2023年11月11日

漁業権は大きな権利だったー漁業者が反対すると原発は建てられなかった ー女川の原発の場合


漁業権は大きな権利だったー漁業者が反対すると原発は建てられなかった
ー女川の原発の場合

漁協は原発建設につながる漁業権の放棄を認めず、およそ10年にわたり着工は延期となりました。

しかし1978年、漁協と東北電力の間で漁業の補償協定が結ばれ、漁業権の一部消滅が決定。事実上、原発の建設が認められることになりました。

「機動隊が盾で殴るんだよね」“原発頼み”の町が強いられた50年前の分断と、迎える再稼働のとき

漁業権の問題を追求してきたが女川原発の場合は漁業権を盾に漁業者が原発を作ることに反対していた。つまり漁業者の許可がないと原発は作れなかったのである。だから漁業権というのは意外と大きな権利だったのである。それで原発を作るにしても漁業者の許可がないと作れないからそのためにこの辺では手厚い補償金を原発事故前ももらっていたのである。総額も大きく原発御殿建ったとか噂された。それは漁業者の周りの人が言っていたのである。

みんなが知っていたわけではない。自分自身も知らなかったのである。何か烏崎港からイシガレイとか売りに来る人がいた。金ににならないとか嘆いていたしインターネットでも生活が苦しいと業者の人は報告していた。だから漁業者も生活が苦しくて困っているという風に見ていた。
でも烏崎港となると原発ではなく火力発電所ができたときやはり補償金をもらっていたのである。それで高価な着物は売れていた。まだその当時ヨーロッパ旅行する人など相当な金持ちだった。なぜなら飛行機代だけで五十万くらいしていたからである。烏崎の人はヨーロッパ旅行に団体で行っていた。それだけの補償金が入ったということである。でも別に火力発電所の場合は原発事故とは違って被害もないのだから関心もなかったのである。

でもまた漁業者は原発建った時さらに補償金をもらっていたのである。から烏崎港になれば二重に補償金をもらったということにもなる。つまり漁業権というのは大きな権利だったのである。
だからここで女川で漁業者が漁業権を盾に反対したために十年間も延期されたのである。これはやはり漁業者でも危機感を持って対処していたからそのことはこの辺とは違っていた
なぜそうなったのかといえば宮城県とかは漁業が盛んであり水産業が盛んであり福島県の浜通りとかがと比べれば十倍もの漁獲高の違いがあった
それで原発で汚染されると相当な被害を受けるという危機感を持っていたから反対したとなる。

福島県の場合は漁業はお零細でありそれほど盛んではない。そのために原発に反対もしなかったともなる。補償金をもらって方が楽だとなった。
ただ問題なのは漁業権というのはそれだけ大きな権利があり権利があるということは逆に責任もあったということなのである。それを原発事故後に問われたのである。なぜならここで漁業者が漁業権を盾にして反対した結果十年も作ることは延期されたからである。漁業者が漁業権を盾にして反対すれば原発は作ることができなかったからだである。この辺で反対運動もなく建てられてしまったのである。
だから大きな権利があればそれだけ責任も比例して大きなものだったと言うことを自覚されたのである。ただ火力発電所の場合は別にそういう責任もなかったのである。だからそこで補償金をもらっても何も言う人もいなかったのである。そこに火力発電所と原発事故原発との大きな差があったのである。

今日のニュースでも相馬市の玉野村でキノコ栽培している人がようやく放射性物質を測っても食べられるということで市場に出した。 12年過ぎてようやくキノコを売ることができるようになった。キノコはは一番放射性物質に汚染されたからである。
ともかく原発事故の被害の影響が大きすぎたことである。そこで漁業権を持っていた漁業者の責任が大きく問われたのである。
ただ宮城県の場合漁業に占める海産物の割合が福島県の十倍もありそれも影響していたかもしれない。女川ではクジラを取っていた時もありその鯨を解体するの見たことがある。それだけ漁業に関わる係わる関わる割合が大きかったのである。そして女川の津波被害も大きかった女川原発でもギリギリで津波から逃れたのである。一部に被害もあり危機一髪であった。

それは東北電力の副社長の人がこの辺は津波が来るから5mを相手高くしたのである。それでギリギリで津波から生まれたのである。それも幸運だったのかもしれないでもあの辺りは津波の被害を経験しているから危機感があってそうなったのである。福島県側は津波の被害は400年前にあったとしても全く忘れられていたからである。その相違も大きかったのである

ともかく原発事故の被害は放射性物質に汚染されるということは簡単には解決しない。森であっても放射性物質が循環しているのだから除染すること自体も不可能なのである。ただ30年過ぎるとセシウムが半減するとか言われる。それだけの時間がかかるプルト二ウムトだと消えるのに1万年もかかるというからそもそも除染そのものは不可能なのである。結局原発の恐ろしさを認識できなかった。ただ女川では漁業者の漁業権を盾に反対してたということはこの辺とはだいぶ違っていた。いずれにしろ原発の問題は放射性物質の汚染はそれだけ被害が甚大だったということである。だから12年過ぎても解決していないのである



女川原発は高さを一五メートルにしてぎりぎりで助かった

その技術者は、平井弥之助氏です。東北電力・副社長を退任後、電力中央研究所に移り、そこで、女川原発の建設計画に直面しています。

平井氏の実家は宮城県岩沼市にあり、仙台藩に伝わる記録では、近所の神社に、慶長津波が到達した、とされるそうです。
東京帝大の後輩の大島達治氏によると、平井氏が「貞観津波くらいの大津波に備える必要がある」と言っていた、ということです。
1970年に国に提出された女川原発1号機の原子炉設置申請書では、周辺の最大津波高さの想定値は、3m だそうですが、平井氏は、敷地の高さを15m と主張したとのこと。


高くしてもそれもぎりぎりであり幸運だったとなる。


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2023年10月30日

こころはここにある(詩)ー浪江町津島のNHKの放送の感想【2】 ●こころの詩−場所の価値−自然のない大都会に価値がない

こころはここにある(詩)ー浪江町津島のNHKの放送の感想

●こころの詩−場所の価値−自然のない大都会に価値がない

ここに糧ともしきも
田を作り土を耕し牛を飼い
苦しくも生きにし者よ
ここに生き心はここにある
残されし重々しい岩の墓
ここの大地に根ずきしように
そは離れざるかも
こころはここにある
ここを離れて心はない
汝の価値はここに生きしことにあり
その岩の墓がその重みを語る
かたや林の小径にあわれ
草深く隠され月見草咲きぬ
柏原村へ通じる道なりしも
我が祖父の育ちし所なれや
津島を後に葛尾村に我は行く

人間の価値は多様である。価値という時その住む場所が価値を持つ。自然は多様で自然も多様でありそこに住む人間の価値も多様になるのである。山に住む人と海側に住む人の感覚もまた違ってくる。山にしても一様でないからその地形の変化の中で価値が違ったものになる。そもそも価値を作り出しているのは自然である。その場所さえ自然が作ったものだからである。

だから自然が無い所に本当の価値は生まれない。それで東京とかの大都会には自然がないので価値が感じられないのである。でも経済的価値とか工業的価値とか商業的価値とかは比べにならないほどある。でも自然的価値がないので魅力が今は感じる感じられないのである。
ただ人とビルの谷間で混雑して疲れるだけだとなる。そういう場所に豪邸を建てても価値あると思えないのである。ビルの谷間に埋もれてただ家ばかり見ていたらそこ美もない。でもいつも富士山が見えるような場所に豪邸が立てばそれは価値あると見る。

ということはあばら屋であっても自然の中にあれば美しいものとさえなり得る。日々そこに自然の変化があり自然の美に映えるからである。だからこそ時代がさかのぼれば遡るほど実は自然は美しいものとなっていたのである。一番美しかったのは原始時代だったということになる。そこには人間の手が加わらないから自然そのものがあったからである。
その美しさは息をのむような美しさであった。何一つ人間の手は加えられないから自然そのものが手付かずでこの世のものとは思えないように美しいものだったのである。そういう時代を歌ったものが万葉集である。

豊国の企救の浜辺の真砂地真直にしあらば何か嘆かむ

このような感覚になるのはやはりそれほど美しい浜辺の浜が広がっていた。砂の浜が手つかずの白砂の浜が広がっていた。そこでその美に触れてその心も真直であれば何も嘆くことはないとなったのである。これは逆説的である。
現在ではそういうそうした自然の美よりさまざまな贅沢を物質的な贅沢を望むからである。自然の純粋な美に打たれてただそこで真直に生きられればあとは何もなくてもいいとはならない。それが現在との大きな相違である。それが現代人が失った大木きなものかもしれない。それは現代人というだけではない文明人が失ったものかもしれない。

●文明大都会に美がない

ただ逆に文明というものは大都会を見ればわかるようにそこには美はないのである。それだけ経済的に繁栄しても美は無い。その大都会から生まれるのもまた宗教でもカルト宗教のように醜悪なものになる。中国でもそうだが宗教は天台宗から始まっている。
天台宗とは山岳宗教であり天の台で山を聖としてそこで修行したからである。日本だと比叡山がその始まりであり日蓮もそこで学んだのである。山伏とかなると胡散臭いとも見るがやはり山を聖なるものとして修行の場としたから大都会から生まれた今のカルトとは違っている。今のカルト宗教は何か異様なほど御利益にとり付かれたものであり清浄な雰囲気はゼロである。だからなぜそれが宗教なのか全く理解できないのである。ぎらぎらとどぎつい欲望を持った人たちに占拠された場所である。

とにかく一体東京とか大都会に何か価値があるのかとなってしまう。ただ経済的物質的価値はとてつもなく大きいのである
美的観点から見ればその価値はゼロにもなってしまうのである。だからかちとはさまざまであり人によっても価値観は違ってくる。でもどうしても美的観点からすると大都会には自然がないので価値が生まれないのである。
逆説的に田舎でも山村でも何もないとしても自然の中に暮らしているからそれで価値が生まれている。大都会だと自然は消失して人工物に覆われてそこに美は無いのである。だからなぜ人間の作り出した文明のそんなものでしかないというとき何なのだろうとなる。それでもその文明都市をつくり出すは膨大なエネルギーを費やしているからである。

このように大都市化とともに逆に限界集落が多くなりなり消滅してゆく。この辺は原発事故でそうなったのだが全国的にも辺鄙な山村などは消滅してゆく。でもそれはそこにも価値があった。その場所に生きる価値があった。大都会のビルの谷間にうずもれているよりそこに生きている人は一人一人は自然の中で生きているという感覚になっていた。だからそこで生きることは価値あることなのである。それは都会にはない価値がある。
何か村の人が死の時私はこの村の先祖になるというときそれはその場所に生き続けることを望んだからである。その場所に価値あるものとして存在しし続けることはを望んだのである。
その一つが浪江のの津島の岩の墓なのである。それはその村の中に残り先祖として重みを持って存在し続けるということである。都会だったらそんなことはあり得ない。納骨堂の一室を買いそこでお参りする。それは死者の団地のようにも見える。遠く離れて墓地の一区画を買ったものもありもともとその土地とは何の関係もないのである。

でもそうした山村の墓地はそういうものとは違う。村の先祖として生き続ける者として墓地もある。その墓地がなくなったにしろ今度は先祖の霊は山に帰るとして山が先祖の山になるのである。つまり先祖はその村に何でやれ消失してしまうのでなくいち続けるのである。
いずれにしろ一つの村が失われ村が失われることは何を意味しているのか。それはやはり継続された村の価値が失われることになる。それとともに先祖も死んでゆくのである。墓地があっても墓参りする人もなく先祖の霊は容器と化して行くのである。それで確かに都会に移り住んだ人が多い。補償金も多額だからそれもできた。でもそこで失われたものがやはりある。それが今自分が語っていることである。それは精神的なものでもありなかなか自覚できないかもしれない。でも都会に出ていい暮らしをしても何か物足りないものを感じる。それが失われたものなのである。

●人間は失ってみて本当の価値がわかる‐故郷も同じ

ただ私自身がそうは言っても外部から理想化して見ているだけであり現実そこに暮らすことはあまりにも厳しいとなっていた。つまり直接そこに住んで苦しまないのだからただ理想的に見てしまうのである。要するにそこで働き苦しむ人がいるけ絵を描いている人にもなるがにもなる。だからそこにそこに住むことの本当の苦しさを表現できないのである。
ただエゴマを作っているというときやはりそのエゴマが放射性物質に汚染されないで売れるようになればその村の復興の手がかりとなる。農業の場合種を蒔きその種子が実となりなり花となることが希望だからである。でもそこにはすでに老人しかいないということが若い人もいない子供もいないということはもう村を維持できないとなっている。それは全国的に起きていることである。

エゴマの種を植える
エゴマが育ち実り
そこに希望がある
村は継続され先祖もここに安らふ

いずれにしろ心がここにあるというとき確かに補償金で都会で楽な暮らしはできている。でも心はない。その心のある場所はやはり苦しくても貧しくても育ったその村にあったからである。だからその村にともに働き仲間と死ぬのは幸いでありそしてその村の先祖になることが幸いだとなる。都会に出てももはやそういうことはありえないからである。すでに1万くらいの町でも人々のつながりは希薄化して存在感がなくなっている。千人くらいの村だったら人一人の存在感があり一軒一軒ので家でもそうであり自然の中で四季折々に映える。
だから人間は失って見ないとその本当の価値は分からないということでもある。そこが人間の盲点なのである。当たり前にあるものは実は希少なものだったということが失ってみて初めて分かるのである。それは家族も全部死んだ結果私自身も痛切に感じたことだったのである。
啄木がなぜあれほど望郷の詩人となったのかそれをふるさと離れて若くして故郷に帰れず死んだからである。別にそこに住んでいればそんなに感じることはなかったのである。故郷にしてもそれは当たり前にあるものでありその価値はわからない。ただ失った時痛切ににその価値を感じるたのである。

やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに 啄木

つまりそれだけふ故郷の景色が東京の都会の人混みのなかで心に浮かび帰れないふるさとお忍び泣けとごとくにだったのである。
こころは東京にはなかったのである。それまで故郷は忌避するものでもあり脱出する場でもあった。でもそれが痛切な望郷の人なったのはやはり故郷は遠きにありて思うものともなっていたからである毎日住んでいる故郷は平凡なものしか見えないのである。視点を変えれば自然の景観も違うようにその価値もまた変わってくるのである。

●三野混沌の詩の語るもの

ふしぎなコトリらがなく
花が咲いている
どういうものか ひとのうちにゆくものではない
ひろいはたけにいけ
きんぞくのねがいするヤマはたけにいけ
まっしろいはたけへいけ
そこでしぬまでととまれ
あせってはならない
きたひとにははなししろ
それでいい
クサをとりながらつちこにぬれろ
いきもはなもつかなくなれ
これはむずかしいことだが
たれにもできることだ
いちばんむずかしいことをのこしておけ
いちばんむずかしいなかでしね
(三野混沌)

ひろいはたけにいけ
きんぞくのねがいするヤマはたけにいけ
まっしろいはたけへいけ
そこでしぬまでととまれ
あせってはならない
きたひとにははなししろ

そこでしぬまでととまれ

とは畑で仕事しながら死ぬということか、それほどその場所に生きることにこだわっていたのである。というのは農業は土地と不可分に結びついているから一体となるからである
そして最後はその土地の土ともなるのである。そして御先祖様になるのである。農民は土から離れたありえない、土に生き土に死にその場に生きその場に死ぬとなる


三野混沌の土着的生活が現代に問うもの 
(原発事故で故郷まで失ったものへの教訓)


posted by 天華 at 17:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2023年10月29日

NHKの放送-絹江さんと春江さん 浪江町津島をあきらめない 【地理がわからないと何でも実感できないー津島の岩の墓】


NHKの放送-絹江さんと春江さん 浪江町津島をあきらめない

【地理がわからないと何でも実感できないー津島の岩の墓】

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津島にあった岩の墓

●隔絶した孤島のような地域

人間は地理が実感としてわからないからそもそもがその土地について理解し得ないのである。一応地図を見る。でも浪江津島となると街から本当に相当に離れている辺鄙な場所である。私がそこでそこに自転車で浪江からも飯館村からも行っている。どっちにしろその距離が相当にあった。むしろそこは三春に近い場所だったのである。だから私は自転車で行けばその感覚で距離を見る。その津島から三春へさらに葛尾村へと通じている。
津島が1400人いたという、村の人口としては一応維持できる人口だったのか、そこは隔絶した村である。

不思議なのは津島から通じて隣の葛尾村の柏原村がありそこがどうも私の祖父が出た地域のようである。なぜなら戸籍に江戸時代のものが残っていて祖父の名はあったからである。私の父親は双葉の新山の酒屋に勤めていた。そして暖簾分けこの地域に移ってきたのである。
だから意外と何か津島に因縁を感じたのである。それにしてもそこはなぜ浪江町に属しているのかわかりにくい。むしろ三春藩へ
近い、津島は確かに古い場所であっても開拓に戦後開拓に入ってきた人があった。だから苦労したので村の人の連帯感が強いということを語られていた。相当に辺鄙な所だから人々はどうしても助け合わなければ生きていけないような場所だったからだろう。
だから地元に帰りエゴマを育てることを始めた女性がいた
ところが土地を除染した後に砂を入れたので育たなかった
その土地はもともと地味豊かな土地だったのである。だからそこで農業を復活するのは至難である。愛着ある家も壊されてゆく

●フィリピン人や中国人の嫁が農村地帯に入って来ていた時代

もう一つ印象に残っているのが中国人の嫁がこんなとこにいたくないと鉈で襲ってきた事件であった。確かにあのような辺鄙な所だとは思わなかったのだろう。今にしてみると補償金も額が大きいから街で暮らすに充分になっていた。とても津島となると復興自体が無理に思えるからである。確かに中国人の嫁も驚く山中でありそれでその嫁は都会で暮らしたいとして夫を襲ったのである。
この外国人の嫁というのはフィリピン人も多い。相馬市の玉野村で牛を飼っていた人が原発事故で自殺して死んだ。その嫁もまたフィリピン人だったのである。飯館村の大倉村を越えたところの木戸木【ことぎ】もやはりフィリピン人なのか外国人の嫁がいたのである。一時農村の嫁不足でそういう外国人の嫁が結構入ってきた時代があった。だからこんなところにもフィリピン人の妻がいたのかとなる。でもすでに40過ぎている。

とにかく人間社会というのは先が見通せない。福島の原発事故被害は大きかったがもし中国人の嫁がその時そこに住んでいたら大歓迎だとなっていたのである。その嫁のことをどうなったかはあとはは報告はない。もしかしたら補償金をもらって街に住んでいるのかもしれない。
現実問題としてそうした辺鄙な山の村は限界集落化している。だから維持すること自体もすでに難しくなっていたのである。それが原発事故となり消滅してゆくようにも思える。ただ補償金は特別多いからそれで困ることはないかもしれない。

●老人は住み慣れた地域を離れたくない

ただ老人は長く住み慣れた場所離れたくない愛着があるということはわかる。でもそのような場所でも生活は成り立たないだろう。飯館村の木戸木などもそうである。町の方に移り住んだ人も多いだろう。この辺では小高すら原町に移り住んだ人が多い。小高なら買い物でも車で原町にいける。でも津島となるとあまりにも遠すぎるのである。だから村を維持すること自体が難しくなっていたのである。

何か奇妙なのは津島で印象に残ったのは墓地を見てそこに岩の墓があったのである。それが何か重々しく貫禄あるものに見えた。それはその辺鄙な村でも土着した先祖の墓でありそれがその墓を残して岩の墓を残して語っているとなる昔を語っているとなる。つまりそうした小さな村では墓でも村を支えた人たちの者でありその村にとって重みがあるとなる。それはその土地と密着して土着していたためなのである。つまり村が消滅することは先祖も死ぬということである。それも意外と深刻なことになる。
墓は荒れ果て先祖も捨てられるとなる。そしたらその岩の墓も存在感を失うのである。
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2023年10月09日

津波原発事故の前と以後で時代の雰囲気が変わった 【浜街道の小高の古い道標−プログの記録より】


津波原発事故の前と以後で時代の雰囲気が変わった

【浜街道の小高の古い道標−プログの記録より】

roadseaside.jpg


2010年03月21日
浜街道を行くー小高ー浪江の高瀬川-春の俳句十句


人間は時間軸で見るのは本当に難しい。それがわかったのはこの辺では津波原発事故以後法域が雰囲気はまるで変わってしまったからである。これほどまで変わってしまうのかということが人間社会にあるのかと驚くばかりだった。
それは自分のプログを読んでそう思った。浜街道春に旅した。それは2011年が津波と原発事故が起きた一年前の春のことをここに書いていた。そのときは普通の状態でありそこには変わりない風景があり穏やかな春だった。
その小高の風景でありそこには江戸時代から続いたものがあり変わることのない風景だった。だから特別取り立てて何か感想を書くというものでもなかった。でも津波原発事故以後はありふれた風景でも違ったものになってしまったのである。

空間軸では別に空間が変質したということはないのである。でもその雰囲気は違ったものになってしまったのである。小高は原発の避難区域になり町自体がが寂れてしまった。そこは空家だらけであり住んでいるのは老人がほとんどである。
だから原発避難区域になった小高から浪江双葉大熊とかは全く違った雰囲気になってしまったのである。それはもはや元に戻らない前の雰囲気には戻らないとなってしまった。だからその変化はあまりにも大きなものだったのである。他でも津波の被害を直接受けた漁村も消失した。村ごと消失してそこに住んでいる人はいないのである。

南相馬市でも鹿島区となるとからす烏崎村と海老村とか湊村とかは消失してしまった。
だからそこで昔をしのぶということすらできなくなった。その変化辺かもあまりにも大きいものだったのである。
だから津波原発事故以後はその被害を受けた場所はその前と後でわまるで別な世界になってしまったのである。つまり歴史でも時代を見るとき明治以降と戦争に負けた戦後でではまるで違った世界となったと同じである。

要するに人間社会というのは空間軸と時間軸で生きている。でも空間軸というのは地史的なものになれば実際は何億年の単位でみれば空間軸でも変わっている。大陸が移動したとか海が陸地になったとか山になったとかある。なぜヒマラヤにアンモナイトの化石が発見されるのか。それはそもそもヒマラヤですら海だったからそうなのである。だから空間軸でも地史的に見れば何十億とかの間で見れば変わってしまうのである。

ここにヒマラヤのことを解説

●戦後の変化も大きかった

とにかく戦後の時代を見ても時代の雰囲気というのは変わる。戦後の焼け野原から団塊の世代が始まった。その子供の時を経験したの燃料は炭であり街の中で堀で洗濯していたとかまるで原始的な生活だった。街中では私の家には井戸もないから近くの人の井戸の水をくんで利用させてもらっていたのである。
ただその時子供だからその時代全体の雰囲気というのが大人は感じるものとは違っていた。要するに戦後十数年は極端な貧乏でありそれから高度成長時代がありその時代の雰囲気が変わってきたのである。東京オリンピックはあったとき原町の高校まで通うのが蒸気機関車だったということが今でも信じられないのである。その時すでにかなり鉄道でも変化して電気の時代になっていたと思っていたのである。だからその頃の時代の雰囲気というのは年齢でも感じることが違っていた。

高度成長時代の雰囲気というのは東京オリンピックで象徴されているように日本が急速に経済成長してジャパンアズナンバーワンとか世界を席巻する時代であった。その時代の雰囲気も失われた30年でガラッと変わってしまったのである。何かただそれからは日本の悪いことしか言われない。その変化もまた激しかったのである。そしてすでにまた高度成長時代の雰囲気というのも30年も過ぎれば分からなくなってしまうのである。

●時代の雰囲気とかはわからなくなる

だから時間軸で見る時人間社会は時代時代の雰囲気というのはわからなくなる。ましてや江戸時代でも300年続いたとしても例えば元禄時代がありそれは新田開発が各地で行われ経済発展して華やかな時代であった。でもそれをイメージすることはなかなか難しい。元禄時代に文化が花開いたというとき場所はみちのくの旅に出た。それで不朽のの奥の細道を残したのである。

そして芸術というのも必ずその時代を反映したものでありその時代を見ないと芸術も分からないという。でもその時代を見るというのは本当に難しいのであ。それはこの辺で起きた津波原発事故でわかる。この時代に生きたものでそれを経験した人と経験してない人の差はまた大きくなる。その時代の雰囲気というのはわからなくなる。
だからプログを記録するとき後で役に立つことがある。それは時間軸で見れるからである。だから私自身のブログを自分で読み振り返るときそんな感覚で見ていたのかということがわかる。

津波原発事故の前の一年前のことをここに書いていたがやはりそのときは平和な時だった。その感覚も春の日のことでありこの辺は江戸時代からでもその前からでも変わらない風景であった。それが津波原発事故以後避難区域になったところは小高でもまるで違った雰囲気になっている。これほどに変わるものかと驚くばかりである。何か日常的当たり前の風景が消失してしまったのである。だから時代の時代が変わるというときこの辺でわ津波原発事故の前とそれ以後とわでわ全く違ったものとなってしまった。

確かに空間軸で見れば浜街道でも残ってるしそれは変わらないとしても雰囲気というのはまるで変わってしまった。どうしても寂れた淋しいものとなってその雰囲気がまるで違ったものとなったのである。なぜならここで道標のことを書いているがそういうものでもその先に行けば人も住まない空家が残りもともとあった家もなくなっている。だから原発避難区域でわどうしてもそこが雰囲気が変わってしまったのである。

●戻らなくなった津波原発事故前の雰囲気

それはもう取り戻せないものとなっている。町自体が一時は空き家化して廃墟化したからである。ただその隣の原町とかでは別に変わらないのである。その差もまた大きかったのである。別に南相馬の原町とか鹿島とか相馬市か昔の街道を行けば変わらないものがある。でも津波の被害を受けた所はは村自体が消失してしまったからその変化は大きかった。
でも田んぼは元のように回復したでが津波の被害があった所では農家でも村でも消失したのである。その変化の大きかったのは津波だけだったらそれほど出なかった。原発事故があり避難区域となったことが大きく影響したのである。

津波原発事故前の一年前のようにここ書いた昔の街道を浜街を旅してもこんな感覚にはならないからである。
ということでこの時春の日に旅したことの記録が貴重なものとなったのである。今同じ碑がは小高にある。でもその同じ碑を見て旅しても感覚的には全く違ったものになったのである。
何か荒涼とした感じでありその雰囲気はまるで変わってしまったのである。だから時代が変わるということはこういうことである。何かありふれた風景でも全然違った。風景となってしまったのである。そして深刻なのは決して元の風景に戻らないということである。もちろんこれから時代がまた変わりその雰囲気も違ってくるかもしれない。でも今のところそういう感じはないのである。だから時代を分ける時この辺でわ津波原発事故とその前とその以後では変化が激しく別の世界になってしまったのである
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2023年09月03日

原発事故の失敗の原因 (急ぎすぎたことや目前の利を優先した―人間は核を操作できない)

原発事故の失敗の原因

(急ぎすぎたことや目前の利を優先した―人間は核を操作できない)

論語に、「速(すみ)やかなるを欲するなかれ。 小利を見るなかれ、速やかならんと欲すれば、則(すなわ)ち達せず。 小利を見れば、則ち大事成らず。 

●原発は作るのに急ぎすぎたー小利を求め大利を失う

何か事業を始めようとするときすぐに成功する。そしてみんなから成功者として讃えられる。でもそう簡単には何でも事業でも成功はしない。正直自分自身でもそうだった。何かしようとしてもすぐには達成できない。でもみんな自分自身もそうだったが常に目の前の小利を追求する。儲からなければそもそも事業は継続できないからである。人間は大概毎日毎日目の前の小利を追求して生きている。毎日買い物するにしても安い物をいかにして買うとか計算している。そういうことから人間は逃れられないのである

そしてそうした日々の生活の金の計算はしている。それは発達障害の人でも数の計算ができない人まで金の事は知っている。それは日々買い物して数の計算ができなくても金のことはわかっている。だから金にさとい。数の計算ができなくても利益の事は分かり計算している。

でもこのお金の計算で盲点になっていたのはスーパーのカードで買い物していた。そこに1万円をチャージしていたでもそのカードをなくした結果1万円は戻ってこなかった。だから日々それをカードを出して多少の見返りはあるのだが1万円をもらうのにはもうどれだけの時間がかかるかとても一年二年で1万円を回収することはできなくなっていたのである。つまり時々300円かもらうにしてもそれが1万になるまではどれだけの期間が必要なのかとなる。ここで問題になったのは万が一なくした時それがチャージした分が丸損になってしまうということである
つまり安全策が取られていないからそうなったのである。

●安全はコストがかかるから無視した

だから安全というのは意外と大きな問題なのである。人は安全にはあまり金を払いたくない。ただ保険金かあり保険をかける人がいる。それは安全のためにためである。何か大きな災害はあったりするとそれを補うことができなくなる。何か原発事故などはそうであった。安全に金を掛けたくなかったのである。原発というのは相当に安全を図らないと運転できないものだったのである。
だから安全に金を使わなかったのである。科学者集団が十数メートルの津波が来ると警告していたのに東電ではれも聞かなかった。防潮堤を作るようになったのは事故以後であり津波に備えることしなかった。つまりここでもコストを考えて小利を考えて求めて大利を失ったとなるかもしれない。その損失は国家予算並みだったからである。私がカードをなくしても1万の損であった。でも原発はその被害は20兆円もかかるとか国家予算の雨なので。だからいかに原発は安全対策が必要なものだったかわかる。
そこに金を惜しんだ結果その損が莫大なものになったのである。

速(すみ)やかなるを欲するなかれ。 小利を見るなかれ、速やかならんと欲すれば、則(すなわ)ち達せず。 小利を見れば、則ち大事成らず。 

原発はそもそも日本では操作する技術がまだ未熟でありでも早めに原発を作った。湯川秀樹博士は日本ではまだ原発を作るのが早い戒めていたのである。
確かに日本では原発を操作する技術がもっていなかったし技術者もまだ成熟したものとなっていなかった。
そしてアメリカからマークワンという古い原子炉買わされたのである。そこにやはりアメリカがかかわって原発事故の一因になっていた。アメリカだったらそんな古い原子炉は危険だから使わないからである。ただ外国だからそういうことができる。明治維新のときも薩長とかの薩長と幕府との戦いがありその武器がアメリカの南北戦争で使われた古い銃が大量に入って来たからである。
何か後進国はそうして先進国から古いものは在庫整理のように買わされるのである。特に日本はアメリカに負けたからどうしてもアメリカには逆らえない。

だから原発事故の一端もアメリカにもあったかもしれない。でもその責任も絶対に問われないのである。アメリカには誰もが日本は敗戦国で支配されているのだから逆らうことができないからである。
そもそも原発は日本人の日本人の技術でわ操作できないものだったのだから作るのが早すぎたのである。
でも原発は利益が大きいから国でも早く作りたかった。地元でもやはり金になるから積極的に誘致したという経緯がある。つまり人間はその目の前の利を優先して追っている。そこで安全をないがしろにして大事故となり大損となったのである。

●人間は長い先を見て事業でもできない

これは大きなことではあるが個々人でもいろいろそういうことがある。人間は先を長く見れない。目の前の小利に目を奪われて安全をないがしろにして大事もならなかったのである。ただ民間になるとどうしても長い先を見て事業もできない。でも原発は国家が優先して作ったものでありだからそんなに急いだりする必要もなかった。そして安全を図るより安全神話作り安全だということをにして肝心の津波対策しないし安全を図ることをしなかったのである。

それは国家とか強大な権力がそうさせたとも言える。安全神話を作ったのはそうした政府とか官僚とかマスコミとか司法関係でも警察でもかかわり鉄壁の権力で安全神話を作ったのである。それが地震と津波で砕かれてしまったので。つまりそこに奢りがあり急ぎすぎたこともありただ目の前の利に心を奪われたということもありそれで取り返しのつかない事故になってしまったのである。
ともかくこの格言は人間に関してあらゆるところで適応される。
人間は目の前の事に奪われ目の前の利益に追われ長い先のことが見れない。そんなことをしていれば収入がなければ会社も経営できないとなる。
ただやはり国家となると国家百年の計とかはどうしても必要になる。原発はそういうものだったのである。危険なのだから急いで作るものでもないし目の前の利を求めて作るものでもなかった。

ただそういうことは人間には必ず団体でも個々人でももある。人間は常に利に追われそんな先のことを見ることができない。だから備えることもできない。安全を図ることは大事でもそれがすぐ利益にはならない。ただ三陸では何度も津波の被害があったから強固な高い防潮堤を作って被害を免れた町があった。やはりそれだけ津波の被害を経験していたからそうなったのである。
その費用は無駄なようで無駄でわなかったのである。

だからこそ安全を図るのは国家の仕事であり国家百年の計でもって土木工事でもしなければならない。日本は自然災害が多い所だからそれをするのは国家の役割なのである。中国でも常に大きな水害があり治水が国家百年の計となっている。水を治める者は国を治めるとなっていたのである。

●安全を図る国家の責任―国家百年の計

今回の中国の大水害の被害もそうだったからである。ただ中国のように巨大な国家になると先をを長く見る。それがやはり中国という巨大な国家のだからこそ長く見れるともなる。第一万里の長城などを造る計画をすること自体それを作ること自体途方もない時間をかけている。
そういう長い時間で見れるのは中国でもあったとなる。日本はやはり小さな国だから何かそうした長い先を見て計画して作るということがなかなかしにくい国でもある。
いずれにしろしろ原発は一民間会社が運営できるようなものではなかった。それは国家的事業であり国家百年の計のようなものがなければできないものだったのである。でも急ぎすぎたとか安全を図らずに安全神話を作ったりして国民を騙したのである。

その結果として20兆円もの国家予算並みのものを事故の後始末に使わざるを得なくなったのである。それは海も汚染されて処理水でも海に流すから中国からも韓国からも批判される。それほどの事故の影響が巨大だったし時間的にも長期間その後始末にかかる。だからこそ原発はどれだけ安全を図ることが必要だったか今になるとわかる。でもその安全を図ることにコストがかかるとか怠りそれが大事故となってしまってのである。

ただ人間は何か何でも余裕を持って行いない。絶えず何かに急かされる利に追われる。それも老人になればわかるが時間がたちまち飛んで消えてしまうからである。何か事業でも何でもチャンスを逃せば二度とそのチャンスはあるとは限らない。人間のチャンスは一度か二度でありあとは無い。何かゆっくりと構えてもいられないのであ。だから勉強でも絶えず自ら求めてするのではなく受験勉強とかで点数を取るために追われているのである。

会社を起こしてもまず利益だとなりそのためにどうしても不正なこともしたり弱められるのである。とても悠長に構えて事業もできないからである。だから高齢化の悪い面も多いのだが長い目で見て生きるという事にはいいともなる。もう60くらいで死ぬとなればやはり時間がないのだから何もできずに終わってしまうともなるからである。 60から90までも生きるとしたらまた30年もあれば先が長いとなり人間のなすことはそれで急ぐ必要もないとなってるのである。

●原発は核は人間の能力で操作できないから廃止するべき

事実私は60過ぎてからでも自分のしてきたことを旅にしてもその経験を書いていることでもわかる。何かを理解すること自体人間は時間がかかりすぎるのである。世界を理解するにしても実際に旅をしたりその後にいろいろ学ばないと世界など理解しようがないからである。でも人生200年になったらどうなるのか。世界をくまなく旅をしたりさまざまな経験をして知識を広めて理解が深ま。だから人生百年でも200年にでもなったら先を急ぐことはないとなる。だから長生きは必ずしもみんな悪いとはならないのである。人間はそれだけ成長するにも何か一つのことを理解するにも時間がかかるのである。

それより何かしようとしたら時間がなく人生が終わっていた

中小企業白書によると、 起業後の生存率は1年後で95.3%、3年後には88.1%、5年後には81.7% という結果が出ています

なぜそうなるのか、それだけ時間が限られていて事業でも簡単に成功しないのである。そして失敗したらまたやりなおす時間もないのである。ただ知的な研究などは積み重ねれば実りがある。でもそれでもそのことで収入があるうとはならないのである。
結局人間の成すことは時間が限られているためにやれることはわずかだとなる。要するに人間は時間切れで終わりになるということである。

だから原発にしても作るのは急ぎすぎた。それだけの日本には原発を作る技術もなかった。何か日本は特別技術にすぐれているということで安全神話が作られた。それは技術の未熟さを隠すためのものであり実質は簡単なことでも安全策とっていなかったのである。その理由は金がかかるからそうして頂けなのである。
何か安全神話というのは宗教のようになっていてただ唱えていれば安全だとなっていたのである。宗教の問題はただ仏に神に祈りは何でも叶えてやれる。そこであらゆる欲望が欲望を叶えてくれる。それが今のカルト宗教である。

だから東電が原発事故を起こした時あれはオウムだと言ったのも分かる。まさに安全神話では神話は宗教化していたからである。つまりオウムとわかると宗教であり今の宗教団体というのはほとんどカルトである。そこではあらゆる欲望が叶えられるとしてあれだけの人数が集まっているのである。
だからオームは科学を重視して科学者となる卵がそこに集まったのである。幸福の科学というのもまさに科学を重視しているからそうなる。創価でもやはりそこに医者などがいるとかえって信用される。
つまり現代とは科学が宗教となっているのである。そしてこの科学というのは人間の欲望なんでもかなえてくれるという幻想に陥っている。つまり科学は万能だという幻想に陥っているのである。だからあらゆる病気が治り人間は死ななくなるというまで言う人がいる。それはまさに人間が神の代わりに万能の力を持つということになる。でも人間には限界がありその限界があらわれたのは原発事故でもあった。

そもそも原発というのは人間の能力を超えたものとしてありまた原発は核のごみというか放射性物質というのは自然界にないものを作り出す。そのことは以下に危険なことだったか科学者はもっと考えるべきだった。それを考えていた科学者はいた。でもなぜか原発というのはそうして危険なのにやめられないのか。それは核兵器を持つために必要だからやめられないという人もいる。
でも原発というのは自然界にない物をプルトニウムのように2万年も消えないとかそういう危険なものでありそれを消す技術もなかったのである。処理水を海に放出したがそれは安全だと言っても信じられないのである。
だからそもそも世界でも原発を作るということは禁止すべきだともなる。それを操作する能力が人間には無いからである。そして放射性物質を自然界にはない物質を出すという毒を出すということが解決していないからである。そこに人間の能力の限界がある。それが大きな災いとなって人類が滅びるということもあり。つまり核というのは廃棄しなければならないものであり人間の能力でわ操作できないものだからである。



posted by 天華 at 11:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2023年08月26日

処理水は安全なのかー 科学的公正さが追求されない (政治的経済的利権思惑が真実を歪める)


処理水は安全なのかー 科学的公正さが追求されない

(政治的経済的利権思惑が真実を歪める)


福島第一原発の処理水に関して難癖をつけているバカが多すぎるので解説します ホリエモン
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科学的公正さが追求されない

なぜ中国が日本の海産物の輸入を禁止したのか。それは放射性物質に汚染されているからという。でもこれも政治的思惑があり必ずしも科学的公正さを追求したものではない。ましてや韓国だとさらに政治的思惑があり日本を糾弾しようとする。だから科学的公正さより政治的思惑に働きそれによって左右される
つまり右と左に分かれて極端に右は安全だといい左は危険だとして追求する。その幅が大きいのである。それでさらに真実が見えなくなるのである。科学の時代になれば科学的に証明されればそれに反対することはできない。でもそこに政治的経済的な物が思惑が利権が働き科学的公正な真実は見えなくなる。

ここで穢れのことを言っているのもそうである。ケガレの思想というのは日本にあり一旦穢れたものは拒否される。それは別に科学的なものではない。いくら科学の時代でもその科学がどういうものか理解しにくい。だからそこに政治的経済的な思惑やさまざまなものの見方が生まれてくる。科学的なものだけを追求すればそれは理系なのかもしれない。一方で政治的経済的社会的思惑から見るのは文系なのであ。

何か原発事故でもコロナウイルスでもこの二つの問題が共通してあった。ウイルス学者がいてそれは極端なことを言って社会を混乱させた。一方で政治的社会的経済的からの発言があり社会を維持すること大事だということでコロナウイルスについて騒ぎすぎると言うことを学者が言っていた。ここにもやはり理系と文系の対立があるのかもしれない。

●政府でお東電でも安全神話を作りそれで信用できなくなった

もしただ科学的公正さを追求するならば問題は無い。でもそれは専門的知識がない人はなかなか判断しにくい。そしてなぜ原発に関しては政府のいうことでも東電の言うことでも信じられなくなったのかそれは科学的には正しいとしてもこれまでの政府や東電が嘘をついてきたことがあり信じられなくなったのである

権力で安全神話を強固に作りそれがあたかも完璧に安全だとして国民を騙した。そのことからして政府と東電が信用できなくなったのである。科学的公正でも信用できなくなってしまったのである。御用学者も嘘をついていたしさまざまな隠蔽もあった。
なぜそれほど隠蔽しなければならなかったのか。それは何かやましいことがあり隠すことがあり表に出さないようにしたのである。モニタリングポストでも大成建設だったかその下を下の土を削り放射線量低く見せたのでその周りを実際私が測ったら倍以上あったのである。
このようなことを政府と東電は原発に関しては常にしてきたのである。科学的に安全だというならすべての人に公開して御用学者だけではない審査させれば良かったのである
何かそうして隠蔽したりごまかすということは不都合なことを隠すということで原発に関しては信じられなくなったのでそこにこそ一番の問題があったのである。

いくら科学的に安全だと言っても処理水にしても確かに安全だとしても今までの経過があり信じられなくなったのである。そして危険でも政府と東電は無視してきたのでただ安全神話を言うだけだったのでは。ケガレの思想というけどもそもそも安全神話自体が科学的に追求されたものではなく虚構のものだったのである。本当だからこそ数値十数メートルの津波が来るという科学者集団は警告したのにそれも無視して防潮堤もも作らなかった。それは経済的思惑がありコストがかかるから作らなかったのである。

そしてただ安全安全だと安全神話の宗教のようなものになっていたのが原発だったのである。そしてこの原発というのは事故後で分かったようにその処理にしても20兆円もかかるとか信じられない国の金が使われたのである。そのためにこの金をめぐって利権化したのである。暴力団も参入して(おいしい)といっていたのはそのためである。利権とはおいしいものなのである。

●利権化した原発

だから再三私が指摘したように漁業組合があったとしてもそれが巨大な利権かしたものであり漁業者は事故の前にも特に船主は多額の保証金もらい原発御殿を建てたいたとか言われた。また大熊町長の金庫が津波に流されてその中に5億円が入っていたとかに噂にもなった。
その金の大きさが原発にはありその金に群がる人たちが存在した。天下りした官僚たちもそうだった。検事でも警察関係者でも海上自衛隊とかでも天下りしていたのである。その人たちはその金をもらっても責任も取らないし罰せられることもなかったのである

そのことはコロナウイルスでも同じだったのである。尾身会長とかは専門家として指導していたがその経営する病院はコロナウイルスで大儲けしたとされる。他でもコロナウイルスがウィルスは利権となりやはりここ原発と同じように飲食店でも旅行関係会社でも保証金がばらまかれてそれでやはり高級車を買ったとか言われる。それはこの辺と本当に同じだったので補償金の額が大きいので高級車を買った人が多かったのである。そこそこで不正に保証金をもらった人がいて裁判にもなった。
原発もその利権が莫大なものだったのでだからそれで得した人も相当にいる。もちろん被害もあったが損失もあったな例えば小高などは避難区域になり被害が大きかった。でも津波の被害に対しては原発の補償金は出ない。でも小高区に住んでいればその保証金は大きいものだったのでそれで助かったという人もいる。

変なのは今回の処理水放出にしても漁業者が騒ぐ時それは補償金をまたもらいたいためにそう言っているのかともみてしまう。危険だ危険だと言えば補償しろ補償しろとなりまた金が入ってくる。
ただその金は漁業関係者だけでありそこに住んでいる住民は関係ないのである。ただ30キロ圏外に住んでいる私の町でも一人16万もらいそれは少ないにしてもその金でもらえるからと金を貸してくれという人がいるのである。
こうして原発に関しては常に金が問題になる。その金が国家から出るから巨額なものとなっていたのである。でもそれをもらえない人は不満になる。それは国民の税金だからである。なぜあの人たちだけがあんなに金のもらえるだろうとなってしまったのである。南相馬市にしても小高はけた外れに多く鹿島区は補償が少なかった。それより相馬市とかなるとその額は余りにも少なかった。だからそこに不満が生まれたのである。

●政治とは利権であり利益の分配ー宗教団も利権団体

何か政治というのは基本的にこうして利権から成り立っている。その利権の公平な金の分配が望まれる。選挙だって結局はさまざまな利権団体が利権を得えようとして運動するわけである
それが政治なのかもしれない。宗教団体があったとしてもそれまた利権団体なのである。明治時代に廃仏毀釈が行われたのは江戸時代に寺は政府から優遇されたということで神道派はその寺に復讐したのだという。
なぜなら明治になった時天皇は復興して天皇中心の国家にもなったからである。その天皇の下に日本全国さまざまな神社ありそれが天皇と結びつくからである。

確かに寺というのは江戸時代は役所のようになっていたからである。政府の一機関のようにもなっていたのである。寺には今に置き換えると戸籍のようなものでも管理してたからである。
天皇は復興して神道派がはがこれまで不遇であったことに対して廃仏毀釈が行われた。仏像なども壊されたのである。宗教というのもこうして利権とは関係ないようで深く利権と結びついている。宗教団体が政治に関わり利権団体とかしたのはその代表は創価である。その会員の数が多いからその一大政治勢力となり利権を追求するのである。本来の宗教など何の関係もないのである。宗教を利用した利権団体なのである

それはほかのカルト宗教団体でも同じなのである。人間はそもそも金から離れてありえないように利権から離れてもありえないのである。それは外国でも宗教の争いがあるとき利権の争いもある。カトリックとプロテスタントが争い社会的にカトリックが優遇されているところで争ってもいたからである。イスラム教でも宗派がありどうしで争うそれはやはり様々な団体があって利権化してるからだともなる。

とにかくこの世の利権を得れば苦労せずとも金が入ってくる。官僚でも利権だとな公務員でもそうである私の親は公務員だったから公務員が得するということを知っているのである。
ただそれだけではないさまざまな利権がある郵貯なども利権があったし農協でもそうだし銀行も何か利権を持っている。これまではそういうところに勤めていれば田舎では安泰だったのである。ただ最近日本自体が貧困化してそうした特権階級は苦しくなりつつある。ただ政治はそうした様々な利権があり金を分配する。偏りがあると常に反対されるのである。つまり政治とは利権であり利権の奪い合いだともなる。戦国時代になればまさに土地をめぐってとか利権の争いでありそれは殺し合いになったのである

だから処理水が安全だという時科学的に本当に安全なのかもしれない。でもそうなると政府を責められないから安全でないと右寄りであれ左寄りであれそこに所属する者がいうのかもしれない。つまり学者でも科学的な公正を追求していても政治的経済的思惑でその真実を示さないのである。だから安全でないというときそれもまた政治的経済的思惑があるかもしれない。特に漁業者関係はそうであり既にそういうふうにして多額の保証金をもらっているからである。危険だという時保証金をもっともらうために言ってっているのかとかで見てしまう。
実際の漁業は零細であり補償金の額が大きいので別にだから保証金をもらえば魚など取らなくても充分に豊かに暮らしていけるのである。だから安全でないというと保証金がまたもらえるからいいとなってしまうのである。でも全国規模になれ補償金をはらうにしてもできない、福島県の漁業者にはらわれても全国となると払えないとなる。でも処理水は海は広いのだから広く流れてゆく、だから一地域の問題として処理すべきではなかったのである。

posted by 天華 at 15:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2023年08月24日

処理水放出は安全なのかー東京の為に犠牲になる地方 東京が災いを生むー膨大な電気を消費する東京



処理水放出は安全なのかー東京の為に犠牲になる地方

東京が災いを生むー膨大な電気を消費する東京

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●六ヶ所村は年収1300万円

あなたは年収が1300万円もらえるなら、原発の町に住みますか?
六ヶ所村の1人あたり平均所得1363万円
青森県は、「市町村民経済計算」結果を発表し、1人当たりの市町村民所得が
県内で最も高いのは、六ヶ所村で1363万円6000円だった。5年連続1位。

でも、事故が起きれば半径何十キロもの地域に影響がでるのに、原発の恩恵を受けられるのはほぼその周辺の方だけでしょ?
おかしな話だよねぇ〜。
そりゃ〜原発推進派住民を妬む気持ちがわかるよ。。

処理水というとき放射性物質が薄められて安全だという感覚になる。でもそこにまた言葉による印象操作がある。いくら処理しても本質的には放射性物質は消えないし薄めるないと言う
つまり放射性物質のやっかいなのは核のゴミのの厄介なのは簡単には消えないということである。プルトニウムなら2万年も消えないと言われそれだけ簡単に消せないのは核のごみであり放射性物質なので核の恐ろしさがある。
そして膨大な核のごみの処理するために中間貯蔵施設が各地に作られる。青森の六ヶ所村ではすでに作られてすでに処理がなされているのがなされているがそれもうまくいっていないという
だからこの核のゴミをいかに処理するかということは原発ではまた大問題なのである。そのために中間貯蔵施設とか北海道でも山口県でも上関とか辺鄙な村にその施設をつくる。そこで驚いたのは六ヶ所村だと年収が1300万にもなっている。これはすごいと思った。原発というのはこうして辺鄙な村に立てたり中間貯蔵貯蔵施設でも作る。

なぜかというとそうした村は貧乏でありどうしても金が欲しい。その金によっていろいろあっても政府の言うとうりになり受け入れるのである。それは福島原発がそうして作られたからである。双葉富岡とかは浜通りでもチベットとか言われていた。いわき市とか原町市とは人口も多いし会社もあったし働き口があった。
でも双葉とか大熊とかは離れていて大きな会社もなかった。そのために出稼ぎで生計を立てる人は多く地元で働きたいということで原発を受け入れたのである。原発を建てようとする政府はそれを狙って金をばらまいて買収するのである。

現代では政府であれ大企業であれ小さな自治体など簡単に買収できるのである。そこの住民でも自治体も金で買われてしまうのである。つまり自治体はそうした政府であれ大企業に対抗できないのである。そして六ヶ所村のように年収1300万にもなっているのでそういう村はもう村という自治体が中間処理貯蔵施設の雇われていると同じである。
そうなればもはや何も危険でも文句も言えないのであ。なぜならそうしなければ生活すらできなくなるからである。その弱みを知っているからそういう辺鄙な貧しいところに原発を建てたり中間貯蔵施設を作るのである。
実際にこの辺で最低の生活をしている人は原発裁判で勝利してその補償金が16万でも入ってくることが大きいのである。その時住んでいて死んだ人が親族であればその分も入ってくる。それを担保にして金を貸してくれと言われたからであるこうして苦しい生活をしている人はどうしても原発の安全性より金になってしまうのである。

●村の共同性は消失していた、漁業者も大工も百姓だった

もう一つは現在の村と言ってもそれは一つの共同体というものでもない。例えば百姓というとき漁業する人も百姓だったという。つまり漁業者と農民は別なものではなかったのである。でも漁業者は原発を建てるに際して特別補償金を事故前事故前ももらって原発御殿が建てられていた。それはなぜなのかというと生活が分離してきたからだと思う。村に入会権の山があり共同で利用する生活があった。
でも明治以降は山でも無数に所有権が個人に分割されてしまったのである。そのように漁業者もまたもともとは百姓だったのだが漁業専門者となってその利権を独り占めしようともしたのである。つまり自治体が一つとなって原発に反対するなどできなかった。そういう村の基盤がなくなっていたからである。
明治以降の社会はこうしてやはり一体感がなくなり専門家となりここに分断されてきた社会である。だから自治体というものすら実際はそこで自治などもなかったのである

現代社会の問題はこうして一つの共同体として機能しない。だから本来は百姓というとき農民だけのことではなかった。そこにいろいろな職業の人もいてその人たちが百姓であり村を作っていたのである。それがバラバラにされたとき漁業者は漁業者だけの利益を追求する。原発でも補償金をもらえばいいとしかなくなる。その村内での議論もないし村全体で何か働きかけるということもなくなったのである。

でも巧妙なのは原発を建てる政府でも東電でも人口が多くなればその保証する範囲も大きくなる。
だから一部の者に補償して全部にはしないのである。一番いいのは人口の少ない辺鄙な村に原発を建てまた中間貯蔵施設を作ることなのである。。でもそうした核のごみの問題でも一地域の問題としてあるのではなくもしそこに何かあれば世界にも拡散されるそして世界から批判され責められることにもなる。だから一地域で金になればいいということで受け入れることに問題があるのであるなぜならもし事故があれば世界的な問題となり中国でも韓国でも海産物を輸入しないとなったからである。

現在の問題はこうして社会自体が部分化したり専門家したり分かれて統一がとれなくなる。ところが自治体というときそれはどういうものなのか。自治体とはやはりミクロコスモスであれ自然と密接に結びついて作られている。自治体とは本当は生態系と結びついていてそれなくしては存在し得ないものである。だからこそ放射性物質で空気であれ水であれ気すら土手あれ木であれそこにその自治体を形成する基本的なものが放射性物質に汚染された時住民が進めなくなったのである。これほど深刻なことはなかった。確かに飢饉で相馬藩でも住めなくなり1/3二人口が減った
でも越中からのの移民で埋め合わせて回復したのである。。それも深刻だがそれでもそれができたのは別に土地が汚染されていなかったからである。越中などの移民で埋め合わせて回復したのである。土地がありその土地を開墾して住むことが出来たのである。それができたのは生態系に基づいた基盤があったからである。土地自体が汚染されたら回復できないからである。

●東京など大都市の影響が大きく災いが地方に及ぶ

ただ現代というのは大都会を見ればわかるわ生態系から分離して生態系とは関係なく暮らしているようにも見える。でもその水がどこから来ているのか。それで東京の水が実際は群馬県などの山のダムから来ている。一時そのダムでも放射性物質に汚染されたとして危険ともされたのである。
だからそもそも人間社会というのは生態系から離れて生活できないのである。空気でも水でも土でも汚染されたら住めなくなるのである。だからこそ原発であれその核廃棄物であれ危険なので東京であれ都会に住んでいる人はそれほど自覚しない。でも生態系から離れて人間は生きていけないので。それは都会でも同じなのである。なぜなら空気であれ水で土であれ木であれ汚染されたら食料自体が都会に入って行かない。汚染放射性物質に汚染されたら食べることもできなくなるのであるか。

ただそういったは言っても東京を見ればわかる。1000万のとか都会で夜まで煌々と明るくして電気を使っている。その電気の量は膨大なのである。
そのためにどうしても原発が必要になってくる。別にすべての科学技術が悪いというものではない。ソーラーパネルでも何か小型だと電池も必要ないから防犯用として使ったらいいものだと思った。

だから原子炉でも小型原子炉にして使えば事故があっても対して被害にならないからいいとなる。ただそれにしても東京見ればわかる膨大な電気が必要なのである。ということは東京自体が1000万もの人間が住んでいるということが問題なのでその消費する電力が膨大なものだからであるとなると大都会自体が人間社会にとって危険なものだとまでなるなる。

東京の影響はその周辺でも福島県でも大きいものだったのでそれだけの人口を抱えていれば流通もあり影響は大きい。そもそも東京が人口が増えると常磐炭田があり石炭を燃料として東京に鉄道で運んだ。それが常磐線の始まりだった。南相馬市の原町機関区やはり木材や石材や物資をを東京に送るために作られた。それだけ東京の影響は前から大きいものだったのである。

意外と東京は離れているからそんなに交流がないように見えても大正時代からでも結構交流があった。大正以後になるとさらにあった。私の母は東京に女中に出た。そこで東京の人と結婚したからである。また姉は看護婦の資格をとるために東京に出ていたのである。このように東京というのはやはり中心的役割を果たしていたからそうなっていたのである。
だから東京に出る人は戦前でも結構多かったのである。そうしてあまりにも肥大化したのは東京でありその東京がやはり災いを作り出したのである。原発はその一つでもあった。その電気を消費するような莫大だからである。

でも東京でも別に東京湾あたりに原発を作ればいいのだが危険だから離れた場所に作ったのである。東京湾だと実際は津波でも弱められるから意外と安全だったかもしれない。
でも東京には絶対に作れなかった。それは東京が日本の中心であり政治の中心でもあるから経済でもそうでありその安全を図るために離れた場所に作ったのである。そして東京都の1000万以上の大都会はその電気の消費する量は莫大なのである。そこに何か元凶があったのかもしれない。

もし電気は来ないとしたら今年のような酷暑ではもうクーラーがなかったら耐えられないとなってたからである相当に死者数も出たかもしれないからである。それだけ電気が膨大に必要なのである。そのこと自体が既に大問題なのである。つまり東京は実は災いを作り出すものとなっているのである。そんな巨大な都市があること自体が問題なのである。
つまり現代とは電気社会なのである。電気が止まってしまうと社会活動まで止まってしまうのである。

中間貯蔵施設にしてもそれは安全なものにはなっていなかった。その処理には失敗していたのである。処理水でも実際は放射性物質は消すことはできない処理したから安全だということでもなかった。何か原発に関してはごまかしがある。素人でわそれを実際に知りえないからである。だからこそ隠蔽が続けられていたのである。もし早い時期にその隠蔽されたことを暴いていれば原発事故もおこらなかったかもしれない。たとえ地震が来て津波が来ても守られたかもしれない。でも学者たちが13mの津波が来ると警告したときも全く無視ししていたのである。それは金がかかるからしたくないからそうしたのである。

そして一番力を注いだのは安全神話を作り政治であり官僚であれ検事であれ海上保安庁であれ自衛隊であれ警察関係であれそういう権力の総体で安全神話が強固に作られたのである。マスコミも莫大な宣伝費をもらっているから何も言うこともなかったのである。
それを崩したのは津波であれ地震であったのである。何か中国でも北京を守るためにダムの水は放流されたやめにほかの都市が洪水の被害にあった。それもまた原発事故と似ていた。原発は別に東京湾に作ってもいいものだったが東京わには絶対作れないのである。そこには政府の要人やら経済の中心地だから北京と同じく守らればならないとなっているからである。それでほかの都市は犠牲になっても仕方がないということになる。

何か原発でも巨大であり都市でもでも1000万以上とかなり巨大になりすぎて問題を生んでいる。それだけの人口養うということがそれ自体が問題なのでそのために莫大な電気が必要となってくる。そのためには原発も必要だとなる。だから大都市というのはとても自然と調和するものでないしそこから大破綻が産まれてくる。それで東京に大地震が来て破滅的大災害が来ると警告するか科学者がいる。それは単なる脅しではないのである。だから東京脱出を真剣に考える必要がある。危険な場所に住んであること自体リスクだった。それは津波でも証明されたからである。
東京のような人口密集地帯で地震と大災害が起きたらもう大破局となりもう救済も不可能になってしまう。唯一助かるとしたら危険な場所から脱出することだとなる。
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2023年08月22日

処理水が安全なのか信用できない (これまでも政府は嘘つき安全神話作って来たから)


処理水が安全なのか信用できない

(これまでも政府は嘘つき安全神話作って来たから)

処理水問題でなぜ安全だから海に流しても汚染は微量であり影響はないとしている。それを国際機関が認めた。お墨付きを与えた。でもそれが本当に信用できるかどうかはまたわからない。そしてトリチウムでも流してそれがどういう風な影響をするのか実際のところは不明である。

放射能放射性物質の問題の難しさはそれが目に見えないものであり匂いも色もない。それでそれはどのように影響しているしてくるのかも具体的に見えないのである。何かそのためにすぐに死ぬわけではないからである。
ただ内部被曝したとき放射線が長い間十年後細胞で放射線を発し続けたらそれがガンにもなるという。でも十年先となるとそもそもガスになったとしても果たしてそれが放射線被ばくの影響なのかどうかもよく分からなくなる。
だから放射線被害というのは隠蔽されやすいのである。そのために人がすぐに死んだり何か症状はすぐに出たりしないからである。だからそもそも原発というのはこうして隠蔽されやすいものだったのである。だからこそ安全神話が権力によって作られてきたのである。

それは放射線というのはどういうものかわからないし余計にそれで隠蔽されやすいものになったいたのである。
だから御用学者でも使い説明すれば誰もそれに反対もできないということもあった。この隠蔽というものが大きな問題だったのでそれは常に加治将一氏が指摘していることである。

例えばモニタリングポストをいたるところに設置したのその放射線量は少なくなっていた。なぜならその下の土を掘って少なくしたからである。私はその周りを測ってみたら倍の放射線量があった。そのことを飯館村の人も指摘した。0.7マイクロシーベルトでモニタリングポストに出ていてもその周りはその倍以上あったのである。別に科学に疎くてもそれはただ放射線量を測る機械でそれが出てくるのだから確かなのである。それを担ったのは大成建設とかでもあった。政府からの指示で大成建設をそうしたのかもしれない。大成建設自体が自らの判断でするとも思えないからだ。

このように科学的に正確なことでも歪められ。それは政府の指示で行われているのでありだからこそ大成建設でもその指示に従うほかないとなっていたのかもしれない。このように政府というのも必ずしも信頼できるものでもないのであ政府自体が何か重要なことを隠蔽しているのである。隠蔽する力がまた政府にはあるということである。だから科学的なことでもそれが正確に示されるわけでもない。そこに政府の権力の指示があり判断があり科学的のなものも歪められる。
特に原発とかは放射性物質とかはその汚染とかは分かりにくいから余計に隠蔽されるのにはいいものだったのである。その隠蔽されることから原発事故にもなったのである。

だから政府の言ってることは信用できなくなっているのである。政府にとってはどうしても放射線の被害を少なく見積もる。なぜならもし高いとしてもそれを世界に向けて発表すれば汚染水を流せなくなる。特に中国が批判しているしすでに日本の海産物の輸入を止めているからである。
ただこれも中国が日本に対して政治的圧力をかけて必ずしも科学的なものを正確に判断している訳でもないらしい。そもそも誰が正確にそれを判断して決められるのか?国際原子力機関(IAEA)の国際機関でもそれも政治的場であり必ずしも中立的な科学的科学による判断ともならないのである。

ともかく人間個人でもそうだが一旦信用を失うとそのそれを回復させることは困難になる。一回でも嘘をつくとまた嘘ついているなと見てしまう。そういうことが原発にはありすぎたのである。それは放射性物質の汚染とかが分かりにくいからである。その被害でも明確に示されないからである。だからこそごまかしやすいのである。モニタリングポストの放射線量倍以上にあるのに減らしたということはそのことそのそのこと自体が不正でありもんモラル的問題があった。それは科学以前の問題だったのである。
でも放射線量というのはこの辺で経験しているわ0.5マイクロシーベルトからその倍以上になると何か大きなものと感じていたのである。だからこそそこに住んでいる人にとっては放射性汚染というときその数字からしか判断しようがないからこだわることにもなる。その放射線量は計測器で計れた。だから化学に疎くてもその数字を見れば一目瞭然だったともなる。だからこそその数字をごまかしたのである。

だから今回のを処理水の放出にしてもごまかして海に流しているのかもしれない。処理水にしたのだから安全だということは言う。でもそれを信用できるのかとなるとこれまでの経過を見ると政府自体がモニタリングポストでもごまかして放射線量が高くても下の土を掘って低くしていたのである。
だからまた今回も信じられなくなるのである。原発事故はこうしてさまざまな隠蔽がありでもその隠蔽いんぺいされてもわかりにくいものだから効果的だったのである。だからこそ安全神話が作りやすかったのである。この世の中科学技術の世界になってもすべてが科学技術中心に動くわけではない。そこには政治的作用があり科学とは関係ないものとして働く。それが人間の社会だということである。そのために今回の処理水の海に放出する事に対してもどうしても今までの経過を見ると信じられないとなるのである。

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2023年08月20日

放射性物質を海に流す問題 (漁業者は多額の補償金を事故前にもらったことで責任が問われた)


放射性物質を海に流す問題

(漁業者は多額の補償金を事故前にもらったことで責任が問われた)

石巻市寄磯浜では、原発事故後に多くの漁師が海を去りました。当時も補償はあったものの、出荷できない時期が続いて販路を失い漁業への意欲を無くした漁師もいました。
 遠藤さんは、補償があっても風評被害が続けば漁業は衰退するとして、国には消費者が安心して水産物を食べられる体制をつくってほしいと訴えます。

処理水放出迫る 「補償が出ても…漁師の思い」

これは石巻こうのことである。原発事故の汚染は福島県だけではない韓国とか中国まで日本の原発事故で汚染水を流すなど批判されている。だから原発というのを一地域の問題として処理してきたのは間違っていたのである。環境問題は国地球全体に関係しているから世界の問題となったのである。世界に対して責任があるということである。現在は何でもグローバル化しているから一国だけが勝手な事など出来ないのである。

だから日本全体の漁業者の全漁連を相手にして東電がその許可を得ようとしているのである。それは一地域の問題として処理できないものだったのである。でも補償金となると事故前もこの辺の漁業者は舟主は特別補償金が多くて貰って原発御殿が建ったとたとか言われたのである。今その責任が問われているのである。
なぜなら福島県だけが補償金をもらってほかの人たちはもらっていないと思うからである。多少は貰ったかもしれないなそれも少ないだろう。
だからもともと原発というのは汚染は広範囲にであり事故を起こし汚染したら影響する。ということは福島県の地域だけで許可できるものでもなかった。それが今現実化しているのである。何かこの辺で起きたことは金というのはただもらえばいいとしか考えなかったがそれが意外と怖いことでもあった。
現在では何が責任かというともう特別な地位にある人だけでなく金をもえあえばそれが責任となる。なんでもいいから金になればいい金をもらえばいいそれが実際は金が責任となっていたのである。

なぜ漁業者が今になって責められるのかのそれは金をもらったからである。それは事故前からも多額の金をもらっている。それであなたたちは許可したのだから何があっても文句は言えない。
だから原発を作るときそれは世界の問題のであり環境に影響するのだから原発自体を一国とか一地域とかで処理するものではなかった。ただ事故後にその金の責任を自覚されさせられたのである。
原発を建てるに対して大きま範囲で検討する必要があった。現実に石巻まで影響したのだから福島県の浜通りだけではない宮城県の漁業者もその是非を問うべきだったのである。
そして福島県の浜通りの漁獲高などは宮城県に比べると1/10ぐらいだったのである。だから零細業者であるそんなに収入はなかったのでだからこそ東電が出す補償金が魅力となったのである。
そして風評被害は続く、安全だと言っても本当なのかとなる。放射線の問題は目にも見えないからわかりぬくいのである。
近くの井戸の水は調べてもらったから安全だというから飲んでいる。それでも不安になるからである。

確かなことはもし事故前に補償金をもらっていなければ問題なかったかもしれない。事故後にもらっても批判することはない。事故後だとみんなもらっているからである。ただ問題は事故前に多額の補償金をもらってたということだったのである。
それだけもらっていたのは福島県の漁業者だけだったろう。だから汚染水を流すなという時あなたたちは既に事故前も金を貰っているのだからそれが言えるのかとなる。
つまり現在は金が責任になるのである。ドラマでは金をもらったからと殺人までした人はいる。その金をもらったことで人を殺すことになった。別に殺さなくてもよかったのだがやはり金をもらったことで責任となっているからそうしたのである。


とにかく何であれ金を巡って人間は争いがありそれだけ金が物言う社会だからである。でも金に関してはなんでもいいから金をもらえばいいとなっている。お金がくれるからそれを断る人は居ない。それがどんな金であれもらえばいいとなる。。それがたとえ盗んだ金でもそうである。もしかしたらその時誰かを殺しているかもしれない。そうしていた金をももらう時怖いことになる。その金は呪われた金でありそれをもらったとしてもやはり呪われるかもしれない。
だから金と言うのは何でももらえばいいとはならないのである。この世の問題は金を巡って争いがありでも金というのは責任が伴っていて怖いものなのである
でも常に不正があり金を得ることが優先される。それは銀行でもそうだし自動車は会社でも修理会社でも不正して保険金をだまし取っていた。つまり何でも金になればいいということがそういう問題を引き起こすのである。それはあまりにも金の魅力が大きすぎるのであ。例えばあなたに百万でもやれくれると言ったらもらっても構わないとなる。その金の出所が何であれもらうことになるのであるそこに危険がある。

ただ正直あまりにも金の力が強くなりすぎたのであ。この辺では最底辺の暮らしをしている人が常に金に困っている人が補償金は一応16万もらいる。その日暮らしをしている人にとってはそのお金は大きなものなのである。また原発事故があってから親でも死んだ場合その補償金ももらえるのである。となると32万円ももらえるから結構大きなものとなる。
だからその金はもらえるからと金を貸してくれとなったのである。こうして人間を金を巡って日々生活している。でも金には責任がつきまとっていたのである。
現在は平等社会であり必ずしも昔の侍のように責任を負うということはない何が責任かとなったとしたら金なのである
だから今回も漁業者が事故に金をもらったということで非難されることになったのである。別に事故後にもらっていたらそれは高くなっても文句を言う人はそんなにいないだろうそれだけの被害があったのだから当然だとなる。それを事故前に手付金として多額の補償金を貰ったことが問題なのである
そのことは事故があっても何も言わないでくださいということでで金が支払われたのである

だからその金が問題になったのであだから金がもらえるからといって何でもしていいのかとなるとならない。その金についての責任が問われるのである。おそらく自分自身もそうだった。遺産が入ったとしてもそれは自分だけの金ではなかった。親は公務員であれ特別恵まれて入ってきた金なのである。そのために大金を盗まれたとか金を巡って金を得たいために介護に苦しんでいる時そんな人しか来なかった。それもやはり何か親のカルマであり因果であるただ金はもらえたのだからいいと思っていたがその代償もあったのである。独り占めするなということがあった。

どうしてその金が得られたのかそれが問題になる。金は何か具体的で分かりやすいのである。だから何か事件があればかねの流れを見るとわかりやすくなるのである。だから金は責任なのである。とにかく不正で儲けてもそれで栄えるということはあり得ないと思う。原発事故はそうした不正とかは関係ないように見えていた。でも隠蔽するとかいろいろ技術的な問題だけでなくモラル的問題もあったのである。それは巨大な国家的権力を持っていたからできたのである。権力を持つということは責任を持つということになる。その責任の自覚が無くただ金をもらえればいいとしかなくなっている。

でも東電に天下りした検事とか警察関係とか海上自衛隊とかその人たちの責任は問われていないのである。でもその人たちは金だけはもらっているのである。また東電でも幹部なども責任は問われないのである楽それはなぜなのだろうかとなる。権力を持っているから責任をとわせないようにしているのかとなる。
そこには検事とかとかか警察とか自衛隊が関わっていればそんな権力に立ち向かうことができる人はいない。だからこそ津波がその悪を暴いたのである。中国にも易姓革命がありそうして大きなな災害が起きる時政府の責任が問われるからである。中国の大洪水でもそれが起きたのである。習近平体制がその責任が問われているからである
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2023年07月14日

原発事故の原因の真相 青山繫晴氏が国会で語るーyoutubeはマスコミより真実を語る

原発事故の原因の真相


青山繫晴氏が国会で語るーyoutubeはマスコミより真実を語る



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(4) 【電力産業の真実】あの国が原因で起こった福島第一原発事故。青山繁晴さんが全てを話してくれました【虎ノ門ニュース,高橋洋一,原子力発電所】 - YouTube


【電力産業の真実】あの国が原因で起こった福島第一原発事故。青山繁晴さんが全てを話してくれました



●原発事故の原因が明らかになる


原発事故の原因のことを追求してきた。それが単に地震と津波で不可避的に事故が起きたのであり。それはやむをえないことだった。そういう風にに見る人も多かった。でも今になるといろいろ。別な見方が出ている。それは私自身が追求したことでもある。このユーチューブで追求していることも共感した。 


津波と地震が原因ではない。

国の行政の対処は悪かった。

行政で癒着が生まれていた

保安院は何の役にも立たなかった

アメリカのお古の原子炉を買わされた 

東電内で若い人の意見を聞かなかった

科学者集団の十数メートル津波がくるということを無視した。

その無視した無視できた人は東電の幹部であった。

・・・・・・・・・・・


何か私自身が言っていたこと共通したことがかなりあった。それは事故後に言われたことでもある。ただこの人は危機管理の専門家である。 東電とかでも何か対策をしない。地震津波であれ事故に対して対策をしないということではなかった。

ただそれが実行されなかったので。だから若い人の意見をきいて防潮堤を高くして作りとか他でも対策は検討されていたのである。

専門家の科学者一団が津波が十数メートルの津波が来るとして警告もしていた。しかし、それも無視された。だからその責任がすべて地震と津波であり不可避的なものとして起きた起きたのでありその責任はないとなった。でもいろいろ検討すれば明らかにそれだけではない。責任があったのである。 

つまり危険なことが内部からも。外部からもすでに指摘されていたのである。

ただ、それが上層部や政府や関係者が無視したのである。


●権力によって必ず歪められる社会


そしてそこには必ず権力が持っている者がいてそれによって歪められる。


その権力をもっているものが。アメリカでもあった。


社会というのは必ず権力によってゆがめられるのである。権力を持てば得をする。悪い事しても咎められることもない。そして誰でも権力を持ちたいとなるなる。その権力にもいろいろあるが。金も最大の権力である。巨額のお金を使用できることが権力になる。それは原発でもそうだった。その巨額の金は想像もできないものだった。それは事故前でもそうであり事故後もそうだった。国の予算の何兆円という金が湯水のように使われていたのである。そのお金を使えば危険も無視される。誰でも金を欲しいから危険に眼をつぶる。地元の人でもお金をもらえば何も言わないとなる。こうして危険は無視されたのである。


その権力を持つものの最たるものがアメリカという巨大な権力である。これこそもう逆らうことはできない。だからアメリカでいらなくなったお古いのマークワンという古い原子炉に日本に売ったのである。それを買った日本にも問題はあった。でも相手がアメリカだとなると従わざるを得ないのである。このように原発は国際問題でもあった。原発は外国でも事故にあれば周りに影響するから周りでも監視しなければならないものであった。その国は勝手にできるというものでもなかったのである。そして今になってトリチウムの海への放水が世界で問題になっているのである。魚が汚染されるとかで問題になっているのである。


ともかくこの世で問題になるのはこの原発問題でもその事故の原因はなんであったかというと必ずしも地震津波ではない。人間側の問題としてあった。そこに人間側の不用意が問われたのである。

その人間側でも誰が責任があるかというと権力を持ったものなのである。若い人たちが防潮堤を作れとか高くしろとか東電内でも提言していたのである。また、科学者集団が十数メートルの津波がくると提言していたのである。

でも東電の幹部はそれを受け入れなかった。だから東電の幹部には重い責任があった。でも何ら責任をとっていないのである。財産没収くらいしてもいいのだが、それもされていない。つまり権力を持つものは責任をもつのである。実際に若い人たちが提言していたのに無視した。その無視する能力を持った者は権力を持つものだからである。だから、実際は権力を持つということは非常に責任があり怖いことなのである。


●報道も権力によって歪められる


でも誰も権力を持ちたいというのはそこで金になり得するからだ。結局全ては権力によって歪められる。そして人は権力に従うのである。マスコミでも実際は福島県の福島民報などは県の出資が半分であり創価の聖教新聞を刷っている。または宣伝で成り立っている。ほかの新聞も原発組合の電事連から800億円もの宣伝費が出ていたのである。

だから何も言えないのである。事故が起きていた時そのマスコミの幹部が中国に招待されていたのである。朝日新聞社でも招待されていたそのことでもわかる。いかに権力によって歪められるかである。というのは新聞を作り発行することは莫大な金がかかるからである。


するとその金をどうするのかとなる。 新聞を読む人から金を取るだけでは足りないからである。そこで宣伝費をもらい成立する。それで双相リテックとかを宣伝していたのは東北政経だったのである。双相リテックことは除染で大儲けした会社であり。大した技術がなくても幹部でその金を何10億のお金を山分けした。銀座で遊んでたりしていたのである。それもやはり雑誌を出すにしても金がかかるからである。つまり報道するにしても権力が必要なのである。金もない権力もない人は。何も言えないのである。ただインターネットができて発言できるようになったときある程度は報道の自由が生まれた。プログなど手間がかかっても金はかからないからである。でも別に写真とか動画でも出せるのである。そこが大きく変わったことである。


本にしても雑誌にしても私自身図書館にお前は個人というだけで本すら置けなかった、権力のないものは簡単に無視されるのである。

何か発言するにしても本を出すにしても、必ずその背後に組織団体があって発言できているのである。純粋な個人が発言すると言うことが殆どできないのである。一見個人が発言するように見えてもその背後には大きな組織団体があって発言できているのである。だから背後に組織団体の権力をもたないのは何も発言できない。ボランテアでも20人が集まらないとできないのである。現実に駅でボランテアしたら警察に公然と職務質問されてできなくなったからである。公務員とは、そういう権力を持った人であり図書館に本を置かせないということもできるのである。また出版もさせないということも簡単にできるのである。そこには警察もかかわてくるのである。東電には自衛隊でも幹部が天下りしていたからである、だから民主主義でも表現の自由などないのである。 

マスコミはたとえ発言ができても司会者が中心でありその脇役として多少コメントさせてもらう。


だから最近ユーチューブを見ているとテレビには出ていたがその本人がユーチューブに出て話しているのを聞くと何か違っているのである。今回でも青山氏はテレビにも出ていた。でもその人の言ってることはつけたしのようなものであり、その人の全体像はわからない。今回でもこの人は何の活動をしているのか?危機管理の活動をしている。そしてフランスにも実際に行ってその暴動のことを語っていた。そんな活動をしているのかとわかったのである。その個人のことは今まで報道されていない。だから分かりにくいのである。マスコミをとうして語るとき必ずマスコミの意向が反映するから。その個人のいうことが必ずゆがめられるそこで誤解をするのである。こうして個人自体がユーチューブで話す事は違っているのである。その辺が報道でも変わったことである。





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2023年07月06日

科学技術は万能ではない (地球はもう増えた人類を養いないー人口が減り森が回復する)


科学技術は万能ではない

(地球はもう増えた人類を養いないー人口が減り森が回復する)

●科学技術はいい点ばかり強調される

科学技術の時代である。科学という時技術でもいい点ばかり強調されるのである。それは利益にもなり金にもなるからである。そのデメリットの面はあまり強調されないあったとしても隠されるのである。そして科学技術が万能になり。科学技術振興が現代で生まれた。科学技術が全て良いものであり悪い点は指摘されないのである。そのために原発事故が起こったのである。

ソーラーパネルでも全て良いものとしては無い。景観の破壊がありすべて良いものとしては作用しない。山ごとソーラーパネルにしてそれが大量の雨が降った時崩れて木がなくなったので貯水能力がなくなるから川に水は直接流れて下流で洪水になるかもしれない。
ただ私も玄関にソーラーパネルを備えた。それは小型のセンサーライトでありそれをつけて便利なものだと思った。なぜならそこに電池を取り替えることなどしなくてもいいからである。だから科学技術というのは悪いものでもないのであるがいいものでもないのである。原発でも小型原子炉ならいいというのもそうである。。その利用方法によって悪くも良くもなるのである

ただいいことばかりが強調されやすいのである。空飛ぶ自動車とかでも技術が未来の技術として期待される。でもそこには必ず悪い点がある。必ず技(わざ)わざわいとなる。ブンブンと空飛ぶ自動車が飛んでいたら落ち着いて過ごすこともできなくなる。車の騒音で苦しんでいる、交通事故になる、何かそういうマイナスの面が技術には必ずあるのである。
だから神話ではゼウスから火を盗んだプロメテウスが過酷な罰を受けたのである。実際は危険なものが潜んでいるからである。それを証明したのは原発だったのである。もう取り返しのつかないものとなりプルトニウムが2万年残って消えないとかなったのである

●原発事故の原因も現代の科学技術信仰にもあった

とにかく科学技術はバラ色の未来を示す。そしてあたかも万能のように思わせるのである。そこに落とし穴がある。 何か科学技術には必ず反作用があり問題が起きるのである。農業にしても農薬の使い過ぎで土が疲弊して作物が取れなくなったとかある。つまり農業にしても科学技術が関わりそれが自然を破壊するということがあったのである。 
ただ科学技術は直接的にわかりやすく恩恵を与えるからそれはそれに反対する人はまれなのである。原発でもどれだけの金がそこに使われたか?事故後も何兆円のものの金が除染とかに使わわれたのである。だからその金の大きさに驚いたとなる。するとその金が欲しいとなり危険には目をつぶったのである。 
医療にしてもあらゆる病気が治されようになる。科学技術が万能のように思わせる。そこに人間の奢りがあり科学技術の崩壊が起


科学者、今や神官となり科学技術が信仰ともなっている。それはやはり神に対する挑戦でありうぬぼれであり神によって砕かれるのである。万能の力は神にしかない。人間は絶対に万能の力を持つことはできない。だから科学技術には必ずマイナスの面があり。技がわざわいとなる宿命にある。一見いいようでもそれが悪いものとなってしまうのである。 だから科学技術を全面的に受け入れるということは警戒しなければならないのである。
でも科学技術は全て良いものとして受け入れやすいのである。科学技術がもたらす災いを見ないのである。それは原発でもソーラーパネルでもそうだった。ソーラーパネルだと自然のエネルギーを利用するのだから。太陽光を利用するのだからいいものと思われていたのである。でも実際は自然の景観を壊したり。山を禿山にしてそれが洪水にもなる危険もあったのである。 

だから、そもそも原発にしても核兵器にしても核自体を発見して利用したことが危険だったのである。それで科学者自体が危険なを察知していた。でもそれは無視されたのでは?そしてその核によって核戦争によって人類が滅びるとまでなる。科学技術技術にはそういう怖いものがあるということを知るべきだったのである。
でもそのことは全く教育もされていない。科学技術とは完全な善だと思わされていたのである。だから遺伝子操作にしても危険なものがある。でもそれが便利なものであり利益になるからそれに反対する人は少ないのである。人間はそうした危険より利益を優先するからである。 科学技術を何か制御するというものがないのである。また、人間社会からタブーというのもなくなった。何か禁止されるものはない。ウイルスにしても実際は風土病であり一定のせまい地域でしか伝染しなかったものである。でも交通が発達して世界中にウイルスが広まるようになったのである。 

●人口が減れば自然が森が回復する

資本主義経済というものも限界に来たのはそれは拡大、拡散、成長、増産、増大をひたすら目指すものでありそこに減らすという思想がないのである。そこに現代の環境破壊と荒廃が生まれたのである。
だからこそ、資本主義は行き詰まり限界がきたのである。 人類の人口でも地球が養える人口は限界にきている。もうこれ以上人口は増やせないのである。それだけを養う食料もないのである。だから世界的に人口が減るのは自然の理でありそれを全て悪い物とはできないのである。もちろんいろいろ困ることはあるにしても大局的に見ればやはり適正規模の人口を目指してその風土、土地にあった社会を再構築するべきだとはなる。ただ人口が増えればいいと言うのはもう時代に合わなくなったのである。

動物を見ているとある。一定の地域で増えもしないし、減ってもいいないのである。ということは一定の地域で食料となるものがありその食料の分だけ動物がそこに住んでいられるのかもしれない。ある動物がネズミとかでも増え過ぎれば自然のバランスが崩れて何か問題が起きたということである。
確実に今や人類は増えすぎた。だから人口は減ることは全て悪いとはならない。なぜなら聖書でも人口は1/3になると書いてある。そのくらいが適正規模だということである。そのために三分の一にするために疫病なのか?天変地異なのか。戦争なのか?人口を神によって減らされると記されている。 

そこで見ていると、見よ、青白い馬が出てきた。
そして、それに乗っている者の名は「死」と言い、それに黄泉が従っていた。
彼らには、地の四分の一を支配する権威、および、つるぎと、ききんと、死と、地の獣らとによって人を殺す権威とが、与えられた。
(黙示録6)
 第一の御使が、ラッパを吹き鳴らした。
すると、血のまじった雹と火とがあらわれて、地上に降ってきた。
そして、地の三分の一が焼け、木の三分の一が焼け、また、すべての青草も焼けてしまった。
(黙示録8)

すでに地球の森の1/3は焼けている失われてしまった。今も失われ続けているのである。だから。人口が何かの天変地異とか戦争であれウイルスであれ減らされるこことはありうる。そこで失われた木の1/3地の1/3が回復するのである。草原も回復する。
日本だったら森に覆われていて。森の国だった。その森がさらに回復するのである。科学技術は万能の時代となったが。逆にその弊害も大きなものとなった。それで今森の回復が望まれているのである。大陸では外国では山でも一般に木のないところが多い
モーゼの登ったシナイ山などは一本の木もない岩山である。だから荒寥としているのである。他でも中国でもどこでも山に木がないのである。

SDGs(持続可能社会)が世界的に望まれる

だから日本くらい木があるところはない。森があるところはないのである。だからこそ鎮守の森がいたるところに残っている。それは縄文時代から日本は森に覆われていた国だからである。
また農薬などで土も汚染されたり過剰に使用されて酷使されて栄養分が消失している、そして遺伝子を操作することも危険がある
それも人口が増えて過剰に生産することに問題がある,地の三分の一が焼けとは土が使いないものになり食料が生産できないものとなる、SDGs(持続可能社会)が今のぞまれているのはそのためである。

 人口が減ればその森は再生回復するのである。このマイナス点も大きいのだが逆に成長進歩とかということは限界であり、それを続ければもう地球に住めなくなるのである。現実に原発事故でこの辺はゴーストタウンになり人が住めなくなったからである。
だからすべて科学技術に未来を見ることは危険なのである。科学技術を全部は否定できない。その利用方法が問題なのである。小型のソーラーパネル付きのセンサー付きのライトはいいものである他でもいいものはある。でも科学技術が規模が巨大になると。自然を破壊してしまうのである。だから科学技術も制御するということも大事になってきたのである。でもこれは何かマイナスであり。常に科学技術は人間が万能のことを示すものでありそこに危険なものがあっても無視されるのである。


持続可能社会というとき例えば子供の時水道がなく近くの家の井戸水をもらっていた。それは60年前以上である。そこの水が。依然として出ていた。この辺は原発事故になり。水すら飲めなくなった。でもそこの放射性物質を検査してもらったら飲めるという。それで飲んでもでもいいからと言われて今その水を飲んでいる。地下水絶えることなく水を供給するのである。夏だとその水は冷たいのである。だからこそスイカなどを井戸で移動で冷やしていたのである。その井戸水は今になると貴重に思えた。それはすぐ近くにあり絶えることなく水が出てた出ていたということで持続可能社会のSDGsの見本でもあった 


馬酔木なす栄えし君が掘りし井の石井の水は飲めど飽かぬかも


井戸の水は絶えることなくあり飲めど飽かないのである。その自然の恵みは絶えることなく持続可能社会(SDGs)の象徴だったなる



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2023年06月15日

2022年に漁業法が改正されていたー原発事故で問題になった漁業権 (漁業権は喪失して外部の参入が許可される)


2022年に漁業法が改正されていたー原発事故で問題になった漁業権

(漁業権は喪失して外部の参入が許可される)

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日本から魚がなくなる?『漁業権喪失』の危険な法改正


漁業権は、定置漁業や養殖業などの漁業を行なう主体が一定の海面を独占的に利用することを許可する免許です。漁業権の免許は、紛争なく、安心して沿岸漁場を利用するために必要なものです。
これまでは、この免許の交付にあたっては、地域社会などに配慮した優先順位が設定されていました。しかし、今回の改正でその優先順位は廃止されることになります。

代わりに、これまで免許されていた経営体が「適切かつ有効」に漁場を利用している場合に継続的に漁業権を免許するか、または「免許の内容たる漁業による漁業生産の増大並びにこれを通じた漁業所得の向上及び就業機会の確保その他の地域の水産業の発展に最も寄与すると認められる者」に免許がされると記されています。
ですが、この2つの基準はいずれも客観的基準にならず、判断材料として不明瞭です

2022年にすでに漁業権の法律が変わり施行されていた
この辺で原発事故があり漁業権の問題を私はプログで追求してきた。なぜそもそも漁業権が与えられたの慣習があり継続されたためでありそれなりの理由があった。
資源の保護とか海を汚染されることを防ぐとかの理由があった。
でも原発事故でその漁業権が問題になったのは矛盾したのは海を汚染から守るということが漁業権があってできたことでもある。東電ではそのために漁業組合に事故前も充分な補償をしてきたのである。それで漁業者は別に魚を取らなくても生活できていたのである。事故前も原発御殿が建っていたとか周りから羨ましがられていたのである。

ところが原発事故により海は放射性物質に汚染され魚もとることができなくなった。海だけではないこの辺の土地全体が放射性物質で汚染されて住めなくなったのである。そのことで事故前はそんなこと知らなかったのである。漁業者は生活に困っているとかネットで報告している人がいたからである。それを見ていて漁業者は苦しいなと同情していたのである。でも現実は補償金をもらっていたから苦しいということはなかったのである。

そもそも漁業権とは何なのかそれはその地域の海の汚染されるとか魚の資源を守ることがためであった。だからこそ原発ができる時まずこの漁業権を持っている漁業組合とか船主などの許可を得なければ作れなかったのである。
不思議なのは別にその土地の市町村の許可が必要であったというものでもなかったらしい。原発が建つということで何か議会で議論したことがあったのかそれも定かではない。ただ確かなことはその原発を建てるために障害となったのは漁業権を持っている漁業組合とか船主だったのである。だからこそ事故前でも手厚い補償をしていたのである。その時別に原発の周りの住民などには何の補償もなかったのである。つまり交渉相手でもなかったのである。
でも結果的にはその被害は広くおよびその責任を問われた。そもそもなぜ漁業権だけがこれだけ強い権利となっていたのかそれが問題になったのである
その強い権利のために原発事故になったとき漁業者の責任を重かったことになる。なぜなら東電が原発を建てるとき最初の交渉相手は自治体ではなく漁業組合や船主だったからである。
ただだからこそ自治体でも議会でも原発を建てるにあたって何か議論でもしたのかとなる。記録されているのかともなる。
でも原発事故前は個々人で補償金等もらった人はいないのである。ただ公共のものに予算として国から与えられたことはあった。でも個々人にはなかった。漁業社のみに補償金は与えられていたのである。
だからこそ事故になったとき漁業者に対して責任が問われたのである。

権利を与えられたものは権力を与えられたものは責任も課されていた

金を与えられたものには責任が課せられていたのである

つまり現代社会の責任とは金のことなのである。みんな金をもらえばそれでいいと思っているが実は金には責任が付きまとっていたのである。もし漁業者が事故前にでも金を補償金をもらっていなかったら責任も問われなかったからである。
原発事故になってその責任が重く問われたのである。ここに金の怖さがあった。金はもらえばいいとはならなかったのである。
今問題になっているトリチウムを海に流すということでも漁業組合と交渉するがそれを地元の人が見ているとまた漁業者は東電と交渉して補償金を積み増すためにそうしているのかともみられる。別にトリチウム海に流すからと周りの自治体には補償はされない。しかしトリチウムの問題は日本だけではない海を汚染するのだから日本は海を汚すのかと世界から批判されている。

特に韓国から批判されて他でも日本の魚は輸入できないとかなっているのであるつまり環境汚染とは一地域の問題だけではなく世界の地球の問題にもなっているからそうなったのである。だから原発は一国の問題ではない。世界に波及する問題だったのである。原発事故になればチェルノブイリのようにヨーロッパ全体が汚染されるということがあったからである。トリチウム問題も海全体を汚染するから問題になる。

ではなぜ外部の企業どうか外国資本までも地域の漁業権を廃止して参入できるようにしたのかそれはかなり大きいを改革である。も地域の漁業権が喪失したということは例えば原発を建てるとき漁業権を持っているのは地域の漁業組合とかではなくなる。では一体今度は誰が交渉相手となるのだろうかとなる
それも明確ではなくそもそもそんなに外部からの参入を許したらどうなるかというのは必ずしも検討されていない。

それは農業でも外部から企業が入ってきて農業をするときも問題が生じると指摘している。それは漁業でも起きてくる。養殖業とが大規模にされれば海が汚染されたり問題が起きてくるとしている。でも現実は漁業は零細であり農業と同じく跡継ぎがいないとかいうことで困っていた。特に福島県の浜通りの漁業は宮城県から比べれば1/10の規模に過ぎなかったのである。だからこそ原発でも補償金をもらえるから歓迎されたとなる。

とにかくこの零細だということが農業と同じく問題になる。その収入でも少ないしだからこそ跡継ぎもなく辞める人が多かったからである。ただ第一次産業というのは極めてその土地と密着したものであり土着したものだからほかの産業とは違っていたのである。大企業とか外部から参入してくると問題が起きるのは効率的に大量に魚でも収奪するとかそれで海の資源が守れなくなるとか言われる。

それは例えばイオンなどでもそうなのである。外部の大資本が入ってきて地元の商店街は壊滅した。でもそういう大資本はその土地で商売にならないとなれば撤退してしまう。イオンでわ今そういうことが起きている。相馬市のイオンが撤退したということもそうである。でも地元に住んでいる人はそこで商売するなり生活するにわ簡単に移住はできないのである。どうしても土着的となりそこで生きて行くほかないからそうした大資本のようにここはだめだからやめればいいとわなりにくいのである

いずれにしろ海は誰のものか。土地でも森でも山でも山林でも誰のものかとなるとそれは一私人とか一会社とか特定の一団体とかのものとなり得ないものがある。それは共有的なものであり私有には馴染めないものがあるからである
とにかく現代は民主主義社会では権利を何でも主張することになった。でも権利には必ず責任がともなっていたのである。ただ権利を主張して利権を得て得することが民主主義だとなってしまっていた。そこに落とし穴があり問題が露呈して重い責任が問われるようになったのである。

人間は一見権利を主張してとくすればいいと何でも権利だけを主張するようになった。その権利には重い責任が課せられていたのである。漁業権も権利でありその権利があったとしてもそこに重い責任が課せられていたことに無視していたのである。
だから漁業権でもで自治体の権利としてあれば別に漁業者だけがその責任を問はれることはなかったのである。でもそうなれば補償金を独り占めするというはけにはいかなかったのである。でもお金は責任であり金の怖さを知ったと思う
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2023年06月08日

原発事故危害地域の予算は国がなお援助している (故郷を失うことの精神的影響)

原発事故危害地域の予算は国がなお援助している

(故郷を失うことの精神的影響)

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●依然として復興予算の割合が多い

福島県の予算を見ると南相馬市は復興予算が20%である
浪江町は80%である。双葉町は74%である。大熊は60%である。
相馬市は1%にもならない。いかに原発事故から12年過ぎても依然として復興予算が大きいと思った。
ただ南相馬市は20%になったから減少した。それでもそれなりに予算の2割となれば大きい。
飯館村は70パーセント とかでありそもそもそも放射線の被害が大きかったから補償金も多かったからである。でもやがては復興予算は消失する。すると南相馬市でも苦しくなる。

いつまでも復興予算を要求してそれでやっていくことはできなくなる。でも依然として裁判で補償金の増額がありそれで潤った人も多い。でももう復興予算とか国からは援助はなくなる。飯館村でもほとんどが残った人でも老人であり何か生産するということもない。補償金だよ頼りでありそれがなくなれば住んでいられるのかとなる。
南相馬市にしても2割が復興予算だとするときもしそれがなくなると福祉の面やその他教育にしても予算を回すことができなくなる。一時的に原発バブルでもあった。でもそれも終わりつつある。そして復興予算は国から入ってこない時もはや町や村でも成り立つのかという心配がある。なぜなら残ったのはほとんど老人であり若い人は極端に少ないからである。
だからそもそも浪江とか大熊とか双葉とか南相馬市の小高とかは維持できるのかという問題がある。
なぜなら現実として小高の人は原町に移住した人が多いからである。原町の方が何かと便利だから小高を復興させようとするのではなく移住した方がいいとなったからである。

いずれにしろ予算から見ればいずれは復興予算頼りだと立ち行かなくなる。
そうなるとむしろ小高だったら維持するにも返って無駄な金を使い南相馬市全体から見ればただお荷物になってしまう。すると現実として原町に移り住んだ人が多いように切り捨てた方がいいとまでなってしまう。もちろん小高でも浪江でもでも復興してもらいたい。でも現実は厳しいとなる。
ただ原町区は一人50万の補償金が加増されたので得したとはなる。鹿島区は一人16万だから不満がまた多いのである。それより相馬市などは復興予算もゼロであり今回の裁判の補償金は8万くらいなのである。
そのためなのかイオンなどが廃業して寂れたようになったのである。

●人が住まなくなるとどうなるのか、死者も幽鬼となり彷徨う

ともかく日本全国でもそうだが少子高齢化でこれから人口が減り日本は縮小してゆく。そして周りを見ると鹿島区とか相馬市では去年の地震の被害で家自体が壊されたのは目につく。
それも近いうちに空き家化する家だったかもしれない。跡継ぎがいな家だったかもしれない。それで自身で地震で破壊されて住むことを諦めたのかもしれない。
ただ村とか町とか人が住まなくなり消滅してゆくということはどういうことかまだよくわかっていない。
日本の村は日本人のアイディンティティの基盤としてあり何代も続いて住んでいた人たちがいる。そこに長い歴史があり重みがある。それが消失するということは何を意味しているのかまだそこに住んでいる人もよくわからないし自覚していないともなる。
なぜなら村で死んだ人はご先祖様となり日本ではその村に生き続けていたからである。それも消滅する時ご先祖様もそこには存在しなくなりその場を失い神社でも捨てられるのである。
そしてそこには死者も幽霊となって幽鬼となり行き場がなくさまようともなるのである。

それは農民社会でなくなったときそういうことがすでに起きていた。農村共同体は縮小して維持できないようにもなっていたからである。それに拍車をかけて原発事故で人が住めないようになり廃墟ともなったのである。
だから原発事故で故郷から移住した人たちはそのアイデンティティの場のルーツとなる場を失った。それが何を意味しているのかまだ自覚されていないのかもしれない。
ただ現代は広域化してどこにでも住んでいいという時代だから故郷にこだわる時代ではなくなっていた。
金さえあれば返って都会に住みたい。東北だったら仙台市に住みたいという人が多かったからである。それで津波もあり仙台に移住して人が増えて仙台はまた人口が増えたのである。
でもそうして移住した人たちは何かを失った。ただそのことを自覚されないかもしれない。特に若い人たちは移住した場が故郷になるので特にそうなのである。
都会とはみんなよそ者の集まりだから別にそれでふるさととか村にこだわる必要はないのである。でも確かに故郷を失うということが何なのか気づきその失ったものの大きさを知るようになるかもしれない。

●人間は歴史を生きる存在でもある―故郷を失うことの影響

なぜなら人間は継続するということは歴史に生きることは価値あるものとなってきたからである。それで近くの自転車屋は死んだときその自転車屋は町に一軒しかないなくなっていたから貴重な物となっていた。
そして死んでも駅前と結びついていて街全体とも一体化してあったことを意識するようになったのである。
だから原発事故で町や村は消滅して行くようなものになった時一体そこで人間の存在感を持つことができるのかとなる。
人間は依然として家族のために働くということは続いている。でも市町村はあってその全体のために働くとか存在するということは希薄化していた。でも人間は死んだら終わりとなるのではなく継続されることを願う。だからこそ村があったときは農業者会であった時は死者は山に葬られて眠り田植えの時期などに山に降りてきて手伝ったとかいうことになる。それは依然としてその村に死者も生き続けられているということなのである。

それが動物の生と違って人間は一代で終わるものではなく継続されたものとして生きる歴史的存在だということなのである。その歴史が消失することは人間の存在の意味の否定にもなる。ただ少子高齢化で限界集落は廃村になったり消失してゆく危機である。それが何を失うものとなるのかまだそこに住んでいる人も周りの人も自覚されていないのである。
それは経済的な面だけではない精神的な問題なのである。そのよって立つ基盤が消失するということである。それはかなり深刻なことなのかもしれない。でもそれほど深刻に思う人はいないともなるのか。ただ老人はそこに長く住んでいたのだからやはり自分のよって立つ基盤が失うということはショックになっていることは確かなのである。
posted by 天華 at 17:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2023年05月07日

なぜ危険な原発がやめられないのか (政治権力利権の判断と科学的合理的判断)


なぜ危険な原発がやめられないのか

(政治権力利権の判断と科学的合理的判断)


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地震があっても岸田は原発マネーがやめられない

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科学の判断ではなく政治利権の判断が優先される



青森の核燃料処理施設の危険を指摘するユーチューブを見た
活断層の上に作られていて非常に危険なものだと指摘している。
その影響は北半球に人が住めなくなるほどの悲惨なものとなると指摘している。それは想像を絶する最悪なものとなる。
人類滅亡にまでなるとまで指摘している。

福島原発の大事故の惨事があっても依然として原発をやめない。今回の能登方面の地震でもそこに原発があった志賀原発があった。それも危険があった。
青森の核燃料処理施設でも危険なのは耐震設計がされていない。それが内部に入れないほどの放射線量があり耐震設計をして建物を直すことができないのである

ではなぜそんな危険なものを作り福島県発のような事故があったのに依然として原発を再稼働してやめることがない
このユーチューブでは福島原発の場合津波の結果大事故となったのではなくその前に地震の揺れで原子炉が故障した。また配管などが破損して津波の前にすでに総称した損傷したものがありそのために大事故になった。そのことは専門の科学者も明確に資料が出たので指摘している。

つまり原発は巨大地震が来ればこのように巨大事故になる。津波が来たから巨大事故になったのではない。そうしているのは政府やその命令に従う原子力ムラがあって御用学者がそう言っているのである。
ということはここに科学的合理性から判断しないで政治的思惑や経済的利権から原発は危険を無視して作られたのである。
科学技術というのは必ずしも科学技術を優先して決めるのではない。そこに政治的思惑や経済的利権がかかわり科学の合理的な判断を無視するのである。

それは御用学者は政治家の命令に従い公正な合理的な科学技術の判断を弱めるのである歪めるのである
だから原発は科学技術の問題としてだけ見れない。極めて政治的経済的理由が優先されているともなる。その視点で見ないとなぜこんなに危険なものが再稼働されやめることができないのかが分からないのである。
まず人間の社会は利益が優先される。利権が優先される。それはあらゆるものはそうなのである。カルト宗教になればそこはもう御利益追求であり利権の追求であり本来の宗教などゼロなのである。誰でも金になるとなれば目の色を変える。
原発が建てられたのも地元に金が入るということでそうなった。

事故後でもわかったようにその利権は金はとてつもない巨大なものだったのである。除染だけに6兆円とかもかかるつぎ込んだのにも驚いた。それは庶民に取って想像を絶するものだったのである。
そして原子力村はその利権を握り政治家の命令でその危険性も隠す事ができた。安全神話を作ったのもそうした御用学者が集まり専門家が集まり実ははそれで危険を隠蔽したのである。

だからこれは科学技術の問題だけではなく政治的な問題でありまた経済的な問題であり科学は確かに合理的な公正を追求している。でもその科学の真理も公正さも政治的な問題になり歪められたのである。
必ずしも科学技術社会でも科学が優先されるわけではないのである。政治的思惑経済的利権が関わりそれが優先されるのである。
また科学にしてもそれが全部正しいとはならない。いくら専門家が科学者が言ったとしてもこの地球であれ宇宙であれすべてを知り得る人はいない。それは全能の神しかありえない。
それでいくら科学者が専門家がいても実際はわからないことがある。だからまた科学者を専門家の言うことでもすべて信じられないのである。

地震になるとそれはできないように予知できないように地下のことが地球の地下のことが海の底のことが宇宙のことでもわからない。科学者が専門家がすべてをわかっているわけではない。それはコロナウイルスでもそうだった。
専門家が正しい判断ができるとはならなかったからである。
そこには必ず政治的思惑や経済的利権が絡み科学的合理的公正な判断になるとは限らないのである
政治的判断というとき時の権力を持ったものが判断する、でも権力を付与するものは何なのか、誰なのかとなる、民主主義社会では選挙で勝ったものが権力を得る。

今なら自民党であり公明党ともなる。でも選挙で負ければ別の政党が権力を得るのである。ではその民主主義社会でも何が優先されるかとなれば科学的合理性とかではない。やはり利権であり金になることが優先される。そのために地元には金をばら撒き原発を作ったのである。地元でも金になればいいとなっていたのである。
そこに民主主義がまたすべて正しい判断をするとは限らないのである。数が多ければそれが正しい判断になるかとなればならない。そこに民主主義にしても限界がある。
ではどうして正しい判断をすることができるの?
そこに人間の限界がある。必ずそこに過ちが生まれるのである

人間は地の底のことをまたは海の底のことを
果て無き宇宙のことを知りえるのか
人間は全能の神の知恵には及ばない
人間はいかに科学技術が進歩しても
依然として知りえないことがあまたある
人間はこの世界のことをすべて知り得るとはならない
そこに人間の限界がある。
そしてその人間の技は崩壊して砕かれる
文明もまた砕かれて廃棄されるのである
人間のバベルの塔のように崩壊する
人は終始つかなくなり散りじりになる
posted by 天華 at 14:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2023年04月27日

原発事故の多額の補償金が復興を阻害した (復興より補償金をもらうことことが第一になった)


原発事故の多額の補償金が復興を阻害した

(復興より補償金をもらうことことが第一になった)

●突然苦労しないで入った金は消失しやすい

突然入ってきた大金は身につかない。悪銭身につかずになる。
そういう例はいくらでもある。親の遺産を相続した場合などでもそうである。それも使いかたがわからず浪費してなくなってしまう場合が多い。その金は何か天から降ってきたような金でありあぶく銭でもある。苦労して得た金とは違うのである。
だからどうしてもなくなりやすいのである。有効に生かせないのである。それは自分自身でも親の遺産で経験しているのである。

この辺の原発事故でも多額の補償金を得た結果金銭感覚が狂った人がいたようである。もちろん補償金をもらう権利はあるしそれをとやかくは言わない。でもその補償金が返ってこの辺の復興をできなくなってしまったということもある。
その補償金も高額になるとそうなりやすかった。今まで手にしたことのないような大金が入ったことで金銭感覚が狂ってしまった。
その金を高価な車とか女遊びとかに費やされたようでもある。それでもしかしたらそのも大金もたちまちあぶく銭のように消えたのかもしれない。
補償金は必要でもそれがあまりにも大きなものとなって金銭感覚が狂ったともなる。それで故郷の復興とかより補償金をもらいそれで楽に暮らすという考えになったともなる。
というのはやはり避難区域の人で多額の補償金をもらってスポーツカーだとか女遊びだとか何かそういう復興のためというより浪費したというふうにも見えるからである。

●補償金も有効に使いなかった

だから今になってその補償金でも使い果たして苦しくなってしまったのかもしれない。何か大工さんでも仕事が欲しい。その人はいろいろなことができる才能ある人だから掃除とか家事手伝いとかそういうことで仕事をさせて欲しい。金も欲しいとなる。
そんなことで懸命に仕事をして金を得ようとしている。
でもその人のことは原発事故から十年くらいは音沙汰無しであった。その間に何をしていたかわからなかった。でもどうも補償金をもらったとしても使ってしまったのかもしれない。
それでなんとか働いて金を得ようとしているのかもしれない。
そのことは悪いことではない。自分の身ににつけた大工の技とかを活かして金を得ようとしているからである。

でもその補償金を浪費した人も多いだろう。補償金をもらうことは当然にしても額が多すぎたのかもしれない。もちろん少ないということででことでさらに要求してはいた。
結果として裁判で勝ったから避難区域の人は4人家族だったら1000万とかまた入ってきたのである。その額も大きいと思った。
私の地域では一人16万でありもともと少ない。 30キロ内たと原町だと3倍になっていたからである。今回の裁判でも買っても補償金は一人16万であり原町区は3倍の50万なのである。
その他相馬市とかでは8万くらいにしかならないのである。

おそらく補償金はもらうことは悪いことではないしその権利もあった。でも多すぎたのかとなったがそのために返って補償金を水増ししてもらうことが復興の目的にもなってしまたのである
とにかくなんとか金を得るための算段をしたかもしれない。もちろん放射能汚染とかいろいろな悪条件があり外に出ようとすることも分かる。

でも補償金が少なかったら外に出て家を建てたり簡単にできない。すると故郷に残ってなんとか苦しいがそこで生きる道を探すことになったかもしれない。もともと故郷に代々住んでいて愛着がある人が多いからである。農家だと先祖代々住んでいるからである。それでも多額の補償金をもらったとき故郷に住んでいるより他に移った方が良いとなり補償金を元にして仙台に移ったりして事業お起こして成功した人もいるのである。それは補償金の額学が大きかったからである。
でももし補償金がそんなに多いものでなかったらどうなったであろう

●補償金がかえって復興をさせないものにもなった

とにかく必ずしも原発事故の補償金がプラスに働いたともとは言えない。なぜなら補償金頼りになり自ら苦しくともなんとか故郷で生きようとすることがなくなった。
もちろん放射線被害などがあり住めなくなったということもある。でもいくら被害があってももし補償金がそんなに多いものでなかったら簡単に他に移り住むことは難しかった。
するとどうなるか?どうしても苦しくてもなんとかその場で生きる道を探していたかもしれない。それが多額の補償金でそんな苦労するしたくないとなり避難区域では移住した人が多いのである
でも何か今その補償金でも使い果たしてなくなった時なんとか金が欲しいから働かせてくれ何でもするから働かせてくれと来た人もいたのもやはり人間はそういうものなのだろう。人間はやはり金があれば働きたくない。金がなくなれば生きるためになんとかは働こうとするのである。だから人間は返って恵まれると堕落するのである。

それで双葉の人が鹿島区あたりでコンビニ強盗したと言うことをきいた。それは本当なのかと思ったが本当らしい。
双葉なら相当な補償金をもらったはずである。でおなぜ強盗までするようになったのか理解できなかった。でも補償金をギャンブルや女遊びなどに使ったことを聞いている。だからもしかしたらそうして金を使いすぎてなくなったのかもしれない。
だから補償金が必ずしも復興には繋がらなかったのである。
でも補償金は必要だったがそれが身の丈を越えて大きものになりすぎたのかもしれない。そして復興とはどれだけ補償金をもらうのか水増しさせるのかなになったのであるのである。

人間とはやはりいくら金をつぎ込んでも必ずしもいい方向に向かうとは限らない。かえって悪い方向に向かったということもある。その例が水俣病被害者にあった
そこでも補償金をもらうことが第1の闘争結果的にその地域は荒廃してしまったのである。
結局人間は楽を求める、苦労するにしても強いられてする。
でもその楽をすることが必ずしもいい方に働かないのである。
そこに人間の普遍的な問題があったのである。
ただこの辺では南相馬市でも30キロ内は原町区などはもらった。鹿島区だと30キロから外れたから少なかった、それでもやはり避難区域は多額だった。でもそれだけの被害があったのだからそれをとやかく言えない、結果的に補償金がみんなよく働いっとはならなかったろう。その額が問題だったのである。
それで金銭感覚が狂ってしまったことは言える

●少子高齢化社会も復興できない要因になった

もう一つの大きな要因は少子高齢化社会にあった。家に来た大工さんにしても70にもなるとしたらきつい仕事はできない、でも軽い仕事なら一日三時間くらいならできる。家事手伝いととか軽い仕事ならできる。
もしその人が若かったら運搬の車が欲しいとなっても利益を上げられるから投資することもありうる。
でも老人の場合は未来がないからできないのである。花の木を植えるにしても十年後に花が咲くとなると庭に飢えたくないのである。花がすでに咲いたにを見たいのである。それだけに待つ時間がないのである。
復興にしても津波の被害で喪失した松を植えても成長するのに50年とかかかるのである。
そこに復興のむずかしさがあったのである。
日本が停滞して衰退したのも失われた30年があったためである。何ら有効な手を打てないままに30年が過ぎてしまったのである。この30年は長かったのである。その時間の損失は簡単い取り戻せないのである。

コンビニ強盗で逮捕されたのは、南相馬市鹿島区の会社員・小松 悟容疑者(35)。

水俣病は政治によって、行政によって、企業によって、さまざまなかたちでの分断を生みだされてきた。現在も水俣でこそ、水俣病を語ることはときに難しく、口をつぐむ人もいる。水俣病によって起きた、地域の分断に対して、水俣では「もやい直し」という取り組みもおこなわれている。水俣病によってばらばらになってしまった地域のつながりを結びなおそうという取り組みだ

水俣の現状――生活支援と訴訟からみえる水俣の課題

「震災バブルの怪物たち」を読んで

補償金で原発避難区域はモラルが崩壊した

posted by 天華 at 17:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2023年03月11日

春の日大工とともに家を直す (仕事は利益だけを得るものではない、道徳なき経済と化して荒廃−原発事故から12年後)


春の日大工とともに家を直す

(仕事は利益だけを得るものではない、道徳なき経済と化して荒廃−原発事故から12年後)


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地元の大工が我が家を直す。
その往年の技を駆使して
その働くことに喜びあり
思案し図り組み立て成りぬ
里に芬々と梅匂う季
土地の大工の老いて示す技
天職に就きし男の良しかな
老いしもその技の衰えざれ
ただその体力の弱りゆくはとめがたし
我も共にてテコとなり働きぬ
温和なる春の日に共に働くも良し
百才の間に居てなお我の生きなむ

人間の仕事はなかなかわかりにくい。現代は社会があまりにも複雑化して他人の仕事が分からなくなった。ただ仕事でも自分がしなくても他人の仕事でも多少関わり見ているとじかに見ているとわかることがある。
大工さんの仕事は直に見ていて私自身も手伝った。そのことでともにい家を直しているという感覚になった。
家を作ることはやはり大工さんと関わる。ほかのものは例えばこの辺でも梨とかりんごを作っている。それは結構うまいものである。でもその果物でも作るということに関わることはできない。
それは米でも野菜でも作ることに関わることはできない。

だから意外と田舎に住んでいても農業のことがわからないのである。ただ農業している人のことを支援してわかった
それは苦労ばかりであったがいかに農業というのは大変なものかを直接聞いてわかった。
だから必ずしも直接仕事をしなくても聞いたりすればある程度はわかる。でも仕事は直接自分で関わり働かない限り理解できないものなのである。
人間は働くこと仕事することそれは金を得るためだけではない
働くこと仕事することによって人間自体が作られるのである
特に農業は自然と関わるから自然と体で通じ合うことなのである。それで私のようにただ外から見ているだけで直接土に触れるわけでもない鑑賞しているだけだから本当の自然というのは何かを会得できないのである
つまり消費しているだけの人間は何かを本当に理解することができない。自ら生産に関わらない限り何か本質的なことが理解できないのである。

一番いいのは自分で田畑を持ちそれをその実りを味わう時本当の豊かさを知るのである
ただ消費だけしていれば自然のことも深く知ることはできない。働くということはそれを売って金にするということではない
人間は働いてこそ人格も形成される。ただ金のために利益のために働くということではないのである。それが資本主義社会でわ常に利益追求が優先される。でももともと資本主義はウェーバーのようにキリスト教から起こった、修道院での労働から起こったというのもそうである。
その働く動機というのは宗教的な動機であり他者に尽くすということにあったのである。だから働くということは必ずしも利益を得る金のためではなかったのである。

何か今日東日本震災から12年過ぎてテレビで報道していた。
牛を飼う人が浪江でみんなやめたのに飼い続けている。それは売ることもできないがら無駄だということにもなる
でも人間には働く意味がないと生きていけない。牛も生き物であり人間の仲間であるから捨てられないとして一か月30万のエサ代はかかっても飼っている。応援する人もあってやってきたのである
そんなことしているのは何のためなのか?金を得るためでもないかえって金がかかっているのである。
ただそこで牛を飼う牛と共に生きる牛を捨てることができないそのために飼っている。
このようなことは原発事故で他でも起きている。

漁師は原発事故以後魚をとることができなくなった
でも漁師は特に船主は別に働かなくても豊かな生活ができていたのである。
補償金が事故前も事故後も充分にもらっていたからである。
でも港にいて魚もとらない漁師はもう漁師でもない
一体何のためにいるのかという気分になった疑問になった。
つまり何のために港に居るのか何のために生きているのか何のために存在しているのかそれがわからなくなったのである。
別に生活には困らないのである。でもそこで生きる意味が見いだせなくなったのである。だから人間は利益を求めて常に働いているように見えても働くということはそこに意味があり社会的価値がありそのためにも働いているのである
だから牛とともに働くということに意味があった。だからそれで金にもならないのに金がかかっても依然として牛を飼って世話しているのである
ただそれはもう自分ひとりではできない。みんなの援助がないとできないのである

それで生業を返せとか裁判になった。その生業とは何なのか?
それは生きる意味を価値を奪われたのでそういうようになったのせある。でもそういう生業とは何かはっきりしない、生きるためには金が必要であり補償金をもらことが大事だとなっていた。
それは別にどこでもこうした矛盾をかかえて生活している
それがこの辺では極端な現象として現実化したのである。

とにかく人間はその人なりの天職について働いている人は生き生きしている。
そこで問題なのは退職したりすると仕事もなく何もすることなく社会的にも無用となり生きる意味も価値も見え出さなくなることである。
たとえ金にならなくても何か社会であれ有意義なことをしたい。
価値あることをしたいとなる。それが意外と切実なものになるのである。利益と金を追求するのはやむを得ない。でも人間は本当はそれだけのために働いているのではないのである。

人間の価値は金だけでは測れない。その人が何ができるのか。何を与えることができるのか。それが問題なのである。
金を与えただけでわ価値あるとはなりえない。大工さんだったら家を作る。家を与える。農民だったら食料をつくり与える。何かがあって与えるものはあって価値ある人間となるのである。
何も与えない人間は価値がないとなる。たとえ別に金があって働かなくてもいいとしてもそれでいいとはならない。
その人には生きる価値も意味もなるからである。
人間が生きるとは意味と価値を追求しているからである
それがなくなったとき生きていても無意味だとなり死んだ方がいいともなる。高齢化社会で老人は死ねというとき社会的に価値が意味が認められない、それが数が膨大だから問題になっている
それが現代の時代の大問題なのである。道徳なき経済は犯罪である、まさに現代の資本主義グローバル経済は犯罪なのである。
そこで常に陰謀論になるのはそのためなのである、働かないでも極一部の人たちに金が集まるシステムにもなっているからである。

直土(ひたつち))に我の心のおのずから養われつつ静けくありけり(開墾ー吉植庄亭)

天地は君と親とのめくみにて身をやすらわんコを報へや(二宮尊徳)

農業から会得するものがあった、それが現代は無視されて科学工業社会になったとき原発事故にもなり故郷にも住めなくなったのである。自然とも分離して道徳も失われたとなる。









posted by 天華 at 10:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2023年03月07日

東日本大震災から12年 (避難区域は復興していない、避難した新潟県は親切だった)


東日本大震災から12年

(避難区域は復興していない、避難した新潟県は親切だった)

今日聞いた話では鹿島区で新潟に避難した人はしきりに新潟の人は優しかった、食べ物でもあんこう鍋とか出してくれたとか土地の物をたべさせてくれたとか言っていた、日本海で魚がとれるからそうなる
そもそも旅行しても土地の料理を食べることはむずかしい、食堂とかレストランでは決まりきったものしか出さないかである。
郷土料理となると特別高くなるのである。だからこれだけ旅してうまい料理だったなど記憶にないのである
ただ腹を満たせばいいとしかなかった。旅館にしても土地の料理を出すことはなかなかない、ただ今は食べることが楽しみだから料理に力を入れていることはある

だから「温泉丸秘大作戦」という推理ドラマでは温泉を立て直す仕事しているが必ず料理を改善する、その土地でとれた魚を利用して独特の料理を作ることに力を入れる
でも旅館でもホテルでも郷土料理を食べることはなかなかできないし私は食べたことなどないのである
貧乏旅行者だったんからでもあるがそうでなくても郷土料理など食べることはなかなかできないだろう
前にも書いたが料理で思い出すのは只見線で小出の食堂で鮎の塩焼きを食べたことである。前の魚野川で大きな鮎が泳いでいたし釣りもししていたのである
食べたものでそのくらいしか記憶に残っていないのである

だからあんこう鍋は食べられたとことは贅沢である。
他にも土地の魚の料理を食べた、そしてしきりに新潟県は良かったと言っていた、そのことは前も新潟に避難した人が言っていた、それで世話になったのでその人たちを招待するとか言っていた。
なぜ親切だったのか?
前に新潟県で大きな地震がありその時応援したからだとも言っていた、ただ県民性とかその土地によって人も違っているのである
新潟県には情の篤い人が多いかもしれない、今の時代は何か情というのも薄れている、金しか見ない社会である

なんでも道案内するにもわざわざその場所まで連れて行ってくれたとかも言っていた
道案内でも今はしない、適当に方向を指さすくらいである、だからみんなスマホを見ているのである
何か情は薄れている、ただ人も土地によって違っている
だから新潟県がまだ情が篤いのかともなる
やはりその土地柄があり新潟県は全国的にみてもめずらしいとなるのかもしれない、そういう場所に避難したは良かったとなる
でも一方で障害者が避難した山形県では断られたという
それは山形県全部が薄情というのではなく一部だとなる
たまたまそういう場所に行ったともなる

今の時代は総じて薄情になっている、情は薄れている
原発事故の時、避難した人は様ざまな経験をした、親戚に逃れてそこになじめなかったとかもある。
私は避難しなかった、30キロ離れていて避難は強制的ではなかった、でも30キロ内は補償金が三倍になっていた
ただ鹿島区は一人70万もらったが原町区は三倍もらっている、さらに相馬市は一人六万しかもらっていない
それでもめたし今回も裁判に勝利して補償金が追加でもらえる、今回は30キロ内は優遇されるのである

その人は原発で働いていた、試験もされて受からないと仕事ができないと、入念に放射線量の検査をするとかその厳しさを語っていた、でもそれは地元の人達だったからかもしれない、どこからかわからない人たちも働いていた、その人たちはそんな厳しい検査をしていただろうか?
いろいろな人が来ていたが事業に失敗したような人達が結構来ていた、何か借金とかで追い詰められた人達も来ていただろう
なぜなら暴力団の人達が目立ったからである、体が入れ墨だらけの若い人が郵便局に来たときは驚いた
他にも暴力団の人がおいしい仕事だと言っていた
その暴力団がどこからかわからない人たちを身元もはっきりしないまた何かいかがわしい人達も連れて来ていた
その人達は放射線のことを気にしていられない、金になるとなれば来たとなる、だからそんなに厳しく放射線量を計っていたか疑問である
そういうことをしていると仕事がはかどらないからである。

ともかく原発で働いていた人は多いと思った、飯館村の人も働いていたという、でも長くは働かない、被爆するから長くは働かない、短期間のアルバイト仕事である
でも賃金は普通の三倍くらいになるからみんな原発の仕事を経験していたのである
いづれにしろ放射線で被爆して重症化したとか死んだ人がいるとか言われた。それも表には出なかった
厳重に管理して出さなかった、何か福島医大でそういう人の死体がホルマリン漬けにして保存されて研究の対象にもされているということも聞いた
それはやはり原発で働いた人がそう言っていたのである

原発事故から12年になる、もう今の十二歳はただ親から津浪の話を聞くだけになっている。
時間が過ぎるのは早い、でも12年過ぎても避難区域になった所は回復していない、双葉では学校も再開されていない、残った人達でも老人が多い、若い人とか子供はまれでありもともと少子高齢化で若い人と子供は少なくなっていた。
ここでは特に極端なものとして日本の未来が現実化した地域なのかとも見た。
ある人は小高に5000万かけて二所帯の立派な家を建てた
でもその子供たちは仙台市の方に移り住みその人は離婚した、今は原町区に家を買って住んでいる

原町は便利であり一人暮らしでも楽である、だから小高の人でも原町に移り住んだ人が多く小高でも避難区域は回復していないのである
なんか淋しいとなる、その原因はすべて津波や原発事故になるとは限らない、何かその人なりの問題もありそうなった。だからすべて津波や原発のせいだとはならないのである
少子高齢化も影響してただ空家の街のようになった
ただ空家はどこでも増えている、自分の家の回りは最近数軒家が壊され空地化した、街の通でも家が壊されて空地化している
ただ原町とか鹿島とかだと移り住む人がまだいる、その人たちは新しい家を建てているのが違っている
そういう人達はもう故郷には帰らなのである
だから復興はしていないし将来も復興はむずかしいともみる、そもそも日本自体が少子高齢化で人口は減り縮小してゆくからである。それがこの辺では極端なものとして現象化したようにも見える

とにかく震災から十二年は変遷した、風景も変わった
海側はもう前の面影がない、村自体が消失した、この辺だと八沢浦の湊村とか海老村とか烏崎村とから消失したとなる、それはもう回復しないとなる
確かに漁業をしているが何か真野川の放射線を依然として計測している、その仕事を県から請け負っているとかなる
原発事故の後始末処理の仕事はつづいているのである、廃炉事業でもそうである、これは長くつづくなのである
だからそこに仕事があり残っている人達もいるとなる
でもこの被害は余りにも大きく回復できない、復興できない、放射性物質は依然として残っている、これはなかなか消えないプルトニウムだと二万年消えないとういから空恐ろしいとなる。
これほどやっかいなものであり原発事故の後遺症は末代までつづく空恐ろしいものだったのである。 









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2023年02月04日

福島6町村の復興再生計画、事業完了率10%台  (原発避難区域は復興できない)

福島6町村の復興再生計画、事業完了率10%台 
(原発避難区域は復興できない)

親の因果子に報いとなるのか、必ずカルマが人間は作るのである
外部から見ると税金の無駄だというその不満があまりにも大きい
それはやはり復興を見ていると一向に進まない、それは地元の人でも同じである
もう無理であると正直に思う第一人が帰らない帰っているのは老人だけである、ということはもう未来がないということである
立派な施設を建物を作ってもそこで働く人がいないとか学校でも地元に住んでいる、親がいないので外から通ってくるとかその数もわずかである

そもそもは少子高齢化でありそれが影響したのである
子供がいないということはもう自治体でも維持できないということである
それはやはり今の親の責任であり実際は今の老人の責任とも言えないなぜなら原発を作ったのは60代であれ70代であれその上の親が作ったのであるだから親のカルマが次世代に負わされたである
そしてまた今の親たちがその子供へカルマを負わせて負わせたのであるお

このようにカルマは受け継がれる回ってくるカルマは責任のことなのであるそれは逃れることができない
親の因果は子に報いなのである
とにかく現状を見てもとても復興できるとは思えない第一みんな外で新しい暮らしをはじめて始めており子供でもその新しい場所で生活しているからそこが故郷になっているただ老人はどうしても帰りたいその心情は痛いほどわかる
私自身も老人だからである老人は故郷で暮らした歳月が長いだから老人は例えば老木のようになりその土地に朽ちる人間も植物や生物の一種だから自然とそうなるただそれを奪ったのはが原発だったのである
その責任は実際は今の老人というだけではなくその上の親でもあったその親がカルマを作り出したのである
ただ老人が故郷に住めなくなったという原因は住めなくなったのは今の親世代にある
深刻なのは町とか村の歴史が消失するということである

ということはその住民は必ずしも今生きている人が作ったものではない父祖の先祖があり作られてきたのである
その先祖にしても江戸時代からでありさらにその前に遡るのであるそういう歴史が消失するということが何を意味しているのかよくそのことがよく理解されていないつまり先祖もそこに住めなくなるということである先祖も死んでもやはりその場に生き続けるのであるその継続が歴史なのである歴史が失われるということは何を意味しているのかそれをあまり考えない
だから因果応報となったのであるともかく莫大な金をつぎ込んでも復興できない現実問題としては原発避難区域になったところはもう維持できない南相馬市だったら移り住んでいるそれも原町鹿島相馬市新地どこかに新しく家を建てて住んでいる私の住む近くにも住宅地がありそこに四五件の新しいうちがまた立った家が建ったそれは原発避難区域から移住した人なのであるつまり原発避難区域にはもう復興する気がないのである住む気がないのである

だからこそもう住民には住む意志はない未来とはwillであり意志なのである、その意志が消失したらもう復興できない
だから外から見ても湯水のように税金を注ぎ込んでも復興できないそれはそこに住んでる人自体の問題でもあるその人たちに住む意志がないのである
そこに根本的な問題があるそれは心の問題でもありどうにもならないということであるいくら復興させてもらいたいしてもらいたいと思っても内部でも難しいとなる
どうしたらいいのかそれで飯館村などはもう村として維持できない村として
だから南相馬市と合併するべきだとなるいずれ補助金は打ち切られるからである

ただ問題は放射性廃棄物場になることは周りに影響する
何かあるとその放射性物質物質が流れ出してくる現実に飯館村でそういうことがあったからだ新田川でも山側でも放射性物質が流れ出してくるからである
そして河野放射性物質は減っていないなぜなら狭い範囲にありそこに残っているのであるもし海の方に流れだせばそういうことはなかった
放射性物質は風で海の方に流れたので海側放射線量が少なかったのである、山側は堆積したのである
いずれにしろとても復興することは難しい住民にもその意志が無くなっているでも老人は帰りたいという心情は痛いほど理解している故郷の土になりたい故郷で死にたいそれは生物として当然なのであるただそれそれすら原発は奪ったということである
その罪深さははかり知れないいくらよその土地でいい暮らしをしたとしてもその失ったものはあまりにも大きすぎたのである

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2022年12月25日

原発再稼働の問題 (まず東京に原発を作るべきーそこが議論もされない)


原発再稼働の問題

(まず東京に原発を作るべきーそこが議論もされない)

電気料金があがるとかで原発は必要だと主張する、政府主導でまた原発を稼働させる
技術的にも改良したとから安全だという、そういわれても原発の被害にあった所では
ああそうですかとはならない、これだけの被害があったらもうこりごりだとなる
原発の問題を追及して来たけどそれは技術的な問題だけではなかったのである
もう政府が技術者とか御用学者とか官僚とか検察とか自衛隊とかが一体となって作られたものなのである
そしてその人たちが「安全神話」を作ったのである

実際はいろいろな不備があっても権力でごまかすことができた、その問題をないがしろにして官僚でも責任をとっていないのである、天下りした官僚は東電からもらった金を返却するべきだし財産没収しろというのもわかる
それだけの責任があったからである、でも実際はそうした責任をとっていないのである
マスコミも一体となり「安全神話」は作られたがマスコミも責任があっても何も責任はとらない、そこで利益を得るというだけだったのである

本当に一番欠けている視点は原発を東京に作れ!

そんなに安全なら電気でもたりないならその電気を一番使っているのは東京なのだから
東京に作るのが筋なのである、そして意外と東京は地形的に津波にも安全なのである
入江が奥まで入り込んでいるから海岸にじかに接して建ててある福島とかより安全なのである

でも絶対に東京には作れない!

東京では一千万人以上の人間が住んでいて政治家でもあらゆる権力が集中している
一千万人の都民が賛成などしないのである

だから東京には絶対に作れない!

だから福島に作ったのである

このことが問題だったのである

東京に作るなら賛成する、でもそれは絶対にできない、、それがおかしいのである
原発は必要だということはわかる、ならば東京に作れ、それなら賛成するとなる
それができないから原発は危険でも東京なら害にならないとして地方に作る
地方は財政的に苦しいから援助するから作ってやるとなる
でも事故になったら東京は安全であり地元は故郷に住めなくなったとなる
このことが最も矛盾しているし議論もしない、東京に作れということは議論にすらならない、それはタブーなのである
だから事故前に東京に原発を作れと言っていた評論家は正しかったとなる
でもそれは注目もされなかったのである、東京に作れるとういことこそ安全を証明するものだからである、東京都民一千万人を危険にさらすからである
でも絶対に東京には作れないのである、このことが原発の議論で欠けていたのである
東京の自分達の安全を計るが地方は犠牲になれとかでは納得できないのである

そして安全管理でも津浪が来たから事故になったのではない、技術的問題でもない
コストの問題でもあった、その時の社長はコストカッターとして社長に成りあがった人だとしている
本当は高い場所に建てる予定だった、でもわざわざ高く土盛りしたのを削って低くして
地下に電源を置いたのである、それで津波の被害にあった
地下に電源を置いたのはアメリカでは竜巻があり地下に置いていたからまねたのである
またアメリカ主導で作られたこともある、まだその時日本では原発のことを技術的に理解していないかったからだ、それで古いマーク1の原子炉をお古をアメリカから売りつけられたのである

それで湯川秀樹博士は日本ではまだ原発を作れる技術がないからまだ時期早々だと言っていた、でも無理やりに作ったのである、原発の問題は技術的な問題だけではない、モラルの欠如もあった、奢りもあった、10数メートルの津浪が来ると東電が頼んだ学者たちが警告していたのである、それも無視したのである
そこには様々な問題が指摘されていても無視したのである
それで東北電力の場合は副社長が10メートルの高さから津浪が来るとして5メートルを高く所に作った、それで破壊を津ねがれた、三陸では度々津波が来ているので危機感があったからである、女川原発ではそうしてぎりぎりで助かったのである

原発は地元であれ第一その内部も知ることができないし立ち入り禁止である
アンタッチャブルな場所になっていた、そこに危険があった、素人が立ち入りもできない場所になっていた、でも安全管理はずさんだった、配管などが老朽化して危険だとも内部の技術者が指摘していた、でもそれを上の人に言うこともできなかった
なぜなら東電の人には下請けの人は何も言えない、仕事をもらえなくなるからである
でも原発のことがすべてわからないということでもなかった
なぜなら

巻町では1995年2月5日には、計画の是非を問う自主管理住民投票[6]が行われた。これは条例に基づく町役場による実施でなく、町民有志が設立した「巻原発・住民投票を実行する会」が取りまとめたもので、原発賛成474票に対して反対9854票であった[1]。
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このような限界集落があるような所で良く反対できたと思う
素人でも危険と感じてそうできたのである、だから別に素人だからわからないから何もできないということではなかったのである

要するにアンタッチャブルになり立ち入り禁止になり住民はそこに何ら関係すらできなかったのである、でも一番被害があるのが住民なのだから住民に例えわからないにしろ説明すべきだった
でも事故を全く想定していない「安全神話」を作り事故は起きないとして受け付けなかったのである、その権力が政府から官僚から議員から検察からマスコミが一体として「安全神話」は作られたのである、そしてそれが津波で砕かれたのである
地元の人達はただ金をもらえばいいとしかなかったのも問題だった
生業を返せとか裁判して勝利したとしてももともと生業が何なのか、金にならないとしてやめたいとなっていたのである、でもやはり責任は政府と東電とか官僚にあった
「安全神話」が作られて事故が起らないとなれば事故に備えることもないとなる
実際は安全だと題目でも念仏でも安全、安全と唱えていれば安全だともなっていたのである、科学者集団でもそうなっていたのである、それは責任逃れだともなる
科学の時代にそんなことが通用するのかとなる

とにかく原発再稼働昨今の事情で容認されつつある、これも危険である

まず東京に原発を作れ!それなら容認する

でもこれは議論にもならないのである、原発を何基か東京に作れ、そうならば認めるとなる、しかしそれは絶対にできないのである
そこが原発が認められないことにもなる、安全ならできるからである

そして一度失った信用は簡単に取り戻せない!

人間個人でもそうであり会社でも国でもそうである、事故の被害にあった所ではもう信用できないのである、政府も官僚も検察でもマスコミでも信用できないのである
このことが重大なことなのである、安全だとか技術改良が進んでいるとかなんとか政府が言っても信用できないである、そもそも政府の決めることかみんな信用できるのかとなるとならない、それを原発では嫌というほど知ったからである

つまりに人間のやることに絶対はありえない、事故は絶対にないとは言えない

でも絶対に事故はないとか安全神話を作ったことが大きな罪だったのである

絶対と言えるのは神しかいないからである、人間には必ず不完全であり不備がある、それを認識するべきだったのである
それを隠してただ安全だけを言っていたのである
絶対安全だからとして安全神話を作り事故にも備えなかった、そして浪江町では一番危険な場所に津島の方に避難して被害を大きくしたのである、でも東電の社員が海側が安全だとして山の方に向かって逃げていたが引き返したのである
東電の社員は放射線がどういうものか知っていたらできた、てもそうして事故が起きたのことの備えをしなかったし知らせることもなかったのである
それは「安全神話」作っていたからである、事故は絶対に起きないものとしていたからである
それが最大の問題だったのである

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2022年12月15日

政経東北はなぜ渡部恒三を持ち上げるのか? (メデアに中立はない、マスコミも原発事故では共犯者だった)


政経東北はなぜ渡部恒三を持ち上げるのか?

(メデアに中立はない、マスコミも原発事故では共犯者だった)

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なせか今の南相馬市の門馬市長は批判されている
でも桜井前市長は批判されないのである
この理由が良くわからないのである



●政経東北が渡部恒三を今も持ち上げるのは何故なのか?

ただこの福島第一原発は3〜40年が稼働限界だとされていました。
その前提に従い前福島県知事佐藤栄佐久は原発を廃炉にすべく手続きを行い徐々に機械を停止させようとしていた。
原子炉の寿命を延ばし能力を上げるプルサーマル計画も許可しない方針で、一時期には完全に停止させています。

この現福島県知事、民主党佐藤雄平という人物はナニモノなのか?
でちょっと調べてみたんですが、渡部恒三の甥なんですね。
つまり叔父さんが誘致した原子炉を自分の代で廃炉にしたくなかった、というかなり個人的な理由でプルサーマル計画を受け入れた可能性がある。
まあまんざら渡部恒三に原因が無いわけでもない

しかし、中曽根康弘、正力松太郎に源流をもつこの国の原発推進策に、なんら疑問をさしはさむことなく、福島はもちろん全国に「原発安全神話」を吹聴してきた一人こそ、渡部氏その人ではなかっただろうか。

「私の選挙区福島県は日本の原発の30%を占めているが、そこで育った私はこの通り元気いっぱい、健康そのもの。原発をつくればつくるほど国民の健康は増進し国民は長生きし厚生行政は成功してゆくのではないかと思う」。

ばかばかしくて、このブログにのせるのも憚られるが、渡部氏の支離滅裂な思考法や、おべっか使いの人間性を物語る挿話としては、なにがしかの意味があるかもしれない。

衆院や参院の議長といった名誉職に就くことだけが残された政治家人生の目標であるに違いないこの人物を、黄門様だのご意見番だのと持ち上げて、何かにつけてコメントを求めるマスメディアは、いまいちど、彼の言行録を総点検してみてはどうか。
https://ameblo.jp/aratakyo/entry-10881034842.html

渡部の甥の 佐藤雄平 は福島県知事で、
黄門さまと共同でアメリカ企業のご機嫌を伺って原発推進してました。
国会議員一人の力でここまでたくさん原発作った例は過去に一度も無い。
同じ原発王国の福井や新潟と比べてもその差は歴然。

しかも発注したのが米GE社製不良品だったからこのザマ。
そのうち渡部恒三が昔この原発宣伝してた映像が出回るようになって議員辞職確定だろうhttps://armchairanthroposophyst.hatenablog.com/entry/20110321/1300675636


福島原発事故は人災だ。渡辺恒三は誘致した責任をとり即時議員を辞職して放射の悪被疑者に詫びよ。日本の悪党たち(官僚。大手メデイア11社。既得権益勢力。など」と裏で連携し小澤さんをいわれのない(疑惑」で追い落とす民主党内の悪党の先導役をしていた渡部恒三のような裏切り者が福島県民を不幸のドン底へ追い込んだのだ。

渡辺恒三は福島県で一番力を持っていたんだろう
そいつが口だけではない、実際に第一原発の土地を持っていた!
これは責任を逃れようないよな
佐藤えいさく-前の知事は原発反対だった
それで甥を知事にした
そんなこと福島県のメデアでも誰も追求していない
福島県も原発利権にどっぷりととりこまれていた
それで外部から福島県が自業自得だというのは福島県民として辛い
福島県民も監視役もないしみんな原発の危険性を言う人はいなかった
南相馬市は原発から遠いと思っていたから自分も大丈夫だと思っていた
原子力には無知だったし無知にされていたのだ
それが今回の苦しみを生んだのだ

「原発で長生き出来る」などとほざいていたくらいだから。

事故以後にまったく顔を出さないのが甚だ怪しい。
自分の出身地であり選挙区でもある福島県が危機に瀕しているのにもかかわらず発言も聞かない。
普段なら出るなと言っても出しゃばる男なのに。
本人は原発利権と裏切りの人生、息子はCIA工作員、甥がMOX(モックス)知事・・この一族、終わってるな。
http://www.asyura2.com/11/senkyo111/msg/439.html

●なぜ政経東北では渡部恒三をもちあげるのか?

●南相馬市の前市長の桜井氏をもちあげるのか?

●相双リテックを裏表紙で堂々と宣伝していたのか?

政経東北の12月号で渡部恒三記念館ができたとか政経東北は原発事故前からその後でも持ちあげている、これは異常ではないか?
なぜそれほど持ち上げるのか、原発事故前ならまだわかる、そもそも原発については隠ぺいされてわからなかったからだ、その隠ぺいされたことは権力によってそうさせられていた
原発は国が主導して県に命令して南相馬市とか相馬市とか地元とか双葉町でも大熊町でも自治体に何ら反対することもできない仕組みになっていた
強力な国の権力と東電が一体になり作られていたのである
そしてその利権は余りにも大きいものだったのである、庶民には想像を絶するものだった原発事故以後も補償金だとか除染とかで十兆円とかの規模にもなる巨大なものだったのである、国家的事業であり太平洋戦争とも似ていたのである
だから地方自治体にどういうものか説明もされない、何か原発自体立ち入り禁止であり
アンタチャブルな領域になっていた、ブラックボックスになっていた

そこに政府官僚が検察でも警察関係者でも海上自衛隊でも天下りしていたのである
その強大な権力に反抗することもなにもできない、そもそもその内部のことなど立ち入り禁止であり知る術もなかったのである
そもそも国ー県ー自治体があるとしても自治体は関与できなものでもあった
そこに御用科学者もいてもう何もできない、調べることもできない、鉄壁の権力で作られていた
そこにマスコミでも福島県のマスコミは何ら危険を知らせるとかなかったのである
それより原発推進でありそのために電事連から800億円がありそれが宣伝費として回っていたのである、これも巨大な想像できない金である
そして原発事故があったときマスコミ関係者の幹部が中国に招待されていたのである
そこに朝日新聞社も招待されていたのである
つまりこれだけの権力を持っている組織が原発の「安全神話」を作っていたのである
これは鉄壁の布陣であった、それを砕いたのはマスコミでも何でもない、津波だったのである、とてもこれだけの権力になったら人間では破壊できないものになっていたからである

●読売新聞社の正力松太郎が最初の原発推進者だった

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読売新聞の日本テレビ系が創価の宣伝をかなりしている、宣伝費が相当に入っている


そもそも原発は読売新聞社の正力松太郎がかかわり作られたのである

 正力は野望実現のために、当時の吉田茂首相やアメリカとの交渉に奔走した。しかし、正力はほどなく一つの結論にたどりつく。それは、野望を実現するためには自らが最高権力者、すなわち日本の首相になるしかない、というものだった。そして、正力は同じく当時将来が嘱望されていた原子力発電は、そのための強力なカードになると考えた。しかし正力の関心はあくまでマイクロ波通信網であり、原発そのものは正力にとってはどうでもいい存在だった。
 当初はアメリカも、弱小紙だった読売新聞を大新聞に育て上げた

何かマスコミとかその背後関係はわかりにくい、正力松太郎はCIAのスパイだったという
戦後日本を支配するためにそうなった、戦後はいづれにしろアメリカに負けたのだから
アメリカに従属する他なかったのである、だからアメリカの力を借りて読売新聞社と日本テレビを作り育てたのである
こういう裏があってもマスコミは原発事故後はそれを明らかにしていない
読売新聞社でもその創始者を批判したりしない、そしていかにも事故後は原発事故の避難者とかを助ける方に回って援助していると積極的に加担したとなる
それが矛盾していたのである、自分達の会社の非を知らせずに原発避難者に協力している地元の人達はそれを知らないのか批判もしなかったのである

マスコミもこうして利権にあづかっていたから原発の危険を知らせることもなかった
例えば潮とかの雑誌を出している創価の聖教新聞でもそれがマスコミで二番目くらいに多かったのである、環境保護となにか原発を表に出さないでうまく原発推進の広告を出していたのである
創価とはともかく権力を得ることしか頭にない、だから利権となればどんものもでも食いついてゆく貪欲なのである、それが危険でもなんでもかまわないのである
創価の雑誌でもまず広告費をとることだと発破をかけている
新聞とかテレビで一番大事なことは真実を知らせることではない、広告費をとることなのである、その最大の広告費をだしてくれのが電事連とかになる
その額があまりにも大きいからである、つまりマスコミはそもそも報道するだけで金がかかりすぎるからそうなる、社員の月給でも払わなければならない、新聞だったらいちいち一軒一軒配達しなければならない、新聞をするだけで金がかかりすぎるのである
それで福島民報では創価の聖教新聞を刷っているのである
ここからして今統一教会が責めているが創価を福島民報では責められないのである

つまり福島県のマスコミ自体が完全に政府であれ官僚であれとりこまれていた
だから原発の批判できなくなっていたのである
福島民報は県で50パーセントも出資もしている、県や政府の広報機関になっていたのである、今ではインタ−ネットで盛んにこうした既得権益を持つものを批判するようになった、ただ11年前の原発事故だとまだyoutubeとかは盛んでなかったようである
何か権力を持っている批判しにくいのである、最近なぜあからさまに統一教会問題でカルト教団が批判されてそのために創価でも批判される
それはやはり会員数も減り票も減り弱体化しているからたたくようになったのである
これからますます弱体化すればその悪は暴露されてゆく、渡部恒三でも現代の水戸黄門様とかメデアでもてはやされていたことでもわかる
でもその黄門様が悪徳代官でもあったとなる、そうなったのは津波の力でもあった
もう人間の力ではその悪を暴露などできなくなっていたのである



●いかなる報道機関にもメデアには中立はない

マスコミが矛盾しているのは政経東北でも盛んに原発の責任とか情報発信して批判している、でも政経東北自体が悪の権化ともなく渡部恒三を未だに持ちあげているのか?
ここに何か裏がありもともと資金も入ってきたためのなのか?
そのことは相双リテックの宣伝をしていたことでもわかる、その会社は除染の費用何十億を幹部が山分けしていたからである、つまり政経東北もまたその利権にあづがっていたのである
それで原発関係のことで記事にしているけど矛盾がある、自らが襟を正さなければ真実の報道もできないとなる
ただメデアには中立という意味があるけど中立でありえないのである
どんなメデアでも人でも中立であることはむずかしいのである、その中立でありえないのは必ず利権がかかわるからである、人間はやはり金に左右される、金をくれるならおめこぼしするとなる、また積極的に宣伝もするとなる、それは費用がかかりすぎるからであるもしインタ−ネットで報道するならプログなどでするならまたyoutubeでもするなら金はかからないのである、手間はかかるとしても金はかからない、すると中立でも真実の報道はできるのである、私自身がそれをしている、誰からも金などもらっていないからである別にもらわなくてもできるからしているのである
それは影響力もたいしてないから注目もされていないからだともなる
でも原発事故では現場にいた一人だからやはり報道するには有利だったのである
内情がある程度わかっているし自分自身とも深くかかわるものとなったからである

原発事故では報道もマスコミも批判された、確かなことは報道は報道するものによって必ず偏る、自分たちの有利なように報道する、それはいかにも中立を装うNHKでもそうである、NHKは相当に偏っているのである、原発事故でも津浪の被害者より原発事故の被害者の方を優先して報道した、その数も多いからかそうなった
そして地元の人でない人は津波の被害者と原発の被害者が同じ地域にいた
仮設住宅にも団地のような所にもいた、そしていわき市の方で暗に津波被害者が原発避難者に冷たいと言わせていた、それは津波被害者は原発避難者のように補償金をもらっていなかったからである、そこに不満があり仮設でも一緒にいても話すこともなかったとなっていたのである
でもなぜ原発避難者側に味方する報道をNHKはしたのか?
それは幹部達が協議して今話題なのは国民の関心が原発避難者にあるは見たかららしい
とにかくNHKは金には困らない、余っているとしても中立ではないのである
そもそも中立な報道機関はないのである、何かしら偏っているのである
個々人でも争っているとき双方の意見を聞かないと判断を誤る
何事賛成反対がある、だから一方だけを話させるとき不公平になり判断を誤るのである
だからかえって赤旗であれ聖教新聞であれ偏っていてもそういうものだとして見ている
でもNHKとかは他でも中立を装うから偽善にもなる、実際は中立ではないのである

今年も終わりになるが原発事故関係ではあまり書かなくなった
日本全国でも関心が薄れている、でもこの原発事故や津波の被害は世紀末的な大きな事件だった、だからこれは歴史的にも大きな事件であり後々まで追求される
そして真実が明らかにされる、その時権力を担ったものが責任があり追求される
権力を持つことは大きな責任をともなっている、現代ではその責任は金になる
金を多く持っている人は責任がある、一万には一万の責任があり十万には十万、百万には百万、千万には千万、一億には一億とか十億には十億とか責任が課せられているのであるそして悪事は隠ぺいできない、いつか暴露される、それには時間がかかる
一世紀とかかかるとか歴史だともう千年前のことでも悪事がようやく暴露ささて語られるとかなる、でもいづれにしろ悪事でも隠ぺいされたままにはならない、いつか何らかの切っ掛けで暴露される
その悪事も暴露するのがマスコミなのだけどそれが何の役目も果たさなかったのである
むしろ悪事を推進する方にもっないたのである、だからマスコミは信じられない、その権威は失墜した、インタ−ネットでも問題はあるが報道もマスコミだけではない何も権力もない人でも報道して批判している、突出していたマスコミの報道も水平化されたのであるだから独占権力だったマスコミは驚異となった、もう新聞を見ない、テレビも見ないとなるとその役割は終わったとまでなるからである
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2022年12月02日

大アマゾン 最後の秘境―NHKスペシャル (森林破壊と原住民の抵抗ー原発事故との比較)


大アマゾン 最後の秘境―NHKスペシャル

(森林破壊と原住民の抵抗ー原発事故との比較)

●原住民が守るアマゾンの森

しかし、農民は作物や家畜を育てるために森林を焼き払っていて、ボルソナロ大統領も先住民の意向を優先していない。

2019年に入って火災が急増している背景には、ブラジルのボルソナロ大統領の方針もある。大統領は、先住民よりも農民を支援しており、先住民の土地をこれ以上、保護が強化される先住民族保護区に新たに指定しない意向を示している。大統領は先住民を動物園に閉じ込められた動物にたとえる発言さえしている。


ブラジルは(中略)かつては穀物の輸入国でした。しかし、1980年代、日本も協力した農業開発により、ブラジルは大きく発展しました。熱帯地域で初めて、近代的穀物農業を実現させたのです。

弓矢とスマホ,アマゾンの先住民のテンペ族の知られざる生活

アマゾンの森が破壊されている、火事になるのは放火らしい、火事にして森を焼き払いそれを耕地にする、広大な土地に大豆とかを作る、それに日本の企業も応援している
輸入するために応援している
それで森を守るために抵抗している原住民がいる
でもその原住民がYIFIで衛星通信ができていて世界中に発信している
これも不思議である、原始時代から21世紀の文明と結びついているとなる
良くパソコンを操作できると思う、それだけの知能があるのが不思議だとなる

また黄金がとりに無法者が集まっている、そして原住民が反対するので銃撃している
これはまるで映画を見ているようである
まずアマゾンの広大さは知り得ようがない、そこに何があるのかもわからない
でもなぜこういう問題が起きたのか?

それは依然として森に原住民が原始時代のままに生活していたからである

これがポイントなのである、森を守るというときそこに動物とか植物しかなかったら
そういう抵抗は起きないのである、誰も反対する者がいないからである
そうなると根こそぎ森が破壊される、木材もあるから取り放題にもなる
そして貧乏な人達はどうしても生活しなければならないから森を残すより金になることを第一とする
環境保護といっても金にならないとそれだけではできないのである
だからこそ農地にもするし黄金でもとりにゆくのである
自然保護というときただそこで観光するというだけでは成り立たない、自然保護というとき自然の中で生活している人達がいて成り立つのである

●原発事故では農業、林業、漁業でも衰退して守る人がいなかった

これを原発事故と比べると興味深いとなる、なぜ原発が福島に作られたとか、原発で住めなくなったのか考察してきた、それもいろいろあり複雑である
ただ原発に反対する人達が福島県の地元にはほとんどいなかったのである
その理由はそもそも農民とかもちろん狩猟採集して生活している原住民となるのか縄文人となるのかそんなものはいない、でも農民はいたし漁師もいたのである
その割合は一割くらいであり少ないのである、何か田舎だと田畑で囲まれているから農業で暮らしているように見えるけど違っている
みんな会社員であり工場とか会社で働いているのである

戦前とか戦後十年くらいは農民が8割とか6割の時代があった

すると農業だと自然と密着している生活だから原発で汚染されるとなれば危険となり反対していたかもしれない、なぜなら放射性物質に空気でも水でも土でも水でも森の木でも汚染されたら生活できなくなるからである、その頃森林でも木材は国産であり外材でなかったからである

ではなぜ原発に地元の人が反対しなかったのか?

アマゾンの原住民のように生活していない、農民は確かに自然と密着して暮らしていたとはなる、漁師でもそうである、でも農業でも漁師でも金にならないからやりたくないとなっていた、後継ぎもいないとか言われた、それで農業をやるなと親に殴られた子もいた
その人は原発で働くようになったのである
そして知らなかったが烏崎とかでは漁港があるが火力発電所が建ち次に原発が作られた
漁業組合では補償金が入り原発御殿が建てられたとなっていた
そこで回りの人達がうらやましがっていたのである

烏崎だと火力発電所が建った時にも補償金をもらいそれは40年前頃でありヨ−ロッパに旅行していた人がいたのである、その頃飛行機代が高くて50万していたとかできない時代でもしていたのである、そして次に原発が建ちそこでも事故前でも事故後でも億の補償金をもらっていたとかなる
だから魚をとらなくても十分に豊かな暮らしができていたのである、事故後でも十分な補償金がもらえているから事故後にすぐに立派な家を建てたのである

もし漁業だけではそんな豊かな生活などできない、だからアマゾンの原住民とは比べようがない、ここの住民はすでに電気でもガスでも電気でも車をもって都会と同じ文明の恩恵にあづかった生活をしていたのである
でもアマゾンの原住民は原始時代と変わらない生活をしていたのである
だからこそ森が破壊されると生活できなくなるからこそ激しい抵抗になったのである
ここではそういう抵抗がなく金になるとういことでかえって積極的に原発を誘致したのである

●農業社会から工業社会の変化で自然と密着した生活が少数者になっていた

双葉とか大熊とは浜通りでは僻地とかなり出稼ぎ者が多いので地元で暮したいとなり原発を誘致したのである
ただもし戦前とか戦後まもなくとか農民中心の社会だったら原発で汚染されたら生活ができないと反対したかもしれない、いくら補償金をもらうとしてもやはり生活そのものができなくなるとかなると反対する、だから東電に生業を返せと検察に訴えて裁判して勝訴したとなる
でもその生業自体がこの辺では全国でもその比率は一割とかしかなくちなっていたのである

それで浪江の電気工事関係の人は回りの田んぼが草ぼうぼうになっていても関心がない
かえって補償金もらって良かったとか言っていたのである
別に食料なら外国からも入っているのだから困らないかである
そういう社会の変化の中で原発に反対する人もいない、積極的に地元でも誘致したとなる人間は利益になるとなれば血眼になる、殺人すらする、黄金を求めて無法者が集まるのもそうである、麻薬でもそうである、黄金となれば原住民を殺してまで得ようとするのであるだからこの辺で原発に反対したりしら地元の人に殺されかねない危険なものになっていたかもしれない、なぜなら反対する人がいなかったからである

その理由はやはり社会の変化にあったともなる、農業社会ましてや漁業でも規模が小さい特に浜通りは宮城県の十分の一くらいしか魚でもとれていなかったからである
すると補償金をもらった方がいいとなっていたのである
人間は自然保護とかいってもそこで生活するとなると自然保護は金にならないのだから
積極的にはならない、でも原発は金のなる木だったのである、黄金を産む玉手箱ともなっていたのである、だから他の原発がある所でも同じようにその利権が大きいから金が入り裕福になっていたのである

ともかくこのアマゾンの問題は何か世界の現代の縮図ともなっている
二酸化炭素を制限するとき森が必要だとなる、その象徴がアマゾンにもなるからである
そこに牛を飼い農業をするために森が破壊される、でもそこに住む者にとっては何か金になるものが必要でありそれを無碍に否定することもできないのである
そもそも人間の歴史が自然破壊にあった、農業自体が自然破壊であった
なぜなら焼畑農業は森を焼いて灰を肥料として成り立っていた原始的農業だったからである

つまり職業とは人間の業(カルマ)なのである、何らか自然を破壊しなければ生きていけないのである
アマゾンの原住民は自然を破壊することがない、そこに農業すらない、狩猟採集時代から進んでいなかっんたからである、農業は大きな文明であり進歩である
それがトラクターとか機械で広大なアマゾンでもその森が破壊することができるようになったからである、もし手斧暗いて森を破壊しようとしたらあれだけ広大な森を破壊できないからである

●山尾三省は農民になることで幸せを感じていた(郷(くに)に生きるとは

それで不思議なのは山尾三省なのである、この人は原始人にもどり農業をしようともした人である、文明に逆らってそれを屋久島で実践した人だとなる
それはアマゾンの原住民と似ているのである、現実にこの辺でそうして「部落」とか言ってそういう原始時代の生活をまねてしていた人達がいたからである
それで不思議と原発のことを批判していたのである
それは批判だけではない、自ら実践していたのである
農業の尊さとか自然に暮らすことの意義とかを詩にしていたのである
そういう人は今ではテレビで話題にする変人となりまたテレビで面白い風変わりな人として紹介される
でもそいいう人は時代が時代なら当たり前の人だったのである、だからめずらしくもないのである

彼が求めたのは理想の国は大きな国ではない、小さな国である、日本全国にある小国の地名がありそこがそういう場だとなる

奄美の郷(くに)
奄美の郷人(くにひと)
沖縄の郷
沖縄の郷人
アイヌの郷
アイヌの郷人
・・・・統治のない 郷(くに)
原子力発電所のない郷
核兵器のない郷


何万年も消えぬ
スリーマイルとチェルノブエリノブエリの灰を足下に踏み
三十三基の日本原子力発電所の炎を足下に踏み
なおも
なおも
人間を希望として
わたくしとして
より深く ただいるここに 在るほかない

山尾三省の不思議は常に原子力発電所を拒否するものとして書いていたが実際に原発がなくても生活はできていた
ただそうなるとまねはできない、パンが贅沢だとも言っていたからである
そんな生活を良しとする人はいない、むしろ田舎の人達の方が今は都会人と変わりない欲望を持っているし金が欲しいとなっている
でもなぜ山尾三省がこれほど田舎の生活に恋い焦がれ実践者になったのかとなる
田舎に住んでいる人でもこんなに憧れということはない、別にそれが日常だからである
この人はアマゾンに暮らす原始人に原住民になりたかった人だとなる
その原住民が現実にアマゾンにまだ生き残っているのである
そしてアマゾンを郷としてその森を聖なるものとして破壊されることに抵抗しているのである、それは部族全体でそうなっているから違っている
文明社会ではそういう人は変わり者でありそういう生活をむしろ否定してきたからこそ
原発が金になるということで積極的に誘致したからである

でも故郷に郷(くに)に住めなくなったとき蝋燭でも家族と一緒に故郷で暮らしたいというようにもなったのである、郷(くに)があってそこに住むことの価値を見出したとなる
人間は確かに科学技術は様々な恩恵をもたらした、でもまた失ったものもある
それが原発事故で自覚させられたのである
空気が土が水が森林が木材が・・・・汚染されたら住めないということである
原発がそういうふうになることを知り得ようがなかったのである
郷(くに)というのは本当はかけがえのないものだった、そこが生き死にの場でありアイディンティティの場になるからである
それは国家とか行政的単位ではなく国(くに)とは精神的な場でも代々継続する先祖とともに生きる場でもある、でもその国を大事に思うより金だとなったのが現代である
だからこそ東電に漁業関係者でもこの土地に住む人でも金になればいいとして積極的に誘致したのである

もっとパンでもなんでもうまいものが食べたい
もっといい車がほしい
立派な家が欲しい
とにかく金が欲しい・・・・

欲望がきりなくなったのが現代である、だから山尾三省の生活とは何だったのだろうとなる、それは現代文明へのアンチテーゼとなった、その生活そのものがそうである
この人は何なのと理解しかねるとなったのである
農民でも漁師でもそんなこと思っていないからである、むしろ農業はしたくない、漁業でもしたくないと後継ぎがいなくなっていたからである
でもこれほど切実に農民になりたい自然の中で暮らしたいと思っている人がいて実践したということが重い意味がもっているともなる

現代社会でそれが奇異なものとなったこそ文明自体が問われているともなる
なぜならそもそもそういう生活が常民をしてきたからである
確かに貧乏ではあったがそれでも人は生きていたしその生活は継続されてきたのである
なぜなら不思議にその時飯館村でも一万の人口があったとか農村山村に人口が多かったのである、引揚者は開拓に入ったにしろそれだけの人口を養っていたのである
今はどこでも半減しているし限界集落にもなっているく
山尾三省がこの辺に飯館村とかに生活していたら記念になるものとなった
他にも部落とか山村の生活をあえてしていた若い人もいたが撤退したのである
いづれにしろ山尾三省の生活とか思想に共感する人は農民でも漁民でもいない
パンも食べれないのかそんな生活嫌だとなるからである




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2022年11月09日

浪江町の大堀へ行くー10年過ぎても悲惨 (街中の食堂が増えホテルはにぎわっている―外部から若い人も入っている)


浪江町の大堀へ行くー10年過ぎても悲惨

(街中の食堂が増えホテルはにぎわっている―外部から若い人も入っている)



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大堀村の寺や神社

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大堀村の寺−陶家とかあるから大堀らしい


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金毘羅とかめずらしい―愛宕神社

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根っこが残りそこに古い碑があった墓がある

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山津見神社があったーその脇に大塚東照宮があった
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この清水が飲みたいと思ったが汚染されていると飲めなかった
でもこれは湧き水だとしら汚染されていないかもしれない
こういうところにまだ原発事故の影響がある
ただそもそも清水とか山の水は意外と動物とかにも汚染されているのである



震災時、浪江町には約2万1千人が暮らしていた。今年2月末現在、町内居住者は1596人町に住民票がある人は1万6650人。今も多くの人は避難生活を続けている。

(2021)

 東電の賠償金は原発からの距離などに応じ、有無や額が異なり、原発周辺の住民が「賠償金をもらっているだろう」と妬まれるケースも珍しくない。「家を建てても避難民という気持ちが消えない」。津島の美しい星空や家族同然の地域の絆は、賠償金でも取り戻せない。同じ津島の避難者宅を訪ねるのが楽しみだが、10年を経て連絡がとれなくなってきたという
 https://mainichi.jp/articles/20210310/k00/00m/040/190000c


 震災前、浪江町には6つの小学校と3つの中学校に約1,700人の生徒が通っていたが、今は、2018年に完成した「なみえ創成小学校・中学校」に通う約20名だけだ。児童・生徒が戻らないことから、昨年、7校を2021年4月に一斉に廃校し校舎を解体することが決まった。





浪江町に入ったら立派な家がある、庭に大きな石がある
でも人は住んでいない、原発避難区域では結構立派な家がある
でも人は住んでいない、それがもったいないのである
ここの家でも立派な岩があると見て帰った
小高でも紅葉がきれない庭があり家があった
庭に興味があるが人が住んでいないのでもったないと見る

浪江町の大堀から高瀬川に行って来た、大堀は陶工の家が空家化して廃墟化していた
陶工の家が30軒くらいあったのか、細い道を分け入るとこんなに陶工の家があったのかと見た、ある所で相馬焼きの焼き物が散乱していた、あれはなぜかたづけないのか?
結構高いものがあるが放置したままなのである
一時緊急避難しても帰ってきて相馬焼きの焼き物を整理して持って行けばいいとも見た
おそらく帰ってこないし焼き物もしないので放置したのだろう
入り組んだ道に陶工の家がありもう誰も住んでいない
ただ来年はここも避難解除になる、でも入ることができた
ここは震災前のままであり放置されたままである、ただ除染の人達がいた

あんなふうに荒れ果ててしまうのもショックである、陶工はみんな福島県であれ各地に分散した、だから相馬焼きをまとまって窯元で伝統を支えることはできなくなった
窯元が集まり技を伝いまた新しいものを作りだす場が窯元だった
そこが高瀬川の岸辺になり立地に恵まれていたのである
そしてそこは江戸時代からの歴史があった、相馬焼きは青ひびとかの技は各地に伝えられたのである

 むかしから そのむかしから 学校の
やねも お空も つんぬいて
大きくのびた かきの木は
みんなの そだつ 目じるしだ
2. 遠い道 夕やけ雲の お山から
海までつづく たかせ川
あゆも かじかも かにさんも
みんな なかよい おともだち
3. おじいさん おとうさんも かあさんも
べんきょうしたのは この学校
わたしも あなたも あとついで
みんなで ぐんぐん のびるのだ

大堀小学校の校歌であるがここに柿の木がでている、それで私は震災前にたずねて柿の俳句などを作った、柿がふさわしかったのかもしれない、それにしてもその荒廃は悲惨である、震災の時そのままであり捨てられた感じである

わたしも あなたも あとついで
みんなで ぐんぐん のびるのだ

このあとつぐ人が子供が消えたのである堀小学校の跡は荒地になり鳩を手にもった少年像が残っていた、なんともわびしいとなる

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大堀小学校の跡地
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中に陶器がまだある店がある
陶器が散乱して放置されている所もあった
おそらく放置したままで帰らなくなったのかもしれない

●大堀には古い歴史があった―神社をたずねる

大堀は江戸時代からの歴史かあるから神社もある
そして山津見神社が高い所にあった、これは発見だった、こんなところまであるのかと驚いた
とにかく相馬藩の地域には綿津見神社と山津見神社が多いのである
これは一対としてあり飯館村には綿津見神社と山津見神社がある
それは安曇族の海人族が入ってきた証拠なのである
だから小高の海岸にも綿津見神社があり浪江町の大堀にも山津見神社があった
それだけこの辺は安曇族が古代に最初に開拓に入った場所なのである
本当にこれだけ綿津見神社と山津見神社があることは驚きである
後は愛宕神社とか天神社とか他にもあった
江戸時代からのものであるが山津見神社は古代に由来するから注意すべきである

この耳塚に埋められているのは、八面大王の耳であると言われている。八面大王はこの安曇野地方の伝説では鬼とされ、悪逆の限りを尽くした後に坂上田村麻呂によって攻め滅ぼされたとされている。しかし蘇ることを恐れた田村麻呂は、八面大王の遺骸を切り刻んで各地に埋めたのである。耳塚はその耳を埋めた場所であるとされているのである。
https://japanmystery.com/nagano/otuka.html

大塚神社が城県とかにもあり他にもある、全国的にもある、九州にもある、この大塚は何なのか?津浪の被害にあった磯部の近くにも大塚神社があった
これは全国的に多いがその由来がはっきりしないのである
大塚とは塚だから墓であり古墳に由来するのか、謎である
ただここで安曇地方に関係していたことがうかがわせるものがある
安曇はまこ海人族であり何か土着の人々が大和王権に逆らったから伝説として残されている、ただそれが大塚とどういう関係になるのかわからない
つまり塚というから大とは王の意味だともしている、つまり王の塚⇒王塚⇒大塚となったこれは天皇と関係しているのか?なぜ全国にあるのか?地域の王であり天皇とは違ったものなのか、何らか古代は安曇族でも全国的に大和王権に天皇が全国の唯一の王とはなっていない、そういう時代に地域の王を埋めた所が古墳が大塚がありそれが大塚となったのか
ただ安曇族の山津見神社の脇に大塚東照宮とあるのは大塚と王のことであり東照宮とは家康のことである、つまり王なる家康となるがもともと大塚と安曇族が関係していてそうなったのかとなる、家康が王となったので大塚とはもともと王から由来すると王なる家康となるのである
他に愛宕神社とか天神社があった、この由来も何なのか、神社には由来が不明なものが多いのである
ただ地域でも地域の地域でも古い神社がありそこには人がもともと住んでいて継続していたのである、その継続が原発事故で断たれたのである
でもまた全国的に人口が減って過疎化して限界集落となり村自体の歴史が失われてゆくのが日本だとなる

●高瀬川溪谷へ行き帰る

高瀬川の渓谷へは交通止めがあったが入ることができた
紅葉の渓谷で水墨画のような風景になっていた
11年ぶりに来たがやはりここの風景は特別である
車が一台葛尾村の方から来た、車も通れないことがないのかもしれない
でも車は二台くらい通ったがやはり交通止めになっているからだろう
ここにトンネルが二つくらいありそこを目指して走って来た
でもなかなかトンネルが見えないのでここではないのかと疑った
でもまもなくトンネルが見えたので良かった
10年も行かないとわからなくなる

街の中は新しい食堂が増えた、道の駅にもあるが他に食堂が多いと見た
あとはホテルがにぎわっているみたいだ
つまり原発の仕事や浪江でも除染の仕事がつづいている
そうした原発事故関係の仕事をする人達がまだ多いのである
夜道を原町から金沢を経て鹿島に出る道にプレハブがあるがそこが思った以上電気がついていてここにも未だ原発関係で働く人がいるのかと見た
昼ではわからなかった、原町でも双葉で車で労働者が送られることがあるだろう
原町から浪江までは18キロだったから車だったら近いのである

まず小高であれ浪江であれ田畑は荒地化している、でも耕運機が道を行くから農家でも農業をはじめた人もいるのかとなる
ただ見たかぎりでは田畑があり人の手が入ったいるのが見えなかった
農業が回復することはむずかしいだろう、何か街中に横浜から来た若い人が案内していたがなかなか農業を回復させることはむずかしいとなる

ただ外部から若い人が入ってきている、駅前の新しくできた案内所でも横浜から来た若者だった、でも目的は何かとなるとなかった、だからもしかしたらこういう人は定着しないかもしれない、今は外部から来る人が歓迎される、そもそも住む人がいないからだ
でも何か目的がないと定住しないかもしれない、コンビニで働いていた人も若者である
だから地理がわからなかった、その道は川俣に通じる道だった
何かあの道は歩道でも広いから新しくできた通りらしい、新しい食堂もあったからだ
それでコンビニもできていたのである

次は小高の大悲山の石仏から高瀬川溪谷への短歌です
posted by 天華 at 10:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2022年10月03日

真野川に鮎が上っていた (天然の鮎は放射性物質の汚染度が高い)


真野川に鮎が上っていた

(天然の鮎は放射性物質の汚染度が高い)

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シジミは比較的安全なのか?


真野川で投網をしていた人がいた、めずらしいと思って見ていた
土手に車が止まっていたので聞いた
漁業組合の人だった

今年は鮎が上るのが跳ねるのが見えなけどというと鮎は上っている、今は落鮎で大きくなっているという、そして天然の鮎は放射性物質の汚染度が高いという
それは長い間苔などを食べているからだという
特に天然の鮎は汚染度が高いという、なぜなら汚染された苔などを食べつづけいるからである
でも放流した鮎はそうではない、短い期間でありそれほど汚染されていないという
だから山女(ヤマメ)などは汚染度が高い、年中川にいるからだ
真野川の上流に水無河原の上流にもいる

そして真野川の真野ダムの下にやはり流れをせき止めたダムがあった
それが今回の大地震で壊れた、それでそこから泥水が流れ出した
それで濁った水が真野川に流れ込んだ、それは放射性物質に汚染された泥だったのである
新田川で釣りしていた人がいたが新田川で鮎は放流していないから天然の鮎だという
ということは食べると危険だとなる
とにかく真野ダムの泥には放射性物質が堆積している、そこから水道の水を利用しているから困る、そして真野ダムは大きくて除染できないからである
だからそこからどうしても放射性物質が流れたまるのである

ともかく県の人でも川を調査していたが今でもつづいているという
この放射性物質の汚染がやっかいである、いつなったらなくなるのかわからないからである
たた新田川で鮎は放流していない、真野側では依然として放射性物質を調べている
県で調べている、上流に真野ダムがありそれが問題なのである
またその下にダムのようにな流をせき止めたものがあり今回の大地震で壊れて泥水が流れた、それで一時真野川は泥川になったのである

今漁業組合の仕事はこうして放射性物質の汚染を計る仕事にもなる
真野川の河口ではしじみもとる人がみかけるようになったがそのシジミでも管理するのは漁業組合なのである、でもシジミはどうなるのかとなるとやはり放射性物質に汚染されているのか、それは良くわからない、鮎は汚染された苔を食べるので汚染される
しじみはどうなるのか、松川浦ではまだアサリとりなど許可していない

ともかく真野ダムに大量の泥がありそこに放射性物質が堆積されるさとが不安になる
だから水道の水を飲まない人がいる、相馬市でも真野ダムの水を利用しているからである川の汚染は川は狭いし海のように攪拌して薄められない、トリチウムを海に流すと問題だが川のように狭くないから拡散する、それで海に流そうとしている
それでも影響はある、でも川の問題の方が深刻だったのかとなる

放射性物質は回りの森からでも流れ出してきて真野ダムにもたまるからである
それは除染できないのである、セシウムの半減期が30年とかになるからそうした長い時間を待つほかないしまたプルトニウムとかなると二万年消えないとなるからやっかいなものなのである、だから原発は一旦事故になったとりかえしつかないものとなる
でも石油が高くなり電力を維持するには原発の再稼働しろという声が大きくなっている
でも原発のリスクが大きすぎるのである


posted by 天華 at 12:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2022年09月15日

新田川で鮎釣りしている人がいた (でも真野川ではいないー鮎が上って来ない―原発事故のその後)


新田川で鮎釣りしている人がいた

(でも真野川ではいないー鮎が上って来ない―原発事故のその後)

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真野川では事故直後、国の放射性物質の基準濃度を超える1キロあたり2100〜3300ベクレルのアユやウグイ、ヤマメが見つかった。出荷制限と釣り自粛の呼びかけが続き、遠方からも訪れていた釣り客の姿は、今はみられない。同漁協理事で釣具店を営む森幸春さん(60)は11年近くにおよぶ出荷制限について、「『生きている間はもう釣りはできねえか』と言う人もいる」と明かす
https://www.asahi.com/articles/ASQ3651YGQ2HUGTB00L.html

冷水病が日本の河川に蔓延して以後は、これが極端に低下しており、場合によっては10%を切る事例も報告されているすべての河川でそのように悪いわけではないものの、平均的にみると40%程度まで落ちているのではないだろうか。つまり、生残率はかつての半分近くにまで低下しているのである。

この傾向は規模の大きい川ほど顕著である。つまり、容器の大きさからいうと1000匹必要な釣り場に実際は100匹しか放流されていないというようなことが普通に起きているのである。
https://hito-ayu.net/opinion_04.html


サケと違うのは母川回帰をしません。 その時に一番条件の良い川を選らで遡上を始めるそうです。

ヒトが作るダム、堰、コンクリート護岸、生活排水、工業廃水が、
アユの生活環境を脅かしていることは皆さんご存知の通り です。
この30年間、全国的に天然アユの遡上数は激減しています。
http://to-ayukebari.life.coocan.jp/ayu_seitai/ayu_seitai.html





全般的には海産魚の放射性セシウム濃度は順調に下がり、2017年に一部の出荷制限魚種を除くすべての魚介類に試験操業対象種が拡大され、漁業の再開に向けた取り組みも進められています。現在では郡山市内のスーパーなどでも、「常磐もの」として福島県産のカレイなどが並べられているのを見かけることもあります。一方で、淡水魚の放射性セシウム濃度は海水魚よりも高い値が続いており、比較的汚染の低い福島県中通りを流れる阿武隈川であっても、基準値を超えるヤマメ・イワナが2018年にも何検体か報告されています。淡水魚の放射性セシウム濃度は、流域内でも地域間、個体間で非常にばらつきが大きく、「安定的に100Bq/kgを下回る」と判断することが難しいことが、出荷制限や採捕自粛の解除が遅れる一つの原因になっています。このように、海水魚に比べ、淡水魚では放射性セシウムによる汚染の問題は今でも収束していません。今後、淡水魚の放射性セシウム濃度はどのように減少し、いつになれば心配なく食べられるようになるのでし
https://www.nies.go.jp/kanko/news/38/38-2/38-2-04.html


今日新田川で鮎釣りしている人がいた、鮎がとれるのかと聞いてみて
そしたら結構大きな鮎もとれたという、鮎は稚魚を放流しているが放流していないくてもとれたという、県庁の方で聞いて見たら毎年稚魚は放流しているという
私は毎日真野川を見ているけど鮎が跳ねたのを今年は見ていない、去年なのかその前なのかさらにその前の年なのか鮎の稚魚を放流したのを現実に見ている
県庁に聞いたら毎年放流しているという、となるとなぜ真野川だけに鮎が上ってこないのか?

この辺は県庁の方でも調べていない、ただ毎年鮎の稚魚を放流している普通だったら川を上ってくる、それが来ないとなると何なのだろうとなる
何が原因なのか?それがわからない、新田川は浅い川である、でも水が勢いよく流れていた、新田川には上にダムがない、真野川には飯館村の大倉に大きなダムがある
それで水質が違ってくるかもしれない、真野川でここに住んで放射線を計る人がいた
それはかなり長く川の放射線を計る仕事をしていた人がいた、専門家がいたのである

川の魚は一時食べるなと警告された、相当に放射性物質に汚染されているからとしてそうなった、海の魚より汚染が強かった、それは海は広いから拡散されるからである
川は狭いので拡散されないことが原因だった、狭い場所に滞留するということもあった
特に依然として真野ダムの泥には放射性物質が付着している
真野ダムの水は飲料水としても利用している、本当の除染は真野ダムの底の泥とりはらわなければならない、でもそれはできない、ただ溜池は除染した
でもそれも全部はできない、なぜなら回りの森からでも放射性物質は流れ出してたまるからである、つまり完全に放射性物質を取り除くことは不可能なのである

川で釣りする人とみると何か復興したのかともみる、でも真野川では見ない、それで淋しいとなる、もともと川には魚は見ない、子供の時カジカとかとっていたが今は子供も見かけない、そもそも地域でも子供が見かけない、子供が見かけるのは幼稚園としかないのである

ともかく鮎というとき私の父親は鮎釣りが好きでありその時結構大きな鮎をとっていいオカズになっていた、また田んぼの畔で鰻釣りもしていた
その鰻もうまかったのである、それを料理するのに家族みんなで大騒ぎだったことを覚えている、今は鰻もとれない、農薬で汚染されているとかなる
小川もなくなりメダカともいない、田んぼを流れる小川もなくなった、みんなコンクリートの堀になったからである
田んぼが回復して蛙が一斉に星空に向かって蛙の合唱になったとき復興を感じた
自然が復興したことを感じた、川でも鮎釣りする人でもいれば復興したとなる
ただ真野川では上流で蜆とる人は増えた、もともと真野川ではシジミはとれていたのである、それもいいシジミがとれていたのである
ただ貝類にも放射性物質はあるとされているからどうなるのか?

11年過ぎてもういいのだろうか、前の日常がもどるのはいいことである
とにかくこの辺の変化は余りにも大きかったのである
磯部でも海老村でも烏崎村でも根こそぎ津波で消失したことはショックだった
その傷痕はまだ消えない、ただ11年も過ぎると忘れて関心もなくなることはありえる
外部ではそうなっている、次々に新しいことが起きるので忘れられる

でも裁判では東電に賠償を言い渡された、

経営幹部が任務を怠ったことによる東電の損害として、廃炉について約1兆6150億円、被災者に対する損害賠償費用について計7兆834億円の支払い、除染・中間貯蔵対策費用計4兆6226億円を認定した。
https://www.bbc.com/japanese/62159103

これは当然だった、これもコストにこだわり失敗した、津波を科学者が警告していたのに対策をとらなかった、権力で安全神話を作ることには熱心であった
でも肝心の安全対策は金がかかるからしなかったのである
その代わりにその金は安全神話を強固にするため福島県の報道機関でも朝日新聞でも毎日でも読売でも創価系の潮にも回った、すべて宣伝費として安全神話を強固にする方になったのである
電事連でも800億円の金が注がれたのである、安全神話のために湯水のように金が注がれ
肝心の津浪であれ安全対策のためには金を使いたくないとなっていたのである
これは報道関係にも責任があったのである、金をもらえばいいとなって安全神話に加担したものとなったからである

10メートル以上の津浪が来る!

みんなこれを知ったら警戒していて逃げて助かった人達もいた
あらかじめ知っていれば警戒するからである、それは科学的根拠のあるものだったからである、それを東電の幹部でも無視したのである、だから当然責任をとれとなる
財産没収でもいいとなる、それだけの責任ある人達だったのである


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2022年09月02日

浪江を偲ぶの春の短歌 (ふるさとの文学散歩―常盤芳秀の歌−津波原発事故で失われたもの)


浪江を偲ぶの春の短歌

(ふるさとの文学散歩―常盤芳秀の歌−津波原発事故で失われたもの)



大堀に陶工の技代々に磨くも良しや春の日たずぬ

大堀に買いし陶器の我が家にありてなじみぬ春の日暮れぬ

高瀬川流れのひびき高鳴りぬ春の日さらに上に登りぬ

高瀬川登りてあわれ葛尾に磐城落合の名そ残りけり

浪江町今は荒れにし悲しけれ昔の栄もどることなしも

浪江町生きにし人やその墓地も荒れて捨てられ春も悲しも

請戸港昔栄えぬ江戸にしも松前にしも宮古にしも行く

誰か住む津波に流さる家の跡椿の咲くも人は住まじも

古き蔵残れる家や戻りきてここに住みなむ椿咲くかな

請戸港昔の面影ここになし春の日さすも高き防波堤

甚大な津波原発その被害春のめぐれど立ち直れじかも

長塚に銀行ありと姉遊ぶそのこと聞きしも遠くなりぬる



ふるさとの文学散歩―浪江町の文学碑ー常盤芳秀の歌(1860−1920)−松本博之著

澤井屋という金物店を経営しながら詩文をよくし、すぐれた書家でもあった
万延元年江戸で桜田門外の変が起り幕末動乱の歳に浪江で生まれた
父は剣を斎藤弥九朗道場に学び、新道無念流免許皆伝の腕前であったという
事あって諸国を遍歴し旅の途中この浪江に立ち寄ったところ人物を見込まれて常盤家に入ることになった

芳秀はこの父に剣の道を学び、明治八年藩錦織晩香が幾世橋村に開設した希賢舎で漢学を学び塾頭をつとめた、また国学派の歌人海上胤平に歌学を学んだ

芳秀の師の海上胤平は千葉県海上郡三川村に文政一二年(一八二九)に生まれ江戸で千葉周作に剣を学び・・・

師弟の縁がどのようにして生まれたのかはわからないが、金物などの商品を仕入れるために請戸港から年に数回金物などを仕入れるために廻船に便乗して上京したという、その折東京の師の居宅を訪ねたのだろう

この人は大和田建樹と同時代の人だった

浪江波うつ稲の穂の
長塚過ぎてゆたかなる

鉄道唱歌を残した人だった、他にも短歌を多く残した
ここに長塚とあるのは双葉駅とは後からできたものであり元は長塚だったのである
私の父が双葉の新山に酒屋の丁稚として働いていて長塚に銀行があったらしい
銀行というものはめずらしいものでそこで子供の時遊んでいたか言っていた

この文章は江戸時代の状況を現している、必ず侍は剣の修行をしている、だから父は剣を斎藤弥九朗道場に学び、新道無念流免許皆伝の腕前となっていた
どこかの道場に属して剣の修行をしていた、それは良く時代劇ででてくる
道場破りとかでもそうである、この人も諸国を回っていた、そうして浪江の常盤家に養子となったのかとなる
そういう父を持ったのが芳秀だったのである、ここにリアルな江戸時代の人間が語られている、常に文武両道であり文は短歌であり国学になっていた

そこでここで注目すべきは

金物などの商品を仕入れるために請戸港から年に数回金物などを仕入れるために廻船に便乗して上京したという

ニシンの買い入れのために北海道の松前まで原釜からも請戸からも船が米を積んで行ったということを書いたが江戸にも行っていたのである
ただ江戸へ運ぶのは米とかであり乗客は運ばない、ただそこに便乗させてもらったのである、ただ江戸から金物を仕入れるということはあった
江戸時代には鉄道はなく船が主な交通となっていた、小名浜から石炭を積みだして東京に運ばれていた、常磐炭田があり鉄道ができる前は小名浜から石炭が運ばれていた
ともかく船が運ぶために利用されて江戸まで通っていたことは確かである

その鉄道にしても

一と筋の煙を立てて走り行く車屋形の早くもあるかな 芳秀

こんな感覚だったのである、車屋形とはまさに車が家になっいてる屋形になっているというふうにも見た、そういう感覚だったのである
煙はくとは蒸気機関車であり石炭を燃やして走らせていたからである
私が蒸気機関車で原町の高校に通っていたということも信じられないとなる
覚えているのはトンネルがありそこで煙が出て顔がすすけたということがあった

江戸時代から明治の変化で大きいのは鉄道が全国にめぐらされたことなのである
それまでは関所があったし簡単に藩の外にでれなかったが切符一枚で全国どこにでも行けるようになったからである
だから鉄道が新しい日本を開いたとまでなっていたのである

ともかく浪江町は本当に津波と原発事故で変わり果てた、復興はしていない
2万人いて一六〇〇人帰ったとしているが残ったのは主に老人である

残念だったのは大堀焼きの窯元があった場所である、高瀬川があり場所が良かったのである、それが窯元は散り散りになってしまったのである
失われたものが余りにも大きすぎたのである

大堀に窯元並び技磨くその日は還らず春も悲しも

どうしてももう在りし日は帰ってこない、その損失は回復しない、これが津波だけだったら海側の被害だけにすんでいたのである
原発事故がそうしたのである

おちこち(紀行文集)(明治) 大和田建樹を読んで
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2022年06月20日

原発事故、国の責任否定 「対策命じても防げず」―避難者訴訟・最高裁初判断 (東電に天下りした官僚は金を返すべきーそれが責任)


原発事故、国の責任否定 「対策命じても防げず」―避難者訴訟・最高裁初判断

(東電に天下りした官僚は金を返すべきーそれが責任)

東電などによると、「天下り」公務員OBは、8月末で51人。顧問3人中、国土交通省出身が2人、警察庁1人。嘱託48人の内訳は、都道府県警出身31人、海上保安庁7人、地方自治体5人、林野庁2人、気象庁2人、消防庁1人。電力業界所管の経産省からはゼロという。

   実は、4月末までは経産省出身の石田徹・元資源エネルギー庁長官が1月から顧問として在籍していた。

長期評価 政府機関の地震調査研究推進本部の地震予測。2002年、三陸沖から房総沖にかけての日本海溝沿いで、マグニチュード8級の大地震が30年以内に20%の確率で発生し、福島県沖でも起こり得ると公表された。東京電力は08年に津波高が最大15.7メートルに達すると試算したが、既に福島県沖での地震を想定していない土木学会手法を採用しており、最大5.7メートルと計算していた。

この長期予測は無視された、でもこれは科学者集団が算出したことであり科学的根拠があってのことでありこれが東電で無視した
東電でも科学者集団であり肝心の科学者が割り出した予測を無視したのである
科学を最も重んじる集団が科学を無視したのである、ここに大きな問題があった
これは伝説とか何かあいまいなものではない、科学者が科学的根拠があって警告していたのである

ではなぜ無視したのか?

コストがかかるからである、当時の社長はコストカッターとして社長までのし上がったとしている、コストが第一でありそれが大事故につながった
原発は最も安全を重視しなければならないものだった、だからこそ国がかかわる大事業となっていたその安全を計る国の保安院など何の役にもたたない飾りであった
ふれで不安員と揶揄されたのである

そもそもなぜ高く土盛りしてその上に作るものをわざわざ低くしたのか?

それもコストが関係していたのである、地下に電源を置くから高いと利便性が悪い
そしてそもそも地下に電源を置いたことが失敗の元だったのである
それは津波の警告があっても全く津波のことを無視していたからである
地下に電源を置いたのはアメリカでは竜巻がありそれから守るために地下に置いたのである、日本では竜巻などないのだから地下に置く必要もなかったのである
これも風土を無視して土着的でないことから起きた事故なのである
なぜなら東北電力では女川原発では三陸とかすぐ近くで明治時代に一万人死んだ津波を経験しているから副社長がもう10メートル高くしろとして高くして作ったからである
それがぎりぎりで津波からまねがれた、それでもぎりぎりであり危険だったのである

何か仕事は土着的であるべきだというとき知床の観光船事故でも土地の気候とか海のことを知らない人が外から来て船を操作していたからである
これもまず金儲けが先だとなり安全をないがしろにしたのである
現代の科学技術工業文明はそもそも土着的なものから離れている
またその土地の生態系など無視して巨大な工場であれ企業であれ世界の自然を破壊してゆく、ただ金儲けのためにそうなる、そこに災いが生まれてくるのである

原発事故の原因は一つはこうした科学技術の問題としてあった、理系集団科学技術者集団の問題としてあった
もう一つ大きなことは政治的社会的問題としてあった、これは文系的なものとしてあった裁判というとき司法があるがこの司法とは官僚でありこの人達が正義を基にして裁くとは限らないのである
権力関係があり権力によって操作されるのである
その背後に国家権力がありまた日本はアメリカの属国してあるのだからアメリカの巨大な権力によって操作されている、そしてアメリカといっても貧富の差が激しく実質のアメリカとはデーブステートとかユダヤ人だとか言われる
ただこれは明確なものとして実体があるのかどうかわからない、わかっているのは軍産複合体が巨大な組織営利団体としてあることは確かである

こういうふうに目に見えるものはわかりやすい、それは外からでもわかるからである
この世とは正義とか実現する場所ではない、巨大な権力によって操作されて動かされるのである、そして武田邦彦氏は裁判でもなぜ90パーセントが有罪になるのか?
外国では70パーセントだとしている、つまり逮捕される前に有罪は決定しているのである、もう権力によって決定されているのである、そこに無罪なのか有罪なのかの審理する前に有罪が決定されているのである、だからおかしいとしている
第一司法というのは別に法律に則って裁判する訳とかは限らない、政治的社会的大きな問題になると権力によって権力の圧力によって決められるのである
時の政権が自公政権ならその権力によって決められる、そしてその背後にはアメリカがいるとなる,アメリカの属国だったらその意向に逆らえないからである

そして私が追及してきたように権力側につけば既得権者側につけば得だ利益になるとしてマスコミでも全部朝日新聞であれ原発を容認することになる、その危険性も報道しないのである、そのマスコミに電事連が800億円も宣伝費としてありだされていたという
そもそも福島県のマスコミでも「政経東北」でも不正を追及しているようで悪徳業者の
相双リテックが幹部で何十億の除染費用山分けして批判された、それは犯罪でもあった
でも政経東北の裏表紙で堂々と宣伝していたのである

それはなぜなのか、金が入るからだとなる、他もみな同じである
福島民報などはもう県の出資が半分でありあとは創価の聖教新聞をすって経営している
そんな新聞がとても原発の危険性など追求できないのである
一軒一軒新聞を配ること自体莫大な金がかかるからそうなる
ネットだと自分がしていても金などかからないのである、影響力はわずかでも金はかからないのである、手間はかかってもほとんど金はかからないのである
こうなるとき確かに民主主義の言論の自由があるとはなる
個人がyoutubeのようにテレビ局にもなれる時代だからである

いづれにしろ東電に天下りした官僚などは責任があったのだから金を返すべきだとなる
津波は不可抗力としてもやはり責任があっのである、安全を計る役割があったからであるただそこで得すればいいというだけの地位ではなかったのである
でも正直既得権者が得するようになっているのがこの社会である
公務員は既得権者であり権力の下僕でありそのために得するようできている
私の家族の一人が公務員だから自分自身そういうことを知っているのである
何かいろいろと得するようになっているのである
そのために創価とか共産党とか野党でも革命という名の下に既得権者に成りたいというだけである、それは得する身分になるからである、下々で苦労して日々働いていても得にならないからそうなっている、それでなんとかしてそうした既得権者になりかいとして創価なら24時間365日選挙運動なのである、それが宗教と一体化している
また共産党でも中国をみればわかる、幹部になれば兆の金が入ってくるともなるのであるそもそも既得権者になって得したいということしかないのである
だからそこに野心家であれ一切のその人がどんな人なのか金を求めるのか女を求めるのか商売のために利用するのか、そんなこと一切問わない、一票になればいいとうだけであるあとは欲をかなえるために題目を唱えていろで終わりなのである

要するに原発とは科学技術の問題としてもあったが政治社会の問題としてあった
私は文系だから政治社会の面から追求したのである、科学技術というとき政治とか関係ないようである、科学の真理は変えられないとかなるがそれも政治によって権力によって歪められるし利用される、御用学者などがそうである、権力者の言いなりになり科学的に正しくないことでも言うことになる
会社でもそうである、政府という権力に逆らえないのである、それで大成建設が放射線を計るモニタリングポストでもその真下の土を掘って取り除き低くしていた
その回りを私か計ったら倍以上あった、だからモニタリングポストの放射線量は半分になっているのである、こうして常に科学も政治権力で操作されるのである

大成建設にしてもこれは創価が富士山のふもとに正本堂を建てたからその時関係があり
創価大学の人を就職させる枠がある、創価でもそうして権力拡大するのである
なぜなら権力奪取することが革命の目的であり日々運動しているからである
それは他の共産党でもみんなそうなのである、毛沢東が銃口から革命が生まれるというときまさにそれを実行して権力を奪ったからである
要するに権力を奪ったら既得権者になり御利益があるとなるからだ
宗教はただその権力を得るための道具のようになっている、それはカトリックでもそういうことがあり政教分離が法律化したのである

ともかく原発事故は様々なことを暴露したのである、また原発はまた人間の欲がそこに集中した、地元でも原発で働けば普通の三倍の金がもらえるとかなり自治体でも金が入る
それで個人的にも財を築いた人がいる、加藤建材などは大きいがその基は原発を建てるとき真野川とかの砂利を運んでそれが基となり今の大きい会社に発展したと聞いた
原発は金の生る木だったのである、それも桁外れであり何兆円でも除染で使うということなど庶民には想像もできない規模だったのである
その金に群がったのが地元のの人たちでもあったとなる
だから地元の人達がその金によって操作されて肝心の安全を無視したとも言えるから責任はあったとなる、だから国に責任がないというとき地元の人達は責任をとれと言うのも解かるか地元の人達も何らか責任があったのである

ともかく無罪ということはありえない

少なくとも天下りした官僚はその東電からもらった金を返すべきだとなる、これだけは言える、良心があればそうなる、ただ正直自分の家でも公務員でありそういうことはあったでもその額は少ない、天下りとなるとその額が大きいから返すべきだとなる

東電などによると、「天下り」公務員OBは、8月末で51人。顧問3人中、国土交通省出身が2人、警察庁1人。嘱託48人の内訳は、都道府県警出身31人、海上保安庁7人、地方自治体5人、林野庁2人、気象庁2人、消防庁1人。電力業界所管の経産省からはゼロという。

   実は、4月末までは経産省出身の石田徹・元資源エネルギー庁長官が1月から顧問として在籍していた
   
 海上保安庁とか都道府県警とかがかかわっていることは自衛隊でもかかわりまさ暴力装置を持つ人達が権力を既得権を持ち利益を得る構図がある
だから権力と言う時アメリカでも軍産複合体があり深く政治とかかわり戦争で利益を得る会社である、だからこうした人達が天下りして利益を得ていることは犯罪に近いのである第一司法とは裁判官も官僚であり既得権者なのである、そういう人が罰することなどできないのである、だから天下りは廃止すべきであり金は返すべきだとなる

結局責任を問う場合、権力を持っている人達なのである、権力をもっていない人には責任がないのである
なぜなら自分の本でも権力集団を批判したら図書館にも置けないということがあった
個人のものは置けないと断れられたからである、つまり公務員とはこうして権力をもって言論を封殺するのである
そういう権力をもっている、あらゆるものが背後に権力集団があってこの世は動いている、動かされている
マスコミもそうである、様々集団組織がありそれが権力集団を形成して一個人など逆らうことはできない
電事連とかは宣伝費として800億円とか出している強大な権力集団なのである
それでマスコミは操作される、必ず個人の背後に強大な権力集団がある、それはあらゆるものがそうである
在日がマスコミを支配しているとというときそうである、これも日本人に同化しているから優秀な人達だから力を持っているのである
宗教も集団化して組織化して権力集団となる、それは信仰とか関係ないのである

第一キリストとかシャカでも寝る場所もない、何の権力ももっていなかったからである
でもこうした組織集団の罪は問われないのである、強大な権力があるから批判するできないとなる
民主主義といってもすべてけはこうした巨大な組織集団によって権力集団によって決まるのである
一個人など何の力もないのである、相手にもされないからである
でもこうして原発マネーがばらまかれてそれに天下りして金を得た、だからその金を返すべきだとなる
それが責任なのである、司法も官僚であり裁判官も官僚でありこうして既得権者となり得するシステムなのである
だから公正な裁判などありえないのである
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2022年05月05日

接続可能な社会とは(SDGs) (原発事故で問われたもの、豊穣の海と漁師の詩から―生業とは天職とは)


接続可能な社会とは(SDGs)

(原発事故で問われたもの、豊穣の海と漁師の詩から―生業とは天職とは)

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烏崎の港へ



豊穣の海と漁師

朝漁の船は帰り来る
糧は海から与えられる
漁師は海とともにある
漁師の実りは海にある
漁師は海と一体になる
夢にも常に海を見る
時に波にもまれて溺れる
夢にうなされる
現実に父は海で死んだと
また恐ろしい津波で村は消失した
海は常に危険である
でも海は豊穣の海である
魚はふんだんに与えられる
魚をとるこそ漁師の誇り
活きのいい魚は地元に売られる
その身は引き締まり海とともにある
漁師の船は帰ってくる
妻はその無事の帰りを待っている
岩壁に浪は打ちつけて漁師は立つ
そこに生の充実がある
その身は海によって作られる
海は人に糧を与え仕事を与える
海の恵みは尽きることだない
海が人を作り大地が人を作る
山が人を作り森が人を作る
そこに継続される生がある
夏の海は朝の光りに輝いている
漁師もまたその海のように輝いている
それは海とともにあるからだ
波が轟き雲雀も夏空に鳴く
海を大地を山を離れて人はない
人を作るのは海に大地に山に森である
ここに継続持続される生がある
絶えることなき生がある
まさにその仕事は神より与えられた天職生業
その身は引き締まり海に生きた男よ
神はその男を見て満足する
海の糧を与えたことを満足する
夏の海原は広々と輝いている
漁の船は魚を積んで帰ってくる
港は活気にあふれる
津波の悲劇でも海の魚は消えない
ただ原発事故は海を汚した
その罪は余りにも大きい
海は汚されてはならなかった
でもその海の恵みを重んじなかった
それは神からの罰なのか?
人間はそのことを深く反省すべきかな



高い地位、儀礼、富、学識など、そういうものに到達した人々について
わたしが思うには、彼らの到達したものは彼らの体と魂に結果を残すものではない限り
すべて彼らの身につかず、浪間に消える‐ホイットマン


どちらも基本的な意味は同じですが、「体」は純粋に肉体のことを表し、人間以外の生物にも使うことができます。
一方、「身体」は人間のみに使い、肉体だけではなく心も含めた心身のことを指します

たとえば、「身につく」などです。この言葉は体に何かがくっついているという意味ではなく、技能などを習得した、という意味ですよね。
https://gimon-sukkiri.jp/body-spirit/

現代の風景はこの辺だとと相馬市の松川浦でも大きな火力発電所あり最近はガスのタンクもある、港からガスを入れて遠くまでガスを配給する施設ができたからだ
浜通りは発電所が多い、それで原発も作られた、風景としてはみなとがり一応漁師がいて魚をとったりしているが風景としては発電所のウェエトが大きくそれが風景となっている港は小さいのである、その風景そのものが現代を如実に語っている
生活からすると魚をとって生活するとかそれはもう極一部のものである
特に福島県の浜通りは漁獲高が宮城県と比べれば十分の一くらいしかないのである
そしてそもそも第一次産業の農業とかでも十分の一くらいの生産量しかないのである
だから現実は農業とか漁業で仕事している人は意外と少ないのである
第一漁師の収入にしても魚をとるから得られれるより火力発電が建ちまた原発が建ち烏崎では補償金をもらった
それで航空運賃が50万とかしたときでもヨ−ロッパとか海外旅行に行っていた人がいたのに驚いた
漁業していただけではとてもそれがけの金はないのである
だから漁業でも農業でもしたくないとなっていたのである



それで現実にそういう人と逢わない、田舎にいてもそういう人は少数者であり現実の生活は会社員とか工場で働いている、東北電力の火力発電所でも千人働いていたとか
双葉大熊の原発はさらに多く働いていたとなるからそこが生活の糧となっていたとなる
それで事故後でもそうして原発で金になっていたから批判できないともなっていたのである、漁師の場合は船主だと事故前でも多額の補償金がすでにもらって原発御殿が建てられていた、それで漁師でない人は不満だったのである、事故後も手厚い補償をされたのは船主とか漁師である、だから立派な家を率先して建てたともなる
ただ津波の被害は本当に悲劇でありそのことは批判できない
でもそもそも漁業だけではない、第一次産業は農業でも漁業でも林業でも衰退して全体の生産量の一割にもみたなくなったのである

ただ不思議なのは依然として回りが田んぼだから田舎は農業で成立っているように見えるでも実際の経済はみんな会社員であり農業とか漁業している人は少数者である
特に漁業で生計を立てている人は前からごくわずかだったとなる
福島県の浜通りは海に面していても宮城県のように漁獲量が十分の一くらいだから前ら少なかったのである
ただそれでネットで魚がとれなくて生活が成り立たないから応援してくれというプログを見たことがある、やはり漁業は苦しいのだと見ていたのである
でも事故前でも補償金をもらっていたから船主とかは生活には困ることもなかったのである、ただ港があっても別にみんな魚をとることで生計をたてているわけではない、やはり松川浦とかなれば大きいから港の機能があるから船でも入って来たり火力発電所でもガスタンクが最近できたりとそっちの方の仕事がある、荷物も入ってくるから漁をする仕事よりそっちの方が仕事となっている

ただ事故後生業を返せ!

と裁判所に訴えた人たちがいる、この生業とは何なのか?
これはやはり第一次産業に従事する人達のことではないか?
それは自然の恵みで直接暮らしている人達だとなる、海で魚をとる、大地から実りをえる農民がいる、森から木材をとるキコリがいるとかそういう人達だろう
生業とは天職のことでもある、天から与えられた職業だとなる
何かむずかしいものではない、それは自然の中で自然から糧を得るとなればそれが生業であり天職となる、そういう仕事は今盛んに言われる

SDGs(エス・ディー・ジーズ)とは

持続可能な社会とは、「地球環境や自然環境が適切に保全され、将来の世代が必要とするものを損なうことなく、現在の世代の要求を満たすような開発が行われている社会。」と言われています。

持続可能な社会とはもともと戦後辺りまでそういう社会だったのである
なぜなら戦前でも農民が八割という社会は当然そうなるのである
自然から直接実りを得て生活していたとなるからだ
そういう社会は接続可能な社会なのである、なぜ自然が死ぬことがない、途切れることなく実りをもたらしてくれるのか?
自然そのものが何万年であれ何億年であれ地球が生まれてから生物が生まれてから持続可能でなかったら継続されない、そこに生物の死があり生命は途絶えるのである
ただ恐竜などは環境に適合されず死に絶えた、だから必ずしも生命がすべて継続されるとは限らない、人間も恐竜のようになることもありえるのだ
それは核戦争とかで放射性物質の汚染でこの辺のように空気でも水でも土でも汚染されればそうなるのである
だから高度な文明はかえって自然を破壊して汚染して生物が人間でも住めなくなることがありうる、一時この辺はそうなったからである

いづれにしろ人間の存在価値とは何なのか?

それは人間の仕事から見ればわかりやすい、漁師とか農民とか職人でもキコリとか生業と言われるものは自然があり人間が存在してからあった、それは食料などか生きるには欠かせないからあったとなる、縄文人でも生きるために貝をとったり山菜をとったり海の幸から山の幸を得て暮らしていたからである
そういう仕事は人間が生まれた時からあったとなる、だから生業となる
そして自然の中で生きているから自然と一体となる、海でも大地でも森でも山と一体化して暮らしていた、そこで体も作られたのである
身が作られたのである、からだは殻の意味であり死んだ人の屍とされる、からだは魂がぬけた抜け殻とされていた、でも身には心があり身につくとは仕事を通じて心も身に着くとなる、身につくとは魂が身に着くということでもある
本来の仕事とはそういうものである、でも一方で人間には仕事は職業として業ともなる
カルマともなる、そういう仕事もまた多いのである
何か武器を作るとか戦争を仕事とした兵隊もいる、今なら警官とかでもそうした業として仕事がある、ただ医者にしても何か必ず業を持つ、なぜなら人間がみんな犯罪を犯さない病気にならないとなれば戦争もないとなればそうした仕事は必要ないからである
そういう職業があること自体が問題でありない方がいいのである

とにかく現代文明社会は無数の業なる仕事が増えたともなる、本来の仕事が生業とか天職がなくなり人間はホイットマンの詩のように讃歌されないものとなった
それは東京とかの大都会を見ればわかる、そこで何か讃歌されるものがあるのかとなる
そこに自然はない、ただ人工的空間でビルの狭間で人は呻吟しているだけだとなる
そこにあるのは群衆であり大衆でありただ数として数えられるだけの存在でありそこに
人間を讃歌するものがあるのかとなる、ただ巨大なビルを仰いで人間は卑小化する
蟻のようになっているのだ、だから奇妙なのは人間の価値を存在感を見れば縄文人の方が人間の価値を具現化していたともなってしまうのである
その大都会から生まれるのは何か、宗教にしてもカルトであり政治は大衆を相手にするからナチス的なものになる、宗教はもともと清浄な自然から生まれたものだというときそれが全く無いからである、ただ数を誇り権力化しているだけである
そこに讃歌すべき人間はいないのである、むしろ機械が代わりとなり機械が讃歌されるとまでなる、人間はただ無意味なもの無価値なものただ数として権力化する存在になる

でも大都会に住む人が現代人のエリートであり田舎に住んでいる人達は金にもならないとか無価値に無意味にされている、田舎のインフラでも都会の人が税金を出して維持するとかなる、これもまた現代文明の矛盾である、それで田舎でも明治時代でも炭焼きしていた山の人は都会の人に頼らない自立しているとして誇っていたのである
何も都会の人が税金を払うこともないからである
ただエネルギー問題にしても今世界から石油でもガスでも石炭でも輸入するから外国に頼っていて自立していないとなる、そのエネルギー問題が大きい生存にかかわるものとなる風景として海岸に風力発電の風車があり火力発電所があり原発があったことでもわかる
そっちの方が大事な産業であり原発事故前ならそこで働く科学者が技術者が神官ともなっていたのである、この地を支配する者となっていたのである
それが原発事故で一挙に崩壊したのである、持続継続されないものとなったのである、


ゲーテ「漁師」(ドイツ詩100選を訳してみる 2)

お日さまも お月さまも
海の中でお休みになって
波を吸い込み 二倍も美しいお顔になって
戻ってくるではありませんか。
底深い楽園が 神秘的にうるおう青色が
あなたの心を誘いませんか?

https://note.com/lulu_hiyokono/n/nd4dbeb11f14f

お日様もお月さま自然の中でこそ映えるということでうまい詩である
とても都会ではお日さまも月も映えないのである、死んでしまうのである

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2022年05月04日

沖縄の人と話して水不足で困ると聞く (いろいろ不便があっても原発事故は住めなくなったから最悪だった)


沖縄の人と話して水不足で困ると聞く

(いろいろ不便があっても原発事故は住めなくなったから最悪だった)

離島の水事情とは・・・?台風の恩恵も。

この辺は地震の被害でボランティア団体が来ている、国際学生ボランティアとかもきていた、DRTは一番早く来た、これは結構規模が大きい、重機とかもってきたしプレハブも建てて本格的である
その一人が沖縄の人だった、聞いて見たら沖縄は水不足で苦しんでいる
それを実感として言うからわかる、私も沖縄の波照間島とかに行ったら井戸が枯れていたそこに人が住んでいたが住まなくなった
沖縄では島では水の問題が大きいと思った、もともと水は欠かせないものだからどこでも水の問題は大きい、山に暮らす棚田でも山の上だから水がたりなくなると放送があった
山だから水があると思ったがそうではない、やはり川のような大きな水源がないと田んぼでも維持できない、平地では山から水が流れてくるからいい、それでも平地でもやはり水争いがあった、村でも水の奪い合いがあった

沖縄ではただ雨が豊富であり台風も来るから水をためるタンクを常設している
それでも水不足には苦労する
それで米もあまりとれない、米は本土から買うともなる、それで本土の米は米だけでもうまいと言っていた
何か安い米しか買えないからそう言っていた
新潟県の棚田では冬は深い雪に埋もれる、その雪にも効果があり棚田で作る米はうまいとしている,新潟県の米は水がいいからうまい
この辺では山の方の村は水がいいのでうまいとされていて買っていた
何でも水の影響が大きいのである、ただそこは土砂崩れで苦しんできた場所である
土の質の影響でそうなっている
そして鯉ともともと食料として養殖していたが錦鯉を作るようになりそれが人気となった自然条件が悪くても常にプラスとマイナスがあるのが自然を基に生活する人間にある
だから悪い事ばかりではない、雪の恩恵もある

ともかく人間を社会を知る時、実感を得ることが大事である
それでちょっとでも地元の人と話すとその話すことから実感として感じるものがある
本とかではわからない、テレビの放送とかでもわからない人から直接の実感を感じることがある、それで柳田国男は土地の人から話を良く聞いて文書より口で伝えられた口碑を大事にして民俗学を起こしたのである
本当にその土地のことは別に学者でなくてもその土地で生きている人がわかるのである
地理と風土とかはそうなる、そこに住んでみないとわからない
風を感じることでもそうである、その土地にどういう風が吹くのかわからないのだ

そのために知床観光船では北西の風が危険だというときそうだった
原発事故では3月頃になると海から東風が吹きそのために放射性物質の塊りが飯館村の
山の方に流れて被害が一番大きい不運があった
海の方は原発の煙突が見える浪江では本当にひくかったからである、0・5マイクロシーベルトだった、海側がみんな低いものだったのである
もともと科学技術でも風土の影響を受ける、その土地の風土を良く知らないと科学技術でも何でもできない、人間は自然に制限されて生きるものだからである
その自然の制限を越えることはできないのである
それを越えようとした時災いが生まれるようになっている
おそらくコロナウィルスもそうである、ウィルスは元来風土病とかでありある土地から生まれる、もしそうした場所に踏み入らなければウィルスは移らない
その土地にとどまっている、でも自然でもずかずかと人間は入り自然を壊してきた
そこでウィルスも今度はグロ−バル化した交通が発達したことで世界に一気に拡散したのである

とにかく人間の生活はその自然に制約されている、でも制約されていてもその中で生き延びる術を発見して生は継続されてきたのである
棚田の暮らしもそうであり島での暮らしでもそうである、そこは不便でもやはり人間が営々と暮らして生きれる場所としてあった、でもそういう場所が現代だと限界集落とかなり人々が住めない土地として放棄されるようになる
とてもこんな不便な所に住めないと言うがでも江戸時代から戦前でもそういう場所に人間の生は継続されていたのである
結局原発事故ではそうしした継続された生活が遮断されて途切れて村や町自体が住めない町や村になってしまったのである
一次産業が農業でも漁業でも林業でも衰退する、そして農業などするなと親に殴られたという人が原発で働いていたが故郷にも住めなくなったのである

江戸時代から戦前までも長い間、故郷であれ不便でも貧乏でも人間は住むことができた
でも原発事故は住めなくしたのである、だからこれは何だったのか?
住めなくなるということは最悪てある、いくら貧乏でも苦しくてもそこに住みつづけることが生きることである、そして一代だけではない、代々住みつづけることができる場所であることが基本としてある、確かに水不足とか気候の影響があって住めないとういことも起きて来る、でも江戸時代から戦前までも人間は生を受け継いできたのである
だから原発事故前でもまた他でも農業では生活できないからやめる、そして村は放棄されるとなる、それは何なのだろうとなる

もちろん農業は戦前でも過酷であり貧困に苦しんできた、農業だけでは苦しいからつづけられないとういことがあった、でも不思議なのはそうあっても生活が継続されてきたのである、千年であれ継続されてきたのである
でも現代だともう継続できない、農業では漁業でもやっていけないとなり原発に頼ったのである、他でも農業以外にこそ生きる道があるとして人々が科学技術であれ別な産業に頼った、でも千年でも一応その場で住むことはできた、その糧は少ないにしろ与えられていた、でも現代になると様々なことで住んでいられないとなった
燃料でも石油であり電気が不可欠でありとかガスなしでは生きられないとかなった

でも不思議なのは戦後十年は炭が燃料でありほとんど身近にあるもので一応生活していた住めなくなるということはなかったのである
とても住めないからと他に移り住むということもなかったのである
なにがそこにが納得できないとなる、山村とかは住めないとして捨てられる、千年とか住み続けた場所が捨てられる、それが理解できないのである
例えば相馬藩だと越中とかの人々が危険を犯して藩を脱出して相馬藩に移住したのは
ただ土地が与えられるとういことでそうなった、相馬藩では飢饉になり三分の一の人口が減った、その穴埋めとして移民を奨励してそうなったのである
これも今からすると何で苦しい農業をするためにわざわざ命がけで苦労して移住するのかとみる、でも農業社会では土地が一番大事だからそうなった
土地が与えられるということでそうなった、日本が満州を得たいというときも広大な土地が手に入るからであった、そこは寒冷地帯でも日本人は米を作ろうとしていた
それはその時農業社会だからそうなっていたのである、つまり農業で必要なのは第一に土地だからである、小作だと土地を持てないから貧乏だったとなる、土地が最大の価値となっているからそうなったのである

いづれにしろ住めなくなるとういことが人間にとって最悪ではないか?

いろいろあっても何とかここで住んでいけるとなれば我慢できる、でも住めなくなるということは最悪である、空気とか水でも土でも放射性物質に汚染されて食糧をも作れないとなると住めないとなる、でも現代では別に金があればどこでも移り住むことがてきるということで人々は代々住んだ故郷でも捨てたとなる
ウクライナのように国が戦場になったら住めない、だから最悪なのである
でも原発事故でもそういうことが起きたのである
ウクライナの人はキーウ(キエフ)の近くのチェルノブエリ原発で事故がありそこから避難した人があり今度は戦争で日本に避難した人もいる
要するに戦争は最悪であり原発事故でも住めなくなることが最悪だったのである
それで大熊だったか蝋燭でもいいから家族一緒に住めるだけでいいと言う人がいたのである、とにかく住めることが第一だからである、昔のような炭の暮らしでも一応住めるのだからがまんできるとなる、原発事故の罪深さはここにあったのである

SDGsとは「Sustainable Development Goals

 サステナブル(Sustainable)は、sustain(持続する)とable(〜できる)からなる言葉。. 「持続可能な」「ずっと続けていける」という意味があります。.

最近このことが良く言われる、このことが原発事故で証明された、もう住めなくなり持続可能もなにもなくなったからである、このことが最悪だったのである




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2022年01月18日

南相馬市長選挙の争点は何なのか?ー復興していない避難区域 (政治は利益の公正な配分が主題ー補償金配分で鹿島区は不満)


南相馬市長選挙の争点は何なのか?ー復興していない避難区域

(政治は利益の公正な配分が主題ー補償金配分で鹿島区は不満)


南相馬市は11年前の原発事故で、南部の小高区を中心に避難指示が出され、6年前に解除されましたが、人口は震災前から2割近く減少した一方、65歳以上の高齢者の割合は36%と、10ポイント余り上昇しています。

また、深刻な医療人材の不足から、小高区では、現在も入院機能を備えた医療機関がない状態が続いています。

今回の南相馬市長選挙の争点が良くわからない、明確ではない
桜井前市長は左寄りの人だったから野党からの支援があり前の選挙では原発反対を訴えていた、でもその他は良くわからない、ただこの辺ではもともとこれだけ原発被害があるのだから原発には反対である、だからそういうことよりこの辺で問題なのは補償金の分配だったのである

鹿島区では30キロ外になり補償金が少なかった、正直自分がもらったのは一人70万であり二人だったから140万だったとなる
でも原町市は三倍ももらっていたのである、その差は大きい、ただそのことを鹿島区の人はあまり言わない、ただ不満が内にこもっているとなる

そして

医療費無料が10年でありそれが一年伸びた!

これも大きい、なぜなら私は病院に通っていて半年で無料が打ち切られたことを身近に感じたからである
すると老人が多いから10年間医療費無料というのは大きい、これも30キロ内だけは特別待遇になったのである、ただ小高区は避難区域になったから補償金が多いのは当然だとなる
要するに思うに原町は鹿島区の二倍でも良かった、その余った分を鹿島区にまわせば良かったのである、ただ第一原町区の人がネットで鹿島区には金はやるなと市の予算を使うなと訴えていたのである、ただそれを知っている人は少ない、ネットはそんなに影響力ないからである
でもそれを読んでいたときこれは何なのだろうと思った

その後今の市長になり最近高速が無料になった、でも遅かった!

老人が多いと医療費が負担になる、近くにそうして病気の老人がいるからわかる
何かと医療費の負担がある、だから医療費無料は大きいのである
ともかく今や日本は少子高齢化で老人が増えるばかりであり南相馬市は原発事故で65才以上の人が35パーセントとか他より多いしその将来もますます老人ばかりになる
知っている人でも必ず糖尿病とかガンとか眼が悪いとか泌尿科だとか病院通いなのであるでもその人は金もないのである、そんな人ばかり増えたらどうなるのか?
それで将来でも暗い見通ししかできないのである

南相馬市は小高と原町と鹿島が合併したけど原発事故で補償金で分断された
合併して共同して共益関係になればいいが分断された
政治というのは常に地域エゴがありそれで争うとなる
そもそも政治というと戦国時代とかあれば地域同士の争そいなのである
何か入会権の争いがあり大名がかかわり戦争になったとか言う人もいる
水争いとかもあり権益をめぐって人間は争いになる、その構図は世界でも変わりないのである、それが人間の業(カルマ)であり変わらないのである

原発だって東京が危険だから福島で作れとなったのもそもそも地域エゴだったのである
自分たちは安全を計り福島はその危険を引き受ける代わりに東電で金を出すという仕組みだったのである

そして政治は利益の配分の調整である

これは必ずある、原発の補償金でもそうだし今度はコロナウィルスの補償金でももめたのである、必ずこの利益の権益の分配でもめるのである、それが戦国時代にもなったのである

だからこの利益の分配がうまくいかないと分断して協力できなくなる
政治家の役目はその分配を公平にすべきなのだがそれがうまくいかない
ただ今回の選挙の構図は中央の政治が反映されていた、桜井市長を応援するのは左であり門馬市長を応援するのは自民党とかの現政権である
二つの勢力があり票の取り合いになる、前回の選挙では200票差で桜井氏が負けたから今回も接戦になる
ただ地方だと必ずしも右左とか関係なく地元に地盤を持つ人が有利になる

そして意外と政経東北で今の門馬市長が相馬市長の立谷 秀清氏に頼っているとか書かれた、立谷氏の助言で動いているとか書かれた
それもわかるのは立谷氏は医者であり病院も経営している、だからコロナウィルスでも
いろいろ検査してそれが全国でも注目されて取り上げられている
つまり医者だからそれができたのである、それが強みとなっていたのである
ただ自分の病院経営にかかわってそこに力をそそぐとか批判もあった
ただ一時震災の時水を配ることでミスがあり同級生から殴られたという事件があった
不手際があってそうなった、でもその後は医者として手腕を発揮しているともみる

南相馬市長でも桜井市長は畜産課の大学を出ていて相馬市長は医者であり飯館村の村長の菅野氏も畜産課なのか農業関係なのである、それから門馬氏は東北大の工学部というから理系なのである、理系だと原発事故では力を発揮だきたかとなるとそうでもない
なぜなら吉田所長が肝心の復水器のことを知らなっ方のである
それは自分の資材の分野ではなとして知らなかったのである
今や社長でも会社のことを全部知る人はいないのである、それだけ複雑化しているから社長でもわからない、そしたら支持も出せないとなるのだ

ともかく南相馬市では原発事故からの復興が最大問題である
でも復興はしていない、むしろ復興というより縮小してコンパクトシティとかの構想にもなる、小高の人は原町区に移っている人も多い、そして取り残されたのが老人なのである子供たちは流出して老人だけが残された、そういう場所で復興がありうるのか?
元に戻すというより何か別な対策が必要になる
つまりこの辺では原発事故で極端な現象として日本の未来を先取りした地域になった
自治体がゴーストタウンになり消滅するようて状態になった
それも回復できないのは少子高齢化とか日本の経済の衰退とか縮小化になりそうなった
戦後の焼け野原から日本が復興したのは子供が本当に多かった、そして戦争の引揚者は
不便な土地に開墾に入り生活した、それは働く場所がないそうなっていたのである

でも半分は撤退したのである、だからそういう場所で良く生活できたとなと今ならみる
そういう人を私は知っている、それも小池に開墾に入っていた、それは街から近いのである、そんな近くで開墾する場所があったというのも不思議なのである
飯館村とかにはあっても街の近くにあったというのが今になると理解できないのである
そこに私は店をしていて子供の時卵買いに行っていたのである
その人は一人で暮らしていてぎりぎりの生活だったのだろう、その時かえって良かったのは元からの農家だったのである、食料を作っていたから良かったのである

何か地方の選挙だと政党中心ではない中央政治とは別になる面がある
地元密着であっり地元の問題を解決することである、でも原発は中央政治と密接に関係していたのである
それは沖縄でも辺野子のアメリカ軍基地建設問題でも起きている、これはアメリカ軍の基地問題だけど原発ももともとアメリカと関係していた
アメリカの要請に答えて原発が最初読売新聞の正力松太郎が新聞で宣伝したとされる
そもそも原発の技術はアメリカ指導で作られたものであた国産ではないから事故が起きたともなる、管理がてきないものだったのである
そのことがわかったのは事故が起きたとき最初にスピーディ(放射線量探知機)のことを連絡したのはアメリカだったのである、日本ではお手あげであり助けを求めたのはアメリカだったのである、それだけ日本では原発を管理する能力もなかったことの証明だったのである、だから事故になって東電でも日本政府でも何もできなくなっていたのである

いづれにしろ何を判断材料にしていいかわからない、ただもしかしたら例えば自民公明が一体なら創価の票が自民に投じられるなら門馬氏が勝利するとなるからこういうとき自民は創価に頼りがいあるとなるのか?
ただ最近公明も自民と協力しないと分裂の危機にもなっている、ただ地方の選挙でも一定数の票を操作できることはこういう接戦になると強みだと思った
第一浮動票はあてにならないのである、気まぐれなのである
自分自身でもそうである、右でも左でもない何かの組織に属しているわけでもないから
気まぐれであり選挙で票を得たい方になれば頼りにならないということがわかる

何かその人は前から桜井市長のことを悪く言う、鹿島区の人も桜井市長のことを悪く言う人が多いというがこれも根拠が良くわからないのである
政治はその人の人格などあまり関係ないように見える
要するに政治とは公正な利益の配分が第一である、それで必ずもめているからである
そうしたら南相馬市としてみんな一体となり協力しえないとなるからだ
ただ完全に公正に平等に利益を半分することは不可能である
得する人と損する人が必ずある、その調整が政治なのだと見る




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病床数が半分に減っている

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  農業の衰退はひどい、60以上が担い手であり若い世代は極端に少ない
  将来維持できなくなるり耕作放棄地がまた増える

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鉄道も回復していない、こんなに減ったのか、コロナウィルスでも打撃を受けた、だからスーパーヒタチでも人が乗っていないように見えた、またオミクロンでも警戒して乗らないから打撃である
鉄道は相当な打撃だった、前は駅の中で遠くから来た人とか話ししたけどできなくなった
コロナウィルスでもオミクロンでも警戒するから人と接することが危険になるのでできない
ただこれはただ震災から6年後だからこうなっている、その後回復したがまたウィルスで減ったのである





この図で見ると人口7万から2040年に4万くらいになる、3万減る
80才以上が一番増える、それは今の70代とかが団塊の世代が80以上になってゆくからである、その後も65歳以上の高齢者が増えてゆくのである
そして子供と若い世代が40以下とかが本当に少ないのである
だから将来の人口構成は80才以上が一番多く下の世代を圧迫する
でもさらに2040年から何十年とかすぎると老人は少なくなり全体の人口も半分くらいになるかもしれない、
人口はそれだけ縮小してゆく
これは南相馬市で原発事故で極端化したが全国でそうなのである
夕張市とかはもう自治体として維持できないようになっているし室蘭市の人口が18万から8万以下になったのは驚いた、鉄鋼工場がなくなり働く場所を喪失してそうなった
日本が縮んでゆくことの衝撃である

老朽化したインフラの水道管とかでも修理に費用がかかる、それも負担できないとかなるつまり今までも自治体のインフラであれサービスも維持できなくなる
ゴミを処理するのにも市民が金を払うとかなる、様々な負担が増えるのである
生活保護にしても最低限もらえない、食べることもできない状態になっている
物価高があがりそうなっている、でも市では知っていても援助しないのである
その余裕がなくなっているのだ、それは全国でそうなる
老人になったら生活保護になればいいとういが最低限の保証すらできない状態になるしなっているのである、コロナウィルスでも生活保護が増えたのは65才以上の老人なのである

これから日本が縮(ちぢ)んでゆく衝撃がつづく、そして適正規模人口になって安定するとなる、膨大な耕作放棄地とか空家が2000万軒とかそういうことは東京でも起きてくる、人口が急激に減少してゆくからである
南相馬市でも7万から4万になる衝撃は大きい、いろいろな施設でも維持できなくなる
維持費がかかるるからだ、特に医療関係の人員が確保できない、グラフでも病床数は震災前の半分になっている

こういう状況になると南相馬市の未来とか何なのかとなる、小高とか避難区域はもう維持することがむずかしいともみる、それで小高から原町に移住した人が多い
また浪江とかからも復興住宅に移住している、そしてその原発避難区域は復興できるように見えないのである、また飯館村でもそうである、とても復興できると見えないのである取り残されたの老人ばかりであり若い人は流出したとなるからだ
まるで姥捨て山のようになったともみる

もしかしたら老人は故郷に愛着があるからそこで骨をその土地に埋めるというのもいい
でも奇妙だがその跡継ぎが供養する人もいないとなるとその土地に死んでも浮かばれないともなる、なぜなら死者でもやはり生者とつながって生き続けるからである
死者だけになるとそこは幽霊がさまようまさにゴーストタウンになるのである
お参りされない神社とか供養もされない墓かとが捨てられてそれも一段と寂しいものとなる、やがて幽鬼ともなり彷徨う死の町や村になる

一旦人が住むとそこは自然にもどるわけではないのである、死んだ人の霊というか行き場がなく彷徨うともなるのである
私の家族は全部死んだけど依然として家で花を活けたり供え物したり語りかけたりしている、返事はないにしろやはり死者そこで笑っているように見えたのである
それがなくなると死者も笑わないし幽鬼と化してゆく、浮かばれない幽鬼となり彷徨うとなる、それが町とか村全体で起きたのがこの辺なのである

だからまるで現実とは思えない、映画のようにも思えたがこれが現実だったのである
震災から十一年過ぎてもやはり同じなのである、原発避難区域は復興してないのである
グラフでも農業自体に従事する人も60才以上であり若い人は極端に少ないから維持できるのかとなる、農業は労力がかかる、機械化してもかかる、その割には収入が少ないからこれまでもやめる人が多かったのである
だから原発事故の周辺地域は元の相馬藩内となるが復興していないのである
それをこれからどうするのか、市長選挙で問われるてもそれに答えられるのか?
それは市民全体の問題として継続されているのがこの辺なのである




posted by 天華 at 17:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2021年12月26日

南相馬市の地産地消のソーラー発電風力発電の取材 (そのデメリットもあることは伝えなかった)


南相馬市の地産地消のソーラー発電風力発電の取材

(そのデメリットもあることは伝えなかった)

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再エネ導入比率90%超!南相馬 すごい発電ルポ
【山岡淳一郎のニッポンの崖っぷち】


solorpanerkk1.jpg

この一部が水没した

南相馬市鹿島区の烏崎のソーラーパネルが水につかり大被害
(みんな使い物にならない、交換するほかない)
http://musubu.sblo.jp/article/186684223.html




飯舘村のメガソーラーに直撃雷!? 接続箱2つで火災(page 4)

落雷の直撃により、33枚もの太陽光パネルが損傷したメガソーラー(大規模太陽光発電所)がある。空に向かってタワー(支柱)やブレード(羽根)の伸びる風力発電設備は、国内に導入以来、落雷被害に苦しんできた。一方、野立てのメガソーラーに直接、雷が落ちることはほとんどない、と思われてきた。だが、必ずしもそうではない。
https://project.nikkeibp.co.jp/ms/atcl/feature/15/302961/021400042/?ST=msb&P=2


事業用太陽光発電所に対し太陽光パネル1m2当たり50円を課税する「太陽光パネル税」の導入に現実味が出てきた。屋根上を除いた連系出力10kW以上の野立て太陽光に課税するもので、岡山県美作市が法定外目的税として新設を目指し、今年3月に条例案を議会に提出した。
https://project.nikkeibp.co.jp/ms/atcl/19/feature/00007/00043/?ST=msb


春先に薪ストーブに入る長さに
(当然だが、それぞれの薪ストーブで燃やせる薪の最大長さがある!)

チェーンソーで玉切りし、

斧や薪割機で割って、

日当たりがよくて風通しのいい、

雨のかからない場所に積んで

半年以上乾燥させないといけない。

家を建ててから気づくことF・・・薪ストーブは本当に手間がかかる!
https://www.kasahara-net.jp/blog/awareness/entry-83.html



前桜井市長がyoutubeに出て南相馬市の電力について語っていた
南相馬市は原発事故後にソーラーパネルとか風力発電に力を入れて来たからだ

意外だったのは東京にソーラーパネルの電力を送っていたことである
地元ではなく東京なのかとなる、あとは東北電力に送っているがそれも地元ではない
東北全域で使うとなっている

この地産地消のエネルギーでも問題がある、私が一番気にしているのは景観を悪くすることである、それを一番感じたのは宇多川上流の山がまるごとソーラーパネルになったことである、あれは危険でもある、人家がないにしろ水の保水能力がなくなり下流の相馬市にも影響する、現実に相馬市内全域が水害になった、水浸しになったからである
宇多川の堤防が一部決壊もしたから被害が大きく広がったのである

また飯館村で落雷があり被害があった、それから取材した右田でも掘りから水があふれ水没したのである、もともとそこは低い場所で水が集まる場所だったからである
津浪でも塩崎の方まで水がおしよせたことでもわかる、低湿地帯だったのである
そのことを語っていた、ただ熱海のような場所と違って回りに人家もなくなったので安全だとパいえる、人家がないと環境が悪くなっても文句を言う人がいなくなるのである
もし人家があったら風力発電もうるさいとかなる

そこに人家がなくなることの危険がある、飯館村とかでも人が住んでいてももう全体で一二割とかしか住まないとなると村でも景観が悪くなったからとか文句言う人もいなくなるのである、そして放射性廃棄物の処理場にされる
そして南相馬市にその放射性物質が入ったフレコンバックが破れて川に流れそれが南相馬市に流れて来るのである
つまり人が住まないということは現代では自然にもどることではない、国でもなんでも勝手にされてしまう、人が住んでいれば環境でも配慮するから反対するこになるが反対する人もいないか危険なもので勝手にされるのである

そして危険が回りに及ぶのである、だから飯館村の村議会選挙で南相馬市とは関係ないから口出すなと応援する人に言われたことが納得できないのである
もう飯館村は自治体として自立してやっていけないとも見るからだ
現実に南相馬市と合併するほかないという女性もいたからその人は現状を理解していたとなる
川俣村では前と同じように住んでいるから飯館村で風力発電を作ったら景観が悪くなると反対したからである、そこに前と同じように人が住んでいるからである

つまり人が住まなくなるとそこは自然に還るけでもない、かえっていろいろな問題が起きてくるのである、だから意外とそれが周りにも影響する、だから飯館村の問題は回りの市町村の問題にもなるから問題なのである
第一原発事故ではトリチウムとか海に流すことで世界から海を汚すなと批判されたことでもそうである、環境破壊は一地域の問題ではない、世界の問題になっているからだ
そのために二酸化炭素を出すなとか接続可能な社会を作るということに世界でなったのである

このyoutubeで南相馬市では薪を使う家が増えたと言っていたがこの薪を燃料にすることはとんでない労力がかかり手間になるのだ
それは石油を自動で入れないで手でいちいち押して入れていたことでわかった
これがめんどうで手間だったのである、その労力は馬鹿にできない、今は何でも機械でして電化しているから一人暮らしもできる
もう昔のように炭とか使っていたらこれも手間である、その手間を考慮したら今は簡単にできない、覚悟が必要だというのもわかる
子供の時は自分は風呂炊きが仕事だった、それも電気ではないからガスでもないから
紙くずとか残った木材の切れ端を無料でもらって炊いていたのである
つまり家事は本当に労力がかかっていた、だからそういう時代にもどることは簡単にできない、今はなんでも便利になっているし余った労力は別な方にまわす
コンピュター化してAI化しているからである

確かに地産地消は必要である、何か日立て小型の原子力発電の装置をカナダから受注したとか聞いた、この小型原子力発電は事故になっても軽くすむからいいとされていた
福島原発となると余りにも巨大すぎたからその巨大さによって甚大な被害になった
故郷に住めなくなったのである
でも再生可能な自然エネルギーでまかなうことも厳しいものがある、だから原発も20パーセントは維持しようとしている、これも大きな問題である
日本では風土的に原発とかでもソーラーパネルでもあっていない、地震はあるし津波もあったしソーラーパネルでも広い土地がないことが問題なのである
中国でもアメリカでも無限の土地がある、平坦な土地がいくらでもあるのとは違っているだから丸森の山ごとソーラーパネルにした、それで保水能力が消失して人家がなくても
宇多川が増水して水害になることがありうる

最大の問題はFITてあり20年間高く電力を買い取られることである
でもそれも後十年くらいでありあとはそうはならない、これだって税金だから金がかかっている、その分上乗せられて税金としてとられているのである
なんかこのyoutubeではメリットは語られていてもデメリットはそれほど語られていなかった
何事メリットとデメリットがある、放送は必ず一方的になる、自分自身でも偏るからである、ただ地元で原発事故にあったことで関心を持つようになったのである

おそらくこの主催者は左寄りの人だろう、前市長の桜井氏も左寄りであり原発反対で市長選挙で訴えたが小差で敗れた、だから何か偏っている
今度来年の一月に南相馬市長選挙がある
今の現市長の渡辺氏が東北政経で相馬市の市長の手下のようになっているとか批判されて問題になった、その記事が意外と影響するかもしれない、かなりのマイナスになるからだただ東北政経というのも相双リテックの宣伝をのせていたからそもそもこうした地域の雑誌でも偏っているのである
結局地域の雑誌とか資金がないからそうなる

でもこのyoutubeとかのテレビ放送は金がかからない、でも取材となると結構めんどうになる、とても一人ではできない、でも資金はそれほどかからない、だからこうして個人局でもyoutubeで放送しているのである
私でもプログでも手間なのだけど放送できる、だから一人でしている
家事も全部して放送しているのである、それだけ通信が発達した結果できるようになったのは大きい、今までにはないものが次々に放送されて読まれる
それによっていろいろな見方が生まれる、第一地方のことは全国放送ではしにくい
地方地方にはそれぞれの事情がある、南相馬市内でも違っている
福島県ならハマ、ナカ、アイヅとなり風土も歴史も違っている、それを知ることはなかなかできない、だから南相馬市と相馬市とかでもいろいろ放送するものがあるとなる

それで毎日こうして自分もプログで書いているのである、こういうことがかなり変わったことである、こうして自分なりの意見でも書くことができるからだ
すると一方的な見方にはならないのである
ただ来月の南相馬市長選挙の情報は不足している、争点もまたわからない
原発反対だけでは決められない、第一みんなこの辺では事故で反対が多いからである
それは当然でありそれに代わる何か政策とかを打ち出さないと判断しにくいとなる
posted by 天華 at 16:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2021年12月19日

原発事故と酷似していた十津川警部の推理ドラマ (原発が産業廃棄物会社となっていたー大企業の下請け会社問題)


原発事故と酷似していた十津川警部の推理ドラマ

(原発が産業廃棄物会社となっていたー大企業の下請け会社問題)

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今日見た推理ドラマの十津川刑事出演の構図は原発事故と同じだった
原発が産業廃棄物となっていた
大企業がその産業廃棄物場を青森の各地請負仕事していた
そこに政治家がかかわり大企業がかかわり広告会社がかかわり下請け会社がかかわる
そこに悪の権力の構図ができあがる

このドラマで一番印象的だったのは下請会社の人である

「私らは小さな会社です、大企業から仕事をもらえないとつぶれししまうんです」

この言葉切実だったのである、これは東電で働いていた電気関係者が事故の時千人とかいたと働いている人に聞いたからである
また親戚でもないが東電の下請けで会社を経営している人もいたからである
また東電に逆らうと仕事をもらえないとか言う下請けの会社がいる
東電に文句があっても何も言えないという人もいた
配管など老朽化して危険なことを知っていても東電には何も言えないと言っていた
つまり大企業の東電の権力は絶大なものだったのである

それは自治体とかを越える権力であった
自治体に命令できる権力だった

産業廃棄物の反対運動している人もこのドラマでいた、弁護士まで雇い戦っていた
でも下請け会社の人に殺されたのである
これも何かこの辺でもありえたと思う
まずその権力と金は利権は信じられないほど大きなものだったからだ
それは除染費用で6兆円も国の金がでたとかそれが大企業が請け負って下請けでも請け負った
それでたいして技術もないのに相双リテックなどに何十億の金が入り幹部が山分けしていたのである、みんなその原発マネーに狂ってしまったのである

だから反対などできなかった、漁業組合の利権も大きかった
そういう土建業者とか漁業関係者とか農業関係者の農協とかは力をもっている
票田でもあった、利権を得る共同体なのである
その人たちは結構怖い面がある、その利権団体を批判したら本当にこのドラマのように殺人までなっていた、下請け会社ではドラマでは反対同盟の人を殺したからである
この辺でも事故前に原発に反対していたら住めなくなるだけではない、村八分にもされ
殺されまでなっていたかもしれない、人間の欲は抑えられない、危険は無視される

つまり

俺たちの会社が大企業から仕事をもらえないとつぶれるんだ」

こう言っているのが切実だったのである、それは東電の下請け会社が多く東電の城下町のようになっていた浪江とか双葉とか大熊町とかではそうなっていた
まず東電がなかったらその自治体自体が財政でも成り立たなくなっていた
勤め先とかでもそうであり町全体にしても原発マネーが回っていたからである
だから小高に東北電力の原発も工事が始まる時建築関係者は喜んでいたのである
でもそれはもうここだと20キロ内になっていたから怖いことだった
そもそも自分は原発のことを知らないし関心がなかったのである
30キロ離れているから関係ないと見ていたのである

ただ専門家は東電内で働く人たちは危険を感じていたが東電の権力と国の権力でおさえられていたのである
そして地元でも建築土木会社に関係で仕事している人が多いから自分たちの生活がかかるから簡単に反対できないのである
地方では権力を持つのはそうした人達でありあと医者など医療関係者も持っている
ただ東電とか大企業になるとそれはもう自治体を支配するまでなっていた巨大権力だったのである

広告の仕事をしていた女性の人は国会議員に世話になっていたからその殺人にも加担したのである
人間は金に困ると借金したりするとモラルが消失して悪に加担するのは推理ドラマの定番である
もう毎月電気水道ガスがとめられるとなれば金が欲しいしかない、その金の出どころなどどうでもいいとなる、それが人間なのである、追い詰められ人間はモラルが消失する
犯罪になる歯止がかからなくなるのである

この構図にいるトップが東電であり県であり国だった
渡部恒三はトップの政治家であり原発をもちあげていた、そして息子はアメリカの原子力会社のGEの社員になっていたのである
その渡部恒三でも持ちあげていたのは政経東北であった
福島県のマスコミは報道関係は例えば福島民報とは政府の県の広報機関なのである
なぜなら県が50パーセント出資して成り立っているからである
だから原発の危険など報道しないのである

原発は国家権力が働いているから逆らうことはできない、国家の命令が県に下り県では自治体に命令するのである、そのために地元に飴を与える、金を与えるのである
それで地元も完全にとりこめたのである
そうなるともう誰も反対できないとなる
今でこそ原発を批判するがこうして国家権力で「安全神話」を作られた時もう逆らうことはできない、それは戦争の時と同じである、反対者は特高がきて警察に逮捕される
なぜなら検察と警察も国家権力だからである、戦争でも国家権力が実行したものであり
従わなければ検察と警察がかかわり逮捕されるのである
マスコミでも政府の県の広報機関であり「安全神話」に加担していたのである

このドラマは本当に生々しいリアルなものだった、それは本当に現実を反映したものだったのである、こういうことなのかとわかりやすかったのである
私自身が今原発事故のことでいろいろ追求しているけどまず事故前だったら怖いことになった、殺されることだってありえたとこのドラマを見て感じたのである
つまり下請け会社にしてみれば生活がかかっているからそうなったのである
ここでも同じ事が起きても不思議ではなかった
その後も原発事故の補償問題で南相馬市とか飯館村では分断された
その額がまた大きかったからである

ただ自分が原発事故のことを追求できたのは小高と原町区は鹿島区より三倍もらっているし医療費と高速料金が十年も無料だった、そして医療費無料が一年伸びたのである
ただ鹿島区も高速料金が無料にはなったのである
ただその差も大きいものだったのである、ただこれは相馬市とかも別に放射線量など同じでありそれで6万もらって終わりとかなっていた不満だったのである
ただ私の住んでいる場所は一人70万もらった、相馬市は六万しかもらっていないのである、原町区は三倍もらっている、医療費無料とかでも差別された
そのために生活保護でも医療費でも一部金がかかり国民年金をわずかでももらっていると最低限すらもらいないのかもしれない、4万くらいもらってどうして生活できるのかとなる
これはここだけではなきい、ロスジェネ世代はもう生活保護すらもらえない、もらっても雀の涙ということを示唆しているのである

ともかく人間は利権と利益には敏感でありそのために争う、またその目の前の利益のためにモラルも消失する、危険も返りみなくなるのである
この辺ではそれが他より強かったともなる
こういう状態ではもう何も反対はできなかった、反対運動している人達もいなかったからである、左の人達でもしていなかったのである
それで新潟県の小さな巻町でどうして反対して原発を作らせなかったのか不思議なのである、そこには新潟日報などが応援していたのである
これは本当に稀なことだったのである

金をもらいば何でも危険なものでも容認する、それが人間である
それに逆らうものは殺されるとまでなるから金は怖い
でも金をもらうことは必ずやはり責任がつきまとっているのである
金をもらったことは許可したことでありそのことで起きることの責任が生じていたのである
だから原発事故でこれだけの被害にあっても東電とか国家にも何か批判できないとしているのである、それは金をもらったからだとなる

「あなたたちに金をやりました、十分な金をやりました、だから批判しないで下さいよ」
こうなっていたとなる、ただ人間は目の前の利益だけを権利だけを見るのである
私だって原町区のように三倍の補償金をもらっていたら何も言えないのである
あなたは補償金それだけ受け取りましたから何も言わないで下さいとなるからだ
ただ南相馬市内で公平でなかったとして批判しているのである

この構図は何か共通している、どこでもあうりうることである、それは権力とはどういうものかをわかりやすく示しているからだ
権力の恐ろしさをわかりやすくドラマ化しているからである
ただ江戸時代の悪代官のように単純ではないから簡単には理解できないのである
posted by 天華 at 17:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2021年12月05日

南相馬市原町区北泉のサーフィン場で清掃のボランティアに逢う (小高に住んでいる女性である)


南相馬市原町区北泉のサーフィン場で清掃のボランティアに逢う

(小高に住んでいる女性である)

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Tシャッツを飾っているので何だろうと思った
清掃のボランティアだった、海をきれいにしている人達だった
その女性は秋田からきて仙台市にも住んで小高に今住んでいる
地元のことに詳しいから結構長くいるとなる

まだボランティアがいるということだがあまりに関心がなくなっている
一時はボランティアに来ても帰ってゆく人も多いという、やはりなじめないのでそうなる何か地元でも関心がなくなる、外部からでも十年過ぎると関心がなくなる

何かその女性は積極的であり秋田から来た東北人にも思えない
それで語尾にんだといっていたのは何故だろうと思ったら秋田弁でンダスと語尾の発音になる

このンダというのは東北弁で共通なのである
ところが仙台弁だけはちがう、だっちゃだっちゃになる、だからもともと伊達藩の仙台圏は東北でも異質の場所なのである
ただ丸森の人はんだちゃといったときんだにはこうしてバリエーションがあると思った
んだーだっちゃが合成してんだちゃになったのである
方言は何か国の訛りというように面白いのである

とにかくどうしても震災から十年過ぎて十一年にもなると関心が相当に薄れる
何か私は景観にこだわる、景観のいい場所には行ってみたいとなる
小高とかはあまり景観に特徴がないのである、双葉とか大熊辺りでもそうである
飯館は別である、高原の別世界になっていたのである
丸森は阿武隈川あり蔵王が見えるとかであそこは景観に魅力がある
鹿島区だと意外と気づかないかもしれないが蔵王は鹿島区からも晴れた日にはっきり見えたのである、この辺では高い山が無いから蔵王を見れることで南相馬市では鹿島区がいい場所だとなる、原町区になると蔵王は見えないからである
ただ原町区の魅力は街の魅力であり景観ではないから別である

私の場合はこうして景観がいいというときその場所に何度でも行きたいとなる
浪江町だと高瀬川渓谷があるからあそこに行ってみたいとなる
でもあそこは避難区域になっていて行けないから残念である

ここのサーフィン場には飲み食いする場所がない、だから作ればいいと話したが商売として成り立たないとやっていけない、ただサーフィンに来る人はいる、外の人も来る
でも景観的には火力発電所とかありいいとはならないのである
それでも遊園地もあり休む場所が欲しいとはなる
posted by 天華 at 17:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2021年11月17日

自治体が財政破綻するとどうなるのか? (夕張市とか原発事故周辺は似ているーその恐怖)


自治体が財政破綻するとどうなるのか?

(夕張市とか原発事故周辺は似ているーその恐怖)


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https://onl.tw/DytNuKx


財政破綻の恐怖を夕張を例にして具体的に説明しているからわかりやすい
部長とか率先してやめた、給料でも退職金でもたいしてもらえなくる、もう生活していけない状態になる、するとサービスする消防隊員でも減り救急車すら一台となり隊員もいなくなり命にかかわってくる
病院でも看護師も医者でも雇えなくなる、給料が払えないからである
すると第一公務員もやめるのだから一般の人も流出してゆく
その原因が税金が何倍も高くなるのだから住んでいられなくなるのだ
そして人口が激減してゴーストタウンのようになる
残されたのは老人だけになった
そしてもう自治体は自治は成り立たなくなり国の管理下に入り何もできなくなったという

これは原発事故周辺ともにている、南相馬市は一部であるが飯館村とか浪江とか双葉とか大熊とかは自治体全体がこのうよな状態になった、自治体が崩壊したのである
住民から税金もとれないし公務員に給料も払えない、これは会社が倒産したと同じである様々なサービスが受けているがそれが受けられなくなる

原発事故周辺はこれと似ているのである、ただ違うのは国から手厚い援助がありそれで持っている、飯館村などは80億円とか支援があったとか多額の補償金をもらった
でもそれも継続はしない、一時的なものとして消える
だから人も流出した、子供もいない、立派な学校を建てても外から通うだけだからである
もう飯館村の住人自体が言っているように飯館村がなくなるというとき何か夕張と似ている、ただ別に公務員には給料は支払われているし財政破綻は今はしていない、国からの援助があるからだ、でもいづれ継続できなくなる
住民は流出して子供もいない、自治体という時自治があるから自治体なのである
でも自治体も自ら自治ができないとき国の管理下に入る、すると自治はなくなり国の思うようにされる、例えば放射性物質の置き場だとか核処理場とかにされる
もう自治する住民がいないから反対する人達もいなくなるからだ

何か不思議なのは空家が増大していることである、自分の回りでも隣が空家になったとか最近一人死んで空家になったとか近くにもいい家があり庭があったがそこも長い間空家になっていたのだ、だからもったいなと思って見た
そして空家になると奇妙なのだけどそこに持ち主がいないから勝手に入る人が出て来る
それが自分でもあった、隠されたようにあった家に入ったら立派な庭があったからだ
別に見るだけならとがめる人もいないのである
不法侵入になるとしても空家になると誰もいないということで勝手に入る人がでてくるのである

まず浪江でも小高でも双葉でも飯館村でも空家だらけなのである
そんな市町村が成り立つのかと理屈ではなく感覚的にそう思うのである
廃墟の町とか村が成り立つのかとなる、つまり自治体が崩壊するということがこの辺で現実に起きているのだ、ただ国からの援助がありそれで今は持っている
でもやがて援助もなくなるとどうなるのか、夕張のように国の管理下に入りもう自治体の住民自体では何もできなくなる、そこで国の言いなりになるほかなくなるのである
自治体の自治がまさになくなる、自治体の住民がいなくなればそうなるからだ

こういうことは自治体が財政破綻が起きる、それが夕張市に起きた
もともと炭鉱がありそれで栄えていた、それがなくなり衰退してそうなった
この辺では原発がありそれで栄えていたが事故になり衰退したのである
ただ南相馬市となると小高区の一部がそうなったが全体はなっていない
だから自治体は維持されているのである
でも財政援助は十年つづけられたがそれも打ち切られた
すると自治体の経営も苦しくなる、それで生活保護でも実際は年金をわずかもらっても後は医療費とか無料のようでもそれも必ず金をとられる、何か住宅を直しても無料ではないその人はもう生活保護でもそもそも生活できないのである
それはやはり自治体で生活保護をまともに支給できなくなっている
このことは氷河期世代になると深刻になる、もう生活保護はとても最低限の補償はされないのである、そんな金がないしできなくなるからだ、それも恐怖である

結局飯館村は確かに国とか東電とから援助があり今は成り立っている
でもそれも継続しない、老人ばかりの村になって継続しない、若い世代は流出したからである、夕張とかなると極端であり住んでいられないからである
この辺も極端なものとして住んでいられないから若い世代が流出したのである
南相馬市だと小高区は別に南相馬市だから原町区とかに移り住む人が多かったからである原町区だと病院でも買物でも何でも便利だからこの際移り住んだ方がいいとなってそうなった、残されたのは老人だけなのである

ともかく夕張市は炭鉱の市として栄えた、それがなくなったとき急激に衰退した
この辺は原発で栄えたがこれも事故で同じように回りの市町村が衰退した
何か経済でも特化したものに頼るとこうなりやすい、でも不思議なのはSDGs(継続可能社会)を盛んに言うけどそもそも縄文時代から飯館村でもその村があり今まで継続していたのである、人口の増減などがあっても村は継続されてきたのである
だから別に原発がなくても市町村が成り立たない、継続されないとういことはない
だから継続できないということはそれが最大の問題だったともなる
継続を第一にすれば価値とすればその方法はあるし現実に縄文時代から今まで継続して町でも村でも成り立っていたのである、
その継続が断たれることが最大の問題だったともなる
多少縮小しても継続はされていた、それが自治体自体が破綻して崩壊するということは何なのだろうとなる

継続することが第一だ

こういう価値観になれば別にこれまで縄文時代から継続して村でも成り立っていたのだからその目的でもって村は継続できるのである
でも不思議なのはもう車がないと電気がないと住んでいられない、継続できないとなるのも変なのである
継続ということを第一の価値とすれば別に継続して村でも町でも維持できるのである
もちろん現代となればその維持の仕方は違ってくる、でも市町村自体が無くなるということはありえないのである
なぜなら相馬藩で飢饉になったとき三分の一の人たちが流出した、でもその三分の一を埋めたのが越中などからの移民であった
その移民はいい土地ではない土地を得て開墾して住んだのである
その時代が農業で生活していたから土地を無料でもらえるとして移民が来たのである
その苦労も並大抵なものではなく加賀泣きとして伝えられている
でもこうして相馬藩は飢饉からも立ち直ったのである

これを比べるとなぜここだけではない、自治体が財政破綻して崩壊して継続できなくなるのか?縄文時代から継続していた村でも無くなるのかということである
車を使うな電気を使うなとかいうのではない、何らか自治体を維持できる方策があると思うから言っているのである、ただ最大の問題を自治体を継続させることだとしていないことになるのではないか?
それを第一として目的としてあればそのためにはどうするのかとなる、それを全体で協議するとか何か解決策を見出すとなる

ただ現代は個々に利益を求めるだけでありそうした全体としての志向がないということでそうなっているのか、つまり十津川村のように自然災害にあって村が壊滅的状態になって北海道に移住したとき村人が一致団結してできたからである
それは村がもともと強固な強固な共同体として機能していたからできた
今はそれがないから個々がばらばらになりかえって自治体を共同体を維持できなくなったともなる、そもそも農民共同体のようなものが喪失していたからである
だからこそ多額の補償金をもらったら即座に仙台市辺りまで移住したのである
別に農民社会でないから土地をもっていないから金さえあればどこに住んでもいいとなっているからそうなったともなる
そこで継続されなくなったのである、農民社会では土地が生産に不可欠だから移住しにくいからである

ともかく自治体の財政破綻は自治体の崩壊となりそれを具体的に示したのが夕張市だったのである、その悲惨はこの辺と似ているのである、ただこの辺はまだ補償金をもらっているから何とか維持できている、でも実質は小高区とか浪江とか双葉とか飯館村は崩壊しているのである,持続継続できなくなっているのである

このように、国も自治体も産業界も私たち国民も、家を「つくる」ことばかりに目を向けつくった住宅を「引き継ぐ」「たたむ」ことに目を向けてこなかった――。

災害の多発化・激甚化で空き家は新たな事態を引き起こす存在に。家をつくることしか考えてこなかったツケ 野澤千
https://news.yahoo.co.jp/articles/2e4f81795a291be2a48ebb5470f374eba2025c81?page=3

こういうことも言える、家が建て過ぎてそれを引き継ぐ人がいなくなったいるのだ
それは墓でも引き継ぐ人がなく墓じまいするようになる
これも継続ということをないがしろにしためである、現代とは一代限りとかしか考えない未来に継続されることを考慮しない社会なのである
今良ければいいあとは野となれ山となれとなる社会である
だからエネルギーでも今使ってなくなってもいいやとなる
それでSDGs(持続可能目的化社会)が言われるようになったのである
目的が持続可能に置くということで悪、そのために一致協力することである
それぞれが勝手にしたら成立たないからである、持続できない継続できないで市町村でも崩壊するとういことにもなる、それが原発事故のこの辺の状況だったのである
posted by 天華 at 09:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2021年11月15日

権利と責任は一体(漁業権の問題など) (原発事故で問われた重大な責任)


権利と責任は一体(漁業権の問題など)

(原発事故で問われた重大な責任)

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明治時代になったとき西洋の法律を取り入れた、しかしその訳でも日本にもともとないものを訳すとなると簡単にできなかったから誤解が生まれた
権利は権理と最初訳していたのである、これの方が正しかったのである
なぜなら権利を与えられるにはなにがしかの理由がありその理由があって権利が与えられているからだ

ところがこの権理が権利になりまさに利益を求める利を求めるだけになったのである
そこに権利が与えられた理由がリーズンがなくなったのである
とにかく権力を得て利益を得ればいいとなってしまったのである
それはあらゆることでそうなった
身近な所では相続でも兄弟姉妹で相続を等分する権利があるとなり長男に財産を特別に得ることはなくなった
でも長男は優遇されてもその家を受け継ぐ責任が課せられていたから特別遺産を受け継ぐ権利があったのである
長男は親の世話をみるとなったのもそのためである

それが等分に分けることは確かに兄弟に遺産を平等に分割するのだからいいように見えるしかしそうなると家を継いでも維持できなくなる、そのために遺産がないと金がないと
家や土地まで売らなければならないとなったりもめる
田畑をもって農業して生計したりしていると困ることになる
また家を持っていて都会辺りで土地を売るとなると困る
介護でも誰がするのかとなると今までなら長男が遺産を主に受け継ぐから責任がありそうなっていた、つまり権利には必ず何か権利を与えられる理由があり責任が課せられていたのである

何かこういうことはいくらでもある、とにかく人間は利益を得たいということでは共通している、権利を得て利益を得たいとして働いているともなる
だから地位を得たいとか上級人間になりかいとかなる
高級官僚が地位もあり金も入るということでうらやましがられる
でもその優遇される地位でも高給取りでも必ず責任が課せられているのである
しかしその責任が無視してまず権利を得る利権を得る、利益を得るとういことが先になる
原発事故ではその重い責任が問われたのである、でも誰も責任を果たしていないのである漁業組合が船主などが特に事故前も多額の補償金を得て原発御殿を建てていたとかうらやましがられていた
その時も漁業関係者は原発を建てて利権を得て利益を得ればいいとしか思っていなかったそこに重大な責任が課せられていたのである
つまり利権を得て利益を得て多額の補償金をもらったことが重い責任となっていたのである

政府でも東電でも

「私たちはあなた達に補償金を払います」
「はい、わかりました、もらいます」
「では事故になってもあなたたちは文句を言わないようしてください」
「・・・・・・・・」
「それを了解してもらいますよ、そのために金を払うのですから」
「・・・・・・・」

本当はこういうことで金は払われていたのである、ところが漁業権というのは漁業組合に入っている船主とかが独占しているものであり港に住んでいる人でももらえなかったのである、その理由となると

〔あなたたちは漁業者はなぜそうした利権があり利益が得られるのか
 漁業権は何のために与えられているのですか?」
「漁業資源の保護のためです」

こういうことで理由があって利権を得ていたのである、でも肝心の漁業資源の保護が原発事故でできなくなったのである
でも政府と東電にすれば
「あなたたちは漁業組合は海を汚されてもいいと了解しましたね、そのために事故前にすでに多額の補償金を払ったのですから・・・」
こう言われることにもなった、そして今度はトリチウムを海に流すという時もあなたたちは漁業権を私たちに売ったのです、そのために金をすでに払っているのです
文句は言えないでしょうとなる
もちろん事故後の補償金はさらに増やすし継続して補償しますから文句はないでしょう

こんなふうになったのである、もし漁業権を漁業組合だけでものにしないで自治体とかのものとして協議していたら別である
漁業組合は海は俺たちの物だから勝手にしていいのだとなっていたのである
つまり権利があり利権があり利益があるとなるがそこに重大な責任が課せられていたのである

資源保護を目的として権利が与えられていた!

その肝心の漁業の資源保護ができなくなったのである
だから権利は権理であり理由があって権利が与えられている、漁業組合に漁業権が与えられていたのは漁業するための資源保護のためだった、そうならば原発を建てるとき事故前にでも多額の補償金をもらうことはすでに海を汚してもかまわないですねという了解を契約をしたとまでなる
それは漁業組合で海は俺たち漁業者のものだと権利を主張して利権をえて利益を得るためにそうした、でもその権利には理由があり重い責任が課せられていたのである

ただこれはこの辺で具体的に起きたことでわかりやすいが他でもいくらでもこうしたことが起きている、なぜならまず利権であり利益だとなり他のことは責任でも無視されるのである
責任といえば東電に天下りした官僚たちも事故の責任があった
なぜなら多額の金を東電からもらっていたからである、それは自衛隊でも海上保安庁とか警察関係でも司法関係でも官僚が天下りして多額の金をもらっていたのである
その金をもらっていたことで重大な責任が課せられていたのである
安全を計ることに無関心ではいられなかったのである
だから天下りした官僚はその金を返還すべきだとなる、金をもらうことは必ず具体的な責任となっていたのである

でも実際は権利をもち利権を絵て利益になればいいしかないのである
弁護士でもただ相談するだけで百万とられたとかあり弁護士という資格をもっていて不正を働いたのである、弁護士という資格はそうして利権となるから利用したとなる
もちろんそれを相談した人も悪いとなるが死んでしまった
この人にも責任があったが死んだから問われない、ただ自分の家にも責任があったともなる、そんな金をなぜ払わなければならないか理由がないからである
だからなんらか金には常に責任が具体的なものとして課せられている
そして責任が自覚されないのである、それで後から原発事故のように責任が問われる
それで必ず何でも契約書には細かく責任をとらないことを記されている
「私たちはこういうことがあっても責任はとりません」と記されているのである
それは必ず後で責任問題になるからその責任をさけるために事細かに責任をとらない旨を記しているのである

本当に原発事故では天下りした政府関係者でも東電の幹部でも無罪を主張するとか全く
責任をとる人が一人もいなかったのである
でも人間は必ず責任を取らされる、戦争の結果として3百万人が死んだのである
責任をとらされたのである、一体のその責任は誰にあったのかとなる
あまりにも重い責任をとらされたのである
原発事故でも故郷に住めなくなる、貴重な自然と融合した飯館村でも住めなくなるとか重大な責任が生じていたのである
なぜそれが重大なものかというと飯館村でも縄文中期の遺跡が発見されたとか古いからである、つまりそういう古い時代から今日まで村は継続していたのである
最近盛んにSDGs(持続可能目的化社会)が言われるけどまさに縄文時代から継続してきた生活が村が失われることが最大の問題だったのである

村でも継続されることが第一なり

縄文時代から人が住んで生活していたのにできなくなる、このことは何を意味しているのか?その長い人間の歴史が失われることである
何であれ貧乏であれ継続される社会こそ重要だとなる
そういうことが燃料は炭であれ食料でも貧しくても縄文時代から継続していた歴史があったということである、その継続したものが根こそぎ原発事故で失われたとういことそれが人間にとって何を意味しているのか?
それがこの辺では問われたのである

とにかく今の社会は本来の目的からはずれたものとして利益のために何でも正当化されるのである
カルト教団などでもそうである、確かに政治活動をしてもいいとはなる、でも宗教団体だと無税になる、特権が与えられている
そうしているのは宗教活動だからである、でも現実は宗教活動でなくても政治活動でも経済活動もしている
それも無税になる、そもそも宗教活動は何なのか、その理由が明確ではないのである
また明確にしていないのである、つまり権利とは権理であり理由があって権利があることなのである


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2021年10月31日

共同体の喪失が原発事故であからさまになった (日本国家の共同性も喪失すると国家も防衛できない)


共同体の喪失が原発事故であからさまになった

(日本国家の共同性も喪失すると国家も防衛できない)

私権私財を削って、公共に供託するどころか、逆に、公権力を用いて私利私欲を満たし、公共財を奪って私財に付け替えるような人たちばかりがエスタブリッシュメントを形成している。「そういうことができる」ということが権力者なのだ、そのどこが悪い。文句があるなら、まず自分が権力者になってみろ

https://news.yahoo.co.jp/articles/db2511a35d07dc9b8465f838ae2e63ae3a1ac2ef

これには共感する、現代社会から公共性がなくなった、共同体もなくなった
何があるのかとなるともう目先の金しかないのである
人は金のために動く、その金がどういうものかなど考えない、金を得ればいいしかない
それは当然目先のことしか考えない、今金になればいいんだとしかないのである
共同体とかいうときそれは目先の利益で作られたものではない、長い年月で作られてきたものである

農民社会だと自然が相手だから長期的に見ないと生命も共同体も維持できない
木が成長するのに50年かかるとすると果実を受け取るのは次の代なのである
実際に果実を受け取れるのは常に親の代ではなく子供の代である
第一富が貯えられるには一代では無理だからである
家と土地を得るこめに一代目は費やされるがそれを受け継ぐ子供の代だと楽になる
だから農家の家に生まれれば土地もありノウハウも受け継ぐことができるから楽なのである、そもそも農業は何もないところから始めるとしたらその苦労は並大抵ものではない
個人的にはそうなるから共同会社のようなものに入り勤めるのがいいとなる

現代社会には公共性とか国家とかの共同性がない、金を得るために個々人があり共同体はなくなった、それが如実に現れたのが原発事故で避難区域になった町や村である
目先の補償金をもらうことしかなく町や村を維持するとかはなかった
だからいち早く町を見捨てて移住した人たちが多い
もうこんな場所にいられないとしてそうなったのである
そもそも原発を誘致したのは長い目で見てない、今金になるということで誘致したから危険も無視したのである

だから村や町はもう古代から長く地方でもつづいている、それが一挙に簡単に崩壊してゴーストタウンにビレッジになったことに驚いた
もちろん放射線被害があるからやむえないなということはあった
住んでいられないということもあった、でもそれだけで町や村が崩壊するのかとなる
不思議なのは戦後の焼け野原からでも日本は復興したからである
何も無くなっても復興したからである、だから放射線の被害があったとしてもそれだけで簡単に崩壊して無人化することに驚いたのである

もう町や村でも共同体はなくなり一時的なつながりしかないものになっていた
第一農業でも漁業でも林業でも携わる人は一割にも満たないとかなっていたからである
自然に依拠する仕事は長い年月つづいていた、それは自然に依拠するから商業とか工業とかとは違うからである、でもその前に農業でも漁業でも林業でも日本では衰退産業となり跡継ぎがないとなっていたのである、金にならないとしてそうなった
林業はグロ−バル化で外材を輸入して日本の森は豊富なのに利用されなくなっていたのである
それが原発事故となり一挙に崩壊したのである
だからすでに原発事故前から第一次産業は崩壊していたのである、原発事故はただその契機となっただけだともみる

そうして事故のあとは補償金を得ることしかなくなった
自分の家の前の海も権利があるとして補償金を要求していたのである
私道であれなんであれ補償金をもらうために主張したのである
漁業権をもっている船主や漁業組合は特に権利が大きいから原発事故前から多額の補償金をもらっていた、そして原発御殿が建っていてうらましがられていた
そこがまた津波の被害が一番大きいものとなった、村自体消滅したからである
それも何のだろうとなる、何か罰だったのかとも見てしまう
自然の恵みに感謝することもなくただ自然をむさぼるというのが現代社会である
まず漁師でも海で魚をとれることに感謝している人はいない、一匹の魚に感謝している人もいないし農民でも一粒の米をとれることに感謝している人もいない
ただ金にならないということで嘆いているだけだったのである

それは別に漁師とか農民だけではない、それを買って食べる人も一匹の魚に感謝したり
一粒の米に感謝して食べている人はいない、ただ値段をみているだけであり結局だから金が欲しい金があればいいということになっていた
そういうことがもしかしたら津波ともなり自然から復讐された災いがもたらされたのかもしれないともなる
そもそも日本の祭りでも外国でも自然に感謝するということがあった
それが資本主義社会とかグロ−バル化経済になると消失した、すべては金で買えるからそうなった、かえって貧乏な時に自然に感謝していたのである
またそうした祭りがあることで農民共同体でも漁民共同体でも山林共同体でもありえたのである、それはどうしても自然と共存しないと生きていけないからそうなったのである
商業や工業社会になるとどうしても自然と分離してゆくから自然とは何かわからなくなったのである

いづれにしろ公共というときそれは自然は公有のものであり公共のものである
海でも山林でもそうである、土地は実際は公共であり公有のものであり私有のものとしてありえなかった、だから過度に明治以降私有を認めた結果として入会権として共有していた山は無数の私有地として分割された、結果として公共事業するにも私有に分割されて今や誰の所有もわからず公共事業もできなくなった
つまり公共性が消失した社会になったのである
だから古代から継続された村でも町でも簡単に崩壊したともなる

公共的なものとして市町村があるわけではない、公共のものとしてあるわけでもないみんみんな私有としてあるから家の前の海が俺のものだから補償金を払えとなったのである
そしてプライベイトというとき奪うという意味でありまさに私的に奪うものとして土地でもなんでもあったとなる、そこに公共性は喪失していたのである
だからこそ公共としてある市町村でも簡単に解体してしまうとなる
津浪以降盛んに絆が言われたがそれは絆が失われた時代だからそれが言われたのである
この辺ではボランティアが絶えず来ていて外部との絆が生まれた
でも内部では補償金で分断されていたのである

ともかく現代社会は個々人が金を求めてアトム化原子化した社会であり共同体は喪失していたともなる、だからこんなに簡単に町や村が崩壊して消失することになった
もちろん放射線被害のためだともなるがそれだけでこんなに簡単に町や村が崩壊解体するのだろうかという疑問があった
一家族ならありえても町や村までは簡単に崩壊して解体されることに驚いたのである
ただそれはここだけではない、全体的に国家的に世界的にもそうなっている
だから何かの契機で簡単に市町村でも崩壊してしまうのかともみる
絆とかなくなっているからだ、みんな求めるのは目先の金だけの社会である
それは田舎でも同じである、田舎は農民共同体であったが今は一割にも満たないからである、ほとんど会社員になっているからである

日本が衰退するというときこうした公共性がなくなったとかから見る人は少ない
技術競争に後れをとったからだとかなるのが一般的である
でも日本社会の構造の大変化がありそれが衰退の要因だとはみない
つまり日本の共同体の崩壊がありそうなったとはみない
そこにはもう日本国家共同体というものもない、だから常に国際性ある金持ちの人は
ひろゆきとかは日本を脱出する準備をしろとか金持ちは日本を出ることを考える
それは中国の富裕層でもそうである、中国となると常に政変があり既得権を失うからそうなる、日本ではあまりそういうことがなかったがグロ−バル化して同じようになった
でも日本ではそうして外国に移住するこということがあまり経験していなから躊躇するのである、ただグロ−バル化するということは市町村だけてはない、日本自体の公共性でも共同性もなくなるのだからそうなりやすい社会だとなる

実際に今田舎に住んでいる人でも一億円やるからとなるとかえって都会に出るとなるだろう、東北だと仙台市に住みたいという人が多い、それで補償金で仙台市に移住して成功した人もいることでもわかる、つまり共同体とかは関係なく金さえあればいいとなる
そういう社会は金融を生業としてユダヤ人とも似ている
なぜならユダヤ人は常に国家にいても土地をもてないとか共同体から除外されたからそうなったのである、それで国家をもちたいとなりイスラエルが建国されたからである

いづれにしろなぜ日本がこれほど貧乏になり衰退してゆくのか?

その理由は必ずしも技術開発に遅れたということだけではない指摘には共感する
そもそも日本国家として共同性すら喪失してしまった板ということである
逆に戦争の時は過重に日本国家の共同性が主張されていたのである
だからそれをなつかむ人さえ戦後はいたとなる、でも戦後社会は日本国家としての共同性すらなくなるとどうなるのか?
この辺で原発事故で簡単に町村が崩壊して解体したようにもなる
金が第一とするから金にならないから日本にいてもしょうがいなとなり外国に脱出する準備をしておけとかなる、日本がなんてどうなってもいいとまでなる
そうしたらもう日本国家も維持できなくなる、つまりすでに内部で共同体は喪失しているから維持もできないとなるからだ、それこそ国家の危機であり経済の衰退どころではないこれから日本国家が消失するという危機にもっないる、すでに内部でそうなっているのだから外部からの攻撃に弱いとなるのである

何かこれは右翼的でありそんなことは古いともなるがそこにこの辺のように町村が簡単に解体してしまう危機がある、それはそうなってみないと理解できないのである
日本国家自体が解体する危機になる、それが外国から中国などから攻められた時そうなる日本国家としての共同性もなくなっていればそうなる
逆に戦争の時は日本国家の共同性が過度に強調されたのである
それで日本隅々まで戦争のために神社に戦勝を祈っていたのである
そういうふうに極端な反する状態があり戦前と戦後ではそこが根本的に違った社会になったのである、防衛力にしてもそれか技術的な問題としてあるのではない

日本国家共同体の絆がなくなればもう日本を防衛するという気力も精神力もないとなる
だから平家と源氏の争いで鎌倉が公家についた平家と戦い勝ったのは鎌倉の武士には主従関係が強固だから勝ったと分析するのもわかる
ローマが衰退してゲルマンが優勢になったのも人間の強固な主従関係があったからだとしている
意外と日本の軍隊にはこの主従関係の強固さがなかったから敗れたという分析もある
上官と下士官の結びつきが主従関係が弱かったとしている
その関係は一朝一夕には作れない、武士の主従関係はその土地に根付いて何代か経て作られたものだからである、だから人間関係てもそうした強い絆を作るには時間がかる
旧家でもそこの召使がいたとしても使用人がいたとしても主人との信頼関係を作るには時間がかかる、だから使用人でも同じ家に十年勤めていたら信用できるとなるのである
ともかく人間が信頼し合うには簡単にできない、時間がかかるのである

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2021年10月25日

農業でも漁業でも衰退して原発が作られた (親は農業でも漁業でも苦労が多いから継がせたくなかった)


農業でも漁業でも衰退して原発が作られた

(親は農業でも漁業でも苦労が多いから継がせたくなかった)

NHKの伊勢海老をとる漁師の放送をしていた、なぜ漁師になったかというと前は別な仕事をしていたのである、ところが交通事故で複雑骨折とかして仕事ができなくなった
それで親が漁師をしていたのでなった、そしたらまた仕事中に目を汚して片目が見えなくなった
何か不運のようでまず交通事故になる人は多い、そこで怪我してそれが尾をひく
一番ケガしやすいのが交通事故なのである、また結構何か仕事で事故になる
その人も結構厳しい人生となったのである

でも親が漁のことをいろいろ教えた、それでやっていけた、すると親子のつながりは強くなる、でも漁師には親はしたちないというとき仕事の辛さと危険を体で知っているから
子供にはやらせたくないとなる、そうして漁師でも継ぐ人は減ったとなる
何か親は自分の仕事を継がせたくないという時、仕事の辛さとか危険を体験しているからそうなる
農業でもやるなとして親に殴られたという話を聞いた、その人は建築現場や原発で働くようになったのである
これも農業は苦労が多く金にもならないとしてそうなったのである

ただそういうことがこの辺では原発事故で大きな問題になった
船主とか漁業組合は漁業権をもっているからそれで事故前も補償金をもらい原発御殿が建っていたとか批判されるようになった
鹿島と原町区にある火力発電所でもそうである
そこの漁師では二回も補償金をもらっていたのである、そのために高価な着物が売れたとかまた航空運賃が馬鹿高い時にヨ−ロッパ旅行していたのである
その頃航空運賃が50万くらいしていたからである

海外旅行の費用は50万円程度、現在[いつ?]の換算で300万円前後か)で、一部の富裕層に限られており、庶民には夢であった

こういうことがすでにこんな田舎でできていたことに驚いた、それだけ二回も補償金が火力発電所建設と原発で船主とか漁業組合に入っていたのである
ということはさほど魚がとれなくても十分に豊かに暮らせる金をもらっていたとなる
おそらく魚をとるだけではやはり農業と同じように金にはならなかったから漁師でも跡を継がないとかつづかないとなっていたろう
実際に松川浦の漁師は魚がとれなくて売れなくて困るとかネットで報告していたからである、でも今振り返るとそういうことはなかったのである
つまり魚がとれなくても補償金で十分に暮らせていたのである

いづれにしろ農業とか漁業とか林業は衰退産業でありそれも苦労が多いし危険だから後継者もいないとなる、ただ全部ではなく一部ではもうけている人達もいる
全般的には後継者がいないとか衰退産業であった
でももともとは農業でも漁業でも林業でも主産業だったのである、農業だと養蚕農家が多く生糸が輸出産業となっていたのである
だから別にそういう時代は漁師でも生活していたし後継者もいたのである
辛いとか危険でもそうして生活するほかないからである

ただ時代が変わってそうなったのである、とにかくそうしたことで原発が金になるからいいとなって積極的に誘致された、原発は金のなる木だった
その労働にしても放射線被害があるから何分か中に入って働き休むとか何か重労働でもないみたいだった、それより普通の三倍もの金になっていたのである
そのために飯館村の人も働いていたのである、それだけの金になる場所だったのである
それでこの辺では金持ちになった人が結構いたとなる

それが事故で裏目になった、そこには危険が隠されていたが金のために無視されたのである、何しろ今の時代金になるとなると目の色を変える、まずは金だとなるからどうにもならない、みんながそうなっている時反対することは不可能になる
安全神話でも地元の人が信じたとなるのは金のためだったとなる
それが一挙に事故で崩壊したのである

だから本当にそうして親が子供に苦労させたくないという親心が仇になったともなる
今になると日本が貧乏になり何か金になることもないというとき盛んに農業が有望だとしているのも不思議なのである、農業でも実際は小規模農業ではなく専業農家が野菜でも大量に作り市場に出している、キャベツ農家とかいて外国人を安く雇い一千万とか稼いでいる富裕農家がいる、それを見れば別に農業ですべて稼げないということではない
ただ農業でもその形態が変わったのである、農産物の八割はそうした専業農家で作り市場に出しているのである
農業でも漁業でも林業でも全部がだめになっていない、一部でも成功して金になっているのは依然としてある

確かに親が子供には苦労させたくないということがり親心があった、それが悪いとはならない、でもまたそういうふうに自分のしてきた仕事を全否定するようなことを言うのはおかしいともみる、何かしらその仕事に誇りがありいくら苦労したとしてもその仕事まで人生まで否定するというのがわからないのである
それも結局すべて金にならないということに尽きる、そのことが原発を積極的に誘致した大きな原因ともなっている、また双葉とか大熊辺りは仕事がなく出稼ぎしていたから地元で働きたいということでもそうなった

ともかく原発のことを良くわからないままに目の前に金になるということで金をつきつけられて地元の人が危険を無視したとなる
そして30キロ離れていると関係ないと思っていたのも盲点だったのである
つまり事故になることなどほとんど考えていないからそうなった
でもチェルノブエリでは人が住めなくなった、あれを見ていれば危険だと推測するがそれもしなかった、何か日本人は優秀だとか技術的に優れているとかで慢心していたのであるまた津波でもスマトラ津波があったときも日本では津波に警戒しているからあんなにふうにはならないと見ていたのである

日本人はこうして慢心していたのである、太平洋戦争でもそうである、アメリカがどういう国かも知らない、それて甘くみて慢心して3百万人も死んだのである
やはり人間が慢心する奢ることがいかに危険かわかる
高度成長時代がありその時、ジャパンアズナンバーワンとか奢りがあった
日本は別に優秀でもなかった、今になると韓国や中国でも同じように電器製品を作っていて日本だけが作れるものでもなかったのである

ただ確かなことは第一次産業だけでは豊かになれなかった、工業化しないと豊かになれない、それは中国をみればわかる、たちまち工業化IT化して豊かになったからである
イスラム圏では工業化しないから豊かになれないのである
でも工業化は必要でも原発となるとそれが危険であることを隠していたのである
別に原発がなくてもそれなりに暮らしていける、第一江戸時代から戦前でも電気もまともにもないのに暮してきたからである、そこでは金持ちもいたのである
養蚕農家があり農家でも暮らしていけたのである
原発がなくても高度成長時代はあった、電気は作れていたのである

原発の危険は「安全神話」で隠された、安全だ安全だ念仏のように唱えていたである
その裏返しは技術者はその危険を知っていた、でも安全神話は権力で隠されていたのである、原発はブラックボックスとなって一般の人には地元に知らされないからである
それが事故になり白日の下にさらされたのである
その巨悪が暴かれてさらされたのである、だからこれだけの国家的巨悪はとても暴くことが不可能であり津波が暴いたともなる
そしてその責任をとった人は政府でも東電でも依然として一人もいないのである
ただ地元の人は故郷に住めなくなるという責任をとらされたのである
必ず責任は人間とらされる、カルマとなる
それから逃れることはできないのである、原発はそうした重い責任があるものだったが
それが権力で見逃されたのである


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2021年10月18日

原発事故でなぜ一挙に町や村が崩壊したのか? (広域化グロ−バル経済で共同体のつながりがなくなっていた)


原発事故でなぜ一挙に町や村が崩壊したのか?

(広域化グロ−バル経済で共同体のつながりがなくなっていた)

飢饉の時などは比較的余裕のある藩でも「津留」といい禁輸措置をとりました
自分のところに波及するのを過度に恐れたわけです
結果としてしばしば食料が不足地帯に流れず飢饉が不必要に激化する傾向がありました

川とか海の港で行われた、相馬藩でも飯館村が飢饉の時相馬藩内では援助したが伊達藩ではむしろ関所でとりしまり支援しない、それが江戸時代だった
こういう社会とまるで逆なのが現代だけどやはり国内ではこういうことがなくてもグロ−バル化すると外国から品物が入って来なくなる、最近ではコロナウィルスでマスクが自国で生産していないので中国から輸入するほかなくなったとかある
つまり現代ではグロ−バル化すると外国から品物が入らないと致命的になる
最近では円安になり小麦の値段があがるなどして影響が大きい
どうしても自国優先になるから食料が何かの影響で入らなくなると窮地になる

一方で地域の繋がりが希薄化した、米でもなんでも食料でも外部からいくらでも入ってくるとなると地元でとれるものにこだわらない、野菜にしてもみんな外から九州でも北海道からでも入ってくる、すると地元に頼らないのだから地元の農家でも別になくても食料は入るとなるから関心が薄れるのである
米でも様々なブランド米がありただ金があればどれでも選んで買えばいいとなる
ただこの辺で天の粒とかは500円くらい安かった、それは別にうまくないものではない
だから安さで買った、野菜でも地元のはわずかでありみんな外部から入ってくる
それは専業農家が大量に安く作って売っているものである
約八割は専業農家がキャベツでも何でも作って売っているのである
だから農業がもうからないというがキャベツ農家は一千万の収入があるとかされている
ただその労働力がたりないので外国人労働者を安く雇っているとなる
つまり労働力を安くして安く売れるとなる、これもまた広域化グロ−バル化経済だとなるのである

でもこうなると地域とかのつながりは希薄化する、何か昔の村とかとはもう違っている
昔の村だと自給自足が基本にあった、なぜなら戦前でも戦後まもなくでも農民が八割とか戦後でも六割とか多かったからである
すると農民社会であり農民は今でもそうだが結びつきが強い、それで三代でも農家でないと仲間になれないとか言われる
それは江戸時代から村の結束は強かった、人間は共同体というとき生産共同体であり消費共同体というのはない、米でも共同の労働があってそこで村の結束が生まれた
だから農家が前は大きな票田となっていたのである

現代経済は消費社会ともなっている、消費者は王様だともなる、何か店でも農家でも米を買ってくれとなる、買ってくれる人がお客様となるからだ
米でも今年はコロナウィルスで消費が減って余り米の値段が下がったとかなり買ってくれとなる、でも消費するだけだと仲間にはなれない、人間の結びつきが生まれない
だから何か地域の結びつきは希薄化してきた、農家でも全体の生産の一割にも満たない
いくら
回りが田畑があっても現実の経済では田舎でも経済の比重が前より相当に下がっている
それで原発事故で仮設に住んでいた人がここで買い物したりして金を使うから地元の人達を助けていると言っていたのである、それが何かおかしいのだけどここに現代の社会を象徴したものがあったとみる

消費者は王様だとなっている社会だからである、そこで地元の人に助けられているという感覚はなかったのである、かえって外部から来たボランティアは毎日来ていたから外部の人に助けられている、なぜ地元の人は不満なのかとかえって地元の人達とは一体感もないのである、地元の人達は冷たいとなっていたのである
これも何か矛盾していたがこういう社会で起きた現象だとも見る
こういう社会だったら別に金があれば他に移り住んだ方がいいとなる、地元はかえって冷たいとなるからだ

でも例えば原発事故以後この辺で荒地化したが農業をやる人はなかなかない
そんな小規模の農業はただ骨が折れるだけだとなる、そして高齢化しているから知っている人の畑で野菜を作っていた人も体が弱りやめた、回りも病気とか高齢化でやめた
でもその後も誰も畑で野菜を作る人はいない、放置されているだけである
戦後は引揚者が働く場所もなくどんな不便な場所にも開墾に入った、そういう時代なら
そうした空き地は利用されていたのである
その原因は広域化とグロ−バル化経済にあったともなる

このことは飢饉になったら外部から物資が入ってくる、外国からも入ってくる
でも遠くから外国から物資を入れることは頼ることは入らないと危険になる
どうしても自国優先になるからである、地元優先になる、だから広域化グロ−バル化経済はすべていいものとして働かないのである
そして地域の結びつきが弱くなったという時こうした広域化グロ−バル化経済が影響している、食料でも外部から入り頼るとなると地元の農家などでも存在感がなくなる
外部からいくらでも食料が入ってくるではないか、地元のうまくない米など食べる必要がないとなる、

そこで一番肝心なものは何か

金があればいい

こうなったのが現代である、金があれば外部からいくらでも買えるからである
そうして地域のつながりが薄れるとどうなるのか、何かあると地域が簡単に崩壊する
それが起きたのが原発事故で町や村が一挙にゴーストタウンにビレッジになったことである、これは放射性物質汚染で住めなくなったこともある
でももともと農業でもそれが主産業ではない、だから東電で電気関係の仕事をしていた
浪江の人は補償金もらって老後も安泰であり良かったとしている
あれだけ寂れた街に住んでいてもそうである、回りの田畑は草ぼうぼうでもその田畑に無関心だったのである、もともとその人は電気関係の仕事だから田畑が草ぼうぼうになっても関係ないのである、別に金があれば一応何でも買えるからである
確かに買い物が不便でも品物は外部から入ってくる、要するに金さえあればどうにかなる最も怖いのは金がないことである、それで最底辺層は毎月ガス、電気、水道が止められることで窮地に追い込まれるのである
そううい人は金が得られるならば地元に執着しないだろう、第一そこまで貧乏なら外部に移って豊かに暮らせるならそうするからである

原発事故でなぜ簡単に村でも町でも崩壊したのか?それは放射性物質に汚染されて住めないともなった、でも不思議なのは地元でももともと米でも野菜でも外部から入ってくるものを食べていた、だから放射性物質に汚染されないものを買って食べればいいのである
そうすれば地元に住めなるとなる、ただ空気とか水とかまで汚染されたから住めないともなった、でも別にもし放射性物質汚染でも気にしなければ住めるのである
食料は外部から入ってくるし車があれば買い出しもできるからである
だからすぐに飢え死にしたりしない、江戸時代の飢饉だと飢え死にしている
外部から食料が入ってこないからである、津留とかは外部に食料を流出しないように止める役割があった、飢饉の時などは流出しては困るからである

何か現代は外部とのつながりはこうして強くなった、それもグロ−バル化すれば外国とのつながりでもそうである、でもかえって地元の地域のつながりは希薄化したのである
原発事故では仮設には毎日のようにボランティアが来て援助していた
こうして外部とのつながりが強調されたのである
そして内部のつながりは奇妙なのは補償金で分断されたのである
こっちが多くもらったこっちはもらえないとして分断してしまった
あとは多額の補償金をもらった人たちは外部に流出した、仙台市とかに資本金ができたので商売して成功した人達もいる、つまり金があればどこでも移住していいし一旦村でも町でも荒地になりゴーストタウンになったら他に移った方がいいとなる
その資金も金も得たからである

私は別にそういう人達を批判するのてはなくそういう社会で起きたということを考察しているのである
だからこれは別に原発事故という特殊なことでもなくても他でもありうる
地元のつながりは希薄化しているから地元にこだわらない社会である
金さえあれば便利な所に移ればいいとなるからである、例えば老後でも東京に住まずに金さえあれば地方でも住めるとなる、その選択は自由であり問題は金があることである
広域化したグロ−バル化した社会の矛盾がある、私は車をもっていないから原町に買い物に行く、でも量販店の電器店でも他のチェーン店でも配達すると配達料がかかる、それが三千円とか高くなる
奇妙なのはインタ−ネットで注文したとき配達料が無料で送られてくることである
だから重いものは自転車で運べないから通販の方がいいとなってしまうのである
現実にケーズデンキでもインタ−ネットで通販しているのである
そこでは配達料は無料であり実店舗になると配達料がとられるのである
それは配達は委託している場合が多いからそこに払うからそうなるともみる
これは広域化グロ−バル化した社会の矛盾なのである

ただこうした社会は村でも町でも市でも簡単に崩壊しやすいともなる
外部とのつながりの中で生きているから別に今住んでいる地元にこだわる必要ないとなるからだ

金がすべていいものとして働かない

これも現実なのである、結婚するにしても金持になると相手が金ばかりを見て寄ってくるとか金を目当てにするのが多くなる、自分の家族の介護でも来た人たちは金を得たいためであり現実に大金を盗まれたりした
兄は交通事故で死んだけど雇い主は働いている時はいい人だったが保険金がおりるとなり豹変した、身よりがないものと思っていたから保険金の受取人になろうとしたのである
原発事故でも多額の補償金をもらえるとなるとそれしか頭になくなったのである
そうして町とか村の復興など念頭になくなる、ただ金が欲しいとなるだけであった
あとはその金で外に出て新しい家を建てればいいとなる
現代社会の怖さはすべて金になり金に追われ金に狂う社会なのである
確かに放射性物質お汚染があるのだから仕方ないと見る、その放射性物質でも30年とか消えないとかなっているからだ、そんな所に住めないというのもわかる

でも代々住んでいた場所にこだわりがあり何かそれだけが理由とも思えないのである
たとえそうであっても簡単に町でも村でも捨てられることがあっていいのかとなる
それが一部の人ならいいが全体でそうなってしまうことがあっていいのかとなる
でも現代は町でも村ですらそういうふうにつながりが希薄化しているから簡単に町や村でも捨てられるとなったのかと見る
やはり広域化グロ−バル化経済の中でこういうことも起きて来たとみる
共同体とは基本的に生産共同体であり消費共同体ではない、その生産共同体が農民を中心とした第一次産業を基本とした共同体が町や村を構成しなくなった
そもそも消費だけの共同体は成り立たない、消費するものが王様となりえない
その土地で生産するものがあって共同体も成り立つからである
だから一時的には補償金で成立つとしても継続しては成り立たない、何かしら生産して金を得なければ生活できなくなる、ただ現代はベーシックインカムなどが言われるから
消費に重点が置かれる社会にもなる、生産しないで金をもらえる
でも消費共同体とかはありえないだろう、何か生産しないで消費するだけの社会はありえないからである




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2021年10月13日

金は具体的な責任だった (原発で金をもらった官僚でも返すべき)


金は具体的な責任だった

(原発で金をもらった官僚でも返すべき)


監督官庁である経済産業省と電力会社との癒着による安全監視体制の欠如だ。原発を持つ電力会社9社に、役員として天下った経産官僚は、過去数年に限っても分かっただけで10人。天下り後は猛スピードで常務や副社長に昇格するのが通例で、年収は推定2000万円〜5000万円+退職金。無責任な官僚の豊かな老後と引き替えに、国民がモルモットにされている。

副社長の推定年俸は、有価証券報告書に記載された役員報酬総額から推定すると、低く見積もっても約4000万円。東電在任中に白川氏が億の単位の金を稼いだことは確かだ。
 白川氏が経産省時代にやっていた仕事とは電気を安定して供給するよう電力会社を指導することだった。この指導役がいったん役所を退職すると電力会社に高給で雇われたわけだ
http://www.mynewsjapan.com/reports/1416

原発事故の責任は東電でもそこで恩恵を受けた官僚でも天下りした官僚でもとっていない官僚でも海上保安庁からも検察からも警察からも様々な人達が天下りしていた
ただ官僚だけではない,原発マネーはあらゆる分野や湯水のようにばらまかれたのである電事連では800億円とかがマスコミに宣伝費としてばらまかれた
そこには朝日新聞さえ入っていたのである
丁度原発が爆発した時中国に東電がマスコミの幹部を招待していたのである
この原発マネーは地元の有力者にもばらまかれた、それで大熊町長が津波で流された5億円の金庫を探してほしいとなったのである

とにかく原発マネーは想像を絶する巨額なものだった、それは事故後でもそうである
何兆円という金が除染に使われたり延々と巨額の金がつぎ込まれたことに驚いた
原発とは普通の一企業のことではない、国家的大事業であり規模が違っていたのである
だから金でも湯水のようにそこから出て来る
それでその金でモラルでも何でも麻痺したともなる

金になればいいじゃない

まずこれしかないのである、そこで危険性は見逃されたのである
最初は高い場所に原発を建てる計画でもそれをやめた、わざわざ高くした盛り土を削って低くしたのである、地下に電源を置いていたためだともなる
地下に電源を置いたのはアメリカに習ったからである、アメリカでは竜巻があり地下に電源を置いていたからである、これも日本の風土を無視してそうなったのである
日本の技術者がそういうことを考慮しない結果でありアメリカ頼りのためにそうなったのである
日本の技術ではそもそも原発を操作することができなかったのである
だから湯川秀樹博士まだ早いとして反対したのである

科学者でも技術者でも全部が無能わけでもないし有能な人は相当数いたのである
だから配管が危ないとか危険性を指摘していたが東電は受け付けなかったのである
近いうちに十数メートルの津波が来るとして科学者集団が指摘もしていた
これだけ別に有能な科学者がいたのである、ただ東電はコストがかかるととたあわなかったのである
東電という会社自体の問題があった,コストカッターとして社長にのし上がったのが事故を起こした時の社長だったことでもわかる
コストが優先であり危険は無視されたのである

とにかく原発事故の責任は誰なのか?

そのことが明確にされていないのである、そして裁判になっても無罪を主張しているのである、罪にされないのである、そもそもその裁く検察が天下りしていたのだから裁くこともできないともなる、東電で利益を得ていたからである
でも責任を問いばこうして天下りした官僚にも責任があった、それが全然問われないのである

責任が何かというとき金をもらうことが責任だとつくづく思った
でも実際はこの世の中で金をもらえばそれは何でもいいとなっている
金を得れば勝ちだともなる、でも金には何か必ず責任が生じている
金をもらうことは具体的な責任となりカルマとなる
私は何も責任はありませんと言ってもこれだけの事故を起こしたのだから
「あなたは東電から多額の金をもらっていたでしょう」それが責任なのです
あなたたちはもっと東電にかかわり安全を計る立場にあったのです
こうなってしまうのである、金をもらえばいいというだけではかたづかないことだったのである、やはり重大な責任が課せられていて多額の金をもらっていたのである
金をもらうこと金を得ることは責任なのである

それは地元の人に言えた、船主などは原発御殿が建つほど事故前も補償金をもらっていたからである、事故後ならもらっても問題ないが事故前にもらう権利があったのかとなる
漁業権を売ってもらったからだ、それで海を汚したからとして補償金をまた要求する
船主とか漁業関係者の補償は特別多かったから問題になった
つまり今になって金をもらったことの責任が問われるようになったのである
だから金をもらうことは具体的な責任としてわかりやすいのである

ただ正直人間は金をもらえばいいとしかない、その金がどういう金であれそうなりやすいそしてその金を追求すると誰しもその金が良い金なのか悪い金なのかとなると判断がつかなくなる、そんなことしていたら本当に金持ちになれないし金持ちはみんな不正に金をもらっているとなる、株とかでもうけた金も実は黒い金不正な金だともなる
弁護士でもなぜ相談しただけで百万もとったのかそれも今になるとおかしいと気づいたのである、何かそうして金は具体的な責任でありそれがやがてカルマとなって現れる

そういう自分でも親が公務員だったので得していることを知っている
するとそれも不正の金であるとなる
そういうことでもしかしたら親が介護になり死んだりして大金を盗まれたのもそういう因縁があったからなのかともなる
何かしら金にはそういう悪い金がありそれとかかわらない人がいないかもしれなからだ
ただその額は小さいが東電の場合は余りにも大きいから問題になったのである

だから東電に事故にかかわって得た金は官僚でも返すべきである
東電の原発にかかわって法外な金を得た人は返すべきだとなる
それが責任であり全く幹部でも金を返さないし責任が問われない、幹部は財産没収してもいいくらいである、でも全然その責任が問われないのである
地元の人達も責任があったが故郷に住めなくなったということで責任とらされたのであるもちろんその人達も金をもらって承認したのだから責任があった
金をもらったのだから共犯者であり何も言うなともなる

つまり金をもらうことはそういうことなのである、共犯者であり責任があるから何も言うなとなってしまう
こんなことを言っていたら確かにもう金をためること金を得ることができなくなるかもしれない、でももしそうした金をもらっていなければ責任を問われることがなかったことは確かである、そこに金の怖さがある

事故後でも補償金でこの辺はもめた、30キロ圏内は南相馬市だったら原町区までは手厚い補償金をもらったのである
そして十年間も医療費無料高速無料になっていたのである、30キロ圏からはずれた鹿島区は一人70万の補償で終わったし医療費は半年で打ち切られた
高速もそうである、最近になって高速無料にした、さらに30キロ圏内は医療費が一年くらい延期されて補償されるようになった、この差は大きいものだった

ただまたこの金のことでこれだけ補償して金をやったのだから文句言うなともなる
30キロ圏内ではそうなる、そうすると東電に文句もあまり言えないとなる
それもまた金の効果なのである、金をやるから東電に文句を政府にも言うなとなる
それをある程度受け入れるほかない、それはなぜか?

金をもらったからである

でも奇妙なのは私が住んでいる地区は一人70万しかもらっていない、隣の原町区は三倍もらっているのである

するとどうなるのか?

不満があり東電でも政府でも批判することになる、それができるのはなぜなのか?

金を少なくしかもらっていないからだ!

もし原町区のように三倍ももらっていたら批判しにくくなるのである
それで私はプログで原発事故のことを追求できるとはなったのである
でもマスコミのようにお前に宣伝費として金を払うからとなると批判はできなくなる
それがマスコミであり福島県の新聞でも雑誌でもそういうことがあったのである
何しろ新聞でも雑誌でも出すには金がかかるからそうなる
だから財界福島とかでは東電の批判を最初していたがやめたとされる
東北政経でも相双リテックの宣伝をのせている、そこで多額の除染マネーが入って幹部で億の金を山分けしていたのである、でも東北政経ではそれを批判できない、宣伝費として相双リテックから金をもらっているからである

マスコミも東電から金をもらっているから批判しにくいとなる
地元の人でも東電で金を得ているからそこで働いた人たちは批判しにくいと言っていたことでもわかる、金をもらうということはそういうことなのである
全く金をもらわなかったらそういうことはありえないのである
それでドラマにしろヤクザが親分から金をもらったから頼まれて人を殺した
それも金をもらったからだとしてる、金というのはそういう責任を課せられていたのである

だから金の流れをつかむと悪が見えやすいから裁判では金の流れを把握する
それによって犯罪を追求できる、具体的な証拠となる
そしてグロ−バル経済とかではもう金の流が天文学のような数字になって見えない
だから必ず陰謀論になる、巨額の金が不正に流れる、その金で世界が操作されているとなる、それはまさに悪魔的だともなる、ただ世界となるとその規模が大きすぎて見えなくなるのである、でもその金の流れから悪が具体的に見えることになる
ただ金にしても使う時とを使われるのかも問題になる

猪苗代湖で水上ボートで子供を殺して親の脚を切断するほどの事故を起こした人はこの辺で工事が多くなって足場事業で金が入って人だったのである
また補償金でレクサスとか高級な車を買った人も多くひんしゅくをかったのである
だから金を何に使うかも具体的なものとして見えるからそれが責任にもなる
つまり金の流れからみると具体的でありわかりやすく悪が可視化できるのである

いづれにしろ責任を追及すればそうした金は返すべきだとなる
官僚でも天下りした人達とか東電にかかわり法外な金を得た人達は返すべきだともなる
まずその人達は何の責任も自覚していない、ただ得しただけだからである
法律的には返さなくてもいいとしてモラル的には返すべきだとなる
それが責任を果たすことだがそんなこと一切ないのである
だから誰も原発事故では責任をとっていないのである
何か会社で不正な金が使われると自殺したりする人がいるがこれだけの大事故でも大惨事でも東電では一人もそういう人はいない、良心の呵責にな苦しんだ人は一人もいないとなる、幹部でも無罪だとか主張しているだけなのである
それを裁く検察もまた金をもらった有罪の人であり犯罪者だとなったら裁くことなどできないのである
だから巨悪となるともう人間では裁けないとなり神が裁くほか裁くことが不可能になるのである

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2021年10月06日

原発事故における理系と文系の問題 (総合的な知が必要でありそれは不可能だった)


原発事故における理系と文系の問題

(総合的な知が必要でありそれは不可能だった)




だから日本にとって必要なのは分業化でなく「協業化」なんだよ。
お互いの仕事を知ろうとしないとってこと。
分業なら昭和時代からガチガチにやってるから。
昭和時代でそれで済んだのは、ものが少なかったからどんなものでも売れたからにすぎんよ。

建国以来できなかった民族がこれからできるようになると期待するのが間違っている
日本の国民性は多様性の一つと諦めて、技術を伸ばしたい人は日本を捨てるのが近道

実は問題の本質は日本人の気質にある

業務にしろ技術にしろ、物事を俯瞰して扱える人間がすべての業種・職種で極めて少ない神経質で目先のことに夢中になる人間は腐るほどいる
そして近視眼すぎて自身の能力も自覚できていないから簡単に自惚れる
数学って基本的に人文科学であって、敢えて言うなら『文系』学問なんだけど
記事みたいなことを本気で言ってる日本社会の時点で、海外から笑われるような現状ってのがわかってない

情報系は理系ではないと思うんだが。もちろん文系でもないが。
機械や電気が出来るかとプログラムが書けるのかは全く別の能力

文系が悪いってか日本人の理系技術者は経営的才能がある人がほとんどいないって事なんだよ
アメリカだとプログラマがそのまま経営者になって大企業にまで成長させてる
マイクロソフトやフェイスブックだってそうじゃん
そういう意味では理系の人が無能だったというだけでしかないな
自分も理系だからよくわかる

文系がという書き方をしたけど
技術ってのは最終的に手先の器用さだけが重視されるのではなく
それがもたらす影響とかも考慮する必要があるわけ

それって何よって話になると哲学に行き着くわけ
なんでコレはここにあるんだろうとか別な場所にコレがあったら良いかもなって発想は哲学的発想の領域になる
今は文系に寄りすぎて変なことになってるけど理系ばっかりもダメなわけ



原発のことで追求して来たけどこれほど総合的知が要求されるものはなかった
私は文系だからほとんど原発のことがわからなかった
ただ事故が否応なく原子力のこと核のことなどを理解することが求められたのである
まず原発事故ではもう専門家でも吉田所長ですら原発の肝心なことを理解してなかった
この人は相当な優秀な人だった、でも復水器のことを知らないと言っていたのである
私は素材部門だからですとか言っていた
その復水器とは事故になったとき対応する重要なものだったのである
でもそれすら知らなかったのである、トップの人が知らないとしたら事故に対応できないのである
事故になった時、実際は全くお手あげになっていた、どうしていいかわからなくなっていた、それで放射線量を計るスピーディをあっても最初に連絡したのは日本政府ではない
アメリカだったのである、アメリカに頼りアメリカの支持を仰いでいたのである

日本人では何もできない!

それでこんな危険なものを作っていたのだから余りにもずさんだったのである
それで日本がの技術は優秀だから事故にはならないと吹聴していたのだからあきれるとなる、原発内で働いていたのはほとんど理系である、理系の技術者である
そこに素人の文系の人など立ち入ることもできない、政治的には原子力村を作り文系の人は官僚でも政治家でも地元の人でもその理系の技術者の下で恩恵を受けていたとなる
実質に力をもっていたのは理系の技術者である
ただ社長とか幹部は文系の人だった、その社長はコスト削減で成果を上げた文系の社長だった、その人は原子力の技術のことなどわからないのである
でも経営するトップは文系の人達だったとなる、だから事故が起きた時何か起きたのか理解できないし対処もできなかったとなる
会社を経営するとして今でも経営者は社長とか文系になっている

一方で理系の問題もある、理系の人は機械マニアとかなり社会全体のことを関係なくマニアとなり没頭する、だからこそそういう人は機械に通じて重要な役割を持つとなる
ただ何かそこに偏ったものが生まれることは確かである
でも別にもし経営者ではなくただ機械マニアとしてそこで励んでいれば問題はないのである
でも何か経営となると別な問題が生まれて来る
原発というのはこれを作る前に原発は安全なのか安全を維持して操作できるのかとかが問題になっていた、でもそのことはあまり追及されなかった
文系の人達は素人は専門家の言いなりになる、核のことを専門用語で言われれば何も言えないからである

専門家が安全だといえば安全になる

こういうことしかなかったのである、だから原発内に立ち入ることもできないし疑問をぶつけることもできない、マスコミには電事連をふくめて800億円とかの金が流れていたそれは全マスコミにその金は流れていた
創価の潮とか関係の雑誌にも流れていた、原発は安全だとしてその金を得ていたのである創価などはただ何でも御利益になれば食いつく、頭にそれしかないし毎日一票のために
利権と御利益を得るために祈っているだけだからである
そして福島民報は県で50パーセント出資して聖教新聞を刷っているのだからもう原発に関しては何も言えない、だから原発は土地の所有者がいて県が許可できれば建てられたとなっていたのである、これほど危険なものがそんなことで決められていたのである
何か不思議なのは双葉町辺りで創価の会館があった、廃墟の街にあった
それも何なのだろうと見た

原発はとにかく国で決めた国策なのだからこれに逆らえないのである、理系の技術者はそれに従うほかない、例えば北朝鮮でミサイルを打つ、それを作るのは理系の技術者であるでもそれを命令するのは文系の政治家だともなる
そこで理系の技術者が疑問になり嫌だと拒否したらその国で生きることもできない
これは原爆を落とした後にそれにかかわった理系の技術者がアイシュタインなどが反省したのである、それが大量殺戮に使われたことで反省したのである

つまりそもそも核というものから核兵器が生まれた、それは空恐ろしいものだったのである
するとそんな危険なものを使用していいのか、それを発明した人は悪魔だったともなるのである
ただ科学技術というのはそれ自体危険かどうかとか関係なく開発がすすめられる
だから遺伝子操作した食糧でも今は作られ売られている、そこにも危険が指摘されているワクチンでも遺伝子操作しているから危険だという人もいる
科学技術には何かそうした危険性が常につきまとっていたのである
だからゼウスから火を盗んだプロメテウスは過酷な罰を受けたのである
そういうことが核にも言えることだったのである
プルトニウムの毒が二万年消えないとういのもそうである、それだけ恐ろしいものとしてあった

すると原発はそもそも必要なものだったのか?

ここから発想する必要があったのだ、それは理系と文系の相違だともなる
理系は核のことを研究する、それが社会にどう影響するかは考えないのである
その機械が大量殺戮兵器でもかまわない、それが社会にどう影響するかなど考えない
機械のことしか核のことしか考えないからである
そこに理系と文系の根本的が相違があったのかもしれない

電気関係の優秀な技術者が会社を経営するようになった、でもその人が会社を経営する動機はただ自分が技術者として優秀だから金を持っている都会の人から金を得るためだと言っていた、経営の動機がそれだけだったのである
ただ何か技術者と経営となるとそれがまた別なことになる
その人はコンピュターに詳しくその方面でも独自にサイバーのようなものを作っていた
でもその人がなぜ事業に失敗したのか?

その動機が余りにも社会というのもを考慮しないものであった
技術的に優れているから自分の優秀さを社会に見せてやるとかが動機だったのである
だからこれは一身上のことになるがその人はまず他者を助けるとか他者のためになるとかは全く考えない、それが自分自身介護とか病気になったとき苦しんでいる時でも商売のことを考えていた、借金していたから余計に借金を払うために自分に要求したのである
その人の問題はモラル的なものであった、技術だけではない、経営となりモラルが関係していたのである

その人は経営者としては会社を経営する資格がなっかたのである
ただ人に使われていれば問題なかったのである
だから文系理系で理系は文系に使われるだけだとか不満を言うがこういうこともあるのである、また東大出の理系の鳩山首相でも何か宇宙人だとか変なものになっていた
政治家とは国家を運営する者であり機械マニアとか技術だけが優秀ではできないのである
ただ原発でも新潟の巻町では町民全員で相談して作ることをやめた

これは本当に例外的である、原発はいくら国策でも一地域で町で拒否できたのである
でもこれは例外でありあとは原発は拒否されていないのである

それって何よって話になると哲学に行き着くわけ
なんでコレはここにあるんだろうとか別な場所にコレがあったら良いかもなって発想は哲学的発想の領域になる
今は文系に寄りすぎて変なことになってるけど理系ばっかりもダメなわけ

原発は理系の技術者だけでは処理できないものだった
それがそもそも必要なものがどうかということから哲学的な問題としてもあった
例えばオリッピックでもする意味があるのかどうか問われた
今になるとオリッピックをする意味が失われていたからである
結局一部のオリッピック特権者の利益のために行われていたことが判明したからである
JOC会長はぼったくり会長と世界から批判されたからである
二百万の部屋のホテルに泊まるとかまるで国賓並みであり国王を招待すると同じだったからである

いづれにしろ原発を考える時、郷土史などこれも一部のマニアのもので理系的技術とは関係ないものと見ていた、でも津波のことなど実際はその記録もあり関係していた
そもそも郷土史とかなると実は郷土全体をみるのだからあらゆることが関係していたのである、総合的に観ることだったのである
なぜアメリカでは原発が東側に主に作られていたかというと地震がないからでありまた
竜巻があり竜巻を防ぐために地下に電源を設置していたのである
日本では地震が多いのだから海岸に作れば津波も来る、そういうことを考慮しなかった
それでも科学者集団が津波が来るとして警告していたのである
それもかなり早い時期に来るとしていたが東電では無視したのである
それは金がかかるから防潮堤を作らなかったのである、今になると作ったのであり作れないことはなかったのである
また高い場所に作ったのにわざわざ削って低くして電源を地下をにもってきた
でも津波でやられて使えなくなった、そしてメルトダウンになってしまったのである

これは理系の技術者のミスでもあった、一方でコストダウンばかりを考えていた文系の社長の問題もあった、こうして理系文系にかかわらず原発は総合的な問題としてあったのである

業務にしろ技術にしろ、物事を俯瞰して扱える人間がすべての業種・職種で極めて少ない神経質で目先のことに夢中になる人間は腐るほどいる
そして近視眼すぎて自身の能力も自覚できていないから簡単に自惚れる

俯瞰的総合的に観ることが大事にしてもそれは一個の人間の能力を越えたものだったのである、つまり原発は人間にとって操作不可能なものでもあったのだ
核もそうである、人間の能力の限界が露呈する、それで人類が破滅するような代物だったのである
そうなれば別な安全な技術を開発したりまた多少貧乏でもやむをえないという選択もありえたのである
そもそも結局原発は人間が操作する能力を超えたものだからである
もし全能の神だったからできるがそうでないからできないのである
私自身にしても郷土史とか郷土のことを学問にしても全部のことなどわからない
理系的視野が欠けていたり狭い郷土でも全部を知ることなどできないからである
そこに人間の限界があり必然的に事故になり大惨事となり故郷に住めなくなり修復不可能となってしまったのである

人間には限界がある

限界を心得よ

全能なるは神しかいない

科学技術も災いがもたらされる

全能ならざるがゆえに・・・

やはり人間の限界を知らないと大惨事になる、技(わざ)はわざわいに通じているのだ
ただ科学技術でもそれが良いものとして便利なものとして追求してゆくと災い(わざわい)がもたらされる、それを原発事故でも原爆でも示したのである
他にも科学技術は全部いいものとして作用しないのである
必ず人間のすることにはいい面と悪い面が生まれる、そして今回のような大事故になりとりかえしし、かないものともなる
それは結局人間の奢りに対しても罰なのである、過酷なる罰だったのである

事業の経営で失敗した人もまた日本の戦争でも負けたのは奢りからでもあった
あることに人間は優秀だとして技術的にはそうでも経営ではまた別でありそれで失敗したのである
人間には何か常に奢りが生まれる、それが一番危険なのである
日本が技術的に優秀だから事故が起こらないとか言われたのもそうである
原発安全神話は全く科学的根拠もなにもない権力者が人をだますために作られていたのである、それを作ったのは文系でもあり理系でもある
配管など老朽化して危険だとすでに警告していた、それも東電では取り合わなかった
その幹部が取り合わなかった、だから幹部の責任は重くても誰一人責任をとらなかった
ある意味で死刑になってもいいくらいの責任があったのである
その責任をあまりにも軽く見ていたのである

第一原発は東京に作るのが筋だったのである、それほど安全なら東京に作った方がコストでもかからないからである
なぜわざわざ福島に作ったのか?そのことがペテンだったのである
これだけの被害があったのだからその責任も重いとしても誰もとらないのである
ただ地元の人は故郷に住めなくなったという責任をとらされた、それも避難区域になった所は距離に比例して責任があったからである、ただ飯館村はそうではなかったから同情されることはわかる、でも今になるとやはり南相馬市に放射性物質が流れて来るとか広域的に避難してかかわるのだから事故後はやはり責任が押し付けられたとはなる
それで飯館村の村会議員選挙で村の者以外のよそ者はかかわるなというのはありえないことである、南相馬市はよそ者ではないのである
飯館村は今や議員になるとても利権の場のようになった、補償金を得るための利権の場のようになったのである、昔のまでいな村とかはない、それは飯館村の人の責任ではないにしろやはり現実に責任をもたされたとはなる
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2021年09月26日

若い人の甲状腺被害が多いのははやはり原発事故の結果か (復興しない原発避難区域―飯館村など)


若い人の甲状腺被害が多いのははやはり原発事故の結果か

(復興しない原発避難区域―飯館村など)

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30 倍となる多い

低線量被ばくの発がんリスクと福島の甲状腺検査の結果の解釈


radiotionfff1.jpg
2012年の調査である、10年過ぎたらどうなるのか?

福島で最も恐れていたアレが遂に急増し始めました 
ここまで深刻だったとはもう言葉がありません・・・
https://www.youtube.com/watch?v=ZeYEd2Ksor4

●放射線により甲状腺被害が増えたのは確か

津田教授 福島の有病率は、全国平均甲状腺発症率(5〜24歳)の17〜22倍と多発であるという結論になります。2巡目の検査で新たに見つかった甲状腺がんは、1巡目の検査後の約2年の間に5.1mm以上に成長したと考えられます。これらの腫瘍が、その後も同様のスピードで成長する場合に一生発症しないと考えるのは困難です。

原発事故の放射線被害もわかりにくい、でもやはり確実に被害が5〜24歳)の17〜22倍と
多いとしたらこれは具体的でわかりやすい、明らかにここに被害が見られたとなるからだ武田邦彦氏もこのことを指摘している、でも報道がされないとしている
福島医大と長崎医大で甲状腺癌の共同研究をするというときやはり事実として被害があったからだとしている
でも原発事故前でも危険が報道されない、事故後も報道されない

ここにマスコミの問題があった、報道できない何かがあるのでできない
県の政府の広報となっているのが福島民報でもあるからだ
県の出資が50パーセントにもなっているからだ
また創価の聖教新聞を刷っているから公明党は政府側に自民党につくからそうした報道を抑えることができる、だから報道機関が自立していないと大事なことでも報道されないのである、それが原発にありとりかえしのつかない事故になったとなる
原発マネーはあらゆる所に流れていたのである
報道機関ならマスコミなら全部であり丁度爆発した時全マスコミが朝日新聞社の幹部まで中国に招待されていたときだったのである

それはコロナウィルスでもある、本当のことが良くわからないからである
また科学的なこと専門家しかわからないから簡単に騙されることにもなる
自由な報道にするには何かの団体とか権力者に忖度するとできないのである
でも今まではマスコミしか報道できないのだから一個人などではできないからそこで報道されないとわからないのである

だから飯館村では子供が住めないから学校でも村外から数人通っているだけである
空気に放射線が依然として放出されているとなると飯館村内に入ることや住むことはむずかしいとなる
ただ老人は関係ないとしている、飯館村の老人は山菜を食べていると言っていたからである、老人は気にしなくてもいいとなる
放射線被害があるのは若い世代であり子供に影響したことが致命的だったともなる
もし子供に影響がなかったら親でも一緒に住めるとなっていたからである
それでいくら立派な建物を建ててもそこで子供が学べないということにもなった

この放射線の被害のやっかいなのはセシウムの半減期が30年とかプルトニウムだと二万年消えないとかなりこうなると住むこと自体が不可能にもなる
飯館村はそういうレベルにあるのかもしれない、土壌でも山林でも放射性物資に汚染されてそれを除去することは不可能になっているからだ
最近私は放射線量を計っていないが空間線量みたいのが減っていなかった
ここは放射線量が0.2とかそもそも低くかったから減らなくてもいいのかと見ていた
飯館村では0.7マイクロシーベルトとかある、でもモニタリングポストの線量は低くしている、その下の土を除いて設置されているかである
それを大成建設とかで設置していたのである、そのことを飯館村の人が指摘していた
何かこうして政府のしていることが原発ではごまかすことが多かったのである
それに加担したのが御用学者だったのである

●放射線の被害は長く続くからやっかい

原発の放射線被害というのが具体的に見えるものとて提示されない
すると危機感も感じないのである、何も被害がないじゃないかとなる
コロナウィルスでも具体的に被害があり苦しみ死んだりすると危機感を感じ外出や遠出でもひかえる、具体的に被害が出ないと危機感を感じないのである

もう十年も過ぎると外部でも関心がなくなる、ただそこに住み南相馬市でも現実問題として放射性物質が依然として飯館村から川を通じて流れて来るのだから敏感にはなる
でも今年は明らかに鮎が海から上ってきた、それは今年放流したものとは違う
自然に繁殖した鮎が海から上ってきたと見た、なぜなら小さい鮎だったからである
もともと事故前でも鮎はこの辺では小さくなっていたからである
すると自然も回復したのかともみる

チェルノブェリでは子供の甲状腺癌が多発してそれを見た時悲惨だったのである
福島でも増えたとしても報道しないからわからなくなっていたのである
やはりその時の映像のインパクトが大きかった、福島では全然報道されないのである
ただ飯館村は回復していない、田畑でも回復しない、ただダリヤを250円で買った
ダリヤ畑があった、花栽培は放射線の被害がないからできるとなっていた
他の農作物は依然としてまだ放射性物質がふくまれて安全とは言えないのか?
ただ測定して安全だとはしている、でも回りの山林から放射性物質が流れ出して来る
それを止めようがないのである、それは雨で流されて真野ダムにたまりまた新田川を通じて原町区にも流れて来る
それで放射性物質を含んだ土を入れていたフレコンバックが破れて流れ出したことがあったからだ

いづれにしろ原発事故で避難区域になった所は復興していない、帰還もしていないから
放置されて田畑は原野化して荒寥としている
ただそうした地域でも補償金をもらったから生活している人はいる
でもなにか生活の持続可能な場所とはなっていない、原発事故の補償金をもらうための利権の場所のようになったのかもしれない、除染では何兆円もかけたしその金は相双リテックとかに流れて幹部で何億円とか山分けしたとかなる
また建築土木関係では仕事が増えてもうけたとなる
それでいわき市の足場会社の会社の息子がプレジャーボートを買って子供を殺してその母親の両足を怪我させた、切断した、それを見た時ショックだった
何か関係ないようでもこれも原発事故が回り回って影響したのかとなる
金回りが良くなってそれが事故につながったのかとなる
高級な車を買った人も多いからである

●放射線量で補償金で分断されたのは政府の策略だった

とにかく原発は莫大な金が流れた、事故前でも事故後でもそうなのである
こんなに莫大な金が使われることに驚いた、でもいくらそんなに金が使われても復興にはつながらないともなった

 村民の1人はこういった。「原発事故のせいで村が3つに分断され、賠償額にも差ができた。事故の前はみんな気持ちが通じ合い、トラブルなんてなかったのに、ねたみやひがみが生まれている」
 
 星英雄:先が見えない−−分断と風化に抗して希望を模索する飯舘村〈飯舘村レポートA〉
http://rentai21.com/?p=833
 
 飯館村などは一様に放射線が高かったのだから賠償も一律で良かったのである
これは今になると政府が住民を分断させるためにしたとも思える
隣同士で補償金の額をめぐって争った所がかなりある
実際に放射線量はほとんど変わらないのに差をつけたのである
鹿島区は30キロで区切りそれで原町区は三倍ももらい、医療費も十年過ぎても延長してもらい、高速も無料だったのである
この差別は大きかった、相馬市でも市内を計ったら放射線量は変わらなかった、かえって高い所もあったし他にも周辺地域で伊達市でも隣同士とかで親戚でも補償金をめぐって争っていたのである
こんなことしたのは政府の策略だったのかとなる
なぜなら分断されることは被害者一致協力できないことになったからである

●ハコモノに金をかけて作っても復興にならない

奥尻町では被災者一人あたり、405000万円が復興で使われ、義援金も一人あたり1000万円ぐらいあった。そこまでしても、それだけにしかならなかった」

飯舘村・菅野典雄村長「経済一辺倒のままでいいのか」 将来を見据えた復興のありかたとは

奥尻島でも津波の被害で建物とか公園とか箱物を作っても復興できなかった
被災地に求められているのは『何かを生み出す人』です。お金を使う人はいらないんです被災地に多いのはお金を使う人たち

https://www.huffingtonpost.jp/2014/03/02/reconstruction-of-the-great-east-japan-earthquake_n_4886571.html

これは事故から7年後とかその前に言っていることである
10年も過ぎたらまた状況が変わっている、一番変わったのが外部でも関心が薄れて内部のことがわかりにくくなっていることかもしれない、飯館村の村議会選挙のことを知ったそこで運動員にうろうろするなとか南相馬市なのにそんなことを言っているのは信じられなかった、つまり飯館村内にもいろいろな人がいるにしても外部の人が相当にかかわってきているのに南相馬市なら地理的にも一体なのにそんなことを言うこと自体信じられないとなる
おそらく議員選挙に出た人も飯館村には住んでいないのではないか?
外部に新築の家を建てて飯館村を利権の場として利用していることもある
住んでいれば住民になるけど実際は住んでいない人が多い、それでこじんまりした新築の別荘を建てていて時々帰ってくるというのもそうである

いづれにしろ十年過ぎても復興はしていない、ほんの一部であり全体的には原発避難区域は復興していない、全体的に田畑は荒れ果てて住んでいる人は老人であり若い世代は流出したのである
最近では小高区の大工さんが立派な家を建てていたが原町に中古の家を買って移り住んだとかある、飯館村の人でも周辺に移り住んでいるのである
補償金で新築の家を建てた人も多いだろう、すると生活する場所が村外であり通うにしても村の住民という感覚になれないだろう

金をいくらつぎ込んでも復興にならない、それは奥尻島でもそうだった、補償金でも援助金でも相当にもらった、そして菅野町長がさらに支援金をもらうためにテレビで宣伝したのを見た、そんなに金をもらっても復興できていないのである
湯水のように金を使っても復興しないのである
それはなぜなのか?金を使う人ではない、何かを新しく作りだす人が必要だというのもわかる
でもそれはたいがい外部から来た人達がしている、外部頼みなのである
ただもう外部の人でも関心あるのは減少して一部の人しか継続してかかわらない
それで川俣町の山木屋の人が大学の人が来たが一時期だけかかわって後は来なかったとなる、そういうボランティアでも多いだろう
継続してかかわることはむずかいしからだ、ただ南相馬市とかだと地理的に一体だから無視できないのでかかわるとなる
飯館村は飯館村だけでは自立できないのではないか?
それで南相馬市と合併すれば復興を広域的に考えるからそこに何か開けるものがあるかもしれない、ただ全体的に原発事故の避難区域になった所は十年過ぎても復興していないのである


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2021年09月22日

原発は地域エゴから始まりさらに地域エゴで分断された (飯館村でも南相馬市と合併するべきだった)


原発は地域エゴから始まりさらに地域エゴで分断された

(飯館村でも南相馬市と合併するべきだった)

●東京の地域エゴで原発は作られた

原発事故のことをいろいろ追及して来たけどそこで思ったことは
地域エゴがその原因ともなっていた
そもそも原発が福島に作られたのは東京の地域エゴだった

東京では危険だから福島に作れ

これも身勝手な地域エゴだった、自分たちの安全を計るためにそうしたのである
つまり原発とはこうして地域エゴから始まっていたのである
原発を作る場所は過疎的な場所がいいとされるのもそうである
そこに金をばらまけばいいとなるからだ、またそうして立地された場所は金が欲しいとなり積極的に誘致したのも地域エゴだったのである

極端な話では原発を建てる場所の地権者と県の許可があればそんな危険なものでも建てられた、ただその周りの自治体には金を与えたり仕事を与えたのである
それも地域に利益を誘導するものとなった地域エゴである
他の自治体では恩恵がなかったからである、だから県全体で見ても一部のものが利益を得ていただけであった

でも事故になった時広範囲に被害になった
つまり広範囲に原発は影響する、それ事故になったとき吉田所長は東北に住めなくなると言ったのである
原発事故は広範囲に影響するから市町村の範囲を越えて協議する問題だったのである
それが狭い地域でエゴで決められていたのである

県庁のある福島市でも被害が大きかった!

飯館村は放射性物質ブルームの塊りが流れる通り道となり被害が大きいものだった
ただここは別に自治体でも原発の恩恵はなかった
でもやはり金になるから原発で働いていた人がいたのである、原発だと三倍くらいの給料になっていたからである、この影響は大きかった、原発の回りでこうして働いて人が多かったのである

だから県庁のある福島市まで被害があったのはカルマだったともみる
遠いから原発と関係ないとみていた人が多かったからである
私の住んでいる場所も30キロ離れているから関係ないと見ていたのである
でも30キロ内は補償金が三倍以上もらっていたのである
一応南相馬市ということで鹿島区までは補償金をもらった
隣の相馬市となると一人6万しかもらっていないのである
原町区は鹿島区より三倍もらっていた、その差も大きかったのである

●事故後も補償金で分断

そして原発事故以後様々なエゴで金を得ていたことが判明した
漁業者は船主などは事故前も多額の補償金もらい原発御殿を建てていたとか周りからうらやましがられていたのである
漁業権がありそれを盾に東電からもらっていた、ところが同じ港に住んでいてももらえない人がいて不満だったのである
エゴむきだしになったのは家の前の海は自分のものだとして補償金を払いとまでなった
原発事故以後は補償金の奪い合いになったのである

それで飯館村では補償金をめぐって二つに分裂して争うことになった
その後どうなったかわからないが長年町長をしていた人はやめた
こうして補償金で原発周辺は分断された、それが伊達市とかでもそうだったと聞いた
親戚間でも補償金をもらう人ともらえない人がいて争うことになったと聞いた
つまり隣がもらってももらえない人がいたのである
鹿島区だと塩崎の人がそうなって女の人が泣いて訴えていたのである
子供でも争いになったとか聞いた、これも人間のエゴがむきだしになり争うようになった
今回の飯館村議会選挙でもS議員の運動員がよそ者はかかわるなとうろうろすると困るとか言って聴くこともできなかった、でも南相馬市と地理的にも深い関係があり放射性物質でも川を通して流れてくるのだからそうはいかないのである
でも一票をもっていないから南相馬市は関係ないとされたのである
でも現実に原発事故以後は飯館村の人でも広範囲に移り住んでいるのである
その人達は他の地域に住んでいても依然として飯館村の人なのである
税金は住んでいる場所に全部は払っていないだろう
なぜなら補償金をもらう関係でそうなっている

こうして広範囲な被害があり広域的に政治でもかかわるものとなったのである
だから飯館村の人達は南相馬市と合併しなくて良かった、補償金は特別もらえたからと言っていた、これもおかしいと思った
確かに飯館村には原発事故の責任はない、だから同情された
でもその後はやはり南相馬市とか回りと関係ないとはならないのである
現実に飯館村の住民がその周りに移り住んでいるからである
そしたらその周りにも南相馬市でも世話になっている人がいるのである

それをここは俺たちの土地でありよそ者はかかわるなと言えるのか?

例えば相馬市のトマト農家に飯館村の人が雇ってくれと言って断られたと不満をNHKで言っていた、でもその理由が相馬市の松川浦の津波の被害者を雇ったのは補償金をもらえないからである、それはそのトマト農家が冷たいということではなかったのである
ただ飯館村の人達は何かと同情されたことは確かである
原発事故の無惨さが飯館村に顕著に現れたからである
だか飯館村は補償金が特別多かったのである、実際に今でも放射性物質が特別汚染された地域になっているからだ

●飯館村は南相馬市と合併するべきだった

結局原発事故とその初めから東京地域のエゴで福島に作り自分たちは安全を計ろうとしたこと自体地域エゴだった、それで東京に原発を作れというのが正論だったのである
もし東京に作っていたらかえって事故にならなかったともなる
ただ原発は様々な危険性が指摘されていた、でも東電は無視していたのである

結局原発というのは東京の地域エゴから始まりまた誘致したのも地域エゴだった
自分たちだけは原発で金になればいい、自分たちの市町村は金になればいいという地域エゴだったのである
でも事故になり今度は逆に広範囲に人が移動して広範囲に広域的に政治問題化かしたのである
だから今回飯館村選挙でよそ者はかかわるな、この地域をうろうろするなとか言うのは信じられないとなる、それも地域エゴでありる

現実に回りに南相馬市でも飯館村の人達が移り住んでいるから広域的な問題であり飯館村の一地域の問題でなくなっているからだ
それが依然として飯館村のことは飯館村でする、よそ者は関係するなとかなっているのも全く現状を理解していない、こうして何か権力がないものは無視される
でもインタ−ネット時代には一個人でも発言したりできる
ただ読む人が少ないから影響はわずかにしてもやはり何らか影響するのである

こうして今経済でもなんでも広域化しているとき広く合併することはやはり時代でそうなった、そうならざるを得なかったのである
だから飯館村も地理的歴史的に一体化した地域だったから南相馬市に合併するべきだったということもありえた、現実問題として合併したような状況になったからである
南相馬市でも川俣町でも関係ないとならないからである
それで風車を作ったら川俣町の人に景観のことで勝手に作るなと言われたのもそうである川俣町も隣町だから相当に影響したからである、飯館村の人でも移り住んだりしているからである、でも補償金は全然もらっていないのである

だから何か飯館村自体だけで解決することは全くない
住民自体が周りに分散しているのだからそうなる、だから本当に南相馬市から来て聞こうとしただけでうろうろするなとかかかわるなとか言うこと自体、自分たちの現状を全く理解していないのである
そういうことは小高区の人達にもあった、とにかく自分たちは被害者であり援助されるべきものとして鹿島区のことなど眼中になかったのである
毎日ボランティアがきて援助していたのである
飯館村もそうしして他から援助されていたのである
だから俺たちは常に援助されるべきものとして見るようになったのかもしれない
そこに地域エゴがむきだしになったのである

相馬市のトマト農家で飯館村の人を雇わないとNHKで報道して暗に批判したのもそうである、相馬市の松川浦などの津波の被害が大きかったのだから当然だったのである
でもNHKでは特別飯館村の人がかわいそうだとしてそのトマト農家を批判したのである
これは常に原発事故の避難者は援助されるべきものとしてありそれがつけあがらせた原因にもなった、その周りにも津波でも苦しんでいた人がいたが無視されたのである
ただこうして最初から東京の地域エゴで福島に原発を作らせたのも地域エゴだったしそれが原発事故以後も地域エゴとして補償金獲得競争で分断されたのである

●地域エゴは人間が存在してからあった

ただ地域エゴは今に始まることではない、人間が存在し始めてから地域同士で利権で争うことがありそれが戦国時代にもなったとなる
だからこうした問題は人間社会からなくなっていない、地域地域で利権で結び合いまた争うのも人間の津ねだからである、水争いとかいろいろ地域でも争ってきたからである
それがこの辺では原発事故で露骨に現れたというだけなのだともなる
ただ現代はこれだけ広域社会になったとき地域だけの問題として処理できないのである
原発は広域的にかかわるものであり一時吉田所長が東北には人が住めなくなると言ったのもそうである、福島県だけではない、東北全体の問題でありまた全国的な世界的な問題でもあったのだ、海でもトリチウムの汚染水流すと世界から批判されているからである

地球とはみんなつながっているからそうなる、グロ−バル化すると余計にそうなのである人間はもはや江戸時代のような閉鎖した空間で生きていけなくなっている
私がグロ−バル化を批判してきたときそのマイナス面が大きくなったから批判したのである、でも現実問題として広域化グロ−バル化した世界に生きているから相互の調和を計らざるを得なくなっているのだ
ただそうはならずに地域エゴとか国家エゴとか対立が激しくなり戦争にもなる
そうならそれぞれに別々にかかわらないで生きればいいともなる
しかし現実にそれができなくなっていたのである、江戸時代にももどれないということである

どうししても広範囲な政治が必要になった、そこで問題を解決するほかないのである
グロ−バル化は別にして広域化政治は不可欠である、経済でもそうである
グロ−バル化ではなく大きなブロックに分けた政治になる
それで原発事故以後避難区域になった大熊とか双葉とか浪江は合併案が出たのである
現実にそうなっているのだからそれに合わせるためにそうなった
南相馬市だって飯館村の人でも浪江の人でも双葉でも大熊の人も現実に住んでいる
そしたらすでにこうして広範囲に問題を解決するものとならざるをえないのである
それなのに飯館村では南相馬市とは関係ないとかするのは信じられないとなる
もうすでに飯館村は飯館村だけで問題が解決しない、飯館村議会選挙があっても
回りの市町村とも関係している、飯館村だけでは解決しないのである
原発は世界の問題にもなった、海にトリチウムを流すことは海を汚染することだから世界から批判されたからである

ただその人は例外的な人だからとなるが個人として南相馬市民とショックを受けたのである
今は情報社会でありネット社会だからそういうことも伝えられるから気をつけろとなる
一億総記者時代になっている、個々人でも記者になっているから伝えられ拡散されることもありうるからだ、それが情報社会なのである
とにかくこれだけ変化したのに依然として江戸時代の村意識に生きていた人がいた
だからやはり南相馬市と補償金では得したが住民も周りに移住したのだから
南相馬市と合併するべきだったとも今になると思う
飯館村の問題は飯館村だけで解決しなくなっているからだ

ようやく矛盾が矛盾として意識され、当然あるべき葛藤が生まれるのは、実際に『迷惑』が我が身に降りかかってきたときである。そういう立場に置かれてみてはじめて、人は現実(リアリティー)の痛みに目覚めて思わず大声を上げる。

このサイトでは環境倫理学とか提唱している、本当にこの辺で起きたことはこのことでもあった

●水俣病と補償金  村は保証金で破滅した

1次産業と工場が支えだったのが、漁業は壊滅、農業は落ち目、工場の雇用は細々。貧しくても助け合ってきた村はなくなった。水俣病のせいで村が潰れたわけじゃない。補償金で潰れたんです。

 命や健康は返らない。補償金を取るしかない。でも今度はカネで村が破滅する。公害は起こしたらおしまいということで

水俣病のせいで村が潰れたわけじゃない。補償金で潰れたんです。

これは原発事故でも同じだった、それなりに細々として生活をしていた
その時は助け合っていた、でも事故後は多額の補償金をもらうことが生きることの闘争となった、そして飯館村でも補償金の問題で分断して住む人が流出した
残ったのは老人だけであり村の未来も消失した
第一何億円とかの補償金をもらったら今までの生活感覚とは違う、補償金をもらって楽に生活した方がいいとなる、また老人になれば年金をもらい楽した方がいいとなる
飯館村でもなぜ村に籍を置き村会議員にとかなりたいのかとなる
それは補償金が依然としてもらえる、利権となるからだともかんぐる
それは他の原発の避難区域でもそうなったからである
町とか村の復興よりまずは補償金をもらうということが生きることになった
老人は特にそうなりやすいし若い世代はその補償金を元手に流出して帰らなくなったのである

だからみんな金が欲しいとしてもそれがかえって徒(あだ)になり復興できなくなったともされる、それが水俣病でも公害になるとそうなりやすいと経験者が語っていたのである
しかし補償金はいつかもらえなくなる、今はもらってももらえなくなる
すると何か持続可能な収入が必要になる、農業とか林業とかは持続可能だから貧乏でも江戸時代でも人は住んでいたのである
持続可能でないのものは一時的には恩恵をもたらしても永続的にはもたらさないのであるすると今回のように人は故郷に住めなくなる、人は流出して廃墟と化する
補償金でもそれをうまく活用しないと消費されて終わりだとなる
現実にはそうなっている、復興といっても補償金で他に移住することになったからである

飯館村村議会選挙運動で思ったこと
 (よそ者はうろうろするな、邪魔だ、かかわるなと運動員に言われた)


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2021年07月12日

価値は多様であり金ですべて計れない―家の価値 (原発事故の避難者でもすべて金で贖えない)

価値は多様であり金ですべて計れない―家の価値

(原発事故の避難者でもすべて金で贖えない)

ひろゆきがどうせ原発事故の避難区域にはもう30年くらいは住めない、でも50年とかすぎてゆくと放射線量は減ってゆくから除染に莫大な金をかけても無駄だというのもわかる
そのことは書いてきた、その除染の金が地元の相双リテックとかに流れて億の金を幹部が山分けしたとかある、またヤクザに流れたとかゼネコンに流れたとか何十兆円もの金がさらに廃炉までにかかる
だから一人二千万と補償して他に住まわせるのがいいとしている
現実的にはそうするほかないともなる

ただ外部から見るとそうした方がいいとなる、でも何か私は家族が死んでから家の価値を見直すようになった、別に家などでも補償金もらったら他に新しく建てればいいじゃないかとなる、新築の家を建てればその方がいいとなる
これは何か都会人の見方なのである、家に金をかけるの馬鹿らしいとか都会人だとその土地とか家にこだわらない、家は一時的なものでありそんなものに金をかけるのは馬鹿らしいとなる、だから大きな金をかけて買わない方がいいということになる

家というのはその家のことと家族でなければ他人はただ機能的なものしか見ない
そこで営まれた家族の生活のことなどを見ない、また歴史も見ない
私の家は二回近くの川が氾濫して床上浸水になった
一回目は伊勢湾台風の時だった、その時は今の家ではなくトタン屋根の平屋だった
その家は私の父親が双葉で酒屋に丁稚奉公して暖簾分けして土地を手に入れて建てたものだった、だからその土地自体はこの街でいい番低い場所にあり被害にあった
それで二階を建ててそこに避難することが悲願となり新しい大きな家を建てたのである
つまり家には何かそれぞれの事情があり歴史があり建てられている
それが外から見るとただ機能的にしか見ないのである

ある人の家は若い時トラック運転手であり人の倍をトラックで荷物を土でも運んで立派な石の庭の家を建てた
その石作りの庭は大きな石を組み合わせたものでありいい庭である
それでその人は病院に半年くらいいた、糖尿病だからなかなか治らない
でももう病院にいたくないとなり家に帰り治療するようになった
そしたら病院にいるより元気になったという、病院では本当にかえって病気は悪化するのである、特に老人の病気は直らないのが多いから病院に長くいるのは良くないのである

ともかくその家が作られたのにはそれぞれの経過があり歴史があるとなる
それはまた土地と一体化してある、特に農家とかなるとまるで大地と一体化したようにある、それも大地から実りを得て暮らしていたから余計にそうなっているのである
だから家の重みが違うのである、それは都会にない家の重みであり価値なのである
何か家族がみんな死んでから家の価値を私は再認識した
家には誇張ともなるかもしれないが依然として家族がここに住み血が通っているともなるやはり親の苦労があり作られたものだからである
おおげさに言えば歴史的に形成された建造物だとまでなる、私的なものにしろそうなる

それで住宅とか間借りしているとかなると何か存在感がないのである
田舎だとやはり家を持っている人が多いからである、代々住んでいる人も多いからであるそれで農家だと三代住まないと仲間になれないというのもそうである
草分けとか最初から苦労して開墾して住んだ農家がありそこが中心となり重んじられていた、農業中心の時代はそういう中心の農家があり村が形成されていたのである
だから田舎だと何か農家というのは街の家より重みを感じる

ただ工業化したりして全体の経済の占める割合が一割にも満たなくなったとき農家の存在感も希薄化したのである
東電の方がずっと存在感があるものとなってしまったのである
東電なしで原発周辺は成り立たなくなっていたのである
実際に私の家は東電で働いて金をためて発てたのですよという人もまた多いからである
でも事故になったときその故郷に土地にすら家に住めなくてったのである
他から見れば不便な場所であり金もらって他に住めばいいじゃないかとなる
それが田舎の家がどういうものかわからないからそうそう見る

人間は今だけをみる、そこで長い時間をかけて積み上げられて作り上げてきたものを見ない、空間的にしか見ないのである
それが他からわかりにくいのである、歴史とは時間の中で作られてきたものである
大きな歴史でなくても家でも祖父母がいて親がいてとか二代くらいは活きた歴史として理解できる、実感できるのである
父が苦労して土地を手に入れて家を作ったんだなとか親が苦労して作ったんだなとかは実感できる
何か外から来るとそうした時間的なものは理解しにくいのである
それで外国に旅行しても今しか見えない、時間的なもの歴史を理解することはむずかしいのである

とにかく大きな長い国の歴史とかではなく、家の歴史とういのは短くても実感できる歴史なのである
おそらく故郷とはそうして時間の中で形成されたものであり一個一個の家にそうした歴史がある、ただ他人の家のことはわかりにくい、ただ家を歴史の基点とするとき歴史でも身近なものになる
家は単なる物ではない、箱でもない、機能的なものだけではない
時間軸の中で空間に定着したものでありそこに重みとか価値がある
特に田舎では農家だと大地と一体化したように家の重みがあった
それが工業化とかなり失われてきたのである

家には何か先祖の祖父母とか親の血が通っているようにも思える
なぜなら人間は死ねば全く何も残らない、骨も残っていなかった、土になっていたからである、でも家は親が死んでもしばらくは残る
そこで親とか先祖を偲ぶとういことができる、もし別な土地に移り新しい家に住んだらそうして先祖から親から受け継いだ家の重みは感じないだろう
そこでは一から新しい歴史を作ることになるからだ
それで原発避難区域に残されたのは親の老人であり子供の世代は住まないのである
立派な家とか庭を作った人もそこには子供の世代は住まないのである
ということは家を通じての歴史を継承をされないということでもある
親はその家を通じて自慢するものがあり語るものがあってもそれができないのである
そこで歴史は断たれたともなる

やはりつくづく親が家族がみんな死んで感じることは人間は死んでもそう簡単に消えない全く価値がないとはならない、何か家を通じても残したものがありそこから死んだ人を偲ぶ、それで家には死んだ人がなお生きつづけているともなる
過去の歴史でも建築物は残る、エジプトのピラミッドでもそうでありローマの建築でも
また大聖堂でも残っているから歴史を偲ぶことができるのである
そういうものが残らないと歴史は偲びにくいのである
日本ではそうして古いものが残っていない、木の建築だから残っていないのでなかなか歴史を偲びにくい、今だけに生きる社会になりやすいのである
第一ヨ−ロッパの民家などでも相当に古い、何百年も残っているのは石造りだったりするからである
日本は生(き)の文化だというとき今生きているものを大事にする、木でも新鮮な木がいいのである、だから今宮とか新宮があり常に社でも新しくするし伊勢神宮でも20年ごとに

神宮には内宮にも外宮にもそれぞれ東と西に同じ広さの敷地があり、式年遷宮は20年に一度宮処を改め、古例のままに社殿や御装束神宝をはじめ全てを新しくして、大御神に新宮へお遷りいただく神宮最大のお祭りです。
1300年にわたり繰り返されてきた式年遷宮は、20年に一度造り替えられる常に瑞々しいご社殿で、永遠に変わらないお祭りが行われることに大きな意義があります

日本の文化はやはり木の文化だから長い歴史を感じにくいのである
何か新しい物がいいとされる文化なのである、伊勢神宮という古い場所でも新しいものがいいとされるのは木の文化だからだとなる、真新しい木の新宮に神が宿るとなるからだ
ここがヨ−ロッパとかの石の文化との相違だとなる
もしエジプトでもピラミッドでもないとしてたら歴史を感じられないだろう
ただ砂漠だけがあるとなってしまうからである
ピラミッドがあることによって三千年前の歴史を偲ぶことができるからである

いづれにしろ原発事故ではすべて金で贖えない、それは家という建物でも別に他の土地で新しく建てればいいというときそこにある目に見えない価値を認めていないからであるただ物としてしか家を見ていないからである
なんでもすべて金で贖(あが)なうことはできない、家には建物だけではない、付加価値がある、それが歴史であり精神的なものだからである
youtubeとかの問題は何か物事を深く考察しない、表面的なことで終わっている
深く考察するとなるとやはり話すのではなく文章にしないと伝わらないともなる



posted by 天華 at 22:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2021年06月30日

「福島原発で今起きている本当のこと」宝島社ーを読んで (東電の余りにもずさんな対応が今も続いている)


「福島原発で今起きている本当のこと」宝島社ーを読んで

(東電の余りにもずさんな対応が今も続いている)

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この告発は内部の技術者がしている、でも専門的知識がなくても理解できる
何かそれほどむずかしい専門的なものでもない
原子力となるとまず素人はわからないから黙っていろとなる
政府と東電と一体化して利権化権力化してそこはアンタッチャブルの原子力村になり
外部の者が入るのを拒む村ができあがった
著者もその原子力村周辺から出ないで閉ざされた原子力村にかかわるだけだとなった
一種のブラックボックス化した狭い範囲で外部との交流を断絶していたとなる

ここで告発した技術者は多様な外部の人を中に入れるべきだったとしている
外部の人に点検させるべきだったとしている
それが強力に権力化してできなくさせた、素人がわからないというけどその内部で仕事していた人たちは素人だったという、どんな専門的なことでも何か素人でもわかることがあるともなる、素人の指摘が的を得ていることもあるという
それを現場の人から聞いた、その人は現場で仕事していた、でも監督する人に直接その不具合などを言って提言までしていた
現場の人が何もわからないということでもなかった
ただ強権的に上の人が命令するので逆らえないとなる

自分自身職についていないからそういう経験がないからわからない
ただ駅のボランティアをして上り下りがありそのホームが外から来た人が意外とわからない、それで何度も聞かれたのでそのことを駅長に言ったのである
そしたらホームをまたぐ橋の入り口に行き先の表示をしてくれた
また水戸管理局の人が来て向かい側のホームの休憩所に行き先を表示してくれた
それは改札からホームに入ると一番目につくからそれを言ったらしてくれたのである
水戸管理局の人は見回りして点検している
でもそれに気づかなかったのである
それはそもそも乗客とは直接接していないからである
JRでは毎日安全運転のために線路とか電気設備は点検しているが乗客へのサービスをあまり重視していない、だからそれを指摘する人がいる

原発というのは複雑怪奇なものにもなっていたがそれが全部わからないというのでもなかった、この本では何度も配管が無数にあり老朽化して危険だったと内部の人が事故前にも言っていたが東電の幹部は取り合わなかった
配管とかなると素人でも直接見れば痛んでいることがわかったとなる
ただ何も言えないような状態にしていた
下請けでも東電に嫌われると仕事がもらえないとかなり何も言えなかったとなる

なぜそうなるかというと権力化するとそういう下からの意見など聞かない無視できる
科学的な合理性があっても無視できる、科学技術者であってもそうした科学でも合理的なことでも無視できる
また政治家もかかわって一体となりさらに強固に権力化するとそれを外部から点検できない、何も言うこともできない、原子力村に閉ざされてさらにブラックボックス化してそうした危険も放置される、ともかく「安全神話」を作りただ安全だと言っていれば良く肝心の安全は無視されてずさんだったのである

科学者でただ安全だ安全だとカルト宗教団体のように題目を唱えていれば安全になると思っていたのも不思議だとなる、それが科学技術者なのかともなる
神が仏が守ってくれるから安全だと思っていたのかとなる
実はそういうことを可能にしたのは政治とも権力化して一体化して強力な権力を持ったからだとなる
科学合理性とかは無視されカルト教団のようになり一切外部からの干渉を拒んだためだともなる
マスコミでも原子力村の一員と化して利権化していたら地元のマスコミでも何も言えなかったのである

権力とは常に危険なものであり暴走したりする、それは日本の戦争とかナチスとかでも起きている、権力の肥大化暴走をどう抑えるのかが大きな問題なのである科学技術と政治の問題が現代では大きなテーマとなっている
コロナウィルスでもそうである、科学者がいてウィルスにどう対処するかを言っても政治的判断で科学者に従わないということもある
政治家と科学の専門家とのせめぎあいが展開される
だから原発とコロナウィルスも似ていると思った
科学的合理性を言っても通じない、政治的判断でオリッピックも強引に進められる

原子力村がありオリンピック村があった

原子力村の利権はやはりフランスとかアメリカがかかわっていた汚染水浄化装置もフランスの会社とアメリカの会社が請け負った、それも実績もない会社である
それで日本制ではないのでトラブルが発生しても対処しにくいとしている

そもそも原発は日本の技術で最初から作られていない!

マーク1というお古の原子炉でもアメリカがもうけるために供給した
安全性が低いものでもアメリカは外国だから売ればいいとなっていた
外国になれば無責任化する、自国だったら責任が問われるが外国だと余りに問われないからである
外国だと武器でもなんでもうりつけてもうけるとなる、誰もよその国のことを責任持てないからそうなる、そこに他国に頼ることの危険がある

これはオリンピックでもそうだった、バッハ会長が利権のために金のために日本で危険でもオリンピックを強行する、中止すると莫大な金が入ってこないからである
オリンピック利権村があり原子力利権村があった
なぜ国民がこれほど反対しているのにオリンピックを強行しなければならないのか?
原子力村と同じくオリンピック利権村がありそれがIOCとか世界的に
利権化しているからやめられないのである

常に地震の危険にさらされている全国各地にある原発も止めねばならない、それができないのは膨大な利権が吹っ飛ぶからです
惨事は利権の執着が産んだのでありこの期に及んでなおその執着は下劣な情報操作に明確に現れているのです

これはなぜオリッピックに執着するのかと似ている、巨大な利権のためにやめられないのである、国民全体を無視しても一部の利権者のためにやめられないのである
また原発の場合は国防上、核兵器を作るプルトニウムを生産しておいて核武装するためだとしている
それで右では核武装派であり原発に反対しないのである、これも理解できないのである
それで武田邦彦氏が右の団体には仲間に入れないという、原発の問題は平和利用の反面
それが核兵器となることにある、それは人類滅亡にもなる危険なものにもなる
そういう目的もあり原発は危険なものとなる
米ソ冷戦では本当に核戦争の危機にもなったからである
今度は米中対立で核戦争の危機になる、原子力はそういう恐怖に常におびえていてければならないのである
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2021年06月05日

原発事故と蛙(童話風に)


原発事故と蛙(童話風に)

この辺は津波と原発事故で田畑は原野化した、草ぼうぼうとなった
それから十年は早くもすぎた、田んぼは耕地整理で広くなった
広くなると機械が利用しやすい、今は何でも機械でする
田には水が張られその畦にはタンポポが咲き水面に朝の光りがまぶしく反射する
苗が植えられた田だもどる
ふるさとの山の影がそこに映っている

そして蛙が声高に鳴く

[ケロケロケロ、ケロケロケロ]

 ここは俺たちの生きる場所なんだ
 ここで俺たちは生きるんだ
 ここに生きる喜びがある
 ここが俺たちの生きる場所なんだ

蛙の鳴く声はひびきわたる、十年過ぎてようやく復興したと蛙の声が喜びに鳴きひびく
それは長い時間だった、今でもまだ回復していない避難区域がある
そのまわりの田畑は草ぼうぼうとして荒地化したままである
でもここではようやく元に回復した
その時蛙はここにまた生きることの喜びに鳴いている
蛙も人とともに生きる生き物である、それが生きられなくなった
その悲しみは深かかった

確かに今は田んぼで米をとることはそれほど重んじられていない、だからこそ電気社会になり原発が作られたのだ
それで電気会社に勤める人は田畑が草ぼうぼうになっても何にも感じないということがあった、それは昔と違って農民が全体の一割にも満たない社会になったからである

でも田舎では蛙も人とと一体となり生きているのだ、生きる仲間なのだ
それが都会とは違う、蛙も田舎に生きる一員なのだ
蛙の鳴く声が聞こえない田舎は大きなものが欠けることになる
都会なら何も感じない、田畑が回りにないから感じない、田舎では蛙も人間の仲間でありともに生きるものなのだ

その蛙の鳴く声はひびきわたる、力強くひびきわたる
  
  [ケロケロケロ、ケロケロケロ]
 俺たちはここに生きる仲間だ
 ここが生きる場所なんだ
 ここに俺たちは生きるんだ
 みなんと一緒に生きるんだ
 ここが俺たちのクニなんだ

こういうふうに感じたのは一旦田畑も草ぼうぼうとなり蛙の生きる場所も奪われたからである、そのために一段と元の田畑に生きることの喜びを感じて鳴いたのである
何かありがたみは奪われたり失われたりしないと感じない、尊ぶこともない
日頃あるものは特別のものにならない、親でも友人でも死んで二度と逢えなくなる
そうしてかけがえないものとして思い出される
人間は失ってみてその本当の価値を知る、当たり前にあるものの価値もしる

 人よ、今生きる場所を尊べ
 ともしきをうれえるなく
 その与えられた土地を耕し豊かにせよ
 神はそれぞれの土地に富を与えている
 それぞれの国に富を与えている
 だからそれを尊び耕せ

外に良いものを求める前にその住む土地土地に良いものを見いだせ、何か良いものがありその良いものがまだ見出されていないこともある
ここで我々は学んだ、何が価値あるべきものなのか、我々は反省しなければならない
我々は外に求めすぎたのだ、それ故にかえって内にある良きものを見失っていたのであるそれで神はこの地にある良きものを奪ったのだ
それはその土地であり放射性物質に汚染されないきれいな水でありまた土地である
それなくして人は住むことすらできなくなったのだ
そして若い世代は子供たちはここから消えた、もう跡を継ぐ人もいなくなった

我々の過ちは何であったのか?それを深く反省すべきである
電気がなくても人は死にはしない、暮らせる、でも空気と水と土と木が汚染されたら生きていけないのである、その土地は放棄せざるをえないのである
我々はその基本となるべきものを軽んじていたのである
それ故に神はこの地を罰したのである、またこの地のみならず地球を汚染するものを罰する、世界の人を罰する、それを知るべきである、神を畏れるべきである

人の技(わざ)はわざわいにもなる、人の技には呪いが隠されている
それが全面的にいいものとはならない、危険がある
それを無制限に信じることは危険である、人間の知恵は神の知恵に及ばないからだ
そこで大きな事故となり大きな災いがふりかかる
そして人類が滅亡すらする、それを畏れるべきである
汚染した土地は元にもどらず次の世代の子どもたちも住まず荒野と化する
神に呪われた地となり人は住めなくなる、そのことを肝に命ずべきである

夜に満天の星がかがやき蛙の鳴く声は大合唱となりひびきわたる
その声は天に向かい神に向かってもひびきわたる
そしてさらに星が輝きをまして空に満ちる、その復興を天も神も喜ぶ



posted by 天華 at 07:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2021年05月25日

除染専門会社へ県で土木事業を請け負わせた問題 (トリチウム放出には県民投票を!日本には民主主義がなかった)


除染専門会社へ県で土木事業を請け負わせた問題

(トリチウム放出には県民投票を!日本には民主主義がなかった)

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政経東北5月号

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このことで除染専門会社が普通の土木事業に参加した、でもその技術はないのにそうした除染のために作られた会社であり入札させるのはおかしいとしている

ではどうして自治体で技術力もない除染専門会社に受注させているのか?

これは自治体の問題であり責任ではないか、技術力もないのになぜ受注させているのか
そこが疑問なのである
誰かが政治家でも力があって受注させているのかともなる
第一そんな技術力がない会社に受注させないだろう
それで後で地元の業者にしりぬぐいさせている、そんなことをわざわさして手間をかける必要がないとしている
地元の業者に受注させればいいとなる
でもそこに除染専門会社が入れるのはなぜなのか、何か安くできるからだとしたらそれは自治体の責任になり行政の責任になる、問われるべきは行政だとなる
議会で議員が追及すべき問題だともなる、そこで議員も問われているとなる
なぜ追及しないのかとなるからだ

それで相双リテックは除染専門会社であり清水建設の下請けになった、何の技術力もないのになった、そして幹部に何億も金が支払われた、それは陰で大物の政治家が働いたからだと追求している記事があった
その相双リテックの宣伝が政経東北の裏表紙を全面的に飾っていた
つまり政経東北はこういうことがわかっているのだから相双リテックの不正を追求できるがしていないのである、それは宣伝費が相双リテックから得ているからだとみられてもしょうがない、宣伝費をもらった会社は追求できないとなる

ただ政経東北では知事をトリチウムの海の放出で批判している

処理水海洋放出は県民投票で決める

まず内堀知事は県民投票を行い、その中で議論を尽くすべきである
漁業関係者のみうがステークホルダー(利害関係者)のように扱われているが様々な形で影響を受けるとすると県民すべてがステークホルダーとなる

ステークホルダーは、極めて広い範囲の人・団体が対象となるが、大きく分けて「直接的ステークホルダー」と、「間接的ステークホルダー」とに分類できる。直接的ステークホルダーとは、主にユーザーや顧客、株主、従業員、取引先、金融機関などを指す。企業やグループに直接関わりがあり、影響を与える又は受ける人・団体を指す。間接的ステークホルダーとは、従業員の家族、労働組合、公的機関、地域社会などの、間接的に影響を受けるステークホルダーを指す。

このことは私自身が追及して述べていたことである
漁業組合とか船主が事故前も多額の補償金をもらっていた、漁業権を盾にしてもらっていた、そして漁業組合と東電の交渉だけで決められて
ここで言うステークホルダーの範囲はそこに住む住民にもかかわり福島県民にもかかわり広くなれば海全体を汚染するのだから世界の人にもかかわるとなっていたのである
それが漁業組合と船主とかだけの交渉となったことに問題があった
それで海は誰のものかとういことで追及して来た

そもそも内堀知事は政府の言いなりといっているのもそうである
要するに政府の下僕として遣わされた人だともなる、だから県民の意向は考慮しない
ただなにか県民投票というのもなじみがない、県民意識もそれほどない
第一いろいろあっても議論の場もない、すると報道するのは福島民報とか民友とかでありテレビでも報道しても一方的であり関心をもたないのである
民主主義でも本当は県民でも市民でも町民でもまず地元の問題を議論する場すらない
また重大なことを知らされることもない、それで重大なこともあずかり知らないところで決められていたのである
つまりそういうふうに民主主義が機能していないから上の人のやりほうだいとなっていたその象徴が安全神話の形成だったのである
どうせ原子力のことなど地元の人は知らない、関心があるのは利益だけだ、だから金を与えればいいのだとなっていた、それを受け入れたのも地元住民なのである

何かそもそも市政でもさらに県政とかなると一庶民など発言する場すらないのである
私が今こうして発言できるのはインタ−ネットができたからである
政経東北は確かに今の問題をわかりやすく切り込んでいることは言える
でもまたそれでも一方的になる、そこにも矛盾と利害関係があり
相双リテックの法外な除染の利権を報道せずに裏表紙に会社の宣伝をしているのである
だから何かそうなるとそうした悪を追求できるのかとなる
宣伝費をくれるなら追求しないとなるからだ、それは他の新聞でもテレビでも同じなのである、もう大きな組織集団として権力をもっているものは追求できない
相双リテックなど小さな会社でも宣伝費をもらえば追求しない、だからとても巨大な権力組織団体は追求できないとなる
その時悪は増長してそれが大きな被害となってゆく、悪は常にそれを指摘しないと増長してゆく、そして止められなくなり大事故とか大被害となったとき気づくのである
それが原発事故で判明したことなのである

だから私自身もインタ−ネットで発言できることによってジャーナリストの端くれとなり目覚めたのである、まずこうして発言できなかったら目覚めることもないしただ上からの言いなりだったとなる
まず本など普通出版できないしマスコミで発言などできないからである
私の本は個人というだけで地元の図書館に置くことすら断られたことがあった
ただその本は重に郷土史でも個人は取り扱ないとして拒否されたのである
こうして一個人など何も発言できなかったのである

日本には民主主義はなかった!

日本は20年から1つ順位を下げて67位となった。慣習や経済的利益に阻まれて記者が権力監視機関としての役割を十分に果たせていないなどとした。

つまり日本にはお上の言いなりであり有権者でも個々人は発言もできなかったのである
マスコミで発言できるのは極一部のマスコミのお気に入りでありマスコミの言いなりになる人だけである、NHKでもそうである、NHKが指導するのでありNHKの言いなりになる人が発言できるだけなのである、NHKが報道はとりしきるとなる
NHKの意向に反する者は拒否される、そして何も起きないならいいがそこで大きな被害が
国民に及ぶことがある、それが戦争の被害だったり原発事故の被害だったりまたコロナウィルスでもマスコミがとりしきるとやたら危険をあおるだけであり真実が見えなくさせられるのである、第一統計が出ていない,データーがないということで優秀な学者も判断できないとしている、隠蔽されたりしているからそうなる
日本には本当に報道の自由がない国だったのである、一応見かけは自由なようで自由がない、厳しい規制の社会なのである
ただインタ−ネットがそれを打ち破る強力なツールとはなるがそれもわからない
なんらかまたここでも規制がかかったり脆弱なものがあり一個人だと発言が制限されるとなるからだ



posted by 天華 at 19:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

「生活困窮」の原発避難者が急増 今になり原発事故の責任の重さが住民に問われている


「生活困窮」の原発避難者が急増

今になり原発事故の責任の重さが住民に問われている

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政経東北5月号


この辺でシシドスーパーの隣に復興住宅がある、そこに主に浪江の人たちが住んでいる
そこで良く出会う人がいる、大工をしていたという、でもやめたという
だから暇でいつも川を見ている
家とか土地があり補償金はそれなりにもらったから困らない
でもその額が例えば5000万としても多いかどうかはわからない
なぜなら土地と家で5千万も前のような家を建たればかかるともなる
建売住宅だと2500万である
とにかくその補償金でも高いとも言えないかもしれない
ただ一億円くらいもうらとそれなりに補償されたとなる
それだだけの財物補償された人は少ないともなる

そして意外と今原発避難者の生活困窮者が増えたのはなぜなのか?

●補償金をぜいたくで使ってしまった

●思った以上補償金がもらえなかった

こういうことが理由となる、その人は小高の人でありもともと金使いが荒い
でもそれだけの仕事ができる稼ぐ人だからとやかく言うことはできない
補償金で贅沢したという時、やはり高い車を買ったとかはそうである
一時レクサスを買ったとかで話題になった
だから金使い荒くなって金がなくなったという人もいるのである
そして移住先で仕事がてきないとかもある、また仕事をしないということもある
つまり何かこの辺ではすべて原発事故が原因であり東電や政府の責任としているが
住民の責任もあったことが見逃されている
何か全く住民には責任がないともなっている
住民の責任が自覚されていないのである

そもそも原発は受け入れた時、大きな責任が住民に生まれていた!

大きなリスクを負う、責任を負うことになった!

ここが見逃されているし自覚されていなかった、それが事故で否応なく自覚されたのである、住民の責任もいかに大きく重いものだったか自覚させられた

人間はつくづくいい面と悪い面をもたらすことがほとんどである
いいと思うものが悪いものに変化する
そのことは自分自身の介護で苦しんでわかった
自分は親に一番良くされたのである、だから親は自分にとって一番いいものだったのである、でも認知症になったとか二人の親を介護するために死ぬほどの苦しみを味わったのである
ここでもいい面が悪いものとして作用するようになったのである
でも結果的にこの場合は総合的にはやはり自分にとって親は他の人たちと違って特別いいものだったのである、だから今でも感謝して供養している

原発でもそういうことがあった、原発は地元の住民にとって悪いものではなかった
それで経済的にはうるおったしそこで働いて豊かになったからである
だから誰も反対する者はいなかった、今でも東電を責められないというのはそういうことがあるからだ
ただ事故になった結果それが反転したのである、そして住民もその責任の重大さを否応なく自覚させられたのである

そこには大きなリスクがあった!

そのリスクによって大損失となった、その重大な責任が自覚させられて負うことになったその責任は「安全神話」作った東電とか政府にもあった
リスクがあるとういことを説明しなかったからである、ただ安全神話をおしつけるだけだったのである、そうして安全をかえって備えなかったのである

そのことは銀行の投資信託とか株を営業の人にまかせて買わされて損して失敗したのと似ていた

確かなことは銀行は絶対に損しない!

手数料だけが確実に取る、その額が3パーセントとか大きい

銀行は全くリスクをとらないおいしい商売なのである

そして地銀は投資信託とか株式のことを専門ではないので知らないのである
でもすすめるのは手数料が高いし絶対に銀行が損しないからである
ではまかせた客に責任がないかとなればある

あるないにかかわらず責任はまかせたにしろ知らないにしろ自己責任だとなる

つまり知らないではすまされないのである、自分の金が勝手に奪われのは自己責任だともなっていた

原発でも同じである、そこに住んでいる人が原発のことを知る必要があった
でも「安全神話」で知らされなかった、少なくとも銀行の場合はリスクは言っていたのである、原発の場合はリスクは言わない、絶対安全だとしか言わなかったのである
言わせなかったのである、マスコミでもなんでも権力で口封じしていたからである
そして政府とか東電では責任はとらない、それは銀行とも似ている
その幹部でも責任はとらない、誰か刑罰になったとかいうとならない
何か幹部の財産でも没収されたかとなるとならない
これも本当におかしいのである、というのは例えば司法関係の人も東電に天下りしているしそれで告発もできない、裁判もできないともなったのかとなる
誰一人として重い責任を自覚した人はいない、というのは自殺した人が政府で東電の幹部でも一人もいないからである、会社でも政治家でも何か賄賂とかあると秘書が自殺したりする、でもそういうことも起きなかった
これだけの大事故でもそうだったのである、誰も重い責任を自覚しなかったいうことである

今原発避難者が生活が困窮しているというとき原発を受け入れた責任を身をもって受けているともなる、それが全部政府とか東電の責任ではないからだ
地元の住民にも広くみれば原発を受け入れた日本国民の責任だったともなる
例えは戦争で三百万人も死んだ、その責任は誰にあるのか?
全部が政府とかマスコミとかいろいろあってもその責任は国民全部にあるとなり300万人が死ぬことにもなったのである

そういう自分自身にも責任がなっかとなるとあった
ただ30キロ外だから責任がそれほど課せられなかったとはなる
でももっと関心を持つべきだったと反省する、それだけ重大なものだったからである
とにかく人間は意外と責任を自覚しないのである
ではどうしたら責任を自覚するのかというと苦しむ時なのである
それはカルマでも同じである、カルマを意識するのは苦しむ時なのである
苦しんでカルマが清算されるからである
だから補償金で贅沢したというのは一面おかしなことだった
酷ではあるがもっと苦しめばその責任の重さをカルマを自覚したとなるのだ
その苦しみによって原発がどれほど危険なものだったかを自覚できたのである

それでもっと苦しんで原発の恐ろしさを知るべきであり知らせるべきだともなる
一旦原発事故になったらあのように悲惨なものになり責任を負わされるとういう証人になるからだ
それが補償金が何億をもらったとかかえっていい暮らしができるとなれば原発はただいいものだったとなるだけであり誰もその責任を自覚できなくなる
それで何か補償金で贅沢してまた苦しいから補償しろとかいうのも勝手だともみる
ただ飯館村は原発の恩恵を受けていないから例外だとはなる
ても飯館村の人でも原発で働いていた人がいたのである

要するに人間は何であれ必ず責任が課せられている、それがカルマなのである
何か行った行為にカルマを産みだしてカルマは責任として負わされそれが苦しみとなってはじめて自覚されるのである、もし苦しみがなかった自覚できないからである
ただ得をすればいいというだけ決めるとこうして重い責任がカルマが課せられていることを自覚できない、でものちのちそのカルマが苦しみとなって現れる
私の場合は親の介護でその苦しみが現れた、でもトータルでは親の恩恵の方が大きかったから感謝して供養しているとなる

でも原発の場合は恩恵より苦しみの方が大きくなったとみる
それが今生活困窮として現れている
現実に復興住宅に住んでいる人で金がなくて夜電気を消しているとか金がなく苦しんでいる人がいる、財物保証が少ない人だったからだろう
双葉町の人がコンビニに強盗に入っというのも理解できないことだったが何か補償金を
遊びに使ってなくなったのかもしれない、そこまですることがありえないからだ
やはり十年もすぎると貯えもなくなる、補償金も打ち切られとかなってそうなった
そして苦しむことでその責任を自覚させられているともなる


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2021年05月10日

小高の人でも浪江、双葉でも原町とか近くに移住する人が増えている (将来的には避難区域は老人だけの町になり消失する?)


小高の人でも浪江、双葉でも原町とか近くに移住する人が増えている

(将来的には避難区域は老人だけの町になり消失する?)

今日聞いた話では小高の大工さんが5000万もした新築の家を捨てて原町の中古の家を買ったという、それは50坪だからとても広い庭は持てない、前は広い庭があり新築の和風住宅でありその家は立派なものだった
それが息子夫婦も外に出て帰ってこない、だからその新築の和風住宅は無駄になった
第一誰も住む人がいないからである、だからもったいないとなる

また家というのは建物だけではない、自分の家のことでも書いたがいつも家のことを親は自慢していたからである
それは50年前とかで私の家は一番土地が低い家で父親が双葉の酒屋で丁稚をしていて暖簾分けしてここに来た
だからその土地を手に入れるにも苦労して次に水害で二回も床上浸水したのである
去年の台風でも土地が一番低い場所にあるから水があふれて家に水が入って来たのである幸い床上浸水にはならなかったので助かったのである

家というのには何かそれぞれ歴史があり苦労話がある
だから親がいたときはいつも家のことを自慢していたのである
それは認知症になってもそういうことを覚えていてわかっていてそう言うのである
つまり家は何かしら人の思いがのりうつっているのである
だから単なる建物、モノではなくなっているのである

だから施設に入っている人でも「家に帰りたい、帰りたい」というとき家という建物ではなくそこで暮らした家族の思い出がありそうして暮らした時に戻りたいとなっているのだただそうはいっても時間をもどすことはできない、ただ家が残っているとその家を通じてやはりその人の記憶と思い出がありそこに存在感を見出すのである
そしてその息子でも娘でもやはり一緒に住んでいればその親の思いが伝わるのである
だから家というのは単なる機能的なものではなく精神的なものともなっている
だから認知症になっても自分が苦労して建てた家だ子供に自慢するとき喜ぶのである

ともかくその人が原町に中古の家を買っても息子夫婦はいない、そして苦労して建てた家でももう息子も孫もいない、仙台の方に行ったらしいからだ
そしてなぜこうして小高でも浪江でももう他に移って生活するのか、それはもう自分の町が復興しないと見ている、できないと見ている
本人もあきらめているというためである
何か人間で悲惨なのは王様で貴族とかでもまた金持ちでも零落したときなのである
召使とかを雇い贅沢していた人が零落することが最もみじめになる
だから豊かに暮らしていた原発避難区域では突然そういうふうに零落して荒廃してしまったのである
その時町を復興させる気力すらなくなったともなる

すなわちかつて耕作された土地が放棄されることほど、我々を落胆させるものはないのである。
 もし原始林のたくましい成長力がなければ、放棄された耕地が荒れ果てていくのを防ぐことはお先真っ暗な絶望となるであろう。
 
彼らの禍の原因のすべては、道徳的なものであった。そして「自然」は、その卑しい子供たちに報いることを拒み、あらゆる悲惨な出来事をその土地に降りかからせたのである。
 しかし今では荒れ果てた「自然」が彼らの田畑に侵入し、<狸と狐とはその棲み処を人々と共にする>までになって、人口は以前の三分の一を数えるに過ぎず、貧困に陥った農民から取り立てることができるのは高々二千俵にすぎなかった。
 http://musubu.sblo.jp/article/176648961.html
 
 本当にこのようになっていることが言っているからその洞察力には驚く
放棄された土地とかタヌキとキツネの住処になっているのも現実なのである
内村鑑三の場合はその原因を道徳の問題として語っている
ただこの土地の人でも道徳が関係しているとは思っている人はほとんどいないとなる
ただ単純いい暮らしをしたい、贅沢な暮らしがしたというだけである
それはどこでも同じだからそにれついて無闇に批判もできない
ただ欲望と原発が結びついた結果として悲惨なものになったのである

例えば時代が違えば戦後焼け野原の日本に戦争をまけて引き揚げた人たちが条件の悪い所に開墾に入った、そういう集落が日本の田舎には多いのである
知っている人では小池に開墾に入った、そこは街から近い、そんな所に開墾する場所があったのかとみるからである
でも仕事がなくどうにもならなくなりそうして開墾してなんとか暮らしたとなる
でも厳しいので半分くらいは撤退したとなる

原発事故から十年すぎても復興はしていない、このように避難区域から移住する人が実際は多くなっている、その理由は小高から原町だったら隣でありそこはたいがいそろっているから暮らしやすいのである、私も原町に住んでみたいともなるからだ
現代だったら便利な場所に住みたいとなる、仙台市とかに津波とか原発事故とかで移り住んだ人が多いのもそのためである、もともと仙台市に住みたいという人が多かったから
津波とか原発事故を契機にこの際移り住むという決断ができたとなる
原発事故の被害者は補償金を結構もらったからそれでまた移りやすいとなっていたのである

でもせっかく建てた立派な家を失うことはただ家という物を失うだけではない、そこで暮らした思い出も失うとなる、そこで生活した思い出は外に移るとだんだん消えてゆく
家とかその町が活きていれば思い出しやすいからである
そういう思い出は簡単に作れない、もう二度と作れない、60過ぎてから他の場所に移ったりしたらなかなかなじめないし思い出を作りにくいのである
ただ南相馬市内での移住だから楽だとはなる
浪江とかなると南相馬市の市民になっていないのである、宙ぶらりんな状態が続いているのである

その人はなんか大家族で住んでいたがそれが一人とかなり淋しいとかなる
何か妻も息子の所に行ったとかある、他の人でもそういう人も結構いる
つまり家族がばらばらになったのである
だから補償金を持乱たとしてもその失ったものは相当に大きいとなる
つまり補償金だけでは補いないものがある
また補償金がいいものとして作用してもいないのである
なぜなら補償金もらったから外に出た方がいいとなると町や村の復興はなくなったからである

ただこうなってゆくと復興できない、老人だけの町となると介護になったりまたそこで町を継続できない、そして南相馬市でもそういう小高のような区域をかかえることは負担になる、若い人がいないのだから町を支えられないともなるからだ
それは南相馬市全体の負担になってしまうのである
それはだから他人事ではない、相馬市でも新地でも移住した人たちが多いからである
だから周辺地域もまきこんで問題になっているのだ

こうしてもう町でも村でも維持できないというとき切り捨てるということも考える
なぜならここだけではない、負担が大きくなると町や村も維持できない
大きな地域の限界集落のようになってしまったのである
それで避難区域の復興をあきらめるということも考えられる
現実問題として維持できない状態に老人ばかりでなってしまうからである
もちろんそうならないのがいいしそうあってほしいが現実問題としてどうにもならない
切り捨てるということにもなる
ただ南相馬市なら原町に移り住むとかする、現実にそういう方向に向かっているのかとも見るからである

posted by 天華 at 20:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2021年04月24日

原発反対が被害があった地元の人が先頭に立てない矛盾 (補償金増額交渉になり外部と協力できないーはだかの福島ータクキヨシミツを読む)


原発反対が被害があった地元の人が先頭に立てない矛盾

(補償金増額交渉になり外部と協力できないーはだかの福島ータクキヨシミツを読む)
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不思議なのは肝心の原発事故で一番被害にあったその場所で原発反対運動ができない
別にしているのではないかともみる
でも具体的に原発反対運動でも地元では必ず補償金をもらうための反対運動であり具体的に金を東電であれ政府に要求しているのである
それで南相馬市の鹿島地区で原町区と合同で原発反対の集会があった
それが協同できなかったのは原町区は鹿島区の三倍の補償金をもらっている
それで協同するにもできない、30キロ圏内補償金の差が大きかったからである
もし同じ補償金を求めて増額を求めてならできるがそもそもこの金の問題で協同できないつまり肝心の原発事故の一番の被害者が証人が原発反対ができないのである

それは再三言っている漁業組合でもそうである
事故前も多額の補償金をもらっていて事故後もさらに相当な増額されて浪江の請戸では
10億円もらった人がいるというときそれが嘘でも浪江の人たちでも補償金の差が大きいからそういう噂がでてくる、それだけ金が飛びかうのがこの辺だったのである
大熊町長の金庫が津波で流されて探してくれとか噂になった
そこには5億円が入っていたという、それもまんざら噂ではない
それだけの金が事故前でも事故後でもさらに金がとびかう場所だったからである

その後除染で地元の業者の幹部に何億円の報酬があったとかなる
それが不正で警察に逮捕までされた
このようにこの辺は常にそうした金の話題になった場所なのである
原発というのはそれだけ金のなる木だったのだである
まるで金にむらがる巣窟ともなった
第一天下りというのも官僚も多い、検察から警察から海上保安庁とか自衛隊でもそうである、原発はこうして金をうみだすものでありそこにあらゆる人が群がったのだ

だからいくら原発反対とか言っても肝心の被害者は先頭に立てない
あいつらは金が欲しくて運動している、俺たちは金と関係なく原発に反対している
だから金が欲しい被害者と一緒には運動できない

こうなってしまう、だからこの本を書いた本人は一緒に原発反対運動をしない
大内村に住んでいたのだから補償金をもらえたのにもらわなかった
つまり補償金を欲しいというだけの人とは一緒に行動できないとなった
「獏原人」というヒッピー集団はそもそも山尾三省とかの思想に共鳴する人たちだったろう、ただ山尾三省のように明確に原発に反対して自ら行動として農業をしていたのとは違うみたいだ

原発事故以後山尾三省が見直された、なぜなら明確に原発に反対するものとして農業を屋久島ではじめたからである
だから説得力がある、それは飯館村ではじめた「までいな村」のさらに極端化したものだろう、だから半裸で生活していたというからだ
ただそれは変人集団であり周りでは必ずしも歓迎されないしそれに共鳴ひる人たちは村でもいなかったろう

むしろ山尾三省のようにもっといい暮らしをうまいパンをいい車をいい家がほしい・・・その欲望がかえってこの辺では強かったのである
パンが贅沢だとなんたら誰もそんな生活についていかない、でもその極端化したことが
地元の人でも故郷に住めなくなってロウソクでもいいから家族一緒に住みたいとなったのである
それは原発事故の結果住めなくなったからそこまで言うようになったのである
ただここでも農業や漁業も林業でも衰退して跡を継ぐ人がいず困っていた
むしろそういう一次産業では豊かになれないとして原発を積極的に誘致したのである
それは地元の要請でありまたそれに応じた県の政策にもなっていたのである
それで「「原子力明るい未来のエネルギー」がスローガンになっていた
しかし原発は致命的な結果をもたらした、空気と水と土と森の木材まで汚染したから住めなくなったからである
だからこそこういう極端な状態になるとなんとか住めればいいとなる
住めることが幸せだとなってしまう、そういう極端なものにもなったのである


ただ事故後もここに住む人たちの意識は生活態度は変わらなかった
今度は補償金闘争となりどれだけ補償金をもらうかで協同することになった
その額がまた大きいのである、ある人は大熊の牧場主は5億円もらったとか飯館村でも一億円は軽くもらったとかその噂が絶えないのである
請戸の船主が十億円もらったというのもそうである、漁業組合とか特に船主は手厚かったからである
それがまるっきり嘘とはならない、現実にもらった人はいるのである
それだけ手厚い補償金だったのである

だから矛盾しているのは海にトリチウムを流すなというとき必ずそこに金が関係してくるしないとしてもこれまで金をもらっていたのだからまた金が欲しくて海を汚すなと言っているのかとなる
だから韓国とか中国でトリチウムを海に流すなというときそれが嫌がらせともなるが
海はみんなものだからそう言っているのである
だからいちがいに否定はできない、ここで矛盾しているのは中国でも韓国でも原発をもっていて韓国ではトリチウムをすでに海に流している
その量も多いとしている、これも矛盾なのである
そもそも原発自体を廃止する作らないことこそが世界でも協同すべきことなのである
それが肝心の原発事故の地元で先頭に立てないのである
地元では金のための運動となり外部では金は関係ない、むしろ自腹を切っての運動ともなるからである
その差が大きいために協同できないのである

そして事故後も依然として事故前とこの辺では変わっていない、事故前は豊かな暮らしをしたいとして原発を積極的に誘致した、事故後は今度はより多くの補償金をもらう運動に変化しただけである
そこに共通しているのは金がもっともらいうまいパンをいい車をいい家が欲しい・・・・限りない欲望の拡充なのである
だから何かその補償金は別に復興のために使われていない、かえって豊かな暮らしができない、放射性物質で汚染されたからもう住めないと若い人たちは補償金をもらい外に出て行き新しい家を建てて帰ってこないのである

要するにもともと郷土愛とか何か地元に執着するものがなかった
ただ老人は思い出に生きるから故郷に執着して帰りたい住みたいとなったのである
それは現代ではここだけではない、金があればどこに住んでもいいし移住でもできるからである
そして地元の人でも放射性物質に汚染された場所に住めないとなればそれまでだからである、子供たちに悪いとなれば何も言えないからである

とにかく原発というのは最初の段階でその是非をよくよく議論して決めるべきものだったのだろう、ただ金になるからと安易に決めたことが問題だった
第一賛否両論などない圧倒的に地元の人たちも賛成してはじめられたのが原発だったのである、それだけ農業や漁業や林業だけではもう成り立たない社会になっていたこともあるでも逆に何かその農業や漁業や林業が一番被害が放射性物質に汚染されたのである
土や水や森林でも人間のベースとして必要なものが生態系が汚染されて住めなくなったのである

でもそれはもともと衰退産業でありそれより金になる原発だとなり景気良くなると歓迎されていたのである
それで小高ではすでに東北電力の原発が開始されるところだったが事故で停止されていたのである、そこでも小高の人が景気良くなると言っていた
それも今考えると事故になったら今度は南相馬市全体がまた相馬市まで影響して住めなくなったということがあったから恐怖だった
それもまた知らないともなっていた、地元の新聞でもテレビでも雑誌でも取り上げなかったのか、一応報道するにしてもその危険性を警告はしていなかったろう
だから知らないうちに重大なことが決められていてそれが気づいたら大災害になったともなる、だから無知は恐ろしいとなる
自分自身はとうかというと30キロぎりぎりだから何か他人事にもなっていた
遠いから関係ないと見ていた、でも小高に東北電力の原発ができたらそうはならない
もうすぐ近くという感覚になるからだ、それすら知らなかったのだ
まず直感的にそれだけ近いと何か不安になる、それは理屈ではない、直感的にそうみる

「現地調査を行った東電社員に大熊町長が宿舎に突然四斗樽をもって現れ「陣中見舞いに酒をもってきました、私は東電原子力発電所に街の発展を祈念して生命がけ誘致している本当に発電所を東電は作ってくれるのですか
私の車を使ってください、新車のデポネア、(三菱の最上級車)翌日回してきたという話も紹介されている」

大熊町長という5億円金庫が流されて話題になった、その町長とは違っていても何かこうして実際は双葉町でもそうだが積極的に誘致されたものだったのである
町民全体でその良し悪しを議論すらしていないのである
原発ありきではじまっていたのである、確かに立地場所で反対があったが金をやったら簡単に許可したということもそうである
一億円もらったとかなれば誰でも売りたいとなるからだ
ただこの問題はそうしたわずかの土地所有者とかの問題ではない、福島県全体にそれより日本全体にも世界にも影響するものとして見なかったのである

だから今になって中国とか韓国からトリチウムのことで批判されるのである
それはここだけではない、日本政府の指導のもとで原発のプロパガンダが行われてマスコミにも莫大な金が流れて洗脳されていたから何か探ることもできないものになっていた
それはアメリカの後押しがありアメリカで古い型の原子炉のマーク1を売りつけたのである、それは後進国にはお古が武器でも売りつけられるのと似ていた
でもこの原発は危険なものだから日本政府もずさんであり責任があった
東電だけの責任ではなかった、政府指導で行われたものだからである
政府に責任があるというとき政府は議員が国民が選ぶのだから国民にも責任があったとなる、それは戦争とも同じだったのである、軍部に責任があったことは確かでも国民も熱狂していたというからである
ともかく原発に関しては本当は国論を二分するようにな論争が必要だったともなる
そういうこともなく一方的に決められあとは「安全神話」が強力な権力で作られて終わったのである、その安全神話には明確な根拠などなかったのである
ただ反対されるのが嫌だから権力でおしつけただけだったのである

このことをふりかえると金でふりまわされていた、その金が実は具体的なカルマとなっていた、東電であれ政府であれ金をもらった時点で具体的に了解したとなる
だからお前たちは事故にあっても何も言えない、金をもらったからだとなる
それでヤクザの仁義でも金をもらったからヤクザの闘争に参加して人を殺したともなる
それはドラマでも金をもらったらそうまでなる、地元の人たちは金をもらった、受け取った、その時点で例え今回の様な大事故になっても何も言えないとまでなる
お前らは共犯者だともなる、確かにそうだともなる
なぜなら自治体の一員というよりは東電の社員と同じになっていたからである
東電がヤクザではないにしろそういう立場になっていたということである


あとがき


原発事故津波関連の本はもう百冊くらいででいるかもしれない、だから読み切れない
でも今回の本はやはり事故前から大内村に住んでいたことで説得力があった
それが他と違っていたのだ、やはりそこに住んでいる人が命にかかわるのだから切迫した状況を伝えられるのである
内部の人が批判するのはむずかしい、実際に補償金をもらっている
ただ自分が批判できたのは30キロ圏外であったからだ、それもぎりぎりだった
補償金でも一人70万はもらったのである、でも30キロ内だと3倍もらったから違っていた
そうなればお前も補償金もらったとか欲しいとかなり外部の人と一緒に批判できない、協同して反対できない
この著者は大内村に住んでていも補償金を拒否したのである
だから筋が通っているとなり説得力があったとなる



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2021年04月16日

トリチウムの海への放出問題 (海は誰のものなのか?―漁業組合だけのものではない)


トリチウムの海への放出問題

(海は誰のものなのか?―漁業組合だけのものではない)

漁業権の問題で福島県の漁業組合が事故前も事故後過分な補償金をもらっていた
そのことで地元でも不満な人が多いのである
港に住んでいても全部が船主でもないし漁師でもない、だからなぜ近くの人はそんなに金が入るのかとなる、原発御殿が建つほど金が入るのか?
それが不満だったのである

つまり漁業組合が漁師だけが海は俺たちのものだ!

ここに根本的な問題があったのだ、海が俺たちのものだというときそれは漁業資源の保護のためにとかでありそれを東電に売り渡して補償金をもらうために与えられていないのである

そんな権限が漁業組合にない

むしろ漁業資源の保護なら原発は危険なもので海を汚染するのだから最初から原発を作らせないことが理にかなっている
でも事故前から多額の補償金を東電からもらっていたのである
そして意外とみんな金をもらえればなんでもいいと考える
しかし人間は金の恐ろしさを感じないのである

その金がどういう金なのか?

ただ金は金でありそれがどんな金なのか、どうして得た金なのかを考えない
別に金に色がついているわけではない、でももし紙幣が血にぬられていたとか、人を殺して得た金でそうなっていたとしたら誰も不気味だからいらないとなる
現実にそういう金が相当にあることも確かなのである
グロ−バル化して何かその金が不正で得たようなものが流れある所に蓄積される
それがグロ−バル化経済で目に見えないから余計にそうなる
するとその金がカルマとなり災いとなる、だから今そうした金がアメリカの極一部の人たちに蓄積されている、アメリカの富の50パーセントが数パーセントの人たちに集まっている、それは世界から搾取された金でもある、そういうことでアメリカは大きなカルマを積んでいて自壊してゆくともなる

そもそも海は誰の者なのかとなれば世界中の人たちみんなのものだとなる
それで海を日本で汚染するから中国とか韓国では反対している
でもこれもおかしいのである、中国でも韓国でも原発をもっている、韓国ではすでにトリチウムを日本より海に流しているという、そういう国がどうして日本だけを責めるのか?中国でも原発をもっている、だから一旦事故があれば海だけでない、大気を汚染する
それが黄砂のように日本にも影響する
その時空は誰のものかともなる、つまり自然は一体であり地球は海でも大地でも空でも繋がっているからだ

そこで飯館村が放射性物質で汚染されてそれをつめたフレコンバックが破れ流れ出した
それは川伝い南相馬市にも流れて来るのである
大量の放射性物質は真野川の真野ダムにも蓄積されたのである
だから飯館村は飯館村だけの問題として処理できないのである、回りにも影響しているからだ
このように公害とは地球環境の問題であり一市町村とか一国だけの問題ではないのであるそこに世界的に対応して共通の法律すら必要になる
そさは世界各国で協議する問題であり国連のような場でする問題なのである

だからそもそも原発自体が禁止すべきものだったのである
それが一旦事故になればチェルノブエリとかフクシマのようになる
それが海は汚す、世界的な影響になる、でも日本だけが事故を起こしたからと責めるのは理にかなわない、他の国でも事故は起きるからである
だから原発そのものもを作らないことなのである
それは核兵器とも似ている、アメリカが最大の核保有国でありそれで他の国は核を持つなというのも理に合わないのである
勝手すぎるかち誰も同調しないとなる

いづれにしろ海は世界中の人のものであり漁業組合とか漁師とかの占有するものではないプライベートなものではない、プライベートとは奪うとうい意味があるからだ
一部のものに奪われるたとなる、それは土地でも実際はみんなつながっているから一部の人に奪われて所有されことになじまないのである
共有性と公共性が高いものだからである
地球か狭くなったときどうしても世界的視野で共通のものを志向するようになる
環境問題はそうなる、環境に空や海や大地に国境はもともとないからである
二酸化炭素を減らすとか環境問題が世界のテーマとなっているとき原発の禁止運動が起きないのは理に合わないのである

でも東電は漁業組合に補償すればいいとして終る
本当は海を汚したら世界中の人たちに国に補償を強いられるのである
そんなことはできないからただ一部の漁業組合にだけして終わりとなる
それでも自治体でも風評被害とかいろいろ被害がある
漁業にたずさわる人たちだけのも問題ではない、でも何か漁業組合だけが被害だとされているのである、そこを補償して終わりだとしている
結局世界の人たちに補償金を与えることなどできないしそれで漁業組合だけに補償金を与えて終わりにしようとしている、それも問題なのである
それは世界の被害であり日本だけの国の被害ではないからそうなる

だから中国でも韓国でも日本全体の漁業組合でも自治体でもかかわるべきものなのであるそれで大阪でトリチウムを流してもいいというのは評価されている
つまり福島だけの問題ではない、日本全体の問題として引き受けるとういことである
でも瀬戸内海の漁師からすると反対だとなるから勇気ある発言とされたのである
どうしても風評被害がでてくるしいい感じがしなくなるからである
トリチウムでも他の放射性物質も交じっていて危険だと言う人もいるからである


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2021年04月12日

トリチウムを海に流すなという漁業組合の矛盾 (補償金を上積みさせるために言っているのか)


トリチウムを海に流すなという漁業組合の矛盾

(補償金を上積みさせるために言っているのか)


まず漁業組合のことを批判してきたけどいくらトリチウムを海に流すなといってもそれが説得力がないのである
なぜなら何度も指摘してたように事故前からも補償金として多額な金をもらっているし事故後もまた補償金が上積みされる

またトリチウムの海の放出で東電と交渉して補償金を上積みさせるのか?

何かそう漁業組合では思っていないにしろ現実問題としてそうなっているのだ
もともと漁業だけではやっていけないとか農業だけではやっていけないとかなっていた
そこに原発を誘致して補償金をもらえばいいとかしかなくなっていた
でも港でもみんなが補償金をもらえるわけではなかったのである
それで
周りの人は船主に不満だったのである、それから浪江の復興住宅にいる人が請戸の漁師とかの人たちが10億円もらったとか言っていた、その人も結構もらっているにしても漁業組合とはそれだけ多額の金が入る団体となっていたのである
海を漁業組合のものとして他は関係ないとして多額の補償金をもらっていたのである
原発御殿も建っていたとか地元の人が陰でみんな言っている
実際に請戸の人が病院に入院してきたとき特等室に入り家を建てる、それも豪邸を建てるとか豪語していた、それだけ漁業組合とかには補償金が事故前も流れていたのである

要するになぜこうしたことが起きてきたのか、それはまず金をもらったということなのである、何か金というのは責任なのである、具体的な責任でありカルマとなっている
でもみんな金をもらえれば何でもいいとなっている
金になるとなればみんな目の色を変える、それがどんな金でもいいとなる
ただ今になって何か変だなと気づかされたのである
普通だったらトリチウムを流すな魚が汚染されるからとなる
そうしたら俺たちの飯の食い上げだとなり反対するのが当然であり回りでも認める
それに何か批判する人はいないのである

それがなぜ矛盾して来たのか、そんなことを漁業組合で言えるのかとなった
それはすでに多額の補償金をもらっていたことにある
つまり金をもらったことが責任となっていたのである
もし事故前に金をもらっていなかったら事故後ならそういうことが主張できたかもしれない、でもあなたたちはすでに補償金をもらっている
トリチウムを海に流すなといってまた補償金を上積みさせるのか、そのために反対して交渉するのかと見られるようになったのである
ただこれももし自治体全体でその補償金でも分配すればなにもいわない
なぜ漁業組合だけが船主が破格の補償金をもらえのか、今頃魚が汚染されたからと言って騒ぎまた交渉して補償金が漁業組合だけに船主だけには過分に与えられるのである

だから海とは誰のものなのか?そのことが法律でも明確ではないのである
資源の保存のために乱獲しないように漁業組合で調節するという趣旨からはずれてしまったのである
その海が自分たちものでありそれでもって東電とか国と交渉する
そうして補償金をさちに上積みされるのだから何も困らないともなる
原発はこうして様々な利権のための装置となったのである
除染にしても6兆円とかの金を使いそれは別に地元に回ったのではなくゼネコンに回ったり暴力団に回ったりした
何か原発とは湯水のように金がでてくる装置だったのである
それは国がかかわっているからまたそうなっていたのである
国ならいくらでも金がでる、でもそれは国民の税金でありそれで原発乞食とか言われるようにもなる、ただ補償金をもらうために福島はあるとかまで見られる
福島県のイメージが悪くなったのである

原発とはあくことなき人間の欲を刺激するものになっていた、そもそも原発など必ずしも電気が必要でもなくても電気は作れるものだったのである
ただここにはアメリカとか国の圧力があり核兵器の準備として作ったということがあり
日本だけの問題でもなかった
これは漁業組合だけではない、除染を請け負った地元の会社でも億単位の金が会社の幹部に回っていたのである、それで警察に除染費用を不正使用で調べられ逮捕された人もいた

でも不思議なのはその会社の宣伝をしていたのが「政経東北」である
これもわからないのである、その除染費用でおおもうけした会社から宣伝費として金が「政経東北」に流れていたとなる
政経東北は福島県の不正を追求してきた、だからそういうことはないと思っていた
でもこれは理解できないのである
つまりこれも金が欲しいとなり矛盾してくるのである
第一マスコミでも何か偉そうなことを言って上から目線でまるで国民をこうすべきだと指導するように放送する、それは必ずメデアは装置が巨大で金がかかるから宣伝費で成り立つ、するとそうした宣伝費を出す会社でも何でも金を出す方が優位になるのだ
ただインタ−ネットとかなると別に金をもらえなくても無料でもやれるから自分でも追及しているとなる
その影響力は微弱でも報道でも批判でも一応できるからである

ジャーナリズムとは報じられたくないことを報じることだ
それ以外のものは広報にすぎないージョージ、オーウェル

何か不正を封じれば報じられた会社でも人でも打撃になる
でもそれをマスコミでもメデアにさせないようにする
そのために宣伝費を払う、その金で金を出す会社の批判させない、報道させないようにする、それが今までもマスコミであった
でもインタ−ネットになると誰でも報道できるから抑えることができなくなったのである第一福島民報などでも確実に広報なのである
何か報じなければならないことを報じない、原発で10メートル以上の津波が来るといことを
科学者が警告したことも報道したのかどうかわからない
福島民報は本当に県の広報である、何故なら県で半分の資金を出資している株をもっているからである、また創価の聖教新聞をすっているからである
他でもそういうことはある

原発を拒んだ町―巻町の民意を追う 単行本   1997/10/17
新潟日報報道部 (著)

ここでは違っていたのである、ただこれはまれなことでありメデアはマスコミは肝心なことでも報道しない、NHKでもそうなのである
NHKの問題は宣伝費で成り立たない、国民から金をもらって報道しているのだから別に会社に忖度しなくてもいいが実際はそうでない、こうして肝心なことが報道されないと
原発事故でも大被害になり国民が地獄の苦しみを受けることなるから問題なのである
福島県でももし10メートル以上の津波が来るから備えろということを大々的に報道していたら危険を事前に知っているから逃げて命が助かった人もいたかもしれない
まず相馬地域だと津波が来ないと確信する場所になっていたからである
そうなったとき東電はありがたい、東電に命が救われたとまでなっていたのである
だから正しい事実の報道することは必須なのである
でも現実にはそれが報道機関でなされていないのである

要するに今の社会はすべてこうして金で歪められるのである
いくら正論を言い批判しても金をくれるところには忖度して批判しないのである
実際に自治体が漁業権をもっていてみんなに補償金でも分配する、そうなると自治体の全員が責任者になり何も言えないとなるのである
今回は漁業組合とか船主が破格の補償金をもらっていたから批判されるようになった

烏崎の港などは零細である、でも二回補償金をもらっている
最初は東北電力の火力発電所が建てられたときだった、そこで補償金をもらった
そのためにハワイであれヨ−ロッパまで旅行していた人がいたのである
その頃はまだ海外旅行は航空運賃が高くてできない、50万とかしていたので自分はできないと思っていた
それで貧乏人はロシアのシベリア鉄道回りでウラジオストックからヨ−ロッパに行っていたのである、そういう人と外国で出会ったからである
またその時近くの呉服店では高い着物が売れていた、それで団体旅行に招待されていたのである、それだけ火力発電所でも金が入る場所だったのである
それも漁業関係者は特別に多額の補償金が入っていたのである
次に原発ができてさらにまた補償金が入っていたのである
でもその人は父親が船に乗って遭難して死んだと言っていた
漁業というのはそれだけ危険なものであり今でも遭難して死んでいる人がいる

まだ農業でもそうだが漁業でも別に地元の魚がとれなくても困らないのである
地元の魚だと新鮮でうまいからありがたいとなるが魚は今や全国から世界からでも入ってくる、輸入品が多くなり地元の魚ではないのである
だから別に地元で汚染された魚を食べるより他からの外国からの魚でもいいとなるのである、そういうことがグロ−バル広域経済がまた大きく社会を変えてしまったのである
もし外から食料が入らなかったら昔は飢饉となり餓死していたからである
今はそういうことはない、でもそうなると地元のありがたみとか感じなくなる
この魚は地元の人が命がけでとってきたものですよ、だからありがたく食べなさいということでも納得する、今はそういうことを感じないのである

でも本当にこの辺が放射性物質で汚染されたとき外から物資が入らなくなったのである
これは危機であり南相馬市長が外部に世界に訴えたことでもわかる
つまり外部から食糧でも物でも入らなくなったらもう生きられないのである
それで二週間くらいはありあわせのものでしのいだ
でも米もなくなったとき地元で古米を配ったのである、その時命をつないだとなりありがたいと思ったのである
だからグロ−バル広域社会になると外から物資が入らなくなることが一番怖いのである

結局トリチウムでも海に流すほかないのかもしれない、別に地元の魚を食べる必要はない新鮮な魚を食べられればいいが外からいくらでも入ってくる
もし江戸時代のように昔のように地元の魚しか食べられないとなるとそうはいかない
なんとか魚を食べたいとなるとき切実なものになりそうはならないのである
だから別に漁師でも魚をとらずに東電から国からでも補償金で暮らせばいいとなる
その時漁師がなぜ私はここにいるのかと自問した
それもまた矛盾だったのである、漁師はすでに漁師ではない、東電に雇われた社員の一人となっていたのである
また自治体でも東電の力を大きくなりそれに所属するにうにさえなる
それだけ東電とかは巨大な企業でありその影響は事故になって判明したのである

いづれにしろトリチウムをどうするのか?その答えを出すのは今でも漁業組合と東電だけになっていた、でも最近は全国の漁業組合が関係してトリチウムを流すなとなる
それは海は広いからどこでも影響するからである、全国の漁業組合となると別に補償金はもらっていないからそう主張することは誰も批判しない
でも多額の金をもらっていた地元の漁業組合はトリチウムを流すなというのは誰もそのことを容認する人はいない、また補償金を上積みさせるために交渉しているのかとみるからである
だから金というのは責任でありカルマとなるのだがたいがいそうはみない
金をもらえればいいとしかないのである
そういうことは別に漁業組合だけではなく全般的に言えたことなのである






posted by 天華 at 19:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連