければ用意しなければ帰還しないとなっている
そこで自分たちは一からやり直すようなことはしないのである。
それなら外で便利な場所がいくらでもあるのだから移った方がいいとなる
老人はその土地に長く住んだから愛着があるから帰りたいとか帰っているのである。

何かこの問題は津浪でも原発事故があったからというよりその前にそういう問題をかかえていた、それが津浪原発で致命的になったともなる
限界集落とか少子高齢化とかがすでにありそれに津浪原発事故が拍車をかけた
そして立ち直れなくなったともなる
そしてこの辺では補償金をもらった結果,それが頼りになりもっと死ぬまで補償してくれともなる,現実に特別国民年金では足りないからと小高の人達は要求した
それより老人が多いけど補償金を打ち切られれば生活保護にしてくれとなる
そういうことを要求しやすいのである。
それは宮城県でも岩手県でも所得の低い人達とか国から援助されて金を借りたが返せないからその期限を延期してほしいというのも同じである。
それは事業している人達でも利益を上げられないから借りた金を返せないとなっているのと同じである。

それで今までの発想を変えてコンパクトタウン化する縮小経済になる,その規模に見合ったものにして再建を計るというのもわかる
今までのような規模でも経済を維持することは不可能だからである。
それは少子高齢化ではそういうことが全国的に言われた
それがまたどういうものか明確にはわからない、ただ今までのような市町村は維持できなくなる,だから発想を変える必要が生まれているのである。
今までと同じような市町村の復興はありえないということである。

ただ女川でも新しい街並みを作ったが商売にならない,地元の人達ではなく外から来た人を相手にしているとかなり原発再稼働してくれとなっているからいかにいくら発想を変えて新しい街作りしてもうまくいかないこともあるなと思った
つくづくそれだけ復興が困難なのである。
それは日本という国自体が衰退の方向に向かっていてそれも津浪や原発事故で拍車をかけたともなる
でも何かしら希望がある,その希望とは何なのか?
その希望があればそこにみんなで向かっていける
では戦後の焼け野原のときみんなどんな希望をもっていたのか?
不便な地域に開墾した人達も希望があって入ってきた,そしてそこで暮らしが成り立ったということもある,その後高度成長時代になり日本は世界に誇る経済大国になるという希望があったとなる,それは一時的なものとしてもあった
そういう時代を生きたのが団塊の世代だったともなる

ともかく後三年で国からの援助も切れるとなるとさらに厳しいものになる
外部からの工事関係者もいなくなる,今も減少しているのである。
飲食関係でも外部から来た人を相手にしていたところが多くなっていたからである。
それで仙台からユニットバスの会社がこの辺まで仕事を求めてきていたのである。
それは百万だから安かった,普通は二百万する仕事だったのである。
知っている人の40代の息子も除染していたが東京に仕事を求め帰らないという

こうして何か避難区域に残されたのは老人だけというがそうでないところも老人だけが増えてくるのである。
東京辺りから帰って移り住む人も増えているがその人達も老人なのである。
この問題はここだけではない少子高齢化の影響は全国的だからである。
だから市町村のダウンサイズ化,縮小化,コンパクト化を考える
またそうせざるをえなくなる,そうしないとインフラとか百倍もかかるとかなるからだ
そういう限界集落的な所はもう維持できない,それも税金になるので都会からそんなところに税金を使うなとなるからである。
自分としてはそうした地域の中の小さな地域でも人の暮らしがあり継続されてきたからあるべきだとなる,双葉町でも地区ごとに神楽がありその面が違っていたということでもわかるそういう狭い地域でも文化があり歴史が継続されてきたからである。
コンパクトタウンとかなるとそうした地域の中の地域性も失われるから多様性が失われるから文化的な面ではいいものではないのである。
ただ経済効率を考慮するとどうしてもコンパクト縮小化の街作りになってしまうのである




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2018年03月10日

一番の支援は町に人が住むこと (原発避難区域の復興)


一番の支援は町に人が住むこと

(原発避難区域の復興)


富岡町で帰ったのは450人くらである。でもショッピングモールとかができたから買い物はできる,その他の医療関係とかはできていない
そこで人をなんとか集める工夫が必要だと言う,クリエター系とかはパソコン一つで仕事ができるとか原発の廃炉作業員を住まわせるとか外国人でも呼び込んで観光地にするとか都会の老人を移住させて住まわせるかとの提案があった

つまり人が住まなければもう町自体維持できない状態に追い込まれているのである。
自分もそのことを思っていた,いろいろ外部から支援があった

一番の支援は何か

それは町に住んでもらうことである

これだと自分は思っていたのである。人が住んでくれないことにはどうにもならない
450人くらい帰ってどうするのだとなる
小高はそれでも3000人くらい帰ったからいい方なのかとなる
小高の有利な点は原町が近いから車があれば買い物でも何でも困らないのである。
原町は大きい街だから富岡とは違っていたのである。

外部から人を呼んで住んでくれといっても今の状態で町の人も帰りたくないのだから無理である
第一クリエター系というけどそういう人はしっかりと町に生活する人がありその上に存在できるものではないか?
クリエターだけの町とか老人だけの町とか観光地化して外国人だけの町とかなるとそんな街が成り立つのかという疑問もある
ただそれはそれで一つの提案であり何か模索せざるをえないのである。

まずいくら帰りたいといっても家を建てた人は帰らないことは確かである。
それは一つの大きな決断をしたのである。
そういう人達にまた帰ってもらいたいとはならないだろう。
7年もすぎた結果もう仕事をもち生活基盤を築いたとなれば帰らない
その中間で復興住宅とかに住んでいる人はまだ帰ることを模索しているが
実際は帰りたくないと言っている
一方で帰りたいというとき他に移り住んでも居心地が良くない
賠償金で暮らしていけるからいいねとか新しい家を建てたことで移り住んだところで軋轢が生まれる
それでナンバーを見て嫌がらせを受けたというのもわかる

何か今の世の中のことも影響している,金があれば何でもできる,いくら文句言っても金があれば家を建てることができる,第一家を建てているのは地元の大工に頼むわけでもないからである。大手の会社で家を組み立てるだけなのである。
だから地元の人に気を使う必要もないから家を建てられるのである。
ただ移り住んだ所にもコミニュティがありそこで軋轢が生まれる
つまり金が万能になったことでそうしたコミニュティとの軋轢が生まれる
金があればどこにでも住んでいいしそこで家を建てようが買い物でも金があれば何不自由ないとなる社会である。

だからこそ賠償金をもらっていち早く移り住んで家を建てたのである。
金はそもそもそうした人間のコミニュティを破壊するものとしてもあった
グローバル経済になって金だけが世界で通用してなんでもできるとなるとコミニュティも破壊されるのである。金が絶対になると暴力的になるのである。
いちいちコミニュティの許可など必要ないのである。
セキスイハウスでは69億円くらいだましとられても何の影響もない
一兆円産業になっている,それだけ住宅建設でもうけているのである

社会が広域社会になるとそもそもそうして一カ所に代々住むということがなくなる
この前駅であった人は陸前高田で働いて神戸に行くとか福岡に行くとか日本中飛び回って仕事していた,その人は沖縄の人だったのである。
仕事自体が広域化しているから一つの町だけで暮らすという社会ではなくなっいる
そういう社会の影響もあって逆に一つの町でも村でもコミニュティが崩壊しやすいということもあった
それもまたいい面と悪い面をもたらしたのである。

ただ移り住んだ人も苦労している,別な土地に溶け込む必要がある,それをうまくできる人とできない人もいる,何か仕事もしないでぶらぶらしているとあの人達は賠償金で遊んで暮らせるからいいねとかねたまれたりするから受け入れられない
ただ移り住んだ土地で何か貢献するもの仕事でもできる人は歓迎される
会津で職人の技を活かした人とか大工とかはスキルをもっているから歓迎される
農業でも土地を借りてしている人もいる
移り住んだ人は人で苦労していることになる

ともかく7年も過ぎたらもう帰る人とか帰らない人でも固定してしまったと思う
その中間で迷っている人も実際は帰らない方に傾いている
浪江とかに行くと帰りたくなくなるというのがわかる
駅前にも誰も住んでいない廃墟の街になってしまったからである。
あれを見たとき心もなえてしまう,でも人が住まない限り復興はない
その人がそこに住むことが最大の難関になっているから復興はむずかしいとなる

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2018年03月09日

震災から7年目の原発避難区域の復興 (分断されてしまって復興はすすまない)


震災から7年目の原発避難区域の復興

(分断されてしまって復興はすすまない)


浪江町内の帰還困難区域から中通りに避難している女性(60代)の目は、怒りと同時に哀しみに満ちていた。
 「避難先に家を建てるのは当然でしょ?かつての自宅と同じような規模の家に住みたいと考えるのは当たり前でしょ?それなのに、周囲からは『賠償金をもらってるから、あんなに立派な家が建てられるんだ』なんて陰口を叩かれる。直接、言ってくる人もいますよ。5年8カ月が経ったって、いまだに言われます

原発避難者からみればそうなる,一方でその原発避難者を受け入れた方にするとそうはならない,原発避難者は補償金をもらい立派な家を建てられた
地元に住んでいる自分たちは建てられない,かえって病院は混むしなど不便になった
なぜあの人達だけがなんでも優先的にされ優遇されるのだろう?

何かそれはここでも起きた,小高の人達が大勢避難して仮設に住んだとき同じような問題が起きた,いわきの場合二万人も移住したから問題が大きくなった
ここでも小高の人が鹿島に移り住んだ時,同じような問題が起きたのである
自分も介護していたから介護でも何でも優先になったからだ
それで手厚い補償金を小高の人達はもらっているとういことで鹿島の人達は不満になった小高の人達にすればそんなこと当然である,鹿島の人達には人間の情もないのか
冷たい奴らだなとなって南相馬市は分断されたのである。
そしてともかく仮設にはボランティアがきて応援したから余計にそうなった
みんな遠いところが来て支援している,それなのに近くなのに支援しないのかとなった
ただ仮設すまいが狭いにしてもそれで毎日顔合わせて話ができるかなどばあちゃんが喜んでいた人もいたのである。
それで離れて暮らすより老人は集まって暮らすのがいいのかなとも思った
田舎だと離れて暮らしている人が多いからである

自分でもふりかえれば高速とか病院は一時的ではなくずっと無料にすべきだったのであるそれも早い時期に打ち切られたのである。小高はずっと支援があった
それも小高の人にしてみれば当然だとなっていたが鹿島の人などは不満だったのである。ただ小高の人は鹿島の人に何か考慮したことはない
支援されるべきであり鹿島の人も支援するのが当然だとなっていたからである。
鹿島だって生活が苦しい人もいるし自分のように介護で四苦八苦していた人もいたのである。自分の場合はただ責められるだけだったから不満になったのである

原発避難者にしてみれば失ったものが大きい,そのことは書いた,でもそれは理解するにしてもよその土地に移ればそれはそれとしてそればかり考慮できないのである。
元から住んで家も建てられない人がいるのに次々に新しい家を建てられて住むとなると
何なのだとなる,原発特権者と化してしまった
かわいそうだとなり何でも許されるということになってしまった
そして何か文句言うと失ったものがどうのこうのとかかわいそうと思わないのかとかなるから何も言えなくなる
そして原発を建てたのはお前らの責任じゃないか,お前らは金欲しくて原発を建てたんだから責任があるとか言われる
そのことは外部でも言われている,結局原発避難者は勝ち組なんだよなとされる
実際に双葉とか大熊とか一番被害があった町は一番原発の恩恵も受けていたからである。親子関係でも一番かわいがられたものが子供がめんどうみるべきだ介護すべきだとも言われる
一番得したのは双葉とか大熊なんだ,だから責任がある
それなのにまた補償金で潤っている,いわきではそれを指をくわえて見ているだけだとなる

南相馬市でも原町でも鹿島でも相馬市でも新地でも相当に新しい家が建ったのである。
特に船主だった人はいちはやく家を建てた,まず原発事故前も事故後も生活には困らな一番手厚く補償金をもらっていたからだ
海に汚染水が流れればまた補償金が追加されるからだ
これも矛盾だったのである。なぜなら別にその回りの人はみんな漁師でもないからであるそれで事故前ら原発御殿が建っていて不満だったが何もいえなかったのである。

ともかくこの辺は原発事故などで補償金をめぐって複雑な対立の場にもなったのである。震災7年すぎても何か復興とは何なのかわからないのである。
町が元通りに復興することなのか,個々人が家族が他に移って復興することなのかわからない,ただ他に移って家を建て仕事ももって生活している人はそれで復興しているのである。だからそういう人にもう支援する必要もないのである。
補償金はそのために使われ復興したとなる

復興というとき結局町自体を復興すること元にもどすことなのである。
それがもうできなくなっている,7年もすぎたら生活が別になっているし家も建てたのだからもう故郷にはもどならないからである。
それで取り残されたのが老人だとなる,その人たちは復興住宅に住んでいる
人間はまず自分のことを先に考える,町をどうするのかなどなど考えない
手伝いさんなどでもまず他人の家のことだからゴミ一つ拾わない
ただ金をもらっているからするだけである,皿を二三枚洗う意外何もしない
これもしてくれと命令するとしかたなくしているだけである
でも自分は家に住んでいるから家族が住んだ所だから愛着があり一人で掃除もするし
死者を供養もしている
故郷に住んでいても町に住んでいても自分の家はそうして掃除もするしきれいにしたいと思う,でもあとは金をもらわないかぎり何もしないとなるのとにているのである。
「絆」を盛んに言われたが実際は外との絆は生まれたが内部の絆は分断されたのである

つまりそもそも人間は故郷といってもまず家族であり家族を優先的に考える
まず町があって家族があるのではない,家族があって町がある
それは国家があって家族があるというより家族があって国家がある
国家というのは大きすぎて家族のようにはならないからである。
でも緊急の時,危機の時は国家のために人は戦争で死んだのである。
もし町でも故郷でも家族のように思っていたらこうはならなかったかもしれない
放射能汚染のこともあるがまず家族を優先して他に移り住むことを考えた
それでいち早く他に家を建てそこで住む算段をしたのである。
だから町からは人は消えたし帰ったのはほとんど老人である。
つまり老人は故郷でも家でもそこで暮らした愛着があるからそうなった

いづれにしろ震災から七年すぎて復興は町自体でも帰らない人がいて帰ることを望む人とか帰った人とか分断されている,心は一つになっていない分断されたのである。
そうして分断されたから7年過ぎても復興はしていない
ただ原発避難区域意外では復興している,原町でも鹿島でも復興している
常磐高速ができたり風力発電ができたり新築の家が増えて新しい街ができたようになっている,何か都会化したのである。
明かに原発避難区域以外は津浪があったがそれなりに復興しているのである。

ただ浪江とか小高でもそうだけど一旦町が破壊されてしまうと何か住みたくない
それを再建する気力もなくなる,何かそれは人間の心理的なものが影響している
一旦町が破壊されるとまた同じように復興する気力がなくなる
もしどこかに北海道にでも移り新しい町を作るんだというなら気持ちも違ってくる
そうして移住して新しい町を作った人達がいた
でも一旦あのように廃墟のようになるとそれを復興する気力がなくなるのである。
今まで普通にあったものがなくなる,でも前のように復興することが苦痛になる
もともとあったのにそれをまた同じようにすることでは復興ではない
それは人間の心理的な影響がある

もっといい町を復興させるとなると違ってくる,その点で女川町などはある程度成功しているのかもしれない,全く新しい町に生まれ変わろうとしているからである。
それでも人は流出している,石巻でもどこでも本当に復興自体がむずかしい
だから不思議なのはなぜ日本はあれだけ戦争で破壊されても何もないところから復興できたのかということである。
それはやはり時代の差だったのだろう。あの頃はまだ日本は貧乏であり豊かな生活をしていないからである。
そして時代にも恵まれた,高度成長に向かう時代だったからである。
今の時代は衰退の時代でもありそれも影響している

兵隊として戦った人達はやはり苦労している,だから苦労をいとわないということがあった,今の人は贅沢を覚えているからそんな苦労をしていないから苦労したくないのであるそういう時代の影響もあり復興できない,そもそも誰が復興の主体になるのか?
外部で一時的に支援しても帰っていった,山木屋の人がいっていたが大学でいろいろ一時に来たがあとはこない,残って継続して支援しているのは一つだけだとか言っていた
外部の支援はそんなにつづかない,では誰が復興してゆくのか?
残ったのは老人が多いしその復興の主体になるものがいない
戦争の引揚者は若い人が多かった,焼け野原に帰ってきても若いから労働力となったのである。それで過酷な開墾地に入った,そこで半分はやめたのもわかる
でもそれだけ若い人が戦地から帰ってきたということは今とは違っていたのである。



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2018年02月25日

自己責任とは何なのか? (原発事故や株,投資信託の自己責任)


自己責任とは何なのか?

(原発事故や株,投資信託の自己責任)


自己責任とは何なのだろうとなる,民主主義社会は自己責任社会である。職業でも選べるし住む場所も選べるし自由である。
ただ自己責任というのを今は必ず問われる社会である。
その自己責任が問われる前提というものもある
民主主義社会だと情報が開示されているとか十分に事前に納得してもらうとかある
原発事故でも自己責任が問われた,事故を起こしたけど原発を積極的に誘致したのだから誘致した村でも町でも県でも責任があり自業自得だとなる
そのために十分な金を支払われていたのだからそんなに補償金を要求するな
それは税金だから国民に要求するなという批判があった

でも自己責任というとき自己責任をもちうるものが情報が開示されていて責任がもちえたまず政府とか官僚とか東電やマスコミでも「安全神話」を作ったのだから何か原発に対して危険を感じても質問すらできない状態だったのである。
「お前ら原子力のことなどわかるのか,専門家に政府にまかせておけばいいんだからひっこんでいろ」
「お前らには十分な金をやる,飴をやるから黙っていろ」
とかなっていたのである。そして地元では原発が危ないというだけで地元にいずらくなっていた,なぜなら三分の一も原発にかかわって生活しているとなるとそうなる
事故が起きて今度はお前たちの自己責任だというときその自己責任になる条件が欠けていたのである。
つまり民主主義社会が自己責任だというときそのためには情報開示が必要であり何かそれを充たすものが必要なのである。
「安全神話」になればもう何も言わせない状態を政府と一体になり作り出されていたのである。
だからどこまで自己責任なのかそれが良くわからないのである。

民主主義社会ではあらゆる所に自己責任が問われているのである。
交通事故でも必ず自己責任が問われる,ルールに違反していた信号を無視してわたっていたとか落ち度があったら責任が厳しく問われるのである。
何か知らなかったとかでは通らなくなる
何でも知らなかったでは通らないのであり知らないということが自己責任にされるのである。
でも人間はあらゆることに通じることはできない,一部しか知らないのである。
でも自己責任にされるのが民主主義社会なのである。
何かそうなると万能性すら要求されているのである。そんなに知識がある人などいないのである。

今回の株や投資信託の問題でもそうだった、損したのは別に銀行のせいでも証券会社のせいでもない,知らなかったお前が悪いのだとなる,お前の自己責任だとなってしまう
ただ自己責任というのは何かわからない,完全に自己責任というのはないようにも思う
株でも一番ふりかえり失敗したのは株があがってきているのに売って投資信託に金をつぎこんだことである。
それは銀行員がそうしたのである。その時強引にそうした
ただ自分は銀行員でもその人がプロであり知っているからそうしているものとしてまかせたのである。
でも損したら全面的に自己責任になる,証券会社も銀行員も悪くはない,知らないお前が悪い,まかせたお前が悪いとなる,でも何かこれも納得いかないのである。

ただ今反省すると株とかでも実際は自分の判断ですべきものであった,それをまかせたことが失敗だった,なぜなら自分の判断でしていたなら損してもあきらめがつく
それをプロだと思いまかせたから失敗したのである。
まかせたということは銀行員にも責任が生じていたのである。
でも銀行ではその責任は一切とらない,顧客が損しても銀行や証券会社は絶対に損しない仕組みになっている,つまり銀行や証券会社は手数料は確実に入り損はしないのである。自己責任を言う前に確実に人間は失敗の責任をとらされるのである。
原発事故でもそうである。そこに住んでいた人達は故郷に住めなくなる責任を負わされたからである。

株でも金持ちならヘッジファンドとかに投資して損しない方法がある
またプライベートファンドとかに頼む,そういう人達が本当のプロだったのである。
その人たちはもうかったらそのもうかった分から報酬をもらうのである。
もうからなかったらやめさせられたり一文の金にもならないのである。
だから真剣にもうかるように努力するのである。
投資信託などとはまるで違ったものとなっていたのである。
その人たちは責任をとらされるから真剣になっているのである。
投資信託はそんなことはないい,ただ金を集めて適当にやっているだけである
別に損はしないからである。責任をとることもない,責任をとらされるのは顧客だけである。
ただそうはいってもやはり銀行などはもともと信用があって成り立っていたからその信用を失うこともありもう地道な前のような活動ができない,信用されなくなるからである。「なんでこんなもうからない投資信託を売りつけたんだ,もう信用しない」
こうなるからやはり何らか責任が問われるのではないか?
原発事故では責任を問われたから国では莫大な補償金を支払ったのである。
それだけの理由があったためである。

自己責任というとき例えば何か人を仕事でも紹介するときでも紹介した人が責任を言われる,お前の紹介した人は何なのだ,仕事ができないとか言われる
その人は何か仕事についてルーズであり紹介した大工も何か支払いについてルーズだったのである。責任というとき親戚とかなると意外と連帯責任のようにされる
事業に失敗したらそのことと関係ないと思っていたが自分が苦しいとき借金を迫ってきた関係ないと思っても事業失敗の責任が回ってくるのである。
他人がしたことで関係ないと思っても責任が回ってくる場合もある
親戚関係になるとそういうことが逃れられないようになるから怖いのである

ともかく自己責任といっても全部が自己責任にはなりえない,そうなことを言っていたら人間は万能人間になるほか生きていけない,万能人間なら責任をとれるからである。
それは神にもなってしまう。
社会自体が連帯責任で成り立っている,保険などはそうである。
あらゆる責任をとれないから保険でみんなで責任をとりあっている
交通事故が起きたからと何千万円の金など払えないからである。
みんなで責任を負うことで自己責任を軽くしているのである。

だから自己責任を言いすぎるのが現代だと思う
自己責任は確実にある,病気でも不摂生で病気になったのだからお前の責任だといわれてもしょうがないことはある
病気でも自己責任が問われる,何か知らないで失敗すればお前は勉強しないから自己責任だとなる,株でもそうである。
でもすべて自己責任など負いようがないのである。
人間はあらゆることについてしりえようがないからだ
放射能のことを株のことを簡単にわかるかといえばわかりえようがないからだ
法律のことがわかるか?それも複雑だからわかりえよがない
そうして複雑な社会でわからないことが多すぎる,それで自己責任を問われるとなると
こういう世界に生きていけるのは万能の超人,神のようになってしまう

原発事故だと国民にも責任があった,原発を造ることを許したのは国民だからである。
選挙で自民党を勝たせて原発を造らせたともなる
戦争でも同じでありあらゆる人か責任になる,戦争を望んだのは国民にも責任があるとされる
だから自己責任でなんでもかたづけるのは疑問なのである。
株や投資信託でも銀行がすすめれば全部ではないにしろ責任が生まれる
わざわざ銀行まで行って投資信託をしますなどと言う人はまれだからである。
銀行員が一軒一軒回って話してすすめるから買うとなる
だからそこまですすめる方にも責任が生じる
銀行員にもすべての責任があるわけではない,ノルマを課してすすめさせる銀行とか会社が責任があるのも確かだからである。
全部を個人に自己責任としておしつけるのは疑問になる
ただ自己責任もいろいろあり海外で危険な目にあい死んだ人は自己責任だとされる
そこに国民の同情はない,勝手に警告している危険な場所に入り死んだから自己責任だとしてかたづけられていた,そこは政府でもそもそも戦場なのだからそんなところで死んでも自己責任であり人質になっても助けない,金は払わないとなったのである。
自己責任もケースバイケースだからちがってくるからいちがいに数式のように判定できないのである。
タグ:自己責任
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2018年02月19日

南相馬市は若い世代が流出,老人が増え,生活保護が増える (国からの補助金も三年後に打ち切られ財政難に)


南相馬市は若い世代が流出,老人が増え,生活保護が増える

(国からの補助金も三年後に打ち切られ財政難に)


知人の母と息子が住んでいた家は息子が40くらいでありいわきの方に正社員として建築関係で仕事していたが仕事がないとなりその息子は決断した
東京に仕事探しに行きアパートを七万で借りて帰ってこないという
東京だと仕事がないということがない,建築関係でもそうである。
そして七万の家賃でも今は建築関係は人手不足だからやっていけると踏んだのだろう。

この状況からみてこの辺は意外と復興関係の仕事も減り仕事がない状態になっているのかその人は前はここで除染の仕事をしていた,それも終わった
まだ外部から来ている人がいるが大分少なくなっているだろう
統計的にも一段落して復興関係の仕事はもう減ってゆくだけである。

仙台のユニットバスの会社がまた家のリホームをしないかときた
その会社は百万でユニットバスを作った,ガス屋に聞くとこれは二〇〇百万かかると言っていた,確かにそれだけの仕事であり安いと思った
地元で知っている人に頼んだら三百万はかかっていた
その人の知っている大工でも仕事してもらったが何かいいかげんだった
だからあてにならないと思い頼んだのである。
この辺は何か家でもほとんど大手の住宅会社が建てている

仙台でも震災関係の仕事がなくなったからこちらの方に進出してきたとなる
つまり仕事がないということが仙台周辺でも起きているのだろう。
大きな仕事もなくなっている

そうなるとこの辺では若い世代の流出が震災直後から問題になっていた
原発避難区域ではそうなって若い世代が帰ってこないとなった
だからその知っている人の息子もそうなったのである。
その人は別に原発事故のために地元にいられなくなったとかではない
ここで仕事がないということで東京に出て帰らないという
それはここで仕事がないし生活できないと決断したのである。

まだ40くらいだからそれができた,50代とか60代になると東京とかに出て働くのもむずかしいとも思う
自分はもともと田舎志向だから東京などにごみごみした所にゆきたくないとなる
介護十年でもう東京には10年以上行っていない,そして仙台にも去年は一回しか行っていないのである。
旅ばかりしていたがここ十年は近間を回っているだけなのである。

この辺で人手不足というとき介護とか看護師とか飲食関係とかが深刻であり建築関係の仕事はなくなっている
ただそうして若い世代が流出してゆくことはここには老人ばかり増えて働き手が減少するすでに他の県より市よりこの辺は高齢化率が10パーセントくらい高くなっている
それがさらに増えてくる,南相馬市だと小高は老人の街となりそれを補佐するのは容易でなくなる,だから立派な老人ホームがあっても介護士がいなくて運営できなくている
親が住んでいても子供たちはその親を見捨てて流出したから帰ってこないのである。
親は帰ってくるというけど一旦流出したら別な土地で暮らし始めたら仕事をはじめたら簡単には帰れなくなったのである。
それで妻まで子供の方に移り住んで老人が一人小高とか復興住宅とかでも浪江の老人が残される結果になったのである。
つまり浪江の人が南相馬市にも住んでいるから実質の老人はさらに多くなっているのだ

あと三年後に国からの援助もなくなるとか補償金もすでにもらえないとかなり苦しくなる本当にこの辺は危機的状態になるかもしれない,ただそういう危機感はない
人間はそうなってみないと何でもリアルに感じないのである。
そして個々人でも介護でも病気でも自分がそうならないかぎり他人事なのである。
でも市全体が疲弊したら必ず個々人にもその影響がでてくる
だから後三年後というのはこの辺では具体的にその影響が現れてきて苦しみ感じる人々が増えてくる、生活保護だって増えれば財政負担が増えるし老人は病気になりやすいし介護になりやすいからそれが負担になる

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2018年02月16日

故郷意識国意識とは何なのか? (南相馬市の共同体意識は原発事故で分裂した)


故郷意識国意識とは何なのか?

(南相馬市の共同体意識は原発事故で分裂した)

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冬の樹の真澄の空に今日も立つ故郷に根付き支え立つかも

故郷意識とか国意識とかはそもそもどこから作られてきたのか?
それは自然に生まれたのではない,歴史の中で積み重ねられて作られてきた
相馬藩だったら戦国時代から相馬氏が支配するようになって作られてきた
それは支配者から上からおしつけられて藩民の意識が醸成されてきた
政治行政的なものとして作られてきた
国家でもそうである。政治権力とか行政として上から支配者によって作られてきた
最初の大和王権でもそうである。それは武力により蝦夷を征伐して作られてきたものである。
でも何か故郷というときそれは何なのか?
それはそうした上からおしつけられるものとは違うもともとその土地に住んで醸成されたものである。

会津嶺(あいづね)の 国をさ遠(どお)み 逢はなはば 偲(しの)ひにせもと 紐結ばさね 

このクニはそういう政治権力とも行政単位としての国ではない
会津という国に住んで民の中から生まれ作られてきたものである。

古代でも郡とか置かれたときはそれは上からの行政の区割りであり故郷という感覚ではないし国(クニ)という感覚でもない、オクニはどこですかというときそのクニは必ずしも行政的区割りではない,村というのは緊密な共同体であり行政的な区割りとは違うのである
一番わかりやすいのが家の共同体である。だから故郷というとき家の共同体から発しているのかもしれない,故郷の故は故ある地というとき血縁の地ということもある
でも日本では血縁よりその土地に重きをおいて生活してきた
だから日本人の姓は必ず土地に由来しているのである。
必ず姓をたどると村の土地の名に由来しているのである。
つまりその土地に土着してその土地の地名を姓にしている
外国では血縁をたどるのであり土地の名を姓にするのではないからだ
そこに村の共同体があり日本人のアイディンティティがあるとなる
血縁より地縁の方が大事だったとなる

故郷意識は明かにその土地に根付き家をもち生活をはじめたとき起きてくる
そこに父母がいて祖父母がいてと家族がいて故郷意識をもつ
だからヨーロッパでハプスブルク家が発展して大きな帝国に発展したことでもわかる
家が国の基となっていたのである。
有力な家が権力をもち国を作る,それが国家となる,だから家が強固な共同体でありそれが大きな国の共同体となる,そういうことは人間の歴史にあっても不思議ではないのである。

天皇の御製歌(おほみうた)一首

あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室(やど)は座(ま)せども飽かぬかも

自分の家も姉の同級生の橲原(じさばら)の人に木材を切ってもらい柱にした
その柱のことを良く自慢していたからわかる
その土地のもので作りその土地の大工が作りそこに住むことで家意識が生まれ故郷意識が生まれる,その土地に家をもつことは土着することになる
木のように根付くことになるからだ

共同体とはそうして作られてきたものなのである。
civilzationとはcivilとは市民のことだからである。文明は市民によって作られてきたということはどういうことなのか?
それはヨーロッパでは塀に囲まれた中に外敵から守る市民共同体を形成していたからである。そういう歴史があったということである。
イタリアでフィレンツでも他の都市でも国家と同じであり戦争もしている
日本だと藩同士が戦争しているがヨーロッパでは市同士が互いに敵となり戦争していたのである。そこでマキャベリの思想が生まれた
その辺の歴史がわかりにくいから日本では市民というのを理解できないのである。

共同意識が歴史的に作られてきたというとき日本には日本国民という意識がなかった
それぞれの藩の中で暮らしていて藩の意識があっても日本国民の意識がなかった
その国民意識が作られたのは明治維新後のことである。
それは西南戦争によって国民意識が作られたのである。
武士階級と侍でない一平民が一致して政府軍となり戦ったことにより国民軍となり国民意識が生まれた,国民意識はそれから対外的に戦争によって強固なものになった
日清日露戦争に勝ったことにより国民意識がさらに強固になり太平洋戦争で国民が三〇〇百万人が国のために犠牲となり死んだのである。
その国民意識は日本だけではないフランスでもドイツでもヨーロッパでもなかったのである。ナポレオンが出てきてフランス国民意識が生まれた
国民というものも実際はもともとなく歴史的に作られたものなのである。

日本は戦争で負けてそうして日本という国民意識も失われた
そして今度は高度成長時代になり企業戦士とかなり会社共同体意識になった
会社が最も重要なものとなった,会社に生涯所属すれば自ずとそうなる
その会社の共同体意識も今度は社会が変わり会社が倒産するとかなくなるとかなると
共同意識もなくなる,銀行なども地方では安定した職業でありエリートだったが今は消えるという危機にまでなっていた
そうなると会社に所属してもそこで共同意識はなくなる
これまた時代の変化であり共同意識もそこで変わってくるのである。

ただなぜ原発避難地域では放射能の問題があっても簡単に故郷が捨てられたのか?
それはやはり故郷でも村とかの強固な共同体意識はすでに失われていた
田舎でも専業農家は一割くらいである。あとはみんな会社員なのである。
すると村としての共同意識は希薄化するのである。
そうしてグローバル経済とかなると金だけが唯一の頼りとなり力となる
金さえあればどこにでも住めるというのもそうである。
そうなれば補償金をもらってどこでも移り住めばいいとなったのである。
金というのは金があまりにも力ももつとそうなるのである。
その土地に執着しないからである。
また商業工業化した世界は農業のように土地に執着する必要もないからである。
それで簡単に原発事故で避難して帰らなくなったということもある
放射能だけで故郷は捨てられたのかというと疑問だからである。

共同体意識というとき南相馬市が小高と原町と鹿島で合併したが今回の原発事故で合併しても補償金で分裂してしまったのである。
小高が特別優遇されたことはわかるがそれでも鹿島での不満は大きかったのである。
小高で逆に鹿島の奴らは何なのだ,人の苦しみもわからないのかと不満が大きくなった
そして外部から来たボランティアの方がいいとなったのである。
でも小高の人達は原発避難民は毎日パチンコやギャンブル三昧だったのである。
だからその人たちがなぜ一方的にかわいそうだったのかともなり自分も不満だったのである。
行政的に合併してもいろいろな過程をへて市も形成される
それはヨーロッパの市を見ればそうなっている
だから行政的に合併しても市としての共同体が作られるのには時間がかかるとなる
その時間の中でいろいろなことがあり共同体が形成される
そういうことは一朝一夕にはできないことなのである。
つまり行政的なものと実質そこで暮らす人の乖離がある,実質的共同体はいろいろな困難を乗り越えて作られる,歴史はそうして作られてきたのである
今この辺は南相馬市は原発事故で危機的状態に陥った,それを乗り越えて修復して一体化できるのか?それが問われているのである。






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2018年02月09日

未来は予測できないのか? (常にリスクを感じていればできる)


未来は予測できないのか?

(常にリスクを感じていればできる)

自分の一身上でもこの辺で起きたことでもそれは予測できなかったことだとなる

家族が認知症になった,この病気は何なのだ?そこに恐怖がった
とっさにインターネットで調べて助かったことがあった
でも認知症については不可解なものであり恐怖だった
でも懸命に対処して症状はやわらいだ

次に自分の病気であり一人になり入院した,その時家に入れて働いた人に大金を盗られたこれも突然のことでありどうにもならなかった
でも不用意に家に入れることは一番危険だった,でもその時突然でありどうにもならなかった

次に津浪が来て原発事故になった
これも全く予測つかないし何が起きたかもわからない
こんなことがありうるのかということでただ茫然自失しているだけだった
放射能の危険もわからず爆発したとき外を歩いていた

自分の苦しいとき援助してくれた親戚の人はいい人だと思っていた
ところが事業の失敗で多額の借金をかかえているから金をとることしか考えていないのでひどいめにあった

次に銀行員が利子がつかないとかですすめられたので大丈夫と思い株のこととか投資のことを知らないのではじめて損した

これらのことは予測つかないことだったのか?

自分の一身上のことは自分の普通と違い異常の家族環境にあった
だからそういう不安があった,その不安が適中した

何か悪い予感が当たりやすいような気がする

そんなことで未来を見るのは危険だとも思うが馬鹿にできないものがあるなとは思った
いいことが起こるというのはあまり予感しないが何か悪いことが起こるなというのは当たり安いかもしれない
こういう感は女性の方が働くから占い師とか女性になっている

ただこれらのことが本当に全く予測できなかったのか?
認知症などはわけのわからない病気だから知りえようがないというのもそうである。
直接そうした人が家族にいて看病していればわかるが普通はわかりにくのである。
そして認知症については不可解だからいろいろなことを言う人がいる
それも自分で経験した限りでは間違っていることがあるなとも思う
でもなんらか認知症について知っていれば理解があれば対処しやすいのである。

家で働いてもらう人は家のことがわかるので一番危険になる
でもそういうことを知らずに家に入れた
そこで突然病気になり入院して家は認知症になった母と二人きりになってしまった
そこで大金を失った,その人のことを知らずに信用したためである。

次に津浪が来て原発事故になった
この辺では津浪は400年前に記録があるがその記録さえ知る者はなかった

この辺では津浪は来ない

そういう確信までになっていて逃げない人もいたのである。老人に多かったのである。
津浪に対する危機感が全くなかったのだ
ところが東電で津浪のことを調べていて10メートル以上の津浪が30年以内に来るとか予測していたのである。科学者がいて予測していたのである。
そのことを知っている人もまた地元でもわずかだった
それをマスコミでは公表していないし報道していないからである。
地元の新聞でも報道しない,なぜなら東電などから宣伝費をもらっていたからである。
原発が危険だということも知らせていない,安全神話に与(くみ)する方だったからである。

親戚の人は事業を成功したと吹聴していたから本当に成功していたのだと思っていた
これも実は失敗していて多額の借金をかかえていたのである。
それは家族すら知らなかったのである。
自分の家族が認知症になったりして自分が病気になったりして自分を助けてくれるのかと思ったらそんな状態だからできなかった

では全く事業が失敗したことをわからなかったのか?

何か夜酒を飲んで心配だとか家族が言っていたからその前兆があったがそれを問いただすこともなくわからなかったのである。

次に銀行の投資信託も自分にはわからなかった,調べもしなかった,ただyoutubeで見たらいろいろ詳しく情報はでていた,こういうのを見ていればわかりやすかった
ただその時あまりyoutubeは見ていなかった
こういう新しいものは普及するには時間がかかる
youtubeは意外と信頼性が高く勉強になるなと思った
これを見て判断すれは投資信託はしなかった,これも失敗だった
それよりもう資本主義が行き詰まり終わりだという時代に直面していることも知った
だからもう株とか投資ではもうけられない,そういう時代に来ていることも知った

つくづくこれらのことは何なのか?

すべて知らない,知識がない,情報がない,リスクを感じていない

これなのだろう。知らないから危機感を感じない,津浪は来ないとこの辺で確信していたのも津浪について知らないからである。
原発が安全だと思っていたのもそもそも原発について知らないし知らせられないからである。つまり知らせられないということが危険になる
ここが危険地帯だから入らないようにと警告の立て札があれば入らない
そういう立て札がないと安全だと人間は思うのである。

知らせられないということが危険になる

未来が予測できないというとき実はある程度は予測できる
現実に津浪が30年以内に来ると東電では科学者を集めて予測していたのである。
そしたらその対策をすべきだったがコストの関係でしなかった
防波堤を作らなかったのである。

ともかく自分の一身上のことでもある程度は予測できたことである
ただそれを考える暇もなくそういう現実に突入させられた,自分の場合は社会経験もなくのんびり過ごしていたから対処できなかった
だから社会経験がないということはまた危険なのである。
本ばかり読んでいても社会のことはわからないからである。
そこでニートとかはこれから自分のように悲惨な結果になる
社会経験がないから親が死んだときなどどう対処していいかもわからないからだ
それで金持ちのお嬢さん育ちとかなると危機の時には弱いのである。
社会経験を積んでいればそうはならないからだ
でも人間の弱点はあらゆることを知り得ないし経験でも一部のことだから危機に対処できない,まず認知症のことなどよほどじかに家族がなってみないとわかりえようがないものだからである。

情報社会というとき様々な情報にふれることができる,でも社会経験はできない,経験からしか得られないものも多いからである。そうするとニートなどは社会経験がないから危機になったときどう対処していいかわからず断末魔の苦しみを味わうことになるのだ

人間は未来を予測できない,何が起こるかわからないと言われる
一寸先は闇だというのもそうである。
ところが津浪でも何か前兆はある,予測し得るものはある
現実に東電では30年以内に事故が起きると予測していたからである。
ただその対策しなかっただけなのである。
パソコンは必ずなんらかでクラッシュする,するとデーターを失う,そういう経験を何回かしている
ウィルスとか例えばレンタルサーバーでも故障がありデーターが消える
するとその対策をみんなしている,しない方が悪いと今ではなっているからだ

人間は例え危機を感じても対策をしない,そんなことは起こらないと楽観的に考える
だからこそ生きていられるともなる,そんなに心配したら生きてもいられなくなるからだ明日は明日の風が吹くとなる,今日の重荷は今日で十分だとなるからだ

でもこうして自分の一身上に起きたことや回りで起きたことをふりかえると本当に予測できなかったのか,何も対策をしえなかったのか?
そうではない,できたともなる,ただしなかったのだとなる
それは自分の一身上のことだけではなく社会に起きることでも予測できないことはないのである。

人間は真剣に危機感を持てない,今が良ければいいとかなっている

ここに自分の問題もあり社会の問題もあった,ただ人間は万能ではない,どこかみんな足りないのである。だから社会はそうした足りないものを補足し合うものとしてある
でも社会自体こうした危機にリスクに弱いのはなぜなのか?

リスクを真剣に考えない

コストが優先されたりそんなこと起こらないとか楽観論になり未来の危機を感じなくしている,もしあったとしても目をつぶる,なるようにしかならないとかなる
そうしないと生きること自体苦しくなるし生きた心地もしないともなるからだ

ただ人間は死ぬということは誰でも知っている,とすれば一番の問題はそのことであり
すると求道するということが若いときの最大の優先課題なのである。
でも若いときはそんなことをしない,あらゆる欲望が最も肥大化する時であり欲望に溺れるだけだとなる,そしてもうすぐに年をとり求道しようにもできないのである。
これも人間が根本的な所で危機感を真剣に持たないためなのである。

タグ:リスク
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2018年01月25日

清水建設の下請け企業の除染作業員およそ100人が「危険手当」付きで野球応援・ この企業は105億円を売り上げ、役員に43億円もの報酬


清水建設の下請け企業の除染作業員およそ100人が「危険手当」付きで野球応援・
この企業は105億円を売り上げ、役員に43億円もの報酬


国の除染事業を請け負った清水建設の下請け企業の除染作業員およそ100人が「危険手当」付きで野球応援・この企業は105億円を売り上げ、役員に43億円もの報酬 FNNの取材で明らかに・国が民間企業同士の取引内容を精査できれば、除染費用を大幅に減らせる可能性がある 



震災利権を 
暴力団とかおいしくいただいてるもんな

国と自治体の除染費用は、東京電力に請求することになっていて、税金や電気料金が当てられる可能性がある。

連帯だの絆だの反対しづらいお題目を唱えて 
無理矢理に増税しといて 
草野球の応援に使われるてるとかありえん 
役員報酬も異常すぎる 
国会で必ず取り上げるべき問題だな

清水建設の名前は出るのに、問題の下請け企業の名前は出さない 
福島の会社だから忖度かい? 

原発作っては補助金で儲け 
原発壊れては補償金で儲け 
除染作業ではピンハネで儲ける 
それが福島県民

この会社の清水建設への依存度がかなり高いなら、清水の人間の関与なしにこの利益率や役員報酬はあり得ないな。 
当然、そっちへ金の一部が還元されているのだろう。 
清水建設だけでなく除染事業を管轄している国の関係者も絡んでいるのかもしれんが。 
そうだとしても利益率の異常な高さは何だかなあ? 
利益をもっと圧縮して何らかの経費名目で清水や国の関係者に還元する方がありそうだが。
43億円役員報酬の行き先を精査するととんでもないことになるよ 
国税局が動いてるだろうから政治家とゼネコン関係者の吊るし上げは時間の問題 
楽しみにしてたらいい

105億の売上で、役員報酬43億、利益が56億で残り6億。 
100人以上の除染作業員がいるようだが、仮に従業員100人として、6億全部を人件費にあてたとしての一人当たりの人件費600万。

半分近くが役員報酬って 
全員天下りだろう 
あんたら絶対バチ当たるよ


莫大な除染費用がどこに流れたのか?それは地元だったら下請けの会社でありその役員だった,官僚とかにも流れたし自治体職員にも流れたのかもしれない
第一こんな大きな金が役員に流れていたことの驚きだけど建築関係では普通にあるらしいだから地方で景気がいいときは豪邸が建っているのは建築関係だというのはわかる
現実にこの辺でもそういう人を知っているからである。

そして除染している作業員には回らない,上でピンハネされるからである。
その除染作業をしていた人を知っている,それが清水建設だったのである。
清水建設はいろいろと問題起こしていたのである。
建築関係には必ず暴力団が入ってくる,それで暴力団の組員らしい人が「おいしい仕事」だと言っていたのはそのことである。
芸能関係と暴力団,スポーツ界と暴力団,ゼネコンや建築土木関係と暴力団,自民党と暴力団・・・・なんかこの辺が必ず関係している
原発でもあそこで働かせられるのは暴力団が手配している
それですでに10人くらい現実に死んでいる,それも公表された分である。

役員報酬というとき官僚の天下りでもそうだがこんな高額になるのか?
時代劇で小判が積まれるのとにているのか?そういう構図は変わらないのか?
そして作業員には10分の一くらいしか金はやらないとかなっている

これは地元の人も怒るべきだ!

なぜなら除染は本当に効果あるのか?それも疑問だった,なぜこれほど除染はおいしいのか?それは建築物を建てるとその資材とかいろいろかかるのが目に見える
除染は何しているのかも良く外から見てわからないのである。
そこで手抜きしても全くわからない,放射線量を計るがそれもいいかげんなのかもしれない。現実に大成建設が設置したモニタリングポストの下は土をとっているから低いが回りは倍以上あった,そういう不正みたいなことが行われていた
だから飯館村では比較的まだ高い,でも0.7となればその倍と見なければならない,すると高いとなる,何か放射線量は数字でありまたごまかしやすいのである。
今溜池の除染をしている,これも回りから雨降れば泥が流れてまたたまるのだからどれだけ効果あるのか疑問なのである。

その除染の費用はどこに流れたのか?ゼネンコであり暴力団であり地元の建築土木関係であり地元には恩恵がなかったともなる,除染したというがその効果が疑問だからである。そして役員に億の金が回っていたというのも驚きである。
除染も実際は効果もないしずさんだがその金もずさんに使われていたのである。

そもそも原発は何か莫大な金がかかっていた,それができたのは国民の税金だから湯水が湧くように使われた,東電に要求しても後は国に東電が要求して国が支払っていた,
その国の金とは国民の税金なのである。
この構図は確かに自民党だとゼネコンの結びつきが前からあったからだというのもわかるだから今度市長になった門馬氏は自民党と公明党である。するとそうした不正を見逃すということもあるのか?
そこに確かに今回の選挙の問題があった。ただ自分は地方自治にはそうした国の政党より身近なその土地に根ざした問題の解決にとりくむべきだと思っていた
それで桜井市長がそうしたところに政治力を発揮できなかったのと思い不満だった

前にも書いたけど小高と鹿島の対立は補償金問題にあった,ある程度不満がないように配分すればこんな深刻な対立にはならなかった
実際に清水建設とか地元の会社にそうした巨額な除染費用が流れたからだ

地元の会社はその金を役員に回すのではなく地元に回せ!

お前らだけがうまい汁を吸うのか?

億の金が入って笑っているのか?

地元の人はこれは怒るべきである。それは原発が建ったときからあった
それで船主は事故前も多額の補償金を東電から特に船主はもらっていた
それで原発御殿が建っていたのだ,それで回りの人はうらやましくねたんでいたのであるそれで津浪が来て罰があたったとかその近くの回りの人が言っていたのである。

いづれにしろ桜井市長はこうした南相馬市内の対立に手を打てなかった,それが南相馬市の一番の問題だった,今回起きた問題もそうである。
それは自民党が政権にあるからだともなるのか?
やはり南相馬市長が政治力かないからでありいくら野党系でも市長にあれば権限があるからできたともなる,それで選挙に敗れたということもある

地元だと金にうるさい,田舎だと本当に金にうるさい,するとこうして除染でおおもうけした人への風当たりは強くなる,なぜなら地元に住んでいるからそうなる
それが船主が今は針のむしろに座るようなことになってしまった
あいつらだけが原発事故前もいい目をしてその後はいい目をして真っ先に立派な家を建てたとかなる,その不満は本当に大きいのである。
だから今回のことでも地元の人の不満はその会社に向けられるし経営者に向けられる
そういうことは地元では怖いのである。
東京に社長がいる場合はどんな暮らしをしているかわからない,そういう社長が東北サッシでも駅に来て社員が迎えにくる,そういう場合は地元に住んでいるからねたみの対象になりにくいのである。
地元に住んでいるとそうはいかないのである。

ともかく莫大な除染費用は地元に回らず復興の役にもたたなかった,除染は多少は効果があってもその莫大な金をもっと地元のために利用した方が良かったからである。
この辺は相馬市でも人口がへり相馬市と南相馬市は事業を継続できない人が多く
廃業が多い52市町村に入っている
だからあと3年して国からの支援もなくなる

その時どうなるのか?それが恐怖である。全体的に衰退して市町村すら維持できない状態になるかもしれない,すでに浪江町とか飯館村は復興がむずかしい
南相馬市はなんとかもちこたえても厳しい状態になる
地銀も経営が苦しく廃止になる,地元の会社の後ろ楯になるものもなくなる
その時この辺はどうなるのか?
そういうとき一会社が除染でおおうもけして役員がその金を懐に入れていたとなると地元の人は許さないだろう。それで地元に住むということはそういう怨嗟の目の中に生きることになるから苦しくなるのである。
第一補償金問題でもそうだった,小高でもなぜあんなに優遇されているのかと鹿島の人は延々と言っていたからである。
小高には当然補償されていいものがあった,ただ問題はそうして田舎では不平等になることが許されないのである。
ただ本当の問題は莫大な除染費用などがそうして地元の復興に使われなかった
みんなゼネコンとか暴力団とかに吸い上げられて復興には使われなかったのである。


タグ:除染
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2018年01月21日

<南相馬市長選>門馬和夫氏が初当選 「脱原発」桜井氏破る


<南相馬市長選>門馬和夫氏が初当選 「脱原発」桜井氏破る


200票の差でぎりぎりだった,そんなこと予想されていた,今回は強力な対抗馬だった
特に鹿島区の人は桜井氏に不満が大きかったから入れなかったかもしれない
延々と文句を言っている人がいたからだ
そして二期も市長になっていたから変わったもいいとか思った人もいたかもしれない
自分などはそうだった,それほど実績もないとする二期で十分だとなる

自分は「脱原発」というだけ主張して勝つことは嫌だった
自分も脱原発でもそれだけ叫んでいれば勝つというのは楽である。
それは国政レベルだったらそれを叫んでもいい
自治体レベルではやはり地元に密着した問題なのである。
それは政党ともあまり関係ないことである。

でも意外と投票率が60パーセントが低いなと思った,まだ避難している人が多いからなのか?市の選挙でこれだけ低いのかとなる。関心が低くかったのか?
どっちにしろ相馬市長選挙では70パーセントだからその影響がまだあったのかもしれない

そもそも桜井氏が脱原発だけ叫んで勝つと見込んだのは震災から7年もなるのに間違っていた,震災の復興の進め方がどうだったのか,その議論をすべきだった
それから鹿島区と小高区の対立がありそれも重大な課題だったが具体的なものは何も示していない,ただ小高に病院を再開するという門馬氏は主張しているからそれは実現するのか?
それでも小高の復興は進まない,そもそもそこの住民は復興すとる主体が老人がほとんどでありそれで復興できるのかとなる

いづれにしろ自分が言ったように「脱原発」を声高に叫んでまわり野党の脱原発議員が応援する,それは国政レベルならわかるが地方自治体ではもっと地元に根ざした問題の方が先決なのである。
だから無所属の方が地方自治体ではいいのである。
中央の政党争いを地方にもってくるべきではないからだ

ただ桜井氏との差が200票ということは次の選挙ではまた野党に変わる
何か成果をあげなければ簡単にそうなる,おそらく鹿島区の票が桜井氏に入らずに勝ったのかもしれない,それは開票結果を見ないとわからない
ただ門馬氏も小高と鹿島の対立にどんな施策があるのかわからない
それでまた不満になり次の選挙では野党側に変わるとなるかもしれない
政治は実績でありいくらいいことを言ってもも実行できなければ評価されない
桜井氏にはそういうことがあった,意外と飯館村とか相馬市長には批判があっても
評価が高いのは実行力があるからなのかもしれない

ともかく門馬市長に期待します

争点は脱原発では桜井市長が勝つ (他の問題がありそこに力点を置くべきではないか)

posted by 老鶯 at 21:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2018年01月20日

争点は脱原発では桜井市長が勝つ (他の問題がありそこに力点を置くべきではないか)


争点は脱原発では桜井市長が勝つ

(他の問題がありそこに力点を置くべきではないか)

脱原発、脱原発,・・・これで勝ちでいいのか


30k圏外約2千余世帯の支給額は市長が要綱を規定し、それにより支給した金額で
総額8億5,593万円は不当公金支出であり市の損害金である。
その責任は全て市長にある事をもって、この金額を遅滞無く弁済を市長に要求する。

こういうことがあった,南相馬市では鹿島には見舞金であれ補償金も払うなということがあった,同じ南相馬市民でもそうだった,原町区の人に多かった
鹿島区は30キロ圏外で排除された,でも桜井市長は鹿島区に補償金を払うことに尽力したとある100億円を仮払いとして払った,一人70万の補償金だった
原町区は30キロ圏内だから3倍くらいもらっているとか言われた,場所によっても違うのか原町の人がいくら本当にもらっているのか言わないからわからない
ただ知っている石神の人が古い家がすみにくいからと新しい家を建てた
それは補償金で頭金が用意できたからかもしれない,でもローンなのだからその補償金で全部まにあうようなものではなかった

鹿島区の不満はその後も根強く残り小高とは反目する関係になってしまった
なぜ小高だけが優遇されるのか?それは避難区域になったから当然であり小高の人になればなぜ鹿島区は不満なのかということで反目しあう結果になった
この反目しあうことは市長の責任があったかもしれない
なにか融和策がとれなかった,これが実際は市政の一番の問題だった
とにかく何兆円もの除染とかいろいろ国から金がおりたのだから方法があったともみる
それがゼネコンとか外部のものに流出しただけだとなる
その構図は前からあり変わらなかったともなる

そもそもこの辺では脱原発は当たり前だと思っていた、いくら自民系でもこの地域で脱原発でないこと自体なんなのだとなる,これだけの被害を受けてまだ原発をしようとしているのか?
そのことが理解できない,脱原発でないかぎりこの地域では負けるのではないか?
ただ桜井市長は左系統であり中央との自民とのパイプをもてないから復興に支障をきたすそれは言えるかもしれない,ここにも政府与党と野党の対立がもちこまれている
自分は極力地方自治体の政治は中央の争いをもちこむべきではないと思う
地方自治体はそうういものではなく,福祉の充実とか雇用の充実とか教育保育とかの充実とかもっとその土地に根ざしたものが争点となるべきなのである。
もちろん脱原発はこの辺では当然だと思っていた
そういうものは争点にならないと思っていた

いづれにしろ明日選挙だけどっちにしていいのかまたわからない,国政選挙でもそうだった,自分はしょうがないから希望の党に入れたのである。
今回も桜井市長の応援に希望の党の議員が来たというから脱原発連合がある
ここでは脱原発でないとしたら勝ちようがないのである。
これだけの被害を受けてまた原発をはじめることはありえていと思っていたからである。争点を脱原発なら国政選挙でありここでは脱原発が当たり前として議論外のものとしてある,そうではなくて別なものが争点になるべきなのである。
国の中央の政治が地方でも行われるのは納得いかないとなる

ここでは脱原発を言うまでもなくそれ意外のことに重点を置き政策をすすめてもらいたいとなる
だから鹿島区と小高区が分断されたことの融和策は何かとか議論してもらいたいがない
それが政治のはずなのである。脱原発言うのは簡単なのである。
この辺ではみんなそうだからである,現市長に不満というとき脱原発ではない
鹿島区と小高区の融和策がとれなかったことなどが深刻だったのである。
脱原発なら鹿島であれ小高であれ同じである。するとそれだけを訴えることはこの辺では楽なのである。
それで勝てるということは他の政策を見ないということになる
国レベルとなると脱原発はかえって重要な争点になる,でも全国レベルでもそうならなかった,国民が求めているのは争点は別なものだったとなる
消費税とかなら国民で一致したものがあり争点になったのである。

ともかくここで中央の政治の争いをもってくるのは納得できない,脱原発だけ言っていれば当選するというのも納得できない,政治的課題は実際はこの辺ではそうではなかった
なぜ鹿島区と小高区など融和策がとれなかったということでもあった
この分断によって南相馬市の一体感がなくなったからだ
脱原発は当然としてそれで一体感はもちえないのである。

自分も脱原発というよりこの辺ではみんな脱原発自明としてある,これだけ被害を受けて原発をまたしたいという人はまれになる,それで選挙を勝つとしたら楽だとなる
それが評価されて当選するとしたらそれは地方自治体の長として楽であり他の政策の実行はないがしろにされるのである。
これが争点になるなら確実に桜井市長が勝つ,結果的にはそうなる勢いなのだとも言われる
でも桜井市長に対して不満な人は多いのは鹿島区と小高区の反目などのことである
そういう対立をなくして南相馬市を一体化するにはどうすればいいのかという問題なのである。

ただ門馬氏の主張もわかりにくい,具体的に小高で入院できる病院をつづけるというから小高の人にとってはいいことである。
ただ一方で小高は南相馬市では負担になっている
小高は帰ったのは老人が多いし福祉の街のようになりそこに生産活動する若い人は本当に少ないのである。
小高は今や重荷なのである。そこに南相馬市で予算をつぎこんだり援助することは南相馬市の財政でも苦しくなるのである。
復興しようとしても老人の街であり簡単にはできないからである。
ただこういうことを言うとまた鹿島と小高の対立になり批判されるのである。
原町区はその中間にありその舵取りをどうするのかとなる
そういう具体的なことを何も主張されていない,ただいいことばかりいう
脱原発だけを言うのは楽なのである。自分も脱原発でありそれは自明としてもっと別な深刻な地元の問題がある,それにエネルギーを注ぐべきなのである。

posted by 老鶯 at 16:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2018年01月19日

南相馬市長選挙を前回の渡辺氏との政策の相違で考える (自民系と左(共産系)とかの戦いのなか?)


南相馬市長選挙を前回の渡辺氏との政策の相違で考える

(自民系と左(共産系)とかの戦いのなか?)


南相馬市の復興を考える

A 帰還困難区域については移住費用を支援。帰還困難区域以外は「戻る」選択には賠償追加で支援。帰還困難区域以外で「戻らない」選択には支援しない。 
B 除染一辺倒から、除染・インフラ整備・汚染水対策・廃炉を「大きな公共事業」とし、税金を投入する。

自動車関連企業、成長産業である医療機器やロボット産業とは、グローバル経済に対応し、規模が大きく、成長を追求する産業だ。それらの企業は、言うまでもなく、東京に本社を置くグローバル企業、あるいは海外に拠点を置く多国籍企業だ。そして収益の最大化を目的にしている。地域で生み出した利益の大半は本社のある東京や海外に移転し、企業内に留保される。地域にはほんの一部しか循環しない。

交通インフラの整備とは、企業誘致を当て込んで、道路などの基盤整備を行うということだ。しかし、住民の生活再建が依然として進んでいないのに、企業誘致のための道路建設に復興資金を使うことに住民が納得するだろうか。 
 また、その公共事業を受注するのが被災地外のゼネコンであれば、被災地の企業に回るお金は限られ、被災地の企業の復興は進まない。しかも、公共事業は一回限りの投資で、持続性はない。

 隣りの宮城県では、農業への新規参入を積極的に進めている。野村ホールディングス、サイゼリア、カゴメ、IBM、GEなど、外食産業ばかりか農業に無縁と思われるグローバル企業が、農業生産法人を設立し、植物工場などを始めている。 
 これも、企業誘致のところで見た通り、外国や東京に本社を置く企業が、地域の契約農家を組織し、生産物の加工工場をつくり、それらを販売する店舗を設置するということをやったとしても、その利益は、ことごとく東京や外国の本社に流出し、地域には一部しか循環しない。

 火発も原発も、東京・首都圏への集中・集積やグローバル企業の収益には貢献するが、地域への分配はわずか。住民が受け取る所得は非常に小さい。電力会社の本社は、東京電力は東京に、東北電力は仙台にあり、その所得はこの地域の外に出て行く。むしろ長期的には地域の衰退を促進するものでしかない。 
 これは、脱原発ということで、再生可能エネルギーを導入したとしても問題は同じだ。被災地外の企業が発電設備を運営すればその利益は地域には残らない。

 横山、渡辺両氏らには、<福島の原子力災害問題はもう終わりにして、開発政策に舵を切りたい>という意志がはっきりとあって、それを進める上で邪魔になっていた桜井市長を落とそうとして動いていた

 汚染を引き起こした加害者が、加害責任を問われていない。それどころか、彼ら自身、加害者だという自覚が全くない。

 福島が受けた原子力災害とは何だったのか。それは、中央や公共事業や大企業に依存したら、何かしらの恩恵が地方にもあるのではないかという幻想の行き着いた果てだった。それを再び繰り返すのだろうか。そうではなく、その犠牲と教訓から、破産した政策を総括し、社会や経済や政治のあり方を根本的に見直すということではないだろうか。


帰還困難区域以外は「戻る」選択には賠償追加で支援。帰還困難区域以外で「戻らない」選択には支援しない。

これは前から自分も言っていた,補償金でいち早く原町であり鹿島であれ相馬市や新地でも家を建てた人がいた,そういう人に金を支払ったらもうもどらない人なのだから復興はありえないのである。でも現実はそういう人が多かったのである。
そして浪江町の人でも南相馬市とかに「浪江町」を作るとか構想があり二本松でもあったとういがそれは無理である。そしたら南相馬市民との軋轢が生まれるからである。

そもそも復興する主体が誰なのか?

外部の人がいろいろ言ってもそこに住んでいた人のはずだがその人たち故郷を捨てているのである。その町を捨てる人に補償金を払っているのだからますます帰らない
もう自分たちはここに住む他ないとなれば覚悟ができて復興ができるかもしれない
それよりいかに荒廃した町から脱出するからが課題になってしまった
何か町を再生したいという町への故郷への思いがあまり見えないのである。
ただ離散分裂してなんとか一体になり復興しようとする気持ちが感じられないのである。
要するにこの辺でも言っていたが土地が安い時家を建てた人は賢かった
それは小高の人だったのである。
いち早く見切りをつけた人が勝ち組だったとなっている
つまり故郷の人のつながりなどは現代ではない,田舎でもない,金が支配するというとき金があったらどこに住んでもいいならそんな荒廃した町に帰る必要はないとなった
それは現代社会が広域化グローバル化したからである。
一つの土地に執着する必要はない,金さえあればいい場所にどこでも住んでいいのだという社会である。そういう社会は危難にもろく一挙にコミニュティも崩壊したのである。

自動車関連企業、成長産業である医療機器やロボット産業とは、グローバル経済に対応し、規模が大きく、成長を追求する産業だ。それらの企業は、言うまでもなく、東京に本社を置くグローバル企業、あるいは海外に拠点を置く多国籍企業だ。そして収益の最大化を目的にしている。地域で生み出した利益の大半は本社のある東京や海外に移転し、企業内に留保される。地域にはほんの一部しか循環しない。

この辺はロボットとかドローンの工場基地ができる,ではその収益はどこにゆくのか?
東京に本社があるグローバル企業にゆく,この辺の会社の社長は東京に住んでいる
地元に住んでいないのである。それで社員が駅に社長を迎えに来る
東北サッシでもそうだし友伸エンジニアでもそうである。
つまりその収益は地元に有効に回るとはならないともなる,地元に社長が住んでいればまた別である。
そもそも東電とか東北電力でもそうだというときそれは世界的傾向である

多国籍企業の力は絶大でありそれに逆らうことは不可能になっている
それは国より強力なのである。国すらどうにもならないのである。
地域に金が回らないというとき証券会社がもってきたのは地銀を通してもってきたのはこうしたロボットとか人工知能などのファンドである,だからこういう会社に投資してもうけようとすればそこに投資する
それがグローバル経済なのである。地域に金はおりないというとき矛盾しているけどこういうファンドに投資するほかないのである。地域というのこえてグローバル経済になっているということはそういうことなのである。


このことを感じたのは地銀もそうなっていたのである。東京の証券会社の人が地銀の銀行員を連れて投資信託をすすめる,そういうことができるのは地銀で地元で培った対面的な営業の信頼関係で顧客があるからだ,そうした継続として地銀は信用できるものとして地元で仕事していたのである。
それが東京の証券会社の下請けとなりその出向した証券会社の指示で動いているのであるすると証券会社の支社が地銀なのか?実質はもうそうなっているのである。
地銀はもう地元に貢献するものとしてありえなくなったから合併したり消滅すると言われるようになったのである。
ただ地銀ではつくづく金融商品が本当に少ない,そろえることができない
老人用の保険などが安全なものが作られているからだ
ここだけは田舎は不利だった,東京と田舎の差はここでは歴然としていたのである。
地銀もグローバル化して巨大証券会社の一支店のようにされる
その収入は東京に吸い上げられるともなる,そのおこぼれを地銀が受けるとかなってしまう。

宮城県では、農業への新規参入を積極的に進めている。野村ホールディングス、サイゼリア、カゴメ、IBM、GEなど、外食産業ばかりか農業に無縁と思われるグローバル企業が、農業生産法人を設立し、植物工場などを始めている

これも収入は地元にはわずかで東京にある会社に吸収される,それはイオンがそうである地元の商店街が壊滅してイオンだけが郊外に繁栄する,その収益は地元にはわずかだともなる,それが資本主義社会だとなればこういうことは世界中に起きているのである。
するとそもそもが資本主義とか反グローバルにならないと解決しえない問題である。
でもそれに対抗できるものがあるのか?
この巨大な怪物と化した大企業とかグローバル多国籍企業に対抗できるものがあるのか?
そもそもが東電の原発は何も強制的に国とか企業がおしつけたものではない

双葉とか大熊とか出稼ぎ者が多く地元で働きたいということで地元の人が積極的に誘致したものなのである。
もしその時貧乏でも別な志向が働いていれば今日のようにはなっていないのである。
そして現実に東電の原発依存の経済になっていたのである。
それで経済が成り立ってしまったからもうそれ以外のことは考えられなくなったのであるふりかえると本当は原発を誘致するときこそ地元の人が重大の判断と決断をしなければならないときだったのである。
でもほとんどそうした真剣な議論もない,将来の世代のことも考えない
ともかく金だとなり何の抵抗もなく原発は建てられたのである。
その後も原発の安全神話が作られてきた,地元で原発が危険だというと危険人物にされて住めなくすらなっていたのである。

福島が受けた原子力災害とは何だったのか。それは、中央や公共事業や大企業に依存したら、何かしらの恩恵が地方にもあるのではないかという幻想の行き着いた果てだった。

これは左でも同調する,ただではこうした大企業とかグローバル多国籍企業とかに対抗するものが地域にあるのか?
何をもって地域の経済を成り立たせるのか,漁業では金にならない,農業はだめだ,林業はだめだとなり一体何をもって地域の経済を成り立たせて復興がありえるのか?
それが問われた,何かその対抗策があれば納得するがない
そこに左系統の言い分に同調してもみんなの賛成が得られないからこそ原発でも企業の工場でも誘致されているのである。むしろ積極的に自治体が誘致しているのである。
働く場所がないからそうなる,漁業,農業,林業では成り立たない社会になっているからである。
ただそうしたグローバル多国籍企業とかの影響で今回のような悲惨なことにここがなったことは確かである。

その公共事業を受注するのが被災地外のゼネコンであれば、被災地の企業に回るお金は限られ、被災地の企業の復興は進まない。しかも、公共事業は一回限りの投資で、持続性はない。

その金をもし地元の復興に使えばもっと有効なものとなった,補償金にだってあてることができて小高とか鹿島とかが憎みあうこともなかったのである。
除染に何兆円もつぎこんでもその金はゼネコンに流れて地元に恩恵がなかったのである。

そもそも右は原発賛成である。左は反対である。そしてそれはそこで二分されてどっちかの陣営につかねばならない,それで武田邦彦氏は原発反対なのだが右であり左の人とはうまくいかないとなる,自分は心情は右である。国の文化と地域の風土とかに根ざした経済とか文化の町作りを推進する方である。
また原発は反対である。第一これだけの被害を受けて脱原発になるのがこの辺では普通である。それが自民系にはないのかとなる
それは党派の問題でもない,地域は党派越えたものがあるからだ
中央の政治の争いをもちこみにくい場でもある,だから無所属の方がいいとなる
今回の門馬氏は明かに自民公明だから保守系として出ているから渡辺氏と同じになるのか?
門馬氏の主張はアピールは何なのかわかりにくい,何が争点なのか?
脱原発になるとそれはこの辺では当たり前なのである。
そのことで勝敗が決まるのか?それも納得いかないのである。
復興の進め方なのか?そこに門馬氏と桜井市で相違があるのか?
右は自民の政権は除染は終わり帰還して普通の暮らしにもどるべきとしている
左はそうではない,除染は必要でありもっと放射能対策を継続すべきだとなる

横山、渡辺両氏らには、<福島の原子力災害問題はもう終わりにして、開発政策に舵を切りたい>という意志がはっきりとあって、それを進める上で邪魔になっていた桜井市長を落とそうとして動いていた

門馬氏は自民党だから渡辺氏とかと共通しているのか?
今回の選挙も自民と左系統の政党の争いが地方でも行われるのか?
これもどこに判断基準を置くのかむずかしい
ただ門馬氏の主張はもう一つはっきりしないから自民から出た渡辺氏の主張とダブルことがあるのかと検討したのである。





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2018年01月16日

南相馬市長選挙迫る (問題山積みは続いている)


南相馬市長選挙迫る

(問題山積みは続いている)


かねてから南相馬市に住んでいる人、震災後に避難先から戻って来た人、震災後に引っ越して来た人たちが暮らしています。皆、言葉に出すことは少ないですが、震災後に南相馬市に残ったか、残らなかったかという溝や受け取った賠償額の格差による溝ができているのです。

 市選挙管理委員会によると、有権者約5万3千人のうち、約5600人が避難などで市外に住んでいる。

 

津波原発事故の後遺症は傷は深い,津波の被害者がいて原発事故の避難者がいてさらに今南相馬市で問題になるのが浪江町などの原発避難者なのである
その復興団地を見ればわかる,その数が原町区では多いのである。
だから浪江町の人たちも実際は浪江に帰らないというとき南相馬市の住民になっている
ただ浪江町の住民だから選挙権がないのである。それで自分たちの利益を主張できないことはある
ただ税金は別に払っているから何も権利がないのとは違う,外国人でも生活保護の権利があるからだ
ただ今回の選挙で浪江町の人たちのことを考えると選挙権がないからこれはどういうことなのか?
浪江町の人に候補者は訴えることはしないとなる
選挙権がないということは市民権がないということなのか?何かそれに通じるものがある

そもそも浪江のことを考えると何なのだろうとなる、公務員だけが必死に働き町を復興させようとしている
職員がたりなくて新しく採用した人が仕事ができなくてはらはらになったとかある
実際に津波で被害にあった町に外から応援に来たほかの自治体の職員が三人死んでいる
過労になったのである。
不思議なのは公務員が必死になっても肝心の住民がいなくなれば公務員が成り立たなくなったのである。
王様がいて家来がいる、社長がいて社員がいる、住民がいて役所の公務員がいる
家来がいなくなれば王様もなくなる,社員がいなくなれば社長もなくなる,住民がいなくなれば役所は成り立たなくなる、公務員だけが残るともなる
現実に浪江ではそういう状況になっているのである
みんな帰らないと言っているからだ

そしてわからないが浪江の人とか原発避難者は立派な豪邸を建てているのが見かける
ケーズデンキの近くの家の庭が立派なのである。石が豪壮であり見惚れてしまう
自分は石に興味があるから見惚れる
その石だけでも一千万とかかかっても不思議ではないように見える
鹿島地区では新しい家が百軒以上建ってもあれだけの立派な庭は見ていない
ではなぜそれだけの庭と家を建てた人はどういう人なのか?
それはやはり原発避難者だろう、大熊、双葉、浪江とかになる、主に浪江とかかもしれない
一方で深野のユッサの庭はそういうのに比べる貧弱なのである。
あそこはみんなが外部の人も集まるから立派な庭にしてほしいとなる
自分は庭が好きだからそうみる、環境的にもいい庭を作るのに向いているからだ

その土地に市町村に住んでいれば誰でもこうあってほしいなと思うことがある。
ユッサは民間であれ場所的にはいいしもっと庭をいい庭にしてほしいとかなる
駅でボランティアしていると駅でも駐車場が整備されていないので外からの人が入りにくいとか
高齢鹿社会になるから車を利用できなくなる人が増えてくるから対策してほしいとかなる
争点が子育てとか教育になっているのはやはり未来を背負う人を育てないと市町村は将来つぶれてゆくという
ことで全国的にそうなっている
この辺では小高でもそうだが限界集落化したし浪江とか双葉とか大熊では町自体が消滅する危機なのである。
それで南相馬市だけではない浪江町も含んだ広域的なものとしての政治の対策必要になっている
それは県とか国でしているとなるがもう浪江町は維持できるか維持できないのかの瀬戸際なのである。
現実には浪江町の人が南相馬市に千人以上とか住人に実質はなっている
そういう問題も南相馬市にはある,相馬市とか新地でも移り住んだ人があるから同じようにあるが南相馬市は一番多く引き受けているから問題なのである。

桜井氏の評価はいろいろだろう。政治家は何で評価されるのか?芸術家なら作品で評価するからわかりやすい
政治家の実績は何なのか?前の渡辺市長の実績は駅前の図書館を作ったことである。
それは賛否両論があるにしろ実績としてわかりやすい,自分は今では評価していない、インターネット時代になり利用しなくなったからである。
そういう箱物は必要なかったとも時代でなる、街の活性化にも役立たない,ただ買い物するスーパ−とかが併設すれば活性化していたかもしれない
高齢化になると車を運転できない人が増え電車を利用する人が増えてくるかもしれないからである
高齢者対策も必要になる、一方で保育所とか教育とか仕事を作るとか将来のための政策も必要である。

国は東日本大震災の復興事業期間を10年として所得税等の増税により財源を確保しましたその10年の期間も復興創生期間残すところ3年になります

こうなると3年後はこの辺の経済状況はかなり厳しいものになるだろう
今まで復興のために金が入ってきたし工事関係者も入ってきて建築関係は活性化した
息を吹き返した,ただそれが本当に三年後で終わりになることは厳しい状態になる
なぜ最初は地元で除染で働きいわき市の方で働き次にまた働く場所がないとか東京に探しに行った非正規の労働者がいる
これも良くわからないが地元での仕事が減ってきていることは確かなのだろう。
例えば浪江町ではこの駅の公衆電話の修理であった人は浪江の人だけどやはり原発で働いていたのである。
浪江は三分の一は原発で働いていた,葛尾村でも働いていた人があるし飯館村でも原発で働いていた人がいたことには驚く
それだけこの辺は原発依存の経済になっていたのである。
それで船主が原発御殿を建てていたとか津浪で判明したのである。
だからこそ逆に怖いのは原発再稼働しないと経済的に成り立たなくなるということになることである。

その圧力は大きなものになる,そもそも原発は上からだけの要請ではない,地元の要請もあって作られていたからである。背に腹は代えられないとなりかねないのである。
ただこの辺は脱原発になりそれは当然の前提としてあるものだと思っていたが自民党系はそうではない,とるすとまた原発再稼働がありうるのである。
全国レベルでも原発は争点にならなかったがここではやはり脱原発になるのが当然であり前提としてあるものだと思っていた
ただそれをぬきにすれば二期勤めた桜井市長の実績は何だったのか,ただの人気取りパーフォーマンス市長だったのか,それが問われる
やっぱり二期は長い,実績があれば別だが変化を求める人が多いかもしれない

大学を見れば桜井市長とか飯館村の村長も畜産科であり農業になるが飯館村ではいいが門馬候補は東北大の工学部となるとそっちの方に強いのか?
この辺ではともかく理系の知識が必要になった,だから理系の市長でないと勤まらないということがあった,相馬市でも医者だから理系である。
ただ政治となるとこれはまた経営とか関係してくる,専門職とも違う総合職なのである。総合職になると文系的なものが必要になる
本当に総合的に見ると郷土史とかも関係してくるし自分の追及してきた郷土とか自然とのアイディンティティなども関係しているのである。
郷土をトータルに見ることだからである。だから市長の担当する範囲は広い,総合的に判断する能力が必要になるのである。

posted by 老鶯 at 14:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2018年01月13日

避難している浪江町民などの問題 (けじめの時期が来ている-いつまでも被害者なのか?)


避難している浪江町民などの問題

(けじめの時期が来ている-いつまでも被害者なのか?)


小高のときも仮設に住んでいる人が問題になった,毎日パチンコやギャンブルしていて遊んでいた,それでもボランティアが来てかわいそうだからと支援していた
そして鹿島の人は同情もしない冷たい人だと互いにいがみあうようになった
小高の人は鹿島の人の気持ちなど全然考慮していなかったのである。

次に主に浪江町の人が今度は移住してきた,その人たちでもほとんど働いていない,老人が多いということもある
でも不思議なのは他でも問題になったが二本松市とかに移り住んでも以前として浪江町民なのである。だから税金など払わないということが問題になった
それで二本松市に浪江町を作るということを提案した

なぜそうなったのか?浪江町民とは何なのか?それがわからなくなった
漂流する流浪民のようになったからだろう,ただ県と国ではそうしたし人達を援助するから移住先の自治体に金を払うということがあった
だからそうした人達がすべて邪魔者というものではない,それより被害者なのだから保護されるべきだということがあり誰も何も言えないのである。

その保護されるにしてももう60以上は仕事できないから小高の人達は国民年金では足りないからもっと援助しほしてい,年金として死ぬまでもらいたいと現実に要求したのであるつまり被害者だというとき何でも通る,それに批判するのものはなんて非情な人達だとなりマスコミでも応援するから何も言えない
それでNHKでもそのことを言うから余計に原発避難民を非難するものは糾弾されるのである。

でもすでに7年もすぎて以前として同じ状態にある,避難民はどう考えているのか?
誰も小高でも浪江でも帰りたくないという,では他に移りそこで住むのか?
原町とかに家を建てた人が多いのだからすでに浪江町には帰らないのである。
だとするなら南相馬市民として税金も払いとなるだろう。
また南相馬市民として尽くし働いてもらいたいともなる
人手不足で困っているし浪江町の人でも病院とか施設とかその他利用するからである。
そこには金だけではない南相馬市民の労力も費やされているからである。
ただ浪江町の人も看護師とかで働いているとかこの前はnttで働いていたとかありみんながそうではない,それなりに働いている人はいる

ただそれは割合とすると極めて少ないだろう,一割くらいかもしれない,その割合はわからない,ただ小高でもそうだが浪江でも特権意識化してかわいそうであり被害者なのだからいいのだとなんでもなってしまうのも問題なのである。
もう7年もすぎてもそうなのである。

そもそもわからないのは復興するというとき小高でも浪江でも飯館でも誰が復興するのかまたしたいのか?
それもわからない,地元の人達はもうあきらめて家を壊して他の土地に新しく家を建てて生活も別になっている人も多いからだ
公務員などは残り復興したいとしてもその肝心の町民はもう住みたくないとなっている
では一体誰が復興するのか?外部の人がいくら支援しても肝心のそこに住んでいた人が復興とは関係ない,他に移り住み帰らないと言っているからだ

結局それも被害者なのだからどうにもならないとそこに住んでいた人達は言う
それは自分たちの責任ではない,国や東電や原発事故を起こした人達の責任である。
俺たちはもう死ぬまで被害者であり補償されるべきだとなっている
補償金が切られたらあとは生活保護だと遊び人は言っていたからだ

俺たちは被害者だ
俺たちに責任はない
俺たちは最後まで補償されるべきだ
俺たちは働く必要がない
俺たちは被害者だ
回りの人達が支援すべきだ

こうなっているのが原発避難民なのである。でもその責任は一体誰がとるのか?
そこに住んでいた人達にはないと主張するとき誰がとるのか?
そうなら浪江でも小高でも飯館でももうみんな住まない方がいいのではないか?
復興を支援すること自体徒労だとなる
第一そこに住んでいた人達がそこに住むことを拒否して放棄したんだからその人たちはその町村民でもないのである。
ただ補償金をもらうためにそこに土地があれば何か財産があれば金にしたいしかないのである。

それはそれでいいとして別な自治体に籍を移してそこで税金を払いそこの一市民や町民になるべきだとなる,でも現実は南相馬市の市長選挙があっても選挙権はないのである。
南相馬市民の一員ではないからだ,だから権利は与えられないない,でも別な自治体に住むのだからそこで補償金だけをもらいあとはまた生活保護くれとかなると困る
市の負担が増えるからである。

わからないのは浪江町の人が南相馬市であれ相馬市であれ他の市とか町に移り住んでも回りの人があの人達は浪江町民だとか見ていることなのである。
でも実質はもう浪江町とは関係なくなっているのである。
浪江には帰らないからである。家も建てて別な自治体で暮らしているからである。
何かそういうけじめをつける時期に来ている
いつまでもだらだらと訳わからなくしていることはできない
それは浪江町とかの自治体でも公務員でも処理に困る
この人は他に家まで移り住んだし帰ってこない,だから浪江町民ではない
では他の人はどうなのだとか悩むだろう
この人は帰ってくるからなんとか帰ってきてもらい新しい町作りなり復興に役立ってもらいたいとかなる

そういうけじめの時期が来ている
それは自分にも言えたのである。一時は同情してもその人も原発事故とは関係なく被害者でありかかわいそうということがあってもそれなりに援助したのだからだらだらと援助ばかり都合よくすることはできない
現実に一年の内半年も働かない非正規である。そこには確かに事情がある
でもそのために自分が援助するとなると個人的には無理である。
社会的にもなぜ人手不足の時代に正規にもなれるのに定期的に働ける場があるのに働かないのかとなる
自分にそんなに援助する金などないのである
人間はどこかでみんなけじめが必要になってくる,いつまでもだらだらと何か困っていても先伸ばしはできないのである。

タグ:原発避難民
posted by 老鶯 at 14:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連