2023年06月08日

原発事故危害地域の予算は国がなお援助している (故郷を失うことの精神的影響)

原発事故危害地域の予算は国がなお援助している

(故郷を失うことの精神的影響)

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●依然として復興予算の割合が多い

福島県の予算を見ると南相馬市は復興予算が20%である
浪江町は80%である。双葉町は74%である。大熊は60%である。
相馬市は1%にもならない。いかに原発事故から12年過ぎても依然として復興予算が大きいと思った。
ただ南相馬市は20%になったから減少した。それでもそれなりに予算の2割となれば大きい。
飯館村は70パーセント とかでありそもそもそも放射線の被害が大きかったから補償金も多かったからである。でもやがては復興予算は消失する。すると南相馬市でも苦しくなる。

いつまでも復興予算を要求してそれでやっていくことはできなくなる。でも依然として裁判で補償金の増額がありそれで潤った人も多い。でももう復興予算とか国からは援助はなくなる。飯館村でもほとんどが残った人でも老人であり何か生産するということもない。補償金だよ頼りでありそれがなくなれば住んでいられるのかとなる。
南相馬市にしても2割が復興予算だとするときもしそれがなくなると福祉の面やその他教育にしても予算を回すことができなくなる。一時的に原発バブルでもあった。でもそれも終わりつつある。そして復興予算は国から入ってこない時もはや町や村でも成り立つのかという心配がある。なぜなら残ったのはほとんど老人であり若い人は極端に少ないからである。
だからそもそも浪江とか大熊とか双葉とか南相馬市の小高とかは維持できるのかという問題がある。
なぜなら現実として小高の人は原町に移住した人が多いからである。原町の方が何かと便利だから小高を復興させようとするのではなく移住した方がいいとなったからである。

いずれにしろ予算から見ればいずれは復興予算頼りだと立ち行かなくなる。
そうなるとむしろ小高だったら維持するにも返って無駄な金を使い南相馬市全体から見ればただお荷物になってしまう。すると現実として原町に移り住んだ人が多いように切り捨てた方がいいとまでなってしまう。もちろん小高でも浪江でもでも復興してもらいたい。でも現実は厳しいとなる。
ただ原町区は一人50万の補償金が加増されたので得したとはなる。鹿島区は一人16万だから不満がまた多いのである。それより相馬市などは復興予算もゼロであり今回の裁判の補償金は8万くらいなのである。
そのためなのかイオンなどが廃業して寂れたようになったのである。

●人が住まなくなるとどうなるのか、死者も幽鬼となり彷徨う

ともかく日本全国でもそうだが少子高齢化でこれから人口が減り日本は縮小してゆく。そして周りを見ると鹿島区とか相馬市では去年の地震の被害で家自体が壊されたのは目につく。
それも近いうちに空き家化する家だったかもしれない。跡継ぎがいな家だったかもしれない。それで自身で地震で破壊されて住むことを諦めたのかもしれない。
ただ村とか町とか人が住まなくなり消滅してゆくということはどういうことかまだよくわかっていない。
日本の村は日本人のアイディンティティの基盤としてあり何代も続いて住んでいた人たちがいる。そこに長い歴史があり重みがある。それが消失するということは何を意味しているのかまだそこに住んでいる人もよくわからないし自覚していないともなる。
なぜなら村で死んだ人はご先祖様となり日本でわその村に生き続けていたからである。それも消滅する時ご先祖様もそこには存在しなくなりその場を失い神社でも捨てられるのである。
そしてそこには死者も幽霊となって幽鬼となり行き場がなくさまようともなるのである。

それは農民社会でなくなったときそういうことがすでに起きていた。農村共同体は縮小して維持できないようにもなっていたからである。それに拍車をかけて原発事故で人が住めないようになり廃墟ともなったのである。
だから原発事故で故郷から移住した人たちはそのアイデンティティの場のるルーツとなる場を失った。それが何を意味しているのかまだ自覚されていないのかもしれない。
ただ現代は広域化してどこにでも住んでいいという時代だから故郷にこだわる時代ではなくなっていた。
金さえあれば返って都会に住みたい。東北だったら仙台市に住みたいという人が多かったからである。それで津波もあり仙台に移住して人が増えて仙台はまた人口が増えたのである。
でもそうして移住した人たちは何かを失った。ただそのことを自覚されないかもしれない。特に若い人たちは移住した場が故郷になるので特にそうなのである。
都会とはみんなよそ者の集まりだから別にそれでふるさととか村にこだわる必要はないのである。でも確かに故郷を失うということが何なのか気づきその失ったものの大きさを知るようになるかもしれない。

●人間は歴史を生きる存在でもある―故郷を失うことの影響

なぜなら人間は継続するということは歴史に生きることは価値あるものとなってきたからである。それで近くの自転車屋は死んだときその自転車やわマーチに町二一軒しかないなくなっていたから貴重な物となっていた。
そして死んでも駅前と結びついていて街全体とも一体化してあったことを意識するようになったのである。
だから原発事故で町や村は消滅して行くようなものになった時いったいそこで人間の存在感を持つことができるのかとなる。海洋
人間は依然として家族のために働くということは続いている。でも市町村はあってその全体のために働くとか存在するということは希薄化していた。でも人間は死んだら終わりとなるのではなく継続されることを願う。だからこそ村があったときは農業者会であった時は死者は山に葬られて眠り田植えの時期などに山に降りてきて手伝ったとかいうことになる。それは依然としてその村に死者も生き続けられているということなのである。

それが動物の政党違って生と違って人間は一代で終わるものではなく継続されたものとして生きる歴史的存在だということなのである。その歴史が消失することは人間の存在の意味の否定にもなる。ただ少子高齢化で限界集落は廃村になったり消失してゆく危機である。それが何を失うものとなるのかまだそこに住んでいる人も周りの人も自覚されていないのである。
それは経済的な面だけではない精神的な問題なのである。そのよって立つ基盤が消失するということである。それはかなり深刻なことなのかもしれない。でもそれほど深刻に思う人はいないともなるのか。ただ老人はそこに長く住んでいたのだからやはり自分のよって立つ基盤が失うということはショックになっていることは確かなのである。
posted by 天華 at 17:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2023年05月07日

なぜ危険な原発がやめられないのか (政治権力利権の判断と科学的合理的判断)


なぜ危険な原発がやめられないのか

(政治権力利権の判断と科学的合理的判断)


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地震があっても岸田は原発マネーがやめられない

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科学の判断ではなく政治利権の判断が優先される



青森の核燃料処理施設の危険を指摘するユーチューブを見た
活断層の上に作られていて非常に危険なものだと指摘している。
その影響は北半球に人が住めなくなるほどの悲惨なものとなると指摘している。それは想像を絶する最悪なものとなる。
人類滅亡にまでなるとまで指摘している。

福島原発の大事故の惨事があっても依然として原発をやめない。今回の能登方面の地震でもそこに原発があった志賀原発があった。それも危険があった。
青森の核燃料処理施設でも危険なのは耐震設計がされていない。それが内部に入れないほどの放射線量があり耐震設計をして建物を直すことができないのである

ではなぜそんな危険なものを作り福島県発のような事故があったのに依然として原発を再稼働してやめることがない
このユーチューブでは福島原発の場合津波の結果大事故となったのではなくその前に地震の揺れで原子炉が故障した。また配管などが破損して津波の前にすでに総称した損傷したものがありそのために大事故になった。そのことは専門の科学者も明確に資料が出たので指摘している。

つまり原発は巨大地震が来ればこのように巨大事故になる。津波が来たから巨大事故になったのではない。そうしているのは政府やその命令に従う原子力ムラがあって御用学者がそう言っているのである。
ということはここに科学的合理性から判断しないで政治的思惑や経済的利権から原発は危険を無視して作られたのである。
科学技術というのは必ずしも科学技術を優先して決めるのではない。そこに政治的思惑や経済的利権がかかわり科学の合理的な判断を無視するのである。

それは御用学者は政治家の命令に従い公正な合理的な科学技術の判断を弱めるのである歪めるのである
だから原発は科学技術の問題としてだけ見れない。極めて政治的経済的理由が優先されているともなる。その視点で見ないとなぜこんなに危険なものが再稼働されやめることができないのかが分からないのである。
まず人間の社会は利益が優先される。利権が優先される。それはあらゆるものはそうなのである。カルト宗教になればそこはもう御利益追求であり利権の追求であり本来の宗教などゼロなのである。誰でも金になるとなれば目の色を変える。
原発が建てられたのも地元に金が入るということでそうなった。

事故後でもわかったようにその利権は金はとてつもない巨大なものだったのである。除染だけに6兆円とかもかかるつぎ込んだのにも驚いた。それは庶民に取って想像を絶するものだったのである。
そして原子力村はその利権を握り政治家の命令でその危険性も隠す事ができた。安全神話を作ったのもそうした御用学者が集まり専門家が集まり実ははそれで危険を隠蔽したのである。

だからこれは科学技術の問題だけではなく政治的な問題でありまた経済的な問題であり科学は確かに合理的な公正を追求している。でもその科学の真理も公正さも政治的な問題になり歪められたのである。
必ずしも科学技術社会でも科学が優先されるわけではないのである。政治的思惑経済的利権が関わりそれが優先されるのである。
また科学にしてもそれが全部正しいとはならない。いくら専門家が科学者が言ったとしてもこの地球であれ宇宙であれすべてを知り得る人はいない。それは全能の神しかありえない。
それでいくら科学者が専門家がいても実際はわからないことがある。だからまた科学者を専門家の言うことでもすべて信じられないのである。

地震になるとそれはできないように予知できないように地下のことが地球の地下のことが海の底のことが宇宙のことでもわからない。科学者が専門家がすべてをわかっているわけではない。それはコロナウイルスでもそうだった。
専門家が正しい判断ができるとはならなかったからである。
そこには必ず政治的思惑や経済的利権が絡み科学的合理的公正な判断になるとは限らないのである
政治的判断というとき時の権力を持ったものが判断する、でも権力を付与するものは何なのか、誰なのかとなる、民主主義社会では選挙で勝ったものが権力を得る。

今なら自民党であり公明党ともなる。でも選挙で負ければ別の政党が権力を得るのである。ではその民主主義社会でも何が優先されるかとなれば科学的合理性とかではない。やはり利権であり金になることが優先される。そのために地元には金をばら撒き原発を作ったのである。地元でも金になればいいとなっていたのである。
そこに民主主義がまたすべて正しい判断をするとは限らないのである。数が多ければそれが正しい判断になるかとなればならない。そこに民主主義にしても限界がある。
ではどうして正しい判断をすることができるの?
そこに人間の限界がある。必ずそこに過ちが生まれるのである

人間は地の底のことをまたは海の底のことを
果て無き宇宙のことを知りえるのか
人間は全能の神の知恵には及ばない
人間はいかに科学技術が進歩しても
依然として知りえないことがあまたある
人間はこの世界のことをすべて知り得るとはならない
そこに人間の限界がある。
そしてその人間の技は崩壊して砕かれる
文明もまた砕かれて廃棄されるのである
人間のバベルの塔のように崩壊する
人は終始つかなくなり散りじりになる
posted by 天華 at 14:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2023年04月27日

原発事故の多額の補償金が復興を阻害した (復興より補償金をもらうことことが第一になった)


原発事故の多額の補償金が復興を阻害した

(復興より補償金をもらうことことが第一になった)

●突然苦労しないで入った金は消失しやすい

突然入ってきた大金は身につかない。悪銭身につかずになる。
そういう例はいくらでもある。親の遺産を相続した場合などでもそうである。それも使いかたがわからず浪費してなくなってしまう場合が多い。その金は何か天から降ってきたような金でありあぶく銭でもある。苦労して得た金とは違うのである。
だからどうしてもなくなりやすいのである。有効に生かせないのである。それは自分自身でも親の遺産で経験しているのである。

この辺の原発事故でも多額の補償金を得た結果金銭感覚が狂った人がいたようである。もちろん補償金をもらう権利はあるしそれをとやかくは言わない。でもその補償金が返ってこの辺の復興をできなくなってしまったということもある。
その補償金も高額になるとそうなりやすかった。今まで手にしたことのないような大金が入ったことで金銭感覚が狂ってしまった。
その金を高価な車とか女遊びとかに費やされたようでもある。それでもしかしたらそのも大金もたちまちあぶく銭のように消えたのかもしれない。
補償金は必要でもそれがあまりにも大きなものとなって金銭感覚が狂ったともなる。それで故郷の復興とかより補償金をもらいそれで楽に暮らすという考えになったともなる。
というのはやはり避難区域の人で多額の補償金をもらってスポーツカーだとか女遊びだとか何かそういう復興のためというより浪費したというふうにも見えるからである。

●補償金も有効に使いなかった

だから今になってその補償金でも使い果たして苦しくなってしまったのかもしれない。何か大工さんでも仕事が欲しい。その人はいろいろなことができる才能ある人だから掃除とか家事手伝いとかそういうことで仕事をさせて欲しい。金も欲しいとなる。
そんなことで懸命に仕事をして金を得ようとしている。
でもその人のことは原発事故から十年くらいは音沙汰無しであった。その間に何をしていたかわからなかった。でもどうも補償金をもらったとしても使ってしまったのかもしれない。
それでなんとか働いて金を得ようとしているのかもしれない。
そのことは悪いことではない。自分の身ににつけた大工の技とかを活かして金を得ようとしているからである。

でもその補償金を浪費した人も多いだろう。補償金をもらうことは当然にしても額が多すぎたのかもしれない。もちろん少ないということででことでさらに要求してはいた。
結果として裁判で勝ったから避難区域の人は4人家族だったら1000万とかまた入ってきたのである。その額も大きいと思った。
私の地域では一人16万でありもともと少ない。 30キロ内たと原町だと3倍になっていたからである。今回の裁判でも買っても補償金は一人16万であり原町区は3倍の50万なのである。
その他相馬市とかでは8万くらいにしかならないのである。

おそらく補償金はもらうことは悪いことではないしその権利もあった。でも多すぎたのかとなったがそのために返って補償金を水増ししてもらうことが復興の目的にもなってしまたのである
とにかくなんとか金を得るための算段をしたかもしれない。もちろん放射能汚染とかいろいろな悪条件があり外に出ようとすることも分かる。

でも補償金が少なかったら外に出て家を建てたり簡単にできない。すると故郷に残ってなんとか苦しいがそこで生きる道を探すことになったかもしれない。もともと故郷に代々住んでいて愛着がある人が多いからである。農家だと先祖代々住んでいるからである。それでも多額の補償金をもらったとき故郷に住んでいるより他に移った方が良いとなり補償金を元にして仙台に移ったりして事業お起こして成功した人もいるのである。それは補償金の額学が大きかったからである。
でももし補償金がそんなに多いものでなかったらどうなったであろう

●補償金がかえって復興をさせないものにもなった

とにかく必ずしも原発事故の補償金がプラスに働いたともとは言えない。なぜなら補償金頼りになり自ら苦しくともなんとか故郷で生きようとすることがなくなった。
もちろん放射線被害などがあり住めなくなったということもある。でもいくら被害があってももし補償金がそんなに多いものでなかったら簡単に他に移り住むことは難しかった。
するとどうなるか?どうしても苦しくてもなんとかその場で生きる道を探していたかもしれない。それが多額の補償金でそんな苦労するしたくないとなり避難区域では移住した人が多いのである
でも何か今その補償金でも使い果たしてなくなった時なんとか金が欲しいから働かせてくれ何でもするから働かせてくれと来た人もいたのもやはり人間はそういうものなのだろう。人間はやはり金があれば働きたくない。金がなくなれば生きるためになんとかは働こうとするのである。だから人間は返って恵まれると堕落するのである。

それで双葉の人が鹿島区あたりでコンビニ強盗したと言うことをきいた。それは本当なのかと思ったが本当らしい。
双葉なら相当な補償金をもらったはずである。でおなぜ強盗までするようになったのか理解できなかった。でも補償金をギャンブルや女遊びなどに使ったことを聞いている。だからもしかしたらそうして金を使いすぎてなくなったのかもしれない。
だから補償金が必ずしも復興には繋がらなかったのである。
でも補償金は必要だったがそれが身の丈を越えて大きものになりすぎたのかもしれない。そして復興とはどれだけ補償金をもらうのか水増しさせるのかなになったのであるのである。

人間とはやはりいくら金をつぎ込んでも必ずしもいい方向に向かうとは限らない。かえって悪い方向に向かったということもある。その例が水俣病被害者にあった
そこでも補償金をもらうことが第1の闘争結果的にその地域は荒廃してしまったのである。
結局人間は楽を求める、苦労するにしても強いられてする。
でもその楽をすることが必ずしもいい方に働かないのである。
そこに人間の普遍的な問題があったのである。
ただこの辺では南相馬市でも30キロ内は原町区などはもらった。鹿島区だと30キロから外れたから少なかった、それでもやはり避難区域は多額だった。でもそれだけの被害があったのだからそれをとやかく言えない、結果的に補償金がみんなよく働いっとはならなかったろう。その額が問題だったのである。
それで金銭感覚が狂ってしまったことは言える

●少子高齢化社会も復興できない要因になった

もう一つの大きな要因は少子高齢化社会にあった。家に来た大工さんにしても70にもなるとしたらきつい仕事はできない、でも軽い仕事なら一日三時間くらいならできる。家事手伝いととか軽い仕事ならできる。
もしその人が若かったら運搬の車が欲しいとなっても利益を上げられるから投資することもありうる。
でも老人の場合は未来がないからできないのである。花の木を植えるにしても十年後に花が咲くとなると庭に飢えたくないのである。花がすでに咲いたにを見たいのである。それだけに待つ時間がないのである。
復興にしても津波の被害で喪失した松を植えても成長するのに50年とかかかるのである。
そこに復興のむずかしさがあったのである。
日本が停滞して衰退したのも失われた30年があったためである。何ら有効な手を打てないままに30年が過ぎてしまったのである。この30年は長かったのである。その時間の損失は簡単い取り戻せないのである。

コンビニ強盗で逮捕されたのは、南相馬市鹿島区の会社員・小松 悟容疑者(35)。

水俣病は政治によって、行政によって、企業によって、さまざまなかたちでの分断を生みだされてきた。現在も水俣でこそ、水俣病を語ることはときに難しく、口をつぐむ人もいる。水俣病によって起きた、地域の分断に対して、水俣では「もやい直し」という取り組みもおこなわれている。水俣病によってばらばらになってしまった地域のつながりを結びなおそうという取り組みだ

水俣の現状――生活支援と訴訟からみえる水俣の課題

「震災バブルの怪物たち」を読んで

補償金で原発避難区域はモラルが崩壊した

posted by 天華 at 17:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2023年03月11日

春の日大工とともに家を直す (仕事は利益だけを得るものではない、道徳なき経済と化して荒廃−原発事故から12年後)


春の日大工とともに家を直す

(仕事は利益だけを得るものではない、道徳なき経済と化して荒廃−原発事故から12年後)


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地元の大工が我が家を直す。
その往年の技を駆使して
その働くことに喜びあり
思案し図り組み立て成りぬ
里に芬々と梅匂う季
土地の大工の老いて示す技
天職に就きし男の良しかな
老いしもその技の衰えざれ
ただその体力の弱りゆくはとめがたし
我も共にてテコとなり働きぬ
温和なる春の日に共に働くも良し
百才の間に居てなお我の生きなむ

人間の仕事はなかなかわかりにくい。現代は社会があまりにも複雑化して他人の仕事が分からなくなった。ただ仕事でも自分がしなくても他人の仕事でも多少関わり見ているとじかに見ているとわかることがある。
大工さんの仕事は直に見ていて私自身も手伝った。そのことでともにい家を直しているという感覚になった。
家を作ることはやはり大工さんと関わる。ほかのものは例えばこの辺でも梨とかりんごを作っている。それは結構うまいものである。でもその果物でも作るということに関わることはできない。
それは米でも野菜でも作ることに関わることはできない。

だから意外と田舎に住んでいても農業のことがわからないのである。ただ農業している人のことを支援してわかった
それは苦労ばかりであったがいかに農業というのは大変なものかを直接聞いてわかった。
だから必ずしも直接仕事をしなくても聞いたりすればある程度はわかる。でも仕事は直接自分で関わり働かない限り理解できないものなのである。
人間は働くこと仕事することそれは金を得るためだけではない
働くこと仕事することによって人間自体が作られるのである
特に農業は自然と関わるから自然と体で通じ合うことなのである。それで私のようにただ外から見ているだけで直接土に触れるわけでもない鑑賞しているだけだから本当の自然というのは何かを会得できないのである
つまり消費しているだけの人間は何かを本当に理解することができない。自ら生産に関わらない限り何か本質的なことが理解できないのである。

一番いいのは自分で田畑を持ちそれをその実りを味わう時本当の豊かさを知るのである
ただ消費だけしていれば自然のことも深く知ることはできない。働くということはそれを売って金にするということではない
人間は働いてこそ人格も形成される。ただ金のために利益のために働くということではないのである。それが資本主義社会でわ常に利益追求が優先される。でももともと資本主義はウェーバーのようにキリスト教から起こった、修道院での労働から起こったというのもそうである。
その働く動機というのは宗教的な動機であり他者に尽くすということにあったのである。だから働くということは必ずしも利益を得る金のためではなかったのである。

何か今日東日本震災から12年過ぎてテレビで報道していた。
牛を飼う人が浪江でみんなやめたのに飼い続けている。それは売ることもできないがら無駄だということにもなる
でも人間には働く意味がないと生きていけない。牛も生き物であり人間の仲間であるから捨てられないとして一か月30万のエサ代はかかっても飼っている。応援する人もあってやってきたのである
そんなことしているのは何のためなのか?金を得るためでもないかえって金がかかっているのである。
ただそこで牛を飼う牛と共に生きる牛を捨てることができないそのために飼っている。
このようなことは原発事故で他でも起きている。

漁師は原発事故以後魚をとることができなくなった
でも漁師は特に船主は別に働かなくても豊かな生活ができていたのである。
補償金が事故前も事故後も充分にもらっていたからである。
でも港にいて魚もとらない漁師はもう漁師でもない
一体何のためにいるのかという気分になった疑問になった。
つまり何のために港に居るのか何のために生きているのか何のために存在しているのかそれがわからなくなったのである。
別に生活には困らないのである。でもそこで生きる意味が見いだせなくなったのである。だから人間は利益を求めて常に働いているように見えても働くということはそこに意味があり社会的価値がありそのためにも働いているのである
だから牛とともに働くということに意味があった。だからそれで金にもならないのに金がかかっても依然として牛を飼って世話しているのである
ただそれはもう自分ひとりではできない。みんなの援助がないとできないのである

それで生業を返せとか裁判になった。その生業とは何なのか?
それは生きる意味を価値を奪われたのでそういうようになったのせある。でもそういう生業とは何かはっきりしない、生きるためには金が必要であり補償金をもらことが大事だとなっていた。
それは別にどこでもこうした矛盾をかかえて生活している
それがこの辺では極端な現象として現実化したのである。

とにかく人間はその人なりの天職について働いている人は生き生きしている。
そこで問題なのは退職したりすると仕事もなく何もすることなく社会的にも無用となり生きる意味も価値も見え出さなくなることである。
たとえ金にならなくても何か社会であれ有意義なことをしたい。
価値あることをしたいとなる。それが意外と切実なものになるのである。利益と金を追求するのはやむを得ない。でも人間は本当はそれだけのために働いているのではないのである。

人間の価値は金だけでは測れない。その人が何ができるのか。何を与えることができるのか。それが問題なのである。
金を与えただけでわ価値あるとはなりえない。大工さんだったら家を作る。家を与える。農民だったら食料をつくり与える。何かがあって与えるものはあって価値ある人間となるのである。
何も与えない人間は価値がないとなる。たとえ別に金があって働かなくてもいいとしてもそれでいいとはならない。
その人には生きる価値も意味もなるからである。
人間が生きるとは意味と価値を追求しているからである
それがなくなったとき生きていても無意味だとなり死んだ方がいいともなる。高齢化社会で老人は死ねというとき社会的に価値が意味が認められない、それが数が膨大だから問題になっている
それが現代の時代の大問題なのである。道徳なき経済は犯罪である、まさに現代の資本主義グローバル経済は犯罪なのである。
そこで常に陰謀論になるのはそのためなのである、働かないでも極一部の人たちに金が集まるシステムにもなっているからである。

直土(ひたつち))に我の心のおのずから養われつつ静けくありけり(開墾ー吉植庄亭)

天地は君と親とのめくみにて身をやすらわんコを報へや(二宮尊徳)

農業から会得するものがあった、それが現代は無視されて科学工業社会になったとき原発事故にもなり故郷にも住めなくなったのである。自然とも分離して道徳も失われたとなる。









posted by 天華 at 10:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2023年03月07日

東日本大震災から12年 (避難区域は復興していない、避難した新潟県は親切だった)


東日本大震災から12年

(避難区域は復興していない、避難した新潟県は親切だった)

今日聞いた話では鹿島区で新潟に避難した人はしきりに新潟の人は優しかった、食べ物でもあんこう鍋とか出してくれたとか土地の物をたべさせてくれたとか言っていた、日本海で魚がとれるからそうなる
そもそも旅行しても土地の料理を食べることはむずかしい、食堂とかレストランでは決まりきったものしか出さないかである。
郷土料理となると特別高くなるのである。だからこれだけ旅してうまい料理だったなど記憶にないのである
ただ腹を満たせばいいとしかなかった。旅館にしても土地の料理を出すことはなかなかない、ただ今は食べることが楽しみだから料理に力を入れていることはある

だから「温泉丸秘大作戦」という推理ドラマでは温泉を立て直す仕事しているが必ず料理を改善する、その土地でとれた魚を利用して独特の料理を作ることに力を入れる
でも旅館でもホテルでも郷土料理を食べることはなかなかできないし私は食べたことなどないのである
貧乏旅行者だったんからでもあるがそうでなくても郷土料理など食べることはなかなかできないだろう
前にも書いたが料理で思い出すのは只見線で小出の食堂で鮎の塩焼きを食べたことである。前の魚野川で大きな鮎が泳いでいたし釣りもししていたのである
食べたものでそのくらいしか記憶に残っていないのである

だからあんこう鍋は食べられたとことは贅沢である。
他にも土地の魚の料理を食べた、そしてしきりに新潟県は良かったと言っていた、そのことは前も新潟に避難した人が言っていた、それで世話になったのでその人たちを招待するとか言っていた。
なぜ親切だったのか?
前に新潟県で大きな地震がありその時応援したからだとも言っていた、ただ県民性とかその土地によって人も違っているのである
新潟県には情の篤い人が多いかもしれない、今の時代は何か情というのも薄れている、金しか見ない社会である

なんでも道案内するにもわざわざその場所まで連れて行ってくれたとかも言っていた
道案内でも今はしない、適当に方向を指さすくらいである、だからみんなスマホを見ているのである
何か情は薄れている、ただ人も土地によって違っている
だから新潟県がまだ情が篤いのかともなる
やはりその土地柄があり新潟県は全国的にみてもめずらしいとなるのかもしれない、そういう場所に避難したは良かったとなる
でも一方で障害者が避難した山形県では断られたという
それは山形県全部が薄情というのではなく一部だとなる
たまたまそういう場所に行ったともなる

今の時代は総じて薄情になっている、情は薄れている
原発事故の時、避難した人は様ざまな経験をした、親戚に逃れてそこになじめなかったとかもある。
私は避難しなかった、30キロ離れていて避難は強制的ではなかった、でも30キロ内は補償金が三倍になっていた
ただ鹿島区は一人70万もらったが原町区は三倍もらっている、さらに相馬市は一人六万しかもらっていない
それでもめたし今回も裁判に勝利して補償金が追加でもらえる、今回は30キロ内は優遇されるのである

その人は原発で働いていた、試験もされて受からないと仕事ができないと、入念に放射線量の検査をするとかその厳しさを語っていた、でもそれは地元の人達だったからかもしれない、どこからかわからない人たちも働いていた、その人たちはそんな厳しい検査をしていただろうか?
いろいろな人が来ていたが事業に失敗したような人達が結構来ていた、何か借金とかで追い詰められた人達も来ていただろう
なぜなら暴力団の人達が目立ったからである、体が入れ墨だらけの若い人が郵便局に来たときは驚いた
他にも暴力団の人がおいしい仕事だと言っていた
その暴力団がどこからかわからない人たちを身元もはっきりしないまた何かいかがわしい人達も連れて来ていた
その人達は放射線のことを気にしていられない、金になるとなれば来たとなる、だからそんなに厳しく放射線量を計っていたか疑問である
そういうことをしていると仕事がはかどらないからである。

ともかく原発で働いていた人は多いと思った、飯館村の人も働いていたという、でも長くは働かない、被爆するから長くは働かない、短期間のアルバイト仕事である
でも賃金は普通の三倍くらいになるからみんな原発の仕事を経験していたのである
いづれにしろ放射線で被爆して重症化したとか死んだ人がいるとか言われた。それも表には出なかった
厳重に管理して出さなかった、何か福島医大でそういう人の死体がホルマリン漬けにして保存されて研究の対象にもされているということも聞いた
それはやはり原発で働いた人がそう言っていたのである

原発事故から12年になる、もう今の十二歳はただ親から津浪の話を聞くだけになっている。
時間が過ぎるのは早い、でも12年過ぎても避難区域になった所は回復していない、双葉では学校も再開されていない、残った人達でも老人が多い、若い人とか子供はまれでありもともと少子高齢化で若い人と子供は少なくなっていた。
ここでは特に極端なものとして日本の未来が現実化した地域なのかとも見た。
ある人は小高に5000万かけて二所帯の立派な家を建てた
でもその子供たちは仙台市の方に移り住みその人は離婚した、今は原町区に家を買って住んでいる

原町は便利であり一人暮らしでも楽である、だから小高の人でも原町に移り住んだ人が多く小高でも避難区域は回復していないのである
なんか淋しいとなる、その原因はすべて津波や原発事故になるとは限らない、何かその人なりの問題もありそうなった。だからすべて津波や原発のせいだとはならないのである
少子高齢化も影響してただ空家の街のようになった
ただ空家はどこでも増えている、自分の家の回りは最近数軒家が壊され空地化した、街の通でも家が壊されて空地化している
ただ原町とか鹿島とかだと移り住む人がまだいる、その人たちは新しい家を建てているのが違っている
そういう人達はもう故郷には帰らなのである
だから復興はしていないし将来も復興はむずかしいともみる、そもそも日本自体が少子高齢化で人口は減り縮小してゆくからである。それがこの辺では極端なものとして現象化したようにも見える

とにかく震災から十二年は変遷した、風景も変わった
海側はもう前の面影がない、村自体が消失した、この辺だと八沢浦の湊村とか海老村とか烏崎村とから消失したとなる、それはもう回復しないとなる
確かに漁業をしているが何か真野川の放射線を依然として計測している、その仕事を県から請け負っているとかなる
原発事故の後始末処理の仕事はつづいているのである、廃炉事業でもそうである、これは長くつづくなのである
だからそこに仕事があり残っている人達もいるとなる
でもこの被害は余りにも大きく回復できない、復興できない、放射性物質は依然として残っている、これはなかなか消えないプルトニウムだと二万年消えないとういから空恐ろしいとなる。
これほどやっかいなものであり原発事故の後遺症は末代までつづく空恐ろしいものだったのである。 









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2023年02月04日

福島6町村の復興再生計画、事業完了率10%台  (原発避難区域は復興できない)

福島6町村の復興再生計画、事業完了率10%台 
(原発避難区域は復興できない)

親の因果子に報いとなるのか、必ずカルマが人間は作るのである
外部から見ると税金の無駄だというその不満があまりにも大きい
それはやはり復興を見ていると一向に進まない、それは地元の人でも同じである
もう無理であると正直に思う第一人が帰らない帰っているのは老人だけである、ということはもう未来がないということである
立派な施設を建物を作ってもそこで働く人がいないとか学校でも地元に住んでいる、親がいないので外から通ってくるとかその数もわずかである

そもそもは少子高齢化でありそれが影響したのである
子供がいないということはもう自治体でも維持できないということである
それはやはり今の親の責任であり実際は今の老人の責任とも言えないなぜなら原発を作ったのは60代であれ70代であれその上の親が作ったのであるだから親のカルマが次世代に負わされたである
そしてまた今の親たちがその子供へカルマを負わせて負わせたのであるお

このようにカルマは受け継がれる回ってくるカルマは責任のことなのであるそれは逃れることができない
親の因果は子に報いなのである
とにかく現状を見てもとても復興できるとは思えない第一みんな外で新しい暮らしをはじめて始めており子供でもその新しい場所で生活しているからそこが故郷になっているただ老人はどうしても帰りたいその心情は痛いほどわかる
私自身も老人だからである老人は故郷で暮らした歳月が長いだから老人は例えば老木のようになりその土地に朽ちる人間も植物や生物の一種だから自然とそうなるただそれを奪ったのはが原発だったのである
その責任は実際は今の老人というだけではなくその上の親でもあったその親がカルマを作り出したのである
ただ老人が故郷に住めなくなったという原因は住めなくなったのは今の親世代にある
深刻なのは町とか村の歴史が消失するということである

ということはその住民は必ずしも今生きている人が作ったものではない父祖の先祖があり作られてきたのである
その先祖にしても江戸時代からでありさらにその前に遡るのであるそういう歴史が消失するということが何を意味しているのかよくそのことがよく理解されていないつまり先祖もそこに住めなくなるということである先祖も死んでもやはりその場に生き続けるのであるその継続が歴史なのである歴史が失われるということは何を意味しているのかそれをあまり考えない
だから因果応報となったのであるともかく莫大な金をつぎ込んでも復興できない現実問題としては原発避難区域になったところはもう維持できない南相馬市だったら移り住んでいるそれも原町鹿島相馬市新地どこかに新しく家を建てて住んでいる私の住む近くにも住宅地がありそこに四五件の新しいうちがまた立った家が建ったそれは原発避難区域から移住した人なのであるつまり原発避難区域にはもう復興する気がないのである住む気がないのである

だからこそもう住民には住む意志はない未来とはwillであり意志なのである、その意志が消失したらもう復興できない
だから外から見ても湯水のように税金を注ぎ込んでも復興できないそれはそこに住んでる人自体の問題でもあるその人たちに住む意志がないのである
そこに根本的な問題があるそれは心の問題でもありどうにもならないということであるいくら復興させてもらいたいしてもらいたいと思っても内部でも難しいとなる
どうしたらいいのかそれで飯館村などはもう村として維持できない村として
だから南相馬市と合併するべきだとなるいずれ補助金は打ち切られるからである

ただ問題は放射性廃棄物場になることは周りに影響する
何かあるとその放射性物質物質が流れ出してくる現実に飯館村でそういうことがあったからだ新田川でも山側でも放射性物質が流れ出してくるからである
そして河野放射性物質は減っていないなぜなら狭い範囲にありそこに残っているのであるもし海の方に流れだせばそういうことはなかった
放射性物質は風で海の方に流れたので海側放射線量が少なかったのである、山側は堆積したのである
いずれにしろとても復興することは難しい住民にもその意志が無くなっているでも老人は帰りたいという心情は痛いほど理解している故郷の土になりたい故郷で死にたいそれは生物として当然なのであるただそれそれすら原発は奪ったということである
その罪深さははかり知れないいくらよその土地でいい暮らしをしたとしてもその失ったものはあまりにも大きすぎたのである

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2022年12月25日

原発再稼働の問題 (まず東京に原発を作るべきーそこが議論もされない)


原発再稼働の問題

(まず東京に原発を作るべきーそこが議論もされない)

電気料金があがるとかで原発は必要だと主張する、政府主導でまた原発を稼働させる
技術的にも改良したとから安全だという、そういわれても原発の被害にあった所では
ああそうですかとはならない、これだけの被害があったらもうこりごりだとなる
原発の問題を追及して来たけどそれは技術的な問題だけではなかったのである
もう政府が技術者とか御用学者とか官僚とか検察とか自衛隊とかが一体となって作られたものなのである
そしてその人たちが「安全神話」を作ったのである

実際はいろいろな不備があっても権力でごまかすことができた、その問題をないがしろにして官僚でも責任をとっていないのである、天下りした官僚は東電からもらった金を返却するべきだし財産没収しろというのもわかる
それだけの責任があったからである、でも実際はそうした責任をとっていないのである
マスコミも一体となり「安全神話」は作られたがマスコミも責任があっても何も責任はとらない、そこで利益を得るというだけだったのである

本当に一番欠けている視点は原発を東京に作れ!

そんなに安全なら電気でもたりないならその電気を一番使っているのは東京なのだから
東京に作るのが筋なのである、そして意外と東京は地形的に津波にも安全なのである
入江が奥まで入り込んでいるから海岸にじかに接して建ててある福島とかより安全なのである

でも絶対に東京には作れない!

東京では一千万人以上の人間が住んでいて政治家でもあらゆる権力が集中している
一千万人の都民が賛成などしないのである

だから東京には絶対に作れない!

だから福島に作ったのである

このことが問題だったのである

東京に作るなら賛成する、でもそれは絶対にできない、、それがおかしいのである
原発は必要だということはわかる、ならば東京に作れ、それなら賛成するとなる
それができないから原発は危険でも東京なら害にならないとして地方に作る
地方は財政的に苦しいから援助するから作ってやるとなる
でも事故になったら東京は安全であり地元は故郷に住めなくなったとなる
このことが最も矛盾しているし議論もしない、東京に作れということは議論にすらならない、それはタブーなのである
だから事故前に東京に原発を作れと言っていた評論家は正しかったとなる
でもそれは注目もされなかったのである、東京に作れるとういことこそ安全を証明するものだからである、東京都民一千万人を危険にさらすからである
でも絶対に東京には作れないのである、このことが原発の議論で欠けていたのである
東京の自分達の安全を計るが地方は犠牲になれとかでは納得できないのである

そして安全管理でも津浪が来たから事故になったのではない、技術的問題でもない
コストの問題でもあった、その時の社長はコストカッターとして社長に成りあがった人だとしている
本当は高い場所に建てる予定だった、でもわざわざ高く土盛りしたのを削って低くして
地下に電源を置いたのである、それで津波の被害にあった
地下に電源を置いたのはアメリカでは竜巻があり地下に置いていたからまねたのである
またアメリカ主導で作られたこともある、まだその時日本では原発のことを技術的に理解していないかったからだ、それで古いマーク1の原子炉をお古をアメリカから売りつけられたのである

それで湯川秀樹博士は日本ではまだ原発を作れる技術がないからまだ時期早々だと言っていた、でも無理やりに作ったのである、原発の問題は技術的な問題だけではない、モラルの欠如もあった、奢りもあった、10数メートルの津浪が来ると東電が頼んだ学者たちが警告していたのである、それも無視したのである
そこには様々な問題が指摘されていても無視したのである
それで東北電力の場合は副社長が10メートルの高さから津浪が来るとして5メートルを高く所に作った、それで破壊を津ねがれた、三陸では度々津波が来ているので危機感があったからである、女川原発ではそうしてぎりぎりで助かったのである

原発は地元であれ第一その内部も知ることができないし立ち入り禁止である
アンタッチャブルな場所になっていた、そこに危険があった、素人が立ち入りもできない場所になっていた、でも安全管理はずさんだった、配管などが老朽化して危険だとも内部の技術者が指摘していた、でもそれを上の人に言うこともできなかった
なぜなら東電の人には下請けの人は何も言えない、仕事をもらえなくなるからである
でも原発のことがすべてわからないということでもなかった
なぜなら

巻町では1995年2月5日には、計画の是非を問う自主管理住民投票[6]が行われた。これは条例に基づく町役場による実施でなく、町民有志が設立した「巻原発・住民投票を実行する会」が取りまとめたもので、原発賛成474票に対して反対9854票であった[1]。
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このような限界集落があるような所で良く反対できたと思う
素人でも危険と感じてそうできたのである、だから別に素人だからわからないから何もできないということではなかったのである

要するにアンタッチャブルになり立ち入り禁止になり住民はそこに何ら関係すらできなかったのである、でも一番被害があるのが住民なのだから住民に例えわからないにしろ説明すべきだった
でも事故を全く想定していない「安全神話」を作り事故は起きないとして受け付けなかったのである、その権力が政府から官僚から議員から検察からマスコミが一体として「安全神話」は作られたのである、そしてそれが津波で砕かれたのである
地元の人達はただ金をもらえばいいとしかなかったのも問題だった
生業を返せとか裁判して勝利したとしてももともと生業が何なのか、金にならないとしてやめたいとなっていたのである、でもやはり責任は政府と東電とか官僚にあった
「安全神話」が作られて事故が起らないとなれば事故に備えることもないとなる
実際は安全だと題目でも念仏でも安全、安全と唱えていれば安全だともなっていたのである、科学者集団でもそうなっていたのである、それは責任逃れだともなる
科学の時代にそんなことが通用するのかとなる

とにかく原発再稼働昨今の事情で容認されつつある、これも危険である

まず東京に原発を作れ!それなら容認する

でもこれは議論にもならないのである、原発を何基か東京に作れ、そうならば認めるとなる、しかしそれは絶対にできないのである
そこが原発が認められないことにもなる、安全ならできるからである

そして一度失った信用は簡単に取り戻せない!

人間個人でもそうであり会社でも国でもそうである、事故の被害にあった所ではもう信用できないのである、政府も官僚も検察でもマスコミでも信用できないのである
このことが重大なことなのである、安全だとか技術改良が進んでいるとかなんとか政府が言っても信用できないである、そもそも政府の決めることかみんな信用できるのかとなるとならない、それを原発では嫌というほど知ったからである

つまりに人間のやることに絶対はありえない、事故は絶対にないとは言えない

でも絶対に事故はないとか安全神話を作ったことが大きな罪だったのである

絶対と言えるのは神しかいないからである、人間には必ず不完全であり不備がある、それを認識するべきだったのである
それを隠してただ安全だけを言っていたのである
絶対安全だからとして安全神話を作り事故にも備えなかった、そして浪江町では一番危険な場所に津島の方に避難して被害を大きくしたのである、でも東電の社員が海側が安全だとして山の方に向かって逃げていたが引き返したのである
東電の社員は放射線がどういうものか知っていたらできた、てもそうして事故が起きたのことの備えをしなかったし知らせることもなかったのである
それは「安全神話」作っていたからである、事故は絶対に起きないものとしていたからである
それが最大の問題だったのである

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2022年12月15日

政経東北はなぜ渡部恒三を持ち上げるのか? (メデアに中立はない、マスコミも原発事故では共犯者だった)


政経東北はなぜ渡部恒三を持ち上げるのか?

(メデアに中立はない、マスコミも原発事故では共犯者だった)

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なせか今の南相馬市の門馬市長は批判されている
でも桜井前市長は批判されないのである
この理由が良くわからないのである



●政経東北が渡部恒三を今も持ち上げるのは何故なのか?

ただこの福島第一原発は3〜40年が稼働限界だとされていました。
その前提に従い前福島県知事佐藤栄佐久は原発を廃炉にすべく手続きを行い徐々に機械を停止させようとしていた。
原子炉の寿命を延ばし能力を上げるプルサーマル計画も許可しない方針で、一時期には完全に停止させています。

この現福島県知事、民主党佐藤雄平という人物はナニモノなのか?
でちょっと調べてみたんですが、渡部恒三の甥なんですね。
つまり叔父さんが誘致した原子炉を自分の代で廃炉にしたくなかった、というかなり個人的な理由でプルサーマル計画を受け入れた可能性がある。
まあまんざら渡部恒三に原因が無いわけでもない

しかし、中曽根康弘、正力松太郎に源流をもつこの国の原発推進策に、なんら疑問をさしはさむことなく、福島はもちろん全国に「原発安全神話」を吹聴してきた一人こそ、渡部氏その人ではなかっただろうか。

「私の選挙区福島県は日本の原発の30%を占めているが、そこで育った私はこの通り元気いっぱい、健康そのもの。原発をつくればつくるほど国民の健康は増進し国民は長生きし厚生行政は成功してゆくのではないかと思う」。

ばかばかしくて、このブログにのせるのも憚られるが、渡部氏の支離滅裂な思考法や、おべっか使いの人間性を物語る挿話としては、なにがしかの意味があるかもしれない。

衆院や参院の議長といった名誉職に就くことだけが残された政治家人生の目標であるに違いないこの人物を、黄門様だのご意見番だのと持ち上げて、何かにつけてコメントを求めるマスメディアは、いまいちど、彼の言行録を総点検してみてはどうか。
https://ameblo.jp/aratakyo/entry-10881034842.html

渡部の甥の 佐藤雄平 は福島県知事で、
黄門さまと共同でアメリカ企業のご機嫌を伺って原発推進してました。
国会議員一人の力でここまでたくさん原発作った例は過去に一度も無い。
同じ原発王国の福井や新潟と比べてもその差は歴然。

しかも発注したのが米GE社製不良品だったからこのザマ。
そのうち渡部恒三が昔この原発宣伝してた映像が出回るようになって議員辞職確定だろうhttps://armchairanthroposophyst.hatenablog.com/entry/20110321/1300675636


福島原発事故は人災だ。渡辺恒三は誘致した責任をとり即時議員を辞職して放射の悪被疑者に詫びよ。日本の悪党たち(官僚。大手メデイア11社。既得権益勢力。など」と裏で連携し小澤さんをいわれのない(疑惑」で追い落とす民主党内の悪党の先導役をしていた渡部恒三のような裏切り者が福島県民を不幸のドン底へ追い込んだのだ。

渡辺恒三は福島県で一番力を持っていたんだろう
そいつが口だけではない、実際に第一原発の土地を持っていた!
これは責任を逃れようないよな
佐藤えいさく-前の知事は原発反対だった
それで甥を知事にした
そんなこと福島県のメデアでも誰も追求していない
福島県も原発利権にどっぷりととりこまれていた
それで外部から福島県が自業自得だというのは福島県民として辛い
福島県民も監視役もないしみんな原発の危険性を言う人はいなかった
南相馬市は原発から遠いと思っていたから自分も大丈夫だと思っていた
原子力には無知だったし無知にされていたのだ
それが今回の苦しみを生んだのだ

「原発で長生き出来る」などとほざいていたくらいだから。

事故以後にまったく顔を出さないのが甚だ怪しい。
自分の出身地であり選挙区でもある福島県が危機に瀕しているのにもかかわらず発言も聞かない。
普段なら出るなと言っても出しゃばる男なのに。
本人は原発利権と裏切りの人生、息子はCIA工作員、甥がMOX(モックス)知事・・この一族、終わってるな。
http://www.asyura2.com/11/senkyo111/msg/439.html

●なぜ政経東北では渡部恒三をもちあげるのか?

●南相馬市の前市長の桜井氏をもちあげるのか?

●相双リテックを裏表紙で堂々と宣伝していたのか?

政経東北の12月号で渡部恒三記念館ができたとか政経東北は原発事故前からその後でも持ちあげている、これは異常ではないか?
なぜそれほど持ち上げるのか、原発事故前ならまだわかる、そもそも原発については隠ぺいされてわからなかったからだ、その隠ぺいされたことは権力によってそうさせられていた
原発は国が主導して県に命令して南相馬市とか相馬市とか地元とか双葉町でも大熊町でも自治体に何ら反対することもできない仕組みになっていた
強力な国の権力と東電が一体になり作られていたのである
そしてその利権は余りにも大きいものだったのである、庶民には想像を絶するものだった原発事故以後も補償金だとか除染とかで十兆円とかの規模にもなる巨大なものだったのである、国家的事業であり太平洋戦争とも似ていたのである
だから地方自治体にどういうものか説明もされない、何か原発自体立ち入り禁止であり
アンタチャブルな領域になっていた、ブラックボックスになっていた

そこに政府官僚が検察でも警察関係者でも海上自衛隊でも天下りしていたのである
その強大な権力に反抗することもなにもできない、そもそもその内部のことなど立ち入り禁止であり知る術もなかったのである
そもそも国ー県ー自治体があるとしても自治体は関与できなものでもあった
そこに御用科学者もいてもう何もできない、調べることもできない、鉄壁の権力で作られていた
そこにマスコミでも福島県のマスコミは何ら危険を知らせるとかなかったのである
それより原発推進でありそのために電事連から800億円がありそれが宣伝費として回っていたのである、これも巨大な想像できない金である
そして原発事故があったときマスコミ関係者の幹部が中国に招待されていたのである
そこに朝日新聞社も招待されていたのである
つまりこれだけの権力を持っている組織が原発の「安全神話」を作っていたのである
これは鉄壁の布陣であった、それを砕いたのはマスコミでも何でもない、津波だったのである、とてもこれだけの権力になったら人間では破壊できないものになっていたからである

●読売新聞社の正力松太郎が最初の原発推進者だった

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読売新聞の日本テレビ系が創価の宣伝をかなりしている、宣伝費が相当に入っている


そもそも原発は読売新聞社の正力松太郎がかかわり作られたのである

 正力は野望実現のために、当時の吉田茂首相やアメリカとの交渉に奔走した。しかし、正力はほどなく一つの結論にたどりつく。それは、野望を実現するためには自らが最高権力者、すなわち日本の首相になるしかない、というものだった。そして、正力は同じく当時将来が嘱望されていた原子力発電は、そのための強力なカードになると考えた。しかし正力の関心はあくまでマイクロ波通信網であり、原発そのものは正力にとってはどうでもいい存在だった。
 当初はアメリカも、弱小紙だった読売新聞を大新聞に育て上げた

何かマスコミとかその背後関係はわかりにくい、正力松太郎はCIAのスパイだったという
戦後日本を支配するためにそうなった、戦後はいづれにしろアメリカに負けたのだから
アメリカに従属する他なかったのである、だからアメリカの力を借りて読売新聞社と日本テレビを作り育てたのである
こういう裏があってもマスコミは原発事故後はそれを明らかにしていない
読売新聞社でもその創始者を批判したりしない、そしていかにも事故後は原発事故の避難者とかを助ける方に回って援助していると積極的に加担したとなる
それが矛盾していたのである、自分達の会社の非を知らせずに原発避難者に協力している地元の人達はそれを知らないのか批判もしなかったのである

マスコミもこうして利権にあづかっていたから原発の危険を知らせることもなかった
例えば潮とかの雑誌を出している創価の聖教新聞でもそれがマスコミで二番目くらいに多かったのである、環境保護となにか原発を表に出さないでうまく原発推進の広告を出していたのである
創価とはともかく権力を得ることしか頭にない、だから利権となればどんものもでも食いついてゆく貪欲なのである、それが危険でもなんでもかまわないのである
創価の雑誌でもまず広告費をとることだと発破をかけている
新聞とかテレビで一番大事なことは真実を知らせることではない、広告費をとることなのである、その最大の広告費をだしてくれのが電事連とかになる
その額があまりにも大きいからである、つまりマスコミはそもそも報道するだけで金がかかりすぎるからそうなる、社員の月給でも払わなければならない、新聞だったらいちいち一軒一軒配達しなければならない、新聞をするだけで金がかかりすぎるのである
それで福島民報では創価の聖教新聞を刷っているのである
ここからして今統一教会が責めているが創価を福島民報では責められないのである

つまり福島県のマスコミ自体が完全に政府であれ官僚であれとりこまれていた
だから原発の批判できなくなっていたのである
福島民報は県で50パーセントも出資もしている、県や政府の広報機関になっていたのである、今ではインタ−ネットで盛んにこうした既得権益を持つものを批判するようになった、ただ11年前の原発事故だとまだyoutubeとかは盛んでなかったようである
何か権力を持っている批判しにくいのである、最近なぜあからさまに統一教会問題でカルト教団が批判されてそのために創価でも批判される
それはやはり会員数も減り票も減り弱体化しているからたたくようになったのである
これからますます弱体化すればその悪は暴露されてゆく、渡部恒三でも現代の水戸黄門様とかメデアでもてはやされていたことでもわかる
でもその黄門様が悪徳代官でもあったとなる、そうなったのは津波の力でもあった
もう人間の力ではその悪を暴露などできなくなっていたのである



●いかなる報道機関にもメデアには中立はない

マスコミが矛盾しているのは政経東北でも盛んに原発の責任とか情報発信して批判している、でも政経東北自体が悪の権化ともなく渡部恒三を未だに持ちあげているのか?
ここに何か裏がありもともと資金も入ってきたためのなのか?
そのことは相双リテックの宣伝をしていたことでもわかる、その会社は除染の費用何十億を幹部が山分けしていたからである、つまり政経東北もまたその利権にあづがっていたのである
それで原発関係のことで記事にしているけど矛盾がある、自らが襟を正さなければ真実の報道もできないとなる
ただメデアには中立という意味があるけど中立でありえないのである
どんなメデアでも人でも中立であることはむずかしいのである、その中立でありえないのは必ず利権がかかわるからである、人間はやはり金に左右される、金をくれるならおめこぼしするとなる、また積極的に宣伝もするとなる、それは費用がかかりすぎるからであるもしインタ−ネットで報道するならプログなどでするならまたyoutubeでもするなら金はかからないのである、手間はかかるとしても金はかからない、すると中立でも真実の報道はできるのである、私自身がそれをしている、誰からも金などもらっていないからである別にもらわなくてもできるからしているのである
それは影響力もたいしてないから注目もされていないからだともなる
でも原発事故では現場にいた一人だからやはり報道するには有利だったのである
内情がある程度わかっているし自分自身とも深くかかわるものとなったからである

原発事故では報道もマスコミも批判された、確かなことは報道は報道するものによって必ず偏る、自分たちの有利なように報道する、それはいかにも中立を装うNHKでもそうである、NHKは相当に偏っているのである、原発事故でも津浪の被害者より原発事故の被害者の方を優先して報道した、その数も多いからかそうなった
そして地元の人でない人は津波の被害者と原発の被害者が同じ地域にいた
仮設住宅にも団地のような所にもいた、そしていわき市の方で暗に津波被害者が原発避難者に冷たいと言わせていた、それは津波被害者は原発避難者のように補償金をもらっていなかったからである、そこに不満があり仮設でも一緒にいても話すこともなかったとなっていたのである
でもなぜ原発避難者側に味方する報道をNHKはしたのか?
それは幹部達が協議して今話題なのは国民の関心が原発避難者にあるは見たかららしい
とにかくNHKは金には困らない、余っているとしても中立ではないのである
そもそも中立な報道機関はないのである、何かしら偏っているのである
個々人でも争っているとき双方の意見を聞かないと判断を誤る
何事賛成反対がある、だから一方だけを話させるとき不公平になり判断を誤るのである
だからかえって赤旗であれ聖教新聞であれ偏っていてもそういうものだとして見ている
でもNHKとかは他でも中立を装うから偽善にもなる、実際は中立ではないのである

今年も終わりになるが原発事故関係ではあまり書かなくなった
日本全国でも関心が薄れている、でもこの原発事故や津波の被害は世紀末的な大きな事件だった、だからこれは歴史的にも大きな事件であり後々まで追求される
そして真実が明らかにされる、その時権力を担ったものが責任があり追求される
権力を持つことは大きな責任をともなっている、現代ではその責任は金になる
金を多く持っている人は責任がある、一万には一万の責任があり十万には十万、百万には百万、千万には千万、一億には一億とか十億には十億とか責任が課せられているのであるそして悪事は隠ぺいできない、いつか暴露される、それには時間がかかる
一世紀とかかかるとか歴史だともう千年前のことでも悪事がようやく暴露ささて語られるとかなる、でもいづれにしろ悪事でも隠ぺいされたままにはならない、いつか何らかの切っ掛けで暴露される
その悪事も暴露するのがマスコミなのだけどそれが何の役目も果たさなかったのである
むしろ悪事を推進する方にもっないたのである、だからマスコミは信じられない、その権威は失墜した、インタ−ネットでも問題はあるが報道もマスコミだけではない何も権力もない人でも報道して批判している、突出していたマスコミの報道も水平化されたのであるだから独占権力だったマスコミは驚異となった、もう新聞を見ない、テレビも見ないとなるとその役割は終わったとまでなるからである
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2022年12月02日

大アマゾン 最後の秘境―NHKスペシャル (森林破壊と原住民の抵抗ー原発事故との比較)


大アマゾン 最後の秘境―NHKスペシャル

(森林破壊と原住民の抵抗ー原発事故との比較)

●原住民が守るアマゾンの森

しかし、農民は作物や家畜を育てるために森林を焼き払っていて、ボルソナロ大統領も先住民の意向を優先していない。

2019年に入って火災が急増している背景には、ブラジルのボルソナロ大統領の方針もある。大統領は、先住民よりも農民を支援しており、先住民の土地をこれ以上、保護が強化される先住民族保護区に新たに指定しない意向を示している。大統領は先住民を動物園に閉じ込められた動物にたとえる発言さえしている。


ブラジルは(中略)かつては穀物の輸入国でした。しかし、1980年代、日本も協力した農業開発により、ブラジルは大きく発展しました。熱帯地域で初めて、近代的穀物農業を実現させたのです。

弓矢とスマホ,アマゾンの先住民のテンペ族の知られざる生活

アマゾンの森が破壊されている、火事になるのは放火らしい、火事にして森を焼き払いそれを耕地にする、広大な土地に大豆とかを作る、それに日本の企業も応援している
輸入するために応援している
それで森を守るために抵抗している原住民がいる
でもその原住民がYIFIで衛星通信ができていて世界中に発信している
これも不思議である、原始時代から21世紀の文明と結びついているとなる
良くパソコンを操作できると思う、それだけの知能があるのが不思議だとなる

また黄金がとりに無法者が集まっている、そして原住民が反対するので銃撃している
これはまるで映画を見ているようである
まずアマゾンの広大さは知り得ようがない、そこに何があるのかもわからない
でもなぜこういう問題が起きたのか?

それは依然として森に原住民が原始時代のままに生活していたからである

これがポイントなのである、森を守るというときそこに動物とか植物しかなかったら
そういう抵抗は起きないのである、誰も反対する者がいないからである
そうなると根こそぎ森が破壊される、木材もあるから取り放題にもなる
そして貧乏な人達はどうしても生活しなければならないから森を残すより金になることを第一とする
環境保護といっても金にならないとそれだけではできないのである
だからこそ農地にもするし黄金でもとりにゆくのである
自然保護というときただそこで観光するというだけでは成り立たない、自然保護というとき自然の中で生活している人達がいて成り立つのである

●原発事故では農業、林業、漁業でも衰退して守る人がいなかった

これを原発事故と比べると興味深いとなる、なぜ原発が福島に作られたとか、原発で住めなくなったのか考察してきた、それもいろいろあり複雑である
ただ原発に反対する人達が福島県の地元にはほとんどいなかったのである
その理由はそもそも農民とかもちろん狩猟採集して生活している原住民となるのか縄文人となるのかそんなものはいない、でも農民はいたし漁師もいたのである
その割合は一割くらいであり少ないのである、何か田舎だと田畑で囲まれているから農業で暮らしているように見えるけど違っている
みんな会社員であり工場とか会社で働いているのである

戦前とか戦後十年くらいは農民が8割とか6割の時代があった

すると農業だと自然と密着している生活だから原発で汚染されるとなれば危険となり反対していたかもしれない、なぜなら放射性物質に空気でも水でも土でも水でも森の木でも汚染されたら生活できなくなるからである、その頃森林でも木材は国産であり外材でなかったからである

ではなぜ原発に地元の人が反対しなかったのか?

アマゾンの原住民のように生活していない、農民は確かに自然と密着して暮らしていたとはなる、漁師でもそうである、でも農業でも漁師でも金にならないからやりたくないとなっていた、後継ぎもいないとか言われた、それで農業をやるなと親に殴られた子もいた
その人は原発で働くようになったのである
そして知らなかったが烏崎とかでは漁港があるが火力発電所が建ち次に原発が作られた
漁業組合では補償金が入り原発御殿が建てられたとなっていた
そこで回りの人達がうらやましがっていたのである

烏崎だと火力発電所が建った時にも補償金をもらいそれは40年前頃でありヨ−ロッパに旅行していた人がいたのである、その頃飛行機代が高くて50万していたとかできない時代でもしていたのである、そして次に原発が建ちそこでも事故前でも事故後でも億の補償金をもらっていたとかなる
だから魚をとらなくても十分に豊かな暮らしができていたのである、事故後でも十分な補償金がもらえているから事故後にすぐに立派な家を建てたのである

もし漁業だけではそんな豊かな生活などできない、だからアマゾンの原住民とは比べようがない、ここの住民はすでに電気でもガスでも電気でも車をもって都会と同じ文明の恩恵にあづかった生活をしていたのである
でもアマゾンの原住民は原始時代と変わらない生活をしていたのである
だからこそ森が破壊されると生活できなくなるからこそ激しい抵抗になったのである
ここではそういう抵抗がなく金になるとういことでかえって積極的に原発を誘致したのである

●農業社会から工業社会の変化で自然と密着した生活が少数者になっていた

双葉とか大熊とは浜通りでは僻地とかなり出稼ぎ者が多いので地元で暮したいとなり原発を誘致したのである
ただもし戦前とか戦後まもなくとか農民中心の社会だったら原発で汚染されたら生活ができないと反対したかもしれない、いくら補償金をもらうとしてもやはり生活そのものができなくなるとかなると反対する、だから東電に生業を返せと検察に訴えて裁判して勝訴したとなる
でもその生業自体がこの辺では全国でもその比率は一割とかしかなくちなっていたのである

それで浪江の電気工事関係の人は回りの田んぼが草ぼうぼうになっていても関心がない
かえって補償金もらって良かったとか言っていたのである
別に食料なら外国からも入っているのだから困らないかである
そういう社会の変化の中で原発に反対する人もいない、積極的に地元でも誘致したとなる人間は利益になるとなれば血眼になる、殺人すらする、黄金を求めて無法者が集まるのもそうである、麻薬でもそうである、黄金となれば原住民を殺してまで得ようとするのであるだからこの辺で原発に反対したりしら地元の人に殺されかねない危険なものになっていたかもしれない、なぜなら反対する人がいなかったからである

その理由はやはり社会の変化にあったともなる、農業社会ましてや漁業でも規模が小さい特に浜通りは宮城県の十分の一くらいしか魚でもとれていなかったからである
すると補償金をもらった方がいいとなっていたのである
人間は自然保護とかいってもそこで生活するとなると自然保護は金にならないのだから
積極的にはならない、でも原発は金のなる木だったのである、黄金を産む玉手箱ともなっていたのである、だから他の原発がある所でも同じようにその利権が大きいから金が入り裕福になっていたのである

ともかくこのアマゾンの問題は何か世界の現代の縮図ともなっている
二酸化炭素を制限するとき森が必要だとなる、その象徴がアマゾンにもなるからである
そこに牛を飼い農業をするために森が破壊される、でもそこに住む者にとっては何か金になるものが必要でありそれを無碍に否定することもできないのである
そもそも人間の歴史が自然破壊にあった、農業自体が自然破壊であった
なぜなら焼畑農業は森を焼いて灰を肥料として成り立っていた原始的農業だったからである

つまり職業とは人間の業(カルマ)なのである、何らか自然を破壊しなければ生きていけないのである
アマゾンの原住民は自然を破壊することがない、そこに農業すらない、狩猟採集時代から進んでいなかっんたからである、農業は大きな文明であり進歩である
それがトラクターとか機械で広大なアマゾンでもその森が破壊することができるようになったからである、もし手斧暗いて森を破壊しようとしたらあれだけ広大な森を破壊できないからである

●山尾三省は農民になることで幸せを感じていた(郷(くに)に生きるとは

それで不思議なのは山尾三省なのである、この人は原始人にもどり農業をしようともした人である、文明に逆らってそれを屋久島で実践した人だとなる
それはアマゾンの原住民と似ているのである、現実にこの辺でそうして「部落」とか言ってそういう原始時代の生活をまねてしていた人達がいたからである
それで不思議と原発のことを批判していたのである
それは批判だけではない、自ら実践していたのである
農業の尊さとか自然に暮らすことの意義とかを詩にしていたのである
そういう人は今ではテレビで話題にする変人となりまたテレビで面白い風変わりな人として紹介される
でもそいいう人は時代が時代なら当たり前の人だったのである、だからめずらしくもないのである

彼が求めたのは理想の国は大きな国ではない、小さな国である、日本全国にある小国の地名がありそこがそういう場だとなる

奄美の郷(くに)
奄美の郷人(くにひと)
沖縄の郷
沖縄の郷人
アイヌの郷
アイヌの郷人
・・・・統治のない 郷(くに)
原子力発電所のない郷
核兵器のない郷


何万年も消えぬ
スリーマイルとチェルノブエリノブエリの灰を足下に踏み
三十三基の日本原子力発電所の炎を足下に踏み
なおも
なおも
人間を希望として
わたくしとして
より深く ただいるここに 在るほかない

山尾三省の不思議は常に原子力発電所を拒否するものとして書いていたが実際に原発がなくても生活はできていた
ただそうなるとまねはできない、パンが贅沢だとも言っていたからである
そんな生活を良しとする人はいない、むしろ田舎の人達の方が今は都会人と変わりない欲望を持っているし金が欲しいとなっている
でもなぜ山尾三省がこれほど田舎の生活に恋い焦がれ実践者になったのかとなる
田舎に住んでいる人でもこんなに憧れということはない、別にそれが日常だからである
この人はアマゾンに暮らす原始人に原住民になりたかった人だとなる
その原住民が現実にアマゾンにまだ生き残っているのである
そしてアマゾンを郷としてその森を聖なるものとして破壊されることに抵抗しているのである、それは部族全体でそうなっているから違っている
文明社会ではそういう人は変わり者でありそういう生活をむしろ否定してきたからこそ
原発が金になるということで積極的に誘致したからである

でも故郷に郷(くに)に住めなくなったとき蝋燭でも家族と一緒に故郷で暮らしたいというようにもなったのである、郷(くに)があってそこに住むことの価値を見出したとなる
人間は確かに科学技術は様々な恩恵をもたらした、でもまた失ったものもある
それが原発事故で自覚させられたのである
空気が土が水が森林が木材が・・・・汚染されたら住めないということである
原発がそういうふうになることを知り得ようがなかったのである
郷(くに)というのは本当はかけがえのないものだった、そこが生き死にの場でありアイディンティティの場になるからである
それは国家とか行政的単位ではなく国(くに)とは精神的な場でも代々継続する先祖とともに生きる場でもある、でもその国を大事に思うより金だとなったのが現代である
だからこそ東電に漁業関係者でもこの土地に住む人でも金になればいいとして積極的に誘致したのである

もっとパンでもなんでもうまいものが食べたい
もっといい車がほしい
立派な家が欲しい
とにかく金が欲しい・・・・

欲望がきりなくなったのが現代である、だから山尾三省の生活とは何だったのだろうとなる、それは現代文明へのアンチテーゼとなった、その生活そのものがそうである
この人は何なのと理解しかねるとなったのである
農民でも漁師でもそんなこと思っていないからである、むしろ農業はしたくない、漁業でもしたくないと後継ぎがいなくなっていたからである
でもこれほど切実に農民になりたい自然の中で暮らしたいと思っている人がいて実践したということが重い意味がもっているともなる

現代社会でそれが奇異なものとなったこそ文明自体が問われているともなる
なぜならそもそもそういう生活が常民をしてきたからである
確かに貧乏ではあったがそれでも人は生きていたしその生活は継続されてきたのである
なぜなら不思議にその時飯館村でも一万の人口があったとか農村山村に人口が多かったのである、引揚者は開拓に入ったにしろそれだけの人口を養っていたのである
今はどこでも半減しているし限界集落にもなっているく
山尾三省がこの辺に飯館村とかに生活していたら記念になるものとなった
他にも部落とか山村の生活をあえてしていた若い人もいたが撤退したのである
いづれにしろ山尾三省の生活とか思想に共感する人は農民でも漁民でもいない
パンも食べれないのかそんな生活嫌だとなるからである




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2022年11月09日

浪江町の大堀へ行くー10年過ぎても悲惨 (街中の食堂が増えホテルはにぎわっている―外部から若い人も入っている)


浪江町の大堀へ行くー10年過ぎても悲惨

(街中の食堂が増えホテルはにぎわっている―外部から若い人も入っている)



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大堀村の寺や神社

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大堀村の寺−陶家とかあるから大堀らしい


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金毘羅とかめずらしい―愛宕神社

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根っこが残りそこに古い碑があった墓がある

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山津見神社があったーその脇に大塚東照宮があった
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この清水が飲みたいと思ったが汚染されていると飲めなかった
でもこれは湧き水だとしら汚染されていないかもしれない
こういうところにまだ原発事故の影響がある
ただそもそも清水とか山の水は意外と動物とかにも汚染されているのである



震災時、浪江町には約2万1千人が暮らしていた。今年2月末現在、町内居住者は1596人町に住民票がある人は1万6650人。今も多くの人は避難生活を続けている。

(2021)

 東電の賠償金は原発からの距離などに応じ、有無や額が異なり、原発周辺の住民が「賠償金をもらっているだろう」と妬まれるケースも珍しくない。「家を建てても避難民という気持ちが消えない」。津島の美しい星空や家族同然の地域の絆は、賠償金でも取り戻せない。同じ津島の避難者宅を訪ねるのが楽しみだが、10年を経て連絡がとれなくなってきたという
 https://mainichi.jp/articles/20210310/k00/00m/040/190000c


 震災前、浪江町には6つの小学校と3つの中学校に約1,700人の生徒が通っていたが、今は、2018年に完成した「なみえ創成小学校・中学校」に通う約20名だけだ。児童・生徒が戻らないことから、昨年、7校を2021年4月に一斉に廃校し校舎を解体することが決まった。





浪江町に入ったら立派な家がある、庭に大きな石がある
でも人は住んでいない、原発避難区域では結構立派な家がある
でも人は住んでいない、それがもったいないのである
ここの家でも立派な岩があると見て帰った
小高でも紅葉がきれない庭があり家があった
庭に興味があるが人が住んでいないのでもったないと見る

浪江町の大堀から高瀬川に行って来た、大堀は陶工の家が空家化して廃墟化していた
陶工の家が30軒くらいあったのか、細い道を分け入るとこんなに陶工の家があったのかと見た、ある所で相馬焼きの焼き物が散乱していた、あれはなぜかたづけないのか?
結構高いものがあるが放置したままなのである
一時緊急避難しても帰ってきて相馬焼きの焼き物を整理して持って行けばいいとも見た
おそらく帰ってこないし焼き物もしないので放置したのだろう
入り組んだ道に陶工の家がありもう誰も住んでいない
ただ来年はここも避難解除になる、でも入ることができた
ここは震災前のままであり放置されたままである、ただ除染の人達がいた

あんなふうに荒れ果ててしまうのもショックである、陶工はみんな福島県であれ各地に分散した、だから相馬焼きをまとまって窯元で伝統を支えることはできなくなった
窯元が集まり技を伝いまた新しいものを作りだす場が窯元だった
そこが高瀬川の岸辺になり立地に恵まれていたのである
そしてそこは江戸時代からの歴史があった、相馬焼きは青ひびとかの技は各地に伝えられたのである

 むかしから そのむかしから 学校の
やねも お空も つんぬいて
大きくのびた かきの木は
みんなの そだつ 目じるしだ
2. 遠い道 夕やけ雲の お山から
海までつづく たかせ川
あゆも かじかも かにさんも
みんな なかよい おともだち
3. おじいさん おとうさんも かあさんも
べんきょうしたのは この学校
わたしも あなたも あとついで
みんなで ぐんぐん のびるのだ

大堀小学校の校歌であるがここに柿の木がでている、それで私は震災前にたずねて柿の俳句などを作った、柿がふさわしかったのかもしれない、それにしてもその荒廃は悲惨である、震災の時そのままであり捨てられた感じである

わたしも あなたも あとついで
みんなで ぐんぐん のびるのだ

このあとつぐ人が子供が消えたのである堀小学校の跡は荒地になり鳩を手にもった少年像が残っていた、なんともわびしいとなる

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大堀小学校の跡地
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中に陶器がまだある店がある
陶器が散乱して放置されている所もあった
おそらく放置したままで帰らなくなったのかもしれない

●大堀には古い歴史があった―神社をたずねる

大堀は江戸時代からの歴史かあるから神社もある
そして山津見神社が高い所にあった、これは発見だった、こんなところまであるのかと驚いた
とにかく相馬藩の地域には綿津見神社と山津見神社が多いのである
これは一対としてあり飯館村には綿津見神社と山津見神社がある
それは安曇族の海人族が入ってきた証拠なのである
だから小高の海岸にも綿津見神社があり浪江町の大堀にも山津見神社があった
それだけこの辺は安曇族が古代に最初に開拓に入った場所なのである
本当にこれだけ綿津見神社と山津見神社があることは驚きである
後は愛宕神社とか天神社とか他にもあった
江戸時代からのものであるが山津見神社は古代に由来するから注意すべきである

この耳塚に埋められているのは、八面大王の耳であると言われている。八面大王はこの安曇野地方の伝説では鬼とされ、悪逆の限りを尽くした後に坂上田村麻呂によって攻め滅ぼされたとされている。しかし蘇ることを恐れた田村麻呂は、八面大王の遺骸を切り刻んで各地に埋めたのである。耳塚はその耳を埋めた場所であるとされているのである。
https://japanmystery.com/nagano/otuka.html

大塚神社が城県とかにもあり他にもある、全国的にもある、九州にもある、この大塚は何なのか?津浪の被害にあった磯部の近くにも大塚神社があった
これは全国的に多いがその由来がはっきりしないのである
大塚とは塚だから墓であり古墳に由来するのか、謎である
ただここで安曇地方に関係していたことがうかがわせるものがある
安曇はまこ海人族であり何か土着の人々が大和王権に逆らったから伝説として残されている、ただそれが大塚とどういう関係になるのかわからない
つまり塚というから大とは王の意味だともしている、つまり王の塚⇒王塚⇒大塚となったこれは天皇と関係しているのか?なぜ全国にあるのか?地域の王であり天皇とは違ったものなのか、何らか古代は安曇族でも全国的に大和王権に天皇が全国の唯一の王とはなっていない、そういう時代に地域の王を埋めた所が古墳が大塚がありそれが大塚となったのか
ただ安曇族の山津見神社の脇に大塚東照宮とあるのは大塚と王のことであり東照宮とは家康のことである、つまり王なる家康となるがもともと大塚と安曇族が関係していてそうなったのかとなる、家康が王となったので大塚とはもともと王から由来すると王なる家康となるのである
他に愛宕神社とか天神社があった、この由来も何なのか、神社には由来が不明なものが多いのである
ただ地域でも地域の地域でも古い神社がありそこには人がもともと住んでいて継続していたのである、その継続が原発事故で断たれたのである
でもまた全国的に人口が減って過疎化して限界集落となり村自体の歴史が失われてゆくのが日本だとなる

●高瀬川溪谷へ行き帰る

高瀬川の渓谷へは交通止めがあったが入ることができた
紅葉の渓谷で水墨画のような風景になっていた
11年ぶりに来たがやはりここの風景は特別である
車が一台葛尾村の方から来た、車も通れないことがないのかもしれない
でも車は二台くらい通ったがやはり交通止めになっているからだろう
ここにトンネルが二つくらいありそこを目指して走って来た
でもなかなかトンネルが見えないのでここではないのかと疑った
でもまもなくトンネルが見えたので良かった
10年も行かないとわからなくなる

街の中は新しい食堂が増えた、道の駅にもあるが他に食堂が多いと見た
あとはホテルがにぎわっているみたいだ
つまり原発の仕事や浪江でも除染の仕事がつづいている
そうした原発事故関係の仕事をする人達がまだ多いのである
夜道を原町から金沢を経て鹿島に出る道にプレハブがあるがそこが思った以上電気がついていてここにも未だ原発関係で働く人がいるのかと見た
昼ではわからなかった、原町でも双葉で車で労働者が送られることがあるだろう
原町から浪江までは18キロだったから車だったら近いのである

まず小高であれ浪江であれ田畑は荒地化している、でも耕運機が道を行くから農家でも農業をはじめた人もいるのかとなる
ただ見たかぎりでは田畑があり人の手が入ったいるのが見えなかった
農業が回復することはむずかしいだろう、何か街中に横浜から来た若い人が案内していたがなかなか農業を回復させることはむずかしいとなる

ただ外部から若い人が入ってきている、駅前の新しくできた案内所でも横浜から来た若者だった、でも目的は何かとなるとなかった、だからもしかしたらこういう人は定着しないかもしれない、今は外部から来る人が歓迎される、そもそも住む人がいないからだ
でも何か目的がないと定住しないかもしれない、コンビニで働いていた人も若者である
だから地理がわからなかった、その道は川俣に通じる道だった
何かあの道は歩道でも広いから新しくできた通りらしい、新しい食堂もあったからだ
それでコンビニもできていたのである

次は小高の大悲山の石仏から高瀬川溪谷への短歌です
posted by 天華 at 10:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2022年10月03日

真野川に鮎が上っていた (天然の鮎は放射性物質の汚染度が高い)


真野川に鮎が上っていた

(天然の鮎は放射性物質の汚染度が高い)

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シジミは比較的安全なのか?


真野川で投網をしていた人がいた、めずらしいと思って見ていた
土手に車が止まっていたので聞いた
漁業組合の人だった

今年は鮎が上るのが跳ねるのが見えなけどというと鮎は上っている、今は落鮎で大きくなっているという、そして天然の鮎は放射性物質の汚染度が高いという
それは長い間苔などを食べているからだという
特に天然の鮎は汚染度が高いという、なぜなら汚染された苔などを食べつづけいるからである
でも放流した鮎はそうではない、短い期間でありそれほど汚染されていないという
だから山女(ヤマメ)などは汚染度が高い、年中川にいるからだ
真野川の上流に水無河原の上流にもいる

そして真野川の真野ダムの下にやはり流れをせき止めたダムがあった
それが今回の大地震で壊れた、それでそこから泥水が流れ出した
それで濁った水が真野川に流れ込んだ、それは放射性物質に汚染された泥だったのである
新田川で釣りしていた人がいたが新田川で鮎は放流していないから天然の鮎だという
ということは食べると危険だとなる
とにかく真野ダムの泥には放射性物質が堆積している、そこから水道の水を利用しているから困る、そして真野ダムは大きくて除染できないからである
だからそこからどうしても放射性物質が流れたまるのである

ともかく県の人でも川を調査していたが今でもつづいているという
この放射性物質の汚染がやっかいである、いつなったらなくなるのかわからないからである
たた新田川で鮎は放流していない、真野側では依然として放射性物質を調べている
県で調べている、上流に真野ダムがありそれが問題なのである
またその下にダムのようにな流をせき止めたものがあり今回の大地震で壊れて泥水が流れた、それで一時真野川は泥川になったのである

今漁業組合の仕事はこうして放射性物質の汚染を計る仕事にもなる
真野川の河口ではしじみもとる人がみかけるようになったがそのシジミでも管理するのは漁業組合なのである、でもシジミはどうなるのかとなるとやはり放射性物質に汚染されているのか、それは良くわからない、鮎は汚染された苔を食べるので汚染される
しじみはどうなるのか、松川浦ではまだアサリとりなど許可していない

ともかく真野ダムに大量の泥がありそこに放射性物質が堆積されるさとが不安になる
だから水道の水を飲まない人がいる、相馬市でも真野ダムの水を利用しているからである川の汚染は川は狭いし海のように攪拌して薄められない、トリチウムを海に流すと問題だが川のように狭くないから拡散する、それで海に流そうとしている
それでも影響はある、でも川の問題の方が深刻だったのかとなる

放射性物質は回りの森からでも流れ出してきて真野ダムにもたまるからである
それは除染できないのである、セシウムの半減期が30年とかになるからそうした長い時間を待つほかないしまたプルトニウムとかなると二万年消えないとなるからやっかいなものなのである、だから原発は一旦事故になったとりかえしつかないものとなる
でも石油が高くなり電力を維持するには原発の再稼働しろという声が大きくなっている
でも原発のリスクが大きすぎるのである


posted by 天華 at 12:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2022年09月15日

新田川で鮎釣りしている人がいた (でも真野川ではいないー鮎が上って来ない―原発事故のその後)


新田川で鮎釣りしている人がいた

(でも真野川ではいないー鮎が上って来ない―原発事故のその後)

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真野川では事故直後、国の放射性物質の基準濃度を超える1キロあたり2100〜3300ベクレルのアユやウグイ、ヤマメが見つかった。出荷制限と釣り自粛の呼びかけが続き、遠方からも訪れていた釣り客の姿は、今はみられない。同漁協理事で釣具店を営む森幸春さん(60)は11年近くにおよぶ出荷制限について、「『生きている間はもう釣りはできねえか』と言う人もいる」と明かす
https://www.asahi.com/articles/ASQ3651YGQ2HUGTB00L.html

冷水病が日本の河川に蔓延して以後は、これが極端に低下しており、場合によっては10%を切る事例も報告されているすべての河川でそのように悪いわけではないものの、平均的にみると40%程度まで落ちているのではないだろうか。つまり、生残率はかつての半分近くにまで低下しているのである。

この傾向は規模の大きい川ほど顕著である。つまり、容器の大きさからいうと1000匹必要な釣り場に実際は100匹しか放流されていないというようなことが普通に起きているのである。
https://hito-ayu.net/opinion_04.html


サケと違うのは母川回帰をしません。 その時に一番条件の良い川を選らで遡上を始めるそうです。

ヒトが作るダム、堰、コンクリート護岸、生活排水、工業廃水が、
アユの生活環境を脅かしていることは皆さんご存知の通り です。
この30年間、全国的に天然アユの遡上数は激減しています。
http://to-ayukebari.life.coocan.jp/ayu_seitai/ayu_seitai.html





全般的には海産魚の放射性セシウム濃度は順調に下がり、2017年に一部の出荷制限魚種を除くすべての魚介類に試験操業対象種が拡大され、漁業の再開に向けた取り組みも進められています。現在では郡山市内のスーパーなどでも、「常磐もの」として福島県産のカレイなどが並べられているのを見かけることもあります。一方で、淡水魚の放射性セシウム濃度は海水魚よりも高い値が続いており、比較的汚染の低い福島県中通りを流れる阿武隈川であっても、基準値を超えるヤマメ・イワナが2018年にも何検体か報告されています。淡水魚の放射性セシウム濃度は、流域内でも地域間、個体間で非常にばらつきが大きく、「安定的に100Bq/kgを下回る」と判断することが難しいことが、出荷制限や採捕自粛の解除が遅れる一つの原因になっています。このように、海水魚に比べ、淡水魚では放射性セシウムによる汚染の問題は今でも収束していません。今後、淡水魚の放射性セシウム濃度はどのように減少し、いつになれば心配なく食べられるようになるのでし
https://www.nies.go.jp/kanko/news/38/38-2/38-2-04.html


今日新田川で鮎釣りしている人がいた、鮎がとれるのかと聞いてみて
そしたら結構大きな鮎もとれたという、鮎は稚魚を放流しているが放流していないくてもとれたという、県庁の方で聞いて見たら毎年稚魚は放流しているという
私は毎日真野川を見ているけど鮎が跳ねたのを今年は見ていない、去年なのかその前なのかさらにその前の年なのか鮎の稚魚を放流したのを現実に見ている
県庁に聞いたら毎年放流しているという、となるとなぜ真野川だけに鮎が上ってこないのか?

この辺は県庁の方でも調べていない、ただ毎年鮎の稚魚を放流している普通だったら川を上ってくる、それが来ないとなると何なのだろうとなる
何が原因なのか?それがわからない、新田川は浅い川である、でも水が勢いよく流れていた、新田川には上にダムがない、真野川には飯館村の大倉に大きなダムがある
それで水質が違ってくるかもしれない、真野川でここに住んで放射線を計る人がいた
それはかなり長く川の放射線を計る仕事をしていた人がいた、専門家がいたのである

川の魚は一時食べるなと警告された、相当に放射性物質に汚染されているからとしてそうなった、海の魚より汚染が強かった、それは海は広いから拡散されるからである
川は狭いので拡散されないことが原因だった、狭い場所に滞留するということもあった
特に依然として真野ダムの泥には放射性物質が付着している
真野ダムの水は飲料水としても利用している、本当の除染は真野ダムの底の泥とりはらわなければならない、でもそれはできない、ただ溜池は除染した
でもそれも全部はできない、なぜなら回りの森からでも放射性物質は流れ出してたまるからである、つまり完全に放射性物質を取り除くことは不可能なのである

川で釣りする人とみると何か復興したのかともみる、でも真野川では見ない、それで淋しいとなる、もともと川には魚は見ない、子供の時カジカとかとっていたが今は子供も見かけない、そもそも地域でも子供が見かけない、子供が見かけるのは幼稚園としかないのである

ともかく鮎というとき私の父親は鮎釣りが好きでありその時結構大きな鮎をとっていいオカズになっていた、また田んぼの畔で鰻釣りもしていた
その鰻もうまかったのである、それを料理するのに家族みんなで大騒ぎだったことを覚えている、今は鰻もとれない、農薬で汚染されているとかなる
小川もなくなりメダカともいない、田んぼを流れる小川もなくなった、みんなコンクリートの堀になったからである
田んぼが回復して蛙が一斉に星空に向かって蛙の合唱になったとき復興を感じた
自然が復興したことを感じた、川でも鮎釣りする人でもいれば復興したとなる
ただ真野川では上流で蜆とる人は増えた、もともと真野川ではシジミはとれていたのである、それもいいシジミがとれていたのである
ただ貝類にも放射性物質はあるとされているからどうなるのか?

11年過ぎてもういいのだろうか、前の日常がもどるのはいいことである
とにかくこの辺の変化は余りにも大きかったのである
磯部でも海老村でも烏崎村でも根こそぎ津波で消失したことはショックだった
その傷痕はまだ消えない、ただ11年も過ぎると忘れて関心もなくなることはありえる
外部ではそうなっている、次々に新しいことが起きるので忘れられる

でも裁判では東電に賠償を言い渡された、

経営幹部が任務を怠ったことによる東電の損害として、廃炉について約1兆6150億円、被災者に対する損害賠償費用について計7兆834億円の支払い、除染・中間貯蔵対策費用計4兆6226億円を認定した。
https://www.bbc.com/japanese/62159103

これは当然だった、これもコストにこだわり失敗した、津波を科学者が警告していたのに対策をとらなかった、権力で安全神話を作ることには熱心であった
でも肝心の安全対策は金がかかるからしなかったのである
その代わりにその金は安全神話を強固にするため福島県の報道機関でも朝日新聞でも毎日でも読売でも創価系の潮にも回った、すべて宣伝費として安全神話を強固にする方になったのである
電事連でも800億円の金が注がれたのである、安全神話のために湯水のように金が注がれ
肝心の津浪であれ安全対策のためには金を使いたくないとなっていたのである
これは報道関係にも責任があったのである、金をもらえばいいとなって安全神話に加担したものとなったからである

10メートル以上の津浪が来る!

みんなこれを知ったら警戒していて逃げて助かった人達もいた
あらかじめ知っていれば警戒するからである、それは科学的根拠のあるものだったからである、それを東電の幹部でも無視したのである、だから当然責任をとれとなる
財産没収でもいいとなる、それだけの責任ある人達だったのである


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2022年09月02日

浪江を偲ぶの春の短歌 (ふるさとの文学散歩―常盤芳秀の歌−津波原発事故で失われたもの)


浪江を偲ぶの春の短歌

(ふるさとの文学散歩―常盤芳秀の歌−津波原発事故で失われたもの)



大堀に陶工の技代々に磨くも良しや春の日たずぬ

大堀に買いし陶器の我が家にありてなじみぬ春の日暮れぬ

高瀬川流れのひびき高鳴りぬ春の日さらに上に登りぬ

高瀬川登りてあわれ葛尾に磐城落合の名そ残りけり

浪江町今は荒れにし悲しけれ昔の栄もどることなしも

浪江町生きにし人やその墓地も荒れて捨てられ春も悲しも

請戸港昔栄えぬ江戸にしも松前にしも宮古にしも行く

誰か住む津波に流さる家の跡椿の咲くも人は住まじも

古き蔵残れる家や戻りきてここに住みなむ椿咲くかな

請戸港昔の面影ここになし春の日さすも高き防波堤

甚大な津波原発その被害春のめぐれど立ち直れじかも

長塚に銀行ありと姉遊ぶそのこと聞きしも遠くなりぬる



ふるさとの文学散歩―浪江町の文学碑ー常盤芳秀の歌(1860−1920)−松本博之著

澤井屋という金物店を経営しながら詩文をよくし、すぐれた書家でもあった
万延元年江戸で桜田門外の変が起り幕末動乱の歳に浪江で生まれた
父は剣を斎藤弥九朗道場に学び、新道無念流免許皆伝の腕前であったという
事あって諸国を遍歴し旅の途中この浪江に立ち寄ったところ人物を見込まれて常盤家に入ることになった

芳秀はこの父に剣の道を学び、明治八年藩錦織晩香が幾世橋村に開設した希賢舎で漢学を学び塾頭をつとめた、また国学派の歌人海上胤平に歌学を学んだ

芳秀の師の海上胤平は千葉県海上郡三川村に文政一二年(一八二九)に生まれ江戸で千葉周作に剣を学び・・・

師弟の縁がどのようにして生まれたのかはわからないが、金物などの商品を仕入れるために請戸港から年に数回金物などを仕入れるために廻船に便乗して上京したという、その折東京の師の居宅を訪ねたのだろう

この人は大和田建樹と同時代の人だった

浪江波うつ稲の穂の
長塚過ぎてゆたかなる

鉄道唱歌を残した人だった、他にも短歌を多く残した
ここに長塚とあるのは双葉駅とは後からできたものであり元は長塚だったのである
私の父が双葉の新山に酒屋の丁稚として働いていて長塚に銀行があったらしい
銀行というものはめずらしいものでそこで子供の時遊んでいたか言っていた

この文章は江戸時代の状況を現している、必ず侍は剣の修行をしている、だから父は剣を斎藤弥九朗道場に学び、新道無念流免許皆伝の腕前となっていた
どこかの道場に属して剣の修行をしていた、それは良く時代劇ででてくる
道場破りとかでもそうである、この人も諸国を回っていた、そうして浪江の常盤家に養子となったのかとなる
そういう父を持ったのが芳秀だったのである、ここにリアルな江戸時代の人間が語られている、常に文武両道であり文は短歌であり国学になっていた

そこでここで注目すべきは

金物などの商品を仕入れるために請戸港から年に数回金物などを仕入れるために廻船に便乗して上京したという

ニシンの買い入れのために北海道の松前まで原釜からも請戸からも船が米を積んで行ったということを書いたが江戸にも行っていたのである
ただ江戸へ運ぶのは米とかであり乗客は運ばない、ただそこに便乗させてもらったのである、ただ江戸から金物を仕入れるということはあった
江戸時代には鉄道はなく船が主な交通となっていた、小名浜から石炭を積みだして東京に運ばれていた、常磐炭田があり鉄道ができる前は小名浜から石炭が運ばれていた
ともかく船が運ぶために利用されて江戸まで通っていたことは確かである

その鉄道にしても

一と筋の煙を立てて走り行く車屋形の早くもあるかな 芳秀

こんな感覚だったのである、車屋形とはまさに車が家になっいてる屋形になっているというふうにも見た、そういう感覚だったのである
煙はくとは蒸気機関車であり石炭を燃やして走らせていたからである
私が蒸気機関車で原町の高校に通っていたということも信じられないとなる
覚えているのはトンネルがありそこで煙が出て顔がすすけたということがあった

江戸時代から明治の変化で大きいのは鉄道が全国にめぐらされたことなのである
それまでは関所があったし簡単に藩の外にでれなかったが切符一枚で全国どこにでも行けるようになったからである
だから鉄道が新しい日本を開いたとまでなっていたのである

ともかく浪江町は本当に津波と原発事故で変わり果てた、復興はしていない
2万人いて一六〇〇人帰ったとしているが残ったのは主に老人である

残念だったのは大堀焼きの窯元があった場所である、高瀬川があり場所が良かったのである、それが窯元は散り散りになってしまったのである
失われたものが余りにも大きすぎたのである

大堀に窯元並び技磨くその日は還らず春も悲しも

どうしてももう在りし日は帰ってこない、その損失は回復しない、これが津波だけだったら海側の被害だけにすんでいたのである
原発事故がそうしたのである

おちこち(紀行文集)(明治) 大和田建樹を読んで
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2022年06月20日

原発事故、国の責任否定 「対策命じても防げず」―避難者訴訟・最高裁初判断 (東電に天下りした官僚は金を返すべきーそれが責任)


原発事故、国の責任否定 「対策命じても防げず」―避難者訴訟・最高裁初判断

(東電に天下りした官僚は金を返すべきーそれが責任)

東電などによると、「天下り」公務員OBは、8月末で51人。顧問3人中、国土交通省出身が2人、警察庁1人。嘱託48人の内訳は、都道府県警出身31人、海上保安庁7人、地方自治体5人、林野庁2人、気象庁2人、消防庁1人。電力業界所管の経産省からはゼロという。

   実は、4月末までは経産省出身の石田徹・元資源エネルギー庁長官が1月から顧問として在籍していた。

長期評価 政府機関の地震調査研究推進本部の地震予測。2002年、三陸沖から房総沖にかけての日本海溝沿いで、マグニチュード8級の大地震が30年以内に20%の確率で発生し、福島県沖でも起こり得ると公表された。東京電力は08年に津波高が最大15.7メートルに達すると試算したが、既に福島県沖での地震を想定していない土木学会手法を採用しており、最大5.7メートルと計算していた。

この長期予測は無視された、でもこれは科学者集団が算出したことであり科学的根拠があってのことでありこれが東電で無視した
東電でも科学者集団であり肝心の科学者が割り出した予測を無視したのである
科学を最も重んじる集団が科学を無視したのである、ここに大きな問題があった
これは伝説とか何かあいまいなものではない、科学者が科学的根拠があって警告していたのである

ではなぜ無視したのか?

コストがかかるからである、当時の社長はコストカッターとして社長までのし上がったとしている、コストが第一でありそれが大事故につながった
原発は最も安全を重視しなければならないものだった、だからこそ国がかかわる大事業となっていたその安全を計る国の保安院など何の役にもたたない飾りであった
ふれで不安員と揶揄されたのである

そもそもなぜ高く土盛りしてその上に作るものをわざわざ低くしたのか?

それもコストが関係していたのである、地下に電源を置くから高いと利便性が悪い
そしてそもそも地下に電源を置いたことが失敗の元だったのである
それは津波の警告があっても全く津波のことを無視していたからである
地下に電源を置いたのはアメリカでは竜巻がありそれから守るために地下に置いたのである、日本では竜巻などないのだから地下に置く必要もなかったのである
これも風土を無視して土着的でないことから起きた事故なのである
なぜなら東北電力では女川原発では三陸とかすぐ近くで明治時代に一万人死んだ津波を経験しているから副社長がもう10メートル高くしろとして高くして作ったからである
それがぎりぎりで津波からまねがれた、それでもぎりぎりであり危険だったのである

何か仕事は土着的であるべきだというとき知床の観光船事故でも土地の気候とか海のことを知らない人が外から来て船を操作していたからである
これもまず金儲けが先だとなり安全をないがしろにしたのである
現代の科学技術工業文明はそもそも土着的なものから離れている
またその土地の生態系など無視して巨大な工場であれ企業であれ世界の自然を破壊してゆく、ただ金儲けのためにそうなる、そこに災いが生まれてくるのである

原発事故の原因は一つはこうした科学技術の問題としてあった、理系集団科学技術者集団の問題としてあった
もう一つ大きなことは政治的社会的問題としてあった、これは文系的なものとしてあった裁判というとき司法があるがこの司法とは官僚でありこの人達が正義を基にして裁くとは限らないのである
権力関係があり権力によって操作されるのである
その背後に国家権力がありまた日本はアメリカの属国してあるのだからアメリカの巨大な権力によって操作されている、そしてアメリカといっても貧富の差が激しく実質のアメリカとはデーブステートとかユダヤ人だとか言われる
ただこれは明確なものとして実体があるのかどうかわからない、わかっているのは軍産複合体が巨大な組織営利団体としてあることは確かである

こういうふうに目に見えるものはわかりやすい、それは外からでもわかるからである
この世とは正義とか実現する場所ではない、巨大な権力によって操作されて動かされるのである、そして武田邦彦氏は裁判でもなぜ90パーセントが有罪になるのか?
外国では70パーセントだとしている、つまり逮捕される前に有罪は決定しているのである、もう権力によって決定されているのである、そこに無罪なのか有罪なのかの審理する前に有罪が決定されているのである、だからおかしいとしている
第一司法というのは別に法律に則って裁判する訳とかは限らない、政治的社会的大きな問題になると権力によって権力の圧力によって決められるのである
時の政権が自公政権ならその権力によって決められる、そしてその背後にはアメリカがいるとなる,アメリカの属国だったらその意向に逆らえないからである

そして私が追及してきたように権力側につけば既得権者側につけば得だ利益になるとしてマスコミでも全部朝日新聞であれ原発を容認することになる、その危険性も報道しないのである、そのマスコミに電事連が800億円も宣伝費としてありだされていたという
そもそも福島県のマスコミでも「政経東北」でも不正を追及しているようで悪徳業者の
相双リテックが幹部で何十億の除染費用山分けして批判された、それは犯罪でもあった
でも政経東北の裏表紙で堂々と宣伝していたのである

それはなぜなのか、金が入るからだとなる、他もみな同じである
福島民報などはもう県の出資が半分でありあとは創価の聖教新聞をすって経営している
そんな新聞がとても原発の危険性など追求できないのである
一軒一軒新聞を配ること自体莫大な金がかかるからそうなる
ネットだと自分がしていても金などかからないのである、影響力はわずかでも金はかからないのである、手間はかかってもほとんど金はかからないのである
こうなるとき確かに民主主義の言論の自由があるとはなる
個人がyoutubeのようにテレビ局にもなれる時代だからである

いづれにしろ東電に天下りした官僚などは責任があったのだから金を返すべきだとなる
津波は不可抗力としてもやはり責任があっのである、安全を計る役割があったからであるただそこで得すればいいというだけの地位ではなかったのである
でも正直既得権者が得するようになっているのがこの社会である
公務員は既得権者であり権力の下僕でありそのために得するようできている
私の家族の一人が公務員だから自分自身そういうことを知っているのである
何かいろいろと得するようになっているのである
そのために創価とか共産党とか野党でも革命という名の下に既得権者に成りたいというだけである、それは得する身分になるからである、下々で苦労して日々働いていても得にならないからそうなっている、それでなんとかしてそうした既得権者になりかいとして創価なら24時間365日選挙運動なのである、それが宗教と一体化している
また共産党でも中国をみればわかる、幹部になれば兆の金が入ってくるともなるのであるそもそも既得権者になって得したいということしかないのである
だからそこに野心家であれ一切のその人がどんな人なのか金を求めるのか女を求めるのか商売のために利用するのか、そんなこと一切問わない、一票になればいいとうだけであるあとは欲をかなえるために題目を唱えていろで終わりなのである

要するに原発とは科学技術の問題としてもあったが政治社会の問題としてあった
私は文系だから政治社会の面から追求したのである、科学技術というとき政治とか関係ないようである、科学の真理は変えられないとかなるがそれも政治によって権力によって歪められるし利用される、御用学者などがそうである、権力者の言いなりになり科学的に正しくないことでも言うことになる
会社でもそうである、政府という権力に逆らえないのである、それで大成建設が放射線を計るモニタリングポストでもその真下の土を掘って取り除き低くしていた
その回りを私か計ったら倍以上あった、だからモニタリングポストの放射線量は半分になっているのである、こうして常に科学も政治権力で操作されるのである

大成建設にしてもこれは創価が富士山のふもとに正本堂を建てたからその時関係があり
創価大学の人を就職させる枠がある、創価でもそうして権力拡大するのである
なぜなら権力奪取することが革命の目的であり日々運動しているからである
それは他の共産党でもみんなそうなのである、毛沢東が銃口から革命が生まれるというときまさにそれを実行して権力を奪ったからである
要するに権力を奪ったら既得権者になり御利益があるとなるからだ
宗教はただその権力を得るための道具のようになっている、それはカトリックでもそういうことがあり政教分離が法律化したのである

ともかく原発事故は様々なことを暴露したのである、また原発はまた人間の欲がそこに集中した、地元でも原発で働けば普通の三倍の金がもらえるとかなり自治体でも金が入る
それで個人的にも財を築いた人がいる、加藤建材などは大きいがその基は原発を建てるとき真野川とかの砂利を運んでそれが基となり今の大きい会社に発展したと聞いた
原発は金の生る木だったのである、それも桁外れであり何兆円でも除染で使うということなど庶民には想像もできない規模だったのである
その金に群がったのが地元のの人たちでもあったとなる
だから地元の人達がその金によって操作されて肝心の安全を無視したとも言えるから責任はあったとなる、だから国に責任がないというとき地元の人達は責任をとれと言うのも解かるか地元の人達も何らか責任があったのである

ともかく無罪ということはありえない

少なくとも天下りした官僚はその東電からもらった金を返すべきだとなる、これだけは言える、良心があればそうなる、ただ正直自分の家でも公務員でありそういうことはあったでもその額は少ない、天下りとなるとその額が大きいから返すべきだとなる

東電などによると、「天下り」公務員OBは、8月末で51人。顧問3人中、国土交通省出身が2人、警察庁1人。嘱託48人の内訳は、都道府県警出身31人、海上保安庁7人、地方自治体5人、林野庁2人、気象庁2人、消防庁1人。電力業界所管の経産省からはゼロという。

   実は、4月末までは経産省出身の石田徹・元資源エネルギー庁長官が1月から顧問として在籍していた
   
 海上保安庁とか都道府県警とかがかかわっていることは自衛隊でもかかわりまさ暴力装置を持つ人達が権力を既得権を持ち利益を得る構図がある
だから権力と言う時アメリカでも軍産複合体があり深く政治とかかわり戦争で利益を得る会社である、だからこうした人達が天下りして利益を得ていることは犯罪に近いのである第一司法とは裁判官も官僚であり既得権者なのである、そういう人が罰することなどできないのである、だから天下りは廃止すべきであり金は返すべきだとなる

結局責任を問う場合、権力を持っている人達なのである、権力をもっていない人には責任がないのである
なぜなら自分の本でも権力集団を批判したら図書館にも置けないということがあった
個人のものは置けないと断れられたからである、つまり公務員とはこうして権力をもって言論を封殺するのである
そういう権力をもっている、あらゆるものが背後に権力集団があってこの世は動いている、動かされている
マスコミもそうである、様々集団組織がありそれが権力集団を形成して一個人など逆らうことはできない
電事連とかは宣伝費として800億円とか出している強大な権力集団なのである
それでマスコミは操作される、必ず個人の背後に強大な権力集団がある、それはあらゆるものがそうである
在日がマスコミを支配しているとというときそうである、これも日本人に同化しているから優秀な人達だから力を持っているのである
宗教も集団化して組織化して権力集団となる、それは信仰とか関係ないのである

第一キリストとかシャカでも寝る場所もない、何の権力ももっていなかったからである
でもこうした組織集団の罪は問われないのである、強大な権力があるから批判するできないとなる
民主主義といってもすべてけはこうした巨大な組織集団によって権力集団によって決まるのである
一個人など何の力もないのである、相手にもされないからである
でもこうして原発マネーがばらまかれてそれに天下りして金を得た、だからその金を返すべきだとなる
それが責任なのである、司法も官僚であり裁判官も官僚でありこうして既得権者となり得するシステムなのである
だから公正な裁判などありえないのである
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2022年05月05日

接続可能な社会とは(SDGs) (原発事故で問われたもの、豊穣の海と漁師の詩から―生業とは天職とは)


接続可能な社会とは(SDGs)

(原発事故で問われたもの、豊穣の海と漁師の詩から―生業とは天職とは)

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烏崎の港へ



豊穣の海と漁師

朝漁の船は帰り来る
糧は海から与えられる
漁師は海とともにある
漁師の実りは海にある
漁師は海と一体になる
夢にも常に海を見る
時に波にもまれて溺れる
夢にうなされる
現実に父は海で死んだと
また恐ろしい津波で村は消失した
海は常に危険である
でも海は豊穣の海である
魚はふんだんに与えられる
魚をとるこそ漁師の誇り
活きのいい魚は地元に売られる
その身は引き締まり海とともにある
漁師の船は帰ってくる
妻はその無事の帰りを待っている
岩壁に浪は打ちつけて漁師は立つ
そこに生の充実がある
その身は海によって作られる
海は人に糧を与え仕事を与える
海の恵みは尽きることだない
海が人を作り大地が人を作る
山が人を作り森が人を作る
そこに継続される生がある
夏の海は朝の光りに輝いている
漁師もまたその海のように輝いている
それは海とともにあるからだ
波が轟き雲雀も夏空に鳴く
海を大地を山を離れて人はない
人を作るのは海に大地に山に森である
ここに継続持続される生がある
絶えることなき生がある
まさにその仕事は神より与えられた天職生業
その身は引き締まり海に生きた男よ
神はその男を見て満足する
海の糧を与えたことを満足する
夏の海原は広々と輝いている
漁の船は魚を積んで帰ってくる
港は活気にあふれる
津波の悲劇でも海の魚は消えない
ただ原発事故は海を汚した
その罪は余りにも大きい
海は汚されてはならなかった
でもその海の恵みを重んじなかった
それは神からの罰なのか?
人間はそのことを深く反省すべきかな



高い地位、儀礼、富、学識など、そういうものに到達した人々について
わたしが思うには、彼らの到達したものは彼らの体と魂に結果を残すものではない限り
すべて彼らの身につかず、浪間に消える‐ホイットマン


どちらも基本的な意味は同じですが、「体」は純粋に肉体のことを表し、人間以外の生物にも使うことができます。
一方、「身体」は人間のみに使い、肉体だけではなく心も含めた心身のことを指します

たとえば、「身につく」などです。この言葉は体に何かがくっついているという意味ではなく、技能などを習得した、という意味ですよね。
https://gimon-sukkiri.jp/body-spirit/

現代の風景はこの辺だとと相馬市の松川浦でも大きな火力発電所あり最近はガスのタンクもある、港からガスを入れて遠くまでガスを配給する施設ができたからだ
浜通りは発電所が多い、それで原発も作られた、風景としてはみなとがり一応漁師がいて魚をとったりしているが風景としては発電所のウェエトが大きくそれが風景となっている港は小さいのである、その風景そのものが現代を如実に語っている
生活からすると魚をとって生活するとかそれはもう極一部のものである
特に福島県の浜通りは漁獲高が宮城県と比べれば十分の一くらいしかないのである
そしてそもそも第一次産業の農業とかでも十分の一くらいの生産量しかないのである
だから現実は農業とか漁業で仕事している人は意外と少ないのである
第一漁師の収入にしても魚をとるから得られれるより火力発電が建ちまた原発が建ち烏崎では補償金をもらった
それで航空運賃が50万とかしたときでもヨ−ロッパとか海外旅行に行っていた人がいたのに驚いた
漁業していただけではとてもそれがけの金はないのである
だから漁業でも農業でもしたくないとなっていたのである



それで現実にそういう人と逢わない、田舎にいてもそういう人は少数者であり現実の生活は会社員とか工場で働いている、東北電力の火力発電所でも千人働いていたとか
双葉大熊の原発はさらに多く働いていたとなるからそこが生活の糧となっていたとなる
それで事故後でもそうして原発で金になっていたから批判できないともなっていたのである、漁師の場合は船主だと事故前でも多額の補償金がすでにもらって原発御殿が建てられていた、それで漁師でない人は不満だったのである、事故後も手厚い補償をされたのは船主とか漁師である、だから立派な家を率先して建てたともなる
ただ津波の被害は本当に悲劇でありそのことは批判できない
でもそもそも漁業だけではない、第一次産業は農業でも漁業でも林業でも衰退して全体の生産量の一割にもみたなくなったのである

ただ不思議なのは依然として回りが田んぼだから田舎は農業で成立っているように見えるでも実際の経済はみんな会社員であり農業とか漁業している人は少数者である
特に漁業で生計を立てている人は前からごくわずかだったとなる
福島県の浜通りは海に面していても宮城県のように漁獲量が十分の一くらいだから前ら少なかったのである
ただそれでネットで魚がとれなくて生活が成り立たないから応援してくれというプログを見たことがある、やはり漁業は苦しいのだと見ていたのである
でも事故前でも補償金をもらっていたから船主とかは生活には困ることもなかったのである、ただ港があっても別にみんな魚をとることで生計をたてているわけではない、やはり松川浦とかなれば大きいから港の機能があるから船でも入って来たり火力発電所でもガスタンクが最近できたりとそっちの方の仕事がある、荷物も入ってくるから漁をする仕事よりそっちの方が仕事となっている

ただ事故後生業を返せ!

と裁判所に訴えた人たちがいる、この生業とは何なのか?
これはやはり第一次産業に従事する人達のことではないか?
それは自然の恵みで直接暮らしている人達だとなる、海で魚をとる、大地から実りをえる農民がいる、森から木材をとるキコリがいるとかそういう人達だろう
生業とは天職のことでもある、天から与えられた職業だとなる
何かむずかしいものではない、それは自然の中で自然から糧を得るとなればそれが生業であり天職となる、そういう仕事は今盛んに言われる

SDGs(エス・ディー・ジーズ)とは

持続可能な社会とは、「地球環境や自然環境が適切に保全され、将来の世代が必要とするものを損なうことなく、現在の世代の要求を満たすような開発が行われている社会。」と言われています。

持続可能な社会とはもともと戦後辺りまでそういう社会だったのである
なぜなら戦前でも農民が八割という社会は当然そうなるのである
自然から直接実りを得て生活していたとなるからだ
そういう社会は接続可能な社会なのである、なぜ自然が死ぬことがない、途切れることなく実りをもたらしてくれるのか?
自然そのものが何万年であれ何億年であれ地球が生まれてから生物が生まれてから持続可能でなかったら継続されない、そこに生物の死があり生命は途絶えるのである
ただ恐竜などは環境に適合されず死に絶えた、だから必ずしも生命がすべて継続されるとは限らない、人間も恐竜のようになることもありえるのだ
それは核戦争とかで放射性物質の汚染でこの辺のように空気でも水でも土でも汚染されればそうなるのである
だから高度な文明はかえって自然を破壊して汚染して生物が人間でも住めなくなることがありうる、一時この辺はそうなったからである

いづれにしろ人間の存在価値とは何なのか?

それは人間の仕事から見ればわかりやすい、漁師とか農民とか職人でもキコリとか生業と言われるものは自然があり人間が存在してからあった、それは食料などか生きるには欠かせないからあったとなる、縄文人でも生きるために貝をとったり山菜をとったり海の幸から山の幸を得て暮らしていたからである
そういう仕事は人間が生まれた時からあったとなる、だから生業となる
そして自然の中で生きているから自然と一体となる、海でも大地でも森でも山と一体化して暮らしていた、そこで体も作られたのである
身が作られたのである、からだは殻の意味であり死んだ人の屍とされる、からだは魂がぬけた抜け殻とされていた、でも身には心があり身につくとは仕事を通じて心も身に着くとなる、身につくとは魂が身に着くということでもある
本来の仕事とはそういうものである、でも一方で人間には仕事は職業として業ともなる
カルマともなる、そういう仕事もまた多いのである
何か武器を作るとか戦争を仕事とした兵隊もいる、今なら警官とかでもそうした業として仕事がある、ただ医者にしても何か必ず業を持つ、なぜなら人間がみんな犯罪を犯さない病気にならないとなれば戦争もないとなればそうした仕事は必要ないからである
そういう職業があること自体が問題でありない方がいいのである

とにかく現代文明社会は無数の業なる仕事が増えたともなる、本来の仕事が生業とか天職がなくなり人間はホイットマンの詩のように讃歌されないものとなった
それは東京とかの大都会を見ればわかる、そこで何か讃歌されるものがあるのかとなる
そこに自然はない、ただ人工的空間でビルの狭間で人は呻吟しているだけだとなる
そこにあるのは群衆であり大衆でありただ数として数えられるだけの存在でありそこに
人間を讃歌するものがあるのかとなる、ただ巨大なビルを仰いで人間は卑小化する
蟻のようになっているのだ、だから奇妙なのは人間の価値を存在感を見れば縄文人の方が人間の価値を具現化していたともなってしまうのである
その大都会から生まれるのは何か、宗教にしてもカルトであり政治は大衆を相手にするからナチス的なものになる、宗教はもともと清浄な自然から生まれたものだというときそれが全く無いからである、ただ数を誇り権力化しているだけである
そこに讃歌すべき人間はいないのである、むしろ機械が代わりとなり機械が讃歌されるとまでなる、人間はただ無意味なもの無価値なものただ数として権力化する存在になる

でも大都会に住む人が現代人のエリートであり田舎に住んでいる人達は金にもならないとか無価値に無意味にされている、田舎のインフラでも都会の人が税金を出して維持するとかなる、これもまた現代文明の矛盾である、それで田舎でも明治時代でも炭焼きしていた山の人は都会の人に頼らない自立しているとして誇っていたのである
何も都会の人が税金を払うこともないからである
ただエネルギー問題にしても今世界から石油でもガスでも石炭でも輸入するから外国に頼っていて自立していないとなる、そのエネルギー問題が大きい生存にかかわるものとなる風景として海岸に風力発電の風車があり火力発電所があり原発があったことでもわかる
そっちの方が大事な産業であり原発事故前ならそこで働く科学者が技術者が神官ともなっていたのである、この地を支配する者となっていたのである
それが原発事故で一挙に崩壊したのである、持続継続されないものとなったのである、


ゲーテ「漁師」(ドイツ詩100選を訳してみる 2)

お日さまも お月さまも
海の中でお休みになって
波を吸い込み 二倍も美しいお顔になって
戻ってくるではありませんか。
底深い楽園が 神秘的にうるおう青色が
あなたの心を誘いませんか?

https://note.com/lulu_hiyokono/n/nd4dbeb11f14f

お日様もお月さま自然の中でこそ映えるということでうまい詩である
とても都会ではお日さまも月も映えないのである、死んでしまうのである

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2022年05月04日

沖縄の人と話して水不足で困ると聞く (いろいろ不便があっても原発事故は住めなくなったから最悪だった)


沖縄の人と話して水不足で困ると聞く

(いろいろ不便があっても原発事故は住めなくなったから最悪だった)

離島の水事情とは・・・?台風の恩恵も。

この辺は地震の被害でボランティア団体が来ている、国際学生ボランティアとかもきていた、DRTは一番早く来た、これは結構規模が大きい、重機とかもってきたしプレハブも建てて本格的である
その一人が沖縄の人だった、聞いて見たら沖縄は水不足で苦しんでいる
それを実感として言うからわかる、私も沖縄の波照間島とかに行ったら井戸が枯れていたそこに人が住んでいたが住まなくなった
沖縄では島では水の問題が大きいと思った、もともと水は欠かせないものだからどこでも水の問題は大きい、山に暮らす棚田でも山の上だから水がたりなくなると放送があった
山だから水があると思ったがそうではない、やはり川のような大きな水源がないと田んぼでも維持できない、平地では山から水が流れてくるからいい、それでも平地でもやはり水争いがあった、村でも水の奪い合いがあった

沖縄ではただ雨が豊富であり台風も来るから水をためるタンクを常設している
それでも水不足には苦労する
それで米もあまりとれない、米は本土から買うともなる、それで本土の米は米だけでもうまいと言っていた
何か安い米しか買えないからそう言っていた
新潟県の棚田では冬は深い雪に埋もれる、その雪にも効果があり棚田で作る米はうまいとしている,新潟県の米は水がいいからうまい
この辺では山の方の村は水がいいのでうまいとされていて買っていた
何でも水の影響が大きいのである、ただそこは土砂崩れで苦しんできた場所である
土の質の影響でそうなっている
そして鯉ともともと食料として養殖していたが錦鯉を作るようになりそれが人気となった自然条件が悪くても常にプラスとマイナスがあるのが自然を基に生活する人間にある
だから悪い事ばかりではない、雪の恩恵もある

ともかく人間を社会を知る時、実感を得ることが大事である
それでちょっとでも地元の人と話すとその話すことから実感として感じるものがある
本とかではわからない、テレビの放送とかでもわからない人から直接の実感を感じることがある、それで柳田国男は土地の人から話を良く聞いて文書より口で伝えられた口碑を大事にして民俗学を起こしたのである
本当にその土地のことは別に学者でなくてもその土地で生きている人がわかるのである
地理と風土とかはそうなる、そこに住んでみないとわからない
風を感じることでもそうである、その土地にどういう風が吹くのかわからないのだ

そのために知床観光船では北西の風が危険だというときそうだった
原発事故では3月頃になると海から東風が吹きそのために放射性物質の塊りが飯館村の
山の方に流れて被害が一番大きい不運があった
海の方は原発の煙突が見える浪江では本当にひくかったからである、0・5マイクロシーベルトだった、海側がみんな低いものだったのである
もともと科学技術でも風土の影響を受ける、その土地の風土を良く知らないと科学技術でも何でもできない、人間は自然に制限されて生きるものだからである
その自然の制限を越えることはできないのである
それを越えようとした時災いが生まれるようになっている
おそらくコロナウィルスもそうである、ウィルスは元来風土病とかでありある土地から生まれる、もしそうした場所に踏み入らなければウィルスは移らない
その土地にとどまっている、でも自然でもずかずかと人間は入り自然を壊してきた
そこでウィルスも今度はグロ−バル化した交通が発達したことで世界に一気に拡散したのである

とにかく人間の生活はその自然に制約されている、でも制約されていてもその中で生き延びる術を発見して生は継続されてきたのである
棚田の暮らしもそうであり島での暮らしでもそうである、そこは不便でもやはり人間が営々と暮らして生きれる場所としてあった、でもそういう場所が現代だと限界集落とかなり人々が住めない土地として放棄されるようになる
とてもこんな不便な所に住めないと言うがでも江戸時代から戦前でもそういう場所に人間の生は継続されていたのである
結局原発事故ではそうしした継続された生活が遮断されて途切れて村や町自体が住めない町や村になってしまったのである
一次産業が農業でも漁業でも林業でも衰退する、そして農業などするなと親に殴られたという人が原発で働いていたが故郷にも住めなくなったのである

江戸時代から戦前までも長い間、故郷であれ不便でも貧乏でも人間は住むことができた
でも原発事故は住めなくしたのである、だからこれは何だったのか?
住めなくなるということは最悪てある、いくら貧乏でも苦しくてもそこに住みつづけることが生きることである、そして一代だけではない、代々住みつづけることができる場所であることが基本としてある、確かに水不足とか気候の影響があって住めないとういことも起きて来る、でも江戸時代から戦前までも人間は生を受け継いできたのである
だから原発事故前でもまた他でも農業では生活できないからやめる、そして村は放棄されるとなる、それは何なのだろうとなる

もちろん農業は戦前でも過酷であり貧困に苦しんできた、農業だけでは苦しいからつづけられないとういことがあった、でも不思議なのはそうあっても生活が継続されてきたのである、千年であれ継続されてきたのである
でも現代だともう継続できない、農業では漁業でもやっていけないとなり原発に頼ったのである、他でも農業以外にこそ生きる道があるとして人々が科学技術であれ別な産業に頼った、でも千年でも一応その場で住むことはできた、その糧は少ないにしろ与えられていた、でも現代になると様々なことで住んでいられないとなった
燃料でも石油であり電気が不可欠でありとかガスなしでは生きられないとかなった

でも不思議なのは戦後十年は炭が燃料でありほとんど身近にあるもので一応生活していた住めなくなるということはなかったのである
とても住めないからと他に移り住むということもなかったのである
なにがそこにが納得できないとなる、山村とかは住めないとして捨てられる、千年とか住み続けた場所が捨てられる、それが理解できないのである
例えば相馬藩だと越中とかの人々が危険を犯して藩を脱出して相馬藩に移住したのは
ただ土地が与えられるとういことでそうなった、相馬藩では飢饉になり三分の一の人口が減った、その穴埋めとして移民を奨励してそうなったのである
これも今からすると何で苦しい農業をするためにわざわざ命がけで苦労して移住するのかとみる、でも農業社会では土地が一番大事だからそうなった
土地が与えられるということでそうなった、日本が満州を得たいというときも広大な土地が手に入るからであった、そこは寒冷地帯でも日本人は米を作ろうとしていた
それはその時農業社会だからそうなっていたのである、つまり農業で必要なのは第一に土地だからである、小作だと土地を持てないから貧乏だったとなる、土地が最大の価値となっているからそうなったのである

いづれにしろ住めなくなるとういことが人間にとって最悪ではないか?

いろいろあっても何とかここで住んでいけるとなれば我慢できる、でも住めなくなるということは最悪である、空気とか水でも土でも放射性物質に汚染されて食糧をも作れないとなると住めないとなる、でも現代では別に金があればどこでも移り住むことがてきるということで人々は代々住んだ故郷でも捨てたとなる
ウクライナのように国が戦場になったら住めない、だから最悪なのである
でも原発事故でもそういうことが起きたのである
ウクライナの人はキーウ(キエフ)の近くのチェルノブエリ原発で事故がありそこから避難した人があり今度は戦争で日本に避難した人もいる
要するに戦争は最悪であり原発事故でも住めなくなることが最悪だったのである
それで大熊だったか蝋燭でもいいから家族一緒に住めるだけでいいと言う人がいたのである、とにかく住めることが第一だからである、昔のような炭の暮らしでも一応住めるのだからがまんできるとなる、原発事故の罪深さはここにあったのである

SDGsとは「Sustainable Development Goals

 サステナブル(Sustainable)は、sustain(持続する)とable(〜できる)からなる言葉。. 「持続可能な」「ずっと続けていける」という意味があります。.

最近このことが良く言われる、このことが原発事故で証明された、もう住めなくなり持続可能もなにもなくなったからである、このことが最悪だったのである




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2022年01月18日

南相馬市長選挙の争点は何なのか?ー復興していない避難区域 (政治は利益の公正な配分が主題ー補償金配分で鹿島区は不満)


南相馬市長選挙の争点は何なのか?ー復興していない避難区域

(政治は利益の公正な配分が主題ー補償金配分で鹿島区は不満)


南相馬市は11年前の原発事故で、南部の小高区を中心に避難指示が出され、6年前に解除されましたが、人口は震災前から2割近く減少した一方、65歳以上の高齢者の割合は36%と、10ポイント余り上昇しています。

また、深刻な医療人材の不足から、小高区では、現在も入院機能を備えた医療機関がない状態が続いています。

今回の南相馬市長選挙の争点が良くわからない、明確ではない
桜井前市長は左寄りの人だったから野党からの支援があり前の選挙では原発反対を訴えていた、でもその他は良くわからない、ただこの辺ではもともとこれだけ原発被害があるのだから原発には反対である、だからそういうことよりこの辺で問題なのは補償金の分配だったのである

鹿島区では30キロ外になり補償金が少なかった、正直自分がもらったのは一人70万であり二人だったから140万だったとなる
でも原町市は三倍ももらっていたのである、その差は大きい、ただそのことを鹿島区の人はあまり言わない、ただ不満が内にこもっているとなる

そして

医療費無料が10年でありそれが一年伸びた!

これも大きい、なぜなら私は病院に通っていて半年で無料が打ち切られたことを身近に感じたからである
すると老人が多いから10年間医療費無料というのは大きい、これも30キロ内だけは特別待遇になったのである、ただ小高区は避難区域になったから補償金が多いのは当然だとなる
要するに思うに原町は鹿島区の二倍でも良かった、その余った分を鹿島区にまわせば良かったのである、ただ第一原町区の人がネットで鹿島区には金はやるなと市の予算を使うなと訴えていたのである、ただそれを知っている人は少ない、ネットはそんなに影響力ないからである
でもそれを読んでいたときこれは何なのだろうと思った

その後今の市長になり最近高速が無料になった、でも遅かった!

老人が多いと医療費が負担になる、近くにそうして病気の老人がいるからわかる
何かと医療費の負担がある、だから医療費無料は大きいのである
ともかく今や日本は少子高齢化で老人が増えるばかりであり南相馬市は原発事故で65才以上の人が35パーセントとか他より多いしその将来もますます老人ばかりになる
知っている人でも必ず糖尿病とかガンとか眼が悪いとか泌尿科だとか病院通いなのであるでもその人は金もないのである、そんな人ばかり増えたらどうなるのか?
それで将来でも暗い見通ししかできないのである

南相馬市は小高と原町と鹿島が合併したけど原発事故で補償金で分断された
合併して共同して共益関係になればいいが分断された
政治というのは常に地域エゴがありそれで争うとなる
そもそも政治というと戦国時代とかあれば地域同士の争そいなのである
何か入会権の争いがあり大名がかかわり戦争になったとか言う人もいる
水争いとかもあり権益をめぐって人間は争いになる、その構図は世界でも変わりないのである、それが人間の業(カルマ)であり変わらないのである

原発だって東京が危険だから福島で作れとなったのもそもそも地域エゴだったのである
自分たちは安全を計り福島はその危険を引き受ける代わりに東電で金を出すという仕組みだったのである

そして政治は利益の配分の調整である

これは必ずある、原発の補償金でもそうだし今度はコロナウィルスの補償金でももめたのである、必ずこの利益の権益の分配でもめるのである、それが戦国時代にもなったのである

だからこの利益の分配がうまくいかないと分断して協力できなくなる
政治家の役目はその分配を公平にすべきなのだがそれがうまくいかない
ただ今回の選挙の構図は中央の政治が反映されていた、桜井市長を応援するのは左であり門馬市長を応援するのは自民党とかの現政権である
二つの勢力があり票の取り合いになる、前回の選挙では200票差で桜井氏が負けたから今回も接戦になる
ただ地方だと必ずしも右左とか関係なく地元に地盤を持つ人が有利になる

そして意外と政経東北で今の門馬市長が相馬市長の立谷 秀清氏に頼っているとか書かれた、立谷氏の助言で動いているとか書かれた
それもわかるのは立谷氏は医者であり病院も経営している、だからコロナウィルスでも
いろいろ検査してそれが全国でも注目されて取り上げられている
つまり医者だからそれができたのである、それが強みとなっていたのである
ただ自分の病院経営にかかわってそこに力をそそぐとか批判もあった
ただ一時震災の時水を配ることでミスがあり同級生から殴られたという事件があった
不手際があってそうなった、でもその後は医者として手腕を発揮しているともみる

南相馬市長でも桜井市長は畜産課の大学を出ていて相馬市長は医者であり飯館村の村長の菅野氏も畜産課なのか農業関係なのである、それから門馬氏は東北大の工学部というから理系なのである、理系だと原発事故では力を発揮だきたかとなるとそうでもない
なぜなら吉田所長が肝心の復水器のことを知らなっ方のである
それは自分の資材の分野ではなとして知らなかったのである
今や社長でも会社のことを全部知る人はいないのである、それだけ複雑化しているから社長でもわからない、そしたら支持も出せないとなるのだ

ともかく南相馬市では原発事故からの復興が最大問題である
でも復興はしていない、むしろ復興というより縮小してコンパクトシティとかの構想にもなる、小高の人は原町区に移っている人も多い、そして取り残されたのが老人なのである子供たちは流出して老人だけが残された、そういう場所で復興がありうるのか?
元に戻すというより何か別な対策が必要になる
つまりこの辺では原発事故で極端な現象として日本の未来を先取りした地域になった
自治体がゴーストタウンになり消滅するようて状態になった
それも回復できないのは少子高齢化とか日本の経済の衰退とか縮小化になりそうなった
戦後の焼け野原から日本が復興したのは子供が本当に多かった、そして戦争の引揚者は
不便な土地に開墾に入り生活した、それは働く場所がないそうなっていたのである

でも半分は撤退したのである、だからそういう場所で良く生活できたとなと今ならみる
そういう人を私は知っている、それも小池に開墾に入っていた、それは街から近いのである、そんな近くで開墾する場所があったというのも不思議なのである
飯館村とかにはあっても街の近くにあったというのが今になると理解できないのである
そこに私は店をしていて子供の時卵買いに行っていたのである
その人は一人で暮らしていてぎりぎりの生活だったのだろう、その時かえって良かったのは元からの農家だったのである、食料を作っていたから良かったのである

何か地方の選挙だと政党中心ではない中央政治とは別になる面がある
地元密着であっり地元の問題を解決することである、でも原発は中央政治と密接に関係していたのである
それは沖縄でも辺野子のアメリカ軍基地建設問題でも起きている、これはアメリカ軍の基地問題だけど原発ももともとアメリカと関係していた
アメリカの要請に答えて原発が最初読売新聞の正力松太郎が新聞で宣伝したとされる
そもそも原発の技術はアメリカ指導で作られたものであた国産ではないから事故が起きたともなる、管理がてきないものだったのである
そのことがわかったのは事故が起きたとき最初にスピーディ(放射線量探知機)のことを連絡したのはアメリカだったのである、日本ではお手あげであり助けを求めたのはアメリカだったのである、それだけ日本では原発を管理する能力もなかったことの証明だったのである、だから事故になって東電でも日本政府でも何もできなくなっていたのである

いづれにしろ何を判断材料にしていいかわからない、ただもしかしたら例えば自民公明が一体なら創価の票が自民に投じられるなら門馬氏が勝利するとなるからこういうとき自民は創価に頼りがいあるとなるのか?
ただ最近公明も自民と協力しないと分裂の危機にもなっている、ただ地方の選挙でも一定数の票を操作できることはこういう接戦になると強みだと思った
第一浮動票はあてにならないのである、気まぐれなのである
自分自身でもそうである、右でも左でもない何かの組織に属しているわけでもないから
気まぐれであり選挙で票を得たい方になれば頼りにならないということがわかる

何かその人は前から桜井市長のことを悪く言う、鹿島区の人も桜井市長のことを悪く言う人が多いというがこれも根拠が良くわからないのである
政治はその人の人格などあまり関係ないように見える
要するに政治とは公正な利益の配分が第一である、それで必ずもめているからである
そうしたら南相馬市としてみんな一体となり協力しえないとなるからだ
ただ完全に公正に平等に利益を半分することは不可能である
得する人と損する人が必ずある、その調整が政治なのだと見る




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病床数が半分に減っている

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  農業の衰退はひどい、60以上が担い手であり若い世代は極端に少ない
  将来維持できなくなるり耕作放棄地がまた増える

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鉄道も回復していない、こんなに減ったのか、コロナウィルスでも打撃を受けた、だからスーパーヒタチでも人が乗っていないように見えた、またオミクロンでも警戒して乗らないから打撃である
鉄道は相当な打撃だった、前は駅の中で遠くから来た人とか話ししたけどできなくなった
コロナウィルスでもオミクロンでも警戒するから人と接することが危険になるのでできない
ただこれはただ震災から6年後だからこうなっている、その後回復したがまたウィルスで減ったのである





この図で見ると人口7万から2040年に4万くらいになる、3万減る
80才以上が一番増える、それは今の70代とかが団塊の世代が80以上になってゆくからである、その後も65歳以上の高齢者が増えてゆくのである
そして子供と若い世代が40以下とかが本当に少ないのである
だから将来の人口構成は80才以上が一番多く下の世代を圧迫する
でもさらに2040年から何十年とかすぎると老人は少なくなり全体の人口も半分くらいになるかもしれない、
人口はそれだけ縮小してゆく
これは南相馬市で原発事故で極端化したが全国でそうなのである
夕張市とかはもう自治体として維持できないようになっているし室蘭市の人口が18万から8万以下になったのは驚いた、鉄鋼工場がなくなり働く場所を喪失してそうなった
日本が縮んでゆくことの衝撃である

老朽化したインフラの水道管とかでも修理に費用がかかる、それも負担できないとかなるつまり今までも自治体のインフラであれサービスも維持できなくなる
ゴミを処理するのにも市民が金を払うとかなる、様々な負担が増えるのである
生活保護にしても最低限もらえない、食べることもできない状態になっている
物価高があがりそうなっている、でも市では知っていても援助しないのである
その余裕がなくなっているのだ、それは全国でそうなる
老人になったら生活保護になればいいとういが最低限の保証すらできない状態になるしなっているのである、コロナウィルスでも生活保護が増えたのは65才以上の老人なのである

これから日本が縮(ちぢ)んでゆく衝撃がつづく、そして適正規模人口になって安定するとなる、膨大な耕作放棄地とか空家が2000万軒とかそういうことは東京でも起きてくる、人口が急激に減少してゆくからである
南相馬市でも7万から4万になる衝撃は大きい、いろいろな施設でも維持できなくなる
維持費がかかるるからだ、特に医療関係の人員が確保できない、グラフでも病床数は震災前の半分になっている

こういう状況になると南相馬市の未来とか何なのかとなる、小高とか避難区域はもう維持することがむずかしいともみる、それで小高から原町に移住した人が多い
また浪江とかからも復興住宅に移住している、そしてその原発避難区域は復興できるように見えないのである、また飯館村でもそうである、とても復興できると見えないのである取り残されたの老人ばかりであり若い人は流出したとなるからだ
まるで姥捨て山のようになったともみる

もしかしたら老人は故郷に愛着があるからそこで骨をその土地に埋めるというのもいい
でも奇妙だがその跡継ぎが供養する人もいないとなるとその土地に死んでも浮かばれないともなる、なぜなら死者でもやはり生者とつながって生き続けるからである
死者だけになるとそこは幽霊がさまようまさにゴーストタウンになるのである
お参りされない神社とか供養もされない墓かとが捨てられてそれも一段と寂しいものとなる、やがて幽鬼ともなり彷徨う死の町や村になる

一旦人が住むとそこは自然にもどるわけではないのである、死んだ人の霊というか行き場がなく彷徨うともなるのである
私の家族は全部死んだけど依然として家で花を活けたり供え物したり語りかけたりしている、返事はないにしろやはり死者そこで笑っているように見えたのである
それがなくなると死者も笑わないし幽鬼と化してゆく、浮かばれない幽鬼となり彷徨うとなる、それが町とか村全体で起きたのがこの辺なのである

だからまるで現実とは思えない、映画のようにも思えたがこれが現実だったのである
震災から十一年過ぎてもやはり同じなのである、原発避難区域は復興してないのである
グラフでも農業自体に従事する人も60才以上であり若い人は極端に少ないから維持できるのかとなる、農業は労力がかかる、機械化してもかかる、その割には収入が少ないからこれまでもやめる人が多かったのである
だから原発事故の周辺地域は元の相馬藩内となるが復興していないのである
それをこれからどうするのか、市長選挙で問われるてもそれに答えられるのか?
それは市民全体の問題として継続されているのがこの辺なのである




posted by 天華 at 17:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2021年12月26日

南相馬市の地産地消のソーラー発電風力発電の取材 (そのデメリットもあることは伝えなかった)


南相馬市の地産地消のソーラー発電風力発電の取材

(そのデメリットもあることは伝えなかった)

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再エネ導入比率90%超!南相馬 すごい発電ルポ
【山岡淳一郎のニッポンの崖っぷち】


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この一部が水没した

南相馬市鹿島区の烏崎のソーラーパネルが水につかり大被害
(みんな使い物にならない、交換するほかない)
http://musubu.sblo.jp/article/186684223.html




飯舘村のメガソーラーに直撃雷!? 接続箱2つで火災(page 4)

落雷の直撃により、33枚もの太陽光パネルが損傷したメガソーラー(大規模太陽光発電所)がある。空に向かってタワー(支柱)やブレード(羽根)の伸びる風力発電設備は、国内に導入以来、落雷被害に苦しんできた。一方、野立てのメガソーラーに直接、雷が落ちることはほとんどない、と思われてきた。だが、必ずしもそうではない。
https://project.nikkeibp.co.jp/ms/atcl/feature/15/302961/021400042/?ST=msb&P=2


事業用太陽光発電所に対し太陽光パネル1m2当たり50円を課税する「太陽光パネル税」の導入に現実味が出てきた。屋根上を除いた連系出力10kW以上の野立て太陽光に課税するもので、岡山県美作市が法定外目的税として新設を目指し、今年3月に条例案を議会に提出した。
https://project.nikkeibp.co.jp/ms/atcl/19/feature/00007/00043/?ST=msb


春先に薪ストーブに入る長さに
(当然だが、それぞれの薪ストーブで燃やせる薪の最大長さがある!)

チェーンソーで玉切りし、

斧や薪割機で割って、

日当たりがよくて風通しのいい、

雨のかからない場所に積んで

半年以上乾燥させないといけない。

家を建ててから気づくことF・・・薪ストーブは本当に手間がかかる!
https://www.kasahara-net.jp/blog/awareness/entry-83.html



前桜井市長がyoutubeに出て南相馬市の電力について語っていた
南相馬市は原発事故後にソーラーパネルとか風力発電に力を入れて来たからだ

意外だったのは東京にソーラーパネルの電力を送っていたことである
地元ではなく東京なのかとなる、あとは東北電力に送っているがそれも地元ではない
東北全域で使うとなっている

この地産地消のエネルギーでも問題がある、私が一番気にしているのは景観を悪くすることである、それを一番感じたのは宇多川上流の山がまるごとソーラーパネルになったことである、あれは危険でもある、人家がないにしろ水の保水能力がなくなり下流の相馬市にも影響する、現実に相馬市内全域が水害になった、水浸しになったからである
宇多川の堤防が一部決壊もしたから被害が大きく広がったのである

また飯館村で落雷があり被害があった、それから取材した右田でも掘りから水があふれ水没したのである、もともとそこは低い場所で水が集まる場所だったからである
津浪でも塩崎の方まで水がおしよせたことでもわかる、低湿地帯だったのである
そのことを語っていた、ただ熱海のような場所と違って回りに人家もなくなったので安全だとパいえる、人家がないと環境が悪くなっても文句を言う人がいなくなるのである
もし人家があったら風力発電もうるさいとかなる

そこに人家がなくなることの危険がある、飯館村とかでも人が住んでいてももう全体で一二割とかしか住まないとなると村でも景観が悪くなったからとか文句言う人もいなくなるのである、そして放射性廃棄物の処理場にされる
そして南相馬市にその放射性物質が入ったフレコンバックが破れて川に流れそれが南相馬市に流れて来るのである
つまり人が住まないということは現代では自然にもどることではない、国でもなんでも勝手にされてしまう、人が住んでいれば環境でも配慮するから反対するこになるが反対する人もいないか危険なもので勝手にされるのである

そして危険が回りに及ぶのである、だから飯館村の村議会選挙で南相馬市とは関係ないから口出すなと応援する人に言われたことが納得できないのである
もう飯館村は自治体として自立してやっていけないとも見るからだ
現実に南相馬市と合併するほかないという女性もいたからその人は現状を理解していたとなる
川俣村では前と同じように住んでいるから飯館村で風力発電を作ったら景観が悪くなると反対したからである、そこに前と同じように人が住んでいるからである

つまり人が住まなくなるとそこは自然に還るけでもない、かえっていろいろな問題が起きてくるのである、だから意外とそれが周りにも影響する、だから飯館村の問題は回りの市町村の問題にもなるから問題なのである
第一原発事故ではトリチウムとか海に流すことで世界から海を汚すなと批判されたことでもそうである、環境破壊は一地域の問題ではない、世界の問題になっているからだ
そのために二酸化炭素を出すなとか接続可能な社会を作るということに世界でなったのである

このyoutubeで南相馬市では薪を使う家が増えたと言っていたがこの薪を燃料にすることはとんでない労力がかかり手間になるのだ
それは石油を自動で入れないで手でいちいち押して入れていたことでわかった
これがめんどうで手間だったのである、その労力は馬鹿にできない、今は何でも機械でして電化しているから一人暮らしもできる
もう昔のように炭とか使っていたらこれも手間である、その手間を考慮したら今は簡単にできない、覚悟が必要だというのもわかる
子供の時は自分は風呂炊きが仕事だった、それも電気ではないからガスでもないから
紙くずとか残った木材の切れ端を無料でもらって炊いていたのである
つまり家事は本当に労力がかかっていた、だからそういう時代にもどることは簡単にできない、今はなんでも便利になっているし余った労力は別な方にまわす
コンピュター化してAI化しているからである

確かに地産地消は必要である、何か日立て小型の原子力発電の装置をカナダから受注したとか聞いた、この小型原子力発電は事故になっても軽くすむからいいとされていた
福島原発となると余りにも巨大すぎたからその巨大さによって甚大な被害になった
故郷に住めなくなったのである
でも再生可能な自然エネルギーでまかなうことも厳しいものがある、だから原発も20パーセントは維持しようとしている、これも大きな問題である
日本では風土的に原発とかでもソーラーパネルでもあっていない、地震はあるし津波もあったしソーラーパネルでも広い土地がないことが問題なのである
中国でもアメリカでも無限の土地がある、平坦な土地がいくらでもあるのとは違っているだから丸森の山ごとソーラーパネルにした、それで保水能力が消失して人家がなくても
宇多川が増水して水害になることがありうる

最大の問題はFITてあり20年間高く電力を買い取られることである
でもそれも後十年くらいでありあとはそうはならない、これだって税金だから金がかかっている、その分上乗せられて税金としてとられているのである
なんかこのyoutubeではメリットは語られていてもデメリットはそれほど語られていなかった
何事メリットとデメリットがある、放送は必ず一方的になる、自分自身でも偏るからである、ただ地元で原発事故にあったことで関心を持つようになったのである

おそらくこの主催者は左寄りの人だろう、前市長の桜井氏も左寄りであり原発反対で市長選挙で訴えたが小差で敗れた、だから何か偏っている
今度来年の一月に南相馬市長選挙がある
今の現市長の渡辺氏が東北政経で相馬市の市長の手下のようになっているとか批判されて問題になった、その記事が意外と影響するかもしれない、かなりのマイナスになるからだただ東北政経というのも相双リテックの宣伝をのせていたからそもそもこうした地域の雑誌でも偏っているのである
結局地域の雑誌とか資金がないからそうなる

でもこのyoutubeとかのテレビ放送は金がかからない、でも取材となると結構めんどうになる、とても一人ではできない、でも資金はそれほどかからない、だからこうして個人局でもyoutubeで放送しているのである
私でもプログでも手間なのだけど放送できる、だから一人でしている
家事も全部して放送しているのである、それだけ通信が発達した結果できるようになったのは大きい、今までにはないものが次々に放送されて読まれる
それによっていろいろな見方が生まれる、第一地方のことは全国放送ではしにくい
地方地方にはそれぞれの事情がある、南相馬市内でも違っている
福島県ならハマ、ナカ、アイヅとなり風土も歴史も違っている、それを知ることはなかなかできない、だから南相馬市と相馬市とかでもいろいろ放送するものがあるとなる

それで毎日こうして自分もプログで書いているのである、こういうことがかなり変わったことである、こうして自分なりの意見でも書くことができるからだ
すると一方的な見方にはならないのである
ただ来月の南相馬市長選挙の情報は不足している、争点もまたわからない
原発反対だけでは決められない、第一みんなこの辺では事故で反対が多いからである
それは当然でありそれに代わる何か政策とかを打ち出さないと判断しにくいとなる
posted by 天華 at 16:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2021年12月19日

原発事故と酷似していた十津川警部の推理ドラマ (原発が産業廃棄物会社となっていたー大企業の下請け会社問題)


原発事故と酷似していた十津川警部の推理ドラマ

(原発が産業廃棄物会社となっていたー大企業の下請け会社問題)

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今日見た推理ドラマの十津川刑事出演の構図は原発事故と同じだった
原発が産業廃棄物となっていた
大企業がその産業廃棄物場を青森の各地請負仕事していた
そこに政治家がかかわり大企業がかかわり広告会社がかかわり下請け会社がかかわる
そこに悪の権力の構図ができあがる

このドラマで一番印象的だったのは下請会社の人である

「私らは小さな会社です、大企業から仕事をもらえないとつぶれししまうんです」

この言葉切実だったのである、これは東電で働いていた電気関係者が事故の時千人とかいたと働いている人に聞いたからである
また親戚でもないが東電の下請けで会社を経営している人もいたからである
また東電に逆らうと仕事をもらえないとか言う下請けの会社がいる
東電に文句があっても何も言えないという人もいた
配管など老朽化して危険なことを知っていても東電には何も言えないと言っていた
つまり大企業の東電の権力は絶大なものだったのである

それは自治体とかを越える権力であった
自治体に命令できる権力だった

産業廃棄物の反対運動している人もこのドラマでいた、弁護士まで雇い戦っていた
でも下請け会社の人に殺されたのである
これも何かこの辺でもありえたと思う
まずその権力と金は利権は信じられないほど大きなものだったからだ
それは除染費用で6兆円も国の金がでたとかそれが大企業が請け負って下請けでも請け負った
それでたいして技術もないのに相双リテックなどに何十億の金が入り幹部が山分けしていたのである、みんなその原発マネーに狂ってしまったのである

だから反対などできなかった、漁業組合の利権も大きかった
そういう土建業者とか漁業関係者とか農業関係者の農協とかは力をもっている
票田でもあった、利権を得る共同体なのである
その人たちは結構怖い面がある、その利権団体を批判したら本当にこのドラマのように殺人までなっていた、下請け会社ではドラマでは反対同盟の人を殺したからである
この辺でも事故前に原発に反対していたら住めなくなるだけではない、村八分にもされ
殺されまでなっていたかもしれない、人間の欲は抑えられない、危険は無視される

つまり

俺たちの会社が大企業から仕事をもらえないとつぶれるんだ」

こう言っているのが切実だったのである、それは東電の下請け会社が多く東電の城下町のようになっていた浪江とか双葉とか大熊町とかではそうなっていた
まず東電がなかったらその自治体自体が財政でも成り立たなくなっていた
勤め先とかでもそうであり町全体にしても原発マネーが回っていたからである
だから小高に東北電力の原発も工事が始まる時建築関係者は喜んでいたのである
でもそれはもうここだと20キロ内になっていたから怖いことだった
そもそも自分は原発のことを知らないし関心がなかったのである
30キロ離れているから関係ないと見ていたのである

ただ専門家は東電内で働く人たちは危険を感じていたが東電の権力と国の権力でおさえられていたのである
そして地元でも建築土木会社に関係で仕事している人が多いから自分たちの生活がかかるから簡単に反対できないのである
地方では権力を持つのはそうした人達でありあと医者など医療関係者も持っている
ただ東電とか大企業になるとそれはもう自治体を支配するまでなっていた巨大権力だったのである

広告の仕事をしていた女性の人は国会議員に世話になっていたからその殺人にも加担したのである
人間は金に困ると借金したりするとモラルが消失して悪に加担するのは推理ドラマの定番である
もう毎月電気水道ガスがとめられるとなれば金が欲しいしかない、その金の出どころなどどうでもいいとなる、それが人間なのである、追い詰められ人間はモラルが消失する
犯罪になる歯止がかからなくなるのである

この構図にいるトップが東電であり県であり国だった
渡部恒三はトップの政治家であり原発をもちあげていた、そして息子はアメリカの原子力会社のGEの社員になっていたのである
その渡部恒三でも持ちあげていたのは政経東北であった
福島県のマスコミは報道関係は例えば福島民報とは政府の県の広報機関なのである
なぜなら県が50パーセント出資して成り立っているからである
だから原発の危険など報道しないのである

原発は国家権力が働いているから逆らうことはできない、国家の命令が県に下り県では自治体に命令するのである、そのために地元に飴を与える、金を与えるのである
それで地元も完全にとりこめたのである
そうなるともう誰も反対できないとなる
今でこそ原発を批判するがこうして国家権力で「安全神話」を作られた時もう逆らうことはできない、それは戦争の時と同じである、反対者は特高がきて警察に逮捕される
なぜなら検察と警察も国家権力だからである、戦争でも国家権力が実行したものであり
従わなければ検察と警察がかかわり逮捕されるのである
マスコミでも政府の県の広報機関であり「安全神話」に加担していたのである

このドラマは本当に生々しいリアルなものだった、それは本当に現実を反映したものだったのである、こういうことなのかとわかりやすかったのである
私自身が今原発事故のことでいろいろ追求しているけどまず事故前だったら怖いことになった、殺されることだってありえたとこのドラマを見て感じたのである
つまり下請け会社にしてみれば生活がかかっているからそうなったのである
ここでも同じ事が起きても不思議ではなかった
その後も原発事故の補償問題で南相馬市とか飯館村では分断された
その額がまた大きかったからである

ただ自分が原発事故のことを追求できたのは小高と原町区は鹿島区より三倍もらっているし医療費と高速料金が十年も無料だった、そして医療費無料が一年伸びたのである
ただ鹿島区も高速料金が無料にはなったのである
ただその差も大きいものだったのである、ただこれは相馬市とかも別に放射線量など同じでありそれで6万もらって終わりとかなっていた不満だったのである
ただ私の住んでいる場所は一人70万もらった、相馬市は六万しかもらっていないのである、原町区は三倍もらっている、医療費無料とかでも差別された
そのために生活保護でも医療費でも一部金がかかり国民年金をわずかでももらっていると最低限すらもらいないのかもしれない、4万くらいもらってどうして生活できるのかとなる
これはここだけではなきい、ロスジェネ世代はもう生活保護すらもらえない、もらっても雀の涙ということを示唆しているのである

ともかく人間は利権と利益には敏感でありそのために争う、またその目の前の利益のためにモラルも消失する、危険も返りみなくなるのである
この辺ではそれが他より強かったともなる
こういう状態ではもう何も反対はできなかった、反対運動している人達もいなかったからである、左の人達でもしていなかったのである
それで新潟県の小さな巻町でどうして反対して原発を作らせなかったのか不思議なのである、そこには新潟日報などが応援していたのである
これは本当に稀なことだったのである

金をもらいば何でも危険なものでも容認する、それが人間である
それに逆らうものは殺されるとまでなるから金は怖い
でも金をもらうことは必ずやはり責任がつきまとっているのである
金をもらったことは許可したことでありそのことで起きることの責任が生じていたのである
だから原発事故でこれだけの被害にあっても東電とか国家にも何か批判できないとしているのである、それは金をもらったからだとなる

「あなたたちに金をやりました、十分な金をやりました、だから批判しないで下さいよ」
こうなっていたとなる、ただ人間は目の前の利益だけを権利だけを見るのである
私だって原町区のように三倍の補償金をもらっていたら何も言えないのである
あなたは補償金それだけ受け取りましたから何も言わないで下さいとなるからだ
ただ南相馬市内で公平でなかったとして批判しているのである

この構図は何か共通している、どこでもあうりうることである、それは権力とはどういうものかをわかりやすく示しているからだ
権力の恐ろしさをわかりやすくドラマ化しているからである
ただ江戸時代の悪代官のように単純ではないから簡単には理解できないのである
posted by 天華 at 17:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2021年12月05日

南相馬市原町区北泉のサーフィン場で清掃のボランティアに逢う (小高に住んでいる女性である)


南相馬市原町区北泉のサーフィン場で清掃のボランティアに逢う

(小高に住んでいる女性である)

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Tシャッツを飾っているので何だろうと思った
清掃のボランティアだった、海をきれいにしている人達だった
その女性は秋田からきて仙台市にも住んで小高に今住んでいる
地元のことに詳しいから結構長くいるとなる

まだボランティアがいるということだがあまりに関心がなくなっている
一時はボランティアに来ても帰ってゆく人も多いという、やはりなじめないのでそうなる何か地元でも関心がなくなる、外部からでも十年過ぎると関心がなくなる

何かその女性は積極的であり秋田から来た東北人にも思えない
それで語尾にんだといっていたのは何故だろうと思ったら秋田弁でンダスと語尾の発音になる

このンダというのは東北弁で共通なのである
ところが仙台弁だけはちがう、だっちゃだっちゃになる、だからもともと伊達藩の仙台圏は東北でも異質の場所なのである
ただ丸森の人はんだちゃといったときんだにはこうしてバリエーションがあると思った
んだーだっちゃが合成してんだちゃになったのである
方言は何か国の訛りというように面白いのである

とにかくどうしても震災から十年過ぎて十一年にもなると関心が相当に薄れる
何か私は景観にこだわる、景観のいい場所には行ってみたいとなる
小高とかはあまり景観に特徴がないのである、双葉とか大熊辺りでもそうである
飯館は別である、高原の別世界になっていたのである
丸森は阿武隈川あり蔵王が見えるとかであそこは景観に魅力がある
鹿島区だと意外と気づかないかもしれないが蔵王は鹿島区からも晴れた日にはっきり見えたのである、この辺では高い山が無いから蔵王を見れることで南相馬市では鹿島区がいい場所だとなる、原町区になると蔵王は見えないからである
ただ原町区の魅力は街の魅力であり景観ではないから別である

私の場合はこうして景観がいいというときその場所に何度でも行きたいとなる
浪江町だと高瀬川渓谷があるからあそこに行ってみたいとなる
でもあそこは避難区域になっていて行けないから残念である

ここのサーフィン場には飲み食いする場所がない、だから作ればいいと話したが商売として成り立たないとやっていけない、ただサーフィンに来る人はいる、外の人も来る
でも景観的には火力発電所とかありいいとはならないのである
それでも遊園地もあり休む場所が欲しいとはなる
posted by 天華 at 17:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2021年11月17日

自治体が財政破綻するとどうなるのか? (夕張市とか原発事故周辺は似ているーその恐怖)


自治体が財政破綻するとどうなるのか?

(夕張市とか原発事故周辺は似ているーその恐怖)


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https://onl.tw/DytNuKx


財政破綻の恐怖を夕張を例にして具体的に説明しているからわかりやすい
部長とか率先してやめた、給料でも退職金でもたいしてもらえなくる、もう生活していけない状態になる、するとサービスする消防隊員でも減り救急車すら一台となり隊員もいなくなり命にかかわってくる
病院でも看護師も医者でも雇えなくなる、給料が払えないからである
すると第一公務員もやめるのだから一般の人も流出してゆく
その原因が税金が何倍も高くなるのだから住んでいられなくなるのだ
そして人口が激減してゴーストタウンのようになる
残されたのは老人だけになった
そしてもう自治体は自治は成り立たなくなり国の管理下に入り何もできなくなったという

これは原発事故周辺ともにている、南相馬市は一部であるが飯館村とか浪江とか双葉とか大熊とかは自治体全体がこのうよな状態になった、自治体が崩壊したのである
住民から税金もとれないし公務員に給料も払えない、これは会社が倒産したと同じである様々なサービスが受けているがそれが受けられなくなる

原発事故周辺はこれと似ているのである、ただ違うのは国から手厚い援助がありそれで持っている、飯館村などは80億円とか支援があったとか多額の補償金をもらった
でもそれも継続はしない、一時的なものとして消える
だから人も流出した、子供もいない、立派な学校を建てても外から通うだけだからである
もう飯館村の住人自体が言っているように飯館村がなくなるというとき何か夕張と似ている、ただ別に公務員には給料は支払われているし財政破綻は今はしていない、国からの援助があるからだ、でもいづれ継続できなくなる
住民は流出して子供もいない、自治体という時自治があるから自治体なのである
でも自治体も自ら自治ができないとき国の管理下に入る、すると自治はなくなり国の思うようにされる、例えば放射性物質の置き場だとか核処理場とかにされる
もう自治する住民がいないから反対する人達もいなくなるからだ

何か不思議なのは空家が増大していることである、自分の回りでも隣が空家になったとか最近一人死んで空家になったとか近くにもいい家があり庭があったがそこも長い間空家になっていたのだ、だからもったいなと思って見た
そして空家になると奇妙なのだけどそこに持ち主がいないから勝手に入る人が出て来る
それが自分でもあった、隠されたようにあった家に入ったら立派な庭があったからだ
別に見るだけならとがめる人もいないのである
不法侵入になるとしても空家になると誰もいないということで勝手に入る人がでてくるのである

まず浪江でも小高でも双葉でも飯館村でも空家だらけなのである
そんな市町村が成り立つのかと理屈ではなく感覚的にそう思うのである
廃墟の町とか村が成り立つのかとなる、つまり自治体が崩壊するということがこの辺で現実に起きているのだ、ただ国からの援助がありそれで今は持っている
でもやがて援助もなくなるとどうなるのか、夕張のように国の管理下に入りもう自治体の住民自体では何もできなくなる、そこで国の言いなりになるほかなくなるのである
自治体の自治がまさになくなる、自治体の住民がいなくなればそうなるからだ

こういうことは自治体が財政破綻が起きる、それが夕張市に起きた
もともと炭鉱がありそれで栄えていた、それがなくなり衰退してそうなった
この辺では原発がありそれで栄えていたが事故になり衰退したのである
ただ南相馬市となると小高区の一部がそうなったが全体はなっていない
だから自治体は維持されているのである
でも財政援助は十年つづけられたがそれも打ち切られた
すると自治体の経営も苦しくなる、それで生活保護でも実際は年金をわずかもらっても後は医療費とか無料のようでもそれも必ず金をとられる、何か住宅を直しても無料ではないその人はもう生活保護でもそもそも生活できないのである
それはやはり自治体で生活保護をまともに支給できなくなっている
このことは氷河期世代になると深刻になる、もう生活保護はとても最低限の補償はされないのである、そんな金がないしできなくなるからだ、それも恐怖である

結局飯館村は確かに国とか東電とから援助があり今は成り立っている
でもそれも継続しない、老人ばかりの村になって継続しない、若い世代は流出したからである、夕張とかなると極端であり住んでいられないからである
この辺も極端なものとして住んでいられないから若い世代が流出したのである
南相馬市だと小高区は別に南相馬市だから原町区とかに移り住む人が多かったからである原町区だと病院でも買物でも何でも便利だからこの際移り住んだ方がいいとなってそうなった、残されたのは老人だけなのである

ともかく夕張市は炭鉱の市として栄えた、それがなくなったとき急激に衰退した
この辺は原発で栄えたがこれも事故で同じように回りの市町村が衰退した
何か経済でも特化したものに頼るとこうなりやすい、でも不思議なのはSDGs(継続可能社会)を盛んに言うけどそもそも縄文時代から飯館村でもその村があり今まで継続していたのである、人口の増減などがあっても村は継続されてきたのである
だから別に原発がなくても市町村が成り立たない、継続されないとういことはない
だから継続できないということはそれが最大の問題だったともなる
継続を第一にすれば価値とすればその方法はあるし現実に縄文時代から今まで継続して町でも村でも成り立っていたのである、
その継続が断たれることが最大の問題だったともなる
多少縮小しても継続はされていた、それが自治体自体が破綻して崩壊するということは何なのだろうとなる

継続することが第一だ

こういう価値観になれば別にこれまで縄文時代から継続して村でも成り立っていたのだからその目的でもって村は継続できるのである
でも不思議なのはもう車がないと電気がないと住んでいられない、継続できないとなるのも変なのである
継続ということを第一の価値とすれば別に継続して村でも町でも維持できるのである
もちろん現代となればその維持の仕方は違ってくる、でも市町村自体が無くなるということはありえないのである
なぜなら相馬藩で飢饉になったとき三分の一の人たちが流出した、でもその三分の一を埋めたのが越中などからの移民であった
その移民はいい土地ではない土地を得て開墾して住んだのである
その時代が農業で生活していたから土地を無料でもらえるとして移民が来たのである
その苦労も並大抵なものではなく加賀泣きとして伝えられている
でもこうして相馬藩は飢饉からも立ち直ったのである

これを比べるとなぜここだけではない、自治体が財政破綻して崩壊して継続できなくなるのか?縄文時代から継続していた村でも無くなるのかということである
車を使うな電気を使うなとかいうのではない、何らか自治体を維持できる方策があると思うから言っているのである、ただ最大の問題を自治体を継続させることだとしていないことになるのではないか?
それを第一として目的としてあればそのためにはどうするのかとなる、それを全体で協議するとか何か解決策を見出すとなる

ただ現代は個々に利益を求めるだけでありそうした全体としての志向がないということでそうなっているのか、つまり十津川村のように自然災害にあって村が壊滅的状態になって北海道に移住したとき村人が一致団結してできたからである
それは村がもともと強固な強固な共同体として機能していたからできた
今はそれがないから個々がばらばらになりかえって自治体を共同体を維持できなくなったともなる、そもそも農民共同体のようなものが喪失していたからである
だからこそ多額の補償金をもらったら即座に仙台市辺りまで移住したのである
別に農民社会でないから土地をもっていないから金さえあればどこに住んでもいいとなっているからそうなったともなる
そこで継続されなくなったのである、農民社会では土地が生産に不可欠だから移住しにくいからである

ともかく自治体の財政破綻は自治体の崩壊となりそれを具体的に示したのが夕張市だったのである、その悲惨はこの辺と似ているのである、ただこの辺はまだ補償金をもらっているから何とか維持できている、でも実質は小高区とか浪江とか双葉とか飯館村は崩壊しているのである,持続継続できなくなっているのである

このように、国も自治体も産業界も私たち国民も、家を「つくる」ことばかりに目を向けつくった住宅を「引き継ぐ」「たたむ」ことに目を向けてこなかった――。

災害の多発化・激甚化で空き家は新たな事態を引き起こす存在に。家をつくることしか考えてこなかったツケ 野澤千
https://news.yahoo.co.jp/articles/2e4f81795a291be2a48ebb5470f374eba2025c81?page=3

こういうことも言える、家が建て過ぎてそれを引き継ぐ人がいなくなったいるのだ
それは墓でも引き継ぐ人がなく墓じまいするようになる
これも継続ということをないがしろにしためである、現代とは一代限りとかしか考えない未来に継続されることを考慮しない社会なのである
今良ければいいあとは野となれ山となれとなる社会である
だからエネルギーでも今使ってなくなってもいいやとなる
それでSDGs(持続可能目的化社会)が言われるようになったのである
目的が持続可能に置くということで悪、そのために一致協力することである
それぞれが勝手にしたら成立たないからである、持続できない継続できないで市町村でも崩壊するとういことにもなる、それが原発事故のこの辺の状況だったのである
posted by 天華 at 09:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2021年11月15日

権利と責任は一体(漁業権の問題など) (原発事故で問われた重大な責任)


権利と責任は一体(漁業権の問題など)

(原発事故で問われた重大な責任)

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明治時代になったとき西洋の法律を取り入れた、しかしその訳でも日本にもともとないものを訳すとなると簡単にできなかったから誤解が生まれた
権利は権理と最初訳していたのである、これの方が正しかったのである
なぜなら権利を与えられるにはなにがしかの理由がありその理由があって権利が与えられているからだ

ところがこの権理が権利になりまさに利益を求める利を求めるだけになったのである
そこに権利が与えられた理由がリーズンがなくなったのである
とにかく権力を得て利益を得ればいいとなってしまったのである
それはあらゆることでそうなった
身近な所では相続でも兄弟姉妹で相続を等分する権利があるとなり長男に財産を特別に得ることはなくなった
でも長男は優遇されてもその家を受け継ぐ責任が課せられていたから特別遺産を受け継ぐ権利があったのである
長男は親の世話をみるとなったのもそのためである

それが等分に分けることは確かに兄弟に遺産を平等に分割するのだからいいように見えるしかしそうなると家を継いでも維持できなくなる、そのために遺産がないと金がないと
家や土地まで売らなければならないとなったりもめる
田畑をもって農業して生計したりしていると困ることになる
また家を持っていて都会辺りで土地を売るとなると困る
介護でも誰がするのかとなると今までなら長男が遺産を主に受け継ぐから責任がありそうなっていた、つまり権利には必ず何か権利を与えられる理由があり責任が課せられていたのである

何かこういうことはいくらでもある、とにかく人間は利益を得たいということでは共通している、権利を得て利益を得たいとして働いているともなる
だから地位を得たいとか上級人間になりかいとかなる
高級官僚が地位もあり金も入るということでうらやましがられる
でもその優遇される地位でも高給取りでも必ず責任が課せられているのである
しかしその責任が無視してまず権利を得る利権を得る、利益を得るとういことが先になる
原発事故ではその重い責任が問われたのである、でも誰も責任を果たしていないのである漁業組合が船主などが特に事故前も多額の補償金を得て原発御殿を建てていたとかうらやましがられていた
その時も漁業関係者は原発を建てて利権を得て利益を得ればいいとしか思っていなかったそこに重大な責任が課せられていたのである
つまり利権を得て利益を得て多額の補償金をもらったことが重い責任となっていたのである

政府でも東電でも

「私たちはあなた達に補償金を払います」
「はい、わかりました、もらいます」
「では事故になってもあなたたちは文句を言わないようしてください」
「・・・・・・・・」
「それを了解してもらいますよ、そのために金を払うのですから」
「・・・・・・・」

本当はこういうことで金は払われていたのである、ところが漁業権というのは漁業組合に入っている船主とかが独占しているものであり港に住んでいる人でももらえなかったのである、その理由となると

〔あなたたちは漁業者はなぜそうした利権があり利益が得られるのか
 漁業権は何のために与えられているのですか?」
「漁業資源の保護のためです」

こういうことで理由があって利権を得ていたのである、でも肝心の漁業資源の保護が原発事故でできなくなったのである
でも政府と東電にすれば
「あなたたちは漁業組合は海を汚されてもいいと了解しましたね、そのために事故前にすでに多額の補償金を払ったのですから・・・」
こう言われることにもなった、そして今度はトリチウムを海に流すという時もあなたたちは漁業権を私たちに売ったのです、そのために金をすでに払っているのです
文句は言えないでしょうとなる
もちろん事故後の補償金はさらに増やすし継続して補償しますから文句はないでしょう

こんなふうになったのである、もし漁業権を漁業組合だけでものにしないで自治体とかのものとして協議していたら別である
漁業組合は海は俺たちの物だから勝手にしていいのだとなっていたのである
つまり権利があり利権があり利益があるとなるがそこに重大な責任が課せられていたのである

資源保護を目的として権利が与えられていた!

その肝心の漁業の資源保護ができなくなったのである
だから権利は権理であり理由があって権利が与えられている、漁業組合に漁業権が与えられていたのは漁業するための資源保護のためだった、そうならば原発を建てるとき事故前にでも多額の補償金をもらうことはすでに海を汚してもかまわないですねという了解を契約をしたとまでなる
それは漁業組合で海は俺たち漁業者のものだと権利を主張して利権をえて利益を得るためにそうした、でもその権利には理由があり重い責任が課せられていたのである

ただこれはこの辺で具体的に起きたことでわかりやすいが他でもいくらでもこうしたことが起きている、なぜならまず利権であり利益だとなり他のことは責任でも無視されるのである
責任といえば東電に天下りした官僚たちも事故の責任があった
なぜなら多額の金を東電からもらっていたからである、それは自衛隊でも海上保安庁とか警察関係でも司法関係でも官僚が天下りして多額の金をもらっていたのである
その金をもらっていたことで重大な責任が課せられていたのである
安全を計ることに無関心ではいられなかったのである
だから天下りした官僚はその金を返還すべきだとなる、金をもらうことは必ず具体的な責任となっていたのである

でも実際は権利をもち利権を絵て利益になればいいしかないのである
弁護士でもただ相談するだけで百万とられたとかあり弁護士という資格をもっていて不正を働いたのである、弁護士という資格はそうして利権となるから利用したとなる
もちろんそれを相談した人も悪いとなるが死んでしまった
この人にも責任があったが死んだから問われない、ただ自分の家にも責任があったともなる、そんな金をなぜ払わなければならないか理由がないからである
だからなんらか金には常に責任が具体的なものとして課せられている
そして責任が自覚されないのである、それで後から原発事故のように責任が問われる
それで必ず何でも契約書には細かく責任をとらないことを記されている
「私たちはこういうことがあっても責任はとりません」と記されているのである
それは必ず後で責任問題になるからその責任をさけるために事細かに責任をとらない旨を記しているのである

本当に原発事故では天下りした政府関係者でも東電の幹部でも無罪を主張するとか全く
責任をとる人が一人もいなかったのである
でも人間は必ず責任を取らされる、戦争の結果として3百万人が死んだのである
責任をとらされたのである、一体のその責任は誰にあったのかとなる
あまりにも重い責任をとらされたのである
原発事故でも故郷に住めなくなる、貴重な自然と融合した飯館村でも住めなくなるとか重大な責任が生じていたのである
なぜそれが重大なものかというと飯館村でも縄文中期の遺跡が発見されたとか古いからである、つまりそういう古い時代から今日まで村は継続していたのである
最近盛んにSDGs(持続可能目的化社会)が言われるけどまさに縄文時代から継続してきた生活が村が失われることが最大の問題だったのである

村でも継続されることが第一なり

縄文時代から人が住んで生活していたのにできなくなる、このことは何を意味しているのか?その長い人間の歴史が失われることである
何であれ貧乏であれ継続される社会こそ重要だとなる
そういうことが燃料は炭であれ食料でも貧しくても縄文時代から継続していた歴史があったということである、その継続したものが根こそぎ原発事故で失われたとういことそれが人間にとって何を意味しているのか?
それがこの辺では問われたのである

とにかく今の社会は本来の目的からはずれたものとして利益のために何でも正当化されるのである
カルト教団などでもそうである、確かに政治活動をしてもいいとはなる、でも宗教団体だと無税になる、特権が与えられている
そうしているのは宗教活動だからである、でも現実は宗教活動でなくても政治活動でも経済活動もしている
それも無税になる、そもそも宗教活動は何なのか、その理由が明確ではないのである
また明確にしていないのである、つまり権利とは権理であり理由があって権利があることなのである


posted by 天華 at 09:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2021年10月31日

共同体の喪失が原発事故であからさまになった (日本国家の共同性も喪失すると国家も防衛できない)


共同体の喪失が原発事故であからさまになった

(日本国家の共同性も喪失すると国家も防衛できない)

私権私財を削って、公共に供託するどころか、逆に、公権力を用いて私利私欲を満たし、公共財を奪って私財に付け替えるような人たちばかりがエスタブリッシュメントを形成している。「そういうことができる」ということが権力者なのだ、そのどこが悪い。文句があるなら、まず自分が権力者になってみろ

https://news.yahoo.co.jp/articles/db2511a35d07dc9b8465f838ae2e63ae3a1ac2ef

これには共感する、現代社会から公共性がなくなった、共同体もなくなった
何があるのかとなるともう目先の金しかないのである
人は金のために動く、その金がどういうものかなど考えない、金を得ればいいしかない
それは当然目先のことしか考えない、今金になればいいんだとしかないのである
共同体とかいうときそれは目先の利益で作られたものではない、長い年月で作られてきたものである

農民社会だと自然が相手だから長期的に見ないと生命も共同体も維持できない
木が成長するのに50年かかるとすると果実を受け取るのは次の代なのである
実際に果実を受け取れるのは常に親の代ではなく子供の代である
第一富が貯えられるには一代では無理だからである
家と土地を得るこめに一代目は費やされるがそれを受け継ぐ子供の代だと楽になる
だから農家の家に生まれれば土地もありノウハウも受け継ぐことができるから楽なのである、そもそも農業は何もないところから始めるとしたらその苦労は並大抵ものではない
個人的にはそうなるから共同会社のようなものに入り勤めるのがいいとなる

現代社会には公共性とか国家とかの共同性がない、金を得るために個々人があり共同体はなくなった、それが如実に現れたのが原発事故で避難区域になった町や村である
目先の補償金をもらうことしかなく町や村を維持するとかはなかった
だからいち早く町を見捨てて移住した人たちが多い
もうこんな場所にいられないとしてそうなったのである
そもそも原発を誘致したのは長い目で見てない、今金になるということで誘致したから危険も無視したのである

だから村や町はもう古代から長く地方でもつづいている、それが一挙に簡単に崩壊してゴーストタウンにビレッジになったことに驚いた
もちろん放射線被害があるからやむえないなということはあった
住んでいられないということもあった、でもそれだけで町や村が崩壊するのかとなる
不思議なのは戦後の焼け野原からでも日本は復興したからである
何も無くなっても復興したからである、だから放射線の被害があったとしてもそれだけで簡単に崩壊して無人化することに驚いたのである

もう町や村でも共同体はなくなり一時的なつながりしかないものになっていた
第一農業でも漁業でも林業でも携わる人は一割にも満たないとかなっていたからである
自然に依拠する仕事は長い年月つづいていた、それは自然に依拠するから商業とか工業とかとは違うからである、でもその前に農業でも漁業でも林業でも日本では衰退産業となり跡継ぎがないとなっていたのである、金にならないとしてそうなった
林業はグロ−バル化で外材を輸入して日本の森は豊富なのに利用されなくなっていたのである
それが原発事故となり一挙に崩壊したのである
だからすでに原発事故前から第一次産業は崩壊していたのである、原発事故はただその契機となっただけだともみる

そうして事故のあとは補償金を得ることしかなくなった
自分の家の前の海も権利があるとして補償金を要求していたのである
私道であれなんであれ補償金をもらうために主張したのである
漁業権をもっている船主や漁業組合は特に権利が大きいから原発事故前から多額の補償金をもらっていた、そして原発御殿が建っていてうらましがられていた
そこがまた津波の被害が一番大きいものとなった、村自体消滅したからである
それも何のだろうとなる、何か罰だったのかとも見てしまう
自然の恵みに感謝することもなくただ自然をむさぼるというのが現代社会である
まず漁師でも海で魚をとれることに感謝している人はいない、一匹の魚に感謝している人もいないし農民でも一粒の米をとれることに感謝している人もいない
ただ金にならないということで嘆いているだけだったのである

それは別に漁師とか農民だけではない、それを買って食べる人も一匹の魚に感謝したり
一粒の米に感謝して食べている人はいない、ただ値段をみているだけであり結局だから金が欲しい金があればいいということになっていた
そういうことがもしかしたら津波ともなり自然から復讐された災いがもたらされたのかもしれないともなる
そもそも日本の祭りでも外国でも自然に感謝するということがあった
それが資本主義社会とかグロ−バル化経済になると消失した、すべては金で買えるからそうなった、かえって貧乏な時に自然に感謝していたのである
またそうした祭りがあることで農民共同体でも漁民共同体でも山林共同体でもありえたのである、それはどうしても自然と共存しないと生きていけないからそうなったのである
商業や工業社会になるとどうしても自然と分離してゆくから自然とは何かわからなくなったのである

いづれにしろ公共というときそれは自然は公有のものであり公共のものである
海でも山林でもそうである、土地は実際は公共であり公有のものであり私有のものとしてありえなかった、だから過度に明治以降私有を認めた結果として入会権として共有していた山は無数の私有地として分割された、結果として公共事業するにも私有に分割されて今や誰の所有もわからず公共事業もできなくなった
つまり公共性が消失した社会になったのである
だから古代から継続された村でも町でも簡単に崩壊したともなる

公共的なものとして市町村があるわけではない、公共のものとしてあるわけでもないみんみんな私有としてあるから家の前の海が俺のものだから補償金を払えとなったのである
そしてプライベイトというとき奪うという意味でありまさに私的に奪うものとして土地でもなんでもあったとなる、そこに公共性は喪失していたのである
だからこそ公共としてある市町村でも簡単に解体してしまうとなる
津浪以降盛んに絆が言われたがそれは絆が失われた時代だからそれが言われたのである
この辺ではボランティアが絶えず来ていて外部との絆が生まれた
でも内部では補償金で分断されていたのである

ともかく現代社会は個々人が金を求めてアトム化原子化した社会であり共同体は喪失していたともなる、だからこんなに簡単に町や村が崩壊して消失することになった
もちろん放射線被害のためだともなるがそれだけでこんなに簡単に町や村が崩壊解体するのだろうかという疑問があった
一家族ならありえても町や村までは簡単に崩壊して解体されることに驚いたのである
ただそれはここだけではない、全体的に国家的に世界的にもそうなっている
だから何かの契機で簡単に市町村でも崩壊してしまうのかともみる
絆とかなくなっているからだ、みんな求めるのは目先の金だけの社会である
それは田舎でも同じである、田舎は農民共同体であったが今は一割にも満たないからである、ほとんど会社員になっているからである

日本が衰退するというときこうした公共性がなくなったとかから見る人は少ない
技術競争に後れをとったからだとかなるのが一般的である
でも日本社会の構造の大変化がありそれが衰退の要因だとはみない
つまり日本の共同体の崩壊がありそうなったとはみない
そこにはもう日本国家共同体というものもない、だから常に国際性ある金持ちの人は
ひろゆきとかは日本を脱出する準備をしろとか金持ちは日本を出ることを考える
それは中国の富裕層でもそうである、中国となると常に政変があり既得権を失うからそうなる、日本ではあまりそういうことがなかったがグロ−バル化して同じようになった
でも日本ではそうして外国に移住するこということがあまり経験していなから躊躇するのである、ただグロ−バル化するということは市町村だけてはない、日本自体の公共性でも共同性もなくなるのだからそうなりやすい社会だとなる

実際に今田舎に住んでいる人でも一億円やるからとなるとかえって都会に出るとなるだろう、東北だと仙台市に住みたいという人が多い、それで補償金で仙台市に移住して成功した人もいることでもわかる、つまり共同体とかは関係なく金さえあればいいとなる
そういう社会は金融を生業としてユダヤ人とも似ている
なぜならユダヤ人は常に国家にいても土地をもてないとか共同体から除外されたからそうなったのである、それで国家をもちたいとなりイスラエルが建国されたからである

いづれにしろなぜ日本がこれほど貧乏になり衰退してゆくのか?

その理由は必ずしも技術開発に遅れたということだけではない指摘には共感する
そもそも日本国家として共同性すら喪失してしまった板ということである
逆に戦争の時は過重に日本国家の共同性が主張されていたのである
だからそれをなつかむ人さえ戦後はいたとなる、でも戦後社会は日本国家としての共同性すらなくなるとどうなるのか?
この辺で原発事故で簡単に町村が崩壊して解体したようにもなる
金が第一とするから金にならないから日本にいてもしょうがいなとなり外国に脱出する準備をしておけとかなる、日本がなんてどうなってもいいとまでなる
そうしたらもう日本国家も維持できなくなる、つまりすでに内部で共同体は喪失しているから維持もできないとなるからだ、それこそ国家の危機であり経済の衰退どころではないこれから日本国家が消失するという危機にもっないる、すでに内部でそうなっているのだから外部からの攻撃に弱いとなるのである

何かこれは右翼的でありそんなことは古いともなるがそこにこの辺のように町村が簡単に解体してしまう危機がある、それはそうなってみないと理解できないのである
日本国家自体が解体する危機になる、それが外国から中国などから攻められた時そうなる日本国家としての共同性もなくなっていればそうなる
逆に戦争の時は日本国家の共同性が過度に強調されたのである
それで日本隅々まで戦争のために神社に戦勝を祈っていたのである
そういうふうに極端な反する状態があり戦前と戦後ではそこが根本的に違った社会になったのである、防衛力にしてもそれか技術的な問題としてあるのではない

日本国家共同体の絆がなくなればもう日本を防衛するという気力も精神力もないとなる
だから平家と源氏の争いで鎌倉が公家についた平家と戦い勝ったのは鎌倉の武士には主従関係が強固だから勝ったと分析するのもわかる
ローマが衰退してゲルマンが優勢になったのも人間の強固な主従関係があったからだとしている
意外と日本の軍隊にはこの主従関係の強固さがなかったから敗れたという分析もある
上官と下士官の結びつきが主従関係が弱かったとしている
その関係は一朝一夕には作れない、武士の主従関係はその土地に根付いて何代か経て作られたものだからである、だから人間関係てもそうした強い絆を作るには時間がかる
旧家でもそこの召使がいたとしても使用人がいたとしても主人との信頼関係を作るには時間がかかる、だから使用人でも同じ家に十年勤めていたら信用できるとなるのである
ともかく人間が信頼し合うには簡単にできない、時間がかかるのである

posted by 天華 at 14:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2021年10月25日

農業でも漁業でも衰退して原発が作られた (親は農業でも漁業でも苦労が多いから継がせたくなかった)


農業でも漁業でも衰退して原発が作られた

(親は農業でも漁業でも苦労が多いから継がせたくなかった)

NHKの伊勢海老をとる漁師の放送をしていた、なぜ漁師になったかというと前は別な仕事をしていたのである、ところが交通事故で複雑骨折とかして仕事ができなくなった
それで親が漁師をしていたのでなった、そしたらまた仕事中に目を汚して片目が見えなくなった
何か不運のようでまず交通事故になる人は多い、そこで怪我してそれが尾をひく
一番ケガしやすいのが交通事故なのである、また結構何か仕事で事故になる
その人も結構厳しい人生となったのである

でも親が漁のことをいろいろ教えた、それでやっていけた、すると親子のつながりは強くなる、でも漁師には親はしたちないというとき仕事の辛さと危険を体で知っているから
子供にはやらせたくないとなる、そうして漁師でも継ぐ人は減ったとなる
何か親は自分の仕事を継がせたくないという時、仕事の辛さとか危険を体験しているからそうなる
農業でもやるなとして親に殴られたという話を聞いた、その人は建築現場や原発で働くようになったのである
これも農業は苦労が多く金にもならないとしてそうなったのである

ただそういうことがこの辺では原発事故で大きな問題になった
船主とか漁業組合は漁業権をもっているからそれで事故前も補償金をもらい原発御殿が建っていたとか批判されるようになった
鹿島と原町区にある火力発電所でもそうである
そこの漁師では二回も補償金をもらっていたのである、そのために高価な着物が売れたとかまた航空運賃が馬鹿高い時にヨ−ロッパ旅行していたのである
その頃航空運賃が50万くらいしていたからである

海外旅行の費用は50万円程度、現在[いつ?]の換算で300万円前後か)で、一部の富裕層に限られており、庶民には夢であった

こういうことがすでにこんな田舎でできていたことに驚いた、それだけ二回も補償金が火力発電所建設と原発で船主とか漁業組合に入っていたのである
ということはさほど魚がとれなくても十分に豊かに暮らせる金をもらっていたとなる
おそらく魚をとるだけではやはり農業と同じように金にはならなかったから漁師でも跡を継がないとかつづかないとなっていたろう
実際に松川浦の漁師は魚がとれなくて売れなくて困るとかネットで報告していたからである、でも今振り返るとそういうことはなかったのである
つまり魚がとれなくても補償金で十分に暮らせていたのである

いづれにしろ農業とか漁業とか林業は衰退産業でありそれも苦労が多いし危険だから後継者もいないとなる、ただ全部ではなく一部ではもうけている人達もいる
全般的には後継者がいないとか衰退産業であった
でももともとは農業でも漁業でも林業でも主産業だったのである、農業だと養蚕農家が多く生糸が輸出産業となっていたのである
だから別にそういう時代は漁師でも生活していたし後継者もいたのである
辛いとか危険でもそうして生活するほかないからである

ただ時代が変わってそうなったのである、とにかくそうしたことで原発が金になるからいいとなって積極的に誘致された、原発は金のなる木だった
その労働にしても放射線被害があるから何分か中に入って働き休むとか何か重労働でもないみたいだった、それより普通の三倍もの金になっていたのである
そのために飯館村の人も働いていたのである、それだけの金になる場所だったのである
それでこの辺では金持ちになった人が結構いたとなる

それが事故で裏目になった、そこには危険が隠されていたが金のために無視されたのである、何しろ今の時代金になるとなると目の色を変える、まずは金だとなるからどうにもならない、みんながそうなっている時反対することは不可能になる
安全神話でも地元の人が信じたとなるのは金のためだったとなる
それが一挙に事故で崩壊したのである

だから本当にそうして親が子供に苦労させたくないという親心が仇になったともなる
今になると日本が貧乏になり何か金になることもないというとき盛んに農業が有望だとしているのも不思議なのである、農業でも実際は小規模農業ではなく専業農家が野菜でも大量に作り市場に出している、キャベツ農家とかいて外国人を安く雇い一千万とか稼いでいる富裕農家がいる、それを見れば別に農業ですべて稼げないということではない
ただ農業でもその形態が変わったのである、農産物の八割はそうした専業農家で作り市場に出しているのである
農業でも漁業でも林業でも全部がだめになっていない、一部でも成功して金になっているのは依然としてある

確かに親が子供には苦労させたくないということがり親心があった、それが悪いとはならない、でもまたそういうふうに自分のしてきた仕事を全否定するようなことを言うのはおかしいともみる、何かしらその仕事に誇りがありいくら苦労したとしてもその仕事まで人生まで否定するというのがわからないのである
それも結局すべて金にならないということに尽きる、そのことが原発を積極的に誘致した大きな原因ともなっている、また双葉とか大熊辺りは仕事がなく出稼ぎしていたから地元で働きたいということでもそうなった

ともかく原発のことを良くわからないままに目の前に金になるということで金をつきつけられて地元の人が危険を無視したとなる
そして30キロ離れていると関係ないと思っていたのも盲点だったのである
つまり事故になることなどほとんど考えていないからそうなった
でもチェルノブエリでは人が住めなくなった、あれを見ていれば危険だと推測するがそれもしなかった、何か日本人は優秀だとか技術的に優れているとかで慢心していたのであるまた津波でもスマトラ津波があったときも日本では津波に警戒しているからあんなにふうにはならないと見ていたのである

日本人はこうして慢心していたのである、太平洋戦争でもそうである、アメリカがどういう国かも知らない、それて甘くみて慢心して3百万人も死んだのである
やはり人間が慢心する奢ることがいかに危険かわかる
高度成長時代がありその時、ジャパンアズナンバーワンとか奢りがあった
日本は別に優秀でもなかった、今になると韓国や中国でも同じように電器製品を作っていて日本だけが作れるものでもなかったのである

ただ確かなことは第一次産業だけでは豊かになれなかった、工業化しないと豊かになれない、それは中国をみればわかる、たちまち工業化IT化して豊かになったからである
イスラム圏では工業化しないから豊かになれないのである
でも工業化は必要でも原発となるとそれが危険であることを隠していたのである
別に原発がなくてもそれなりに暮らしていける、第一江戸時代から戦前でも電気もまともにもないのに暮してきたからである、そこでは金持ちもいたのである
養蚕農家があり農家でも暮らしていけたのである
原発がなくても高度成長時代はあった、電気は作れていたのである

原発の危険は「安全神話」で隠された、安全だ安全だ念仏のように唱えていたである
その裏返しは技術者はその危険を知っていた、でも安全神話は権力で隠されていたのである、原発はブラックボックスとなって一般の人には地元に知らされないからである
それが事故になり白日の下にさらされたのである
その巨悪が暴かれてさらされたのである、だからこれだけの国家的巨悪はとても暴くことが不可能であり津波が暴いたともなる
そしてその責任をとった人は政府でも東電でも依然として一人もいないのである
ただ地元の人は故郷に住めなくなるという責任をとらされたのである
必ず責任は人間とらされる、カルマとなる
それから逃れることはできないのである、原発はそうした重い責任があるものだったが
それが権力で見逃されたのである


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2021年10月18日

原発事故でなぜ一挙に町や村が崩壊したのか? (広域化グロ−バル経済で共同体のつながりがなくなっていた)


原発事故でなぜ一挙に町や村が崩壊したのか?

(広域化グロ−バル経済で共同体のつながりがなくなっていた)

飢饉の時などは比較的余裕のある藩でも「津留」といい禁輸措置をとりました
自分のところに波及するのを過度に恐れたわけです
結果としてしばしば食料が不足地帯に流れず飢饉が不必要に激化する傾向がありました

川とか海の港で行われた、相馬藩でも飯館村が飢饉の時相馬藩内では援助したが伊達藩ではむしろ関所でとりしまり支援しない、それが江戸時代だった
こういう社会とまるで逆なのが現代だけどやはり国内ではこういうことがなくてもグロ−バル化すると外国から品物が入って来なくなる、最近ではコロナウィルスでマスクが自国で生産していないので中国から輸入するほかなくなったとかある
つまり現代ではグロ−バル化すると外国から品物が入らないと致命的になる
最近では円安になり小麦の値段があがるなどして影響が大きい
どうしても自国優先になるから食料が何かの影響で入らなくなると窮地になる

一方で地域の繋がりが希薄化した、米でもなんでも食料でも外部からいくらでも入ってくるとなると地元でとれるものにこだわらない、野菜にしてもみんな外から九州でも北海道からでも入ってくる、すると地元に頼らないのだから地元の農家でも別になくても食料は入るとなるから関心が薄れるのである
米でも様々なブランド米がありただ金があればどれでも選んで買えばいいとなる
ただこの辺で天の粒とかは500円くらい安かった、それは別にうまくないものではない
だから安さで買った、野菜でも地元のはわずかでありみんな外部から入ってくる
それは専業農家が大量に安く作って売っているものである
約八割は専業農家がキャベツでも何でも作って売っているのである
だから農業がもうからないというがキャベツ農家は一千万の収入があるとかされている
ただその労働力がたりないので外国人労働者を安く雇っているとなる
つまり労働力を安くして安く売れるとなる、これもまた広域化グロ−バル化経済だとなるのである

でもこうなると地域とかのつながりは希薄化する、何か昔の村とかとはもう違っている
昔の村だと自給自足が基本にあった、なぜなら戦前でも戦後まもなくでも農民が八割とか戦後でも六割とか多かったからである
すると農民社会であり農民は今でもそうだが結びつきが強い、それで三代でも農家でないと仲間になれないとか言われる
それは江戸時代から村の結束は強かった、人間は共同体というとき生産共同体であり消費共同体というのはない、米でも共同の労働があってそこで村の結束が生まれた
だから農家が前は大きな票田となっていたのである

現代経済は消費社会ともなっている、消費者は王様だともなる、何か店でも農家でも米を買ってくれとなる、買ってくれる人がお客様となるからだ
米でも今年はコロナウィルスで消費が減って余り米の値段が下がったとかなり買ってくれとなる、でも消費するだけだと仲間にはなれない、人間の結びつきが生まれない
だから何か地域の結びつきは希薄化してきた、農家でも全体の生産の一割にも満たない
いくら
回りが田畑があっても現実の経済では田舎でも経済の比重が前より相当に下がっている
それで原発事故で仮設に住んでいた人がここで買い物したりして金を使うから地元の人達を助けていると言っていたのである、それが何かおかしいのだけどここに現代の社会を象徴したものがあったとみる

消費者は王様だとなっている社会だからである、そこで地元の人に助けられているという感覚はなかったのである、かえって外部から来たボランティアは毎日来ていたから外部の人に助けられている、なぜ地元の人は不満なのかとかえって地元の人達とは一体感もないのである、地元の人達は冷たいとなっていたのである
これも何か矛盾していたがこういう社会で起きた現象だとも見る
こういう社会だったら別に金があれば他に移り住んだ方がいいとなる、地元はかえって冷たいとなるからだ

でも例えば原発事故以後この辺で荒地化したが農業をやる人はなかなかない
そんな小規模の農業はただ骨が折れるだけだとなる、そして高齢化しているから知っている人の畑で野菜を作っていた人も体が弱りやめた、回りも病気とか高齢化でやめた
でもその後も誰も畑で野菜を作る人はいない、放置されているだけである
戦後は引揚者が働く場所もなくどんな不便な場所にも開墾に入った、そういう時代なら
そうした空き地は利用されていたのである
その原因は広域化とグロ−バル化経済にあったともなる

このことは飢饉になったら外部から物資が入ってくる、外国からも入ってくる
でも遠くから外国から物資を入れることは頼ることは入らないと危険になる
どうしても自国優先になるからである、地元優先になる、だから広域化グロ−バル化経済はすべていいものとして働かないのである
そして地域の結びつきが弱くなったという時こうした広域化グロ−バル化経済が影響している、食料でも外部から入り頼るとなると地元の農家などでも存在感がなくなる
外部からいくらでも食料が入ってくるではないか、地元のうまくない米など食べる必要がないとなる、

そこで一番肝心なものは何か

金があればいい

こうなったのが現代である、金があれば外部からいくらでも買えるからである
そうして地域のつながりが薄れるとどうなるのか、何かあると地域が簡単に崩壊する
それが起きたのが原発事故で町や村が一挙にゴーストタウンにビレッジになったことである、これは放射性物質汚染で住めなくなったこともある
でももともと農業でもそれが主産業ではない、だから東電で電気関係の仕事をしていた
浪江の人は補償金もらって老後も安泰であり良かったとしている
あれだけ寂れた街に住んでいてもそうである、回りの田畑は草ぼうぼうでもその田畑に無関心だったのである、もともとその人は電気関係の仕事だから田畑が草ぼうぼうになっても関係ないのである、別に金があれば一応何でも買えるからである
確かに買い物が不便でも品物は外部から入ってくる、要するに金さえあればどうにかなる最も怖いのは金がないことである、それで最底辺層は毎月ガス、電気、水道が止められることで窮地に追い込まれるのである
そううい人は金が得られるならば地元に執着しないだろう、第一そこまで貧乏なら外部に移って豊かに暮らせるならそうするからである

原発事故でなぜ簡単に村でも町でも崩壊したのか?それは放射性物質に汚染されて住めないともなった、でも不思議なのは地元でももともと米でも野菜でも外部から入ってくるものを食べていた、だから放射性物質に汚染されないものを買って食べればいいのである
そうすれば地元に住めなるとなる、ただ空気とか水とかまで汚染されたから住めないともなった、でも別にもし放射性物質汚染でも気にしなければ住めるのである
食料は外部から入ってくるし車があれば買い出しもできるからである
だからすぐに飢え死にしたりしない、江戸時代の飢饉だと飢え死にしている
外部から食料が入ってこないからである、津留とかは外部に食料を流出しないように止める役割があった、飢饉の時などは流出しては困るからである

何か現代は外部とのつながりはこうして強くなった、それもグロ−バル化すれば外国とのつながりでもそうである、でもかえって地元の地域のつながりは希薄化したのである
原発事故では仮設には毎日のようにボランティアが来て援助していた
こうして外部とのつながりが強調されたのである
そして内部のつながりは奇妙なのは補償金で分断されたのである
こっちが多くもらったこっちはもらえないとして分断してしまった
あとは多額の補償金をもらった人たちは外部に流出した、仙台市とかに資本金ができたので商売して成功した人達もいる、つまり金があればどこでも移住していいし一旦村でも町でも荒地になりゴーストタウンになったら他に移った方がいいとなる
その資金も金も得たからである

私は別にそういう人達を批判するのてはなくそういう社会で起きたということを考察しているのである
だからこれは別に原発事故という特殊なことでもなくても他でもありうる
地元のつながりは希薄化しているから地元にこだわらない社会である
金さえあれば便利な所に移ればいいとなるからである、例えば老後でも東京に住まずに金さえあれば地方でも住めるとなる、その選択は自由であり問題は金があることである
広域化したグロ−バル化した社会の矛盾がある、私は車をもっていないから原町に買い物に行く、でも量販店の電器店でも他のチェーン店でも配達すると配達料がかかる、それが三千円とか高くなる
奇妙なのはインタ−ネットで注文したとき配達料が無料で送られてくることである
だから重いものは自転車で運べないから通販の方がいいとなってしまうのである
現実にケーズデンキでもインタ−ネットで通販しているのである
そこでは配達料は無料であり実店舗になると配達料がとられるのである
それは配達は委託している場合が多いからそこに払うからそうなるともみる
これは広域化グロ−バル化した社会の矛盾なのである

ただこうした社会は村でも町でも市でも簡単に崩壊しやすいともなる
外部とのつながりの中で生きているから別に今住んでいる地元にこだわる必要ないとなるからだ

金がすべていいものとして働かない

これも現実なのである、結婚するにしても金持になると相手が金ばかりを見て寄ってくるとか金を目当てにするのが多くなる、自分の家族の介護でも来た人たちは金を得たいためであり現実に大金を盗まれたりした
兄は交通事故で死んだけど雇い主は働いている時はいい人だったが保険金がおりるとなり豹変した、身よりがないものと思っていたから保険金の受取人になろうとしたのである
原発事故でも多額の補償金をもらえるとなるとそれしか頭になくなったのである
そうして町とか村の復興など念頭になくなる、ただ金が欲しいとなるだけであった
あとはその金で外に出て新しい家を建てればいいとなる
現代社会の怖さはすべて金になり金に追われ金に狂う社会なのである
確かに放射性物質お汚染があるのだから仕方ないと見る、その放射性物質でも30年とか消えないとかなっているからだ、そんな所に住めないというのもわかる

でも代々住んでいた場所にこだわりがあり何かそれだけが理由とも思えないのである
たとえそうであっても簡単に町でも村でも捨てられることがあっていいのかとなる
それが一部の人ならいいが全体でそうなってしまうことがあっていいのかとなる
でも現代は町でも村ですらそういうふうにつながりが希薄化しているから簡単に町や村でも捨てられるとなったのかと見る
やはり広域化グロ−バル化経済の中でこういうことも起きて来たとみる
共同体とは基本的に生産共同体であり消費共同体ではない、その生産共同体が農民を中心とした第一次産業を基本とした共同体が町や村を構成しなくなった
そもそも消費だけの共同体は成り立たない、消費するものが王様となりえない
その土地で生産するものがあって共同体も成り立つからである
だから一時的には補償金で成立つとしても継続しては成り立たない、何かしら生産して金を得なければ生活できなくなる、ただ現代はベーシックインカムなどが言われるから
消費に重点が置かれる社会にもなる、生産しないで金をもらえる
でも消費共同体とかはありえないだろう、何か生産しないで消費するだけの社会はありえないからである




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2021年10月13日

金は具体的な責任だった (原発で金をもらった官僚でも返すべき)


金は具体的な責任だった

(原発で金をもらった官僚でも返すべき)


監督官庁である経済産業省と電力会社との癒着による安全監視体制の欠如だ。原発を持つ電力会社9社に、役員として天下った経産官僚は、過去数年に限っても分かっただけで10人。天下り後は猛スピードで常務や副社長に昇格するのが通例で、年収は推定2000万円〜5000万円+退職金。無責任な官僚の豊かな老後と引き替えに、国民がモルモットにされている。

副社長の推定年俸は、有価証券報告書に記載された役員報酬総額から推定すると、低く見積もっても約4000万円。東電在任中に白川氏が億の単位の金を稼いだことは確かだ。
 白川氏が経産省時代にやっていた仕事とは電気を安定して供給するよう電力会社を指導することだった。この指導役がいったん役所を退職すると電力会社に高給で雇われたわけだ
http://www.mynewsjapan.com/reports/1416

原発事故の責任は東電でもそこで恩恵を受けた官僚でも天下りした官僚でもとっていない官僚でも海上保安庁からも検察からも警察からも様々な人達が天下りしていた
ただ官僚だけではない,原発マネーはあらゆる分野や湯水のようにばらまかれたのである電事連では800億円とかがマスコミに宣伝費としてばらまかれた
そこには朝日新聞さえ入っていたのである
丁度原発が爆発した時中国に東電がマスコミの幹部を招待していたのである
この原発マネーは地元の有力者にもばらまかれた、それで大熊町長が津波で流された5億円の金庫を探してほしいとなったのである

とにかく原発マネーは想像を絶する巨額なものだった、それは事故後でもそうである
何兆円という金が除染に使われたり延々と巨額の金がつぎ込まれたことに驚いた
原発とは普通の一企業のことではない、国家的大事業であり規模が違っていたのである
だから金でも湯水のようにそこから出て来る
それでその金でモラルでも何でも麻痺したともなる

金になればいいじゃない

まずこれしかないのである、そこで危険性は見逃されたのである
最初は高い場所に原発を建てる計画でもそれをやめた、わざわざ高くした盛り土を削って低くしたのである、地下に電源を置いていたためだともなる
地下に電源を置いたのはアメリカに習ったからである、アメリカでは竜巻があり地下に電源を置いていたからである、これも日本の風土を無視してそうなったのである
日本の技術者がそういうことを考慮しない結果でありアメリカ頼りのためにそうなったのである
日本の技術ではそもそも原発を操作することができなかったのである
だから湯川秀樹博士まだ早いとして反対したのである

科学者でも技術者でも全部が無能わけでもないし有能な人は相当数いたのである
だから配管が危ないとか危険性を指摘していたが東電は受け付けなかったのである
近いうちに十数メートルの津波が来るとして科学者集団が指摘もしていた
これだけ別に有能な科学者がいたのである、ただ東電はコストがかかるととたあわなかったのである
東電という会社自体の問題があった,コストカッターとして社長にのし上がったのが事故を起こした時の社長だったことでもわかる
コストが優先であり危険は無視されたのである

とにかく原発事故の責任は誰なのか?

そのことが明確にされていないのである、そして裁判になっても無罪を主張しているのである、罪にされないのである、そもそもその裁く検察が天下りしていたのだから裁くこともできないともなる、東電で利益を得ていたからである
でも責任を問いばこうして天下りした官僚にも責任があった、それが全然問われないのである

責任が何かというとき金をもらうことが責任だとつくづく思った
でも実際はこの世の中で金をもらえばそれは何でもいいとなっている
金を得れば勝ちだともなる、でも金には何か必ず責任が生じている
金をもらうことは具体的な責任となりカルマとなる
私は何も責任はありませんと言ってもこれだけの事故を起こしたのだから
「あなたは東電から多額の金をもらっていたでしょう」それが責任なのです
あなたたちはもっと東電にかかわり安全を計る立場にあったのです
こうなってしまうのである、金をもらえばいいというだけではかたづかないことだったのである、やはり重大な責任が課せられていて多額の金をもらっていたのである
金をもらうこと金を得ることは責任なのである

それは地元の人に言えた、船主などは原発御殿が建つほど事故前も補償金をもらっていたからである、事故後ならもらっても問題ないが事故前にもらう権利があったのかとなる
漁業権を売ってもらったからだ、それで海を汚したからとして補償金をまた要求する
船主とか漁業関係者の補償は特別多かったから問題になった
つまり今になって金をもらったことの責任が問われるようになったのである
だから金をもらうことは具体的な責任としてわかりやすいのである

ただ正直人間は金をもらえばいいとしかない、その金がどういう金であれそうなりやすいそしてその金を追求すると誰しもその金が良い金なのか悪い金なのかとなると判断がつかなくなる、そんなことしていたら本当に金持ちになれないし金持ちはみんな不正に金をもらっているとなる、株とかでもうけた金も実は黒い金不正な金だともなる
弁護士でもなぜ相談しただけで百万もとったのかそれも今になるとおかしいと気づいたのである、何かそうして金は具体的な責任でありそれがやがてカルマとなって現れる

そういう自分でも親が公務員だったので得していることを知っている
するとそれも不正の金であるとなる
そういうことでもしかしたら親が介護になり死んだりして大金を盗まれたのもそういう因縁があったからなのかともなる
何かしら金にはそういう悪い金がありそれとかかわらない人がいないかもしれなからだ
ただその額は小さいが東電の場合は余りにも大きいから問題になったのである

だから東電に事故にかかわって得た金は官僚でも返すべきである
東電の原発にかかわって法外な金を得た人は返すべきだとなる
それが責任であり全く幹部でも金を返さないし責任が問われない、幹部は財産没収してもいいくらいである、でも全然その責任が問われないのである
地元の人達も責任があったが故郷に住めなくなったということで責任とらされたのであるもちろんその人達も金をもらって承認したのだから責任があった
金をもらったのだから共犯者であり何も言うなともなる

つまり金をもらうことはそういうことなのである、共犯者であり責任があるから何も言うなとなってしまう
こんなことを言っていたら確かにもう金をためること金を得ることができなくなるかもしれない、でももしそうした金をもらっていなければ責任を問われることがなかったことは確かである、そこに金の怖さがある

事故後でも補償金でこの辺はもめた、30キロ圏内は南相馬市だったら原町区までは手厚い補償金をもらったのである
そして十年間も医療費無料高速無料になっていたのである、30キロ圏からはずれた鹿島区は一人70万の補償で終わったし医療費は半年で打ち切られた
高速もそうである、最近になって高速無料にした、さらに30キロ圏内は医療費が一年くらい延期されて補償されるようになった、この差は大きいものだった

ただまたこの金のことでこれだけ補償して金をやったのだから文句言うなともなる
30キロ圏内ではそうなる、そうすると東電に文句もあまり言えないとなる
それもまた金の効果なのである、金をやるから東電に文句を政府にも言うなとなる
それをある程度受け入れるほかない、それはなぜか?

金をもらったからである

でも奇妙なのは私が住んでいる地区は一人70万しかもらっていない、隣の原町区は三倍もらっているのである

するとどうなるのか?

不満があり東電でも政府でも批判することになる、それができるのはなぜなのか?

金を少なくしかもらっていないからだ!

もし原町区のように三倍ももらっていたら批判しにくくなるのである
それで私はプログで原発事故のことを追求できるとはなったのである
でもマスコミのようにお前に宣伝費として金を払うからとなると批判はできなくなる
それがマスコミであり福島県の新聞でも雑誌でもそういうことがあったのである
何しろ新聞でも雑誌でも出すには金がかかるからそうなる
だから財界福島とかでは東電の批判を最初していたがやめたとされる
東北政経でも相双リテックの宣伝をのせている、そこで多額の除染マネーが入って幹部で億の金を山分けしていたのである、でも東北政経ではそれを批判できない、宣伝費として相双リテックから金をもらっているからである

マスコミも東電から金をもらっているから批判しにくいとなる
地元の人でも東電で金を得ているからそこで働いた人たちは批判しにくいと言っていたことでもわかる、金をもらうということはそういうことなのである
全く金をもらわなかったらそういうことはありえないのである
それでドラマにしろヤクザが親分から金をもらったから頼まれて人を殺した
それも金をもらったからだとしてる、金というのはそういう責任を課せられていたのである

だから金の流れをつかむと悪が見えやすいから裁判では金の流れを把握する
それによって犯罪を追求できる、具体的な証拠となる
そしてグロ−バル経済とかではもう金の流が天文学のような数字になって見えない
だから必ず陰謀論になる、巨額の金が不正に流れる、その金で世界が操作されているとなる、それはまさに悪魔的だともなる、ただ世界となるとその規模が大きすぎて見えなくなるのである、でもその金の流れから悪が具体的に見えることになる
ただ金にしても使う時とを使われるのかも問題になる

猪苗代湖で水上ボートで子供を殺して親の脚を切断するほどの事故を起こした人はこの辺で工事が多くなって足場事業で金が入って人だったのである
また補償金でレクサスとか高級な車を買った人も多くひんしゅくをかったのである
だから金を何に使うかも具体的なものとして見えるからそれが責任にもなる
つまり金の流れからみると具体的でありわかりやすく悪が可視化できるのである

いづれにしろ責任を追及すればそうした金は返すべきだとなる
官僚でも天下りした人達とか東電にかかわり法外な金を得た人達は返すべきだともなる
まずその人達は何の責任も自覚していない、ただ得しただけだからである
法律的には返さなくてもいいとしてモラル的には返すべきだとなる
それが責任を果たすことだがそんなこと一切ないのである
だから誰も原発事故では責任をとっていないのである
何か会社で不正な金が使われると自殺したりする人がいるがこれだけの大事故でも大惨事でも東電では一人もそういう人はいない、良心の呵責にな苦しんだ人は一人もいないとなる、幹部でも無罪だとか主張しているだけなのである
それを裁く検察もまた金をもらった有罪の人であり犯罪者だとなったら裁くことなどできないのである
だから巨悪となるともう人間では裁けないとなり神が裁くほか裁くことが不可能になるのである

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2021年10月06日

原発事故における理系と文系の問題 (総合的な知が必要でありそれは不可能だった)


原発事故における理系と文系の問題

(総合的な知が必要でありそれは不可能だった)




だから日本にとって必要なのは分業化でなく「協業化」なんだよ。
お互いの仕事を知ろうとしないとってこと。
分業なら昭和時代からガチガチにやってるから。
昭和時代でそれで済んだのは、ものが少なかったからどんなものでも売れたからにすぎんよ。

建国以来できなかった民族がこれからできるようになると期待するのが間違っている
日本の国民性は多様性の一つと諦めて、技術を伸ばしたい人は日本を捨てるのが近道

実は問題の本質は日本人の気質にある

業務にしろ技術にしろ、物事を俯瞰して扱える人間がすべての業種・職種で極めて少ない神経質で目先のことに夢中になる人間は腐るほどいる
そして近視眼すぎて自身の能力も自覚できていないから簡単に自惚れる
数学って基本的に人文科学であって、敢えて言うなら『文系』学問なんだけど
記事みたいなことを本気で言ってる日本社会の時点で、海外から笑われるような現状ってのがわかってない

情報系は理系ではないと思うんだが。もちろん文系でもないが。
機械や電気が出来るかとプログラムが書けるのかは全く別の能力

文系が悪いってか日本人の理系技術者は経営的才能がある人がほとんどいないって事なんだよ
アメリカだとプログラマがそのまま経営者になって大企業にまで成長させてる
マイクロソフトやフェイスブックだってそうじゃん
そういう意味では理系の人が無能だったというだけでしかないな
自分も理系だからよくわかる

文系がという書き方をしたけど
技術ってのは最終的に手先の器用さだけが重視されるのではなく
それがもたらす影響とかも考慮する必要があるわけ

それって何よって話になると哲学に行き着くわけ
なんでコレはここにあるんだろうとか別な場所にコレがあったら良いかもなって発想は哲学的発想の領域になる
今は文系に寄りすぎて変なことになってるけど理系ばっかりもダメなわけ



原発のことで追求して来たけどこれほど総合的知が要求されるものはなかった
私は文系だからほとんど原発のことがわからなかった
ただ事故が否応なく原子力のこと核のことなどを理解することが求められたのである
まず原発事故ではもう専門家でも吉田所長ですら原発の肝心なことを理解してなかった
この人は相当な優秀な人だった、でも復水器のことを知らないと言っていたのである
私は素材部門だからですとか言っていた
その復水器とは事故になったとき対応する重要なものだったのである
でもそれすら知らなかったのである、トップの人が知らないとしたら事故に対応できないのである
事故になった時、実際は全くお手あげになっていた、どうしていいかわからなくなっていた、それで放射線量を計るスピーディをあっても最初に連絡したのは日本政府ではない
アメリカだったのである、アメリカに頼りアメリカの支持を仰いでいたのである

日本人では何もできない!

それでこんな危険なものを作っていたのだから余りにもずさんだったのである
それで日本がの技術は優秀だから事故にはならないと吹聴していたのだからあきれるとなる、原発内で働いていたのはほとんど理系である、理系の技術者である
そこに素人の文系の人など立ち入ることもできない、政治的には原子力村を作り文系の人は官僚でも政治家でも地元の人でもその理系の技術者の下で恩恵を受けていたとなる
実質に力をもっていたのは理系の技術者である
ただ社長とか幹部は文系の人だった、その社長はコスト削減で成果を上げた文系の社長だった、その人は原子力の技術のことなどわからないのである
でも経営するトップは文系の人達だったとなる、だから事故が起きた時何か起きたのか理解できないし対処もできなかったとなる
会社を経営するとして今でも経営者は社長とか文系になっている

一方で理系の問題もある、理系の人は機械マニアとかなり社会全体のことを関係なくマニアとなり没頭する、だからこそそういう人は機械に通じて重要な役割を持つとなる
ただ何かそこに偏ったものが生まれることは確かである
でも別にもし経営者ではなくただ機械マニアとしてそこで励んでいれば問題はないのである
でも何か経営となると別な問題が生まれて来る
原発というのはこれを作る前に原発は安全なのか安全を維持して操作できるのかとかが問題になっていた、でもそのことはあまり追及されなかった
文系の人達は素人は専門家の言いなりになる、核のことを専門用語で言われれば何も言えないからである

専門家が安全だといえば安全になる

こういうことしかなかったのである、だから原発内に立ち入ることもできないし疑問をぶつけることもできない、マスコミには電事連をふくめて800億円とかの金が流れていたそれは全マスコミにその金は流れていた
創価の潮とか関係の雑誌にも流れていた、原発は安全だとしてその金を得ていたのである創価などはただ何でも御利益になれば食いつく、頭にそれしかないし毎日一票のために
利権と御利益を得るために祈っているだけだからである
そして福島民報は県で50パーセント出資して聖教新聞を刷っているのだからもう原発に関しては何も言えない、だから原発は土地の所有者がいて県が許可できれば建てられたとなっていたのである、これほど危険なものがそんなことで決められていたのである
何か不思議なのは双葉町辺りで創価の会館があった、廃墟の街にあった
それも何なのだろうと見た

原発はとにかく国で決めた国策なのだからこれに逆らえないのである、理系の技術者はそれに従うほかない、例えば北朝鮮でミサイルを打つ、それを作るのは理系の技術者であるでもそれを命令するのは文系の政治家だともなる
そこで理系の技術者が疑問になり嫌だと拒否したらその国で生きることもできない
これは原爆を落とした後にそれにかかわった理系の技術者がアイシュタインなどが反省したのである、それが大量殺戮に使われたことで反省したのである

つまりそもそも核というものから核兵器が生まれた、それは空恐ろしいものだったのである
するとそんな危険なものを使用していいのか、それを発明した人は悪魔だったともなるのである
ただ科学技術というのはそれ自体危険かどうかとか関係なく開発がすすめられる
だから遺伝子操作した食糧でも今は作られ売られている、そこにも危険が指摘されているワクチンでも遺伝子操作しているから危険だという人もいる
科学技術には何かそうした危険性が常につきまとっていたのである
だからゼウスから火を盗んだプロメテウスは過酷な罰を受けたのである
そういうことが核にも言えることだったのである
プルトニウムの毒が二万年消えないとういのもそうである、それだけ恐ろしいものとしてあった

すると原発はそもそも必要なものだったのか?

ここから発想する必要があったのだ、それは理系と文系の相違だともなる
理系は核のことを研究する、それが社会にどう影響するかは考えないのである
その機械が大量殺戮兵器でもかまわない、それが社会にどう影響するかなど考えない
機械のことしか核のことしか考えないからである
そこに理系と文系の根本的が相違があったのかもしれない

電気関係の優秀な技術者が会社を経営するようになった、でもその人が会社を経営する動機はただ自分が技術者として優秀だから金を持っている都会の人から金を得るためだと言っていた、経営の動機がそれだけだったのである
ただ何か技術者と経営となるとそれがまた別なことになる
その人はコンピュターに詳しくその方面でも独自にサイバーのようなものを作っていた
でもその人がなぜ事業に失敗したのか?

その動機が余りにも社会というのもを考慮しないものであった
技術的に優れているから自分の優秀さを社会に見せてやるとかが動機だったのである
だからこれは一身上のことになるがその人はまず他者を助けるとか他者のためになるとかは全く考えない、それが自分自身介護とか病気になったとき苦しんでいる時でも商売のことを考えていた、借金していたから余計に借金を払うために自分に要求したのである
その人の問題はモラル的なものであった、技術だけではない、経営となりモラルが関係していたのである

その人は経営者としては会社を経営する資格がなっかたのである
ただ人に使われていれば問題なかったのである
だから文系理系で理系は文系に使われるだけだとか不満を言うがこういうこともあるのである、また東大出の理系の鳩山首相でも何か宇宙人だとか変なものになっていた
政治家とは国家を運営する者であり機械マニアとか技術だけが優秀ではできないのである
ただ原発でも新潟の巻町では町民全員で相談して作ることをやめた

これは本当に例外的である、原発はいくら国策でも一地域で町で拒否できたのである
でもこれは例外でありあとは原発は拒否されていないのである

それって何よって話になると哲学に行き着くわけ
なんでコレはここにあるんだろうとか別な場所にコレがあったら良いかもなって発想は哲学的発想の領域になる
今は文系に寄りすぎて変なことになってるけど理系ばっかりもダメなわけ

原発は理系の技術者だけでは処理できないものだった
それがそもそも必要なものがどうかということから哲学的な問題としてもあった
例えばオリッピックでもする意味があるのかどうか問われた
今になるとオリッピックをする意味が失われていたからである
結局一部のオリッピック特権者の利益のために行われていたことが判明したからである
JOC会長はぼったくり会長と世界から批判されたからである
二百万の部屋のホテルに泊まるとかまるで国賓並みであり国王を招待すると同じだったからである

いづれにしろ原発を考える時、郷土史などこれも一部のマニアのもので理系的技術とは関係ないものと見ていた、でも津波のことなど実際はその記録もあり関係していた
そもそも郷土史とかなると実は郷土全体をみるのだからあらゆることが関係していたのである、総合的に観ることだったのである
なぜアメリカでは原発が東側に主に作られていたかというと地震がないからでありまた
竜巻があり竜巻を防ぐために地下に電源を設置していたのである
日本では地震が多いのだから海岸に作れば津波も来る、そういうことを考慮しなかった
それでも科学者集団が津波が来るとして警告していたのである
それもかなり早い時期に来るとしていたが東電では無視したのである
それは金がかかるから防潮堤を作らなかったのである、今になると作ったのであり作れないことはなかったのである
また高い場所に作ったのにわざわざ削って低くして電源を地下をにもってきた
でも津波でやられて使えなくなった、そしてメルトダウンになってしまったのである

これは理系の技術者のミスでもあった、一方でコストダウンばかりを考えていた文系の社長の問題もあった、こうして理系文系にかかわらず原発は総合的な問題としてあったのである

業務にしろ技術にしろ、物事を俯瞰して扱える人間がすべての業種・職種で極めて少ない神経質で目先のことに夢中になる人間は腐るほどいる
そして近視眼すぎて自身の能力も自覚できていないから簡単に自惚れる

俯瞰的総合的に観ることが大事にしてもそれは一個の人間の能力を越えたものだったのである、つまり原発は人間にとって操作不可能なものでもあったのだ
核もそうである、人間の能力の限界が露呈する、それで人類が破滅するような代物だったのである
そうなれば別な安全な技術を開発したりまた多少貧乏でもやむをえないという選択もありえたのである
そもそも結局原発は人間が操作する能力を超えたものだからである
もし全能の神だったからできるがそうでないからできないのである
私自身にしても郷土史とか郷土のことを学問にしても全部のことなどわからない
理系的視野が欠けていたり狭い郷土でも全部を知ることなどできないからである
そこに人間の限界があり必然的に事故になり大惨事となり故郷に住めなくなり修復不可能となってしまったのである

人間には限界がある

限界を心得よ

全能なるは神しかいない

科学技術も災いがもたらされる

全能ならざるがゆえに・・・

やはり人間の限界を知らないと大惨事になる、技(わざ)はわざわいに通じているのだ
ただ科学技術でもそれが良いものとして便利なものとして追求してゆくと災い(わざわい)がもたらされる、それを原発事故でも原爆でも示したのである
他にも科学技術は全部いいものとして作用しないのである
必ず人間のすることにはいい面と悪い面が生まれる、そして今回のような大事故になりとりかえしし、かないものともなる
それは結局人間の奢りに対しても罰なのである、過酷なる罰だったのである

事業の経営で失敗した人もまた日本の戦争でも負けたのは奢りからでもあった
あることに人間は優秀だとして技術的にはそうでも経営ではまた別でありそれで失敗したのである
人間には何か常に奢りが生まれる、それが一番危険なのである
日本が技術的に優秀だから事故が起こらないとか言われたのもそうである
原発安全神話は全く科学的根拠もなにもない権力者が人をだますために作られていたのである、それを作ったのは文系でもあり理系でもある
配管など老朽化して危険だとすでに警告していた、それも東電では取り合わなかった
その幹部が取り合わなかった、だから幹部の責任は重くても誰一人責任をとらなかった
ある意味で死刑になってもいいくらいの責任があったのである
その責任をあまりにも軽く見ていたのである

第一原発は東京に作るのが筋だったのである、それほど安全なら東京に作った方がコストでもかからないからである
なぜわざわざ福島に作ったのか?そのことがペテンだったのである
これだけの被害があったのだからその責任も重いとしても誰もとらないのである
ただ地元の人は故郷に住めなくなったという責任をとらされた、それも避難区域になった所は距離に比例して責任があったからである、ただ飯館村はそうではなかったから同情されることはわかる、でも今になるとやはり南相馬市に放射性物質が流れて来るとか広域的に避難してかかわるのだから事故後はやはり責任が押し付けられたとはなる
それで飯館村の村会議員選挙で村の者以外のよそ者はかかわるなというのはありえないことである、南相馬市はよそ者ではないのである
飯館村は今や議員になるとても利権の場のようになった、補償金を得るための利権の場のようになったのである、昔のまでいな村とかはない、それは飯館村の人の責任ではないにしろやはり現実に責任をもたされたとはなる
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2021年09月26日

若い人の甲状腺被害が多いのははやはり原発事故の結果か (復興しない原発避難区域―飯館村など)


若い人の甲状腺被害が多いのははやはり原発事故の結果か

(復興しない原発避難区域―飯館村など)

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30 倍となる多い

低線量被ばくの発がんリスクと福島の甲状腺検査の結果の解釈


radiotionfff1.jpg
2012年の調査である、10年過ぎたらどうなるのか?

福島で最も恐れていたアレが遂に急増し始めました 
ここまで深刻だったとはもう言葉がありません・・・
https://www.youtube.com/watch?v=ZeYEd2Ksor4

●放射線により甲状腺被害が増えたのは確か

津田教授 福島の有病率は、全国平均甲状腺発症率(5〜24歳)の17〜22倍と多発であるという結論になります。2巡目の検査で新たに見つかった甲状腺がんは、1巡目の検査後の約2年の間に5.1mm以上に成長したと考えられます。これらの腫瘍が、その後も同様のスピードで成長する場合に一生発症しないと考えるのは困難です。

原発事故の放射線被害もわかりにくい、でもやはり確実に被害が5〜24歳)の17〜22倍と
多いとしたらこれは具体的でわかりやすい、明らかにここに被害が見られたとなるからだ武田邦彦氏もこのことを指摘している、でも報道がされないとしている
福島医大と長崎医大で甲状腺癌の共同研究をするというときやはり事実として被害があったからだとしている
でも原発事故前でも危険が報道されない、事故後も報道されない

ここにマスコミの問題があった、報道できない何かがあるのでできない
県の政府の広報となっているのが福島民報でもあるからだ
県の出資が50パーセントにもなっているからだ
また創価の聖教新聞を刷っているから公明党は政府側に自民党につくからそうした報道を抑えることができる、だから報道機関が自立していないと大事なことでも報道されないのである、それが原発にありとりかえしのつかない事故になったとなる
原発マネーはあらゆる所に流れていたのである
報道機関ならマスコミなら全部であり丁度爆発した時全マスコミが朝日新聞社の幹部まで中国に招待されていたときだったのである

それはコロナウィルスでもある、本当のことが良くわからないからである
また科学的なこと専門家しかわからないから簡単に騙されることにもなる
自由な報道にするには何かの団体とか権力者に忖度するとできないのである
でも今まではマスコミしか報道できないのだから一個人などではできないからそこで報道されないとわからないのである

だから飯館村では子供が住めないから学校でも村外から数人通っているだけである
空気に放射線が依然として放出されているとなると飯館村内に入ることや住むことはむずかしいとなる
ただ老人は関係ないとしている、飯館村の老人は山菜を食べていると言っていたからである、老人は気にしなくてもいいとなる
放射線被害があるのは若い世代であり子供に影響したことが致命的だったともなる
もし子供に影響がなかったら親でも一緒に住めるとなっていたからである
それでいくら立派な建物を建ててもそこで子供が学べないということにもなった

この放射線の被害のやっかいなのはセシウムの半減期が30年とかプルトニウムだと二万年消えないとかなりこうなると住むこと自体が不可能にもなる
飯館村はそういうレベルにあるのかもしれない、土壌でも山林でも放射性物資に汚染されてそれを除去することは不可能になっているからだ
最近私は放射線量を計っていないが空間線量みたいのが減っていなかった
ここは放射線量が0.2とかそもそも低くかったから減らなくてもいいのかと見ていた
飯館村では0.7マイクロシーベルトとかある、でもモニタリングポストの線量は低くしている、その下の土を除いて設置されているかである
それを大成建設とかで設置していたのである、そのことを飯館村の人が指摘していた
何かこうして政府のしていることが原発ではごまかすことが多かったのである
それに加担したのが御用学者だったのである

●放射線の被害は長く続くからやっかい

原発の放射線被害というのが具体的に見えるものとて提示されない
すると危機感も感じないのである、何も被害がないじゃないかとなる
コロナウィルスでも具体的に被害があり苦しみ死んだりすると危機感を感じ外出や遠出でもひかえる、具体的に被害が出ないと危機感を感じないのである

もう十年も過ぎると外部でも関心がなくなる、ただそこに住み南相馬市でも現実問題として放射性物質が依然として飯館村から川を通じて流れて来るのだから敏感にはなる
でも今年は明らかに鮎が海から上ってきた、それは今年放流したものとは違う
自然に繁殖した鮎が海から上ってきたと見た、なぜなら小さい鮎だったからである
もともと事故前でも鮎はこの辺では小さくなっていたからである
すると自然も回復したのかともみる

チェルノブェリでは子供の甲状腺癌が多発してそれを見た時悲惨だったのである
福島でも増えたとしても報道しないからわからなくなっていたのである
やはりその時の映像のインパクトが大きかった、福島では全然報道されないのである
ただ飯館村は回復していない、田畑でも回復しない、ただダリヤを250円で買った
ダリヤ畑があった、花栽培は放射線の被害がないからできるとなっていた
他の農作物は依然としてまだ放射性物質がふくまれて安全とは言えないのか?
ただ測定して安全だとはしている、でも回りの山林から放射性物質が流れ出して来る
それを止めようがないのである、それは雨で流されて真野ダムにたまりまた新田川を通じて原町区にも流れて来る
それで放射性物質を含んだ土を入れていたフレコンバックが破れて流れ出したことがあったからだ

いづれにしろ原発事故で避難区域になった所は復興していない、帰還もしていないから
放置されて田畑は原野化して荒寥としている
ただそうした地域でも補償金をもらったから生活している人はいる
でもなにか生活の持続可能な場所とはなっていない、原発事故の補償金をもらうための利権の場所のようになったのかもしれない、除染では何兆円もかけたしその金は相双リテックとかに流れて幹部で何億円とか山分けしたとかなる
また建築土木関係では仕事が増えてもうけたとなる
それでいわき市の足場会社の会社の息子がプレジャーボートを買って子供を殺してその母親の両足を怪我させた、切断した、それを見た時ショックだった
何か関係ないようでもこれも原発事故が回り回って影響したのかとなる
金回りが良くなってそれが事故につながったのかとなる
高級な車を買った人も多いからである

●放射線量で補償金で分断されたのは政府の策略だった

とにかく原発は莫大な金が流れた、事故前でも事故後でもそうなのである
こんなに莫大な金が使われることに驚いた、でもいくらそんなに金が使われても復興にはつながらないともなった

 村民の1人はこういった。「原発事故のせいで村が3つに分断され、賠償額にも差ができた。事故の前はみんな気持ちが通じ合い、トラブルなんてなかったのに、ねたみやひがみが生まれている」
 
 星英雄:先が見えない−−分断と風化に抗して希望を模索する飯舘村〈飯舘村レポートA〉
http://rentai21.com/?p=833
 
 飯館村などは一様に放射線が高かったのだから賠償も一律で良かったのである
これは今になると政府が住民を分断させるためにしたとも思える
隣同士で補償金の額をめぐって争った所がかなりある
実際に放射線量はほとんど変わらないのに差をつけたのである
鹿島区は30キロで区切りそれで原町区は三倍ももらい、医療費も十年過ぎても延長してもらい、高速も無料だったのである
この差別は大きかった、相馬市でも市内を計ったら放射線量は変わらなかった、かえって高い所もあったし他にも周辺地域で伊達市でも隣同士とかで親戚でも補償金をめぐって争っていたのである
こんなことしたのは政府の策略だったのかとなる
なぜなら分断されることは被害者一致協力できないことになったからである

●ハコモノに金をかけて作っても復興にならない

奥尻町では被災者一人あたり、405000万円が復興で使われ、義援金も一人あたり1000万円ぐらいあった。そこまでしても、それだけにしかならなかった」

飯舘村・菅野典雄村長「経済一辺倒のままでいいのか」 将来を見据えた復興のありかたとは

奥尻島でも津波の被害で建物とか公園とか箱物を作っても復興できなかった
被災地に求められているのは『何かを生み出す人』です。お金を使う人はいらないんです被災地に多いのはお金を使う人たち

https://www.huffingtonpost.jp/2014/03/02/reconstruction-of-the-great-east-japan-earthquake_n_4886571.html

これは事故から7年後とかその前に言っていることである
10年も過ぎたらまた状況が変わっている、一番変わったのが外部でも関心が薄れて内部のことがわかりにくくなっていることかもしれない、飯館村の村議会選挙のことを知ったそこで運動員にうろうろするなとか南相馬市なのにそんなことを言っているのは信じられなかった、つまり飯館村内にもいろいろな人がいるにしても外部の人が相当にかかわってきているのに南相馬市なら地理的にも一体なのにそんなことを言うこと自体信じられないとなる
おそらく議員選挙に出た人も飯館村には住んでいないのではないか?
外部に新築の家を建てて飯館村を利権の場として利用していることもある
住んでいれば住民になるけど実際は住んでいない人が多い、それでこじんまりした新築の別荘を建てていて時々帰ってくるというのもそうである

いづれにしろ十年過ぎても復興はしていない、ほんの一部であり全体的には原発避難区域は復興していない、全体的に田畑は荒れ果てて住んでいる人は老人であり若い世代は流出したのである
最近では小高区の大工さんが立派な家を建てていたが原町に中古の家を買って移り住んだとかある、飯館村の人でも周辺に移り住んでいるのである
補償金で新築の家を建てた人も多いだろう、すると生活する場所が村外であり通うにしても村の住民という感覚になれないだろう

金をいくらつぎ込んでも復興にならない、それは奥尻島でもそうだった、補償金でも援助金でも相当にもらった、そして菅野町長がさらに支援金をもらうためにテレビで宣伝したのを見た、そんなに金をもらっても復興できていないのである
湯水のように金を使っても復興しないのである
それはなぜなのか?金を使う人ではない、何かを新しく作りだす人が必要だというのもわかる
でもそれはたいがい外部から来た人達がしている、外部頼みなのである
ただもう外部の人でも関心あるのは減少して一部の人しか継続してかかわらない
それで川俣町の山木屋の人が大学の人が来たが一時期だけかかわって後は来なかったとなる、そういうボランティアでも多いだろう
継続してかかわることはむずかいしからだ、ただ南相馬市とかだと地理的に一体だから無視できないのでかかわるとなる
飯館村は飯館村だけでは自立できないのではないか?
それで南相馬市と合併すれば復興を広域的に考えるからそこに何か開けるものがあるかもしれない、ただ全体的に原発事故の避難区域になった所は十年過ぎても復興していないのである


posted by 天華 at 21:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2021年09月22日

原発は地域エゴから始まりさらに地域エゴで分断された (飯館村でも南相馬市と合併するべきだった)


原発は地域エゴから始まりさらに地域エゴで分断された

(飯館村でも南相馬市と合併するべきだった)

●東京の地域エゴで原発は作られた

原発事故のことをいろいろ追及して来たけどそこで思ったことは
地域エゴがその原因ともなっていた
そもそも原発が福島に作られたのは東京の地域エゴだった

東京では危険だから福島に作れ

これも身勝手な地域エゴだった、自分たちの安全を計るためにそうしたのである
つまり原発とはこうして地域エゴから始まっていたのである
原発を作る場所は過疎的な場所がいいとされるのもそうである
そこに金をばらまけばいいとなるからだ、またそうして立地された場所は金が欲しいとなり積極的に誘致したのも地域エゴだったのである

極端な話では原発を建てる場所の地権者と県の許可があればそんな危険なものでも建てられた、ただその周りの自治体には金を与えたり仕事を与えたのである
それも地域に利益を誘導するものとなった地域エゴである
他の自治体では恩恵がなかったからである、だから県全体で見ても一部のものが利益を得ていただけであった

でも事故になった時広範囲に被害になった
つまり広範囲に原発は影響する、それ事故になったとき吉田所長は東北に住めなくなると言ったのである
原発事故は広範囲に影響するから市町村の範囲を越えて協議する問題だったのである
それが狭い地域でエゴで決められていたのである

県庁のある福島市でも被害が大きかった!

飯館村は放射性物質ブルームの塊りが流れる通り道となり被害が大きいものだった
ただここは別に自治体でも原発の恩恵はなかった
でもやはり金になるから原発で働いていた人がいたのである、原発だと三倍くらいの給料になっていたからである、この影響は大きかった、原発の回りでこうして働いて人が多かったのである

だから県庁のある福島市まで被害があったのはカルマだったともみる
遠いから原発と関係ないとみていた人が多かったからである
私の住んでいる場所も30キロ離れているから関係ないと見ていたのである
でも30キロ内は補償金が三倍以上もらっていたのである
一応南相馬市ということで鹿島区までは補償金をもらった
隣の相馬市となると一人6万しかもらっていないのである
原町区は鹿島区より三倍もらっていた、その差も大きかったのである

●事故後も補償金で分断

そして原発事故以後様々なエゴで金を得ていたことが判明した
漁業者は船主などは事故前も多額の補償金もらい原発御殿を建てていたとか周りからうらやましがられていたのである
漁業権がありそれを盾に東電からもらっていた、ところが同じ港に住んでいてももらえない人がいて不満だったのである
エゴむきだしになったのは家の前の海は自分のものだとして補償金を払いとまでなった
原発事故以後は補償金の奪い合いになったのである

それで飯館村では補償金をめぐって二つに分裂して争うことになった
その後どうなったかわからないが長年町長をしていた人はやめた
こうして補償金で原発周辺は分断された、それが伊達市とかでもそうだったと聞いた
親戚間でも補償金をもらう人ともらえない人がいて争うことになったと聞いた
つまり隣がもらってももらえない人がいたのである
鹿島区だと塩崎の人がそうなって女の人が泣いて訴えていたのである
子供でも争いになったとか聞いた、これも人間のエゴがむきだしになり争うようになった
今回の飯館村議会選挙でもS議員の運動員がよそ者はかかわるなとうろうろすると困るとか言って聴くこともできなかった、でも南相馬市と地理的にも深い関係があり放射性物質でも川を通して流れてくるのだからそうはいかないのである
でも一票をもっていないから南相馬市は関係ないとされたのである
でも現実に原発事故以後は飯館村の人でも広範囲に移り住んでいるのである
その人達は他の地域に住んでいても依然として飯館村の人なのである
税金は住んでいる場所に全部は払っていないだろう
なぜなら補償金をもらう関係でそうなっている

こうして広範囲な被害があり広域的に政治でもかかわるものとなったのである
だから飯館村の人達は南相馬市と合併しなくて良かった、補償金は特別もらえたからと言っていた、これもおかしいと思った
確かに飯館村には原発事故の責任はない、だから同情された
でもその後はやはり南相馬市とか回りと関係ないとはならないのである
現実に飯館村の住民がその周りに移り住んでいるからである
そしたらその周りにも南相馬市でも世話になっている人がいるのである

それをここは俺たちの土地でありよそ者はかかわるなと言えるのか?

例えば相馬市のトマト農家に飯館村の人が雇ってくれと言って断られたと不満をNHKで言っていた、でもその理由が相馬市の松川浦の津波の被害者を雇ったのは補償金をもらえないからである、それはそのトマト農家が冷たいということではなかったのである
ただ飯館村の人達は何かと同情されたことは確かである
原発事故の無惨さが飯館村に顕著に現れたからである
だか飯館村は補償金が特別多かったのである、実際に今でも放射性物質が特別汚染された地域になっているからだ

●飯館村は南相馬市と合併するべきだった

結局原発事故とその初めから東京地域のエゴで福島に作り自分たちは安全を計ろうとしたこと自体地域エゴだった、それで東京に原発を作れというのが正論だったのである
もし東京に作っていたらかえって事故にならなかったともなる
ただ原発は様々な危険性が指摘されていた、でも東電は無視していたのである

結局原発というのは東京の地域エゴから始まりまた誘致したのも地域エゴだった
自分たちだけは原発で金になればいい、自分たちの市町村は金になればいいという地域エゴだったのである
でも事故になり今度は逆に広範囲に人が移動して広範囲に広域的に政治問題化かしたのである
だから今回飯館村選挙でよそ者はかかわるな、この地域をうろうろするなとか言うのは信じられないとなる、それも地域エゴでありる

現実に回りに南相馬市でも飯館村の人達が移り住んでいるから広域的な問題であり飯館村の一地域の問題でなくなっているからだ
それが依然として飯館村のことは飯館村でする、よそ者は関係するなとかなっているのも全く現状を理解していない、こうして何か権力がないものは無視される
でもインタ−ネット時代には一個人でも発言したりできる
ただ読む人が少ないから影響はわずかにしてもやはり何らか影響するのである

こうして今経済でもなんでも広域化しているとき広く合併することはやはり時代でそうなった、そうならざるを得なかったのである
だから飯館村も地理的歴史的に一体化した地域だったから南相馬市に合併するべきだったということもありえた、現実問題として合併したような状況になったからである
南相馬市でも川俣町でも関係ないとならないからである
それで風車を作ったら川俣町の人に景観のことで勝手に作るなと言われたのもそうである川俣町も隣町だから相当に影響したからである、飯館村の人でも移り住んだりしているからである、でも補償金は全然もらっていないのである

だから何か飯館村自体だけで解決することは全くない
住民自体が周りに分散しているのだからそうなる、だから本当に南相馬市から来て聞こうとしただけでうろうろするなとかかかわるなとか言うこと自体、自分たちの現状を全く理解していないのである
そういうことは小高区の人達にもあった、とにかく自分たちは被害者であり援助されるべきものとして鹿島区のことなど眼中になかったのである
毎日ボランティアがきて援助していたのである
飯館村もそうしして他から援助されていたのである
だから俺たちは常に援助されるべきものとして見るようになったのかもしれない
そこに地域エゴがむきだしになったのである

相馬市のトマト農家で飯館村の人を雇わないとNHKで報道して暗に批判したのもそうである、相馬市の松川浦などの津波の被害が大きかったのだから当然だったのである
でもNHKでは特別飯館村の人がかわいそうだとしてそのトマト農家を批判したのである
これは常に原発事故の避難者は援助されるべきものとしてありそれがつけあがらせた原因にもなった、その周りにも津波でも苦しんでいた人がいたが無視されたのである
ただこうして最初から東京の地域エゴで福島に原発を作らせたのも地域エゴだったしそれが原発事故以後も地域エゴとして補償金獲得競争で分断されたのである

●地域エゴは人間が存在してからあった

ただ地域エゴは今に始まることではない、人間が存在し始めてから地域同士で利権で争うことがありそれが戦国時代にもなったとなる
だからこうした問題は人間社会からなくなっていない、地域地域で利権で結び合いまた争うのも人間の津ねだからである、水争いとかいろいろ地域でも争ってきたからである
それがこの辺では原発事故で露骨に現れたというだけなのだともなる
ただ現代はこれだけ広域社会になったとき地域だけの問題として処理できないのである
原発は広域的にかかわるものであり一時吉田所長が東北には人が住めなくなると言ったのもそうである、福島県だけではない、東北全体の問題でありまた全国的な世界的な問題でもあったのだ、海でもトリチウムの汚染水流すと世界から批判されているからである

地球とはみんなつながっているからそうなる、グロ−バル化すると余計にそうなのである人間はもはや江戸時代のような閉鎖した空間で生きていけなくなっている
私がグロ−バル化を批判してきたときそのマイナス面が大きくなったから批判したのである、でも現実問題として広域化グロ−バル化した世界に生きているから相互の調和を計らざるを得なくなっているのだ
ただそうはならずに地域エゴとか国家エゴとか対立が激しくなり戦争にもなる
そうならそれぞれに別々にかかわらないで生きればいいともなる
しかし現実にそれができなくなっていたのである、江戸時代にももどれないということである

どうししても広範囲な政治が必要になった、そこで問題を解決するほかないのである
グロ−バル化は別にして広域化政治は不可欠である、経済でもそうである
グロ−バル化ではなく大きなブロックに分けた政治になる
それで原発事故以後避難区域になった大熊とか双葉とか浪江は合併案が出たのである
現実にそうなっているのだからそれに合わせるためにそうなった
南相馬市だって飯館村の人でも浪江の人でも双葉でも大熊の人も現実に住んでいる
そしたらすでにこうして広範囲に問題を解決するものとならざるをえないのである
それなのに飯館村では南相馬市とは関係ないとかするのは信じられないとなる
もうすでに飯館村は飯館村だけで問題が解決しない、飯館村議会選挙があっても
回りの市町村とも関係している、飯館村だけでは解決しないのである
原発は世界の問題にもなった、海にトリチウムを流すことは海を汚染することだから世界から批判されたからである

ただその人は例外的な人だからとなるが個人として南相馬市民とショックを受けたのである
今は情報社会でありネット社会だからそういうことも伝えられるから気をつけろとなる
一億総記者時代になっている、個々人でも記者になっているから伝えられ拡散されることもありうるからだ、それが情報社会なのである
とにかくこれだけ変化したのに依然として江戸時代の村意識に生きていた人がいた
だからやはり南相馬市と補償金では得したが住民も周りに移住したのだから
南相馬市と合併するべきだったとも今になると思う
飯館村の問題は飯館村だけで解決しなくなっているからだ

ようやく矛盾が矛盾として意識され、当然あるべき葛藤が生まれるのは、実際に『迷惑』が我が身に降りかかってきたときである。そういう立場に置かれてみてはじめて、人は現実(リアリティー)の痛みに目覚めて思わず大声を上げる。

このサイトでは環境倫理学とか提唱している、本当にこの辺で起きたことはこのことでもあった

●水俣病と補償金  村は保証金で破滅した

1次産業と工場が支えだったのが、漁業は壊滅、農業は落ち目、工場の雇用は細々。貧しくても助け合ってきた村はなくなった。水俣病のせいで村が潰れたわけじゃない。補償金で潰れたんです。

 命や健康は返らない。補償金を取るしかない。でも今度はカネで村が破滅する。公害は起こしたらおしまいということで

水俣病のせいで村が潰れたわけじゃない。補償金で潰れたんです。

これは原発事故でも同じだった、それなりに細々として生活をしていた
その時は助け合っていた、でも事故後は多額の補償金をもらうことが生きることの闘争となった、そして飯館村でも補償金の問題で分断して住む人が流出した
残ったのは老人だけであり村の未来も消失した
第一何億円とかの補償金をもらったら今までの生活感覚とは違う、補償金をもらって楽に生活した方がいいとなる、また老人になれば年金をもらい楽した方がいいとなる
飯館村でもなぜ村に籍を置き村会議員にとかなりたいのかとなる
それは補償金が依然としてもらえる、利権となるからだともかんぐる
それは他の原発の避難区域でもそうなったからである
町とか村の復興よりまずは補償金をもらうということが生きることになった
老人は特にそうなりやすいし若い世代はその補償金を元手に流出して帰らなくなったのである

だからみんな金が欲しいとしてもそれがかえって徒(あだ)になり復興できなくなったともされる、それが水俣病でも公害になるとそうなりやすいと経験者が語っていたのである
しかし補償金はいつかもらえなくなる、今はもらってももらえなくなる
すると何か持続可能な収入が必要になる、農業とか林業とかは持続可能だから貧乏でも江戸時代でも人は住んでいたのである
持続可能でないのものは一時的には恩恵をもたらしても永続的にはもたらさないのであるすると今回のように人は故郷に住めなくなる、人は流出して廃墟と化する
補償金でもそれをうまく活用しないと消費されて終わりだとなる
現実にはそうなっている、復興といっても補償金で他に移住することになったからである

飯館村村議会選挙運動で思ったこと
 (よそ者はうろうろするな、邪魔だ、かかわるなと運動員に言われた)


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2021年07月12日

価値は多様であり金ですべて計れない―家の価値 (原発事故の避難者でもすべて金で贖えない)

価値は多様であり金ですべて計れない―家の価値

(原発事故の避難者でもすべて金で贖えない)

ひろゆきがどうせ原発事故の避難区域にはもう30年くらいは住めない、でも50年とかすぎてゆくと放射線量は減ってゆくから除染に莫大な金をかけても無駄だというのもわかる
そのことは書いてきた、その除染の金が地元の相双リテックとかに流れて億の金を幹部が山分けしたとかある、またヤクザに流れたとかゼネコンに流れたとか何十兆円もの金がさらに廃炉までにかかる
だから一人二千万と補償して他に住まわせるのがいいとしている
現実的にはそうするほかないともなる

ただ外部から見るとそうした方がいいとなる、でも何か私は家族が死んでから家の価値を見直すようになった、別に家などでも補償金もらったら他に新しく建てればいいじゃないかとなる、新築の家を建てればその方がいいとなる
これは何か都会人の見方なのである、家に金をかけるの馬鹿らしいとか都会人だとその土地とか家にこだわらない、家は一時的なものでありそんなものに金をかけるのは馬鹿らしいとなる、だから大きな金をかけて買わない方がいいということになる

家というのはその家のことと家族でなければ他人はただ機能的なものしか見ない
そこで営まれた家族の生活のことなどを見ない、また歴史も見ない
私の家は二回近くの川が氾濫して床上浸水になった
一回目は伊勢湾台風の時だった、その時は今の家ではなくトタン屋根の平屋だった
その家は私の父親が双葉で酒屋に丁稚奉公して暖簾分けして土地を手に入れて建てたものだった、だからその土地自体はこの街でいい番低い場所にあり被害にあった
それで二階を建ててそこに避難することが悲願となり新しい大きな家を建てたのである
つまり家には何かそれぞれの事情があり歴史があり建てられている
それが外から見るとただ機能的にしか見ないのである

ある人の家は若い時トラック運転手であり人の倍をトラックで荷物を土でも運んで立派な石の庭の家を建てた
その石作りの庭は大きな石を組み合わせたものでありいい庭である
それでその人は病院に半年くらいいた、糖尿病だからなかなか治らない
でももう病院にいたくないとなり家に帰り治療するようになった
そしたら病院にいるより元気になったという、病院では本当にかえって病気は悪化するのである、特に老人の病気は直らないのが多いから病院に長くいるのは良くないのである

ともかくその家が作られたのにはそれぞれの経過があり歴史があるとなる
それはまた土地と一体化してある、特に農家とかなるとまるで大地と一体化したようにある、それも大地から実りを得て暮らしていたから余計にそうなっているのである
だから家の重みが違うのである、それは都会にない家の重みであり価値なのである
何か家族がみんな死んでから家の価値を私は再認識した
家には誇張ともなるかもしれないが依然として家族がここに住み血が通っているともなるやはり親の苦労があり作られたものだからである
おおげさに言えば歴史的に形成された建造物だとまでなる、私的なものにしろそうなる

それで住宅とか間借りしているとかなると何か存在感がないのである
田舎だとやはり家を持っている人が多いからである、代々住んでいる人も多いからであるそれで農家だと三代住まないと仲間になれないというのもそうである
草分けとか最初から苦労して開墾して住んだ農家がありそこが中心となり重んじられていた、農業中心の時代はそういう中心の農家があり村が形成されていたのである
だから田舎だと何か農家というのは街の家より重みを感じる

ただ工業化したりして全体の経済の占める割合が一割にも満たなくなったとき農家の存在感も希薄化したのである
東電の方がずっと存在感があるものとなってしまったのである
東電なしで原発周辺は成り立たなくなっていたのである
実際に私の家は東電で働いて金をためて発てたのですよという人もまた多いからである
でも事故になったときその故郷に土地にすら家に住めなくてったのである
他から見れば不便な場所であり金もらって他に住めばいいじゃないかとなる
それが田舎の家がどういうものかわからないからそうそう見る

人間は今だけをみる、そこで長い時間をかけて積み上げられて作り上げてきたものを見ない、空間的にしか見ないのである
それが他からわかりにくいのである、歴史とは時間の中で作られてきたものである
大きな歴史でなくても家でも祖父母がいて親がいてとか二代くらいは活きた歴史として理解できる、実感できるのである
父が苦労して土地を手に入れて家を作ったんだなとか親が苦労して作ったんだなとかは実感できる
何か外から来るとそうした時間的なものは理解しにくいのである
それで外国に旅行しても今しか見えない、時間的なもの歴史を理解することはむずかしいのである

とにかく大きな長い国の歴史とかではなく、家の歴史とういのは短くても実感できる歴史なのである
おそらく故郷とはそうして時間の中で形成されたものであり一個一個の家にそうした歴史がある、ただ他人の家のことはわかりにくい、ただ家を歴史の基点とするとき歴史でも身近なものになる
家は単なる物ではない、箱でもない、機能的なものだけではない
時間軸の中で空間に定着したものでありそこに重みとか価値がある
特に田舎では農家だと大地と一体化したように家の重みがあった
それが工業化とかなり失われてきたのである

家には何か先祖の祖父母とか親の血が通っているようにも思える
なぜなら人間は死ねば全く何も残らない、骨も残っていなかった、土になっていたからである、でも家は親が死んでもしばらくは残る
そこで親とか先祖を偲ぶとういことができる、もし別な土地に移り新しい家に住んだらそうして先祖から親から受け継いだ家の重みは感じないだろう
そこでは一から新しい歴史を作ることになるからだ
それで原発避難区域に残されたのは親の老人であり子供の世代は住まないのである
立派な家とか庭を作った人もそこには子供の世代は住まないのである
ということは家を通じての歴史を継承をされないということでもある
親はその家を通じて自慢するものがあり語るものがあってもそれができないのである
そこで歴史は断たれたともなる

やはりつくづく親が家族がみんな死んで感じることは人間は死んでもそう簡単に消えない全く価値がないとはならない、何か家を通じても残したものがありそこから死んだ人を偲ぶ、それで家には死んだ人がなお生きつづけているともなる
過去の歴史でも建築物は残る、エジプトのピラミッドでもそうでありローマの建築でも
また大聖堂でも残っているから歴史を偲ぶことができるのである
そういうものが残らないと歴史は偲びにくいのである
日本ではそうして古いものが残っていない、木の建築だから残っていないのでなかなか歴史を偲びにくい、今だけに生きる社会になりやすいのである
第一ヨ−ロッパの民家などでも相当に古い、何百年も残っているのは石造りだったりするからである
日本は生(き)の文化だというとき今生きているものを大事にする、木でも新鮮な木がいいのである、だから今宮とか新宮があり常に社でも新しくするし伊勢神宮でも20年ごとに

神宮には内宮にも外宮にもそれぞれ東と西に同じ広さの敷地があり、式年遷宮は20年に一度宮処を改め、古例のままに社殿や御装束神宝をはじめ全てを新しくして、大御神に新宮へお遷りいただく神宮最大のお祭りです。
1300年にわたり繰り返されてきた式年遷宮は、20年に一度造り替えられる常に瑞々しいご社殿で、永遠に変わらないお祭りが行われることに大きな意義があります

日本の文化はやはり木の文化だから長い歴史を感じにくいのである
何か新しい物がいいとされる文化なのである、伊勢神宮という古い場所でも新しいものがいいとされるのは木の文化だからだとなる、真新しい木の新宮に神が宿るとなるからだ
ここがヨ−ロッパとかの石の文化との相違だとなる
もしエジプトでもピラミッドでもないとしてたら歴史を感じられないだろう
ただ砂漠だけがあるとなってしまうからである
ピラミッドがあることによって三千年前の歴史を偲ぶことができるからである

いづれにしろ原発事故ではすべて金で贖えない、それは家という建物でも別に他の土地で新しく建てればいいというときそこにある目に見えない価値を認めていないからであるただ物としてしか家を見ていないからである
なんでもすべて金で贖(あが)なうことはできない、家には建物だけではない、付加価値がある、それが歴史であり精神的なものだからである
youtubeとかの問題は何か物事を深く考察しない、表面的なことで終わっている
深く考察するとなるとやはり話すのではなく文章にしないと伝わらないともなる



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2021年06月30日

「福島原発で今起きている本当のこと」宝島社ーを読んで (東電の余りにもずさんな対応が今も続いている)


「福島原発で今起きている本当のこと」宝島社ーを読んで

(東電の余りにもずさんな対応が今も続いている)

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この告発は内部の技術者がしている、でも専門的知識がなくても理解できる
何かそれほどむずかしい専門的なものでもない
原子力となるとまず素人はわからないから黙っていろとなる
政府と東電と一体化して利権化権力化してそこはアンタッチャブルの原子力村になり
外部の者が入るのを拒む村ができあがった
著者もその原子力村周辺から出ないで閉ざされた原子力村にかかわるだけだとなった
一種のブラックボックス化した狭い範囲で外部との交流を断絶していたとなる

ここで告発した技術者は多様な外部の人を中に入れるべきだったとしている
外部の人に点検させるべきだったとしている
それが強力に権力化してできなくさせた、素人がわからないというけどその内部で仕事していた人たちは素人だったという、どんな専門的なことでも何か素人でもわかることがあるともなる、素人の指摘が的を得ていることもあるという
それを現場の人から聞いた、その人は現場で仕事していた、でも監督する人に直接その不具合などを言って提言までしていた
現場の人が何もわからないということでもなかった
ただ強権的に上の人が命令するので逆らえないとなる

自分自身職についていないからそういう経験がないからわからない
ただ駅のボランティアをして上り下りがありそのホームが外から来た人が意外とわからない、それで何度も聞かれたのでそのことを駅長に言ったのである
そしたらホームをまたぐ橋の入り口に行き先の表示をしてくれた
また水戸管理局の人が来て向かい側のホームの休憩所に行き先を表示してくれた
それは改札からホームに入ると一番目につくからそれを言ったらしてくれたのである
水戸管理局の人は見回りして点検している
でもそれに気づかなかったのである
それはそもそも乗客とは直接接していないからである
JRでは毎日安全運転のために線路とか電気設備は点検しているが乗客へのサービスをあまり重視していない、だからそれを指摘する人がいる

原発というのは複雑怪奇なものにもなっていたがそれが全部わからないというのでもなかった、この本では何度も配管が無数にあり老朽化して危険だったと内部の人が事故前にも言っていたが東電の幹部は取り合わなかった
配管とかなると素人でも直接見れば痛んでいることがわかったとなる
ただ何も言えないような状態にしていた
下請けでも東電に嫌われると仕事がもらえないとかなり何も言えなかったとなる

なぜそうなるかというと権力化するとそういう下からの意見など聞かない無視できる
科学的な合理性があっても無視できる、科学技術者であってもそうした科学でも合理的なことでも無視できる
また政治家もかかわって一体となりさらに強固に権力化するとそれを外部から点検できない、何も言うこともできない、原子力村に閉ざされてさらにブラックボックス化してそうした危険も放置される、ともかく「安全神話」を作りただ安全だと言っていれば良く肝心の安全は無視されてずさんだったのである

科学者でただ安全だ安全だとカルト宗教団体のように題目を唱えていれば安全になると思っていたのも不思議だとなる、それが科学技術者なのかともなる
神が仏が守ってくれるから安全だと思っていたのかとなる
実はそういうことを可能にしたのは政治とも権力化して一体化して強力な権力を持ったからだとなる
科学合理性とかは無視されカルト教団のようになり一切外部からの干渉を拒んだためだともなる
マスコミでも原子力村の一員と化して利権化していたら地元のマスコミでも何も言えなかったのである

権力とは常に危険なものであり暴走したりする、それは日本の戦争とかナチスとかでも起きている、権力の肥大化暴走をどう抑えるのかが大きな問題なのである科学技術と政治の問題が現代では大きなテーマとなっている
コロナウィルスでもそうである、科学者がいてウィルスにどう対処するかを言っても政治的判断で科学者に従わないということもある
政治家と科学の専門家とのせめぎあいが展開される
だから原発とコロナウィルスも似ていると思った
科学的合理性を言っても通じない、政治的判断でオリッピックも強引に進められる

原子力村がありオリンピック村があった

原子力村の利権はやはりフランスとかアメリカがかかわっていた汚染水浄化装置もフランスの会社とアメリカの会社が請け負った、それも実績もない会社である
それで日本制ではないのでトラブルが発生しても対処しにくいとしている

そもそも原発は日本の技術で最初から作られていない!

マーク1というお古の原子炉でもアメリカがもうけるために供給した
安全性が低いものでもアメリカは外国だから売ればいいとなっていた
外国になれば無責任化する、自国だったら責任が問われるが外国だと余りに問われないからである
外国だと武器でもなんでもうりつけてもうけるとなる、誰もよその国のことを責任持てないからそうなる、そこに他国に頼ることの危険がある

これはオリンピックでもそうだった、バッハ会長が利権のために金のために日本で危険でもオリンピックを強行する、中止すると莫大な金が入ってこないからである
オリンピック利権村があり原子力利権村があった
なぜ国民がこれほど反対しているのにオリンピックを強行しなければならないのか?
原子力村と同じくオリンピック利権村がありそれがIOCとか世界的に
利権化しているからやめられないのである

常に地震の危険にさらされている全国各地にある原発も止めねばならない、それができないのは膨大な利権が吹っ飛ぶからです
惨事は利権の執着が産んだのでありこの期に及んでなおその執着は下劣な情報操作に明確に現れているのです

これはなぜオリッピックに執着するのかと似ている、巨大な利権のためにやめられないのである、国民全体を無視しても一部の利権者のためにやめられないのである
また原発の場合は国防上、核兵器を作るプルトニウムを生産しておいて核武装するためだとしている
それで右では核武装派であり原発に反対しないのである、これも理解できないのである
それで武田邦彦氏が右の団体には仲間に入れないという、原発の問題は平和利用の反面
それが核兵器となることにある、それは人類滅亡にもなる危険なものにもなる
そういう目的もあり原発は危険なものとなる
米ソ冷戦では本当に核戦争の危機にもなったからである
今度は米中対立で核戦争の危機になる、原子力はそういう恐怖に常におびえていてければならないのである
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2021年06月05日

原発事故と蛙(童話風に)


原発事故と蛙(童話風に)

この辺は津波と原発事故で田畑は原野化した、草ぼうぼうとなった
それから十年は早くもすぎた、田んぼは耕地整理で広くなった
広くなると機械が利用しやすい、今は何でも機械でする
田には水が張られその畦にはタンポポが咲き水面に朝の光りがまぶしく反射する
苗が植えられた田だもどる
ふるさとの山の影がそこに映っている

そして蛙が声高に鳴く

[ケロケロケロ、ケロケロケロ]

 ここは俺たちの生きる場所なんだ
 ここで俺たちは生きるんだ
 ここに生きる喜びがある
 ここが俺たちの生きる場所なんだ

蛙の鳴く声はひびきわたる、十年過ぎてようやく復興したと蛙の声が喜びに鳴きひびく
それは長い時間だった、今でもまだ回復していない避難区域がある
そのまわりの田畑は草ぼうぼうとして荒地化したままである
でもここではようやく元に回復した
その時蛙はここにまた生きることの喜びに鳴いている
蛙も人とともに生きる生き物である、それが生きられなくなった
その悲しみは深かかった

確かに今は田んぼで米をとることはそれほど重んじられていない、だからこそ電気社会になり原発が作られたのだ
それで電気会社に勤める人は田畑が草ぼうぼうになっても何にも感じないということがあった、それは昔と違って農民が全体の一割にも満たない社会になったからである

でも田舎では蛙も人とと一体となり生きているのだ、生きる仲間なのだ
それが都会とは違う、蛙も田舎に生きる一員なのだ
蛙の鳴く声が聞こえない田舎は大きなものが欠けることになる
都会なら何も感じない、田畑が回りにないから感じない、田舎では蛙も人間の仲間でありともに生きるものなのだ

その蛙の鳴く声はひびきわたる、力強くひびきわたる
  
  [ケロケロケロ、ケロケロケロ]
 俺たちはここに生きる仲間だ
 ここが生きる場所なんだ
 ここに俺たちは生きるんだ
 みなんと一緒に生きるんだ
 ここが俺たちのクニなんだ

こういうふうに感じたのは一旦田畑も草ぼうぼうとなり蛙の生きる場所も奪われたからである、そのために一段と元の田畑に生きることの喜びを感じて鳴いたのである
何かありがたみは奪われたり失われたりしないと感じない、尊ぶこともない
日頃あるものは特別のものにならない、親でも友人でも死んで二度と逢えなくなる
そうしてかけがえないものとして思い出される
人間は失ってみてその本当の価値を知る、当たり前にあるものの価値もしる

 人よ、今生きる場所を尊べ
 ともしきをうれえるなく
 その与えられた土地を耕し豊かにせよ
 神はそれぞれの土地に富を与えている
 それぞれの国に富を与えている
 だからそれを尊び耕せ

外に良いものを求める前にその住む土地土地に良いものを見いだせ、何か良いものがありその良いものがまだ見出されていないこともある
ここで我々は学んだ、何が価値あるべきものなのか、我々は反省しなければならない
我々は外に求めすぎたのだ、それ故にかえって内にある良きものを見失っていたのであるそれで神はこの地にある良きものを奪ったのだ
それはその土地であり放射性物質に汚染されないきれいな水でありまた土地である
それなくして人は住むことすらできなくなったのだ
そして若い世代は子供たちはここから消えた、もう跡を継ぐ人もいなくなった

我々の過ちは何であったのか?それを深く反省すべきである
電気がなくても人は死にはしない、暮らせる、でも空気と水と土と木が汚染されたら生きていけないのである、その土地は放棄せざるをえないのである
我々はその基本となるべきものを軽んじていたのである
それ故に神はこの地を罰したのである、またこの地のみならず地球を汚染するものを罰する、世界の人を罰する、それを知るべきである、神を畏れるべきである

人の技(わざ)はわざわいにもなる、人の技には呪いが隠されている
それが全面的にいいものとはならない、危険がある
それを無制限に信じることは危険である、人間の知恵は神の知恵に及ばないからだ
そこで大きな事故となり大きな災いがふりかかる
そして人類が滅亡すらする、それを畏れるべきである
汚染した土地は元にもどらず次の世代の子どもたちも住まず荒野と化する
神に呪われた地となり人は住めなくなる、そのことを肝に命ずべきである

夜に満天の星がかがやき蛙の鳴く声は大合唱となりひびきわたる
その声は天に向かい神に向かってもひびきわたる
そしてさらに星が輝きをまして空に満ちる、その復興を天も神も喜ぶ



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2021年05月25日

除染専門会社へ県で土木事業を請け負わせた問題 (トリチウム放出には県民投票を!日本には民主主義がなかった)


除染専門会社へ県で土木事業を請け負わせた問題

(トリチウム放出には県民投票を!日本には民主主義がなかった)

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政経東北5月号

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このことで除染専門会社が普通の土木事業に参加した、でもその技術はないのにそうした除染のために作られた会社であり入札させるのはおかしいとしている

ではどうして自治体で技術力もない除染専門会社に受注させているのか?

これは自治体の問題であり責任ではないか、技術力もないのになぜ受注させているのか
そこが疑問なのである
誰かが政治家でも力があって受注させているのかともなる
第一そんな技術力がない会社に受注させないだろう
それで後で地元の業者にしりぬぐいさせている、そんなことをわざわさして手間をかける必要がないとしている
地元の業者に受注させればいいとなる
でもそこに除染専門会社が入れるのはなぜなのか、何か安くできるからだとしたらそれは自治体の責任になり行政の責任になる、問われるべきは行政だとなる
議会で議員が追及すべき問題だともなる、そこで議員も問われているとなる
なぜ追及しないのかとなるからだ

それで相双リテックは除染専門会社であり清水建設の下請けになった、何の技術力もないのになった、そして幹部に何億も金が支払われた、それは陰で大物の政治家が働いたからだと追求している記事があった
その相双リテックの宣伝が政経東北の裏表紙を全面的に飾っていた
つまり政経東北はこういうことがわかっているのだから相双リテックの不正を追求できるがしていないのである、それは宣伝費が相双リテックから得ているからだとみられてもしょうがない、宣伝費をもらった会社は追求できないとなる

ただ政経東北では知事をトリチウムの海の放出で批判している

処理水海洋放出は県民投票で決める

まず内堀知事は県民投票を行い、その中で議論を尽くすべきである
漁業関係者のみうがステークホルダー(利害関係者)のように扱われているが様々な形で影響を受けるとすると県民すべてがステークホルダーとなる

ステークホルダーは、極めて広い範囲の人・団体が対象となるが、大きく分けて「直接的ステークホルダー」と、「間接的ステークホルダー」とに分類できる。直接的ステークホルダーとは、主にユーザーや顧客、株主、従業員、取引先、金融機関などを指す。企業やグループに直接関わりがあり、影響を与える又は受ける人・団体を指す。間接的ステークホルダーとは、従業員の家族、労働組合、公的機関、地域社会などの、間接的に影響を受けるステークホルダーを指す。

このことは私自身が追及して述べていたことである
漁業組合とか船主が事故前も多額の補償金をもらっていた、漁業権を盾にしてもらっていた、そして漁業組合と東電の交渉だけで決められて
ここで言うステークホルダーの範囲はそこに住む住民にもかかわり福島県民にもかかわり広くなれば海全体を汚染するのだから世界の人にもかかわるとなっていたのである
それが漁業組合と船主とかだけの交渉となったことに問題があった
それで海は誰のものかとういことで追及して来た

そもそも内堀知事は政府の言いなりといっているのもそうである
要するに政府の下僕として遣わされた人だともなる、だから県民の意向は考慮しない
ただなにか県民投票というのもなじみがない、県民意識もそれほどない
第一いろいろあっても議論の場もない、すると報道するのは福島民報とか民友とかでありテレビでも報道しても一方的であり関心をもたないのである
民主主義でも本当は県民でも市民でも町民でもまず地元の問題を議論する場すらない
また重大なことを知らされることもない、それで重大なこともあずかり知らないところで決められていたのである
つまりそういうふうに民主主義が機能していないから上の人のやりほうだいとなっていたその象徴が安全神話の形成だったのである
どうせ原子力のことなど地元の人は知らない、関心があるのは利益だけだ、だから金を与えればいいのだとなっていた、それを受け入れたのも地元住民なのである

何かそもそも市政でもさらに県政とかなると一庶民など発言する場すらないのである
私が今こうして発言できるのはインタ−ネットができたからである
政経東北は確かに今の問題をわかりやすく切り込んでいることは言える
でもまたそれでも一方的になる、そこにも矛盾と利害関係があり
相双リテックの法外な除染の利権を報道せずに裏表紙に会社の宣伝をしているのである
だから何かそうなるとそうした悪を追求できるのかとなる
宣伝費をくれるなら追求しないとなるからだ、それは他の新聞でもテレビでも同じなのである、もう大きな組織集団として権力をもっているものは追求できない
相双リテックなど小さな会社でも宣伝費をもらえば追求しない、だからとても巨大な権力組織団体は追求できないとなる
その時悪は増長してそれが大きな被害となってゆく、悪は常にそれを指摘しないと増長してゆく、そして止められなくなり大事故とか大被害となったとき気づくのである
それが原発事故で判明したことなのである

だから私自身もインタ−ネットで発言できることによってジャーナリストの端くれとなり目覚めたのである、まずこうして発言できなかったら目覚めることもないしただ上からの言いなりだったとなる
まず本など普通出版できないしマスコミで発言などできないからである
私の本は個人というだけで地元の図書館に置くことすら断られたことがあった
ただその本は重に郷土史でも個人は取り扱ないとして拒否されたのである
こうして一個人など何も発言できなかったのである

日本には民主主義はなかった!

日本は20年から1つ順位を下げて67位となった。慣習や経済的利益に阻まれて記者が権力監視機関としての役割を十分に果たせていないなどとした。

つまり日本にはお上の言いなりであり有権者でも個々人は発言もできなかったのである
マスコミで発言できるのは極一部のマスコミのお気に入りでありマスコミの言いなりになる人だけである、NHKでもそうである、NHKが指導するのでありNHKの言いなりになる人が発言できるだけなのである、NHKが報道はとりしきるとなる
NHKの意向に反する者は拒否される、そして何も起きないならいいがそこで大きな被害が
国民に及ぶことがある、それが戦争の被害だったり原発事故の被害だったりまたコロナウィルスでもマスコミがとりしきるとやたら危険をあおるだけであり真実が見えなくさせられるのである、第一統計が出ていない,データーがないということで優秀な学者も判断できないとしている、隠蔽されたりしているからそうなる
日本には本当に報道の自由がない国だったのである、一応見かけは自由なようで自由がない、厳しい規制の社会なのである
ただインタ−ネットがそれを打ち破る強力なツールとはなるがそれもわからない
なんらかまたここでも規制がかかったり脆弱なものがあり一個人だと発言が制限されるとなるからだ



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「生活困窮」の原発避難者が急増 今になり原発事故の責任の重さが住民に問われている


「生活困窮」の原発避難者が急増

今になり原発事故の責任の重さが住民に問われている

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政経東北5月号


この辺でシシドスーパーの隣に復興住宅がある、そこに主に浪江の人たちが住んでいる
そこで良く出会う人がいる、大工をしていたという、でもやめたという
だから暇でいつも川を見ている
家とか土地があり補償金はそれなりにもらったから困らない
でもその額が例えば5000万としても多いかどうかはわからない
なぜなら土地と家で5千万も前のような家を建たればかかるともなる
建売住宅だと2500万である
とにかくその補償金でも高いとも言えないかもしれない
ただ一億円くらいもうらとそれなりに補償されたとなる
それだだけの財物補償された人は少ないともなる

そして意外と今原発避難者の生活困窮者が増えたのはなぜなのか?

●補償金をぜいたくで使ってしまった

●思った以上補償金がもらえなかった

こういうことが理由となる、その人は小高の人でありもともと金使いが荒い
でもそれだけの仕事ができる稼ぐ人だからとやかく言うことはできない
補償金で贅沢したという時、やはり高い車を買ったとかはそうである
一時レクサスを買ったとかで話題になった
だから金使い荒くなって金がなくなったという人もいるのである
そして移住先で仕事がてきないとかもある、また仕事をしないということもある
つまり何かこの辺ではすべて原発事故が原因であり東電や政府の責任としているが
住民の責任もあったことが見逃されている
何か全く住民には責任がないともなっている
住民の責任が自覚されていないのである

そもそも原発は受け入れた時、大きな責任が住民に生まれていた!

大きなリスクを負う、責任を負うことになった!

ここが見逃されているし自覚されていなかった、それが事故で否応なく自覚されたのである、住民の責任もいかに大きく重いものだったか自覚させられた

人間はつくづくいい面と悪い面をもたらすことがほとんどである
いいと思うものが悪いものに変化する
そのことは自分自身の介護で苦しんでわかった
自分は親に一番良くされたのである、だから親は自分にとって一番いいものだったのである、でも認知症になったとか二人の親を介護するために死ぬほどの苦しみを味わったのである
ここでもいい面が悪いものとして作用するようになったのである
でも結果的にこの場合は総合的にはやはり自分にとって親は他の人たちと違って特別いいものだったのである、だから今でも感謝して供養している

原発でもそういうことがあった、原発は地元の住民にとって悪いものではなかった
それで経済的にはうるおったしそこで働いて豊かになったからである
だから誰も反対する者はいなかった、今でも東電を責められないというのはそういうことがあるからだ
ただ事故になった結果それが反転したのである、そして住民もその責任の重大さを否応なく自覚させられたのである

そこには大きなリスクがあった!

そのリスクによって大損失となった、その重大な責任が自覚させられて負うことになったその責任は「安全神話」作った東電とか政府にもあった
リスクがあるとういことを説明しなかったからである、ただ安全神話をおしつけるだけだったのである、そうして安全をかえって備えなかったのである

そのことは銀行の投資信託とか株を営業の人にまかせて買わされて損して失敗したのと似ていた

確かなことは銀行は絶対に損しない!

手数料だけが確実に取る、その額が3パーセントとか大きい

銀行は全くリスクをとらないおいしい商売なのである

そして地銀は投資信託とか株式のことを専門ではないので知らないのである
でもすすめるのは手数料が高いし絶対に銀行が損しないからである
ではまかせた客に責任がないかとなればある

あるないにかかわらず責任はまかせたにしろ知らないにしろ自己責任だとなる

つまり知らないではすまされないのである、自分の金が勝手に奪われのは自己責任だともなっていた

原発でも同じである、そこに住んでいる人が原発のことを知る必要があった
でも「安全神話」で知らされなかった、少なくとも銀行の場合はリスクは言っていたのである、原発の場合はリスクは言わない、絶対安全だとしか言わなかったのである
言わせなかったのである、マスコミでもなんでも権力で口封じしていたからである
そして政府とか東電では責任はとらない、それは銀行とも似ている
その幹部でも責任はとらない、誰か刑罰になったとかいうとならない
何か幹部の財産でも没収されたかとなるとならない
これも本当におかしいのである、というのは例えば司法関係の人も東電に天下りしているしそれで告発もできない、裁判もできないともなったのかとなる
誰一人として重い責任を自覚した人はいない、というのは自殺した人が政府で東電の幹部でも一人もいないからである、会社でも政治家でも何か賄賂とかあると秘書が自殺したりする、でもそういうことも起きなかった
これだけの大事故でもそうだったのである、誰も重い責任を自覚しなかったいうことである

今原発避難者が生活が困窮しているというとき原発を受け入れた責任を身をもって受けているともなる、それが全部政府とか東電の責任ではないからだ
地元の住民にも広くみれば原発を受け入れた日本国民の責任だったともなる
例えは戦争で三百万人も死んだ、その責任は誰にあるのか?
全部が政府とかマスコミとかいろいろあってもその責任は国民全部にあるとなり300万人が死ぬことにもなったのである

そういう自分自身にも責任がなっかとなるとあった
ただ30キロ外だから責任がそれほど課せられなかったとはなる
でももっと関心を持つべきだったと反省する、それだけ重大なものだったからである
とにかく人間は意外と責任を自覚しないのである
ではどうしたら責任を自覚するのかというと苦しむ時なのである
それはカルマでも同じである、カルマを意識するのは苦しむ時なのである
苦しんでカルマが清算されるからである
だから補償金で贅沢したというのは一面おかしなことだった
酷ではあるがもっと苦しめばその責任の重さをカルマを自覚したとなるのだ
その苦しみによって原発がどれほど危険なものだったかを自覚できたのである

それでもっと苦しんで原発の恐ろしさを知るべきであり知らせるべきだともなる
一旦原発事故になったらあのように悲惨なものになり責任を負わされるとういう証人になるからだ
それが補償金が何億をもらったとかかえっていい暮らしができるとなれば原発はただいいものだったとなるだけであり誰もその責任を自覚できなくなる
それで何か補償金で贅沢してまた苦しいから補償しろとかいうのも勝手だともみる
ただ飯館村は原発の恩恵を受けていないから例外だとはなる
ても飯館村の人でも原発で働いていた人がいたのである

要するに人間は何であれ必ず責任が課せられている、それがカルマなのである
何か行った行為にカルマを産みだしてカルマは責任として負わされそれが苦しみとなってはじめて自覚されるのである、もし苦しみがなかった自覚できないからである
ただ得をすればいいというだけ決めるとこうして重い責任がカルマが課せられていることを自覚できない、でものちのちそのカルマが苦しみとなって現れる
私の場合は親の介護でその苦しみが現れた、でもトータルでは親の恩恵の方が大きかったから感謝して供養しているとなる

でも原発の場合は恩恵より苦しみの方が大きくなったとみる
それが今生活困窮として現れている
現実に復興住宅に住んでいる人で金がなくて夜電気を消しているとか金がなく苦しんでいる人がいる、財物保証が少ない人だったからだろう
双葉町の人がコンビニに強盗に入っというのも理解できないことだったが何か補償金を
遊びに使ってなくなったのかもしれない、そこまですることがありえないからだ
やはり十年もすぎると貯えもなくなる、補償金も打ち切られとかなってそうなった
そして苦しむことでその責任を自覚させられているともなる


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2021年05月10日

小高の人でも浪江、双葉でも原町とか近くに移住する人が増えている (将来的には避難区域は老人だけの町になり消失する?)


小高の人でも浪江、双葉でも原町とか近くに移住する人が増えている

(将来的には避難区域は老人だけの町になり消失する?)

今日聞いた話では小高の大工さんが5000万もした新築の家を捨てて原町の中古の家を買ったという、それは50坪だからとても広い庭は持てない、前は広い庭があり新築の和風住宅でありその家は立派なものだった
それが息子夫婦も外に出て帰ってこない、だからその新築の和風住宅は無駄になった
第一誰も住む人がいないからである、だからもったいないとなる

また家というのは建物だけではない、自分の家のことでも書いたがいつも家のことを親は自慢していたからである
それは50年前とかで私の家は一番土地が低い家で父親が双葉の酒屋で丁稚をしていて暖簾分けしてここに来た
だからその土地を手に入れるにも苦労して次に水害で二回も床上浸水したのである
去年の台風でも土地が一番低い場所にあるから水があふれて家に水が入って来たのである幸い床上浸水にはならなかったので助かったのである

家というのには何かそれぞれ歴史があり苦労話がある
だから親がいたときはいつも家のことを自慢していたのである
それは認知症になってもそういうことを覚えていてわかっていてそう言うのである
つまり家は何かしら人の思いがのりうつっているのである
だから単なる建物、モノではなくなっているのである

だから施設に入っている人でも「家に帰りたい、帰りたい」というとき家という建物ではなくそこで暮らした家族の思い出がありそうして暮らした時に戻りたいとなっているのだただそうはいっても時間をもどすことはできない、ただ家が残っているとその家を通じてやはりその人の記憶と思い出がありそこに存在感を見出すのである
そしてその息子でも娘でもやはり一緒に住んでいればその親の思いが伝わるのである
だから家というのは単なる機能的なものではなく精神的なものともなっている
だから認知症になっても自分が苦労して建てた家だ子供に自慢するとき喜ぶのである

ともかくその人が原町に中古の家を買っても息子夫婦はいない、そして苦労して建てた家でももう息子も孫もいない、仙台の方に行ったらしいからだ
そしてなぜこうして小高でも浪江でももう他に移って生活するのか、それはもう自分の町が復興しないと見ている、できないと見ている
本人もあきらめているというためである
何か人間で悲惨なのは王様で貴族とかでもまた金持ちでも零落したときなのである
召使とかを雇い贅沢していた人が零落することが最もみじめになる
だから豊かに暮らしていた原発避難区域では突然そういうふうに零落して荒廃してしまったのである
その時町を復興させる気力すらなくなったともなる

すなわちかつて耕作された土地が放棄されることほど、我々を落胆させるものはないのである。
 もし原始林のたくましい成長力がなければ、放棄された耕地が荒れ果てていくのを防ぐことはお先真っ暗な絶望となるであろう。
 
彼らの禍の原因のすべては、道徳的なものであった。そして「自然」は、その卑しい子供たちに報いることを拒み、あらゆる悲惨な出来事をその土地に降りかからせたのである。
 しかし今では荒れ果てた「自然」が彼らの田畑に侵入し、<狸と狐とはその棲み処を人々と共にする>までになって、人口は以前の三分の一を数えるに過ぎず、貧困に陥った農民から取り立てることができるのは高々二千俵にすぎなかった。
 http://musubu.sblo.jp/article/176648961.html
 
 本当にこのようになっていることが言っているからその洞察力には驚く
放棄された土地とかタヌキとキツネの住処になっているのも現実なのである
内村鑑三の場合はその原因を道徳の問題として語っている
ただこの土地の人でも道徳が関係しているとは思っている人はほとんどいないとなる
ただ単純いい暮らしをしたい、贅沢な暮らしがしたというだけである
それはどこでも同じだからそにれついて無闇に批判もできない
ただ欲望と原発が結びついた結果として悲惨なものになったのである

例えば時代が違えば戦後焼け野原の日本に戦争をまけて引き揚げた人たちが条件の悪い所に開墾に入った、そういう集落が日本の田舎には多いのである
知っている人では小池に開墾に入った、そこは街から近い、そんな所に開墾する場所があったのかとみるからである
でも仕事がなくどうにもならなくなりそうして開墾してなんとか暮らしたとなる
でも厳しいので半分くらいは撤退したとなる

原発事故から十年すぎても復興はしていない、このように避難区域から移住する人が実際は多くなっている、その理由は小高から原町だったら隣でありそこはたいがいそろっているから暮らしやすいのである、私も原町に住んでみたいともなるからだ
現代だったら便利な場所に住みたいとなる、仙台市とかに津波とか原発事故とかで移り住んだ人が多いのもそのためである、もともと仙台市に住みたいという人が多かったから
津波とか原発事故を契機にこの際移り住むという決断ができたとなる
原発事故の被害者は補償金を結構もらったからそれでまた移りやすいとなっていたのである

でもせっかく建てた立派な家を失うことはただ家という物を失うだけではない、そこで暮らした思い出も失うとなる、そこで生活した思い出は外に移るとだんだん消えてゆく
家とかその町が活きていれば思い出しやすいからである
そういう思い出は簡単に作れない、もう二度と作れない、60過ぎてから他の場所に移ったりしたらなかなかなじめないし思い出を作りにくいのである
ただ南相馬市内での移住だから楽だとはなる
浪江とかなると南相馬市の市民になっていないのである、宙ぶらりんな状態が続いているのである

その人はなんか大家族で住んでいたがそれが一人とかなり淋しいとかなる
何か妻も息子の所に行ったとかある、他の人でもそういう人も結構いる
つまり家族がばらばらになったのである
だから補償金を持乱たとしてもその失ったものは相当に大きいとなる
つまり補償金だけでは補いないものがある
また補償金がいいものとして作用してもいないのである
なぜなら補償金もらったから外に出た方がいいとなると町や村の復興はなくなったからである

ただこうなってゆくと復興できない、老人だけの町となると介護になったりまたそこで町を継続できない、そして南相馬市でもそういう小高のような区域をかかえることは負担になる、若い人がいないのだから町を支えられないともなるからだ
それは南相馬市全体の負担になってしまうのである
それはだから他人事ではない、相馬市でも新地でも移住した人たちが多いからである
だから周辺地域もまきこんで問題になっているのだ

こうしてもう町でも村でも維持できないというとき切り捨てるということも考える
なぜならここだけではない、負担が大きくなると町や村も維持できない
大きな地域の限界集落のようになってしまったのである
それで避難区域の復興をあきらめるということも考えられる
現実問題として維持できない状態に老人ばかりでなってしまうからである
もちろんそうならないのがいいしそうあってほしいが現実問題としてどうにもならない
切り捨てるということにもなる
ただ南相馬市なら原町に移り住むとかする、現実にそういう方向に向かっているのかとも見るからである

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2021年04月24日

原発反対が被害があった地元の人が先頭に立てない矛盾 (補償金増額交渉になり外部と協力できないーはだかの福島ータクキヨシミツを読む)


原発反対が被害があった地元の人が先頭に立てない矛盾

(補償金増額交渉になり外部と協力できないーはだかの福島ータクキヨシミツを読む)
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不思議なのは肝心の原発事故で一番被害にあったその場所で原発反対運動ができない
別にしているのではないかともみる
でも具体的に原発反対運動でも地元では必ず補償金をもらうための反対運動であり具体的に金を東電であれ政府に要求しているのである
それで南相馬市の鹿島地区で原町区と合同で原発反対の集会があった
それが協同できなかったのは原町区は鹿島区の三倍の補償金をもらっている
それで協同するにもできない、30キロ圏内補償金の差が大きかったからである
もし同じ補償金を求めて増額を求めてならできるがそもそもこの金の問題で協同できないつまり肝心の原発事故の一番の被害者が証人が原発反対ができないのである

それは再三言っている漁業組合でもそうである
事故前も多額の補償金をもらっていて事故後もさらに相当な増額されて浪江の請戸では
10億円もらった人がいるというときそれが嘘でも浪江の人たちでも補償金の差が大きいからそういう噂がでてくる、それだけ金が飛びかうのがこの辺だったのである
大熊町長の金庫が津波で流されて探してくれとか噂になった
そこには5億円が入っていたという、それもまんざら噂ではない
それだけの金が事故前でも事故後でもさらに金がとびかう場所だったからである

その後除染で地元の業者の幹部に何億円の報酬があったとかなる
それが不正で警察に逮捕までされた
このようにこの辺は常にそうした金の話題になった場所なのである
原発というのはそれだけ金のなる木だったのだである
まるで金にむらがる巣窟ともなった
第一天下りというのも官僚も多い、検察から警察から海上保安庁とか自衛隊でもそうである、原発はこうして金をうみだすものでありそこにあらゆる人が群がったのだ

だからいくら原発反対とか言っても肝心の被害者は先頭に立てない
あいつらは金が欲しくて運動している、俺たちは金と関係なく原発に反対している
だから金が欲しい被害者と一緒には運動できない

こうなってしまう、だからこの本を書いた本人は一緒に原発反対運動をしない
大内村に住んでいたのだから補償金をもらえたのにもらわなかった
つまり補償金を欲しいというだけの人とは一緒に行動できないとなった
「獏原人」というヒッピー集団はそもそも山尾三省とかの思想に共鳴する人たちだったろう、ただ山尾三省のように明確に原発に反対して自ら行動として農業をしていたのとは違うみたいだ

原発事故以後山尾三省が見直された、なぜなら明確に原発に反対するものとして農業を屋久島ではじめたからである
だから説得力がある、それは飯館村ではじめた「までいな村」のさらに極端化したものだろう、だから半裸で生活していたというからだ
ただそれは変人集団であり周りでは必ずしも歓迎されないしそれに共鳴ひる人たちは村でもいなかったろう

むしろ山尾三省のようにもっといい暮らしをうまいパンをいい車をいい家がほしい・・・その欲望がかえってこの辺では強かったのである
パンが贅沢だとなんたら誰もそんな生活についていかない、でもその極端化したことが
地元の人でも故郷に住めなくなってロウソクでもいいから家族一緒に住みたいとなったのである
それは原発事故の結果住めなくなったからそこまで言うようになったのである
ただここでも農業や漁業も林業でも衰退して跡を継ぐ人がいず困っていた
むしろそういう一次産業では豊かになれないとして原発を積極的に誘致したのである
それは地元の要請でありまたそれに応じた県の政策にもなっていたのである
それで「「原子力明るい未来のエネルギー」がスローガンになっていた
しかし原発は致命的な結果をもたらした、空気と水と土と森の木材まで汚染したから住めなくなったからである
だからこそこういう極端な状態になるとなんとか住めればいいとなる
住めることが幸せだとなってしまう、そういう極端なものにもなったのである


ただ事故後もここに住む人たちの意識は生活態度は変わらなかった
今度は補償金闘争となりどれだけ補償金をもらうかで協同することになった
その額がまた大きいのである、ある人は大熊の牧場主は5億円もらったとか飯館村でも一億円は軽くもらったとかその噂が絶えないのである
請戸の船主が十億円もらったというのもそうである、漁業組合とか特に船主は手厚かったからである
それがまるっきり嘘とはならない、現実にもらった人はいるのである
それだけ手厚い補償金だったのである

だから矛盾しているのは海にトリチウムを流すなというとき必ずそこに金が関係してくるしないとしてもこれまで金をもらっていたのだからまた金が欲しくて海を汚すなと言っているのかとなる
だから韓国とか中国でトリチウムを海に流すなというときそれが嫌がらせともなるが
海はみんなものだからそう言っているのである
だからいちがいに否定はできない、ここで矛盾しているのは中国でも韓国でも原発をもっていて韓国ではトリチウムをすでに海に流している
その量も多いとしている、これも矛盾なのである
そもそも原発自体を廃止する作らないことこそが世界でも協同すべきことなのである
それが肝心の原発事故の地元で先頭に立てないのである
地元では金のための運動となり外部では金は関係ない、むしろ自腹を切っての運動ともなるからである
その差が大きいために協同できないのである

そして事故後も依然として事故前とこの辺では変わっていない、事故前は豊かな暮らしをしたいとして原発を積極的に誘致した、事故後は今度はより多くの補償金をもらう運動に変化しただけである
そこに共通しているのは金がもっともらいうまいパンをいい車をいい家が欲しい・・・・限りない欲望の拡充なのである
だから何かその補償金は別に復興のために使われていない、かえって豊かな暮らしができない、放射性物質で汚染されたからもう住めないと若い人たちは補償金をもらい外に出て行き新しい家を建てて帰ってこないのである

要するにもともと郷土愛とか何か地元に執着するものがなかった
ただ老人は思い出に生きるから故郷に執着して帰りたい住みたいとなったのである
それは現代ではここだけではない、金があればどこに住んでもいいし移住でもできるからである
そして地元の人でも放射性物質に汚染された場所に住めないとなればそれまでだからである、子供たちに悪いとなれば何も言えないからである

とにかく原発というのは最初の段階でその是非をよくよく議論して決めるべきものだったのだろう、ただ金になるからと安易に決めたことが問題だった
第一賛否両論などない圧倒的に地元の人たちも賛成してはじめられたのが原発だったのである、それだけ農業や漁業や林業だけではもう成り立たない社会になっていたこともあるでも逆に何かその農業や漁業や林業が一番被害が放射性物質に汚染されたのである
土や水や森林でも人間のベースとして必要なものが生態系が汚染されて住めなくなったのである

でもそれはもともと衰退産業でありそれより金になる原発だとなり景気良くなると歓迎されていたのである
それで小高ではすでに東北電力の原発が開始されるところだったが事故で停止されていたのである、そこでも小高の人が景気良くなると言っていた
それも今考えると事故になったら今度は南相馬市全体がまた相馬市まで影響して住めなくなったということがあったから恐怖だった
それもまた知らないともなっていた、地元の新聞でもテレビでも雑誌でも取り上げなかったのか、一応報道するにしてもその危険性を警告はしていなかったろう
だから知らないうちに重大なことが決められていてそれが気づいたら大災害になったともなる、だから無知は恐ろしいとなる
自分自身はとうかというと30キロぎりぎりだから何か他人事にもなっていた
遠いから関係ないと見ていた、でも小高に東北電力の原発ができたらそうはならない
もうすぐ近くという感覚になるからだ、それすら知らなかったのだ
まず直感的にそれだけ近いと何か不安になる、それは理屈ではない、直感的にそうみる

「現地調査を行った東電社員に大熊町長が宿舎に突然四斗樽をもって現れ「陣中見舞いに酒をもってきました、私は東電原子力発電所に街の発展を祈念して生命がけ誘致している本当に発電所を東電は作ってくれるのですか
私の車を使ってください、新車のデポネア、(三菱の最上級車)翌日回してきたという話も紹介されている」

大熊町長という5億円金庫が流されて話題になった、その町長とは違っていても何かこうして実際は双葉町でもそうだが積極的に誘致されたものだったのである
町民全体でその良し悪しを議論すらしていないのである
原発ありきではじまっていたのである、確かに立地場所で反対があったが金をやったら簡単に許可したということもそうである
一億円もらったとかなれば誰でも売りたいとなるからだ
ただこの問題はそうしたわずかの土地所有者とかの問題ではない、福島県全体にそれより日本全体にも世界にも影響するものとして見なかったのである

だから今になって中国とか韓国からトリチウムのことで批判されるのである
それはここだけではない、日本政府の指導のもとで原発のプロパガンダが行われてマスコミにも莫大な金が流れて洗脳されていたから何か探ることもできないものになっていた
それはアメリカの後押しがありアメリカで古い型の原子炉のマーク1を売りつけたのである、それは後進国にはお古が武器でも売りつけられるのと似ていた
でもこの原発は危険なものだから日本政府もずさんであり責任があった
東電だけの責任ではなかった、政府指導で行われたものだからである
政府に責任があるというとき政府は議員が国民が選ぶのだから国民にも責任があったとなる、それは戦争とも同じだったのである、軍部に責任があったことは確かでも国民も熱狂していたというからである
ともかく原発に関しては本当は国論を二分するようにな論争が必要だったともなる
そういうこともなく一方的に決められあとは「安全神話」が強力な権力で作られて終わったのである、その安全神話には明確な根拠などなかったのである
ただ反対されるのが嫌だから権力でおしつけただけだったのである

このことをふりかえると金でふりまわされていた、その金が実は具体的なカルマとなっていた、東電であれ政府であれ金をもらった時点で具体的に了解したとなる
だからお前たちは事故にあっても何も言えない、金をもらったからだとなる
それでヤクザの仁義でも金をもらったからヤクザの闘争に参加して人を殺したともなる
それはドラマでも金をもらったらそうまでなる、地元の人たちは金をもらった、受け取った、その時点で例え今回の様な大事故になっても何も言えないとまでなる
お前らは共犯者だともなる、確かにそうだともなる
なぜなら自治体の一員というよりは東電の社員と同じになっていたからである
東電がヤクザではないにしろそういう立場になっていたということである


あとがき


原発事故津波関連の本はもう百冊くらいででいるかもしれない、だから読み切れない
でも今回の本はやはり事故前から大内村に住んでいたことで説得力があった
それが他と違っていたのだ、やはりそこに住んでいる人が命にかかわるのだから切迫した状況を伝えられるのである
内部の人が批判するのはむずかしい、実際に補償金をもらっている
ただ自分が批判できたのは30キロ圏外であったからだ、それもぎりぎりだった
補償金でも一人70万はもらったのである、でも30キロ内だと3倍もらったから違っていた
そうなればお前も補償金もらったとか欲しいとかなり外部の人と一緒に批判できない、協同して反対できない
この著者は大内村に住んでていも補償金を拒否したのである
だから筋が通っているとなり説得力があったとなる



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2021年04月16日

トリチウムの海への放出問題 (海は誰のものなのか?―漁業組合だけのものではない)


トリチウムの海への放出問題

(海は誰のものなのか?―漁業組合だけのものではない)

漁業権の問題で福島県の漁業組合が事故前も事故後過分な補償金をもらっていた
そのことで地元でも不満な人が多いのである
港に住んでいても全部が船主でもないし漁師でもない、だからなぜ近くの人はそんなに金が入るのかとなる、原発御殿が建つほど金が入るのか?
それが不満だったのである

つまり漁業組合が漁師だけが海は俺たちのものだ!

ここに根本的な問題があったのだ、海が俺たちのものだというときそれは漁業資源の保護のためにとかでありそれを東電に売り渡して補償金をもらうために与えられていないのである

そんな権限が漁業組合にない

むしろ漁業資源の保護なら原発は危険なもので海を汚染するのだから最初から原発を作らせないことが理にかなっている
でも事故前から多額の補償金を東電からもらっていたのである
そして意外とみんな金をもらえればなんでもいいと考える
しかし人間は金の恐ろしさを感じないのである

その金がどういう金なのか?

ただ金は金でありそれがどんな金なのか、どうして得た金なのかを考えない
別に金に色がついているわけではない、でももし紙幣が血にぬられていたとか、人を殺して得た金でそうなっていたとしたら誰も不気味だからいらないとなる
現実にそういう金が相当にあることも確かなのである
グロ−バル化して何かその金が不正で得たようなものが流れある所に蓄積される
それがグロ−バル化経済で目に見えないから余計にそうなる
するとその金がカルマとなり災いとなる、だから今そうした金がアメリカの極一部の人たちに蓄積されている、アメリカの富の50パーセントが数パーセントの人たちに集まっている、それは世界から搾取された金でもある、そういうことでアメリカは大きなカルマを積んでいて自壊してゆくともなる

そもそも海は誰の者なのかとなれば世界中の人たちみんなのものだとなる
それで海を日本で汚染するから中国とか韓国では反対している
でもこれもおかしいのである、中国でも韓国でも原発をもっている、韓国ではすでにトリチウムを日本より海に流しているという、そういう国がどうして日本だけを責めるのか?中国でも原発をもっている、だから一旦事故があれば海だけでない、大気を汚染する
それが黄砂のように日本にも影響する
その時空は誰のものかともなる、つまり自然は一体であり地球は海でも大地でも空でも繋がっているからだ

そこで飯館村が放射性物質で汚染されてそれをつめたフレコンバックが破れ流れ出した
それは川伝い南相馬市にも流れて来るのである
大量の放射性物質は真野川の真野ダムにも蓄積されたのである
だから飯館村は飯館村だけの問題として処理できないのである、回りにも影響しているからだ
このように公害とは地球環境の問題であり一市町村とか一国だけの問題ではないのであるそこに世界的に対応して共通の法律すら必要になる
そさは世界各国で協議する問題であり国連のような場でする問題なのである

だからそもそも原発自体が禁止すべきものだったのである
それが一旦事故になればチェルノブエリとかフクシマのようになる
それが海は汚す、世界的な影響になる、でも日本だけが事故を起こしたからと責めるのは理にかなわない、他の国でも事故は起きるからである
だから原発そのものもを作らないことなのである
それは核兵器とも似ている、アメリカが最大の核保有国でありそれで他の国は核を持つなというのも理に合わないのである
勝手すぎるかち誰も同調しないとなる

いづれにしろ海は世界中の人のものであり漁業組合とか漁師とかの占有するものではないプライベートなものではない、プライベートとは奪うとうい意味があるからだ
一部のものに奪われるたとなる、それは土地でも実際はみんなつながっているから一部の人に奪われて所有されことになじまないのである
共有性と公共性が高いものだからである
地球か狭くなったときどうしても世界的視野で共通のものを志向するようになる
環境問題はそうなる、環境に空や海や大地に国境はもともとないからである
二酸化炭素を減らすとか環境問題が世界のテーマとなっているとき原発の禁止運動が起きないのは理に合わないのである

でも東電は漁業組合に補償すればいいとして終る
本当は海を汚したら世界中の人たちに国に補償を強いられるのである
そんなことはできないからただ一部の漁業組合にだけして終わりとなる
それでも自治体でも風評被害とかいろいろ被害がある
漁業にたずさわる人たちだけのも問題ではない、でも何か漁業組合だけが被害だとされているのである、そこを補償して終わりだとしている
結局世界の人たちに補償金を与えることなどできないしそれで漁業組合だけに補償金を与えて終わりにしようとしている、それも問題なのである
それは世界の被害であり日本だけの国の被害ではないからそうなる

だから中国でも韓国でも日本全体の漁業組合でも自治体でもかかわるべきものなのであるそれで大阪でトリチウムを流してもいいというのは評価されている
つまり福島だけの問題ではない、日本全体の問題として引き受けるとういことである
でも瀬戸内海の漁師からすると反対だとなるから勇気ある発言とされたのである
どうしても風評被害がでてくるしいい感じがしなくなるからである
トリチウムでも他の放射性物質も交じっていて危険だと言う人もいるからである


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2021年04月12日

トリチウムを海に流すなという漁業組合の矛盾 (補償金を上積みさせるために言っているのか)


トリチウムを海に流すなという漁業組合の矛盾

(補償金を上積みさせるために言っているのか)


まず漁業組合のことを批判してきたけどいくらトリチウムを海に流すなといってもそれが説得力がないのである
なぜなら何度も指摘してたように事故前からも補償金として多額な金をもらっているし事故後もまた補償金が上積みされる

またトリチウムの海の放出で東電と交渉して補償金を上積みさせるのか?

何かそう漁業組合では思っていないにしろ現実問題としてそうなっているのだ
もともと漁業だけではやっていけないとか農業だけではやっていけないとかなっていた
そこに原発を誘致して補償金をもらえばいいとかしかなくなっていた
でも港でもみんなが補償金をもらえるわけではなかったのである
それで
周りの人は船主に不満だったのである、それから浪江の復興住宅にいる人が請戸の漁師とかの人たちが10億円もらったとか言っていた、その人も結構もらっているにしても漁業組合とはそれだけ多額の金が入る団体となっていたのである
海を漁業組合のものとして他は関係ないとして多額の補償金をもらっていたのである
原発御殿も建っていたとか地元の人が陰でみんな言っている
実際に請戸の人が病院に入院してきたとき特等室に入り家を建てる、それも豪邸を建てるとか豪語していた、それだけ漁業組合とかには補償金が事故前も流れていたのである

要するになぜこうしたことが起きてきたのか、それはまず金をもらったということなのである、何か金というのは責任なのである、具体的な責任でありカルマとなっている
でもみんな金をもらえれば何でもいいとなっている
金になるとなればみんな目の色を変える、それがどんな金でもいいとなる
ただ今になって何か変だなと気づかされたのである
普通だったらトリチウムを流すな魚が汚染されるからとなる
そうしたら俺たちの飯の食い上げだとなり反対するのが当然であり回りでも認める
それに何か批判する人はいないのである

それがなぜ矛盾して来たのか、そんなことを漁業組合で言えるのかとなった
それはすでに多額の補償金をもらっていたことにある
つまり金をもらったことが責任となっていたのである
もし事故前に金をもらっていなかったら事故後ならそういうことが主張できたかもしれない、でもあなたたちはすでに補償金をもらっている
トリチウムを海に流すなといってまた補償金を上積みさせるのか、そのために反対して交渉するのかと見られるようになったのである
ただこれももし自治体全体でその補償金でも分配すればなにもいわない
なぜ漁業組合だけが船主が破格の補償金をもらえのか、今頃魚が汚染されたからと言って騒ぎまた交渉して補償金が漁業組合だけに船主だけには過分に与えられるのである

だから海とは誰のものなのか?そのことが法律でも明確ではないのである
資源の保存のために乱獲しないように漁業組合で調節するという趣旨からはずれてしまったのである
その海が自分たちものでありそれでもって東電とか国と交渉する
そうして補償金をさちに上積みされるのだから何も困らないともなる
原発はこうして様々な利権のための装置となったのである
除染にしても6兆円とかの金を使いそれは別に地元に回ったのではなくゼネコンに回ったり暴力団に回ったりした
何か原発とは湯水のように金がでてくる装置だったのである
それは国がかかわっているからまたそうなっていたのである
国ならいくらでも金がでる、でもそれは国民の税金でありそれで原発乞食とか言われるようにもなる、ただ補償金をもらうために福島はあるとかまで見られる
福島県のイメージが悪くなったのである

原発とはあくことなき人間の欲を刺激するものになっていた、そもそも原発など必ずしも電気が必要でもなくても電気は作れるものだったのである
ただここにはアメリカとか国の圧力があり核兵器の準備として作ったということがあり
日本だけの問題でもなかった
これは漁業組合だけではない、除染を請け負った地元の会社でも億単位の金が会社の幹部に回っていたのである、それで警察に除染費用を不正使用で調べられ逮捕された人もいた

でも不思議なのはその会社の宣伝をしていたのが「政経東北」である
これもわからないのである、その除染費用でおおもうけした会社から宣伝費として金が「政経東北」に流れていたとなる
政経東北は福島県の不正を追求してきた、だからそういうことはないと思っていた
でもこれは理解できないのである
つまりこれも金が欲しいとなり矛盾してくるのである
第一マスコミでも何か偉そうなことを言って上から目線でまるで国民をこうすべきだと指導するように放送する、それは必ずメデアは装置が巨大で金がかかるから宣伝費で成り立つ、するとそうした宣伝費を出す会社でも何でも金を出す方が優位になるのだ
ただインタ−ネットとかなると別に金をもらえなくても無料でもやれるから自分でも追及しているとなる
その影響力は微弱でも報道でも批判でも一応できるからである

ジャーナリズムとは報じられたくないことを報じることだ
それ以外のものは広報にすぎないージョージ、オーウェル

何か不正を封じれば報じられた会社でも人でも打撃になる
でもそれをマスコミでもメデアにさせないようにする
そのために宣伝費を払う、その金で金を出す会社の批判させない、報道させないようにする、それが今までもマスコミであった
でもインタ−ネットになると誰でも報道できるから抑えることができなくなったのである第一福島民報などでも確実に広報なのである
何か報じなければならないことを報じない、原発で10メートル以上の津波が来るといことを
科学者が警告したことも報道したのかどうかわからない
福島民報は本当に県の広報である、何故なら県で半分の資金を出資している株をもっているからである、また創価の聖教新聞をすっているからである
他でもそういうことはある

原発を拒んだ町―巻町の民意を追う 単行本   1997/10/17
新潟日報報道部 (著)

ここでは違っていたのである、ただこれはまれなことでありメデアはマスコミは肝心なことでも報道しない、NHKでもそうなのである
NHKの問題は宣伝費で成り立たない、国民から金をもらって報道しているのだから別に会社に忖度しなくてもいいが実際はそうでない、こうして肝心なことが報道されないと
原発事故でも大被害になり国民が地獄の苦しみを受けることなるから問題なのである
福島県でももし10メートル以上の津波が来るから備えろということを大々的に報道していたら危険を事前に知っているから逃げて命が助かった人もいたかもしれない
まず相馬地域だと津波が来ないと確信する場所になっていたからである
そうなったとき東電はありがたい、東電に命が救われたとまでなっていたのである
だから正しい事実の報道することは必須なのである
でも現実にはそれが報道機関でなされていないのである

要するに今の社会はすべてこうして金で歪められるのである
いくら正論を言い批判しても金をくれるところには忖度して批判しないのである
実際に自治体が漁業権をもっていてみんなに補償金でも分配する、そうなると自治体の全員が責任者になり何も言えないとなるのである
今回は漁業組合とか船主が破格の補償金をもらっていたから批判されるようになった

烏崎の港などは零細である、でも二回補償金をもらっている
最初は東北電力の火力発電所が建てられたときだった、そこで補償金をもらった
そのためにハワイであれヨ−ロッパまで旅行していた人がいたのである
その頃はまだ海外旅行は航空運賃が高くてできない、50万とかしていたので自分はできないと思っていた
それで貧乏人はロシアのシベリア鉄道回りでウラジオストックからヨ−ロッパに行っていたのである、そういう人と外国で出会ったからである
またその時近くの呉服店では高い着物が売れていた、それで団体旅行に招待されていたのである、それだけ火力発電所でも金が入る場所だったのである
それも漁業関係者は特別に多額の補償金が入っていたのである
次に原発ができてさらにまた補償金が入っていたのである
でもその人は父親が船に乗って遭難して死んだと言っていた
漁業というのはそれだけ危険なものであり今でも遭難して死んでいる人がいる

まだ農業でもそうだが漁業でも別に地元の魚がとれなくても困らないのである
地元の魚だと新鮮でうまいからありがたいとなるが魚は今や全国から世界からでも入ってくる、輸入品が多くなり地元の魚ではないのである
だから別に地元で汚染された魚を食べるより他からの外国からの魚でもいいとなるのである、そういうことがグロ−バル広域経済がまた大きく社会を変えてしまったのである
もし外から食料が入らなかったら昔は飢饉となり餓死していたからである
今はそういうことはない、でもそうなると地元のありがたみとか感じなくなる
この魚は地元の人が命がけでとってきたものですよ、だからありがたく食べなさいということでも納得する、今はそういうことを感じないのである

でも本当にこの辺が放射性物質で汚染されたとき外から物資が入らなくなったのである
これは危機であり南相馬市長が外部に世界に訴えたことでもわかる
つまり外部から食糧でも物でも入らなくなったらもう生きられないのである
それで二週間くらいはありあわせのものでしのいだ
でも米もなくなったとき地元で古米を配ったのである、その時命をつないだとなりありがたいと思ったのである
だからグロ−バル広域社会になると外から物資が入らなくなることが一番怖いのである

結局トリチウムでも海に流すほかないのかもしれない、別に地元の魚を食べる必要はない新鮮な魚を食べられればいいが外からいくらでも入ってくる
もし江戸時代のように昔のように地元の魚しか食べられないとなるとそうはいかない
なんとか魚を食べたいとなるとき切実なものになりそうはならないのである
だから別に漁師でも魚をとらずに東電から国からでも補償金で暮らせばいいとなる
その時漁師がなぜ私はここにいるのかと自問した
それもまた矛盾だったのである、漁師はすでに漁師ではない、東電に雇われた社員の一人となっていたのである
また自治体でも東電の力を大きくなりそれに所属するにうにさえなる
それだけ東電とかは巨大な企業でありその影響は事故になって判明したのである

いづれにしろトリチウムをどうするのか?その答えを出すのは今でも漁業組合と東電だけになっていた、でも最近は全国の漁業組合が関係してトリチウムを流すなとなる
それは海は広いからどこでも影響するからである、全国の漁業組合となると別に補償金はもらっていないからそう主張することは誰も批判しない
でも多額の金をもらっていた地元の漁業組合はトリチウムを流すなというのは誰もそのことを容認する人はいない、また補償金を上積みさせるために交渉しているのかとみるからである
だから金というのは責任でありカルマとなるのだがたいがいそうはみない
金をもらえればいいとしかないのである
そういうことは別に漁業組合だけではなく全般的に言えたことなのである






posted by 天華 at 19:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2021年03月16日

相双リテックの除染マネーの悪 (もともと心が腐敗して福島県と地元が起こしたのが原発事故だった)


相双リテックの除染マネーの悪

(もともと心が腐敗して福島県と地元が起こしたのが原発事故だった)

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東京電力福島第1原発事故に伴う除染を下請け受注した福島県いわき市の業者が仙台国税局から、2016年12月期までの3年間の役員報酬が過大だとして、約30億円の申告漏れを指摘されていたことが16日、関係者への取材で分かった。


 土木工事会社「相双リテック」が入るビル(16日午前、福島県いわき市)=共同
業者は土木工事会社「相双リテック」。民間信用調査会社によると、事故後の12年1月に設立。今月10日に避難指示が一部解除された福島県大熊町で大手ゼネコン「清水建設」の下請けとして除染を手掛けた。


田舎の弱小会社でありながら、スーパーゼネコン清水建設の一次下請けに入って、年商100億のうち56億が利益で47億が役員の報酬であったと騒がれた、相双リテックの裏顧問だったというのである。

やっぱり藤丸敏議員は安倍内閣の「魔の二回生」

前から東京電力の下請け作業はしていた会社ではあったらしいが、相双リテックそのものは原発事故後に、作られた会社らしい。そんな会社が、いきなりスーパーゼネコンの一次下請けに入れるわけがない。

どんなに優秀な会社であっても、清水と信頼関係のある県クラスの大手が下請けに入って、そこと契約するのが普通である。だから地元の人も驚いていたのである。だから本人も後ろからつっかい棒で支えなければ、倒れるほどの天狗になって、顰蹙を買っていたそうである。

紙袋に現金を詰めて、銀座を飲み歩き、金撒き爺さんで有名だったらしい。相双リテックを清水建設の一次下請けに押し込んだのは、藤丸敏議員なら納得できよう。

秘書時代から、セスナ、クルーザー、高級車を所有していたというから、その頃から、特別な金の生る木を持ってたなー、という感じはあるわな。

秘書時代の先生は、自民党の大物であった古賀誠元議員である。大物とか重鎮とか言われる議員は、辞めてからもしっかり、利権を維持してるのである。

敬天新聞
http://brog.keiten.net/?day=20180228

他方、球団関係者が明かすのは、「会長」と真中監督との浅からぬ関係だ。

「2人とも日大出身で、真中さんが監督に就任する前から親しかったそうです。塚本会長が真中さんやコーチを銀座のクラブに連れ出すこともしばしば。先の沖縄キャンプの最中にも一緒に飲んでいた。羽振りの良い会長は札束を紙袋に入れて持ち歩き、領収書も受け取らないと言います。一昨年、リーグ優勝したお祝いに、真中さんは総額で1000万円は下らないフランク ミュラーとロレックスの腕時計をプレゼントされている。

「鹿島」元幹部への「復興マネー」還流、「ヤクルト監督」と「除染タニマチ」との類似性
https://news.goo.ne.jp/article/dailyshincho/nation/dailyshincho-710526.html





何の役にも立たない除染に何兆円つかうんだろね
日本はマスゴミの質の低さが異常
太陽光パネルでもダンマリだから根は同じなんだろな

ほらな、福島の人間は信用できない

最初1人の1日分の作業員の手当ては3万円

次から次へと抜いていき

最終的に1日の日当は5000円

2万5千円が消えるんだから

日給一万以下で雇ってるらしい
一人当たり3万5千くらい国からでるらしいが

あとは中抜き→中抜き→中抜き→中抜き→
作業員(外国人研修生)
税込月額130000

危険な作業は下っ端に任せて
自分達は安全な場所でガッポリ

これがあるから福島で働きたくないんだよ。
現場で頑張ってるやつに金払えよ。

悪の巣窟かよ福島は

よく公共事業で経済効果みたいなこと言うけどさ
実際に起きてる現象はこんな風にごく一部の人間に殆どの金が渡ってるだけだよね
原発除染だろうが東京五輪だろうか何もかも無駄に税金が掠め取られていくだけ

確か除染で受託した金の
6割ぐらい役員報酬だったって
暴露されてたよな

知り合いの在日朝鮮人が
除染の下請けの下請けの下請けの下請けみたいな事やってるわ

あと復興地域で新しく建てる住宅に
怪しい太陽光発電パネルを取り付けて回ってる

在日ネットワークでそういう詐欺みたいな話が回ってくるらしいな

安倍友とか上級官僚の養分になってんのか、一方ベトナム人技能実習制をほとんどダマシ同然に連れてきて強制労働させてるとか
ホント美しい国だな、誇りに思うよ

そりゃあしのぎ稼ぎの893が
全国から集結して国費をチューチューしてる
真っ最中でおこぼれに預かってるマスゴミも
報道しない権利行使中ですわ

人の不幸で必要以上に利益を出すのは賎しい。

福島県民が原発受け入れたんだろ?
ならば福島県民の手で解決しろ。
これ以上、国に負担を強いるなら非国民だ。

福島県への情報公開請求で、この会社の粗利益が2014年からの3年間で142億円に上り、売上に対する利益率がいずれの年も5割を超えていたことが新たに分かった。
さらに関係者への取材で代表ら役員8人の役員報酬が3年間で77億円に上り、粗利益の半分以上を占めていたことも分かった。
役員報酬の水準は、規模が100倍の売上高1兆円以上の大企業の社長でも1億円程度に留まっていて、異例の高額となっている。

相双リテックは基本技術は皆無、施工技術も皆無、虚飾だらけの清水建設に食らい
着いた除染コバンザメだった。それを許した清水もほぼ同罪。
あの社長は金のためなら○○だってためらわない。あまりにひどすぎる。

日本はもう終わった国です。
上級国民は数十億円、数百億円単位で蓄財しています。
日本の国富を収奪しているのです。

日本人の敵は中国でも韓国でも北朝鮮でもなく、
日本の上級国民です。

福島は議員が生活保護騙して貰ってたり民度がめっちゃ低い。

他県から来て6年間福島第一で原発内作業してた者だけど、休日の日曜日にいわきのベンツの販売店が商談者でいっぱい。日本の一大事と駆けつけた俺は何なんだろうと思った。
相双リテックは、清水建設のフクシマ現地役員と癒着し、除染作業や家屋の解体作業を他の業者より遙かに高額の料金で請け負っていました。
安倍の出身派閥清和会の政治資金パーティーで、相双リテックが大量のパーティー券を買ったのが暴露された結果、相双リテックは清水建設に切られ、
全ての除染作業や家屋の解体作業から排除されました。
https://blogs.yahoo.co.jp/okasinaunion/35307902.html

衰退し滅びゆく国にふさわしい腐りきった話題
このクズ役員どもが重罪に問われないようなら日本は完全に終わり

お前ら朗報だ。
復興税はあと20年弱続くぞ!!

たった3年間で142億円の利益w
役人にカネの配分をさせるなよ、まだ被災者にばら撒いた方がマシ

福島県民だけど原発の恩恵で潤ってたくせに焼け太ってる大熊とかその周辺はもう無くなっていいと思う
廃棄物全部あの辺に埋め立てろよ

3年で76億
1年あたり約25.3億
役員が何人か知らないけど、もし一族で経営だったら凄いぞ

他人の生き血を啜って貰った報酬は美味いか? 役員共。
中間貯蔵施設で初の死亡事故 伐採中の女性作業員
https://www.sankei.com/affairs/news/190204/afr1902040034-n1.html
郡山で重機に挟まれ44歳男性死亡 除染土搬出作業中
http://www.minyu-net.com/news/news/FM20181019-317292.php
「嫌なら帰れ」実習先は除染現場だった ベトナム青年

除染をやめて土地を棄てて金を被災者に分けた方がずっといいだろ。
20年もたってから除染をはじめればいい。
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1555407156/



5chがまともだった、赤裸々な真実を言っている

地元から見て腹正しいのは地元の人間自体が堕落していた、モラルが荒廃していた
それで漁業組合とか船主を批判したがこれは本当にひどい、金の亡者であり地元民をくいものにしていたのである
原発マネーによる極端な悪がここに暴露されたのである
役員報酬が70億とかで分け合うというから何なのだろうとなる
懸命に除染していた人は一日一万とかで終わりである
その差があまりにも大きくなっていた
その裏には議員がいて巨額の金が回っていたとなる

いろいろ私は原発のことで追求して来た
ただ自分自身が原発のこととか地元のことについても知らなかったのである
それが追及しているうちに見えて来たものがある

それで腹正しくなり怒りを覚えた!

それも何か地元だからお前ら利権を金を一人じめするのかという怒りにもなる
南相馬市で鹿島区は30キロからはずれて補償金が少なかった
医療費も半年で打ち切られた、高速でもそうである
でも30キロ内はさらに数カ月医療費無料が延長されたのである
そういう差別があった、でもそれは政治力があれば簡単に平等にできたのである
その地元民がもらえる金はこうして地元の有力者のリテックとかに奪われていたのであるだから地元の人はこの会社に怒りをぶつけるべきだともなる

地元を食い物にした極悪人だと・・・・

そして福島県は本当に政治でもマスコミでも腐っている
結局なぜ原発が誘致されて事故になったのか?
その責任は東電とか政府にあっても福島県自体に地元自体でもうモラルが荒廃していた
金を得ればいいとして原発を誘致した、そこからして間違っていた
その後も金、金、金で終始しているのである

双相リテックはその最たるものであり極端な悪として暴露されたのである
このことに地元で何も怒りをもたないのはなんなのだろうとなる
第一この「政経東北」この広告でもそうである
なぜこのように大きく裏表紙で宣伝するのか?
これもここは除染マネーが入りいくらでも使えるから政経東北にも流れている
そもそも一か月一回くらい出している雑誌で生活できるのかとも見るからだ
福島県の新聞でも福島民報は創価の聖教新聞をすり県で50パーセント出資している官報と同じである、政府のいいなりである

マスコミは上級国民の味方であり大きな利権団体である

だからそもそも原発の危険があっても報道はしなかった
何か肝心のことで報道の役割りを果たしていなかったのである
それも新聞とか雑誌でも金がかかりすぎるためにそうなる
インタ−ネットなら手間でも無料でできる、それに比べたら新聞などいちいち一軒一軒配ること自体金がかかりすぎるのである
そのために金を得るために権力者と結びつき利権を得る団体となる
それで双相リテックとかでもこうして宣伝する
そうしたら批判はできないのである

つまり肝心なことを報道しない!

政経東北は他の新聞とかより真実を追求していると思ったが違っていた
財界ふくしまでも最初原発を批判していたがやめた、それは原子力村から金が入ったからだともしている、なぜ渡部恒三が政経東北に出て語らせていたのかもわからない
渡部恒三も原発の利権者の最たるものだったのである
積極的にかかわり息子はアメリカのGEに就職していたのである

こうししてわかったことは

福島県は原発事故周辺はモラル的に腐っていた!

政治家からマスコミから地元民からみんな腐っていた!

いろいろ事故の原因はあるにしてもこうしてモラルの腐敗が原発事故の原因にもなっていた、科学技術とモラルは関係ないようである
だからこういうことがわかれば天罰だったということに納得する
モラルの頽廃があり津浪であれ天罰が与えられたのである
だからこうして悪の巣窟ともなった原発事故周辺は廃棄物処理場にして住民は移住すべきだというのもわかる、いくら除染しても無駄だだからである
その金は地元の悪徳業者に回りその金は福島県のマスコミに回り利権化しているからだ
ただ飯館村はもともと原発とは関係なかったら責められない、でもそこでも原発マネーによって争う村となったのである

原発事故から十年過ぎたけどもう区切りの年である
延々と底なし沼のようになったのがこの辺である、除染しても無駄なのに利権のためにつづけるのは税金をどぶに捨てるようなものだともなる
それは国民の負担になるからである、すると福島県は原発乞食だとか言われる
そのイメージは相当に悪くなっている
原発利権でいい思いをしたとか見られる
ただこの底なし沼からの逃れる決断をしなければならない時期なのかもしれない
復興復興だとか除染だとか言ってもそれが必ず利権とかかわり復興そのものより除染でも利権化して金をもらう装置のようになってしまったのである
だから元の状態にもどすことは不可能でありあきらめろとういのもわかる
もちろん自分自身でも元のようにしてもらいたいとはなる

でもそれが巨大な利権となりいくら金をつぎ込んでも復興はできないようになってしまったのである
となると避難区域になった大熊とか双葉とか浪江とかはもう住むことをあきらめるほかないとも見る
そこにいつまでもこだわっていてもただ金ばかりつぎ込んでも復興はできないからであるただ相双リテックのように除染でも利権化しておおもうけするような人達がでてくる
そこだけではない、補償金でレクサスを買った、フィリピン女性に仙台に店を出して金をがなくなったとか何かかえって補償金で堕落した者も多いのである
つまり金だけでは復興はできなかったのである、その金は一部の者にまわり地元は食い物にされたのである

そしたら地元の絆すらない、ただ利権の場となり金を得るための場として地元民もある
でも一人占めした相双リテック対しては怒りとなる
悪人が分け前を争うことになる、もっとこっちにもよこせとなる、遺産争いにもなる
ただそういう醜い場所と化したのである
原発はただその契機となったきでありもともと人間の醜い面が原発で露骨になり暴露されたとなる
ちょうど黄金を掘り当てて争っているのと似ている
ただ自然は美しい、でもここだけではない人間は醜いのである
だから神は人間の暮らしを隠したということはそのことである
飯館村などはそういう場所だった、隠された村であったとき良かったのである
でも今は露骨に放射性物質汚染されたずたずたにされたのである
そこでも補償金をめぐって分断されて争うようになった
かつての平和な隠された村は失われてしまったのである
posted by 天華 at 18:52| Comment(1) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2021年03月15日

「除染マネー」…43億円の巨額役員報酬 (原発マネーで狂ってしまった、事故後も同じだった)


除染マネー」…43億円の巨額役員報酬  

(原発マネーで狂ってしまった、事故後も同じだった)


この下請け除染企業A社は、代表ら役員が巨額の報酬を得ていたことがFNNの取材で判明している。

A社の1年間(2016年1月〜12月)の驚きの利益構造だ。

<清水建設が国・自治体から受注した除染・関連事業等の下請けにより

売り上げ(営業収益) =約105億円

利益(売上総利益)=約56億円   


除染費用は原則、東京電力に請求することになっているが、税金や電気料金が充てられる可能性が高く、結局は“国民が負担”することになる。
つまり “国民の金”の半額近くが除染企業の“フトコロ”に入っていたのだ。


業者は土木工事会社「相双リテック」。民間信用調査会社によると、事故後の12年1月に設立。今月10日に避難指示が一部解除された福島県大熊町で大手ゼネコン「清水建設」の下請けとして除染を手掛けた。

業績は拡大し、売上高は12年の約19億円から、15年には約111億円、16年は約105億円に達した。大半を清水建設から受注していたが、18年4月以降は同社との取引関係は解消していた。


NHKの除染マネーとういう番組でこのことが指摘された
地元の会社の「「相双リテック」がおおもうけした、この辺でも清水建設の下請けであり働いた人を知っている、事務所も設置された

役員報酬が43億円というからすごい、何か暴力団関係者がきて「おいしい」と言ったのは除染作業とか復興事業が金が入るからそう言った
最初の予算が一兆円くらいだったが6兆円にもなった
放射性廃棄物処理場も各地に作っても四年くらいで壊された、何百億円で作ったものが壊された、この無駄も大きい

とにかく途方もない金が原発事故の後始末に使われた
原発自体がもともと金の鳴る木だったのである、金が住民にもばらまかれたのである
ただそれは全員にではない、漁業組合とか一部の者にばらまかれた
その幹部とかにばらまかれた
除染マネーでも双相リテックには金が入り幹部に入った
でも除染作業員には入らなかった、近くの清水建設に雇われた除染作業員は今も金に苦しんでいるから入らないのである
ただ幹部には金が入り湯水のように使われたとなる
原発事故の後始末でも巨額の金がばらまかれそれを手にした者としないものがあった
その差も大きかったのである

だから南相馬市では同じ南相馬市内では鹿島区は補償金は三分の一とか医療費は半年で打ち切られるとか差が生まれた、またそれは伊達市とか他でもあった
政府によって距離で区切られたからである
ただ別に南相馬市でも相馬市でも放射線量は変わらなかったのである
でも相馬市だと一人6万しかもらえなかったから不満があった
その費用は実はこうして除染費用とか何か回せる金があったのである
除染費用の6兆円という途方もない金は無駄な面が大きかったからである
そしたら一兆円くらい回せば十分に公平になったのである

結局復興はしていない、そして復興自体の方策が失敗したのである
いくら金をつぎ込んでもそれが復興につながらなかったのである
ただみんなその金を目当てになり復興とはその金をもらうことになった
そして肝心の自治体は復興できていない、また自治体自体を復興するということが失敗だったということもある
なぜならそもそも地元には他に家を建てて仕事を持ち仕事もしているとなると帰らないからである

何かイメージとしては莫大な札束がばらまかれそれに群がり金に狂い肝心の復興しようとする気持ちは地元でもないし外部の人も復興というのは金でありすべてが金にはじまり金に終わったとなる
それは現代社会が金がすべてとなっているからそうなったともなる
そして一部の者が原発マネーでうるおっただけだとなる
その大金が入った人たちは贅沢してモラル的にも荒廃して終わったとなる
何かみんなで復興しようとする心もなくただ金で分断されて一体感は喪失した
だから人間は金だけなんでもできるものではない、でも金の力は現代では大きいからそうなった、金に狂い金を得ればいいとしかなくなる

まず自治体を復興させようとかよりまず金をくれとなっているのが本音だからである
そして放射性物質に汚染されているということで地元に帰ることもできなくなさせた
小高区などは放射線量が低いのだから仮設住宅なのどに移住させたのが問題だったのである
それも三年とかで返せば良かったのだが五年になり他でももっと長くなり帰れなくさせたのである、農家の人に聞いたら三年働かないと体がなまって仕事ができなくなる

つまり三年という時間がすぎてもう働くことをあきらめて補償金をもらって生活した方がいいとなったのである
それと高齢化社会が影響していた、高齢者は働けない、でも肝心の若い世代は流出して帰らないのである、そして残されたのは老人だけでありそれで自治体が復興できるのかとなる
また浪江の津島の方になるともともと過疎地域でありそこは除染されていない
国でも全部の除染はできないとしている、飯館村の長泥でもそうである
第一森が広いのだから除染自体が不可能なのである
一部しか除染できないのである、溜池を除染しても周りの森から放射性物質が流れだして来るから無駄だともなる

いづれにしろ帰還困難区域は全部除染できないし放棄するほかないともみる
家は点々としかないしそういう過疎地域を除染して元にもどすることは無理だとなる
そこに住みたいということはわかるが現実的にはできなくなっている
それで思い出したのが津島に中国人の嫁がいてここに住みたくないと言って夫に斧で殺そうとした事件があった、その中国人は都会に住みたかったのである
それだけ山の中であり住みたくないとなった
今なら補償金をもらって都会にでも住めるとなったから我慢していれば良かったともなるつくづく人間の運命はこんなに変転することが信じられないとなる

何か自分の戸籍をたどると父親の祖父は津島から葛尾村に出る柏原が出身地なのである
すると津島とはかなり近いとなる、だから相馬藩内はこうして因縁をもっている人が多いのである
父親は葛尾村から丁稚奉公で双葉の新山の酒屋で働き暖簾分けしてここに来た
そして父親の前の妻は新地生まれであり同じ墓に埋まっているのである
そういうふうに相馬藩内とかこの辺は何かしら因縁がある
ただ現代は本当に遠くに嫁ぐから変わっている

私は飯館村から津島の方に行き葛尾村の柏原の方にも行っていた
津島はそういう交差点にあり三春とか二本松への道もあった、バスも出ていたのである
そういうところで人が住まなくなるのは淋しいとなる
でもあのようになるともう住むことは無理に思える
その前から過疎地域のような場所にもなっていた、浪江の街から相当に遠いからだ
だからなぜあそこが浪江町に属しているのかともなる
そんなところが放射線量が異常に高い場所になっていたのである

何か不思議なのは十津川部落が洪水で被害があり村ごと北海道に移住したときの心構えとこの辺で起きたことは余りにも違ったものになっている
村人が全員一致して団結して北海道に移住したのである
そういうことができたのはやはりその当時から村として一体化して心が通じ合っていたからなのだろうともなる
政府から金はもらったとしてもそれで分断されることもなかった
金でもめるたともなく心は一致団結して北海道に移住したのである
それは伊達市なども伊達藩の亘理から侍が明治になって移住した、それが伊達市なのである、それも伊達藩がありその侍が心が一つであり一致団結したからできたことである
それと比べると余りにも違いすぎるとなる

それをただ責めることもできない、今の社会が広域化グロ−バル化しているからそこで金中心の社会となり金の力が大きくなりすぎたのである
金によって人間はもともとばらばらにされているということもある
つまり共同体があって金があるのではない、金があって共同体があるとなる
だから補償金の奪い合いが起こり金になればいいとしかない、それは漁業組合とか船主とかでもそうであり「双相リテック」とがてもそうである
おいしい原発マネーで自分達が自分が得すればいいしかなくなったのである
地元に除染で貢献するとかより除染マネーが欲しいとなるだけだったのである
それは水俣病でも補償金が欲しいというだけになっり駄目になったというのもそうだった公害になるとこうして駄目になるという前例があった
病気を偽り補償金をもらった人たちもいたからである

つくづく人間社会のことで金だけですべてが解決しない、金を湯水のようにつぎ込んでも解決しない、その無駄が膨大なものでありそのツケが次世代の人にかかってくる
それは税金だからである、そして一部の人たちが幹部とかがその金て贅沢して笑っているこうしてその地元でも腐敗が広がりその心の汚染もまた大きく復興に影響しているのである,モラルの退廃が事故周辺では起きているからである
多額の金をもらってかえって駄目になるということもあった
かえって復興はできなくなったということもあった
だからこの世の問題は金ではすべて解決しない、でも今は金があまりにも大きな力となっている、現実に毎月電気ガス水道代を払えない人がいればそうみる
金あればそんな苦労はしない、それでそういう人は原発マネーが欲しいとなる
こうして何か人間の心がモラルが頽廃していくら金をつぎこんでも復興しないということになった面も大きい、そもそも最初から原発マネーで心が歪められ狂わせられたということもあった、その延長として事故後も同じことになった
つまり公害になったら終わりだ言う時、原発自体がそういうふうにさせるものだったのである、そのツケがこうして回ってきてどうにもならなくなったとも言える 

十津川部落の北海道移住

これまでにも増して一致団結し、お互いに助け合い、猜疑や軋轢を生むことなく、新村の隆盛と勤王の由緒相続を目指そう。)

移住住民は、移住・開墾の費用として政府から破格の恩賜を受けたのだから

恩賜金及び、旧郷から受け継いだ共有金は、新村の基本財産となし、いかなる場合においてもこれを各自に分割して消費すべきものではな

原発補償金は当然に町民村民に支払われるべきものであり各自自由に使ってもいい
すなわちパチンコであれギャンブルであれ何に使っても買っても贅沢してもいい
それは町に村に与えられたのではない各人に与えられたものであるから

誰も一致協力して町であれ村であれ残る必要はない、補償金は各自自由に使い何を買おうが贅沢しようがいい、一致団結する必要もない、それは町や村ではなく各人に補償金として与えられたものだからである。
その補償金の土地なり家なりの財物補償は各人が東電政府に対してするものである。

移住開拓は非常事態なのだから、一人一人が倹約に努め、以下の各項を堅く守ること。1,不急のものは購入しないこと。2,家屋の構造は質素堅牢のものとし、一切の装飾は施さないこと。3,家族以外に二人以上加わる会席・酒宴は行ってはならない。但し、新村の記念日大祭祝日はその限りではない。4,村内に飲食店を開いてはならない。5,衣服はなるべく木綿のものを用いること。

ここまでモラルを重んじたのである
会席、酒宴などもしない、着るものまで制限した
飲食店まで禁止していた、これも贅沢にしないためだったとなる
これと逆になったのが原発事故周辺だったのである
ただ時代が違うから一概に比べることはできない
でも現実は事故後で本当に多額の金が入って金銭感覚が狂った人も多いのである
だから何か一致団結するということがなくなったのである
金が入ったら飲めや歌いやにもなった、その相違はこれと比べるとあまりにもその差が歴然としている、時代の差もあるから一概に批判できない、でもモラルの問題も大きなものとしてあったことはそれは事故前でもそうであり事故後そうだった
「相双リテック」などもそうである、最初は地元のためにとなっていたが多額の金を得るためになりそれで贅沢することになり金は消費されたのである
そのうよにみんな金に狂ってしまったとなる、でもそもそも別にここだけではない、金に狂うのはどこでも同じになってい九、ただ原発が何か特別金になり人間の欲が刺激されるものだったのである、ちょうど黄金に狂う人間と同じである
そして地域全体が荒廃したのである


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2021年03月10日

原発事故避難区域が復興できないのはなぜ? (基本となる農業、林業、漁業が失われたから―浪江町の人の言ったこと)


原発事故避難区域が復興できないのはなぜ?

(基本となる農業、林業、漁業が失われたから―浪江町の人の言ったこと)


浪江町のことを報道していたけど不思議だったのは浪江町に住んでいる人が語ったことである、その人は電気関係の仕事であり東電でも働いていた
千人くらい東電で働いていたという、そして浪江町が人口二万にもなったのは東電があったからだと言っていた
その人が言うには街中に住んであさだけ寂れた街になっているのに補償金もらって良かった年金代わりにもらって困らないとか何も街がさびれたと感じいないことだった
なぜそうなのかわからなかった
その人は回りの田畑が草ぼうぼうになっても関係ないのである
自分の仕事は電気関係であり別に事故前でも関係ないと見ていたのである
第一漁業とか農業とか林業でも放射性物質に汚染されたけどそれで被害を受けたのは第一次産業の農業、漁業、林業とかだとなる

そこでは農産物でも果物でも魚でも汚染されていると未だに風評被害があるからだ
ところが今の社会はそういう第一次産業を基礎にしていない
すでに全体の経済の割合は一割にもみたないくらいなのである
すると田舎にいてもみんな会社員であり農業とか漁業とかの従事者ではない
だから意外と田畑に囲まれても農業のことを知らない人が多いのである
でも電気関係とかは従事者が多いから収入源だから常にそこには関心がある

別に周りの田畑で農産物でも魚をとれなくても今の社会は外国からでも入ってくるから関心がないのである、金さえあれば世界から入ってくる
魚でも鮭とかマグロでも外国産だったりする
もし地元でしか魚でも農産物でもとれなかったら死活問題となる 
だからその電気工事者は農産物がとれてくても魚がとれなくても事故後も関心がなかったとなる
ただあのような寂れた街に住んでいて別にかえって良かったといっていることは理解できなかった

そして結局復興は何かというとき農業や漁業のことではない、工業のことである
科学技術のことである、そこに復興の未来を見出しているのである
南相馬市ではロボット工場とかであり浪江町だと水素工場ととかである
つまり原発事故は科学技術の故に起きたことであるがまたその復興は科学技術で成されるとなっているのだ
農業や漁業の復興は一応言うにしてもそれが復興につながらないのである

それは事故前からすでに農業漁業林業は主要産業ではないし一割にもみたない割合しか経済でしめていなかったからである
となると一見田舎だと田畑に森に囲まれているからそれが主要なものだと錯覚するのである、でも浪江町の人が言うように回りの田畑が草ぼうぼうの荒地になっても関心がないとまでなる、そして復興とはやはり科学技術なのである
現代人はたとえこれだけの悲惨な原発事故があっても依然として復興するのは未来は科学技術にあると信じている、それは信仰のようにもなっている
いづれは科学技術が解決すると見ているのである

ただ復興というとき私自身が感じたのは、田んぼが再生したときそこに鷺が帰ってきた
また蛙が田んぼにもどってきて盛んに鳴いた時復興を感じた
それは自然がもどった感じたのである、生態系が回復したと感じたのである
田畑は第二の自然だから自然が復興したと感じたのである
でも浪江の電気工事者はそんなことは一切感じないのである
彼にとって重要なことは電気工事者として仕事があり金が入ることであり回りの田畑が草ぼうぼうになっても何も感じないのである

自然保護があるが自然保護は実際は自然の中で生活している自然から糧を得ているとき自ずと自然を大事にする、それは農業でも漁業でも林業でもそうである
森が利用されないと森はかえって維持されななる、人の手が入らないとかえって森は活かされないから荒れるということがある
だから自然保護というのは成り立たないのである、自然の中で人間が生活しているとき自然も人間も活きていたのである

原発事故の深刻さは空気とか水とか土が木でも汚染されたことである
するとここには住めないとなったのである、その打撃を受けたのは生態系に依存する農業とか漁業とかである
ただ一次産業はもともと工業化で重要なものでなくなっていた
だから田舎に住んでいても軽視されていたのである
また農産物でも魚でも広域化してグロ−バル化すると地元でとれなくてもいくらでも外から入ってくる、するとまた地元にとれるものでもなくてもいいとなる
でも地元の生態系を維持しないと空気でも水でも土でも汚染されると住めなくなるのである

もし生活の基礎として第一次産業があり生態系の維持があるときその自治体全体が崩壊するようなことはなかった
つまり第一次産業が生活の基盤になっていれば全体ではなくても根幹となるものが残存して復興ができたとなる
それで漁業関係者が東電に漁業権を売り事故前も多額の補償金をもらっていたし事故後もなんら生活に困らないのである、やはり立派な家を建てているからである
何かこのことに今回の原発事故でも象徴されていたのである
生態系とかが大事にしない、まず金になればいいとなり零細な漁業より東電から補償金もらって暮らした方がいいとなったのである
それは社会構造がそうなったためでありいちがいに全部を漁業関係者の責任だとは言えない、ただそこに一番矛盾が現れたのである
トリチウムを海に流すなと漁業関係者が言ってもそれはまた補償金をつりあげるためなのかと見られてしまうからである

実際に浪江の請戸の船主が病院で特等室に入り新しい家を建てると言っていたからである
現代の社会は科学技術の社会である、科学技術に後れをとったら世界の競争にも勝てないだから高度成長時代は科学技術で日本が優って世界の競争に先んじていたから豊かになったとなる、それで外国に電器製品を売り石油を買ったり外国の物を買うことができた
日本には売る資源がなくても電器製品を売ればいいとなったのである
でもその科学技術に遅れをとるとグロ−バル化の競争に敗れて日本は貧困化しているのである
かといって農業と漁業とか林業とか第一次産業主体の経済には戻れない
でも原発事故でわかったことはこうして生態系を維持していたものが破壊されると住めなくなるということである

もし根幹になる農業とか漁業とか林業でも残っていれば町でも村でも崩壊しないのである実際に江戸時代から戦前までそうして貧乏でも人はその土地でとれるもので生活していたからである、それは貧乏でも町や村に住めなくなるということはなかったのである
でも東電の原発に頼った結果すべてを失ったとまでなる
だから山尾三省があれほど農業に思い入れがありそれが人間の生きることだと価値を見出したことが逆説として今問われている
ただパンが贅沢とかの生活はもうできない、ただその実践してきたものが何だったのか?それは現代の科学技術文明に対するアンチテーゼとなっていたことに気づいたのである

どう考えても町や村ごと崩壊することはない、相馬藩で天明の飢饉でも三分の一の人口が減った、でも田畑が荒地になってもその土地が資本となり越中とかからの移民が入ってきた復興したのである、それは土地を資本としてその土地があったから復興したのである
でも今は基幹となるものが土地ではない、科学技術だから科学技術が崩壊するとその土地全体が崩壊するとまでなったのである
それは大きな社会の変化世界のの変化で起きたことでありすべて地域の責任とも言えないみんなそういう社会で生きているからである
でもこのことはここだけに起きることではない、科学技術文明になると科学技術が崩壊すると自治体も全体が崩壊してしまうとなる実例となったのである

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2021年03月03日

経済の錯覚ー第一次産業から工業化へ (原発事故もその変化で起きた)


経済の錯覚ー第一次産業から工業化へ

(原発事故もその変化で起きた)

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南相馬市の地域特性
https://www.city.minamisoma.lg.jp/material/files/group/3/04_3shou.pdf

経済というとき田舎に住んでいると回りは田畑である、するとそれだけの面積を占めているから農業中心のように未だに見ていることがある
つまり農業となると土地が基本になり土地から生産物を産みだすから土地が広ければ広いほど生産高はあがる
土地が二倍になれば二倍の収穫になり三倍になれば三倍の収穫になる
その土地でも平地があると田畑にしやすいのでいいのである
日本では米がとれる平地が多い場所があって大きな力をもつとなっていた
何万石とかの石高で米がとれる量でその国の力を計っていた

ただそれが戦後の工業化により高度成長時代になると農業の生産にしめる割合が極端に減ったのである、全体の一割とかになっていた、それは地方でも田舎でもそうなのである
でも田舎に住んでいると依然として田畑に囲まれているから農業のしめる割合が多いともみるのである
でも現実は農業に従事して生活している人は一割くらいだとなる
それもこの辺だと梨農家とかトマト農家とか花栽培の農家とが専業農家として成り立っているとなる、米だけでは成り立たなくなったのが農業である
そして田舎でも地方でもみんな会社に勤めている人が多いのである

でも人間はいくら数字で示されても現実と合わないのである
ただ明らかなことは戦前までは養蚕農家が多かった、いたるところ養蚕農家であり
そのために養蚕のために作られた兜型の屋根の家が今でも多く見られるのである
でも養蚕は今はしていないのである
相馬農業学校は養蚕学校から始まったことでもわかる
農業は養蚕が主なものであり絹が輸出産業となっていたからである
でも養蚕とは農業が拡張化したものでありそれも農業だったのである

グラフで見るようにいかに第一次産業の割合が急降下しているからわかる
それでも依然として田舎の風景を見ると田畑に囲まれているから農業が主体なのかとも見てしまうのである
そしてまた漁業は実際は農業よりそのしめる割合はさらに少ない
全体の一割が農業だとすると漁業はまたその十分の一くらいかもしれない
そうなると漁業は確かにこれも漁港はある、でも現実には経済活動の割合では微々たるものだとなる
第一魚にしても必ずしも地元でとれた魚を食べているわけではない、魚でも今ならどこからでも入ってくるからである、そうしてグロ−バル化して広域化した経済で地元のしめる役割りがまた小さくなっていた
ただ魚は活きのいいのがうまいからこの辺では石鰈は贅沢であり年取り魚として大晦日に食べていた贅沢品だったのである

やはり魚。特に「めでたい」に通じるタイが好まれますが、ブリ、サケも人気もので、“東日本ではサケ、西日本ではブリ”といわれるほど「年取り魚」の定番として定着しています。

こういうことが各地でもあった、だから地元で石鰈を食べれるのは漁港があり漁師がいたためであるその恩恵があったということである
ただ高度成長時代になると工業化すると農業もそうだが漁業もさらに遠洋漁業や広域化グロ−バル化で外部からも魚が入ってくるから地元だけで売り買いするものでなくなった
その全体にしめる割合が農業より縮小化していたのである

そこでどうなったのか?

漁業権は残り大きな権利となった

原発に漁業権を売りそれで成り立っていた

漁業だけではもう成り立たなくなっていた、だから後継者もいないのは農業とも同じである、ただ実質では漁業だけでは成り立たなくなっていても漁業権がありそれを東電に売るその方が大きな収入となり原発御殿が建っていたのである
漁業では成り立たない、農業でも成り立たない、後継者もいない、でも東電からの補償金はある、それで十分だとなっていた
グラフで見ればわかるようにそもそも第一次産業は急降下するばかりだったからだ

飯館村でも林業とかで木材やまた石材とかを東京とかに売っていたときは地元にあるものが資源となり村でも成り立っていた、原町機関区はその資材を東京に運ぶために作られた森林鉄道がそこから伸びて葛尾村の落合とかまで通じていたからである
それがグロ−バル化して外国からそうした木材でも資源を輸入するようになったとき衰退したのである
そういう時代の変化があり東電に頼るようになったのである
東電は巨大企業でありその経済にしめる割合も地元では大きなものでありその他は縮小化されたのである

ただこうして工業化して高度成長時代に公害問題が起きた、自然破壊が起きた、水俣病がそうだった、環境破壊の歪(ひずみ)が生まれた
それは日本だけではない世界でも中国でも経済成長すると起きた問題である
原発もまた環境破壊するものだったのである

これまでの経済は第一次産業が主体だった、農業であり林業であり漁業でもそうである
それもグロ−バル化していないから地元にあるものでまかなう経済だった
それはその土地の生態系に基づいてありえたものだったのである
だから公害とかはありえなかった、なぜなら農業でも田んぼでも水が汚染されたらやっていけない、漁業でも海が汚染されたら魚を食べられないからである
貧しくても生態系に基づいて生きるほかなかったのである
そこでは公害は起こりえなかったのである

ただ原発事故ではそうした生態系自体が汚染されると空気まで汚染されると住めなくなった、ということはここあるものをすべて失ったとまでなる
現実に多額の補償金をもらってみんな外に出て残されたのは老人だけだとなる
そしてやがて限界集落のように消滅してゆくとなるからだ
そうした大きなリスクを背負っていたのは原発だったがそれが金になるということで見えなくされていたのである
だから確かに一概に漁業者だけを責めるのは酷だともなる
ただそこに一番矛盾が露見したのである

トリチウムを海に流すなというときそうである、そもそも海で魚をとるということは自治体にしてもその割合が微々たるものになる
松川港にしても漁船は多いにしても現実は火力発電とか天然ガスの供給所とか他にも船が出入りする機能としてあり漁業は縮小化されていたのである
魚にしても現実的には外国からでも他から入ってくる
農業でも米でも外部からいくらでも入ってくるから地元だけに頼るとういことはない
そういうグロ−バル化広域化経済の中でも農業や漁業が縮小化されて東電に頼るになったのである

生業を返せという裁判があった

でもこれもその生業自体では生活できないとなりこの辺では原発に頼っていたのである
生業というとき何なのか?
それは第一次産業になる、その第一次産業のしめる割合が急降下してきた
だからいくら回りが田畑でもその田畑が重要なものでなくなっていたのである
そして次は荒地化した土地はソーラーパネルになった
それも原発に頼るとも似ていた、自然破壊していないようで景観は破壊されている
それで飯館村に風力発電ができると風車を見えないようにしろと川俣村から抗議されているという、飯館村でもそうして自然破壊されてゆくようになった
なぜ川俣村でそういうのか、それは川俣村では元のままでありそこに相当数の人が住んでいる、そうなると風力発電の風車でも見えるのが嫌だと抗議したのである
やはり人がそこに住んでいれば景観を気にするからである
だから人が住まないことは危険になる、人が住まない避難区域は放射性廃棄物の処理場とかソーラーパネル工場とか風力発電地帯とかになりやすいのである

原発事故の最大の被害は生態系が汚染されて住めなくなったことである
この住めないということは最大の被害であった
それで大熊の人だったか家族と故郷に一緒に住めるならロウソクでもいいと言ったことが印象に残ったのである、それは何が幸福なのかを示唆していた
そこまで極端化したことを言わせたことが原発事故がいかに家族でも自治体でも破壊してしまったかを示していたのである






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2021年03月02日

衰退した漁業をテーマにしたドラマ (漁業は衰退して観光とか原発に頼るようになった)


衰退した漁業をテーマにしたドラマ

(漁業は衰退して観光とか原発に頼るようになった)

1970年代には、各国の200海里宣言で漁場が狭まり、遠洋漁業画が打撃を受けました。1980年代後半からは、日本近海の水産資源が減ってきたことなどから、沖合・沿岸漁業の漁獲量も急激に減少しました。

漁獲量も減り、とった魚の値段も上がらず、収入に繋がらないこと、また自然相手の危険で厳しく、そのうえ長時間労働の仕事であることから、特に若い人が漁業から離れていきました。

現在、漁業者は約20万人と過去40年間で3分の1以下に減り、現在働いている漁業者の約30%が65歳以上の高齢者となっています

漁業が最大の生活手段である離島では、人口の減少が問題となっています。例えば長崎県の五島列島では、1960年代に14万人いた人工が、今では半分近くに減り、高校卒業者の約8割は、進学や就職のため島を離れています


漁業もグロ−バル化して衰退した、つまりグロ−バル化経済というのは全般に社会を変えてしまったのである
それが一次産業を駄目にしたのである、漁獲量も減り跡継ぎもいない、それは農業と同じだった、林業でもそうである、カナダとからの外材で家を建てる
すると江戸時代とか戦前は山持ちとかがいて山村でも金持ちがいた
それでこの辺では飯館の大倉で相馬女学校に通っていたという人がいた
親戚の家に寝泊まりして通っていた、相馬女学校は本当に極わずかの人しか入れなかったのである

漁業というとこの辺では相馬市がと漁船も多く盛んに見える、でも相馬港は天然ガスなど輸入する港に震災以後なっている、だから漁港としてあっても漁船以外で船が出入りする港ともなっている、漁業が衰退するとそっちの方が港の主な機能となっているともなる
漁業だけどだとジリ貧になる、もう漁業だけでとか専業ではやっていけない時代である
そしてどうなったのかというとドラマの舞台の伊勢志摩では観光が主要な収入となりリゾート開発が行われた、それで寝屋子として育った子供が観光開発会社の社長となり育った寝屋子の父親と争うようになる
漁業は衰退して観光に重きを置く時代になったのである
そこで観光化することに寝屋子の親は反対するドラマである

これでわかることは漁業を通じて結ばれていた共同体が時代の変化で破壊されてゆく物語でもある、それは農業でも林業でも同じである、グロ−バル化した結果起きたことなのである、その時寝屋子という共同体を維持する風習も壊されてゆく
相馬市の松川浦漁港は大きいが漁港は零細である、そういう零細な漁業でも成り立っていた、それは遠洋漁業とかに変わった、すると地元で魚をとってだけでは暮らしていけないとなる
漁業だけでは暮らしていけないとか原発があった地域でも双葉や大熊でも原町市とかいわき市から離れているから仕事がないともなっていた
それで出稼ぎ地帯になっていて出稼ぎしたくないからと原発を積極的に誘致した
それは漁業関係でも同じである、漁業だけでは生活できないとなっていた

ところが浜通りではこの辺の烏崎村には漁業をしていたがそれも零細である
東北電力の火力発電所ができたとき補償金をもらえた、それで烏崎では景気がいいと高い着物でも売れたのである、また呉服屋が旅行に招待されたりした

日本人の海外渡航自由化は、1964年4月1日のこと。この日に観光に観光目的のパスポートの発行が開始され、1人年1回、海外持ち出し500ドルまでの制限付きで海外への観光旅行が可能となった。

海外渡航の自由化から1週間後の4月8日にJTBが主催した、ハワイ9日間「第1回ハワイダイヤモンドコース旅行団」の旅行代金は、当時の国家国務員大卒初任給(1万9100円)の19倍という36万4000円。1965年4月10日に出発した「ジャルパック/ヨーロッパ16日間コース」は67万5000円だ。

これらを現在の物価に換算すると、JTBのハワイツアーは400万円、ジャルパックのヨーロッパツアーは700万円に相

このくらいの値段の時烏崎の人は海外旅行していた、ヨ−ロッパにも行っていたことに驚いた、私自身はとても海外旅行は高いから行けないと思っていたのである
それから安くなってみんな行くようになった
この時漁業関係者には補償金が入りさらに原発でも事故前からも多額の補償金が入ったのである、だから二回も大きな金が入ったとなる
実際は零細漁業は一応形だけでは漁業していてもそうした利権にあづかるためにあったのかともみる、だからこそ跡継ぎもいないのである
漁業だけで生活が成り立たないのである

ただその矛盾が原発事故であからさまにされたのである、事故前でもそんなに補償金をもらっているなど知らなかったからだ
それで原発御殿を建てていたというのもそうである
確かにこういう事情があり一概に漁業関係者を批判できないこともわかる
でもここに原発の極端な矛盾が現れたのである

漁業というのはもう漁業をしている形だけでありそれで漁業権を持っていて東電に補償金を要求するために海があったとまでなっていた
それだけ漁業が苦しい状態に追い込まれていたのである
それは農業でも林業でも同じである、それで農業していた子供が親に農業は継ぐなと殴られた、それは苦しいからそうなったのである

寝屋子とは漁業を受け継ぎその土地に生きるものとして自ずと形成された伝統である
それも結局伊勢志摩の場合は観光化してリゾート化してその土地を買い上げられるとかで問題になった、高度成長時代はこうして海外旅行ブームがあり国内の観光ブームが起きた時代だからである
つまり漁業の衰退とともに観光や火力発電所とか原発で補償金をもらうということに生活が変わったのである

ただそれが原発事故でその矛盾が露骨に現れたのである
トリチウムを海に流すなと東電に要求してもそれはまた補償金をもらうための交渉なのかとまで見られる、なぜなら漁業はこのように零細化して生活が成り立たない
ただ形だけが漁業者であり実質は東電からの補償金で成り立っていたからである
要するに魚をとらなくても東電からの補償金で生活がまかなえるとなっているからである事故後もそうである、漁業関係者は生活に困ることはないのである
ただそれは全部ではなく船主などの一部かもしれない、でも漁業組合が交渉する時、やはり補償金をもらうためなのかと見られてしまうのである

だからそもそも東電に漁業権を売りわたすということ自体それが本当にそういう権利があったのかとなる
今になるとこれだけ広範囲に被害があり別に他の人たちは補償されないからである
なぜ漁業組合関係者だけが補償されて安泰なのかとなるからだ
もちろんこのように事情があり言い分はある
ただ漁業権というのは大きな権利でありそれが零細な漁業組合のものになっていることが疑問なのである
水揚げ高でも福島県は宮城県からすると十分の一であり零細なのである
ただ事故が起きなければ問うことはなかった、第一知らなかったからである
だから知らないままで終わっていたのである

ともかく寝屋子という昔からの漁業を成り立たせるための伝統が失われというとき
それは江戸時代から明治から社会が変化して共同体が分解していったのが歴史である
原発事故ではそれが極端化したのである
一挙に限界集落化してもう町や村が消失する危機になった
それも多額の補償金をもらった結果としてグロ−バル化広域化した社会で起きてきたことである、現代の生活はもう一地域で農業や林業や漁業をして生活しているのではない
グロ−バル化であり広域化社会であり一地域でも外部からの人が入り仕事して成り立っている、だから隣の人が何をしているかわからないのが多いのである
それだけ仕事が広域化してグロ−バル化しているからである

昔だったら近くでも何の仕事しているかわかっていた見えていた
今は見えないのである、それで簡単に原発事故で広域化社会で補償金をもらって町や村を復興させるより個々人が家族でも外に出た、仙台市に出て成功した人もいる
だから時代の変化で元のような町や村に復興させることは不可能だとなった
でもこんなに簡単に共同体が崩壊することには驚いたのである
一つの町や村に住んでいても実際は共同体は喪失している
そこで力をもつのは金だとなってしまったのが現代社会なのである
だから市町村でも一時的にありそれも簡単に何かあれば崩壊するという社会なのかとなる代々住んでいてもそれが維持できない、簡単に崩壊するということである
もちろん放射線被害とかあり維持できなくなったということがあってもそういう社会になっているため起きたのかと見るのである



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2021年02月27日

歴史として後世に伝えるもの (後世のために原発事故でも真実を伝える)


  歴史として後世に伝えるもの
  
  (後世のために原発事故でも真実を伝える)
  
歴史でも真実が伝えられない、それはなぜか?
その時代を語るにしてもそこにく権力があるものが歴史を伝えるからである
それで相馬藩で400年前に津波があってもわずか二行だけ700人溺死と記された
それも津波の後に発見されたのである
だからこの辺で津浪が来ないとしていたのである
津浪が来ない場所だとなっていた

でもその時代に津波があって被害かあった
それが記されなかったのは何故かとなる
その理由はその時相馬氏がこの辺に進出して土地の勢力者と戦っていた
それでその戦争のことは事細かに記されている
でも津波のことは二行しか記されなかったのである
関心は戦争のことにあったからだ 

つまり権力者が権力争いに没頭していたからである
そしてなぜ津波に関することが残されなかったのか?
それは権力がなければ記すこともできなかった
文字として記すには第一支配された民衆はまだ字を書けていないともなるし
石碑一つ建てるにも金がかかるからその記録を残されなかったとなる
伝説は残したとしてもそれは文字に記録されるものとは違っているから信憑性がないともなる、もちろん文字に記されても権力者の都合のいいようにも記される
要するに歴史は勝者の歴史ということであり歴史には権力者の都合のいいように作られるともなる  

だから日本の戦争でアメリカに負けた時もそうである、アメリカが勝者となりアメリカの都合のいいように語られて負けた日本人は裁判までされる
それは必ず不公平なのである、アメリカにも必ず非がある
戦争とは両方になにかしら非がある、だから一方にだけ非があるとするのは勝者になればそうできるからそうなっているだけなのである 

私は地元だからなぜ原発事故が起きたのかを追求し来た?

それはいろいろな原因があり複合的に起きたものである
責任は権力をもったものが起こしたことは確かである
その権力でもアメリカという巨大な圧力がありそれが権力となり古い型のマーク1の原子炉を売りつけられたとかある
また権力のトライアングルが形成されて強力なものとなり安全神話を作った
官僚ー御用学者(専門家)ーマスコミとかが一体となり形成して逆らうことができなくなった

そして地元にしろ漁業組合の漁業権を東電に売り渡して事故前十分な補償金を得ていたとかある、そのことを指摘しないが地元でもただ金になればいいしかないということでその原因を作ったし責任はあったのである
地元で地元の責任を言えば嫌われるし表に出ないがそうなるとやはり真実がわからなくなる、後世の人も何か事故の原因で真実なのかわからなくなる
つまり真実が伝えられないことでまた同じような事件が事故が過ちが起きるということである
それは戦争でもそうである、どうして戦争を起こしたのかと未だに不可解なのである
いろいろなことを言うにしてもなぜあれほどの戦争の犠牲があっても不可解になっているそれはやはりその時代を生きた人たちが真実を伝えないからだともなる
何か隠されて真実が出ないということがあり不可解になった
それは日本だけに火があるとは限らない、でも真実は闇の中になり解明できなくなった

私の証言は真実を伝えるものとして価値あるともなる
地元だからまたインタ−ネットがあり発言できたからだともなる
マスコミではやはり今でも真実を伝えないからである
原発のことでも他の重大なことでもマスコミは伝えない、権力側についたりして伝えないのである、そこで真実がわからなくなるのである

とにかく原発事故でも津波でも歴史的事件である、だからやがて時間が過ぎて歴史となるでもその真実は時間がたつにつれてやはりわからなくなる
そしてやはり権力の圧力により曲解されたりする 
するとそれが後世のものにとってどうなるのか?
事実があってもそんな事実はなかったとか何か誤って解釈される
すると同じ過ちがまたくりかえされるのである



posted by 天華 at 21:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2021年02月26日

震災から十年ー(復興予算は何に使われたか) (復興とは何かー補償金をもらうことだけになった?)


震災から十年ー(復興予算は何に使われたか)

(復興とは何かー補償金をもらうことだけになった?)

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“国民1人あたり25万円” 復興予算はこう使われた
〜人口減少時代の災害復興〜(クローズ゙アップ現代)

インフラに建物や道路などで三分の一くらい使われた



復興とは何なのかというとき町を元の状態にもどす、前よりもいい町にする、創造的復興をするということで国の税金を一人当たり25万円も出した
でも結果的に復興はすすまない、原発避難区域はその補償金で故郷を出て行った
そして立派な家を建てそこで仕事をもち定着して子供も育てている
そうしたらその人たちは故郷には戻らないし復興など関係なくなっているのである

ただ残された親は老人は子供たちに帰って欲しいとなる、元の町にもどしてほしいとなるこうして内部でも心も分断しているし現実生活でも分断してしまったのである
それで復興とは補償金をより多くもらうことであり肝心の町の復興はみんなで一致して考えない
そのことは家族でも子供世代と親世代で分離してしまったことでもわかる
親たちはいくら戻って欲しいとしてももう生活が別々になったのだから帰らない
すると残された親世代は元の町に戻してほしいという切なる願いがあっても
老人だけではもう町自体成り立たないのである
それで少子高齢化であり人口減少が前からありそれも影響したのである
だから老人だけの町、シルバータウンが成り立つのかということである

また子供世代が帰らないとしても残された親世代の老人は帰って元の町にしてほしいとなっても現実に世代間で分断している現実があり修復はもうできないのである
それが外部の人を入れて復興しようとしたがこれもなじめず定着しないというのが多いという、だから国民一人当たり25万円もの復興予算をつぎ込んでも道路とか建物とかは立派になり復興したとなるが肝心のそこに住む人がいないのである

それで奇妙なのは飯館村である、農家でもこしんまりした新しい家が建っているので住んでいるのかとみたら住んでいないのである、それでそれはそこに住んでいた人が時々帰ってくる別荘だという、また施設とか学校でも50億とかかけて立派にしても肝心の生徒は5人でそれも村内には住んでいないのである
おそらくたいがい福島市であれ村の外に出て家を建て住んでいる
テレビでも見たが浪江の人が本宮町にあたらしい家を建てて住んでいる
でも時々浪江に来て自分の家をみたり田畑を見たりしている
でもそういう人はもう浪江町に帰らないのである

そしてもっと補償金をくれ!

これが最大の関心事であったし町自体の復興ということは外部の者がすることであり
そこに住んでいる人たちは補償金をもっともらいその金で仙台市とかに移り成功した人が話題になった、補償金を資本として事業を始めて成功したのである
その人は町の復興とか関係なくなっていたのである
そして親は老人は残されていて帰って欲しいとなっている

補償金をもらった⇒町を出て行く資金となった⇒故郷には帰ってこない

立派な施設や学校や道路は作った⇒肝心の利用する住人がいない

ただでは外に出て行った人を責められるかとなるとそれもできない
なぜなら武田邦彦氏などは十年過ぎて心筋梗塞とか甲状腺ガンが増えていてとてもそこには住めないとしているからだ、ただそれは明確にはなっていない

不思議なのは復興というときもともとそこに住んでいる人が中心になり復興がある
でも肝心の中心になるべき復興の主体となる人たちが流出してしまった
それで復興とは一体何なのかわからなくなった
南相馬市でも小高はやはり三分の一くらいは帰っているとしてもほとんど老人なのであるだから車が街中を通らない、もともと人は街を歩まないにしても車はひっきりなしに通っているからである、それが車が通るのが少ないのである
だから静かなのである

ただ正直自分が何か言うと批判になる、だから最初は復興してもらいたいと思っていたが今は無理だともみる、かえって最初から帰ることをあきらめた人が賢いともされる
見切りをつけて土地が安い時に買って家を建てた
土地の値段が原町とか鹿島とか相馬市とかでも上がったからである
それだけ原発避難区域から移住した人が多いからである
だからいわき市には二万とかの人が移り次々に新しい家を建ててひんしゅくをかったのである

でも十年すぎてインフラとか宮城県とか岩手県でも防潮堤とか建物とか道路は復興した
それで石巻市でも立派な会館を作ったがその維持費が高くなるので困っているとなる
そんな立派な建物が必要だったのかとされている
でもそれは市民の要求だったのである、だから市政が悪いともならない
では維持費を誰が出すのか、市で出すとしたら市民の負担にもなる
国では復興予算は減らすからである、原発事故の国からの援助も十年過ぎて縮小される
その額も大きい、そして医療費でも高速無料化も終わる
それも南相馬市だと30キロ圏内は十年もつづいたのである
でも30キロからはずれた地域は医療費補償でも半年で打ち切られたのである

それで意外と補償金をもらうにしても個々人で差がある、土地とか家をもっていたとか財産があった人は補償が大きくなる、でも浪江の復興住宅に住んでいる人は夜でも電気を消している、相当に苦しい生活をしている、それは意外だったのである
なぜ双葉の人がコンビニ強盗したのか?
これも不可解である、双葉だったらまだ避難解除されていないから確実に補償金が入っているから生活に困るはずがないと見たからである
ただその辺の詳しい事情はわからないけど意外と補償金にしてもそれだけでも生活できない状態になっている人も増えたともなる
外に生活を移してもそうなるとまた金がかかるからである
復興住宅では家賃が今ではとられている、それも負担なのである
その他そうした大きな金が入ると浪費しやすいことである、何か女遊びとかに使ったり浪費した人も多いのである
それでギャンブルに狂った人もいた、仮設に入った人たちは何もすることがないのでパチンコ通いだったのである
それで外から来たボランティアが馬鹿らしいとなったのである
モラル的にも荒廃したのである、被害者自体がそういうふうになっていると外部の人も本気で助けるのかとなる
そしてただ補償金をもっとよこせとか被害者意識のみが残る
すべてが原発事故のせいだとなる、事業に失敗してもそれせ原発事故のせいだとなり責任がないともなる

ともかく南相馬市では国の支援金が縮小される、それは相当に影響する
だから生活保護でも最低限保障されていない、医療費くらいが無料だとかなっている人がいる、生活保護でもそうなっている、それで市の財政も苦しくなっているからそうしているのかともみる
復興というと国民一人25万もの税金を投入しても必ずしも復興にはならなかった、かえってその補償金で自治体が分断されたりした、家族もばらばらになり住むようになった、それは立派な建物であれ施設であれ道路ができたとしても回復しないのである
だから金だけですべて解決するとはならない、かえって金で人の心は分断されたとなる
それで水俣病でも補償金でだめになったというときここも同じなのである
公害になったら終わりだと言っているからである
補償金をもらう闘争が復興であり肝心の町の復興とかはなくなる
だから今は自分はかかわりたくない、ただ南相馬市だと小高もそうなのだから市の財政とかで影響してくる、だから復興してもらいたいとなる

でも復興の主体になるのは誰なのか?

小高の人にとってみれば補償金を多くもらえるのは当然であるとなりそれを言うと怒る
そしてもっと補償金を出せとなる、でももう国でも打ち切りであり市の財政でも苦しくなる、つまり小高区は死にとって負担になってくるのである
そこは老人だけの町だとなれば福祉でも負担が増える、それで介護士がいないので青森の施設に送られているのである
これはここだけではない、限界集落がインフラとかで80倍の負担がかかるからもうつぶした方がいいとか都会の人が言う時もそうである
少子高齢化でもう維持できないからである、するとそういう場所に金をつぎこんでも無駄だとかなり、三陸の津波被害の時、官僚がじいちゃん、ばあちゃんの町に金をつぎこんでも無駄だと言ったのである
そのことは批判されたけど現実問題として何か解決方法がないからそう言ったのである
日本全体が少子高齢化で人口が減り空家が800万軒になるというのも驚きである
そういうことが津波や原発被害地域で極端なものとして現象化したとも見るからである
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2021年02月16日

忘れられる東日本大震災から十年 (でも原発事故被害は継続)


忘れられる東日本大震災から十年

(でも原発事故被害は継続)

人間は本当に忘れやすい、第一一週間前でも何が起きたか何をしたか何を考えていたかも忘れる、覚えていないのである、それでプログでもこんなことを書いたのかと自分で書いたのにこんなこと書いていたのと新たに発見する
それが十年過ぎると十年一昔であり昔のこととなってしまう
だから地元でも自分自身も被害でも関心がなくなる、テレビでも最初の家は食い入るようにしてみていたけど今はいろいろその当時の被害を言っても関心が持てなくなったのである

ただ地元だから津波の跡は家がなくなり回復していないし原発事故の避難区域には人が戻ろないし回りは田畑が回復しないから草ぼうぼうでありそれを見るから地元では復興していないと見て外の人が見るのとは違うのである
そういう現実をいつも見せられているからだ
それでも原発避難区域ではそうでも他はそういうことはない、かえって原町とか鹿島とか相馬市とか新地とかは前と変わりない、前より人口が増えて新築の家も増えた
新しい街が二つくらいできた感じなのである
だから自分の住む所で原発事故の被害は感じないのである
そして今はすべて仮設住宅は取り壊された、原町の道の駅の仮設も今年になって壊されただから仮設住宅はもうないのである

復興というとき原発避難区域になった小高とか双葉とか浪江とか富岡とかは復興していない、帰った人も一割二割とかである、小高は三割とかでいい方だとなるが街自体はさびれている、人の行き来もない、通りを歩いている人はまれである
でも通りはもともと人が歩かない時代である
でも車は通る、その車が通らないのである、だから人の行き来は相当に少ないのである
ここならひっきりなしに街中でも車が通るからである
なぜか自分の脇の道路は前はほとんど車が通らなかった
でも震災以後が車がかなり通る、だから危険にもなる
それはどうも小学校がありその送り迎えとかあり朝には混むのである
この道路をそのために学校に行く道路となりこむようになったということもある
だからここは前よりにぎわっているという感覚にもなる
そして田畑も全部ではないにしろ回復している、海岸の工事も終っている

そして原発避難区域がどうなっているのか?
若い世代は仙台市とかに出て行き帰らない、それで祖母も息子の所に行き残されたの祖父だとなる、そして一人になると祖父といっても60代では若いから女を引き入れているのが意外と多いように見るのである、一時は仙台市の方にフィリンピン女性にスナックとか店をださせてやったとか言う人もいた、それだけ補償金が入ってきたからである
補償金バブルになったからである
また飯館村の不思議は一割くらいしか帰っていない、それも老人である
でも新しい家が古い家に代わってあるので住んでいるのかと見たら住んでいないのであるそこは地元の人は別荘だと言っているという、つまり時々帰ってきて畑などで野菜を作っているともいうから不思議なのである

何かこうして家族がばらばらになりモラル的にも荒廃している、そうした廃墟のような町や村に住むというのも嫌だとなる
ただ復興していないのは南相馬市だと小高区であり原町とか鹿島は田んぼも回復したし復興している、そして南相馬市は30キロ内で補償金が三倍も違っていた
30キロ内の原町は三倍の補償金をもらい、高速も無料で医療費も十年間無料だったのである
30キロをはずれると鹿島区などは半年で医療費の補償も打ち切られてあとは補償金は一人70万もらった、これもいい方だったのである
相馬市などは一人6万で終わった、放射線量はほとんど変わらなかったのである
この差も大きかった、かならず補償金は差がでてくる、今回のコロナウィルスでもそうだったのである
でもこれも十年過ぎて打ち切りになるし国から支援金もなくなる

そこで市では相当に財政的に苦しくなる、現実に生活保護も厳しく医療費くらいもらって支給されない、最低限生活する金が支給されないのである
わずかな国民年金があるとほとんど支給されないのである
それはやはり市でも財政が苦しいからかとみるのである
本当にその人は支給されてかったら飢え死にするような状態なのに支給されないのである
また避難している浪江の人の復興住宅に住んでいる人も夜電気を消しているという
補償金を相当もらっているとしても働かないから金も枯渇してきているのか?
何かこの辺てコンビニ強盗がありその犯人か双葉の人だったというのは驚いたからである双葉となると手厚い補償金を避難解除されていないからもらっていると見たからである

ただ意外と浪費した人も多い、遊びに使った人も多いのである
人間は大金が入ると浪費しやすいのである、手にしたことかない金が入るとそうなりやすい、遺産などもそうなり安いのである、
ただ老人は相当に貧困化しているのが多い、第一まともに年金をもらっている人は少ない国民年金が4,5万の人も結構いる、その人たちはどうして生活するのだろうと思う
それで東京の老人が住むようになった団地では夜に灯が消えているというのだ
現代の貧困は見た目ではわからない、必ず月末に電気が水道、ガスが止められることでわかる、そこで待ってくれととか必死になっているのである
やがてはそうして払えないとアパートでも追い出されるとなり住むところがなくなるのである,今コロナウィルスでそういうことが起きていることでもわかる

原発避難区域に住んでいる人はほとんど老人である、それでも60代だと老人とは今はならないから何かしら働くことはできる、でもほとんど何もしていないのが実情である
そして問題はそもそも老人だけの町が成り立つのかということである
シルバータウンとなり成り立つのか?
南相馬市では介護士がいなくて施設も維持できないから青森の介護施設に入れている
立派な建物があっても働く人がいないのである
立派な学校を建てても飯館村では生徒が5人がむらの外部から通っているとなる
子供の親でも住んでいないからそうなる、小高区では原町に移り住んでいる人が多い
結局あのように荒廃した町に住みたくない、原町がいいとなる
そこの住人すら一旦あのように荒廃すると住みたくないとなるのだから外部でもいろいろ言っても無駄だともなる

私自身最初は復興してくれとなり書いたが今になると何かそれも無駄なのかとみるようになった、でも南相馬市だから小高でも復興してくれないと困る
財政的にも困るから関心はもくつづける、津波の被害への関心はなくなったが原発の被害は変わらないから関心を地元では持つ、復興してくれとなる
でもその内部でも一体として復興へ向かっていない個々ばらばらになり家族もばらばらになりモラルも荒廃している
ただモラルというとき原発事故前からそういうことはあった
すべて金になればいいとしかなかった、その欲がかぎりなく拡大してゆくのが現代であるそれで原発は積極的に誘致されたからである

農業していた親が農業だけは継ぐなとして子供を殴ったという
その子供は原発で働いた、そして今度は親になり子供は故郷を出て行った
でも別にその子供が親不孝というのではない、なぜなら移りすんで建てた新しい家に親の部屋まで作ったからである、でも親は故郷を離れたくないとして住んでいる
つまり原発事故は家族もその住民もばらばらにしたのである
補償金はもらったとしても住民はばらばらになり家族もばらばらになったのである
飯館村でもそうである、補償金をもらって外に出る組と残る組で争ったからである

そしてそんなところに復興として道とか建物でもインフラをハードを整備しても人が住んでいないのだから無駄だという意見もわかる
そのインフラの維持にも金がかかる、その金は被害者が出すのでもないからだ
それで限界集落はつぶせと都会の人が言う、それは今は電気水道でも維持するのに金がかかるからだ、限界集落とかでも80倍の金がかかるからそれが税金になるから都会の人も払うからそういうのである
もし自前で炭焼きのようて暮らしをしていれば都会の人も何も言わないのである

ただこれは日本の将来の現実なのかもしれない、少子高齢化で空家が800万軒になるとか日本の人口でも縮小してゆく、すると自治体タでも住民サービスができなくなるとか生活保護でも支給できないとか福祉サービス医療でもまともにできない、そして自治体崩壊も言われているからである、ただこの辺は津波原発事故で先取りして極端化した地域として現れたともなる
そしてこうした地方では原発に頼るのである、そこに大きな問題の根があった
正直地元の人では立派な家が欲しい、車が欲しい、うまいものが食べたい・・・切りなく欲望がふくらんでゆく、そのために原発が誘致された、また上級国民の天下り先として利権として原発はあったからである

そして今でも地元の人でもなぜこんなふうになったのか理解していない
そういう際限のない欲望の追求に原因があったと思わないのである
そういうことを言ったら怒る、何か原発事故の原因がなんであったのか良く反省していないのである、そういうことを地元で言えば嫌われる
だから自分は今は言いたくないのである
でもそういう原因を追究しないとまたすでに原発再稼働とかこの辺でもそうなるかこともありうる、経済的に苦しくなればそうなる、それしか救いかないともなるからだ
それは相当にに怖いことだとなる

だから不思議なのは山尾三省なのである、でも誰もパンが贅沢だというような人についていかない、それは現代では変人だからである、でも何かこの辺では共感するものがあったのだ、そういう人はこの辺でもわずかでもいたからである、部落とかでそういう人がいたのである、そういう人か原発事故で見直されたということがある
なぜなら原発事故の結果としてそういうことがリアルなものとして想像の世界ではない
現実化したからそうなったのである、つまり空想のことではなかったのである
現実に根ざしたものでありそれが原発事故でわかったからである

根本的に間違っている帰還困難区域対応

政経東北二月号

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除染費用となると7兆円かかったとか途方もないものだった、それならここで述べているように一世帯に一億円補償金を支払えばいいとなる
南相馬市なら全体で除染費用をゼネコンに回すのではなく公平に配分できたのである
そしてときたま故郷がなつかしく思って帰る人はにはそれを用意する
それが飯館村の別荘だったのである、結局それが現実的になるからだ
復興にしても余りにも莫大な金がかかりすぎてそれが地元の金でやるならいいが税金だから問題なのである、ただ飯館村は他と事情が違うのだから補償金が手厚いのはやむをえないとなる、つまり原発は距離に比例して地元にも責任があったとなるからだ
飯館村は別に原発の恩恵を受けていないからである

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2021年01月04日

隣の嫁様が双葉の人だった (世間は広いようで狭いー原発事故から十年)


隣の嫁様が双葉の人だった

(世間は広いようで狭いー原発事故から十年)

私自身は引きこもりてあり交際がほとんどない、でも一人になってはじめて隣の嫁様と話しした
その人は双葉出身だったのである、「ええ、双葉なの」と思った
それで自分の父親が双葉の新山の酒屋で働き暖簾分けしてここに来たことを言った
そのことは前に書いた、葛尾村(かつろう)村から双葉の新山の酒屋に来て丁稚奉公したのである

今でも新山に富沢酒造店がある、それは大きく煉瓦作りの煙突がある
その隣辺りに父親の酒店があった、それも倒産した
何か長塚に銀行があったとか家族が語っていた
当時銀行はめずらしいものだったのである
双葉町はもともと双葉ではない、駅でも長塚駅となっていた
長塚村と新山村があり双葉というのはなかった
そして江戸時代は宿場となっていた、それも長塚村と新山村が交代で参勤交代の接待をしたのである、それは労力でも費用がかかるから分担したのである

それで双葉町が十年過ぎて立ち入りできるようになったので自分も行った
何かそこに出会い橋とかあり石の橋があり富沢酒店もあり不思議だった
ここで父親が働いていたのだなと感慨深いものがあった
父親もこの道を歩いて酒を売った代金をとりに回っていた、その手帳が残っている

その女性と話ししたのははじめてだった、すでに二十年以上とかそれ以上過ぎているのに一度も話ししたことがない、ただ隣の人を子供から知っている
その夫の妻が突然死んだのでそのことでお悔みしたりした
でもその嫁様とは語ったこともなかった
だからはじめて語って双葉の人だということに親近感を覚えたともなる
世間は広いようで狭いというのも確かである

最近向かいの家の人が私が子供の時遊んでいた人が亘理に住んでいるんですよというときも不思議だった、亘理と言えば近いからである
東京に住んでいるとばかり思っていたからである、別にその人とは一度も合っていない、でも亘理に住んでいるとなると電車で仙台に行くとときいつも通るからそこは近いのである、そして最近近くに嫁に来た人は亘理の人だったのである
だから本当にこうしてつながりがあり世間は広いようで狭いというのがわかる

何か不思議なのは私の墓には新地の女性が入っている、その女性は私の父親の前の妻なのである、その写真も遺影も家の奥の方から残っていてでてきたとき不思議だった
ただもうその女性であれ知る人はいないのである
ゆかりの人もいないのである、人間はとにかく死んだ時点で忘れられる、それが早いのである、そして新しい人が次々にでてくる、老人は過去の人となる、死んだ人はたちまち
忘れられる、そして人の縁もはかない、たいがい今なら金の切れ目が縁の切れ目で全部切れたとなる
人間の繋がりでもたちまち切れる、だから無常だとなる
常にあらゆるものが変化して常なきものとなる、この辺は津波や原発事故で余計にそうなったのである
でも昔から人間の世界は無常なのである、変化が激しいのである

ともかく隣の双葉の人の実家でもないという、双葉はもう回復不可能にも見える
また浪江とかでもそうである、みんな他に家を建てて住んで帰ってこないし帰れない
家を建ててそこで生活するとなるともう帰らないのである
もう津波と原発事故から十年過ぎたのである
これは大きな区切りである、30キロ圏内は高速とか医療が今でも無料だけでそれもなくなる、30キロからはずれた地域は半年くらいで補償も打ち切られたのである
その差も大きかったなと思った
でも今度は南相馬市でも国からの援助が十年でなくなる、すると財政的に苦しくなる
復興住宅に住んでいる浪江の人は電気を節約して夜でもつけていないとか言っていた
補償金でももらえる人ともらえない人の差が大きいためだと思う

ともかく津浪原発事故からの十年は区切りである、ただ復興はしていない
避難区域になった所でみんなが住めば復興したとなるがそれが不可能だからである
だから小高などは避難させるべきではなかったとみる
町自体が崩壊したようになったからである、それも復興できなくさせたともなるからだ
これからではこの辺はどうするのか?
それも見えないのである、小高の人や浪江の人や双葉の人でも帰ることをあきらめている人が多いからだ

そしてどうも知っている人は息子夫婦とか妻が仙台に移り仕事をはじめている
それで残された60代の夫が一人でいるらしい
でも実際は女の人がいて世話しているらしい、そこで妻は息子のいる仙台に行ったらしいその辺のことは深くわからないがどうもそうらしい
他でも夫を残して妻が東京の息子夫婦の所に行っているとかも聞いたからである
その人は原町の復興住宅に住んでいる
何かそういう人が多いのである

またフィリンピン人の女性に貢いで補償金を使ってなくなったという人もいた
要するに補償金をもらっても別に町全体の復興に使われたということもないのである
ただ個々人で自由に使ったとなる
だから特徴的なことは家族がばらばらにしたのが原発事故だったともなる
家族が一緒に住めなくなった人たちが多いということである
それが原発事故のカルマであり後遺症だともなる 
ただそれが全部東電のせいだともならない、やはり地元の人にもそうして自堕落になった責任はある、だから他者ばかり責めるのおかしいと言ってきた
それを言うと地元の人たちに嫌われるともなった

もう元の状態にもどることは不可能に見える、それで双葉町に新しく建った原子力災害伝承館というのには被害者の立場で何も陳列するものがないし語るものがないのである
そこには生々しい被害者の声がないのである
だからつまらないなと見てきた
それなら自分が書いてきた追求して来た原発事故のことの方が資料としても自分で言うのもなんだが有益である、それは地元の立場でもいい面と悪い面でも追及して来たからである
それでどうして事故になったのかを地元の立場でも公正に追求して来た
それは今でも追及している、今になり何か見えて来るものもある
それだけこれだけの大事故だと本当に理解するまでに時間がかかるということである
ただ感情的にではなく合理的に解明できる時間が過ぎたことは確かである
冷静に判断できる、それは後世のためになる 

でも原子力伝承館は後世に残すものが希薄なのである
つまり本当の歴史が伝えられていないのである
またマスコミでも伝えない、だからインタ−ネットで個人でも発信できることで私はしてきた、それは歴史的にも真実を伝えるものである
それは地元の人の悪い点も言っている、そこで反発されたとしても真実を追求してきたのである
つまり何が原因だったのかという真実を追及して来たから後世のためになる
推理小説でも真実を知りたいから追及するというのが理由になる
原発事故は世界的にも影響があり真実を伝えるべきなのである
それは世界の問題にもなったからである   

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磐城国新山となっている、磐城とつくのが葛尾村のバス停にもあった、磐城落合とあった磐城太田駅でもそうである、ここは古代には磐城国だったからそうなっている
相馬になったのは戦国時代から相馬氏が千葉の方からきて支配するようになったからである

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2020年12月20日

最悪の事態を想定できない人間 (不安が的中する、第六感が働かない時代)


最悪の事態を想定できない人間

(不安が的中する、第六感が働かない時代)

人間は最悪を想定しない、それはしたくないとかありこのままの状態がつづく、また続いてほしいという願望がある
だから誰でもそんな最悪のことなど考えたくないのである
それで常に目前の利益だけで判断するのである
何か不安を感じるというときそのことが意外と本当に当り最悪のことが起きる

第一原発でも「安全神話」を言われても何か不安だなと住民にはあった
特にすぐ近くだったら余計にそうである、でもその不安を無視したのはそれが利益になるから無視したのである
目の前の利益が常に優先されるからである
もし不安があるならやはり科学的に検証するということが必要だった
でもそれも権力の圧力でできなかったとかある
でも地元になればその不安は解消しないということあった
それでも利益優先になり無視されたのである

社会にはなんとなく不安だなというのがある
そういう不安感とか第六感みたいなものが人間にあるし動物には本能的に働く
でも今はすべて科学で考える、すると科学の専門家が技術者が決めることになる
素人の不安感など無視される、何か科学的根拠があるのかともなる
それで石巻の日和山の前を通ったとき、すぐ前が海でありこんなに家が密集していていいのかと見た、海を前にして家がある、港があるのは普通である
でも荒い波でも直接打ち寄せるじき前に家が密集していたのである
入江とになっていればまだいいがそれもない、だからこんなに家が密集していいのかと
見たのである
そしたら津波で大被害になったのである

何となく不安だなというときそれが意外と的中する
例えば東京とか高層ビルとかに住んでいるとかになるとやはり地震が来たらどうなるのかと不安になる、技術的にそうはならないとしても不安になる
その保証はないと思う、第一東京という都市自体があれだけ密集して住んでいるのだから地震とかになったりしたら大被害になることは一応想像できる
江戸が大火の被害に度々見舞われたのは木造の家が密集していたからである
それで何度も大火で被害があり長屋ではただすぐ何も持ち出さないで逃げることであり
あと家は壊して延焼を防ぐことしかなかった
何も持っていないから身一つで逃げるようにしていたともなる
また貧乏で物は持てないからそうなっていた

ともかくそもそも人が密集する都会は人間にとって生物にとって危険なのである
それは本能的にわかる、コロナウィルスでも東京などが感染者を止められないのは人が密集して住んでいてその密集状態の日常を止めることができないからである
コロナウィルスは人の行き来を減らすしか止める方法がなかった
だから村の入り口には疫病が入らないようにと人を入ることを止めたとなる
そのために大きな藁人形とか神社を作ったのである
関所もあったから人の行き来を止める機能もあった
それでも江戸時代にコレラは長崎から入り蔓延したのである

何か不安だなというときそれが意外と的中する、それは確かに科学的根拠がない
でも人間はこの科学的根拠も無視するのである
眼の前の利益の方が大事なのである
それで科学者が学者が若林辺りが仙台市で住宅地として広がった時、津波が来たら危険だと警告したら抗議されたのである
不動産屋にしては地価が下がるとして抗議されたのである
こうしてとにかくは人間は目の前の利益が優先になる
津波など来るものかとなり無視される
最悪のことは誰も想定しない、そうなると利益にならないからである
だからそんな縁起でもないことを言うなとなる
つまり最悪なことを見たくないからそうしている

でもその最悪なことが起きた、津波と原発事故で起きた
誰も空気と水と土と森が汚染されて住めなくなるとは思ってもいなかった
もう空気も吸えない、水も飲めない、食料も作れない、木も燃やせないとかなるとは思ってもいなかった、それは「安全神話」で最悪のことを想定させなかったのである
ただ利益のみを言い地元でも利益のみを求めたのである
利益になる金になるとなれば危険も無視されるのである
地元では目の色を変えて利益を求めて危険を無視したのである

ただこれは大きなことでなくても個々人でもなんとなく不安だなというときそれが的中する、それは自分自身でもそうだったのである
何か家のことで不安だった、引きこもりであり楽をしていたがこんて楽していいのかともありまた親が病気になったら死んだらどうなるのだろうかと不安だった
その不安は最悪のものとして的中した
介護のために四苦八苦して自ら病気にもなり死ぬ思いをしたからである
その時誰も助ける者がいず自分一人でやるほかなかった
かえって来た人は弱者化したときそれをいいことに攻め立てたのである
ある程度想定していたがこのように最悪を想定していなかった
それを見たくなかったのである、でも否応なく最悪のことが起きたのである

いづれにしろ何か不安だなというときそれが的中して最悪のことが起きる
トロイの木馬でもそうである、それが何かわからなかったが引き入れた
不安であったが引き入れた、そうしたら敵がそこに隠れていたのである
原発でもそうだった、実は不安があった、敵は隠されていたのである
また故意に隠していたのである
だからなんとなく不安だということは当たる、でも最悪のことを人間は嫌だから見たくないからさけるのである
そんなことあって欲しくないとして無視する、そうして最悪のことが起こる

それはコロナウィルスにも言えるのかもしれない、最悪になることもありうるが楽観論もある、だから判定しにくい、ただの風邪だという科学者もいるしそれも論拠があり否定できない、ただわからないから最悪な事態になることもある
医療崩壊というのがそうである、それが起こりつつある
それは未知だからそうなる、だから不安をあおることは良くないともなる
マスコミは不安をあおり視聴率を稼ぐともしているからだ
だからその判断もむずかしいのである

ただなんとなく不安だというとき簡単に無視できないのである
それが的中しやすいからである、それはそうして起こる最悪のことを人間は見たくない
それで最悪に備えない、安全も無視されるのである
そうして原発でただ「安全神話」を作り科学者の専門家集団でも最悪を想定していないから備えもしない、避難させるにも支持も出さない、そして一番危険な山側の津島に浪江の人たちは逃げたのである
それは最悪を想定していないから事故になったときお手あげになりアメリカにスピーディの放射線量を報告した、アメリカ頼りになっていたのである
最悪を想定していれば事故の避難訓練をする必要があった
でもしなかったのは「安全神話」を作っていて安全、安全をしつこく言っていたからである、安全でないとは言えなかった、そうなれば原発を作れなかったからである

最悪に備えよ!

これは常に日本では洪水があり災害が多いからそうなる、去年の水害でもそうだった
いたる所が決壊したり堤防も破壊されてそれを修復するのには何年もかかる
それも想定外だったのである、これからも最悪のことは起きる
ただ人間は日々の生活に追われ利益に追われ見ないのである、最悪を見たくない
でもその最悪が容赦なく人間の都合とは関係なくやってくる
それが津波と原発事故の教訓だったとなる

ただコロナウィルスにどう対処していいか、ただ不安をあおるのは良くない
でも医療崩壊とか最悪のことが起きつつもある
それに備えるというのも必要である、たこれも楽観論が多いとなる
若い多世代は影響がないとしてそうなる
老人はどうせ死ぬんだとなり無視される、それが楽観論を生んでいる
不安をあおの良くない、ただ人間は最悪を想定しない、したくないのである
これは確かなのである

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2020年12月15日

原発事故と似ていたドラマ (必殺仕事人ー漁師が魚より黄金を求めて殺される)


原発事故と似ていたドラマ

(必殺仕事人ー漁師が魚より黄金を求めて殺される)

必殺仕事人はBSで見ている、今日のドラマは漁師が沈没した船にあった黄金を引き上げるそれをさせたのは役人であり悪徳商人である
懸命にその黄金を引き上げたのだがそれと引き替えに殺されてしまった
その漁師は魚がとれなくて家族で苦しんだことを言っていた
それが悲惨でありどうしても金を欲しいとなり千両もらえるとしてその海に沈んだ黄金を引き上げてることを請け負ったのである

これは何か原発事故になったこの辺の状態と重複する、ダブって見えたのである
漁師は船主だと漁業権をもっていて事故前も補償金をすでにもらっていたのである
それも多額だから原発御殿を建てたとか回りからうらやましがられていたのである
別にみなん漁師でもないし船主でもない、港があってもそこに住んでいる人がみんなそうではなかったからである

漁業組合が漁業権をもっていて大きな力をもっていた
その組合の許可なしでは原発を建てられなかったともなる
そもそも原発というのは黄金だったのである、金のなる木だったのである
その金額の巨大さにはただ驚くばかりだった
原発事故後も国の税金が湯水のように使われたのである、除染だけで何兆円とかいうのも驚きだった、それは地元にではなく東京のゼネコンに流れたのである

そして地元でも富岡なのか大熊なのか町長の金庫が津波で流された、それを探してほしいとなった、そこには5億円の金が入っていたという噂だった
それは単なる噂ではない、火のないところに煙はたたない、

関西電力幹部らが福井県高浜町の元助役、森山栄治氏(故人)らから多額の金品を受け取っていた問題は会長、社長を含めた関電幹部の大量辞任という前代未聞の事態に発展した3億2000万円相当もの金品の原資は、関電高浜原発の立地に伴って地元につぎ込まれた「原発マネー」とも疑われる。舞台となった高浜町とは、どんなところなのか。町の人々は何を思っているのだろうか。

このように原発マネーは莫大なものでありそれに人々は群がる
マスコミでも電事連から800億円の宣伝費が流れたとかなりその危険性を報道することもなかったのである
それで事故が起きたとき東電にマスコミの幹部が招待されていたのである
それは朝日新聞でもそうでありマスコミ全部がそうだったのである
地元のマスコミでも報道機関でもやはり同じだった
「安全神話」に加担していたのである

だから漁業組合だけではない、その金にあらゆる人が群がっていたのである
東電に天下りした官僚もそうであり既得権者となるものがそうなっていたのである
最近既得権者を批判するyoutubeなどで報道している、加治将一氏のyoutubeではそうである
官僚とかには検察も入っている、その検察も東電に天下りしている、海上保安庁とかでもそうである、それから5億円の金庫で話題になった町長でも自治体の役所の権限をもっている人に金がまわるのである
ただ下々のものは原発の危険な場所で働く、でもそこでは普通の給料の三倍とかもらえるからみんなそこで働いていたのである、それも恩恵だったとはなる

ともかく人間は金に狂う、金しか見えなくなったのが現代社会であり資本主義社会である農業している人でも親が農業するなというときそうだった
それで子供は農業をするな殴られて原発や工事現場で働くようになったのである
農業も漁業と同じく生活的には苦しいからそうなったのである
戦前でも農業は悲惨だった、特に小作は悲惨だった、それでその時も金、金、金だと訴えていたのである
農業だけでは豊かになれないからそうなっていたのである

だから江戸時代であれ漁師でも魚がとれなかったらお手あげになる、それで餓えたとか死んだとかなりそれで海に沈んだ黄金を引き上げれば千両入るということで引き受けた
でもあえなく引き揚げたら殺されたとなる
その背後には金を扱う役人が後ろでかかわっていたのである
たいがいそういうシナリオになって必殺仕事人がその悪役を殺して終る
何か原発事故はそれとは違っていても似ていたのである
つまり漁師でも農民でもその生業では豊かになれないから原発に頼った
それは黄金に頼ったともなるのである

でもここに大きな落とし穴があった、黄金のために眼がくらみそのために殺されるまでになった、そのことはこの辺と似た面があった
原発から出る金で目がくらみ故郷が放射線で汚染されて住めなくなった
また家族が離散してばらばらになったとかある
今原発避難区域に住んでいるのは老人がほとんどなのである
老人だけが取り残されてしまったのである

結局金に黄金に目がくらんでしまったのである、それもそもそも双葉とか大熊とか辺りは浜通りでもチベットとか言われ出稼ぎ地帯であり地元で働きたい住みたいとなり原発を誘致したのである、その地元に原発で住めなくなったのも皮肉である
でも人間貧乏から脱出しようとする、豊かな暮らしをしたいというのは責めることはできない、ただそれがなぜ間違った方向に行ったのかは考えるべきだとなる

黄金に目がくらんだ、それで他のものが見えなくなった
何か大事なのもか価値あるものか見えなくなった
それはここだけではない、今は資本主義社会では金にならないものは価値がないとされるからである
でも金にならないものの価値がこの辺では見直された
それは故郷に住めなくなったとか華族かばらばらになったとか町とか村がゴーストタウンになり歴史が失われたとか回復しないとかでそこにあった金にならないものの価値が見直されたとなる、それよりそこで金にならないものの価値を認識したとなる
つまり金にならないものは価値として認識できなくなっていたからである

漁師は魚をとることは本来の仕事である、農民は食糧を供給するのが仕事である
それが金にならないということで原発に頼ったともなる
ただ原発事故前はそういうことが見えなかったのである
事故になってそういうことが露わにされたのである
まさに悪徳役人は官僚であり商人もそうでありそういう人達にたぶらかされてまた漁師が黄金に目がくらんで一攫千金を夢みてそうなった
そうして殺されてしまったのである

ただ人間が豊かになりたいということを止めることはできない、そうはあっても何か黄金に目がくらんでしまった、現実に船主の家に招待された人が本当に黄金の間があったらしい、贅を尽くして原発御殿が事故前に作られていたのである
それも津波で流されてしまったのである、あとかたもくなったのである
それでも事故後も軽く一千万とかもするような庭を作っている
それは船主の家だということがわかったからだ
それだけ金が入っていたということである、だから漁業組合がトリチウムを海に流すなという時矛盾なのである、また交渉として補償金をとるのかとも見るからである
つまり漁師の本来の仕事は魚をとり供給することだからである

いづれにしろこの辺に起きたことは津波でも原発事故でも大きなドラマになった
その時自分の家も介護とかでさんざんな目にあった、それもドラマだった
大きな歴史に残る事件でありドラマとなったのがこの辺だったのである


posted by 天華 at 20:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2020年12月03日

小高の趣味でしている陶芸の店 (小高の復興はむずかしい?ソーラーパネルの町になるのか)


小高の趣味でしている陶芸の店  

(小高の復興はむずかしい?ソーラーパネルの町になるのか)

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この緑はみんな色合い違ってる、同じではない、陶器は焼き方などで
一個一個違ているから価値がある
ただ相馬焼の緑は陰気くさい、仏壇に飾るものだかといのもわかる
相馬焼の特徴はひび割れだという

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私も緑の茶碗を集めていた

それはこの緑から草をイメージして草深いという田舎をみる
まさにわび住まいの茶室にふさわしいとなる
その辺は通じなかった、なにかバイクとか車とかの絵も描ける、でもアンバランスなのである


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これはヘルメットなのだが洞窟の感じにもなる、そこに座禅する人を配置すると面白い
いろいろ能力があるだアンバランスなのである

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座禅草に似ている




織部釉の基本は、長石と草木灰をベースにした灰釉です。そこに酸化銅を加えることで緑に発色します。灰立ての釉薬の中に、緑の銅が流れているのが分かります。
緑の濃淡で表情が柔らかくなり、色彩に味わいがありますね。


小高の通りでいろいろ陶芸の器を飾っている店があった
入ってみたらそこは主人が趣味でしているものだった
でもかなり手のこんだものを作っているから相当に年期が入っているとも見た
これは相当器用でないとできないと見た    
その人が織部釉のことをしきり言っていた、織部焼というと文様が有名だからそのことかと思ったら違っていた

その人は何かいろいろなことができることに驚いた
若い時は最近でもバイクが趣味だった、だからバイクの陶芸作品を作っている
でもバイクが趣味な人が陶芸ができるのかという疑問だった
その人は高校の時、陸上の選手でもあった
今でも体が細いが柔軟で体がきくみたいだ
ただ癌の手術をしたとか末期ガンになっていたとも言っていた
だけど元気なのが本当に不思議である
もともと陽気な人で話がうまいとはなる
ただ近くでも癌の人がいるが普通に仕事しているのが不思議なのである
もう5年とかではないそれ以上普通に仕事しているのである
その人も手術から8年過ぎても元気なのである、野球もやっているというからスポーツマンなのである
今ではガンではすぐに死なない、医学がすすんだからである

その人と現在の状況を話しした、ここでもそうだが老人ばかりでどうにもならないと言っていた、その人の息子も遠くに行って帰ってこないという、もともと理髪店していたらしくその道具はあったが帰ってこないという
他にもこういう人は多い、息子娘たちは外に出て帰ってこないのである
もう十年も過ぎると生活も別になり孫でも移り住んだ場所が故郷になってしまう
そして老いてゆく不安を語るのもわかる
つまり老人ばかりの町や村が継続できるのかという問題である

やがて介護にとかなったら誰が世話するのか?
介護士とか若い人がいないからこの辺では青森に介護になった人を送っているのである
青森では仕事がないからそうなっている
外から若い人が入ってきても一時的でなじめないから帰ってしまったとか言っていた
一時的にはボランティアで来ているがここに住むということはなかなかできない
仕事を持つということもむずかしいからだ   
今の時代は戦後の引揚者のように山村に開墾に入るようなことはしないしできない
その時は仕事がないからやむなくそうなったのである

そしてコロナウィルス騒動で原発事故とか津浪でも関心がうすれてゆく、第一地元ですら津波のことを語っても関心がなくなる、だから十年一昔になってしまったのである
ただ地元にすれば南相馬市の一員なのだから関心がないですまされない
直接行政でもひびいているからだ、税金をどう使う

とか配分の問題もありそれは鹿島と原町と小高が合併したのだから当然なのである
同じ南相馬市民として無関心にはなりえないのである
だから耳ざわりなこともあえて言わざるを得ないのである
いろいろ補償金などでももめたがこれからはやはり小高でも復興してもらいたいとなるからだ

ただ小高は老人だけでもう何か負担だけになるのではないかという不安はある
もう荒地が膨大でありそこで農業する人もいない、結果的に堤谷のところの丘がびっしりソーラーパネルがしきつめられたようにそうなってしまうのか?
なぜなら利用しない土地をもっていても何もならないからだ
そこはソーラーパネルにするのには抵抗がないからいいとなってしまうからだ
誰も住んでいないければそうなる、放射性廃棄物の処理場とかにもされる
そこに住んでいる人がいないから反対しないからである 

ともかく通りを車が通らない、通りでも今は人は通らなくても車がひっきりなしに通る
鹿島区だと今まで通らなかった道をひっきりなしに車が通る
それは学校があり子供をのせて通学させているからである
原町と鹿島は移り住んだ人が多く子供も一緒になって移り住んだからそうなったのであるこの差は相当に大きい、人の出入りが小高は非常に少ないということである
ただ前よりは食堂とかレストランとか喫茶店でも増えた、喫茶店でも三つくらいあり多いと思った、それを運営しているのは外から来た人だという
私は喫茶店が好きだからそこで休めるといい、どういうわけか原町には喫茶店が少ないのである、いい喫茶店が少ない、相馬市にはいい喫茶店がある、松川浦でも喫茶店はある
また一軒ながめのいい場所で再開したというニュースがあったからだ

ただその店の人が言うのには工事の人が減り食堂でもレストランでも利用する人が減ったという、相当に工事関係者が減ったらしい、だから食堂でも喫茶店でも増えてやっていけるのかと言っていた、これからも減ってゆくから客が来るのかとなる
どう見ても何か明るいものがない、マルシェなどの建物とか集会場のようなものができても肝心の人が住まない、若い世代が住まないから子供もみかけない
高校生は通ってくるとしてもそれだけでは活気がもどらない

その人の話を聞いていたらこんな多趣味の人がいたのかと驚く
どうしてもバイクと陶芸が結びつかないからだ、ただ小高には器用な人がいると思った
知っている大工さんも本当に器用なのである
大工だけではない庭作りもできるし壁塗りまでしていた、そんなに一人でできるのかと驚いた、ここの店の主人もいろいろ器用なのである
まずあれだけのものを作るには相当に手がこんでいるから器用でないとできないのであるだから小高には器用な人がいる、多彩な趣味の人がいると思った
その町や村によって実際はいろいろな人がいる、でもただ知らないだけなのである
そういう店でも出していれば活気にはなる、何もしないよりはいいとなる

小高でもそうだが飯館もそうだし浪江でもそうである、問題は人が住むことなのである
若い世代が住んでそこで暮らすことなのである
飯館村でも50億円かけて立派な建物をたてても肝心のそれを利用する人が小学校なら5人とかしかいない、それも外から通学している人なのである
飯館村には住んでいない、そして別荘として新しいこじんまりした家があるがこれも人が住んでいないのである、だから人が住まない町や村に活気はないしさびれたものとなってしまうのである
そして老人だけが取り残され介護状態になったら誰が世話するのか?
若い世代は外に出て行って介護士はいないとなって青森の施設に送られるのかとなる
住み慣れた所から離れて最期を迎えるのかとなる

要するに南相馬市全体から見れば小高は負担だけが増えてくるのではないか?
そこで生産活動する人は少ない、若い世代がいない、シルバータウンのようになる
それが負担になってくる、また浪江町とかも隣にありそれも影響してくる
避難区域になった所から移住している人が多いからである
だから原発事故が広域的に被害があったようにその復興も広域的になる
いづれにしろ小高は荒地があれだけあるのだから何か有効利用するとなるソーラーパネルにするにはいいとなってしまう
でもそういう所に人間が住めるのだろうかともなる

冬景色心にしみて住み古りぬ

なんかこんな風景ではない、人は住まず営みはなくソーラーパネルの工場地帯のようになる、これも一部はやむをえないにしても町全体がそうなったらどうなるのか?
ただ別に人が住まないとそういうことに反対する人もいないからさらにやりやすくなるのである、人が住まなければ元の自然にもどるわけではない、かえって放射性廃棄物の処理場とかにしやすいのである、反対する人が住んでいないからである
だから人が少ない過疎地が選ばれるのである、そこでは生活が苦しいとかありそうなる
土地の有効利用ができないためにそうなるのである

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堤谷の廃屋

この前がびっしりとソーラーパネルがしきつめれてい

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posted by 天華 at 10:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連