2019年06月19日

平成の大合併で自治体の耐災力が脆弱に


平成の大合併で自治体の耐災力が脆弱に

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自治体のエリアが広がったことで、職員の土地勘がない場所が増えたのです。地形も、地域の実情も、住民の数も年齢層もわからない。地名の読み方さえもわからない。そんなことが、あちらこちらで起きています。

来るべき大規模な自然災害に、行政はどんな対策をしているのか?       

なぜ合併が問題になったのか?
それは地方だと市町村ごとに地形とか歴史でも違っているからである
やはり人間の生活の基はその土地に地形でも一体として作られてきたのである
日本の市町村の問題は日本自体が平坦な土地がないことも原因している
大陸だとどこまでも平坦な土地がつづく
それは区切られていない土地なのである
日本だと自ずと必ず山があり区切られのである
するとその区切られた中で一つの村なり町なり市が生まれるようになる

南相馬市を例にすると小高と原町でも高い山でないにしろ一応小高い丘で区切られているのである
だから必ず隣の市町村に行くには坂を越えてゆくとなる
飯館村とかなるともう峠であり歩いて行ったりしたらもうめったに行ける所ではない
現実に塩の道があっても急峻な山間を行くから一晩栃窪をでて助の小屋(たすけこや)で泊まったとかなる
そこで泊まってようやく飯館に行けるとなっいたのである
そういう土地が日本がには山が多いから多い、交通が閉ざされているのである
そういう中で独自に生活を形成してきたのが日本である
平坦な土地がある大陸ではモンゴルとかでも遊牧民がいて遠くと交流するのが容易なのである

たから合併するのはいいとしてもその地形まで変えて合併できなかったのである
そういう根本的な日本の問題が常に根底にある
第一福島県のことでも何回も言っているが地形的に一つになるのはあまりにも無理があった、ハマ,ナカ、アイヅがあるが地形も気候もまるで違っている
会津となれば冬は雪に閉ざされている、浜通りでは雪はほとんどふらないから仙台の方が身近なのである、天気予報だったら仙台を見ればだいたい同じだからである
そして福島一区でも阿武隈高原がありはばまれて福島市と相馬地方はかけ離れている
今むずかしい病気でも仙台に行ってみてもらっている人が多いのである
今も知っている人は糖尿病で白内障になり仙台に入院している、他にも病気が出たためである
鉄道が通っているから仙台は身近なのである

合併で問題になったことはいろいろある、津波や原発事故でもあった
特に原発事故の補償金では小高と原町と鹿島はもめた、それは深刻だった
政府に30キロで区切られた結果小高と原町と鹿島では補償金で差がついたからである
小高は別格であり原町は鹿島の三倍もらったのである
その差は大きかった、でも30キロで区切られたのだから文句が言えなかった
それでも自治体で何か施策があっても良かったと思うがそれも全くなかった
それで南相馬市はまとまらなくなったのである
外部との絆ができても南相馬市では絆がたたれたのである
それは今でも尾を引いているのである

また指摘のように土地勘がないということも災害のときは問題になる
津波ではつくづく地形に一番影響されていたのである
その地形を見ればなぜそんなところに家が密集していたのかとかなった
またその土地のことを歴史でも調べておく必要があった
今になって高平とか日下石とか相馬市の新田とかの歴史を調べている
近くでも意識して調べないと無関心のままなのである

地形が地理の基本だという時それがそこに住んでないと身につかないのである
これは地図を観ただけでもなかなかわからないのである
坂がどうなっているのかとかわかりにくい、坂を越えたり下ったり実際にしてみないと実感がわかないのである  
南相馬市となると合併して広くなったから全体を知ることがむずかしくなる
それよりいわき市は30万とかもっと大きくなったからもうそれだけ広いと一つの市となっても実情は別々なのである
第一日本は4,500百人くらいの村単位で長く生活してアイディンティティを築いてきたのである、大陸のどこまても平坦な地で国を作ってきたのとはあまりにも違いすぎているのだ

ともかく日本は山で区切られて一体化しにくい、分散して住むしかない、でも交通が不便で行き来しにくい風土だった
だから合併して広くなると行き届いた行政もできないとなる、災害に対しても地理が広くなるときめこまかな対応ができなくなる
それで失敗したの津波の避難場所の指定だった
海老村の海岸沿いの高い所を避難所して安全だと避難した人たちがそこで30人も死んだのである
別にすぐ裏側が山であり避難するのは道路を走ってもできた
すぐ近くでも津波からまねがれる場所だったのである
それは行政のミスだったともなる、津波に対して経験がないのと土地勘がないこともあったかもしれない、いくらでも避難する場所があったからである
だから八沢浦ではすぐ近くに海が見えていて津波が来てから裏山に逃げて助かった人もいたのである  
前に小高い山があって津波の勢いがそがれたことも幸運だった
とにかくこうして地形が津波と深く関係していたのである

まずその土地のことう地形を知ることが行政でも基本にあるともなる
人間は地形だけは変えられないからである、また気候も変えられない、風土は変えられないからである、その風土があって人間の生活も作られているからである
だから合併はそれぞれの地形が違い成り立ちも違うから一体化できないのである
それで南相馬市だと原町が大きな街だったから原町中心になりすぎるのである
施設でもなんでも原町中心になる
でも障害者施設の大きい建物が鹿島に建てられているのは原町からも相馬市からも近いからだという、中間にあるからである、交通の便がいいから建てられたとなる
そういうふうに交通とかも関係してくる

とにかく郷土史というときそれは全体を知る学問なのである
だから津波とか原発とかでも関係していたのである
原発事故の時、爆発したときちょうど東風がこの辺では春になると吹くというのもそうである、そのために放射性物質が飯館村から福島市に流れたのである
風に影響されて不運だったのが飯館村などであった
それも福島市まで影響が大きかったのもカルマなのかともなる
福島市は遠いから関係ないと思っていたろう
私も30キロ離れているから関係ないと思っていたのである
福島市の県庁が原発を許可した、そしてそこに放射性物質が流れたのもカルマだったとなる、福島の行政の中枢まで被害がったからである

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2019年06月11日

海老村の大工の善次が経験した怪異はやはり津波のことだったのか? (津浪で死体を処理した日下石のばあちゃんもショックで後で死んだ)


海老村の大工の善次が経験した怪異はやはり津波のことだったのか?

(津浪で死体を処理した日下石のばあちゃんもショックで後で死んだ)






円光塚よりいず。転々として大いなること茶銚のごとし

また垣の如きもの路に横たわる。善次中刀をぬきこれを切って
通行す、・・・・

転々として大いなること茶銚のごとし

これは津浪で流される様を表現したものではないか
津浪によって転々と大きなものでも日用品でも流されたからである

垣の如きもの路に横たわる

これは垣とは壁だとか垣根であり津浪で流されて道をさえぎった様を言っている。
これも津浪の被害をその様子を知っていて記されたのかもしれない
ただ本当に津浪の被害のことは資料がないから知りえようがないのである。
これも謎である

日下石で聞いた話ではばあちゃんが磯部から流れ着いた死体を積み重ねて処理した
でもそこで心労も大きくまもなく死んだという話である
磯部は2000人住んでいて250人死んだとか悲惨だった
完全に村は壊滅して跡形もない、その後はソーラーパネルが敷き詰められた
あそこで農家の人にここに死体が流れ着いたんですよと聞いた
墓地で語ったばあちゃんはぎりぎりで助かりそのことを語った


その後善次病死して棺を出す。時に大原村の森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで
雲中に入る。宝蔵寺の僧これを聞き走り来りり七重の袈裟を雲中に投ず。
声ありて曰く、「おいか」と。

棺おく雲散じ空晴れてこれを葬るという。是の世に希有のことなり。
知らず「おいか」とは何の言なるか。
ある人いふう葬礼の諸品を海水に洗えばすなわちこの怪異ありと。

大工の善次がなぜ死んだのか?これも謎である
つまり怪異ありとは磯部のばあちゃんが死体を処理してそれで死んだのと状況が似ている何か異様な状況がそこにあり死んだ、それが津波で死んだ死体を見たのかもしれない

ある人いふう葬礼の諸品を海水に洗えばすなわちこの怪異ありと。

これは津波で死んだ人のことだったのか?

大原が関係しているのはその時、相馬氏は大原から小池の方に進出した
海側はまだ中世時代の館があり入り込めなかったのである
八沢浦の柚木は相馬市になっているけどあそこが鹿島(北郷)の境だったのである

「おいか」これが何を意味しているのか?

これがわかれば何かヒントなり謎が解けるかもしれない
ともかくあれだけの被害と人間が死んだのだからそれで祟って死んだということも信じられないことではない、死体の山になったのだからショックだったのである

それが、生まれ故郷だしここで頑張ると言っていた人たちが、一人欠け、二人欠けしていく。

 出る、のだと言う。

 夜、寝ていると足元から津波で亡くなった隣人たちが這いすがってくるのだと。

 とてもじゃないが、こんな幽霊が出るところで暮らしてはいけないと、集落には誰もいなくなった。

 ともかくあれだけ人が死ぬと何かしら怪異があっても不思議ではない
それを簡単に迷信だとかなんとか片付けられないのである
死者の霊が海辺に被害の地に漂っているという感覚になるからだ
ただ今はソーラーパネルとかになって磯部でも全く昔の面影は何一つ残っていないのである


posted by 老鶯 at 11:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2019年06月10日

相馬藩の慶長津波の証拠 (津波の前と後で石高が大きく変化したーその詳細の検討)


相馬藩の慶長津波の証拠

(津波の前と後で石高が大きく変化したーその詳細の検討)  

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  慶長奥州地震と相馬中村藩の復興( 岡田清一)
(グーグルで検索)

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慶長16年 1611年(11月13日)慶長三陸津波 相馬藩700人溺死、伊達藩5000人死亡とも
慶長 1611 12月 中村城に移転
慶長18年 財政困窮 給人、寺社方、職人にいたるまで役金を義務

慶長19年 大阪陣に参加 


中村城普請、江戸屋敷の普請の費用、参勤交代による費用などがあり在郷給人にその他寺社方、職人などに至るまで百石につき山両一分の割りで慶長18年から元和二年までの間、役金をおうせつけられた。
さらに財政が苦しく二分増しの三両三分とされた。
給人はこれまでも困窮していたためにその収入で上納もできかね、重代の大刀、刀、武具、家財まで売り払い下男下女まで売り払って役金を収めた。
これでは苦しいと役金の免除を申し出た。
でも殿は参勤交代の金も工面できないと許さなかった。
その後役金が免除されないなら知行地を返上したと再三訴えた。
このために他藩に行く者もあった。 

慶長津波の7年後に役金を課している、それは津波の被害が影響して財政的に苦しんだためか?その頃外部から他藩からの援助はないから相馬藩だけでまかなうことは苦しい
だから無理しても役金を課したとなる
戦国時代でありまず軍事費が優先されたのである、それは日本の戦争のときもそうだった戦争になればまず軍事費に予算がとられるからである 

相馬藩では700人溺死という記録しか津波ではない
その証拠となるものはない、でも岡田清氏が津浪の前後の石高を計算した
これは有力な証拠となる、目に見えて明らかなのである
津浪の前後で極端に石高が変化している
そしてその後に寛永16(1639)に津浪から28年後に倍増している
その変化を見ればやはり慶長津波がこの辺にありその時石高が極端に減少した
米がとれなくなったのである、それで財政が逼迫して津波の後なのに役金を課した
今ならそういう大きな災害の時は政府が援助するし外部の人が援助する
でも戦国時代であり援助はされない、だから苦しくても相馬藩内でなんとかしようとして役金を課したのである

これだけ苦しいのに役金を課せられたから過酷だった、それで相馬藩では伊達領に開拓のため移住した藩士がいた、それは伊達藩でも津波の被害があり人手を要したからである
そこにこういう相馬藩の事情があった、役金に税のとりたてに苦しんでいたためなことがわかる、郷士などは給人などは下級武士であり税のとりたてに耐えられなくなり伊達藩に移住したのである

でもなぜその後20年後には石高が倍増した、それはなぜなのか?

ここも謎なのだが当時は農業しか仕事がない、農業で食べていくほかない時代である
そういう時代が長かった、だから戦後の引揚者でも荒地を開墾して農業をはじめたのである、津波の被害があっても開拓して田を広げていった
そして1688年(元禄)に津波から77年後になると開拓は進んで日本が繁栄した次代なる、元禄文化が華咲いた時代であり、その時芭蕉が生まれたのである
それは江戸だけではない、地方でも開拓が進んで豊かになったのである

それで日下石の新田には元禄の碑があった、新田だから新しく開拓された場所だった
そこまでも津波が来ていたのである、だから慶長津波でも被害があった地域かもしれないが開拓されて元禄になると津波の被害からは完全に立ち直り石高倍増したのである

ただ石高の変化の図をみてもそれぞれに差がある
なぜ宇多郷(相馬市)では10分の一以上も石高が減ったのか?
つまり相馬市地域は一番被害が大きかったとなる
今回の津波でも被害が一番大きかったのは相馬市である、だからこれも共通しているのか?
なぜか北郷(鹿島)は被害が少ないしその後に石高が倍増している
まずその時八沢浦は開拓されていない、入江であり港があった、だから港という地域には人は住んでいない、明治以降開拓されて住んだ人が多いからである
また右田地域はおそらく津波の後に開拓された地域である
だからそこの被害も少ない、海老とか烏アは被害があっても田んぼはないから石高に影響しなかったのか?
何か慶長津波の被害が北郷は少ないのである

中ノ郷(原町)の被害も大きかった、これはなぜなのか?
今回も萱浜などが大きな被害になった、でもその頃萱浜は田んぼになっていたのか?
萱浜は越中などの移民が入ってきて開拓された土地でもあるからだ、ただ北泉辺りが被害があったのか?金沢地域でもここも開拓された地域である
相馬市(宇多郷)地域が被害が大きいことがわかるが中ノ郷(原町)が被害が多いことが良くわからない、そして小高郷も被害が大きかった 

小高の特徴は寛永になっても石高が減っている

これは何なのか?なんの理由なのか?
津浪の被害で石高が減ってその後になぜ回復しなかったのか?
小高は鎌倉時代以降港の機能があり蔵院とかまであった
船運が盛んにあった地域である、それでそこに多数の船があった、それでおんふねと相馬藩政期に多数記されているのである
その船も全部津波で流されたのかもしれない、なぜなら小高の海の方の駅前まで津波が来ていたからである、津浪で港の機能は失われたとなる
そしてなぜ小高だけが寛永時代になっても石高が増えないのである
他では増えているのに増えない、減っているのだ
これも理由がわからないが港の機能を失ったことと関係しているのかもしれない
海側に開拓できない事情があったのかもしれない、浜通りでは海側を開拓して田んぼを広げてきたからである、それができなければ石高は増えないからである
事実に大正時代にも井田川は開拓されていたからである
ともかく小高は石高が寛永時代にも回復しなかったのである

まず津波の後に中村に城を移転するにしても費用がかかる
大阪陣に参陣とかもつづきとても津波の被害に金を回すことなどできない
それより役金をう課してもう給人でも耐えられなくなっていたのである

重代の大刀、刀、武具、家財まで売り払い下男下女まで売り払って役金を収めた。

ここまでなっているということはどれだけ窮迫していたか察せられる
とにかく慶長津波で何があったかその時代を再現してみないとわからない
そして何かそうした歴史でも必ずカルマがある
カルマとは繰り返すことなのである、また一旦カルマが生じるとそれが消えることはないのである、天安門事件でも一旦そうしたカルマが生じると消えることはない
そこで無惨に死んだ人たちの怨念を消すことができないのである
だからまたそのことで政権が危うくなる、呪われるのである
歴史的カルマもある、それが津波だったのである
そこで省みられることもなく死んだ犠牲になった人たちは語られず忘れられていたけどまた津波が来てこうしてその時あったことを死んだ人たちをのことをふりかえることになったのである  
     

 
ビスカイノの報告

ビスカイノのことです。相馬藩に到着した翌日にラシャや衣類を貢ぎ物として相馬利胤に面会しました。この目的は相馬藩と友好関係を築いて海難事故の時に支援を要請し、キリスト教への改宗も考えていたようです。
彼は、其城内に於て快く司令官を迎へ、城は破損し、再築中なるを以て城内に迎へさ゛るを謝し、同市も海水の漲溢に依り、海岸の村落に及ほ゛したる被害の影響を受けたりと言ひ、其通行の際竝にイスハ゜ニヤの船又は国民同所に来る時は、全領内に於て喜んて゛十分なる給与をなすへ゛しと述へ゛たり。而して翌月曜日我等か゛行きて海岸及ひ゛余り用をなささ゛る二つの入江を測量する為め、同市に滞在せし時に其約を果したり。
相馬利胤はヴィスカイノを歓迎し、城が破損して再建中のため城外で面会したことを謝ったと記されています。この城とは同年に小高城から本拠を移転したばかりの相馬中村城と思われます。面会した場所は「城塞の入り口」(a la puerta de su fortaleza)と記されており、大手門周辺であったのではないと思われます。         

相馬市宇多郷地域は確かに津波が来ていた、これも証拠である、だから慶長津波がないとはありえないとなる
ただそれが伝えられない、民間でも伝えられないことの謎である
それは記録するものがその時戦国時代であり津波の被害を重視していなかったからだともなる
そして庶民は文字を書けるものがなくできなかった、伝説が残ったにしてもそれも忘れられた
ただ伝説といっても鹿島の八沢浦にだけ残っているのである
相馬市の諏訪神社の船が流れ着いたというのはいつのことがはっきりしていない、松川浦から1500年以降移転したとなるとやはり慶長津波のものかとはなる、ただそれも証拠とはなりにくいのである

posted by 老鶯 at 15:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2019年06月09日

以前として解き明かされない津波の謎 (柏崎と日下石により話を聞くー死体処理した人がショックで津波の後に死んだという)


以前として解き明かされない津波の謎

(柏崎と日下石により話を聞くー死体処理した人がショックで津波の後に死んだという)

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地の内古墳

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日下石まで海になった





●小城の小高城では領地支配に心もとなく、義胤はより堅固な場所に本拠を移そうとする まず、小高城の東、太平洋に面した独立丘に目をつけ、慶長元年(1596)村上城を 築くが、火災で資材を焼失し、不吉として移転を断念。

●築城年代は定かではないが永禄6年(1563年)頃に佐藤伊勢好信によって築かれたと云わ れる。佐藤氏は源義経の家臣佐藤忠信・継信兄弟の後裔を称し、好信ははじめ岩城氏の 家臣であったが、後に相馬顕胤・盛胤に仕えて軍奉行を務めた。天文11年(1542年)伊達 輝宗との合戦の功により磯部・日下石など宇多郡の内六ヶ村を領しはじめ磯部館(佐藤 伊勢館)に居を構えた。しかし、海水による浸食が激しく鬼越館を築いて居を移したと いう。

●相馬市黒木の諏訪神社の社頭の松は「桃井の松」と呼ばれる。諏訪神社は、もと宇多郡 尾浜村(相馬市の松川浦北部)にあり、天文七年(1538)に西方の黒木に遷座になった といひ、当時の歌が伝はる。桃井とは神官の名前らしい。(諏訪神社由緒)

 1611年12月2日(慶長16年10月28日)、慶長三陸津波

 なぜ慶長津波の前に館とか神社が移ったのか?
それも謎なのである、特に相馬市の諏訪神社が慶長津波の前に移転したのは謎である
なぜなら諏訪神社がそこまで舟が流れ着いたという伝説があるからだ
実際相当奥であるが小泉川をさかのぼって津波がおしよせてそうなったのかもしれない
仙台でも砂押川が小さいとみてもまず津浪は川から押し寄せるからである
それじ自分の住んでいる所が川の側なので川が大変なことになっているというとき見に行かなかったが真野川を津波がさかのぼりおしよせた恐怖である、川下では津波は土手を越えたからである
だから諏訪神社に残された伝説は全く作り話とも言えないのである

仙台の多賀城の末の松山の歌 

わが袖は名に立つ末の松山か空より波の越えぬ日はなし(後撰集、恋二、土佐)

契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波こさじとは(後拾遺集、恋四、清原元輔 百人一首)

これは貞観津波のことであり慶長津波ではない、貞観津波は多賀城に都の人が赴任してきたからいろいろ伝えられたのである   

でも不思議なのはなぜ慶長津波の前にこうして不吉だとか高潮だとかまた松川浦にあった諏訪神社も移転している
それはみな海側の神社なのである、村上城は1596年に不吉だとして移転している、これも慶長津波の10年前くらいなのである
ささに何らか津浪に関する謎が移転したことである

それから今回地の内という所の墓地でこの辺に住むばあちゃんと話しした
そこに五輪塔の立派な墓があった、その墓があまりに立派だったので話ししたらそれは嫁いだ人が故郷を出て成功して財を築き建てたという、もう一つも立派な墓である、それも兄弟だとか言っていた
何か事業に成功した人で先祖の地にあのような立派な墓を建てたとなる、他の墓は普通の墓だからである
それはまるで殿様のような大きな墓なのである

そのばあちゃんが言うにはここまでは津波は来なかった、でもぎりぎりだった、磯部から死体が流れてきてそれを積み重ねて処理したそのショックで津波の後すぐに死んだという、私もあの辺で死体が流れてきた聞いた
とにかく磯部の被害は大きかった、人家が多いから大きかった
死体でも相当に流れてきて処理していたのである、その時一番活躍したのは自衛隊だった、そして過労で自衛隊員が三人死んだのである

ただ地の内とかに古墳がありあれこんなところにあったのかと発見だった、相馬市にはあまり古墳がないからだ
そしてそこに古墳があるということはそこまでは津波は来ないのである
近くまで来ていても来なかった、でもなぜあんなところに古墳があるのか不思議だった
それから諏訪神社がありあそこにも津波は来ていない、でも磯部の近くの神社には津波が来ていた
神社だからだとすべて津波が来ないとういわけではなかったのである

いづれにしろ津波の謎は解けていない、今回でも柏崎から磯部を見たとき柏崎は高台だから被害がなかった
そしてあそこは畑しかない、そしてそこに住んでいた人が津波を来るのを見ていた
あそこなら見晴らしいいから見える、そして柏崎には田んぼがないのである
だからそもそもそこでどうして暮らしていたのか?田んぼになったところはもともとは湿地帯であり埋め立てて田にしたのである
ただ田にすることによって高台に住んでも米を食料として住むことができるようになった
それでもなんらかあれだけ海が近いのだから磯部の方でも魚をとりに行ったかもしれない
縄文時代に住んでいたかどうかわからないけど今田んぼになっている所は海だからなんらか漁をして魚をとって食料としていたことも考えられる

でも湿地帯の所に古墳があったということはそこに古墳時代に人が住んでいたのである
南相馬市の鹿島区の横手古墳でもそうである、海から遠いにしても海が見えるような地域でもあるからだ
ただあそこは海に結構近いのであく、津波が来た地点に近いのである
そして日下石という地名はニッケシであり二シのことである、説はあるにしてもそのニッケシがなぜ西になるのか?
それは海洋民は海から渡ってきて名付けたからだと推測した、なぜなら津波で海になったとき太陽がその海になった岸の方に沈んでゆくのを見たからである、これは海から見ない限り知り得ないことである、またありえないことなのだ

その裏付けとしてとにかくこの辺には綿津見神社が多いのである、山津見神社も対になってある、それは安曇族などが渡ってきたためだとなる、海洋民だと海からの視点になるからニッケシが西であり海から見たときその岸は西になるのである
そして実際にあの辺一帯が海になったときは驚いたのである、ニッケシだけはあの辺で変わった地名なのである
アイヌ語説もあるがやはり安曇族などが渡ってきてつけられた地名なのかともなる  

とにかく磯部の被害は大きすぎた

相馬市磯部地区では約2000人の住民のうち、251人が大津波の犠牲になった。市全体の死者・行方不明者458人の半数を超える。

村は全部壊滅して消滅した、250人の死体が流されたのである、それがちょうど今回ばあちゃんから聞いた墓地の地点辺りだった
相当数の死体が流れてそれを積み重ねて処理した、それでそのショックで津波の後に死んだという
それだけ磯部は悲惨だった、自衛隊は泥の中から死体を掘り出していたのである、その中には子供の死体もあったのである
そして自衛隊員も三人過労で死んだのである
津浪の記憶もだんだん忘れつつあるがまだまだ簡単には忘れられない記憶である、被害が大きすぎたからである
そして慶長津波のことが溺死者700人とか記録されていないのでその実態が解明されていないのである





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2019年05月20日

津波の被害の原因は俯瞰的に時間的(歴史的)に見れなかったため (人間の弱点は空間と時間を広く長く見ることができないこと)


津波の被害の原因は俯瞰的に時間的(歴史的)に見れなかったため

(人間の弱点は空間と時間を広く長く見ることができないこと)

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相馬市磯部地区では約2000人の住民のうち、251人が大津波の犠牲になった。市全体の死者・行方不明者458人の半数を超える。
 「相馬沖は遠浅だから津波は来ない」。地域の多くの人たちが、そう信じていた。1960年のチリ地震でも津波は防潮堤を越えなかった。経験則があだになった


丸森の方に行って山に登り相馬市を松川浦を見た、そこで感じたのは人間はこうして俯瞰的に見ない、いつも暮らしている場は狭い場所なのである
人間の弱点はこうして俯瞰的にとか広い視野で見ることができない
それから長い時間で見れない、つまり総合的に見れない
そこに盲点があり津波のことでもそれが言えた

高い視点から俯瞰的に松川浦を見たら津波のことをイメージしたらどういうふうに津波が来るか見える、でも住んでいる場所から見えにくい

そもそも磯部は砂州になっていたところであり松川浦は今よりかずっと広かったのであるではなぜ砂州のような所に家が密集したのか?
それは海岸線が漁業するのにいいのと船溜が漁港になっていたことである
つまり磯部は漁港として機能していたのとその後背地は田んぼだったのである
田んぼに家を建てることはできないから砂州に家が密集した 
半農半漁の生活があり家が海岸線に密集した

日本は山が多いために余計に俯瞰的視点が持ちえない
ヨ−ロッパとか中国でも塔が多いのは俯瞰的視点を得るためである
それは平地が多いから有効なのである
日本では山が多いから塔を建てても俯瞰的視点が得にくいのである

津波のことを知るには住んでいる土地を俯瞰的に見ることが必要だったのである
そして津波の被害がどういうふうになるシュミレーションしておくべきだったとなる

そして時間的にも歴史的時間でも津波を経験していないから津波が来ないという確信までになっていた、それで老人が避難しないで犠牲になったというのもいくら老人でも百年生きたとしても400年前のことなど語り得ようがない
そこで大事なのは伝承とか記録になる
「相馬藩政史」は殿様が代替わりしないから相馬藩のことを連続的に記録されているもので貴重であったが二行だけ生波(いくなみ)で700人溺死としか記されていなかったのである
それも津波の後に発見されたのである、それまで津波のことなど誰も知らなかったのである
ただこの二行だけでも発見していれば警告になった

人間の盲点は俯瞰的に見れない、日本は特に山が多いから俯瞰的見れないのである
大陸だと平原とか草原とか砂漠とか広い平坦な土地がどこまでも広がっている
すると俯瞰的にみる、それで大陸では戦略思考が生れる
戦略は広い視点で見て戦略を作る

【連合国の戦略】
揚陸部隊によるドイツ占領下の北西ヨーロッパの奪還

【連合国の戦術】
夜間の落下傘部隊の降下と艦砲射撃や空襲による援護

日本の太平洋戦争は戦略がなかったといわれる、戦術はあったのかもしれない、戦術は個々の戦場で発揮される
でも戦略となると戦争を総合的に大局的にどうすすめるかとなるがそれがなかった
全体の戦略はなかった、だから無闇と戦線を拡大して大敗北となった

いづれにしろ人間の盲点は俯瞰的に見れない、第一地球でも宇宙でも俯瞰的に見れる人はいない
それは神なら見れるが人間には極小の中に生きているから見えないのである   

箱根路をわが越えくれば  伊豆の海や沖の小島に浪の寄る見ゆ   源実朝

こういう大きな空間は古今、新古今の歌には見当らない

そうなのか?古事記などでは日本の国造りを大きな視点で表現していた
日本は国見山が多い、南相馬市の原町にも国見山がありちょうど鹿島ー原町―小高が見えるのである
それで南相馬市が合併したのは地理的に必然性があったとなる
相馬市は視界の外になっていたからである
相馬市を見たのは丸森の高い山の上だったからである、あそこからは蔵王を見えたし亘理の方へ伸びる海岸線も見えたのである
絶景ポイントだったのである

ともかく人間は視点を変えれば見え方が違ってくる、人間の弱点は地理でも常に自分の住んでいる場所が中心になる
するとその視点が固定化されて全体の視点を見誤るのである

いづれにしろ磯部は悲惨だった、2000人も住んでいたのに壊滅して何も残らなかった、これも空恐ろしいものだったとなる


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2019年04月29日

相馬藩の郷士の研究から判明した恐るべき事実 (25390人がか死亡逃散している―津波で700人溺死はとるにたりなかった!!!!)


相馬藩の郷士の研究から判明した恐るべき事実

(25390人がか死亡逃散している―津波で700人溺死はとるにたりなかった!!!!)

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郷士は在郷武士として苗字帯刀を許されながら農村に住んでいたが、京都奉町行所の例では、家ではなく、当主本人個人に免許され、子息も別に免許が必要とされた[7]。

享保のころから、帯刀が身分特権として確立すると帯刀権へのあこがれが生まれ、様々な由緒などを言い立て、役儀や非常時や儀式など非通常の帯刀権限を免許され、違反と常時化や子息や従者にまで拡大・延長する動きが起こり、


郷士研究の第一人者である木村礎は、郷士とは以下の特徴を併せ持っている場合が多いとした。

存続している藩(或いは知行地を持つ旗本・御家人)の家臣として正式に承認されている
城内で勤務する一般藩士とは明確に区別され、基本的に在郷している
所持地の全部または一部の領有を「知行」として認められ、その管理維持を生活の中心とする(地頭)
軍役については場合により異なる
従って事情により在郷任務を与えられているというだけで立場は一般藩士である者(薩摩藩の「中宿」や柳川藩の「在宅」)、陪臣にして在郷している者、上記で言及した名字帯刀は許されているが士分株は購入・譲渡していない者などは、郷士とは異なる存在に分類される。


江戸時代中期以降、財政厳しい水戸藩の状況を改めるため、献金により郷士に登用する、いわゆる献金郷士といわれる層が台頭した。菊池氏、緑川氏などがその例である。このように、藩の武力ないし財政力を支える目的で、様々な郷士登用の形、あるいは郷士身分の運用方法が生まれた。それら水戸藩郷士は、戦闘員たる郷士として特置郷士、救済郷士、非戦闘員たる郷士として旧族郷士、登用郷士に分けられ、藩の地方行政を支えるための身分層として用いられた



蔵地と給地があり給地はいうまでもなく無税地でこれを耕作する時は武士として苗字名を附して取り扱われる

18世紀に入ると封建社会の封建社会の構造に経済的破綻が生じ、その結果武家社会に現れるのは二男、三男の浪人化と武士身分の売却慣習である

そのため米沢藩では彼らを郷村に放って郷士とした、相馬藩に置ける郷士取り立ては新田開発によって給地したのであるがこれは藩庫収入を目的としている

右田は海側に開拓して作られた村である、だから比較的新しいのである、それから明治になって八沢浦がやはり失職した侍が開いた土地だったから明治以降でも新田開発はされていたのである)

農家対郷士は8498戸対1388戸、人口に対して52674人に対して9370人が郷士である
かかる多数の村落支配をもって取り締まりを徹底したから他藩にあって百姓一揆の頻発している時その発生は皆無であった、わずかに逃散があり主として餓死を待つ他なかった

つまり宝暦10年農家戸数8965戸、人口61114人だった、明暦では戸数7860戸であった
郷士は18パーセントいた
そして人口35785人で25390人が死亡逃散している

藩主ー家中ー本百姓
                                            
(相馬藩)

藩主ー家中ー給人ー本百姓ー(水呑百姓)

鈴木啓著ー「福島の歴史と考古」



これは何を語っているのか?何か重大な相馬藩の歴史の事実を語っている
やはり事実と統計的数がその実態を具体的に露わにしたのである
相馬藩は郷士が多い、郷士とは今でいう警官とか兵士の役目も担っていた
そういう人たちが農民に混じって暮らしていた、そうしたらとても一揆などできない
すぐに上の者に通報されるからである
つまり相馬藩では一揆がないから武士と庶民はうまく平和を保っていたというのではないのだ、それは他より多すぎた郷士によっておさえつけられていたのである
それは北朝鮮を見ればわかる、兵士の数が多すぎる、あれだけ貧乏なのに10人に1人くらいが兵士なのである、そういう人たちが農民とか庶民に交じっているからあれだけ不満があって飢餓になっても反抗できないのである、体制が維持されているのである

これからわかるように相馬藩の支配は郷士によって徹底されていたとなる

人口35785人で25390人が死亡逃散している!

これが事実てのだすうか?事実だとしたら空恐ろしいとならないか?
2539人の間違いとかこの本を読んで思ったがそうではない
でもこの事実は確認できるのか?

これから今回の津波のことを追求してきたが700人溺死とか相馬藩政記に記されていたがこれはとるにたらない数なのである
その時も津波前と津波後では収穫高が激減しているのだ
これは統計的数字の事実だから偽ることがてきない

つまりこれは何を意味しているのか?

津波の被害などは政治的にとるたりないものであり騒ぐこともなかったのである
何ら相馬藩ではそのために津波の被害に対して何もしていなかった
その時は戦国時代でありまだ戦乱があり政治が安定しないこともありただ二行しか記されなかったがそれくらいの事件であり相馬藩全体としてはとるにたらない災害であった
だからそれ以外なんら津波に関して記されていないしわからないのである
このことがまた後に今になっても大きな政治の失政として見直された
たとえ700人死んでとるにたらないでも津浪に関してもっと記しておけばそういう津波が来て700人死んだということで警戒したからである

つまりこれは江戸時代を賛美していたがその暗黒を数字が如実に語っている

そしてこの機に乗じて富商、町人のごときは士分を買収する有様であった
従って農民にとっては餓死の一歩手前に代官、富商、村落支配者を襲うことによって生命を保つ可能性は十分にあった

このように鈴木氏は指摘している、それでもこれだけ郷士が農民に相馬藩ではまじっていたので反抗できなかったのである、そのためにあえなく餓死してまた逃散する他なかったのである
これこそまさに歴史の事実であり真実である、そこに人間の過酷さ江戸時代の過酷さが如実に示されているのだ
私自身も病気になり弱った時、大金を盗まれたり事業に失敗した人が借金をかえすために金の要求をしてきて脅迫すらしてきた
それは相手も苦しいからでありまさにこの世の現実は弱肉強食であり身をもって経験したのである、津波の被害者いてその弱味につけこむ、それが現実である

この事実から比べると原発避難民などは本当にかえって得したともなる
これを言うと批判されるけどなぜ浪江に住んでいる人はあんなに楽天的なのか?
老後の金をもらってかえってみんな喜んでいるとかなっているのか?
それはこうした江戸時代の過酷な事実から比べれば理解できるのである 


あとがき

宝暦の飢饉はあまり語られない、天明の飢饉では相馬藩は人口が三分の一に減った、宝暦の飢饉はそれほどの被害がなかったというのか?
これは事実なのかどうか疑うとなる、だから鈴木氏の研究が正しいのかどうかわからない、こういう事実があったとしたら大事件だからである

おそらく逃散はあったがそれは一時的抗議としての逃散であり領内から出て帰らないことではなかった
死亡した人がいたというがこの数は一時的逃散なのだろう、天明の飢饉は本当に三分の一が逃散とか死亡したことは歴史的事実である宝暦の飢饉はここまでの記録は残っていないからだ

次の大正時代の古い論文が参考になる、でもこれだけの人が相馬藩内で逃散したとしたら死んでいる人もかなりいた
その数はわからないが津波で溺死した700人というのはたいした数ではなかったということが当時の状況を見れば信じられるのである   一時的な逃散は数が膨大になっているからだ、そんなに逃散して帰ってこなかったらもう村自体が藩自体がつぶれる
事情は違うにしろ原発事故で避難してゴーストタウンになったのと同じである  

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コ川時代の農民逃散 Author(s) 黒正, 巖 Citation 經濟論叢 (1927), 24(1): 68-83 Issue Date 1927-01-01 URL https://doi.org/10.14989/128496 



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2019年04月13日

桜田議員の「復興以上に大事なのが高橋議員だ」で辞任 (相馬藩の津波被害も戦国時代で伝えられなかった、戦争の方が大事だったから?)


桜田議員の「復興以上に大事なのが高橋議員だ」で辞任

(相馬藩の津波被害も戦国時代で伝えられなかった、戦争の方が大事だったから?)


この発言の意味するものは何なのか?

そのことで政治家というのは変わらないものだとも見た
変なのだけど津波のことで相馬藩の歴史をいろいろ調べた
でも津波のことは相馬藩政記に二行だけ生波(津波)700人溺死としか記されていなかった、それで本当に津波があったのかどうか疑問にまでなった
慶長津波のことは本当にあったのかどうかさえわからない

それはなぜなのか?

相馬藩政記には戦争のことや世継ぎのことなどは事こまく記してある
その時は戦国時代だから戦争のことは詳しく記されている
だから記録することができないというのではなかった、大事なことは記録していたのである、でも肝心の津波の被害については何も記されていないのである

そのことでいろいろい調べても結局わからない
それで学者の人がその時相馬藩が小高の城から中村(今の相馬市)城を移したのは津波の復興のためだったとか言った
そんなことはありえないことだったのである
津波の被害があったとしても無視されたのである

つまりこの桜田発言と同じだったのである!

復興以上に大事なことは高橋議員だ!

選挙に自民党が勝つことだ!

相馬藩で大事なことは戦(いくさ)に勝つことだ

津波の被害者などにかまっていられない、相馬氏陣営が勝利を治めることだ


何かこうなっていたのである、その時は激しい戦(いくさ)が相馬氏が在地の勢力と争っていたからでありまた伊達氏とも争いが激しかったからである
この戦争とは政治のことなのである
今は選挙なのだが明治以前の戦争は戦争で決まる
政治は平和的に解決しないと戦争で決着してきたのが人間の歴史なのである
選挙というのは戦争と同じなのである、選挙に敗れれば政治生命もなくなるからだ
だから創価公明党でも選挙が最大の戦いであり勝てば仏法の勝利であり負ければ敗北とまでなっている
選挙にそれだけ必死になるのはやはり自民党でもどこの党でも政治が昔の戦争と同じであり選挙に勝つ者が勝利者となり権力を得ることができるからである

だからここで本音がでた、津波の被害の復興より自民党の陣営の立候補が選挙に勝つ方が大事なのだとなったのである
これは別に戦国時代なら普通のことである、相馬藩だけではない、他でも宿敵が津波の被害を受けて弱体化してそれで攻勢に出たとか歴史にあったからだ

まず政治家は民衆のことを第一にしない
自分たちの党派の陣営が選挙に勝ち権力を得ることなのである
選挙ではみんなのために命をかけて戦いますとかいうけどそんなことはただ選挙の時だけだとなる、選挙のためなら頭を下げるし嫌なことでもなんでもする、でもそれは選挙のときだけだと政治家自身が言っている人がいたからである

戦国時代とかなるとそんな嘘は言わない、正直なのである
ただ強い者が勝つのであり民衆のためなど誰も口に出さない、政治とは歴史をふりかえればずっとそうだったのである
民衆のことなど考慮した政治家がいるのかともなる
そして民衆にとってそうして侍でも戦争することは迷惑になる、農民にも被害が及ぶからである、でもそんなことにかまわず侍は戦争をしてきた
権力争いをしてきたのである

つまり政治家というのは今も変わっていない
確かに民主主義になり制度が変わったけど政治家自体は変わっていない
第一の目標は我が党派が選挙に勝つことであり復興のことより津波の被害より大事だったとなる
何か政治というのを歴史でふりかえるというそういうことが多いのではないか?
政治家も変わっていないし人間も変わっていない、同じカルマを繰り返している
会社でも組織集団でも必ず宗教団体でも序列が問題になり熾烈な派閥争いが行われる
それは人間の業(カルマ)であり変わらないのである

それは会社内の政治なのである、確かに表面上は制度は変わっているから殺し合いしない戦争で決着しないにしてもやっていることは同じだとなる
もちろんなかなか400年前とかの時代と比べてもわかりにくいことはわかる
でも何か歴史でも人間には常に共通したものがありそれで歴史でもカルマを繰り返すとなる、人間の業(カルマ)は変わらないからだと見てしまうのである

津波の復興より被害者のことより選挙に勝つことだ!

これが戦国時代なら津波の被害のことより戦争に勝つことだ!

これと同じことになっているのではないかと思った
もちろんここには違和感があることは確かだがそういうことが歴史をふりかえれば繰り返されてきたのが人間だったということは現実にあるからそう思ったのである

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2019年03月25日

津波が残した教訓 (車が障害物となったのはなぜ?)


津波が残した教訓

(車が障害物となったのはなぜ?)

津浪は早く来るから地震が来たら早く逃げないと助からない、時間の余裕がないのだ
それで山元町の中の浜小学校では地震がきて即座に屋上にみんな避難して助かった
その時校長がとっさに判断したのである
10分後に津波が来たからである、3階まであるとしても3階まで津波が来たのだから助からなかった、屋上に逃げて全員助かったのである
それも危機一発だったのである

そう判断したのはすぐ近くが海であり海が見えるからそうしたともなる
そこに危機感があったともなる
ただ人間即座に判断することはむずかしい
だからこそこれだけの被害があったのである

津波には津波でんでことかとにかくそれぞれがばらばらになっていち早く高台に逃げろというのが教訓になっていた
それは車のない時代だったのである                                   
車社会になったときまた対応が違ったものとなっていた
車だと日ごろ乗っているからそして早いから津波から逃げるのにはいいと思うだろう
でも意外と車というものがどういうものか知らなかったのである

車を見ているとどういうものか日ごろ知る人は少ない考える人も少ない
車の性質を乗っている人がわからないのである
車を見ていると一台一台でありその一台一台が個々人で二三人とかのって走る
車というのは個体なのである、私的個人として占有しているものなのである
車を運転するとき人間は自由を感じる、自分自身が思いのままに操作して運転して自由になる、それが車だという、そこに現代の車の魅力があるという
人間は組織の中で縛られて生きているから余計にそうなるという

例えば鉄道と比べると鉄道は決まったレールの上を忠実に走っている、横路にそれたりすることができないのである
そして電車は一つの車でありその車を運転するのは運転手ではないのである
つまりそこに乗客の自由はない、ただ運転手がいてそれに乗せられるままに決まった所に運んでもらうというだけである
鉄道には意外と自由がないのである

でも津波の時新地では車掌が誘導して全員助かった、そして津波で駅も車両ものみこまれたのである
そうして助かったのは電車は自分で勝手に運転できない、それは鉄道会社が乗客の安全を計り運転している、だから常にレールの安全とか電気系統の安全点検を怠らないのであるそして安全の責任は鉄道会社にある
すると津波の時も安全を計ったというときそこに乗っている人たちではない
津浪だからと勝手に行動しない、車掌の誘導でみんな整然と避難したとなる
山元町の中浜小学校でもそうである、校長が安全を計り全員を避難させたのである

一方で津波との教訓としては津波でんでこというときとにかくてんでんばらばらでもいいからいち早く高台に逃げろということが言われた
そいうことで石巻の大川小学校では一部の生徒が勝手に裏山に避難して間一髪で助かったのである、そしてすぐに避難しないでいた人たちは津波に飲まれたのである
最も津波でも危険な河岸に誘導したりしていた
そして生徒も先生も死んだのである
これは山元町の中浜小学校と対象的になった
もし中浜小学校のように校長がすぐに高い裏山に全員を避難させていたら助かったからである
ただ津波にはいろいろな場面があり違っている、だから一様に考えるわけにはいかない

そして車というのが意外と障害物となったのはなぜなのか?
それは津波でんでこというときそれは個々人が早く歩いてでも走ってでも高台に避難しろということだった、そうして小学生でも助かった人たちがいた
でも津波で車の場合渋滞になって動けなくなり車ごと津波に飲まれて死んだ人も多いのである
それは何を意味しているのか?  

それは車というものがどういうものか日ごろ考えていないしこうした災害のときどうなるかも考えていない、むしろ津波でんでこなら車一台だけでもそれぞれが勝手に運転していち早く高台に逃げれば助かるとなる
それがうまくいかなかったのはなぜなのか?
車は一台一台が面積をとる、百人が車に乗るとして百台が連なることになる
そこで渋滞になる、電車だったら百人のっていても車両としては面積をとらないのであるまたそこで人間がまとまって集中して乗っり合わせているからその人たちを全員うまく誘導すれば助かったとなる
ただうまく誘導しなければ全員死ぬということもあった

とにかく車というのは運転手が自由に操作してどこにでも行けるということで現代人が最も車に乗ると組織で頭をおさえつけられることなく自由を感じるというのはそうかもしれない、現代では人間はなんでも操作されていと感じるからだという、私の場合は運転もしていないのだからその辺の実感がないのでわからない
自転車だってやはりどこにでも運転して行けるとなるからにているからだ
車の場合はどうしてもマイカーになる、私的なものとして自由にできるとなる
でも津波とか災害の場合はそれが渋滞となり車ごと津波に飲まれて死んだ
車だともうそれを誰かが統制したり命令できないものとなっていた

その最大の問題が個々ばらばらであり一台一台が運転手の自由になっていたからだともなる、車というのはそれだけ私的な自由を空間でも主張する道具だったとなる
車は確かに道路の上も猛スピードで走ってくる
それは個々人が私的に所有するものであり交通ルールはあってもそこにいるのは個々人であり個人の自由のままに走る
だから時々横断する自転車は目障りな存在であり危険だからどなりつけられる
つまり自転車は車の運転手にとっては邪魔なのものなのである
歩行者だってそうである、それが車社会なのである
その車社会が裏目に出たのが津波の渋滞による死者だったのである
電車にのって津波の被害にあった人はほとんど聞いていないからだ

それから車の問題はガソリンがこの辺では原発事故で入らなくなり長い行列ができた
ガソリンがないと車は何の役にもたたないのである
それで私は相馬市でスーパーを開いた時、自転車で買い物に行ったのである
その時車はガソリンがないのだから役に立たないのである
そのガソリンを運んだのは鉄道だったのである
それも遠回りして貨車で運んだのである
車の弱点はガソリンが入らなければ何の役にもたたなくなる
ただでは鉄道はどうかとなればこれも短所と長所があるから車が全部悪いとはならない
ただ何か便利なものが凶器にもなる、日常的に使っているものが凶器になる
それが戦争でもそうだが災害でも起きてくるということになる
そして人間は便利なものでもそれがえって命取りになる

それは車だけではない,例えば電気がなくなったら水道がなくなったらどうなるのか?
現実にその時裏山の清水を飲み裏山の木を切って燃料にして米を炊くとした人がいて助かった、だから何か災害があったときガソリンでも水でも電気でもガスでもなくなればお手上げになるのである
放射性物質お汚染で水も飲めないとかなったらもう裏山の清水すら利用できない状態になった、そうなるともう避難する他なくなっていたのである
文明化した便利なものにはそうした危険がつきまとっているけどそれを深く意識したり考えたりしないのである 

だから東京とかで直下型地震とか何か大災害があったら大被害になる
もうそこからいち早く脱出しないと生き延びることができなくなる
しかしその時頼りになる車では脱出できない
なぜなら道が破壊されるしガソリンだって供給されないからである
その時今度ははじめて首都移転とか地方に分散して住むとかを真剣に考えるようになる
でも人間はそうならない限り危機感がないからそこに住んでいるのである
やはり津波であれ災害は必ず教訓を残す、でも人間はまた歳月が過ぎると忘れる
そして問題は何が幸いするのかしないのかわからないのである
車はむしろ早いのだから津浪から早く逃げられると思っていたからである
それが思わぬ渋滞になり死んだのである
それは他のことでも同じ事がおこるのである、それはそうなってみないとわからないからそうなるのである、今回の津波ではそれが示されたということである
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2019年03月24日

人間の生業から作られていた景観 (それを津波が破壊したのはなぜなのか?)


人間の生業から作られていた景観

(それを津波が破壊したのはなぜなのか?)


松原遠く消ゆるところ
白帆(しらほ)の影は浮かぶ
干網(ほしあみ)浜に高くして
かもめは低く波に飛ぶ

この歌にしても松原とか白帆の船とか干網(ほしあみ)とかは人間の生業から生まれていた、純粋な原始の自然ではないのである
松原は田を海側に干拓して作るようになりその塩害を防ぐために日本の海岸に松が植えられた、それは人工林だったし田んぼも人間の手によって作られた人工のものである

その人工林が故に松は津波で根こそぎ流された、松は根が強く張らないので津波には弱かったのである、そもそも土地だって砂地なのだから根を土のように強く張れないことがある、それで根こそぎ津波で流された光景はショックだった

もし海岸に松だけではない自然林だったら強く根を張る混成林が形成されていた
自然の林でも森でももともと一種類の木で構成されている所はないのである
人工化することは単一化することなのである
杉林でもそうである、それは木材として利用するために単一化するのである

ブナの木は非常に重く川を流して搬出することが困難なことから、商取引には向かない資材だった[5]。その上、腐りやすい、加工後に曲がって狂いやすいという性質があり、20世紀の後半まで用材としては好まれなかったが、薪のほか、下等品のための需要はあった

橅(ぶな)は無用の木という字があてられた、本当は自然には無駄なものがない、荘子の無用の木のように自然から見れば無駄ではない、でも人間は常に効用から見るから無駄だとなる

松原を自然の景観のように見ていた、それが違っていたことを津波は示したのである
それは人間が作った景観でありでも自然の景観に見えたのである

だから人間というのは必ず自然に逆らうものとしてある
農業自体が実際は大規模な自然破壊になる
焼畑農業が最初の農業になったのは肥料を作るために森を焼き払い灰を作り出したからである
ともかく農業は肥料をどうするかというのが最大の問題だったからである
まず自然状態では野菜でも果物でも大きなものはとれないからである
人間の宿命は自然を破壊しなければ生きていけないのである
もし人間がいなければ大規模な自然破壊は起きないからそれは原始の自然でありそこに荘厳な美がそのまま維持されていたのである

津浪で驚いたのは田になる前の自然状態が再現されたことなのである、縄文海進が再現された、縄文時代の海が再現されたことなのである
海を干拓して田にして塩害を防ぐために防風林として松原を作ったがそれが津波で根こそぎ流されて元の原始状態の海にもどったのである

そもそも松原ができたのと漁業のためではない、農業のためである、稲作で田を作るために人工的に作られたのである
つまり農業の拡大のために松原が作られたのであり漁業関係者にとって松原は別に必要ないものだったのである

文明は人間の技である、その技(わざ)は災い(わざわい)をもたらす宿命にありそれで文明は最後は滅びる運命にある、人間の業(カルマ)だとなる
職業自体が業(カルマ)だというときそうである
人間にはいろいろな職業があるとして必ずそれがいいものとして働くわけではない、何か必ず悪いものとして働くことがある
それはあらゆる職業に言えるのである
別に農業などは悪いものでなくてもそこにも業(カルマ)がある
人間は悪いと思っても食べるために職業をやめるわけにはいかない、それでインドでは仕事をしないことがカルマから脱する道だとなったのかもしれないのである

津波が人間に示したことは何なのか?
なんでこんな非情なことを自然はするのか?
それで天を神を呪った人もいることがわかる
ただそれは人間の業としてカルマとして必然的にそうなったともみる
例えば仙台の若林地区などは仙台市街から住宅地が拡大して無理があった、そこで不動産屋が学者が津波が来るとか警告したとき怒っていたという、地価が下がるからだという
現実に阿武隈川をはさんで岩沼になると一千万地価が高くなるという、それだけの差があったのである

都市化も文明化の拡大であり海側に無防備に住宅地を広げた
それで不思議なのは遠見塚古墳と波分神社があったけどそこまでは津波は来なかった
それも何か人間は自然に逆らって無防備に米を作るために海側を開拓したからだとなる
でもそれは人間の業(カルマ)でありどうにもならないという面があったのだ
人間の業(カルマ)はとめることができない、それで文明も必然的に滅びてゆくとなる
そういうことを津波は人間に示したのかもしれない
それだけ自然の力は人間の技よりはるかにしのぐ想像を絶する強大なものだったのである

つまり今回の津波よりさらに大きな津波が来ないとも限らない
一千年とか二千年とかの単位で見ればそうした巨大な津波が起きているからである
人間の時間単位はあまりにも短すぎるからである
だから人間は自然でも宇宙でも計ることはできない
逆に計られている存在なのである、その小ささを意識すべきだがそれができない、科学技術でもそうである
その力を過信して逆に原発事故のように想定外のことが起きて取り返しのつかないことになった
それはやはり神の力に人間の力が砕かれたとなるのである
科学技術によって人間は神のようになると信仰にもなっているがそれがもろくも砕かれたのである


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遠見塚古墳があり波分神社まで津波は来なかった
海岸深くもともと海が入り込んでいたのである
ただ高速道路が壁となり津波をさえぎったのである
だから高速道路などが津波には効果的だったとなる

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2019年03月23日

慶長奥州地震と相馬中村藩の復興(岡田清一)を読む (石高の極端な変化が数字で示された有力な証拠となる?)


慶長奥州地震と相馬中村藩の復興(岡田清一)を読む   
(石高の極端な変化が数字で示された有力な証拠となる?)


この題名でインタ−ネットでPDFて論文が出ます

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慶長津波の有力な証拠となるとこれだったのか?
宇多郷がなぜこれほど甚大な被害だたのか?
これは石高だから米の被害である
すると宇多郷では今の相馬市ではそれだけの収穫量があったのか?

なぜなら海側だと田は少なくなる、ただ海側に向かって開拓されていたのか?
新田は松川浦に近く開拓された場であり元禄の碑があった
でも元禄時代に広く日本では開拓開墾されて田が増えて米の収穫量も増えた
元禄時代は芭蕉が活躍した時代であった
華やかな時代になった

でもその前となると元和が1620年で終わり元禄時代は1688年にはじまる
その間に60年以上の年月の差がある
ただ慶長時代からすでに開拓開墾は行われていた
でも不思議なのは津波の被害となるのは海側である
つまり海側はそれほど収穫高が高いとも思えないのである
それでも開拓されれば田の面積は広くなるのである

例えば八沢浦とか明治になって開拓されたし小高の井田川浦は大正になって開拓された
そういうふうに海側が開拓されるのには時間がかかっていたのである
北郷が南相馬市の鹿島区が被害が少なかったのか?
それは海側にまだ田が広がらない、開拓されていなかったからなのかとなる
現実に右田となるとそこは人は住んでいなかった、港でもなかった
ただ海老村には弥生時代から人が人が住んでいた
そこは高台になっていたからである
でも今回の津波では壊滅的被害を受けた
そこには港の機能があり漁業もしていたことはわかっている

わからないのは宇多郷の今の相馬市とか松川浦の被害がなぜこれだけ多いのか?
そんなに田があり米が収穫されていたのか?
ただ宇多郷は磯部なども入っていてすでに佐藤氏が支配していて港機能もあった
そして慶長津波の前に波に浸食されたとかで鬼越館に移った
その手前の日下石まで津波は来たのである
そして本当に磯部は村ごと今回の津浪で消滅したのである
つまり田の面積が広いということは相馬氏が支配する前からすでに開拓されて広かったともなる
それと宇多郷は今の相馬市地域は伊達藩の領域となっていた
だから伊達藩のときから開拓されて田の面積が広がっていたともみる
伊達藩の方が相馬藩より古く地力があり技術的にも進んでいたからである
そうでなければなぜ宇多郷だけこんなに石高が減っているのか解せないのである

そして中の郷も南相馬市の原町区の被害も大きい、でもこれもそんなに海側に田が作られていたのか?萱浜(かいはま)などは低湿地帯であり越中などの移民が入って開拓したとあるからその時に田にはなっていないはずである
ただ北泉とか高いと見ていても被害が大きかったからその影響なのか?
それも良くわからない

小高についてはこれも鎌倉時代辺りに今の城のある鉄道の通っている前まで海であり港の機能があったことは知られているし地名でも残っている
それもまた田ではないのだからそれほどの被害があったとは思えない
ただこの数字はやはり被害としては妥当なのかともなる

つまり慶長津波があった時代の田がどの辺まであったのかという研究が必要になる
この数字はやはり有力な証拠になるからだ
この数字からはすでに広く海側に開拓がすすんでいたのだということになる
でも資料があまりにも少ないということで実証できないということは確かである
それで現実に慶長津波が本当にあったのかどうか確証がもてないのである

そしてこの表で最も注意すべきは

宇多郷で慶長津波があったとしてそのあとの元和で6パーセントの石高になったのに
その後の寛永(1639)で二倍にもなっている

北郷では南相馬市の鹿島区では5倍ちかくになっている  

他は津波前の現状回復になっている

つまり北郷では南相馬市鹿島区では慶長津波があったとしてそれほど被害がなかった、そしてその後に飛躍的海側の開拓が進んで石高が5倍近くになっているのだ、それだけ右田などとか大内辺りとか海側に開拓がすすんだとなる
ただ海側だけではない、山側でも開墾されて田が増えたのである
ただ津波があったとして影響を考えると海側への開拓が進んだ結果として石高が増大したとなる

それで小高から相馬氏の城を今の相馬氏の中村へ移転したというのも何か津波と関係していて宇多郷の石高が倍以上に増大したのかもしれない、それで復興のために移転した説が生まれたのかもしれない
城が移転したということは行政の中心が移転したとなるから力が入るからである
ともかくの資料はかなり津波の証拠の資料となるかもしれない
ただその他に資料となるのものがあまりもに少ないから不確定要素が大きすぎるから未だに証明できないのである

ただ今回の津波は相馬藩だけではない伊達藩のことについてもかなり知る必要がある
相馬藩の歴史は伊達と敵対したとしても一体化していることもあるからだ
それは山元町に今回自転車で行って回りわかったのである
古代でも浜通りと相馬藩内の延長としての歴史が記されていたからである

またわからないのはボーリング調査でも不思議に800年代の貞観津波の砂は出てくる
松川浦の奥でボーリング調査したのは今回の津波の7年前でありそこでも出てきた砂は
貞観津波のものだったのである、それから山元町のボーリング調査では弥生時代の津波の砂がでてきた
不思議に慶長津波の砂はボーリング調査ではでてこない
これはなぜだろうともなる、まだ調べ方が足りないからだとなるのか謎である

いづれにしろ私自身も今回の津波を追求しても資料がないということで調べようもないのである
ただここでの石高のこれだけの変化があるということはやはり大きな証拠になる
これはやはり津波の影響だったしか思えないのである

ただ相馬藩政記には生波で700人溺死と二行しか記されていない
その他一切記されていなのはなぜか?
そして戦国時代でありその戦いのことは事細かに記されていた跡継ぎ問題とかも記されている、そして江戸幕府が開設されたとして時代は戦国時代であり政治は安定していなかったのである
相馬藩でも相馬氏が支配したとしても安定していない、いつ反撃があるからわからない時代だったのである、そういう政治状況も影響していて津波のことは詳しく記されなかったとなる
でも依然としてなぜこれだけの被害があったのに資料も残らない、語られないということは謎として残るのである

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2019年03月20日

山元町の津波の被害 (前にさえぎるものがないと被害が大きくなる)


山元町の津波の被害                         

(前にさえぎるものがないと被害が大きくなる)

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黒く盛り上がる波が怖い

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磯崎山

津波がぶつかってせりあがったようになった
辛うじて御堂は残った

ここしか高い所がない、だから被害が大きくなった

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中浜小学校に残った松
これも海が近いのだから枯れてもいいが枯れていない


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津波の後に残っている松と木

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八重垣神社の松、ここも海が近いから良く枯れずに残っている

山元町郷土資料館

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弥生時代は古い

でも・・・・千軒とか伝説が各地にありそれが消えた、それは津波とかのためだったこともある
南相馬市の鹿島区の海老千軒とかも言っているからである


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白いのが津波の砂の堆積

硝子に自分が映っていた




山元町の磯崎海岸に上ったら土地の人と話できた
その人は毎日散歩のために上っているという
それでいつも港に停泊している船を見ているが漁に出たのを見たことがないという
津浪はこの磯崎海岸も襲ってここも危ない所だった

なぜ山元町の被害が大きかったのか?
津浪は地形の影響が大きかった、山元町を見るとさえぎるものがない
その海岸近くにある家も多かったとすると被害が大きくなった
山下駅の海側にも家が結構建っていた、それをいつも電車から見ていた
仙台に近いから山元町は通勤圏にもなっていた

その人は何か不動産屋らしい、それで阿武隈川を越えて岩沼になると土地が一千万高くなると言っていた
建物の値段は変わらないが土地の値段が高くなると全体的に高くなると言っていた
一千万も高くなるとその差は大きい

それからなんでも小高の人が農業やるために移り住んだという
その人は土地を買いあさって農業をはじめたという
それは補償金を一杯もらったからだと言うとそうかとその人は言った
山元町の土地は安くなっているから買いやすくなっていたのである
ただこんなところにも小高の人が金があるから土地を買っていたとかなる
新地辺りにも小高の人は土地を買って住んでいる
一方で山元町では人口が減っている

死者 637人(遺体未発見の死亡届17人および震災関連死20人を含む)
家屋の被害(平成25年5月24日現在)
全壊 2,217棟(うち流出1,013棟)
大規模半壊 534棟
半壊 551棟
一 部 損 壊 1,138棟

この被害は凄い、全壊が2,217棟というのはそんなに家があったのかとなる
その辺を行ったことはなかったから残念だった、津波の前の状態がわからないからだ
なんでも磯崎山で聞いたのでは三方から津波が来たという
そういう話は聞く、そして渦巻いたりしたということ聞いたから恐ろしい
映像を見ても黒い波が盛り上がり瞬間的に高くなる
その光景は今さらながら空恐ろしいとなる

ただ不思議なのは山元町というとき山元だから山側を中心に発展した町かとも思った
そして山下町でもそうである、そもそも海側にはそんなに人が住んでいなかったのかもしれない、ただ漁港があり江戸時代の神社もあるからそれなりに古いのである
浜吉田だと浜が近いとなる地名なのになぜ山元町なのか?山下駅なのか?
それが不思議に思った、これも単純な疑問ではある
山寺とありそこが宿場町になっていたこの町名が生まれた

郷土資料館には古代のものが展示してあってわかりやすかった
弥生時代に津波が来てその地層で砂がある所が津波が来たためだという
貞観時代の津波も言われるがここでは弥生時代だから相当に古い
ただ津波がかなり奥まで来ていたという証拠である
そして不思議なのはここでも慶長津波については何も語っていないのである
何かこのことがわからないのである

山元町は電車で通り過ぎると海の方にも行ったことがなかった、それが失敗だった
ただ津波の跡は枯れずに残った松とか中浜小学校などに生々しく残っている
本当に海のすぐ側の小学校で屋上に逃れて助かったというのも判断が良かったからだったなぜなら地震から10分後に津波が来たというからだ
この辺では40分後だったのである、それ良くとっさに判断したと思う
やはりあれだけ海が側なのだからそれで判断できたのかもしれない
津浪でもあの小学校は流されないし屋上に逃げた助かったというのも津波の教訓である
ビルのような建物は流されないのである、だから高い所に逃げれば助かるのだ

山元町くらいまでは相馬の続きという感じになる、ただ山元町については調べていないのも失敗だった、ただ電車で通りすぎる町だったのである
ここは浜街道として連続したものとして知るべきだった
結局電車とかバスとかで交通を頼っていると本当にその土地のことがわからないなと思った、その土地に寄ったりもしない、ただ通り過ぎるだけだからそうなっていたのである
仙台には常に用事があって行ってもここには寄らなかったからだ
現代とは交通の便がいいから途中をぬかしてしてしまうのである

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2019年03月13日

なぜ津浪で神社が被害をまねがれたのか? (もともと高い場所に建てられていたから)


 なぜ津浪で神社が被害をまねがれたのか?

 (もともと高い場所に建てられていたから)


 神社がなぜ津波からまねがれたのが多いのか、津波からすれすれで助かっているのも多い、それはもともと神社は高い所に建てられる傾向がある
高い所に神様が棲むとなるからだ
そしてもともと古いとなると海側だと湿地帯が多いから低い所に神社は建てないのである例えば八沢浦は明治以降に侍が開拓した土地である
もともと海だったのである、だから社も低い場所にあり流された

古い神社はたいがい高い所にある、相馬市でも津神社(つのみつ)がそうでありその下の・・神社もすれすれで助かっている
烏崎の八幡神社は奇跡的にすれすれで助かっている
それを見て不思議であり奇跡で神様が住んでいたからだとなる
でももともと高い所に神様を祭るからそうなっている

別に海側でなくても社は高い所にある、玉野村の神社でもそうだし山津見神社も岩をよじのぼり隠されるようにしてあった、それは佐須にある分社である
あれにくはそもそもそこに社があると気づかないのである
とにかく神社は高い所に祭るのが普通なのである
そして海側になると海とか湿地帯になっていて人は住んでいなかったからである
原町の萱浜でも住んでいない、照ア神社でもすれすれで助かったというときも低い場所はもともと海であり湿地帯だから神社は建てられないのである

そもそも縄文人が住んでいた場所などはまず津波の被害には合わない
縄文海進があり深く海が入り込んでいたからである
その縄文海進状態が津波で再現されたのには驚いたのである
ただ鹿島区の海老村でも烏崎でも実際は古い場所であり海老村は弥生時代の住居跡が出てきたという時、古い場所である
そういう場所では漁業をしていたから港としてそこに住んでいたとなる
それは便利だからそうなったともなる
三陸などでも明治にも大きな津浪で一万人とか死んでもやはり港がありそこが漁業に便利だからもどって住んでいたのである

神社というのは本当に9割近くは高い場所にある、古い神社は特にそうである
そしなれば津波の被害に会いにくいのである
だから神社に逃げて助かったという時別にそれは神社が守る神様が守るというのではない別に高い所に高台に逃れれば津波から助かるのである
それでことさら神社が助けたとはならないのである
日ごろから高い場所を避難場所としていれば助かるのである
だから神社が特別な神の力が宿っているとかにはならないのである

それにしても神社には謎が多い、なんの謂れであるのかわからないのも多いのである
それだけ古いからそうなっている、その古いことに意味があるとなる
郷土史でも村の新旧をまず知れというときもそうである
その土地でどの家が新しいのか古いのかを知ることである
それで戦後開墾に入った人たちが本当に矢までも多い
それでそこがもともと古くから住んだ人たちなのか錯覚する、まぎらわしていのである
それはどこでも日本ではそういう人たちが戦後職もなく開墾に入ったからである
そういう開墾者が入った場所ともともと古くから住んだ人たちは分けるべきなのである

神社とはパワースポットのように何か場所と関係している、なぜそこに神社があるのか?それは場所と関係してあるともなる、ただ神社にはその由来が不明なものが多すぎるのである、だからそれだけ古いから由来もわからなくなったとなる
それで津浪で神社に逃げたから助かったから神様のおかげだったというのも疑問なのである、別に高い所に高台に逃げれば助かるのが津波だからである
その高い所にちょうど神社があったとなる、だから目印にはなったのである
実際すれすれで助かっているからである
まあ、合理的に考えれば神社が津波から助かった理由がありそれを神様が守ってくれたとはならない、その辺は疑問なのである

タグ:津浪と神社
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2019年03月10日

震災から8年過ぎて・・・・・ (復興特需が終わり旅館も客が来ない)


震災から8年過ぎて・・・・・

(復興特需が終わり旅館も客が来ない)


テレビ放送していた三陸の旅館も最初はボランティアとか来て復興特需があった
だからこれならやっていけると見込んで県から金を借りて復興を目指した
でも最初は良くてもその後は客が来なくなった
津浪で砂浜もなくなったとか前のようななごむ風景がなくなったとかある

結局いつまでも復興のために応援する人はいない
みんなむしろそうした旅館とかホテルに行くのはリフレッシュするためなのである
でも今でも何かそういう被害地にはみんなまだ応援しなければならないと強制される雰囲気になる、するともう行きたくないなとなる
だからアドバイザーがいかにそうした雰囲気から脱出するのが課題としている
いつまでも津波の被害にこだわりかわいそうだから応援してくれでは客はもう来ないと言っている

これもそうなのである、震災から8年過ぎているからだ
でもあまりにも被害が大きすぎてその傷は癒されないのである
そういう場所に観光で遊びくつろぐというわけにはいかないのである
この辺だって何か避難区域になった小高になるとどうしてもそうなる
俺たちは被害者なのだ、俺たち援助されるべきだ
予算を病院再興もするべきだとなる
それに反対するのは冷たい奴だ、同情心もない人間じゃないとまでなる
それで何か言うとお前は傷に塩ぬって楽しいかとかなる

そういう人たちと場所とはかかわりたくないともなる
ただ南相馬市はさけることはできない、なぜなら同じ南相馬市民であり浪江でも近いから傍観しているわけにいかないのである
現実に原町区や鹿島区や他でも相馬市でも相当数の避難民が復興住宅などで生活しているからである

何か現代社会は被害者とか障害者と病人とか弱者に手厚い社会である
それが悪い訳ではないが、それが何かかえって特権化している社会なのである
かわいそうと思わないのかとなり普通の人が暗黙の内にでも責められる社会なのである
一旦そうして被害者になるとそれがもういつまでもつづく
一代でも終わらない、それを証明しているのが韓国とか沖縄なのである
そのために責められて援助を強いられる、日本は韓国国民を苦しめただからその賠償は終わることがないとなる

原発事故の地域とそうでない宮城県とかの海岸線はまた違っている
原発事故は手厚い補償がありそれで生活に困らないとかある
でも宮城県とか岩手県にはない、原発事故だったら復興資金を借りても返済などしなくてもよかったろう、でも返済が迫られて多くの会社が苦境にたたされて倒産したりやめるとなる、原発事故地域ではかえって多額の補償金をもらって喜んでいる人たちもいる
ただ表面上は苦しいと言うことはある、それは人によっていろいろである

でも観光となると本当にむずかしい、観光とは何か癒しとか安らぎとかを求めているからだ、そこで何か被害地として犠牲者のことを延々と語ることも8年過ぎると問題になるというのもわかる
ただそれだけ被害が大きすぎたからどうにもならない責められないということもある

おそらく原発地域だっていろいろあっても飯館村などでも復興はしない
それは時間でしかしないのではないのか?
昨日飯館の森の中に入ったら樅の木新しく根付いて育っていた
それがなんとも瑞々しく感じたのである
新しい命がここにもやはり育つのだなと新鮮に見た
別にそれが放射能に汚染されいるとも見えないのである
小鳥はさえづり山にひびいて気持ちよかった

ただ人間と比べると村に子供も帰ってこない、立派な建物の学校ができても若い世代は子供は帰って住んでいない、それでも保育所とか無料にしたとかで人気にもなっている
そこで子供は暮らし住んでいない、学校には村外から通っているのである
放射性物質の汚染で自然が死んだとはなっていないのも不思議なのである
それが放射性被害の不思議さだった
実際は眼に見えなくても放射線とは怖いものだという、レントゲン写真で放射線をあびることは150日寿命を縮めるとかいう研究者兼医者もいる
だから正直放射線被害について私はわからないのである
細胞が成長する子供には特に影響するとなると親がそういう場所を避けるのは同にならないともなる
思うとすぐに解決する問題ではなくなっている
何か手っ取り早い方策がないのである

そういことでこれはもう時間が解決するしかないのかともみる
セシウムは30年で半減するというときそのことを象徴している
それだけの時間を待つ他ないのかとなっているのだ
そんな時間を待てないというのもわかる
でも方法がないのである、30年後でも50年後でも百年後にでも時間が解決するのを待つほかないのかと見てしまう
そうすれば森でもセシウムは半減する、その前に除染しても無駄な感じになる
森からいくらでも放射性物質が流れてくるからである
今なぜまた溜池の除染を方々でしいるのかというのも疑問なのである
それより補償金をたりない所に配った方がいいともみるのである

人間は普通の状態でもある家に病人がでたり何か負担になることがあると人はよりつかなくなる、私の家でもそうだった
それはそういう所に行くと負担を感じるし現実に負わされるからである
そこには重苦しい雰囲気がある、だからよりつかなくなるのである
それと三陸の旅館がにていたのである
最初はボランティアが来たとしてもそれを継続はできない
みんな癒しとか楽しみたいとして本当は来るからである
特殊事情で一時的にボランティアなどが来たがそれを継続できないのである

そしてその被害をいつまでもひきづると人は余計にこなくなる、来ずらくなるのである
俺たちは被害者なのだとそれはもう終ることがないのだ
援助されるのは当然だ、ここに来たら寄付金を出すのが人情だとなるからである
でもそういう状態から解放されるのは本当に50年とか百年とかの歳月が必要なのかもしれない、それだけ被害が大きすぎたのである

水産関係とか漁業とかは農業でも林業でももともと衰退産業だった
そして高齢化社会であり跡継ぎがいないとかなっていた
そのことを言う人がいたのもわかる、そういう弱体化した地域に津波が原発事故が襲ったのである、だから致命傷にもなったとなる
人間は暗い雰囲気の所に行きたくない、店でも暗い場所にあると飯もうまくないとかなる人間は明るい場所を好むのである、だから店の立地は明るい場所がいいのである
とにかく暗い重い雰囲気とか被害者であり応援する義務があるとかなるとそこで日ごろの仕事で疲れた体と心も癒せないのである

別に通り過ぎるくらいならい、現実に旅館に泊まらないで去ってゆく人が多いという
今も津波被害を語る会があるからである、それを聞いたら泊まらないで去ってゆくというのはくつろげないからだろう
人だって何かそういうことを未だに強制されているのである


俺たちがこうなって仕事もなくなったとか何が失ったとかこうなっているのは全部原発事故と津波のせいなんだということが言葉になくても重くのしかかるのである
現実は何もすることもなく朝から酒飲んでアルチュウになったというのも浪江の人にもいたのである
それだってみんな東電や国のせいだとかしていれば責められない、むしろ生業を返せとなりそれが補償金もらうために協力しろとなる
沖縄でもいつまでも日本人のために沖縄はひどいめにあったとその被害を今も訴えつづけている、韓国でもそうである、それでそういう場所には近づきにくくなる
人があまりにもそういう心の状態にあると地元の人とふれにくいとかなる
それはこの辺でも同じなのである

南相馬市内でもそうでありそういう被害者とは近づきにくくなる
それも8年過ぎても同じだからそうなる
おそらく十年過ぎても同じである、二十年過ぎても同じである、ようやく30年過ぎてこの辺ではセシウムが半減したとき多少変わるかもしれない
それは一代で終る問題ではない、二代も三代もつづく、それは韓国や沖縄の人たちとにているのである
こうなったのは全部津波と原発のためだとなり毎日酒飲んでいてもギャンブルしても生業を奪われたのだからしかないとされるのである

結局復興が8年過ぎてもできない、インフラはできたが人の心はしていない
それで心のケアが大事だとか孤独死をしない見守りとかに力を入れる
何かこれも時代だったのである、高齢化社会とか第一次産業の衰退と重なりそういうふうになった
でももしトヨタとか車産業が被害を受けたらみんなでなんとか復興しようとするだろう
ローカル線でも衰退している利用しないから津波でやられてももともとたいして利用はしていないとかなる、だからやめた方がいいとなる
北海道でも台風の被害で一部復旧していない、それは莫大な金がかかるからである
それより車の時代なのだから鉄道はやめた方がいいとなる
つまり時代が影響して復興できなくなったのかとみるのである
その手っ取り早い解決方法はない、ただ30年とか50年とか百年の時間が解決するとかしか方法がないのである
いろいろ試してみてもそう感じてしまうのである

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飯館村の森中に育っていた樅の若木

これが大きくなったとき30年後50年後に復興しているかもしれない


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2019年02月25日

松川浦は海の文化を育む地域 (春の日に釣人と魚の話)


松川浦は海の文化を育む地域

(春の日に釣人と魚の話)

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船越観音でも津波が襲い辛うじて社殿は残った
ぎりぎりだったのである

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ホシカレイ



親潮(おやしお、Oyashio Current)は、別名千島海流(ちしまかいりゅう、Kuril Current)とも呼ばれ、千島列島に沿って南下して日本の東岸を通過する海流です。栄養塩が豊富で、「魚類を育てる親となる潮」という意味で付けられました。北海道、東北地方に良い漁港が多いのはこのためなのですね!その濃度は黒潮の5〜10倍あり、春になると植物プランクトンが大発生し、緑や茶色がかった色になります

 松皮鰈、松川鰈。由来・語源 

■ 多くの文献に本種の表側(有眼側)の鱗がかたくザラザラしているのを松の幹の表面のようであるからと記載される。
■ 田中茂穂の『魚』(1940年、創元社刊行)に「まつかわ」は茨城県、福島県の呼び名であるが一説に『茨城県鹿島郡夏海村松川(今のどこに当たるのか?)で多くとれたためについた」と記述されている。
■ 福島県松川浦にちなむ。

アブラガレイ ガヤマガレイ カワガレイ カンタカ キビラメ キマツカワ サンクワウ シロマツカワ タカガレイ タカノハガレイ タカハガレイ タンタカ ニシキガレイ バカハダ ハトガレイ マツカワ ムギガレイ ヤマブシ ヤマブシガレイ 


マツカワカレイに並ぶ高級魚のホシカレイ。
身がしまっていて味が濃い白身です。
刺身で提供します。
  
カレイには種類が多く、日本近海だけでもメイタガレイ、アカカレイ、石ガレイ、ババガレイ(ナメタガレイ)、ヤナギムシガレイ(ササガレイ)など40種以上もあります。また、北海道から九州まで広く分布しているため、地方によって呼び名も味も旬もいろいろあります

城下鰈(しろしたかれい)

その美味は古来より知られており、江戸時代には武士しか食べることができなかった[注 1]。また、日出藩では端午の節句の全員登城の際に城下かれいの料理が出され、そのために4月頃から一般には禁漁にされたともいう[6]。城下かれいは、将軍への献上品とされて珍重されていた。通常は、参勤交代の際に干物が献上されていたが、閏年には端午の節句に間に合うよう、生きた城下かれいをいけすを備えた船や早馬を用いて江戸まで運んだといわれる
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松川浦史実伝承編

古今和歌集の「世の中は 何か常なる 飛鳥川 昨日の淵ぞ 今日は瀬になる」という歌だという

お堂の左手には鹿島神社があり、左奥には錨(いかり)堂というお堂。宮城県岩沼市の千年希望の丘の側でも鹿島神社にお参りしましたが、東北には鹿島神社が多いようです。常陸国一宮・鹿島神宮は天平勝宝元年(749)に万巻上人が神宮寺を建て(「筥根山縁起」)、鹿島大明神の本地仏は十一面観音菩薩とされています(「神道集」)。
 錨堂には、大きな錨が奉納されていました。南北朝時代の南朝の忠臣・肥後の菊池氏の一族が海路、当地に落ち延び、守り仏を本尊として祀ったのが船越聖観音堂だそうです。その末裔「備中四家」は、明治の初めまで船による交易を行っていたとのことで

「夕顔観音」も、そのルーツは下総にあることが分かりました。千葉一族の祖・平良文は夕顔の花を好み、良文の遺言により夕顔の実を割ると、中から出現したのが夕顔観音さまであったそうです。その後、千葉常胤の父・常重が夢告を受け、夕顔観音菩薩を本尊として樹林寺(千葉県香取市)を建てました。慶長5年(1600)、関ヶ原の合戦の功績によって下総多胡藩から信濃高遠藩に移った保科正光(正室は真田昌幸の娘)は、樹林寺の夕顔観音さまを写したお像を本尊として高遠にも樹林寺を建てましたが、そのお像は、十一面千手観音菩薩です。相馬の鵜の尾岬に流れ着いたという夕顔観音さまも、下総の夕顔観音菩薩を勧請したものなのでしょう


松川浦の貝殻地蔵



海岸の埠頭で魚釣りしていた人がいた、ちょうどホシカレイを釣り上げたところだった
岩沼から来た人たちがそこにいた、これは高級魚である、カレイの種類は多い、日本がだけでも40種類あるとかなる、魚そもそも種類が多いのである
マツカワカレイのことを言うひとがいた
その人はこの近くに住んでいて三日に一度きて釣りをしているとか言っていた
マツカワカレイの名前は松川浦と関係あるのかと思ったがそうではないらしい
有力なのは松皮なのか?
ただ土地の名がつくものとして城下鰈(シロシタカレイ)の話は面白い、城の下でそこだけでとれるカレイであった、侍しか食べれなかったということである
庶民との区別がない日本にしてはこういうこともあったのかと思った
それだけにその魚と貴重だった
この辺では石鰈は年越し魚として有名である、大晦日に食べる魚でもある
不断は値段が高いので食べられないからである
それはやはり冬にあった魚であり身がしまっているのである
その魚すら放射能物質の汚染で食べられなくなったのは本当に残念だった

でも不思議なのはそうした大きな打撃でもノリを作っていてもとれなくなっても
アサリ採りの潮干狩りができなくなっても多額の補償金が船主中心にもらいから生活には困らない、かえって潤っているということもある
それは原発前から相馬双葉漁業組合では漁業権を東電に売ったから金持ちだったのであるだから新しく立派な家を建てたのはそうしした人たちだった
この辺で磯部などは壊滅したから建てた人がいるし原町にもいた
その庭は本当に一千万以上級の庭だから驚く、ほれぼれとする庭なのである
それだけの金が入ったとなる

これも矛盾である、そして魚もとらない漁師がどうしてここに住んでいるのだと自問自答した姿はまさに哲学しているともなる
何が存在意義なのかわからなくなったからである
ただ生活費は補償金として特別支給されているのだから困らないけど魚とらないとしたら漁師ではない、では何になるのか、東電の特別供与社員のようになっていたのであるそれ地域にとっては必要ないものだった
それが原発事故で明らかになったのでその不満が大きいのである
松川浦でもそういう不満を言う人がいたのである、なぜなら港に住んでいても漁業にたずさわる人が全部ではないからだ
だから未だに潮干狩りができないことは本当に観光にとって痛手なのである


石鰈は一匹二千円とかした、それが小高の女の人が前に行商して売りに来ていたのである
この魚を前に姉が生きているとき戦友だった会津の人に送ったら喜んでいた
それは会津ではこうして新鮮な魚が食べられないからである
その代りに見知らず柿が送られてきたのである
その人が原発事故で避難区域になり仮設に住むようになった
その仮設に住んだ人が苦しんでいるかとなるその人にとっては魚の行商しているよりは補償金をもらって仮設に暮らしている方が良かったのである
だから何か苦しいということは見えない、金をもらって喜んでいたのである
そういう人は少なからずいたのである、そこが外から来る人には誤解するとなる
今でも原発避難者にはそういうことがある
津波の被害者はまた違っている、第一家族が死んだりしているからである
もちろん漁業関係者でも津波の被害にあった人が多いからそういう点では同じである
ただ津波にあっても生活では全く困らないのである
例えば宮城県とか岩手県の津波の被害の大きい地域ではそうしした原発補償金はもらえないからである、ただ女川などはもともと同じように漁業者には東北電力から補償金をもらっていただろう、でも東電の補償金は桁外れだった
第一やはり農業と同じで漁業は後継者がいなくなっていた、だから衰退産業であったから農業と同じく原発頼りになっていたのである

漁業はまた農業とも関係していた
この前あった他から来て何か郷土史に神社に異常に興味をもつ人がいた
その人は塩釜市に松川浦でアラを売りに車で運んでいたのである
おそらく肥料にするためだろう、まず肥料はあらゆるものがなる
刀作りでその鉄くずまで肥料にしていたのをテレビで見た、鉄分になるからいいというのである、貝殻でも肥料になるというより酸性をうすめる、アルカリ性にするからいいとなって実際に知っている人がそれを畑にまいた
そうして肥料代でも一年に数万円もかかる、それを私が支払っている
しかし収穫はほとんどないのである、ネズミに食われた盗まれた、天候悪いとかなりほとんどとれないのである、でもそこにカンナが咲いた時大きな花で映えたからいいなと見ていただけである 

漁師のことはなかなかわかりにくい、二三日前の魚を漁師は食べないというときもそうである、それだけ新鮮なものがうまいからである、そういうものを食べられるのはまさに漁師だけだとなる、他にもいろいろあるがわからない
まず松川浦は外から移住してきた人たちが先祖である
それは漁業だと余計そうなりやすい、漁の技術でも西の方が優れていたからである
それで錨堂であれそうした由来が記してる、ただ平地でもこの辺は第一相馬氏が移住して作られた藩だったことでもわかる、当然千葉氏なども同族だから関係しているのである
松川浦は海の文化をもった地域である
それはやはり松川浦が漁港に適していたからである
そうした入江になっている所が福島県でも仙台までないのである
亘理の荒浜はなっているが他にない、でももともと八沢浦は入江でありそれが津波で再現されたときは驚いた、あそこも大きな船が過去に入ってきていた港の機能があったのである

いづれにしろ海の文化として松川浦はありそこを探求する必要がある
それは魅力的だとなる、まず阿武隈高原を越えたら山国であり海の文化はないからである福島県は会津の山と海の文化がある地域として今もある
それをいかに活かすかとなる、だから原発事故の被害は津波の被害より実際は致命的だったのである
8年すぎても未だに潮干狩りとかができないことでもわかる、こんなに影響するということを誰も真剣に考えなかったのである
ただ松川浦は漁業だけではない、貨物の出し入れとか火力発電所があり石炭も船で入れているし最近はガス事業が大規模に行われている
ガスタンクが作られたしそれで新地の方までその関係の仕事の人がやってくる、そこが働き口ともなる、発電所は雇う人数が千人とか多いからである
だから津波の後でもそうした関係の仕事が増えて復興にはなっているのである

それでNHKのテレビで松川浦の女性のことを放映していた
漁に出た夫のことを心配して安全を祈る、それは海では必ずある、海がしけると遭難がある、海は危険な場所だからである、それで安全を祈るというのは文化ともなる
それは切実だからである

それで俳句にしたのが山の方に春の太陽が沈んでゆく

船無事に帰るや山に春陽没る

こういうことが海の暮らし漁師にはある、ただ海の暮らしとか文化というのもわかりにくいのだ、魚の種類からしてし多すぎるからである
ただ海の文化として松川浦を探求して知ることが不可欠である
津波が400年前にあったとしてもそのことが研究もなにもされていなかったのである
それで私がホームページで松川浦のボーリング調査したことを報告した
かなり奥まで津波が来た砂が発見されたのである、それは貞観津波の(800年代)のものだった、慶長津波のものではなかったのだ
ただなぜ諏訪神社に津波で流された舟がとまったとかの伝説があるのか?
それは小泉川を津波がさかのぼって船を運んだからだとなる
川をまず津波はさかのぼるからだ
それで本当に自分の家は川の側であり川を津波がさかのぼった街の中心部までさかのぼったので恐怖だった、土手からあふれたところもあった
それでそういう伝説が残っても不思議ではなかったのである
いづれにしろこの津波の話は尽きないとなる
ただ8年過ぎて冷静に振り返るようになったのが違っているだけである

matukawagas11.jpg
遠くにガスタンク見える
火力発電所も見える、ここは広大な地域なのである

次は俳句短歌の部で語る松川浦の春です




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2019年02月24日

松川浦の津波はどうだったか? (地形は自ら歩む、自転車で地形を感じる、地図では土地の高低などがわからない)


松川浦の津波はどうだったか?

(地形は自ら歩む、自転車で地形を感じる、地図では土地の高低などがわからない)

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青い線は津波前からあった

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川口神社 鳥居と石碑は流された
でもここは高いから神社は残った
なぜこんなに高い所に作ったのかとなる
それで神社は津波からまねがれたのが多い


この線よりは下だった、もともと青い線は津波の前からあった
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この松が枯れずになぜ残っているのか?
ここまで津波が上がらなかったのか?
塩水をかぶれば枯れているはずだが?

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相馬共同火力発電所がある方でも小泉川の方におしよせた
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この神社の石段まで津波が来たが社のある所には来ていない
だから石段を上り避難すれば助かった
ただここは別に津波の神社ではない
津神社はみんな津波とは関係なかった
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墓地で津波がさえぎられたという不思議

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おそらく今日聞いた墓地の所で両側から津波が来た
そういうふうに一方方向でない、地形により津波は変化する
ある所で渦巻いたというから空恐ろしいものだった

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○の所が墓地である
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この墓地で津波がとまったというのも不思議である
そんな効果が墓石にあったのかとなる


松川浦のホテルが津波に襲われた映像は衝撃的だった
松川大橋の下を津波がおしよせた
今日行ってみると川口神社は高い所にあったが鳥居とか石碑が流された
そこに立つとホテルが見えた、そこは低い場所だった
坂道になっていた
これも不思議なのだがなぜ川口神社もあんなに高い岩の上にあったのか?
あそこまでは津波がとても届かなかった
低い場所には津波が襲い被害が大きかったのだ
ホテルに青い線があったがあれは津波の前にもあった
youtubeの動画の映像に映っていた
あの線よりは下だったのだろう

津神社(つのみつ)でもそこの神社がある所までは津波は来なかった
でも石段までは来ていたのである
道を津波が上っていったのである
ただ津神社の境内に入れば助かった

それからぐるとまわって船越行く所に墓地がありそこで偶然そこに住んでいる人に聞いた

「あの墓地の所で津波が止まったんです」
「ええ、あの墓地で止まったんですか」
「ええ、向こう側は被害があったんです」
「あの墓地でね、そんなことがあったんだ」
「そして右側からも尾浜の方から津波が来たんです
それから原釜の方からも津波が来たんです
両側かから来たんです、それは恐ろしものでした」
「両側から来たんですか、それは恐ろしいですね」
「避難所に逃げたのですがその途中で津波に襲われた人がいるんです」
「そういう人もいたようです、逃げるにも津波は早いからぎりぎりだったった」

津波は逃げる途中で確かにさらわれて死んだ人も多い、車でもそうだった、逃げきれなかったのである、それは車が渋滞とかなって逃げ切れなかったのである
一刻を争う時車は障害物にもなったのである
あの墓地の近くの船越観音も高い場所にあり津波から残ったのか
錨堂などがあった、とにかく原釜の被害が大きかった

ただ相馬共同火力発電所は海に近くそれなりに津波も襲ってきたのだから被害が大きくても良かったがそれほどでないとも聞いた
原町の火力発電所は海に面して突き出た所にありもろに津波に襲われて被害が大きかったそこで私は原町の火力発電所から煙が出たのを見た
火事になったのである、原町火力発電所の被害は甚大だったのである

 当時、発電所には社員やPRセンターを訪れた家族ら約1100人がいた。全員が1号機のタービン室に避難したが、津波で建屋1階が浸水し丸1日孤立したという。
 貯炭棟といった施設や変圧器などの電子機器は全て水浸し。石炭を運ぶベルトコンベヤーは壊れ、揚炭機2機は大きく傾いた。その南側には石炭船が座礁している。

ここもは被害は大きかったが原町火力よりは早く復旧したのである、原町火力は被害がやはりこちらより大きいから復旧が遅れた
いづれにしろ津波から8年になるがだんだん忘れるということがある、他からも忘れられるということがある
ただ今になると冷静に見れるので再検討した
それにしてもあんなに海に近いのに原釜の松が枯れていない不思議がある
原釜の家の被害は甚大であり壊滅状態だった、今は高台になったいる
それから大きなタンクはガスタンクでありここが供給基地となり今も大きな工事をしている
ここはだからもともと人数として多く働く場だったがガス関係でまた働く場が増えたとなる

今回松川浦全体を回りわかったことは

地理は地形は歩くか自転車かで踏査しないとわからない、地図を見てもわからない
土地の高低が地図を見てもわからない

これをつくづく感じた、人間の五感に優るものはない、地形を地勢を知るには自らの足で歩み感じるほかないのである
今回の新しい電動自転車は役にたつ、機動力があるからだ、すいすい坂でも行けるからである
すると地形もわかりやすくなるのである

そして錯覚したのが松川浦では結構高台に家があり松川浦が全滅のようにテレビでは見えたがそうでもなかった
低い場所の被害が大きかったのだ
テレビはやはり錯覚をもたらす、実際に知るにはその現場を自ら歩み五感で知ることである
テレビの画面からだけでは錯覚を生むのである
とても立体的な地理をテレビの画面からだけでは知りえないからである
のである
これはどこでも津波の教訓だったのである

低い場所は津波には弱かったのである
だから低地に家を建てるのは海に面していたら危険だったのである
ただ高台は不便だから低地に家を建てるようになったのである
もともとは最初は高台に人は住んでいたのである
そのために古い神社はたいだい高台にある
その高台に人家もあったとなる
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2019年02月22日

神社が津波の被害からまねがれたのはなぜ (古いものは何か理由があってその場に作られ人が住んだから)


神社が津波の被害からまねがれたのはなぜ

(古いものは何か理由があってその場に作られ人が住んだから)




福島県南相馬市小高区浦尻前田 綿津見神社

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泉官衙遺跡
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ここも丘によって津波がさえぎられ被害が少なかった

原町区下高平鎌倉時代中世遺跡群
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桜井古墳の手前までも津波が来ていた     
古墳も古いから高台にあるのが多い                  

南相馬市鹿島区烏崎八竜神社

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磯部(寄木神社)
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相馬市松川浦津神社(つのみや)  
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津神社から下に原釜がありそこに家が密集して被害を大きくした
そこはやはりもともとは新しく住んだ人たちだとなる                            


津波で不思議だったのは古い場所が神社が建っている所が高台にあり被害をまねがれた
小高の綿津見神社からたどるとそうである
その前に沼があったがあれは津波でできたものかと思ったら津波の前にあったのだ
それも不思議である
どうして沼ができたのだろうとインタ−ネットで報告していたサイトがあった
するとあそこに慶長津波とかで海の水が押し寄せて沼ができたのか?
あそこに水がたまりようがないからである、これは謎である
ただあの綿津見神社も辛うじて津波から残った

それから原町区の泉官衙遺跡も丘の裏側にありそこで津波が弱められて大きな被害にはならなかった
この地形の影響が本当に津波では大きかったのである
津波の勢いが弱まるとそれほど被害がない、松島でも勢いが島が障害物になってそがれて水は徐々に上がったが強烈に押し寄せることはなかった
そもそも津波は物凄い水の塊りとなって圧力があまりにも強大となりそれが大被害をもたらしたのである
だから水の勢いを弱くするとそれほどの被害にならなかったのである
だから地形が影響してそうなった

そして古い場所とかにある神社とか寺と石碑とか見るとそこには津波は来ていないのである、その位置を図で示したように近くまで来ても津波の被害はなかったのである
ただ烏崎とか海老とか磯部はなぜ家が密集していたのか?
それは漁業する港があり便利だからそこに集まったのである
それは三陸とか他でもそうである、明治以降の三陸津波の後でも便利だからとまた元の低地の港に集まって生活していたことでもわかる
烏崎も海老も磯部ももともと港があったからそうなった、そこは慶長津波の400年前からあった、海老は最も古くエヒであり蝦夷が住んだ地域だから本当に古い場所だったのである、そこは高台だったから住んだ
その下の右田は低地であり江戸時代に開拓して住んだから新しいのである
海老村には弥生時代の住居跡があることでもわかる

ではなぜ400年前の慶長津波の記録が残っていないのか?

それは大きな謎だった
ただ八沢浦が入江になり海だったときその奥の柚木(ゆぬき)には津波の伝説が残っていた、

神社の場所が津波の届くぎりぎりの標高にあったことです。標高線と神社の位置を重ねてみると、南相馬市原町区では標高10メートル、相馬市では標高5メートル近くに神社が立地していることがわかりました。また、そのような規則的な配置は古い神社に多く見られて、明治以降に新築・移転されたような新しい神社には見られませんでした。結果として、新しい神社には流されたものが多かったのです。

これを証明しているのが烏崎の八竜神社である、本当に社殿すれすれまで津波が来たが残った、その下は全滅になった
そして平地の津神社は八竜神社の分社であり住む地域が広がってそこに分社したのであるもともとは高台にある八竜神社が元なのである
そこは津波からすれすれと残ったのは奇跡的だった
ただ海老村は一番古い村でも全滅した、それは高台にあり安全だと思われていた地域である

てんとう念仏」と通称で呼ばれている場所がある。
 水田から民家の脇を通って、丘に登っていく。その道が上の写真。 
 <津波が来たときにこの山に登り、念仏に唱えて津波が収まるように祈った>ということから、この地が「てんとう念仏」と言われるようになったという。 

 もうひとつは、すぐ近くにある「急ぎ坂」と呼ばれる坂。 
 <大きな津波が来て急いで駆け足で坂道を登った>というこ

この地域は八沢浦の奥である、もともと八沢浦は海であり入江になっていた
だから人は住んでいなかったのである、明治以降に開拓された場所だからである
それで当然被害があったのは津波が押し寄せたのは人が住んでいる柚木だったとなる
そこに伝説が残されたのは地理をみればわかる

ではなぜ烏崎とか海老とか磯部に津波の伝承が残されなかったのか?

それはいろいろ調べてもわからない、資料が記録が何も残っていないからである
ただその津波が来たとき相馬藩では戦国時代であり争いがあり戦さがありその方の記録は事細かに相馬藩政史に残されている
でも津波の記録は生波(いくなみ)で700人溺死としか記されていないのである
それで伝承があるのかと調べてみてもこの柚木に残っているだけなのである
あとは小泉川を上った所の諏訪神社に舟が流れてきて木に止まったとかいう伝説があるその諏訪神社は相馬市内の奥なのである
それは慶長津波なのか、800年代の貞観津波なのかわからない、相馬市の松川浦から奥でボーリング調査して発見されたもの砂は貞観津波のものだった
慶長津波だとするとやはり柚木村しか残っていないとなるのだ

だから記録が残らないのは磯部村とか海老村とか烏崎村とか他でも全滅して伝える人がいなくなり残らなかったのか?
津波の恐ろしさは村ごとなにもなくなることなのである
草戸千軒とかでせ川の洪水ですべて町ごと消失して今になり何か遺物が発見されている
そういうことが他でもあり、古代のエジプトの遺跡でもそういうことがある
街ごと全体が失われて何も残らないということが歴史上あるからだ

ともかく古いものは何か理由があってその場に建物でも建てられているのである
たいがい高い所に神社があるというときもともと日本は低地は湿地帯で住みにくい場所だった
それで葦原瑞穂の国ともなっている、そうした湿地帯を開拓して田んぼにしたからである
下駄は湿地帯を開拓するために作られたものだったからである
だから川子でも低地はもともと海であり塩崎まで海であり今回の津波で船着まで津波が来たことには驚いたのである
そこには船が奈良時代から平安時代に来ていたからである
この船がどこから来たのかは不明にしても船が行き来していたことは確かなのである
川子でもは八竜神社は高台にあるからだ

そして六号線の海側に津波の被害がほとんどあった
それで六号線は元の浜街道にそって作られたので古い道だったからそこまでは津波が来なかったとなる
それでなぜ山元町があれほどの被害になったのか?
それは六号線の海側に住宅地が広げたからである、あそこは仙台の通勤圏ともなっていたからである
それで有名な元野球選手も住んでいて被害にあったとかなる
つまり何か新しい場所はその土地の成り立ちとか歴史を無視して宅地造成するから被害にあうのである
地震でももともと沼だったような地盤の悪い所に家を建てるから被害にあうのである
だからどこでもその土地の古い場所は安全であり新し場所は何か悪い土地であり危険もあるとなっていたのである

いづれにしろ津波原発事故から8年過ぎてもその傷痕は癒えない、それだけ甚大な被害だったのである、それは戦争の被害とにていたのである
そういうものは簡単に忘れることができないのである


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2019年02月21日

津波は地形による影響が甚大だった (前にさえぎるものがあると被害はすくなかった)


津波は地形による影響が甚大だった

(前にさえぎるものがあると被害はすくなかった)

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枯れた一葉松

萱浜には墓地だけが残った、それも墓は新しくしたものだけだった
古い墓はない、ここには江戸時代の墓もあった

それから遠くの高台の老人施設まで被害があり老人が死んだのも前にさえぎるものがないから
津波の勢いが弱まらなかったからである

南相馬市原町区の介護老人保健施設「ヨッシーランド」は東日本大震災で津波に襲われ、
36人が死亡、1人が行方不明になった。

鹿島区八沢浦の場合
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前に丘があり津波は弱められた

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金沢と北泉の被害が凄まじかった
それは前にさえぎるものがないからまともに津波が襲ったからである
坂でも勢いよく駆け上るように津波が押し寄せたのである

全部クリック拡大して見てください


今日はあたたかいので萱浜から北泉から金沢を回った
一葉松は枯れたので市の方で新しく苗を植えたとかさし木したのか植樹祭をしたという
それでもそこにあのような立派な松になるには百年かかるとかなる
だからそんな松を見るのはもうなかなかできないし先の先である
そうなるとあの松がなくなることは惜しかったなと改めて思う

その近くで松の木を切って仕事している人がいたので聞いた

「ここは被害があったのですか?ここまで津波が来たのですか、床上まで来ましたか」
「床下まで来たよ」
「それは良かったですね、被害が少なくて」
「あの新田川の河口の丘があり被害が少なかったんだよ」
「あの丘ですか、なるほどあれで津波がさえぎられて弱まった」
「でもここから向こう側新田川沿いでは被害が大きかった」
「あそこでは6人くらい死んで家は全部流されたよ」
「それは私も知っています、そこに住んでいた人から連絡ありましたから」

床上か床下かと聞いたのは私の家の近くでも海から3キロ離れても床上になり意外と被害が大きかったからだ、床上になるとどろをかぶるからそのあとかたづけが大変になったからだ、水害でも床上と床下では相当な差があるのだ

とにかく津波の被害が大きくなったのは前になにもない、さえぎるものがない場所で壊滅的な被害があった
それを象徴していたのが石巻なのである
海岸に家が密集していた、そこを通った時なんでこんなに家があるんだと見ていた
それは実際は本当に怖いことだった、津波の恰好の餌食になる場として提供されていたのである
それは相馬市の原釜(はらがま)とかでもそうである
海に接してそこは海水浴場になっているけど家が低い場所に密集していたのである
もしその後ろ津神社(つのみつ)神社の高台の所あれば助かった
そこまで津波が来なかったからだ
低い場所の所は津波で根こそぎやられたのである

まず津波を考慮しないで住宅地を広げすぎたのである、それを今からふりかえると恐ろしいことだったのである、津波に対する警戒心がまるでなかったのである
それは仙台でも同じであり住宅地が海岸沿いに拡大していた
そこに地震が起きて津波が来るとか警告したらその学者に業者が怒ったとかある
売れくなくなる、地価が下がるからそう言ったのである

津波には地形を考慮せよ、その差で被害が大きく変わる

八沢浦でもそうだった、すぐ前が海なのだが丘が前にありその家では裏が山になっているからそんな近くでも津波を見て裏山に逃げて助かったのである

本当に津波は地形によってその被害が大きく左右される

でもそのことを考慮した街作りとかしていなかった、だから海岸沿いに密集して建てた家は根こそぎ津波の被害で村ごと消滅したのである
それも本当に恐ろしいことだった
ただ今になるとなぜ津波に対する警戒心がなくなっていたのか?
それは人間は400年に一度とか来る津波には備えられなかった
みんな忘れていた、それで忘れたころに大災害が来たのである
人間の弱点は経験しないことは理解できない、また何事忘れやすいのである
人間はすぐに死んだりすると忘れられるように次々に起こることで大きなことでも忘れてしまうのである
だから記録して伝えることが大事になるのだけどそれが文書とかになるとなかなかリアルに感じないのである、伝承があったとしてもそれもまた語り継ぐとなるとなかなかできない、だから津波は来ないという固定観念が形成されたのである

いづれにしろ津波は地形を地勢を見ることである
その地形の差で被害の強弱が生まれた、新地の火力発電所は原町の火力発電所のように海に突き出ていないから引っ込んだ所にあったというだけで被害が大きくなかったのであるだからちょっとした地形の差が大きかった

そして不思議なのは八沢浦でも旭化成とかの工場が海岸に接してあったが丘の上にあった原町の新田川の河口でもそうである、丘の上に工場のようなものがあった
結果として被害がなかった、でもなぜそんな所に建てたのか?
そこは田んぼではなく地価が安かったからだろう
田んぼの所は工場にしにくいからである、それで逆に助かったともなる

ともかく日本は災害が多い、土砂崩れとかも多い、山国だからそうなる
そういう地形を見ることは本当に大事である
だからその地形の危険な所に地名から判断するということもある
それより今なら地図でも地形を見ることができるからそこで危険な場所を判断する
ただそうなるとどこも危険があるのが日本だから家を建てる所がなくなるとまでなる
ただ明らかなことはなぜ神社が被害がすくなかったのか?
それは神社は古いから高台にあったからである
古い家はだから津波の被害にあわないことが多かったのである
相馬市の松川浦の原釜とか平地に家が密集したのは新しいのである
ただ鹿島区の海老とか烏崎は古い、だから何らか400年前の慶長津波の被害があったかもしれないが記録に残されていなかったのである

津波から8年になるのがまだ津波の傷痕は消えない、それだけ被害が大きすぎたのである
それが癒されないのである、ただこの津波の被害の教訓を忘れてはいけない
地形が良く知って住むべきだったということである
そして津波を防ぐ効果的な方法は海の前に台地を作ることだったのである
するとそこを波が越えたとしても津波の勢いが弱まるから被害が少なくなるのである
それだけ津波で心すべきことだったのである  

 八沢浦と磯部の地形と神社 (津波との関係は・・・)

posted by 老鶯 at 17:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2019年01月28日

宮城県山元町の海岸線の津波による変化 (小湾がいくつかできていた)


宮城県山元町の海岸線の津波による変化

(小湾がいくつかできていた)


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NHKの津波のアイカーブで見たら山元町の海岸線がえぐられて小さな湾にっていた
松原があったがここも全部消失した
そしてこのように小さな湾になった、地形を変えてしまった驚きである

相馬地域でも磯部でも今の六号線からは離れていても広い湾になったことには驚いた
山元町の被害も大きかった、ここでは仙台へ通勤する人が多かった
新しい住宅地が駅前とかにあった、それも全部流された
そして海岸線の変化が激しかったのである

今はこういう地形はなく埋め立てられて防波堤ができているだろう
でも原初の地形にもどったのかとも見る
湾になっていて砂浜があればそこから小舟でも出しやすいとなる
そこで何か魚とか貝とかをとって縄文人が暮らしていたのかとなる

現実に伝説は当時の生活を物語っている

鹿狼山に手長明神(てながみょうじん)と いう手がとても長い神様が住んでいて、貝が大好物だったとか。長い手をぐいっと新地の海に伸ばして貝を拾っては食べていたそう。その貝殻をポイポイと捨ててできあがったのが新地貝塚だったという伝説です。

縄文時代は深く陸地に海が入り込んでいた、だからこういう地形もありえた
ただ鹿島地区ではもっと縄文海進で奥に海がはいりこんでいた
でも何かこの地形は原初にもどった地形なのとかとみる
そこに砂浜があり丸木舟を浮かべれば内湾で魚もとれたとなるからだ

ともかく津波による地形の変化は驚きだった、それは自然の驚異だった
海岸線にいくつもの沼ができたのもそうである
だからこそとにかく沼とつく地名が日本には多い、沼だらけなのである

この地形の変化でも小湾ができてそこに砂浜ができて周りに木が生えたりして自然状態にもどったら景観としてはいいなとイメージした
どうしてもこの辺は湾がないから入江がないから殺風景になっていたからである
湾が入江ができれば小舟でもそこに浮かべやすいとかなる
湾ができるとそこは人間的営みに適したものになる
新地の伝説があるようにこうした湾があってそこで貝をとって縄文人は暮らしていたのである、何しろ奥まで海が入り込んでいたからそこは内湾になり魚でもとれたとなる

例えば南相馬市の鹿島区の江垂(えたり)でも六号線を津波が越えたようにもっと奥の方まで海が縄文時代から入り込んでいた
それが失われたとき忘れられていたのである
現実に魚の骨が桜田山の下から発見されているからだ
魚を食べていたし鹿も食べていた、海の幸があった、だから食生活も貧しいとは言えなかったともなる

ともかくこれだけの変化には驚嘆した、自然は海岸線は変化しやすいのである
それは海の浸食を受けるからそうなる、もともと八沢浦は本当に津波で奥まで柚木の方まで海になったが江戸時代は入江であり船も入っていたのである
それが明治以降開拓されて田んぼになったのである
あんなに奥まで海になったということの驚いたがもともとそこは海だったのである
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2018年05月19日

森と海に船が行く一枚の写真の謎 (2008年,津浪の前に南相馬私立病院で撮った)


森と海に船が行く一枚の写真の謎

(2008年,津浪の前に南相馬私立病院で撮った)

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この鉄塔は津浪で倒れ壊されたのか?
この辺で鉄塔が倒れ壊されたのを見たからである。
するとこの近くなのか?高台の島商会の手前辺りになるのか?
ただ島商会の駐車場まで津浪が来ていたのである。
あれだけ高いのに来ていたのである。
ただこんなに森になっているのはあの辺しかない


2008年に姉が南相馬私立病院に入院していた、その時撮った写真である。
最上階からか食堂がありそこから撮ったのか?
この写真の謎はかなり海の方にカメラをズームしてとっている
でも不思議なのはあのように森があり海が近く見える
こんなに森があったのか?

その手前に家がある,この森は津浪で消えたのか?
すると家も流されたのか?
ただ海に近い森ではなく離れた所の森なのだろうか?
これを確かめるには南相馬市立病院に行ってみる必要がある

グーグルアースでもこれらしい場所がわからない
鉄塔があるがあれば津浪で壊されたのかもしれない
北原の方なのか?
なぞは住宅地がある,その家は今もあるのか?
この森が津浪で流されたということはないだろう

この辺では一番高い建物が南相馬私立病院である
だから見晴らしがいいから海が見えて船が見えた
原町は海は街からは見えない,鹿島は鹿島駅の高架橋から見える

これは島商会がある高台の森なのだろうか?
森があるとしたらあそこであり高台だからである。
他に森があるところはなかった
ただ津浪の前だからわからないが海に接近して森がある所となるとあそこしかない
ただなぜ前に住宅があるのか?
それが謎なのである。


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2018年04月13日

大内村の人の話を聞いて(2) (文明とは自然に逆らうことであり自然に復讐される)


大内村の人の話を聞いて(2)

(文明とは自然に逆らうことであり自然に復讐される)


大内村の人の話を聞いて具体的にどうして袋村がなくなったのかわかった
まず高台に人は昔から住んでいた,平地には住んだ人は新しい人達だったのである。
大内村は地形的にわかりやすい,平地と高台に二分されているからである。
その高台といっても一段高くなっている場所である
その一段高くなっているだけでも津浪ではその差が大きかったのだ
なぜなら平地に住んいる人の家は津浪で流されたからである。
あそこまで津浪が来るとは思っていなかったろう。
ただあそこでは例え大きな津浪が来ていたとしても被害がなかったのである。
一段高い所に住んでいたからである。
だから津浪の被害があったとしても語られないことはあった

でもこの辺では慶長津浪とかの被害が相馬藩政記に二行だけ七〇〇人溺死と記されているだけであとは何も記録がないのである。
その謎も深いなと今でも思う,何か手がかりになるものを探して見つからないのである。
大内村では真野川の河口の度々水害になる土地を田んぼにしたが真野川の氾濫で撤退して袋村は消失したのである。
その土地の人がその場所で語ったとき何か実感として伝わる
なぜならその人は大内村に長く住んでいた人だからである。
この袋村は明暦から開かれて文久まであった、その時ただ人は住んでいなかった
明暦の頃開かれたとき元禄には一三軒の家があった
それだけ古い時から田んぼが開かれていたのである。

そういう土地としては悪い土地でも田んぼにしなければならなかったのが日本の稲作の歴史である。どんな場所でも米がとれれば生活が最低限成り立つということでそうなった
その苦闘の歴史が稲作にはある,八沢浦だって明治以降に武士が開拓したのである。
小高の井田川は大正時代になったからなのである。
日本の歴史と農業の歴史でありそれは戦後十年でもつづいていたのである。
戦争の引揚者がいたるところに入り土地を切り開き農業で生活していたのである。
結局仕事がないからそうなったのである。農業するには土地がないとできない
その土地がないとすると悪い土地でも埋め立ててでも田んぼにする他ないとなった歴史が日本にはある,日本の弱点は広い土地がないことである,だから一時東京で土地バブルになったのもわかる,土地の価値が異常に高くなるのもそのためである。

大内村でも一段高い所があるにしてもそこで田んぼを作るとなると土地がないとなる
すると平地に向かって田んぼを作るほかないのである。
そしてその高台の前を田んぼにしたらまた土地がなくなる,すると分家するにしても土地が必要になる,そこで真野川の河口の最悪の場所を苦労して田んぼにしたとなる
真野川は氾濫しやすい川である,だから二回も自分の家では水害にあってひどいめにあった,土地が低いからそうなった
堤防も整備されていなかったからである。河川改修していなかったからである。
津浪のときすぐ近くまで塩水が川を遡っておしよせてきていたのである。
近くの土手は氾濫していたから危なかった,河川改修したからあふれなかったのである。水害は河川改修すると起こらなくなるのである。その当時はそうした技術もないから袋村は消失したのである。

こうして苦労して干拓して開いた田んぼが今回の津浪で被害にあった
そこはもともと海だった所なのである。だから元の海にもどったともなる
自然側からみれば津浪はあまりにも無情だとなるが非情だとなるが自然側からみれば
ただ自然の作用であり人間を苦しめるために津浪が起きたということでもないのである。自然の作用に悪意はないのである。
ただそうした自然の大きな作用を無視して人間は営々ともともと海だったところを埋め立てて田んぼにしたり住宅地にしたりしたから被害にあった
つまり自然に逆らうことが文明なのである。それがある時自然から復讐されるのである。自然のゆりもどしがくる,それを考慮していない人間が悪いともなる
田んぼでもやはり文明の所産だったからそうなった
原発でも実は自然に逆らう科学技術である。原子核を破壊するということがそうである。本来そんな危険なことをしてはならないものだったのである。
そういうことをしていると自然側から反発があり復讐されるともなる
科学技術にそうした危険性が常につきまとっていたのである。

人間が自然に手を加えること自体がすでに自然を破壊するということに通じていた
ただでは科学技術がすべて悪いのかとなるとそうでもない
なぜなら米の収穫量は同じ面積で今は倍以上になっている
すると土地を広げて収穫量をあげるというより狭くても収穫量を上げることの方がいいとなる,それは技術が進歩すればできたのである。
だからいちがいに科学技術は否定できないということはある
袋村でも今のような河川改修した堤防があれば水害にならなくてすんだともなるからである。それだけの土木技術がなかったからできなかったともなる

それでもやはり今回の津浪の教訓は自然に逆らうことがいかに怖いことになるかということを否応なく示された,津浪は自然の作用でありそれは必ずしも自然にとって悪いばかりのものではない,自然の作用として起きてくるものだからである。
自然の山火事でもそれは新しい森を再生するものでありいちがいに悪いとはならない
津浪でも何か自然の作用であり海をきれいにするということはあったとかなる
つまり人間側から見た自然と自然から見た自然は違っているのである。
ただ自然に逆らうことが文明であり科学技術でありそこに何かしら問題が起きてくる
神話でも火を盗んだプロメテウスが過酷な刑罰にあったのとでもそうである。
神の厳しい罰が与えられたように津浪でも原発事故でもそういう側面はあったのである。

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2018年04月12日

南相馬市鹿島区の大内村で話を聞く (大内村で平地に住んだのは新しい人達だった)


南相馬市鹿島区の大内村で話を聞く

(大内村で平地に住んだのは新しい人達だった)

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地層が見えた,ここに津浪の痕跡はあるのか?

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津神社にあった金比羅と鯨大明神の碑



水路の工事しているの見ている大内の人と話した

「大内は高台に住んでいた人と平地に住んだ人の差が大きかった」
「高台に住んでいた人は昔から住んでいた人達だよ、そこから分家などして平地に住んだ平地に住んだ人は新しい人だよ」
「そうだったのか,かなり新しい時代に住んだ,その人たちが津浪の被害にあった」
「高台の人達は古くから住んだ人たちだよ」
「ところで袋村があったの知っていますか」
「知っているよ,あれは水害でだめになったんだよ」
「高台から平地に移り開拓したが真野川の水害でだめになっ」
「平地に出た人は新しい人たちなんだよ」

「真野川は堤防がないときは水害が多かった,あふれやすい川だったからな
自分の家も二回水害の被害にあったからな」

やはり土地の人とそこに住んでいる場で話すと土地の歴史がわかる,具体的に実感できるのである。
大内は館とつく地名があるから古いのである。古代からすら人が住み始めている
でも平地には住んでいなかったのである。そこは湿地帯だからである
だから平地に住むようになったのは新しい,明治以降ということもある
そうして新しく住んだ人が津浪の被害にあった

なぜこれほどの津浪の被害があったのか?
烏崎村でも高台に住んでいた人は被害がなかった,大内村でもそうである。
ただ海老村は一番古い,弥生時代の遺跡があるから古いが被害が大きかった
それもなぜなのか?なぜなら鎌倉時代に住んだ人の跡も出ているからである。

大内村の成り立ちはわかりやすいのである。
高台に住んでいた人たちと平地に住んでいた人達が明確に二分されていたからである。
そして今日聞いた話では平地に住んでいた人は相当に新しい,それがわかった
ただ烏崎村とかは鎌倉時代にさかのぼり古いのである
大内村ももともと古いのである。

それから津神社が大内村の公会堂に移されたがこれは津神社(つじんじゃ)ではなく津神社はツノ神社と呼んでいる,松川浦の津神社もツノミツ神社でありツ一字では呼ばない
原町の北原の高台にある津神社もツノ神社である
このツノはツノガノアラシトのツノであり渡来系が移り住んだ所なのである。
ツノガノアラシトは産鉄族であり鉄を求めてきた渡来系の技術者集団だったのである。
だから津浪とは何の関係もなかったのである。

津神社の裏側には碑があった,あそこにある碑は津神社にあったのか
別なものがあった,金比羅の碑とかあった
それらの碑は流されて不明になったのだろう。

工事は水田にするための水路である,斜面をなだらかにしたのは水が流れると崩れるからだという,それは最近急斜面の山が崩れたことでもわかる
地下水がたまり崩壊したのである。やはり急斜面になると水をふくんで崩れやすくなるのかもしれない,これは土木工学の分野になる
ともかくまだこの辺は工事がつづいているのである。

津神社の謎


津浪で再現した真野の入江 (大内村は山側に住んでいた人たちは助かった)

烏崎村の津神社にあった金比羅の碑と鯨大明神の碑


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2018年03月12日

大規模公共事業としての復興の失敗 (ハードからソフトの時代に変わっていた)


大規模公共事業としての復興の失敗

(ハードからソフトの時代に変わっていた)

誰も語ろうとしない東日本大震災「復興政策」の大失敗

津浪の跡が盛り土とかして高台を作る,高い防潮堤を作る,高台に移転させるとか大規模な公共事業となった、でもそうしているうちに人が流出してそこに住まない
区画整理して人を住まわせようとしたが家が建たない,若い人は流出した
第一商売するにも人がいないのだから商売にならない
女川でも地元の人より外から人が買っている,それは限界が来るし来ている
商売でも買う人が消費する人がいないと成り立たない,その人がいなくなった
残ったのは老人だけだとなる
小高の女性が言っていたけど自分は死ぬことを考えるんだというのもわかる
そういう老人が復興の担い手になれない

そして津浪の被害地にも復興団地が建ったがここは老人ホームだよと言っていた
老人の街であり街自体老人ホームになっている,そこで復興があるだろうか?
少子高齢化でありそこで復興は何かそうした大規模な公共事業のようなものをすることが住民に良く働かなかった
仮設暮らしのときは自治体の職員が回ってきて心配してくれた
でも復興団地に入ったらそれもなくなっ
つまり住む場所を与えたらあとは自治体でも政府でもめんどうみないとなった
それで仮設で暮らした人がおばしちゃんがみんな近くにいて仲良くなって楽しいと言っていた,それからボランティアも絶えず来ていたのでそれで気分良くしていたのである。
だから老人にとって仮設というのは長屋のようになり親しくなる装置でもあった
だから狭いということがあってもそれがそれほど悪いものでもなかったのである。
そこに何か現代の老人問題を考えるヒントがあった
老人の孤立化などが良く言われるが仮設暮らしだとそういうこともなかったのである。
みんな気遣いあっていた,だから一人暮らしの人は喜んでいたのである。
現代は人々が孤立しやすい生活をしているし老人は特にそうなりやすい社会になっていたからである。
復興団地では何か仮設のような人とのつながりがもてない,孤立化しやすく孤独死にもなる,それは神戸地震でもそうだった

要するに民主党のときコンクリートから人へという政策の変換をした,実はこれも問題があったのだがまた公共事業的なものを津浪の被害地にもちこんだのが失敗の原因だった
箱物を作ってもそこに暮らしがない,高台を作り整地しても人が住まない
学校を作っても生徒がいないとかなる
道路を作り高台を作り復興団地を作れば復興するということではなかった
コンクリートばかり考えて人がぬけていたのである。
人へサービスするという観点がぬけていた,それはJRでもそうである。
ただ人を物のように考えて輸送する移動させればいいというだけである。
人へのサービスは欠けている
そこに住む人が望むことと上から大規模な公共事業をするのとは違っている
そうして工事している間には若い人は流出したのである。
それまで待てなかったこともある

というのは3年が限度だというとき農家の人が3年農作業でもしていなと体がなまってできなくなると言っていたからだ
3年過ぎた時点で復興の基礎ができなかったらもう人は流出してゆく
そして他で生活基盤を築くから帰ってこないのである。
盛り土して高台を作り防潮堤を作り復興団地を作っても整地された所に人が住まず空き地だらけになっている
だからコンパクタウンの考えが必要だったという人も今になるといる
元の街の規模の復興は無理だったとなる
小規模の縮小した街を早いときから作り住まわせることが良かったのである。

日本は自然災害が多いのだが自然の恵みも多い,だから災害とも共存すべきだという考えが正しかったともなる
あれだけ大規模な事業をしても徒労だったともなる,肝心の人が住んでいないからである
時代的にもハードの時代は終わりソフトの時代になっていた,それはコンクリートから人へということでありハード面としてはインフラの整備ではない,大規模公共事業ではない志向が必要な時代になっていた,それは津浪の復興のことでも言えたが旧来の方法でしたから失敗したともなる
やはりその時の時代時代でそれに適応したものをしないと失敗するとなる
大規模公共事業として人を住まわせるよりその前に人が小規模でも簡易的にも住まわせる必要があった,だから意外と仮設商店街とか仮設として街を復興してそれから街を拡大してゆくという方法もあった,最初からあれだけの大規模な公共事業となると時間がかかりすぎたのである。
そして3年が限度だというときその時間もすぐに過ぎてしまったのである。

タグ:復興の失敗
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2018年03月11日

死者が帰ってきてもよりつく場がない (津浪から7年過ぎてこの世の無常の詩)


死者が帰ってきてもよりつく場がない

(津浪から7年過ぎてこの世の無常の詩)

死者はどこに逝ったのか
津浪が連れ去った
でも死者は霊となって
時々その住んでいた場所にもどる
でもそこによりつくものがない
七年過ぎて過去のものはすでにない
松原でも残った一本松は枯れて切られた
かつての松原を残すものは何もない
それで霊となって帰って来た死者は
ここはどこなんだ
自分の住んだ所なのか?
風力発電の風車やソーラーパネル
盛り上げた台地など
そこに昔あったものがない
津浪から残った社が一つ高台に残っている
これは確かに津浪の前にもあった
しかし住民はそこに住んでいない
死者が帰ってきても死者が帰る寄る場所がない
家があればそこには思い出が残っている
家にも庭にも思い出が残っている
すると死者はその家により昔をなつかしむ
その家もなくただ更地となったら
何をよすがに思い出すのだろう
死者はあまりにも変わってしまうと
昔あったものがなくなると
霊として帰ってきても居場所がない
しかし人間の無常は変わらない
人の世の変化はめまぐるしい
常に変化している
ここに家があったはずだったが・・・
今は何もなく松一本が立って残っている
ここに誰が住んでいたのだろう
ただまだ松一本が立っているから
ここに住んで死んだ霊はその松によりつく
でもこの松が消えると何も思い出す
よすがとなるものはすべて消える
死者は日々忘れられてゆく
今を生きることに精一杯だから
去る者は日々疎しとなる
それは生きているときでもそうである
生きながら忘れられる人が老人に多い
生きていても存在感がなくなり忘れられる
社会的用がなくなり忘れられる
人間とは常に忘却との戦いでもある
どんなことでも忘れられてゆくからである。
人は次々に死んでゆくからである
もう最後はそんな人いたのとなるのが普通である。
死とともに加速度的に忘れられてゆく
その人が存在したのかどうかわわからなくなる
それがこの世の無常である
ただ昔あったものをみんな忘れて新しいものにする
それが人間にとっていいことなのか?
一本の松が空き地となり残っている
そこには人が住んでいた
冬の日がさしてそこにいつまでも立っている
そこに立っていたいのかもしれない
その松に死者の霊はよりつく
この松がなければよりつくものがない
死者は淋しくまたあの世に帰ってゆくほかない
この世とあの世,彼岸がある
そこを死者が行き来するとして
その死者の霊のよりつくものがなければ
死者はただ困惑してここが自分の生きた場だったのか
それを確認もできなくなる
余りに変わり果てたふるさと
それはもう死者の霊が帰ってきても故郷に思いない
そして死者の霊はここは自分の生きた場ではないと
また彼岸に去ってここにはもどらないともなる
それは生きている時でも起きる
あまりにも変わりすぎた故郷はもはや故郷とは思えない
そういうふうに変わることがいいるだろうか?
でも無常の世の中だからどうにもならない
時代は常に変わってゆくのだから・・・・

津浪から七年過ぎたけどあまりにも変わり果ててしまった,
この辺だと風力発電の風車が海岸に並び,盛り土されて台地ができて
ソーラーパネルの工場地帯のようになっている
すると津浪の被害にあった海岸地帯に昔をあったものがなくなり思い出すこともできない右田の松原はいい松原だったけどそこにも人が住んでいたけど
人は住んでいない,松が切られた切り株などが残っていたけど今はそれもない
何か思い出すものがないのである。

すると津浪で流されて死んだ人の霊が帰ってきてもここがとても自分が住んでいた所だと思えなくなる,するとどうなるのか?
ここは自分の住んでいたところではないとなってまた彼岸に帰り二度とここにはもどらないかもしれない,それだけ変わってしまったからである。
これほど変わり果てると生きていてもここが故郷だったのかともなる

とにかく人の世は無常迅速なのだ,人自体も変わる,その人間関係も変わる,そういうことを津浪や原発で加速された,もともと無常の世だったがそれが津浪と原発事故で加速されたのである。そのスピードが早すぎたのである。
自分も家族二人が死んだ,そしてその死者もだんだん忘れすゆく
肉親すら忘れてゆく,現在に生きることが優先されるからそうなる
もう津浪から七年過ぎたら関心が薄れてゆく,だからもう外からの支援はわずかになる
でもここに生きる人達はそうはならない,ここで生きてゆくために苦闘しなければならないことがある

ただ他に移り住んだ人は人ですでに7年過ぎて別な土地で生きて人間関係もできている
するとますます故郷のことが遠のいてゆくのである。
現実は今生活する場となるのが人間だからである。それで復興はさらに困難になる
無常迅速というとき人間がいかに忘れやすいものかということでもある
次々に新しいことが起こり過去は忘れられてゆく
ただ死者の霊でも昔のままにあるものに寄り憑(つ)くともなる

だから家が昔のままにあればそこに死者が帰ってくるというお盆の風習はそういうことにからきた祭りだともなる
でももし家が新しくなると死者の霊が帰ってきてもそこを自分が住んでいた家と認識できないともなるのだ
それでここは自分の家ではないと別な家を探すようになるかもしれない
何か認知症の人とにている,見慣れた知った人はなんとか覚えているがその他は忘れてしまう,人でも何でも忘れてしまうのである。
人間は記憶していれば存在しているのだが忘れれば存在しないとも同じなのである。
旅行しても本当にそこにいたのかいなかったのかすら時間がたてばわからなくなる
数十年と過ぎればそうなるのである。
だから意外と老人になってからそのことがわかる,記憶は大事なものだったなと記憶が消えれば生きた証も消える,それで最後は人生で一番印象に残ったことを延々と語り続けるそれが生きたことだったからそうなるのである。

人間など例えば江戸時代に生きた人を考えるとわかる,その名前すら残っているのはわずかであり名前すら残らず消えている,生きていても今になればその人が生きていたことすらわからないのである。
今でもみんな人間はそういう無常の世に生きているのである。

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2018年03月02日

津浪は人間が自然を改造し破壊したことが原因 (自然に悪意はない)


津浪は人間が自然を改造し破壊したことが原因

(自然に悪意はない)

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津浪の被害はあまりにも大きかった,それでどう解釈していいかわからなかった
それで自然でも海でも天でも被害にあった人は呪ったのである。
でも自然には悪意があるだろうか?
悪意というとき人間にのみ悪意がありこの悪意が一番怖いのである。
投資関係でも投資自体は公平だとしても悪意をもって接触してくる人は危険である。
投資でだまされやすいのは投資の世界がわからないからである。
悪意というとき自分たちだけもうければいいという考えの人も実は危険だった
それが銀行にも今はなっていたのは経営的に追い詰められていたからそうなった
人間は借金でもなんでも追い詰められると危険になる

自然に悪意がないというときそのことこそ自然と人間の一番の相違である。
石や花でも木でも動物でも本来は悪意はない,蛇などは嫌だとなるが何か全般的に悪意をもっていない,だからこそその無垢なる状態に感嘆する
人間社会は虚偽の世界であり常に偽りの中に生きている,嘘つかない人がいないことでもわかる
その自然がどうして人間社会に対して悪意をもって災害を起すのか?

自然災害が起きるのはなぜなのか?
ノアの洪水とか確かにあったけどそこに神の意志が働いていたとなる,だから自然に神の意志が働くことはある,聖書は神の意志が働いた記録である。
だからモーゼが海を割ったとか太陽が止まったとかいろいろある
自然をも左右するのが神だとなればそうなる
ただその後は自然と神はきりはなされ科学的に自然を見るようになった

なぜ自然災害が起きるのか?それは自然を人間が改造して破壊して住んだことに根本的な原因があった
今回の津浪で甚大な被害あった所は自然を無視して住んだ場所である。
本来住むべきではない所が甚大な被害にあった
石巻は被害が大きかったけどあそこは家が密集していたのである。
だからこんなに海に近くてこんなに家が密集しているのは不自然だなと見ていた
そこが根こそぎ津浪で破壊されたのである。

そもそもなぜ海側にこれほど家が密集したのか?その原因は便利だからである。
漁業するに便利だから海側に人家が集中した
磯部などでもあんなに家が集中してそこが根こそぎ失われた
でも高台がありそこは無傷だったのである
あれを見れば高台に住んでいれば助かったのにとつくづく思う
でもそこは不便な場所なのである。

日本は国土が狭いから海側に開拓して米作りをした,その田んぼにしたところが津浪の被害があった
そして縄文時代の海が再現したのには驚いた
どこでも縄文時代に海だったところは海になったのである。
要するに自然が元の自然にもどったのである。
つまり人間はもともと海だった所を開拓して住むようになった
もしそういうことをしなかったら自然災害があったとしてもこんな甚大な被害にはあっていない
江戸の安政地震で被害にあったのは埋め立てて作った深川とかが死者が多かった
そこは海であった所を埋め立てて住んだから地盤が悪いし液状化が起きたとも推測している

人間は文明が発達するに連れて自然にそって住んでいない,不自然に住んでいる
東京という大都会を見ればわかる,そういうところで大地震が起きれば当然大被害になる神戸でもそうである。大都会とかは自然にそって作られていない
異常な密集状態になり不自然なのである。
だからこそ大きな自然災害があると被害が大きくなる
それは自然が悪意をもって人間を苦しめるために災害が起きているのではない
文明とは自然を改造して破壊した結果として自然災害が起きている

例えば極端になるが家が二階になると危険が増す,それよりもし弥生時代のような掘っ建て小屋のようなものにに住んでいれば地震が来ても壊れてもまたすぐ建てられるともなる
倒れるものがないから安全だともなる
つまり家すら文明が発達すると高度なものになり便利なものになるが危険も増していたのである。都市は便利なものとして人間が作り出したものである。
でも人間が密集して住めば便利なのだけど危険にもなる
人間はまず便利なものを追及する,それが自然災害には弱いものとして危険なものになっていたのである。
大都会は地震か自然災害で甚大な被害を出すのは自然ではない不自然に人間が便利さのために密集して住んでいるからなのである。
自然が別に悪意をもって人間を苦しめるために災害を起こしているのではない
人間がそもそも災害を作りだすものを便利さを追及して作り出していたのである。
それは原発だってそうである。科学技術は便利さを追及してきたからである。
でもその結果として自然災害に弱い社会が生まれたのである。

不思議なのは四倉とかでも前は広く砂浜がある場所は被害があったが大きな被害にはならなかった,あそこだって海に面しているから相当な被害になり街ごと消失するようにもなっていた,でも街全体がなくなるようなことはなかった
それは前に広い砂浜がありそこが緩衝地帯になっていたためである。
それは自然な状態がそこに残されていたからである。
砂浜もなく直接海に面していた磐城の漁港などは豊間などは被害が大きかったのである。九十九里浜でもあういう緩衝地帯があると津浪を弱めるのである。

文明が発達するとそうした緩衝地帯は海側になくなり漁港が便利さのために作られそこに人が密集して住んだ結果被害が甚大なものとなった
文明とは便利さを追及することである。その便利さが人間に仇にあだ)になるということがあった
便利さを追及することが誰も悪いものとは思わないからこそこれだけ便利な社会になったでもその便利さは自然に逆らうもの改造して破壊するものとして働くものでもあったことを津浪で思い知らされたのである。
なぜなら縄文時代のような一番不便な生活をしていたなら被害も最小限にくい止められたからである。海であったところに縄文人は住んでいないからである。
新地の山から手を伸ばして貝を食べていたという手長の巨人伝説でも貝塚が高台にあり高台で縄文人は生活していた,海側にあんなに接近して住んでいなかったのである。



江戸幕府以前の江戸

現在の皇居の 富士見櫓 のある場所に作られました。 道灌は、この櫓から富士山や海の素晴らし眺望を楽しんでいたのです。 道灌が精勝軒で詠んだつぎのような句があります。

わが庵は 松原つづき 海近く 富士の高嶺を 軒端にぞ見る

これは実際の景色を詠んでいたのである。江戸というのはベネチアのように美しい街だったのである。江戸なら今の東京と違い住んでみたいとなる
江戸城の前まで海だったというときそれだけでも景色が良かったことがイメージできる

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2017年12月02日

変貌した右田浜,海老浜 (もう右田の松原は記憶の中にしかない)


変貌した右田浜,海老浜

(もう右田の松原は記憶の中にしかない)

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海老村に植えられた松の苗?


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右田の松原があったとき飛んでいた揚羽蝶


右田浜の松原はいい松原だった,でも右田の松原はいつの時代に作られたのか不明なのである。
「海からの夜明あけ」(新開ゆりこ作)では太平洋のことを書いている

天保13年(1842)にいよいよ相馬の海沿いに住む百姓たちの願いが実り防潮林の植林がはじまった,藩では植林奉行の下に各代所や陣屋ごとにお係を定めた
金沢浜から小浜まで三里の浜に東西南北二十列づつ四尺五寸おきに黒松を植えるという

ここに松を植える苦労が書かれている,これは資料があって書いたのだろう
江戸時代から松原は作られていたのである。
でも不思議なのは右田浜のことは書いていない,右田浜の松原は津浪の前まで残っていた金沢の松原も残っていた,ただ金沢の松原は火力発電所が建ってなくなった
その松原があるときを自分は知っていた,いい松原だった

萱浜の方にも松原はあった,しかしなくなった,ただ右田の松原は残っていた,その幹は太いから古いのである。松川浦にも松原があったが幹が細いから新しいのである。
だから右田の松原は景観的にも良かったしいい松だったのである。
それが根こそぎ津浪で失った,今や何も残っていない,その後に台地にして植林したからまた木が育つ,でも最近また景観が変わった,大きな風車が二つできていた
三つ目もすでに建てている,これも景観の大きな変化である。
辺りはすでに一面ソーラーパネルである。火力発電所の煙が出て風車がまわりソーラーパネルの景観になっている
そこに植林したがもうそこは前のような景観にはならない

ただ海老浜で集落となっていた所が津浪でなくなった所にやはり松の苗だと思うが植えられていた,あそこだと景観的にはいいかもしれない,ソーラーパネルもないし風車はそこにはないからだ
何か自分は常に景観を気にしているのである。景観が乱されると嫌なのである。
でももうかつての景観はもどらない,全く別の景観になってしまったのである
右田の松原はただ思い出のなかにあるだけである。
それも五十年とか百年すぎたら全くそこに松原があったかもわからなくなる
こんなに自然景観のうよなものまで変わることは想像もできなかったのである。
ただ松は津浪には弱かったのである。稲を作るための防潮林としては良かったが津浪には松は弱かった,根を強く張らないからである。
松原は実は自然景観と思っていたが自然を破壊した景観だったのである。
松原でなかったら他の木が植えてあったら木は残っていたかもしれないのである。
どこでも松原は根こそぎ津浪では消失したのである。


松原の潮風防ぎ
稲の実りもたらす
右田浜,その松太く
夏なれや影なして
海風涼し我が休む
冬なれや荒れにし波に
船ゆられ漁をするかも
松風鳴りてすがし
その松原の今はなしかも

右田の松原は本当に記憶の中でしかありえなくなった,でも年数がたつと記憶している人も死んでゆくとそこに松原があったということがわからなくなる
記憶としてもっている人はいいがそうでなくなるともう右田の松原は誰もそこにあったということもわからなくなる
松影と松風とかが鳴りそこはこの辺では一番いい風致を作り出していたのである。
それが一番残念だったとなる

ともかく八沢浦が津浪で本当に海になったとか入江になったとか写真を出したときは批判された,お前はここで子供が死んで泥から掘り出されたのだと批判された
それもわかるのだが何か自分は常に景観を一番大事にしている
景観を破壊されることが耐えられないのである。
だから八沢浦でも海だったときのことを入江だったのことを頭の中で想像していたのである。でも実際に津浪が来て現実になったときほど驚いたことはない
それは奇跡にも見えたのである。

つまり自分が想像する以上のものが生まれたので驚いたのである。
自然は人間の想像を越えるものとして現れる,人間の想像しえないものとして現れるのである。
つまり松原が破壊されたものそうである。こんなことになるなど想像すらできなかったからである。そういうことがこれからも百年二百年後に必ず起きる
想像もできない変化が現れるのである。
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2017年11月15日

慶長津浪によって相馬氏がこの辺を支配できた? (海側に敵対勢力の泉氏などの氏族がいた)


慶長津浪によって相馬氏がこの辺を支配できた?

(海側に敵対勢力の泉氏などの氏族がいた)
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相馬氏進出の径路

なぜ相馬藩では津波のことが記録されなかったのかー続編?

慶長三陸地震(けいちょうさんりくじしん)は、1611年12月2日(慶長16年10月28日)

ここでその大意は書いた,その後は補強になる,相馬氏がこの地方に進出してきたときすでにこの辺を支配していた豪族がいた,だから相馬氏と敵対したのである。
それが海側にいたのはすでに海運がありそこからの貿易の収入があって力をもっていた
小高はすでにそうした湊の施設があり船の出入りがあった
現実に今回の津浪では駅まで津浪が来ていた,小高城で海が近いのである。
そして小高には船が相当数出入りしていたのである。船をもっている人達が船主がいた
船主が船をもつことは土地をもつことと同じように力をもつのである。
原発事故で事故前も事故後も補償金をもらって困らないのが船主であった
だから原発御殿が建ったとか周りからねたまれていたのである。
そのことは反面いかに船主が力をもつかということを証明しているのである。

どういうわけか慶長津浪が来る前に相馬市の諏訪神社でも松川浦から神社が移動しているのである。そして舟繋ぎ伝説が生まれた,船が流れてきてとどまったという伝説である。それは小泉川がありそこをさかのぼってきたのである。
まず津浪は川をさかのぼる,それで驚いたのは仙台の多賀城の砂押川である。
あそこに津浪がさかのぼってきたことは驚きである。
その川は小さいしそして海が近いと思わなかったのである。
ビルとか建物にさえぎられていたから海が近いと見えなかったのである。

末の松山は古歌に波こさじかとありそこまでは津浪が来なかったのである。
これはまさにそこまで津浪が来なかったということを短歌で記憶されていたのである。
ただそれは貞観津浪のことだった,慶長津浪はまた違っていた
貞観津浪は京都の方から多賀城に都の人達が来ていて記録されていたのである。

相馬地方でも総合的に見ると鬼越館は磯部館があったのだが鬼越館に慶長津浪の前に移っている,高潮のために移ったとあるがその近くまで今回の津浪が来ていたのである。
津浪の前触れを感じたのか?それも不思議だとなる
北郷では今の南相馬市の鹿島区では海老に伝えられた大工の話も津浪を語っているのかもしれないことは指摘した

その後善次病死して棺を出す。時に大原村二森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで
雲中に入る。宝蔵寺の僧これを聞き走り来りり七重の袈裟を雲中に投ず。
声ありて曰く、「おいか」と。
棺おく雲散じ空晴れてこれを葬るという。是の世に希有のことなり。
知らず「おいか」とは何の言なるか。
ある人いふう葬礼の諸品を海水に洗えばすなわちこの怪異ありと。

鹿島町誌にある伝説は何を語っているのか?

大原村二森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで雲中に入る。

なぜここに大原と出てくるのか?大原は相馬氏進出の径路で書いたように大原から小池と相馬氏は進出した,支配してきたからである。
山側から片倉村から入り太田神社に入り小高に進出してきたのである。
海側には海運を業として力をもった豪族がいた,岡田氏や泉氏や磯部館のあとで鬼越館に移った佐藤氏などが敵対したのである。
それで牛越城建設に泉氏がその負担を強いられたから火を放ったのである。
つまり慶長津浪が来る前に相馬氏は相当な地元の豪族の抵抗にあっていたのである。

だから不思議なのは中村に城を移転するというのも慶長津浪の一カ月後とういのも何か津波によって敵対勢力がそがれた結果だともなる
そういうことは他でもあったからである。戦国時代は相手が弱ると好都合なのである。
弱肉強食の世界だからである。そういう経験を自分もしているからだ
相手が困ることは借金でもなんでも申し込みやすいし相手を従わせやすいのである。
だから津浪で被害があったとしたら敵対勢力が弱体化するのだから相馬氏にとっては都合がいいことだったのである。

伊達政宗の時代でもあったが慶長津浪は伊達藩にも打撃だったから今の相馬市は中村は伊達氏がその当時支配していた,それで鬼越館の佐藤氏は伊達氏についていたのである。
伊達氏の勢力も津浪でそがれたとなると中村に城を建てやすかったとなる
そこで海老の大工が天守造営に行かされるのに抵抗したのはその土地の豪族の館をもつ支配者の命令でもあったが板挟みになり悩んだのである。
つまり大原と関係しているのは大原は相馬氏の勢力下に入っていたからなのである。

慶長津浪の記録は700人溺死としかないけどその当時の情勢をみると津浪の影響で敵対勢力が津浪で弱体化して相馬氏がこの地を支配できたというのもイメージできるのである。総合的に見て判断するとそれが有力だとなるのである。
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2017年08月12日

津浪で判明した江垂の地名の謎 (気になる江のつく地名2-地名伝説には嘘が多い)


津浪で判明した江垂の地名の謎

(気になる江のつく地名2-地名伝説には嘘が多い)
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津浪浸水地域

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津浪は六号線を越えてきていたのである。

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「えびす」の語源は、「エミシ(蝦夷)」が「エミス」になり、「エビス」になったとされている。また、「えびす」は蛭子の神さまでもあり、水に関わりがあるから、兵庫県の西宮戎神社や大阪の今宮戎神社のように海に近いところにあるのが多いのである。

気になる江(え)の地名で考察したけど今日自転車で六号線を通ってきたら小島田は自覚していたが六号線沿いに江垂(えたり)の地名の表示があった
ここも江垂なのか?江垂は街内でもあるからこんなに広い領域だと思わなかった。
そもそも村の境はわかりにくい,江垂と小島田の境はわかりにくい,小島田はほとんど津浪の被害があった,江垂はなかった。
でも江垂まで津浪は押し寄せていたことになる
小島田の地名は湿地帯であり島のように田があるということになる,湿地帯が広がってそこを田にしたのである。地形的にはあっている

江垂の地名の起こりが都の貴人が来て水で袖を濡らしたことでその名がついたという伝説がある。江を衣垂としてその伝説が生れた,それは根拠のないものだった
地名伝説は何かこうして後世にあてつけでその由来を説明している
なぜそうした地名がついたのか後の世の人は不明になったから勝手に地名を解釈して地名伝説を作ってしまった,地名の由来の伝説は信用できないのである。
ただ地名はそれだけ古いからその由来がわからないのが多いのである。

江は水と関係しているから袖を水でぬらしたというのはあてはまっているかもしれない,ということは海が迫っていた,海水でぬらしたのかもしれない。
縄文海進があり海が奥まではいりこんでいたことは今回の津浪で実証された。
塩崎(しおのさき)はもともと海の崎にありつけられた名である。
そこに船着とか地名があるのも古代に船が着いたからその地名が残った
そして今回の津浪はすぐその近くまで津浪が押し寄せていたのである。
あそこは低い土地だから奥まで津浪が来たのである。

江垂の地名は海に面していたということで生れたのではないか?
江とつく地名は海に関係している,水と関係している
垂れるの意味は

一続きのものの端がだらりと下がる

海が一続きとしてありその端だというとき位置的にはあっている
江垂が海が迫っていたことが気づかなかったのはそれほど奥に端に海がつづいていたからだとなる
それは蝦夷(エソ)に由来していることでも縄文時代からの言葉に由来している

桜田山の下からせ縄文人の遺跡が発掘されている,そこからは鹿の骨とか海の魚の骨が発見された,そこは狩の場でもあり漁をする場でもあった,つまり海が近くに迫っていたから海の魚がとることができたのである。
海に近ければ海の幸で生活できる,その海も入江のように入り込んでいると荒くないから漁ができたとなる,だから海老はエヒでありこれも海に面して住んでいた人達である。
江垂も同じだった。
不思議なのは海老とか江垂でもそこは蝦夷という原住民が住んでいて外来の人達との争いの地点でもあった

なぜなら桜田山の下に第六天の祠があり第六天とは魔神の意味でありそれは大和朝廷に抵抗した人達としていたのである。悪者にされたのはインディアンなどともにている
西部劇ではインディアンが常に破るものとして退治するものとしてドラマが作られていたからである。戦争では強い方が勝手にドラマを作るのである。
海老にも御刀神社がありそれは海老村に蝦夷が住んでいて抵抗した,それで刀で責めて征服した地点だとなり神社が祀られた。
海老からは弥生時代の遺跡が発掘されたから相当に古い場所なのである

ともかく日本には江とつく地名が北海道でもどこでも多いのである:それはなぜか?
日本の原住民が蝦夷でありそのエゾのエが全国に地名化して残った。
それは縄文語に由来しているのである。
蝦夷というのは謎であるが大和王権が日本を統一するときその前から住んでいた原住民である。それらの人達は歴史から消えたが地名としてその存在を残していた
アイヌも蝦夷なのかどうかわからないがアイヌはむしろ蝦夷の後に来て蝦夷と同一化された民族だともなる,その前に蝦夷がいたからそうなったのである。

ともかく歴史でも考古学でも何でも地理に詳しくないとわからないきである。
地元にこれだけ長く住んでいても地理がわからない,江垂は街内と見ていたのである。
でも今回の津浪で海が迫っていたのである。それは津浪が知らしめたとなる
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2017年07月12日

発見した真野川河口の津浪の前の写真一枚


発見した真野川河口の津浪の前の写真一枚

manogawaphoto1.jpg
これは夏だろう



これは前のホームページを記録して保存しなおす作業の中で出てきた
関係ない所にあったのだがこれは真野川である。
間違って他の旅の写真に出ていた

ここに松がありコンクリートの岸辺がありここを良く歩いていたからだ
波がよせているのはめずらしいかもれない

しかしこの松原とかコンクリートの岸も全く消失した
河口はまだ昔のように残っている
対岸にも松があるがその松も消えた、ともかく松はみんな消えた

右田の一本の松も枯れているからまもなく消える
松は一本もなくなったのである。

だからこの写真は貴重になった、他にもまだ残っているかもしれない
右田の松原は太かったしいい松原だったのである。
タグ:真野川河口
posted by 老鶯 at 14:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

今日10時56分に宮城県で震度3の地震 頻発する地震は次の大地震の予兆


今日10時56分に宮城県で震度3の地震


頻発する地震は次の大地震の予兆



相馬地域も一瞬ゆれた、でも気づかれないほど、震度1にもなっていないだろう。

ともかく地震が頻発している、この地震の起こる頻度が多すぎる

だからこれらの地震が大地震の前兆なのかとなる

弱い地震でも頻発するのは絶えず地下で地殻変動が起きているからなのか?


東北の太平洋岸と中央構造線にそって頻発している

今情報は気象庁のサイトで見た、テレビではなかった

これだけ地震が多いということをあまり経験していない


地震が起きる間隔が短すぎる!


慶長時代もこうして地震が連続した

大きな地殻変動が東日本大震災で起こり継続している

ただそこで綿密な計測はなかっため予兆できなかった

やはり大地震の前兆なのか?


小さな揺れでもそれが頻発するときは危険になる

東日本大震災でも震源地は小さな地震が頻発していた

それが見逃されていたのだ

これだけ地震が頻発することは警戒しなければならない

ただどこで大地震が起きるかわからない

でも近々か起きるかもしれない

巨大なエネルギーを放出する時が来ている

その後にまたおさまる

今はそういう時期なのだろう


地球的スケールで、地質活動が活発化しているのか?

 地質活動が活発化することがあっても、それは現象としては百年、二百年の単位の内に活発化が顕在してくるものであって、普通の人間生活の中では通常捉えられないものである。それが人間の皮膚感覚で明確に捉えられるような、数日の内に活発化してくるというのは、常識を遥かに超えている

 東北は今、余震も頻発し非常に困難な状況だが、今後、非常に長期間にわたって同規模の地震が発生することはない。余震が収まれば、安定した時期に入るので、安心して通常の経済活動が行える状態になる。

東北地方はあれだけの地震が起きたのだから大きな地震や津浪は起きないとしている
それでかえって安心することがある

一番危険なのは三浦半島辺りだとしている、中央構造線と東北き太平洋岸沿いに地震が頻発しているからだ、南海トラフも危険だとしている
つまりこの次の大地震は南海トラフとか東京近辺が危険だとしている
何かそれが規則的に起きているから当たるのかとも思う

今回はこんなに地震が頻発することは素人でも予測される、それほど地震が多すぎるからだ。  

posted by 老鶯 at 11:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2017年07月11日

最近の地震頻発には法則性がある (大地震の予兆としての地震なのか?)


最近の地震頻発には法則性がある


(大地震の予兆としての地震なのか?)

earthquake1122.jpg

最近一カ月の地震発生の分布


ここの図がわかりやすい。

南海トラフより、先に、相模トラフ、北海道東方、あと鹿児島あたりだと思います。
2016/11/19



全国的に地震が頻発している、今日鹿児島で起きた、最近の地震は日本列島全体で起きている、九州から長野県への中央構造線と北海道から太平洋プレートにそって起きている
一昨日は福島県の沖、相馬の海が震源地で震度5弱とか起きた

確かなことは中央構造線と太平洋プレートに沿って起きていて関連があるのか?
それは東日本大震災の影響で中央構造線を刺激して熊本で大地震があり今度は今日鹿児島で震度5強があった、長野県での震度5強はやはり中央構造線沿いである。

日本列島は北海道から九州まで地殻変動が影響する、沖縄まで連続している


(最近一カ月の地震)

2017年07月11日12 : 26鹿児島湾1マグニチュード2.310km
2017年07月11日11 : 56鹿児島湾5強マグニチュード5.210km
2017年07月11日07 : 57長野県南部1マグニチュード2.410km
2017年07月10日17 : 04岩手県沖1マグニチュード3.350km
2017年07月10日02 : 02大隅半島東方沖2マグニチュード3.560km
2017年07月09日06 : 22長野県南部2マグニチュード2.510km
2017年07月09日03 : 36福島県沖2マグニチュード4.120km
2017年07月09日02 : 42択捉島南東沖1マグニチュード4.390km
2017年07月08日23 : 45トカラ列島近海

(中央構造線沿い)

2017年07月11日12 : 26鹿児島湾1マグニチュード2.310km
2017年07月11日11 : 56鹿児島湾5強マグニチュード5.210km
2017年07月11日07 : 57長野県南部1マグニチュード2.410km
2017年07月10日02 : 02大隅半島東方沖2マグニチュード3.560km
2017年07月09日06 : 22長野県南部2マグニチュード2.510km
2017年07月08日23 : 45トカラ列島近海

(太平洋プレート沿い)

2017年07月10日17 : 04岩手県沖1マグニチュード3.350km
2017年07月09日03 : 36福島県沖2マグニチュード4.120km
2017年07月09日02 : 42択捉島南東沖1マグニチュード4.390km

何かこれらの一連の地震は素人にもわかりやすい、法則性があるのか?
地震の予知はできないとなっている、プロでもわからない
でも最近頻発する地震は何か法則性があるのか?
それは次の大地震の予兆なのか?

東北の太平洋岸にも大きな余震が来る可能性がある、それは頻発する地震が予兆なのか?
そして暑いということも地震が起こり安くしている
3・11の東北の地震の前の年の時も異常に暑かったのである。
関東大震災の前も異常な暑さがあった、するとその暑さが近くに影響することはありうる大地があたためられて動きやすくなるのか?

ともかく地震は予知できないとしても最近の地震の頻発はやはり大地震の前兆として起きているのかもしれない、地震が多すぎるしそれが素人でもわかりやすい分布があり
その予測する所に起きているからである。

posted by 老鶯 at 14:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2017年06月18日

少子高齢化社会が震災の復興をできなくさせている (南相馬市の高齢化率は53パーセントで一番高い方に)


少子高齢化社会が震災の復興をできなくさせている

(南相馬市の高齢化率は53パーセントで一番高い方に)

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40代以下津浪のの死亡者(南相馬市原町区萱浜(カイハマ)

年齢が判明している15,331人のうち 60歳以上の高齢者は10,085人と 65.8%を占めているまた、東日本大震災における震災関連死の死者数は、平成 24(2012)年 3月31日までに1,632人にのぼり、このうち66歳以上が1,460人と全体の89.5%を占めている。


例えば、母の実家のある集落は現在は約100人しかいない小さな村。昨年夏のお盆時期に1年ぶりに帰省したときには、そのうちの10人が他界していました。1年間で、村の人口の1割が亡くなっていたわけです。そして、その集落の最年少が56歳

宮城県塩釜市の58.0%。宮城県女川町55.1%、福島県南相馬市53.5%、宮城県七ケ浜町50.1%と50%以上は4市町。40%台は13市町村、30%台も13市町村あった。


ここのサイトの統計数はわかりやすい、本当に南相馬市が一番くらに高いのである。

高齢化率は六十五歳以下の人口が多ければ下がる、ただ老人の六十五歳以上の割合は三分の一となり30パーセントが平均である。
三人会えば一人は65歳以上である。
ともかく南相馬市53.5%は岩手、宮城、福島県のなかでも一番高いレベルである。
この高齢化が復興はばむ原因になっている

koureika111pp.jpg×100

小高の70以上の人は復興のことなど考えない、金をもらうこととあとは遊ぶことだけである。今度は沖縄に行くかなど遊ぶことしか考えない
かえって補償金で金に余裕ができたからそうなっているのである。

駅にいると鹿島の競輪の券売り場に行く人がいる、駅からタクシー利用してゆく
何もすることがないから老人が金あればパチンコだとギャンブルとかに費やしている
復興などなんにも考えていない、それは仮設に入っている時から変わっていないのである復興を考えて実際に実行しているのはほんのわずかなのである。
ボランティアが一番復興に熱心であるというのも皮肉である。
でもその人たちも一時的なものとして帰ってゆくのが多いのである。
第一そのボランティアも60歳以上が大部分なのである。
そこにもつくづく高齢化社会だと思った
74歳の人も来ていたし今に80歳のボランティアもいるようになるかもしれない
何か猫背になり歩くのも楽でない女性がボランティアで来たけどただ祭りを見に歩いている女性だった、それで土地の人から断られたというのもわかる
室原の人は何か地区の人が集まり拠点を作り復興しようとしているみたいではある。あそこはまだ街からそれほど離れていないからか養豚をしていた家である

浪江でも南相馬市だと近いから自分の土地を見に行っている人はいる、それで徐々に復興に向かうのか?それより老人が多いのだから復興に向かおうとしても苦しい
老人は苦労はしたくないのである。苦労する力もないのである。
この先どれくらい生きるかとなると苦労したくないし余生を楽に過ごしたいとなるからだだから小高や浪江のような所に帰りたくないとなる

この高齢化とは震災前から起きていたのである。それが震災でさらに打撃が加えられた
戦争で焼け野原になったときなぜ復興できたのか?
その時若い戦争引揚者が大量に帰って来た、その人たちが結婚して子供を産んだ、それが団塊の世代となり今は高齢化しているのである。
あのような焼け野原でもその時若い人が多く、子供もその時多かったのである。
それが今の高齢化社会とはまるで違ったものになっていたのである。
その若い労働力が高度成長になり日本は豊かになったのである。
今度は逆に団塊の世代が高齢化したとき日本は少子高齢化社会になり衰退しているのである。

津浪で死んだ人をみると本当に70以上が大半でありまた60以上も多い、その中でわずかに10歳以下がいたりする、20代も少ない、その割合が極端なのである。
だからそもそも震災がなくても津浪がなくても集落を維持できたかとまでなる
それだけすでに子供も若い世代もいなくなっていたのである。
それに津浪や原発事故が拍車をかけたのである。

なぜ復興が遅れているとかできないのかとなる若い人は流出したからである。
戦争のときあれだけ焼け野原になり何もなくなったのに復興できたのか?
それは若い人は多くその若い人は子供を作りその人たちが成長して高度成長時代の労働力となったからである。
復興というときいろいろあるがインフラの整備をまずしようとしている
でも復興が遅れているというとき人手不足とか資材の高騰とかありそれが足かせになっている、労働力がたりないというとき少子高齢化だからである。
老人ばかりで社会に活力が生まれない、介護で若い労働力を使われるようでは日本の経済も衰退してゆく

経済でもやはり人口が基礎のデーターになる、一万以下になると町が維持するのがむずかしくなると計算される、そういう町が増えてくるのだ。
そしてもう今までの町でも村でも同じように復旧するのはむずかしいとなる
別な新たな発想でコミニュティを作り直すということが言われる
それもそうである。小高とか浪江でも宮城県でも津浪だけの被害地でもそうである。
もう今まであったものを復旧することは復興ではない
新たな今までにない市町村の復興である。そもそも元にもどる復旧ができないからであるつまり前あったものを元にもどすのが復旧であり復興は新たなものを興すということである。それは農業は会社経営にしないと成り立たないとなっているようなことである。
それは今までのコミニュティ感覚の農業でなくなっているからだ。

そもそも高齢者が津浪で死んだ人が多かったというときそういう人口割合だったのである子供も極端に少ない、若い人も少ない、60以上とかの老人が大部分だったから割合として老人の死が目立ったのである。
新地の駅前開発でも工事がとまっている、やはり人手不足とか資材高騰とかなにか復興が遅れいてる、進まないのである。
新地駅は復旧ではなく新たに復興したから良かった、新地には若い人が住みたいというとき流出も少なかったのである。だから新地は復興に成功したとなる
他は遅れいてるし復興がなかなかできないのである。
高齢化率が25パーセントと低いからである。南相馬市の高齢化率はその倍だからいかにここが違っていて復興できないか一目瞭然なのである。




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2017年06月17日

原町区萱浜(カイハマ)、高平、北原、雫(しどけ)を尋ねる (津浪は高低差の影響が大きかった)


原町区萱浜(カイハマ)、高平、北原、雫(しどけ)を尋ねる

(津浪は高低差の影響が大きかった)


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赤い囲いは四十才以下の死者
今田家は三人いるから悲惨だった
あとはやはり七十以上が多い

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津浪にも残った樹、高台にあったから

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パノラマ写真
高低差が大きい、雫の方はかなり高い
車のある島商会まで津浪はきたが建物は助かった
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海岸にハマヒルガオと都草や野茨が咲いていた

でもマルハシャリンバイは咲かない、津浪で喪失

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これは墓や地蔵を集めたが不思議である。
みんな笑っているのか?みんなで祈っているのか?
津浪の後の不思議の光景である
六年も過ぎだから笑っているというのも時間の経過のためだろう
死者は津浪で死んだ人だけでなく笑っているという感じになることがある
時間がたつと悲しいとういだけなく笑っているともみる
ただ津浪の被害はあまりにも大きいからその傷痕は消えない
これは若くして子供でも死んだ人をとむらう地蔵にも見える

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中世の板碑(津浪が来たのが青い線)


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鹿島田中城(線が津浪の来た所)



萱浜(カイハマ)は北原とか雫(しどけ)からすると低い場所だった
だからあの辺は高低差が相当にあった、高い雫の方が津浪の被害がないから家が残っている、萱浜になるとそこは一番低い場所だった
今回の津浪はこの高低差が大きく影響したのである。

例えば海老を見るとそこは右田よりはずっと高いから津浪の被害がないと見ていた
実際に崖の上がさらに高いからそこに逃げた人が30人くらい死んだのである。
それはなぜか?
そこは高いのだがその高さより高い強い津浪がおしよせたからである。
でも海老は海に面してなければ村が消滅するようなことはなかった
海に接して面して集落があったから被害が大きかった
もし海より50メートルでも後退して集落があったら助かった、実際に10メートルくらい後退した高台の家は助かったからだ

それはなぜそうなったかというと海老は弥生時代からの住居が発見されたようにもともと住みやすい場所だったのである。そこは海が入り込んでいて魚もとれるような場所だったしもともとあとは湊となっていたのである。
そこは魚もとれる、帆掛け舟も出せる湊だった。
そういう場所は便利だから海に接して集落があり弥生時代からの住居跡さえ発見されたのである。
三陸などでもなぜ明治時代に今と同じような津浪の被害があったのに低い海に接した場所にまた住んだかというとそこが便利だから元の場所にもどってきたのである。
いくら津浪があっても魚介類をとって暮らすほかない時代である。
そうしたら海に接している所が危険でもまた住むようになったのである。

萱浜にも湊の機能が中世にもあったらしい、そこはかなり低い場所だった
湊という姓の墓もあった、鎌倉時代の海道の武士団という本でそのことが書いてあった。慶長津浪は戦国時代に起きていてその前に鎌倉の武士団が海道を行き来していたという
鹿島区の鎌倉武士の岩松氏も船で烏崎に来たという伝説がありそれは史実である。
ただ磐城から船できて鎌倉ではないらしい。ただ鎌倉時代はそれだけ船で運行する技術力が生まれていたのである。

いづれにしろ津浪は高低差が大きく影響した、萱浜の方が相当に低いのである。
雫の方になるとずいぶん高いと思った、だからそこは津浪の被害がなく家も残っているのである。
十一面観音の御堂も木立の中に残っている、かなり海に近くてもそこは高台だから残ったのである。
ただ島商会の車の置いてある崖の上まで津浪が来たのだから驚く、あの坂はかなり急だからである。
ただ辛うじて島商会は被害がなかったのである。あそこの高台に建てたことで助かったのである。低い所に建てたら根こそぎ津浪に破壊されたからである。
土地が安いということで高台に建てたのだろう。平地だと田んぼや畑になっていたので土地が手に入れにくかったためにあのような高台に建てた

それから津神社は高い所にある、あれは津浪とは関係ない、津(つの)神社でありツノガノアラシト系統であり渡来人系統なのである。
津浪に由来して建てられた神社は見つからないのである。
津浪にまねがれたとしてもそれは津浪神社とはならないのである。
ただ神社に古いものがある、また鎌倉時代にさかのぼると海側や低い場所は湿地帯であり人が住んでいないのである。
萱浜は越中などの移民が入ってきて開拓した場所だった。だからそこは湿地帯であり低い場所で条件が悪い所だったのである。
そういう条件が悪い場所に入るのは後から入って来た人たちであり前からいた人たちは住んでいないのである。

鎌倉時代の板碑がある地点からみるとかなり近くまで津浪がきている、おそらくその時代は湿地帯であり住めない場所だったのである。
鹿島区の田中城もこの板碑がある場所とにかよっているのである。
津浪がやはりかなり近くまで来ていた、その城は回りが湿地帯に囲まれていたのである。だから位置的に鎌倉時代の人の住める地点としてあったことがわかる

その板碑のある隣に氷川神社がある、これは埼玉県に多い、関東から鎌倉武士団が移住してもってきたものだろうか?中世に由来するとなるとなかなかわかりにくくなる。
高平と太田地域は相馬氏の支配下に早くからあったからそうかもしれない。
高平ー大内ー小島田が相馬氏の支配下にあった、屋形などは岩松氏の支配下にあったが後で相馬氏に属すようになった。

氷川神社の摂社に「門客人神社」があり、元々は「荒脛巾(あらはばき)神社」と呼ばれていたもので、アラハバキが「客人神」として祀られている。このアラハバキ社は氷川神社の地主神である[4]。現在祀られている出雲系の神は、武蔵国造一族とともにこの地に乗り込んできたもので[5]、先住の神がアラハバキとみられる[4]。

平安時代後期、平貞盛が平将門の乱において当社で戦勝を祈願し乱を平定したことから、関東地方の武士に幅広く信仰され、荒川流域に数多くの分社が建てられ、武蔵国中に広がった。

これはなかなか面白い、氷川神社がアラハバキ族の神社だった、このアラハバキは蝦夷とされているからだ。関東に蝦夷系統の神社が多い、それが東北にこの辺にも移されているのである
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湊氏は安藤氏の系統につながるものらしい、安藤はまた阿部の末裔ともある
阿部氏は日本海の秋田を通じて船で最初に来て蝦夷と交流があり支配した
湊氏は秋田と関係しているのはそのためなのだろう。
だからなぜ萱浜の墓に湊氏があったのか?それはそこに船と関係して湊があったからではないか?もともと古代には泉かんが跡があるからそこはすでに湊の機能としてあった。
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「相馬恋唄」で歌手デビュー 原町の湊清一さん(75) 震災で自宅流失

湊氏がいてこの人も萱浜なのか?

鎌倉時代の歴史書によると安藤五郎が鎌倉時代初期に津軽地方に置かれ蝦夷対応に当たったのが初めとされているが、正確なところは不明である。鎌倉時代末期には御内人として蝦夷沙汰代官職を務め、津軽地方を本拠地に西は出羽国秋田郡から東は下北半島まで一族の所領が広がった

安藤と湊氏の関係があり結ばれている、それは阿部氏とか蝦夷につながる系譜がある。
蝦夷というとき海老もエヒであり蝦夷であり萱浜もカイハマであり蝦夷はカイと呼ばれていた、他にエとつく地名が南相馬市や浪江の沿岸地帯に多い、蝦夷というのはやはり東北一帯に秋田とも結ばれていたとなる
つまり秋田とか津軽(つがる)とかなると福島県では古代からかかわりが感じられないが蝦夷ということでつながりが見いだされるのかとなる
鎌倉時代はまだ蝦夷いうときその歴史が継続していたこともある、古代の延長として鎌倉時代があるからそうなる。蝦夷はその時遠い歴史ではない、まだ歴史としては身近なものとしてあった、だから蝦夷とのつながりが平泉でも取り沙汰されているのである。


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2017年05月17日

海老の津波の被害者とあう (意気消沈して不満を言っていた)


海老の津波の被害者とあう


意気消沈して不満を言っていた


海老で一人元の神社の所に座っている人がいた。
それは個人用の神社だったという、その人が住んでいたのは海老の通りの突き当たりの角だった、車輪梅の案内がある所だった、広い庭があった。
海老の人は死んだ人は少なかった、死んだ人が多かったのは湊の方だった、あそこの人たちが崖の高台に逃げたからだ。あそこは運動場になっていて網で囲まれていたのも災いしたらしい、湊からあの高台は相当な高さを感じる、とすると八沢浦は低いのである。
右田も川があるから低いと言っていた、確かに川は低い所に流れるから低い場所である。
海老では区長が電気の仕事をしていてスピーカーで逃げろといって助かった人が多かったという、海老だとすぐにければ確実に助かった、後ろの墓地でも10メートルくらい逃げれば助かる場所であり高い所だったからである。だからあそこは被害がないと思っていた。八沢浦の湊とか右田は低いから被害があったと思った。

その人は何か意気消沈した感じである。盛んに補償金のことを言って不満だった
何か鹿島区の人は補償金に相当に不満である。
それを自分が言ったがそれは自分だけではない、みんなその不満を必ず言うからである。特に津波の被害者は相当に苦しいことが表情からわかる
家も流されて家族も死んだ人がいるからだ
生活が苦しくなっていることもある、海老の人で家を建てた人を知っているがローンで苦しいと言っていた。

そして船主や漁業関係者のことをうらやましがっている、このことは今になるとみんな知っているし言っている、自分だけが言っていることでもないのである。
何か自分がフログに書いて小高の人に責められたけどそれは自分だけではないということを知るべきである。
まず船主とか漁業関係者への不満は実際は前からあったのだ。その補償金が大きいから回りの不満も大きくなる。
なぜなら津波の被害者はまた小高の原発避難者と違って補償が少ないからである。
すると小高の避難者もうらやむことになる、その小高の原発の避難者を見て相当に不満だったことは確かである。同じ仮設に住んでもその差が大きいからである。
なぜあんなに優遇されているのだとなるからだ。

何か船主とか漁業関係者がこれほど責められているということはいくら金をもらっても地元では住みにくくなっている、相馬総合病院で請戸の人が特等室に入っていて家を建てると言っていたけどそれでも回りから反発を受ける、相馬市の人は別に放射線量など変わらないのだけど何ももらっていないからである。
だから遊んでいないで働いてほしいとしきりに言っていた。

いづれにしこの辺は複雑である。小高の人に補償金のことを言うと怒る、避難させられたから当然だと思っているからだ。なぜ苦しいのに責めるのかとなる。
一方で津波被害者もいてその不満が大きいのである。それでいわき市でももめたのである南相馬市の場合は何らか対策があってもいいはずだった。合併しても何の効果もなかったともなる、一体感が失われたからである。

鹿島区では小高への人の不満が大きいのである。ただそれを言うと自分のように責められる、そこに根深い対立が生まれたのである。これは小高の人も自重しなければならないのだが何かそういうことを考慮しないのである。
だからお前は傷口に塩ぬって楽しいかとか責めてくる、こういうことは自分だけに起きていることではない、小高の人と接した人が断られたとか何かぶしつけな人が多かったとかなる、いろいろな人がいるから一概には言えない
自分は南相馬市とかの全体を考慮して言っていたのである。
でももう小高と鹿島の亀裂は深いので修復しにくくなっているのだ。
それは最初からの市でも住民でも話し合いもなくただただ補償金をもらえるだけもらえばいいとなっていた、住民自治がなかったのである。
それは原発が建てるときも住民自治がなかったし原発はタブーの場であり住民がかかわれないものとしてあったことも問題だった。

津波の被害であれ原発事故事故の被害であれ6年すぎてもその傷痕は深い、これは廃炉に30年とかかかるというときそれだけの時間があってもこの辺はこの傷を回復できないほどの災害だったのである。
ただ田んぼが増えたし前よりは回復したと感じる、海側はまだ原野化している所が広い
山側でも田んぼになっている所は少ない、でも平地は田んぼが増えて蛙の鳴き声が騒がしくもどったとなる。
タグ:海老の人
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2017年04月27日

「地震考古学」大地の痕跡、防災に生かす 京都新聞の記事に南相馬市の津浪の研究報告


「地震考古学」大地の痕跡、防災に生かす


京都新聞の記事に南相馬市の津浪の研究報告


京都府教育委員会から福島県南相馬市に派遣され、1年間発掘調査を支援してきた府教委の古川匠さん(38)は、南相馬市での住居の変遷に着目した。東北では平安時代の貞観地震(869年)での津波の被害が知られるが、約2千年前の弥生時代中期にも大地震で巨大な津波で被災した。発掘調査によると、地震後、弥生時代の集落は津波を恐れてか、高台に多く作られていたことが分かる。

高知県須崎市のただす池の約 2000 年前の津波堆積物の中から土器片を発見したことである。須崎市は歴史的にも繰り返し大きな津波被害を受けてきた地域であるが,すでに約 2000 年前,弥生の人達がこの地で生活を営み,大きな地震と津波に遭遇
していた。

水田をつくるのに適した湿潤な低地をのぞむ微高地や台地部に立地するのが一般的です。10軒内外の竪穴住居に倉庫(前期は地面に穴を掘った貯蔵穴、中期以降は高床倉庫)、少し離れた場所に墓地というのが一般的な集落のすがたです



この記事の詳細はわからない、ただ京都からも研究員が来ていた、ただ弥生時代になると2000年前となるとそれを今知るということは容易ではない
例えば海老にも弥生時代の住居跡が発見されたからあそこは相当に古い時代から人が住んでいた。弥生時代となると古墳時代より古いのである。

水田をつくるのに適した湿潤な低地をのぞむ微高地や台地部に立地するのが一般的です。
南相馬市の鹿島区では寺内から小池が一番これにマッチしているのである。
弥生時代から寺内、小池はそういう適地でありたからこそ古墳が多いとなる
ただ桜井古墳の一は相当に海に接していた、新田川にも接していた
そういう地の利がありあれだけ大きな古墳が作られた
なぜなら津浪がその古墳の手前まで来ていたからである。

ただ2000年前の中期の弥生時代に大地震で津浪で被災した

そのことが明確に立証できているのだろうか?

そしてその後高台に住居が多く作られたとあるがこれなども詳細がわからないからわかりにくい。ただ相馬市では貞観津浪の痕跡が発見されていた
海の砂がボーリング調査で海から離れた奥で発見されたからである。
貞観津浪というのは史書にも明確に残されているし科学的調査もされていてその被害もわかっている。
ただ慶長津浪となるともう一つ記録的には明確でないし科学調査もまだ不十分なのである小高と浪江では貞観津浪の痕跡が発見されている
つまり今回と同じような地域で巨大な津浪があったことは明確なのである。

だから弥生時代にさかのぼり津浪のことを知るのは容易ではない、海老も高台であったからあそこに津浪がくるとはみんな思っていなかったのである。
それで海老の崖の高台に避難して30人くらい死んだのである。
その原因が崖になって高台になっていたから海に接しても津浪が来ないとして前から避難先として指定されていたのてある。
それほど津浪については市でも知らないからそういう重大な過ちをしていた

ただその後ろが森になっていてその森に逃げたら助かったのである。
その森の木につかまり助かった人もいたし右田から必死でその高台目指して逃げて森に逃げて助かった人がいたのである。まさに九死に一生を得たとなる
海老は右田などからすれば高台だから安心していたのである。
高台だからこそ弥生時代から住居があり人が住んでいたとなる
その弥生時代でも巨大な津浪が来たら大きな被害があった
ただ小高で考察したように縄文時代に住んでいた地域には津浪は来ていない、そういう場所に住んでいたからである。
新地の貝塚でも高台にあり海から相当離れている、貝などは海にきてとったとしても住んでいた場所は高台なのである。それで手の長い巨人が住んで貝をとって食べていたという伝説が残っている

いづれにしろ津浪とかなると2000年単位くらいでみないとわからないものだったのであるその時間の感覚が人間にとってはとてもリアルに感じられないものとしたのである。
だから相馬地域では津浪は来ないという確信とまでなっていたのである。
自然の時間感覚はこのように長いのである。それに人間が合わせることは容易ではない
今回の巨大な津浪でクローズアップされたからこそ弥生時代の2000年前の津浪のことまで調べるようになった。

考古学でも津浪のことが今回の被害でテーマになった。ただ海老に弥生時代の住居跡があるとして次に鎌倉時代の住居跡もあるとしてその後に起きた津浪、慶長津浪がどう影響したかはわからない。慶長津浪のことは相馬地域でも700人溺死したとしか記録がなくわからないのである。だから謎になってしまっている
貞観津浪は記録でも考古学的科学的調査でも明確になっている、慶長津浪については不明確なのはなぜなのかともなる

郷土史などでも2000年単位でみないわからないとなる、ただそうなると2000年前に巨大津浪が来ていたとしてもそれで警戒する人はいないだろう。
貞観津浪は800年頃であり奈良時代であるから記録にも残った、弥生時代となると記録にも残らない時代である。そういう時代を知るとういことは容易ではない
地層を調べるとかなると化石時代までもさかのぼる、そういう時間感覚になると人間は弱いのである。第一300百万人が死んだ70年前の戦争さえ現実と思えなくなっていることでもわかる、そんな大惨事でも人間は忘れてしまうからだ。
その人たちは異国に死んでその骨は埋まっていても拾う人もない、北朝鮮では日本人が埋められた墓があったがそこは畑になっていて一部が辛うじて残っていたのである。
70年前のことさえこうして忘れられるというとき2000年前をリアルに感じることはできないのである。

人間は死ぬとたちまち忘れられる、そんな人が生きていたのかとまでなる、思い出す人もわずかでありやがては全く忘れられるのである。
そして自分のように墓に記された名前と死亡年月を見たりしてその人を知るとういだけになる、人間は常に目の前の現実と戦い生きているから過去は忘れやすいのである。
でもその現実もすぐに過去となってゆき忘れられるのが運命なのである。


南相馬市小高区福岡で津波のボーリング調査 (十和田湖カルデラ火山の灰の下から貞観津波の砂を発掘)

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2017年03月02日

松川浦の現在の情況 (松がなくなり日影がなくなった)



松川浦の現在の情況

(松がなくなり日影がなくなった)

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前の船溜

春の光がまばゆく反射していた

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まだ残っていた一本の松

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松を植えた所は広い、ここはもともと松原だった

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中島への橋ができていた

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前の松原の道




仙台から来た人が松の苗を植えていたけどあそこ広い、もともと広い所だった
何にもなくなった、潮が引いて松川浦に一本の松が残されていた
磯部でもなんにもない、津波の恐ろしさは何もなくなる
それも一瞬でそうなったから恐ろしい 

あそこに家があった人はただ茫然としているだけだったろう。
人間は家族でも死ぬとただ茫然として力をぬけてしまう
津波だと余計にそうなった、家だけではない村自体が消失したからである。
あそこに昔を偲ぶものはない、集落があったところにも松を植える
あとはソーラーパネル場になった。

船溜は船がもどって何艘か漁をはじめている、あの辺には結構家があったけど何もない
あの松が育つには時間がかかるしそのうち老人は自分でも死んでいる
中島に橋をかけたが松が育たないと景色が良くならない
景観まで全部破壊されてしまったのである。

そして海があっても松がなくなり日影がなくなった
だからソーラーパネルでも暑く感じるし日影ないので夏でも休む所がないのが問題である。
景観も松がないので殺風景になったのである。
自分は右田の松原の日影で暑いとき休んだいた、クーラーがなしでもいい場所だったのである。
だから夏になってもこの辺は海が涼しいとしてもそうはなっていない
そして松が育つまでは時間がかかるから困るのである。
生きている内に松が育ち木蔭ができるのを見ることはできないとなる
それが残念だとなる
タグ:松川浦
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2017年02月28日

右田がメガソーラーパネル場になる 交差点の道路で警備員と話していたら地震になった


右田がメガソーラーパネル場になる


交差点の道路で警備員と話していたら地震になった

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右田がメガソーラーパネル場になる-クリック拡大ーパノロマ写真

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第二の津波を防ぐ堤防

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津波から六年目で切った木の根からまた芽がでて伸びていた



右田の広大な津浪の跡がメガソーラー場の工事をしていた、半分くらいはできた
何に利用するのかと思っていたがソーラーパネル場だった
磯部でもソーラーパネル場になったからここもなった

大成建設が請け負い子会社が仕事しているという、あれだけの広さだと大きな建設会社でいなとできないと思った、ただ大成建設が請け負ったとしても電気関係だから子会社に仕事をやらせている

その警備員はいろいろ話した、亘理の鳥の海から来た人であり津浪の被害にあったという二階の家で二階に避難して助かったという、亘理というとここから近い、高速道路ができたから通うとなればできる、サントリーの関係の仕事をしていたが津浪で流されてなくなりこっちの仕事に来たという

「この道路は津浪を防ぐために高くした、次の津浪を防ぐのはあそこの堤防なんですよ」
「この道路は幅広いから津浪を防ぐにはいいでしょう」

津浪は三段階の堤防で防ぐことになる、それから高台も海岸沿いに作った、津浪にはこれだけ備えたから今度防げると思う

その右田の交差点で警備員と話しているとき地震が来たのである。
道路がぐらぐらと結構長くゆれた、信号もあったが電信柱がゆらゆらゆれた
道路があれだけゆれたということは相当な大きな地震だったのである。
なんかこの前も地震がありまた地震がこの辺で増えてきた。

ともかくあそこは車がひっきりなしに通る、原町の方は通行止めになっている
地震を警報するアナンウスがスピーカーから流された、震度5弱ときいてそれくらあると道路のゆれからは感じた
あんなに道路がゆれるということは怖かったからである。
家だったらもっとゆれていたことは確かである。
何かこの辺は不気味である。まだ余震があり大きな地震が津浪さえくるかもしれない
それも原発の祟りなのかもしれない、神に呪われた場所なのかとさえ思ってしまうのである。

ともかくあれだけのメガソーラーパネル場ができると人の出入りがある、それでまだ工事関係者が入っている、それで福島県全体でも倒産件数が全国で一番低いのである。
ただその工事も一段落したということで補償金がもらえなくなり会社経営も苦しいと訴える人がでてきている、これからはやはり工事が減れば外部から入る人もへりその関係で経済の活気もこの辺では失われてゆく、そういう傾向はすでに現れているのである。

ただメガソーラーパネル場を見たときまだ大きな仕事があったとのかとみる
ただこれはそんなに時間はかからないみたいだ、組み立てるにも時間がかからないから長くつづく工事ではない、だから後は保守点検だけであり人手はそんなにいらないだろう。ただソーラーパネルがどれだけ収益になるのかはわからない、どれだけ発電力があるのかわからない、その材料が産業廃棄物となるからやはり環境破壊だという人もいる
環境破壊にはコスト的にそうだから原発とは変わりないという人もいる

ソーラーパネルというと自然であり環境破壊しないようで後始末するとき環境破壊になるそして長い間使っていると自然の風雨にさらされて傷んでくるからどれだけもうかるのかはコスト的にはどうなのかは疑問を呈する人もいる
ソーラーバネルで植物工場を経営した人も採算がとれないとかでやめたという報告もあるだからなかなかうまくいかいないのかとも思う

この辺はやはり以前として変化なのである。右田がソーラーバネル場になったのもそうである。風景が右田の松原であったのとは余りにも違ってしまった。
景色的にはいいものではない、でも土地を活かす方法がないので磯部と同じくソーラーバネル場になった、土地をもっていた人もそれで金になることもあるからだ
ただコスト的に採算がとれるのかどうかは長い目で見ないとソーラーバネルの場合はわからないとなる



村民らは今月1日、手仲村長が林地開発の不許可を府に求めるべきだとして、723人分の署名(うち村内在住者367人分)を村に提出した。同保育園に子どもを通わせる母親は「なぜ、保育園や小学校の近くで大規模な開発をするのか。理解しがたい」と眉をひそめる。

飯館村の草野でもソーラーパネルがしきつめられていた。それが何か前の素朴な村の感じを喪失さはた、景観的に似合わないのである。
それと有害なこともあり環境破壊にもなっていた
それで実際にそこに住む人が保育園などがあるから反対していた
ソーラパネルも実際に反対する人たちがいた。
ただやはり税収があり村としては今になると収入を得たいとなる
それは結局原発とにている、有害でも金がほしいとなる

右田の場合はあそこには人が住んでいない、磯部でもそうである。だから反対運動は起きないからいい、でも昔の松原の景色からすると環境的にはいいものではない
夏だって涼しいという感じはなくなる、光が反射して暑いとなる
海老の方はソーラーバネルがないのでいい、田舎はまだ広いから自然空間があるからそういう場所はさけるほかない。あそこは将来的にも憩いの場所とはなりにくくなった。

この辺は小高でもそうだが浪江でも空き地になったところがソーラーバネルとかになりやすいのである。土地が活かせないからそうなる
そこにも問題があった、どうしても利益優先になるから反対できないのである。
どっちにしろ人間が作り出すのもは環境破壊になるのである。
風車の発電でもそうである。音がうるさいとかあり現代の技術は環境にはやさしくないのである調和しないようになっているのである。



大成建設、短工期・低コストを実現した杭基礎架台「T-Root」を共同で開発

大成建設は積極的にソーラーバネルの開発をしている
杭基礎架台というのは建築会社の専門となるのだろう。
電気は電気で他の会社と提携している


posted by 老鶯 at 18:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

原町区の上渋佐で死んだ人は全部65才以上だった (津波で淘汰された老人)


     
原町区の上渋佐で死んだ人は全部65才以上だった


(津波で淘汰された老人)

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全部死んだ人は65才以上だった



 東日本大震災の死者のうち60歳以上の比率は64.4%であり、東北3県沿岸市町村人口の同比率30.6%の2倍以上となっている。60歳代、70歳代、80歳以上の比率は、人口比率のそれぞれ1.4倍、2.3倍、3.3倍となっており、高齢者ほど死亡率が高くなっている。津波被害から逃げたり脱出したりする困難性が加齢により大きく影響を受けた様子がうかがわれる。地震の発生した金曜日午後には通勤者は自宅にいなかった場合が多いことも影響していると考えられる。また同じ年齢階級で男女を比較すると男性の方が高い倍率となっており、車中での溺死者や数波にわたる津波の間に自宅に戻った者に男性が多かった、あるいは女性を優先して逃れさせた様子もうかがわれる

高齢者が死んだ人が多いというときそもそも高齢化社会であり老人がどこでも多いから比率的に死ぬ割合も多かったのである。
でも上渋佐では65才以上でありそれ以下の人はいなかった。もともともこの辺も老人が多いからだとなるのはわかる。それにしてもこれだけ老人が多いということはその理由は何なのだろうとなる
気にかかるのとグラフで50才の人も多く死んでいる、これは50才の人も人口比率で多いからである。


若い人が通勤していて若い人とともに逃げられなかった。車を運転できない老人も多かったからなのか?今は農村部でも会社員になっているのが多い
すると一日家にはいないのである。その時若い人がいないから老人は対応できなかったのかとなる

若い人でも家族が心配でもどりそのために死んだ人もいる、老人が家に残っていたからである。これも順序が逆だったと思う、若い人は生き残るべきだった
老人は経験があるからというが津波の場合はそんな経験をしていないからかえって津波なんて来ないよ、来たことがないとか言って逃げない人もいた

そして言われるのは介護しなくて嫁は得したなとか言う人もいる、そういう時代でもある高齢化社会というのは何か自然の摂理とも反しているのである。
高齢者のために若い人が介護して犠牲になるというのは自然の摂理に反している
自然では子孫を残すために莫大なエネルギーが費やされている、卵子も膨大に生むし鮭などは産卵が終わったら役目を終えて死ぬ
自然は次代の命の方に関心がある、老人とかだけではない、群れのなかで弱ったものは他の動物の餌食になる、そうして種の保存が成されている

人間でもやはり次代のために子孫のためにエネルギーがそそがれる、子育てがそうでありそれが苦労でも苦労ともならない、次世代のために人は働いているのである
今苦労して働いたとしても恩恵を受けるのは次の世代である。
自分など遅かったが遺産をもらったというとき親が苦労して残した金を自分が使うのであり親ではなかったともなる

だから老人のために若い人のエネルギーが使われるのは何か自然の摂理に反しているのである。そういう社会は異常であり未来を作らない社会である。
もちろん介護というとき個々に事情があり家族も関係しているから社会的問題として考えるとき、社会的に考える時は違っているのである。
自分は親には特別良くしてもらったから必死で介護したのである。でもそれが社会にやはり負担をかけたりしているから自分だけの問題にはならなかったのである。

ともかく親であっても老人を助けるために若い人が死ぬというのは自然の摂理に反していた。なぜなら若い人が死ねばその村なり町なりが維持できなくなるからである。
そういことが津波の被害地であれ原発の避難地域であり起きているからだ。
津波でもやはり無情になるが老人は淘汰されたのは自然の摂理だったのかともなる

そもそも老人は何かこうした災害であれ変化に弱いのである。それで原発事故で死者がないというが関連死が多いのである。避難先で死んだ人が多いのである。
それは老人は変化に弱いから適応できないからそうなる
若いときは適応力があるからそうはならない、そういうことはいろいろなことで起きる
海外旅行などは自分は50才でしたから四苦八苦してしてきた
海外旅行は別に言葉ができるかできないかではない、どこでも英語が通じる訳でもない
一番大事なのは異なった世界での適応力なのである
だから言葉ができなくても海外旅行はできる、若い人は勘がいいからその場のことが勘でわかるからできるのである。
老人は適応力と勘が鈍くなるから言葉と関係なく適応力がなく海外旅行でも苦しむのである。

だからつくづく

「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない、
唯一生き残るのは変化できるものである」ダーウィン

これが自然界の掟でありまた人間界にもあてはまるのである。
それが津波とかでも起きたし原発事故でも起きている、この辺の復興をどうするかというとき街自体が村がが消滅する危機になっているときそれに対処することができない
その大きな変化に老人は対処できない、ただ故郷に帰りたいというのわかってもこれだけ変化するとその変化に対応できないのである。
だから震災関連死で死ぬ人が多かった、でもそれが自然の摂理だともなる
老人は復興の足かせにもなるから淘汰されるべきだともなる
それで女川では老人は口だすなと言って街の復興に取り組んだのである。
何にもなくなったのだから全く新しい発想が必要になったからである。

双葉辺りで病人が老人が病院に置き去りにされたというときもその非は大きいにしても若い看護師が率先して逃げたというときもそうである。
やはりそれも若い人は生き延びるべきであり死にかかった老人は捨てられてもこういう場合は特別だからしかたがないという見方もある。
自然の摂理は子孫を残すことであり子孫の繁栄なのである。すると子供をもっている若い母親は放射能が危険だとなると異常なほど危機を感じて自主避難までしている
それは次代のものを育むのが母親だから自然の摂理でそうなったともなる

自分も親戚だったけどそういう経験をしている、病気の人を見捨てて登山とかしていた。それで怨まれたということはある。でもその時登山して疲労困憊して何もできなかった。自分は体力がないから登山は辛かったのである。
でも自分はその時登山して良かった、今になると体力的にできない、自転車旅行だって遊びだと言ってもできないからである。
つまり老人のために若いときするべきこともしないとしたら親でも怨むようになるだろう自分は介護してもしたいことをさせてくれたら怨まないし介護をしたのである。

高齢化社会の負担は社会的にも大きいしそれが若い人の負担となるのは問題なのである。だから何かのきっかけで自然災害であれ老人は淘汰されるかもしれない、自然は神でも次の世代、子孫の繁栄の方を望むからである。
だから老人にもいろいろ人がいても子育てが終わった老人はなんのために生きているのだろうと疑問を呈する人がいても不思議ではないのである。
ただ老人全般ではそうなるが家族があり個々の事情が違っているから等しくは考えられない、でも自然の摂理はやはり子孫を繁栄させるために淘汰するということか働く
それは非情にもなるがそれが自然の摂理だともなる

ともかく変化に対応できないのが人間にとっても致命的なのである。現代は技術的にも変わりやすいから特にそうなる、変化に対応できないことが致命的になる。
ただ老人にも強みはある、経験は役に立つし洞察力は高まるなど若い人よりかえって創造力があるともなる、自分のしている抽象画は現代の最先端の技術からartから生まれたのだがでも自然を見る目を養ってきた経験からも生まれているのである。
だからすべて若い人が有利に働くとは限らないのである。

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2016年11月22日

津波は起きた時間(朝、昼、晩、夜)で被害が変わる (浜通りに一早く津波警報がでる)


津波は起きた時間(朝、昼、晩、夜)で被害が変わる

(浜通りに一早く津波警報がでる)


今日は六時ころ地震が起きた、相当に大きい地震だった。でも物は落ちない、あの時はバタバタと物が落ちて立っていれないほどの地震だった。
本がバタバタ落ちたので足の踏み場もなくなった。
わたわたしていてすぐに時間が過ぎた。

今日の地震は最初3メートルはくると言ったがが海の方に行くなと言われた自転車で見に行った、津波の被害にあった家の人が車で避難していて海の方に行くなと言われた。
それで一旦引き返したがまた海老の方に行った。あそこは高いからである。

考えたことは早朝の起き抜けに地震が起きた、それからすぐ津波警報があり3メートルの津波が来るとありすでに津波がきていた。
ただ3・11の津波では最初3メートルであり次にすぐ6ーメトルであり次に10メートルとテレビで放送した。まず6メートルは非常に危険になる
もうすぐ逃げないと助からないレベルである。
でも3メートルとなるとそれほどの危機感を感じない
地震でも5弱と7では相当に差がある。

ただあの津波を経験した人は3キロ先でも避難した。
前から怖がっていたからである。
人間は一回でもあれだけのことを経験したら恐怖になる
何が起きるかわからないということもある
でも津波はやかて経験した人も死ぬとその恐怖も忘れられる傾向が強いのである。
経験した人がいたら絶対に逃げろと叫ぶし日頃も子供にもその体験を常に言うことになるからだ。だから経験しない子供でも逃げるとなる

今回の津波の時間帯が朝6時であり起きるときだから頭がまだはっきりしないしぼーとしている人も多い、それで機敏に行動できないことがでてくる
つまり津波だとぼーとしていられない、即座に行動しなければならない
それがしにくい時間帯だった
だからもしこの時間帯に3・11のような大津波が来たらもっと被害が出たかもしれない
つまりあの地震は3時ころであり朝のように起き抜けでもないし頭もすっきりして活動している時間帯だった、それでもあれだけの被害が出たのである。

地震でも津波でも特に津波の被害は起きる時間帯が関係してくる
真夜中とか早朝とか昼間とか晩とかで被害が違ってくる
3・11では不幸中の幸いとして3時ころ起きた、でもあれだけの被害があった。
とすると真夜中とか早朝とか暗くなってからとかに起きたらどうなったのか?
それを考えると恐ろしいと思った。

津波は何か見に行くなといっても見に行く人がいる。
今回は自分は津波を見たいと思った。
今回の地震はそれだけの余裕がまだあったとういことである
3・11の地震と津波ではそんな余裕もなかったからである。
あの時もこんな調子で見に行って死んだ人がいる
でも3メートルとなると防潮堤もできたから越えないと思った。
ただ経験している人は一早く避難したのである。

これくらいの地震だと余震がつづく、今も揺れた、なんか不気味である。
つくづく何か原発でも福島県の浜通りが呪われているような感じになる
その原因が神の怒りが原発に向けられてるように感じる
原発は何か人間の傲慢であり神の怒りが向けられている
それは科学的ではないにしろこの辺に住んでいるとそういうものを3・11以来感じてしまうのである。


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2016年10月28日

【大川小津波訴訟】(2) (子供の方が先生より感が良かった、かえって感が働くの子供と若い人)


【大川小津波訴訟】(2)


(子供の方が先生より感が良かった、かえって感が働くの子供と若い人)


人間は経験しないことは大人でも子供でもその対処方法に差がない、大人が必ずしも的確な判断するとは限らない、その時子供の感ではすぐ裏山に逃げればいいじゃないかとなるのは単純だけど正解だった
その時大人の先生はそうした単純な方法をとらなっかた
危険な川の方に向かって行ったのだからどういうことなのだろうとなる
そしてそうした大人の先生に従わざるをえなかった生徒が死んだ
要するに何か大人とか先生とかいつも指導している人は固い思考に陥る傾向がある。
先生とか公務員とか何か専門にこりかたまっている人も柔軟な思考ができなくなる
先生は社会経験もないから視野がかえって狭いと言われる
つまり卒業したらすぐに先生と呼ばれる職業だからである。
やはり人間は経験が一番ものを言う、経験を積まないと実際の所はわからないのである。

だからこの近くにオランダの大使館に3年間も勤めていた人はそういう経験を積んだから違っていた。別に大使館でなくても今は外国で若い人がいろいろと経験を積んでいるから昔とは違っている。仕事でも外国でしている人が多いからである。
ただ津波となると原発事故でも経験がないから上の人だった指導しようがなかった。
それでスピーディを用意していたのだから放射性物質は風でどこに流れるか東電の社員は知っていたのである。
それで浪江の人と一緒に津島に逃げた人がこっちはかえって危ない、街に引き返した方がいいと浪江の人もその東電の社員に従ったのである。それが正解だったのである。
スピーディを用意していても全く活用されなかったのである。
なぜなら東電でも政府でも安全神話の上に原発を建てて運営していたからである。
常に言っているのは事故は起きませんということだった
事故も起きますよとかいうと地元でも住民からにらまれる、危険人物にすらされる
東電に勤めている人も多いし政府でも県でもマスコミでもどこでも監視状態にあって「安全神話」は作られていたからである。

それでも津波だと生徒に津波が来たらてんでばらばらに早く逃げろとか先生が教育していた生徒はそのように逃げた助かったのである。
それは津波が来るということをそこでは経験していたからである。
緊急時には対処方法がわからないことが多い
津波のように咄嗟に判断を強いられることになるよと余計にそうである。
「津波は来ない」「津波が来たことがない」と老人が言い張り死んだ
老人だって津波を経験したことがないからそうなった。

かえって若い人とか子供は感がいい、柔軟性がある、臨機応変さがある。
それは海外旅行では若い人は言葉ができなくても外国に適応しやすい
それは感がいいから外国でも適応できる
自分は50歳で外国旅行したから適応できなくて失敗が多かった。
それは言葉ではない、感が働かないのである。
だから意外と子供は何もわからないから大人の指導に従うべきだというが津波という経験しないことについて大人も子供もなかった。
かえって子供の方が単純に感を働かせてすぐ裏山に逃げればいいというのが正解だったのである。大人はかえってめんどうなことを考えて津波が来る川の方に向かったのである。これは海外旅行すればわかる、何か変な所にゆきやすいのである。

感がいいというとき動物なども何か異変を咄嗟に感じやすいだろう。それは本能的なものであり津波でも地震でも事前に知ることはありえる、それは何か異変を感じやすいからである。そうでないと生き残れないから本能的にそうなっている
人間ももともと機械とか情報でも様々なも便利なものに囲まれていても必ずしもそれが緊急時に役に立つとは限らない、テレビで10メートルの津波が来るというときはすでに来ていたからまにあわなかったのである。
海の水や川の水が極端に退いたことはどこでも観察されていた。
だからそれをみて咄嗟に判断して逃げた人は利口だったとなる
テレビだけでは追いつけない、時間がないからである。
最初6メートルと言っていた、それだって聞いたことかなかった、次にすぐ10メートルが来るといったときはすでに津波が来ていたからである。

だから先生がまず子供は先生の指導に従うべきであるという日常生活が習慣となっているからその時子供が裏山に逃げるのがいいと言っても子供の言い分を聞いていられるかともなった、オランダのように先生も子供も平等意識があればそうはならなかったかもしれない。
「先生、裏山に逃げよう」「生徒の言うことを先生が聞くのか」
何かそういう習慣があり抵抗があり先生はなぜか危険な津波の来る川の方に向かい生徒を引率した。一旦山に逃げた生徒も先生の指導に従わせたのである。

今は何かみん機械とか情報でもテレビとかその他インターネットでもそうだがそういうものに頼っているが人間の第六感とかは衰えている
人間の感なんかあてになるかとかなるのが現代である。
数値で示して科学的なものは信じるが人間の感などは迷信だとかなってしまう社会であるでもなんか感というのがあたることも多い、なんか悪いことが起きるじゃないかなとか思うと本当に起きる、感が鋭いのは子供であり女性であり若い人である。
老人は経験はあるが感は鈍くなる、経験したことから判断するから経験しない津波とるなと判断できなくなっていたのである。

今の世の中は複雑であり経験しないことなどいくらでもある。だから経験からも計れないのが現実である。人間が一生で経験することは極わずかなのである。
職業もこれだけ複雑で多いからどんな仕事をしているのか理解しにくいのである。
ただその経験した人から直接聞くのが一番参考になる。
それでいろいろな人に聞いたことをプログで書いてきたのである。
ただその聞くにしてもまた限られている、オランダの大使館に勤めた人など田舎ではまれだからである。都会だったらそうしていろいろな外国でも経験した人がいるから違っている、そこが都会と田舎の差だとは言える
一方で都会の人は農業のことなどは無知だとなる。都会はまた人工的空間だから自然を直感することがない、そこで自然災害に都会は弱い、あまりにも人工的空間化していることは自然災害に弱いのである。
三陸のように裏山で清水を飲み薪で米を炊くようなこともできないからである。

大川小学校の悲劇はやはり緊急時にどう対応するかで教訓になっている
まず津波の備えが先生にもないから生徒にもなかった、ただ子供の方が感がいいから裏山がすぐなんだから逃げればいいと単純に判断したのが正解だった。
大人の方は先生はかえってむずかしく考えたのである。
ただ一人の先生は裏山に逃げて助かったし子供でも裏山に逃げた生徒は助かったのである先生でも意見が分かれ多数決で判断して誤ったとなる、それが生死を分けたのである。
だから多数決が緊急時にはいいとはならない、かえって危険となり命落とすことにもなる民主主義は何でも多数決で決められるからそこにも落とし穴があった。
多数決が絶対だということはないてのである。かえってそれが危険なものとなり全員が命を落とすことになるという教訓でもあった。

ただ緊急時にどういう判断をするかは個々人でも全体でもむずかしい。
自分だったらどうなったのかと考えるとわたわたしてすぐ時間がたったらたちまち津波にのまれていた可能性が強い、すぐに逃げにくいのは家にいろいろなものがあるからであるなにもかも一瞬に捨てて逃げることは簡単にできないのである。
津波に対処しにくいのは緊急時に判断が誤るのは時間がないから考える暇もない、即座に判断して行動しないと死ぬからである。
動物だったら別に何も執着するものがないから即座に逃げる、だから動物の方が緊急時には強いともなる、それで犬に引っ張られて津波から逃れ助かった人もいたのである。

人間で意外と大事なのは柔軟性である。年取ると柔軟性がなくなる、体ってそうであり柔軟性がなくなる、ただ老人の強みは経験していることである。
でも何か新しいことに柔軟に対処できないのである。新しいことを学ぶことがしにくくなる。、海外旅行というと異次元の世界に入るからそこに柔軟に対処できないのである。
柔軟というとき学ぶことでもそうである。学び方がよければ学問も好きになることがあるともかく柔軟な思考は一つの見方に固定した見方にとらわれないことである。
何でも様々な見方があり一つの見方にこだわると緊急時でも対処できなくなる
現代は複雑だから柔軟に対処することがどこでも強いられているがそれがむずかしいのである。


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2016年10月27日

大川小津波訴訟】 (オランダの徹底した平等主義があればどうなったのか?)


【大川小津波訴訟】


(オランダの徹底した平等主義があればどうなったのか?)


本当に必死に行動したのかな? 
「山へ逃げれば助かるべー」 って必死に訴えたのは生徒のほうだし 
「大津波警報が出てます」 って必死に教師に伝えたのは生徒の親だし 
それを小馬鹿にするように否定したんでしょ 

なんだか正しい助言してくれてる人をことごとく排除した結果な気が 
生徒や家族なんかよりも教師の判断が正しいんだ と言わんばかりじゃないの


鵜住居小学校・釜石東中学校は500メートルほどしか離れてないのに全員助かってるところを見ると 
やはり教師の力量や教育の質の違いだね 

日本は集団行動を強いるからな。 
自分だけ高台に逃げようとすると 
「何でお前だけ逃げようとするんだ!」ってよってたかっていじめられ 
足の引っ張り合いがおこなわれるからな。 




緊急時の対応はむずかしい、時間がなさすぎる、津波警報が来てからここでは40分後とかでも地震でものが落ちてきたりしてそれでわたわたしたらすぐに時間がすぎる
津波警報を聞いてもすぐに逃げる人はいない、津波はここでもそうだけど川を最初上ってきた。すぐ近くが川だけど見に行っていない、川に水が押し寄せていると誰かが言ったけどそれも見に行かなかった。川はすぐ近くだった。
500メートルくらい下の土手を津波が越えていたのである。
第一津波がこんなに遠くまで来るということを予想していた人は一人もいないのである。津波に対する知識がない、経験もないからそうなる
だからこれに対応するのはむずかしい、先生も10人も死んだのである。
それで責めるのは酷だとなる。

ただこれは学校とか先生の下で子供がいて起きたことである。そこに問題が生じた。
子供だったら先生の指示に従うように日頃から教育されているからだ。
その中でも山に逃げた方がいいと子供が言っていたという。それで逃げたこ子供と先生が助かった。
一方では先生の指示に従い助かった学校もいる。上の人の判断で助かったのである。

だからこれも誰が悪いのか?判断するのはむずかしい。
ただオランダのことで聞いてわかったことはオランダでは先生と教える子供すら平等である。子供が先生を嫌ったら先生まで首にさせられるという。
徹底した平等社会なのである。そういう国だとすぐに上の人だからと指示に従うということはないかもしれない、日本では上下関係の中で物事が決められてゆく、あまり議論もしない。
マスコミの権威にも弱い、上の指示に従いやすい、自主性がないのである。
だから最近マスコミを盛んに批判しているのはいいことなのである。
例えば極端な貧乏人のことをとりあげたがそれは嘘だったとかあるからだ。

「それ本当なの?」という疑問をもつだけで自主性が養われるのである。

その反面誰にも従わないということは危険なことにもなる、学校でも生徒が校長とか教頭に従い助かったということもあるからだ。
でもまた必ずしもそうした上の人の判断が正しいとは限らないのが問題なのである。

現代は大衆社会であり自由社会のように見えても大衆はマスコミとか上の命令に従う自主性のない人たちである。そこにナチス化する危険性が常にある。
カルト教団などは全く思考しないロボットの集団化しているから怖いのである。
オウムであれ創価であれ幸福の科学であれなんであれカルト教団は上のものに絶対服従である。何か逆らえば信心がないとなり罰あたるとか恐怖を与えて従わせる
そういう団体に属して教育されている人たちも何か緊急時には上の人の命令に従うだけだから怖いとなる。

平等主義というときオランダのように徹底して平等を追求していない、原発事故でも東電の社員と地元の人たちが平等ではないからそもそも話し合うこともできないから危険なもとものとなる、自分たちの安全を守れないということである。
その原因に東電の社員と地元の人たちでも政府でも平等になりえないからである。
科学者はお前らに原子のことがわかるかとなり相手にもされないからである。
民主主義はそうした平等性を追求しているがそれが日常生活では成されていないのである

オランダの子供たちだったら先生の言うことをきかないで山の方に逃げたかもしれない、それだけの自主性が子供でも養われていたかもしれない、「先生の言うことなど聞いていられないよ」となって山に逃げたかもしれない、ただこの自主性でも自由でも危険はあるやはり子供だから判断の間違いがあるからだ。でも今回は大人でも判断できない状態だったのである。
未経験なことはどう判断していいかわからないのである。

いづれにしろ原発にしても誰が決めるのか決めたのかとなる。その判断を誰がして原発が作られたのかとなるとはっきりしない。自民党が推進して民主党が受け継いだとなる
国民の間でも十分に議論もされてかったのである。
議論するにも判断するにもその前にオランダのように徹底した平等があればできるがそれがなければできない、科学者は科学を知らないものを軽蔑しているしそんな人たちと議論しないからである。自分たちが上だとなっているからそもそも見下しているからしない。それは医者でもそうである。何か患者が聞いたりすると嫌がある。医者に従っていればいいのだとなる。その根底にはそもそも患者とか看護師とかの間で平等がないのである。
患者は弱者であるから従うほかないとなるのである。

津波に関してはこれは先生の責任だといっても先生も十人死んでいるのだから先生も自分たちが助かることを考えればどうなのかとなる。
先生たちも判断しようがなかったし対処できなかった。こういうとき知ったかぶりするも危険である。先生ももしかしたら子供の言うことも正しいかもしれないと思ってもよかったのかもしれない、でも子供の判断に従うのも良しとしないことがあったかもしれない、か俺たちは先生であり俺たちが判断して生徒を導くべきだと思っていたのかもしれない
この辺のことはわかりにくい、つまりここでは津波に関しては無知であり誰の判断も正しいとはならなかった。
こういう判断は本当にむずかしい、生死を分けるからである。

日本人で砂漠を旅行した人たちが迷って水がなくなり困った、その時導く人が経験している人がいて水のあるところに導いてくれて助かった。
それはその指導する人が経験があったからだとなる
でも間違って導いたら水にありつかず死ぬということもあった。
そういう判断は運にもなる、人間は経験がないことに対処できなからである。

大川小学校の責任でも誰に責任があるのかとなるとむずかしい。先生も十人も死んだとなると責任が問いようがないということもある。
人間は何か重大な判断をするとき戦争するかしないとかでもどうして判断するのか大きな問題になる。原発に関してはほとんど国民的な議論にもならず50基以上も建てられたのである。
では今回のように事故になったとき誰が責任をとるのかというのが大問題になったのである。
オランダのように日常の生活で隔てなく平等があるとき議論もできるが平等がそもそもないのだからできない、その判断するのは上の人であり庶民は黙っていろとなる。
でも一旦事故になったら庶民が故郷にすら住めなくなるという被害を受けたのだからその前に地元の人たちとも平等に議論する態度が必要だったのである。
「あいつらには金をばらまけばいいんだ、原発のことなどわかりっこないんだから」東電とか政府ではそう思っていた。
つまりオランダのように平等意識がないからそうなっていたのでありそれが大事故になったとき大被害をもたらしたのである。

タグ:大川小学校
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2016年07月30日

津波で流された海老の村で話する (津波の言い伝えを聞いていたというが・・・・)


津波で流された海老の村で話する


(津波の言い伝えを聞いていたというが・・・・)



朝に海老の浜で北海老の人と話した。

「川の方が魚がのぼってきてとれるな、イシモチとか鰈な、うなぎもとれているよ」
「海より川の方が魚釣りにはいいんだ」
「しじみもとれているよ、みんな放射能計って売ってもいる」
「安全になったのかな」
「真野川のシジミはうまいだよ」

前は自分もシジミを真野川でとっていた。沼のような所がありそこは川からちょっははずれていてそこに大きなシジミがとれたのである。
結構真野川ではシジミがとれていたが漁業組合の人しかとっていけないとなったみたいだシジミとりとかアサリとりは食べるというよりとるのが楽しみになる
でも三人家族分くらいとっていた。何もすることがないので自分はそんなことをしていた時があった。それはずいぶん前であり河川改修する前だからこれも30年前とかなる。
うなぎもとれるとなると鰻をとれたら貴重だろう。天然の鰻など高くて食べれないだろう鰻は自分の父親と鰻釣りに田んぼの畦に行ったことがある。
ミミズをさして穴にさしこむのだけどかなり待っているのが嫌だった。
魚釣りでも自分は何か待っているのが嫌で好きでなかった。
なんか自分は自転車のように絶えず動いている方が性分にあっている。
じっとしていられないのである。自然の中では特にそうである。
それにしても河口は放射性物質が泥と一緒に流れてきて非常に放射線量が高かった
阿武隈川の河口でも異常に高かったのである。
だからそんなところでシジミやアサリをとっても大丈夫なのかとなる?
放射能といっても気にしない人はしない、ただ子供もっている母親とかは異常に気にしている
年寄りなどは気にしないから前から別に普通に食べていたのである。
十年後二十年後にガンになるといってもその頃みんななる人が多いのだから気にしてもしょうがないとなる


その人は北海老の人だから津波の被害にはあっていない、でも人が流れてきて助けてくれと叫んでいたが助けようがなかったという。津波は物が流れてくるから危険だった。
こういう経験した人はなかなかその場面を忘れられないだろう。

「逃げないやつは死んだ、消防でも警察でも避難しろと回ってきたのに逃げないから死んだ俺は川を見たら水が退いていたから危ないと思っていた。そういう言い伝えは聞いているからな」
「津波の言い伝えを聞いていた、そんなにそれは語られていたもんなのかな、知らない人多かったのでは」
「津波が来たらテンノウ様や寺に逃げろと言われていたんだよ」
「この辺では津波は来ないとみんな思っていて逃げなかった」
「そんなことないよ、俺は津波のことを聞いているよ」
「そうかな、それを聞かされていればみんな逃げた思うけどな」
「逃げないやつは馬鹿だったんだよ、あれだけの地震だったんだからな」


 ここに、「てんとう念仏」と通称で呼ばれている場所がある。
 水田から民家の脇を通って、丘に登っていく。その道が上の写真。 
 <津波が来たときにこの山に登り、念仏に唱えて津波が収まるように祈った>ということから、この地が「てんとう念仏」と言われるようになったという。 


テンノウと言っていたのはてんとうのことかもしれない、北海老だと柚木(ゆぬき)も隣り合わせだからである。
でもその人が考えてみるとどれだけ親からでも祖父母からでもその言い伝えを聞いていたのだろうか?どれだけの人がこの辺でそのことを実際に親から祖父母から聞いていたのだろうか?
津波がきてから学者の人がそういう言い伝えが残っているということは調べられた。
でも現実問題としてそういう言い伝えがどれだけ先祖から祖父母から親から子へと言い聞かせられてきたのか?
そういうものでもただ今度は文字として記されているだけになるのが多いからである。
口碑として残るとしても言い伝えでゆくことは容易ではない、第一400年もの前の話だからである。そうなると文書としては残っても口碑としては絶えるだろう。
ただ津波がきてそういう言い伝えがあったと見直されただけではないか?

要するにもう慶長津波がここに被害を与えたとしても400年も言い伝えることは相当に困難になる。ただ文書として町誌などには記されている
でもそれが口伝えで言い伝えられるたとはなくなるということはある。
すると何か実感がわかない、遠い昔の出来事になってしまう
そういう言い伝えがあったとしても何かみんなそれを本当のこととして津波を警戒するまでにはなっていたのかとなる
その人はそういうことを言っても何かそんなに言い伝えられていて警戒していたのとなるその人は第一北海老の人であり津波の被害にはあっていなかったからである。

ともかく津波で共通していることは海の水でも川の水でも極端に退いてゆく、これは三陸の方でも共通した現象である。もう川の水でも海の水でもひいたら即逃げる準備をしろとなる。時間がないのだから何かもってゆくものなど探してもいられない、金でも預金通帳でもどこだろうなと探していると間に合わなくなってしまう。タンス預金は流されてもしか2たないとなる
実際にそうして死んだ人が現実に相当にいるのである。
自分も本などがばたばた落ちてきてそれだけパニックになり混乱した、そういうときかたづけようとかしていたらたちまち津波に襲われて死んでいた。
即逃げない限り津波からは逃れられない、地震がきてから40分の後でありこの辺は時間があった。それでも逃げないで多数の人が死んだのである。
東南海地震津波では数分で津波がくるとしたらもう逃げることはできないとなる

一番失敗したのは海に面した崖の上が高いということでそこを市で避難場所に指定していたことである。そこに避難して30人も死んだのである。
逃げるところはすぐ近くでいくらでもあそこはあった。
すぐ森になっていてそこに逃げれば助かったが津波は急激に襲ってくるから逃れられなかった。
あそこの森に逃れて右田の人も数人は助かった。墓地もありあそこに逃げれば良かったと北海老の人も言っていたがそれは見ればわかる。
人か住んでいる家が全部なくなり墓地だけが残っていたのである。
肝心の生きている人は死んだのだからやりきれないとなる
つまり墓地は流されても肝心の生きている人が流されなければ良かったのである。
墓地だけが残ってもどうしようもないのである。

津波からも5年過ぎてだんだん深刻さがなくなり忘れられてゆくのか?
いくら肉親でも死ぬと忘れられてゆく、人間は何でも忘れのが早いのである。
あれだけの被害でも5年過ぎれば関心がなくなり忘れられてゆく
ただ被害地である地元ではまだまだ忘れられない記憶である。
右田の一本松も枯れたり何か津波の被害の跡も消えてゆくと忘れられてゆく
人間は何か忘れられないようにすることがむずかしいのである。
だからこそ津波が400年前にあったとしても語り伝えられたとしてもそれが現実味を帯びて伝えられなかった。口伝えで伝えるのには限度がある。三代くらいまでは可能である。それ以上になるとむずかしくなる。
そして不思議なのは相馬藩政紀に二行くらい生波で700人溺死と記されて記録は知られずに埋もれていたのである。
だから外から来て調べた人も本当に津波があったのなかったのではないかとまで言う。

地元にしても資料がないとしたら本当にそんな大きな津波がここにきたのとなる。
いろいろ調べてもなんか状況証拠みたいなのはあるが明確に本当にそんな大きな津波が来て犠牲があったのかということがわからないのである。
なぜなら相馬市のボーリング調査でわかった津波で運ばれて埋もれ砂は貞観津波のものだったからである。
慶長津波はどうなったのかとなる。そういう証拠が見つからないのである。
最近の調査で津波で消失した南海老村の跡の発掘では縦穴住居があり弥生時代から人が住んでいて鎌倉時代の住居跡もあったから相当に南海老村も古いのである。
でも慶長津波がここに来たとかわからないのである。
ただ海老はエヒであり蝦夷(エミシ)が住んでいたというのはありうる
つまり海老村はそうとうに人が古くから住んだ場所なのである。


タグ:津波の話
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2016年06月17日

津波で流された右田の松原の写真一枚 (影となってしまった松原の写真)


津波で流された右田の松原の写真一枚


(影となってしまった松原の写真)


migitaamatu123.jpg
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今になればこの写真も貴重である。右田の松原は全く消失したからだ。偶然整理のために掃除していたらでてきた。
偲ぶものは何もない、一本松は残っているが松原は松原としてあったとき
風景となっていた。それは陸前高田市でも同じである。
一本松というとき街道とかにあるけど海側はみんな松原として潮風から米の害を防ぐとか防風林としてあったからである。

この写真まさに影の松原でありそれが影絵のように右田の松原を偲ぶとなる
右田の松原はないが影のように記憶として写真に残っている
ともかく何も残っていないのだから貴重だとなる

松原の向こうには刈田が見えて集落があった所の森も見える
それらはみんななくなったのである。
写真とかはあとで貴重なものとなることがある
こんなに変化したとき全くその風景が見られなくなったので貴重になったのである。

タグ:右田の松原
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2016年04月21日

熊本地震で話題になる中央構造線 (日本創造にも神の意志が働いているのか?)


熊本地震で話題になる中央構造線


(日本創造にも神の意志が働いているのか?)


地震と地理でも地形でも深い関係がある。ただこの地理と地形とかは一番理解しにくい
いくら旅しても日本全土を地理を地形を知ることは不可能である。
地理とか地形は人間の理解能力を越えたものなのである
福島県ならある程度地理を地形をイメージできるかもしれない、でもハマ、ナカ、アイヅと分かれていて広いからその地形を理解することは簡単にはできない
標高差もありその土地の高低も理解しにくい、飯館村は八木沢峠を上ればわかるように相当標高が高いから夏は涼しく冬は寒いとなる
それは浜通りからすると別個の世界になる
日本は山が多いから峠が多い、そして山にさえぎられて隣村でも遠くなり交流がはばれるたがいの理解がはばまれる、それで明治以降村が民情が違っているからと合併しなかった


日本の地形をみるとき今回話題になった熊本地震の中央構造線というのが素人でもわかりやすい、四国辺りでも目に見えて断層の線が走っている、そこに伊方原発があったから危険だと目に見えてわかった。
その中央構造線は静岡県から富士山へとつながっている、九州と四国は海でさえぎられているからつながっていないようで陸地としてはつながっていて断層がつづいている
その巨大な地形をイメージすること自体できないから地震は予測できない
中央構造線からイメージしていたら熊本に地震が起きないことなどありえなかった。
だから百年熊本に地震がないから地震がない安全地帯として企業の誘致をしていたのである。だからなぜここにも地震が起きると気象庁でも地震学者も警告していないのか不可解だとなる、誰もここに地震が起こると警告していた人がいないのである。
それは結局東日本大震災でも福島県とかの浜通りには津波は来ないと確信していた。
それと同じことが熊本で起きたのである。
常に警告されていたのは東南海地震であり津波だったのである。
それで避難訓練など何度も行われたがそれから30年はきていないのである。
地震はくるくるというところには来ない、常に意外な所で起きているのである。
だから予知はしない方がいいとなった、予知はできないとなった。

日本の地形とか地理でまぎらわしくしているのは海に囲まれていて四つの島に海で分断されていることである。
でも中央構造線とかプレートは陸地でありその陸地が動いて地震になっている
すると海になってい見えない陸地が動いて地震になるのだから余計にわかりにくいのである。日本列島というとき一つの陸地としてイメージしておく必要がある
中央構造線からすると九州も四国も本州も一帯なのである。
そしてその中央構造線の延長上に富士山がある、富士山は日本列島のヘソであり中央に造山されたのである。
富士山は日本の地形を見ればまさに日本の中央に現れた不思議がある
富士山は日本列島の地形からも日本の中央であり現れたという不思議がある
そこに神の創造の意志が働いていたのかとなる
つくづく学問の基本は「地の利、天の時、人の和」を知ることである。
日本を知るときもまず地の利である。地の理にも通じている、利益だけではない、天の時というのもまさに地の利が理があり次ぎに天の時があり災害が起きてくる
天の時というとき巨大地震とか津波には天体も関係していると言われるからである。



地下の神が人間をあざ笑う


地下深くなお知られざる所神は棲む
ここに地震が起きるここには起きない
その人間の浅知恵よ、傲慢よ
思わぬ所に地震は起きる
そして神は人間をあざ笑う
人間は地下のことも天体のことも知りえぬ
もの知り顔に予知してもはずれる
人間はそもそも理に則って地球を見ない
ただ利に則って利を求めて地をみる
政治家も科学者も大衆も利で動く
科学者すら理に則るべきを
利にのっとり原発を作る
その利と欲によって人は騒ぐ
冷静に理を追及するものは科学者にもいない
利に左右されて見誤るのである
小賢しい人間よ、奢るものよ
そは砕かれて全能の神によって卑くくされる
人間の知り得ざるものはなお広大なり
地の一片を知りて奢るなかれ
地下深く神は棲み人間の知恵をあざ笑う
汝は地を計るものにあらず
汝は計られるものにてその則に従うべし



人間は地上で求めているのは理ではない、もし理だったら原発など作らない
利を求めるから原発を作る、利になるから原発を作る
利で蠢いているのが人間なのである。
だから天災ではその人間の利とか欲が罰せられるのである。
地震が科学的法則で起こるといっても科学者自体がその理を本当に追及しているかというと利にかかわる、活断層の上に中央構造線の上に伊方原発とか川内原発を作ったのもそのためである。
いくら断層の上でなくても調べてもやはりどこかで日本は地震が起きる
地震は予知できないしさけようがないのである。
原発が日本に作られているのはアメリカの要求とか核武装のためとか別な利がありやめられないのである。政治的意向が働く、理が働くのではないのである。
それが天罰となって神の怒りをかうということはありうるのである。
日本列島は海でへだてられていても一連のものとしてつながっているのである。
そこを見誤るとまた同じことが起こる、カルマをくりかえすのである。


中央構造線のキーワードで画像で絵で解説しているからわかりやすい
タグ:中央構造線
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2016年04月20日

今日4月20日21時19分ころの福島県沖の震度3の地震に恐怖 (震度1、2の地震は宮城県でも19日から3回起きていた、他でも起きていた)


今日4月20日21時19分ころの福島県沖の震度3の地震に恐怖


(震度1、2の地震は宮城県でも19日から3回起きていた、他でも起きていた)



      降順  発生時刻  情報発表時刻  震源地  マグニチュード 最大震度 
 2016年4月20日 21時19分ころ  2016年4月20日                  福島県沖  5・6 3
 2016年4月20日 19時00分ごろ 2016年4月20日 19時03分 熊本県熊本地方 3.8 3 
 2016年4月20日 17時40分ごろ 2016年4月20日 17時44分 熊本県熊本地方 2.8 3 
 2016年4月20日 16時01分ごろ 2016年4月20日 16時05分 熊本県熊本地方 3.9 3 
 2016年4月20日 15時31分ごろ 2016年4月20日 15時35分 熊本県熊本地方 3.0 3 
 2016年4月20日 15時28分ごろ 2016年4月20日 15時35分 熊本県熊本地方 3.1 3 
 2016年4月20日 14時27分ごろ 2016年4月20日 14時31分 大分県中部 4.0 4 
 2016年4月20日 13時07分ごろ 2016年4月20日 13時10分 宮城県沖 4.0 1 
 2016年4月20日 12時22分ごろ 2016年4月20日 12時26分 熊本県熊本地方 3.2 3 
 2016年4月20日 8時00分ごろ 2016年4月20日 8時04分 熊本県熊本地方 3.6 3 
 2016年4月20日 5時53分ごろ 2016年4月20日 5時58分茨城県沖 3.9 2 
 2016年4月20日 3時52分ごろ 2016年4月20日 3時57分熊本県熊本地方 2.9 3 
 2016年4月20日 3時39分ごろ 2016年4月20日 3時42分 熊本県天草・芦北地方 4.1 3 
 2016年4月20日 2時42分ごろ 2016年4月20日 2時45分 茨城県南部 2.6 1 
 2016年4月20日 2時16分ごろ 2016年4月20日 2時19分 熊本県熊本地方 4.0 3 
 2016年4月20日 0時56分ごろ 2016年4月20日 1時00分 熊本県熊本地方 3.4 3 
 2016年4月20日 0時29分ごろ 2016年4月20日 0時34分 熊本県天草・芦北地方 3.8 3 
 2016年4月19日 23時23分ごろ 2016年4月19日 23時27分 熊本県熊本地方 3.2 3 
 2016年4月19日 22時26分ごろ 2016年4月19日 22時30分 熊本県熊本地方 3.7 3 
 2016年4月19日 20時47分ごろ 2016年4月19日 20時50分 熊本県熊本地方 4.9 5弱 
2016年4月19日 20時43分ごろ 2016年4月19日 20時46分 長野県南部 2.4 1 
 2016年4月19日 20時33分ごろ 2016年4月19日 20時37分 熊本県熊本地方 3.2 3 
 2016年4月19日 19時46分ごろ 2016年4月19日 19時49分 宮城県沖 3.4 1 
 2016年4月19日 19時05分ごろ 2016年4月19日 19時09分 千葉県北東部 4.3 2 
 2016年4月19日 18時14分ごろ 2016年4月19日 18時20分 熊本県熊本地方 3.3 3 
 2016年4月19日 18時09分ごろ 2016年4月19日 18時12分 熊本県熊本地方 4.0 3 
 2016年4月19日 18時04分ごろ 2016年4月19日 18時09分 熊本県天草・芦北地方 3.9 3 
 2016年4月19日 18時02分ごろ 2016年4月19日 18時06分 熊本県熊本地方 4.0 3 
 2016年4月19日 17時57分ごろ 2016年4月19日 18時01分 熊本県熊本地方 3.7 3 
 2016年4月19日 17時52分ごろ 2016年4月19日 17時56分 熊本県熊本地方 5.5 5強 
2016年4月19日 16時22分ごろ 2016年4月19日 16時25分 熊本県阿蘇地方 3.4 3 
 2016年4月19日 15時05分ごろ 2016年4月19日 15時09分 熊本県阿蘇地方 4.0 3 
 2016年4月19日 14時57分ごろ 2016年4月19日 15時01分 熊本県阿蘇地方 3.2 3 
 2016年4月19日 14時55分ごろ 2016年4月19日 14時58分 宮城県沖 3.9 2 
 2016年4月19日 14時14分ごろ 2016年4月19日 14時18分 熊本県阿蘇地方 3.2 3 
 2016年4月19日 13時35分ごろ 2016年4月19日 13時40分 熊本県熊本地方 3.3 3 
 2016年4月19日 12時52分ごろ 2016年4月19日 12時57分 熊本県熊本地方 4.0 3 
 2016年4月19日 12時32分ごろ 2016年4月19日 12時35分 沖縄本島北西沖 3.9 1 
 2016年4月19日 11時47分ごろ 2016年4月19日 11時51分 沖縄本島近海 4.6 1 
 2016年4月19日 9時23分ごろ 2016年4月19日 9時26分 熊本県熊本地方 3.5 3 
 2016年4月19日 8時52分ごろ 2016年4月19日 8時56分 熊本県阿蘇地方 3.3 3 
 2016年4月19日 8時12分ごろ 2016年4月19日 8時20分 熊本県阿蘇地方 3.7 3 
 2016年4月19日 6時21分ごろ 2016年4月19日 6時25分 熊本県阿蘇地方 3.3 3 
 2016年4月19日 6時20分ごろ 2016年4月19日 6時24分 熊本県阿蘇地方 4.0 4 
 2016年4月19日 5時32分ごろ 2016年4月19日 5時36分 日高地方東部 4.2 2 
 2016年4月19日 3時38分ごろ 2016年4月19日 3時41分 熊本県阿蘇地方 3.3 3 
 2016年4月19日 3時08分ごろ 2016年4月19日 3時12分 熊本県熊本地方 2.9 3 
 2016年4月19日 1時53分ごろ 2016年4月19日 1時57分 熊本県熊本地方 3.8 4 
 2016年4月18日 23時22分ごろ 2016年4月18日 23時26分 熊本県阿蘇地方 3.1 3 
 2016年4月18日 23時19分ごろ 2016年4月18日 23時23分 徳島県北部 3.1 1 
 2016年4月18日 22時31分ごろ 2016年4月18日 22時35分 熊本県阿蘇地方 3.2 3 


熊本県の地震を気になって2ちゃんねるでこれを見ていた。
すると熊本県だけではない、宮城県と茨城県と千葉県と長野県にも震度1、2、が起きていたのである。

それを感じたのは昨日辺りでありこの辺にも地震起きていたのか?
最近はこの辺は震度3の地震はでていない、ただ一回微弱な震度1くらいの地震があって報告した。
その揺れを自分が感じたのはたまたまソファーに座っていて二階で揺れを感じたのである震度1でも震度1弱と強があり弱だとまず感じない、強でも感じないだろう。
でもこれも地震であり次ぎに起こる地震の前触れなのである。
でも体で感じることしか地震の危険を感じない、そこに地震の問題がある

福島県沖がなくても宮城県沖と茨城県と千葉県に震度1でも起きていれば福島県も連動するから危険なのである。

これを見れば日本全国どこかで震度1くらいは起きていることになる。
ただこのなかで宮城県沖が3回起きていることは注目すべきだった
熊本県にばかり注意しているが外でも地震があることに注意すべきだった


それで今日夜9時20分ころ起きた福島県沖の地震は震度3であり結構ゆれた。それで熊本県と関係あるのかと思った。
熊本県震度3くらいがつづいているとなると結構怖いことである。
今の福島県沖の地震も東日本大震災の余震なのだろう。
震度は弱くなっていても余震はつづいている
この辺は巨大なエネルギーを放出したから安全だと書いたがやはり余震がまだある
3・11のような巨大地震津波は来ないにしろまだ余震はつづいていたのである。



6月20日の9時19分ころの地震はマグニチュード5・6だった
一連の二日分の地震の中でもマグニチュードにすると一番大きい
岩手県゛宮城県、福島県で感じた広範囲な地震だった
これは3・11の余震の継続である。
ただ震度5とかは長い間でていないのである。



中央構造線で地震が起きている、


4月14日から18日

     震度1  吉野川市鴨島町 美馬市脇町
          徳島三好市池田総合体育館
香川県  震度2  坂出市久米町* 観音寺市坂本町 観音寺市瀬戸町*
          三豊市豊中町* 三豊市三野町*
     震度1  高松市伏石町 高松市扇町* 東かがわ市西村
          土庄町甲 小豆島町安田* 丸亀市新田町*
          多度津町家中
長野県  震度1  諏訪市湖岸通り
岐阜県  震度1  海津市海津町*
大阪府  震度1  大東市新町* 岸和田市岸城町
          泉佐野市りんくう往来*
兵庫県  震度1  豊岡市桜町
和歌山県 震度1  和歌山美浜町和田* 紀の川市西大井


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2016年04月18日

予知できない地震 (東北はかえって安全地帯になった?)


予知できない地震


(東北はかえって安全地帯になった?)

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今回の熊本地震はどうなっているんだろう?これほど頻繁に地震が起きるものだろうか。
東日本大震災でも大きな余震があったし余震がつづいていた
でもここでの余震は起こる回数が頻度が多すぎる
プレート型の地震とは違っている、まずプレート型は大きく一回本震が来たらあとは余震で徐々に弱まってゆく、それははっきりしている、本震以上の揺れはない

活断層型地震はプレート型の地震とは違っている、地中からぼこぼこと揺れている
まず断層がずれるのとプレートが移動するのは性質がそもそも違う。
それが予測をむずかしくしている
そもそも地震は予知できないし予測できないからいかに逃げるかを優先させろと科学者が言っている
どんな地震にしろ予測できないし予知できないし経験則でもわからない
ただ過去に歴史的にこういう地震があり津波があったということはある
それすら実際にはあてにはならない、それはあくまでも目安にすぎないのである。

「九州では地震が起こらない」これは福島県浜通りではこの辺では津波は来ないというのが確信とか信念までになっていたのと同じである。
では九州で地震が起こらないというとき過去を調べればやはり起きているのである。
日本では地震の起きない場所がないのである。


でも東日本大震災があったのだから九州が無関係とはならない、そういうことは警戒されるはずだったがしていなかった
西は安全だと思っていた、それがまた油断だった、日本列島は大陸と違って狭いのであるだから東北と九州は離れているから安全だなどということはありえなかった
だから東日本大震災があっても警戒しなかったのかとなる
これも油断だったとなる、でも東日本大震災であれだけのものを見ていたら警戒しているのが普通である。
東京などは備蓄したりと警戒して準備した、熊本県とかでは備蓄もしていなかったのである。東日本大震災があってもほとんど警戒しないし自治体でも備蓄ししていないのである
そして神戸地震の1・5倍とかのマグニチュードだったと規模が大きいのにそれほどの死者でもないし建物の被害があっても神戸のようにはならない
もし東京のような大都会の直下で起きたらどうなるのか?
それは神戸地震と同じような結果となる、そしたら東京に住んでいること自体相当なリスクではとないか?

ともかく日本列島は揺れている、それとも日本の神が怒っているのか?
それは何故なのか?それはただ地球では科学からみれば起こるもでありありさけられないとなる
自然界にもカルマがある、カルマをかならずめぐってくる、個々人は家族でもその地域でもカルマをになっている、だからそのカルマを受ける、それをさけることはできない
そしてそのカルマを受けてそのあとにカルマが清算されて平和がやってくる
そのカルマから誰も逃れることはできないのである。

だから東日本大震災ではカルマを東北では受けたけど巨大なエネルギーを放出したからカルマを清算したから何かかえって安全であるという感じになる
当分数百年はこんな巨大な地震とか津波は来ないように思うのである。
ということはかえって東北は安全地帯になっているかもしれないのだ
東京とかから西でも今回の九州のようにそこは危険なカルマが噴出してカルマを受ける
だから西は相当に危険になってきている
放射能だから東北から逃げろとか盛んに面白がって言っている人がネットにいたが
今度はその逆になる、西から逃げろ、放射能など怖がっている場合ではない
今の命が大事だ、今を生きることを優先すべきだ
東北は地震に関しては安全地帯だ
放射能より今の命だ、西は危ない、逃げろ・・・・となる
これもカルマの法則、因果の法則である。
他者の不幸が関係ないとみていても自分にふりかかってくる

いづれにしろまだ大きな地震が来るというとき予断ができない
経験則があてはまらないから自然は予知できないからそうなる
つまり何が起きるか誰もわからない、かえって政府でも気象庁でも学者でもわからないのだからいいかげんなことを言うな、それで被害が大きくなったという学者もいる
それより何が起きるかわからないからそのために備えろとなる

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2016年04月17日

巨大地震が連続して起きた慶長時代とにている (東北と九州(熊本)に起こり今度は関東へ迫る恐怖)



巨大地震が連続して起きた慶長時代とにている


(東北と九州(熊本)に起こり今度は関東へ迫る恐怖)

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慶長伊予地震 - 1596年9月1日、伊予国をおそった地震。M 7.0、寺社倒壊等。中央構造線沿いと推定される地震。
慶長豊後地震(大分地震)[4] - 1596年9月4日、豊後国をおそった地震。M 7.0〜7.8、死者710人。中央構造線と連続している可能性がある別府湾-日出生断層帯で発生した(上記地震との)連動型地震とされる。
慶長伏見地震[5][6][7][8] - 1596年9月5日、近畿地方をおそった地震。M 7.0〜7.1、京都や堺で死者合計1,000人以上。伏見城の天守や石垣が損壊、余震が翌年春まで続く。有馬-高槻断層帯、あるいは六甲-淡路島断層帯における地震とされる。上記二つの地震に誘発されて発生した可能性がある。


慶長地震[9] - 1605年2月3日、南海トラフ巨大地震の一つとされてきたが、伊豆小笠原海溝付近震源説や遠地津波説など異論もある。M 7.9〜8.0。紀伊半島沖と房総沖が連動したとする説もあり、M 8.4〜8.5ともされる。津波地震と考えられており、地震動による被害は少なかったが、現在の千葉県から九州に至る広範囲の太平洋岸に津波が襲来し、死者1〜2万人を数えた。


会津地震(慶長会津地震) - 1611年9月27日、会津地方をおそった直下型地震。M 6.9。寺社損壊、死者3,700人。
慶長三陸地震(慶長三陸地震津波)[10][11] - 1611年12月2日に三陸沖を震源として発生した地震でM8.1(8.1-8.7の諸説あり)。ただし、津波の痕跡の範囲などから、この従来の定説に疑義があるとされ、千島・色丹沖の震源と連動した大地震・津波だったとする説もある。この大津波による北海道・三陸の死者・被害甚大。地震被害の記録はほとんど無い。
慶長十九年十月二十五日の地震 - 1614年11月26日に起こった地震。従来高田領大地震とされたが、会津から松山に至る日本各地に被害記録があり、震源は不明


慶長伊予地震、慶長豊後地震、慶長伏見地震

は4日以内に連続して発生したものであるが、共通点は、これらの地震が

「中央構造線」

上で発生していることだ。

日本列島を縦断する

「中央構造線」。

この「活断層」が活動を活発化させていると考えられる


1596年9月1日 慶長伊予地震

1596年9月4日 慶長豊後地震

1596年9月5日 慶長伏見地震


1605年2月3日 慶長地震(南海トラフー関東地方)


1611年9月27日 慶長会津地震

1611年12月2日 慶長三陸東北


最初伊予(四国)で起こり継ぎに3日後に豊後(大分)で起こり一日後に伏見(京都)で地震が起きた。これは確実に連動して起きた。

次の1605年は謎の地震と津波と言われるのはなぜか不可解である。
慶長三陸地震津波の前に会津で地震が起きて七層の黒川城が崩壊した
それはのカ月後にだった


1596-1611(慶長時代)は戦国時代でもあり地震と津波の時代だった
問題はこの一連の地震は関係しているのかということである。

中央構造線で起きた伊予ー豊後ー伏見地震は確実に関係している
一週間以内に起きたからである。

その次の1605年になると9年後げありこの地震と津波のことは謎である。
これがもし本当であったとすると怖い
なぜなら今回の熊本地震と中央構造線でつながり関東地方にも影響がでてくる
ただ慶長地震の場合は9年後だからすぐに影響したわけではない

次の慶長会津地震は慶長三陸地震の3カ月後だからなんらか影響したと思われる。
何か今回の熊本地震でも慶長時代とにている

ただその方向が逆になっている
東日本大震災は東北でありそして茨城県から東京とか関東にその影響があるのか?
そこは謎であり南海トラフの大地震から大津波につながるのか?
そして九州とかの熊本地震につながっているのかとなる
ただその間に10年とか時間差があると地震や津波は関連がむずかしくなる
人間だと10年一昔になってしまうからである。10年後に起きても関連づけるのはむずかしくなる
ただ慶長時代はなんらか巨大地震が多く一連のものとして起こった可能性が大きいのである。
それをあてはめると何か今回の熊本地震は不気味なのである。

地震がなぜ予測できないのか?やはり科学というのは法則性を求めている
その法則があてはまらない、変則的に起きてくる
地殻がどういうふうに関係して連動して起きてくるのかわからない
それがいつ起きてくるかもわからない、一年後なのか5年後なのか十年後なのかもわからない、第一巨大地震のあとには百年後まで余震が起きるとなるともう忘れてしまうだろう
ただ不気味なのは南海トラフの大地震と津波が警戒されているのは東日本大震災でも熊本地震でも両方からの圧力が地殻にかかっているかもしれない、そしてそこが空白地帯になっているから危険なのである。
だから30年のあいだに巨大地震が起きるというときそれは確率的に言えるとなる
今回のように東日本大震災や熊本地震があるとそれは慶長時代とにているから余計に心配になる。そういうことが慶長時代に起きていたからである。
タグ:熊本地震2
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2016年04月16日

空白地域で起きた熊本地震 (ここでも強い地震は起きないとされていた)


空白地域で起きた熊本地震


(ここでも強い地震は起きないとされていた)


90年のデータだけでは限界があるため、「自分の地域ではでかいのはない」
と、絶対に思わないように。安堵しすぎるのはかえって逆効果です。

なぜ熊本でもそういうふうに信じられていたのか?
これも百年単位とかで見ていると地震は起きない地域とみてしまう。
不思議にそれがだんだん信念までになってゆくのが人間だった
福島県の浜通りとかでも宮城県でも三陸以外はそうだった
すでに400年とか津波が来ていないからこの辺は津波が来ないとされていた


津波の空白地域に伝説が多いというとき宮城県の石巻辺りからは津波は来てない
慶長津波以来来ていない、そこで確かに伝説が多いとなる
それに注目して今回の津波を警告していた学者がいた
でも誰も本気で信じるものはいなかった
最近はボーリング調査で相馬市でも市街近くまで津波が来たことが証明された
それは貞観津波の砂だった。それを発表してから7年後に今回の慶長津波が来たのであるそれは科学的に証明されたから伝説とは違うのである
東京電力でも10メートル以上のつなみ想定していたのである。
ただその対策をとらなかっただけである

三陸辺りでは百年単位くらいで津波が来ているから津波の伝説は少ないというのはそれは時間感覚でそうなっている、伝説はそうしたリアルな体験が忘れられて伝説になる
要するに人間の時間感覚が短いことが最大の問題なのである。
人間の時間感覚はせいぜい祖父母の代までは現実に知っていているからリアルである。
でもその先になると現実感覚がなくなる、顔も見たこともないし例え親がその祖父母のことを語っても想像することによってしかわからなくなる
すると想像するということは何か誇大に解釈したり勝手に想像力で事実をまげる
小説のようにしたりする、事実が事実ではなく想像の世界に入ってしまうのである。
だから相馬藩で津波の時復興事業として中村(相馬市)に城を移転した、それは公共事業だったとか言う人がいた。それが有名な学者だったというのだからこれも変なものだったのである。
そしてそのことを公共事業としての城の移転と築城と相馬藩では津波の被害にあった人たちを援助したということを書いていた。
そんな事実が一かけらもないのに小説にしていかにも相馬藩では藩の民を大事にしていたかと宣伝していたのである。
事実はその逆であり津波の被害を逆に相馬氏が利用して戦国時代に支配を確立した
津波の被害者のために相馬藩で何かしたなど資料もなにもないのである。


人間の弱点は時間感覚が短いことなのだ。だから時間感覚の長い地球を相手にするときさらに誤解が生れる、それは地球というとてつもない長い時間で生成されたものを相手にするからである。
それは人間の有史以来までさかのぼる時間感覚なのである。
千年単位で起きることを知ることは容易ではない
人間は百歳まで生きてもそれしか生きていないからである。

なぜ熊本で地震が起きたのだ、ここには地震は起きない地域だ

これは福島県とかの浜通りでも盛んに言われたことなのである。
でも慶長地震と津波は400年前にきて700人溺死と記されていた。
空白地域はかえって危険だったのである。
長い間地震は起こらないとか津波が来ないという空白地域こそ危険だったのである。
なぜならそれはすでに次の大きな地震が起きる時期にきていたのである。
慶長地震津波から訳400年でこの辺にも大津波が来たからである。
「災害は忘れたころにやってくる」というときそれは人間の時間感覚が百年とか短いからなのである。
もし人間が長い時間感覚をもっていたら大災害はさけられる
そして長い時間感覚をもたないもの、文明とかでも危険になる


現代の科学技術文明は百年くらいで急速に自然の中で生れた、そこには相当な無理をしている
だから原発事故でも起きた、これは日本の自然と適合するのではない、地震が多いし危険なのである。稲作文明は自然と長い時間のなかで23千年以上のとかで日本の自然に適合したものなのである。
エジプト文明の三千年でもそうである。自然に適合した文明は長命であり百年くらいでは崩壊しない、それで縄文文明でも弥生文明でもマヤ文明でも千年以上とか普通であり寿命が長いのである。
現代文明の危険は自然と適合した文明ではないから寿命が短いから自然災害で崩壊しやすい危険も大きいのである。


とにかく日本ではここに地震が起こらないとか津波が来ないとか一つの固い信念のようになることは危険だったのである。
日本はもともと地震列島であり災害列島なのである。おそらく年号が変わりやすいのは災害をまねがれるためだったのかもしれない、平成と天皇が代わり変えた
それが皮肉なことに平成どころではなかった、それが願いにしてもその反対の災難の時代だった
天皇の役目が日本では自然災害が起こらないように八百万の神に祈ることでもあった
それだけ日本は自然災害が多い国だったのである。
そして今空白地域になっいるのが関東であり東南海地帯である。
ここでは大地震が大津波が起こると予定されている、それはここも地震や津波が長い間起きていなからである
ただ空白地域にならないのはここには人口が密集しているからみんなそのことで心配しているから注目されているのである、北海道辺りだと人口が少ないから被害にあっても日本全体にはさほど影響しないとなる、九州もそういうことがあった
東京が壊滅したら日本は終わりだとという今の事情が反映して騒ぐのである。
フクシマの原発も東京を守るために離れて作られたのである。
東京が首都でありここだけは死守せねばならないということでそうなった
そのために地方は犠牲にというなってもいいという国の意志であり政策だったのである。政治がそうさせたのである。


もしかしたら今安全なのは東北と北海道かもしれない

東北は今は余震もおさまった、巨大なエネルギーを放出した

関東は危ない

福島県も今は安全

放射能より地震で死ぬのが怖い

福島県や東北や北海道に逃げろ


これは冗談でないかもしれない、そういう危機が迫っている
タグ:熊本地震
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2016年04月13日

なぜ相馬藩では津波のことが記録されなかったのかー続編?


なぜ相馬藩では津波のことが記録されなかったのかー続編?

南海老村の中村城の天守造営にかかわった大工の伝説はやはり津浪に由来 (続編)


相馬藩の中世の館

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青い線で囲んだところが海側に港をもって勢力もっていた

藤金沢堤の傍らに塚あり、上元塚と名づく、六十六部回国上元なる者の塚という。
在昔村に匠人善次なる者あり、この如きこと数回なりという。記者言う、狐狸の如きもの怪か。

その後善次病死して棺を出す。時に大原村二森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで
雲中に入る。宝蔵寺の僧これを聞き走り来りり七重の袈裟を雲中に投ず。
声ありて曰く、「おいか」と。
棺おく雲散じ空晴れてこれを葬るという。是の世に希有のことなり。
知らず「おいか」とは何の言なるか。
ある人いふう葬礼の諸品を海水に洗えばすなわちこの怪異ありと。




相馬藩では確かに一行正式の記録として相馬藩政記に700人生波で溺死と記されているから慶長16年の津波の被害があった。
ただ正式な記録としてはこれしかないのである。
これだけの被害があったのにこれしかない、一方で戦で戦い誰が手柄をあげたとか世継ぎ問題とかは仔細に記されている
それより津波の被害のことをもっと記されてもいいはずである。


ただそこには当時の時代の影響があった。まだ相馬市がこの地域を支配していなかった。戦国時代であり戦乱の時代であり相馬氏が進出してきたのだがそのとき中世の館があり土豪が館を構えて各地を支配していた。
だからこの地方の歴史をたどるときはその中世からふりかえる必要がある
相馬氏の進出径路で書いたように相馬氏は小高から入って支配してきたのだが中之郷(原町)になるとまだ支配領域に入っていない、深野(ふこうの)とかは中世の館とつく地名が二つありそこで大原に支配地域を広げた。そこはまだ開墾されていない大原だったからである。
それから大原→小池→栃窪という径路で支配してきている
栃久保には相馬氏の家臣が入ってきているからである。
そして柚木も相馬氏の支配地域に入っていた。

つまりそれ意外は相馬氏の支配地域に入っていないので抵抗勢力として残っていたのである。
その中世の館をもって支配していた土豪は海岸線に勢力をもっていた。
それは鎌倉時代にもすでに船が使われて商業が行われ貿易が行われていた。
海岸線には港の機能がありそこに力を土着の豪族が住んでいたのである。
だから小高でも岡田氏がいて岡田館があり岩松氏の伝説でも鎌倉から船で烏崎に来て今の館に住んだ、その時船で来たとあるから船がすでに運行していた時代なのである。
ただ岩松氏の場合は磐城から船で来たらしいという説がある。
それにしても太平洋の荒い海をすでに船が荷物を積んで運行していたのである。
岩松氏が屋形に住み最近津波の跡に主に鎌倉時代の住居跡が発掘された。
つまり海老村は蝦夷のエヒから来ていて弥生時代の縦穴住居もあったということは古くから人が集まり住んでいた場所だったのである。そういう適地だったのである。

ではどうして相馬氏の相馬藩に津波のことが記されなかったのか?
そのことを解く鍵は中世の屋形の配置を見ればわかるし岡田氏とか泉氏は
相馬氏の支配下にはいったあとでも有力な相馬藩の地位についていた。
そして相馬氏の進出径路でわかるように中世の館のある海岸地帯は相馬氏は進出できなかった。
津波が来たとき被害を一番受けたのはこうした港をもっていて船ですでに貿易していた豪族であった。相馬藩政記はあくまでも相馬氏の記録でありこうした中世からもともと住んでいた土豪の記録ではない、だから相馬氏が戦いに勝ったことなどを仔細に記録しているのである。手柄話である。誰でも戦争では手柄話がしたい、それが話題の中心となる。
でもそれはもともといた中世の館をもって支配していた人たちがいてその人たちの関心はまた違っている
でも記録するのは相馬氏でありそうした土豪達ではなかったのである。

そして唯一津波の被害にあった当時の状況を語るのがこの伝説なのである。

中村城天守造営の時日々中村にいたり造工たり。
深更に及び家に帰る。円光塚よりいず。転々として大いなること茶銚のごとし。
その光青色なり。また垣の如きもの路に横たわる。善次中刀をぬきこれを切って
通行す、

天守閣造営のときとあるからこれはまさに相馬氏が中村に城を移して天守閣を作る時だったから慶長津波のすぐ後のことである。
ビスカイノの残した記録に中村にたちよりその時城を再建中だったというとき城の工事がはじまっていたのだが地震が来て破壊された、その時津波の被害もあったのである。

相馬利胤にビスカイノが建築中の建物が破損して再建中とあり中村の町も「海水の漲溢により海岸の村落に及ぼした被害の影響を受けたり


岩本氏の指摘ではそうなっているからこれは明確に津波の被害が地震の被害があった
でも利胤は津波については何も記していない

だからまちがいなく慶長津波の被害を語っているのである。
そういう大きな被害があり津波の被害があったときまだ相馬氏が支配した領域は狭いのである。小高は先に支配したとしてもあとは大原→小池→栃久保(栃窪)とかであり磯部館がありそこに佐藤氏が勢力をもち鬼越館を築いた。伊達氏との勢力争いもあり相馬氏は実際はそうした回りの勢力との戦いで精一杯だったのである。
そして津波の被害にあったのはそうした昔からもともといた海側に勢力をもった港をもっていた豪族だった。
その中世の館をもった豪族が慶長津波の被害を受けた。つまり相馬氏が進出する時、そうした勢力が津波で弱体化したのである。それは相馬氏にとって都合がいいものだったのである。
別に相馬氏の被害にはならないのである。今のように南相馬市全体という感覚は支配も政治も成り立っていないからである。
相馬氏はこの一帯を支配するために戦いに勝つことが一番大事だった
となれば当然そうした戦いのことを仔細に記録する、でも津波のことは相馬氏には打撃にならなかったのである。かえって好都合だったのである。
これは相馬藩ということが成り立たない時代だからそうなったのである。
伊達藩ではすでに津波にあった地域は支配下にあるからその被害が伝えられた。


ある人いふう葬礼の諸品を海水に洗えばすなわちこの怪異ありと。


海水でなぜ洗うのか?それは津波に由来しているのである。普通海水では洗わない、でも津波のときは海水で洗ったとなる。そういう津波の記憶がそうさせているともとれる
ここは何か津波をイメージさせるのである。

そして重要なのは相馬市の諏訪神社に津波の船つなぎ伝説とか残っている、それは全く根拠のないものでもない、なぜなら小泉川を津波が押し寄せればそういうことがありうる
津波の特徴はいろいろあるがまず川を遡るということに注意しなければならない
そして土手がないときだと津波の水が平地にあふれるのである。
真野川でも津波が上ってきたから危険だった。
でも真野川は河川改修して川幅を広くして土手も頑丈にしたのである。
その前は二回もこの辺では水害にあっている。真野川の下流は土地が低いのである。
岩沼の千貫山神社の繫船の伝説も当時の阿武隈川との関連で川を遡った津波でそこまできたということもイメージ的には無理がないのである。
大川小学校の悲劇も川を津波がさかのぼってきて起きたのである。

海老村の大工の善次の伝説は当時の状況を語っている、海老に津波があり大工の善次はそのことが気にかかっていた、でも相馬氏から中村城の天守造営にたずさわるよう要請されたことで悩んでいた。
天守閣造営より当時の中世の館をもって支配していた土豪の命令に従いたかったということもあるしそう命令されたこともありうる、屋形には二つの中世の館があり一つは寺である。寺も要塞だったのである。そういう中世のもともと支配していた土豪の支配下にあり一方で相馬氏が進出して天守閣の造営を命じられて板挟みで悩んでいた。
そこに津波も来て複雑な心境になっていたのである。
大原と関係していたのはまさに相馬氏が進出してきた径路にあり相馬氏の勢力が徐々に広まっていたのである。その圧力は大きなものになっていたのである。
それでこのような伝説が生れて残ったのである。


それから柚木も相馬氏の支配地域にはいった所でありそこに八沢浦での津波の伝説が残っている、「急ぎ坂」とかてんとう念仏などの伝説である。
これはやはりリアルな津波を経験した表現だから信憑性がある。
ここで注目せねばならないのは柚木でもそこは相馬氏の支配下にあったところであり中世の館をもった支配下から相馬氏の支配に移った場所なのである。
諏訪神社の船繫ぎ木の伝説も相馬氏の支配下になったときのことである。
それに何が意味があるのかとなると中世の館をもって支配した領域には津波の伝説は残っていないのである。
ただ双葉にも津波の伝説らしいものが残っている、でもそれが津波に由来するかどうかは不明である。魚畑(いよばたけ)という大熊町史にのっている魚が泳いでいたというけどそれは津波なのだろうか?
なぜなら大熊は相馬氏の支配地域に慶長津波の時は入っていない、それでもそうした津波の伝説が民間で残ったのか?その辺がまた謎になる

ともかく戦国時代の影響で津波のことは余り語られなかった。侍は戦争のことが一番大事であり相馬氏にとっては土着の中世の館をもって支配する土豪の地域は詳しく知ることができなかったのかもしれない、それでおよそ700人溺死とか記しただけだったとなる
この海老村の大工の善次の伝説を読み解けば津波のことが明確になるかもしれない、
とにかく問題はあまりにも資料がが少ないということだったのである。


相馬氏進出の経路 (文禄二年・寛永十八年総士録古支配帳に出てくる地名から探る)
タグ:津波の記録
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2016年03月23日

2016変化する相馬市南相馬市(写真)


2016変化する相馬市南相馬市(写真)

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津波の跡の磯部のソーラーパネル

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磯部水産加工場

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美里(南相馬市鹿島区)

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絆診療所



相馬市松川浦に新しい水産加工場ができた。ただまだ放射能汚染でこれからどうなるのか、でも新しい建物が建つことがこの辺は多い
磯部は一面がソーラーパネルになった。あれだけの大規模なソーラーパネルは見たことがない、あそこの土地利用はソーラーパネルしかなかったのだろう
もう何にも使えなくなった。山の奥の方にもソーラーパネルがありそれが景観を乱しているので嫌なのである。

相馬市と南相馬市は違っている。相馬市は普通に田んぼもあり米も作っていたから変化がなかった。
ただ津波の被害は大きかったのでその変化は激しかった。
この辺には百軒くらい新しい家が建った、結構いい家である。
値段は土地付きでいくらくらいしたのか?5千万くらいはしただろう。
土地が高くなったからである。ここに家を建てられたのは裕福だったのだろう。
ただ津波の被害にあった人は借金して建てたとういうからみんながそうとはならないだろう。
ただ外部からも原発避難区域の人も入ってきているからいろいろだろう
ここは本当に新しい町となってしまったのである。
美里団地などというのもまさに東京とかとにているのである。


南相馬市の鹿島区では「絆診療所」/か新しくできた。これは小高の医者である。
前が日当たりが良くて広いからいい感じである。
ここでは開業医は二軒しかなかった。一人は年取っていた。
でも今度前に整形外科をしていた所が「心療内科」になるという
医院としてすぐに使えるからいい、雲雀が原の精神病院の医者がここで開業するという
心療内科というと何かこの辺ではめずらしい、原町にはあった。
家族が認知症になりみてもらった。心療内科というのは現代的なものなのだろう。
ただこういう専門医院が一万くらいの町にてきるのはめずらしいと思った。

この辺は変わり方がとにかく激しい、ただ人間の社会は常に変わっているから変わるのだけど津波とが原発事故はその辺かを加速したのである。


タグ:磯部
posted by 老鶯 at 14:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2016年03月11日

東日本震災からの復興をばばむ高齢化社会 (帰るのは残るのは老人)



東日本震災からの復興をばばむ高齢化社会


(帰るのは残るのは老人)


今日は東日本大震災のテレビ番組を見ていた。
そこで感じたのは高齢化して老人が多くて復興ができない
三陸の漁港でも跡を継ぐ若い人がいなと嘆いていた
それは前から言われていたことであり震災で顕著になった。

三陸の乾坤式場はビルが高いから三階より上に逃げて全員助かった。
その助かった300人くらいの人は老人だった。
老人の芸能発表会をそこでしていたからである。
それもなんか生き残ったのはいいが老人だからその人たちが復興の力になるとは思えないそれから水産加工場を再開しても人手がたりないとかで困っている
それで外国人の労働者が働いていた。
南相馬市でも外国人専用の宿泊所が作られたた。
ここも除染関係とかで人手不足なのである。
建築関係も人手不足でありこれは全国的にそうである。


奇妙なのは津波で死んだ人は老人が多い、その理由は津波など来ないと逃げろと言っても逃げない人が多かったのである。
津波など来たことがないから来ない言い張って逃げなかったのである。
それは老人だけではない、津波が川をさかのぼってみるみる水かさをましたのに逃げないで見ていた人がいた
この辺でも磯部辺りで津波を見に行きに海に行ったという人が結構多い
津波はチリ地震の津波しか知らないからそうなった。
津波の恐ろしさを肌で知っている人はいなかったのである。

ともかくいろいろ放送していたが高齢化社会というのが今回の復興するにしても大きな足かせとなっている
自分も老人だからわかる、津波の被害地に商店を再会するにしてもそれだけの金をかけて借金してまでしてやるとなると不安でありできない
ある人は学習塾をはじめるのに一千万の資金がかかるが用意するのが大変だけどここで自分は生きるから再会するとか言っていた。
そこでもそもそも少子高齢化で子供が減っているのだから子供相手の商売がしにくくくなっている
小高でカバン屋をしていた人も中学生とか高校生にカバンを春に売るからいいと言っていた。
それは定期的な収入になるから商売になる、やはり商売は定期的に収入にならないとつづかない、定着できないのである。

ともかく小高のことを批判してきたが整形の開業医が放射線量が0、1なので帰る決断をしたという、小高は街内とかは本当に低いから帰れる
でも問題はすでに各地に避難して生活も避難した場所ではじめている人もいる
帰るのは一割くらいしかいない、その一割が老人が多いのである。
そういうことでどうして復興できるのか、少子高齢化社会の矛盾が露骨にこの辺では現実化したのである。
そして街が暗くて防犯に良くないというのもわかる
一割帰っても街は相当に暗くなることでいやがっている

ただ原発避難者は他の津波の被害地域より恵まれている、母子家庭のことを言っていたが本当に賃金も10万に満たないとか安い、もう生活できるかできないかのギリギリである復興住宅に入っても金がかかるとか嘆いている
この辺でも老人が多いから国民年金で暮らしている人が多いからもっと補償金を継続してもらいたいという虫のいいことを要求している
それは別にみんな同じなのである。原発避難者だけがいくらでも補償金がもらえるということは今でも回りの人から反発を受けているから自重すべきだろう。


自分の考えでは地元の人たちだけでは原発避難区域などは復興するのは無理ではないか?
第一双葉とか大熊などはもう帰るということはない、他に家を補償金で建てた人が多いからである。
そこは今度は放射性廃棄物場として土地を売ることになる
それで神社だけを残してほしいというがそれも無理なみたいだ。
するとその地域の歴史は消失する、でも他で十分に老後を余裕をもって暮らせる補償がある
だからその人たちは余裕がある、かえってこれで老後も補償されたから良かったと思う人もいるだろう
一方で小高などは中途半端なのである。確かに補償金もらったがすでに打ち切られている今度は復興住宅に入っても家賃とかいろいろ金がかかる、帰っても不便であり嫌だいうのもわかる。

いづれにしろ少子高齢化社会で政府が移民を受け入れるとか盛んに言うがそれも無視できなくなっている
限界集落とか過疎地とか原発避難区域でも津波の被害地でも若い人がいなければどうにもならない、するとどうするかというと移民でもいれる、外国人をいれて労働力を確保するとか考える、何か他に方法がないからである。
例えば原発で放射線量があまり高くない所は住居と空いた土地を提供すれば住む人がいるかもしれない、なかなか家とか土地が提供されないので移住できない人も多いからだ。
田舎に住みたいという人はいる、そういう人も受け入れるとか何か復興させることを考える必要がある
こういうふうになるともう追い詰められているのだからやる他ないともなる
だから新しいものを取り入れるチャンスでもある

老人の心境とはどういうものかというと要するに人生は終わりである。
ただ昔を回顧することであり思い出を生きるのが老人である。
そして老後の時間は実は意外と貴重なのである。
なぜなら残り少ない時間をどう費やすかが大問題になるからだ。
例えは芸術家とかなると最後の作品の総仕上げであり時間が貴重になる
自分は介護に十年間費やしてその間旅ができなかった。
その時思ったことがもう一度富士山を見たいということだった
それもできないのではないかと真剣に思っていたのである。


とても新しく街を復興させるとかに時間を費やすことはできない
自分でも望むことは難儀な復興のことではない
これまでしたことをライワークを完成することである。
だから震災から5年すぎたけどまた帰って復興するのに五年かかるとかなると
もう死んでいるかもしれないとなる
つまり復興するにもも老人は復興できない、ただ昔を偲ぶだけだからである。
老人の時間感覚は時間が過ぎるのが早いことも影響する
5年すぎたけど後五年復興するのにかかるのか?そんなに金を費やしてももう年でできなくなる、借金だけ残ったらどうするのかなど言っていたこともわかるのである。
そのうち体も弱り動けなくなるとか心配する
このことが少子高齢化社会が津波の被災地でも原発避難者にも共通して復興をむずかしくしているのである。




posted by 老鶯 at 19:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係