2023年04月06日

北泉の津波の犠牲者の石碑を見る (金沢の地名の由来ー古代の製鉄に関係していたのか)


北泉の津波の犠牲者の石碑を見る

(金沢の地名の由来ー古代の製鉄に関係していたのか)


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星ヤスという女性の孫が星勝(まさる)である。89歳となるとそうなる
鈴木氏と語ったが親戚がいてここで死んだ言っている

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前田は草分けとなる家でありここでは高台になっているのは下は入江になっていたからである
入江になっていれば海の魚が入ってくるから取りやすかったとなる
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北泉から金沢へ行く。そこで津波の被害にあった人の記念碑を見ている人がいたので花を捧げている人がいたので聞いてみた。
その人はこの地域に住んでいた人である。その親戚の人も津波で死んだという。鈴木という人でありその親戚の人が死んだのである。
ここの悲劇は消防隊の人と区長が死んだことである。その人たちは住民を見守る人でありそのために安否を気遣いそれで逃げ遅れて死んだのかもしれない
その死んだ人の家を家があったところ教えてくれた。
孫が消防隊員でありここに住んでいたので役目柄見守り役となっていたから津波に巻き込まれて死んだとなる。
消防隊員だからそれは殉職になったのである、ただ消防消防署に勤める人ではなかった
地域の消防隊員であり正式の消防隊員を支える人でもあった。

とにかく消防隊員も津波でこうして死んだ人がいた。
それはどうしても自ら逃げるというより人を助けることが優先されたために犠牲になったとなる。
だから殉職になったのである。
それも40歳代だから若かったとなる。津波で死んだ人は老人が多かった。もともと地方は老人が多かったからである。
地方では40歳代は相当に若い。農業でも60代以上であり70歳でもしている。消防は若い人でないとできない。でもその若い人が減少しているからいろいろなもの祭りでも後継者でもいなくなっているのである。

ここで海の魚をとっていたという。でも港はなかった。船を直接海に出していたのかもしれない。火力発電所は無いときは私は金沢によく行っていたのである。その時烏崎から金沢の海岸まで砂浜が続いていたのである。それが火力発電所でなくなったのである。金沢にも松原がありその松は太いものでありキャンプ場にもなっていたのである。
しかしその松原も津波で根こそぎ流され何もなくなったのである
その時金沢の田に海の水が入ってきて大量のボラが泳いでいたのである。それはもともとここは入江のようになっていたからである。その入江になっていれば魚も入ってきて魚もとっていたとなる。
でも金沢は元禄時代頃に入江を田たにしていたのである。だから意外と早く田になっていたとも見る。
その理由は狭いからだったかもしれない、八沢浦のように広いと簡単に埋め立てはできない、そこは明治以降に埋め立てて田にしたのである。

となるとここはなぜそんなに早く田になっていたのかとなる
今ある火力発電所では古代に製鉄が大規模に行われていた。
そのために金沢という地名になったのかもしれない。
金属の滓が流れてくるので金沢となった。
それそれは古代でありたができたのは元禄でも江戸時代なのである。でも地名は古代に名づけられたのが多いからやはり製鉄が行われていてその金屑とかが流れる沢であり金沢となった。

ともかく北泉の低い部分を家がなくなった。二軒残っているがそれは古い家ではない。社のある流された家のあるところが古いのかもしれない。
近くに延命地蔵の社がありそれは江戸時代のものだからここでも古いのである。
そしてここは泉氏が勢力をもっていて相馬氏と対抗したのである。なぜなら古代から泉があり酒になったとかの伝説があり長者伝説があるからである。
なにかしら財を成すものがあり相馬氏に対抗する力を持ったのである。そして西殿の地名がある所は相馬氏が支配した地域であり
そこから牛越城が見えるのである。つまりその位置が重要なのである。なんらかでそこに城を移す理由があったからである。
それは泉氏が強い勢力を持っていたからだともなる。



相馬藩の牛越城移転で泉氏が人夫徴発に不満で火を放つhttp://musubu2.sblo.jp/article/99970929.html


posted by 天華 at 21:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係

2022年06月24日

地震と地盤と家の修復 (様々な要素がある家の問題)


地震と地盤と家の修復

(様々な要素がある家の問題)

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地盤が悪いまま放置して建築をした場合、地震が起きた際の危険性については言うまでもありません。
ですが地震が起きなければ大丈夫ということではもちろんありません。
それが不同沈下が起きることがあるからです。
不同沈下とは、住宅が建築された地盤が不均一に沈下する現象のことです。要は家が地盤の脆弱さが原因で微妙に傾いてしまった状態のことです。
住宅が傾くと、窓や扉の開閉に悪影響が出たり、排水がうまく流れないなどの不具合が起きる可能性があります。
また家が傾いていると、住宅の地震への耐久力に悪影響を与えます。
https://ogawakenchiku-inc.com/2017/11/12/jiban-kairyou/


今回の大地震で地盤も関係していた、地盤がしっかりしていれば家も地震に強い
地震に対処するには地盤から始まるともなる、基礎工事として地盤を見て地盤の安定を計る、でも地盤は一つの家だけみても調べても安定しようとしてもできない
今日大工さんがそのことを言っていた、私の家は地盤も関係して沈下しているらしい

そして地盤でもその土地全体がかわり一個の家だけの地盤は良くすることができない
隣と土地はつながっているからだという
だから地盤を良くするにはそもそも全体の土地改造して一様に地盤を強くする土木工事が必要だとなる、それで自分の家だけの地盤を良くすることはできないと言っていた
この辺では新しい住宅地を作った、裏の畑だったところは住宅地になった
その時広い土地が改造されて地盤も全体的に強固にされた、つまりそういう全体の地盤を強くした場所なら地震に強いとなる
それは市なのか県で行い古い地域を移住させたのである、だから無料で土地が与えられ建物を建てられたから得だった
建物自体を移動した家もあった、その家は広い土地になり全体的に地盤も改良したとなると地震には強いものとなった

このことは日本の土地が私有権のために公共としてあった土地でも山でもその私有権が邪魔して公共的なものとして利用できなくなった、入会権だと共同があったが私有権になると山でも無数に個人によって分割されて公共的なものとして利用できなくなったのであるそこで山全体を利用することができなくなった、誰かの土地でありその許可がないとできないからである、極端なのは原発事故では海の前が俺のものだとして補償金をもらおうとしたことなどでもそうである、土地が無数に細分化されたのである
そもそも土地はつながっている海でもそうである、実際は不可分につながっている
だから土地でも山でも海でも細分化して私有できないものなのである
つまり私有になじまないものなのである

ただヨ−ロッパの都市などは土地を計画的に作り街作りをしているからきれいな街並みになる、日本の街が雑然としているのはそういう都市計画がなく作られているから何かただ無際限に増殖したような感覚の街になる、土地の計画的公共的利用がないのである
日本人にはヨ−ロッパのような公共感覚がないのである
ただ碁盤の目のように奈良時代でも平城宮とた平安京を作った、それは中国をまねたのである、それは計画的に作られたものである
だだ城下町とかでも碁盤の目のようになっていても街全体を計画的に作るという意志がない、日本の都市は雑然としているのである、混沌としているのである

それが日本的でいいと見る人もいる、日本の都市には中心がない、ヨ−ロッパの都市には広場があり大聖堂があり中心がある、日本には城下町でも城が中心にあっても一体化していない、その城は街から分離して孤立化している感じなのである
だからそもそもパスポートにシテズンシップが記される、市民共同体としての歴史があり市をアイディンティティとする歴史と文化があったからだとなる
ここが日本人になかなか理解できない、市壁があり市が壁で囲まれている
市を守るための壁で囲まれている、壁の外城壁の外に出ると危険になるのである
日本では城があってもそこで暮らしている庶民は侍とは別物なのである
だから会津で薩長に攻撃されていても庶民は無関心だったのである
かえって税に苦しんでいたからこの際だとしてヤーヤー一揆が農民で起
きたのである
そこにヨ−ロッパの市民社会などないし市民などいないからそうなった

建築という時建築だけが孤立してありえない、社会全体の中で建築が生まれたのである
その時代の社会から生まれたのである、だからその社会を時代を歴史を知らないと建築も芸術を理解できないのである、建築でも芸術でも不可分にその時代の社会と結びついているからである
中世だったら石の大聖堂にバッハのパイプオルガンでレクイムが荘厳に鳴り響いたのである、その時音楽と建築は分離していない一体だったのである
絵でももともと聖堂と一体化してあり部分的に分離していないのである
社会もまた時代的に市民社会があり都市とのアイディンティティが形成されていたのである
これが現代になると絵は絵で音楽は音楽で建築は建築と分離されたのである
ルネサンスもフィレンツの都市社会から生まれたものでありそこに建築と彫刻と絵と音楽でも一体化したものなのである、そこに荘厳なものが現出したのである

ともかく今回の地震の恐怖は今まで経験したもので最大のものだった、東日本大震災の揺れより強かったから相馬市と南相馬市の鹿島区とか福島県の国見町とかが被害が大きかった
相馬市と南相馬市の鹿島区などは未だに屋根瓦の被害があり修復されていないのが多いのである、そして新しい家は被害が少ないが古い家は被害が多かった
私の家は50年過ぎてやはり老朽化していた、見えない所で腐っていたとかある
一番怖かったのはベランダの上支える柱が一本で細いから良く地震で壊れなかったと思い恐怖した、それを強化しなければならないというのは素人でもわかった
そこでまた金がかかるのである、とにかく家は前ら増築とかいろいろ変えてきたから金がかかるのである、だからもう直したくないとなる

建築という時やはり安全が第一となる、古い家は耐震設計がしていないので不安なのである、つまり地盤が強固であることも大事である、建物だけでは地震は防げないのである
何か人間は全体としてある、全体と結合してある、土地でもそうである
それが分離して見ることが危険になる、そもそも地球自体が一つにつながっている
宇宙と地球ともつながっている、それを分割して分離して考えることが危険なのである
地震でも地球はつながっているから世界のどこかの地震でも日本に影響するとなる
スマトラ地震があったとき日本では警戒していなかった
日本がでは地震や津波が多いから逃げられたとか言っていたのである
日本の弱点は海に囲まれていて地球と体力とも分離している感覚になる
だから他国で起きることに以外と無関心なのである、他山の石とすることが苦手なのであるそれで鎖国があり孤立したとようになる

ともかく家というのは様々な要素から成り立っている、地盤とかとなれば地質学が関係して耐震設計とかなると物理的構造問題になる、どれだけ強度をもつか実験もする
家とはまた装飾も関係している、それは美的なものになる
平面的なものではなく角張っているので円い線のような棒をそえたのものそのためである若い人でいろいろな仕事をする人が仙台のデザイン科を出ていたことでもわかる
デザインのセンスも必要になる、つまり芸術家でもあるのだ
そして文系的なものとし私人が書いたように家というのは人間にとって生きる存在意義を持つことにもなる、それは親から家を受け継ぐと親が先祖が死んでも家には生き続けているような感覚になるからである、だから家は単なる箱ではない、そこに人間の心が物に憑くとまでなる、それで廃屋には依然として幽霊としてでも人間が住んでいる感じになるのである

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窓を広くしたので庭の木が映える

角張った縁(へり)を丸味帯びたものにした、この辺の気遣いはこまかい

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この柱は増築した部屋を支えていた、それも一本で細い
ここに重さがかかったとき素人で危険だと見た
でも今回の大地震でも壊れなかった

これが壊れたら家が傾いていた

それで恐怖した、ここは直さないと危険だった
増築した家は何か地震とかには弱い
本体に付け足しているから弱いのである
最初から全体的に耐震設計にしないと地震には弱いのである
私の家は古くなり家全体が沈下しているという
これも問題だがもう直しようがないのである


posted by 天華 at 18:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係

2021年04月22日

人間は急激に起きることに対処できない (認知症、津波、原発事故,コロナウィルスで経験したこと)

                      
人間は急激に起きることに対処できない

(認知症、津波、原発事故,コロナウィルスで経験したこと)


人間は急激に突然起きることに対処できない、また未知なことに対処できない
それが時分に起きた、最初は家族が認知症になったことであり次に津波に原発事故でありそして次はコロナウィルスである
認知症に家族なったとき、何が起きたのか理解できなかった
狂気になったのかと思った時恐怖である、それが最も親しい人に起きたら恐怖でありどう対処していいかわからなくなる
つまり人間は未知なことに対処できないのである
経験しないことに対処できない、でもその時やはり多少でも知識があると役には立つと思った
瞬間的に認知症のことをインタ−ネットで調べた、すると相手が混乱して激情的になっているときまずはお茶を飲ませてとか落ち着かせろと書いてありそれを即実行した
それは正しい方法だった、認知症という病気がどういう病気か知っている人はだからそう言えた、今したことを忘れる、するとここにあったものがなくなっている、その時認知症の人は混乱して怒る、その起る時が普通に怒るのと違っていて怖いのである
何か狂気的になるからだ
だからとにかく落ち着かせろということでお茶をのませたりしろとなっていたのだ
ただそういうことでも急激に起るから対処できないのである

津浪でもそうである、これも急激に起きた、すぐに逃げなければ助からないものだった
でもたいしたことがないと逃げない人は死んだ、それも老人が多かった
老人は津波のことを経験していない、するとこの辺では津波は来ないという確信にもなっていたから余計にすぐに逃げなかったのである
だから老人で死んだ人が多いのである
ただ正直そういう時とっさに対応するのは本当にむずかしい、考える時間すらないからである、一刻を争うからである、議論している暇もないのである
それで大川小学校では子供が裏山に逃げれば助かったのに先生がそうさせなかったから
死んだともされる、子供の方が敏感に反応したということである
そういうとき何か大人も頼りにならない、分別があるとかなる緊急事態では役に立たないむしろ人間的動物的感の方が役に立つともなる

天使がソドムに派遣され、ヤハウェがソドムとゴモラを滅ぼすことを決定したことをロトに伝える。逃げる際に「後ろを振り返ってはいけない」と指示されていたが、妻は後ろを振り返ってしまい、「塩の柱」となってしまった。

ふりかえるな・・とういときふりかえると恐怖して動けなくなっていたかもしれない
津浪でも逃げていてその津波を見たら恐ろしくて動けなくなるようにもなる
それほど恐ろしいものだったからである、ふりかえらないで一目散に逃げる必要かあったのだ、つまりロトの妻は恐怖のあまりその光景を見た結果、塩の柱になってしまったのである、それは何か緊急事態で身動きがとれず凍てついてしまってそうなることがありうるありえない恐怖の光景を見たらそうなる
だからふりえり見てはならなかったのである

とにかく人間は未知なことに急激に起きることに経験しないことに対処するのがむずかしい、だから社会経験がないニートとか引きこもりが親が死んだときどうしていいかもわからなくなり親の死体といつまでもいたとかなる
どう対処していいかわからなくなってそうなる
そういうことはコロナウィルスでも起きている、このウィルスの正体がわからないからだ専門家ですらわからないのである、すると素人がどう対処していいかわからない
指導者だって政府でもどう対処していいかわからないのだ
そこで恐怖を過度にあおる人もでてくるしマスコミではそうである
恐怖をあおるとテレビに釘付けになり視聴率が上がるからである
毎日感染者の数を報告する、それが日課になりその数で一喜一憂する
ただその数字が恐怖する全部ではないが数字に左右される
原発事故の放射線量でも数字で判断していたから同じだった
ただ数字の本当の実体はわからない、中味はわからないが数字が恐怖になる

でも人間は何か緊急に起きることのすべてに対処できない
ただ台風とかの洪水は毎年起きているから川幅を広くした堤防を強化したりすると防げる現実に自分の家は近くの川が氾濫して二回床上浸水になっている
私の家は街で一番低い土地にあったからだ
去年も台風で水が下水からあふれ床下浸水になったからだ
でも河川改修してからは川からは水があふれていないのである
だから安全になったとなる
それでも津波が川をまずさかのぼってきた、それがわからなかった、急なことで何が起きたかわからなかった、でもこれもすぐ下の方で水があふれて流れ出していたのである
だからこれだって怖いものだったがわからなかったのである
そういうときとっさに判断しなければならないから対処できなくなる
逃げようか逃げまいかとか考える時間もないからだ

ともかくこの辺で起きたことはそういうことでとっさに判断できずに判断を誤り失敗したとなる
ただそういうとき導く人がいると命まで助かる
浪江では町長は政府から東電からも指示がないので自分で判断して津島の方に町民を避難させた、そこは一番放射線量が高かった場所だったのである
それで東電の社員がいて街の方に逃げた方がいいとしてそれに従った人がいた
それが正しかったのである
砂漠を旅した日本人の団体で水がなくなり水を求めた、その時経験していた人が水がある所に導いた、それで命拾いしたとある、導く人が正しい方向に導いた結果助かったとなる聖書ではモーゼに従った民は神に導かれて助かったとしている
そういう緊急事態ではみんなで話し合っていても即決で判断しなければ死ぬのだからできない、すると誰かの判断にすぐ従わないと助からないのである

聖書では危機をいかに脱するかを記したものである
大洪水が来ると言ってノワの箱舟で逃れたこともそうである
それは誰も信じないでノワを笑っていたのである
でもこの世には信じられないことが起きるということを経験したのである
第一これまでも戦争で3百万人も死んだということも信じられないことである
だからやはりこれからも信じられないことが起きる
今まで経験しないようなことが起きる、だからいくら備えてもやはり備えがすべて無駄とはならないがそれでも必ずそれだけはたりなくなり死者も増える

それで阿武隈山地でヒッピーの集団がいて獏原人とかいてその人たちは水道も使わない
電気も使わない、半裸とかで生活していた、原発事故では水道もとまり電気もとまった
でもその人たちはそういう原始的生活していたから井戸水を使いとかでしのいだという
でもその井戸水にしても放射性物質に汚染されていたから本当は原発事故には対処できないものだった、それは津浪より恐ろしいものだったともなる
津波の被害ではやはり水道も電気もつかえなくなり裏山の清水を利用して薪とか木材を使い米をたいたりしてしのいだ人たちがいた、それで何週間かしのいで救援を待って助かったとなる

でもこういうことは東京とか大都市ではできない、水道が利用できなかったらもう水はない、確かに貯えがあったとしても限られている、燃料でも電気がない
そしてお手あげになり死ぬことにもなる
不思議なのは文明的便利な生活は意外とこうした自然災害であれ文明的災禍になると弱いことを知った、車だって使えなくなりガソリンがこの辺では入らなくなり利用できなくなる

すると徒歩とか自転車を利用することになる、自転車でも電気がなかったら電動自転車は使えないのである
ただ電動自転車は一応電気がなくても走れるからいいのである
でも自転車による、バッテリーが切れてもそれなりに走るいい自転車もある
一方で電池がきれると急に重くなって走るのが苦しくなるのもある
そうなるとこの両方の備えがなるのがいいとなる、電池がなくなっても一応走れる
それが結局緊急事態の備えだとなる、なぜなら人力で走れるということはそれで最後に逃れられるということである
車はガソリンがなくなったら使えないからである

だから緊急事態に備えるという時、文明の利器だけで備えることではない、かえって原始的と思えるものが役に立つともなる、ところが都会だとそうしたことができない
それでもう壊滅的被害にもなる、一見無駄と思えることが災害に役に立つことがある
大都会でも空き地があるとそこで延焼がくいんとめられる
江戸時代では大火がありそこで延焼をとめるために空き地を作ったからである
まず都会のように密集していたらどうしても延焼を止められないからだ
つまり空き地は無駄だとなるがそれも無用の用があり人間にとって必要なものだったとなる、何かこれは逆説的である
無用と思えるものでも実際は有用になる、そこに人間社会の問題がある
結局何が有用で無用なのかも人間だけでは判断できないからである
そこに人間の限界がある

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2021年03月11日

都会の見えない津波 (人間は見えないと恐怖を感じない)


都会の見えない津波

(人間は見えないと恐怖を感じない)

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八沢浦

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テレビで放送していたけど都会は家が密集しているから津波が来たのが見えないでのわからなかったという、それは多賀城市のことで説明していた
海からと川をさかのぼって津波が襲ってくる
それは八沢浦と大内村の人から聞いた
八沢浦だとすぐ前が海でも津波が来るのが見えて裏山に逃げて助かったという
そんなに近くでも見えたから逃げたのである
大内村の人はそれなりに距離があったがその人も津波が遠くから来るのを見えてからトラックで逃げた、ただそこはすぐ裏山があり逃げればやはり助かった
でもトラックがあったのでそれを守るために逃げたともなる
つまり津波が来てから見えてから逃げて助かった人が結構いる
映像でも津浪が押し寄せて必死に逃げている映像がありそれで山に駆け上って助かった人もいる

今回の指摘は都会だから家が密集して前が見えないから津波が来たのが見えなかった
それが盲点になったのである、石巻の大川小学校でも前は家が密集している、すると津波の来るのが見えないのである、また日頃でも海が見えないと海を感じないのである
それで不思議だったのは私は津波が来る前から何度も海の水がおしよせてそれにのまれる夢を見ていたのである
そこは家がほとんどない田んぼである、それで頭の中で海が身近になっていた
家がないから海が延長しているというふうにも見える
でもそこに家が密集していると海が見えないから海を感じないのである
そして家の間の道が水路となり津波が押し寄せて来た
何か音も感じなかったという
それで自転車に乗っていると後ろから来る車が見えない、ところが音がして気づくのである、もし音がしないと気づかないから横切ったりしたら事故になる

とにかく人間が危機感を感じるのは見えることである、見えないと危機感を感じない
放射線量でもそうである、見えないから危機感を感じない、それで数字で知る意外方法がなかったのである、それでも数字だとまたわからない、放射線が視覚化していれば恐怖を感じる、人間は見えないと危機を感じない、ウィルスでも見えないから危機を感じにくいそのために感染が広がる、見えないから危機を感じにくいのである

また津波は下水道とにも流れてふきだしてきた、小高の駅を越えて津波が来たのかと思った、泥が積まれていたからである、それは下水道を通って津波がマンホールからあふれたためである、鉄道の線路は越えなかったのである
これも気づかないことだが下水道も津浪では危険だとなる

とにかく津波は見えてからでも必死に逃げれば助かることがあった
ただ都会だとまず家にさえぎられて見えない、そして逃げるのもどこに逃げていいかわからなくなる、家が密集しているからである、だから近くの高い建物に逃げろというのはわかる、だから都会の家が密集していること自体危険なのである
火事でも危険なのである、またウィルスでも過剰に人が密集している都会は危険なことがわかった、つまり人が過剰に密集して暮らしている社会は実際は危険なのである
それは生物にとって不自然だともなるからだ
そのために災害に弱いのである、一千万の都会とかなると何か見ているだけで感覚的に怖いとなる、高層ビルが倒れたらどうなるのだろうかとかイメージするからである
津浪が襲ったら地下街は危険である、でも見えないからとっさに逃げることができなくなる、そこは閉ざされた世界だからである

いづれにしろ見える見えないということは人間にとって重要である
それが生死を分けることにもなる、だから家が密集していることは災害に弱いのである
津浪でもそういう災害に対処できないのである
もともと家が密集していることが人が多すぎることが原因になっているからだ
ウィルスでも人が密集していることで防げないのである
一千万人とかが密集していることで防げない、どうしても感染が広まるからである
田舎だと近くで一人コロナウィルスの感染者が出たというだけど恐怖を感じる
それで危機を感じて対処する、でも大都会だとそういう危機を感じにくい
あれだけの人がいて交わらないということはありえないからだ、それで防ぎようがないのである、そもそもデスタンスをとることができないからだ
田舎だったら日ごろから家でも離れていてデスタンスをとっている
大都会だとそれができないのだから防ぎようがないのである


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2021年02月14日

今回の地震は被害が少なかったので安心? (今年はやはり災難の年になる、世界的にも大きな変化が起きる)


今回の地震は被害が少なかったので安心?

(今年はやはり災難の年になる、世界的にも大きな変化が起きる)


【地震警戒】2021年は地震頻発する1年なので世界各地で要警戒と備蓄と防災!   

東日本震災から10年にもなり大きな地震の来る予兆 (雲とか虹の変化と地震予測ー暑さが影響したことは確か


2月3日から2月13日頃に時読みのyoutubeで大きなことを起きると言っていた
自分の場合は去年に地震が起きると予兆していた
ただ2月に起きる、それも10日くらいしかずれがないということは当たったと言える

ただ今回回りを見ても瓦が落ちたとかない、畑のヤハな小屋も壊れていなかった
意外と被害がないなと回りをみて回った
ただ家の内部では棚から物が落ちたとか倒れたとかあった
とにかく強い地震では立っていられないからすぐに逃げることができない
それにしても揺れは東日本大震災と同等に感じた
あの時も本がばらばらと落ちた、私の家の瓦屋根が壊れて直した
そして壁にひび割れが入ったり家の内部が歪んだようになりまだ修理していない
今回はそこまでの被害はなかった
でも感覚的には同等の被害があってもいいくらいだった

大きな余震が来るという時、確実に十年以内には来るというのは言われていた
それが丁度十年過ぎて本当に大きな余震が来た
ただ津波にならなかったのは深度が深いからであった
それで海水に影響しなかったのである

私も去年から地震が来る予兆をしていた、それは余震は過去の例からも確実に来ているからだ、それがぴったりと十年過ぎて襲ってきた
それも福島県沖が震源地だったのである
だからつくづく福島県の浜通りに原発を作ったことは大失敗だったのである
もちろん日本に原発を作ること自体失敗だった
これだけ地震があるのに原発を作るというのは無謀だったともなる
でも原発を再稼働しろとか右でも言っているのは理解できない
それは原発を核兵器を使う燃料として保持するためだとしている
核武装するためにそうしているとしている

ともかく天災は忘れた頃にやってくる、それは確実である
地震でも喉元すぎれば熱さ忘れるになる、人間は忘れやすいのである
コロナウィルスとかでも過去に疫病は常に起こっていたけど忘れていたのである
ただ東日本震災から十年目の節目で起きたことでまたあの災難を思い出したのである
今や地元でもあの災難の関心が薄れている、コロナウィルス一色になったからである
それで復興がどうなったかとか外部になると余計に関心がなくなっている
その無関心さが危険につながる

今回は大きな地震でも被害がすくなくてすんだ、津波も来なかった
でも深度6となるとこれは怖いと思った
もっと被害があっても不思議ではない、でもこの辺ではなかった
なんか春を迎えて浮かれる気分にもなれなくなった
それでもこれも喉元すぎれは熱さ忘れるとなる
日本人は何かこれだけ地震とか災害があるのに忘れやすい民族なのである

それにしてもなぜこんなに災害がつづくのか?

これはどう考えればいいのか?自分の一身上でも災害続きなのである


家族が認知症になる

津波で原発事故

親の介護で苦しむ

自分が病気になる

盗難にあう

コロナウィルス渦

こうして災難がつづくのはなぜだろうとなる
その他にも自分には災難が災いがつづいているのである
駅でボランティアしていたら駅長から回りから責められるだけだった
そしてコロナウィルスで鉄道も被害を受けた、今はコロナウィルスで駅に来た人と話すこともできない、こも何なのだろうとなる
この他にも隣の市の自転車屋に行ったらお前は来るなといわれたりコンビニではパン二個盗んだとして責められたりずっと何かいいことがないのである
だからここに住めなくなるとさえ思う
現実に原発では故郷に住めなくなったからだ、何かこの辺は本当に呪われた地域なのか?もう脱出しないと命が危ないのかともまで危惧する

何か自分一身上だけではない、社会全体でも世界全体でも実は大きな異変が起きている
これは何かの前兆なのか?コロナウィルスもそうである
これから経済的破綻とか株の暴落とか飢饉が来るというのもそうである
飢饉にならなくても食料危機が来るというのも現実化するかもしれない
神が人間の心をみてみな悪しきものであるとして大洪水を起こしてノアの箱舟が作って助かった                                                                  

そのことは何を意味しているのか、大災難に備えることだとなる
箱舟となるともうその時代にそんな大きな船が作れるのかという疑問になる
それはおそらく比喩なのかもしれない
津浪でも実際はこれで大丈夫だとした防潮堤でも破壊されたからである
つまり大災害に備えるにはもしかしたら荒唐無稽のようなものでも作られねばならないとなる、ノワの箱舟はそれを物語っているのかもしれない
災害は結局予想外のものとして常に起きているからである
これで備えが十分だとしても結局その備えを越えたものとして容赦なく襲ってくる
ノアの箱舟でもそんなものを作って何になるんだと笑われるようなものでも備えていろと神が命じたのである
原発だったら二重三重に安全を計らないければできないものだった
でもなんの安全も計っていなかったのだから人間は危険に無防備なのである

今年がどうなるのか?予想はつかない、でも今回の地震もまた暗雲になる
ただ東日本大震災を思い出すものにはなった
とにかく地元でも忘れる、いろいろ語っても何か関心がなくなったのである
それでも依然として原発避難区域では田畑が草ぼうぼうであり荒れ果てている
なんら復興していないのである、その現実の中で生きていれば原発事故からなんら復興していないのである、だからオリッピックなどで騒ぐのを中止させられたのは天罰だったともなる、そんなことより復興に力をそそげともなるからだ

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怖かった地震ー東日本震災と同等だった

怖かった地震ー東日本震災と同等だった

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この地震は怖かった、下の本箱が倒れた、本が散らばった
パソコンとテレビが倒れた、狭い部屋の方だった
安定していない棚でありそれが一部壊れた
ただ感覚的に東日本大震災を思い出した
その時は二階にいた、今回は下にいた
この地震の大きさは相当なものである、家が倒れ壊れとも感じた

パソコンは机の下に落ちて倒れた、その後ろのテレビが倒れてその上にのった
でもパソコンは壊れなかった、落ちても低いから助かったとなる
これが高い机から落ちたら壊れていた
そしてすぐに停電した、でもそれは瞬間的でありすぐに回復した
これは余震もあるかもしれない

23時53分・・・また揺れた

これでは今日は眠れなくなる

福島の原発が心配だ、これは何か影響がある、相当な揺れだったからだ
youtubeの時読みというのが2月3日から何か大きなことが起きるというのは当たったのかもしれない、何か本当にこの辺で起きることは不安になる
呪われているという感じにもなるからだ
なぜ原発をまた再開するいうのもどういうことなのか理解できない
これくらいの地震が来たら確実に原発が壊れる
女川の原発は停止していたから良かったのである
丸森町では停電している

今日はあたたかく春だった、でも何かその雰囲気が消失した、この地震は恐怖だった
どうしてもこの辺が狙い撃ちされている感じになる
10年後でもあれだけの地震だったから余震がつづいているのだ


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2020年11月24日

津浪は時間軸で見ない結果被害が大きくなった (人間は時間軸で積み上げるもの歴史が大事)


津浪は時間軸で見ない結果被害が大きくなった

(人間は時間軸で積み上げるもの歴史が大事)


空間軸と時間軸でこの世界は構成されている、時間軸で見ることが人間は苦手である
例えば磯部は津波で村自体が消失するような大被害だった、220人くらい死んだから多かった、他でも村自体が消失するような被害があった

ではなぜそうなったのか?

それは磯部とは松川浦の砂州に家が密集したのである、もともとは砂州であった
つまり時間軸で見ればそこは砂州だったのである
おそらく田んぼにする後ろの地域には家が建てられなかった、場所をとるから海岸の砂州に家を密集させた
日本がでは土地が狭いから危険な場所でも家を建てざるをえないのである

そもそも八沢浦でも明治以降に職を失った侍は開拓した場所だった、そこは海だったのである、入江だったのである、だから津波で本当に江戸時代の入江にもどったことに驚嘆した、こんなことがありえるのかという驚きである
比較的家が少ないからごちゃごちゃしたものではなく入江となったのである

ただここでも湊村が40軒ほど海岸線にあった消失した
これも別に漁業するのではないから海岸線に家が集中したのか解せない
海老村が古いからその延長としてそこから移り住んだとなるのか?
たた八沢浦ではそこが一番被害があった、後は被害があっても家が集中した場所はなく
散在していた、だからそれほどに被害がなかったのである

そして大失敗だったのは海老の断崖の上が高いとして津波の避難場所に市で指定していたそこに避難して30名が死んだのである
すぐ近くの百メートルも50メートルでも歩いて逃げれば助かる場所があった
そこを避難場所として指定したのは時間軸でのその土地をのことを見なかったということにあった
第一津波の記憶となるとないに等しいかったからである
津波の記録がこの辺では抜け落ちていたのである
それで津波の後に「生波(いくなみ)で700人溺死という記録が相馬藩政期で発見したのである

つまり時間軸でもの歴史の記録が抜け落ちていたのである、では何か記録できないかというとそうでもない、とにかく戦(いくさ)のことは事細かく記されているからだ
その時の関心は戦国時代であり相馬氏がこの一体を支配することが優先課題だったからである
だから700人溺死としか記されないのは記すのは相馬氏の役人でありそれが戦争の記録より重要ではないということで二行しか記されなかったのである
庶民には記録として残す力もなかったとなる、何か碑を建てるにしても金がかかるからである、それだけの被害があったとき何か記録として残す財力も知力もなかったということである

時間軸でみるというとき地史になると億の年月をみる、それだけ長い年月で地球は変化する、そうなるとその時間軸で見るのはさらに困難になる
でももともとそこがどういう地形なのか知ることから時間軸で見ることになる
それは今回の津浪で海だった所は海に戻ったとういことでもわかる
塩崎の方が低いから船着辺りまで海になった、そこは古代に本当に船が着く場所だったのである、だから地名というのはそれだけ化石のように古いとういことである
それは地史の記録としてあるともなる

ともかく時間軸で見れないという時、不可解なのは磯部の佐藤氏一族が支配していた
でも高潮の被害があり今の相馬の道の駅の鬼越館に移った
そしてその後に大きな慶長津波が起きたのである
ただその記録は何もないからわからない、でもなぜ移ったのかというのが解せない、危険を感じたことはわかる
そもそも磯部とは海岸に接してあるのだから危険を感じたともなる
鬼越館なら津波とは無縁である、でも津波でも近くまでも来ていたのである

そしてもう一つ松川浦にあった諏訪神社である、それも慶長津波の前に今ある所に移動している、そこに津波で流された船がひっかかったとかの伝説がある
そんな奥に船が流されたのか?ただ小泉川があるから津浪は川をまず上ってくるから船でも津波に流されたことはありうる
でもなぜ慶長津浪の前に諏訪神社が移動したのも謎なのである

なぜそうなるかとなる人間は時間軸で起こることを明確に記録しない
そして奇妙なことは江戸時代の年号あるとする、すると時代順にも見れないおかしなことになる
それは明治時代と大正時代と昭和は区別する、でも江戸時代の年号だといろいろあって時間の順序を間違うのである、人間はその時代時代を生きる、明治に生きた人と江戸時代に生きた人はまるで違った環境で生きていたのである
でも時間がすぎるとそういうことすら不確かになる

人間個人でも人間が形成されるのは時間軸である、老人になってもそれまで時間軸で生きた経過がある、そして青春時代がみんなありここで基礎が作られ方向が決まる
だから十代から二十代は人生で一番大事な時だったとふりかえる
そしての時代は永遠に帰ってこないのである

時間軸で作れるたものがわかりにくい、消失しやすい、親でも死んでしまうと何か抽象的存在になる、でも親が作った家があるからその家に住んでいると親が残してくれた家があるとういことで家を通じて親を思い出す、つまり何か歴史で残された物を通じて過去の歴史を時間軸で残したもの自覚するとなる
それで結局古代とかなると縄文時代とかなると文書もなにも残っていないからその人たちが残した物で時代をみる、縄文土器とかかそうである
そこで何かあったのか記録もないのだからそうなる
そういう時代になると時間軸で見ることは至難になるのである

津浪は周期的ち3,400年に一回とか大きな津波がくる、でもその前に時間軸としてその記録がないのである、記録が消失しているのである
その記録が記憶でも失われたことが大被害に通じていたのである
過去の記憶でも記録でも失いやすいのである、津波でも十年すぎると一昔であり何か関心が地元でもなくなる、次々に新たなことが起こり関心がなくなる
常に今に追われているのが人間だからである
そこに人間の弱点があり天災は忘れた頃にやってくるとなる、台風だったら毎年来るから忘れることはない、でも津波となると三百然とか400年になるとそうなってしまうのである     




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磯部の高台の墓地は残った、墓地は高台にあり残るのが多い
佐藤氏の墓が多いのもわかる

諏訪神社御祭神・・・建御名多方神   八重事代主神

奥相志によると、神護景三年(769)信濃の諏訪より宇多郡尾浜村一二ケ所に勧請しましたが、天文七年(1538)四月一九日に黒木に遷座しました。

築城年代は定かではないが永禄6年(1563年)頃に佐藤伊勢好信によって築かれたと云われる。佐藤氏は源義経の家臣佐藤忠信・継信兄弟の後裔を称し、好信ははじめ岩城氏の家臣であったが、後に相馬顕胤・盛胤に仕えて軍奉行を務めた。天文11年(1542年)伊達輝宗との合戦の功により磯部・日下石など宇多郡の内六ヶ村を領しはじめ磯部館(佐藤伊勢館)に居を構えた。しかし、海水による浸食が激しく鬼越館を築いて居を移したという

1611年に慶長津波があった、でも諏訪神社は1538年に黒木に移っている

佐藤氏は1563年に磯部から鬼越館に移っている

70年とか50年とかのあとに慶長津波が来ている、でもなぜ移ったのかその理由がわからない、ただ佐藤氏は高潮のためだと明確に記している
この二つが慶長津波の前に移動している
それで慶長津波の被害はなかった、でも磯部にしろ慶長津波の記録は一切なのである
ただ諏訪神社に津波で船が流されてきたという伝説がある
小泉川を津波がさかのぼるにしてもかなり奥なのである
なぜそうした伝説が生まれたのか謎だとなる
つまりここでも時間軸で記録されるものが少なすぎるから不明になる
それで歴史がわからなくなるのである

posted by 天華 at 20:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係

2020年10月31日

十年一昔 (津波も原発事故も忘れられる?)


十年一昔

(津波も原発事故も忘れられる?)


何か私のプログのアクセスが半分くらいに減った、訪問者はさほど変わらないが記事が読まれなくなった
一か月に十万ページビューくらいあった、二つ分がありダブルからわからないが津波と原発記事が読まれたことが間違えない
それらが減ったということは想像できる
俳句とか短歌とか思想哲学とか文学とか宗教とるとそもそも読む人が限られているからだ
たニュースとかなると読むし読まれないと意味がない、それで常にニュースは読まれる
また大衆向けのものはyoutubeでも見られるとなる、それはテレビと同じになっているだ
ただそれも一時的であり飽きられる、継続的な価値あるものはその人が死んでからも読まれる
つりその時々のアクセス数とかとは関係ないとなる
作品にしても後世に残るようなものはかえって今の時代には読まれないことがあるからだ
その価値を判定することができないことがあるからだ
でも非常に難解なせのでも評価されるようなっているものがある
だか数だけを求めるとそれもはかなく消えてしまう

とかく内部ですら何か関心がなくなってきている、津波のことを今も放送している
それを語っていたとしても何か見ない、もう飽きたとかもなる
それだけ十年過ぎると関心がなくなる
第一津波の時に生まれた人は十歳になっているしまた津波以後に生活を変えた移住した人もそうなる
だから津波でも原発事故でも他所に移住した人は子供でも故郷の意識がなくなる
移り住んだ場所が第二の故郷だとなってしまう

十年一昔というのは本当にそうだと思う、あれだけのことでもそうなってしまう
内部ですらそうだとしたら外部ではさらにそうであり関心がなくなっている
新しいことが起きてコロナウィルスとか起きて忘れられてゆく
関心が常に変わっているからだ
ただ原発事故はまだ廃炉事業とか具体的に被害がつづいているので関心がある
でも津波に関しては何か忘れてゆく、関心がなくなってきている

ともかく人間ほど忘れやすいものはない、死んだ時点から人は休息に肉体も消失するからその存在もあいまいとなり忘れられる
そんな人いたのかとなるのが普通である、その人が存在したかどうかすらわからなくなる死者は死者から何か働きかけることがない、生者が働きかけない限り死者は存在しないともなるからだ、死者は何か自ら主張することがないからだ

いづれにしろ人間でも70過ぎるともうすでに半分はあの世に移っている
この世にいたとしてもこの世はただ消え去る場所になる
そして次々に身近な人でも死んでゆく、無常を感じることが多くなる
つくづくさよならだけが人生だというのを実感する
この世で逢うということは別れることであり二度と逢わないことである
そして自分の場合は性格もあるが何かもう一度会いたいという人もいない
ただ家族は長く一緒に暮らしていたから会いたいとなるが他は逢いたいという人がいないのである
だいだい人間は金の切れ目が縁の切れ目である、今は特にその傾向が強い
人間のつながりとか共同体とかが喪失しているからそうなる

ただ津波で家族を失った人はまだ忘れられないということがある
それでも十年過ぎるとだんだんあきらめがついて何か遠い存在となってしまう
つまりどうしても歳月がそうさせてしまうのである
家族が死んでもそうである、むしろ今いる人が現実であり関心の対象になり死者のことは忘れやすいのである
だから無数の人間は死んで忘れられるだけだとなる

第一過去に無数の人間が死んでも百年も過ぎて覚えられる人がどれくらいいるのか?
それはわずかであり歴史的人物くらいである、一般の庶民は名も残さず消えてゆくだけである
もうそんな人が生きていたのかどうかもわからなくなる
十年一昔は本当に感じた、人間のことは十年が区切りで昔になってしまうということである、昔が何々があったとか語ることになってしまうのである
ただ原発事故は今も被害が継続していしトリチウムの海への放出とか問題になり関心がつづいている、でも津波のことは忘れられる
ただ個々には忘れられても歴史的災害としては記録されて語られるとはなる

posted by 天華 at 08:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係

2020年09月12日

震災後、宮城県亘理町の干潟「鳥の海」「名取」などに定着したマツカワウラカワザンショウ (津波を知らせなかった地元のマスコミの責任)


震災後、宮城県亘理町の干潟「鳥の海」「名取」などに定着したマツカワウラカワザンショウ

(津波を知らせなかった地元のマスコミの責任)

カワザンショウガイ

本州〜九州,南西諸島
分布(国内)
朝鮮半島南部

ホッキ(北寄)貝の正式名称は、ウバガイ(姥貝)ですが、一般的にはホッキ貝の名で広く知れ渡っています。

その名前はアイヌ語に由来すると言われ、漢字の「ホッキ貝」は当て字といわれています。名前の由来は、北海道などで採れる「北に寄った」貝であるためホッキ貝と言われたという説もあります。

北方系の貝はどれも灰色ぽくて色彩には乏しいのですが、独特な形の物が多く魅力的です
「ウバガイ」はもとは福島から銚子当たりまでの呼び名。貝殻が薄汚れて見え、姥(老婆)を思わせるため。

「ウバガイ」はもとは福島から銚子当たりまでの呼び名。貝殻が薄汚れて見え、姥(老婆)を思わせるため。

自然しらべ2012「貝がらさがし!」 みえてきたこと


松川浦というとき太平洋岸に東京から仙台辺りまででもない、まず浦とか入江がない
だから松川浦は貴重であった、そして南相馬市の鹿島区の八沢浦が本当に江戸時代の裏にもどったときほど驚いたことない、この辺ではあのような入江がなかった
その浦も相当に奥に入った大きな浦だったのだ
それで港があり船が入ってきて物資が運ばれていたのである、入江は港となりやすいのである、小高でも津波が来た駅前まで広い入江でありそこに鎌倉時代から港が物資が入ってきてまた船で運ばれていたのである
そういう昔の状態が津波で再現された、例えば塩ア(しおのさき)に船着という地名がありそこは奥まった地域でももともと入江であり港となっていたからそういう地名がついたそして津波でその近くまで鉄道を越えて津波が来たことにも驚いた
あそこは土地が低いからあのように奥まで津波が来たのである

津浪で名取の海岸に新しく干潟が生まれた、そこに様々な生物が生息するようになった
そこにマツカワウラカワザンショウガイが50キロ離れて移動していたのである
津浪で生物が海を通じて移動していた、これも大きな自然の作用である
津浪で自然も大きく変化した、海はそもそも遠くまで生物でも移動しやすい

例えば南限の地として南相馬市の鹿島区の海老浜は有名だった、そのことを何度も古代史で述べてきた、ここが本当に不思議だけで天気予報を見ると温度でも天候でも境界になっていたのである、まずマルハシャリンバイでも奄美大島から種が流れて来ても温度に植物は作用されるから生育しない、それで原町区の・・・スダシイ神社がありスダシイは南方系の木であり照葉樹林帯の南限の地としてこの辺があった
つまり植物でも生物でも気候に左右される、だから最近温暖化で南方系の植物とか貝でも移動しているとなる
その南限の地として境界線としてみちのくの真野の草原(かやはら)の万葉集の歌が南相馬市の鹿島区に残された

でもこの草原(かやはら)は萱のことではなく地名だという説を私は述べた
何か詩的イメージ化するとみちのくにふさわしいとなるが実際は南方系として大和朝廷の支配地域に組み入れられた境界の地として歌われたのである
その歴史的境界として歌われたものが生態系としての境界と一致していたのである
だから草原(かやはら)はまぎらわしいのだけど地名説が有力だとなる
ただなぜみちのくー真野ー草原とすると真野郷が古代郷名で一致してもさらに草原が地名だとするとそんな狭い範囲が奈良で特に知られたということが疑問になる
でもそこが港だとかするとそれで知られたのかとなる
            
また不思議なのはカワザンショウガイの分布地域である

本州〜九州,南西諸島                              
分布(国内)
朝鮮半島南部

南方系として朝鮮半島の古代の伽耶国とかに分布していたとなる
そのことは古代史で述べた、伽耶国との関連として草原(伽耶国)述べた
何かこうして自然環境とか植物の分布とか生物の分布からも歴史は追求される 

ホッキ(北寄)貝とは姥貝のことであり漁業関係者はホッキ貝と呼んでいた、それは北に寄る貝という意味でありまたアイヌ語から来たともしている
この辺ではホッキ飯(メシ)は有名だった、津波以降は北海道の方から仕入れて作っていた
姥貝は関東まで呼ばれて共通している、ということはその辺は一つの文化圏を形成していたとなる                  

津浪では津波の被害が大きかった太平洋岸が一つの地域としてつながりある地域として見るようになった、松川浦から鳥の海から名取の海からさらに仙台湾から石巻までもまた
岩手県の宮古とか三陸までも津波を共有する場となったのである
だから相馬地域で津波が400年も来ないから津浪は来ない地域としたことが大問題だったのである、海も陸もつながっている、境界がない、だから人為的に境界を作ることはできなかったのである 
磯部の寄木神社の由来も石巻から事情があって移り住んだ人が先祖になっているのもそうである

宮城県の海岸はすぐ隣だからである、そこが郷土史でも見落とされていた
宮城県の海岸に津波の伝承が多い、だから津波が来るとして警告していた市井の学者がいて本を出して警告していたが受け入れられなかったのである
ただ小名浜の原発は当時の副社長が10メートルの高さだったのを5メートル高くした結果辛うじて助かった、それは三陸だと津波は明治時代にも来ていたから危機感をもったからである、それは伝説だけではない、すぐ近くに津波で甚大な被害を受けていたから違っていたのである

そして東電は東京電力であり相馬地域は離れている、それでも科学者は十数メートルの津波が来ると警告していた、そのことを知っている人はこの辺でも専門以外の人は関心もなかった、ますマスコミは福島県でも東電から宣伝費とかもらうから忖度して何も知らせないとなっていた
福島民報は県の出資が50パーセントだから県と国のいいなりなのである
もしこの十数メートルの津波が来るということを大々的に警告して知らせていたらかなりの命が救われたということもあった
だから報道は大事なものである、原発事故になったのも報道がその役割を果たさなかったからである 

郷土史とは地域研究とかは何か重要ではない、好事家のすることであり趣味だともなっていた、でも意外と津波や原発事故で命にかかわることがあると認識されたのである
危険を知らせるとか命にかかわることがある、それは原発事故でもそうである
そういう役割を地域のマスコミでも担っていた、でも全くそういう役割りは果たさなかった、それは全国規模のマスコミでも莫大な宣伝費をもらっていたため原発の危険を言わなかったのである、知らせなかったのである

ただ一番その当事者のそこに住んでいる人たちがあまりにも金になるからと受け入れたことも問題だった、積極的に経済的問題を優先して誘致したからである
ただ誰に責任があったかとなると戦争と同じでむずかしくなる
ただ上に立つ人は権限があり権限をもたない人には責任がないともなる
上に立つ人は決定できるからである、本当は津波の被害を受けない高台に原発を作る予定だった、でもコスト面とか不便だからとわざわざ土盛したのを削ったのである

それを決めたのは誰なのか?

それが問題なのである、そうして決めることができる権限をもったのは誰なのか?
何も権限がないものに責任はないのである
マスコミだってテレビ局だって大きな権限を与えられていた、六局しかテレビ放送できない権限を与えられていたがただ宣伝費をもらうから危険を警告していなかったのである
そして検察でも海上保安上でも上の人は天下りしていた
特権階級は東電に天下りして何ら責任もとらないのである
原発事故では誰一人上の人は責任をとっていないのである
ただ必ず戦争でも今回の原発事故でも責任をとらされる、故郷に住めなくなったとか関連死が実際は思った以上が多いとかなった

いづれにしろ震災から十年もたつのに復興はない、津波の被害地は宮城県などでは名取などは復興している、でも原発事故の避難区域などは何ら復興していないのである
それだけの甚大な被害だったということである

posted by 天華 at 10:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係

2020年09月08日

東日本震災から10年にもなり大きな地震の来る予兆 (雲とか虹の変化と地震予測ー暑さが影響したことは確か)


東日本震災から10年にもなり大きな地震の来る予兆

(雲とか虹の変化と地震予測ー暑さが影響したことは確か)


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この虹が不安?

他でも何か虹がいろいろ出たとかある、でもこれは株虹ではない、根元の虹ではない
これは夕暮れにかかった虹である
別に前にも見たからこの虹が不吉だとはならないだろう



椋平廣吉

そういえば、と石野博士はこの期に及んでようやくその名を思い出した。

これは前年の夏、避暑目的で訪れていた京都の天橋立で出会った青年の名だ。青年は27か28歳ほどの小男で、自身をして『地震研究家』を名乗った。
本人の主張によれば、10年を越える観察の結果、天橋立のある宮津湾に架かる虹から地震が予知できることがわかったという。
  

精査の結果、的中率25%が妥当だとしても、時間と場所を指定した上での予知ならば、それはそれで驚異的な的中率と言える。


【株虹は地震のしるし(四国各地)】とか諺がある 



今日見た虹は虹の切れ端でありどうも他でも虹がかなり見られたようである
その虹が半端な虹が何かの予兆なのか?
虹を観察して地震研究して当てたということは何かやはりあるのか?

地震は実際は予知できない、でも東日本震災の前の歳の月の夏は異常に暑かった
その時夏の雲が雲の峰がいろいろな形に大きく変化していた
それは例年とは違って雲が異様だったのである、そのことを報告したことがある
2011年ころからその前の年くらいから日本は異常に暑くなっていたのである
この暑さが地下にも海にも影響しないことはない
また天体でも影響するだろう
今年も暑くなった、それがすでに東日本震災から10年となる時何か危険な予兆なのか?

1616.9.9(元和2年7月28日)
仙台:M=7.0
仙台城の石垣・櫓破損。

慶長地震は1611である、その五年後に起きている
この東日本震災の余震はつづいているという、大規模な地殻変動が起きて地震が起きやすいとしている だから10年は節目でありまた大きな地震が起きる予兆が出るのかもしれない
ただ地震は予兆できないのだから勝手に脅かすなとはなる

●天候と関係している、太平洋の海の温度が高くなっている

●雲とか虹も天候と関係している

太平洋の海水の温度が高くなると台風も発生しやすいことは確かである

とにかく最近の天候とか地震の多さはやはり大きな地震の前兆なのだろうか?
私は震災前の年の夏が異様に暑く雲がいろいろな形に変化するのを見ていたことを覚えている、それは例年にないものだった、今年も暑いがあんなに雲が変化していない
確かに雲の峰を見たがこんなものではあの時はなかった
だから地震雲とかなにか雲とも関係して虹の切れ端が出たので不気味だとも見た

でも予兆は不可能である、ただ震災と津波を経験したのもとして確かにその前の年は異常に暑かった、雲が異様に変化したのである
虹でもあんな虹が出るのもめずらしい、根元に出る半端な株虹は地震を予兆するという言い伝えがあるという、その根拠もわからない
でも何か天候と関係しているので不気味にもなる
やはり震災から10年目というので何か大きな地震がまた来るということを恐れる

そしてコロナウィルスでもそうである、何か2020年には大きなことが変化が起きるとみんな言っていたので本当だった、さらに大きな地震が起きたらみんなの予感があたっとなるそれは一人だけではない、みんながそういう変化があり何か大きなことが起きると予測していたのである、そううい節目の年として見ていたのである
ただそれがコロナウィルスだということは誰一人あてていないのである
だから人間はつくづく未来は予測できないのである

地震科学者も予測できない、いろいろ研究してもあくまでもたまたま運よく当たったというくらいだろう、すると素人とたいして変わりないのである
株ならチャートを見ると株の指標になる、でも地震はまだいろいろなことがわからないのである
ただ予感として東日本震災から10年というのは節目であり大きなことが起きると不安にはなる
これは脅しているわけではない、何かみんながそういうふうに見ているのである
変わり目の年だと2020年は見ている、コロナウィルスでその変化が起きたのだからその予測は当たったともなるのである



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2010年08月08日⇒2011-3月(東日本大震災)
躍動する夏の雲

震災前の夏の雲は異様だった、形を変えて空に縦横に形を変えた
そして私はその雲にみとれていたのである
ただその時あのような大災害になるとは予想もしなかったのである
まず人間は予想することが一番難しい
それは今回のコロナウィルスでもそうである、誰一人として予測した人がいなかったからである

そしてそれぞれの人生でも将来でも未来でもどう展開するかわからないのだ
そうしてたいがい意外な結果に終わっているのが人生でもある
一人の人生も予測できない、ましてやそれ以上長い先は予測できない
震災の津波もコロナウィルスも予測できなかったのである

ただ70年であれその間を生きて経験するものがある
そういうことから後々の人に役立つことはある、それで地震でも津波でも備えるということはありうる、だから記録しておくことは大事なのである
それが思わぬことで後世の人に役立つことがあるかもしれないからだ

この辺では慶長津波(2011)の記録はわずか二行だった、生波(いくなみ)で700人溺死と相馬藩政史に記録されていただけである
それがどれほど貴重な記録だったのかとなる、なぜなら一切その他に記録がないからである、それだけ400年前となると記録されたことがどれほど大事になるかという証明であったのだ



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2020年07月21日

水害で塗炭の苦しみにある中国南部 中国メディアは「美しさ」を報道 八沢浦が元の美しい入江に戻った!(これと同じ報道)




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「中国政府がhayoulake1.jpgをを決壊させた」映像が公開され 大騒ぎに
                                            
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八陽湖は琵琶湖の6倍

湖の表面積は、季節により146km2から3,210km平方メートルまで変動し、長江の水流を調節する役目を果たす。

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岳陽樓に登る<杜甫>

昔聞く 洞庭の水
今上る 岳陽樓
呉楚 東南にさけ
乾坤 日夜浮かぶ
親朋 一字無く
老病 孤舟有り
戎馬 關山の北
軒に憑って 涕泗流る


春秋戦国時代の呉と楚 呉は今の江蘇省のうち揚子江以南の地 楚は今の湖南・湖北両省の地

7月から9月にかけて長江から大量の水が流れ込み、湖の面積が広がる。通常期の湖の面積は2,820km2(琵琶湖の約4倍)だが、長江から膨大な量の水と堆積物の流入によって増水期は20,000km2(関東平野や四国よりも広い面積)にも及ぶ広さになるという。 


中国で起きている揚子江の大洪水を中国のテレビで国営放送で美しいと報道した
これに民衆が怒っている
でも何か不思議なのは自分自身が同じようなことをしていた
八沢浦が美しい入江に戻ったと津波のことで写真で紹介した
それで顰蹙をかった、なぜならその時、入江になったところに家も浮いていたし
死んだ人もいたからである、赤ん坊が泥に埋もれて捜索して掘り出したとかあった
ただそこは家が密集していないから本当に入江のようになった
たいがい津波はどろどろの泥に埋もれたような光景になっていた
ここだけは違ってきれいな波に朝日がさしてし波がきらめいて打ち寄せていた
それが奇跡のように美しかったのである
この辺は荒い波しか打ち寄せない、入江がないからだ、松川浦だけである
それでいつもここが元の入江にもどったらどれほど美しかったろうなと見ていたが
それが津波で元の入江にもどったときほど驚いたことはなかったのである

それと同じことが今回の揚子江の長江の洪水で起きていた
八陽湖は琵琶湖の6倍、洞庭湖は4倍、太古は3倍である
こうした湖の大きさはイメージできない、ただ太古には行ったことがある
海のように水平線になる、感覚的には三倍とかいっても相当に広い
なぜなら琵琶湖三個分あるからだ、それが6個分あるとすると滋賀県全体が湖になってしまう

琵琶湖は滋賀県の面積のたった六分の一(1/6)である

びったり滋賀県が湖になる計算である
ただもともと琵琶湖広かったからそのときなら5分の1くらいになっていた
大陸とか中国となるとそのスケールが想像を越えているからそこが一番理解しにくくなる国が2つに分かれるくらいのことがこうした洪水でも現実に起きたのである
その時ただ愕然としているだけである
それがただ美しいとして報道するのは自分もしたことである
他に住む人はそんなふうにしか見ないのである
自分自身がすぐ近くでも津波の被害がないからそうだったからである
ただその光景を実際に見れば驚嘆するほかないとなる

ここでは津波の後にも湿地帯化して沼がいくつも生れた、それも結構広い沼が生れた
それも美しいと見た、日本では海岸地帯は元の自然にもどると釧路湿原のようになる
それは美しい光景だったのである
だから自然というのは想像を越えたものでありそこに美も生れていたのである

そしてここで起きたことと同じことを政府が言っていた

chinakousuiend.jpg
 
一万年に一回しか洪水は起こらないから千年に一回から百年に一回に訂正した

原発でも御用学者が百万年に一回しか事故は起こらないと数学者が確率論で計算していた
でも400年前にも大津波が来ていたのだからそんなことありえなかったのである
今回のコロナウィルスでも40万人が死ぬとか学者が国民を脅した
何か専門家は場違いなことを言う
ただ政府がまた報道でこんなことを言っているのは日本ではありえない
でも人間は外国でも人間であるかぎり同じようなことが起きるとこのテレビを見た
ただ中国とかなるとそのスケールが違うので理解しにくいのである

ともかく地球大変動の時代が来ている、それはやはり神からの何からの働きがあるとしか思えないのである






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2020年06月13日

右田の松原の写真を一枚加える


右田の松原の写真を一枚加える


matubaramigi22222.jpg

matubaramigita111.jpg

の写真とにているようで違っている

この写真をみると奥深くまで松がある

それだけここは松が多かったのである

でも一本もなくなった、思い出すのは写真だけである

あの松原は故郷の心にしみこんだ光景となっていたのである

でもあれは自然のものではなかった、作られた森だったのである

なぜなら松だけの森はないからである

森にはいろいろな木があって森になっているからだ

だから杉の森も木材にするために人工林にした森である

もともとはブナとかがあったが木材に適していないので切ったのである

もし自然の森だったらもしかしたら残る木があったかもしれない、松だったら根こそぎなくなった



写真を整理していた、前に出した写真とも思ったが見てみたら違うようである
ただアップしてとったもので同じものなのか?
厚ぼったい菊であり野路菊のようでありこういうのはめずらしい
野菊は咲くけどこれは浜に咲いていたのだろう

野路菊や松の幹太く根付くかな

右田の松原が全部消えた、今はソーラーパネルになったし風力発電の風車となった
だから何か右田の松原を偲ぶものがない、一本松も消えた
とにかくあそこに松原があったということも時間がたてばもう津波から十年すぎている
すると十歳くらいの子供だった人は覚えているからもしれない
でもだんだん覚えている人も少なくなってゆく
それは津波のきおくでもそうである、家族が死んだりした人はなかなか忘れられない
ただ人間の記憶は本当に消えてゆく
そんなところにいたのかということすら定かでもなくなる

それで外国旅行の写真は貴重だった、なぜなら外国旅行は10年くらい過ぎる思い出すことがむずかしくなる
すると確かに自分の行った場所だったと写真で思い出すのである
ただその時デジカメがなかったから写真の数が少なすぎるのである
だから貴重だともなる、それでも映りが悪いなとみる
今のデジカメの方が格段に映りがいい、なにかボケたようにしか映っていないのである

これからは写真で膨大な記録が残される時代である、だからどうしてもいい写真をとりたいと思うようなった、でもカメラもいろいろありレンズもいろいろでありめんどうだし金もかかる、それで将来に未来に残すものとして写真に記録しておく
それが郷土史にもなる
私の撮った写真はやはり貴重な記録だったとなる
でも数が少なすぎたし写真の記録としては物足りないものだった
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2020年06月09日

磯部村の寄木神社の謎(津波の伝説を調べる)


磯部村の寄木神社の謎(津波の伝説を調べる)

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磯部村の寄木神社の石段



今から300百年程前の江戸時代に、浅羽海岸を中心に大津波がおき、海岸周辺の集落は大打撃を受けました。この地方の殿様から、町の人たちを助けるよう命じられた役人が、海岸(現・浅羽町中新田)を歩いていると、神々しい光を放つ木像の観音様が打ち上げられているのを見つけ、拾って帰りました。


ゆめごこちのまま、海岸に流れついた木(こ)っぱの山を見つめていると、その上に、おさないわが子の無事(ぶじ)な姿(すがた)があったのです。そして、その木っぱの下には、一ぴきの大きな亀(かめ)が死んでいました。子どもとともに流されたつまが、亀になってわが子を助けたのでしょう。いつもつまや子どもをだいじにし、いっしょうけんめい仕事にはげむ青年の願(ねが)いを、神様がきいてくださったのでしょう。
 青年は亀をていねいにほうむり、そこに一本の松(まつ)を植えました。

 亀の松(袋井市)これも浅羽海岸の津波の伝説


この神社の名称となっている「寄木」とは、海の彼方に実在すると考えられていた常世(天国・浄土)から、神仏の依代(よりしろ)として流れ着いた霊木のことである。太平洋沿岸には漂着した寄木を祀る神社が特に多く見られる


熱海(あたみ)来宮の七月十六日の例祭に、古来行われていた鹿島踊の記録は、かなり精密なものが『民俗芸術』三の八に報告せられている。附近の幾つかの村のも是に準拠したものか、歌の詞ことばなどは互いによく似ており、俚謡集に出ている次の安房郡ものも大同小異である。


ちはやふる神々をいさめなれば
みろく踊のめでたし
まことやら熱海の浦に
みろく御舟が着いたとよ
ともへには伊勢いせと春日かすがの
中なかは鹿島かしまのおん社やしろ 云々

海上の道 柳田国男


磯部の寄木神社の由来は全国にも共通している、海に囲まれた日本だからこういう物語が生まれた、物語でもそれは実用的なものがあり空想から生まれたのではない
つまり歴史でも伝説でも事実があり人間が生きて経験したことから語られる
全くの空想など小説にもない、そこには何かしら必ず経験されたことが伝えられている

海となると海にまつわるものがあり海彦山彦の物語が生まれる、それは綿津見神社と山津見神社がありそこから安曇族が全国に海を通じて渡ってきて未開の地を開いた物語がある相馬地域に本当に綿津見神社と山津見神社が多いのかそのことが神社として残っていてもそれにまつわる伝承がないのも不思議である
伝説とか伝承とかが歴史の前にある、歴史は文書化するとそれに頼る、その前に伝説と伝承が口碑として伝えられた、それを掘り起こしたのが柳田国男だった

まず寄木神社の由来は海の寄り物がありそれが由来である、木でも海岸に流れ着く
去年の洪水では海岸に木が多く流れ着いたことには驚いた
川からも木は海岸にながれつく、するとその木を炊きものとして燃料として利用する
海にはまたいろいろなものが漂着する、人間すら漂着する
つまり海から來るものが日本に多いのは当然なのである、海に囲まれているから当然そうなり、海のかなたに理想の国がニイラカナがあるという弥勒信仰が起きる

だから寄木から弥勒菩薩が現れてそれが神社の基として祀られるのも自然だとなる
海から福と富がもたらされる、海を伝って異人でも中国からでも韓国からでも渡ってくるからである
そして日本ではその入り口として津が大事だった、津(つ)とはつづく、つづる、つたえるとかなりきづなは木綱であり何か海から流れてくるものによって絆が結ばれていた
木と綱だということもそうした漂流物と関係して生まれた言葉なのかともなる
つなはつなぐにも通じるからである、海は外と内を結ぶものとしてあった

それで津波のことを津(つ)になったのは津波はつづいて波が押し寄せるからだともしている、つはつづくだからである
この検索で注目したのが津波が遠羽海岸に木像の観音様が打ち上げられたという伝説である
するとここでは津波の伝説が語られていたとなる、確かに津波があったこととして伝えられている
この辺でこれだけの大きな津波がありそのことを探求して来た 
でも不思議なのは400年前に慶長津波があり大きな被害があった
でもその記録は相馬藩政期に二行だけ700人溺死と記されていただけだった
それも津波の後にやっと発見された記録だったのである
伝承は確かに相馬市の鹿島区の境の八沢浦の延長の柚木村に急ぎ坂とか念仏に関係する伝承が残っている、あそこに残ったのは八沢浦の奥ということで残った
そこまで津波が来ても大きな被害にはならなかった、津波は村を全滅させる
するとそこには伝承でも伝説すら残らない、海老千軒あったとするとあそこは弥生時代の遺構も発掘されたり最近古墳が二つも発見されたから古い場所だった
ただ鹿島区に何一つ津波の伝承は残されていない、原町区でも他でもそうである
これもなぜなのだろうと探求しても結局わからないのである

だからここに一応伝説で大津波が来たということはやはり大きな意味がある

相馬市磯部地区では約2000人の住民のうち、251人が大津波の犠牲になった。
市全体の死者・行方不明者458人の半数を超える。

その村は壊滅して今はソーラーパネルが敷き詰められてその面影を偲ぶものはなにもないそこに家があったということもわからなくなった、それは海老浜でも右田浜でも烏アでも萱浜でもどこでもそうである、家があった痕跡するなくなる
だから津波は本当に恐ろしいものであったのだ、それで津波で壊滅した村の伝説は残らないというのはそれをう伝える人も死んだからだとなる
ただ津波でも助かった人たちがその周辺で伝説を残したとなる

津浪から十年すぎて一昔になるとしてもまだまだこの辺ではその傷痕が消えない
それだけの大きな被害だった、ただ八沢浦とかは田が回復したとか復興はしている
でも犠牲者が余りに多すぎたことでその死者は還ってこないのだからそのことでまだまだ忘れるとはならない、家族を失った人たちはやはり忘れられないとなる

とにかく磯部村に残ったのは寄木神社だけであり海岸の磯部村は消滅したのである
ただ古磯部ともありもともとは海岸地帯の磯部村は後からできた
もともとは高台に住んでいたのだろう、なぜなら家が密集していたところは砂州だったからである、古い場所は高台にある、日本では平地は湿地帯になっているからである
それで古い神社はたいがい高台にある
八沢浦でも熊野神社がある所は海から近くても高台にありそこで津波が来て必死にその後ろの山の高台に逃げて助かった人がいた
かなり海に近いのに助かったのは前に丘があったからである、それで津波の勢いがそがれたのである

そして八沢浦は明治になって干拓された場所でありそれで平地にあった妙見の社は消失した、それは新しいものだったからである
神社とか寺は古いから高い所に作ったのである
烏崎の津神社ももともとあそこの平地にはなかった、別な所から移されたのである
そこも湿地帯だったからである、烏崎の方が最初の漁場でありその河口の方はあとから生活の場となり港ができたからである
烏崎で最も不思議だったのは高台にあった八幡神社が津波からぎりぎりで助かったということである、それはまさにぎりぎりの高さにあったことの不思議だった
それも古い神社はたいがい高い場所に作るから助かったのである

日本がにはこれだけ津波の被害かある国だった、でもこの辺では津波の伝承とか伝説がなかった、それで400年間忘れられていたのである
それで此の辺ては津波が来ないとして逃げずに死んだ人もいる
むしろ老人が頑固で逃げずに死んだ
これは何を語るのか?それは人間の時間の感覚が短いからである
いくら人生百年としても百年である、400年前となるともう誰も知らない伝える者すらいなくなっていたのである
それでも他では津波のことが語られている、相馬地域ではほとんど語られていなかったからなぜなのかとなる


寄木神社の由来  

  合祀稲荷神社 寄木神社 
  
平氏没落後志摩国磯部に身を隠した落武者辰
之丞一行は間もなく陸奥国石巻に下り寺島氏
を称して世を忍ぶ辰之丞を船頭として漁師とな
つたが 海面を混濁する北上川の氾濫に度々漁撈
を妨げられ 遂に適地を求めて宇多郡大竹荘磯部
の里に移つたと伝えられる
辰之丞より六代程過ぎ寺島三郎通称与五作が或
日海に漁して一古木を得これを海中へ捨てたが三度
も網にかかったので砂浜に放置したところ 其夜海
浜一帯に怪光を輝かし与五作には夢に寄木大神の託
宣があつた
与五作はこの古木を箱に納め藁菰に被い祠に安置
して寄木大明神と崇め奉ったと伝えられ 時に
暦応二年(一三三九)秋七月であったという 次い
て与五作は神官となり市大夫と称して寄木大神
に奉仕し 黒木城主黒木正光が神田若干を寄せ
たと伝えられ また四代の神官寺島大之進の応永
二十二年(一四一五)三月には時の黒木城主が信託
によつて社殿を建て神田三反余歩を寄附したと
いう
永享の末頃寺島家は元の漁師に復し神官は絶
えたが後 佐藤好信が相馬氏に仕えて磯部城に拠
り祈願所として開山した海蔵寺が別当を勤めた
と伝えられる 天正十三年(一五八五)の建立を伝え
られた社殿は昭和九年(一九三四)旧正月十二日の類
火に焼失したが 畏くも御神体は災禍を免かれ
同年社殿が再建された
天永元年(一一一〇)上之台に祀られたと伝えられる
稲荷神祠は大永元年(一五二一)ここに合祀された
と伝えられ祭神宇賀御魂神と称し奉る
 昭和六十年十月吉日」

 海面を混濁する北上川の氾濫に度々漁撈
を妨げられ 遂に適地を求めて宇多郡大竹荘磯部
の里に移つたと伝えられる

これも災害があってこの地に移った、そしてまた津波の災害にあって磯部村は壊滅した
つまり日本がいかに自然災害が多い国でありそれが伝説にも物語にもなるのが当然である実際に津波にあって石巻からか故郷の丸森に移りそこで今度は水害にあった女性もいた
これはその逆の話しだったのである

posted by 天華 at 10:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係

2020年03月27日

津浪で流された右田のキャンプ場の松林の写真


津浪で流された右田のキャンプ場の松林の写真


松林夕日のさして冬の草ここに長くも松のありしも

matubaramigita1122.jpg


migitahouse11.jpg

これも季節がわからないのだ
でも蔵が二つあり松が一本あり記録されていた
ここを通っていつも右田の松原に行っていたからだ

白壁に松影写す冬の家

migitamatu.jpg


十数年前の私のホームページを見ていたらこの写真がでてきた
そこは右田の松原の河口にある松林だった
そこはキャンプ場になっていて河口がありいい場所だった
それはすべてなくなった、川は残っているけどその他はすべてなくなった

するとこの写真は貴重だと思った、他にも貴重な写真が残っていた
なぜ貴重なのかというときもう右田の松原は見れなくなったからである
だからもっと写真が他の人でもとっていれば貴重になる
ただその時やっとデジタルカメラが出て来た時でありそんなに写真をとっていないだろう普通のカメラだと現像とかあり写真が気軽にとれなかったからだ

何か冬の草として俳句も残していた
それを短歌に変えた
俳句も季語がありその時々の記録なのである
もし写真だけみてもこれが冬だということがわからないことがあるからだ
だから本当は記録がふりかえるとつくづく大事だったなと思う
旅に行っても何十年も過ぎる忘れるから思い出せなくなるからだ
写真をみると思い出すからである

現代はとにかく写真で記録する時代である
ただ写真だけでもたりない、やはり文字でも記録しておくと後から回想できる
この辺は余りにも変わりすぎたのである
その変化が信じられないものだった
でもこうしてその時々のことを書いていると記録しているとそれが後で役にたつことがある
それは私が死んでもこうしてプログでもホームページでも記録として残ると当時のことがわかるということがある
ただ写真だけからはわかりにくいことがある

でも明治維新の西郷とか名だたる人が写した写真は貴重である
それはイメージとは全然違っている、西郷隆盛でもいかつい怖い顔である
鬼気迫る顔をみんなしていた
だからみんなその時命がけで生きていたからあのような顔になった
だから過去はイメージしてしいるものと違うのである

ともかく津波から原発事故から9年過ぎた、そうなるとだんだん忘れられてゆく
まず右田の松原を全く知らない人がすでに子供でも多数になる
だからこんな松原あったのかとイメージしようもなくなったのである
松を植えても成長したとしても前の松原とは全く違ったものになるからである

このインタ−ネット通信の怖いのは一瞬にして記録でも消えることである
そういうことを経験しているから怖い、だからバックアップが必要なのだがこれもめんどうなのである
でもさくらのレンタルサーバーでは一回だけプログが消えたがあとはない
他でぱ消えたと報告されている、さくらのレンタルサーバーではバックアップしていたから回復した
つまりバックアップがインタ−ネット利用するには不可欠なのである
ここが不備だと本当に危険になる
さくらのサーバーは北海道に記録する建物がありそれで安全なのかと思う
とにかく記録が残っていたのでそれをプログに今回出した
posted by 天華 at 10:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係

2020年02月11日

海上保安庁で津波の遺体捜索 (南相馬市鹿島区右田沖に報道陣来る)


海上保安庁で津波の遺体捜索

(南相馬市鹿島区右田沖に報道陣来る)

宮城海上保安部 MIYAGI COAST GUARD OFFICE 
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小舟は二艘でていた

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setumaikkk33.jpg
報道陣に説明

右田で人が集まっていたので何だろうと行ったら海上保安庁で遺体の捜索を潜水してするという、それで報道陣がつめかけていた
高知さんさんテレビとか遠くからも来ていた
あとは南相馬市の復興企画課の人と警察の人も来ていた

まず犠牲になった人に献花して捜索が始まった
二艘の小舟から潜水が始まった
結果的は何も発見されなかった
他では二体発見されたという
津浪から9年もたてばもう海の中だと見つからないだろう
何か儀式のようにしてやっているのかとも見る
ただ右田でおじいさんを亡くした人が来ていて取材されていた
その人は偶然に津波の時出かけていていないので助かった
おじいさんは残っていて死んだのである

右田の海岸沿いより離れた地域で死んだ人が多いのはなぜったのか?
おそらく海から離れていたので津波は来ないと思っていて逃げなかったのか?
つまり海外地帯から離れていると津波を経験していないから危機感を感じなかったのかもしれない。
ただ右田の人で海老村に逃げて九死に一生を得た人がいた
海老は高いしその崖の上が避難所に指定されていんたからである
そこで30人くらい死んだのである、それが大失敗だったのである
海老だったらどこにでも近くに歩いて逃げれば助かった
それも10メートルで歩いて逃げれば助かったからだ
津浪は鹿島小学校の前まできてその近くでも床上浸水でひどめいにあった人を知ってる
それだけ津波は離れていても浅くても被害が大きくなるのである

海上保安庁の人が水深のことを言っていた、9メートルを潜水するという
それで津波と水深のことを聞いたら水深が深いところと浅いところがある
浅い所は色が違って波がたつ、水深が深い所から浅い所に変わると津波も大きくなるとか言っていた
海老は陸から見ると右田などよりずっと高いからそこが避難所指定されたのである
でも海から見ると水深の関係で津波がおしよせたのである
第一水深を陸から見ている人はいないからである

とにかく津波から9年も過ぎるとどうしても遺体を遺骨でも見つけることは不可能に近い
何か儀式のようにしているともなる
ただまだまだ津波というのはそのメカニズムでも何でもわかっていないのである

報道陣が来ていたが報道するとき本当に津波とかでもその土地の地理とかがわからない
すると何か必ず報道は誤解して伝えられる
何か起きるとはtake placeなのである、場所と密接に関係している
その場所については地元でいなとわからない
テレビの小さい画面でぱ伝えることができないのである
それでテレビの報道は真実でないというとき根本的にその場所のことを伝えられないからである、一部を切り取った映像であり全体を把握することは不可能だからである

いづれにしろまだまだ津波についても原発事故についても解明されないことが多い
9年過ぎるし3月11日がまためぐってくるので遺体捜索が行われたとなる 

冬の海轟く波に鴎飛ぶ海上保安庁の船の進みぬ

津浪より9年過ぎて冬の海くぐりて探す遺体なるかも

みちのくの冬の海かなその底にくぐりて見なむ亡き人の影



今日は午後二時からまた同じ場所で潜水捜索があります!



津波の伝わる速さと高さ

ここの説明がわかりやすい、深い所か浅い所へ津波が高く大きくなってゆく
海老浜の被害が大きかったのは突き出た岬のようになっていたからなのか?
この説明ではそういうことも考えられる
とにかく津波は海岸地帯からできるだけ離れることであり高い所に逃げることである
tunamideath11.JPG


北海老南海老で69名死んだとして避難所に指定された場所で30人も死んだ、約半数が死んだのである
右田の人もそこに逃げて森の中に入って助かったのである
そこは高いと思い避難したのである





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2019年11月27日

郷土史研究で失敗したこと (広域的連携が計れなかった―津波でも隣の宮城県と一体だった)


郷土史研究で失敗したこと

(広域的連携が計れなかった―津波でも隣の宮城県と一体だった)

地理的に県を見ると不自然なのである、相馬藩と伊達藩が争ったから歴史的境界として
区切られた、それは自然地理の境界ではなかった
自然地理の地勢の境界とは原始状態で定められたものだった
山があればどうしてもさえぎられるから自然境界となる
阿武隈高原はどうしても中通りとさえぎられるのである
福島県では中通りからは海が見えないのである
逆に浜通りからは吾妻山とかは見えないのである
そうして阿武隈高原で隔てられている影響が思った以上大きいのである
どうしても見えないのだか日常的に地理的一体感がもてないのである

それで南相馬市の片倉のフラワーランドから牡鹿半島と金華山が見えたとき南相馬市からも見えるから一体感を感じたのである
今回津波で大きな被害があったところは地理的に海から見ると一体の場所だったのであるだからこそ津波を知るということで共有する地理にあった
それで宮城県では実際に津波が来るということを警告していた先生がいた
津浪を警戒しろと本も出していたが受け入れられなかった

宮城県がより津波に警戒していたのは岩手県となると三陸だと明治にも一万人とか死ぬ津波があったからである、それは百年前とかであり400年前とかではない
そういうことで警戒していた、でも慶長津波は400年前のことであり警戒していても真剣には警戒しなかったとなる
それでも小名浜で東北電力の副社長だったか10メートルの高さに原発を作ったが津波が来るとして15メートルにした結果すれすれで助かったのである
これも被害があり間一髪で助かったとなる
東北電力だから地元だから津浪に対する危機感があった
それも岩沼の方まで津波が来たという伝説を聞いていてそうしたとされる

そもそも今になると巨大津波は三陸方面に明治にあったとしてそのすぐ近くに接近している石巻などが警戒していなかったというのもなぜだったのだろうとなる
東北電力で15メートルの津波が来るということで15メートルの高台に原発を作った
そうしたら石巻でも警戒してもいいはずだったのである
海に面してあれほど民家が密集していた、日和山の前がそうだった
あれをみて通った時何か不安を感じたのはやはり一つの人間的感だったのだろう
なぜならそこは道があるだけでその前に海岸も砂浜もない、すぐに海になっていたからである
この何もないことが危険だったのである
四倉では広い砂浜がありそれが緩衝地帯になり波をゆるめてそれほどの被害にならなかったからだ
緩衝地帯として砂浜もなにもなくすぐ海に面して家が密集していたのである
ただ松原などがあったらまた松原が根こそぎ流されるから大きな被害になったのは同じである

とにかく宮城県の地形は山はあまりなく海に面している地形である
岩手県でも海に面していても山も多い、区堺がありあそこは標高が高い、そこから盛岡に向かう、海に面している地域より山の国である
それは福島県でも中通りと会津は山の国である、ただ明かに宮城県と福島県の浜通りは海を通じて地理的に一体だったのである
そこで郷土史でも宮城県との連携が必要だった
伊達藩には慶長津浪の記録が残っていた、するとすぐ隣の福島県の浜通りでも津波に関心をもつべきだった
でも宮城県と福島県は別の県として区切られるから自然地理から郷土史でも郷土学でも見なくなる、それはあくまでも人間の歴史であり人工的な境であり自然の境ではないのである
だから自然災害では今の県とか行政単位で区切ることはできない、宮城県と福島県とは別だと思考していたら自然災害には対処できないのである

浜通りと宮城県は地理的には海を通じて一体であった
だからもっと津波に関心をもつべきだったとなる
宮城県では学者でもそれなりに津波に関心をもっていたのである
だからこそ女川原発でも津波を警戒して15メートルの高さに建てたのである
他でも津波を警告する本を出した人が実際に県とかにその危険性を言っていたが受け入れられなかったのである
それで学者が若林の辺りは津波が来るから危険だと警告したら土地の値段が下がると不動産業者から怒られたとかしている
ただ学者でも津波のことを警戒していたとなる

福島県では県全体でも津波に警戒していなかった
相馬藩政期で「生波で700人溺死」という記録は今回の津波の後に発見されたのであるそれまではそれすら知っている人はいなかったのである

それはなぜなのか?

宮城県と福島県と分かれていることにも原因があった
福島県単位と宮城県単位で区切って思考するからである
今回の洪水でも阿武隈川があるとしてそれを区切って見ることはできない
川は一つのものとしてつづいているものだからである
だから自然を市町村単位とか県単位で区切ることにも問題があった
それでは自然災害に対処できないからである
自然は大きな全体だからである

とにかく宮城県は海に面した国である、海洋県だともなる、だから伊達政宗が船を作り
メキシコ回りでヨ−ロッパまで行ったというのもそのためである
海への思考が働く藩であり県だったのである
海を毎日見ていれば海の向こう側は何かとか海を渡る思考が生まれる
それだけの船を作れたことも驚きである
宣教師が来て船作りとか地理でも教えられたことでそれが契機となり太平洋を渡ったともなる、戦国時代はそういう時代でもあった
それは伊達政宗が徳川幕府と対抗するとかのためでもあったとか言われる
それは明治維新になり会津がプロイセンと同盟を計り薩摩長州と戦おうとしたことと通じている、そういうグローバルな発想は山国の会津にもあった
だから東北が必ずしも閉ざされていたとはならないのである  
いづれにしろ伊達政宗の発想はグロ−バルであり雄大であり東北人ではないというときそうなる
東北ではそういう大きな発想ができない、内に閉じこもる性格があるからだ
それで宮城県人は東北人ではないといのはそのためである、海洋的性格が養われていたのである
東北は後は山国的性格だからである

日本一の水揚げを誇る宮城のホヤ。
 しかし、福島第一原発の事故後、最大の輸出先だった韓国が輸入禁止措置を続けている。安全性には全く問題がなく、日本は禁輸措置の解除を求めてWTO(世界貿易機関)に提訴したが、今年4月、最終審でまさかの逆転敗訴。生産地には不安と失望が広がった。

 原発事故でも宮城県と福島県に別々のものではなかった
宮城県で放射能被害があった、海の汚染では共通していた、でも福島県の漁業組合は新地までであり賠償は福島県までである、特に福島県の新地までの漁業組合の補償は手厚いのである、だからそこで宮城県の漁業者は不満になっているだろう
なぜなら漁業組合でも福島県と宮城県では一方は手厚く一方はゼロに近いとなっているからだ、ただそのことでも福島県の漁業組合は責められる
内部でもなぜ漁業組合だけがこんなに補償が手厚いのかとなっていたからである
原発は福島県だけの問題ではない、その被害は広範囲に広がるから宮城県の問題でもあった
結局海でも陸地でも実際はつながっている、でも行政上分けざるを得ない
すると地理的にも分断して見てしまうのである、津波では常に宮城県の方をとかを見ていなければならなかったのである






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2019年09月16日

神和(かんなぎ)神から荒ぶる神と化した海 (津波は神の祟りなのかー海への祭りが消失していた)


神和(かんなぎ)神から荒ぶる神と化した海

(津波は神の祟りなのかー海への祭りが消失していた)

●古来の祭りの消失がまねいた災厄

その起源は古神道などの日本の民間信仰にもあり、古くは神和ぎ(かんなぎ)といい「そこに宿る魂や命が、荒ぶる神にならぬよう」にと祈ることであり

「政り」については、日本は古代からの信仰や社会である、いわゆる古神道おいて、祭祀を司る者(まつり)と政治を司る者(まつり)は、同じ意味であり


相馬市史がインタ−ネット上にあった、これは有益である
そこに相馬地方の漁業のことが出ている
人間と自然とのかかわりは祭りとしてあった
また祀りは死者と交わる祀りでもあった、その二つが混交してあった
そして祭りは政り事であり政治だった
天皇とは日本の祭を担う祭祀を司る祭司だったのである
今ではもそれは継続されている、これだけ自然災害が多いから自然を和らげる神和(かんなぎ)を祈らなければならない、また戦没者の霊でもなだめねばならない

だから政治とはこうした祭りと分離されたがそれでこの世の中がすべてうまくいったのかとならなかった
戦争の場合は祭政一致となり天皇が神となり御真影とかなり戦争に利用された
天皇はまた軍神として祭り上げられてきた歴史も日本だったのである
それで南北朝時代は天皇が二人になり国の隅々まで二分されて争うことになったのである
おそらくしかし日本の天皇はもともと自然と関係してまつりごとを行う司祭だったのである、それはこれだけの災害がある日本だから当然だとなる
日本には本当に防災省が必要なのである

例えばなぜ津波の災害がもたらされたのか?これほど恐ろしい災いがもたらされたのか?それを考える時科学的に津波が来るものでありそれは神の祟りとかではないとなる
でもその災害があまりにも大きくその被害もこれだけ大きいと何か理性的に見れなくなるあらゆることを科学的解き明かしそれで納得するのが現代である
科学万能主義に陥っているのが現代である、それに逆らうものは科学を否定するものは現代人ではないとなる
だから祭りは消失したのである、日本では祭の数が多い、それだけ日本は自然に対する対処の仕方が違っていた、自然に対する畏敬が強い国だったのである

ただ世界的にも祭りが多い、その祭りは犠牲という言葉が牛であり牛を殺す動物を殺して神に捧げることが祭りとなる、豚を殺したり羊を殺すことが祭りでありそれが宗教の起源になる
つまり外国の場合は人間の代わりに動物を殺して犠牲にして神の許しをこうていたのである
だからその動物を殺される血を流すことを見ているから悪いことをしたとき罪の意識が深くなるのである、俺のために代わりに動物が血を流して死んだとなるからそうなる
それが植物になると野菜とかなるとそうした強い罪の意識は感じないのである
なぜかそうしてカインは野菜をささげて呪われたのである、動物をささげたアベルは神に喜ばれたのである
外国では神という時、万物が神なのではなく一神教的な神である
それは人格を持っている神でもあるから人間に近いとなる

ただそういう相違があるにしろ神へに対する畏れをもっていたことは共通している
科学時代にならない前は異常なほどそうして自然を畏れた結果として祭りが多かったのである、それが科学時代になったときそうした自然は科学で解き明かせるものとして科学信仰にまでなった、そして祭りは消えたとなる
ところがこうした民俗学的なものは科学からみると一段劣ったものであり祭りは継承されたとしても昔のように真剣に祈ったりしない
漁場だって今は機械で探したり海からの航行の目印となった山でも今は機械で地図を見ているから頼りにしていない、機械万能となっているから祭りは現実には漁師であれみんな真剣に祈るということはないのである

●科学を万能として神とする危険

ただなぜ津波が起こり原発事故が起きたのか?
その原因を追及してきたがそれがすべて科学として解明できない
むしろ人間は自然と折り合うとき祭りが生じたがそれがなくなった
それが何か災いをもたたらしたのだともみるようになった
例えば動物でも殺して食べる時どうしても何か神に祈り食べることを許してくださいとかなる、心情的にそうしないと食べられない、その命はやはり神から与えらたものでありそれで許しをこうのである 

今はそういうことはない、まるで物のように動物でも扱われなる、それが象徴されているのは鶏が工場で生産されるようになって鶏は卵を産む機械にされていることでもわかる
それで確かに玉子は安くなったのだがそこに経済合理性とかばかり追求していると何か神を冒涜しているということで人間に跳ね返ってくる怖さがある
つまり鶏でも動物でもそういうふうに扱うことは人間もそう扱われようになる
それがナチスとかの大量殺りくであり現代文明はなぜこれほど大量に人間が殺戮された時代なのか?
それは文明自体がもう人間は工場で大量生産する奴隷にロボットにされていると同じだったからだともなる
自然と文明とかかわるものはない、自然はただ材料であり森でもなんでもそこに祭りもなにもなく介入してゆく、それが機械が巨大化しているから容易に森も破壊されてゆく
そうしてグロ−バル経済になると世界の自然がブルドザーのように遠慮もなく容赦なく自然に入り込んで破壊するのである
もし森に神が住んでいるからとか畏れるとしたらそうはならない

まず文明は自然を畏れない、畏れるのは給料をもらえなくなることである
その給料を握っているのは多国籍大企業だとかなるのである
だからその命令の方が怖いのである
でももともと小規模で村単位とかで自然と関わっていたときは自然を畏れ敬っていた
それはどこでも同じだったのである

そもそもなぜ漁師が原発に東電に漁業権を売り渡したのか?
それは漁業では金にならないというのもわかる
跡継ぎいないとかもわかる、それは農業でも同じである
でもよくよく考えると海は漁師のものだ、漁業組合のものだというときだから東電に漁業権を売ってもいいとかならないだろう
経済的にはそれで事故前も多額の補償金をもらん原発御殿を建て事故後も継続的に補償されるから同じように立派な家を真っ先に建てた
これは何なのだろうと今になると思う

それは結局科学万能時代となり科学者が神のようになったからではないか?
科学者は神官であり原発は神なのである、だから海までその神殿なる原発に捧げて神官に従い漁業権を売り渡したのである
現代は漁師だけではない、科学万能社会であり科学者が神官であれ聖職者なのである
だから自然を畏れた祭りはただ形式的に継続されているだけでありそこに命は通っていないのである

原発事故は神を自然を畏れない祭りが消失したから起きた

そうも言えるのである、祭りは実利に合わないものだとなり軽んじられてきた
それをしていても豊漁とは関係ない、機械で漁場を探すことの方が重んじられてきたのである、そういう科学万能主義になったとき原発でも金になるからいいものだとなったのである、だが原発は科学は何か神への自然への畏れを欠くものを内在していたからこそ火を盗んだプロメテウスの神話が生まれたのである
結局エネルギーとは神から盗むものだったのである
火もそうだったし武田邦彦氏が言うように水力発電もそうだしソーラーパネルも風力発電も自然エネルギーだというけど違っていた
必ず神からエネルギーを盗んでいるから自然ではありえないのである
そこに必ず自然を破壊する作用がある、風力発電でも自然の風を奪うから辺りに何か自然の破壊がある、それは詳しく知りたければ調べられる
科学技術には必ず自然を破壊するものでありその業(カルマ)から逃れることができないそこで今回のような大災害の事故が起きたのである  

●グロ−バル経済の危険、国々の風土や歴史文化を無視するから

その他グロ−バル経済が危険だとして警告されるのは一見いいように見える
でも人間の生業はもともと自然と深く結びついて行われてきた長い歴史がある
その国の自然と深く結びついて行われてきたのである
だから風土から離れて技術もありえないのである
中東の砂漠では風が吹いているから風車が発明されたとか日本だと山が多いからトンネル技術が発達したとかある
それで今回の原発事故でアメリカの指導のもとに原発を導入したことが致命傷になったのである
なぜなら日本には日本の風土がありそれで古来から成り立つものがあったからである

アメリカでは竜巻があるから電源を地下に置いた、それで日本がでもアメリカの指示なのか地下に置いて津波で使えなくなった
高台に原発を作る予定がそれをわざわざ削って低くして津波の被害にあった

アメリカでは竜巻を重視した

日本では地震と津波を重視して造るべきだった

つまり外国と風土も歴史も違うのだから同じにしてはならないのである
数学の公式のようには世界はならないのである
だから風土とか地理があって国々がありその国に適した国造りが望まれる
グロ−バル経済の問題はその国々の風土とか文化を無視するから問題なのである

民俗学だと例えばクジラをとる漁民が海岸にいる、でもクジラをとれたとき山の民にそのクジラをもって祭リをしてもらう、山の民はクジラを食べることができる
海岸に住む者と山に住む者がそこで和合する
それもまた祭りなのである、グロ−バル経済ではそういうことは無視される
経済の前にそういう祭りがあったのである、人と人を結びつけるものがクジラを通じてあった、それは今の経済原理とは違っている
まず風土があり人がありそれを結びつけるものとてしクジラがあった
そのクジラにしても海からとれるのだから漁師は海へ祈りクジラをとっていた
それでクジラが大型船でとられるようになったときそれも破壊された
それがグロ−バル化した大企業のやり方なのである
そうして海から今度はクジラがいなくなるということにまでなり保護しなければならないとかなったのである

グロ−バル経済も国々の風土や歴史や文化を破壊するから問題なのである
もちろん国々の貿易を全部否定はできない、双方利するものがある
でもその国々の自然とか風土とか文化を無視して経済合理性だけを追求するグロ−バル化は危険なのである
ただそこでもうかればいいとか金があればいいとかが危険になる
現実に漁業権を東電に売り渡した漁業組合のことをみてもわかる
つまり海でも森でも大地でも川でも多国籍大企業に売り渡されてしまうということであるアマゾンが火事になって危機になってるのもそうである
地球の自然が文明によって破壊されてゆくのは世界共通なのである 

●アマゾン火災も人間の業から起きた、焼畑も農業も自然を破壊してきた

アマゾンでは、木材用に加えて、大豆畑や牛の放牧地を作るために、大量の木が伐採されている。手っ取り早く開拓するために、森を焼き払うことも少なくない。アマゾンの森林火災は、大半がこのように人間が火をつけ、その後制御不能に陥ったものなのだ。

アマゾン森林火災、原因は「過剰な伐採」と専門家

「ボルソナロは嫌いだけど、森林だけあってどうやって暮らせばいいんだ」と話す。ボルソナロと対立する左派政党を支持する彼女にとっても、経済活動を犠牲にして環境のために森林を守れという思想は受け入れられないものだ。

ボルソナロは「アマゾンには2000万人のブラジル人が住んでおり、彼らが発展できる機会を与えられなければならない」とも述べ、アマゾン開発を諦めたわけではないというメッセージを送った

アマゾン森林火災、くすぶる先進国への不信 現地ルポ

人間の業は自然を破壊しなければ生きていけないことである、エネルギーでも自然から神から奪わねば生きていけないことである
それが業(カルマ)でありそれで災いを逃れられないのである
つまりそれによってアマゾン火事でもわかるように焼畑自体が自然破壊だったのであり農業自体が自然破壊にもつながっていた
アマゾンという大森林が農地化されればそうなる
日本だって平地すら森がおおていたりしていたからである、そこが農地になったからである
そこで暮らす人にとっては世界でアマゾンを保護しろといっても通じないのである

人間が生きてゆく方が先決だ

こうなるから自然は破壊される、でもそのことが世界全体にもはねかえる、二酸化炭素が増えるとかあれだけ広大だから地球にも影響するのである、でも人間が増えてそこに住むとすればアマゾンでも破壊されるのである
そういうジレンマに陥っているのが人間である

人間は人間の業(カルマ)の故に滅びる、業とは職業の業でありあらゆる職業が業(カルマ)となっている
なぜあらゆる職業自体が業となりカルマとなって害を及ぼすのか?
それはまず金になることを優先される、そして金になればいいとしか今はない
何か自然と折り合う祈る祭りなど関係ないのである、それで漁師でも漁業権でも売り渡すし金にならないものは無駄だとなる
でもその無駄な無用なものに実は大きな効用がある、第一空気など最大に無駄なものであり金にならない
でもその無駄な空気が汚されたら原発事故のこの辺のように住めなくなるのである

ただ矛盾なのはアマゾンがあったとしてもその周辺で生活しようとするとなると森を切って畑地とか牧場にせざるをえないのである
そういう矛盾がありこの辺だって原発が金になるからいい、自然は金にならない、そのままにしていても金にならないとなる
そうして漁業権でも売り渡されるた、そして空気も水も土も森林も汚染されて住めなくなったのである
でも日本でももともとアマゾンのような森林におおわれていて縄文人が住んでいたのである
それが開墾されて田畑にして今日がある、だからアマゾンでもそうなることが悪いのかともなる
ただグロ−バル化したから先進国がそう言う、それならそこに住む2000万人の生活をなんとかしてくれともなるのである
結局森はエジプト時代でもレバノンにあったレバノン杉でもなくなるように消える運命にあるのかともなる
エジプトでも砂漠になっているけど森林があったからこそ神殿の柱はその木を象ったものだとなる
ドイツの森でもそうである、樅の木が黒い森が覆っていた、それでゴシックの大聖堂は森を模したものだとなる
自然破壊が人間の歴史でありそれによって文明化したのだからその業をやめることができないのが人間なのである 

このことは武田邦彦氏も言っている、フランスの製薬会社が薬になるのが原始林にあるからそれをとるためにアマゾンを保存すべきであり環境保護団体も金のために動いている、つまり文明が発展してゆけば文明の恩恵を受けるためには人間は必然的に自然を破壊せざるをえないのである
それが人間の歴史だったのである、それでブラジルの大統領もヨ−ロッパ人がアメリカがアマゾンを保護しろというのは勝手だとなる現実にアメリカでも森林におおわれていて木材を売ることが最初の仕事だったということでもわかる
それが一面のトウモロコシ畑だとか旅行鳩が食料に大量に殺されて絶滅したとか自然を破壊してきたのである
そういうことをしてきて豊かになった人たちがブラジルにはするなということは勝手だとなる

結局どこでも自然は人間がいる限り破壊し続けられる、インドでもそうだし中国でもそうなった
人間がどんな生物よりも獰猛なのである、機械を使うからたちまち自然は今や破壊される
機械がない時代は破壊のスピードが遅かった、今はまたたくまに破壊される、ブルドーザーが森の精霊だろうがなんだろうが神々でも無視して破壊してゆくのである
だからそれだけの科学技術の力を持った人間が怖いのである
どこでも自然は森でも破壊されたがそのスピードは数百年とかかる、今ではもう10年くらいで森林はなくなる
北海道でも開墾するのに道具がないから容易ではなかった      

100年でできることが1年ででできる

中国でも鉄道でも家畜のように人間が詰め込まれていたのがまたたくまに新幹線になった、そのスピードがグローバル経済では早いのである、千年かかることが10年とかに短縮されるのも怖い
アマゾンだってもう10年くらいで全部なくなることもありえるのである、放置していればそうなる
つまりそれが地球全体でどうなるるのか?地球の限界が急速にきて破綻状態になるということである
千年で消費するものを10年で消費したらそうなるのである

現代の問題は圧倒的な力をもった人間が自然に介入してくるからみるみるうちに自然は消失するのである
確かにヨ−ロッパでもアメリカでもどこでもそうして豊かな生活を築いてきたのだからそんなこと言えるのかとなる
それがわかるにしても現代文明の問題は余りにも科学技術の力が大きいから問題なのである
原発事故でも結果的に空気から土から水から森から汚染されて住めなくなったからである
そこまでの自然の破壊は科学技術文明がこれほど発達しなければ起きないのである
それでそれを容認するのは危険なことになってゆく、ブラジルの言い分があっても今度はブラジル全体に何か災いが及んでくるかもしれないのである、それはアマゾンがどういうものか本当に理解できないからである
自然というのは実際は人間にとってすべてわかったわけではない、未知の部分があるから思わぬ方向に展開することが怖いのである
科学技術は未来に何かわからないが大きな災厄をもたらす危険が原発のようにあるから怖いのである




これがただ一尾の魚を尊敬するかせぬかによってさういう恐ろしい結果を生じたざとつ伝えるのは考えて見れば不思議なことである。

漁業者が一尾の魚を尊敬するなど今は全くないだろう。一尾ばかりとったってなになるのだ。大量にとらなければ商売にならないとか常になっている。そして漁業では金にならない、だから跡継ぎもできない、これは農業でもそうである。一粒の米に感謝していた昔とは大違いである。

民間の津波の伝承の語るもの (津波はやはり天罰だったのか?)

この伝説はわかりにくいにしてもやはり一匹の魚を言うことを大事にするかしないか、そういうことがこの背景にあるのかもしれないもの言う魚ということは一匹の魚が津波を警告していたのである
今でも科学がこれだけ発達しても津浪を知らせることができない、とすると自然の中に前兆となるものがあるからそれを無視してはいけないとなる、一匹の魚を軽んじてはいけないともなる
   








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2019年06月19日

平成の大合併で自治体の耐災力が脆弱に


平成の大合併で自治体の耐災力が脆弱に

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自治体のエリアが広がったことで、職員の土地勘がない場所が増えたのです。地形も、地域の実情も、住民の数も年齢層もわからない。地名の読み方さえもわからない。そんなことが、あちらこちらで起きています。

来るべき大規模な自然災害に、行政はどんな対策をしているのか?       

なぜ合併が問題になったのか?
それは地方だと市町村ごとに地形とか歴史でも違っているからである
やはり人間の生活の基はその土地に地形でも一体として作られてきたのである
日本の市町村の問題は日本自体が平坦な土地がないことも原因している
大陸だとどこまでも平坦な土地がつづく
それは区切られていない土地なのである
日本だと自ずと必ず山があり区切られのである
するとその区切られた中で一つの村なり町なり市が生まれるようになる

南相馬市を例にすると小高と原町でも高い山でないにしろ一応小高い丘で区切られているのである
だから必ず隣の市町村に行くには坂を越えてゆくとなる
飯館村とかなるともう峠であり歩いて行ったりしたらもうめったに行ける所ではない
現実に塩の道があっても急峻な山間を行くから一晩栃窪をでて助の小屋(たすけこや)で泊まったとかなる
そこで泊まってようやく飯館に行けるとなっいたのである
そういう土地が日本がには山が多いから多い、交通が閉ざされているのである
そういう中で独自に生活を形成してきたのが日本である
平坦な土地がある大陸ではモンゴルとかでも遊牧民がいて遠くと交流するのが容易なのである

たから合併するのはいいとしてもその地形まで変えて合併できなかったのである
そういう根本的な日本の問題が常に根底にある
第一福島県のことでも何回も言っているが地形的に一つになるのはあまりにも無理があった、ハマ,ナカ、アイヅがあるが地形も気候もまるで違っている
会津となれば冬は雪に閉ざされている、浜通りでは雪はほとんどふらないから仙台の方が身近なのである、天気予報だったら仙台を見ればだいたい同じだからである
そして福島一区でも阿武隈高原がありはばまれて福島市と相馬地方はかけ離れている
今むずかしい病気でも仙台に行ってみてもらっている人が多いのである
今も知っている人は糖尿病で白内障になり仙台に入院している、他にも病気が出たためである
鉄道が通っているから仙台は身近なのである

合併で問題になったことはいろいろある、津波や原発事故でもあった
特に原発事故の補償金では小高と原町と鹿島はもめた、それは深刻だった
政府に30キロで区切られた結果小高と原町と鹿島では補償金で差がついたからである
小高は別格であり原町は鹿島の三倍もらったのである
その差は大きかった、でも30キロで区切られたのだから文句が言えなかった
それでも自治体で何か施策があっても良かったと思うがそれも全くなかった
それで南相馬市はまとまらなくなったのである
外部との絆ができても南相馬市では絆がたたれたのである
それは今でも尾を引いているのである

また指摘のように土地勘がないということも災害のときは問題になる
津波ではつくづく地形に一番影響されていたのである
その地形を見ればなぜそんなところに家が密集していたのかとかなった
またその土地のことを歴史でも調べておく必要があった
今になって高平とか日下石とか相馬市の新田とかの歴史を調べている
近くでも意識して調べないと無関心のままなのである

地形が地理の基本だという時それがそこに住んでないと身につかないのである
これは地図を観ただけでもなかなかわからないのである
坂がどうなっているのかとかわかりにくい、坂を越えたり下ったり実際にしてみないと実感がわかないのである  
南相馬市となると合併して広くなったから全体を知ることがむずかしくなる
それよりいわき市は30万とかもっと大きくなったからもうそれだけ広いと一つの市となっても実情は別々なのである
第一日本は4,500百人くらいの村単位で長く生活してアイディンティティを築いてきたのである、大陸のどこまても平坦な地で国を作ってきたのとはあまりにも違いすぎているのだ

ともかく日本は山で区切られて一体化しにくい、分散して住むしかない、でも交通が不便で行き来しにくい風土だった
だから合併して広くなると行き届いた行政もできないとなる、災害に対しても地理が広くなるときめこまかな対応ができなくなる
それで失敗したの津波の避難場所の指定だった
海老村の海岸沿いの高い所を避難所して安全だと避難した人たちがそこで30人も死んだのである
別にすぐ裏側が山であり避難するのは道路を走ってもできた
すぐ近くでも津波からまねがれる場所だったのである
それは行政のミスだったともなる、津波に対して経験がないのと土地勘がないこともあったかもしれない、いくらでも避難する場所があったからである
だから八沢浦ではすぐ近くに海が見えていて津波が来てから裏山に逃げて助かった人もいたのである  
前に小高い山があって津波の勢いがそがれたことも幸運だった
とにかくこうして地形が津波と深く関係していたのである

まずその土地のことう地形を知ることが行政でも基本にあるともなる
人間は地形だけは変えられないからである、また気候も変えられない、風土は変えられないからである、その風土があって人間の生活も作られているからである
だから合併はそれぞれの地形が違い成り立ちも違うから一体化できないのである
それで南相馬市だと原町が大きな街だったから原町中心になりすぎるのである
施設でもなんでも原町中心になる
でも障害者施設の大きい建物が鹿島に建てられているのは原町からも相馬市からも近いからだという、中間にあるからである、交通の便がいいから建てられたとなる
そういうふうに交通とかも関係してくる

とにかく郷土史というときそれは全体を知る学問なのである
だから津波とか原発とかでも関係していたのである
原発事故の時、爆発したときちょうど東風がこの辺では春になると吹くというのもそうである、そのために放射性物質が飯館村から福島市に流れたのである
風に影響されて不運だったのが飯館村などであった
それも福島市まで影響が大きかったのもカルマなのかともなる
福島市は遠いから関係ないと思っていたろう
私も30キロ離れているから関係ないと思っていたのである
福島市の県庁が原発を許可した、そしてそこに放射性物質が流れたのもカルマだったとなる、福島の行政の中枢まで被害がったからである

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2019年06月11日

海老村の大工の善次が経験した怪異はやはり津波のことだったのか? (津浪で死体を処理した日下石のばあちゃんもショックで後で死んだ)


海老村の大工の善次が経験した怪異はやはり津波のことだったのか?

(津浪で死体を処理した日下石のばあちゃんもショックで後で死んだ)






円光塚よりいず。転々として大いなること茶銚のごとし

また垣の如きもの路に横たわる。善次中刀をぬきこれを切って
通行す、・・・・

転々として大いなること茶銚のごとし

これは津浪で流される様を表現したものではないか
津浪によって転々と大きなものでも日用品でも流されたからである

垣の如きもの路に横たわる

これは垣とは壁だとか垣根であり津浪で流されて道をさえぎった様を言っている。
これも津浪の被害をその様子を知っていて記されたのかもしれない
ただ本当に津浪の被害のことは資料がないから知りえようがないのである。
これも謎である

日下石で聞いた話ではばあちゃんが磯部から流れ着いた死体を積み重ねて処理した
でもそこで心労も大きくまもなく死んだという話である
磯部は2000人住んでいて250人死んだとか悲惨だった
完全に村は壊滅して跡形もない、その後はソーラーパネルが敷き詰められた
あそこで農家の人にここに死体が流れ着いたんですよと聞いた
墓地で語ったばあちゃんはぎりぎりで助かりそのことを語った


その後善次病死して棺を出す。時に大原村の森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで
雲中に入る。宝蔵寺の僧これを聞き走り来りり七重の袈裟を雲中に投ず。
声ありて曰く、「おいか」と。

棺おく雲散じ空晴れてこれを葬るという。是の世に希有のことなり。
知らず「おいか」とは何の言なるか。
ある人いふう葬礼の諸品を海水に洗えばすなわちこの怪異ありと。

大工の善次がなぜ死んだのか?これも謎である
つまり怪異ありとは磯部のばあちゃんが死体を処理してそれで死んだのと状況が似ている何か異様な状況がそこにあり死んだ、それが津波で死んだ死体を見たのかもしれない

ある人いふう葬礼の諸品を海水に洗えばすなわちこの怪異ありと。

これは津波で死んだ人のことだったのか?

大原が関係しているのはその時、相馬氏は大原から小池の方に進出した
海側はまだ中世時代の館があり入り込めなかったのである
八沢浦の柚木は相馬市になっているけどあそこが鹿島(北郷)の境だったのである

「おいか」これが何を意味しているのか?

これがわかれば何かヒントなり謎が解けるかもしれない
ともかくあれだけの被害と人間が死んだのだからそれで祟って死んだということも信じられないことではない、死体の山になったのだからショックだったのである

それが、生まれ故郷だしここで頑張ると言っていた人たちが、一人欠け、二人欠けしていく。

 出る、のだと言う。

 夜、寝ていると足元から津波で亡くなった隣人たちが這いすがってくるのだと。

 とてもじゃないが、こんな幽霊が出るところで暮らしてはいけないと、集落には誰もいなくなった。

 ともかくあれだけ人が死ぬと何かしら怪異があっても不思議ではない
それを簡単に迷信だとかなんとか片付けられないのである
死者の霊が海辺に被害の地に漂っているという感覚になるからだ
ただ今はソーラーパネルとかになって磯部でも全く昔の面影は何一つ残っていないのである


posted by 天華 at 11:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係

2019年06月10日

相馬藩の慶長津波の証拠 (津波の前と後で石高が大きく変化したーその詳細の検討)


相馬藩の慶長津波の証拠

(津波の前と後で石高が大きく変化したーその詳細の検討)  

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  慶長奥州地震と相馬中村藩の復興( 岡田清一)
(グーグルで検索)

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慶長16年 1611年(11月13日)慶長三陸津波 相馬藩700人溺死、伊達藩5000人死亡とも
慶長 1611 12月 中村城に移転
慶長18年 財政困窮 給人、寺社方、職人にいたるまで役金を義務

慶長19年 大阪陣に参加 


中村城普請、江戸屋敷の普請の費用、参勤交代による費用などがあり在郷給人にその他寺社方、職人などに至るまで百石につき山両一分の割りで慶長18年から元和二年までの間、役金をおうせつけられた。
さらに財政が苦しく二分増しの三両三分とされた。
給人はこれまでも困窮していたためにその収入で上納もできかね、重代の大刀、刀、武具、家財まで売り払い下男下女まで売り払って役金を収めた。
これでは苦しいと役金の免除を申し出た。
でも殿は参勤交代の金も工面できないと許さなかった。
その後役金が免除されないなら知行地を返上したと再三訴えた。
このために他藩に行く者もあった。 

慶長津波の7年後に役金を課している、それは津波の被害が影響して財政的に苦しんだためか?その頃外部から他藩からの援助はないから相馬藩だけでまかなうことは苦しい
だから無理しても役金を課したとなる
戦国時代でありまず軍事費が優先されたのである、それは日本の戦争のときもそうだった戦争になればまず軍事費に予算がとられるからである 

相馬藩では700人溺死という記録しか津波ではない
その証拠となるものはない、でも岡田清氏が津浪の前後の石高を計算した
これは有力な証拠となる、目に見えて明らかなのである
津浪の前後で極端に石高が変化している
そしてその後に寛永16(1639)に津浪から28年後に倍増している
その変化を見ればやはり慶長津波がこの辺にありその時石高が極端に減少した
米がとれなくなったのである、それで財政が逼迫して津波の後なのに役金を課した
今ならそういう大きな災害の時は政府が援助するし外部の人が援助する
でも戦国時代であり援助はされない、だから苦しくても相馬藩内でなんとかしようとして役金を課したのである

これだけ苦しいのに役金を課せられたから過酷だった、それで相馬藩では伊達領に開拓のため移住した藩士がいた、それは伊達藩でも津波の被害があり人手を要したからである
そこにこういう相馬藩の事情があった、役金に税のとりたてに苦しんでいたためなことがわかる、郷士などは給人などは下級武士であり税のとりたてに耐えられなくなり伊達藩に移住したのである

でもなぜその後20年後には石高が倍増した、それはなぜなのか?

ここも謎なのだが当時は農業しか仕事がない、農業で食べていくほかない時代である
そういう時代が長かった、だから戦後の引揚者でも荒地を開墾して農業をはじめたのである、津波の被害があっても開拓して田を広げていった
そして1688年(元禄)に津波から77年後になると開拓は進んで日本が繁栄した次代なる、元禄文化が華咲いた時代であり、その時芭蕉が生まれたのである
それは江戸だけではない、地方でも開拓が進んで豊かになったのである

それで日下石の新田には元禄の碑があった、新田だから新しく開拓された場所だった
そこまでも津波が来ていたのである、だから慶長津波でも被害があった地域かもしれないが開拓されて元禄になると津波の被害からは完全に立ち直り石高倍増したのである

ただ石高の変化の図をみてもそれぞれに差がある
なぜ宇多郷(相馬市)では10分の一以上も石高が減ったのか?
つまり相馬市地域は一番被害が大きかったとなる
今回の津波でも被害が一番大きかったのは相馬市である、だからこれも共通しているのか?
なぜか北郷(鹿島)は被害が少ないしその後に石高が倍増している
まずその時八沢浦は開拓されていない、入江であり港があった、だから港という地域には人は住んでいない、明治以降開拓されて住んだ人が多いからである
また右田地域はおそらく津波の後に開拓された地域である
だからそこの被害も少ない、海老とか烏アは被害があっても田んぼはないから石高に影響しなかったのか?
何か慶長津波の被害が北郷は少ないのである

中ノ郷(原町)の被害も大きかった、これはなぜなのか?
今回も萱浜などが大きな被害になった、でもその頃萱浜は田んぼになっていたのか?
萱浜は越中などの移民が入ってきて開拓された土地でもあるからだ、ただ北泉辺りが被害があったのか?金沢地域でもここも開拓された地域である
相馬市(宇多郷)地域が被害が大きいことがわかるが中ノ郷(原町)が被害が多いことが良くわからない、そして小高郷も被害が大きかった 

小高の特徴は寛永になっても石高が減っている

これは何なのか?なんの理由なのか?
津浪の被害で石高が減ってその後になぜ回復しなかったのか?
小高は鎌倉時代以降港の機能があり蔵院とかまであった
船運が盛んにあった地域である、それでそこに多数の船があった、それでおんふねと相馬藩政期に多数記されているのである
その船も全部津波で流されたのかもしれない、なぜなら小高の海の方の駅前まで津波が来ていたからである、津浪で港の機能は失われたとなる
そしてなぜ小高だけが寛永時代になっても石高が増えないのである
他では増えているのに増えない、減っているのだ
これも理由がわからないが港の機能を失ったことと関係しているのかもしれない
海側に開拓できない事情があったのかもしれない、浜通りでは海側を開拓して田んぼを広げてきたからである、それができなければ石高は増えないからである
事実に大正時代にも井田川は開拓されていたからである
ともかく小高は石高が寛永時代にも回復しなかったのである

まず津波の後に中村に城を移転するにしても費用がかかる
大阪陣に参陣とかもつづきとても津波の被害に金を回すことなどできない
それより役金をう課してもう給人でも耐えられなくなっていたのである

重代の大刀、刀、武具、家財まで売り払い下男下女まで売り払って役金を収めた。

ここまでなっているということはどれだけ窮迫していたか察せられる
とにかく慶長津波で何があったかその時代を再現してみないとわからない
そして何かそうした歴史でも必ずカルマがある
カルマとは繰り返すことなのである、また一旦カルマが生じるとそれが消えることはないのである、天安門事件でも一旦そうしたカルマが生じると消えることはない
そこで無惨に死んだ人たちの怨念を消すことができないのである
だからまたそのことで政権が危うくなる、呪われるのである
歴史的カルマもある、それが津波だったのである
そこで省みられることもなく死んだ犠牲になった人たちは語られず忘れられていたけどまた津波が来てこうしてその時あったことを死んだ人たちをのことをふりかえることになったのである  
     

 
ビスカイノの報告

ビスカイノのことです。相馬藩に到着した翌日にラシャや衣類を貢ぎ物として相馬利胤に面会しました。この目的は相馬藩と友好関係を築いて海難事故の時に支援を要請し、キリスト教への改宗も考えていたようです。
彼は、其城内に於て快く司令官を迎へ、城は破損し、再築中なるを以て城内に迎へさ゛るを謝し、同市も海水の漲溢に依り、海岸の村落に及ほ゛したる被害の影響を受けたりと言ひ、其通行の際竝にイスハ゜ニヤの船又は国民同所に来る時は、全領内に於て喜んて゛十分なる給与をなすへ゛しと述へ゛たり。而して翌月曜日我等か゛行きて海岸及ひ゛余り用をなささ゛る二つの入江を測量する為め、同市に滞在せし時に其約を果したり。
相馬利胤はヴィスカイノを歓迎し、城が破損して再建中のため城外で面会したことを謝ったと記されています。この城とは同年に小高城から本拠を移転したばかりの相馬中村城と思われます。面会した場所は「城塞の入り口」(a la puerta de su fortaleza)と記されており、大手門周辺であったのではないと思われます。         

相馬市宇多郷地域は確かに津波が来ていた、これも証拠である、だから慶長津波がないとはありえないとなる
ただそれが伝えられない、民間でも伝えられないことの謎である
それは記録するものがその時戦国時代であり津波の被害を重視していなかったからだともなる
そして庶民は文字を書けるものがなくできなかった、伝説が残ったにしてもそれも忘れられた
ただ伝説といっても鹿島の八沢浦にだけ残っているのである
相馬市の諏訪神社の船が流れ着いたというのはいつのことがはっきりしていない、松川浦から1500年以降移転したとなるとやはり慶長津波のものかとはなる、ただそれも証拠とはなりにくいのである

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2019年06月09日

以前として解き明かされない津波の謎 (柏崎と日下石により話を聞くー死体処理した人がショックで津波の後に死んだという)


以前として解き明かされない津波の謎

(柏崎と日下石により話を聞くー死体処理した人がショックで津波の後に死んだという)

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地の内古墳

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日下石まで海になった





●小城の小高城では領地支配に心もとなく、義胤はより堅固な場所に本拠を移そうとする まず、小高城の東、太平洋に面した独立丘に目をつけ、慶長元年(1596)村上城を 築くが、火災で資材を焼失し、不吉として移転を断念。

●築城年代は定かではないが永禄6年(1563年)頃に佐藤伊勢好信によって築かれたと云わ れる。佐藤氏は源義経の家臣佐藤忠信・継信兄弟の後裔を称し、好信ははじめ岩城氏の 家臣であったが、後に相馬顕胤・盛胤に仕えて軍奉行を務めた。天文11年(1542年)伊達 輝宗との合戦の功により磯部・日下石など宇多郡の内六ヶ村を領しはじめ磯部館(佐藤 伊勢館)に居を構えた。しかし、海水による浸食が激しく鬼越館を築いて居を移したと いう。

●相馬市黒木の諏訪神社の社頭の松は「桃井の松」と呼ばれる。諏訪神社は、もと宇多郡 尾浜村(相馬市の松川浦北部)にあり、天文七年(1538)に西方の黒木に遷座になった といひ、当時の歌が伝はる。桃井とは神官の名前らしい。(諏訪神社由緒)

 1611年12月2日(慶長16年10月28日)、慶長三陸津波

 なぜ慶長津波の前に館とか神社が移ったのか?
それも謎なのである、特に相馬市の諏訪神社が慶長津波の前に移転したのは謎である
なぜなら諏訪神社がそこまで舟が流れ着いたという伝説があるからだ
実際相当奥であるが小泉川をさかのぼって津波がおしよせてそうなったのかもしれない
仙台でも砂押川が小さいとみてもまず津浪は川から押し寄せるからである
それじ自分の住んでいる所が川の側なので川が大変なことになっているというとき見に行かなかったが真野川を津波がさかのぼりおしよせた恐怖である、川下では津波は土手を越えたからである
だから諏訪神社に残された伝説は全く作り話とも言えないのである

仙台の多賀城の末の松山の歌 

わが袖は名に立つ末の松山か空より波の越えぬ日はなし(後撰集、恋二、土佐)

契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波こさじとは(後拾遺集、恋四、清原元輔 百人一首)

これは貞観津波のことであり慶長津波ではない、貞観津波は多賀城に都の人が赴任してきたからいろいろ伝えられたのである   

でも不思議なのはなぜ慶長津波の前にこうして不吉だとか高潮だとかまた松川浦にあった諏訪神社も移転している
それはみな海側の神社なのである、村上城は1596年に不吉だとして移転している、これも慶長津波の10年前くらいなのである
ささに何らか津浪に関する謎が移転したことである

それから今回地の内という所の墓地でこの辺に住むばあちゃんと話しした
そこに五輪塔の立派な墓があった、その墓があまりに立派だったので話ししたらそれは嫁いだ人が故郷を出て成功して財を築き建てたという、もう一つも立派な墓である、それも兄弟だとか言っていた
何か事業に成功した人で先祖の地にあのような立派な墓を建てたとなる、他の墓は普通の墓だからである
それはまるで殿様のような大きな墓なのである

そのばあちゃんが言うにはここまでは津波は来なかった、でもぎりぎりだった、磯部から死体が流れてきてそれを積み重ねて処理したそのショックで津波の後すぐに死んだという、私もあの辺で死体が流れてきた聞いた
とにかく磯部の被害は大きかった、人家が多いから大きかった
死体でも相当に流れてきて処理していたのである、その時一番活躍したのは自衛隊だった、そして過労で自衛隊員が三人死んだのである

ただ地の内とかに古墳がありあれこんなところにあったのかと発見だった、相馬市にはあまり古墳がないからだ
そしてそこに古墳があるということはそこまでは津波は来ないのである
近くまで来ていても来なかった、でもなぜあんなところに古墳があるのか不思議だった
それから諏訪神社がありあそこにも津波は来ていない、でも磯部の近くの神社には津波が来ていた
神社だからだとすべて津波が来ないとういわけではなかったのである

いづれにしろ津波の謎は解けていない、今回でも柏崎から磯部を見たとき柏崎は高台だから被害がなかった
そしてあそこは畑しかない、そしてそこに住んでいた人が津波を来るのを見ていた
あそこなら見晴らしいいから見える、そして柏崎には田んぼがないのである
だからそもそもそこでどうして暮らしていたのか?田んぼになったところはもともとは湿地帯であり埋め立てて田にしたのである
ただ田にすることによって高台に住んでも米を食料として住むことができるようになった
それでもなんらかあれだけ海が近いのだから磯部の方でも魚をとりに行ったかもしれない
縄文時代に住んでいたかどうかわからないけど今田んぼになっている所は海だからなんらか漁をして魚をとって食料としていたことも考えられる

でも湿地帯の所に古墳があったということはそこに古墳時代に人が住んでいたのである
南相馬市の鹿島区の横手古墳でもそうである、海から遠いにしても海が見えるような地域でもあるからだ
ただあそこは海に結構近いのであく、津波が来た地点に近いのである
そして日下石という地名はニッケシであり二シのことである、説はあるにしてもそのニッケシがなぜ西になるのか?
それは海洋民は海から渡ってきて名付けたからだと推測した、なぜなら津波で海になったとき太陽がその海になった岸の方に沈んでゆくのを見たからである、これは海から見ない限り知り得ないことである、またありえないことなのだ

その裏付けとしてとにかくこの辺には綿津見神社が多いのである、山津見神社も対になってある、それは安曇族などが渡ってきたためだとなる、海洋民だと海からの視点になるからニッケシが西であり海から見たときその岸は西になるのである
そして実際にあの辺一帯が海になったときは驚いたのである、ニッケシだけはあの辺で変わった地名なのである
アイヌ語説もあるがやはり安曇族などが渡ってきてつけられた地名なのかともなる  

とにかく磯部の被害は大きすぎた

相馬市磯部地区では約2000人の住民のうち、251人が大津波の犠牲になった。市全体の死者・行方不明者458人の半数を超える。

村は全部壊滅して消滅した、250人の死体が流されたのである、それがちょうど今回ばあちゃんから聞いた墓地の地点辺りだった
相当数の死体が流れてそれを積み重ねて処理した、それでそのショックで津波の後に死んだという
それだけ磯部は悲惨だった、自衛隊は泥の中から死体を掘り出していたのである、その中には子供の死体もあったのである
そして自衛隊員も三人過労で死んだのである
津浪の記憶もだんだん忘れつつあるがまだまだ簡単には忘れられない記憶である、被害が大きすぎたからである
そして慶長津波のことが溺死者700人とか記録されていないのでその実態が解明されていないのである





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2019年05月20日

津波の被害の原因は俯瞰的に時間的(歴史的)に見れなかったため (人間の弱点は空間と時間を広く長く見ることができないこと)


津波の被害の原因は俯瞰的に時間的(歴史的)に見れなかったため

(人間の弱点は空間と時間を広く長く見ることができないこと)

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相馬市磯部地区では約2000人の住民のうち、251人が大津波の犠牲になった。市全体の死者・行方不明者458人の半数を超える。
 「相馬沖は遠浅だから津波は来ない」。地域の多くの人たちが、そう信じていた。1960年のチリ地震でも津波は防潮堤を越えなかった。経験則があだになった


丸森の方に行って山に登り相馬市を松川浦を見た、そこで感じたのは人間はこうして俯瞰的に見ない、いつも暮らしている場は狭い場所なのである
人間の弱点はこうして俯瞰的にとか広い視野で見ることができない
それから長い時間で見れない、つまり総合的に見れない
そこに盲点があり津波のことでもそれが言えた

高い視点から俯瞰的に松川浦を見たら津波のことをイメージしたらどういうふうに津波が来るか見える、でも住んでいる場所から見えにくい

そもそも磯部は砂州になっていたところであり松川浦は今よりかずっと広かったのであるではなぜ砂州のような所に家が密集したのか?
それは海岸線が漁業するのにいいのと船溜が漁港になっていたことである
つまり磯部は漁港として機能していたのとその後背地は田んぼだったのである
田んぼに家を建てることはできないから砂州に家が密集した 
半農半漁の生活があり家が海岸線に密集した

日本は山が多いために余計に俯瞰的視点が持ちえない
ヨ−ロッパとか中国でも塔が多いのは俯瞰的視点を得るためである
それは平地が多いから有効なのである
日本では山が多いから塔を建てても俯瞰的視点が得にくいのである

津波のことを知るには住んでいる土地を俯瞰的に見ることが必要だったのである
そして津波の被害がどういうふうになるシュミレーションしておくべきだったとなる

そして時間的にも歴史的時間でも津波を経験していないから津波が来ないという確信までになっていた、それで老人が避難しないで犠牲になったというのもいくら老人でも百年生きたとしても400年前のことなど語り得ようがない
そこで大事なのは伝承とか記録になる
「相馬藩政史」は殿様が代替わりしないから相馬藩のことを連続的に記録されているもので貴重であったが二行だけ生波(いくなみ)で700人溺死としか記されていなかったのである
それも津波の後に発見されたのである、それまで津波のことなど誰も知らなかったのである
ただこの二行だけでも発見していれば警告になった

人間の盲点は俯瞰的に見れない、日本は特に山が多いから俯瞰的見れないのである
大陸だと平原とか草原とか砂漠とか広い平坦な土地がどこまでも広がっている
すると俯瞰的にみる、それで大陸では戦略思考が生れる
戦略は広い視点で見て戦略を作る

【連合国の戦略】
揚陸部隊によるドイツ占領下の北西ヨーロッパの奪還

【連合国の戦術】
夜間の落下傘部隊の降下と艦砲射撃や空襲による援護

日本の太平洋戦争は戦略がなかったといわれる、戦術はあったのかもしれない、戦術は個々の戦場で発揮される
でも戦略となると戦争を総合的に大局的にどうすすめるかとなるがそれがなかった
全体の戦略はなかった、だから無闇と戦線を拡大して大敗北となった

いづれにしろ人間の盲点は俯瞰的に見れない、第一地球でも宇宙でも俯瞰的に見れる人はいない
それは神なら見れるが人間には極小の中に生きているから見えないのである   

箱根路をわが越えくれば  伊豆の海や沖の小島に浪の寄る見ゆ   源実朝

こういう大きな空間は古今、新古今の歌には見当らない

そうなのか?古事記などでは日本の国造りを大きな視点で表現していた
日本は国見山が多い、南相馬市の原町にも国見山がありちょうど鹿島ー原町―小高が見えるのである
それで南相馬市が合併したのは地理的に必然性があったとなる
相馬市は視界の外になっていたからである
相馬市を見たのは丸森の高い山の上だったからである、あそこからは蔵王を見えたし亘理の方へ伸びる海岸線も見えたのである
絶景ポイントだったのである

ともかく人間は視点を変えれば見え方が違ってくる、人間の弱点は地理でも常に自分の住んでいる場所が中心になる
するとその視点が固定化されて全体の視点を見誤るのである

いづれにしろ磯部は悲惨だった、2000人も住んでいたのに壊滅して何も残らなかった、これも空恐ろしいものだったとなる


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2019年04月29日

相馬藩の郷士の研究から判明した恐るべき事実 (25390人がか死亡逃散している―津波で700人溺死はとるにたりなかった!!!!)


相馬藩の郷士の研究から判明した恐るべき事実

(25390人がか死亡逃散している―津波で700人溺死はとるにたりなかった!!!!)

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郷士は在郷武士として苗字帯刀を許されながら農村に住んでいたが、京都奉町行所の例では、家ではなく、当主本人個人に免許され、子息も別に免許が必要とされた[7]。

享保のころから、帯刀が身分特権として確立すると帯刀権へのあこがれが生まれ、様々な由緒などを言い立て、役儀や非常時や儀式など非通常の帯刀権限を免許され、違反と常時化や子息や従者にまで拡大・延長する動きが起こり、


郷士研究の第一人者である木村礎は、郷士とは以下の特徴を併せ持っている場合が多いとした。

存続している藩(或いは知行地を持つ旗本・御家人)の家臣として正式に承認されている
城内で勤務する一般藩士とは明確に区別され、基本的に在郷している
所持地の全部または一部の領有を「知行」として認められ、その管理維持を生活の中心とする(地頭)
軍役については場合により異なる
従って事情により在郷任務を与えられているというだけで立場は一般藩士である者(薩摩藩の「中宿」や柳川藩の「在宅」)、陪臣にして在郷している者、上記で言及した名字帯刀は許されているが士分株は購入・譲渡していない者などは、郷士とは異なる存在に分類される。


江戸時代中期以降、財政厳しい水戸藩の状況を改めるため、献金により郷士に登用する、いわゆる献金郷士といわれる層が台頭した。菊池氏、緑川氏などがその例である。このように、藩の武力ないし財政力を支える目的で、様々な郷士登用の形、あるいは郷士身分の運用方法が生まれた。それら水戸藩郷士は、戦闘員たる郷士として特置郷士、救済郷士、非戦闘員たる郷士として旧族郷士、登用郷士に分けられ、藩の地方行政を支えるための身分層として用いられた



蔵地と給地があり給地はいうまでもなく無税地でこれを耕作する時は武士として苗字名を附して取り扱われる

18世紀に入ると封建社会の封建社会の構造に経済的破綻が生じ、その結果武家社会に現れるのは二男、三男の浪人化と武士身分の売却慣習である

そのため米沢藩では彼らを郷村に放って郷士とした、相馬藩に置ける郷士取り立ては新田開発によって給地したのであるがこれは藩庫収入を目的としている

右田は海側に開拓して作られた村である、だから比較的新しいのである、それから明治になって八沢浦がやはり失職した侍が開いた土地だったから明治以降でも新田開発はされていたのである)

農家対郷士は8498戸対1388戸、人口に対して52674人に対して9370人が郷士である
かかる多数の村落支配をもって取り締まりを徹底したから他藩にあって百姓一揆の頻発している時その発生は皆無であった、わずかに逃散があり主として餓死を待つ他なかった

つまり宝暦10年農家戸数8965戸、人口61114人だった、明暦では戸数7860戸であった
郷士は18パーセントいた
そして人口35785人で25390人が死亡逃散している

藩主ー家中ー本百姓
                                            
(相馬藩)

藩主ー家中ー給人ー本百姓ー(水呑百姓)

鈴木啓著ー「福島の歴史と考古」



これは何を語っているのか?何か重大な相馬藩の歴史の事実を語っている
やはり事実と統計的数がその実態を具体的に露わにしたのである
相馬藩は郷士が多い、郷士とは今でいう警官とか兵士の役目も担っていた
そういう人たちが農民に混じって暮らしていた、そうしたらとても一揆などできない
すぐに上の者に通報されるからである
つまり相馬藩では一揆がないから武士と庶民はうまく平和を保っていたというのではないのだ、それは他より多すぎた郷士によっておさえつけられていたのである
それは北朝鮮を見ればわかる、兵士の数が多すぎる、あれだけ貧乏なのに10人に1人くらいが兵士なのである、そういう人たちが農民とか庶民に交じっているからあれだけ不満があって飢餓になっても反抗できないのである、体制が維持されているのである

これからわかるように相馬藩の支配は郷士によって徹底されていたとなる

人口35785人で25390人が死亡逃散している!

これが事実てのだすうか?事実だとしたら空恐ろしいとならないか?
2539人の間違いとかこの本を読んで思ったがそうではない
でもこの事実は確認できるのか?

これから今回の津波のことを追求してきたが700人溺死とか相馬藩政記に記されていたがこれはとるにたらない数なのである
その時も津波前と津波後では収穫高が激減しているのだ
これは統計的数字の事実だから偽ることがてきない

つまりこれは何を意味しているのか?

津波の被害などは政治的にとるたりないものであり騒ぐこともなかったのである
何ら相馬藩ではそのために津波の被害に対して何もしていなかった
その時は戦国時代でありまだ戦乱があり政治が安定しないこともありただ二行しか記されなかったがそれくらいの事件であり相馬藩全体としてはとるにたらない災害であった
だからそれ以外なんら津波に関して記されていないしわからないのである
このことがまた後に今になっても大きな政治の失政として見直された
たとえ700人死んでとるにたらないでも津浪に関してもっと記しておけばそういう津波が来て700人死んだということで警戒したからである

つまりこれは江戸時代を賛美していたがその暗黒を数字が如実に語っている

そしてこの機に乗じて富商、町人のごときは士分を買収する有様であった
従って農民にとっては餓死の一歩手前に代官、富商、村落支配者を襲うことによって生命を保つ可能性は十分にあった

このように鈴木氏は指摘している、それでもこれだけ郷士が農民に相馬藩ではまじっていたので反抗できなかったのである、そのためにあえなく餓死してまた逃散する他なかったのである
これこそまさに歴史の事実であり真実である、そこに人間の過酷さ江戸時代の過酷さが如実に示されているのだ
私自身も病気になり弱った時、大金を盗まれたり事業に失敗した人が借金をかえすために金の要求をしてきて脅迫すらしてきた
それは相手も苦しいからでありまさにこの世の現実は弱肉強食であり身をもって経験したのである、津波の被害者いてその弱味につけこむ、それが現実である

この事実から比べると原発避難民などは本当にかえって得したともなる
これを言うと批判されるけどなぜ浪江に住んでいる人はあんなに楽天的なのか?
老後の金をもらってかえってみんな喜んでいるとかなっているのか?
それはこうした江戸時代の過酷な事実から比べれば理解できるのである 


あとがき

宝暦の飢饉はあまり語られない、天明の飢饉では相馬藩は人口が三分の一に減った、宝暦の飢饉はそれほどの被害がなかったというのか?
これは事実なのかどうか疑うとなる、だから鈴木氏の研究が正しいのかどうかわからない、こういう事実があったとしたら大事件だからである

おそらく逃散はあったがそれは一時的抗議としての逃散であり領内から出て帰らないことではなかった
死亡した人がいたというがこの数は一時的逃散なのだろう、天明の飢饉は本当に三分の一が逃散とか死亡したことは歴史的事実である宝暦の飢饉はここまでの記録は残っていないからだ

次の大正時代の古い論文が参考になる、でもこれだけの人が相馬藩内で逃散したとしたら死んでいる人もかなりいた
その数はわからないが津波で溺死した700人というのはたいした数ではなかったということが当時の状況を見れば信じられるのである   一時的な逃散は数が膨大になっているからだ、そんなに逃散して帰ってこなかったらもう村自体が藩自体がつぶれる
事情は違うにしろ原発事故で避難してゴーストタウンになったのと同じである  

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コ川時代の農民逃散 Author(s) 黒正, 巖 Citation 經濟論叢 (1927), 24(1): 68-83 Issue Date 1927-01-01 URL https://doi.org/10.14989/128496 



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2019年04月13日

桜田議員の「復興以上に大事なのが高橋議員だ」で辞任 (相馬藩の津波被害も戦国時代で伝えられなかった、戦争の方が大事だったから?)


桜田議員の「復興以上に大事なのが高橋議員だ」で辞任

(相馬藩の津波被害も戦国時代で伝えられなかった、戦争の方が大事だったから?)


この発言の意味するものは何なのか?

そのことで政治家というのは変わらないものだとも見た
変なのだけど津波のことで相馬藩の歴史をいろいろ調べた
でも津波のことは相馬藩政記に二行だけ生波(津波)700人溺死としか記されていなかった、それで本当に津波があったのかどうか疑問にまでなった
慶長津波のことは本当にあったのかどうかさえわからない

それはなぜなのか?

相馬藩政記には戦争のことや世継ぎのことなどは事こまく記してある
その時は戦国時代だから戦争のことは詳しく記されている
だから記録することができないというのではなかった、大事なことは記録していたのである、でも肝心の津波の被害については何も記されていないのである

そのことでいろいろい調べても結局わからない
それで学者の人がその時相馬藩が小高の城から中村(今の相馬市)城を移したのは津波の復興のためだったとか言った
そんなことはありえないことだったのである
津波の被害があったとしても無視されたのである

つまりこの桜田発言と同じだったのである!

復興以上に大事なことは高橋議員だ!

選挙に自民党が勝つことだ!

相馬藩で大事なことは戦(いくさ)に勝つことだ

津波の被害者などにかまっていられない、相馬氏陣営が勝利を治めることだ


何かこうなっていたのである、その時は激しい戦(いくさ)が相馬氏が在地の勢力と争っていたからでありまた伊達氏とも争いが激しかったからである
この戦争とは政治のことなのである
今は選挙なのだが明治以前の戦争は戦争で決まる
政治は平和的に解決しないと戦争で決着してきたのが人間の歴史なのである
選挙というのは戦争と同じなのである、選挙に敗れれば政治生命もなくなるからだ
だから創価公明党でも選挙が最大の戦いであり勝てば仏法の勝利であり負ければ敗北とまでなっている
選挙にそれだけ必死になるのはやはり自民党でもどこの党でも政治が昔の戦争と同じであり選挙に勝つ者が勝利者となり権力を得ることができるからである

だからここで本音がでた、津波の被害の復興より自民党の陣営の立候補が選挙に勝つ方が大事なのだとなったのである
これは別に戦国時代なら普通のことである、相馬藩だけではない、他でも宿敵が津波の被害を受けて弱体化してそれで攻勢に出たとか歴史にあったからだ

まず政治家は民衆のことを第一にしない
自分たちの党派の陣営が選挙に勝ち権力を得ることなのである
選挙ではみんなのために命をかけて戦いますとかいうけどそんなことはただ選挙の時だけだとなる、選挙のためなら頭を下げるし嫌なことでもなんでもする、でもそれは選挙のときだけだと政治家自身が言っている人がいたからである

戦国時代とかなるとそんな嘘は言わない、正直なのである
ただ強い者が勝つのであり民衆のためなど誰も口に出さない、政治とは歴史をふりかえればずっとそうだったのである
民衆のことなど考慮した政治家がいるのかともなる
そして民衆にとってそうして侍でも戦争することは迷惑になる、農民にも被害が及ぶからである、でもそんなことにかまわず侍は戦争をしてきた
権力争いをしてきたのである

つまり政治家というのは今も変わっていない
確かに民主主義になり制度が変わったけど政治家自体は変わっていない
第一の目標は我が党派が選挙に勝つことであり復興のことより津波の被害より大事だったとなる
何か政治というのを歴史でふりかえるというそういうことが多いのではないか?
政治家も変わっていないし人間も変わっていない、同じカルマを繰り返している
会社でも組織集団でも必ず宗教団体でも序列が問題になり熾烈な派閥争いが行われる
それは人間の業(カルマ)であり変わらないのである

それは会社内の政治なのである、確かに表面上は制度は変わっているから殺し合いしない戦争で決着しないにしてもやっていることは同じだとなる
もちろんなかなか400年前とかの時代と比べてもわかりにくいことはわかる
でも何か歴史でも人間には常に共通したものがありそれで歴史でもカルマを繰り返すとなる、人間の業(カルマ)は変わらないからだと見てしまうのである

津波の復興より被害者のことより選挙に勝つことだ!

これが戦国時代なら津波の被害のことより戦争に勝つことだ!

これと同じことになっているのではないかと思った
もちろんここには違和感があることは確かだがそういうことが歴史をふりかえれば繰り返されてきたのが人間だったということは現実にあるからそう思ったのである

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2019年03月25日

津波が残した教訓 (車が障害物となったのはなぜ?)


津波が残した教訓

(車が障害物となったのはなぜ?)

津浪は早く来るから地震が来たら早く逃げないと助からない、時間の余裕がないのだ
それで山元町の中の浜小学校では地震がきて即座に屋上にみんな避難して助かった
その時校長がとっさに判断したのである
10分後に津波が来たからである、3階まであるとしても3階まで津波が来たのだから助からなかった、屋上に逃げて全員助かったのである
それも危機一発だったのである

そう判断したのはすぐ近くが海であり海が見えるからそうしたともなる
そこに危機感があったともなる
ただ人間即座に判断することはむずかしい
だからこそこれだけの被害があったのである

津波には津波でんでことかとにかくそれぞれがばらばらになっていち早く高台に逃げろというのが教訓になっていた
それは車のない時代だったのである                                   
車社会になったときまた対応が違ったものとなっていた
車だと日ごろ乗っているからそして早いから津波から逃げるのにはいいと思うだろう
でも意外と車というものがどういうものか知らなかったのである

車を見ているとどういうものか日ごろ知る人は少ない考える人も少ない
車の性質を乗っている人がわからないのである
車を見ていると一台一台でありその一台一台が個々人で二三人とかのって走る
車というのは個体なのである、私的個人として占有しているものなのである
車を運転するとき人間は自由を感じる、自分自身が思いのままに操作して運転して自由になる、それが車だという、そこに現代の車の魅力があるという
人間は組織の中で縛られて生きているから余計にそうなるという

例えば鉄道と比べると鉄道は決まったレールの上を忠実に走っている、横路にそれたりすることができないのである
そして電車は一つの車でありその車を運転するのは運転手ではないのである
つまりそこに乗客の自由はない、ただ運転手がいてそれに乗せられるままに決まった所に運んでもらうというだけである
鉄道には意外と自由がないのである

でも津波の時新地では車掌が誘導して全員助かった、そして津波で駅も車両ものみこまれたのである
そうして助かったのは電車は自分で勝手に運転できない、それは鉄道会社が乗客の安全を計り運転している、だから常にレールの安全とか電気系統の安全点検を怠らないのであるそして安全の責任は鉄道会社にある
すると津波の時も安全を計ったというときそこに乗っている人たちではない
津浪だからと勝手に行動しない、車掌の誘導でみんな整然と避難したとなる
山元町の中浜小学校でもそうである、校長が安全を計り全員を避難させたのである

一方で津波との教訓としては津波でんでこというときとにかくてんでんばらばらでもいいからいち早く高台に逃げろということが言われた
そいうことで石巻の大川小学校では一部の生徒が勝手に裏山に避難して間一髪で助かったのである、そしてすぐに避難しないでいた人たちは津波に飲まれたのである
最も津波でも危険な河岸に誘導したりしていた
そして生徒も先生も死んだのである
これは山元町の中浜小学校と対象的になった
もし中浜小学校のように校長がすぐに高い裏山に全員を避難させていたら助かったからである
ただ津波にはいろいろな場面があり違っている、だから一様に考えるわけにはいかない

そして車というのが意外と障害物となったのはなぜなのか?
それは津波でんでこというときそれは個々人が早く歩いてでも走ってでも高台に避難しろということだった、そうして小学生でも助かった人たちがいた
でも津波で車の場合渋滞になって動けなくなり車ごと津波に飲まれて死んだ人も多いのである
それは何を意味しているのか?  

それは車というものがどういうものか日ごろ考えていないしこうした災害のときどうなるかも考えていない、むしろ津波でんでこなら車一台だけでもそれぞれが勝手に運転していち早く高台に逃げれば助かるとなる
それがうまくいかなかったのはなぜなのか?
車は一台一台が面積をとる、百人が車に乗るとして百台が連なることになる
そこで渋滞になる、電車だったら百人のっていても車両としては面積をとらないのであるまたそこで人間がまとまって集中して乗っり合わせているからその人たちを全員うまく誘導すれば助かったとなる
ただうまく誘導しなければ全員死ぬということもあった

とにかく車というのは運転手が自由に操作してどこにでも行けるということで現代人が最も車に乗ると組織で頭をおさえつけられることなく自由を感じるというのはそうかもしれない、現代では人間はなんでも操作されていと感じるからだという、私の場合は運転もしていないのだからその辺の実感がないのでわからない
自転車だってやはりどこにでも運転して行けるとなるからにているからだ
車の場合はどうしてもマイカーになる、私的なものとして自由にできるとなる
でも津波とか災害の場合はそれが渋滞となり車ごと津波に飲まれて死んだ
車だともうそれを誰かが統制したり命令できないものとなっていた

その最大の問題が個々ばらばらであり一台一台が運転手の自由になっていたからだともなる、車というのはそれだけ私的な自由を空間でも主張する道具だったとなる
車は確かに道路の上も猛スピードで走ってくる
それは個々人が私的に所有するものであり交通ルールはあってもそこにいるのは個々人であり個人の自由のままに走る
だから時々横断する自転車は目障りな存在であり危険だからどなりつけられる
つまり自転車は車の運転手にとっては邪魔なのものなのである
歩行者だってそうである、それが車社会なのである
その車社会が裏目に出たのが津波の渋滞による死者だったのである
電車にのって津波の被害にあった人はほとんど聞いていないからだ

それから車の問題はガソリンがこの辺では原発事故で入らなくなり長い行列ができた
ガソリンがないと車は何の役にもたたないのである
それで私は相馬市でスーパーを開いた時、自転車で買い物に行ったのである
その時車はガソリンがないのだから役に立たないのである
そのガソリンを運んだのは鉄道だったのである
それも遠回りして貨車で運んだのである
車の弱点はガソリンが入らなければ何の役にもたたなくなる
ただでは鉄道はどうかとなればこれも短所と長所があるから車が全部悪いとはならない
ただ何か便利なものが凶器にもなる、日常的に使っているものが凶器になる
それが戦争でもそうだが災害でも起きてくるということになる
そして人間は便利なものでもそれがえって命取りになる

それは車だけではない,例えば電気がなくなったら水道がなくなったらどうなるのか?
現実にその時裏山の清水を飲み裏山の木を切って燃料にして米を炊くとした人がいて助かった、だから何か災害があったときガソリンでも水でも電気でもガスでもなくなればお手上げになるのである
放射性物質お汚染で水も飲めないとかなったらもう裏山の清水すら利用できない状態になった、そうなるともう避難する他なくなっていたのである
文明化した便利なものにはそうした危険がつきまとっているけどそれを深く意識したり考えたりしないのである 

だから東京とかで直下型地震とか何か大災害があったら大被害になる
もうそこからいち早く脱出しないと生き延びることができなくなる
しかしその時頼りになる車では脱出できない
なぜなら道が破壊されるしガソリンだって供給されないからである
その時今度ははじめて首都移転とか地方に分散して住むとかを真剣に考えるようになる
でも人間はそうならない限り危機感がないからそこに住んでいるのである
やはり津波であれ災害は必ず教訓を残す、でも人間はまた歳月が過ぎると忘れる
そして問題は何が幸いするのかしないのかわからないのである
車はむしろ早いのだから津浪から早く逃げられると思っていたからである
それが思わぬ渋滞になり死んだのである
それは他のことでも同じ事がおこるのである、それはそうなってみないとわからないからそうなるのである、今回の津波ではそれが示されたということである
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2019年03月24日

人間の生業から作られていた景観 (それを津波が破壊したのはなぜなのか?)


人間の生業から作られていた景観

(それを津波が破壊したのはなぜなのか?)


松原遠く消ゆるところ
白帆(しらほ)の影は浮かぶ
干網(ほしあみ)浜に高くして
かもめは低く波に飛ぶ

この歌にしても松原とか白帆の船とか干網(ほしあみ)とかは人間の生業から生まれていた、純粋な原始の自然ではないのである
松原は田を海側に干拓して作るようになりその塩害を防ぐために日本の海岸に松が植えられた、それは人工林だったし田んぼも人間の手によって作られた人工のものである

その人工林が故に松は津波で根こそぎ流された、松は根が強く張らないので津波には弱かったのである、そもそも土地だって砂地なのだから根を土のように強く張れないことがある、それで根こそぎ津波で流された光景はショックだった

もし海岸に松だけではない自然林だったら強く根を張る混成林が形成されていた
自然の林でも森でももともと一種類の木で構成されている所はないのである
人工化することは単一化することなのである
杉林でもそうである、それは木材として利用するために単一化するのである

ブナの木は非常に重く川を流して搬出することが困難なことから、商取引には向かない資材だった[5]。その上、腐りやすい、加工後に曲がって狂いやすいという性質があり、20世紀の後半まで用材としては好まれなかったが、薪のほか、下等品のための需要はあった

橅(ぶな)は無用の木という字があてられた、本当は自然には無駄なものがない、荘子の無用の木のように自然から見れば無駄ではない、でも人間は常に効用から見るから無駄だとなる

松原を自然の景観のように見ていた、それが違っていたことを津波は示したのである
それは人間が作った景観でありでも自然の景観に見えたのである

だから人間というのは必ず自然に逆らうものとしてある
農業自体が実際は大規模な自然破壊になる
焼畑農業が最初の農業になったのは肥料を作るために森を焼き払い灰を作り出したからである
ともかく農業は肥料をどうするかというのが最大の問題だったからである
まず自然状態では野菜でも果物でも大きなものはとれないからである
人間の宿命は自然を破壊しなければ生きていけないのである
もし人間がいなければ大規模な自然破壊は起きないからそれは原始の自然でありそこに荘厳な美がそのまま維持されていたのである

津浪で驚いたのは田になる前の自然状態が再現されたことなのである、縄文海進が再現された、縄文時代の海が再現されたことなのである
海を干拓して田にして塩害を防ぐために防風林として松原を作ったがそれが津波で根こそぎ流されて元の原始状態の海にもどったのである

そもそも松原ができたのと漁業のためではない、農業のためである、稲作で田を作るために人工的に作られたのである
つまり農業の拡大のために松原が作られたのであり漁業関係者にとって松原は別に必要ないものだったのである

文明は人間の技である、その技(わざ)は災い(わざわい)をもたらす宿命にありそれで文明は最後は滅びる運命にある、人間の業(カルマ)だとなる
職業自体が業(カルマ)だというときそうである
人間にはいろいろな職業があるとして必ずそれがいいものとして働くわけではない、何か必ず悪いものとして働くことがある
それはあらゆる職業に言えるのである
別に農業などは悪いものでなくてもそこにも業(カルマ)がある
人間は悪いと思っても食べるために職業をやめるわけにはいかない、それでインドでは仕事をしないことがカルマから脱する道だとなったのかもしれないのである

津波が人間に示したことは何なのか?
なんでこんな非情なことを自然はするのか?
それで天を神を呪った人もいることがわかる
ただそれは人間の業としてカルマとして必然的にそうなったともみる
例えば仙台の若林地区などは仙台市街から住宅地が拡大して無理があった、そこで不動産屋が学者が津波が来るとか警告したとき怒っていたという、地価が下がるからだという
現実に阿武隈川をはさんで岩沼になると一千万地価が高くなるという、それだけの差があったのである

都市化も文明化の拡大であり海側に無防備に住宅地を広げた
それで不思議なのは遠見塚古墳と波分神社があったけどそこまでは津波は来なかった
それも何か人間は自然に逆らって無防備に米を作るために海側を開拓したからだとなる
でもそれは人間の業(カルマ)でありどうにもならないという面があったのだ
人間の業(カルマ)はとめることができない、それで文明も必然的に滅びてゆくとなる
そういうことを津波は人間に示したのかもしれない
それだけ自然の力は人間の技よりはるかにしのぐ想像を絶する強大なものだったのである

つまり今回の津波よりさらに大きな津波が来ないとも限らない
一千年とか二千年とかの単位で見ればそうした巨大な津波が起きているからである
人間の時間単位はあまりにも短すぎるからである
だから人間は自然でも宇宙でも計ることはできない
逆に計られている存在なのである、その小ささを意識すべきだがそれができない、科学技術でもそうである
その力を過信して逆に原発事故のように想定外のことが起きて取り返しのつかないことになった
それはやはり神の力に人間の力が砕かれたとなるのである
科学技術によって人間は神のようになると信仰にもなっているがそれがもろくも砕かれたのである


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遠見塚古墳があり波分神社まで津波は来なかった
海岸深くもともと海が入り込んでいたのである
ただ高速道路が壁となり津波をさえぎったのである
だから高速道路などが津波には効果的だったとなる

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2019年03月23日

慶長奥州地震と相馬中村藩の復興(岡田清一)を読む (石高の極端な変化が数字で示された有力な証拠となる?)


慶長奥州地震と相馬中村藩の復興(岡田清一)を読む   
(石高の極端な変化が数字で示された有力な証拠となる?)


この題名でインタ−ネットでPDFて論文が出ます

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慶長津波の有力な証拠となるとこれだったのか?
宇多郷がなぜこれほど甚大な被害だたのか?
これは石高だから米の被害である
すると宇多郷では今の相馬市ではそれだけの収穫量があったのか?

なぜなら海側だと田は少なくなる、ただ海側に向かって開拓されていたのか?
新田は松川浦に近く開拓された場であり元禄の碑があった
でも元禄時代に広く日本では開拓開墾されて田が増えて米の収穫量も増えた
元禄時代は芭蕉が活躍した時代であった
華やかな時代になった

でもその前となると元和が1620年で終わり元禄時代は1688年にはじまる
その間に60年以上の年月の差がある
ただ慶長時代からすでに開拓開墾は行われていた
でも不思議なのは津波の被害となるのは海側である
つまり海側はそれほど収穫高が高いとも思えないのである
それでも開拓されれば田の面積は広くなるのである

例えば八沢浦とか明治になって開拓されたし小高の井田川浦は大正になって開拓された
そういうふうに海側が開拓されるのには時間がかかっていたのである
北郷が南相馬市の鹿島区が被害が少なかったのか?
それは海側にまだ田が広がらない、開拓されていなかったからなのかとなる
現実に右田となるとそこは人は住んでいなかった、港でもなかった
ただ海老村には弥生時代から人が人が住んでいた
そこは高台になっていたからである
でも今回の津波では壊滅的被害を受けた
そこには港の機能があり漁業もしていたことはわかっている

わからないのは宇多郷の今の相馬市とか松川浦の被害がなぜこれだけ多いのか?
そんなに田があり米が収穫されていたのか?
ただ宇多郷は磯部なども入っていてすでに佐藤氏が支配していて港機能もあった
そして慶長津波の前に波に浸食されたとかで鬼越館に移った
その手前の日下石まで津波は来たのである
そして本当に磯部は村ごと今回の津浪で消滅したのである
つまり田の面積が広いということは相馬氏が支配する前からすでに開拓されて広かったともなる
それと宇多郷は今の相馬市地域は伊達藩の領域となっていた
だから伊達藩のときから開拓されて田の面積が広がっていたともみる
伊達藩の方が相馬藩より古く地力があり技術的にも進んでいたからである
そうでなければなぜ宇多郷だけこんなに石高が減っているのか解せないのである

そして中の郷も南相馬市の原町区の被害も大きい、でもこれもそんなに海側に田が作られていたのか?萱浜(かいはま)などは低湿地帯であり越中などの移民が入って開拓したとあるからその時に田にはなっていないはずである
ただ北泉とか高いと見ていても被害が大きかったからその影響なのか?
それも良くわからない

小高についてはこれも鎌倉時代辺りに今の城のある鉄道の通っている前まで海であり港の機能があったことは知られているし地名でも残っている
それもまた田ではないのだからそれほどの被害があったとは思えない
ただこの数字はやはり被害としては妥当なのかともなる

つまり慶長津波があった時代の田がどの辺まであったのかという研究が必要になる
この数字はやはり有力な証拠になるからだ
この数字からはすでに広く海側に開拓がすすんでいたのだということになる
でも資料があまりにも少ないということで実証できないということは確かである
それで現実に慶長津波が本当にあったのかどうか確証がもてないのである

そしてこの表で最も注意すべきは

宇多郷で慶長津波があったとしてそのあとの元和で6パーセントの石高になったのに
その後の寛永(1639)で二倍にもなっている

北郷では南相馬市の鹿島区では5倍ちかくになっている  

他は津波前の現状回復になっている

つまり北郷では南相馬市鹿島区では慶長津波があったとしてそれほど被害がなかった、そしてその後に飛躍的海側の開拓が進んで石高が5倍近くになっているのだ、それだけ右田などとか大内辺りとか海側に開拓がすすんだとなる
ただ海側だけではない、山側でも開墾されて田が増えたのである
ただ津波があったとして影響を考えると海側への開拓が進んだ結果として石高が増大したとなる

それで小高から相馬氏の城を今の相馬氏の中村へ移転したというのも何か津波と関係していて宇多郷の石高が倍以上に増大したのかもしれない、それで復興のために移転した説が生まれたのかもしれない
城が移転したということは行政の中心が移転したとなるから力が入るからである
ともかくの資料はかなり津波の証拠の資料となるかもしれない
ただその他に資料となるのものがあまりもに少ないから不確定要素が大きすぎるから未だに証明できないのである

ただ今回の津波は相馬藩だけではない伊達藩のことについてもかなり知る必要がある
相馬藩の歴史は伊達と敵対したとしても一体化していることもあるからだ
それは山元町に今回自転車で行って回りわかったのである
古代でも浜通りと相馬藩内の延長としての歴史が記されていたからである

またわからないのはボーリング調査でも不思議に800年代の貞観津波の砂は出てくる
松川浦の奥でボーリング調査したのは今回の津波の7年前でありそこでも出てきた砂は
貞観津波のものだったのである、それから山元町のボーリング調査では弥生時代の津波の砂がでてきた
不思議に慶長津波の砂はボーリング調査ではでてこない
これはなぜだろうともなる、まだ調べ方が足りないからだとなるのか謎である

いづれにしろ私自身も今回の津波を追求しても資料がないということで調べようもないのである
ただここでの石高のこれだけの変化があるということはやはり大きな証拠になる
これはやはり津波の影響だったしか思えないのである

ただ相馬藩政記には生波で700人溺死と二行しか記されていない
その他一切記されていなのはなぜか?
そして戦国時代でありその戦いのことは事細かに記されていた跡継ぎ問題とかも記されている、そして江戸幕府が開設されたとして時代は戦国時代であり政治は安定していなかったのである
相馬藩でも相馬氏が支配したとしても安定していない、いつ反撃があるからわからない時代だったのである、そういう政治状況も影響していて津波のことは詳しく記されなかったとなる
でも依然としてなぜこれだけの被害があったのに資料も残らない、語られないということは謎として残るのである

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2019年03月20日

山元町の津波の被害 (前にさえぎるものがないと被害が大きくなる)


山元町の津波の被害                         

(前にさえぎるものがないと被害が大きくなる)

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黒く盛り上がる波が怖い

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磯崎山

津波がぶつかってせりあがったようになった
辛うじて御堂は残った

ここしか高い所がない、だから被害が大きくなった

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中浜小学校に残った松
これも海が近いのだから枯れてもいいが枯れていない


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津波の後に残っている松と木

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八重垣神社の松、ここも海が近いから良く枯れずに残っている

山元町郷土資料館

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弥生時代は古い

でも・・・・千軒とか伝説が各地にありそれが消えた、それは津波とかのためだったこともある
南相馬市の鹿島区の海老千軒とかも言っているからである


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白いのが津波の砂の堆積

硝子に自分が映っていた




山元町の磯崎海岸に上ったら土地の人と話できた
その人は毎日散歩のために上っているという
それでいつも港に停泊している船を見ているが漁に出たのを見たことがないという
津浪はこの磯崎海岸も襲ってここも危ない所だった

なぜ山元町の被害が大きかったのか?
津浪は地形の影響が大きかった、山元町を見るとさえぎるものがない
その海岸近くにある家も多かったとすると被害が大きくなった
山下駅の海側にも家が結構建っていた、それをいつも電車から見ていた
仙台に近いから山元町は通勤圏にもなっていた

その人は何か不動産屋らしい、それで阿武隈川を越えて岩沼になると土地が一千万高くなると言っていた
建物の値段は変わらないが土地の値段が高くなると全体的に高くなると言っていた
一千万も高くなるとその差は大きい

それからなんでも小高の人が農業やるために移り住んだという
その人は土地を買いあさって農業をはじめたという
それは補償金を一杯もらったからだと言うとそうかとその人は言った
山元町の土地は安くなっているから買いやすくなっていたのである
ただこんなところにも小高の人が金があるから土地を買っていたとかなる
新地辺りにも小高の人は土地を買って住んでいる
一方で山元町では人口が減っている

死者 637人(遺体未発見の死亡届17人および震災関連死20人を含む)
家屋の被害(平成25年5月24日現在)
全壊 2,217棟(うち流出1,013棟)
大規模半壊 534棟
半壊 551棟
一 部 損 壊 1,138棟

この被害は凄い、全壊が2,217棟というのはそんなに家があったのかとなる
その辺を行ったことはなかったから残念だった、津波の前の状態がわからないからだ
なんでも磯崎山で聞いたのでは三方から津波が来たという
そういう話は聞く、そして渦巻いたりしたということ聞いたから恐ろしい
映像を見ても黒い波が盛り上がり瞬間的に高くなる
その光景は今さらながら空恐ろしいとなる

ただ不思議なのは山元町というとき山元だから山側を中心に発展した町かとも思った
そして山下町でもそうである、そもそも海側にはそんなに人が住んでいなかったのかもしれない、ただ漁港があり江戸時代の神社もあるからそれなりに古いのである
浜吉田だと浜が近いとなる地名なのになぜ山元町なのか?山下駅なのか?
それが不思議に思った、これも単純な疑問ではある
山寺とありそこが宿場町になっていたこの町名が生まれた

郷土資料館には古代のものが展示してあってわかりやすかった
弥生時代に津波が来てその地層で砂がある所が津波が来たためだという
貞観時代の津波も言われるがここでは弥生時代だから相当に古い
ただ津波がかなり奥まで来ていたという証拠である
そして不思議なのはここでも慶長津波については何も語っていないのである
何かこのことがわからないのである

山元町は電車で通り過ぎると海の方にも行ったことがなかった、それが失敗だった
ただ津波の跡は枯れずに残った松とか中浜小学校などに生々しく残っている
本当に海のすぐ側の小学校で屋上に逃れて助かったというのも判断が良かったからだったなぜなら地震から10分後に津波が来たというからだ
この辺では40分後だったのである、それ良くとっさに判断したと思う
やはりあれだけ海が側なのだからそれで判断できたのかもしれない
津浪でもあの小学校は流されないし屋上に逃げた助かったというのも津波の教訓である
ビルのような建物は流されないのである、だから高い所に逃げれば助かるのだ

山元町くらいまでは相馬の続きという感じになる、ただ山元町については調べていないのも失敗だった、ただ電車で通りすぎる町だったのである
ここは浜街道として連続したものとして知るべきだった
結局電車とかバスとかで交通を頼っていると本当にその土地のことがわからないなと思った、その土地に寄ったりもしない、ただ通り過ぎるだけだからそうなっていたのである
仙台には常に用事があって行ってもここには寄らなかったからだ
現代とは交通の便がいいから途中をぬかしてしてしまうのである

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2019年03月13日

なぜ津浪で神社が被害をまねがれたのか? (もともと高い場所に建てられていたから)


 なぜ津浪で神社が被害をまねがれたのか?

 (もともと高い場所に建てられていたから)


 神社がなぜ津波からまねがれたのが多いのか、津波からすれすれで助かっているのも多い、それはもともと神社は高い所に建てられる傾向がある
高い所に神様が棲むとなるからだ
そしてもともと古いとなると海側だと湿地帯が多いから低い所に神社は建てないのである例えば八沢浦は明治以降に侍が開拓した土地である
もともと海だったのである、だから社も低い場所にあり流された

古い神社はたいがい高い所にある、相馬市でも津神社(つのみつ)がそうでありその下の・・神社もすれすれで助かっている
烏崎の八幡神社は奇跡的にすれすれで助かっている
それを見て不思議であり奇跡で神様が住んでいたからだとなる
でももともと高い所に神様を祭るからそうなっている

別に海側でなくても社は高い所にある、玉野村の神社でもそうだし山津見神社も岩をよじのぼり隠されるようにしてあった、それは佐須にある分社である
あれにくはそもそもそこに社があると気づかないのである
とにかく神社は高い所に祭るのが普通なのである
そして海側になると海とか湿地帯になっていて人は住んでいなかったからである
原町の萱浜でも住んでいない、照ア神社でもすれすれで助かったというときも低い場所はもともと海であり湿地帯だから神社は建てられないのである

そもそも縄文人が住んでいた場所などはまず津波の被害には合わない
縄文海進があり深く海が入り込んでいたからである
その縄文海進状態が津波で再現されたのには驚いたのである
ただ鹿島区の海老村でも烏崎でも実際は古い場所であり海老村は弥生時代の住居跡が出てきたという時、古い場所である
そういう場所では漁業をしていたから港としてそこに住んでいたとなる
それは便利だからそうなったともなる
三陸などでも明治にも大きな津浪で一万人とか死んでもやはり港がありそこが漁業に便利だからもどって住んでいたのである

神社というのは本当に9割近くは高い場所にある、古い神社は特にそうである
そしなれば津波の被害に会いにくいのである
だから神社に逃げて助かったという時別にそれは神社が守る神様が守るというのではない別に高い所に高台に逃れれば津波から助かるのである
それでことさら神社が助けたとはならないのである
日ごろから高い場所を避難場所としていれば助かるのである
だから神社が特別な神の力が宿っているとかにはならないのである

それにしても神社には謎が多い、なんの謂れであるのかわからないのも多いのである
それだけ古いからそうなっている、その古いことに意味があるとなる
郷土史でも村の新旧をまず知れというときもそうである
その土地でどの家が新しいのか古いのかを知ることである
それで戦後開墾に入った人たちが本当に矢までも多い
それでそこがもともと古くから住んだ人たちなのか錯覚する、まぎらわしていのである
それはどこでも日本ではそういう人たちが戦後職もなく開墾に入ったからである
そういう開墾者が入った場所ともともと古くから住んだ人たちは分けるべきなのである

神社とはパワースポットのように何か場所と関係している、なぜそこに神社があるのか?それは場所と関係してあるともなる、ただ神社にはその由来が不明なものが多すぎるのである、だからそれだけ古いから由来もわからなくなったとなる
それで津浪で神社に逃げたから助かったから神様のおかげだったというのも疑問なのである、別に高い所に高台に逃げれば助かるのが津波だからである
その高い所にちょうど神社があったとなる、だから目印にはなったのである
実際すれすれで助かっているからである
まあ、合理的に考えれば神社が津波から助かった理由がありそれを神様が守ってくれたとはならない、その辺は疑問なのである

タグ:津浪と神社
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2019年03月10日

震災から8年過ぎて・・・・・ (復興特需が終わり旅館も客が来ない)


震災から8年過ぎて・・・・・

(復興特需が終わり旅館も客が来ない)


テレビ放送していた三陸の旅館も最初はボランティアとか来て復興特需があった
だからこれならやっていけると見込んで県から金を借りて復興を目指した
でも最初は良くてもその後は客が来なくなった
津浪で砂浜もなくなったとか前のようななごむ風景がなくなったとかある

結局いつまでも復興のために応援する人はいない
みんなむしろそうした旅館とかホテルに行くのはリフレッシュするためなのである
でも今でも何かそういう被害地にはみんなまだ応援しなければならないと強制される雰囲気になる、するともう行きたくないなとなる
だからアドバイザーがいかにそうした雰囲気から脱出するのが課題としている
いつまでも津波の被害にこだわりかわいそうだから応援してくれでは客はもう来ないと言っている

これもそうなのである、震災から8年過ぎているからだ
でもあまりにも被害が大きすぎてその傷は癒されないのである
そういう場所に観光で遊びくつろぐというわけにはいかないのである
この辺だって何か避難区域になった小高になるとどうしてもそうなる
俺たちは被害者なのだ、俺たち援助されるべきだ
予算を病院再興もするべきだとなる
それに反対するのは冷たい奴だ、同情心もない人間じゃないとまでなる
それで何か言うとお前は傷に塩ぬって楽しいかとかなる

そういう人たちと場所とはかかわりたくないともなる
ただ南相馬市はさけることはできない、なぜなら同じ南相馬市民であり浪江でも近いから傍観しているわけにいかないのである
現実に原町区や鹿島区や他でも相馬市でも相当数の避難民が復興住宅などで生活しているからである

何か現代社会は被害者とか障害者と病人とか弱者に手厚い社会である
それが悪い訳ではないが、それが何かかえって特権化している社会なのである
かわいそうと思わないのかとなり普通の人が暗黙の内にでも責められる社会なのである
一旦そうして被害者になるとそれがもういつまでもつづく
一代でも終わらない、それを証明しているのが韓国とか沖縄なのである
そのために責められて援助を強いられる、日本は韓国国民を苦しめただからその賠償は終わることがないとなる

原発事故の地域とそうでない宮城県とかの海岸線はまた違っている
原発事故は手厚い補償がありそれで生活に困らないとかある
でも宮城県とか岩手県にはない、原発事故だったら復興資金を借りても返済などしなくてもよかったろう、でも返済が迫られて多くの会社が苦境にたたされて倒産したりやめるとなる、原発事故地域ではかえって多額の補償金をもらって喜んでいる人たちもいる
ただ表面上は苦しいと言うことはある、それは人によっていろいろである

でも観光となると本当にむずかしい、観光とは何か癒しとか安らぎとかを求めているからだ、そこで何か被害地として犠牲者のことを延々と語ることも8年過ぎると問題になるというのもわかる
ただそれだけ被害が大きすぎたからどうにもならない責められないということもある

おそらく原発地域だっていろいろあっても飯館村などでも復興はしない
それは時間でしかしないのではないのか?
昨日飯館の森の中に入ったら樅の木新しく根付いて育っていた
それがなんとも瑞々しく感じたのである
新しい命がここにもやはり育つのだなと新鮮に見た
別にそれが放射能に汚染されいるとも見えないのである
小鳥はさえづり山にひびいて気持ちよかった

ただ人間と比べると村に子供も帰ってこない、立派な建物の学校ができても若い世代は子供は帰って住んでいない、それでも保育所とか無料にしたとかで人気にもなっている
そこで子供は暮らし住んでいない、学校には村外から通っているのである
放射性物質の汚染で自然が死んだとはなっていないのも不思議なのである
それが放射性被害の不思議さだった
実際は眼に見えなくても放射線とは怖いものだという、レントゲン写真で放射線をあびることは150日寿命を縮めるとかいう研究者兼医者もいる
だから正直放射線被害について私はわからないのである
細胞が成長する子供には特に影響するとなると親がそういう場所を避けるのは同にならないともなる
思うとすぐに解決する問題ではなくなっている
何か手っ取り早い方策がないのである

そういことでこれはもう時間が解決するしかないのかともみる
セシウムは30年で半減するというときそのことを象徴している
それだけの時間を待つ他ないのかとなっているのだ
そんな時間を待てないというのもわかる
でも方法がないのである、30年後でも50年後でも百年後にでも時間が解決するのを待つほかないのかと見てしまう
そうすれば森でもセシウムは半減する、その前に除染しても無駄な感じになる
森からいくらでも放射性物質が流れてくるからである
今なぜまた溜池の除染を方々でしいるのかというのも疑問なのである
それより補償金をたりない所に配った方がいいともみるのである

人間は普通の状態でもある家に病人がでたり何か負担になることがあると人はよりつかなくなる、私の家でもそうだった
それはそういう所に行くと負担を感じるし現実に負わされるからである
そこには重苦しい雰囲気がある、だからよりつかなくなるのである
それと三陸の旅館がにていたのである
最初はボランティアが来たとしてもそれを継続はできない
みんな癒しとか楽しみたいとして本当は来るからである
特殊事情で一時的にボランティアなどが来たがそれを継続できないのである

そしてその被害をいつまでもひきづると人は余計にこなくなる、来ずらくなるのである
俺たちは被害者なのだとそれはもう終ることがないのだ
援助されるのは当然だ、ここに来たら寄付金を出すのが人情だとなるからである
でもそういう状態から解放されるのは本当に50年とか百年とかの歳月が必要なのかもしれない、それだけ被害が大きすぎたのである

水産関係とか漁業とかは農業でも林業でももともと衰退産業だった
そして高齢化社会であり跡継ぎがいないとかなっていた
そのことを言う人がいたのもわかる、そういう弱体化した地域に津波が原発事故が襲ったのである、だから致命傷にもなったとなる
人間は暗い雰囲気の所に行きたくない、店でも暗い場所にあると飯もうまくないとかなる人間は明るい場所を好むのである、だから店の立地は明るい場所がいいのである
とにかく暗い重い雰囲気とか被害者であり応援する義務があるとかなるとそこで日ごろの仕事で疲れた体と心も癒せないのである

別に通り過ぎるくらいならい、現実に旅館に泊まらないで去ってゆく人が多いという
今も津波被害を語る会があるからである、それを聞いたら泊まらないで去ってゆくというのはくつろげないからだろう
人だって何かそういうことを未だに強制されているのである


俺たちがこうなって仕事もなくなったとか何が失ったとかこうなっているのは全部原発事故と津波のせいなんだということが言葉になくても重くのしかかるのである
現実は何もすることもなく朝から酒飲んでアルチュウになったというのも浪江の人にもいたのである
それだってみんな東電や国のせいだとかしていれば責められない、むしろ生業を返せとなりそれが補償金もらうために協力しろとなる
沖縄でもいつまでも日本人のために沖縄はひどいめにあったとその被害を今も訴えつづけている、韓国でもそうである、それでそういう場所には近づきにくくなる
人があまりにもそういう心の状態にあると地元の人とふれにくいとかなる
それはこの辺でも同じなのである

南相馬市内でもそうでありそういう被害者とは近づきにくくなる
それも8年過ぎても同じだからそうなる
おそらく十年過ぎても同じである、二十年過ぎても同じである、ようやく30年過ぎてこの辺ではセシウムが半減したとき多少変わるかもしれない
それは一代で終る問題ではない、二代も三代もつづく、それは韓国や沖縄の人たちとにているのである
こうなったのは全部津波と原発のためだとなり毎日酒飲んでいてもギャンブルしても生業を奪われたのだからしかないとされるのである

結局復興が8年過ぎてもできない、インフラはできたが人の心はしていない
それで心のケアが大事だとか孤独死をしない見守りとかに力を入れる
何かこれも時代だったのである、高齢化社会とか第一次産業の衰退と重なりそういうふうになった
でももしトヨタとか車産業が被害を受けたらみんなでなんとか復興しようとするだろう
ローカル線でも衰退している利用しないから津波でやられてももともとたいして利用はしていないとかなる、だからやめた方がいいとなる
北海道でも台風の被害で一部復旧していない、それは莫大な金がかかるからである
それより車の時代なのだから鉄道はやめた方がいいとなる
つまり時代が影響して復興できなくなったのかとみるのである
その手っ取り早い解決方法はない、ただ30年とか50年とか百年の時間が解決するとかしか方法がないのである
いろいろ試してみてもそう感じてしまうのである

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飯館村の森中に育っていた樅の若木

これが大きくなったとき30年後50年後に復興しているかもしれない


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2019年02月25日

松川浦は海の文化を育む地域 (春の日に釣人と魚の話)


松川浦は海の文化を育む地域

(春の日に釣人と魚の話)

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船越観音でも津波が襲い辛うじて社殿は残った
ぎりぎりだったのである

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ホシカレイ



親潮(おやしお、Oyashio Current)は、別名千島海流(ちしまかいりゅう、Kuril Current)とも呼ばれ、千島列島に沿って南下して日本の東岸を通過する海流です。栄養塩が豊富で、「魚類を育てる親となる潮」という意味で付けられました。北海道、東北地方に良い漁港が多いのはこのためなのですね!その濃度は黒潮の5〜10倍あり、春になると植物プランクトンが大発生し、緑や茶色がかった色になります

 松皮鰈、松川鰈。由来・語源 

■ 多くの文献に本種の表側(有眼側)の鱗がかたくザラザラしているのを松の幹の表面のようであるからと記載される。
■ 田中茂穂の『魚』(1940年、創元社刊行)に「まつかわ」は茨城県、福島県の呼び名であるが一説に『茨城県鹿島郡夏海村松川(今のどこに当たるのか?)で多くとれたためについた」と記述されている。
■ 福島県松川浦にちなむ。

アブラガレイ ガヤマガレイ カワガレイ カンタカ キビラメ キマツカワ サンクワウ シロマツカワ タカガレイ タカノハガレイ タカハガレイ タンタカ ニシキガレイ バカハダ ハトガレイ マツカワ ムギガレイ ヤマブシ ヤマブシガレイ 


マツカワカレイに並ぶ高級魚のホシカレイ。
身がしまっていて味が濃い白身です。
刺身で提供します。
  
カレイには種類が多く、日本近海だけでもメイタガレイ、アカカレイ、石ガレイ、ババガレイ(ナメタガレイ)、ヤナギムシガレイ(ササガレイ)など40種以上もあります。また、北海道から九州まで広く分布しているため、地方によって呼び名も味も旬もいろいろあります

城下鰈(しろしたかれい)

その美味は古来より知られており、江戸時代には武士しか食べることができなかった[注 1]。また、日出藩では端午の節句の全員登城の際に城下かれいの料理が出され、そのために4月頃から一般には禁漁にされたともいう[6]。城下かれいは、将軍への献上品とされて珍重されていた。通常は、参勤交代の際に干物が献上されていたが、閏年には端午の節句に間に合うよう、生きた城下かれいをいけすを備えた船や早馬を用いて江戸まで運んだといわれる
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松川浦史実伝承編

古今和歌集の「世の中は 何か常なる 飛鳥川 昨日の淵ぞ 今日は瀬になる」という歌だという

お堂の左手には鹿島神社があり、左奥には錨(いかり)堂というお堂。宮城県岩沼市の千年希望の丘の側でも鹿島神社にお参りしましたが、東北には鹿島神社が多いようです。常陸国一宮・鹿島神宮は天平勝宝元年(749)に万巻上人が神宮寺を建て(「筥根山縁起」)、鹿島大明神の本地仏は十一面観音菩薩とされています(「神道集」)。
 錨堂には、大きな錨が奉納されていました。南北朝時代の南朝の忠臣・肥後の菊池氏の一族が海路、当地に落ち延び、守り仏を本尊として祀ったのが船越聖観音堂だそうです。その末裔「備中四家」は、明治の初めまで船による交易を行っていたとのことで

「夕顔観音」も、そのルーツは下総にあることが分かりました。千葉一族の祖・平良文は夕顔の花を好み、良文の遺言により夕顔の実を割ると、中から出現したのが夕顔観音さまであったそうです。その後、千葉常胤の父・常重が夢告を受け、夕顔観音菩薩を本尊として樹林寺(千葉県香取市)を建てました。慶長5年(1600)、関ヶ原の合戦の功績によって下総多胡藩から信濃高遠藩に移った保科正光(正室は真田昌幸の娘)は、樹林寺の夕顔観音さまを写したお像を本尊として高遠にも樹林寺を建てましたが、そのお像は、十一面千手観音菩薩です。相馬の鵜の尾岬に流れ着いたという夕顔観音さまも、下総の夕顔観音菩薩を勧請したものなのでしょう


松川浦の貝殻地蔵



海岸の埠頭で魚釣りしていた人がいた、ちょうどホシカレイを釣り上げたところだった
岩沼から来た人たちがそこにいた、これは高級魚である、カレイの種類は多い、日本がだけでも40種類あるとかなる、魚そもそも種類が多いのである
マツカワカレイのことを言うひとがいた
その人はこの近くに住んでいて三日に一度きて釣りをしているとか言っていた
マツカワカレイの名前は松川浦と関係あるのかと思ったがそうではないらしい
有力なのは松皮なのか?
ただ土地の名がつくものとして城下鰈(シロシタカレイ)の話は面白い、城の下でそこだけでとれるカレイであった、侍しか食べれなかったということである
庶民との区別がない日本にしてはこういうこともあったのかと思った
それだけにその魚と貴重だった
この辺では石鰈は年越し魚として有名である、大晦日に食べる魚でもある
不断は値段が高いので食べられないからである
それはやはり冬にあった魚であり身がしまっているのである
その魚すら放射能物質の汚染で食べられなくなったのは本当に残念だった

でも不思議なのはそうした大きな打撃でもノリを作っていてもとれなくなっても
アサリ採りの潮干狩りができなくなっても多額の補償金が船主中心にもらいから生活には困らない、かえって潤っているということもある
それは原発前から相馬双葉漁業組合では漁業権を東電に売ったから金持ちだったのであるだから新しく立派な家を建てたのはそうしした人たちだった
この辺で磯部などは壊滅したから建てた人がいるし原町にもいた
その庭は本当に一千万以上級の庭だから驚く、ほれぼれとする庭なのである
それだけの金が入ったとなる

これも矛盾である、そして魚もとらない漁師がどうしてここに住んでいるのだと自問自答した姿はまさに哲学しているともなる
何が存在意義なのかわからなくなったからである
ただ生活費は補償金として特別支給されているのだから困らないけど魚とらないとしたら漁師ではない、では何になるのか、東電の特別供与社員のようになっていたのであるそれ地域にとっては必要ないものだった
それが原発事故で明らかになったのでその不満が大きいのである
松川浦でもそういう不満を言う人がいたのである、なぜなら港に住んでいても漁業にたずさわる人が全部ではないからだ
だから未だに潮干狩りができないことは本当に観光にとって痛手なのである


石鰈は一匹二千円とかした、それが小高の女の人が前に行商して売りに来ていたのである
この魚を前に姉が生きているとき戦友だった会津の人に送ったら喜んでいた
それは会津ではこうして新鮮な魚が食べられないからである
その代りに見知らず柿が送られてきたのである
その人が原発事故で避難区域になり仮設に住むようになった
その仮設に住んだ人が苦しんでいるかとなるその人にとっては魚の行商しているよりは補償金をもらって仮設に暮らしている方が良かったのである
だから何か苦しいということは見えない、金をもらって喜んでいたのである
そういう人は少なからずいたのである、そこが外から来る人には誤解するとなる
今でも原発避難者にはそういうことがある
津波の被害者はまた違っている、第一家族が死んだりしているからである
もちろん漁業関係者でも津波の被害にあった人が多いからそういう点では同じである
ただ津波にあっても生活では全く困らないのである
例えば宮城県とか岩手県の津波の被害の大きい地域ではそうしした原発補償金はもらえないからである、ただ女川などはもともと同じように漁業者には東北電力から補償金をもらっていただろう、でも東電の補償金は桁外れだった
第一やはり農業と同じで漁業は後継者がいなくなっていた、だから衰退産業であったから農業と同じく原発頼りになっていたのである

漁業はまた農業とも関係していた
この前あった他から来て何か郷土史に神社に異常に興味をもつ人がいた
その人は塩釜市に松川浦でアラを売りに車で運んでいたのである
おそらく肥料にするためだろう、まず肥料はあらゆるものがなる
刀作りでその鉄くずまで肥料にしていたのをテレビで見た、鉄分になるからいいというのである、貝殻でも肥料になるというより酸性をうすめる、アルカリ性にするからいいとなって実際に知っている人がそれを畑にまいた
そうして肥料代でも一年に数万円もかかる、それを私が支払っている
しかし収穫はほとんどないのである、ネズミに食われた盗まれた、天候悪いとかなりほとんどとれないのである、でもそこにカンナが咲いた時大きな花で映えたからいいなと見ていただけである 

漁師のことはなかなかわかりにくい、二三日前の魚を漁師は食べないというときもそうである、それだけ新鮮なものがうまいからである、そういうものを食べられるのはまさに漁師だけだとなる、他にもいろいろあるがわからない
まず松川浦は外から移住してきた人たちが先祖である
それは漁業だと余計そうなりやすい、漁の技術でも西の方が優れていたからである
それで錨堂であれそうした由来が記してる、ただ平地でもこの辺は第一相馬氏が移住して作られた藩だったことでもわかる、当然千葉氏なども同族だから関係しているのである
松川浦は海の文化をもった地域である
それはやはり松川浦が漁港に適していたからである
そうした入江になっている所が福島県でも仙台までないのである
亘理の荒浜はなっているが他にない、でももともと八沢浦は入江でありそれが津波で再現されたときは驚いた、あそこも大きな船が過去に入ってきていた港の機能があったのである

いづれにしろ海の文化として松川浦はありそこを探求する必要がある
それは魅力的だとなる、まず阿武隈高原を越えたら山国であり海の文化はないからである福島県は会津の山と海の文化がある地域として今もある
それをいかに活かすかとなる、だから原発事故の被害は津波の被害より実際は致命的だったのである
8年すぎても未だに潮干狩りとかができないことでもわかる、こんなに影響するということを誰も真剣に考えなかったのである
ただ松川浦は漁業だけではない、貨物の出し入れとか火力発電所があり石炭も船で入れているし最近はガス事業が大規模に行われている
ガスタンクが作られたしそれで新地の方までその関係の仕事の人がやってくる、そこが働き口ともなる、発電所は雇う人数が千人とか多いからである
だから津波の後でもそうした関係の仕事が増えて復興にはなっているのである

それでNHKのテレビで松川浦の女性のことを放映していた
漁に出た夫のことを心配して安全を祈る、それは海では必ずある、海がしけると遭難がある、海は危険な場所だからである、それで安全を祈るというのは文化ともなる
それは切実だからである

それで俳句にしたのが山の方に春の太陽が沈んでゆく

船無事に帰るや山に春陽没る

こういうことが海の暮らし漁師にはある、ただ海の暮らしとか文化というのもわかりにくいのだ、魚の種類からしてし多すぎるからである
ただ海の文化として松川浦を探求して知ることが不可欠である
津波が400年前にあったとしてもそのことが研究もなにもされていなかったのである
それで私がホームページで松川浦のボーリング調査したことを報告した
かなり奥まで津波が来た砂が発見されたのである、それは貞観津波の(800年代)のものだった、慶長津波のものではなかったのだ
ただなぜ諏訪神社に津波で流された舟がとまったとかの伝説があるのか?
それは小泉川を津波がさかのぼって船を運んだからだとなる
川をまず津波はさかのぼるからだ
それで本当に自分の家は川の側であり川を津波がさかのぼった街の中心部までさかのぼったので恐怖だった、土手からあふれたところもあった
それでそういう伝説が残っても不思議ではなかったのである
いづれにしろこの津波の話は尽きないとなる
ただ8年過ぎて冷静に振り返るようになったのが違っているだけである

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遠くにガスタンク見える
火力発電所も見える、ここは広大な地域なのである

次は俳句短歌の部で語る松川浦の春です




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2019年02月24日

松川浦の津波はどうだったか? (地形は自ら歩む、自転車で地形を感じる、地図では土地の高低などがわからない)


松川浦の津波はどうだったか?

(地形は自ら歩む、自転車で地形を感じる、地図では土地の高低などがわからない)

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青い線は津波前からあった

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川口神社 鳥居と石碑は流された
でもここは高いから神社は残った
なぜこんなに高い所に作ったのかとなる
それで神社は津波からまねがれたのが多い


この線よりは下だった、もともと青い線は津波の前からあった
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この松が枯れずになぜ残っているのか?
ここまで津波が上がらなかったのか?
塩水をかぶれば枯れているはずだが?

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相馬共同火力発電所がある方でも小泉川の方におしよせた
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この神社の石段まで津波が来たが社のある所には来ていない
だから石段を上り避難すれば助かった
ただここは別に津波の神社ではない
津神社はみんな津波とは関係なかった
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墓地で津波がさえぎられたという不思議

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おそらく今日聞いた墓地の所で両側から津波が来た
そういうふうに一方方向でない、地形により津波は変化する
ある所で渦巻いたというから空恐ろしいものだった

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○の所が墓地である
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この墓地で津波がとまったというのも不思議である
そんな効果が墓石にあったのかとなる


松川浦のホテルが津波に襲われた映像は衝撃的だった
松川大橋の下を津波がおしよせた
今日行ってみると川口神社は高い所にあったが鳥居とか石碑が流された
そこに立つとホテルが見えた、そこは低い場所だった
坂道になっていた
これも不思議なのだがなぜ川口神社もあんなに高い岩の上にあったのか?
あそこまでは津波がとても届かなかった
低い場所には津波が襲い被害が大きかったのだ
ホテルに青い線があったがあれは津波の前にもあった
youtubeの動画の映像に映っていた
あの線よりは下だったのだろう

津神社(つのみつ)でもそこの神社がある所までは津波は来なかった
でも石段までは来ていたのである
道を津波が上っていったのである
ただ津神社の境内に入れば助かった

それからぐるとまわって船越行く所に墓地がありそこで偶然そこに住んでいる人に聞いた

「あの墓地の所で津波が止まったんです」
「ええ、あの墓地で止まったんですか」
「ええ、向こう側は被害があったんです」
「あの墓地でね、そんなことがあったんだ」
「そして右側からも尾浜の方から津波が来たんです
それから原釜の方からも津波が来たんです
両側かから来たんです、それは恐ろしものでした」
「両側から来たんですか、それは恐ろしいですね」
「避難所に逃げたのですがその途中で津波に襲われた人がいるんです」
「そういう人もいたようです、逃げるにも津波は早いからぎりぎりだったった」

津波は逃げる途中で確かにさらわれて死んだ人も多い、車でもそうだった、逃げきれなかったのである、それは車が渋滞とかなって逃げ切れなかったのである
一刻を争う時車は障害物にもなったのである
あの墓地の近くの船越観音も高い場所にあり津波から残ったのか
錨堂などがあった、とにかく原釜の被害が大きかった

ただ相馬共同火力発電所は海に近くそれなりに津波も襲ってきたのだから被害が大きくても良かったがそれほどでないとも聞いた
原町の火力発電所は海に面して突き出た所にありもろに津波に襲われて被害が大きかったそこで私は原町の火力発電所から煙が出たのを見た
火事になったのである、原町火力発電所の被害は甚大だったのである

 当時、発電所には社員やPRセンターを訪れた家族ら約1100人がいた。全員が1号機のタービン室に避難したが、津波で建屋1階が浸水し丸1日孤立したという。
 貯炭棟といった施設や変圧器などの電子機器は全て水浸し。石炭を運ぶベルトコンベヤーは壊れ、揚炭機2機は大きく傾いた。その南側には石炭船が座礁している。

ここもは被害は大きかったが原町火力よりは早く復旧したのである、原町火力は被害がやはりこちらより大きいから復旧が遅れた
いづれにしろ津波から8年になるがだんだん忘れるということがある、他からも忘れられるということがある
ただ今になると冷静に見れるので再検討した
それにしてもあんなに海に近いのに原釜の松が枯れていない不思議がある
原釜の家の被害は甚大であり壊滅状態だった、今は高台になったいる
それから大きなタンクはガスタンクでありここが供給基地となり今も大きな工事をしている
ここはだからもともと人数として多く働く場だったがガス関係でまた働く場が増えたとなる

今回松川浦全体を回りわかったことは

地理は地形は歩くか自転車かで踏査しないとわからない、地図を見てもわからない
土地の高低が地図を見てもわからない

これをつくづく感じた、人間の五感に優るものはない、地形を地勢を知るには自らの足で歩み感じるほかないのである
今回の新しい電動自転車は役にたつ、機動力があるからだ、すいすい坂でも行けるからである
すると地形もわかりやすくなるのである

そして錯覚したのが松川浦では結構高台に家があり松川浦が全滅のようにテレビでは見えたがそうでもなかった
低い場所の被害が大きかったのだ
テレビはやはり錯覚をもたらす、実際に知るにはその現場を自ら歩み五感で知ることである
テレビの画面からだけでは錯覚を生むのである
とても立体的な地理をテレビの画面からだけでは知りえないからである
のである
これはどこでも津波の教訓だったのである

低い場所は津波には弱かったのである
だから低地に家を建てるのは海に面していたら危険だったのである
ただ高台は不便だから低地に家を建てるようになったのである
もともとは最初は高台に人は住んでいたのである
そのために古い神社はたいだい高台にある
その高台に人家もあったとなる
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2019年02月22日

神社が津波の被害からまねがれたのはなぜ (古いものは何か理由があってその場に作られ人が住んだから)


神社が津波の被害からまねがれたのはなぜ

(古いものは何か理由があってその場に作られ人が住んだから)




福島県南相馬市小高区浦尻前田 綿津見神社

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泉官衙遺跡
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ここも丘によって津波がさえぎられ被害が少なかった

原町区下高平鎌倉時代中世遺跡群
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桜井古墳の手前までも津波が来ていた     
古墳も古いから高台にあるのが多い                  

南相馬市鹿島区烏崎八竜神社

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磯部(寄木神社)
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相馬市松川浦津神社(つのみや)  
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津神社から下に原釜がありそこに家が密集して被害を大きくした
そこはやはりもともとは新しく住んだ人たちだとなる                            


津波で不思議だったのは古い場所が神社が建っている所が高台にあり被害をまねがれた
小高の綿津見神社からたどるとそうである
その前に沼があったがあれは津波でできたものかと思ったら津波の前にあったのだ
それも不思議である
どうして沼ができたのだろうとインタ−ネットで報告していたサイトがあった
するとあそこに慶長津波とかで海の水が押し寄せて沼ができたのか?
あそこに水がたまりようがないからである、これは謎である
ただあの綿津見神社も辛うじて津波から残った

それから原町区の泉官衙遺跡も丘の裏側にありそこで津波が弱められて大きな被害にはならなかった
この地形の影響が本当に津波では大きかったのである
津波の勢いが弱まるとそれほど被害がない、松島でも勢いが島が障害物になってそがれて水は徐々に上がったが強烈に押し寄せることはなかった
そもそも津波は物凄い水の塊りとなって圧力があまりにも強大となりそれが大被害をもたらしたのである
だから水の勢いを弱くするとそれほどの被害にならなかったのである
だから地形が影響してそうなった

そして古い場所とかにある神社とか寺と石碑とか見るとそこには津波は来ていないのである、その位置を図で示したように近くまで来ても津波の被害はなかったのである
ただ烏崎とか海老とか磯部はなぜ家が密集していたのか?
それは漁業する港があり便利だからそこに集まったのである
それは三陸とか他でもそうである、明治以降の三陸津波の後でも便利だからとまた元の低地の港に集まって生活していたことでもわかる
烏崎も海老も磯部ももともと港があったからそうなった、そこは慶長津波の400年前からあった、海老は最も古くエヒであり蝦夷が住んだ地域だから本当に古い場所だったのである、そこは高台だったから住んだ
その下の右田は低地であり江戸時代に開拓して住んだから新しいのである
海老村には弥生時代の住居跡があることでもわかる

ではなぜ400年前の慶長津波の記録が残っていないのか?

それは大きな謎だった
ただ八沢浦が入江になり海だったときその奥の柚木(ゆぬき)には津波の伝説が残っていた、

神社の場所が津波の届くぎりぎりの標高にあったことです。標高線と神社の位置を重ねてみると、南相馬市原町区では標高10メートル、相馬市では標高5メートル近くに神社が立地していることがわかりました。また、そのような規則的な配置は古い神社に多く見られて、明治以降に新築・移転されたような新しい神社には見られませんでした。結果として、新しい神社には流されたものが多かったのです。

これを証明しているのが烏崎の八竜神社である、本当に社殿すれすれまで津波が来たが残った、その下は全滅になった
そして平地の津神社は八竜神社の分社であり住む地域が広がってそこに分社したのであるもともとは高台にある八竜神社が元なのである
そこは津波からすれすれと残ったのは奇跡的だった
ただ海老村は一番古い村でも全滅した、それは高台にあり安全だと思われていた地域である

てんとう念仏」と通称で呼ばれている場所がある。
 水田から民家の脇を通って、丘に登っていく。その道が上の写真。 
 <津波が来たときにこの山に登り、念仏に唱えて津波が収まるように祈った>ということから、この地が「てんとう念仏」と言われるようになったという。 

 もうひとつは、すぐ近くにある「急ぎ坂」と呼ばれる坂。 
 <大きな津波が来て急いで駆け足で坂道を登った>というこ

この地域は八沢浦の奥である、もともと八沢浦は海であり入江になっていた
だから人は住んでいなかったのである、明治以降に開拓された場所だからである
それで当然被害があったのは津波が押し寄せたのは人が住んでいる柚木だったとなる
そこに伝説が残されたのは地理をみればわかる

ではなぜ烏崎とか海老とか磯部に津波の伝承が残されなかったのか?

それはいろいろ調べてもわからない、資料が記録が何も残っていないからである
ただその津波が来たとき相馬藩では戦国時代であり争いがあり戦さがありその方の記録は事細かに相馬藩政史に残されている
でも津波の記録は生波(いくなみ)で700人溺死としか記されていないのである
それで伝承があるのかと調べてみてもこの柚木に残っているだけなのである
あとは小泉川を上った所の諏訪神社に舟が流れてきて木に止まったとかいう伝説があるその諏訪神社は相馬市内の奥なのである
それは慶長津波なのか、800年代の貞観津波なのかわからない、相馬市の松川浦から奥でボーリング調査して発見されたもの砂は貞観津波のものだった
慶長津波だとするとやはり柚木村しか残っていないとなるのだ

だから記録が残らないのは磯部村とか海老村とか烏崎村とか他でも全滅して伝える人がいなくなり残らなかったのか?
津波の恐ろしさは村ごとなにもなくなることなのである
草戸千軒とかでせ川の洪水ですべて町ごと消失して今になり何か遺物が発見されている
そういうことが他でもあり、古代のエジプトの遺跡でもそういうことがある
街ごと全体が失われて何も残らないということが歴史上あるからだ

ともかく古いものは何か理由があってその場に建物でも建てられているのである
たいがい高い所に神社があるというときもともと日本は低地は湿地帯で住みにくい場所だった
それで葦原瑞穂の国ともなっている、そうした湿地帯を開拓して田んぼにしたからである
下駄は湿地帯を開拓するために作られたものだったからである
だから川子でも低地はもともと海であり塩崎まで海であり今回の津波で船着まで津波が来たことには驚いたのである
そこには船が奈良時代から平安時代に来ていたからである
この船がどこから来たのかは不明にしても船が行き来していたことは確かなのである
川子でもは八竜神社は高台にあるからだ

そして六号線の海側に津波の被害がほとんどあった
それで六号線は元の浜街道にそって作られたので古い道だったからそこまでは津波が来なかったとなる
それでなぜ山元町があれほどの被害になったのか?
それは六号線の海側に住宅地が広げたからである、あそこは仙台の通勤圏ともなっていたからである
それで有名な元野球選手も住んでいて被害にあったとかなる
つまり何か新しい場所はその土地の成り立ちとか歴史を無視して宅地造成するから被害にあうのである
地震でももともと沼だったような地盤の悪い所に家を建てるから被害にあうのである
だからどこでもその土地の古い場所は安全であり新し場所は何か悪い土地であり危険もあるとなっていたのである

いづれにしろ津波原発事故から8年過ぎてもその傷痕は癒えない、それだけ甚大な被害だったのである、それは戦争の被害とにていたのである
そういうものは簡単に忘れることができないのである


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2019年02月21日

津波は地形による影響が甚大だった (前にさえぎるものがあると被害はすくなかった)


津波は地形による影響が甚大だった

(前にさえぎるものがあると被害はすくなかった)

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枯れた一葉松

萱浜には墓地だけが残った、それも墓は新しくしたものだけだった
古い墓はない、ここには江戸時代の墓もあった

それから遠くの高台の老人施設まで被害があり老人が死んだのも前にさえぎるものがないから
津波の勢いが弱まらなかったからである

南相馬市原町区の介護老人保健施設「ヨッシーランド」は東日本大震災で津波に襲われ、
36人が死亡、1人が行方不明になった。

鹿島区八沢浦の場合
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前に丘があり津波は弱められた

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金沢と北泉の被害が凄まじかった
それは前にさえぎるものがないからまともに津波が襲ったからである
坂でも勢いよく駆け上るように津波が押し寄せたのである

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今日はあたたかいので萱浜から北泉から金沢を回った
一葉松は枯れたので市の方で新しく苗を植えたとかさし木したのか植樹祭をしたという
それでもそこにあのような立派な松になるには百年かかるとかなる
だからそんな松を見るのはもうなかなかできないし先の先である
そうなるとあの松がなくなることは惜しかったなと改めて思う

その近くで松の木を切って仕事している人がいたので聞いた

「ここは被害があったのですか?ここまで津波が来たのですか、床上まで来ましたか」
「床下まで来たよ」
「それは良かったですね、被害が少なくて」
「あの新田川の河口の丘があり被害が少なかったんだよ」
「あの丘ですか、なるほどあれで津波がさえぎられて弱まった」
「でもここから向こう側新田川沿いでは被害が大きかった」
「あそこでは6人くらい死んで家は全部流されたよ」
「それは私も知っています、そこに住んでいた人から連絡ありましたから」

床上か床下かと聞いたのは私の家の近くでも海から3キロ離れても床上になり意外と被害が大きかったからだ、床上になるとどろをかぶるからそのあとかたづけが大変になったからだ、水害でも床上と床下では相当な差があるのだ

とにかく津波の被害が大きくなったのは前になにもない、さえぎるものがない場所で壊滅的な被害があった
それを象徴していたのが石巻なのである
海岸に家が密集していた、そこを通った時なんでこんなに家があるんだと見ていた
それは実際は本当に怖いことだった、津波の恰好の餌食になる場として提供されていたのである
それは相馬市の原釜(はらがま)とかでもそうである
海に接してそこは海水浴場になっているけど家が低い場所に密集していたのである
もしその後ろ津神社(つのみつ)神社の高台の所あれば助かった
そこまで津波が来なかったからだ
低い場所の所は津波で根こそぎやられたのである

まず津波を考慮しないで住宅地を広げすぎたのである、それを今からふりかえると恐ろしいことだったのである、津波に対する警戒心がまるでなかったのである
それは仙台でも同じであり住宅地が海岸沿いに拡大していた
そこに地震が起きて津波が来るとか警告したらその学者に業者が怒ったとかある
売れくなくなる、地価が下がるからそう言ったのである

津波には地形を考慮せよ、その差で被害が大きく変わる

八沢浦でもそうだった、すぐ前が海なのだが丘が前にありその家では裏が山になっているからそんな近くでも津波を見て裏山に逃げて助かったのである

本当に津波は地形によってその被害が大きく左右される

でもそのことを考慮した街作りとかしていなかった、だから海岸沿いに密集して建てた家は根こそぎ津波の被害で村ごと消滅したのである
それも本当に恐ろしいことだった
ただ今になるとなぜ津波に対する警戒心がなくなっていたのか?
それは人間は400年に一度とか来る津波には備えられなかった
みんな忘れていた、それで忘れたころに大災害が来たのである
人間の弱点は経験しないことは理解できない、また何事忘れやすいのである
人間はすぐに死んだりすると忘れられるように次々に起こることで大きなことでも忘れてしまうのである
だから記録して伝えることが大事になるのだけどそれが文書とかになるとなかなかリアルに感じないのである、伝承があったとしてもそれもまた語り継ぐとなるとなかなかできない、だから津波は来ないという固定観念が形成されたのである

いづれにしろ津波は地形を地勢を見ることである
その地形の差で被害の強弱が生まれた、新地の火力発電所は原町の火力発電所のように海に突き出ていないから引っ込んだ所にあったというだけで被害が大きくなかったのであるだからちょっとした地形の差が大きかった

そして不思議なのは八沢浦でも旭化成とかの工場が海岸に接してあったが丘の上にあった原町の新田川の河口でもそうである、丘の上に工場のようなものがあった
結果として被害がなかった、でもなぜそんな所に建てたのか?
そこは田んぼではなく地価が安かったからだろう
田んぼの所は工場にしにくいからである、それで逆に助かったともなる

ともかく日本は災害が多い、土砂崩れとかも多い、山国だからそうなる
そういう地形を見ることは本当に大事である
だからその地形の危険な所に地名から判断するということもある
それより今なら地図でも地形を見ることができるからそこで危険な場所を判断する
ただそうなるとどこも危険があるのが日本だから家を建てる所がなくなるとまでなる
ただ明らかなことはなぜ神社が被害がすくなかったのか?
それは神社は古いから高台にあったからである
古い家はだから津波の被害にあわないことが多かったのである
相馬市の松川浦の原釜とか平地に家が密集したのは新しいのである
ただ鹿島区の海老とか烏崎は古い、だから何らか400年前の慶長津波の被害があったかもしれないが記録に残されていなかったのである

津波から8年になるのがまだ津波の傷痕は消えない、それだけ被害が大きすぎたのである
それが癒されないのである、ただこの津波の被害の教訓を忘れてはいけない
地形が良く知って住むべきだったということである
そして津波を防ぐ効果的な方法は海の前に台地を作ることだったのである
するとそこを波が越えたとしても津波の勢いが弱まるから被害が少なくなるのである
それだけ津波で心すべきことだったのである  

 八沢浦と磯部の地形と神社 (津波との関係は・・・)

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2019年01月28日

宮城県山元町の海岸線の津波による変化 (小湾がいくつかできていた)


宮城県山元町の海岸線の津波による変化

(小湾がいくつかできていた)


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NHKの津波のアイカーブで見たら山元町の海岸線がえぐられて小さな湾にっていた
松原があったがここも全部消失した
そしてこのように小さな湾になった、地形を変えてしまった驚きである

相馬地域でも磯部でも今の六号線からは離れていても広い湾になったことには驚いた
山元町の被害も大きかった、ここでは仙台へ通勤する人が多かった
新しい住宅地が駅前とかにあった、それも全部流された
そして海岸線の変化が激しかったのである

今はこういう地形はなく埋め立てられて防波堤ができているだろう
でも原初の地形にもどったのかとも見る
湾になっていて砂浜があればそこから小舟でも出しやすいとなる
そこで何か魚とか貝とかをとって縄文人が暮らしていたのかとなる

現実に伝説は当時の生活を物語っている

鹿狼山に手長明神(てながみょうじん)と いう手がとても長い神様が住んでいて、貝が大好物だったとか。長い手をぐいっと新地の海に伸ばして貝を拾っては食べていたそう。その貝殻をポイポイと捨ててできあがったのが新地貝塚だったという伝説です。

縄文時代は深く陸地に海が入り込んでいた、だからこういう地形もありえた
ただ鹿島地区ではもっと縄文海進で奥に海がはいりこんでいた
でも何かこの地形は原初にもどった地形なのとかとみる
そこに砂浜があり丸木舟を浮かべれば内湾で魚もとれたとなるからだ

ともかく津波による地形の変化は驚きだった、それは自然の驚異だった
海岸線にいくつもの沼ができたのもそうである
だからこそとにかく沼とつく地名が日本には多い、沼だらけなのである

この地形の変化でも小湾ができてそこに砂浜ができて周りに木が生えたりして自然状態にもどったら景観としてはいいなとイメージした
どうしてもこの辺は湾がないから入江がないから殺風景になっていたからである
湾が入江ができれば小舟でもそこに浮かべやすいとかなる
湾ができるとそこは人間的営みに適したものになる
新地の伝説があるようにこうした湾があってそこで貝をとって縄文人は暮らしていたのである、何しろ奥まで海が入り込んでいたからそこは内湾になり魚でもとれたとなる

例えば南相馬市の鹿島区の江垂(えたり)でも六号線を津波が越えたようにもっと奥の方まで海が縄文時代から入り込んでいた
それが失われたとき忘れられていたのである
現実に魚の骨が桜田山の下から発見されているからだ
魚を食べていたし鹿も食べていた、海の幸があった、だから食生活も貧しいとは言えなかったともなる

ともかくこれだけの変化には驚嘆した、自然は海岸線は変化しやすいのである
それは海の浸食を受けるからそうなる、もともと八沢浦は本当に津波で奥まで柚木の方まで海になったが江戸時代は入江であり船も入っていたのである
それが明治以降開拓されて田んぼになったのである
あんなに奥まで海になったということの驚いたがもともとそこは海だったのである
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2018年05月19日

森と海に船が行く一枚の写真の謎 (2008年,津浪の前に南相馬私立病院で撮った)


森と海に船が行く一枚の写真の謎

(2008年,津浪の前に南相馬私立病院で撮った)

shipphoto1.jpg
この鉄塔は津浪で倒れ壊されたのか?
この辺で鉄塔が倒れ壊されたのを見たからである。
するとこの近くなのか?高台の島商会の手前辺りになるのか?
ただ島商会の駐車場まで津浪が来ていたのである。
あれだけ高いのに来ていたのである。
ただこんなに森になっているのはあの辺しかない


2008年に姉が南相馬私立病院に入院していた、その時撮った写真である。
最上階からか食堂がありそこから撮ったのか?
この写真の謎はかなり海の方にカメラをズームしてとっている
でも不思議なのはあのように森があり海が近く見える
こんなに森があったのか?

その手前に家がある,この森は津浪で消えたのか?
すると家も流されたのか?
ただ海に近い森ではなく離れた所の森なのだろうか?
これを確かめるには南相馬市立病院に行ってみる必要がある

グーグルアースでもこれらしい場所がわからない
鉄塔があるがあれば津浪で壊されたのかもしれない
北原の方なのか?
なぞは住宅地がある,その家は今もあるのか?
この森が津浪で流されたということはないだろう

この辺では一番高い建物が南相馬私立病院である
だから見晴らしがいいから海が見えて船が見えた
原町は海は街からは見えない,鹿島は鹿島駅の高架橋から見える

これは島商会がある高台の森なのだろうか?
森があるとしたらあそこであり高台だからである。
他に森があるところはなかった
ただ津浪の前だからわからないが海に接近して森がある所となるとあそこしかない
ただなぜ前に住宅があるのか?
それが謎なのである。


posted by 天華 at 22:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係

2018年04月13日

大内村の人の話を聞いて(2) (文明とは自然に逆らうことであり自然に復讐される)


大内村の人の話を聞いて(2)

(文明とは自然に逆らうことであり自然に復讐される)


大内村の人の話を聞いて具体的にどうして袋村がなくなったのかわかった
まず高台に人は昔から住んでいた,平地には住んだ人は新しい人達だったのである。
大内村は地形的にわかりやすい,平地と高台に二分されているからである。
その高台といっても一段高くなっている場所である
その一段高くなっているだけでも津浪ではその差が大きかったのだ
なぜなら平地に住んいる人の家は津浪で流されたからである。
あそこまで津浪が来るとは思っていなかったろう。
ただあそこでは例え大きな津浪が来ていたとしても被害がなかったのである。
一段高い所に住んでいたからである。
だから津浪の被害があったとしても語られないことはあった

でもこの辺では慶長津浪とかの被害が相馬藩政記に二行だけ七〇〇人溺死と記されているだけであとは何も記録がないのである。
その謎も深いなと今でも思う,何か手がかりになるものを探して見つからないのである。
大内村では真野川の河口の度々水害になる土地を田んぼにしたが真野川の氾濫で撤退して袋村は消失したのである。
その土地の人がその場所で語ったとき何か実感として伝わる
なぜならその人は大内村に長く住んでいた人だからである。
この袋村は明暦から開かれて文久まであった、その時ただ人は住んでいなかった
明暦の頃開かれたとき元禄には一三軒の家があった
それだけ古い時から田んぼが開かれていたのである。

そういう土地としては悪い土地でも田んぼにしなければならなかったのが日本の稲作の歴史である。どんな場所でも米がとれれば生活が最低限成り立つということでそうなった
その苦闘の歴史が稲作にはある,八沢浦だって明治以降に武士が開拓したのである。
小高の井田川は大正時代になったからなのである。
日本の歴史と農業の歴史でありそれは戦後十年でもつづいていたのである。
戦争の引揚者がいたるところに入り土地を切り開き農業で生活していたのである。
結局仕事がないからそうなったのである。農業するには土地がないとできない
その土地がないとすると悪い土地でも埋め立ててでも田んぼにする他ないとなった歴史が日本にはある,日本の弱点は広い土地がないことである,だから一時東京で土地バブルになったのもわかる,土地の価値が異常に高くなるのもそのためである。

大内村でも一段高い所があるにしてもそこで田んぼを作るとなると土地がないとなる
すると平地に向かって田んぼを作るほかないのである。
そしてその高台の前を田んぼにしたらまた土地がなくなる,すると分家するにしても土地が必要になる,そこで真野川の河口の最悪の場所を苦労して田んぼにしたとなる
真野川は氾濫しやすい川である,だから二回も自分の家では水害にあってひどいめにあった,土地が低いからそうなった
堤防も整備されていなかったからである。河川改修していなかったからである。
津浪のときすぐ近くまで塩水が川を遡っておしよせてきていたのである。
近くの土手は氾濫していたから危なかった,河川改修したからあふれなかったのである。水害は河川改修すると起こらなくなるのである。その当時はそうした技術もないから袋村は消失したのである。

こうして苦労して干拓して開いた田んぼが今回の津浪で被害にあった
そこはもともと海だった所なのである。だから元の海にもどったともなる
自然側からみれば津浪はあまりにも無情だとなるが非情だとなるが自然側からみれば
ただ自然の作用であり人間を苦しめるために津浪が起きたということでもないのである。自然の作用に悪意はないのである。
ただそうした自然の大きな作用を無視して人間は営々ともともと海だったところを埋め立てて田んぼにしたり住宅地にしたりしたから被害にあった
つまり自然に逆らうことが文明なのである。それがある時自然から復讐されるのである。自然のゆりもどしがくる,それを考慮していない人間が悪いともなる
田んぼでもやはり文明の所産だったからそうなった
原発でも実は自然に逆らう科学技術である。原子核を破壊するということがそうである。本来そんな危険なことをしてはならないものだったのである。
そういうことをしていると自然側から反発があり復讐されるともなる
科学技術にそうした危険性が常につきまとっていたのである。

人間が自然に手を加えること自体がすでに自然を破壊するということに通じていた
ただでは科学技術がすべて悪いのかとなるとそうでもない
なぜなら米の収穫量は同じ面積で今は倍以上になっている
すると土地を広げて収穫量をあげるというより狭くても収穫量を上げることの方がいいとなる,それは技術が進歩すればできたのである。
だからいちがいに科学技術は否定できないということはある
袋村でも今のような河川改修した堤防があれば水害にならなくてすんだともなるからである。それだけの土木技術がなかったからできなかったともなる

それでもやはり今回の津浪の教訓は自然に逆らうことがいかに怖いことになるかということを否応なく示された,津浪は自然の作用でありそれは必ずしも自然にとって悪いばかりのものではない,自然の作用として起きてくるものだからである。
自然の山火事でもそれは新しい森を再生するものでありいちがいに悪いとはならない
津浪でも何か自然の作用であり海をきれいにするということはあったとかなる
つまり人間側から見た自然と自然から見た自然は違っているのである。
ただ自然に逆らうことが文明であり科学技術でありそこに何かしら問題が起きてくる
神話でも火を盗んだプロメテウスが過酷な刑罰にあったのとでもそうである。
神の厳しい罰が与えられたように津浪でも原発事故でもそういう側面はあったのである。

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2018年04月12日

南相馬市鹿島区の大内村で話を聞く (大内村で平地に住んだのは新しい人達だった)


南相馬市鹿島区の大内村で話を聞く

(大内村で平地に住んだのは新しい人達だった)

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地層が見えた,ここに津浪の痕跡はあるのか?

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津神社にあった金比羅と鯨大明神の碑



水路の工事しているの見ている大内の人と話した

「大内は高台に住んでいた人と平地に住んだ人の差が大きかった」
「高台に住んでいた人は昔から住んでいた人達だよ、そこから分家などして平地に住んだ平地に住んだ人は新しい人だよ」
「そうだったのか,かなり新しい時代に住んだ,その人たちが津浪の被害にあった」
「高台の人達は古くから住んだ人たちだよ」
「ところで袋村があったの知っていますか」
「知っているよ,あれは水害でだめになったんだよ」
「高台から平地に移り開拓したが真野川の水害でだめになっ」
「平地に出た人は新しい人たちなんだよ」

「真野川は堤防がないときは水害が多かった,あふれやすい川だったからな
自分の家も二回水害の被害にあったからな」

やはり土地の人とそこに住んでいる場で話すと土地の歴史がわかる,具体的に実感できるのである。
大内は館とつく地名があるから古いのである。古代からすら人が住み始めている
でも平地には住んでいなかったのである。そこは湿地帯だからである
だから平地に住むようになったのは新しい,明治以降ということもある
そうして新しく住んだ人が津浪の被害にあった

なぜこれほどの津浪の被害があったのか?
烏崎村でも高台に住んでいた人は被害がなかった,大内村でもそうである。
ただ海老村は一番古い,弥生時代の遺跡があるから古いが被害が大きかった
それもなぜなのか?なぜなら鎌倉時代に住んだ人の跡も出ているからである。

大内村の成り立ちはわかりやすいのである。
高台に住んでいた人たちと平地に住んでいた人達が明確に二分されていたからである。
そして今日聞いた話では平地に住んでいた人は相当に新しい,それがわかった
ただ烏崎村とかは鎌倉時代にさかのぼり古いのである
大内村ももともと古いのである。

それから津神社が大内村の公会堂に移されたがこれは津神社(つじんじゃ)ではなく津神社はツノ神社と呼んでいる,松川浦の津神社もツノミツ神社でありツ一字では呼ばない
原町の北原の高台にある津神社もツノ神社である
このツノはツノガノアラシトのツノであり渡来系が移り住んだ所なのである。
ツノガノアラシトは産鉄族であり鉄を求めてきた渡来系の技術者集団だったのである。
だから津浪とは何の関係もなかったのである。

津神社の裏側には碑があった,あそこにある碑は津神社にあったのか
別なものがあった,金比羅の碑とかあった
それらの碑は流されて不明になったのだろう。

工事は水田にするための水路である,斜面をなだらかにしたのは水が流れると崩れるからだという,それは最近急斜面の山が崩れたことでもわかる
地下水がたまり崩壊したのである。やはり急斜面になると水をふくんで崩れやすくなるのかもしれない,これは土木工学の分野になる
ともかくまだこの辺は工事がつづいているのである。

津神社の謎


津浪で再現した真野の入江 (大内村は山側に住んでいた人たちは助かった)

烏崎村の津神社にあった金比羅の碑と鯨大明神の碑


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2018年03月12日

大規模公共事業としての復興の失敗 (ハードからソフトの時代に変わっていた)


大規模公共事業としての復興の失敗

(ハードからソフトの時代に変わっていた)

誰も語ろうとしない東日本大震災「復興政策」の大失敗

津浪の跡が盛り土とかして高台を作る,高い防潮堤を作る,高台に移転させるとか大規模な公共事業となった、でもそうしているうちに人が流出してそこに住まない
区画整理して人を住まわせようとしたが家が建たない,若い人は流出した
第一商売するにも人がいないのだから商売にならない
女川でも地元の人より外から人が買っている,それは限界が来るし来ている
商売でも買う人が消費する人がいないと成り立たない,その人がいなくなった
残ったのは老人だけだとなる
小高の女性が言っていたけど自分は死ぬことを考えるんだというのもわかる
そういう老人が復興の担い手になれない

そして津浪の被害地にも復興団地が建ったがここは老人ホームだよと言っていた
老人の街であり街自体老人ホームになっている,そこで復興があるだろうか?
少子高齢化でありそこで復興は何かそうした大規模な公共事業のようなものをすることが住民に良く働かなかった
仮設暮らしのときは自治体の職員が回ってきて心配してくれた
でも復興団地に入ったらそれもなくなっ
つまり住む場所を与えたらあとは自治体でも政府でもめんどうみないとなった
それで仮設で暮らした人がおばしちゃんがみんな近くにいて仲良くなって楽しいと言っていた,それからボランティアも絶えず来ていたのでそれで気分良くしていたのである。
だから老人にとって仮設というのは長屋のようになり親しくなる装置でもあった
だから狭いということがあってもそれがそれほど悪いものでもなかったのである。
そこに何か現代の老人問題を考えるヒントがあった
老人の孤立化などが良く言われるが仮設暮らしだとそういうこともなかったのである。
みんな気遣いあっていた,だから一人暮らしの人は喜んでいたのである。
現代は人々が孤立しやすい生活をしているし老人は特にそうなりやすい社会になっていたからである。
復興団地では何か仮設のような人とのつながりがもてない,孤立化しやすく孤独死にもなる,それは神戸地震でもそうだった

要するに民主党のときコンクリートから人へという政策の変換をした,実はこれも問題があったのだがまた公共事業的なものを津浪の被害地にもちこんだのが失敗の原因だった
箱物を作ってもそこに暮らしがない,高台を作り整地しても人が住まない
学校を作っても生徒がいないとかなる
道路を作り高台を作り復興団地を作れば復興するということではなかった
コンクリートばかり考えて人がぬけていたのである。
人へサービスするという観点がぬけていた,それはJRでもそうである。
ただ人を物のように考えて輸送する移動させればいいというだけである。
人へのサービスは欠けている
そこに住む人が望むことと上から大規模な公共事業をするのとは違っている
そうして工事している間には若い人は流出したのである。
それまで待てなかったこともある

というのは3年が限度だというとき農家の人が3年農作業でもしていなと体がなまってできなくなると言っていたからだ
3年過ぎた時点で復興の基礎ができなかったらもう人は流出してゆく
そして他で生活基盤を築くから帰ってこないのである。
盛り土して高台を作り防潮堤を作り復興団地を作っても整地された所に人が住まず空き地だらけになっている
だからコンパクタウンの考えが必要だったという人も今になるといる
元の街の規模の復興は無理だったとなる
小規模の縮小した街を早いときから作り住まわせることが良かったのである。

日本は自然災害が多いのだが自然の恵みも多い,だから災害とも共存すべきだという考えが正しかったともなる
あれだけ大規模な事業をしても徒労だったともなる,肝心の人が住んでいないからである
時代的にもハードの時代は終わりソフトの時代になっていた,それはコンクリートから人へということでありハード面としてはインフラの整備ではない,大規模公共事業ではない志向が必要な時代になっていた,それは津浪の復興のことでも言えたが旧来の方法でしたから失敗したともなる
やはりその時の時代時代でそれに適応したものをしないと失敗するとなる
大規模公共事業として人を住まわせるよりその前に人が小規模でも簡易的にも住まわせる必要があった,だから意外と仮設商店街とか仮設として街を復興してそれから街を拡大してゆくという方法もあった,最初からあれだけの大規模な公共事業となると時間がかかりすぎたのである。
そして3年が限度だというときその時間もすぐに過ぎてしまったのである。

タグ:復興の失敗
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2018年03月11日

死者が帰ってきてもよりつく場がない (津浪から7年過ぎてこの世の無常の詩)


死者が帰ってきてもよりつく場がない

(津浪から7年過ぎてこの世の無常の詩)

死者はどこに逝ったのか
津浪が連れ去った
でも死者は霊となって
時々その住んでいた場所にもどる
でもそこによりつくものがない
七年過ぎて過去のものはすでにない
松原でも残った一本松は枯れて切られた
かつての松原を残すものは何もない
それで霊となって帰って来た死者は
ここはどこなんだ
自分の住んだ所なのか?
風力発電の風車やソーラーパネル
盛り上げた台地など
そこに昔あったものがない
津浪から残った社が一つ高台に残っている
これは確かに津浪の前にもあった
しかし住民はそこに住んでいない
死者が帰ってきても死者が帰る寄る場所がない
家があればそこには思い出が残っている
家にも庭にも思い出が残っている
すると死者はその家により昔をなつかしむ
その家もなくただ更地となったら
何をよすがに思い出すのだろう
死者はあまりにも変わってしまうと
昔あったものがなくなると
霊として帰ってきても居場所がない
しかし人間の無常は変わらない
人の世の変化はめまぐるしい
常に変化している
ここに家があったはずだったが・・・
今は何もなく松一本が立って残っている
ここに誰が住んでいたのだろう
ただまだ松一本が立っているから
ここに住んで死んだ霊はその松によりつく
でもこの松が消えると何も思い出す
よすがとなるものはすべて消える
死者は日々忘れられてゆく
今を生きることに精一杯だから
去る者は日々疎しとなる
それは生きているときでもそうである
生きながら忘れられる人が老人に多い
生きていても存在感がなくなり忘れられる
社会的用がなくなり忘れられる
人間とは常に忘却との戦いでもある
どんなことでも忘れられてゆくからである。
人は次々に死んでゆくからである
もう最後はそんな人いたのとなるのが普通である。
死とともに加速度的に忘れられてゆく
その人が存在したのかどうかわわからなくなる
それがこの世の無常である
ただ昔あったものをみんな忘れて新しいものにする
それが人間にとっていいことなのか?
一本の松が空き地となり残っている
そこには人が住んでいた
冬の日がさしてそこにいつまでも立っている
そこに立っていたいのかもしれない
その松に死者の霊はよりつく
この松がなければよりつくものがない
死者は淋しくまたあの世に帰ってゆくほかない
この世とあの世,彼岸がある
そこを死者が行き来するとして
その死者の霊のよりつくものがなければ
死者はただ困惑してここが自分の生きた場だったのか
それを確認もできなくなる
余りに変わり果てたふるさと
それはもう死者の霊が帰ってきても故郷に思いない
そして死者の霊はここは自分の生きた場ではないと
また彼岸に去ってここにはもどらないともなる
それは生きている時でも起きる
あまりにも変わりすぎた故郷はもはや故郷とは思えない
そういうふうに変わることがいいるだろうか?
でも無常の世の中だからどうにもならない
時代は常に変わってゆくのだから・・・・

津浪から七年過ぎたけどあまりにも変わり果ててしまった,
この辺だと風力発電の風車が海岸に並び,盛り土されて台地ができて
ソーラーパネルの工場地帯のようになっている
すると津浪の被害にあった海岸地帯に昔をあったものがなくなり思い出すこともできない右田の松原はいい松原だったけどそこにも人が住んでいたけど
人は住んでいない,松が切られた切り株などが残っていたけど今はそれもない
何か思い出すものがないのである。

すると津浪で流されて死んだ人の霊が帰ってきてもここがとても自分が住んでいた所だと思えなくなる,するとどうなるのか?
ここは自分の住んでいたところではないとなってまた彼岸に帰り二度とここにはもどらないかもしれない,それだけ変わってしまったからである。
これほど変わり果てると生きていてもここが故郷だったのかともなる

とにかく人の世は無常迅速なのだ,人自体も変わる,その人間関係も変わる,そういうことを津浪や原発で加速された,もともと無常の世だったがそれが津浪と原発事故で加速されたのである。そのスピードが早すぎたのである。
自分も家族二人が死んだ,そしてその死者もだんだん忘れすゆく
肉親すら忘れてゆく,現在に生きることが優先されるからそうなる
もう津浪から七年過ぎたら関心が薄れてゆく,だからもう外からの支援はわずかになる
でもここに生きる人達はそうはならない,ここで生きてゆくために苦闘しなければならないことがある

ただ他に移り住んだ人は人ですでに7年過ぎて別な土地で生きて人間関係もできている
するとますます故郷のことが遠のいてゆくのである。
現実は今生活する場となるのが人間だからである。それで復興はさらに困難になる
無常迅速というとき人間がいかに忘れやすいものかということでもある
次々に新しいことが起こり過去は忘れられてゆく
ただ死者の霊でも昔のままにあるものに寄り憑(つ)くともなる

だから家が昔のままにあればそこに死者が帰ってくるというお盆の風習はそういうことにからきた祭りだともなる
でももし家が新しくなると死者の霊が帰ってきてもそこを自分が住んでいた家と認識できないともなるのだ
それでここは自分の家ではないと別な家を探すようになるかもしれない
何か認知症の人とにている,見慣れた知った人はなんとか覚えているがその他は忘れてしまう,人でも何でも忘れてしまうのである。
人間は記憶していれば存在しているのだが忘れれば存在しないとも同じなのである。
旅行しても本当にそこにいたのかいなかったのかすら時間がたてばわからなくなる
数十年と過ぎればそうなるのである。
だから意外と老人になってからそのことがわかる,記憶は大事なものだったなと記憶が消えれば生きた証も消える,それで最後は人生で一番印象に残ったことを延々と語り続けるそれが生きたことだったからそうなるのである。

人間など例えば江戸時代に生きた人を考えるとわかる,その名前すら残っているのはわずかであり名前すら残らず消えている,生きていても今になればその人が生きていたことすらわからないのである。
今でもみんな人間はそういう無常の世に生きているのである。

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2018年03月02日

津浪は人間が自然を改造し破壊したことが原因 (自然に悪意はない)


津浪は人間が自然を改造し破壊したことが原因

(自然に悪意はない)

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津浪の被害はあまりにも大きかった,それでどう解釈していいかわからなかった
それで自然でも海でも天でも被害にあった人は呪ったのである。
でも自然には悪意があるだろうか?
悪意というとき人間にのみ悪意がありこの悪意が一番怖いのである。
投資関係でも投資自体は公平だとしても悪意をもって接触してくる人は危険である。
投資でだまされやすいのは投資の世界がわからないからである。
悪意というとき自分たちだけもうければいいという考えの人も実は危険だった
それが銀行にも今はなっていたのは経営的に追い詰められていたからそうなった
人間は借金でもなんでも追い詰められると危険になる

自然に悪意がないというときそのことこそ自然と人間の一番の相違である。
石や花でも木でも動物でも本来は悪意はない,蛇などは嫌だとなるが何か全般的に悪意をもっていない,だからこそその無垢なる状態に感嘆する
人間社会は虚偽の世界であり常に偽りの中に生きている,嘘つかない人がいないことでもわかる
その自然がどうして人間社会に対して悪意をもって災害を起すのか?

自然災害が起きるのはなぜなのか?
ノアの洪水とか確かにあったけどそこに神の意志が働いていたとなる,だから自然に神の意志が働くことはある,聖書は神の意志が働いた記録である。
だからモーゼが海を割ったとか太陽が止まったとかいろいろある
自然をも左右するのが神だとなればそうなる
ただその後は自然と神はきりはなされ科学的に自然を見るようになった

なぜ自然災害が起きるのか?それは自然を人間が改造して破壊して住んだことに根本的な原因があった
今回の津浪で甚大な被害あった所は自然を無視して住んだ場所である。
本来住むべきではない所が甚大な被害にあった
石巻は被害が大きかったけどあそこは家が密集していたのである。
だからこんなに海に近くてこんなに家が密集しているのは不自然だなと見ていた
そこが根こそぎ津浪で破壊されたのである。

そもそもなぜ海側にこれほど家が密集したのか?その原因は便利だからである。
漁業するに便利だから海側に人家が集中した
磯部などでもあんなに家が集中してそこが根こそぎ失われた
でも高台がありそこは無傷だったのである
あれを見れば高台に住んでいれば助かったのにとつくづく思う
でもそこは不便な場所なのである。

日本は国土が狭いから海側に開拓して米作りをした,その田んぼにしたところが津浪の被害があった
そして縄文時代の海が再現したのには驚いた
どこでも縄文時代に海だったところは海になったのである。
要するに自然が元の自然にもどったのである。
つまり人間はもともと海だった所を開拓して住むようになった
もしそういうことをしなかったら自然災害があったとしてもこんな甚大な被害にはあっていない
江戸の安政地震で被害にあったのは埋め立てて作った深川とかが死者が多かった
そこは海であった所を埋め立てて住んだから地盤が悪いし液状化が起きたとも推測している

人間は文明が発達するに連れて自然にそって住んでいない,不自然に住んでいる
東京という大都会を見ればわかる,そういうところで大地震が起きれば当然大被害になる神戸でもそうである。大都会とかは自然にそって作られていない
異常な密集状態になり不自然なのである。
だからこそ大きな自然災害があると被害が大きくなる
それは自然が悪意をもって人間を苦しめるために災害が起きているのではない
文明とは自然を改造して破壊した結果として自然災害が起きている

例えば極端になるが家が二階になると危険が増す,それよりもし弥生時代のような掘っ建て小屋のようなものにに住んでいれば地震が来ても壊れてもまたすぐ建てられるともなる
倒れるものがないから安全だともなる
つまり家すら文明が発達すると高度なものになり便利なものになるが危険も増していたのである。都市は便利なものとして人間が作り出したものである。
でも人間が密集して住めば便利なのだけど危険にもなる
人間はまず便利なものを追及する,それが自然災害には弱いものとして危険なものになっていたのである。
大都会は地震か自然災害で甚大な被害を出すのは自然ではない不自然に人間が便利さのために密集して住んでいるからなのである。
自然が別に悪意をもって人間を苦しめるために災害を起こしているのではない
人間がそもそも災害を作りだすものを便利さを追及して作り出していたのである。
それは原発だってそうである。科学技術は便利さを追及してきたからである。
でもその結果として自然災害に弱い社会が生まれたのである。

不思議なのは四倉とかでも前は広く砂浜がある場所は被害があったが大きな被害にはならなかった,あそこだって海に面しているから相当な被害になり街ごと消失するようにもなっていた,でも街全体がなくなるようなことはなかった
それは前に広い砂浜がありそこが緩衝地帯になっていたためである。
それは自然な状態がそこに残されていたからである。
砂浜もなく直接海に面していた磐城の漁港などは豊間などは被害が大きかったのである。九十九里浜でもあういう緩衝地帯があると津浪を弱めるのである。

文明が発達するとそうした緩衝地帯は海側になくなり漁港が便利さのために作られそこに人が密集して住んだ結果被害が甚大なものとなった
文明とは便利さを追及することである。その便利さが人間に仇にあだ)になるということがあった
便利さを追及することが誰も悪いものとは思わないからこそこれだけ便利な社会になったでもその便利さは自然に逆らうもの改造して破壊するものとして働くものでもあったことを津浪で思い知らされたのである。
なぜなら縄文時代のような一番不便な生活をしていたなら被害も最小限にくい止められたからである。海であったところに縄文人は住んでいないからである。
新地の山から手を伸ばして貝を食べていたという手長の巨人伝説でも貝塚が高台にあり高台で縄文人は生活していた,海側にあんなに接近して住んでいなかったのである。



江戸幕府以前の江戸

現在の皇居の 富士見櫓 のある場所に作られました。 道灌は、この櫓から富士山や海の素晴らし眺望を楽しんでいたのです。 道灌が精勝軒で詠んだつぎのような句があります。

わが庵は 松原つづき 海近く 富士の高嶺を 軒端にぞ見る

これは実際の景色を詠んでいたのである。江戸というのはベネチアのように美しい街だったのである。江戸なら今の東京と違い住んでみたいとなる
江戸城の前まで海だったというときそれだけでも景色が良かったことがイメージできる

posted by 天華 at 08:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係

2017年12月02日

変貌した右田浜,海老浜 (もう右田の松原は記憶の中にしかない)


変貌した右田浜,海老浜

(もう右田の松原は記憶の中にしかない)

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海老村に植えられた松の苗?


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右田の松原があったとき飛んでいた揚羽蝶


右田浜の松原はいい松原だった,でも右田の松原はいつの時代に作られたのか不明なのである。
「海からの夜明あけ」(新開ゆりこ作)では太平洋のことを書いている

天保13年(1842)にいよいよ相馬の海沿いに住む百姓たちの願いが実り防潮林の植林がはじまった,藩では植林奉行の下に各代所や陣屋ごとにお係を定めた
金沢浜から小浜まで三里の浜に東西南北二十列づつ四尺五寸おきに黒松を植えるという

ここに松を植える苦労が書かれている,これは資料があって書いたのだろう
江戸時代から松原は作られていたのである。
でも不思議なのは右田浜のことは書いていない,右田浜の松原は津浪の前まで残っていた金沢の松原も残っていた,ただ金沢の松原は火力発電所が建ってなくなった
その松原があるときを自分は知っていた,いい松原だった

萱浜の方にも松原はあった,しかしなくなった,ただ右田の松原は残っていた,その幹は太いから古いのである。松川浦にも松原があったが幹が細いから新しいのである。
だから右田の松原は景観的にも良かったしいい松だったのである。
それが根こそぎ津浪で失った,今や何も残っていない,その後に台地にして植林したからまた木が育つ,でも最近また景観が変わった,大きな風車が二つできていた
三つ目もすでに建てている,これも景観の大きな変化である。
辺りはすでに一面ソーラーパネルである。火力発電所の煙が出て風車がまわりソーラーパネルの景観になっている
そこに植林したがもうそこは前のような景観にはならない

ただ海老浜で集落となっていた所が津浪でなくなった所にやはり松の苗だと思うが植えられていた,あそこだと景観的にはいいかもしれない,ソーラーパネルもないし風車はそこにはないからだ
何か自分は常に景観を気にしているのである。景観が乱されると嫌なのである。
でももうかつての景観はもどらない,全く別の景観になってしまったのである
右田の松原はただ思い出のなかにあるだけである。
それも五十年とか百年すぎたら全くそこに松原があったかもわからなくなる
こんなに自然景観のうよなものまで変わることは想像もできなかったのである。
ただ松は津浪には弱かったのである。稲を作るための防潮林としては良かったが津浪には松は弱かった,根を強く張らないからである。
松原は実は自然景観と思っていたが自然を破壊した景観だったのである。
松原でなかったら他の木が植えてあったら木は残っていたかもしれないのである。
どこでも松原は根こそぎ津浪では消失したのである。


松原の潮風防ぎ
稲の実りもたらす
右田浜,その松太く
夏なれや影なして
海風涼し我が休む
冬なれや荒れにし波に
船ゆられ漁をするかも
松風鳴りてすがし
その松原の今はなしかも

右田の松原は本当に記憶の中でしかありえなくなった,でも年数がたつと記憶している人も死んでゆくとそこに松原があったということがわからなくなる
記憶としてもっている人はいいがそうでなくなるともう右田の松原は誰もそこにあったということもわからなくなる
松影と松風とかが鳴りそこはこの辺では一番いい風致を作り出していたのである。
それが一番残念だったとなる

ともかく八沢浦が津浪で本当に海になったとか入江になったとか写真を出したときは批判された,お前はここで子供が死んで泥から掘り出されたのだと批判された
それもわかるのだが何か自分は常に景観を一番大事にしている
景観を破壊されることが耐えられないのである。
だから八沢浦でも海だったときのことを入江だったのことを頭の中で想像していたのである。でも実際に津浪が来て現実になったときほど驚いたことはない
それは奇跡にも見えたのである。

つまり自分が想像する以上のものが生まれたので驚いたのである。
自然は人間の想像を越えるものとして現れる,人間の想像しえないものとして現れるのである。
つまり松原が破壊されたものそうである。こんなことになるなど想像すらできなかったからである。そういうことがこれからも百年二百年後に必ず起きる
想像もできない変化が現れるのである。
posted by 天華 at 11:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係

2017年11月15日

慶長津浪によって相馬氏がこの辺を支配できた? (海側に敵対勢力の泉氏などの氏族がいた)


慶長津浪によって相馬氏がこの辺を支配できた?

(海側に敵対勢力の泉氏などの氏族がいた)
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相馬氏進出の径路

なぜ相馬藩では津波のことが記録されなかったのかー続編?

慶長三陸地震(けいちょうさんりくじしん)は、1611年12月2日(慶長16年10月28日)

ここでその大意は書いた,その後は補強になる,相馬氏がこの地方に進出してきたときすでにこの辺を支配していた豪族がいた,だから相馬氏と敵対したのである。
それが海側にいたのはすでに海運がありそこからの貿易の収入があって力をもっていた
小高はすでにそうした湊の施設があり船の出入りがあった
現実に今回の津浪では駅まで津浪が来ていた,小高城で海が近いのである。
そして小高には船が相当数出入りしていたのである。船をもっている人達が船主がいた
船主が船をもつことは土地をもつことと同じように力をもつのである。
原発事故で事故前も事故後も補償金をもらって困らないのが船主であった
だから原発御殿が建ったとか周りからねたまれていたのである。
そのことは反面いかに船主が力をもつかということを証明しているのである。

どういうわけか慶長津浪が来る前に相馬市の諏訪神社でも松川浦から神社が移動しているのである。そして舟繋ぎ伝説が生まれた,船が流れてきてとどまったという伝説である。それは小泉川がありそこをさかのぼってきたのである。
まず津浪は川をさかのぼる,それで驚いたのは仙台の多賀城の砂押川である。
あそこに津浪がさかのぼってきたことは驚きである。
その川は小さいしそして海が近いと思わなかったのである。
ビルとか建物にさえぎられていたから海が近いと見えなかったのである。

末の松山は古歌に波こさじかとありそこまでは津浪が来なかったのである。
これはまさにそこまで津浪が来なかったということを短歌で記憶されていたのである。
ただそれは貞観津浪のことだった,慶長津浪はまた違っていた
貞観津浪は京都の方から多賀城に都の人達が来ていて記録されていたのである。

相馬地方でも総合的に見ると鬼越館は磯部館があったのだが鬼越館に慶長津浪の前に移っている,高潮のために移ったとあるがその近くまで今回の津浪が来ていたのである。
津浪の前触れを感じたのか?それも不思議だとなる
北郷では今の南相馬市の鹿島区では海老に伝えられた大工の話も津浪を語っているのかもしれないことは指摘した

その後善次病死して棺を出す。時に大原村二森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで
雲中に入る。宝蔵寺の僧これを聞き走り来りり七重の袈裟を雲中に投ず。
声ありて曰く、「おいか」と。
棺おく雲散じ空晴れてこれを葬るという。是の世に希有のことなり。
知らず「おいか」とは何の言なるか。
ある人いふう葬礼の諸品を海水に洗えばすなわちこの怪異ありと。

鹿島町誌にある伝説は何を語っているのか?

大原村二森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで雲中に入る。

なぜここに大原と出てくるのか?大原は相馬氏進出の径路で書いたように大原から小池と相馬氏は進出した,支配してきたからである。
山側から片倉村から入り太田神社に入り小高に進出してきたのである。
海側には海運を業として力をもった豪族がいた,岡田氏や泉氏や磯部館のあとで鬼越館に移った佐藤氏などが敵対したのである。
それで牛越城建設に泉氏がその負担を強いられたから火を放ったのである。
つまり慶長津浪が来る前に相馬氏は相当な地元の豪族の抵抗にあっていたのである。

だから不思議なのは中村に城を移転するというのも慶長津浪の一カ月後とういのも何か津波によって敵対勢力がそがれた結果だともなる
そういうことは他でもあったからである。戦国時代は相手が弱ると好都合なのである。
弱肉強食の世界だからである。そういう経験を自分もしているからだ
相手が困ることは借金でもなんでも申し込みやすいし相手を従わせやすいのである。
だから津浪で被害があったとしたら敵対勢力が弱体化するのだから相馬氏にとっては都合がいいことだったのである。

伊達政宗の時代でもあったが慶長津浪は伊達藩にも打撃だったから今の相馬市は中村は伊達氏がその当時支配していた,それで鬼越館の佐藤氏は伊達氏についていたのである。
伊達氏の勢力も津浪でそがれたとなると中村に城を建てやすかったとなる
そこで海老の大工が天守造営に行かされるのに抵抗したのはその土地の豪族の館をもつ支配者の命令でもあったが板挟みになり悩んだのである。
つまり大原と関係しているのは大原は相馬氏の勢力下に入っていたからなのである。

慶長津浪の記録は700人溺死としかないけどその当時の情勢をみると津浪の影響で敵対勢力が津浪で弱体化して相馬氏がこの地を支配できたというのもイメージできるのである。総合的に見て判断するとそれが有力だとなるのである。
posted by 天華 at 12:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係

2017年08月12日

津浪で判明した江垂の地名の謎 (気になる江のつく地名2-地名伝説には嘘が多い)


津浪で判明した江垂の地名の謎

(気になる江のつく地名2-地名伝説には嘘が多い)
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津浪浸水地域

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津浪は六号線を越えてきていたのである。

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「えびす」の語源は、「エミシ(蝦夷)」が「エミス」になり、「エビス」になったとされている。また、「えびす」は蛭子の神さまでもあり、水に関わりがあるから、兵庫県の西宮戎神社や大阪の今宮戎神社のように海に近いところにあるのが多いのである。

気になる江(え)の地名で考察したけど今日自転車で六号線を通ってきたら小島田は自覚していたが六号線沿いに江垂(えたり)の地名の表示があった
ここも江垂なのか?江垂は街内でもあるからこんなに広い領域だと思わなかった。
そもそも村の境はわかりにくい,江垂と小島田の境はわかりにくい,小島田はほとんど津浪の被害があった,江垂はなかった。
でも江垂まで津浪は押し寄せていたことになる
小島田の地名は湿地帯であり島のように田があるということになる,湿地帯が広がってそこを田にしたのである。地形的にはあっている

江垂の地名の起こりが都の貴人が来て水で袖を濡らしたことでその名がついたという伝説がある。江を衣垂としてその伝説が生れた,それは根拠のないものだった
地名伝説は何かこうして後世にあてつけでその由来を説明している
なぜそうした地名がついたのか後の世の人は不明になったから勝手に地名を解釈して地名伝説を作ってしまった,地名の由来の伝説は信用できないのである。
ただ地名はそれだけ古いからその由来がわからないのが多いのである。

江は水と関係しているから袖を水でぬらしたというのはあてはまっているかもしれない,ということは海が迫っていた,海水でぬらしたのかもしれない。
縄文海進があり海が奥まではいりこんでいたことは今回の津浪で実証された。
塩崎(しおのさき)はもともと海の崎にありつけられた名である。
そこに船着とか地名があるのも古代に船が着いたからその地名が残った
そして今回の津浪はすぐその近くまで津浪が押し寄せていたのである。
あそこは低い土地だから奥まで津浪が来たのである。

江垂の地名は海に面していたということで生れたのではないか?
江とつく地名は海に関係している,水と関係している
垂れるの意味は

一続きのものの端がだらりと下がる

海が一続きとしてありその端だというとき位置的にはあっている
江垂が海が迫っていたことが気づかなかったのはそれほど奥に端に海がつづいていたからだとなる
それは蝦夷(エソ)に由来していることでも縄文時代からの言葉に由来している

桜田山の下からせ縄文人の遺跡が発掘されている,そこからは鹿の骨とか海の魚の骨が発見された,そこは狩の場でもあり漁をする場でもあった,つまり海が近くに迫っていたから海の魚がとることができたのである。
海に近ければ海の幸で生活できる,その海も入江のように入り込んでいると荒くないから漁ができたとなる,だから海老はエヒでありこれも海に面して住んでいた人達である。
江垂も同じだった。
不思議なのは海老とか江垂でもそこは蝦夷という原住民が住んでいて外来の人達との争いの地点でもあった

なぜなら桜田山の下に第六天の祠があり第六天とは魔神の意味でありそれは大和朝廷に抵抗した人達としていたのである。悪者にされたのはインディアンなどともにている
西部劇ではインディアンが常に破るものとして退治するものとしてドラマが作られていたからである。戦争では強い方が勝手にドラマを作るのである。
海老にも御刀神社がありそれは海老村に蝦夷が住んでいて抵抗した,それで刀で責めて征服した地点だとなり神社が祀られた。
海老からは弥生時代の遺跡が発掘されたから相当に古い場所なのである

ともかく日本には江とつく地名が北海道でもどこでも多いのである:それはなぜか?
日本の原住民が蝦夷でありそのエゾのエが全国に地名化して残った。
それは縄文語に由来しているのである。
蝦夷というのは謎であるが大和王権が日本を統一するときその前から住んでいた原住民である。それらの人達は歴史から消えたが地名としてその存在を残していた
アイヌも蝦夷なのかどうかわからないがアイヌはむしろ蝦夷の後に来て蝦夷と同一化された民族だともなる,その前に蝦夷がいたからそうなったのである。

ともかく歴史でも考古学でも何でも地理に詳しくないとわからないきである。
地元にこれだけ長く住んでいても地理がわからない,江垂は街内と見ていたのである。
でも今回の津浪で海が迫っていたのである。それは津浪が知らしめたとなる
posted by 天華 at 21:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係

2017年07月12日

発見した真野川河口の津浪の前の写真一枚


発見した真野川河口の津浪の前の写真一枚

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これは夏だろう



これは前のホームページを記録して保存しなおす作業の中で出てきた
関係ない所にあったのだがこれは真野川である。
間違って他の旅の写真に出ていた

ここに松がありコンクリートの岸辺がありここを良く歩いていたからだ
波がよせているのはめずらしいかもれない

しかしこの松原とかコンクリートの岸も全く消失した
河口はまだ昔のように残っている
対岸にも松があるがその松も消えた、ともかく松はみんな消えた

右田の一本の松も枯れているからまもなく消える
松は一本もなくなったのである。

だからこの写真は貴重になった、他にもまだ残っているかもしれない
右田の松原は太かったしいい松原だったのである。
タグ:真野川河口
posted by 天華 at 14:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係

今日10時56分に宮城県で震度3の地震 頻発する地震は次の大地震の予兆


今日10時56分に宮城県で震度3の地震


頻発する地震は次の大地震の予兆



相馬地域も一瞬ゆれた、でも気づかれないほど、震度1にもなっていないだろう。

ともかく地震が頻発している、この地震の起こる頻度が多すぎる

だからこれらの地震が大地震の前兆なのかとなる

弱い地震でも頻発するのは絶えず地下で地殻変動が起きているからなのか?


東北の太平洋岸と中央構造線にそって頻発している

今情報は気象庁のサイトで見た、テレビではなかった

これだけ地震が多いということをあまり経験していない


地震が起きる間隔が短すぎる!


慶長時代もこうして地震が連続した

大きな地殻変動が東日本大震災で起こり継続している

ただそこで綿密な計測はなかっため予兆できなかった

やはり大地震の前兆なのか?


小さな揺れでもそれが頻発するときは危険になる

東日本大震災でも震源地は小さな地震が頻発していた

それが見逃されていたのだ

これだけ地震が頻発することは警戒しなければならない

ただどこで大地震が起きるかわからない

でも近々か起きるかもしれない

巨大なエネルギーを放出する時が来ている

その後にまたおさまる

今はそういう時期なのだろう


地球的スケールで、地質活動が活発化しているのか?

 地質活動が活発化することがあっても、それは現象としては百年、二百年の単位の内に活発化が顕在してくるものであって、普通の人間生活の中では通常捉えられないものである。それが人間の皮膚感覚で明確に捉えられるような、数日の内に活発化してくるというのは、常識を遥かに超えている

 東北は今、余震も頻発し非常に困難な状況だが、今後、非常に長期間にわたって同規模の地震が発生することはない。余震が収まれば、安定した時期に入るので、安心して通常の経済活動が行える状態になる。

東北地方はあれだけの地震が起きたのだから大きな地震や津浪は起きないとしている
それでかえって安心することがある

一番危険なのは三浦半島辺りだとしている、中央構造線と東北き太平洋岸沿いに地震が頻発しているからだ、南海トラフも危険だとしている
つまりこの次の大地震は南海トラフとか東京近辺が危険だとしている
何かそれが規則的に起きているから当たるのかとも思う

今回はこんなに地震が頻発することは素人でも予測される、それほど地震が多すぎるからだ。  

posted by 天華 at 11:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係

2017年07月11日

最近の地震頻発には法則性がある (大地震の予兆としての地震なのか?)


最近の地震頻発には法則性がある


(大地震の予兆としての地震なのか?)

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最近一カ月の地震発生の分布


ここの図がわかりやすい。

南海トラフより、先に、相模トラフ、北海道東方、あと鹿児島あたりだと思います。
2016/11/19



全国的に地震が頻発している、今日鹿児島で起きた、最近の地震は日本列島全体で起きている、九州から長野県への中央構造線と北海道から太平洋プレートにそって起きている
一昨日は福島県の沖、相馬の海が震源地で震度5弱とか起きた

確かなことは中央構造線と太平洋プレートに沿って起きていて関連があるのか?
それは東日本大震災の影響で中央構造線を刺激して熊本で大地震があり今度は今日鹿児島で震度5強があった、長野県での震度5強はやはり中央構造線沿いである。

日本列島は北海道から九州まで地殻変動が影響する、沖縄まで連続している


(最近一カ月の地震)

2017年07月11日12 : 26鹿児島湾1マグニチュード2.310km
2017年07月11日11 : 56鹿児島湾5強マグニチュード5.210km
2017年07月11日07 : 57長野県南部1マグニチュード2.410km
2017年07月10日17 : 04岩手県沖1マグニチュード3.350km
2017年07月10日02 : 02大隅半島東方沖2マグニチュード3.560km
2017年07月09日06 : 22長野県南部2マグニチュード2.510km
2017年07月09日03 : 36福島県沖2マグニチュード4.120km
2017年07月09日02 : 42択捉島南東沖1マグニチュード4.390km
2017年07月08日23 : 45トカラ列島近海

(中央構造線沿い)

2017年07月11日12 : 26鹿児島湾1マグニチュード2.310km
2017年07月11日11 : 56鹿児島湾5強マグニチュード5.210km
2017年07月11日07 : 57長野県南部1マグニチュード2.410km
2017年07月10日02 : 02大隅半島東方沖2マグニチュード3.560km
2017年07月09日06 : 22長野県南部2マグニチュード2.510km
2017年07月08日23 : 45トカラ列島近海

(太平洋プレート沿い)

2017年07月10日17 : 04岩手県沖1マグニチュード3.350km
2017年07月09日03 : 36福島県沖2マグニチュード4.120km
2017年07月09日02 : 42択捉島南東沖1マグニチュード4.390km

何かこれらの一連の地震は素人にもわかりやすい、法則性があるのか?
地震の予知はできないとなっている、プロでもわからない
でも最近頻発する地震は何か法則性があるのか?
それは次の大地震の予兆なのか?

東北の太平洋岸にも大きな余震が来る可能性がある、それは頻発する地震が予兆なのか?
そして暑いということも地震が起こり安くしている
3・11の東北の地震の前の年の時も異常に暑かったのである。
関東大震災の前も異常な暑さがあった、するとその暑さが近くに影響することはありうる大地があたためられて動きやすくなるのか?

ともかく地震は予知できないとしても最近の地震の頻発はやはり大地震の前兆として起きているのかもしれない、地震が多すぎるしそれが素人でもわかりやすい分布があり
その予測する所に起きているからである。

posted by 天華 at 14:26| Comment(5) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係

2017年06月18日

少子高齢化社会が震災の復興をできなくさせている (南相馬市の高齢化率は53パーセントで一番高い方に)


少子高齢化社会が震災の復興をできなくさせている

(南相馬市の高齢化率は53パーセントで一番高い方に)

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40代以下津浪のの死亡者(南相馬市原町区萱浜(カイハマ)

年齢が判明している15,331人のうち 60歳以上の高齢者は10,085人と 65.8%を占めているまた、東日本大震災における震災関連死の死者数は、平成 24(2012)年 3月31日までに1,632人にのぼり、このうち66歳以上が1,460人と全体の89.5%を占めている。


例えば、母の実家のある集落は現在は約100人しかいない小さな村。昨年夏のお盆時期に1年ぶりに帰省したときには、そのうちの10人が他界していました。1年間で、村の人口の1割が亡くなっていたわけです。そして、その集落の最年少が56歳

宮城県塩釜市の58.0%。宮城県女川町55.1%、福島県南相馬市53.5%、宮城県七ケ浜町50.1%と50%以上は4市町。40%台は13市町村、30%台も13市町村あった。


ここのサイトの統計数はわかりやすい、本当に南相馬市が一番くらに高いのである。

高齢化率は六十五歳以下の人口が多ければ下がる、ただ老人の六十五歳以上の割合は三分の一となり30パーセントが平均である。
三人会えば一人は65歳以上である。
ともかく南相馬市53.5%は岩手、宮城、福島県のなかでも一番高いレベルである。
この高齢化が復興はばむ原因になっている

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小高の70以上の人は復興のことなど考えない、金をもらうこととあとは遊ぶことだけである。今度は沖縄に行くかなど遊ぶことしか考えない
かえって補償金で金に余裕ができたからそうなっているのである。

駅にいると鹿島の競輪の券売り場に行く人がいる、駅からタクシー利用してゆく
何もすることがないから老人が金あればパチンコだとギャンブルとかに費やしている
復興などなんにも考えていない、それは仮設に入っている時から変わっていないのである復興を考えて実際に実行しているのはほんのわずかなのである。
ボランティアが一番復興に熱心であるというのも皮肉である。
でもその人たちも一時的なものとして帰ってゆくのが多いのである。
第一そのボランティアも60歳以上が大部分なのである。
そこにもつくづく高齢化社会だと思った
74歳の人も来ていたし今に80歳のボランティアもいるようになるかもしれない
何か猫背になり歩くのも楽でない女性がボランティアで来たけどただ祭りを見に歩いている女性だった、それで土地の人から断られたというのもわかる
室原の人は何か地区の人が集まり拠点を作り復興しようとしているみたいではある。あそこはまだ街からそれほど離れていないからか養豚をしていた家である

浪江でも南相馬市だと近いから自分の土地を見に行っている人はいる、それで徐々に復興に向かうのか?それより老人が多いのだから復興に向かおうとしても苦しい
老人は苦労はしたくないのである。苦労する力もないのである。
この先どれくらい生きるかとなると苦労したくないし余生を楽に過ごしたいとなるからだだから小高や浪江のような所に帰りたくないとなる

この高齢化とは震災前から起きていたのである。それが震災でさらに打撃が加えられた
戦争で焼け野原になったときなぜ復興できたのか?
その時若い戦争引揚者が大量に帰って来た、その人たちが結婚して子供を産んだ、それが団塊の世代となり今は高齢化しているのである。
あのような焼け野原でもその時若い人が多く、子供もその時多かったのである。
それが今の高齢化社会とはまるで違ったものになっていたのである。
その若い労働力が高度成長になり日本は豊かになったのである。
今度は逆に団塊の世代が高齢化したとき日本は少子高齢化社会になり衰退しているのである。

津浪で死んだ人をみると本当に70以上が大半でありまた60以上も多い、その中でわずかに10歳以下がいたりする、20代も少ない、その割合が極端なのである。
だからそもそも震災がなくても津浪がなくても集落を維持できたかとまでなる
それだけすでに子供も若い世代もいなくなっていたのである。
それに津浪や原発事故が拍車をかけたのである。

なぜ復興が遅れているとかできないのかとなる若い人は流出したからである。
戦争のときあれだけ焼け野原になり何もなくなったのに復興できたのか?
それは若い人は多くその若い人は子供を作りその人たちが成長して高度成長時代の労働力となったからである。
復興というときいろいろあるがインフラの整備をまずしようとしている
でも復興が遅れているというとき人手不足とか資材の高騰とかありそれが足かせになっている、労働力がたりないというとき少子高齢化だからである。
老人ばかりで社会に活力が生まれない、介護で若い労働力を使われるようでは日本の経済も衰退してゆく

経済でもやはり人口が基礎のデーターになる、一万以下になると町が維持するのがむずかしくなると計算される、そういう町が増えてくるのだ。
そしてもう今までの町でも村でも同じように復旧するのはむずかしいとなる
別な新たな発想でコミニュティを作り直すということが言われる
それもそうである。小高とか浪江でも宮城県でも津浪だけの被害地でもそうである。
もう今まであったものを復旧することは復興ではない
新たな今までにない市町村の復興である。そもそも元にもどる復旧ができないからであるつまり前あったものを元にもどすのが復旧であり復興は新たなものを興すということである。それは農業は会社経営にしないと成り立たないとなっているようなことである。
それは今までのコミニュティ感覚の農業でなくなっているからだ。

そもそも高齢者が津浪で死んだ人が多かったというときそういう人口割合だったのである子供も極端に少ない、若い人も少ない、60以上とかの老人が大部分だったから割合として老人の死が目立ったのである。
新地の駅前開発でも工事がとまっている、やはり人手不足とか資材高騰とかなにか復興が遅れいてる、進まないのである。
新地駅は復旧ではなく新たに復興したから良かった、新地には若い人が住みたいというとき流出も少なかったのである。だから新地は復興に成功したとなる
他は遅れいてるし復興がなかなかできないのである。
高齢化率が25パーセントと低いからである。南相馬市の高齢化率はその倍だからいかにここが違っていて復興できないか一目瞭然なのである。




posted by 天華 at 15:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係

2017年06月17日

原町区萱浜(カイハマ)、高平、北原、雫(しどけ)を尋ねる (津浪は高低差の影響が大きかった)


原町区萱浜(カイハマ)、高平、北原、雫(しどけ)を尋ねる

(津浪は高低差の影響が大きかった)


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赤い囲いは四十才以下の死者
今田家は三人いるから悲惨だった
あとはやはり七十以上が多い

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津浪にも残った樹、高台にあったから

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パノラマ写真
高低差が大きい、雫の方はかなり高い
車のある島商会まで津浪はきたが建物は助かった
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海岸にハマヒルガオと都草や野茨が咲いていた

でもマルハシャリンバイは咲かない、津浪で喪失

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これは墓や地蔵を集めたが不思議である。
みんな笑っているのか?みんなで祈っているのか?
津浪の後の不思議の光景である
六年も過ぎだから笑っているというのも時間の経過のためだろう
死者は津浪で死んだ人だけでなく笑っているという感じになることがある
時間がたつと悲しいとういだけなく笑っているともみる
ただ津浪の被害はあまりにも大きいからその傷痕は消えない
これは若くして子供でも死んだ人をとむらう地蔵にも見える

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中世の板碑(津浪が来たのが青い線)


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鹿島田中城(線が津浪の来た所)



萱浜(カイハマ)は北原とか雫(しどけ)からすると低い場所だった
だからあの辺は高低差が相当にあった、高い雫の方が津浪の被害がないから家が残っている、萱浜になるとそこは一番低い場所だった
今回の津浪はこの高低差が大きく影響したのである。

例えば海老を見るとそこは右田よりはずっと高いから津浪の被害がないと見ていた
実際に崖の上がさらに高いからそこに逃げた人が30人くらい死んだのである。
それはなぜか?
そこは高いのだがその高さより高い強い津浪がおしよせたからである。
でも海老は海に面してなければ村が消滅するようなことはなかった
海に接して面して集落があったから被害が大きかった
もし海より50メートルでも後退して集落があったら助かった、実際に10メートルくらい後退した高台の家は助かったからだ

それはなぜそうなったかというと海老は弥生時代からの住居が発見されたようにもともと住みやすい場所だったのである。そこは海が入り込んでいて魚もとれるような場所だったしもともとあとは湊となっていたのである。
そこは魚もとれる、帆掛け舟も出せる湊だった。
そういう場所は便利だから海に接して集落があり弥生時代からの住居跡さえ発見されたのである。
三陸などでもなぜ明治時代に今と同じような津浪の被害があったのに低い海に接した場所にまた住んだかというとそこが便利だから元の場所にもどってきたのである。
いくら津浪があっても魚介類をとって暮らすほかない時代である。
そうしたら海に接している所が危険でもまた住むようになったのである。

萱浜にも湊の機能が中世にもあったらしい、そこはかなり低い場所だった
湊という姓の墓もあった、鎌倉時代の海道の武士団という本でそのことが書いてあった。慶長津浪は戦国時代に起きていてその前に鎌倉の武士団が海道を行き来していたという
鹿島区の鎌倉武士の岩松氏も船で烏崎に来たという伝説がありそれは史実である。
ただ磐城から船できて鎌倉ではないらしい。ただ鎌倉時代はそれだけ船で運行する技術力が生まれていたのである。

いづれにしろ津浪は高低差が大きく影響した、萱浜の方が相当に低いのである。
雫の方になるとずいぶん高いと思った、だからそこは津浪の被害がなく家も残っているのである。
十一面観音の御堂も木立の中に残っている、かなり海に近くてもそこは高台だから残ったのである。
ただ島商会の車の置いてある崖の上まで津浪が来たのだから驚く、あの坂はかなり急だからである。
ただ辛うじて島商会は被害がなかったのである。あそこの高台に建てたことで助かったのである。低い所に建てたら根こそぎ津浪に破壊されたからである。
土地が安いということで高台に建てたのだろう。平地だと田んぼや畑になっていたので土地が手に入れにくかったためにあのような高台に建てた

それから津神社は高い所にある、あれは津浪とは関係ない、津(つの)神社でありツノガノアラシト系統であり渡来人系統なのである。
津浪に由来して建てられた神社は見つからないのである。
津浪にまねがれたとしてもそれは津浪神社とはならないのである。
ただ神社に古いものがある、また鎌倉時代にさかのぼると海側や低い場所は湿地帯であり人が住んでいないのである。
萱浜は越中などの移民が入ってきて開拓した場所だった。だからそこは湿地帯であり低い場所で条件が悪い所だったのである。
そういう条件が悪い場所に入るのは後から入って来た人たちであり前からいた人たちは住んでいないのである。

鎌倉時代の板碑がある地点からみるとかなり近くまで津浪がきている、おそらくその時代は湿地帯であり住めない場所だったのである。
鹿島区の田中城もこの板碑がある場所とにかよっているのである。
津浪がやはりかなり近くまで来ていた、その城は回りが湿地帯に囲まれていたのである。だから位置的に鎌倉時代の人の住める地点としてあったことがわかる

その板碑のある隣に氷川神社がある、これは埼玉県に多い、関東から鎌倉武士団が移住してもってきたものだろうか?中世に由来するとなるとなかなかわかりにくくなる。
高平と太田地域は相馬氏の支配下に早くからあったからそうかもしれない。
高平ー大内ー小島田が相馬氏の支配下にあった、屋形などは岩松氏の支配下にあったが後で相馬氏に属すようになった。

氷川神社の摂社に「門客人神社」があり、元々は「荒脛巾(あらはばき)神社」と呼ばれていたもので、アラハバキが「客人神」として祀られている。このアラハバキ社は氷川神社の地主神である[4]。現在祀られている出雲系の神は、武蔵国造一族とともにこの地に乗り込んできたもので[5]、先住の神がアラハバキとみられる[4]。

平安時代後期、平貞盛が平将門の乱において当社で戦勝を祈願し乱を平定したことから、関東地方の武士に幅広く信仰され、荒川流域に数多くの分社が建てられ、武蔵国中に広がった。

これはなかなか面白い、氷川神社がアラハバキ族の神社だった、このアラハバキは蝦夷とされているからだ。関東に蝦夷系統の神社が多い、それが東北にこの辺にも移されているのである
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湊氏は安藤氏の系統につながるものらしい、安藤はまた阿部の末裔ともある
阿部氏は日本海の秋田を通じて船で最初に来て蝦夷と交流があり支配した
湊氏は秋田と関係しているのはそのためなのだろう。
だからなぜ萱浜の墓に湊氏があったのか?それはそこに船と関係して湊があったからではないか?もともと古代には泉かんが跡があるからそこはすでに湊の機能としてあった。
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「相馬恋唄」で歌手デビュー 原町の湊清一さん(75) 震災で自宅流失

湊氏がいてこの人も萱浜なのか?

鎌倉時代の歴史書によると安藤五郎が鎌倉時代初期に津軽地方に置かれ蝦夷対応に当たったのが初めとされているが、正確なところは不明である。鎌倉時代末期には御内人として蝦夷沙汰代官職を務め、津軽地方を本拠地に西は出羽国秋田郡から東は下北半島まで一族の所領が広がった

安藤と湊氏の関係があり結ばれている、それは阿部氏とか蝦夷につながる系譜がある。
蝦夷というとき海老もエヒであり蝦夷であり萱浜もカイハマであり蝦夷はカイと呼ばれていた、他にエとつく地名が南相馬市や浪江の沿岸地帯に多い、蝦夷というのはやはり東北一帯に秋田とも結ばれていたとなる
つまり秋田とか津軽(つがる)とかなると福島県では古代からかかわりが感じられないが蝦夷ということでつながりが見いだされるのかとなる
鎌倉時代はまだ蝦夷いうときその歴史が継続していたこともある、古代の延長として鎌倉時代があるからそうなる。蝦夷はその時遠い歴史ではない、まだ歴史としては身近なものとしてあった、だから蝦夷とのつながりが平泉でも取り沙汰されているのである。


posted by 天華 at 22:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係

2017年05月17日

海老の津波の被害者とあう (意気消沈して不満を言っていた)


海老の津波の被害者とあう


意気消沈して不満を言っていた


海老で一人元の神社の所に座っている人がいた。
それは個人用の神社だったという、その人が住んでいたのは海老の通りの突き当たりの角だった、車輪梅の案内がある所だった、広い庭があった。
海老の人は死んだ人は少なかった、死んだ人が多かったのは湊の方だった、あそこの人たちが崖の高台に逃げたからだ。あそこは運動場になっていて網で囲まれていたのも災いしたらしい、湊からあの高台は相当な高さを感じる、とすると八沢浦は低いのである。
右田も川があるから低いと言っていた、確かに川は低い所に流れるから低い場所である。
海老では区長が電気の仕事をしていてスピーカーで逃げろといって助かった人が多かったという、海老だとすぐにければ確実に助かった、後ろの墓地でも10メートルくらい逃げれば助かる場所であり高い所だったからである。だからあそこは被害がないと思っていた。八沢浦の湊とか右田は低いから被害があったと思った。

その人は何か意気消沈した感じである。盛んに補償金のことを言って不満だった
何か鹿島区の人は補償金に相当に不満である。
それを自分が言ったがそれは自分だけではない、みんなその不満を必ず言うからである。特に津波の被害者は相当に苦しいことが表情からわかる
家も流されて家族も死んだ人がいるからだ
生活が苦しくなっていることもある、海老の人で家を建てた人を知っているがローンで苦しいと言っていた。

そして船主や漁業関係者のことをうらやましがっている、このことは今になるとみんな知っているし言っている、自分だけが言っていることでもないのである。
何か自分がフログに書いて小高の人に責められたけどそれは自分だけではないということを知るべきである。
まず船主とか漁業関係者への不満は実際は前からあったのだ。その補償金が大きいから回りの不満も大きくなる。
なぜなら津波の被害者はまた小高の原発避難者と違って補償が少ないからである。
すると小高の避難者もうらやむことになる、その小高の原発の避難者を見て相当に不満だったことは確かである。同じ仮設に住んでもその差が大きいからである。
なぜあんなに優遇されているのだとなるからだ。

何か船主とか漁業関係者がこれほど責められているということはいくら金をもらっても地元では住みにくくなっている、相馬総合病院で請戸の人が特等室に入っていて家を建てると言っていたけどそれでも回りから反発を受ける、相馬市の人は別に放射線量など変わらないのだけど何ももらっていないからである。
だから遊んでいないで働いてほしいとしきりに言っていた。

いづれにしこの辺は複雑である。小高の人に補償金のことを言うと怒る、避難させられたから当然だと思っているからだ。なぜ苦しいのに責めるのかとなる。
一方で津波被害者もいてその不満が大きいのである。それでいわき市でももめたのである南相馬市の場合は何らか対策があってもいいはずだった。合併しても何の効果もなかったともなる、一体感が失われたからである。

鹿島区では小高への人の不満が大きいのである。ただそれを言うと自分のように責められる、そこに根深い対立が生まれたのである。これは小高の人も自重しなければならないのだが何かそういうことを考慮しないのである。
だからお前は傷口に塩ぬって楽しいかとか責めてくる、こういうことは自分だけに起きていることではない、小高の人と接した人が断られたとか何かぶしつけな人が多かったとかなる、いろいろな人がいるから一概には言えない
自分は南相馬市とかの全体を考慮して言っていたのである。
でももう小高と鹿島の亀裂は深いので修復しにくくなっているのだ。
それは最初からの市でも住民でも話し合いもなくただただ補償金をもらえるだけもらえばいいとなっていた、住民自治がなかったのである。
それは原発が建てるときも住民自治がなかったし原発はタブーの場であり住民がかかわれないものとしてあったことも問題だった。

津波の被害であれ原発事故事故の被害であれ6年すぎてもその傷痕は深い、これは廃炉に30年とかかかるというときそれだけの時間があってもこの辺はこの傷を回復できないほどの災害だったのである。
ただ田んぼが増えたし前よりは回復したと感じる、海側はまだ原野化している所が広い
山側でも田んぼになっている所は少ない、でも平地は田んぼが増えて蛙の鳴き声が騒がしくもどったとなる。
タグ:海老の人
posted by 天華 at 07:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係