2017年04月27日

「地震考古学」大地の痕跡、防災に生かす 京都新聞の記事に南相馬市の津浪の研究報告


「地震考古学」大地の痕跡、防災に生かす


京都新聞の記事に南相馬市の津浪の研究報告


京都府教育委員会から福島県南相馬市に派遣され、1年間発掘調査を支援してきた府教委の古川匠さん(38)は、南相馬市での住居の変遷に着目した。東北では平安時代の貞観地震(869年)での津波の被害が知られるが、約2千年前の弥生時代中期にも大地震で巨大な津波で被災した。発掘調査によると、地震後、弥生時代の集落は津波を恐れてか、高台に多く作られていたことが分かる。

高知県須崎市のただす池の約 2000 年前の津波堆積物の中から土器片を発見したことである。須崎市は歴史的にも繰り返し大きな津波被害を受けてきた地域であるが,すでに約 2000 年前,弥生の人達がこの地で生活を営み,大きな地震と津波に遭遇
していた。

水田をつくるのに適した湿潤な低地をのぞむ微高地や台地部に立地するのが一般的です。10軒内外の竪穴住居に倉庫(前期は地面に穴を掘った貯蔵穴、中期以降は高床倉庫)、少し離れた場所に墓地というのが一般的な集落のすがたです



この記事の詳細はわからない、ただ京都からも研究員が来ていた、ただ弥生時代になると2000年前となるとそれを今知るということは容易ではない
例えば海老にも弥生時代の住居跡が発見されたからあそこは相当に古い時代から人が住んでいた。弥生時代となると古墳時代より古いのである。

水田をつくるのに適した湿潤な低地をのぞむ微高地や台地部に立地するのが一般的です。
南相馬市の鹿島区では寺内から小池が一番これにマッチしているのである。
弥生時代から寺内、小池はそういう適地でありたからこそ古墳が多いとなる
ただ桜井古墳の一は相当に海に接していた、新田川にも接していた
そういう地の利がありあれだけ大きな古墳が作られた
なぜなら津浪がその古墳の手前まで来ていたからである。

ただ2000年前の中期の弥生時代に大地震で津浪で被災した

そのことが明確に立証できているのだろうか?

そしてその後高台に住居が多く作られたとあるがこれなども詳細がわからないからわかりにくい。ただ相馬市では貞観津浪の痕跡が発見されていた
海の砂がボーリング調査で海から離れた奥で発見されたからである。
貞観津浪というのは史書にも明確に残されているし科学的調査もされていてその被害もわかっている。
ただ慶長津浪となるともう一つ記録的には明確でないし科学調査もまだ不十分なのである小高と浪江では貞観津浪の痕跡が発見されている
つまり今回と同じような地域で巨大な津浪があったことは明確なのである。

だから弥生時代にさかのぼり津浪のことを知るのは容易ではない、海老も高台であったからあそこに津浪がくるとはみんな思っていなかったのである。
それで海老の崖の高台に避難して30人くらい死んだのである。
その原因が崖になって高台になっていたから海に接しても津浪が来ないとして前から避難先として指定されていたのてある。
それほど津浪については市でも知らないからそういう重大な過ちをしていた

ただその後ろが森になっていてその森に逃げたら助かったのである。
その森の木につかまり助かった人もいたし右田から必死でその高台目指して逃げて森に逃げて助かった人がいたのである。まさに九死に一生を得たとなる
海老は右田などからすれば高台だから安心していたのである。
高台だからこそ弥生時代から住居があり人が住んでいたとなる
その弥生時代でも巨大な津浪が来たら大きな被害があった
ただ小高で考察したように縄文時代に住んでいた地域には津浪は来ていない、そういう場所に住んでいたからである。
新地の貝塚でも高台にあり海から相当離れている、貝などは海にきてとったとしても住んでいた場所は高台なのである。それで手の長い巨人が住んで貝をとって食べていたという伝説が残っている

いづれにしろ津浪とかなると2000年単位くらいでみないとわからないものだったのであるその時間の感覚が人間にとってはとてもリアルに感じられないものとしたのである。
だから相馬地域では津浪は来ないという確信とまでなっていたのである。
自然の時間感覚はこのように長いのである。それに人間が合わせることは容易ではない
今回の巨大な津浪でクローズアップされたからこそ弥生時代の2000年前の津浪のことまで調べるようになった。

考古学でも津浪のことが今回の被害でテーマになった。ただ海老に弥生時代の住居跡があるとして次に鎌倉時代の住居跡もあるとしてその後に起きた津浪、慶長津浪がどう影響したかはわからない。慶長津浪のことは相馬地域でも700人溺死したとしか記録がなくわからないのである。だから謎になってしまっている
貞観津浪は記録でも考古学的科学的調査でも明確になっている、慶長津浪については不明確なのはなぜなのかともなる

郷土史などでも2000年単位でみないわからないとなる、ただそうなると2000年前に巨大津浪が来ていたとしてもそれで警戒する人はいないだろう。
貞観津浪は800年頃であり奈良時代であるから記録にも残った、弥生時代となると記録にも残らない時代である。そういう時代を知るとういことは容易ではない
地層を調べるとかなると化石時代までもさかのぼる、そういう時間感覚になると人間は弱いのである。第一300百万人が死んだ70年前の戦争さえ現実と思えなくなっていることでもわかる、そんな大惨事でも人間は忘れてしまうからだ。
その人たちは異国に死んでその骨は埋まっていても拾う人もない、北朝鮮では日本人が埋められた墓があったがそこは畑になっていて一部が辛うじて残っていたのである。
70年前のことさえこうして忘れられるというとき2000年前をリアルに感じることはできないのである。

人間は死ぬとたちまち忘れられる、そんな人が生きていたのかとまでなる、思い出す人もわずかでありやがては全く忘れられるのである。
そして自分のように墓に記された名前と死亡年月を見たりしてその人を知るとういだけになる、人間は常に目の前の現実と戦い生きているから過去は忘れやすいのである。
でもその現実もすぐに過去となってゆき忘れられるのが運命なのである。


南相馬市小高区福岡で津波のボーリング調査 (十和田湖カルデラ火山の灰の下から貞観津波の砂を発掘)

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2017年03月02日

松川浦の現在の情況 (松がなくなり日影がなくなった)



松川浦の現在の情況

(松がなくなり日影がなくなった)

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前の船溜

春の光がまばゆく反射していた

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まだ残っていた一本の松

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松を植えた所は広い、ここはもともと松原だった

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中島への橋ができていた

クリック拡大

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前の松原の道




仙台から来た人が松の苗を植えていたけどあそこ広い、もともと広い所だった
何にもなくなった、潮が引いて松川浦に一本の松が残されていた
磯部でもなんにもない、津波の恐ろしさは何もなくなる
それも一瞬でそうなったから恐ろしい 

あそこに家があった人はただ茫然としているだけだったろう。
人間は家族でも死ぬとただ茫然として力をぬけてしまう
津波だと余計にそうなった、家だけではない村自体が消失したからである。
あそこに昔を偲ぶものはない、集落があったところにも松を植える
あとはソーラーパネル場になった。

船溜は船がもどって何艘か漁をはじめている、あの辺には結構家があったけど何もない
あの松が育つには時間がかかるしそのうち老人は自分でも死んでいる
中島に橋をかけたが松が育たないと景色が良くならない
景観まで全部破壊されてしまったのである。

そして海があっても松がなくなり日影がなくなった
だからソーラーパネルでも暑く感じるし日影ないので夏でも休む所がないのが問題である。
景観も松がないので殺風景になったのである。
自分は右田の松原の日影で暑いとき休んだいた、クーラーがなしでもいい場所だったのである。
だから夏になってもこの辺は海が涼しいとしてもそうはなっていない
そして松が育つまでは時間がかかるから困るのである。
生きている内に松が育ち木蔭ができるのを見ることはできないとなる
それが残念だとなる
タグ:松川浦
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2017年02月28日

右田がメガソーラーパネル場になる 交差点の道路で警備員と話していたら地震になった


右田がメガソーラーパネル場になる


交差点の道路で警備員と話していたら地震になった

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右田がメガソーラーパネル場になる-クリック拡大ーパノロマ写真

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第二の津波を防ぐ堤防

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津波から六年目で切った木の根からまた芽がでて伸びていた



右田の広大な津浪の跡がメガソーラー場の工事をしていた、半分くらいはできた
何に利用するのかと思っていたがソーラーパネル場だった
磯部でもソーラーパネル場になったからここもなった

大成建設が請け負い子会社が仕事しているという、あれだけの広さだと大きな建設会社でいなとできないと思った、ただ大成建設が請け負ったとしても電気関係だから子会社に仕事をやらせている

その警備員はいろいろ話した、亘理の鳥の海から来た人であり津浪の被害にあったという二階の家で二階に避難して助かったという、亘理というとここから近い、高速道路ができたから通うとなればできる、サントリーの関係の仕事をしていたが津浪で流されてなくなりこっちの仕事に来たという

「この道路は津浪を防ぐために高くした、次の津浪を防ぐのはあそこの堤防なんですよ」
「この道路は幅広いから津浪を防ぐにはいいでしょう」

津浪は三段階の堤防で防ぐことになる、それから高台も海岸沿いに作った、津浪にはこれだけ備えたから今度防げると思う

その右田の交差点で警備員と話しているとき地震が来たのである。
道路がぐらぐらと結構長くゆれた、信号もあったが電信柱がゆらゆらゆれた
道路があれだけゆれたということは相当な大きな地震だったのである。
なんかこの前も地震がありまた地震がこの辺で増えてきた。

ともかくあそこは車がひっきりなしに通る、原町の方は通行止めになっている
地震を警報するアナンウスがスピーカーから流された、震度5弱ときいてそれくらあると道路のゆれからは感じた
あんなに道路がゆれるということは怖かったからである。
家だったらもっとゆれていたことは確かである。
何かこの辺は不気味である。まだ余震があり大きな地震が津浪さえくるかもしれない
それも原発の祟りなのかもしれない、神に呪われた場所なのかとさえ思ってしまうのである。

ともかくあれだけのメガソーラーパネル場ができると人の出入りがある、それでまだ工事関係者が入っている、それで福島県全体でも倒産件数が全国で一番低いのである。
ただその工事も一段落したということで補償金がもらえなくなり会社経営も苦しいと訴える人がでてきている、これからはやはり工事が減れば外部から入る人もへりその関係で経済の活気もこの辺では失われてゆく、そういう傾向はすでに現れているのである。

ただメガソーラーパネル場を見たときまだ大きな仕事があったとのかとみる
ただこれはそんなに時間はかからないみたいだ、組み立てるにも時間がかからないから長くつづく工事ではない、だから後は保守点検だけであり人手はそんなにいらないだろう。ただソーラーパネルがどれだけ収益になるのかはわからない、どれだけ発電力があるのかわからない、その材料が産業廃棄物となるからやはり環境破壊だという人もいる
環境破壊にはコスト的にそうだから原発とは変わりないという人もいる

ソーラーパネルというと自然であり環境破壊しないようで後始末するとき環境破壊になるそして長い間使っていると自然の風雨にさらされて傷んでくるからどれだけもうかるのかはコスト的にはどうなのかは疑問を呈する人もいる
ソーラーバネルで植物工場を経営した人も採算がとれないとかでやめたという報告もあるだからなかなかうまくいかいないのかとも思う

この辺はやはり以前として変化なのである。右田がソーラーバネル場になったのもそうである。風景が右田の松原であったのとは余りにも違ってしまった。
景色的にはいいものではない、でも土地を活かす方法がないので磯部と同じくソーラーバネル場になった、土地をもっていた人もそれで金になることもあるからだ
ただコスト的に採算がとれるのかどうかは長い目で見ないとソーラーバネルの場合はわからないとなる



村民らは今月1日、手仲村長が林地開発の不許可を府に求めるべきだとして、723人分の署名(うち村内在住者367人分)を村に提出した。同保育園に子どもを通わせる母親は「なぜ、保育園や小学校の近くで大規模な開発をするのか。理解しがたい」と眉をひそめる。

飯館村の草野でもソーラーパネルがしきつめられていた。それが何か前の素朴な村の感じを喪失さはた、景観的に似合わないのである。
それと有害なこともあり環境破壊にもなっていた
それで実際にそこに住む人が保育園などがあるから反対していた
ソーラパネルも実際に反対する人たちがいた。
ただやはり税収があり村としては今になると収入を得たいとなる
それは結局原発とにている、有害でも金がほしいとなる

右田の場合はあそこには人が住んでいない、磯部でもそうである。だから反対運動は起きないからいい、でも昔の松原の景色からすると環境的にはいいものではない
夏だって涼しいという感じはなくなる、光が反射して暑いとなる
海老の方はソーラーバネルがないのでいい、田舎はまだ広いから自然空間があるからそういう場所はさけるほかない。あそこは将来的にも憩いの場所とはなりにくくなった。

この辺は小高でもそうだが浪江でも空き地になったところがソーラーバネルとかになりやすいのである。土地が活かせないからそうなる
そこにも問題があった、どうしても利益優先になるから反対できないのである。
どっちにしろ人間が作り出すのもは環境破壊になるのである。
風車の発電でもそうである。音がうるさいとかあり現代の技術は環境にはやさしくないのである調和しないようになっているのである。



大成建設、短工期・低コストを実現した杭基礎架台「T-Root」を共同で開発

大成建設は積極的にソーラーバネルの開発をしている
杭基礎架台というのは建築会社の専門となるのだろう。
電気は電気で他の会社と提携している


posted by 老鶯 at 18:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

原町区の上渋佐で死んだ人は全部65才以上だった (津波で淘汰された老人)


     
原町区の上渋佐で死んだ人は全部65才以上だった


(津波で淘汰された老人)

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全部死んだ人は65才以上だった



 東日本大震災の死者のうち60歳以上の比率は64.4%であり、東北3県沿岸市町村人口の同比率30.6%の2倍以上となっている。60歳代、70歳代、80歳以上の比率は、人口比率のそれぞれ1.4倍、2.3倍、3.3倍となっており、高齢者ほど死亡率が高くなっている。津波被害から逃げたり脱出したりする困難性が加齢により大きく影響を受けた様子がうかがわれる。地震の発生した金曜日午後には通勤者は自宅にいなかった場合が多いことも影響していると考えられる。また同じ年齢階級で男女を比較すると男性の方が高い倍率となっており、車中での溺死者や数波にわたる津波の間に自宅に戻った者に男性が多かった、あるいは女性を優先して逃れさせた様子もうかがわれる

高齢者が死んだ人が多いというときそもそも高齢化社会であり老人がどこでも多いから比率的に死ぬ割合も多かったのである。
でも上渋佐では65才以上でありそれ以下の人はいなかった。もともともこの辺も老人が多いからだとなるのはわかる。それにしてもこれだけ老人が多いということはその理由は何なのだろうとなる
気にかかるのとグラフで50才の人も多く死んでいる、これは50才の人も人口比率で多いからである。


若い人が通勤していて若い人とともに逃げられなかった。車を運転できない老人も多かったからなのか?今は農村部でも会社員になっているのが多い
すると一日家にはいないのである。その時若い人がいないから老人は対応できなかったのかとなる

若い人でも家族が心配でもどりそのために死んだ人もいる、老人が家に残っていたからである。これも順序が逆だったと思う、若い人は生き残るべきだった
老人は経験があるからというが津波の場合はそんな経験をしていないからかえって津波なんて来ないよ、来たことがないとか言って逃げない人もいた

そして言われるのは介護しなくて嫁は得したなとか言う人もいる、そういう時代でもある高齢化社会というのは何か自然の摂理とも反しているのである。
高齢者のために若い人が介護して犠牲になるというのは自然の摂理に反している
自然では子孫を残すために莫大なエネルギーが費やされている、卵子も膨大に生むし鮭などは産卵が終わったら役目を終えて死ぬ
自然は次代の命の方に関心がある、老人とかだけではない、群れのなかで弱ったものは他の動物の餌食になる、そうして種の保存が成されている

人間でもやはり次代のために子孫のためにエネルギーがそそがれる、子育てがそうでありそれが苦労でも苦労ともならない、次世代のために人は働いているのである
今苦労して働いたとしても恩恵を受けるのは次の世代である。
自分など遅かったが遺産をもらったというとき親が苦労して残した金を自分が使うのであり親ではなかったともなる

だから老人のために若い人のエネルギーが使われるのは何か自然の摂理に反しているのである。そういう社会は異常であり未来を作らない社会である。
もちろん介護というとき個々に事情があり家族も関係しているから社会的問題として考えるとき、社会的に考える時は違っているのである。
自分は親には特別良くしてもらったから必死で介護したのである。でもそれが社会にやはり負担をかけたりしているから自分だけの問題にはならなかったのである。

ともかく親であっても老人を助けるために若い人が死ぬというのは自然の摂理に反していた。なぜなら若い人が死ねばその村なり町なりが維持できなくなるからである。
そういことが津波の被害地であれ原発の避難地域であり起きているからだ。
津波でもやはり無情になるが老人は淘汰されたのは自然の摂理だったのかともなる

そもそも老人は何かこうした災害であれ変化に弱いのである。それで原発事故で死者がないというが関連死が多いのである。避難先で死んだ人が多いのである。
それは老人は変化に弱いから適応できないからそうなる
若いときは適応力があるからそうはならない、そういうことはいろいろなことで起きる
海外旅行などは自分は50才でしたから四苦八苦してしてきた
海外旅行は別に言葉ができるかできないかではない、どこでも英語が通じる訳でもない
一番大事なのは異なった世界での適応力なのである
だから言葉ができなくても海外旅行はできる、若い人は勘がいいからその場のことが勘でわかるからできるのである。
老人は適応力と勘が鈍くなるから言葉と関係なく適応力がなく海外旅行でも苦しむのである。

だからつくづく

「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない、
唯一生き残るのは変化できるものである」ダーウィン

これが自然界の掟でありまた人間界にもあてはまるのである。
それが津波とかでも起きたし原発事故でも起きている、この辺の復興をどうするかというとき街自体が村がが消滅する危機になっているときそれに対処することができない
その大きな変化に老人は対処できない、ただ故郷に帰りたいというのわかってもこれだけ変化するとその変化に対応できないのである。
だから震災関連死で死ぬ人が多かった、でもそれが自然の摂理だともなる
老人は復興の足かせにもなるから淘汰されるべきだともなる
それで女川では老人は口だすなと言って街の復興に取り組んだのである。
何にもなくなったのだから全く新しい発想が必要になったからである。

双葉辺りで病人が老人が病院に置き去りにされたというときもその非は大きいにしても若い看護師が率先して逃げたというときもそうである。
やはりそれも若い人は生き延びるべきであり死にかかった老人は捨てられてもこういう場合は特別だからしかたがないという見方もある。
自然の摂理は子孫を残すことであり子孫の繁栄なのである。すると子供をもっている若い母親は放射能が危険だとなると異常なほど危機を感じて自主避難までしている
それは次代のものを育むのが母親だから自然の摂理でそうなったともなる

自分も親戚だったけどそういう経験をしている、病気の人を見捨てて登山とかしていた。それで怨まれたということはある。でもその時登山して疲労困憊して何もできなかった。自分は体力がないから登山は辛かったのである。
でも自分はその時登山して良かった、今になると体力的にできない、自転車旅行だって遊びだと言ってもできないからである。
つまり老人のために若いときするべきこともしないとしたら親でも怨むようになるだろう自分は介護してもしたいことをさせてくれたら怨まないし介護をしたのである。

高齢化社会の負担は社会的にも大きいしそれが若い人の負担となるのは問題なのである。だから何かのきっかけで自然災害であれ老人は淘汰されるかもしれない、自然は神でも次の世代、子孫の繁栄の方を望むからである。
だから老人にもいろいろ人がいても子育てが終わった老人はなんのために生きているのだろうと疑問を呈する人がいても不思議ではないのである。
ただ老人全般ではそうなるが家族があり個々の事情が違っているから等しくは考えられない、でも自然の摂理はやはり子孫を繁栄させるために淘汰するということか働く
それは非情にもなるがそれが自然の摂理だともなる

ともかく変化に対応できないのが人間にとっても致命的なのである。現代は技術的にも変わりやすいから特にそうなる、変化に対応できないことが致命的になる。
ただ老人にも強みはある、経験は役に立つし洞察力は高まるなど若い人よりかえって創造力があるともなる、自分のしている抽象画は現代の最先端の技術からartから生まれたのだがでも自然を見る目を養ってきた経験からも生まれているのである。
だからすべて若い人が有利に働くとは限らないのである。

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2016年11月22日

津波は起きた時間(朝、昼、晩、夜)で被害が変わる (浜通りに一早く津波警報がでる)


津波は起きた時間(朝、昼、晩、夜)で被害が変わる

(浜通りに一早く津波警報がでる)


今日は六時ころ地震が起きた、相当に大きい地震だった。でも物は落ちない、あの時はバタバタと物が落ちて立っていれないほどの地震だった。
本がバタバタ落ちたので足の踏み場もなくなった。
わたわたしていてすぐに時間が過ぎた。

今日の地震は最初3メートルはくると言ったがが海の方に行くなと言われた自転車で見に行った、津波の被害にあった家の人が車で避難していて海の方に行くなと言われた。
それで一旦引き返したがまた海老の方に行った。あそこは高いからである。

考えたことは早朝の起き抜けに地震が起きた、それからすぐ津波警報があり3メートルの津波が来るとありすでに津波がきていた。
ただ3・11の津波では最初3メートルであり次にすぐ6ーメトルであり次に10メートルとテレビで放送した。まず6メートルは非常に危険になる
もうすぐ逃げないと助からないレベルである。
でも3メートルとなるとそれほどの危機感を感じない
地震でも5弱と7では相当に差がある。

ただあの津波を経験した人は3キロ先でも避難した。
前から怖がっていたからである。
人間は一回でもあれだけのことを経験したら恐怖になる
何が起きるかわからないということもある
でも津波はやかて経験した人も死ぬとその恐怖も忘れられる傾向が強いのである。
経験した人がいたら絶対に逃げろと叫ぶし日頃も子供にもその体験を常に言うことになるからだ。だから経験しない子供でも逃げるとなる

今回の津波の時間帯が朝6時であり起きるときだから頭がまだはっきりしないしぼーとしている人も多い、それで機敏に行動できないことがでてくる
つまり津波だとぼーとしていられない、即座に行動しなければならない
それがしにくい時間帯だった
だからもしこの時間帯に3・11のような大津波が来たらもっと被害が出たかもしれない
つまりあの地震は3時ころであり朝のように起き抜けでもないし頭もすっきりして活動している時間帯だった、それでもあれだけの被害が出たのである。

地震でも津波でも特に津波の被害は起きる時間帯が関係してくる
真夜中とか早朝とか昼間とか晩とかで被害が違ってくる
3・11では不幸中の幸いとして3時ころ起きた、でもあれだけの被害があった。
とすると真夜中とか早朝とか暗くなってからとかに起きたらどうなったのか?
それを考えると恐ろしいと思った。

津波は何か見に行くなといっても見に行く人がいる。
今回は自分は津波を見たいと思った。
今回の地震はそれだけの余裕がまだあったとういことである
3・11の地震と津波ではそんな余裕もなかったからである。
あの時もこんな調子で見に行って死んだ人がいる
でも3メートルとなると防潮堤もできたから越えないと思った。
ただ経験している人は一早く避難したのである。

これくらいの地震だと余震がつづく、今も揺れた、なんか不気味である。
つくづく何か原発でも福島県の浜通りが呪われているような感じになる
その原因が神の怒りが原発に向けられてるように感じる
原発は何か人間の傲慢であり神の怒りが向けられている
それは科学的ではないにしろこの辺に住んでいるとそういうものを3・11以来感じてしまうのである。


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2016年10月28日

【大川小津波訴訟】(2) (子供の方が先生より感が良かった、かえって感が働くの子供と若い人)


【大川小津波訴訟】(2)


(子供の方が先生より感が良かった、かえって感が働くの子供と若い人)


人間は経験しないことは大人でも子供でもその対処方法に差がない、大人が必ずしも的確な判断するとは限らない、その時子供の感ではすぐ裏山に逃げればいいじゃないかとなるのは単純だけど正解だった
その時大人の先生はそうした単純な方法をとらなっかた
危険な川の方に向かって行ったのだからどういうことなのだろうとなる
そしてそうした大人の先生に従わざるをえなかった生徒が死んだ
要するに何か大人とか先生とかいつも指導している人は固い思考に陥る傾向がある。
先生とか公務員とか何か専門にこりかたまっている人も柔軟な思考ができなくなる
先生は社会経験もないから視野がかえって狭いと言われる
つまり卒業したらすぐに先生と呼ばれる職業だからである。
やはり人間は経験が一番ものを言う、経験を積まないと実際の所はわからないのである。

だからこの近くにオランダの大使館に3年間も勤めていた人はそういう経験を積んだから違っていた。別に大使館でなくても今は外国で若い人がいろいろと経験を積んでいるから昔とは違っている。仕事でも外国でしている人が多いからである。
ただ津波となると原発事故でも経験がないから上の人だった指導しようがなかった。
それでスピーディを用意していたのだから放射性物質は風でどこに流れるか東電の社員は知っていたのである。
それで浪江の人と一緒に津島に逃げた人がこっちはかえって危ない、街に引き返した方がいいと浪江の人もその東電の社員に従ったのである。それが正解だったのである。
スピーディを用意していても全く活用されなかったのである。
なぜなら東電でも政府でも安全神話の上に原発を建てて運営していたからである。
常に言っているのは事故は起きませんということだった
事故も起きますよとかいうと地元でも住民からにらまれる、危険人物にすらされる
東電に勤めている人も多いし政府でも県でもマスコミでもどこでも監視状態にあって「安全神話」は作られていたからである。

それでも津波だと生徒に津波が来たらてんでばらばらに早く逃げろとか先生が教育していた生徒はそのように逃げた助かったのである。
それは津波が来るということをそこでは経験していたからである。
緊急時には対処方法がわからないことが多い
津波のように咄嗟に判断を強いられることになるよと余計にそうである。
「津波は来ない」「津波が来たことがない」と老人が言い張り死んだ
老人だって津波を経験したことがないからそうなった。

かえって若い人とか子供は感がいい、柔軟性がある、臨機応変さがある。
それは海外旅行では若い人は言葉ができなくても外国に適応しやすい
それは感がいいから外国でも適応できる
自分は50歳で外国旅行したから適応できなくて失敗が多かった。
それは言葉ではない、感が働かないのである。
だから意外と子供は何もわからないから大人の指導に従うべきだというが津波という経験しないことについて大人も子供もなかった。
かえって子供の方が単純に感を働かせてすぐ裏山に逃げればいいというのが正解だったのである。大人はかえってめんどうなことを考えて津波が来る川の方に向かったのである。これは海外旅行すればわかる、何か変な所にゆきやすいのである。

感がいいというとき動物なども何か異変を咄嗟に感じやすいだろう。それは本能的なものであり津波でも地震でも事前に知ることはありえる、それは何か異変を感じやすいからである。そうでないと生き残れないから本能的にそうなっている
人間ももともと機械とか情報でも様々なも便利なものに囲まれていても必ずしもそれが緊急時に役に立つとは限らない、テレビで10メートルの津波が来るというときはすでに来ていたからまにあわなかったのである。
海の水や川の水が極端に退いたことはどこでも観察されていた。
だからそれをみて咄嗟に判断して逃げた人は利口だったとなる
テレビだけでは追いつけない、時間がないからである。
最初6メートルと言っていた、それだって聞いたことかなかった、次にすぐ10メートルが来るといったときはすでに津波が来ていたからである。

だから先生がまず子供は先生の指導に従うべきであるという日常生活が習慣となっているからその時子供が裏山に逃げるのがいいと言っても子供の言い分を聞いていられるかともなった、オランダのように先生も子供も平等意識があればそうはならなかったかもしれない。
「先生、裏山に逃げよう」「生徒の言うことを先生が聞くのか」
何かそういう習慣があり抵抗があり先生はなぜか危険な津波の来る川の方に向かい生徒を引率した。一旦山に逃げた生徒も先生の指導に従わせたのである。

今は何かみん機械とか情報でもテレビとかその他インターネットでもそうだがそういうものに頼っているが人間の第六感とかは衰えている
人間の感なんかあてになるかとかなるのが現代である。
数値で示して科学的なものは信じるが人間の感などは迷信だとかなってしまう社会であるでもなんか感というのがあたることも多い、なんか悪いことが起きるじゃないかなとか思うと本当に起きる、感が鋭いのは子供であり女性であり若い人である。
老人は経験はあるが感は鈍くなる、経験したことから判断するから経験しない津波とるなと判断できなくなっていたのである。

今の世の中は複雑であり経験しないことなどいくらでもある。だから経験からも計れないのが現実である。人間が一生で経験することは極わずかなのである。
職業もこれだけ複雑で多いからどんな仕事をしているのか理解しにくいのである。
ただその経験した人から直接聞くのが一番参考になる。
それでいろいろな人に聞いたことをプログで書いてきたのである。
ただその聞くにしてもまた限られている、オランダの大使館に勤めた人など田舎ではまれだからである。都会だったらそうしていろいろな外国でも経験した人がいるから違っている、そこが都会と田舎の差だとは言える
一方で都会の人は農業のことなどは無知だとなる。都会はまた人工的空間だから自然を直感することがない、そこで自然災害に都会は弱い、あまりにも人工的空間化していることは自然災害に弱いのである。
三陸のように裏山で清水を飲み薪で米を炊くようなこともできないからである。

大川小学校の悲劇はやはり緊急時にどう対応するかで教訓になっている
まず津波の備えが先生にもないから生徒にもなかった、ただ子供の方が感がいいから裏山がすぐなんだから逃げればいいと単純に判断したのが正解だった。
大人の方は先生はかえってむずかしく考えたのである。
ただ一人の先生は裏山に逃げて助かったし子供でも裏山に逃げた生徒は助かったのである先生でも意見が分かれ多数決で判断して誤ったとなる、それが生死を分けたのである。
だから多数決が緊急時にはいいとはならない、かえって危険となり命落とすことにもなる民主主義は何でも多数決で決められるからそこにも落とし穴があった。
多数決が絶対だということはないてのである。かえってそれが危険なものとなり全員が命を落とすことになるという教訓でもあった。

ただ緊急時にどういう判断をするかは個々人でも全体でもむずかしい。
自分だったらどうなったのかと考えるとわたわたしてすぐ時間がたったらたちまち津波にのまれていた可能性が強い、すぐに逃げにくいのは家にいろいろなものがあるからであるなにもかも一瞬に捨てて逃げることは簡単にできないのである。
津波に対処しにくいのは緊急時に判断が誤るのは時間がないから考える暇もない、即座に判断して行動しないと死ぬからである。
動物だったら別に何も執着するものがないから即座に逃げる、だから動物の方が緊急時には強いともなる、それで犬に引っ張られて津波から逃れ助かった人もいたのである。

人間で意外と大事なのは柔軟性である。年取ると柔軟性がなくなる、体ってそうであり柔軟性がなくなる、ただ老人の強みは経験していることである。
でも何か新しいことに柔軟に対処できないのである。新しいことを学ぶことがしにくくなる。、海外旅行というと異次元の世界に入るからそこに柔軟に対処できないのである。
柔軟というとき学ぶことでもそうである。学び方がよければ学問も好きになることがあるともかく柔軟な思考は一つの見方に固定した見方にとらわれないことである。
何でも様々な見方があり一つの見方にこだわると緊急時でも対処できなくなる
現代は複雑だから柔軟に対処することがどこでも強いられているがそれがむずかしいのである。


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2016年10月27日

大川小津波訴訟】 (オランダの徹底した平等主義があればどうなったのか?)


【大川小津波訴訟】


(オランダの徹底した平等主義があればどうなったのか?)


本当に必死に行動したのかな? 
「山へ逃げれば助かるべー」 って必死に訴えたのは生徒のほうだし 
「大津波警報が出てます」 って必死に教師に伝えたのは生徒の親だし 
それを小馬鹿にするように否定したんでしょ 

なんだか正しい助言してくれてる人をことごとく排除した結果な気が 
生徒や家族なんかよりも教師の判断が正しいんだ と言わんばかりじゃないの


鵜住居小学校・釜石東中学校は500メートルほどしか離れてないのに全員助かってるところを見ると 
やはり教師の力量や教育の質の違いだね 

日本は集団行動を強いるからな。 
自分だけ高台に逃げようとすると 
「何でお前だけ逃げようとするんだ!」ってよってたかっていじめられ 
足の引っ張り合いがおこなわれるからな。 




緊急時の対応はむずかしい、時間がなさすぎる、津波警報が来てからここでは40分後とかでも地震でものが落ちてきたりしてそれでわたわたしたらすぐに時間がすぎる
津波警報を聞いてもすぐに逃げる人はいない、津波はここでもそうだけど川を最初上ってきた。すぐ近くが川だけど見に行っていない、川に水が押し寄せていると誰かが言ったけどそれも見に行かなかった。川はすぐ近くだった。
500メートルくらい下の土手を津波が越えていたのである。
第一津波がこんなに遠くまで来るということを予想していた人は一人もいないのである。津波に対する知識がない、経験もないからそうなる
だからこれに対応するのはむずかしい、先生も10人も死んだのである。
それで責めるのは酷だとなる。

ただこれは学校とか先生の下で子供がいて起きたことである。そこに問題が生じた。
子供だったら先生の指示に従うように日頃から教育されているからだ。
その中でも山に逃げた方がいいと子供が言っていたという。それで逃げたこ子供と先生が助かった。
一方では先生の指示に従い助かった学校もいる。上の人の判断で助かったのである。

だからこれも誰が悪いのか?判断するのはむずかしい。
ただオランダのことで聞いてわかったことはオランダでは先生と教える子供すら平等である。子供が先生を嫌ったら先生まで首にさせられるという。
徹底した平等社会なのである。そういう国だとすぐに上の人だからと指示に従うということはないかもしれない、日本では上下関係の中で物事が決められてゆく、あまり議論もしない。
マスコミの権威にも弱い、上の指示に従いやすい、自主性がないのである。
だから最近マスコミを盛んに批判しているのはいいことなのである。
例えば極端な貧乏人のことをとりあげたがそれは嘘だったとかあるからだ。

「それ本当なの?」という疑問をもつだけで自主性が養われるのである。

その反面誰にも従わないということは危険なことにもなる、学校でも生徒が校長とか教頭に従い助かったということもあるからだ。
でもまた必ずしもそうした上の人の判断が正しいとは限らないのが問題なのである。

現代は大衆社会であり自由社会のように見えても大衆はマスコミとか上の命令に従う自主性のない人たちである。そこにナチス化する危険性が常にある。
カルト教団などは全く思考しないロボットの集団化しているから怖いのである。
オウムであれ創価であれ幸福の科学であれなんであれカルト教団は上のものに絶対服従である。何か逆らえば信心がないとなり罰あたるとか恐怖を与えて従わせる
そういう団体に属して教育されている人たちも何か緊急時には上の人の命令に従うだけだから怖いとなる。

平等主義というときオランダのように徹底して平等を追求していない、原発事故でも東電の社員と地元の人たちが平等ではないからそもそも話し合うこともできないから危険なもとものとなる、自分たちの安全を守れないということである。
その原因に東電の社員と地元の人たちでも政府でも平等になりえないからである。
科学者はお前らに原子のことがわかるかとなり相手にもされないからである。
民主主義はそうした平等性を追求しているがそれが日常生活では成されていないのである

オランダの子供たちだったら先生の言うことをきかないで山の方に逃げたかもしれない、それだけの自主性が子供でも養われていたかもしれない、「先生の言うことなど聞いていられないよ」となって山に逃げたかもしれない、ただこの自主性でも自由でも危険はあるやはり子供だから判断の間違いがあるからだ。でも今回は大人でも判断できない状態だったのである。
未経験なことはどう判断していいかわからないのである。

いづれにしろ原発にしても誰が決めるのか決めたのかとなる。その判断を誰がして原発が作られたのかとなるとはっきりしない。自民党が推進して民主党が受け継いだとなる
国民の間でも十分に議論もされてかったのである。
議論するにも判断するにもその前にオランダのように徹底した平等があればできるがそれがなければできない、科学者は科学を知らないものを軽蔑しているしそんな人たちと議論しないからである。自分たちが上だとなっているからそもそも見下しているからしない。それは医者でもそうである。何か患者が聞いたりすると嫌がある。医者に従っていればいいのだとなる。その根底にはそもそも患者とか看護師とかの間で平等がないのである。
患者は弱者であるから従うほかないとなるのである。

津波に関してはこれは先生の責任だといっても先生も十人死んでいるのだから先生も自分たちが助かることを考えればどうなのかとなる。
先生たちも判断しようがなかったし対処できなかった。こういうとき知ったかぶりするも危険である。先生ももしかしたら子供の言うことも正しいかもしれないと思ってもよかったのかもしれない、でも子供の判断に従うのも良しとしないことがあったかもしれない、か俺たちは先生であり俺たちが判断して生徒を導くべきだと思っていたのかもしれない
この辺のことはわかりにくい、つまりここでは津波に関しては無知であり誰の判断も正しいとはならなかった。
こういう判断は本当にむずかしい、生死を分けるからである。

日本人で砂漠を旅行した人たちが迷って水がなくなり困った、その時導く人が経験している人がいて水のあるところに導いてくれて助かった。
それはその指導する人が経験があったからだとなる
でも間違って導いたら水にありつかず死ぬということもあった。
そういう判断は運にもなる、人間は経験がないことに対処できなからである。

大川小学校の責任でも誰に責任があるのかとなるとむずかしい。先生も十人も死んだとなると責任が問いようがないということもある。
人間は何か重大な判断をするとき戦争するかしないとかでもどうして判断するのか大きな問題になる。原発に関してはほとんど国民的な議論にもならず50基以上も建てられたのである。
では今回のように事故になったとき誰が責任をとるのかというのが大問題になったのである。
オランダのように日常の生活で隔てなく平等があるとき議論もできるが平等がそもそもないのだからできない、その判断するのは上の人であり庶民は黙っていろとなる。
でも一旦事故になったら庶民が故郷にすら住めなくなるという被害を受けたのだからその前に地元の人たちとも平等に議論する態度が必要だったのである。
「あいつらには金をばらまけばいいんだ、原発のことなどわかりっこないんだから」東電とか政府ではそう思っていた。
つまりオランダのように平等意識がないからそうなっていたのでありそれが大事故になったとき大被害をもたらしたのである。

タグ:大川小学校
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2016年07月30日

津波で流された海老の村で話する (津波の言い伝えを聞いていたというが・・・・)


津波で流された海老の村で話する


(津波の言い伝えを聞いていたというが・・・・)



朝に海老の浜で北海老の人と話した。

「川の方が魚がのぼってきてとれるな、イシモチとか鰈な、うなぎもとれているよ」
「海より川の方が魚釣りにはいいんだ」
「しじみもとれているよ、みんな放射能計って売ってもいる」
「安全になったのかな」
「真野川のシジミはうまいだよ」

前は自分もシジミを真野川でとっていた。沼のような所がありそこは川からちょっははずれていてそこに大きなシジミがとれたのである。
結構真野川ではシジミがとれていたが漁業組合の人しかとっていけないとなったみたいだシジミとりとかアサリとりは食べるというよりとるのが楽しみになる
でも三人家族分くらいとっていた。何もすることがないので自分はそんなことをしていた時があった。それはずいぶん前であり河川改修する前だからこれも30年前とかなる。
うなぎもとれるとなると鰻をとれたら貴重だろう。天然の鰻など高くて食べれないだろう鰻は自分の父親と鰻釣りに田んぼの畦に行ったことがある。
ミミズをさして穴にさしこむのだけどかなり待っているのが嫌だった。
魚釣りでも自分は何か待っているのが嫌で好きでなかった。
なんか自分は自転車のように絶えず動いている方が性分にあっている。
じっとしていられないのである。自然の中では特にそうである。
それにしても河口は放射性物質が泥と一緒に流れてきて非常に放射線量が高かった
阿武隈川の河口でも異常に高かったのである。
だからそんなところでシジミやアサリをとっても大丈夫なのかとなる?
放射能といっても気にしない人はしない、ただ子供もっている母親とかは異常に気にしている
年寄りなどは気にしないから前から別に普通に食べていたのである。
十年後二十年後にガンになるといってもその頃みんななる人が多いのだから気にしてもしょうがないとなる


その人は北海老の人だから津波の被害にはあっていない、でも人が流れてきて助けてくれと叫んでいたが助けようがなかったという。津波は物が流れてくるから危険だった。
こういう経験した人はなかなかその場面を忘れられないだろう。

「逃げないやつは死んだ、消防でも警察でも避難しろと回ってきたのに逃げないから死んだ俺は川を見たら水が退いていたから危ないと思っていた。そういう言い伝えは聞いているからな」
「津波の言い伝えを聞いていた、そんなにそれは語られていたもんなのかな、知らない人多かったのでは」
「津波が来たらテンノウ様や寺に逃げろと言われていたんだよ」
「この辺では津波は来ないとみんな思っていて逃げなかった」
「そんなことないよ、俺は津波のことを聞いているよ」
「そうかな、それを聞かされていればみんな逃げた思うけどな」
「逃げないやつは馬鹿だったんだよ、あれだけの地震だったんだからな」


 ここに、「てんとう念仏」と通称で呼ばれている場所がある。
 水田から民家の脇を通って、丘に登っていく。その道が上の写真。 
 <津波が来たときにこの山に登り、念仏に唱えて津波が収まるように祈った>ということから、この地が「てんとう念仏」と言われるようになったという。 


テンノウと言っていたのはてんとうのことかもしれない、北海老だと柚木(ゆぬき)も隣り合わせだからである。
でもその人が考えてみるとどれだけ親からでも祖父母からでもその言い伝えを聞いていたのだろうか?どれだけの人がこの辺でそのことを実際に親から祖父母から聞いていたのだろうか?
津波がきてから学者の人がそういう言い伝えが残っているということは調べられた。
でも現実問題としてそういう言い伝えがどれだけ先祖から祖父母から親から子へと言い聞かせられてきたのか?
そういうものでもただ今度は文字として記されているだけになるのが多いからである。
口碑として残るとしても言い伝えでゆくことは容易ではない、第一400年もの前の話だからである。そうなると文書としては残っても口碑としては絶えるだろう。
ただ津波がきてそういう言い伝えがあったと見直されただけではないか?

要するにもう慶長津波がここに被害を与えたとしても400年も言い伝えることは相当に困難になる。ただ文書として町誌などには記されている
でもそれが口伝えで言い伝えられるたとはなくなるということはある。
すると何か実感がわかない、遠い昔の出来事になってしまう
そういう言い伝えがあったとしても何かみんなそれを本当のこととして津波を警戒するまでにはなっていたのかとなる
その人はそういうことを言っても何かそんなに言い伝えられていて警戒していたのとなるその人は第一北海老の人であり津波の被害にはあっていなかったからである。

ともかく津波で共通していることは海の水でも川の水でも極端に退いてゆく、これは三陸の方でも共通した現象である。もう川の水でも海の水でもひいたら即逃げる準備をしろとなる。時間がないのだから何かもってゆくものなど探してもいられない、金でも預金通帳でもどこだろうなと探していると間に合わなくなってしまう。タンス預金は流されてもしか2たないとなる
実際にそうして死んだ人が現実に相当にいるのである。
自分も本などがばたばた落ちてきてそれだけパニックになり混乱した、そういうときかたづけようとかしていたらたちまち津波に襲われて死んでいた。
即逃げない限り津波からは逃れられない、地震がきてから40分の後でありこの辺は時間があった。それでも逃げないで多数の人が死んだのである。
東南海地震津波では数分で津波がくるとしたらもう逃げることはできないとなる

一番失敗したのは海に面した崖の上が高いということでそこを市で避難場所に指定していたことである。そこに避難して30人も死んだのである。
逃げるところはすぐ近くでいくらでもあそこはあった。
すぐ森になっていてそこに逃げれば助かったが津波は急激に襲ってくるから逃れられなかった。
あそこの森に逃れて右田の人も数人は助かった。墓地もありあそこに逃げれば良かったと北海老の人も言っていたがそれは見ればわかる。
人か住んでいる家が全部なくなり墓地だけが残っていたのである。
肝心の生きている人は死んだのだからやりきれないとなる
つまり墓地は流されても肝心の生きている人が流されなければ良かったのである。
墓地だけが残ってもどうしようもないのである。

津波からも5年過ぎてだんだん深刻さがなくなり忘れられてゆくのか?
いくら肉親でも死ぬと忘れられてゆく、人間は何でも忘れのが早いのである。
あれだけの被害でも5年過ぎれば関心がなくなり忘れられてゆく
ただ被害地である地元ではまだまだ忘れられない記憶である。
右田の一本松も枯れたり何か津波の被害の跡も消えてゆくと忘れられてゆく
人間は何か忘れられないようにすることがむずかしいのである。
だからこそ津波が400年前にあったとしても語り伝えられたとしてもそれが現実味を帯びて伝えられなかった。口伝えで伝えるのには限度がある。三代くらいまでは可能である。それ以上になるとむずかしくなる。
そして不思議なのは相馬藩政紀に二行くらい生波で700人溺死と記されて記録は知られずに埋もれていたのである。
だから外から来て調べた人も本当に津波があったのなかったのではないかとまで言う。

地元にしても資料がないとしたら本当にそんな大きな津波がここにきたのとなる。
いろいろ調べてもなんか状況証拠みたいなのはあるが明確に本当にそんな大きな津波が来て犠牲があったのかということがわからないのである。
なぜなら相馬市のボーリング調査でわかった津波で運ばれて埋もれ砂は貞観津波のものだったからである。
慶長津波はどうなったのかとなる。そういう証拠が見つからないのである。
最近の調査で津波で消失した南海老村の跡の発掘では縦穴住居があり弥生時代から人が住んでいて鎌倉時代の住居跡もあったから相当に南海老村も古いのである。
でも慶長津波がここに来たとかわからないのである。
ただ海老はエヒであり蝦夷(エミシ)が住んでいたというのはありうる
つまり海老村はそうとうに人が古くから住んだ場所なのである。


タグ:津波の話
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2016年06月17日

津波で流された右田の松原の写真一枚 (影となってしまった松原の写真)


津波で流された右田の松原の写真一枚


(影となってしまった松原の写真)


migitaamatu123.jpg
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今になればこの写真も貴重である。右田の松原は全く消失したからだ。偶然整理のために掃除していたらでてきた。
偲ぶものは何もない、一本松は残っているが松原は松原としてあったとき
風景となっていた。それは陸前高田市でも同じである。
一本松というとき街道とかにあるけど海側はみんな松原として潮風から米の害を防ぐとか防風林としてあったからである。

この写真まさに影の松原でありそれが影絵のように右田の松原を偲ぶとなる
右田の松原はないが影のように記憶として写真に残っている
ともかく何も残っていないのだから貴重だとなる

松原の向こうには刈田が見えて集落があった所の森も見える
それらはみんななくなったのである。
写真とかはあとで貴重なものとなることがある
こんなに変化したとき全くその風景が見られなくなったので貴重になったのである。

タグ:右田の松原
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2016年04月21日

熊本地震で話題になる中央構造線 (日本創造にも神の意志が働いているのか?)


熊本地震で話題になる中央構造線


(日本創造にも神の意志が働いているのか?)


地震と地理でも地形でも深い関係がある。ただこの地理と地形とかは一番理解しにくい
いくら旅しても日本全土を地理を地形を知ることは不可能である。
地理とか地形は人間の理解能力を越えたものなのである
福島県ならある程度地理を地形をイメージできるかもしれない、でもハマ、ナカ、アイヅと分かれていて広いからその地形を理解することは簡単にはできない
標高差もありその土地の高低も理解しにくい、飯館村は八木沢峠を上ればわかるように相当標高が高いから夏は涼しく冬は寒いとなる
それは浜通りからすると別個の世界になる
日本は山が多いから峠が多い、そして山にさえぎられて隣村でも遠くなり交流がはばれるたがいの理解がはばまれる、それで明治以降村が民情が違っているからと合併しなかった


日本の地形をみるとき今回話題になった熊本地震の中央構造線というのが素人でもわかりやすい、四国辺りでも目に見えて断層の線が走っている、そこに伊方原発があったから危険だと目に見えてわかった。
その中央構造線は静岡県から富士山へとつながっている、九州と四国は海でさえぎられているからつながっていないようで陸地としてはつながっていて断層がつづいている
その巨大な地形をイメージすること自体できないから地震は予測できない
中央構造線からイメージしていたら熊本に地震が起きないことなどありえなかった。
だから百年熊本に地震がないから地震がない安全地帯として企業の誘致をしていたのである。だからなぜここにも地震が起きると気象庁でも地震学者も警告していないのか不可解だとなる、誰もここに地震が起こると警告していた人がいないのである。
それは結局東日本大震災でも福島県とかの浜通りには津波は来ないと確信していた。
それと同じことが熊本で起きたのである。
常に警告されていたのは東南海地震であり津波だったのである。
それで避難訓練など何度も行われたがそれから30年はきていないのである。
地震はくるくるというところには来ない、常に意外な所で起きているのである。
だから予知はしない方がいいとなった、予知はできないとなった。

日本の地形とか地理でまぎらわしくしているのは海に囲まれていて四つの島に海で分断されていることである。
でも中央構造線とかプレートは陸地でありその陸地が動いて地震になっている
すると海になってい見えない陸地が動いて地震になるのだから余計にわかりにくいのである。日本列島というとき一つの陸地としてイメージしておく必要がある
中央構造線からすると九州も四国も本州も一帯なのである。
そしてその中央構造線の延長上に富士山がある、富士山は日本列島のヘソであり中央に造山されたのである。
富士山は日本の地形を見ればまさに日本の中央に現れた不思議がある
富士山は日本列島の地形からも日本の中央であり現れたという不思議がある
そこに神の創造の意志が働いていたのかとなる
つくづく学問の基本は「地の利、天の時、人の和」を知ることである。
日本を知るときもまず地の利である。地の理にも通じている、利益だけではない、天の時というのもまさに地の利が理があり次ぎに天の時があり災害が起きてくる
天の時というとき巨大地震とか津波には天体も関係していると言われるからである。



地下の神が人間をあざ笑う


地下深くなお知られざる所神は棲む
ここに地震が起きるここには起きない
その人間の浅知恵よ、傲慢よ
思わぬ所に地震は起きる
そして神は人間をあざ笑う
人間は地下のことも天体のことも知りえぬ
もの知り顔に予知してもはずれる
人間はそもそも理に則って地球を見ない
ただ利に則って利を求めて地をみる
政治家も科学者も大衆も利で動く
科学者すら理に則るべきを
利にのっとり原発を作る
その利と欲によって人は騒ぐ
冷静に理を追及するものは科学者にもいない
利に左右されて見誤るのである
小賢しい人間よ、奢るものよ
そは砕かれて全能の神によって卑くくされる
人間の知り得ざるものはなお広大なり
地の一片を知りて奢るなかれ
地下深く神は棲み人間の知恵をあざ笑う
汝は地を計るものにあらず
汝は計られるものにてその則に従うべし



人間は地上で求めているのは理ではない、もし理だったら原発など作らない
利を求めるから原発を作る、利になるから原発を作る
利で蠢いているのが人間なのである。
だから天災ではその人間の利とか欲が罰せられるのである。
地震が科学的法則で起こるといっても科学者自体がその理を本当に追及しているかというと利にかかわる、活断層の上に中央構造線の上に伊方原発とか川内原発を作ったのもそのためである。
いくら断層の上でなくても調べてもやはりどこかで日本は地震が起きる
地震は予知できないしさけようがないのである。
原発が日本に作られているのはアメリカの要求とか核武装のためとか別な利がありやめられないのである。政治的意向が働く、理が働くのではないのである。
それが天罰となって神の怒りをかうということはありうるのである。
日本列島は海でへだてられていても一連のものとしてつながっているのである。
そこを見誤るとまた同じことが起こる、カルマをくりかえすのである。


中央構造線のキーワードで画像で絵で解説しているからわかりやすい
タグ:中央構造線
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2016年04月20日

今日4月20日21時19分ころの福島県沖の震度3の地震に恐怖 (震度1、2の地震は宮城県でも19日から3回起きていた、他でも起きていた)


今日4月20日21時19分ころの福島県沖の震度3の地震に恐怖


(震度1、2の地震は宮城県でも19日から3回起きていた、他でも起きていた)



      降順  発生時刻  情報発表時刻  震源地  マグニチュード 最大震度 
 2016年4月20日 21時19分ころ  2016年4月20日                  福島県沖  5・6 3
 2016年4月20日 19時00分ごろ 2016年4月20日 19時03分 熊本県熊本地方 3.8 3 
 2016年4月20日 17時40分ごろ 2016年4月20日 17時44分 熊本県熊本地方 2.8 3 
 2016年4月20日 16時01分ごろ 2016年4月20日 16時05分 熊本県熊本地方 3.9 3 
 2016年4月20日 15時31分ごろ 2016年4月20日 15時35分 熊本県熊本地方 3.0 3 
 2016年4月20日 15時28分ごろ 2016年4月20日 15時35分 熊本県熊本地方 3.1 3 
 2016年4月20日 14時27分ごろ 2016年4月20日 14時31分 大分県中部 4.0 4 
 2016年4月20日 13時07分ごろ 2016年4月20日 13時10分 宮城県沖 4.0 1 
 2016年4月20日 12時22分ごろ 2016年4月20日 12時26分 熊本県熊本地方 3.2 3 
 2016年4月20日 8時00分ごろ 2016年4月20日 8時04分 熊本県熊本地方 3.6 3 
 2016年4月20日 5時53分ごろ 2016年4月20日 5時58分茨城県沖 3.9 2 
 2016年4月20日 3時52分ごろ 2016年4月20日 3時57分熊本県熊本地方 2.9 3 
 2016年4月20日 3時39分ごろ 2016年4月20日 3時42分 熊本県天草・芦北地方 4.1 3 
 2016年4月20日 2時42分ごろ 2016年4月20日 2時45分 茨城県南部 2.6 1 
 2016年4月20日 2時16分ごろ 2016年4月20日 2時19分 熊本県熊本地方 4.0 3 
 2016年4月20日 0時56分ごろ 2016年4月20日 1時00分 熊本県熊本地方 3.4 3 
 2016年4月20日 0時29分ごろ 2016年4月20日 0時34分 熊本県天草・芦北地方 3.8 3 
 2016年4月19日 23時23分ごろ 2016年4月19日 23時27分 熊本県熊本地方 3.2 3 
 2016年4月19日 22時26分ごろ 2016年4月19日 22時30分 熊本県熊本地方 3.7 3 
 2016年4月19日 20時47分ごろ 2016年4月19日 20時50分 熊本県熊本地方 4.9 5弱 
2016年4月19日 20時43分ごろ 2016年4月19日 20時46分 長野県南部 2.4 1 
 2016年4月19日 20時33分ごろ 2016年4月19日 20時37分 熊本県熊本地方 3.2 3 
 2016年4月19日 19時46分ごろ 2016年4月19日 19時49分 宮城県沖 3.4 1 
 2016年4月19日 19時05分ごろ 2016年4月19日 19時09分 千葉県北東部 4.3 2 
 2016年4月19日 18時14分ごろ 2016年4月19日 18時20分 熊本県熊本地方 3.3 3 
 2016年4月19日 18時09分ごろ 2016年4月19日 18時12分 熊本県熊本地方 4.0 3 
 2016年4月19日 18時04分ごろ 2016年4月19日 18時09分 熊本県天草・芦北地方 3.9 3 
 2016年4月19日 18時02分ごろ 2016年4月19日 18時06分 熊本県熊本地方 4.0 3 
 2016年4月19日 17時57分ごろ 2016年4月19日 18時01分 熊本県熊本地方 3.7 3 
 2016年4月19日 17時52分ごろ 2016年4月19日 17時56分 熊本県熊本地方 5.5 5強 
2016年4月19日 16時22分ごろ 2016年4月19日 16時25分 熊本県阿蘇地方 3.4 3 
 2016年4月19日 15時05分ごろ 2016年4月19日 15時09分 熊本県阿蘇地方 4.0 3 
 2016年4月19日 14時57分ごろ 2016年4月19日 15時01分 熊本県阿蘇地方 3.2 3 
 2016年4月19日 14時55分ごろ 2016年4月19日 14時58分 宮城県沖 3.9 2 
 2016年4月19日 14時14分ごろ 2016年4月19日 14時18分 熊本県阿蘇地方 3.2 3 
 2016年4月19日 13時35分ごろ 2016年4月19日 13時40分 熊本県熊本地方 3.3 3 
 2016年4月19日 12時52分ごろ 2016年4月19日 12時57分 熊本県熊本地方 4.0 3 
 2016年4月19日 12時32分ごろ 2016年4月19日 12時35分 沖縄本島北西沖 3.9 1 
 2016年4月19日 11時47分ごろ 2016年4月19日 11時51分 沖縄本島近海 4.6 1 
 2016年4月19日 9時23分ごろ 2016年4月19日 9時26分 熊本県熊本地方 3.5 3 
 2016年4月19日 8時52分ごろ 2016年4月19日 8時56分 熊本県阿蘇地方 3.3 3 
 2016年4月19日 8時12分ごろ 2016年4月19日 8時20分 熊本県阿蘇地方 3.7 3 
 2016年4月19日 6時21分ごろ 2016年4月19日 6時25分 熊本県阿蘇地方 3.3 3 
 2016年4月19日 6時20分ごろ 2016年4月19日 6時24分 熊本県阿蘇地方 4.0 4 
 2016年4月19日 5時32分ごろ 2016年4月19日 5時36分 日高地方東部 4.2 2 
 2016年4月19日 3時38分ごろ 2016年4月19日 3時41分 熊本県阿蘇地方 3.3 3 
 2016年4月19日 3時08分ごろ 2016年4月19日 3時12分 熊本県熊本地方 2.9 3 
 2016年4月19日 1時53分ごろ 2016年4月19日 1時57分 熊本県熊本地方 3.8 4 
 2016年4月18日 23時22分ごろ 2016年4月18日 23時26分 熊本県阿蘇地方 3.1 3 
 2016年4月18日 23時19分ごろ 2016年4月18日 23時23分 徳島県北部 3.1 1 
 2016年4月18日 22時31分ごろ 2016年4月18日 22時35分 熊本県阿蘇地方 3.2 3 


熊本県の地震を気になって2ちゃんねるでこれを見ていた。
すると熊本県だけではない、宮城県と茨城県と千葉県と長野県にも震度1、2、が起きていたのである。

それを感じたのは昨日辺りでありこの辺にも地震起きていたのか?
最近はこの辺は震度3の地震はでていない、ただ一回微弱な震度1くらいの地震があって報告した。
その揺れを自分が感じたのはたまたまソファーに座っていて二階で揺れを感じたのである震度1でも震度1弱と強があり弱だとまず感じない、強でも感じないだろう。
でもこれも地震であり次ぎに起こる地震の前触れなのである。
でも体で感じることしか地震の危険を感じない、そこに地震の問題がある

福島県沖がなくても宮城県沖と茨城県と千葉県に震度1でも起きていれば福島県も連動するから危険なのである。

これを見れば日本全国どこかで震度1くらいは起きていることになる。
ただこのなかで宮城県沖が3回起きていることは注目すべきだった
熊本県にばかり注意しているが外でも地震があることに注意すべきだった


それで今日夜9時20分ころ起きた福島県沖の地震は震度3であり結構ゆれた。それで熊本県と関係あるのかと思った。
熊本県震度3くらいがつづいているとなると結構怖いことである。
今の福島県沖の地震も東日本大震災の余震なのだろう。
震度は弱くなっていても余震はつづいている
この辺は巨大なエネルギーを放出したから安全だと書いたがやはり余震がまだある
3・11のような巨大地震津波は来ないにしろまだ余震はつづいていたのである。



6月20日の9時19分ころの地震はマグニチュード5・6だった
一連の二日分の地震の中でもマグニチュードにすると一番大きい
岩手県゛宮城県、福島県で感じた広範囲な地震だった
これは3・11の余震の継続である。
ただ震度5とかは長い間でていないのである。



中央構造線で地震が起きている、


4月14日から18日

     震度1  吉野川市鴨島町 美馬市脇町
          徳島三好市池田総合体育館
香川県  震度2  坂出市久米町* 観音寺市坂本町 観音寺市瀬戸町*
          三豊市豊中町* 三豊市三野町*
     震度1  高松市伏石町 高松市扇町* 東かがわ市西村
          土庄町甲 小豆島町安田* 丸亀市新田町*
          多度津町家中
長野県  震度1  諏訪市湖岸通り
岐阜県  震度1  海津市海津町*
大阪府  震度1  大東市新町* 岸和田市岸城町
          泉佐野市りんくう往来*
兵庫県  震度1  豊岡市桜町
和歌山県 震度1  和歌山美浜町和田* 紀の川市西大井


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2016年04月18日

予知できない地震 (東北はかえって安全地帯になった?)


予知できない地震


(東北はかえって安全地帯になった?)

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今回の熊本地震はどうなっているんだろう?これほど頻繁に地震が起きるものだろうか。
東日本大震災でも大きな余震があったし余震がつづいていた
でもここでの余震は起こる回数が頻度が多すぎる
プレート型の地震とは違っている、まずプレート型は大きく一回本震が来たらあとは余震で徐々に弱まってゆく、それははっきりしている、本震以上の揺れはない

活断層型地震はプレート型の地震とは違っている、地中からぼこぼこと揺れている
まず断層がずれるのとプレートが移動するのは性質がそもそも違う。
それが予測をむずかしくしている
そもそも地震は予知できないし予測できないからいかに逃げるかを優先させろと科学者が言っている
どんな地震にしろ予測できないし予知できないし経験則でもわからない
ただ過去に歴史的にこういう地震があり津波があったということはある
それすら実際にはあてにはならない、それはあくまでも目安にすぎないのである。

「九州では地震が起こらない」これは福島県浜通りではこの辺では津波は来ないというのが確信とか信念までになっていたのと同じである。
では九州で地震が起こらないというとき過去を調べればやはり起きているのである。
日本では地震の起きない場所がないのである。


でも東日本大震災があったのだから九州が無関係とはならない、そういうことは警戒されるはずだったがしていなかった
西は安全だと思っていた、それがまた油断だった、日本列島は大陸と違って狭いのであるだから東北と九州は離れているから安全だなどということはありえなかった
だから東日本大震災があっても警戒しなかったのかとなる
これも油断だったとなる、でも東日本大震災であれだけのものを見ていたら警戒しているのが普通である。
東京などは備蓄したりと警戒して準備した、熊本県とかでは備蓄もしていなかったのである。東日本大震災があってもほとんど警戒しないし自治体でも備蓄ししていないのである
そして神戸地震の1・5倍とかのマグニチュードだったと規模が大きいのにそれほどの死者でもないし建物の被害があっても神戸のようにはならない
もし東京のような大都会の直下で起きたらどうなるのか?
それは神戸地震と同じような結果となる、そしたら東京に住んでいること自体相当なリスクではとないか?

ともかく日本列島は揺れている、それとも日本の神が怒っているのか?
それは何故なのか?それはただ地球では科学からみれば起こるもでありありさけられないとなる
自然界にもカルマがある、カルマをかならずめぐってくる、個々人は家族でもその地域でもカルマをになっている、だからそのカルマを受ける、それをさけることはできない
そしてそのカルマを受けてそのあとにカルマが清算されて平和がやってくる
そのカルマから誰も逃れることはできないのである。

だから東日本大震災ではカルマを東北では受けたけど巨大なエネルギーを放出したからカルマを清算したから何かかえって安全であるという感じになる
当分数百年はこんな巨大な地震とか津波は来ないように思うのである。
ということはかえって東北は安全地帯になっているかもしれないのだ
東京とかから西でも今回の九州のようにそこは危険なカルマが噴出してカルマを受ける
だから西は相当に危険になってきている
放射能だから東北から逃げろとか盛んに面白がって言っている人がネットにいたが
今度はその逆になる、西から逃げろ、放射能など怖がっている場合ではない
今の命が大事だ、今を生きることを優先すべきだ
東北は地震に関しては安全地帯だ
放射能より今の命だ、西は危ない、逃げろ・・・・となる
これもカルマの法則、因果の法則である。
他者の不幸が関係ないとみていても自分にふりかかってくる

いづれにしろまだ大きな地震が来るというとき予断ができない
経験則があてはまらないから自然は予知できないからそうなる
つまり何が起きるか誰もわからない、かえって政府でも気象庁でも学者でもわからないのだからいいかげんなことを言うな、それで被害が大きくなったという学者もいる
それより何が起きるかわからないからそのために備えろとなる

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2016年04月17日

巨大地震が連続して起きた慶長時代とにている (東北と九州(熊本)に起こり今度は関東へ迫る恐怖)



巨大地震が連続して起きた慶長時代とにている


(東北と九州(熊本)に起こり今度は関東へ迫る恐怖)

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慶長伊予地震 - 1596年9月1日、伊予国をおそった地震。M 7.0、寺社倒壊等。中央構造線沿いと推定される地震。
慶長豊後地震(大分地震)[4] - 1596年9月4日、豊後国をおそった地震。M 7.0〜7.8、死者710人。中央構造線と連続している可能性がある別府湾-日出生断層帯で発生した(上記地震との)連動型地震とされる。
慶長伏見地震[5][6][7][8] - 1596年9月5日、近畿地方をおそった地震。M 7.0〜7.1、京都や堺で死者合計1,000人以上。伏見城の天守や石垣が損壊、余震が翌年春まで続く。有馬-高槻断層帯、あるいは六甲-淡路島断層帯における地震とされる。上記二つの地震に誘発されて発生した可能性がある。


慶長地震[9] - 1605年2月3日、南海トラフ巨大地震の一つとされてきたが、伊豆小笠原海溝付近震源説や遠地津波説など異論もある。M 7.9〜8.0。紀伊半島沖と房総沖が連動したとする説もあり、M 8.4〜8.5ともされる。津波地震と考えられており、地震動による被害は少なかったが、現在の千葉県から九州に至る広範囲の太平洋岸に津波が襲来し、死者1〜2万人を数えた。


会津地震(慶長会津地震) - 1611年9月27日、会津地方をおそった直下型地震。M 6.9。寺社損壊、死者3,700人。
慶長三陸地震(慶長三陸地震津波)[10][11] - 1611年12月2日に三陸沖を震源として発生した地震でM8.1(8.1-8.7の諸説あり)。ただし、津波の痕跡の範囲などから、この従来の定説に疑義があるとされ、千島・色丹沖の震源と連動した大地震・津波だったとする説もある。この大津波による北海道・三陸の死者・被害甚大。地震被害の記録はほとんど無い。
慶長十九年十月二十五日の地震 - 1614年11月26日に起こった地震。従来高田領大地震とされたが、会津から松山に至る日本各地に被害記録があり、震源は不明


慶長伊予地震、慶長豊後地震、慶長伏見地震

は4日以内に連続して発生したものであるが、共通点は、これらの地震が

「中央構造線」

上で発生していることだ。

日本列島を縦断する

「中央構造線」。

この「活断層」が活動を活発化させていると考えられる


1596年9月1日 慶長伊予地震

1596年9月4日 慶長豊後地震

1596年9月5日 慶長伏見地震


1605年2月3日 慶長地震(南海トラフー関東地方)


1611年9月27日 慶長会津地震

1611年12月2日 慶長三陸東北


最初伊予(四国)で起こり継ぎに3日後に豊後(大分)で起こり一日後に伏見(京都)で地震が起きた。これは確実に連動して起きた。

次の1605年は謎の地震と津波と言われるのはなぜか不可解である。
慶長三陸地震津波の前に会津で地震が起きて七層の黒川城が崩壊した
それはのカ月後にだった


1596-1611(慶長時代)は戦国時代でもあり地震と津波の時代だった
問題はこの一連の地震は関係しているのかということである。

中央構造線で起きた伊予ー豊後ー伏見地震は確実に関係している
一週間以内に起きたからである。

その次の1605年になると9年後げありこの地震と津波のことは謎である。
これがもし本当であったとすると怖い
なぜなら今回の熊本地震と中央構造線でつながり関東地方にも影響がでてくる
ただ慶長地震の場合は9年後だからすぐに影響したわけではない

次の慶長会津地震は慶長三陸地震の3カ月後だからなんらか影響したと思われる。
何か今回の熊本地震でも慶長時代とにている

ただその方向が逆になっている
東日本大震災は東北でありそして茨城県から東京とか関東にその影響があるのか?
そこは謎であり南海トラフの大地震から大津波につながるのか?
そして九州とかの熊本地震につながっているのかとなる
ただその間に10年とか時間差があると地震や津波は関連がむずかしくなる
人間だと10年一昔になってしまうからである。10年後に起きても関連づけるのはむずかしくなる
ただ慶長時代はなんらか巨大地震が多く一連のものとして起こった可能性が大きいのである。
それをあてはめると何か今回の熊本地震は不気味なのである。

地震がなぜ予測できないのか?やはり科学というのは法則性を求めている
その法則があてはまらない、変則的に起きてくる
地殻がどういうふうに関係して連動して起きてくるのかわからない
それがいつ起きてくるかもわからない、一年後なのか5年後なのか十年後なのかもわからない、第一巨大地震のあとには百年後まで余震が起きるとなるともう忘れてしまうだろう
ただ不気味なのは南海トラフの大地震と津波が警戒されているのは東日本大震災でも熊本地震でも両方からの圧力が地殻にかかっているかもしれない、そしてそこが空白地帯になっているから危険なのである。
だから30年のあいだに巨大地震が起きるというときそれは確率的に言えるとなる
今回のように東日本大震災や熊本地震があるとそれは慶長時代とにているから余計に心配になる。そういうことが慶長時代に起きていたからである。
タグ:熊本地震2
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2016年04月16日

空白地域で起きた熊本地震 (ここでも強い地震は起きないとされていた)


空白地域で起きた熊本地震


(ここでも強い地震は起きないとされていた)


90年のデータだけでは限界があるため、「自分の地域ではでかいのはない」
と、絶対に思わないように。安堵しすぎるのはかえって逆効果です。

なぜ熊本でもそういうふうに信じられていたのか?
これも百年単位とかで見ていると地震は起きない地域とみてしまう。
不思議にそれがだんだん信念までになってゆくのが人間だった
福島県の浜通りとかでも宮城県でも三陸以外はそうだった
すでに400年とか津波が来ていないからこの辺は津波が来ないとされていた


津波の空白地域に伝説が多いというとき宮城県の石巻辺りからは津波は来てない
慶長津波以来来ていない、そこで確かに伝説が多いとなる
それに注目して今回の津波を警告していた学者がいた
でも誰も本気で信じるものはいなかった
最近はボーリング調査で相馬市でも市街近くまで津波が来たことが証明された
それは貞観津波の砂だった。それを発表してから7年後に今回の慶長津波が来たのであるそれは科学的に証明されたから伝説とは違うのである
東京電力でも10メートル以上のつなみ想定していたのである。
ただその対策をとらなかっただけである

三陸辺りでは百年単位くらいで津波が来ているから津波の伝説は少ないというのはそれは時間感覚でそうなっている、伝説はそうしたリアルな体験が忘れられて伝説になる
要するに人間の時間感覚が短いことが最大の問題なのである。
人間の時間感覚はせいぜい祖父母の代までは現実に知っていているからリアルである。
でもその先になると現実感覚がなくなる、顔も見たこともないし例え親がその祖父母のことを語っても想像することによってしかわからなくなる
すると想像するということは何か誇大に解釈したり勝手に想像力で事実をまげる
小説のようにしたりする、事実が事実ではなく想像の世界に入ってしまうのである。
だから相馬藩で津波の時復興事業として中村(相馬市)に城を移転した、それは公共事業だったとか言う人がいた。それが有名な学者だったというのだからこれも変なものだったのである。
そしてそのことを公共事業としての城の移転と築城と相馬藩では津波の被害にあった人たちを援助したということを書いていた。
そんな事実が一かけらもないのに小説にしていかにも相馬藩では藩の民を大事にしていたかと宣伝していたのである。
事実はその逆であり津波の被害を逆に相馬氏が利用して戦国時代に支配を確立した
津波の被害者のために相馬藩で何かしたなど資料もなにもないのである。


人間の弱点は時間感覚が短いことなのだ。だから時間感覚の長い地球を相手にするときさらに誤解が生れる、それは地球というとてつもない長い時間で生成されたものを相手にするからである。
それは人間の有史以来までさかのぼる時間感覚なのである。
千年単位で起きることを知ることは容易ではない
人間は百歳まで生きてもそれしか生きていないからである。

なぜ熊本で地震が起きたのだ、ここには地震は起きない地域だ

これは福島県とかの浜通りでも盛んに言われたことなのである。
でも慶長地震と津波は400年前にきて700人溺死と記されていた。
空白地域はかえって危険だったのである。
長い間地震は起こらないとか津波が来ないという空白地域こそ危険だったのである。
なぜならそれはすでに次の大きな地震が起きる時期にきていたのである。
慶長地震津波から訳400年でこの辺にも大津波が来たからである。
「災害は忘れたころにやってくる」というときそれは人間の時間感覚が百年とか短いからなのである。
もし人間が長い時間感覚をもっていたら大災害はさけられる
そして長い時間感覚をもたないもの、文明とかでも危険になる


現代の科学技術文明は百年くらいで急速に自然の中で生れた、そこには相当な無理をしている
だから原発事故でも起きた、これは日本の自然と適合するのではない、地震が多いし危険なのである。稲作文明は自然と長い時間のなかで23千年以上のとかで日本の自然に適合したものなのである。
エジプト文明の三千年でもそうである。自然に適合した文明は長命であり百年くらいでは崩壊しない、それで縄文文明でも弥生文明でもマヤ文明でも千年以上とか普通であり寿命が長いのである。
現代文明の危険は自然と適合した文明ではないから寿命が短いから自然災害で崩壊しやすい危険も大きいのである。


とにかく日本ではここに地震が起こらないとか津波が来ないとか一つの固い信念のようになることは危険だったのである。
日本はもともと地震列島であり災害列島なのである。おそらく年号が変わりやすいのは災害をまねがれるためだったのかもしれない、平成と天皇が代わり変えた
それが皮肉なことに平成どころではなかった、それが願いにしてもその反対の災難の時代だった
天皇の役目が日本では自然災害が起こらないように八百万の神に祈ることでもあった
それだけ日本は自然災害が多い国だったのである。
そして今空白地域になっいるのが関東であり東南海地帯である。
ここでは大地震が大津波が起こると予定されている、それはここも地震や津波が長い間起きていなからである
ただ空白地域にならないのはここには人口が密集しているからみんなそのことで心配しているから注目されているのである、北海道辺りだと人口が少ないから被害にあっても日本全体にはさほど影響しないとなる、九州もそういうことがあった
東京が壊滅したら日本は終わりだとという今の事情が反映して騒ぐのである。
フクシマの原発も東京を守るために離れて作られたのである。
東京が首都でありここだけは死守せねばならないということでそうなった
そのために地方は犠牲にというなってもいいという国の意志であり政策だったのである。政治がそうさせたのである。


もしかしたら今安全なのは東北と北海道かもしれない

東北は今は余震もおさまった、巨大なエネルギーを放出した

関東は危ない

福島県も今は安全

放射能より地震で死ぬのが怖い

福島県や東北や北海道に逃げろ


これは冗談でないかもしれない、そういう危機が迫っている
タグ:熊本地震
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2016年04月13日

なぜ相馬藩では津波のことが記録されなかったのかー続編?


なぜ相馬藩では津波のことが記録されなかったのかー続編?

南海老村の中村城の天守造営にかかわった大工の伝説はやはり津浪に由来 (続編)


相馬藩の中世の館

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青い線で囲んだところが海側に港をもって勢力もっていた

藤金沢堤の傍らに塚あり、上元塚と名づく、六十六部回国上元なる者の塚という。
在昔村に匠人善次なる者あり、この如きこと数回なりという。記者言う、狐狸の如きもの怪か。

その後善次病死して棺を出す。時に大原村二森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで
雲中に入る。宝蔵寺の僧これを聞き走り来りり七重の袈裟を雲中に投ず。
声ありて曰く、「おいか」と。
棺おく雲散じ空晴れてこれを葬るという。是の世に希有のことなり。
知らず「おいか」とは何の言なるか。
ある人いふう葬礼の諸品を海水に洗えばすなわちこの怪異ありと。




相馬藩では確かに一行正式の記録として相馬藩政記に700人生波で溺死と記されているから慶長16年の津波の被害があった。
ただ正式な記録としてはこれしかないのである。
これだけの被害があったのにこれしかない、一方で戦で戦い誰が手柄をあげたとか世継ぎ問題とかは仔細に記されている
それより津波の被害のことをもっと記されてもいいはずである。


ただそこには当時の時代の影響があった。まだ相馬市がこの地域を支配していなかった。戦国時代であり戦乱の時代であり相馬氏が進出してきたのだがそのとき中世の館があり土豪が館を構えて各地を支配していた。
だからこの地方の歴史をたどるときはその中世からふりかえる必要がある
相馬氏の進出径路で書いたように相馬氏は小高から入って支配してきたのだが中之郷(原町)になるとまだ支配領域に入っていない、深野(ふこうの)とかは中世の館とつく地名が二つありそこで大原に支配地域を広げた。そこはまだ開墾されていない大原だったからである。
それから大原→小池→栃窪という径路で支配してきている
栃久保には相馬氏の家臣が入ってきているからである。
そして柚木も相馬氏の支配地域に入っていた。

つまりそれ意外は相馬氏の支配地域に入っていないので抵抗勢力として残っていたのである。
その中世の館をもって支配していた土豪は海岸線に勢力をもっていた。
それは鎌倉時代にもすでに船が使われて商業が行われ貿易が行われていた。
海岸線には港の機能がありそこに力を土着の豪族が住んでいたのである。
だから小高でも岡田氏がいて岡田館があり岩松氏の伝説でも鎌倉から船で烏崎に来て今の館に住んだ、その時船で来たとあるから船がすでに運行していた時代なのである。
ただ岩松氏の場合は磐城から船で来たらしいという説がある。
それにしても太平洋の荒い海をすでに船が荷物を積んで運行していたのである。
岩松氏が屋形に住み最近津波の跡に主に鎌倉時代の住居跡が発掘された。
つまり海老村は蝦夷のエヒから来ていて弥生時代の縦穴住居もあったということは古くから人が集まり住んでいた場所だったのである。そういう適地だったのである。

ではどうして相馬氏の相馬藩に津波のことが記されなかったのか?
そのことを解く鍵は中世の屋形の配置を見ればわかるし岡田氏とか泉氏は
相馬氏の支配下にはいったあとでも有力な相馬藩の地位についていた。
そして相馬氏の進出径路でわかるように中世の館のある海岸地帯は相馬氏は進出できなかった。
津波が来たとき被害を一番受けたのはこうした港をもっていて船ですでに貿易していた豪族であった。相馬藩政記はあくまでも相馬氏の記録でありこうした中世からもともと住んでいた土豪の記録ではない、だから相馬氏が戦いに勝ったことなどを仔細に記録しているのである。手柄話である。誰でも戦争では手柄話がしたい、それが話題の中心となる。
でもそれはもともといた中世の館をもって支配していた人たちがいてその人たちの関心はまた違っている
でも記録するのは相馬氏でありそうした土豪達ではなかったのである。

そして唯一津波の被害にあった当時の状況を語るのがこの伝説なのである。

中村城天守造営の時日々中村にいたり造工たり。
深更に及び家に帰る。円光塚よりいず。転々として大いなること茶銚のごとし。
その光青色なり。また垣の如きもの路に横たわる。善次中刀をぬきこれを切って
通行す、

天守閣造営のときとあるからこれはまさに相馬氏が中村に城を移して天守閣を作る時だったから慶長津波のすぐ後のことである。
ビスカイノの残した記録に中村にたちよりその時城を再建中だったというとき城の工事がはじまっていたのだが地震が来て破壊された、その時津波の被害もあったのである。

相馬利胤にビスカイノが建築中の建物が破損して再建中とあり中村の町も「海水の漲溢により海岸の村落に及ぼした被害の影響を受けたり


岩本氏の指摘ではそうなっているからこれは明確に津波の被害が地震の被害があった
でも利胤は津波については何も記していない

だからまちがいなく慶長津波の被害を語っているのである。
そういう大きな被害があり津波の被害があったときまだ相馬氏が支配した領域は狭いのである。小高は先に支配したとしてもあとは大原→小池→栃久保(栃窪)とかであり磯部館がありそこに佐藤氏が勢力をもち鬼越館を築いた。伊達氏との勢力争いもあり相馬氏は実際はそうした回りの勢力との戦いで精一杯だったのである。
そして津波の被害にあったのはそうした昔からもともといた海側に勢力をもった港をもっていた豪族だった。
その中世の館をもった豪族が慶長津波の被害を受けた。つまり相馬氏が進出する時、そうした勢力が津波で弱体化したのである。それは相馬氏にとって都合がいいものだったのである。
別に相馬氏の被害にはならないのである。今のように南相馬市全体という感覚は支配も政治も成り立っていないからである。
相馬氏はこの一帯を支配するために戦いに勝つことが一番大事だった
となれば当然そうした戦いのことを仔細に記録する、でも津波のことは相馬氏には打撃にならなかったのである。かえって好都合だったのである。
これは相馬藩ということが成り立たない時代だからそうなったのである。
伊達藩ではすでに津波にあった地域は支配下にあるからその被害が伝えられた。


ある人いふう葬礼の諸品を海水に洗えばすなわちこの怪異ありと。


海水でなぜ洗うのか?それは津波に由来しているのである。普通海水では洗わない、でも津波のときは海水で洗ったとなる。そういう津波の記憶がそうさせているともとれる
ここは何か津波をイメージさせるのである。

そして重要なのは相馬市の諏訪神社に津波の船つなぎ伝説とか残っている、それは全く根拠のないものでもない、なぜなら小泉川を津波が押し寄せればそういうことがありうる
津波の特徴はいろいろあるがまず川を遡るということに注意しなければならない
そして土手がないときだと津波の水が平地にあふれるのである。
真野川でも津波が上ってきたから危険だった。
でも真野川は河川改修して川幅を広くして土手も頑丈にしたのである。
その前は二回もこの辺では水害にあっている。真野川の下流は土地が低いのである。
岩沼の千貫山神社の繫船の伝説も当時の阿武隈川との関連で川を遡った津波でそこまできたということもイメージ的には無理がないのである。
大川小学校の悲劇も川を津波がさかのぼってきて起きたのである。

海老村の大工の善次の伝説は当時の状況を語っている、海老に津波があり大工の善次はそのことが気にかかっていた、でも相馬氏から中村城の天守造営にたずさわるよう要請されたことで悩んでいた。
天守閣造営より当時の中世の館をもって支配していた土豪の命令に従いたかったということもあるしそう命令されたこともありうる、屋形には二つの中世の館があり一つは寺である。寺も要塞だったのである。そういう中世のもともと支配していた土豪の支配下にあり一方で相馬氏が進出して天守閣の造営を命じられて板挟みで悩んでいた。
そこに津波も来て複雑な心境になっていたのである。
大原と関係していたのはまさに相馬氏が進出してきた径路にあり相馬氏の勢力が徐々に広まっていたのである。その圧力は大きなものになっていたのである。
それでこのような伝説が生れて残ったのである。


それから柚木も相馬氏の支配地域にはいった所でありそこに八沢浦での津波の伝説が残っている、「急ぎ坂」とかてんとう念仏などの伝説である。
これはやはりリアルな津波を経験した表現だから信憑性がある。
ここで注目せねばならないのは柚木でもそこは相馬氏の支配下にあったところであり中世の館をもった支配下から相馬氏の支配に移った場所なのである。
諏訪神社の船繫ぎ木の伝説も相馬氏の支配下になったときのことである。
それに何が意味があるのかとなると中世の館をもって支配した領域には津波の伝説は残っていないのである。
ただ双葉にも津波の伝説らしいものが残っている、でもそれが津波に由来するかどうかは不明である。魚畑(いよばたけ)という大熊町史にのっている魚が泳いでいたというけどそれは津波なのだろうか?
なぜなら大熊は相馬氏の支配地域に慶長津波の時は入っていない、それでもそうした津波の伝説が民間で残ったのか?その辺がまた謎になる

ともかく戦国時代の影響で津波のことは余り語られなかった。侍は戦争のことが一番大事であり相馬氏にとっては土着の中世の館をもって支配する土豪の地域は詳しく知ることができなかったのかもしれない、それでおよそ700人溺死とか記しただけだったとなる
この海老村の大工の善次の伝説を読み解けば津波のことが明確になるかもしれない、
とにかく問題はあまりにも資料がが少ないということだったのである。


相馬氏進出の経路 (文禄二年・寛永十八年総士録古支配帳に出てくる地名から探る)
タグ:津波の記録
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2016年03月23日

2016変化する相馬市南相馬市(写真)


2016変化する相馬市南相馬市(写真)

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津波の跡の磯部のソーラーパネル

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磯部水産加工場

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美里(南相馬市鹿島区)

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絆診療所



相馬市松川浦に新しい水産加工場ができた。ただまだ放射能汚染でこれからどうなるのか、でも新しい建物が建つことがこの辺は多い
磯部は一面がソーラーパネルになった。あれだけの大規模なソーラーパネルは見たことがない、あそこの土地利用はソーラーパネルしかなかったのだろう
もう何にも使えなくなった。山の奥の方にもソーラーパネルがありそれが景観を乱しているので嫌なのである。

相馬市と南相馬市は違っている。相馬市は普通に田んぼもあり米も作っていたから変化がなかった。
ただ津波の被害は大きかったのでその変化は激しかった。
この辺には百軒くらい新しい家が建った、結構いい家である。
値段は土地付きでいくらくらいしたのか?5千万くらいはしただろう。
土地が高くなったからである。ここに家を建てられたのは裕福だったのだろう。
ただ津波の被害にあった人は借金して建てたとういうからみんながそうとはならないだろう。
ただ外部からも原発避難区域の人も入ってきているからいろいろだろう
ここは本当に新しい町となってしまったのである。
美里団地などというのもまさに東京とかとにているのである。


南相馬市の鹿島区では「絆診療所」/か新しくできた。これは小高の医者である。
前が日当たりが良くて広いからいい感じである。
ここでは開業医は二軒しかなかった。一人は年取っていた。
でも今度前に整形外科をしていた所が「心療内科」になるという
医院としてすぐに使えるからいい、雲雀が原の精神病院の医者がここで開業するという
心療内科というと何かこの辺ではめずらしい、原町にはあった。
家族が認知症になりみてもらった。心療内科というのは現代的なものなのだろう。
ただこういう専門医院が一万くらいの町にてきるのはめずらしいと思った。

この辺は変わり方がとにかく激しい、ただ人間の社会は常に変わっているから変わるのだけど津波とが原発事故はその辺かを加速したのである。


タグ:磯部
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2016年03月11日

東日本震災からの復興をばばむ高齢化社会 (帰るのは残るのは老人)



東日本震災からの復興をばばむ高齢化社会


(帰るのは残るのは老人)


今日は東日本大震災のテレビ番組を見ていた。
そこで感じたのは高齢化して老人が多くて復興ができない
三陸の漁港でも跡を継ぐ若い人がいなと嘆いていた
それは前から言われていたことであり震災で顕著になった。

三陸の乾坤式場はビルが高いから三階より上に逃げて全員助かった。
その助かった300人くらいの人は老人だった。
老人の芸能発表会をそこでしていたからである。
それもなんか生き残ったのはいいが老人だからその人たちが復興の力になるとは思えないそれから水産加工場を再開しても人手がたりないとかで困っている
それで外国人の労働者が働いていた。
南相馬市でも外国人専用の宿泊所が作られたた。
ここも除染関係とかで人手不足なのである。
建築関係も人手不足でありこれは全国的にそうである。


奇妙なのは津波で死んだ人は老人が多い、その理由は津波など来ないと逃げろと言っても逃げない人が多かったのである。
津波など来たことがないから来ない言い張って逃げなかったのである。
それは老人だけではない、津波が川をさかのぼってみるみる水かさをましたのに逃げないで見ていた人がいた
この辺でも磯部辺りで津波を見に行きに海に行ったという人が結構多い
津波はチリ地震の津波しか知らないからそうなった。
津波の恐ろしさを肌で知っている人はいなかったのである。

ともかくいろいろ放送していたが高齢化社会というのが今回の復興するにしても大きな足かせとなっている
自分も老人だからわかる、津波の被害地に商店を再会するにしてもそれだけの金をかけて借金してまでしてやるとなると不安でありできない
ある人は学習塾をはじめるのに一千万の資金がかかるが用意するのが大変だけどここで自分は生きるから再会するとか言っていた。
そこでもそもそも少子高齢化で子供が減っているのだから子供相手の商売がしにくくくなっている
小高でカバン屋をしていた人も中学生とか高校生にカバンを春に売るからいいと言っていた。
それは定期的な収入になるから商売になる、やはり商売は定期的に収入にならないとつづかない、定着できないのである。

ともかく小高のことを批判してきたが整形の開業医が放射線量が0、1なので帰る決断をしたという、小高は街内とかは本当に低いから帰れる
でも問題はすでに各地に避難して生活も避難した場所ではじめている人もいる
帰るのは一割くらいしかいない、その一割が老人が多いのである。
そういうことでどうして復興できるのか、少子高齢化社会の矛盾が露骨にこの辺では現実化したのである。
そして街が暗くて防犯に良くないというのもわかる
一割帰っても街は相当に暗くなることでいやがっている

ただ原発避難者は他の津波の被害地域より恵まれている、母子家庭のことを言っていたが本当に賃金も10万に満たないとか安い、もう生活できるかできないかのギリギリである復興住宅に入っても金がかかるとか嘆いている
この辺でも老人が多いから国民年金で暮らしている人が多いからもっと補償金を継続してもらいたいという虫のいいことを要求している
それは別にみんな同じなのである。原発避難者だけがいくらでも補償金がもらえるということは今でも回りの人から反発を受けているから自重すべきだろう。


自分の考えでは地元の人たちだけでは原発避難区域などは復興するのは無理ではないか?
第一双葉とか大熊などはもう帰るということはない、他に家を補償金で建てた人が多いからである。
そこは今度は放射性廃棄物場として土地を売ることになる
それで神社だけを残してほしいというがそれも無理なみたいだ。
するとその地域の歴史は消失する、でも他で十分に老後を余裕をもって暮らせる補償がある
だからその人たちは余裕がある、かえってこれで老後も補償されたから良かったと思う人もいるだろう
一方で小高などは中途半端なのである。確かに補償金もらったがすでに打ち切られている今度は復興住宅に入っても家賃とかいろいろ金がかかる、帰っても不便であり嫌だいうのもわかる。

いづれにしろ少子高齢化社会で政府が移民を受け入れるとか盛んに言うがそれも無視できなくなっている
限界集落とか過疎地とか原発避難区域でも津波の被害地でも若い人がいなければどうにもならない、するとどうするかというと移民でもいれる、外国人をいれて労働力を確保するとか考える、何か他に方法がないからである。
例えば原発で放射線量があまり高くない所は住居と空いた土地を提供すれば住む人がいるかもしれない、なかなか家とか土地が提供されないので移住できない人も多いからだ。
田舎に住みたいという人はいる、そういう人も受け入れるとか何か復興させることを考える必要がある
こういうふうになるともう追い詰められているのだからやる他ないともなる
だから新しいものを取り入れるチャンスでもある

老人の心境とはどういうものかというと要するに人生は終わりである。
ただ昔を回顧することであり思い出を生きるのが老人である。
そして老後の時間は実は意外と貴重なのである。
なぜなら残り少ない時間をどう費やすかが大問題になるからだ。
例えは芸術家とかなると最後の作品の総仕上げであり時間が貴重になる
自分は介護に十年間費やしてその間旅ができなかった。
その時思ったことがもう一度富士山を見たいということだった
それもできないのではないかと真剣に思っていたのである。


とても新しく街を復興させるとかに時間を費やすことはできない
自分でも望むことは難儀な復興のことではない
これまでしたことをライワークを完成することである。
だから震災から5年すぎたけどまた帰って復興するのに五年かかるとかなると
もう死んでいるかもしれないとなる
つまり復興するにもも老人は復興できない、ただ昔を偲ぶだけだからである。
老人の時間感覚は時間が過ぎるのが早いことも影響する
5年すぎたけど後五年復興するのにかかるのか?そんなに金を費やしてももう年でできなくなる、借金だけ残ったらどうするのかなど言っていたこともわかるのである。
そのうち体も弱り動けなくなるとか心配する
このことが少子高齢化社会が津波の被災地でも原発避難者にも共通して復興をむずかしくしているのである。




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津波から五年過ぎてふりかえる (彷徨う津波の死者(詩)ー何故の犠牲だったのだろ)


津波から五年過ぎてふりかえる


(彷徨う津波の死者(詩)ー何故の犠牲だったのだろ)


彷徨う津波の死者

何故にその無垢なる子を
津波はのみこむ殺せしや
何故にこれぼと多くの人を
津波は飲み込み殺せしや
人は故に海をこの度は憎む
天地に情なし非情のみなりや
人の非情はあれば何故に
天地にかくも非情のありや
その非は人にありや
そを問えども海は語らず
天も地も語らずままなり
何故の仕打ちなるか知らじ
人は天地を憎み海を呪う
しかし天地は海は答えじ
戦争の死は人の非のゆえ
悲劇にも必ず人の非のあり
津波は何故なるか知らじ
死者の霊は未だに彷徨い
その所を得ずかつてありし
その場に執着して彷徨う
ああ 我はここにありにしと
家族とともにありにしと
また今生きる人もそこを離れがたし
死者もまた生者もこの突然の死を
いかにしても理解しえじ
かくして五年は過ぎにけるかな
歳月は過ぎゆくものなり
鎮魂はいかにしあれや
死者はなお彷徨いつつ消えじ
無念はそこにとどまり消えじ
一万数千の霊はいかに慰めむ
その残りし者の嘆きは消えじ
慰める術もなし
その悲しみは深くここにとどまり
その傷痕は癒えざりしかも
この津波は天地の海の怒りなりや
この世の乱れへの警告と罰や
何か人に対する戒めや
人の世の非情と乱れ故や
そもまたありうるべし
人が世が非情になるとき
自然もまた非情になるべしや
獣とて愛を注げば
その獣性は和らぎぬ
人の心が獣性帯びて乱れるとき
天地も海も怒りを現す
その犠牲となりしが津波の死者
また自然は人の世のことは知らじ
ただその自然の法則にして動く
その法則に逆らえば従わねば
自然は人を従わせるものや
故に人は自然の法則を究め知るべし
すでに大津波のありしをし忘る
その人の忘るることに非のあり
自然に非はなく人に非のありや
大災害を逃れる術はあるべし
ただ人はその対策をたてず
故に原発事故も起こりしなり
原発事故は天災にあらじ
人災にして自然に非はなしと
ただ人は天地を究めることならじ
故に自然に神に従うほかなし
人知を越える神の成す業を知り得じ
故にその文明も思わず崩壊する
人間の奢りは一瞬にして砕かれ無に帰する
津波はその恐怖を現実化せしもの
故に神を畏れよ,科学に自惚れるべからじ
神は一瞬にしてこの世を亡きものにする
その恐るべき力を津波が示す
恐るべき人にあらじ神にありしと
未だに人は津波に畏れおののくなりしを


今回の津波はいくら考えてもなぜかわからない、それは人知を越えたものだからそうなる津波で死んだ人は家族を失った人は海を憎むというのもわかる
何の非があってこんな仕打ちをするのかということがわからないからである。
戦争とか他に人間の悲劇はいろいろある、でも戦争になると戦争を引き起こしているのは人間なのである。神ではない、人間に非がありそうなっている
だから戦死者は何で死んだかとなると人間の罪とか人間の過ちの故に死んだとなる
恨むべきは神ではないだろう

津波は人間に非があってそうなったとのかというと不明であり不可解になる
ただこれはあくまでも自分の見解だが貞観津波のときは蝦夷征服とかの国家統一のための戦乱の時であり多くの犠牲者が出た、その鎮魂のために建てられたのが清水寺であり祇園祭りもそれに由来していると言う人もいる
そういう人間が多数死に犠牲になるとき自然もまた乱れる
慶長津波も戦国時代の時起こっていてその後収束したのである。
そして今回の津波もやはり世が乱れている、それは自分の一身上に起きたことを書いてきたが人間は利己主義が極端になり非情化している
自分が病気のとき火事場泥棒とか借金のために脅迫されたとか悲惨なことを経験してきた何か現代はモラル的に荒廃している、金だけが唯一の価値となって他者をかえりみない
自分だけがよければいいんだとなっている
それが自分の一身上に非情がそうだった、ただこれは自分が楽した結果として自分のカルマとして決算されたのである。
だからいちがいに今の世の世相からなったとも言えない

そうはいっても今の人間の価値は金だけになり非情化している、そういう自分もそうなのである。
なぜ外国に投資しているのか?それは自分だけが助かりたいという利己主義なのである。
外国に金をあづけいれば日本が困窮したときその金で助かるとか考えている
金持ちはグローバル化社会では日本にこだわらず日本が困窮したら外国に脱出しようとしている
中国人の大金持ちもそうであり国の支配者層自体が内乱とかなったら国をぬけだして外国に暮らす算段をしているのであ。
つまり自分だけは助かりたい、そんな困窮状態にならないように手を打っているとなる
それも利己的なものだけど金持ちはどこでもそうなる傾向がある
だから自分はそうして投資していることに疑問がある、たいした金でもないし今回かなり損しているはずでありもうかってもいないけどそういうふうに資本主義というのは利己心を助長する


そのことは原発避難民にもいえたのである。もう避難民は帰らない、荒廃した故郷に帰るより他で補償金で家を建てたり商売はじめたりとしている。
つまり故郷は捨てて補償金で自分たちがいい暮らしをすればいいとなる
これはまた事情が違うからいちがいに悪いとは言えない
でも何か本来の復興を目指すのとは違っている、自分だけが良ければいい、補償金で各自が自分でいいと思うことを実行すればいいとなると故郷には帰らないとなり故郷はもう荒廃して復興しないだろう。
ここにも利己的な自分だけがよければいいということが復興させないのである。
だから不思議なのは戦争を考えるとその善し悪しは別にして国という全体のために死んだ、犠牲になったということが今になると考えられないともなる
ともかく全体のために国の存亡をかけて300万人も死んだからである。


今なら故郷であれ何であれそうした全体のために死ぬとか犠牲になる気持がないからである。
自分だけが助かればいい、国でも何か困難があれば外国に脱出すればいい、そのために金を外国にあづけておくとかなっているからだ。
もう故郷というと狭い世界だけとそこにも全体のためにという思考がない
ただ自分だけが良ければ助かればいいとかないのである。
そういう社会が資本主義だからそれを否定しては生きられないというのも現実である。
でもそういう利己主義的資本主義がいづれ恐慌とかなり崩壊する
そういう兆候も世界的景気後退とかで出はじめている
つまり何かそういう大きな転換期にきている、だからこういうとき巨大な津波が襲った
それは貞観津波や慶長津波の時代とにているのである。末世だということである。


世界がそのために根本的に変わらねばならなくる、それほどのことが今回の津波や原発事故には空想ではなく現実問題としてこの辺で現れたのである。
こういう時は自分のことだけを考えて全体がだめになるとき自分だけが助かることはない国が滅亡してゆくようになればシリアのように難民化したりみんな助からない
自分だけが助かろうとしても避難先から追い出されたりもう逃げ場もない
そうなら国のために戦って死のおうとかなるかもしれない、それは戦争の時そうなったので経験ずみである。
日本はそういう危機のさい協力一致する文化がある、それが島国の歴史の強みでもある
ただ今回はどうなるかわからない、そうした心すらなく利己主義化しているから日本自体がたちまち崩壊してしまうかもしれない
ともかく時代の転換期にこの巨大な災害の津波に特に東北が襲われた
それも自分の住んでいる所が襲われたということはやはり何か意味あることだったのか?
それが自分に課せられたテーマともなったからである。

タグ:津波の死者
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2016年03月10日

人間の弱点は空間でも時間軸でも認識するのは限られている (さかのぼれるのは祖父母の代、地理でも全体を認識できない)


人間の弱点は空間でも時間軸でも認識するのは限られている


(さかのぼれるのは祖父母の代、地理でも全体を認識できない)


なぜ津波や原発事故の被害がこれほどに拡大したのか?
それはやはり人間の弱点が現れたはいうことがある。
前にいろいろ追及して書いたけどこの社会を科学的にでも歴史でも理解しようとするとき空間軸と時間軸が欠かせない、空間軸になると地球とか宇宙まで拡大する
月が潮の満ち引きに関係しているとなるとそうである。
今回の津波も科学的に追及してみれば何か宇宙と天体とか月とかに関係していたかもしれない
地球は一つでありどこかの異変が必ずどこかへ波及する、地球は分離した別々のものではない
だから最近台湾で地震があり被害があり台湾でここ20日内に大きな地震があるというとき台湾は遠いからそんなことがないとも言えないのである。
地殻変動が大規模に起きるから影響する

自分は旅行して地理に興味をもった、地理を離れて歴史もないし政治でも何でも理解できない、イスラエルが地球の中心と神が定めたというとき神は地を造ったときあらかじめそういう予定をして造ったとなると地球というのは地理は神が定めたものだとなる
まず地理というのは地図を見たりしてもほとんどわからない、そこに峠があったとしても立体地図で見てもわかりにくい、つまり体感できないからである。
自分は自転車で何回も例えば飯館村へ上ったから体感的に飯館村が高い所にあることを体で覚えているのである。体に記憶されている
でも世界になるとそんなことはできない、モンゴルの大草原でもそれを知るにはバイクとか車で実際に走りその壮大さを知る、そういう体感しないとなかなか地理は知り得ないのである。

地球は全体であり地理も一部分として全体から切り取ったものとしては理解できない
どうしてもそこで人間の視界は狭いものになる、狭い範囲で世界を理解することになるから誤解が生れる
実際テレビという狭い画面で見ても地理は何にもわからない、巨大なスケールなものは人間は認識できないと前に書いた
巨大なものは見えないのである。人間は狭い極小のミクロな世界で全体から見れば日々生活している。
大きなものは認識できない、だから地殻変動とか地球規模で動くものを知ることができない、地震とかはそのために予知できないのが人間の知の限界である。
人間の営みでも経済でもグローバル化したら認識できない、金がどう動いているのか何百兆という金が一日動いたりしたらそれは何なのだろうとなる

だから金のないものが突然遺産とか何か株でもうけたとか入ると困惑するのである
自分は食事は千円以上の食事をしたことがない、旅しても他に使うから食事で節約していたのである。
だから今余裕があるからと贅沢できない、安い食事をするようになる
でも1500円くらいの外食をたまにしてやはりいいものが食べられるなと思った。
でも今までの日常ではそういうことがないから人は小さな金で暮らしている人は大きな金を使えないと思う、かえって浪費したりして無駄にしてしまうのも多い
自分にとって百万を使ったことがない,すると百万はどう使うのかとなるとイメージできないのである。
ただ庭作りして二百万くらい使ったのが一番大きな金だった。自分は庭が好きだし花も好きだから夢は自分好みの庭園を造ることだった
でもそうなるとそれは何千万とかさらに金がかかるからとてもできない
自分が大金があればその金でしたいとなるとそうなる

人間の盲点はこうして日々生活していることしかから発想できないのである。
それは空間的にもそうなのだが地理でもそうなのだが時間軸としてもそうである。
人間が時間としてリアルにイメージできるのは祖父母の代までである。
それ以上は架空的なものとなってしまう。
自分の父親は明治生れだから明治まではまだリアルである。
ところが江戸時代の前の年号を墓とか碑から調べて郷土史に興味をもった。
でも文久だと天保だとか天明だと元禄だとかいろいろ年号がある
天保となると実は明治で活躍した人が生れたのは天保なのである。
すると明治が祖父母の代でありその上になるとあいまいになる
江戸時代は何か時代が混同する、天保とかが遠い昔のように思っていたり
古い時代の元号の順序を逆にしたりして混乱する

天明(1781)天保(1830)明治(1867)であり意外と天明に大飢饉があったが50年すぎて天保になっているとしたらそんなに遠くないが何か遠いと感じている
そしてこの年号は天保が天明の前のように思っていたり順序が逆になることが普通にある第一自分の母親は大正生まれであり明治と大正を逆に思う人はいないのである。
ここにも時代というのがいかに誤解するかということである。
時間がすぎてしまうと時間による誤解が生まれる、それは歴史を理解するとき必ずそうなる
つまりせいぜい祖父母の代、百年か百五十年くらいは時代的にリアルに認識するがそれ以前になるとリアルに認識できない、それが何か学問的なものとなってゆく
そこに人間の大きな盲点となりそれが錯覚をうみだしたりしている
津波でも相馬藩の記録に一行700人溺死と記されていた、それは400年前なのである。
400年前となるからもう完全にこの辺では忘れられていたのである。
それが悲劇に通じていたのである。
その一行も忘れられていたし取り上げる人もいない、この辺は津波は来ないという確信までにいたっていたのである。

時間軸でも人間は長期的に世界を見れない、毎日今の日々の生活に追われている、長期的に見れないことから津波のような大災害を予知できない、長期的にものを見ることが人間はできない、それは長期的な視点で考えることができない
ただ科学の方が長期的視野で考えていた、東電では津波が来るから備えねばならないと報告していた。科学者は津波が来ることを予想していた。
ただコストとかでそれをさけていただけである。
もし津波が来るということで備えていれば回りの人も津波が来るということを実感して備えたり避難するにしても助かる人がいたかもしれない、その差はあまりにも大きすぎたのである。
科学の方が今では長期的視野をもてる、実際に津波が起こる七年前にボーリング調査をして相馬市の松川浦から離れた奥まで貞観津波の砂が発見された
ただそれは慶長津波ではなかった、なぜか貞観津波の方がボーリング調査で明確に掘り出されている
貞観津波はそれだけ慶長津波より甚大な被害があり大規模なものだったのかとなる
それは800年代であるからそこまでさかのぼり明確に時代がわかる
科学の方が時間軸で明確に時代を特定できるとなる


人間が時間軸で長期的に見れないというときそれは将来に未来にかかわる、長期的に見れないということは今しか考えない、何でも今が良ければいいんだとなってしまう。
原発が危険だけど今がそれで電力をまかなうからいい、放射性廃棄物がプルトニウムなら二万年消えないというけど今が良ければそんな未来のことは考える必要がないとなる
そしてそういう危険なものでも政治とか一人の人間の野心家によって利用された
原発を推進した正力松太郎などがそうだった。
そしてまだ時期相応だということを湯川秀樹博士はそういうことを言っていた。
原発は急いで導入した結果が不備があり事故につながった面もあった。
時間軸で長期的視野で成すべきものが急いだ結果事故につながった。


現代の問題は何か長期的視野がもてない、全体的視野がもてきない、一見これだけ情報が流通しているから全体的に長期的に考えられるはずだとなるが現実は社会自体がグローバル化したらかえって世界が理解できなくなったり時間的に急ぎすぎる
江戸時代は基本的に農業だから自然のリズムの中で暮らしていたからかえって長期的に物事を考えられるともなる、木材でも利用するには50年もかかるとしたら時間軸で長期的視野をもって生活していた
江戸時代は十代とか職人でもつづいているのが特徴であるからだ。
現代はかえって今にすべてのエネルギー使い尽くすとか今にすべてのエネルギーが費やされているから資源でもなんでも消尽されるのである。
「災害は忘れたころにやってくる」というとき人間はせいぜい祖父母の代までしかリアルにイメージできない、言い伝えでも祖父母から聞いたものならまだ生々しいものとして聞けるがその前になると学問とかなり文献の調査とかなり庶民は関心もなくなるのである。今回の津波原発事故は5年すぎたが他では関心がなくなっているというのもそのためである。人間ほど忘れやすいものがいない、これだけの大災害でも忘れてゆく
ただ5年ではまだまだ生々しい、3月11日はちょうど命日と同じである。
まだ津波の被害地から何か死んだ人の霊魂が浮かんでくる感じになる
20011年3月11日は特別な日であり冥福を祈る日であり忘れてはならない歴史的な日となったのである。


人間の盲点は巨大なものが認識できない

(人工物でも巨大化すると認識できなくなりそれが大きな災いになる)

タグ:空間と時間
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2016年02月07日

南相馬市で朝に地震を感じた (震度⒈にもならなっかのかー小さい地震も連続すると危険)


南相馬市で朝に地震を感じた

(震度⒈にもならなっかのかー小さい地震も連続すると危険)


平成28年02月07日19時30分 7日19時27分頃茨城県南部M4.6震度4
平成28年02月07日11時42分 7日11時38分頃宮城県沖M4.0震度1
平成28年02月07日10時17分 7日10時11分頃茨城県北部M3.9震度1
平成28年02月07日10時13分 7日10時09分頃茨城県北部M4.3震度4
平成28年02月07日01時51分 7日01時46分頃父島近海M4.2震度1

朝にかすかな地震を感じた、何時ころだったか?朝の10時か11時か、10時だと茨城県北部の地震が影響したのか?
この辺ではあまり感じなかったろう。たまたまゆっくり座っていて二階で感じた。
自分の二階は一階よりゆれを感じやすいからだ。

今日は日本で四回地震が起きている。19時30分のゆれは実感では相当ゆれて怖かったらしい、直下型地震だから余計に怖かったらしい、その感想を2chで読んだ
なんか気象庁の震度4としてもそれぞれ感じ方は一様ではない
今回は直下型で震度4でも怖いとみんな感じて書いている
関東大震災級の地震が来るとも騒いでいる


要するに大きな地震でも必ず前触れがある、それがあとになってわかる
大きな地震が来てその前触れがわかる
3、11の津波の地震でも頻繁に小刻みに地震が頻発していたのである。
ただ実際は津波が来てからそのことを分析していたのである。


南相馬市辺りでは今朝の地震を感じた人はまれではないか?
その地震が夜の震度4の地震につながっていたのだ
つまり朝のかすかなわずかの揺れの地震が大きな地震の前触れだったのだ

なんか地震がつづいているから関東では東京では不安になっている
やっぱり地震でも前触れがあるからそれを見逃すわけにはいかない
震度1でも大きな地震の前触れのことがあるかもしれない
大地震でも5年後くらいにまた大きな地震があったことが記録されている
そろそろまた大きな地震が来るのか?
それはどうしても関東地方であり東京に来るのか?
やはり注意すべきときが来ているのか?
小さな地震でも連続するときは注意すべきだろう。

タグ:茨城地震
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2016年01月15日

海老千軒と津波に家を流された人が言う (海老の発掘された跡は800年前のもの?)


海老千軒と津波に家を流された人が言う

(海老の発掘された跡は800年前のもの?)

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字山地やまちの稲荷神社は、楢崎千軒なの鎮守神であったが山津波で一夜にして流され、現在の阿弥陀堂の地に移した。しかし再び水害にあい現在地に移建されたという。楢崎千軒の消滅について、旅の行者の制止を無視して大道おおみち沢で毒もみ漁を決行したからとの伝承がある。


琵琶湖岸を南北に走る賤しずヶ岳たけ山系の西野山丘陵に立地。西野山西麓湖岸阿曾津あそづに、往古阿曾津千軒とよばれた大集落があったが地震によって一村全滅し、逃れた村人は当村、松尾まつお(松野)・熊野くまの・東柳野ひがしやないの・柳野中やないのなか・西柳野・磯野いそのの七ヵ村(七野)に分住。


広島県福山市の市街西方を流れる芦田あしだ川。草戸千軒町くさどせんげんちょう遺跡は、その芦田川河口付近にあります。「草戸千軒」の名は江戸時代中期に福山藩士が著した地誌「備陽六郡志」に「草戸千軒と云町有りける」と記されていたことに由来します。同書によれば、寛文13年(1673)の洪水で中州(中島)にあった草戸千軒は町ごと流失、その後、中州に民家が再建されなかったため、中洲は廃墟になったといいます。


福島県会津若松市の「千軒道せんげんみち」です。「日本歴史地名大系」は次のように記します。

滝沢町妙法寺前たきざわまちみようほうじまえ通より西の方紫雲寺前しうんじまえ通に至る、長さ一町五六間・幅二間。昔はこの辺りに家数一千軒があったのでこの名がついたというが、化政期には寺院のみで他の居宅はないという(新編会津風土記)。


過ぎし日の繁栄を物語る「千軒」地名

昔、八幡の町は「上千軒、下千軒」と呼ばれ、大いに繁昌していたが、そのころの事である。1軒の酒屋があり、こさじという下女がいた。この酒屋へ顔が赤く全身に毛が生えた猩々(しょうじょう)が来て、酒を飲ませよと仕草をし、酒を出すと飲みほし、盃に血を残して立ち去った。猩々の血は高価なものであった(または、残した血が銭になった)。強欲な酒屋の主は猩々を殺して血を採り大金を得ようとたくらみをした。それを知ったこさじは、猩々を憐み、次に訪れたときその事を告げた。猩々はそれでも酒が欲しい、もし殺されたらその3日も経たないうちに大津波がおしよせるから、そのときは末の松山に登って難を避けよという。猩々が酒屋を訪れると、主夫婦は大酒をすすめ、酔いつぶれた猩々を殺し、全身の血を抜き採り、屍を町の東にある池の中に投げ棄てた。その翌日、空は黒雲に覆われてただならぬ様子となったので、こさじは猩々が語ったことに従い、末の松山に登って難を避けた。この津波で繁昌していた八幡の町は、家も人もすべて流されてしまった。猩々の屍を棄てた池はのち「猩々ヶ池」と呼ばれるようになった。

多賀城ー末の松山ー伝説



海老村の人で津波に家を流された人とあった。ちょうど海に面した角の家だった。
その人は船に乗って魚をとっていた。烏崎の港で船に乗っていた。
右田とか海老村でも烏崎の港で船に乗っていた人がいた。
海老村でもいたのである。ここは前は港であり帆掛け舟が出ていた
ここで津波の跡に発掘をしていた、その跡は広く古くからここには家が建ち栄えていたとなる
その場所は右田より高い場所にあり住むには適地だった。海老村の方が右田より古いことがわかる。
海老という地名が蝦夷(えみし)蝦夷に由来しているということを書いた
海老はエヒであり古い地名なのである。だから800年前というのも本当なのか?
文化財課に問い合わせたらまだ調査中であり3月に概略がわかるという。
海老村については自分も津波のことでいろいろ調べた。
海老村の大工が津波の後に中村城の天守閣の建築にたずさわった伝説が鹿島町誌に記されている
その伝説と本当に不思議なのである。何らか津波があったことを示唆しているような文である。これを解明すれば400年前の慶長津波のことを知る唯一の手がかりになるかと思った。
なぜなら時代が一致するからである。慶長津波のすぐあとに中村城の天守閣の造営がはじまったからである。それはなぜかとりやめになった。

その人が海老千軒だとか言うときそれもこうした遺跡があることは根拠がないととんいえない、千軒という地名は各地にあり何かしらで栄えた町が災害などで消失したためにそういう地名が残っている。
つまり津波だけではない、洪水もあるし、鉱山で栄えていた地域もあり家が繁華に建ちかつて栄えていた。それが消失したというとき今回の津波と共通しているのである。
草戸千軒は遺物が発見されているから確かである。それも最近発掘されたのである。
だからあそこの遺跡も津波の手がかりになるのかもしれないと思った。
何も津波の手がかりになるものがないから時代がわかればもしかしたら慶長時代の津波とかでやはり千軒が消失して海老も海老千軒とか言われたのかもしれないとかなる
津波で消失してまたそこに家が建つようになったのだろうか?
そういうこともありうるだろう。時代は全部の遺跡で同じではないということは時代的に継続して住んでいたのだろう。海老は高いから津波が来ないと思っていたからである。

千軒で有名なのは多賀城である。ここには明確に津波の伝説が残っているし末の松山はあまりにも有名である。
だからコサジの伝説があるけどこれは何を意味しているのだろうか?
猩々(しょうじょう)とは架空の動物のことである。
何かそれは神の使いのようなものかもしれない、その神の使いをだましたことで津波が襲った。そういう縁起を語っているのかもしれない、津波のことを明確に語っているのは珍しいのである。
自分も津波がくる半年前に犯罪にあいそのことで半年くらい激しくその人を呪った。
そしてあの津波が襲ったのであり不思議なのことだった。ただその前に原町で女子高生の殺人があった。それは津波のすぐ前だったのである。
その女子高生の死体は発見された。津波のような災害はやはり何か特別でありそれが何かと縁起が語られるたのだろう。他にもそういう人をだますとか何か悪いことをして津波がきたということは語られている
人は何かむごいをことをしたということでそれが縁起となり語られることが伝説にはある

この津波で繁昌していた八幡の町は、家も人もすべて流されてしまった。猩々の屍を棄てた池はのち「猩々ヶ池」と呼ばれるようになった。

これも何か悪いことをした罰として津波が襲ったことを生々しく語られている。
とにかく人間には明らかに罰が与えられるのである。原発事故は人間の奢りの結果であることはまちがいないからだ。
末の松山とはそれだけ津波を伝えた伝説が歌になって残っていたのである。
末の松山波こさじかも、、、というのが今回の津波で思い知らされたのである。
こさじという名前はこさじから来ていたのか?
海老村に残された天守閣造営にたづさわった大工の伝説の意味がわかれば何か大きな手がかりとなる
発掘された遺跡のことで何か津波のことでもわかったりしたら凄いと思うがなかなかむずかしいだろう。時代特定はできれば海老村の歴史をさらに掘り下げることができる

その海老村で家を流された老人はこの辺まで防災林になる、右田で木を植えた。
松は津波には弱かった、だから混生林にするといい、でも木が育つには50年とかかかるからもう見れないなと言った、子供は見れるだろうと言ったら子供はいないよ

「ここまで防災林にする」
「そうか、でも木が育つには50年はかかるからな」
「まあ、俺たちはみれないな」
「そういうことになるな」
「松原がなくなって木陰なくて夏は困る、あの松原はいい松原だった,松が太く古い松だった」
「家もなにもなくなった」
「子供はその防災林が成長したのを見れるだろう」
「子供はここにはいないよ、みんなここから出て行ったよ、帰らないよ
もう親が帰らないし子供も他の土地でなじんでしまうから」
「そうか、他の土地に移る人が増えたのはここも同じか」
「そういうことだな」

津波とか原発事故周辺では人口の流出、それも若い人の流出が最大の問題なのである。
移動が容易な時代はどうしても便利な所に移ってしまう、一旦移ると子供もそこが故郷になってしまうのである。そして親も帰らない、子供も帰らない、老人だけが取り残されるそれは原発の避難区域でもそうでありそのことが一番の打撃だったのである。




タグ:千軒
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2015年11月28日

犬に引っ張られて津波から助かった人 (動物は危険な場所からすぐに離れる)



犬に引っ張られて津波から助かった人


(動物は危険な場所からすぐに離れる)


病院で患者が話していた。一人の女性は烏崎の人であり実際に津波の被害にあった人である。孫の父親が35才くらいでなくなったとか言っていた。
もう一人は男性であり津波の被害にはあっていない
津波ではよく津波はどんなものかと見に行って津波にのまれたということを聞く
そこで津波のときは海の水がひくということがあった
地震が来て津波が来るとき犬は危険を察して海から離れようとした
人のように海を見に行ったり動物はしない
動物は本能的に危険を察すれば逃げる
人間のように津波がどんなものかなど見に行かない
それで犬に連れられて引っ張られて津波からその人は助かったという


その人がしきりに言うのは老人が多く死んだのは逃げなかったのは
何か家とか物に執着するから逃げなかったという
老人は確かに何か家とか物でもそれを全部捨てて逃げるということに抵抗があった
すくにみんな捨てて逃げることがとっさにできなかった
ただこれは老人だけではないだろう
老人にはなにか家とか物に執着することが強いことは確かである。
それは老人の習性かもしれない、要するに老人はまた動きが鈍いということもある
それで老人の被害が大きかったのか、それよりも老人が現実に多いので割合的に被害が大きくなったとも言える
でもやはり老人が津波など来ないと言って死んだ人が多いことは確かである。
そういう話を結構聞くことは老人が逃げないで死んだ人が多い証拠である

結局動物は危険を察したら一目散に逃げる、何も家ももっていないし何も身につけるものもない、動物は毎日食べるものがあれば満足である。
危険なときに何かもってゆくものもない、ただ身一つで逃げればいい
そういうことで動物は危険をいち早く察して助かるということはあるだろう
津波ではいろいろな教訓を残したことは言える


烏崎村の被害はひどかった、何も残っていない、50人死んだという
その女性の死体に身につけていたもの高価な指輪とかがとられていたという
他にも身につけていたものがとられたと言っていた
まだ金が紙幣が入っている袋などを中学生か高校生が盗ったとして警察に取り上げられたとか何かあったらしい
他にもあのとき混乱していて金目のものを探していた人がいたのかもしれない
大金を拾った人もいたらしい、それは本当だろう
烏の人は漁業もしていたしもともと火力発電所が建ったときも補償があったから金はある人はいた。
だからタンス預金をした人がいた、その女性が言うには香典をもらったばかりのを家に置いていたときそれをなくなっていた、盗まれたと言っていた。
また流されたのもある。磐城の豊間では近くに銀行などなくタンス預金した700万円の金をもって逃げようとして津波にあい流されたとか聞いた。
こういう話は本当なのだろう。


自衛隊がそうした死体を最後まで探していた、それで自衛隊員がそうした金を盗んだことがわかりやめさせられたということも実際にあった。
自衛隊員は泥の中から最後まで死体を探していて苦痛で自殺した人が三人くらいいた。
あのような異常な状態では人間の心理もおかしくなる
ただ人間はどこまでもどんな状態でも欲深い、欲がからんでくる
かわいそうだなと言う人もいるがそこで金目のもの金を探していた人がいたのも事実なのである。
そういことは一身上で自分も経験している
あれほどの被害でもそもそも人間は自分もそうだが自分が被害がなければ無関心になる
人間は相手が苦しんでいても何か自分が被害に合わない限り無関心になる
そししてかえって相手が弱ったとき苦しんでいるときその弱みにつけこみ欲を満たそうとする、それが人間の怖さだった。
そんな状態でも人間の欲が働く、それは死人から髪の毛をぬいた「羅生門」の物語とにている。


このことは別に人間に普通にあることでめずらしくない
そもそも人間が死んだらあとは子供でも遺産争いしかないとかその人について思っていることは財産だけだというのが普通である。
あいつが死んだら金をたんりまりもっているようにだからあの金は誰がもらうのかということが関心の第一になるのが普通である。
人間の欲がそういうふうに無情にさせているのである。
現実に自分が病気になり介護になりそういう時実際に自分もこれと同じことを経験したからである。
相手がどうであれただ金だけが求めてきたからである。
借金している人もそうである。まず借金している人は犯罪の動機になっていることが実に多い、それは別に推理小説だからそうなっているのではない、現実に多いから現実を反映してそうなっているだけである。


まず死人から金目のものはぎとるということは人間の深い欲望の現れであり醜さである。それを生々しく表現したから「羅生門」が名作になったのである。
芥川龍之介は「蜘蛛の糸」でもそういう人間の欲の深さを表現した。
人間は生きている限り欲から離れられないのである。
そして借金のように追い詰められた人間は何でもする、殺人までするようになる
それもまた人間である。だからそうした追い詰められた人間に出会うと犯罪にあうから怖いのである。
余裕のある人間はそんなことはしない、津波で泥の中を金や金目のものを探しには行かない、つくづく人間は余裕がなければみんなそうなる
その人が悪気がなくてもそうなってしまうのが人間なのである。


いづれにしろ津波や原発事故などにまつわる話は尽きない、5年たってもまだ語られないことがあるだろう。そんなに一人一人に聞けないからである。
ただそこで同じようなことを聞けばそういうことは人間の共通した心理だということもわかる。火事場泥棒も常にあり人間の醜さも同時に現れる、ただそういうことはまだ明らかにされていないのである。
タグ:火事場泥棒
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2015年09月29日

なぜ海岸に家が密集していて津波の被害にあったのか? (農地は日当たりが良い所を選び家は山陰の日影に建てる)


なぜ海岸に家が密集していて津波の被害にあったのか?

(農地は日当たりが良い所を選び家は山陰の日影に建てる)



無駄に広い宅地にするくらいなら、少しでも農地にする方が良い時代だったのです。
だから田舎では山裾の日当たりの良くないところに家を建て、日当たりの良い土地は農地になっています。
http://okayama-inaka.com/hudosan/27-totinotokusei.html

とくに田んぼは広範囲に水でつながっており、そこに生活排水が流れ込むと衛生上も好ましくありません。農地法で農地に家は建てられないことになっており、一部の農業施設を除いて建築は認められていないのです
http://www.ahahaohoho.com/tobira/tobira080317.htm

農地を選ぶ場合には、注意することが、いくつもあります。田畑は1枚1枚違う性質を持っているものであり、どれでもいいということでは、ありません。
日当たりはどうか、冬場の日当たりはどうか、水の便はいいか、田畑の中から水が湧き出していないか、強風が吹く土地ではないか、大雨が降ったら水が流れてこないか。
http://77ch.info/attention.html



人間は田舎に住んでいても田舎のことがわからない、自分などは農業したこともないのだから単に田畑が広がっている名としか見ていない、田舎でも今はみんな農業していないからである。
田舎の田園風景とかは原野でもないし森でもないし人間が代々労力をそそいで作られてきたものなのである。
農業を経験しないものは何かそれが自然にあるように見えてしまう。

だから松原さえ自然のままの風景とさえ見ていたのである。あれば人工林であり人間が作ったものであり自然林でないから津波には弱かった。
自然林は混生林であり松だけの森とか杉だけの森はないのである。
だからこそ津波で根こそぎ壊滅した。松は強く根を張らないのである。
それからなぜ津波が来るような危険な海岸地帯に人は密集して住んでいたのかとなることも批判された
それも農地のことを考えればわかる、農地は日当たりのいい場所を選ぶ
農家はたいがい山際の陰とかに多い、近くをみても広い田があっても家はその田の中にあるのはまれである。
それは田として利用することを優先していたからである。
都会だったら田畑のことは考えないから広い日当たりのいい平坦な地を宅地にする。
田舎ではまず田畑が優先されて家は山陰とかに多いのである。
それは八沢浦でも広い田の中には家がないことでもわかるし大内村でも山際に家が集まっている。
もちろん古くは湿地帯であり海だったところだから山際に家があるということもある。

そしてなぜ磯部村であれ海老村であれ烏崎村であれ海に接して家が密集して津波で壊滅したのかということである。
それは誤解しているのは漁業があり港を利用するから人が集まり家を建てたと見ているが農業もしていたのである。田畑も作っていたのである。
漁業している人たちが全部なのかというとそうではない
農民がそこには多かった。半農半漁ということもあったのが日本である。
磯部などはもともと砂州でありそんなところにあれだけの家が建っていた
それがなぜなのかというとき広範囲な土地は田んぼとして利用していた。
磯部村の後ろは広い田になっているからである。
漁業だけでは生活は成り立たない、食料として米を必要としていたから広い田んぼが必要でありかえって家は山陰の日影に建てられていた。

山の方でも広い平坦な日当たりのいい場所は田畑にしているのである。
日本では良く山崩れとか土砂災害とかあるけど山でも平坦な場所に家が建っていない
その日当たりのいい平な場所は田畑にしているからそうなる
日本では平な場所が貴重であり平(たいら)という地名も多い
平家というのはまさにその平(平)からきていたのである。

だからそもそも農村風景というのは長い年月をかけて人間の手を加えて作られてきたものなのである。
要するに自然そのものではない、何かその辺が実際に農業にたずさわらないものは錯覚するのである。
人間が長年手を加えて作り上げたのが農村でありもし今回のように放置されて原野化するとどうなるのか、それを回復させることがまた時間がかかるしむずかしくなる
一からやりなおしかねないのである。
田畑というのは毎年人間が手を加えることで保たれていたからである。
里山というのは自然そのものではない、人間の手が加えられたものである
前からも何度も書いてきたけど津波の跡に残った庭の樹が何か人間に見えた
老夫婦のようにそこに二本を離れがたくいつまでも立っている、今でも立っているのである。それは本当に不思議な光景だった。その樹は人間化した樹だったのである。
自然そのものの樹とは違っていたのである。
原発事故の避難区域となった所、飯館村なとでも道の辺に樹があるがあれも人間化した樹だった。
それで人がいなくなるとなんとも淋しく取り残された人間のように見えるのである。
日本は狭いから原生林があるような場所はまれであり人間化した自然になっている

八沢浦にある「前日向」とかいう地名も日向(ひなた)は田になっている。
日当たりのいい場所は田にしたからそうなったのか?
つまり日向(ひなた)は人間に住む場所としていいのではなく、田畑にするのにいい場所として前日向と名付けられたのかもしれない、人間の家が優先されるのではなく
田畑があってこそそこで生活できるからそう名付けられたともとれる。
津波では結果として田畑を優先した結果、海岸地帯の狭い場所に家が密集した、そこは田畑にはできない場所だった。それが悲劇の元になったというとき日本の国土の狭さがそうさせた悲劇だったともなる。




タグ:農地
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2015年09月23日

松川浦岩の子の塩釜神社の由来の謎 (慶長津波の被害があったのか?)


松川浦岩の子の塩釜神社の由来の謎


(慶長津波の被害があったのか?)


shiogamaaa111.jpg
クリック拡大(塩釜神社の碑)

( 1338 )延元三年暦応元年戌寅三月宇多一群
黒木城主大膳太夫定信公の勧請なり
(1544)天文13年頃より相馬氏栄え(1573-1591)
天正年間相馬讃岐守顕胤厚く此の神社を尊崇し
神田(塩田)五反歩を寄進す

(1611)慶長16年相馬年胤小高城より中村城に移り翌年17年5月岩の子此の地に社殿を復興す

慶長津波とは、1611年(慶長16年陰暦10月28日)、三陸沖を震源とした地震によって発生した津波。
 その範囲は、北海道南西部から東日本太平洋沿岸の広範囲に及ぶ。


 「奥州筋生波(ツナミ)」700人溺死(相馬藩政記)

 ここで生波をツナミとしている。奥州のツナミだから広い範囲にツナミがあったと記しているし今回のツナミと同じなのである。ツナミということば慶長津波で全国で普及して定着したのである。



 
大津波で鎌倉と由比に溺死者二百人を出し、9月には早雲が小田原城を攻め落としたという。

 他の史料は小田原「自落」と記すものもあり、津波と早雲の軍勢の両者によって大森氏は抵抗をあきらめたとのニュアンスが感じられる。
こういうことが相馬藩内でも起きた

相馬氏が進出しても相馬藩内は相馬氏の支配下にはない、館を構えて中世の豪族が支配していた。
それは小高に大きな港があり原町の泉にも港があり勢力をもっている豪族がいた。
磯部も港の機能があり佐藤氏が大きな勢力をもっていた。
そうした在地の豪族が相馬氏に敵対していたのである。
だから小田原で北条早雲が

津波と早雲の軍勢の両者によって大森氏は抵抗をあきらめたとのニュアンスが感じられる
http://musubu2.sblo.jp/article/125743125.html



佐藤氏が磯部館から鬼越城へ

築城年代は定かではないが永禄6年(1563年)頃に佐藤伊勢好信によって築かれたと云われる。佐藤氏は源義経の家臣佐藤忠信・継信兄弟の後裔を称し、好信ははじめ岩城氏の家臣であったが、後に相馬顕胤・盛胤に仕えて軍奉行を務めた。天文11年(1542年)伊達輝宗との合戦の功により磯部・日下石など宇多郡の内六ヶ村を領しはじめ磯部館(佐藤伊勢館)に居を構えた。しかし、
海水による浸食が激しく鬼越館を築いて居を移したという。
http://musubu.sblo.jp/article/99906310.html

相馬市黒木の諏訪神社の社頭の松は「桃井の松」と呼ばれる。諏訪神社は、もと宇多郡尾浜村(相馬市の松川浦北部)にあり、天文七年(1538)に西方の黒木に遷座になったといひ、当時の歌が伝はる。桃井とは神官の名前らしい。(諏訪神社由緒)

○陸奥の宇多の尾浜の浪風の音だに声こい(恋)の百永ももえい(桃井)の松  古歌



 
岩の子の塩釜神社の由来が碑に記してある。

1338年というと古い神社である。第一そこまで記録がさかのぼれることが大事である。

天正年間相馬讃岐守顕胤厚く此の神社を尊崇し神田(塩田)五反歩を寄進す

慶長津波の前にここに塩田があり寄進しているのである。

(1611)慶長16年相馬年胤小高城より中村城に移り翌年17年5月岩の子此の地に社殿を復興す

慶長津波があったとき小高城より中村城に移転したのである。
津波があったときなぜ中村城に移転したのか?津波の後に移転したのか?
いづれにしろどっちにしろ700人も溺死したときなぜそんな大被害があったとき城を移転するという大事業を行ったのかとなる。
そんな力が財政的にも人手でもあったのかとなる。
そもそも城の移転とか他のことはこうして記録されているのに慶長津波は記録されないのか?
佐藤氏の磯部館から今の鬼越館の移転も記されている。諏訪神社の移転も記されている。諏訪神社にはそこまで津波で何か流されてきたとか伝説が伝わっている。
あそこまで津波が来たのかとなる。ではなぜ松川浦から今の市の奥の方に移転したのだろうか?
それも謎であるが時代的には前だから慶長津波のことを語るものではない
でも何か移転するには理由があったとしても語られていないのである。
そしてなぜそこに津波の伝説が語られているのだろうか?
これはおそらくもしかしたら松川浦にその神社があったとき津波があってそれが伝えられているのか?
ただそれが慶長津波かとなると疑問になる。年代が明確に記されているからである。

小田原「自落」と記すものもあり、津波と早雲の軍勢の両者によって大森氏は抵抗をあきらめたとのニュアンスが感じられる

慶長津波の時は戦国時代であり熾烈な領土獲得の争いをしていた。
その時の津波は相馬氏にとって有利な方向に働いた。小高の港が壊滅したら岡田氏の力がそがれたとか佐藤氏でも伊達に味方していたとか相馬氏とは対抗していたのである。
だから慶長津波は相馬氏に有利に働いた。
だから津波の被害は記録として残さないし語らなかったともなる
それで海老の大工が移転した中村の天守を造営に行こうとしたら引き止められた。
それが津波を現していた伝説かもしれない、大原と関係していたのは相馬氏は大原から小池と勢力を伸ばしていったからである。
海側は相馬氏の勢力圏に支配下に入っていないのである。

牛越城でも泉氏が泉官衙跡のある港を支配していたから山の方に城を築いたのである。海の方はあとから相馬氏が進出したのである。
ともかくなぜ慶長津波の記録がないのかということ自体が謎であり不可解なのである。
元禄時代になると記録が残されるようになったとしてもそれでもその前からの記録もこうして記録されているのである。
それが全くないことはかえってその記録をしない、あえて津波があっても記録しないというふうに考える
その時は戦国時代であり津波の被害より敵に勝つことが第一になる。
すると津波が海側の豪族の力をそいでくれたので相馬氏がその時都合よく勢力を拡大して中村に城を移転できたとなる。
それは津波のあったとき同じ時期だというのもそういうことからかもしれない。
津波によって海側の有力豪族が抵抗をあきらめた。
磯部の佐藤氏も伊達側だったのだからそうなる

(1611)慶長16年相馬年胤小高城より中村城に移り翌年17年5月岩の子此の地に社殿を復興す

社殿を復興すとはこの社殿がどうなったのか、津波がここまで来たのか?
今回の津波では来ていない、でもあの高台に神社があったのか?
それも一つの謎である。今ある場所に神社があるとは限らないのである。
平地にあれば流されて高台に移したということも考えられる
ただ古歌が残っているからあれは今の高台から歌ったものである。
とするとあそこにもともと神社はあったとなる
いづれにしろ外から来た研究者が津波がなかったのではという推測したのも慶長津波の記録がないからである。
相馬藩政記に一行あったとても津波の被害のあった場所になにかしら記録が残っていてもいいのである。それが伝説にしても不確かなのである。
伝説の弱点は年代が不明なのことなのである。
だから原釜の津神社(つのみや)に津波が来たとき逃げると助かるということが伝えられてきたというコメントが松川浦の人からあった。
ところがこの津(つのみや)神社は相馬藩内にいくつかありそれは津波とは関係ない、ツノガノアラシトのツノであり製鉄関係で渡来人が移動してきた跡だったのである。
その関係の神社でありそれが渡来系だから隠されてきたのである。
その伝承もいつの時代のものか特定できないから困るのである。


慶長津波のことをいろいろ探求してきたかがこの辺は結論になるのかもしれない
これ以上調べようがないからである。
他の人がまた新しい情報が教えてくれればまた別な見方もでてくる
結局歴史というのは記録されずに消えることもありうる
何か重大なことでも記録が消えて歴史に残されないということもある。
今でもそういうことは現実に起きている。マスメデアで報道することがすべてではない
確実に重要なことが報道されないのである。
その報道されないことが最も重要なことなのである。
それは権力で隠されるし表に現れないのであ。闇に葬られものがいくらでもある。
その真実が知らされないから原発事故とかにつながる。
つまり情報というのは権力によって操作されることが多いのである。
権力者にとって都合の悪いことは知らせない、相馬藩でも相馬藩政記にすべてが記されることはない。都合の悪いことは記さないということがあった。
それが慶長津波であったかもしれない、その理由はただ定かではない
戦国時代の中で争いの中で慶長津波は隠されてしまったとなる。



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2015年09月13日

文明は何でも何らか自然破壊で自然に復讐される (ソーラーパネルもそうだった)


文明は何でも何らか自然破壊で自然に復讐される

(ソーラーパネルもそうだった)


文明とは自然破壊が必ずあり自然破壊がない文明となると縄文文明くらいだった。
弥生文明ー稲作文明も自然破壊だった。その前の焼き畑農業も肥料にするために森を焼いたのだから自然破壊である。
稲作文明は自然と調和した文明のように見えた。それですら自然破壊だったことが津波で判明した。
松原というのは自然林ではない、人工林である。ちょうど杉林が自然林でないのと同じである。
自然林とはいろいろ樹が交わった混生林である。松とか杉とか一つの種類だけになるのは人工林である。東南アジアでもゴムの樹だけになると人工林でありそれは外国の企業でそうしたのである。
稲作だけの米だけを作るとなるとそれも自然破壊になっていた。
東北で米を作ったのは江戸に米を商品として売るためだったのである。
だから東北で飢饉が起きたときは米ばかりに頼ったためだという。
いろいろいな作物を作っていれば米が不作でも例外に強い作物も作っていればそうはならなかった。
そもそも自然は混生林であり様々な種類のものが混生して生きているのが自然なのである何か動物の一種類でも増えると自然のバランスが崩れるのと同じである。

だから文明そのものが自然を破壊するように宿命ずけられている。
レバノン杉がもう絶滅すほど切られたのは船の材料に使われたからである。
これも文明のために消尽された。他にも森がヨーロッパで消滅したのは文明化が原因している。
稲作文明も自然破壊だというとき海側の湿地帯を開拓した結果、そこに松原を防潮林としたのだが今回の津波でその防潮林の松原がなぎたおされて消失した。
つまり文明は必ず自然を破壊したら自然に復讐される
まさか松原がそういうものとはいつもそこにいて思わなかった。
もし自然林の混生林だったら津波の被害はかなりおさえられた。
なぜなら松は根が強く張らないので津波に弱かったのである。
他の樹はあれば混生林だと津波の力を弱めたとかいことがありえた。
それは稲作だけを広げることが自然破壊であり人間にも影響した。
一つの作物を商品化してしまうことは不自然なのことなのである。
いすいろて種がありいろいろなものを食べていた方が人間にとっても自然である。
そうしていれば飢饉でも米が不作でも他のものを食べて生き延びるととういこともあった縄文文明は自然と調和した文明であり大災害からまねがれたことはありうる
でも縄文文明だと人口は増えない、増やせないのである。
稲作文明になり飛躍的に人口が増えたのである。

今回の鬼怒川の氾濫でもソーラーパネルを設置するために堤防を削ったとか、民主党のレンホウ議員が仕分けだとして公共事業を削ったためだとか批判されている。
ソーラーパネルは別に自然と調和したものでもない、山の森とか削って作っているから
大雨になったら土砂崩れとかなって危険なのである。
ソーラーパネルは景観の破壊でもあり自然と調和したものではない
これも民主党が推進たから今になると批判されている
もちろん鬼怒川の堤防決壊はソーラーバネルを設置するために堤防をけずったためであるがそこの住人が訴えていたのに国土省は無視した。
自民党の責任も大きいし今の公明党の大臣も責任があるとなってしまった。
だから国土省は訴えられるとまでなった。

ともかくダムだって自然破壊であり文明化したものは何でもなんらかの自然破壊である。その自然破壊は必ず自然にまた復讐されるということである。
そもそも人間は自然に従うことによって生きるようにできている。
もし自然には逆らえない、いくら文明が発達しても自然には逆らえない
自然の力は津波でわかったようにとても人間の力では制御できないのである。
人間が生きるために自然の力に謙虚に従う他ないのである。
文明の力が増すと人間は奢る、自然を征服できるとか奢る
それが一挙に砕かれたのが今回の津波だったのである。

いづれにしろ人間はその国土の風土の制約を離れる他とはできない
その国土に風土にマッチした生きる他ないのである。
原発はそもそも地震とか津波がある日本には向いていなかったのである。
グランドキャニオンとかあるアメリカには向いていた
日本の国土は狭いし山が多いし津波もあるから向いていなかった。
そういう風土を自然条件を無視すると自然から大きな災いを受ける
自然に従うとなると津波の来るような所には住まない方がいいとなる
いくら防潮堤を作っても今回は防ぎようがなかったからだ。
そもそもがそういう危険な場所に住んだこと自体過ちだったとなる。

民主党はまた今批判されている
「コンクリートから人へ」というのも批判される
日本のような災害の多い国では国土を守ることが第一とされる
この言葉が今回の津波であれ震災であれ鬼怒川の氾濫であり再認識されたのである。
要するに日本の風土とか国土とか無視すると天罰が下る、これは仏罰ではない、
国土省はそういう重責をになっていたのである。
だから公明党の大臣まで批判の対象になってしまったのである。


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2015年08月02日

大地震の前に異常な暑さがあった 3・11の東北地震でもその前の年の夏が異常に暑かった



大地震の前に異常な暑さがあった

3・11の東北地震でもその前の年の夏が異常に暑かった


natukumo12345[1].jpg

木のあるところは御刀神社でありその脇の家は残った

あとの三軒くらいの家は津波で流されて今はない



2012年の夏

この時は右田の松原の方面から山の方をみると夏の雲が大きくわきあがっていた

それが今までみたことがないように夏の雲がいろいろな形に変化していたのである。

その変化がダイナミックであり異常な暑さだった

その次の年に津波がきて右田の松原は消失した

あの時はなにか異様なもの異常なものを感じていた

今だからではなくそのときこの暑さはなんだろ、こんなことを経験していないし

あんなに夏の雲が大きく出て変化していることに驚いた

地震雲とも違うがやはり雲であれ気候も地震と影響していいる説もある

今思うにあの暑さが異常のはじまりだった

そして自分もその後も病気になり突然入院したりと 激動だったのである。


「そういえばなぁ、大震災が起きる前の年の夏ってメチャクチャ暑いときやねん。今年の東北の地震だって、去年の夏はメチャクチャ暑かったやろ?前の阪神大震災の時だって一緒やねん。あの前の年の夏かてメチャクチャ暑かったんやわ。」
 そういえば、そうですねぇ。確かにここ二十年くらいの記憶を辿ってみてもメチャクチャ暑かった年の翌年にしか大きな地震は発生していません
夏が暑ければ当然地面もものすごく熱せられるわけですからいろんな部分が膨張するでしょうね。それも例年よりも多く膨張するわけです。それが地下のプレートの状態にも何らかの影響を与えてしまい、夏膨張して位置がずれたプレートが冬になって収縮する際に大きな歪みをもたらすんじゃないかと思ったわけです。


実際、関東大震災前には観測史上最高の41度を記録し、昨夏は異常な猛暑が続き、東北での大地震、と異常な暑さと地震は関係あるようです。
関東大震災の起きた1923年の夏、日本列島は記録的な猛暑だった。
8月6日に徳島県鳴門市で42・5度が観測されたという参考記録≠ェ残っている



関東大震災の前も暑くなっていたし神戸地震が起きる前も暑かった
自分も2010年の夏の暑さは異常だったと思っていた。
なぜならそれまでそんな暑さを経験していないからである。
31度とか32度くらいであった、その時は35度くらいになっていた
35度というのは日本でもまれでありこんなに何年もつづいて起きることはなかった
だからそのことがずっと気になっていた
それでインターネットで調べていたら同じことを考える人が必ずいるものだと思った。
自分がそう思ってもなかなか全国の人がどう思うかは知り得ようがないが
インターネットだとそうした同じことを考える人がいるというのを見いだすことがあるのでやっぱりそういう人もいたかと安心するのである。
つまり自分だけがそう思っていることが意外とみんな同じことを思っていたのだなと安心する
科学的に暑いということは地球にどう影響するのかわからない、海水にもどう影響するのかもわからない、特に自分は科学に弱いから余計わからない
これだけ暑いと例えば東北地方の寒いところでも海水温度は上昇する、それが海底の地盤にも影響するということもある
海底までそんな暑さが及ぶのかとなるとこれもわからないことは確かである。
陸だったら関東大震災であれ神戸であれありうる
海となると深いからどうなのかともなる

ただ科学的なことで証明できないので何かあの暑さは異常であり不気味でもあった
その時、夏の雲が異様なほど沸き上がっていろいろな雲の形を作っていた
あんなにまた夏の雲が形を作った時はなかった
今年は暑いけど夏の雲は今はあまりここでは沸いていないのも不思議である。
その暑いとき自分が急に腎不全になり入院した。
一カ月秋になって入院したのである。
その前からも認知症の介護があり自分の家はばらばらになり混乱していた。
そして家の中には耳も聞こえない94歳くらいの母がいるだけだった。
そして自分は病院に入り連絡もとれず大被害になった
それから半年の家に来た人を呪いつづけたのである。
そしたらその次の春に3・11に大地震と津波に襲われたのである。
だから自分の呪い、恨みの念が作用して津波が来たのかとさえ思った。
ともかくそういう激動が自分の一身上にずっとつづいていたのである。

なぜあんな津波が襲ったのか、それが科学的な説明を受けてもまたわからないからいろいろと憶測する、もちろんそれも憶測にすぎないにしろ異常に暑いということもなんか関係している
ともかくこの7年間は一身上のことで家族のことで非情な目にあってきたのである。
今の社会は自分が非情にされたということだけではない、人間は非情になっている
金だけを追い求めていて格差社会となり弱肉強食の非情な社会になっている
何かそうして人間社会も乱れると自然も乱れるとうことも因果関係があるともみる
こんな悲惨な津波のような被害は人知を越えたものだからである。

ノワの洪水は神の怒りから起きたように神も人間社会があまりにも乱れ非情化しているのをみれば人間そのものを滅ぼそうとさえする
非情になるというとき自分に非情になった人は金で困っていて新幹線で自殺してとばっちりで死んだ女性とにている
もう金に追い詰められていれば相手のことなど考える余裕もないのである。
借金している人はもう犯罪予備軍であり本当に怖いと思った
こいつが死ねば金が入ると病気で苦しんでいる時責められたのである。
相手が病気のことなど眼中になくなる、むしろ保険金殺人のようにもなる
この際、こいつは弱っているから一層死んだ方がいいとかなるし実際そのように自分に迫ってきたから怖い、ただ相手は自分を助けたと思っているから自分の状態がどういうことかもわからない
ただ金に追われている、金しか頭になかったのである。

結局この世は不可解なことが今でも科学がこれだけ発達してもあるからいろいろ憶測するのである。
地震がいつ起こるかは予測できないからいろいろ勝手に憶測するとなる
ただ歴史をふりかえると人間社会が乱れるとき大地震とか津波とか大災害が来ているかもしれない、貞観津波は蝦夷支配のための日本が戦乱の時代だった。
慶長津波も戦国時代に起きた、明治以降は関東大震災とか世界的戦争の時代であり日本も多大の犠牲があった。
そして戦後は神戸地震であり東北の震災であり津波だった。
その間にも江戸時代でも元禄津波とかきている。
でも貞観津波とか慶長津波とかこれだけの規模の津波は来ていないだろう。
これだけの津波は自然災害は400年とか500年くいの間隔でしか起きないのである。
その時は世も乱れていたのである。
つまり世の中の変わり目に大きな自然災害が起きやすいのである。

インターネットの便利なのは関連づけることが得意である。キーワードで調べるから当然そうなるのである。
地震と暑さとか調べたらなるほど他の人も同じことを思っていたのだとなる
他にも関連づけで全国の人が一つのテーマで考えているのかわかる。
ただその作業はめんどうだから暇がないとできない、インターネットでは自分で調べて分析して考察することが必要である。
インターネットでは共通な類似なものを探す反面その人のindividualなものをみるのである。個々人をとりあげればその育った背景とか地域とか家系でもそうでありみんな違うものをもっている。その相違があるからこそ多様性が文化が生まれる



隙間も無いほどアスファルトにしないで土も残して緑化部分も作ったらいいのに
街路樹増やすとかして涼しい日陰も欲しいわ
子供の頃は夏の午後は夕立があって
虹が出ていい感じだったけど最近全然雷も夕立にもないな

熱中症防ぐには
暑くなる前から運動して
汗をかいておくってことだよ
それをしないから突然の変化に
体温調整できなくなってダウンする

2階が絶望的に亜熱帯
階段の真ん中辺りが赤道になってる
10年前はこんなこと無かったのに



これも暑いということで検索したら自分と同じ経験をしている思っている人がいる。
農道までアスファルトにする必要があったのか、何か便利さを追求して自然を破壊しすぎたように思う。
小川がなくなって人口の堀にほとんどなったときもそこに自然が消失した。
そこには何か涼しさを感じないのである。
田舎ですら便利さを追求して自然が喪失すると暑さが苛烈になり耐えられないとなる
人間が暑さであれ寒さに対して耐性がなくなったことは確かなのである。
クーラーは冷房病になるというのもそうである。し膨大な熱を放つから余計に都会では暑くなるのである。

ただこの暑さは一体何なのか?これもまた地球温暖化とは関係ないという科学者もいるし不明である。
一万年とかの人間の歴史をふりかえれば確実に気候変動が地球規模で変化して人類の大量移動があったり文明を変えたりと影響があった。
マヤ文明とかある文明が滅びたり衰退したのは大きな気候変動があったからだいう説もある。
恐竜が滅びたのも地球的気候変動の結果という説もでている。
この暑さがこんなにもう十年とかつづけば社会自体が変わってしまう。
北海道が35度にもなるということがあったのか?何か日本自体が熱帯化している。
その気候の大変動の時期に今回の東北の大地震と津波があったというのも関連づけて考えるのも自然だとなる
タグ:暑さ
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2015年07月14日

津波で失われたものに木陰があった (右田の松原は消えて木陰ないので行けない)


津波で失われたものに木陰があった

(右田の松原は消えて木陰ないので行けない)


今日は朝から暑かった、福島市で40度に一時なっていたから記録的な暑さである。
ただ福島市と南相馬市は温度でも相当違っている。
浜通りは浜風が吹くから涼しいのである。
それでもここも今日は異常に暑かった。こうなるとやはりクーラーが自分の部屋にないといられなくなる、自分の部屋は二階にあって隣のトタン屋根が焼けて三度くらい暑くなるから余計にいられなくなる
そして思い出したのがいつまも右田の松原の日影で休んでいたことである。
松原が長く影になっていて海から風が吹くから涼しいのである
今になると日影になる場所が海辺には全くない
他の人も日影になる場所がないと言っていた。
これもまた津波で失ったものだったのである。

木陰というとなんでもない当たり前にあるもののように思っていた。
木陰は木がないと木陰にならない
その木がないのだから木陰にならない
そしてその木というのは簡単に作れない、成長しないのである。
それで確かに土盛りした高台に樹の苗をボランティアとともに植えた
でもその樹が育つのは50年後とかなってしまうだろう
そもそも右田の松原は江戸時代からあったのか?
百年は軽くすぎている,比較的太い松が多かったのである。
松川浦の松は年月が浅いから細い松林だった
だから右田の松原は貴重だと思っていた

もともと松原は人工的風景だったのである。
自然林ではなかった、そして松原は根が強く張らないので津波に弱かった
混生林だったら自然林だったら津波に強かったし点々と残っている樹は松は一本もないのである。
松は津波に弱いものだった、竹は強く根をはるから津波に強くそれで津波が遮られてよわめられておさえられて助かった所もある
松原といのうは津波を全く想定していなかった
それは海側を干拓して潮風を防ぐ防潮林として人工的に作られていた
ただ不思議なのは慶長津波(1611)の後の20年後くらいに津波の跡は塩田化して利用されたただその時田としても干拓した地域が仙台平野にあった
「潮入り」とかの地名は津波の跡がなお残っていた土地らしい
松原が日本にこれだけ増えたのは慶長時代の津波の後から大分たってからだろう
それは百年くらいたってからかもしれない
その時津波のことなど忘れていた。米をとるために防潮林として松原が作られた
それは自然と調和した光景のように見えていた
実際松原は日本の自然の風景となっていた

それにしても今回の津波で松原が喪失したことは驚きだった
なぜこんなうふうにてったのか今も解せないだろう
それは人間が悪いとも思えないからである。
ただ問題は松原が作られたのは日本では土地がないから海側に干拓したことが原因になっていた
松原が作られたのは稲作するために干拓したことがそもそもの原因だったのである。
それは日本は土地が狭く田んぼにする土地がないから海側を無理して干拓したのである。それは日本の風土の宿命というべきものだった
日本が満州に進出したのはやはり満州という広い土地で稲作するためだったのである。
満州は寒いから稲作には適していない後日本人は米を作ろうとしていた

その米を作ることがまさに日本人の業(カルマ)となっていたのである。
だから今になって米が余っているということは当時の人からみたら想像もできないことである。
減反政策など想像すらできないことである。
干拓とか海を埋め立てするかとかは自然に逆らうことだった
そういう無理が大きな自然災害を生んだのである。
文明は自然に逆らうことである。
原発事故でも実際は自然に逆らうことであった。核を分裂させて放射能の毒をもたらすからである。
自然には毒はもともないのである。
文明の災禍はこれからも大規模に起きてくる。人間の技、業(カルマ)なのである。
その業(カルマ)をとめることができないからまた災い(技わい)がとめられないのである。
いづれにしろ50年後に樹が成長してその木陰でまた休んでいたい

50年すぎて木陰に我はまた休みてあらむ海風涼しく

右田浜松影涼し昔かな

生きている内にもう木陰休むことはできない、でも30年くらいたてば木陰ができているかもしれない
それにしてもその歳月は長い、この津波の復興は20年たっても以前としてできない
それだけの長い時間が必要になってしまったのである。
タグ:松原
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2015年07月08日

石巻の袖の渡しで津波の被害にあった人と語る (南相馬市の事情と良くにていた)


石巻の袖の渡しで津波の被害にあった人と語る

 
(南相馬市の事情と良くにていた)


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陸前大塚駅

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前の遠名駅

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新しい野蒜駅

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新しい女川駅の景観




仙石線で陸前大塚駅の場所は変わってないかった。前に防波堤が作られて島が見えにくくなったかやはり見えている。
景観はそれほどそこなわれていない、ただ東名駅は山の陰になりそこは全く海が見えない、あそこは景観的には全く変わってしまった。
でもそこに住宅地ができて家が建つ、でもまだ建っていない
次の野蒜駅もかなりの高台に移った。でもその高台から白波が寄せるのが見えた
景観としては全く変わったが海は見えていた。
それから石巻についた。何か仙台だと交通の交差路になり忙しい感じになる。
石巻に来ると時間が遅くなる感じがした。
やはり仙台の中心部と石巻だと時間の感覚が違ってくるのだ。
仙台は交通の要所だから何か追われている感覚になる
石巻につくと時間が一瞬とまり遅くなる感じになる

駅前で自転車を借りて袖の渡しにゆく
そこに津波の被害にあった人とかなり話した。
日和山の裏側で被害がないようで二階に逃げて辛うじて助かったという。
日和山で津波が遮られたにしてももろに津波に急襲されなくてもぎりぎりで助かったとなる。
日和山があっても川をさかのぼり津波が押し寄せたから逃れられなかった。
途中家族で逃げた人でも家族が死んだとか仲間と逃げて仲間が死んだとか何か南相馬市の津波の被害とにていた。
今回の津波の被害には共通性があった。
日和山の前は家が密集して博物館もあり壊滅的な被害を受けた。
それは土台だけが残ったとかこの辺の海岸の村とにている。
ただ津波の被害で川沿いに家が残ったりしているとその被害が少ないように錯覚する。
家が残ったとしても被害が大きい場合があった。
この辺でも家が残っているから被害がたいしたことがないと思っても実際は津波の到達地点のすぐ前だったけど床上浸水で潮水を被り大きな被害だったのである。

その人の話で興味をもったのは被害者の家族には手厚い補償金がやはり出ていた。
一軒に五百万とか出たという。そんなにもらはったのかとも意外だった。
原発事故地域とは違ってそんなに金をもらったとは思っていなかったからである。
保険金でも本当は地震保険でも津波には適用されないとなっていたが特別措置で津波にも保険金が出たという。
その額が大きくおじいちゃんがもらった金が一億円とかで使い切れないとかみんなうそうした義援金とか保険金とかで遊んでいるというのもこの辺とにているなと意外だった。
そこは女川原発があっても事故にはなっていないからそんなに補償金が出ないと思っていた。
ただ漁業組合と船主になると原発があるだけで補償金がてる。
それで東北電力から漁業関係者には補償金が出ていたろう。
だからこの辺で石巻辺りはにていたのである。
あれが事故になったらこの辺と同じ状態になったから悲惨である。
仙台の人に聞いたら屋根には放射性物質で汚染され樋では一マイクロあったというから意外だった。
仙台でもそれなりに放射能で汚染されていたのである。
一マイクロというと今でもそれで高いとか原町の山側では騒いで除染しているからである80キロ圏内は住めないとか避難しろとかアメリカでも警告していた。
それだけ放射のの被害は大きかったのである。

石巻では女川町と合併する話があったが女川町では反対してしなかった。
その原因はやはり女川町には補償金が出ているからだと思った。
この辺では双葉町とか大熊町とか小さな町でも合併しなかったのは東京電力から金がでていたからである。
それもにていたし原発があることでいろいろ事情が同じだと思った。
その人とはかなり長く話した。
海の風が涼しく吹いてきて鴎が飛んでいた。
何かあういう歴史的な場所で景観のいい場所で話すると印象的なものとして旅といえないまでも心に残る。
今回は人との出会いがどうしても津波という共通の体験で広がったのである。
津波を知るにはその場に立って被害を受けた人の話を聞くとリアルに感じるのである。
だから津波を知るには三陸でもその場に立って被害を受けた人の話を聞くと
印象が強くなり心に記憶されるのである。
それで三陸の方に次に行って見たくなったのである。

女川では女川原発の下辺りで小学校の先生をした人にあった。
その人は絹を漁具として綱として使っていたという話をした。
絹というのは養蚕が盛んだったから基幹産業となっていた。
ただそれが漁具としてまで使われていたことはいかにも女川らしいとなる
女川では鯨の解体したのを見たことがある。
それも40年前とかになるからずいぶん昔になったと思う。
そのあとはどういうわけが女川には来ていなかった。
今回は直接に土地の人の話を聞けたから良かった。
でも石巻の通りの店は開いてのは本当に少ない
三年前だったか来たときとたいして変わっていないのだ。
その人が言うには神戸辺りからボランティア来て神戸に行ってみたが
20十年たってもその影響があり立ち直っていないという
それだけの大きな被害だったのが神戸地震だったのである。
この津波の被害も20年たってもやはり回復しないのは同じかもしれない
それだけの期間が回復にはかかるということである。
慶長津波の20年後辺りで塩田を石巻でも女川でも作った。
それは相馬藩でも津波の跡に塩田を作って復興したと推測する学者もいる
それでも20年後とかなのである。
10年たってもそれほど回復しないとかいう大災害だったのである。

女川から石巻にまた帰り泊まろうとしたら部屋があいていなかった。
このところずっと部屋は空いていないです、この近くで泊まるところありませんかと聞いたらそれはどうですかないでしょうねとか言うのであせった。
ところが仙台から高城町回りで新しい線ができていたのである。
それは急行であり石巻から50分でついた。
それも早いと思った。それでホテルを探したら東横インが空いていたので助かった。
仙台もとまれないかもしれないと石巻のホテルの人が言っていたのであせっていた。
南相馬市に帰る最終便はもうまにあわなかったからである。
この辺はまだ工事関係者が入っているからホテルが一杯なのかと思った。
何しろ南相馬市では除染作業員など宿泊所がないから困っている
そのブレハブの宿泊所がいたるところに立っているし新しいホテルも山の方にできたりしているからだ。
宮城県もそうした工事関係者まだ外部から入ってきてホテルが一杯になっているかと思った。
今回は泊まれたがそれでもホテルが満室になることは異常である。
普通は空くようにあれだけの部屋数に設定されているからだ。
いづれにしろ仙台は新幹線といえ新しい東北ラインという便利になるからいい。
常磐線も後二年で開通するからそうなると便利であり復興してゆく。
やはり鉄道は未だに要なのである


仙石東北ラインせんせきとうほくライン)-仙台ー石巻は50分
タグ:石巻
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2015年05月31日

南相馬市の被害にあった海老の人に聞く (津波で死んだのは早く逃げなかったからー津波の波は早かった)


 
南相馬市の被害にあった海老の人に聞く

(津波で死んだのは早く逃げなかったからー津波の波は早かった)


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津波の前の海老村

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野球場で20人死ぬ



津波は早い、逃げ遅れて死んだ人が多い


海老浜の津波で流された家の跡に立っている人がいた。
それは海にじかに面して家だった。
前に聞いた話では津波の波は海老村に襲ったのは高い所からと聞いた。
実際は違っていた。津波の波は右田の低い場所から松原の方から流れてきたのだ。
その人は必死になって海老の裏の山の森に入った。
そこで逃げた仲間の6人が死んだ。
なぜ死んだのか、津波から逃げ後れて死んだ。
津波の波は早いという、車でも逃げきれないほど早かったという。
大内村では津波か来てからトラックで必死で逃げて助かったという話を聞いた。
でも津波が早いとすると車でも逃げきれなかったという。
すると車で逃げても渋滞になったら津波にのまれる
それで大勢死んだということもあった。
津波は早いということである。


津波は低い土地の右田の松原から高い海老の方に流れてきた。
そして海老からまた下の右田の方に流れ下っていったのである。
それにしても海に接した場所だからあそこは怖かったろう
あそこの前に道があり海老の後ろの小高い森の中に入った
ところがその森でもちょっと奥に入らないと助からなかった。
それは津波が来た跡が木などに残っているからわかる
つまり6人があそこて死んだというのは森の奥に入れなかったからだという
それだけ逃げきることができなかった。
津波はそれだけ早いからいち早くに逃げなければ助からない
津波で被害を大きくしたのはチリ地震津波の経験しかなく
津波といってもそれくらいのものしか想定していなかったのである。
津波の前に海がひいたというのは見たという


津波から助かるにはどれだけ早く逃げるかにかかっている


結局津波の被害がこれだけ大きくなったのは津波はいち早く逃げなければ助からない
そのことが徹底していない、もうとっさに逃げなければ助からない
つなみでんでこーというのはまさにてんでんばらばらにでもいいからとにかく逃げろということである。
そういう言い伝えが残ったのは三陸でありこの辺にはない
頭にあったのはチリ地震津波のことしかなかったのである。
そして時間がなかったからかとか聞くと時間はあったという
一時間は津波が来るまであった
時間はあったけど警戒せず逃げなかったことが大被害になった
ただ自分もあの地震のときバタバタ物が落ちてきたりして
それでバタバタしていたらたちまち時間が過ぎる
だから津波の被害にあった人たちもとっさに逃げるという判断ができなかった


それから右田の真野川の岸の野球場で逃げきれずに20人死んだという。
あそこまで逃げきれなかった、海からの距離は2キロくらいあるかもしれない
それでも逃げきれなかったのは津波が早いということもあったし
とっさに逃げるということができなかった
つまり時間はあったが頭に津波がどういうものか何らイメージできなかったのである。
津波は4キロ地点まで被害があった
それも4キロ地点でも床上であり意外と被害が大きかったのである。


あと海老の高台を避難所にしてそこでも30人とか死んだ、それは海に面していたところであった。
もっと逃げる場所があったのだが津波のことを知らないので役所で決めた
ただあそこから後ろの森に逃げていれば助かった
何か木につかまって助かった女性があそこでいたのだ
いづれにしろ間一髪で助かったいた人がいて死んだ人がいる
野球場で20人か、海老で小高い森に逃げて逃げきれず6人死んだ
海老の避難所で30人しんだとか・・・・・
死者の数はやはり多すぎたのである。

やはり津波ということが経験がない知らないということが致命的になったのである。
この辺は400年も大きな津波が来ていない
500年前にも全国に津波が来ているがそれも記録が定かではない
記録ははっきりしているのは元禄からなのである。
それで千葉県とか磐城の四倉に残っている津波の記録がある
それは確かな記録であり伝説である。
ところが相馬藩内にはその元禄の津波の伝説も記録も残っていない
とするとそれは千葉県から四倉まで津波の被害があったが
相馬藩内にはその元禄の津波はきていないとなる
なぜなら元禄になると政治も安定して記録されるようになったから
相馬藩政記に記録が残らないということがありえないからである。
記録がないということは四倉までは津波が来ても相馬藩内には来なかったのだろうとなる


タグ:海老村
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2015年05月02日

なぜ相馬藩で慶長津波のことが一行しか記されなかったのか? (戦国時代なのと全国に情報が流通されない時代だった)


なぜ相馬藩で慶長津波のことが一行しか記されなかったのか?

(戦国時代なのと全国に情報が流通されない時代だった)


●インターネットで調べた津波の記録

 『鎌倉大日記』という記録は戦国時代の関東域の動きが記された数少ない記録である。その中の明応4年の項に「八月十五日鎌倉由比浜海水到千度檀水勢大仏殿破堂舎屋溺死人二百余、九月伊勢早雲攻落小田原城大森入道」と記されていて、大津波で鎌倉と由比に溺死者二百人を出し、9月には早雲が小田原城を攻め落としたという。

 他の史料は小田原「自落」と記すものもあり、津波と早雲の軍勢の両者によって大森氏は抵抗をあきらめたとのニュアンスが感じられる。

永正7年8月27日の津波 1510年9月30日 1510年10月10日 遠江の津波
永正9年8月4日の津波 1512年9月3日 1512年9月13日 阿波の津波
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E6%AD%A3%E5%9C%B0%E9%9C%87

本多徳次さんが昭和61(1986)年に著した『四倉の歴史と伝説』という本に「千人塚」の話が載っている。本を読むまで知らなかった。伝説をかみくだいて言うと、ざっと500年前の永正年間、四倉の大浦全域に津波が来襲し、家屋が流失した。死者が続出したため、仁井田浦に遺骸を合葬して「千人塚」を築いた。今は跡形もないという。 永正年間に津波が押し寄せたのは事実なのだろうか。
千人塚ができたのは永正年間から下ること100年余、元禄 9(1696)年の大津波のときだった。
その年、「大津波来襲、磐城七浜で死者2400名余。四倉、小名浜に千人塚を築く」。そのわずか19年前の延宝5(1677)年にも、磐城の浜に「大津波来襲、死者800名余」の大惨事になった
http://www.j-cast.com/2012/01/22119521.html

永正9年(1512)8月4日、津波が宍喰を襲い、宍喰浦で3,700余人の犠牲者が出て、1,500余人は助かったという。この時代には、城や宍喰の中心は現在の正梶の地にあったが、津波により街が壊滅したため、その後現在の愛宕山に城を移したと言われている。なお、この永正9年の津波は幻の津波と呼ばれている。この日、徳島はもちろん、国内のどこにも地震の記録が見当たらず、外国の遠地津波によるものでもないようである。暴風津波(高潮)という説もあるが、被害規模から、被害地域が宍喰浦のみというのは疑問が残る。

政宗領所、海涯の人屋、波濤大いに漲り来り、悉く流失、溺死者五千人、
世にこれを津波と曰うと云々(『駿府記』)
「…時に海面滔天、大浪山の如く来る。肝を消失し魂を失するのところ、こ
の舟彼の波上に浮びて沈まず。しかる後、波の平らかなるところに至る。こ
の時心を静め眼を開きてこれを見るに、彼の漁人住するところの郷辺、山
上の松の傍なり、これ所謂千貫の松なり。すなわち舟を彼の松に撃ぐ。波濤退去
の後、舟松の梢に在り。
…政宗これを語る由、後藤少三郎御前に於てこれ
を言上す。」
政宗の語る千貫松伝承
政宗は2人の家臣を漁村に派遣、1人は天候不順で出漁せず。1人は出船

「奥州筋生波(ツナミ)」700人溺死(相馬藩政記)

●閉鎖された環境で情報が全国に流通しなかった

これらの資料から何が読みとれるのか?
弘前市のレストランでたまたま出会った人が千葉の人であった。
その人は海岸の港に住んでいた。
それで津波のことを調べていたら元禄時代に津波が来て神社を移動させていることがわかった。
それは神社を改修したことが記録にあったからだという。
元禄時代までに三回も津波が来ていたことがわかったという。
記録に残っているのは元禄時代だという。

ここに記したらように津波のことは全国に語られているし記録にも残っている。
伝説にもなっている。津軽鉄道で終点の中里駅でおりて十三湖に言ったとき
そこも中世に港として栄えていたが津波で砂に埋もれてしまったという伝説か残っているあそこもそうだったのか、ここも津波で村ごと流されて何もない、砂に埋もれてしまったとなる。
磯部とかはもともと海岸の砂州だったから一軒の家もなくなった。
そのままにしていると本当に砂に埋もれてしまうことがイメージできる。
そういうことは全国的にみれば日本では地震と津波の国だからありうることだった

ではなぜ相馬藩ではそうした慶長津波のことが一行しか残れず伝説にしても明確なものかなかったのか?
だから津波などなかったという人もいる。それはそれだけ記録がないのだから探りようがないからだ。
でも相馬藩政記に記されたのは明らかに事実であり慶長津波のことであった。

「奥州筋生波(ツナミ)」700人溺死(相馬藩政記)

ここで生波をツナミとしている。奥州のツナミだから広い範囲にツナミがあったと記しているし今回のツナミと同じなのである。ツナミということば慶長津波で全国で普及して定着したのである。
その記録も伊達政宗が生きていた伊達藩から広がったのではなく『駿府記』に記されていた。
家康に伝えて『駿府記』に記されて全国に広がった。
貞観津波が全国的に知られたのは多賀城に京都の中央の役人が赴任していてその被害を目撃したから記録されて全国に知られたのである。
末の松山の短歌などが伝説であったが現実にあった津波であったことは今回でもその前で津波がとまったことで証明された。
一地域の情報も中央の政権ど結びつかないと重要視されないし見逃され記録に残らない。津波が全国にあるとしても今ですらそれを調べるのは学者でないと容易でないだろう。

たまたま出会った千葉県の人はインターネットで調べているという。
自分も学者でないし調べようがないのである。
地方の図書館に行ってもその記録を調べることができない
ここで調べたのはインターネットにてていたからである。
四倉の津波のことがインターネットに出ていたが

元禄 9(1696)年の大津波のときだった。
その年、「大津波来襲、磐城七浜で死者2400名余。四倉、小名浜に千人塚を築く」。そのわずか19年前の延宝5(1677)年にも、磐城の浜に「大津波来襲、死者800名余」の大惨事になった。

●戦国時代で相馬氏に敵対する勢力が津波で衰退した

これは事実だろう。元禄時代になると戦国時代も終わり平和と繁栄の時代になる。
だから津波の記録でもこの時代から残るのが多い。
千葉県の津波も元禄時代のものである。
慶長時代は戦国時代であり混乱の時代だった。
それでしきりに相馬藩政記でも記されているのは戦争のことである。
それはことこまかに記されているのである。
その時の最大の関心事は戦のことであった。
その後も秀吉や家康に領地をいかに安堵してもらうかが最大の課題だったのである。

大津波で鎌倉と由比に溺死者二百人を出し、9月には早雲が小田原城を攻め落としたという。
 
 他の史料は小田原「自落」と記すものもあり、津波と早雲の軍勢の両者によって大森氏は抵抗をあきらめたとのニュアンスが感じられる。

こういうことが相馬藩内でも起きた。
相馬氏が進出しても相馬藩内は相馬氏の支配下にはない、館を構えて中世の豪族が支配していた。
それは小高に大きな港があり原町の泉にも港があり勢力をもっている豪族がいた。
磯部も港の機能があり佐藤氏が大きな勢力をもっていた。
そうした在地の豪族が相馬氏に敵対していたのである。
だから小田原で北条早雲が
津波と早雲の軍勢の両者によって大森氏は抵抗をあきらめたとのニュアンスが感じられる

これは相馬氏にもあてはまる。津波は相馬氏にとっては都合が良かったのである。
在地の港をもっていた貿易で財力ももっていた豪族が津波で港が壊滅して衰退したのである。
相馬氏は片倉の八重米坂から入ってきて山側から勢力を伸ばして行った。
海側は港があり在地の豪族が支配していたからである。
戦国時代では大きな津波があっても被害が大きくても対処しようがない
むしろ自然災害でもかえって争う方にとっては都合がいい場合があった。
信長が桶狭間で嵐になって都合が良かったのもともにている。

慶長時代は戦乱の時代であった。津波でも四倉でも元禄になると記録が残された。
それでもなぜ四倉と言えば相馬藩ではすぐ近くであるのに相馬藩にはそのことも記録されていないのも不思議である。
四倉にそれだけの被害があれば相馬藩内にもあっても不思議ではない
それも元禄時代なのだから何らか相馬藩政記に記されてもいいはずだった。
それはなぜなのかというと封建時代は閉鎖社会であり狭い藩内で政治も経済も回っている他国に行くにも関所を通るとか情報も流通しないことがあった。
今でも全国で津波が起きたことを調べるのは容易ではない
たまたま弘前市で千葉県の津波を調べている人などに出会うことなどないのである。
そして津波の問題は百年に一回とか三百年のあととか四〇〇年とかの間隔になると
記録されたものも伝説も関心がなくなるのである。

ともかく地震とか津波とか今回のネパールの大地震でも日本だけではない地球規模で起きているのである。
スマトラの大津波があったのも最近でありその惨状を見ていて日本人が津波を警戒していなかったんだとか盛んに言っていたが日本でもそうだったのである。
封建時代の閉鎖的環境はやはり地震でも津波でも伝えられない、その局所だけのものとして広範囲に検討されなかったということがある。
全国的に見れば津波がいかに日本海側でも起きているしそれを見れば津波に警戒しないということが日本ではなぜなのだろうとなった。
まず海岸線に接して村があったということがなぜなのだろうとなった。
港があり漁業のための利便性があり津波のことは忘れてしまうということもあった。
また津波の被害にあっても海が生活の場の人は離れられないということもあった。
三陸などでは特にそうである。
今なら津波の被害にあったところは家を建てることが禁止されたからである。
それだけの政治力経済力があるからできることである。



十三湖で津波があり港は砂に埋もれた

そうか、今回の津波でも相馬でも同じことが起きた
磯辺なんか一軒の家もなくなって放っておけば砂に埋もれる
元禄時代に四倉に津波があり二〇〇〇人くらい死んだ
千人塚とはそのことだろう
四倉にあって相馬藩内に津波がなかったのか?
何にも記録されていないのも変だ
津波のことを全国で調べればいくらでもある
ここにも津波があったのか、被害が大きかった
ここたにもあったのか、ここにもか
津波は日本ならどうこでも起きることだった

江戸時代じゃあるまいしいくらでもそういうことわかったはずだけどな
なぜみんな警戒しなかったのかな?
相馬藩ではこの辺では津波は起きないという確信までなっていたからな
これも江戸時代ならわかるけど
科学の時代であり情報化の時代だからおかしかったんだ

津波が海岸線だったら例外なく起きるものなんだよ
日本ではそういうことがどこでもくりかえされてきたんだ
だからなぜ警戒もしなかったのか?
原発もなぜ津波を警戒しないで建てられたのか?

人間はともかく時間感覚で考えるのが苦手ということもあるな
時間軸で考えることは苦手である。
空間なら変わらずあるから理解しやすい
ところがここの一〇年前がどうだったとか
三十年前になると昔になりさらにわからなくなる
十年一昔だからな
人が死ぬとすぐにその人のことは忘れられる
その人が生きていたのかどうかさえわからなくなる
それほど人は忘れやすいんだよ

人間は時間軸で考える歴史が苦手である。
それは人間は十年前のことでも忘れるからだ
百年前になるともちろんそうだし四〇〇年前になると
なおさらであり大昔のことで全く忘れてしまうんだよ
その忘れることが大きな災いを産んだだよ
人間は忘れてならないことがあるんだよ
なぜならそれが後の教訓となり災いを防ぐからなんだな

タグ:慶長津波
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2015年05月01日

北右田の人の津波の話と昔話など (無法所帯,混乱状態で火事場泥棒など必ず起きる)


北右田の人の津波の話と昔話など

(無法地帯,混乱状態で火事場泥棒など必ず起きる)


土手の道で休んでいた老人は北右田の人で津波に家を流された人だった。
北右田というと野球場のある所である。
あそこには津波のときに逃げた、逃げるのにはいい場所だった。
角の店があった所は大きないい石の庭を残してなくなった。
ばあちゃんと孫が死んで今はこの土地にはいないという。
あの場所は海からそれなりに離れているから津波か来るとは住んでいる人も思っていなかった。
でも実際はその倍の距離に津波が来ていたのである。
それで小学校前で津波が止まったのだがその手前でも床上浸水だった。
その被害にあった人に聞くと家が残っていてもひどかった。
泥があがりその泥をのぞくにも大変だし潮水だからそれも大変な作業だった。
あそこちは家を建てることはできない禁止地区だが家が何軒か建っている。
確かにあそこは今になると津波には危険地帯になっていた。
それは今だからこそ言えるがあの距離だと津波が来ると思えなかったのである。

その人は農家であり橲原(じさばら)の山に馬車で肥料の草をとりに行っていたという
橲原には北右田の山とか所有していて草を刈り肥料にしていたという。
その場所を通った道は昔の道であった。
それは自分の家の脇の道も通っていた。自分の家のあるところは昔は本道であり新しい道ができて旧道になったのである。
真野川にかかっている木の橋がありその道は見た感じも通ってもゆれたりして何か危険を感じる橋だった。
だから馬車が通るのには荷物も積んで重いからさらに危険を感じた。
その頃の道は舗装されていない、土埃のたつぼこぼこの道だったからだ。
それにしても橲原は遠いからそんなにしてまで肥料として草を刈って運ぶのは難儀であった。
農業の問題は肥料なのである。肥料でいい野菜でもとれるし米でも土が良くないといい米はとれないのである。
だからエチゴでも高級な苺はたっぷり栄養を与えたものなのである。
焼畑農業も肥料を作るために森を燃やして灰を作っていたのである。
江戸時代が人糞が肥料として貴重だったことでもわかる。
花だって土に栄養を与えないと咲かないのである。

橲原と北右田が肥料のために結びついていたということは郷土史として注目すべきである昔は自給自足であり化学肥料もあまり使わないとするとその土地土地にあるものを利用して何でもするからそうなる。
燃料も薪や炭であるとき近くの山の木を利用していた。
山を利用していたのは山の人だけではないのである。
海でもあて山として海からの目印となっていたのである。
地元の山の木材で地元の大工が家を建てていた。
今は大きな会社が外部から来た人が家を建てている。
家を建てるというより組み立てているという感じになっている。
だから何か地元でしている地元を地に足をつけて生活しているということが見えない
特に津波原発事故以後は主に外部の人が来て仕事しているのである。
そういう点で今は地元のつながりがなくなった時代でもあった。
一つの自給自足的生活圏としてあったのが江戸時代から戦後十年はあった。
そういう社会は貧しくても人と人のつながりは自ずとあった。
ただそこにも様々な問題がありすべてがいいとはならない
現代に失われたものが過去に昔にあったということで考察しているのである。
津波の被害にあった人は小高のように補償金がもらえない、もらったとしても南相馬市では小高区、原町区、鹿島区とあり額が違っている。
鹿島区は30キロ圏外でありもらっても少なかった。
別に津波の被害にあったからといって原発事故とは関係ないから津波ではもらえないのである。
ただ漁業組合に入っている人は東電から補償金を前ももらっているしその後も海を汚したとしてもらっている。
それでその人たちをうらやましがってる。北右田には船主はいなかったからである。
大内の人もなにもなくなったと嘆いていた。
近くに烏の人も家を建てた。土地も広いからかなりの金がかかっている
そういう金の問題でこの辺は複雑であり不満がある。

そして庭の石を最近までもっていかれたと言っていた。
庭の石が津波の跡にごろごろしていた。立派な大きな石もあった。
あれはかたづけたのかと思ったらみんな誰かがもっていったのかもしれない
あの大きな石をもっていけるのと庭作りとかする業者である。
石は意外と高いから売れるのである。それもいい石があったからだ。
津波で流された石は誰の所有なのかわからない。
だから盗まれても所有者が特定できないから盗み安いとなる。
何でも椅子までもっていかれたとか言っていたから津波や原発事故の混乱で盗まれたことがかなりあったようだ。
避難区域では骨董品を盗んでいた人が逮捕された。
人間の怖いのはそうした無法状態になると欲望がむきだしになってくることである。
そういうことは自分の家が店をして洪水にあったとき店の品物が流されみんなもっていかれた。
それかち最近でも自分が突然の病気になったときも家に誰もいなくなりその時家にいた人に大金を盗られた。
それから借金していることが自分が病気になったことをいいことに借金していたから自分からその弱さにつけこんで金をあからさまに要求してきた。
「今がチャンスた、金だ、金だ、金をとれ」しか自分の場合なかったのである。
津波とか原発事故では絆だとか助け合い精神が生まれたというが反面そうした人間のもともとある悪しき面が露骨に出てきたのも現実だったのである。

それで小高の人で良く戦争のことを話する老人が言うことにはやはり信憑性ある。
沖縄の戦争で一番怖かったのは隣の人、近所の人だったという。
混乱にまぎれて無法状態になったとき何が起きたか?
若い女性が近所の人にレイプされたというのである。
そのことか一番怖かったという。
近所の人でも助け合うということが戦争でも必ずしもなかった。
無法状態混乱状態になると人間の悪い面が露骨にでてくるのも現実なのである。
そんなことは沖縄の人は語らない、それも本当なのかとも思っていた。
それが何度も言うしその人はどこで聞いたと言ったら実際に沖縄に建築関係で仕事に行っていて飲み屋で聞いたというから本当なのだろうと思った。
つまり普通は語られないことがそうした飲み屋とかで語られるからである。
要するに近所の人が一番怖いというのは自分も体験しているからだ。
そんな人が同じ郷里の人にいるのかという驚きであった。
人間の欲望が無法地帯や混乱状態になったら露骨にでてくる。
石を盗み椅子まで盗むというときそれが誰のものかわからなくなっているからである。
津波原発事故では何かそうした老人の経験したことを聞きやすい。
その人も何もすることがなくて土手で休んでいたのである。
そうした暇な人が多くなったからである。


草を肥料にする

インターネットの知識はこういうふうに関連して調べられことである。
草の用途もいろいろある、そういう経験した人が書いているから参考にする
草はやっかいなものだけど役にたたせることもできる




タグ:火事場泥棒
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2015年03月11日

南相馬市海老村の誤算 (津浪は同じ高さでは来ないー海底や陸の地形により複雑)


 
南相馬市海老村の誤算

 
(津浪は同じ高さでは来ないー海底や陸の地形により複雑)


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海老村は津浪の避難場所になっていた。NHKで今日放送していた。
40人あそこに逃げて助かったのは10人だった?
そんなに死んだのかという驚きである。
あそこに観音様の供養の像が立っている
そもそも海老村はや八沢とか右田からするとかなた高く感じられたのである。
だから自分もそれほど被害がないと思った。
しかし海老村は壊滅した。

津浪は一様の高さではおしよせない、あるところは高くなりあるところは津浪の圧力が強くなりと複雑なのである。
海底の地形も影響しているという、あるところではすごく高くなるのである。
宮古湾では湾の奥の方が高くなると思ったから東京にいた夫がそれで妻が死んだとあきらめたということを言っていた。
陸から見ると海老村は確かに高いがそれは陸の視点であり海からの視点ではない
海から見るとそれほど高いものでもなかった。
海老村にはなぜかせりあがるように高い波はおしよせたのである。

それであそこの崖の上に白河市から移り住んだという家族が三人死んだ。
八沢浦開拓記念の石碑から八沢浦をながめると確かに高く見える
でも海からだとそうでもないのかもしれなかったのである。
だからあそこが避難場所に指定したのは大きな過ちだった。
もう一カ所は前に書いた「命拾いの崖」だった。
あそこは結構高いから逃げれば助かった。
津浪は海老村をなぎたおして壊滅させて今度は右側に海水は下に向かって流れたのである一方は八沢浦の方に流れた。それで「命拾いの崖」の上から見た人は渦巻いておしよせたというから怖い。生きた心地もしなかったろう。

今回の津浪では想定を越えていて指定された避難場所こそ危険であり大勢の人がそのために死んだのである。
一カ所だけに避難するといきう考え方はよくない、何カ所でその時の情勢によって決めるべきだと言っていた。
そうはいっても人間は避難場所が決められると何か安全だと思うしそれが人間の心理である。
役所で決めたことは間違いないとか思うだろう。
しかし本当に政府とか役所がすべて安全を保証するのだろうか?
原発事故でもわかったように政府はあてにならなかったのである。
政府は必ずしも命の保証はしない、むしろ戦争のときのように民の命を勝手に奪うとういこともある。
政府でも本当に信じられるのだろうかということである。
あらゆる会社組織集団はその人たちの利益を第一にして動いている。
それは政府でも宗教団体でも同じである。
そういう大きな集団によって社会は動かされているがそれらは権力集団であり
その人たちの言いなりになっていると危険なことにもなる
東電は国と同じ権力をもっていたし行使できたしそれに歯止めをかけるものはなかったのである。そのことが事故にもつながっていたのである。

結局震災から四年すぎてもこの辺は何もかわらなかった。
津浪の跡は震災と同じままである。
津浪のその跡を日々見ていると人見ていない人の差も大きい
磯部村とか海老村とか烏崎村は一軒の家なく壊滅した状況である。
そこは何にも変わっていない、
そこでは大勢の人が一挙に死んだのでそこには何か草木も生えないとか
死霊がただよっているとか墓標のない墓地のうよにも見える
それほどその跡は以前として凄まじいのである。

津浪は本当に凄惨であり打ちのめされてしまった。
街自体が消失してそれを見たらとても住めないという感覚になる。
ただ以前として海の恵みがありそれで何とか復興しようとしている
料理店とかでもそうであり海の恵みがあるところではそれを糧に復興しようとしている
宮城県ではもともと水産関係は漁獲高も大きかったからそうなる
福島県の十倍はあったのである。

復興復興と言うけど人口流出がどこでも問題になり帰りたいというのは老人だけだとか
復興は進んでいない、街自体消失したところにどうして人を集めればいいのかとなる。
若者は復興している割合が大きい、年取るにつれて復興していないのである。
家を建てるにも資材の高騰とか人手不足とかなりそれもむずかしい
ローンで建てるのも年取ると返すのが容易でいなと嘆いていた。
その点原発の避難者は補償金があるから恵まれている。
それにしてもそこにも様々な問題があり金だけでは解決しない
家族がばらばらになったというのも苦しい
要するに復興は10パーセントくらいしかしていないのではないか?
それだけ広範囲な甚大な被害だったのである。

タグ:海老村
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2015年03月10日

津浪はやはりノアの大洪水にも匹敵していた (縄文海進海退の時のような変化に直面している)


津浪はやはりノアの大洪水にも匹敵していた

(縄文海進海退の時のような変化に直面している)

4.千〜2千年前
気候の冷涼化始まり、クリ栽培の衰退:2千年前。
海退が進行。貝塚衰退、北部九州で水田稲作開始:2千500年前。
約4千年前、列島の気候は温暖な安定期から冷涼な不安定期へと移行した。三内丸山のクリ林などの人為的な生態系は衰退し、代わってトチの実の利用が各地で活発化した。
これは、自然に対する人間の影響力の低下と自然林の回復を示すものとも考えられる。
僅かながら海面の低下も進み、内湾や干潟の縮小によって貝塚も次第に衰退した。
やがて縄文晩期後半に北部九州へと伝わった水田稲作は、弥生時代の入ると各地に普及し、稲作農耕社会への転換が一気に進んだ
http://www14.plala.or.jp/bunarinn/plala/DaieryAB/sizennkannkilyou/sizennkannkilyou.html#nihon

気候変化が人間に及ぼした影響は大きかった。それによって文明が消滅してまた新たな文明も生れるようになった。
ノアの方舟の洪水は実際にあったことを基にしている。
古代文明の崩壊には塩害、干ばつ、森林資源の消滅、そしして大洪水といった自然災害が決定的な意味をもっていたのである。
しかもその自然災害の大半は文明の発展の中で人間が自然を破壊したそのつけの上にひきおこされた。
あたかも人間の欲望が地に満ちた時、神が大洪水を引き起こし文明を崩壊ささられる。
(安田喜憲)

気候変動が文明の発展と消滅を決めていた。それはとりもなおさず自然の力が人間の力(文明、技術)を越えていることの証明なのである。自然に逆らえないというときそれは神に逆らえないということにもなる。
今回の津浪で経験したことは恐るべきことだった。それは本当にノアの洪水だったのである。
津浪の跡に山鳩が飛んできたときまさにノアもオリーブの葉をくわえた鳩が来たとき洪水はやんで陸地に到達した。
津浪には人間の想定を越える自然の力をまざまざと見せつけられたのである。
その前になす術もなかったともいえる。
原発にしてもそこには人間の奢りがあり科学者が神のようにふるまう奢りがあった。
科学者が現代ではあらゆる分野で神官になったからである。
その奢りも津浪によって打ち砕かれたのである。

あたかも人間の欲望が地に満ちた時大洪水を大きな自然災害が起きたということを自分も書いてきた。原発は人間の欲望の象徴でもあったのだ。
現代文明は限りなく欲望の増大を容認した社会である。
資本主義でも民主主義でもグローバリズムでもみんな人間の欲望の無制限の解放だったのである。
欲望を制限する思想がないのである。もっと欲望をもてもっと消費しろとか欲望をもっと刺激して物を売れ消費させろとかなっていた。
それが科学や機械の発達によって世界的に無制限になっていた。
そのたどりついたのが原発事故だったのである。

個々人をとっても自分が接した人でもなぜこんなにみんな多額の借金してまで立派な家を建てたりいい車を何台ももち贅沢しているのだろうと思った。
その借金が自分で始末するならいいが自分にも他者にもその借金を負わせようとしていたそれで自分は病気のときに苦しめられたのである。
つまり自分の欲望のためには他者などどうでもいいというモラルの荒廃が起きていたのである。
自分に起きたことは犯罪にもあったしモラルの荒廃が顕著となった時代なのである。
残酷な少年の殺人とか異常なほどのモラルの荒廃がありそれは大人にあり子供にその害が及ぶ、今やモラルの荒廃は頂点に達していたのである。
末世にはそうした異常なことが起こるというのは本当なのだろう。
それは田舎も何ら変わりない、その欲望は度はずれたものともなっている。
でもそれが資本主義や民主主義ではかえって奨励されるのだから根本的におかしいとなる

車なら一台あればいいようにも思う。田舎では一人一台だから都会より贅沢である。
今や都会と田舎の生活は医療をのぞいて何ら変わりない、田舎の方が贅沢である。
浜通りの人は会津とかより欲が深くなっていたかもしれない。
それは原発があり漁業者は補償金で暮らせる。
今回の津浪でも宮城県とか岩手県の方は原発の補償金がないから復興住宅に入れないとか高台の土地を与えられても家を建てる金がないとなっている。
原発事故周辺は補償金で家をイワキとか他の土地に建てた人が多いのである。
それで土地は何倍も高騰している。

原発事故は文明を崩壊させるほどの事故だった。
人が住めなくなり人口が流出して荒野化する。それはかつての文明が森を破壊して砂漠化したともにている。
森は残っていてもそこには人は住んでいないのである。
津浪が縄文時代と何の関係があるのかというと縄文海進があり縄文海退がある。
その時も大きな変化があった。貝塚が現在の海よりずっと奥にあるのは縄文海進時代に内湾で貝をとっていたからである。
新地の貝塚もそうであり海よりずっと奥の台地にある。あそこには貝をとっていた巨人の伝説がある。その伝説は勝手に作られたものではない、憶測でもない、明確な事実の上に作られていた。伝説は何かその基になる事実があってみんな作られている。
だから伝説を架空のものとするのは間違いなのである。
そして歴史を知るのには地理が大事である。地理を知らなければ歴史も知り得ない、相馬藩内でも歴史を知ろうとしたら地理を知らなければ根本的なことはわからないのである。それはどこの地域でもそうなのである。

だから津浪で本当に驚いたのは縄文海進時代が再現されたことである。
有名な万葉の歌の真野の草原の歌があるがその時は縄文海進時代が継続していて海は塩崎まで海だったのである。塩崎というのが海であったから名付けられた。
そこに船着とある地名も現実にそこに船が入ってきてから名付けられたのである。
そこの手前まで烏崎から船が流されてきたことには驚いた。
縄文海進時代は海に依拠した漁労生活になり縄文海退の時は山の幸に依拠する生活になった。ドングリや栃の実や山菜などである。
海の幸、山の幸が日本の国の恵みである。
そして縄文海退の時は平地が湿地帯が広がりそこに稲作する地ができたので弥生文化が稲作文明が発展したという。この説はやはり日本がいかに海側に平地が多く湿地帯が多いかでわかる。釧路湿原を見ればその時代が今でもわかる。あの広い湿地帯が田に変わってしまったのである。

つまり縄文海進とか縄文海退という海の変動が大きな文明の変化までもたらしたのであるそれは今回の津浪による変化ともにている。
気候変動とか自然の大災害は文明自体を変えてしまうような変化をもたらすのである。
相馬藩内の三分の一の人口が流出してそのあとは荒野化している。
それは宮城県とかでも人口が流出している。
それはもう一個人とかの手に負えない大きな変化に見舞われている。
だから田がなくなったあとに何を作るのかなどイメージできないことでもわかる。
縄文海退のときはそこで稲作文明が入り縄文文化から弥生文化に移行した。
今回は何に移行するのかとなるとそれもイメージできない。
稲作文明は自然のサイクルを利用した自然循環文明であり今の高度に科学化した機械化した文明とは根本的に違っているからである。
それでその先がイメージできない、見えないのである。



タグ:縄文海進
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2015年01月06日

沖縄の石垣島に明和の大津波(1771年) (総合的学問が喪失していることの危険)


沖縄の石垣島に明和の大津波(1771年)

(総合的学問が喪失していることの危険)


●石垣島にはまだ過去の津波の記憶が一般レベルであった



石垣では海の近くに家を建てないという認識があるのだが、それは明和の大津波によるものが大きい。

東日本大震災の時と同様、もしくはそれ以上の大津波を体験した島民はあまり海の近くに家を立てたがらないという歴史が島民には根強い。
http://shinjitsuokinawa.org/?p=84
ここのプログは沖縄の裏事情を語っていて面白かった。

石垣島だけで8439名もの死者を出しました。その後も飢餓や伝染病などの二次災害的な死者も加わり、八重山の人口は地震前の三分の一まで減少しました


この被害も凄まじかった。相馬藩の天明の飢饉と同じである。その時三分の一に人口が減ったからである。これだけの被害があれば伝承も残る。
しかしそれでも忘れられてゆく、慶長三陸津波は1611年だから400年前であり明和は300年前だった。百年の差があるにしろこの記憶はなかなか消えないはずである。
それで石垣島ではそういう言い伝えがあり海岸沿いに家を建てないということがあった。
津波の問題は300年前とかなるとどうしても記憶が薄れてゆく、それが最大の問題だったのである。宮城県であれ岩手県百年前に巨大な津波で大被害になっている、それで高い防潮堤を建てたからその記憶が生々しいからである。
それでも警戒しないで被害があれだけあったことの不思議である。

●科学者が津波を警告しても東電は聞かなかった

相馬藩内ではまずそうした慶長津波の記憶はほとんどない、相馬藩政記に一行700名溺死と記されていたがそれも忘れられていて今回の津波で発見されたのである。
今回の津波で常に話題になったのがなぜ危険な海岸に住んでいたのかということである。まずこれくらいの津波の経験が過去にあれば誰も住まないからである。
少なくとも警戒して住んでいる。
ところが三陸でさえやはり海岸沿いが便利だから津波の後も住んでいたのである。
400年間津波の被害がなかった忘れられた地域ではもともと記憶も伝承もなくなって忘れられているのだから余計に海岸沿いに津波の警戒もなく住んでいても不思議でないとなる
宮城県でも津波に警戒がなくなっていたのは海岸沿いが仙台市の新興住宅地化していたこともある。それで最近ボーリング調査で津波が奥深くまで来ていたことが実証されていたのである。それで学者が警告したら不動産屋が地価が下がるから津波のことなど言うなと脅されたという、そこにもともと住んでいた人も忘れ新しくそこに住む人はもちろん警戒もしない、海岸沿いは涼しいし眺めがいいとかで新興住宅地化した。
でもやはり昔から江戸時代とかその前からも人が住んでいたという地域にはその土地のことを伝えるものが残っている。
それを一番意識するのがその土地に代々住んでいる人達なのである。
それが郷土史である。

現代はグローバルに無規制に世界が拡大している。空間が拡大するのは容易である。
一日で地球すら一周する。ところが時系列を過去にさかのぼるその土地の歴史は簡単に理解でない、時間がかかるのである。
だから確かに自分は日本全国を旅したしその場所を空間的に地理的にわかる。
しかし時間的なものは歴史などを理解するのはやはり旅した後でいろいろその場所のことを調べて考察していると徐々にわかってくる。それは時間をかけて徐々にしかわからないのである。それが外国だったら余計にそうなる。
あの場所はそういう場所だったのかと理解するのは相当に時間がかかる。
だから今では7年間近くすら自由に外出もできないが旅した場所を思い出してその場所を
回想で旅して歴史を知ろうとしているのである。

例えば石垣島に行ったとしてもあそこで津波があったとか関心をもつ人はまれだろう。
今回は地元でこれだけの津波の被害があったから日本でも世界でも津波に関心をもつようになったのである。人間の弱点はたかたが一人の人生でも過去はわすさ安いのである。
また忘れないとしたら嫌なことも忘れないから困ることになる。
ただ忘れてならないことがあった。それが津波のような大災害は忘れてならないものだったのである。
宮城県では慶長津波のことは比較的残っていた。でもあれだけの被害があったのは海側に向かって宅地開発が無造作に行われたためである。
その土地がどういう土地なのかなどかまわない、津波の危険を警告しても無視された。
そこも金儲け第一主義であり学者が警告したら不動産屋が脅してきたことでもわかる。
それは福島の原発と同じだった。
最近の津波のことで学者が東電に警告していたのである。それは歴史学者とかではない、科学者が最近のボーリング調査で津波が奥の方まで来ていたその砂が発見されたので警告していたのである。

●大学の本来の役割が消失する危険

普通は科学者だったら科学者のことは冷静に判断する、郷土史家のことなどは無視されやすい。だからそのことは東電で科学者の集まりがなぜ無視したのかわからない。
結局人間の欲望が利益が優先されて科学者もその欲望のために操られる。
STAP細胞騒ぎも何かそうした人間の欲望がからんで起きた事件だった。
科学も社会の中では人間の欲望とかかわりゆがめられてしまうし科学者もその欲望のためにゆヴめられてしまう。
研究費が欲しいとなるとそこに金がかかわり金が欲しいとなり科学者もその金のために働かせられることになるのである。
科学がいかがわしい錬金術になるようになった。金を作るということはそこに人間の深い欲望を実現するものとして科学が変質した。そこに科学の呪いが生まれたのである。
例えば本当の科学者は青色発光ダイオートとかSTAP細胞が実用的にどう利用されるかよりそれが新しい科学の発見であり法則の発見であるとき、実用性よりその法則が発見されたとかの方に興味をもつという、つまり学問と実用は別なものとしてあった。
大学とかは企業とかと違うのだからそうした実用とかと離れて原理とか法則とか純粋に科学を追及する場なのである。そこからたしかに実用的なものが生まれたとしても本来は実用から離れたものとしてある。

大学がすべて実用ばかり追及したらそれは企業になってしまう。
大学の意味は実用とと離れて人間としての教養とか全体的な人間としての知を追及する場である。これもまた象牙の塔などと言われて現実社会と遊離しているとかなるが大学の役目は一面はそういう現実の利益から離れたところにあることも社会としての役割なのである。

デカンショ、デカンショで半年暮らす、アヨイヨイ、あとの半年ぁ寝て暮らす、ヨーオイ、ヨーオイ、デッカンショ♪」
デカンショとは、デカルト、カント、ショウペンハウエルをまとめて略したもの

そういうことが人生の内でも若い内があってもいい、実用ばかりだったら味気ないとなる大学の役目は幅のある教養のある人間を作ることである。
高校とはまるで違った場所だったのである。
それは帝大性となるとエリートだからできたことであったが団塊の世代からは大学も実際は大衆化していたのである。
大衆レベルで帝大生のような境遇を味わえたというのはそれなりに意味があった。
今なら半分が大学がでているからまた違っている、それが悪いとは言えないのである。
文科系大学は税金の無駄だともなり廃止すべきだというのはまさに今の社会にそうした余裕がなくなっているからである。何か実用性がなければ無駄となるのはまた危険である。何か無駄なのかなどこの世ではわからないのである。
無用の用がこの世で必ずあるからそうなる。
津波とか原発事故を考えるにしても何か総合性が必要だった。
それは科学だけではわからない、郷土史なども関係していたしそれは総合的に判断するものだった。その総合性が一番欠けているのが現代でありそれが津波であれ原発事故で問われたのである。


タグ:沖縄の津波
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2014年12月24日

南相馬市鹿島区の大内村で津浪の被害にあった人の話 (家もなくなり原発の補償金ももらえないので同情)


 
南相馬市鹿島区の大内村で津浪の被害にあった人の話


(家もなくなり原発の補償金ももらえないので同情)

河原の土手で休んでいる人がいたので話しかけた。
その人は大内村の人で津浪の被害にあっていた。
大内村の不思議は道をはさんでわずかに高くなっている場所の家は
被害が少なく残っていた。
道を挟んで田んぼ側は被害が大きかった。
だからもともと古い家は道を挟んで高い所にあったのだろう
大内村はも古い村である。館とあるのは中世だろう。
古代にも船がさかのぼってきたという曽賀船の地名がある。
これも前が海だった時のことを伝えている
船が海からさかのぼってきたからその名がついた。
烏崎の船着も船が着いたからその名がついたけどそこが海だったということを意識することはむずかしかった。
ただ今回の津浪で本当に古代に海だったところが海になっていたのである。
大内に潮水が流れてきたとか言っていたけど真野川から何か小川をさかのぼって潮水が流れてきたことも考えられる、それなりに海の影響があったともなる

ただ大内村は道を挟んで高い所と低い所で明暗をくっきりと分けたのである。
その人が助かったのは家族でみんな石神の親戚に行っていたから助かったという。
でも家も何にもなくなったという。
大内の低い場所は海から離れているけど意外と被害が大きかった。
あそこのトラック運転手が津浪が来るのを見てトラックで必死になって逃げたという話を聞いた
あの位置だと津浪を見てまだ逃げられる場所にあった。
でも大内村だったらすぐに坂を上れば助かったのである。
トラックで逃げたということはトラックを流されないようにするためだったのだろう。

 
その人はすでに90才越えていたけど自転車にのりしっかりしている。
ただ小高の人が原発被害で避難して仮設に入っていることがわからない
今の事情は飲み込めない、自分の母親も99になって津浪や原発のことを言ってもわからないのとにている。
その人は困っているのは冠婚葬祭に出る着るものがなということだった。
田舎ではそういう場に出るのが多いからそう言っているのかもしれない
でも着るものもみんな流されて何にもないとか家も金が建てられないというのはあわれだと思った。
ただそれは冠婚葬祭用の礼服がないということであり着るものに困るということではないだろう。
真野川は大内川とも河口では言っていた。浪江で高瀬川が下流では請戸川になっていたのとにている。

往古鮭を漁するもの上流上栃窪村坂上神祇八竜権現を以て真野川の鎮守と崇め豊漁を祈るといふ。古より毎秋初鮭を捕へ公に献ず、袋村また当村に属して課業す
(鹿島町誌)

八竜権現は多い神である。水の神だから川の神にもなっていた。
川子の高台にもあり烏崎にもある。烏崎の八竜神社は津浪からぎりぎりで助かった。
だから何かあれは奇跡的に思えたのである。
そしてなぜあんな高い所にあの場所に建てたというのが問題になった。
津浪の前に建てられたのか後に建てられたのか追及したがわかりにくい。
烏崎は岩松氏が船で上陸したという伝説があり南北朝時代にもすでに寺があり遠藤氏が住んでいた。大内にも遠藤氏が多いからその系統が移り住んだ。
慶長津浪の前に八龍神社はあったと推測される。
袋村は消失したがもともと大内村の人が開拓して開いた村だった。


その人は津浪のとき石神の親戚に家族で行っていたということは運が良かったのだろう。そうでなければ家族の人も死んでいるいうこともあった。
ただ家は流されて何もなくなってしまった。金もないから家も建てられない、そして原発避難民のように補償金ももらえないから損だとなる。
ただそうした事情がのみこめないから別に小高の人をどうだこうだとは言わない
津浪の被害者もあり原発被害者も同じ仮設にいる。
だから鹿島では原発被害でも補償金がわずかだから同じ仮設に住んでも不満が大きい。
この人は着るものもなく家も建てられないから他の人より不遇だとなる。

その人は20才で甲種合格で中国に行ったという,20だと90まで生きていればまだ戦争のことを直接聞くことができるがやがて直接は聞けなくなるだろう。
戦争で生き残ったのもやはり運が良かったのか、無惨に死んだ人達のことを語っていた。今回も津浪の時に家族で親戚の所に行っていて助かったのである。
これも運か良かったからかとなる。
そのことは次に書いてみよう




タグ:津波の被害
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2014年12月20日

スマトラ津浪でモーケン族が津浪から逃れられた理由 (相馬藩でもなぜ400年前の津浪が忘れられていたのと通じる)


スマトラ津浪でモーケン族が津浪から逃れられた理由

 
(相馬藩でもなぜ400年前の津浪が忘れられていたのと通じる)


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今回の津波は小高の駅を越えてきたのに驚いた


モーケンは「海の遊牧民」と呼ばれる海洋民族で海岸に住んだり船上生活をしていて、おもに漁業を営んでいる。
 海洋民族にとって潮の満ち干は頭に精密に入っているが、それ以上に潮が引いたのだ。

モーケンは「海の遊牧民」と呼ばれる海洋民族で海岸に住んだり船上生活をしていて、おもに漁業を営んでいる。
 海洋民族にとって潮の満ち干は頭に精密に入っているが、それ以上に潮が引いたのだ。
 先祖からの言い伝え通り津波が襲ってくる。そう直感し、ただちに245戸、約1200人の集落全員が村の高台に避難した。

モーケン族(Moken)とは、ほぼ一年中海上で過ごす海洋民族。モーケンやモーケン人とも呼ばれる。モーケンは、自称でビルマ語では、サロン族と呼ばれる。別名「海のジプシー」。
アンダマン海、タイ王国、ミャンマー、メルギー諸島(英語版)の近海に暮らしている。ミャンマーとタイの政府はモーケン族を文化的に同化させようと試みてきたが、その成果は限られたものである

主に、カバンと呼ばれる家船(えぶね)に住んでいて、見知らぬものと出会うことを恐れている。しかし最近はミャンマー政府の政策により、海岸で定住生活をさせられている者もある



海の遊牧民などというのはなじみがない、海だけを生活にしている人達である。でも狩猟もしている。ただ定着しないだけである。だから海というのは国境がないから広範囲に国を越えて海をわたりあるく人達だとなる。
砂漠の国でも国境はなくそういう人達が今でもいる。
砂漠とか草原は海とにている、馬であれラクダであれ平坦であり移動しやすい、そして国境は作りにくい、壁を作るにしてもできないからである。
だから今でもどうしても移民でも大陸は入りやすいのである。

そもそもなぜこれに注目したのか?学者が注目したのはやはり今回の地震と津浪でなぜ海岸沿いに住んでいた人達が津浪に対する警戒感もなく避難することもなく甚大な被害になったのかということが延々と語られているからである。
相馬藩でもたった一行700人溺死とした記録が残らないのはなぜかと探求してきたが良くわからない。
つまり津浪になぜこれほど無警戒になっていたのかということが解せないのである。
スマトラの被害も甚大だった、10万人とか死んだというから想像を絶する。
そのとき日本ではあそこでは津浪を経験していないから無警戒だったとか盛んに言われたのである。それがまもなく今度は日本で津浪で大被害にあった。
日本なら津浪の経験があるのだからこんな被害にならないとなるが実際は違っていた。

するとなぜこのモーケン族が津浪をさけることができたのかとなる。
そもそも津浪はそんなに度々こない、でもスマトラでも巨大な津浪が2500年の間に三回来ていたことがわかった。堆積物からわかったのである。
つまり今回だけではない前にも巨大な津浪が来ていたのである。
ただそれが忘れられていた、それでモーケン族だけが津浪をさけたのはなぜかとなった。
モーケン族がそんなに昔から一部族を形成して海をわたり生活していたのかとなる。
そんな古い人達なのかともなる。たいがい同化するのが普通だからである。
古代には日本にも隼人(はやと)などが九州にいたけど日本ではそうした異民族が蝦夷征服で終わっている。もう日本人しかいないし日本人に同化しない民族はいない。
モーケン族が小さい集まりであり部族だからそういうものが今までずっとつづいてきたのかとなる。
そういう一部族が存続していたというがどれだけ古いのかわからない。
ただその一部族が残ったということは何か民族の化石のようなものになるのか?
モーケン族は海を舞台に常に活動しているとなると海について詳しくなければ生きていけない。でもそもそもどのくらいの歴史があるのかとなるとわかりにくい。
ただ津浪についての知識をもっていた。だから大きな津浪は400年と2か500年とかのスパンで起こるからそういう津浪のことを伝えるということはそれだけ長くそうした部族が生き続け津浪について語りつづけねばならいないのである。
ただ海の遊牧民としての生活がつづいていたのだから海から離れなかったのだから津浪についてもその知識が伝えられたとなる。

相馬藩ではどうなっていたかというとちょうど津浪が起きた400年前は相馬氏が進出した時期であり戦国時代であり相馬地方はそうした地元でも混乱した状態になっていたのである。相馬氏は外来の氏族であり地元の勢力ではなかったのである。
だから海側に勢力をもっていたのは在地の勢力であり相馬氏ではなかったのである。
相馬氏が進出してきたときちょうど慶長の津浪が起きた。
それは相馬氏にとってはかえって海側の在地の勢力が津浪で大打撃を受けて勢力が衰退したのである。それは相馬氏にとって好都合だったともなる。
相馬氏進出の経路を考察してわかったことは小高に進出して原町は深野(ふこうの)は在地の勢力があり館とかの地名が残っている。それで大原に進出したのである。
ここは未開の原っぱになっていたからである。その大原から小池の方に進出した。
今の鹿島区は北郷となっていてもともとは岩松氏などが支配していた。
その家来の系統が横手にもいたりするからなかなか進出できなかったのである。
相馬市でも磯部館がありその後日立木の鬼越館に移りそこでも相馬氏と争いがあった。
伊達市と通じるとか海側の在地の勢力とは対抗していたのである。


海老村の藤金沢堤の傍らに塚あり、上元塚と名づく、六十六部回国上元なる者の塚という。
在昔村に匠人善次なる者あり、中村城天守造営の時日々中村にいたり造工たり。
深更に及び家に帰る。円光塚よりいず。転々として大いなること茶銚のごとし。
その光青色なり。また垣の如きもの路に横たわる。善次中刀をぬきこれを切って
通行す、この如きこと数回なりという。記者言う、狐狸の如きもの怪か。
その後善次病死して棺を出す。時に大原村二森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで
雲中に入る。宝蔵寺の僧これを聞き走り来りり七重の袈裟を雲中に投ず。
声ありて曰く、「おいか」と。
棺おく雲散じ空晴れてこれを葬るという。是の世に希有のことなり。
知らず「おいか」とは何の言なるか。
ある人いふう葬礼の諸品を海水に洗えばすなわちこの怪異ありと。
海老村に残るこの伝説で注目すべきは
その後善次病死して棺を出す。時に大原村二森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで
雲中に入る。

なぜ大原村が関係しているのかというとまさに大原は相馬氏が最初に原町で進出してきた場所だったからである。

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相馬氏古支配帳(文禄)

このように大原にはいくつも記録されていることでもわかる。
相馬氏と何ら海老村の在地の勢力が敵対して争ったことが伝説になった。
これはちょうど中村城の天守閣造営にかかわっていたし慶長津浪の時期と一致するから
何か津浪とも関係していたのかもしれない、他に津浪の伝承はない
あっても慶長津浪かどうか判定できないのである。

今回なぜ福島県から宮城県と津浪の被害がこれほど大きくなったのかその原因はモーケン族のように一つの部族であれ語り継ぐ歴史が失われたからかもしれない。
宮城県でも大きな被害があったのは海側に都市化して住宅化したところだった。
多賀城でもそうであり家が密集してしまっていてもうそこにも津浪があったということすらイメージできない場所になっていたのである。
貞観津浪の末の松山が伝承として残っていたがその前はもう住宅地で家が密集してそこが海だったかとイメージもできない場所になっていた。
そして学者が津浪がくると仙台の海側の住宅地に警告したら不動産屋が価格が下がるからそんなこと言うなと脅されたという。
まさにこのことが象徴しているように津浪を警戒するということはまずモーケン族のように海と切り離されて生活しているのだからそういうことを意識できないのである。


そもそも海岸の港でも海を常に意識して漁業で暮らしている人は少ない、ただ松川浦では津浪が来たら海に船を出せということでそれを実行して90パーセントは船に被害がなかったのである。だから海と生活しているというときそういう伝承は伝えられていた。
でも住宅地化したらそんなことは関係ない、海側は景色が良くて涼しいから気持ちいいとかなるだけである。
海側に住んでいるからといって今は漁業している人はその海側に住んでいる人でも少ないのである。海老村などではほとんど海とは関係なくなっていた。
そこに漁港があったとしてみんな漁師になっているわけてではないのである。
そしてモーケン族のように代々強固な一族として継続していない、相馬氏が入ってきていろいろな氏族が混じり合うようになるとそうした伝承も残りにくくなる。
相馬氏が支配者になれば相馬氏の都合のいい一番関心のあることだけが相馬藩政記でも記されるようになる。そこでは跡目争いのことなどが詳細に記されている。
そして誰が功績があったとか戦争で活躍して恩賞をもらったとかが記される。
その時津浪の被害が大きくてもかえって相馬氏にとって敵対勢力が衰退すれば都合が良かったとなるのである。今の時代の考え方とは違ってる。

小高の縄文海進時代の地図を見ればわかる。小高の駅を越えて城近くまで津浪がやってきた。縄文時代は小高の城があった浮舟城当たりまで海が迫っていたのである。
だからその縄文時代が再現されたから驚きだったのである。
もともと海だったところが本当に津浪で海になったのである。
もし縄文人がモーケン族のように残っていれば津浪のことを伝承されたかもしれない、もうそうした共同体も複合体になり失われていた。
つまり何らかの伝承でも伝説でもその土地に残るとしたらモーケン族のような強固な族として残っていないとそうした伝承は忘れられる。
モーケン族は今でも海を生活の糧として一団として残っていたから津浪の被害にあわずにすんだとなる。
昔からのものを何か残す伝えるにしても社会が変わってゆくと忘れられ伝えられなくなるのである。

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2014年11月08日

NHKの放送の原発近くの熊川の津波の被害の写真 (ここを通った桜が咲いている写真があった)


NHKの放送の原発近くの熊川の津波の被害の写真

(ここを通った桜が咲いている写真があった)

 

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桜の木は枯れた
でも木が結構残っているのは不思議である。
この辺はほとんど海に接している地域だからである。

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熊川を下り開ける桜咲き沖に船見ゆ鴎も飛びぬ



NHKで時系列で20113月の津波と原発事故以後の被災地の状態を放送していた。
原町の萱浜(かいはま)で家族四人もなくした人が出ていたがこれも悲惨だったとなと思う一挙にそれだけ亡くすとなるとその衝撃は大きすぎる。
それでも息子と新しい家をすでに建てていた。
ともかくこういう悲惨な悲劇から立ち直るのは容易ではない
忘れろと言ってもなかなか忘れられないだろう。
ただ近くでも被害にあわない人は家族四人なくなったからといって痛みにならないのである。
ただ自分が苦しめられたことは延々と忘れられないのである。
つくづく自分のみに災いがふりかからないかぎり無関心な利己的なものだと思う
現実自分が苦しい目にあっているとき誰も同情しない
かえってチャンスだと様々なことを苦しめられてきたのである。
だからそのことが自分にとっては忘れられないのである。

六号線から海の方に出やすかったので熊川の方に出た。
あそこがあんなに事故のあった原発に近いと思わなかった。
なかなか原発は意識しにくいこともあった。
あそこからは原発は見えていない
でもなんか川下ると海が見えて沖に船が行くのが見えた。
桜が咲いてのどかな風景だと思った。
あそこにもそれなりに家はあった。
誰かが耕して休み船を見るとかいう俳句を作っていたがあの辺だったのだろう。
畑があり海があればそうである。そういう平和な風景が根こそぎ失われた。

六号線は全線開通している。
だから通販の品物が早く来るようになったのか
六号線を東京から直通だと早くなる。中通り通ると一日は確実に遅れていたのである。
あそこの熊川の隣は小良が浜(おらがはま)だった。
おらの浜だとして岩城氏と相馬藩が争った地域であり境界だったのである。
六号線を行ってみたいが自転車では行けない、車だと行けるようになった。
でも六号線だけでありあそこには行けない
あの辺は相当な放射線量だろう。
いづれにしろあそこなども誰も住まなくなるだろう。
原野化したがそのままであり津波の跡の海岸線はどこも同じである。
タグ:熊川
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2014年09月16日

東京の危機迫るー貞観津波の時と同じ傾向 (茨城から千葉、埼玉と地震が頻発)



 東京の危機迫るー貞観津波の時と同じ傾向


(茨城から千葉、埼玉と地震が頻発)

これまでの地震は散発的に起きていた。東日本震災から違っている。周辺に集中的に起きているのはやはり東日本震災の影響である。埼玉に震度5弱が起きたのは不気味である。
東京は東電が原発を福島に浜通りに作った。それは一千万の東京を維持するために作られた。東京は自らの危険を避けて東京に作った。そして原発事故の災禍をもたらしフクシマでは浜通りでは人も住めなくなった。
この災いをもたらしたのは東京のような巨大都市がありそれが負荷となり原発事故がもたらされたのである。東電や政府は東京から離れたところで安全策を図ったのである。
そして飯舘村のような原発とは関係ない自然と共生を図って暮らしていた村に住めなくさせたのである。その罪は余りにも大きすぎたのである。
そのカルマを支払わせるために東京に危機が迫っているのだ。
貞観津波の時も陸奥は大被害を受けた。それはそのとき大和王権が陸奥の蝦夷をふみにじり虐殺していたのである。

そうして人心が乱れるとき自然も乱れる。その乱れを蝦夷の怨霊を鎮めるために祇園祭が始まったという。そのときの政権は奈良から京都に移っていた。
そのときは首都は京都だったが今は首都は東京である。
そういう人間の歴史とも災害は関係して起きてくる。
大災害はまた人間社会の根本的変革をうながす強制するものとしても易姓革命を起こすものとしても起きる。
原発事故も天の警告であり変革をうながすものとして津波が襲ったのである。
東京一局集中も国土利用では間違っている。天の配剤がありそれに反するとまた天変地異が起きてくる。東京はすでにもうそうした自然から見れば異常に肥大化した自然に天の理に反したものとなっている。
だから天の理に従って大災害が起きて新たな日本の国造りを強いるのである。
それはとても人間の力ではできるものでないから天が関与するのである。
原発事故でもその悪が暴いたのは人間ではない、国家的犯罪になると人間では裁けないから天が神が自然を動かすともなる。

蝦夷の怨念と同じものが今回も起きている。貞観津波では京都だったが今度は東京になる。
東京では常にに地方を軽んじてきた。第一次産業を食料を提供する地方を軽んじることは自然を軽んじることに通じているのだ。
大きく見ればグローバル経済というのも日本を起点にして見直される時期に来ている。
食料は国内で自給するのが基本であり外国に頼るのは天の理に反するのである。
だらこそ天から罰を加えられる天変地異が起きてくる。
tppもアメリカの第二の属国化なのである。

都会には都会のカルマがある。関東大震災があったが東京では必ずそういう地震災害が起きる。都会は災害に弱いからである。だからカルマを繰り返す、東北でも津波は繰り返されてきた。日本自体がそうした国土のカルマをもっている。その運命から逃れられないのである。歴史を振り返ってもその地理が歴史を作るように災害も繰り返される。
ただ日本人は忘れやすい民族なのである。何か一過性で台風のように荒らされてもその後の青空のように忘れる。
神戸の地震でも都会の被害は甚大になる。それを考えたら普通はあんなに密集して住んでるのは地獄を作り出すためにお膳立てしているとしか思えない、それは津波でなぜ危険な海岸に家が密集していたのかと言われるのと同じなのである。
高層ビルに住むということはやはり人間の危険に対する感覚がマヒしているとしか言い様がないのだ。

東京が大被害受けることは日本の国土再建計画が起こり地方に危険を分散させる政策が取られる。東京オリンピックは中止され国土再建に向かう。東京遷都も具体化するそれだけの衝撃がない限り本気の改革はできないのである。

窮まれば変じ、変ずれば通ず(易経)

正に被害地はこうなっている。原発事故ではそもそも町や村がなくなった、住めなくなったのである。これ以上の変化ない、これに対処するには変じるしかないのである。
これはまた明治維新とか戦後の焼け野原と似ているのだ。
東京に大地震が起きたら全国規模で国土再建をせざるを得ない、それはそうしいられるのである。 その後にまた新しい日本国土の天の理にかなった再建が行われる。
そうでないければとても大きな根本的改革はできないのである。
そのときまた荒廃の極点に達していた日本人のモラルの再建もありうるのである。
つまり人間の力だけではモラルもあらためることができないのである。
だからそこに天の力が働き国土の改革が行われる。そのための犠牲として津波原発の犠牲があったともなる。戦争の犠牲者があって戦後の復興があったと同じである。
時期的に明治維新から70年で戦争へ戦後約70年で大災害になった。そいう節目に自然災害も起きてくる。それも天の理だったのである。



タグ:東京
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2014年09月10日

海老村の津波の分析 (津波はどこが高くなるかわからない)


海老村の津波の分析

(津波はどこが高くなるかわからない)



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坂の手前までは来ていない

だからネギ畑を作った

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ここから下は低く津波が流れ落ちて行った


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海老の海岸の道は通行止め




海老村は高い場所にあったから津波であれだけ被害があったのは意外だった。
津波はどこがたくなるかわからない。海底の状態にも左右される。
海老村ではんみに接した崖のところが避難所になっていたという。確かにあそこは高いがあの崖を軽く越えて津波が襲いかかった。
だからあそこがなぜ高くなったのかわからない。
津波は一様な高さでは来ない、あるところで高くなる。
崖の上の海に接していた家は悲惨だった。
三人くらい子供も死んだ。あの崖は高く感じていた。
あの崖を軽く越えてきたのだ。

テレビでも双葉の原発がある場所の崖に津波が高く襲って生きた映像は恐ろしかった。
三陸せも高い防波堤でも越えてきた。高くしても津波を防げない、
津波に効果的なの土を盛り人口の丘を作ることである。
それは低くても津波の勢いをそぐことができる。
松原は津波には弱かった。

ともかく鶏足神社の前の坂まで津波は来ていなかった。
あの坂で遮られたと思っていた。実際はそれより前までしか来ていない、だから坂の脇でネギを作っていた。
塩水はかぶっていないからネギを作り始めたのである。
今は天候不順で野菜が高いから農家でも畑を始めたところが多くなっている。
やはり人間は働いていあないと土地も自然も活きて来ない、
防波堤は高くしているからあそこは当分工事が続く、
海岸の道は立ち入り禁止になった。


タグ:津波
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2014年08月01日

小高には湊があり大船が出入りしていたが津波で消失した (文禄二年の相馬藩の士禄の記録が語るもの)



小高には湊があり大船が出入りしていたが津波で消失した

(文禄二年の相馬藩の士禄の記録が語るもの)


●文禄から慶長年間の記録の再考

慶長地震とは一つの地震ではなく、慶長年間(1596年-1615年)に日本列島で起こった地震の総称だった。更に正確に言うと、文禄5年9月1日、4日、5日と大地震が連続したので、慶長と改元したが、その後も地震が連続したのだそうだ。慶長地震(ウィキペディア)から抜粋する

慶長伊予地震 - 文禄5(1596)年9月1日、伊予国をおそった地震。M 7.0
慶長豊後地震(大分地震) - 文禄5(1596年)9月4日、M 7.0〜7.8、死者710人。
慶長伏見地震 - 文禄5(1596)年9月5日、近畿地方をおそった地震。M 7.0〜7.1、
京都や堺で死者合計1,000人以上。
慶長大地震 - 慶長9(1605)年2月3日、東海・東南海・南海連動型地震でM 7.9〜8.0。さらに房総 沖までが連動したと考えられ、M 8.4〜8.5の説も存在する。地震動による被害は少な かったが現在の千葉県から九州に至る広範囲の太平洋岸に津波が襲来し、死者1〜2万
慶長会津地震(会津地震) - 慶長16(1611)年9月27日
慶長三陸地震(慶長三陸地震津波) - 慶長16(1611)年12月2日に三陸沖を震源として発生した地 震でM8.1。

この時九州や東海に大きな地震が起きている。その結果として今度は東北に大きな地震が起きて慶長津波が起きた。だから今度は東北地方に大きな地震と津波が起きて逆にプレートが地殻変動があり東海地震や津波が予想されるのである。

●多数の舟と相馬藩政記の記録が語るもの

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小高郷塚原村に「郷中の年貢を大船に積み、当海より東都に運送」するための「蔵院」が置かれた。その間の流れる河口には
「湊 幅十間、深さ4尺、・・・・空船出入りす」

小高郷塚原村に「郷中の年貢を大船に罪、当海より東都に運送」するための「蔵院」が置かれた。その間の流れる河口には
「湊 幅十間、深さ4尺、・・・・空船出入りす」

その岡田氏が力をもった背景は何かというとき、それが慶長津波と深い関係があったのだ塚原や村上には海運をになう湊があり物資の流通があった。
そこにそれだけの湊があったからこそ村上に城を作ろうとした。
それは朝鮮出兵で名古屋城に行くと瀬戸内海を見聞して海に接した城、海城を見てヒントを得た。「湊 幅十間、深さ4尺、・・・・空船出入りす」が存在した。

また義胤はその海運のために銚子とか海上へ役夫を出している。

そこまでやるということは当時の舟運は思った以上盛んだったとなる。

この文禄二年の記録は何を語るのか?村上に舟おんというのがこれだけ記されている。海運にたずさわった人たちがこれだけいたということなのか?
この時、松川浦に関しては全く記されていない、小高が先に小高城もあり湊が整備されたのである。相馬藩は文禄とかなると小高中心にあり村上城に城を移そうとしたのはそういうためである。松川浦には士禄が記されていないからだ。
そしてそのあと小高については湊のことや舟おんということなどの記録が全く消失した。相馬藩政記に記されているけどもその後の記録がないということは慶長の津波で全く今回の津波のように跡形もなく消滅したとなる。
これだけ舟おんとしるされているのだからその後にも何か記録が残ってもいいはずだがないということは慶長津波で今回のように壊滅して消失した。
不思議なのは村上城を火事があり不吉として牛越城に移った。
もし村上に城下町を作っていたら慶長津波で壊滅したのである。

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●なぜ慶長津波の前に移動している館や神社の不思議

慶長元年、相馬藩16代義胤は東に蒼海を望み、西に湖沼をめぐらし、四願一望、最要害の地と定め、十累を築き、濠を巡らしまさに殿舎を建てようとした前日、火事がおき、山積した材木がたちまち灰になったと伝えられる

慶長2年(1597)、義胤は居城を牛越城に移した。小高の地に築いた村上城が移転直前に火災で焼失し、そのため不吉として牛越城を修築して入城したためである

「宇多の湊に比定される松川浦の南端位置する磯部を支配したのは佐藤好信は岩城氏の旧臣であったが佐藤一族は「岩城之船」にかかわる氏族であった。
中村城も松川浦(宇多の湊)に面した城館であり南北朝時代に熊野堂や館腰遺跡には「瓦宿」=河原宿という地名も残っている。
http://musubu2.sblo.jp/article/99739032.html

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この諏訪神社が今の場所に移ったのは天文7年(1538)だから慶長津波からはかなり前である。ここに舟が流されてきたという津波伝説がある。それは松川浦にこの神社があったときのことなのかどうかわからない。慶長津波の時だったらあそこまで津波が来るとは思えない。
ただ中世の城館があったのは磯部の方でありその時、松川浦がどうなっていたのかわからない。佐藤好信が鬼越館に移ったのもやはり慶長津波の前である。
理由は浪の浸食を受けたからだという。そのことは八沢浦で実際に津波の前に台風の波の浸食で防波堤が壊されて家に浸水した被害があった。
あの時、移動していれば津波の被害にあわずにすんだのにとつくづく思った。
あそこは土地が低く津波が来ないにしろ波の浸食を受けやすい場所だったのである。

ともかく海岸の海の歴史は変化が激しく記録として残りにくいということがる。
浪に浸食されたり自然の変化も長い間に必ず起きてくる。海岸線はもともと自然の変化を受けやすい場所だったのである。

天文年中に津波によって社殿が壊れ、山の上へとそのご神体を移し、江戸中期に泉藩の祈願社となり、安寿と厨子王の祖父とも言われる岩城判官政氏公の旧舘跡に奉還。
古からこの土地を見守って来た泉諏訪神社の神の使いは龍。そして、この神社の今の跡取は姉妹の神主だ。
http://www.praylife.net/fukushimavoice/archives/iwaki/post_8.html

磐城の方でも度々慶長津波の前にも後にも津波の被害があり神社が移動していると記録にある。つまり磐城の方では津波の記録がそれなりにあるけど相馬藩内ではほとんどないのである。津神社が津波の神社でもなかった。ツノミヤ神社でありツノガノアラシト系統だったのである。

だから津波のことを探りようがないのだけど何か文禄から慶長と地震などが多く津波もあり不穏を東北でも感じていて移動したということも考えられる。
とにかく海とか海運とか海岸は自然の変化を受けやすく記録が失われやすい。
それで小高の湊は壊滅してあとに記録が残らなかったのかもしれない、藩政記には記されていても今はそれだけの湊だったという痕跡すらなくなっているからだ。
今回の津波で壊滅した磯部や海老や烏崎村でも萱浜でも同じことが起きたからである。
一瞬にしてこの世から消失してしまったという恐怖である。
そういうことは海岸線には起こりやすかったのである。
 
飛鳥湊と呼ばれた。名の由来は、古今和歌集の「世の中は 何か常なる 飛鳥川 昨日の淵ぞ 今日は瀬になる」という歌だといわれている。

湊もまた消えやすいのである。湊はまた船が来なくなったりすると廃れるから湊の繁栄は変わりやすいのである。


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タグ:津波
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2014年07月12日

相馬市松川浦の津神社(つのみつ)は津波と関係していない (古代奈良から製鉄のため渡来人がもたらした)



相馬市松川浦の津神社(つのみつ)は津波と関係していない


(古代奈良から製鉄のため渡来人がもたらした)


(つのみや、つのみつ、つの)神社はツヌガノアラシトから来ている

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日本書紀では、第11代垂仁天皇(以下、11と略す)3年のことだという。新羅の王子、天日槍の記事の前段に、大加羅(おおかや)の王子の都怒我阿羅斯等(つぬがのあらしと)が渡来してきた話がある。かの国で都怒我阿羅斯等が牛に農具を背負わせて田舎を歩いて・・・
となると、天日槍は個人と考えるよりは、新羅からの渡来した集団を指していると考えた方がよさそうだ。そう考えた時に、天日槍や都怒我阿羅斯等がたどった道というのは、秦氏が分布する地域であることから、新羅から来た秦氏という同一系統の氏族の居住地を結ぶための伝承だという人もいる。

 角刺神社は、飯豊青皇女いいとよあおのひめみこ)が政(まつりごと)を行った忍海角刺宮跡として知られています。日本書紀によると、飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)は2人の弟が天皇の位を譲り合い、長く位につかなかったため忍海角刺宮で政を行い、自ら忍海飯豊青尊(おしみいいとよのあおのみこと)と名乗った、と記されています

「白川郡。飯豊山。此の山は、豊岡姫命の忌庭(ゆにわ)なり。又、飯豊青尊(いいとよあおのみこと)、物部臣(もののべのおみ)をして、御幣(みてぐら)を奉らしめ賜ひき。故(かれ)、山の名と為す。古老曰へらく、昔、巻向珠城宮(まきむきのたまきのみや)に御宇(あめのしたしろしめしし)天皇の二十七年戌午年の秋、飢えて人民多く亡せき故、宇惠々山と云ひき。後に名を改め豊田と云ひ、飯豊と云ふ。」

旧村社「角刺(つのさし)神社」 <近鉄忍海駅より西へ徒歩約3分>

祭神は飯豊青命(いいとよのあおのみこと)である。彼女は葛城襲津彦の子、葦田宿禰(あしだのすくね)の孫で、甥の億計(おけ)と弘計(をけ)の兄弟が、清寧天皇崩御の後、譲り合ってなかなか皇位に就こうとしないので、10ケ月ばかり、
ここ忍海の「角刺宮」で執政を取ったとされている。忍海の「角刺神社」の辺りは「日本書紀」顕宗即位前記で
「日本邊也(やまとべに)(見欲物也)見まほしものは 忍海の この高城(たかき)名は 角刺の宮」と歌われており、相当立派な宮殿が建っていたものと推測されるが、

『先代旧事本紀』中の「国造本紀」では、7世紀前半までこの地方は浮田国造の支配下にあったとされている。大化の改新後に陸奥国が設置されると浮田国造の領土は分割され、宇多川流域が宇多郡に、新田川流域が行方郡になった。黒木田遺跡(相馬市中野)が宇多郡の郡衙と推定されている。

『和名類聚抄』には「宇太郡」とあり、飯豊・仲村・長伴・高階の4郷が載せられている
宇多天皇(うだてんのう、貞観9年5月5日(867年6月10日) - 承平元年7月19日(931年9月3日))は、日本の第59代天皇(在位:仁和3年8月26日(887年9月17日)



まず神社や地名を解読する時は大きな歴史の流れを知っている必要がある。
東北は蝦夷が住んでいた。その蝦夷が大和王権に抗して争った歴史がある。
その蝦夷とは何かというと歴史的に明確ではない、ただ蝦夷の字は当て字でありエミシがもともとの名である。蝦(えび)の字をあてている。
南相馬市の鹿島区の海老村は蝦でありエミシの住んで領域である。
海老が当て字だからわかりにくくなっているのだ。

松川浦の津神社の津も当て字である。もともとの呼び名はツノミツ神社である。
ここで誤解したのは津神社となっているから津という漢字にとらわれてしまったことである。津はあくまでも当て字でありもともとはツノミツ、ツノミヤであり漢字にすれば角なのである。津之郷とかあるがこれは必ずしも湊ととは関係ない、ツノは漢字にあてれば角なのである。この起源はツノガノアラシトにある。渡来人に由来しているのだ。
津守(つもり)とあればこれは湊を守る神である。だから津は湊だがツノとなったときはみんな違っている。そして津神社というのは単に一字でツ神社とは言わない、つの神社なのである。

だから小高の角部(つのべ)とあるがここにも津神社があるがこれはツノガノアラシトの角であり渡来人の一団が住んだ場所でありだから部となっている。
その渡来人は製鉄集団であり浜砂鉄をとり鉄製品を作るために奈良や近江からやってきた技術者集団である。

新地町武井地区製鉄遺跡群

南相馬市金沢地区製鉄遺跡群

この二つが大きな製鉄遺跡である。ここが多賀城の前進基地であり多賀城の木簡から宇太(宇多)という字が発見された。製鉄にたずさわる工人が移動していたのである。
金沢遺跡から今とか渡来人をさす木簡の字が発見されている。
それから白人とかの人名をは発見されているから濃密に渡来人が関与したのが相馬地方だった。
だから松川浦の津神社は三大実録にのる古い神社だというとき奈良の葛城から移された神である。飯豊青というのも天皇の名であり宇多天皇もでているからそうした地名でも神でも移動してくる。

松川浦の津神社(つのみつ)神社は津波とは何の関係もなかった。
ただなぜかツノミヤ、ツノ神社に津が当て字にされたのである。
それは浜砂鉄をとるために海岸線を移動した渡来系の技術者集団が移した神だからそうなった。
何か明確ではないのだが相馬地域までは津神社(つのみや)神社があるが宮城県になるとない感じがする。それは渡来系の氏族が関係していて宮城県までは神社を移せなかったのかもしれない。津神社(つのみや)神社は茨城でも磐城でもあり全国にある。

広島県福山市津之郷町大字加屋

とあるのも津之は角なのである。ここが当て字で誤解しやすいのである。
加屋と伽耶なのである。

津神社はもともと津波とは何の関係もなかった。ただたまたま高台に神社があったので津波と結びつけられたのである。
それでも津神社でも単にツ神社と呼んでいれば津波と関係しているかもれない。
ツノと呼んでいれば角でありツヌガノアラシトにつながる神社なのである。
浪江の棚塩の津神社も七百年とか古いからこうした古代のツノミヤはツノガノアラシトを起源としているのである。

鹿島区の烏崎の津神社は鯨を祭っているから津波と関係しているかもしれない。
慶長年間に祭られたということで時代的に慶長津波があったときだからである。

いづれにしろ津波神社とか津波のために祭られたという神社はない。
浪分神社は津波の浪を分けたというので津波神社だがその他はほとんど津波と関係していない、今回のような巨大津波があって神社に関係させているのでありもともとは古代の奈良から移された神社であり地名なのである。

 
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2014年07月05日

民俗学で口碑伝説を重んじる意義は大きかった (その最大の弱点は時代が特定できないこと)


民俗学で口碑伝説を重んじる意義は大きかった

(その最大の弱点は時代が特定できないこと)


文書の記録より口碑を重んじたのが民俗学を創始した柳田国男である。歴史というと文書が中心だかけど考古学などが発達して地中に埋もれたモノからも歴史を探るようになった考古学は年代を測定できるので証拠が確実にあることで信用されやすい。
文書にはそれがすべて正確とは言えないしその時の権力者の恣意によって左右される。
権力者に都合の悪いことは記されない、今回の原発事故でも権力側によって情報が操作されたことでもわかる。
マスコミも真実は報道しない、NHKもしない、権力によって権力側の圧力によって情報が操作される。NHKは中国や韓国寄りだということが常に今でもネットから批判される。
在日の人が牛耳っているからそうなるとか言われる。NHKもかたよって情報操作をしている。


だから歴史というのは力の弱いものから見る視点が常に欠けているし消されてしまう。
蝦夷というものが大和王権に滅ぼされたがその実体は不明になる。
蝦夷側から何か記して残すことができなかったとなる。敗者は勝者によってその記録も残されないし消される。
権力者のことは事こまかく記されるが一庶民のことは記されない
だから記録として残っているのは戦国時代なら戦争のことでありそれで家臣が死んでどうだこうだと事こまかに記されている。相馬藩でも慶長津波があった時期も戦国時代の末期であり秀吉、家康の時代だからそのことは事こまかに記されているのだ。
慶長津波のことは溺死者700名した記されないない、だからその時の庶民の暮らしがどうだったのかというのもほとんどわからない。
一庶民は何かその頃、日記に記すようなこともなかった。何かを記すには紙も高価だし字も書ける必要があるし簡単にできない、墓すら高価で庶民は残せなかった。
江戸末期に庶民豊かになりわずかだが墓を残すようになった。


だからそうした庶民の歴史は伝えられないので戦争ばかりが歴史ではないと柳田国男が口碑を重んじる民俗学を創始した。文書に残らない学問の追求だった。
そのことはやはり今回の津波で歴史研究では大事なことが判明した。
慶長津波のことを文書に残っていないから知る術もないということである。
相馬藩でも関心は戦争のことであり跡継ぎ問題であり慶長津波については700に溺死としか記されていない。
だから本当にそんな津波があったのかとまでなる。
そんなに被害があったならなにかしらもっとその被害状況などが記されていいはずだからである。それが全くないということが大きな歴史の空白を生みこの辺には津波が来ないんだという信念にまでなっていた。
それは慶長津波についての記録がないことがその原因だったのである。


そもそもその前に海辺で暮らしていた人の暮らしもよくわからないのである。
どんな人が住んでいてどんな暮らしをしていたかもわからない
庶民が日記を残したりしていないからである。
記録を残すにしても400年前となるとそれを残し維持するだけでむずかしくなる。
相馬藩政記が残されたのは相馬藩の政治として権力があって残されたのである。
庶民は権力がないのだから残せないのである。
つまり庶民の暮らしより戦争に勝ったか負けたとかが大事になる。
そこで死んだ家臣のことは詳しく語られるのである。


だから津波に関しても柳田国男の追求した口碑とか伝説とか民俗学はやはり歴史をどうとらえるかで重要な新しい学問だったのである。
郷土史というとき、それは広範囲な知識が必要であり一人だけではできない
地質学となると科学的知識も必要だし生物学的知識も必要である。
そういう総合的なものとして郷土史がある。


原発でもそうした津波を考えるのにも伝説とか郷土史などは無視された。
ただ最近科学的調査でポーリング調査で津波の痕跡が発見されて忠告したが東電ではきかなかった。
この辺にはこんな伝説がありますよと言っても科学者は耳を傾けないだろう。


『双葉町史』に以下のような伝承が記載されている。
 <(双葉町細谷は)伝説細谷千軒といって、海岸まで大変に栄えたという。
 古老の話では、昔、海津波で被害を受けてから、人家も移動したとのことである。
 現在は、海岸もかなり浸食されているが、昔はかなりの集落で、出土品も耕地整理の折に発見されている。『双葉町の人と伝説』より>(『双葉町史』第5巻 民俗編)

『大熊町史』に以下のような伝承が記載されている。
 <野上向山に「魚畑(いよばたけ)からかい森」がある。大昔、大津波が起きてこの地一帯は海水に侵され、その水が引いたあと魚介類が残ったので名付けられたという。『双葉郷土誌』>


こういうことを調べて忠告しても聞くことはなかったろう。
からかい森とあるようにからかっているのかとさえなる。
郷土史はそれだけ科学の時代には重要視されない


ただ口碑とか伝説とか庶民が伝えたものの最大の弱点はそれがいつ起こったのか、ただ昔々にあったとさでは信用できない、文書に記されたものもすべて信用できないのだがそこに時代を書いてあることが一番大事なのである。
時代が特定できることが歴史にとっては一番大事なことであった。
口碑や伝説は時代がわからないことが最大の弱点である。
なぜなら「てんとう念仏」という言い伝えが柚木に残っているとしてもそれが慶長津波なのかどうかわからないということである。
むしろ自分が発見した海老村の大工の伝説は中村の天守造営の時と時代が特定できるから資料として信頼できるとなる。


自分が郷土史に興味をもったのは墓を見たり石碑を見てからである。そこには必ず時代が特定できる。萱浜の墓地にも天明と記された墓があったからここは古い場所なのだと知ったのである。他にも新地の神社に文禄という碑があったときもこれは古いと見た。
おそらく文禄時代に検地がはじまっていて文禄と記された。検地を記念して石碑が残された。葛尾(かつろう)村にも明暦と元禄の碑があったのでここも古いなと思った。
時代が特定できないと津波のことでも一体それが貞観津波のことなのか慶長津波のことなのかそれとも別な津波のことなのか時代を特定できないから困るのである。
だから文書中心の歴史の解釈になってしまうのである。

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新地町の神社にあった

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2014年06月29日

天明と記された墓は移民の墓ではなかった (歴史的背景は事実であり私の主張は間違いではない)



天明と記された墓は移民の墓ではなかった

(歴史的背景は事実であり私の主張は間違いではない)

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*道号(阿号・誉号・釈号・日号) 生前雅号とか別名を持っている人がありますがそれと同じです。

中国では名の他に字(あざな)を持ち、その人を尊ぶ場合字を用いました。

この字の事を道号といいます。最初は禅門に始まったのですが、他宗派でも用いられるようになりました。
本来は仏道を証得した者が称するものですが、現在では一般の人の戒名として用いられています。 


信士、信女は、優婆塞、優婆夷の意訳で、ともに五戒、または十善戒を保ち、清洋で、正を信じ、邪を信じない仏弟子をいい、信心の篤い者に、


この墓は天明と記されていたが移民の墓ではなかった、他に真宗系の移民の墓はあった。天明の大飢饉の時に移民を呼んだのであり天明に死ぬということはないだろう
これはもともと地元に住んでいた人である。

蓮華道とあるのは僧侶なのかもしれない、ただ信士、信女とあるのは一般の庶民である。江戸時代の後期にはそういう墓が多い
ただ墓を建てられる力を財力をもっていたのは僧侶だとするとこの辺はわからない。


蓮華道信士
姥善信女?


これは僧侶とも言えない、ただ蓮華という戒名は普通の人はつけないからわからない。
何か特別な人であったから僧侶でなくてもこの戒名がついたのか謎である。

ただこれは真宗系統の移民の墓ではない、そこが大きな間違いだった

天明の時期にこの地に来たとしてもすぐに墓を建てられた人はいないし死んだという人もいないだろう、移民が来たのはもっとあとである。

いづれにしろ相馬藩では移民の墓が必ずある。墓地をたずねれば五分の一くらいが移民の墓だということは本当に多い。それだけ移民が入って来たということであり
自分の主張したことは別に誤っていない
そういう歴史的背景は事実だからこの墓についてはそうでなくても
その事実から今を見れば自分の主張していることは間違ってはいない


相馬充胤がここでこの土地のものに石碑を建てられて感謝の意を現したということは
それも歴史的事実である。
でも慶長津波で藩主が復興のために努力したということは一言も記されていないし
そうした事実もないし何の記録もないのである。


この墓が移民の墓ではなかったにしろ他に移民の墓はこの墓地にあった。
だから自分の主張していることが間違いではない
ただ天明の墓が古いと思い良く見なかったの失敗だった。

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2014年06月28日

北萱浜に残された移民の天明の墓の語るもの (苦難の歴史が再び甦る)


北萱浜に残された移民の天明の墓の語るもの

(苦難の歴史が再び甦る)

相馬充胤の時代(天保4年大飢饉ー二宮仕法を取り入れる)
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen1/hanshu35.htm#mitutane


天保6(1835)年 47,244俵  
天保7(1836)年 4,348俵 領中大凶作


これだけ減った。あらゆるものが半分になったのである。

相馬充胤の時代が詳しく書いてある。天明と天保の時は大飢饉だった。
天保は注目していなかったが天保も大飢饉があった。
その時から二宮仕法を取り入れるようになった。

天明の大飢饉から50年すぎてまた大飢饉になっていたのである。
結局こうなると元禄時代辺りは日本全国が繁栄した時期だったが
そのあとは江戸時代は飢饉に苦しんでいたとなる。
となると実際は江戸時代も飢えに苦しんでいた悲惨な時代だったとなる。

そもそも現代のような飽食の時代には貧乏とか飢えとかのことが苦しみがわからないから江戸時代はいい時代だったとか勝手にイメージしやすいのである。

人間が生きるということは実際はいつの世でも厳しいものがあったのだ。
現実に戦前だって貧乏だが祖父母の時代になるとその暮らしも想像できなくなる。
50代は自分でも大正生まれの人が生きていて話を直接聞いている。
食べるものは梅干しとご飯と味噌汁くらいでありまともなものを食べていないのである。だから良くやせいるのに病気にならなかったとか思う。
体の弱い人はとても生きていけない、長生きできないと思った。
戦後は豊かになってこういう赤貧に耐えて生き延びた人だから長生きしているともなる。戦争でも生き残った人たちはやはり丈夫な強い人たちだったともいえる。

戦後の高度成長時代とかは日本は回りにも恵まれて経済に専念できて豊かになったのである。他国との戦争などがあると国民は日露戦争でも太平洋戦争でも苦しんだ。
そういう苦しみを高度成長時代はなく大きな災害も対外的にも平和であり豊かになった。高度成長時代は日本の黄金時代だったのである。
その時代が今回の津波や原発事故の災害で転換期を迎えた。
つまり戦争の時や戦前の貧乏時代や江戸時代の大飢饉のような苦難の時代に逆戻りしたのである。


高度成長時代は恵まれた特別な時代として歴史化するようになる。
自分もその間に旅などできたのもそういう時代背景があってできた。
これからそうした高度成長時代の延長気分でいたが日本は苦難の時代に移る。
だからニートだとか老人だとか生活保護者だとか障害者だと社会の弱者や負担になるのはかなり厳しいものとなってくる。
社会に余裕がなければ福祉社会などありえないからである。
この辺で原発事故で補償金もらって働かない人に風当たりが強いのもこの辺では実際遊んでいると働いている人から見ると他より厳しくなる
なんとか災害でも原発事故でも復興しなければならないというとき、ただ補償金だけもらってあとは生活保護で楽すればいいということは許されないだろう。


そして高齢化の問題がのしかかってくる。
もう高齢者だってめんをとみられない時代がすでにきている
この辺では老人ホームには入れない、500人待機者がいるなど入れない
するとどうなるのかというと本当にうば捨て山になる
例えは小高だって若い人が流出していないとなると帰っても老人だけでどうするのだとなりその人たちは実はうば捨て山になる。
手厚い福祉など受けれない、金がいくらあってももう人手も集まらないしできない。
そして小高などはいくら金があってもそこに住む価値がなくなっているのだ。
金も金が活きる場所ならいいが回りにも医者も何もないとなると金を使いようもないのである。


要するに日本のいい時代は終わったのである。高度成長次代か日本の黄金時代でありそのあとは落ちてゆくだけなである。そういう落ち目のとき、津波原発事故が起きたのであるつまりその落ち目にトドメをさしたということである。
だから補償金で楽しようとしてもこれからはできない、こういう場に生きることは江戸時代の大飢饉や戦争などと同じ苦難を受けることになる。
それが嫌だとなり若い人は流出してゆく、広域社会になった時、誰も楽な方に流れてゆくのである。

そして取り残されるのは老人でありうば捨て山化してゆくのである。
介護でももうこの辺ではできない、施設に入れない、医療も延命治療そのものができない、そんな余裕がないからうちきられるのでる。
それはやはりまともに医者にもかかれない時代にもどるということである。

借金して見栄を張る生活ももうできない、容赦なく厳しい現実がつきつけられる。
そういう厳しい時代に入ったことを知るべきである。
そういう厳しさは歴史には常にあり高度成長時代は歴史的には例外的幸運の時代だったとみられるようになる。

いづれにしろ萱浜に残った天明の碑は飢饉の時に移民してここで働いた人の記念だった。それが無惨な津波の跡に残っていた意義が大きい。

その墓が今訴えている

「俺は越中から苦労して相馬までやってきてこの地を懸命に開拓して働いた、そしてこうして墓を建てることまでできた、俺たちの苦労を知れよ、お前たちは楽しすぎたんだよ、この世を生きるというのは厳しいもんなんだよ、飢饉の時は食うや食わず人肉を食ったとかその厳しさを知れ、なんでお前たちはありとあらゆまものを食っているんだ、外国からもいくらでも食べ物は入ってくる、魚からサシミから豚から鶏から牛からそんなに食う必要があるのか、魚は食っていたけどそんなに食べて糖尿病とか贅沢病になっているんだよ、お前たちはそれだけ恵まれた時代に生きたんだよ、お前たちの生活は殿様以上なんだよそれでまだたりない、たりない、金がほしい借金したり原発を誘致したりしてこのざまだ、天罰なんだよ、お前たちはあまりにも欲深い、飢饉の時代を思いしらせてやろう、そうすればその贅沢がどれだけとんでもないものかわかるだろう」


結局人間は歴史もカルマであり親の苦労を子供も同じように経験するようになる。
歴史でも同じなのだ。先祖の苦労をやはりカルマのようにさせられることになる。
その時はじめて先祖の苦労も身をもってわかるのである。

ともかく北萱浜は特別移民が集団で入り藩でも援助したところだから天明の墓があった。天明ー寛政ー文化と連続して墓が残っていたのである。


北萱浜村は天明三年(1783)の凶作により村の復旧非常に困難なため、短期間に集団的な入植を計り、二宮仕法により復興計画建て、他村からの出役、係役人も多く予想を越える成果をえた。
村民が感謝の意をこめて相馬充胤公の碑を建てた。

こういう事情があったので天明の時代から庶民でも墓を建てられたのである。

ただこれを読むとこの北萱浜でもそれなりにすでに開拓されて人が住んでいて稲作もしていた。村の復旧が困難ということは村があったからこそである。
何もない原野とは違っていたのである。
だから慶長津波でも萱浜でも人が住んでいて被害があったが語り継がれることはなかった。相馬藩では慶長津波のことはほとんど語られていない、伝説も柚木村に残っているくらいであ。それも慶長津波のことかどうかはわからない、慶長津波のことだということは断定できないのでてある。それだけの資料がないからだ。

墓というのはつくづく最後まで残るものだから簡単に捨てられないということがこれでわかる。家なくなっても墓は残るのである。無縁仏になっても墓は残っている。
ただ一つ墓が残り「俺はここで苦労して生きたんだ」と訴えるように津波の跡に残っていたのである。
ただあそこに墓地があることを知らなかった。津波の後に知ったのである。
ただ津波の跡まで残っていたから余計にその墓が重みをもって迫ってきたということがあった。

天明の時代から墓があり歴史の連続性を感じた。だからその墓は今に生きるものへの励ましともなる。人間の営みの連続性を感じるからだ。
先祖も苦しみ頑張って生きた自分たちも頑張ろうともなる。
だから郷土史というとき、それは空間的な広がりではなく時間軸から見直す作業なのである。

ただその飢饉のときも、良い種を伊達藩から仕入れたりしているから伊達藩は相馬藩より進んでいたのである。だから伊達藩の信仰の碑が小牛田の山神などが多いというとき、良い種などを仕入れるに行ったということもあった。
会津でも伊勢参りで他藩の農業に学びにゆく実用的なものがあった。現実にそうしていい種を仕入れるということもあったのだ。
その頃はもう伊達藩との戦争もないのだから協力していたのである。


それにしてもその飢饉とか戦前の貧乏とか戦争の時代から比べるとあまりにも違いすぎるちょうどいいや補償金で遊び暮らしてあとは生活保護だとか何かその過去の苦労を感じさせるものが全くない、震災関連死がとりざたされているが飢饉とか戦争から比べれば食料もありあまるほどあるし住むところも保証されているしそんなことで死んだのかとなる。そんなに過酷だったのかともなる。
だから原発事故周辺は特に何か異常な世界になっている。
過去を歴史をふりかえればそうなるのである。

 
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津波の跡の南相馬市萱浜をたずねる (天明の墓があったことの驚きー萱浜は移民が早い時期に開拓した地域)


津波の跡の南相馬市萱浜をたずねる

(天明の墓があったことの驚きー萱浜は移民が早い時期に開拓した地域)

南相馬を見守る白狐:津波止めた稲荷神社の神使−二百年の時を超えて
http://www.bloomberg.co.jp/news/123-M0URWX0YHQ0X01.html

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天明と記されている


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湊家とあるのはここに湊があったからだろう

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ここは一家で死んだのでしょうか
夫の名前はでていない
こういう悲惨な被害は津波であった
冥福をお祈りします

死んだ人はやはり60以上が8割くらいいるから多かった



半信半疑で海を見つめていた人は逃げ遅れ波にさらわれた」(5月22日付北萱浜地区の住人作成のメモより)。

北萱浜の伝承では、その稲荷神社の2頭の白狐は、江戸時代後期に起きた天保の大飢饉(1833−1839年)で亡くなった人々の魂を鎮め村の安寧を祈願するため、京都の伏見稲荷大社から連れてこられたという。また、南相馬市博物館によると、天保時代に北萱浜に「白狐が棲みついたので村人は『相学稲荷』と呼んで祭祀をした」と「奥相志」に記されている。


かなり広く途方に暮れる。みんな年老いている。原発が近く放射能が多く飛んでいて本当に復興できるのか。先が見えない」と不安げに言う。


ここで海を見ていたという時、海岸では海だけを見ていると津浪が来るのはわかりにくい、海から離れた所だと何か異様な感じがした時、津浪が襲ってきてそれが見えてそこであわてて逃げて助かったという話しを直接自分は何人から聞いた。
津浪を見てから逃げて助かったというのは津浪はまだ見えてから逃げれば助かることがあった。
ただ好奇心で見ていた人は死んだのである。この変は400年もの間津浪がないのだから
津浪についての伝承も何も予備知識がない人がほとんどだったのである。
津浪はどんなものだろうと海岸に見に行った人はかなりいる。
磯部では津浪を見に行って水があがってきたので逃げたという。
一回目の津浪は低い津浪だったのである。二回目に大きな津浪が押し寄せたのである。


ただ不思議なのは調査では津浪が見えない地域で逃げて助かったというのもある。
それはなぜか?ここの報告のように津浪を見に行って死んだ人も結構いたということもあるのかもしれない。
津浪が見えて助かったのは何キロか離れた所である。かえって海岸地帯は家が密集していれば津浪は見えない、だから警報ですぐ逃げた人は助かったからそういう調査がある。
まず津浪警報がでて津浪を見にゆくかなどとのんびりかまえていたら逃げる時間がないということもある。津浪はいかに早く逃げるかが一番肝要になっていたのである

萱浜(かいはま)であんな海近くに墓地があるとは思わなかった。
それで墓をみたら「天明」と刻まれた碑があったことである。
これは相当に古い墓である。自分が相馬藩で見た限りでは庶民の墓では一番古い
屋形の北原に田中城の城主だった相馬氏の墓は確かに慶長と時代が記されているから古いでも庶民の墓で天明と記されているのはみていない
たいがい碑なら古いものがある。文禄とか元禄とかはあった。
ただ庶民の墓では見たことがないのである。
ではなぜここにこんな古い庶民の墓があのか?
それは明らかに真宗の念仏の墓だから移民して来た人の墓である。
「寛政」の墓も二つ見つかったからこれも庶民の墓としては古い。
萱浜が新しい場所と思っているけど古い地域だったのかなと思った。


1781 天明 01
1788 天明 08

1789 寛政 01
1800 寛政 12

1804 文化 01
1817 文化 14
1818 文政 01
1829 文政 12
1830 天保 01
1842 天保 13


北萱浜の伝承では、その稲荷神社の2頭の白狐は、江戸時代後期に起きた天保の大飢饉(1833−1839年)で亡くなった人々の魂を鎮め村の安寧を祈願するため、京都の伏見稲荷大社から連れてこられたという

天保というとこのあとである。ただ天明の飢饉が有名であり一番被害があった。
だから天保の大飢饉というのは史実的にはよくわからない。
天明の飢饉があって越中や北陸などから移民がやってきた。
そして萱浜は低い所と高い所があり低い所はあとから開発された場所である。
そこは今回津浪で被害が大きい所である。

ここで問題になったのが慶長津浪の伝承がこの萱浜でも残っていなかったかということである。
ただ慶長津浪から1611年だから150年とか過ぎれば伝えられにくい、特に移民だと元からそこに住んでいないのだから伝えられないということもあったかもしれない。
北原の津神社は慶長津波と関係していたのかと考察したがこれも定かではない
慶長津波の百年後に建てられたとかあり何も伝承も残っていないからだ。

ここでの墓の謎はなぜ移民の人が天明と刻んだ墓を残し得たかということである。
北萱浜は条件の悪いところである。でもその条件の悪い所に入植した人たちがかえって豊かになったという。やはりそれだけ苦労して豊かにしたのだろうか?
人間は条件が悪ければそれだけ努力しなければならなくなる。
だからヨーロッパでも寒い所ドイツで資本主義のプロテスタントの勤勉の思想が生れて繁栄した。
歴史にはそういう逆説がある、南国のように食料に恵まれた所ではかえってなまけものになり勤勉の思想は生れないのである。

つまりあそこに文明と刻まれた墓、次の寛政と刻まれた墓があるのはそこが豊かな地域とすでになっていたからである。
庶民が墓を作ったのは江戸後期である。それが文明という早い時期に墓を作ったということは当時としては豊かだからできた。

もう一つの原因として湊と地名があり湊としての機能があり漁労があったことでも豊かになっていたのかもしれない、海側はそうした湊とか漁労とかが農業以外にあり豊かになる要素がかえってあった。
だから南海老村は北海老村から下海老村から上海老村と別れて発展したのである。
そこでは塩場があり塩をとっていたからそれだけ発展したのである。

萱浜にも江戸時代から松原があったのだがなくなっていた。
明治から戦前にもあり写真が残っている。
萱浜はそれなりに古いということである。右田浜より古い歴史をもっている。
金沢も元禄に開拓されたから明治に開拓された八沢浦より古いのである。
金沢とか古磯部は入江でも小さいから開拓しやすいという条件があったからともいえる。

萱浜での津波の被害者を見ると60歳以上の老人が多い、今回津波の犠牲者になったのは60パーセント以上は60代以上であり高齢者が多かった。
萱浜の犠牲者を見てもそうである。
それで
「かなり広く途方に暮れる。みんな年老いている。原発が近く放射能が多く飛んでいて本当に復興できるのか。先が見えない」と不安げに言う。」
まさにこれは別に津波被害者だけではない原発事故周辺でも言えることである。
小高などでも若い人は帰らないとか外に流出していることが問題なのである。
老人だけ残ってどうするのかという問題である。

ともかく津波では郷土史的には見えないものが見えてきたということはある。
あそこにあんな古い墓地があることに気づかなかったのである。

萱浜の古さ思いぬ津波跡天明と記す移民の墓かな

苦難の歴史が再びよみがえる
http://blog.sakura.ne.jp/pages/my/blog/article/edit/input?id=100715575
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2014年06月26日

南海老村の中村城の天守造営にかかわった大工の伝説はやはり津浪に由来? (元禄時代の俳句にも残った津浪の共通性ー津浪に由来する神社など)


南海老村の中村城の天守造営にかかわった大工の伝説はやはり津浪に由来?


(元禄時代の俳句にも残った津浪の共通性ー津浪に由来する神社など)

●神社でも津浪のことは伝えられている(相馬市の諏訪神社の謎)


いわき市泉町にある諏訪神社は平安時代にその由来を持つ神社である。

天文年中(1532ー1554)に津波によって社殿が壊れ、山の上へとそのご神体を移し、江戸中期に泉藩の祈願社となり、安寿と厨子王の祖父とも言われる岩城判官政氏公の旧舘跡に奉還。現本殿は寛永八年に泉藩の藩主本多忠籌公により建てられ。諏訪跡宮、若木神社、秋葉神社、判官社、金刀比羅神社、足尾神社も境内末社として祀っている。
古からこの土地を見守って来た泉諏訪神社の神の使いは龍


諏訪神社もたいがいは古い神社である。この神社も多い。相馬市の諏訪神社は樹齢500年の姥杉とかあるからいかにも木立に囲まれて古い感じがする。


大津波があったとき、このイチョウのてっぺんさ、舟をつないだんだと> (岩本氏が幼少の頃、祖父の義妹から聞いた話)
また、次のような郷土史研究もある。
<大昔大津浪があつた時、その(境内の杉の大木)いただきに舟をつないだ


あんなに海から離れた所にそんな伝説があるのか謎である。あそこだけは離れすぎているからだ。岩沼の千貫松は津浪が来るとリアルにイメージできる距離である。
相馬市の諏訪神社は想像もできない、ただ神社は遷座することがあるから海近くにあっても遷座すれば磐城の諏訪神社のように不思議ではない。
新地の地蔵森の伝説にしても離れすぎているのが謎なのである。


太東崎先に運気が立ち上り、漁師が網をかけてみましたが魚は一尾も入らず、かわりに光を放つ奇像がとれました。

漁師が網をかけてみましたが魚は一尾も入らず、かわりに光を放つ奇像がとれました。
 漁師は驚きあわて、奇像を抱いて住職に届けたところ、住職は一目見てそれが飯縄不動尊だと悟りました。

つまり飯縄寺の前身・万蔵寺と無動院飯縄寺は別の場所にありました。これが一つの敷地で同居するようになったのは元禄の大津波だという話があります。
 『岬町文化史年表』によれば、―――飯縄寺は往古、大東岬の上にあったが、この津浪の害を受けて、現在地に移築した。―――
http://pub.ne.jp/kayusou/?entry_id=3981694


●残された津浪の俳句と南海老村の伝説の共通性


まがきまで津浪の水にくづれ行  荷兮

 仏喰(くひ)たる魚(うを)解(ホド)きけり (芭蕉)


爰は津浪に一郷一群の荒たるさまを附て、前句の米を禁裡よりの御救ひ米と執なしたるなり

http://santouka.cocolog-nifty.com/alpha/2008/03/index.html

 

荷兮の長句(ウ九)の句意は、「垣根まで津波の水で押し流されてしまった」。その芭蕉の短句(ウ十)の句意は、「魚を捕らえて、その腹を切り開いたら、津波で流された仏像が現れた」というのである。荷兮の津波の句も面白いが、芭蕉の付句はその荷兮の句以上に何ともいえない味わいを有している。それは、後の川柳の原型の一つともいえる、「俳諧武玉川」(初篇)の「津波の町の揃う命日」をも彷彿させる。これらの芭蕉の句に接すると、芭蕉が名古屋連衆に驚きを持って接した

山本荷兮(慶安元年(一六四八)〜享保元年(一七一六))
http://yahantei.blogspot.jp/

この津浪を俳句にしたのは貴重である。これも一つの記録である。古くなるとそれは文学的価値より歴史的価値が高くなる。末の松山でもそうである。まさに「波こさじ」という距離にあったことが証明されたから全国から注目された。
津浪は四百年五百年に一回とかなるとなかなか経験しない人は理解できないものとなる。でもこれだけの被害なのだから何かしら人々の心に残り伝えられてゆくのが普通である。
だから南海老村の中村城の天守造営にかかわった大工の伝説は津浪を語っているのではないかと考察した。


藤金沢堤の傍らに塚あり、上元塚と名づく、六十六部回国上元なる者の塚という。
在昔村に匠人善次なる者あり、中村城天守造営の時日々中村にいたり造工たり。
深更に及び家に帰る。円光塚よりいず。転々として大いなること茶銚のごとし
その光青色なり。また垣の如きもの路に横たわる。善次中刀をぬきこれを切って
通行す、この如きこと数回なりという。記者言う、狐狸の如きもの怪か。

その後善次病死して棺を出す。時に大原村二森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで
雲中に入る。宝蔵寺の僧これを聞き走り来りり七重の袈裟を雲中に投ず。
声ありて曰く、「おいか」と。
棺おく雲散じ空晴れてこれを葬るという。是の世に希有のことなり。
知らず「おいか」とは何の言なるか。
ある人いふう葬礼の諸品を海水に洗えばすなわちこの怪異ありと。


青い光を発す・・とか垣の如きもの路に横たわる・・荷兮の長句(ウ九)の句意は、「垣根まで津波の水で押し流されてしまったとあるのと同じである。
これは津浪を見ているからこの表現があったとも見れるのである。

 仏喰(くひ)たる魚(うを)解(ホド)きけり

「魚を捕らえて、その腹を切り開いたら、津波で流された仏像が現れた」
これもまた不思議なの句である。スマトラ津浪でも地元の人は魚が人を食ったので当分魚を食わなかったというのもわかる。それだけの人間が死んだからである。
その死んだ人間を食った魚を食えないというのも心情的にわかる。
魚はいつも人間に食われていたが津浪では魚に食われるはめになったのである。
仏像が海中から青い光を放ち現れたのを祭った由来を語るものが結構多い。津浪ではそういうことがある。
貴重な仏像でも石碑でも神社の神体も鳥居もみんな流されてしまったからだ。

 
●八沢浦近くの柚木に残された津浪の伝承
 
八沢浦の柚木(ゆぬき)には津浪の伝承が残っている。

ここに、「てんとう念仏」と通称で呼ばれている場所がある。
 水田から民家の脇を通って、丘に登っていく。
 <津波が来たときにこの山に登り、念仏に唱えて津波が収まるように祈った>ということから、この地が「てんとう念仏」と言われるようになったという。

 もうひとつは、すぐ近くにある「急ぎ坂」と呼ばれる坂。
 <大きな津波が来て急いで駆け足で坂道を登った>ということからこう呼ばれるという

これは南海老村に近いし民間に伝承されたということで貴重である。そこは八沢浦から少し上った所でも近い、慶長津浪の時は八沢浦は今回の津浪でわかったように柚木の蓬田まで来ていた。だからすでに今回の津浪でわかったようにそこまでが八沢浦だとしたら
もっと奥まで津浪は来たはずである。
八沢浦は今回の津浪の来た所まで八沢浦で海になっていたからだ。
だから近すぎると思った。
地蔵森とか諏訪神社とかは遠いのである。そういう近い所に津浪の伝承が残っている。
小伝承が相馬藩では一番なにか慶長津浪の切迫感を残している。

あとは相馬藩政記では一行七百人溺死としか記されていないのである。

この伝承の謎は当時の八沢浦からしたら近い、すぐ近くである。
普通津浪の伝承は遠い地点に津浪の達した地点に残りやすい。
なぜこんな近くに津浪の伝承が残ったのかというのも問題になる。

ただ八沢浦は海のすぐ近くでも前に山があって意外と被害が少なかった場所があった。
そこでは裏山がありすぐ近くで津浪が来たのを見て必死に逃げて助かった人がいた。
だから「急ぎ坂」という伝承が残ることは納得できるのだ。
津浪の恐怖の余り「津浪がおさまってくれ」と念仏を唱えるのも理解できる。
だからこの伝承には信憑性がある。

相馬藩では他にこうした民間の人が伝えるものがほとんどないのでそれは何故なのかと探求してきた。

磐城の神社でも津浪の被害があり移ったとかの伝承がある。神社にもそういう津浪に関する伝承も残っていない。そういうなかでこれだけが残っていることも不思議である。

まだまだ津浪のことは民俗学でも伝説でも探求されなかった。岩崎氏の「本邦小祠の研究」でも一言も津浪のことを記されていないし今回の口碑でも知っていた人が相馬藩でどれくらいいたのかともなる。他にもあったが伝えられず忘れ去られたのかもしれない。
だからそもそもこの伝承が良く伝えられていたとなる。
でも相馬では四百年も津浪が来ないのだから注目している人はいなかった。

ただ科学者が貞観津浪の砂を松川浦からずっと奥でボーリング調査で発掘したということがあって報告された。それからフクシマの原発でもそのことを報告して危険を訴えたがとりあわなかった。
自分も科学的実証があったのだから注目したのであり津浪のことについては無関心だったのである。

ともかくインターネットはキーワードから調べられるから家にいてもある程度できる。
ただもっと深く調べるにはインターネットだけでは無理だろう。
図書館はまず調べるのがめんどうであり時間がかかりすぎるのである。
だから自分は介護やらで五年間くらい行っていない、コピーするもの手間だし時間が何でもかかりすぎるのである。

posted by 老鶯 at 20:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2014年06月25日

津波は鯨の伝説や神社として祭られて記憶された (相馬藩内の津神社は津浪に由来するのか?)


津波は鯨の伝説や神社として祭られて記憶された

(相馬藩内の津神社は津浪に由来するのか?)

●全国の津神社

魚吹八幡神社(うすきはちまんじんじゃ)は、兵庫県姫路市網干区宮内193にある神社。「津の宮」とも呼ばれている。神功皇后の三韓征伐のおり、神託により創建されたと伝わる。延喜式神名帳の名神大社である中臣印達神社の比定社の一つ。


「角宮」は別称「津の宮」とも言われ、別所池から下流の広大な耕作地域を潤す水源として水神様が祀られています。

また、阿蘇神話の伝説がある穿戸羅漢山の真下に位置し、「角宮」には阿蘇大明神の家来だった鬼八が落とした角が祀られているとも言われています。
鬼の角が落ちたことから、どんなに激しい夫婦喧嘩でもたちまち収まり(角がひっこむ)http://www.town.takamori.kumamoto.jp/kankomap/kanko/post-2.html


名称から、式内社津神社に比定されることもある。
『式内社調査報告』では、国府が近いことから、
式内社・国津神社であると論じられている。

長崎県壱岐市石田町池田西触19
http://www.genbu.net/data/iki/tunomiya_title.htm


広島県福山市津之郷町大字加屋

利根川を臨む津の宮の鳥居

 香取神社から徒歩40分。
http://www.geocities.jp/flow_and_stock/jisya-kanto/katori2.html


宮津の地名は、当神社の祭神を海辺に祀り、宮の津と称せしにはじまる。現境
内は、宮の津即ち宮祭る港の址なり、海中の巌を今日も遺す。此巌は神の依代
で、万代の巌又は『波越巌(なみこしいわ)』と呼ぶ。


津守(西成区);難波津を守り、住吉大社の神職を務める津守氏(津守連のちに宿祢)が
いた。

ひさかたの 天の探女が 石船の泊てし高津は 淺せにけるかも〔292〕


敦賀郡津守郷

外からの渡来人や文化に関しては、ツヌガアラシト(都怒我阿羅斯等、またの名は于斯岐阿利叱智干岐)の渡来説話がある。かれは、意富加羅国の王子で、初め穴門(長門国西南部)に至り、そこから北つ海から廻って出雲国を経て、角鹿(敦賀)に着いたという
http://yoshi-bay.com/index.php?id=114

大津皇子の竊(ひそ)かに石川郎女に婚(あ)ひし時に、津守連通(つもりのむらじとほる)のその事を占(うら)へ露(あら)はすに、皇子の作りませる御歌一首 いまだ詳(つばひ)らかならず
大船(おほふね)の津守(つもり)が占(うら)に告(の)らむとはまさしに知りてわが二人宿(ね)し

巻二(一○九)



千葉県道253号香取津之宮線香取市香取
http://www.jorudan.co.jp/bus/highway/busstop_%E6%B4%A5%E3%81%AE%E5%AE%AE.html


かきつばた香取の神の津の宮の宿屋に上る板の仮橋

 第10歌集『青海波』に収録されている歌である


祭神
 上筒之男命(うわつつのおのみこと)
 中筒之男命(なかつつのおのみこと)
 底筒之男命(そこつつのおのみこと)

 通称 津明神・楫取津神社
 例祭日 四月第一日曜日
 鎮座 いわき市岩間字輪山249

寛元四年、領主岩間次郎隆重が領内海産業の興隆を祈願し、摂津国津の宮の分霊を勧請したことに始まるという。古来、「輪山28」の地に鎮座していたが土砂崩れにより崩壊、昭和十三年現社地に遷宮した。
http://iwakinokamigami.blogspot.jp/2014/01/blog-post.html


津の郷があり津神社(つのみや)ともいう、津の宮は宮津ともなる。津神社とツノミヤ神社は違う。宮は津に湊に祭られた。津が湊となり宮が祭られた。
単純に津神社もあり津とあっても区別がある
ともかく古代では津は湊である。天然の湊である。
だから松川浦の津神社(つのみや)は下に大津とあるからそこが船着き場だった。
その湊を守る神社でありもともとは津浪とは関係ない
ただ津浪の時、そこに上れば助かるというのは別に津浪のために祭られたのではなく
そういうふうに津浪が来た時、そこは坂を上れば助かる場所にあったからそういう言い伝えが生れた。盛んに津浪の故に祭られたというがそういう謂われはない。

磐城市岩間の津明神が、摂津国津の宮の分霊を勧請したとありこれはもともと津神社の基が摂津にあったことを示している。
角とか書かれていてつのみやと呼ぶ場合もある。単に津神社ならそこが湊があったかどうかわからないがツノミヤと呼ぶならそこには湊があった。

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津神社(旧村社)

鎮座地   福島県いわき市勿来町九面九浦九九
祭 神   海津見神 ワタツミノカミDSCF0100.JPG

宵 祭   11月 2日
例 祭   11月 3日

 本 殿     春日造
末 社   八坂神社  大塚神社  稲荷神社

 由緒沿革   九面湾に面した黒浦山に鎮座し、海の守護神とし  
て奉斎されたものである。 宝暦五年の棟札には「奉造立九面明神」 とあり、
天明八年の棟札には 「奉督改津明神」とあり、九面明神から津明神となったことが伝えられている。


広島県福山市津之郷町大字加屋

この住所も不思議である。津之郷町とあり加屋とあるのは伽耶なのか?
単なる萱なのか?津之郷町とあり加屋があることの謎である。
津守とあるようにもともと津神社は湊の守り神から発していたことはまちがいない
ただツノガノアラシトとかがありツノガが角となり津之郷ともなるのでまぎらわしい。


●鯨と津浪は関係していた

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烏崎の津波に流された津神社にあった「鯨大明神」

「藤沢の地名」(藤沢市発行)によると、「浪合という地名は、かつて大津波が岩屋不動尊のあたりで片瀬川の流れとぶつかり、浪が合わさったところという意味があるといわれている。下諏訪神社の前の池(諏訪池)という大きな池には、むかし大津波に乗って川をさかのぼった鯨がこの池に打ち上げられたという伝承があり、この鯨の骨を埋めたという鯨塚があったそうで、そのため、このあたりは鯨骨と呼ばれ小字名にもなっている。赤山は、現在、湘南白百合学園の辺りで、昔、津波が片瀬村を襲ったときに、この山の中へ逃れた村人の一人が赤ん坊を産んだことからこの地名がつけられたという」
http://shonan-fujisawa.jp/newpage4288.html


『利別川の鯨』

この口碑伝説は更科(1955)によって記録された.
「十勝川第一の支流利別川に、フンべポネオマナ
イ(鯨の骨のある川)という川があるが、この川はある
年の大津波でこの附近の人が皆死んでしまったとき、
鯨も津波におされて来て骨だけが残ったところである
という。(音更町・細田カタレ姥伝)」
フンべポネオマナイの場所は,明らかに
http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_20/29-Takashimizu.pdf


実は、このクジラの座礁は大地震の予兆として有名だ。昨年2月のニュージーランド大地震前には、同国南島南西沖で107頭のゴンドウクジラが海岸に乗り上 げていたし、日本でも3・11の1週間前に、茨城県鹿嶋市の海岸でカズハゴンドウクジラが約50頭も打ち上げられていた。

 琉球大名誉教授の木村政昭氏(地震学)が言う。
 「クジラは音に敏感で、超音波を聞いて方向を決めているといわれています。地震の発生前にも音波が出ることから、座礁との因果関係は否定できない。≫


 『新地町史』には次のような話が続けて紹介されている。
 <明地に近いところに小鯨というところがある。これは大津波のとき鯨が寄ったところだという。
 また新地駅の北の作田に八千(はっせん)山という小高い山がある。やはり大津波のときこの山に登って八千人(多勢の意)の人が命を助かったと伝えている。

なお小鯨は、福田小学校から北西に7〜8百メートルの地点。少なくとも舟輪沢まで浸水したとすれば、小鯨まで鯨が流されてきても不思議ではない。
http://fukushima20110311.blog.fc2.com/blog-entry-81.html


泉(原町)の津明神は地名をとって大磯神社とも呼んでいるが昔、大鯨がこの浜に上った時、祭られたという


新地の伝説と原町の泉、鹿島区烏崎の津神社は鯨と関係しているから慶長津浪との関係があるかもしれない、津の宮と津神社は違っている。津の宮となるとき宮が津にあり港を守る神社となり津守と関係している。
だから津の宮となると高台にあるのが多い、高津となると高津の宮となりそこが津を守る神社があった。松川浦には大津があるからそこはやはり船が寄った所なのか
それでその大津を港を守るものとして津の宮神社が建てられた。

烏崎の津神社は鯨を祭り鯨の祭りをしていた
そこに鯨明神という碑と金比羅という碑があった。それは明治時代に建てられた。
鯨と津浪が何か因果関係がある。それでインターネットなどで調べ列挙した。
これくらい集めると鯨と津浪は関係しているとという証拠になる。

烏崎の津神社鯨を祭り鯨の祭りをしていた。
鯨を祭っていた神社だともなる。

烏崎の牛島の津神社は低い場所にあり鯨を祭っているから津浪と関係しているともいえる港ととしてあそこはまだなかった。
烏崎の山際が港だったからである。津浪はめったに来ないので鯨の神となってしまった。
高台にあればもっと古くからあった神社になるからだ。
八竜神社はぎりぎりで津浪からまねがれて残った。
それは別に慶長津浪を体験してあの高さに建てたのではない
古い神社は高台にあり津神社でもツノミヤと読んだりすると湊を守るものとして高台にある。


●津神社は貴船や安波様と合殿になったきが多い


新地町釣師のあんばは、現在津明神と合殿である。もともとあんばさまと呼んでいる所は海の出っ崎の地名あるから安波のお宮はもともとそこにあったらしい。


棚塩の津明神社は貴船と合殿で九月十九日を祭日とするが大宝某のこの月この日に海中より出現したという、


豊間(磐城)の海岸の津明神社の社の何か置いてある高さ十三ほどの小祠をみこしとしてかつぐもので・・・


「本邦小祠の研究 岩崎)


津神社


(宇多郷) 尾浜3 原釜1
(北郷)烏崎
(中郷)堤谷 金沢、萱浜、小浜、泉
(小高郷)角部内
(北標葉郷)棚塩


今回の津浪で神社のことも話題になった。特に相馬では津神社のことが実は津浪神社のことだと言われてそうなのかと不思議に思った。
でもよくよく調べれば津神社は津浪の神社という証拠は何もない、津浪に由来する神社という言い伝えも文書もないのである。
確かに相馬氏の松川浦の神社はツノミヤとかツノミツ神社と言われる。津神社ではなく
ツノミヤかツノミツ神社と言われる。ツノミツだ津に満つるだから津浪に由来したのもかとなる。ただこれも三代実録に列挙された由緒ある神社とも言われる。
この神社に逃げれば津浪から助かると言う言い伝えがあり実際に逃げて助かった人たちがいた。でもあそこは原釜の低地から高台にありまず低地の原釜は人が住んでいなかったろう。神社は比較的もともと高い所に建てられる傾向がある。
海側は特に高い所に建てられる傾向がありそういう神社は古い。


八竜神社は各地に多くこの辺でも実に多い、それは今回の津浪からまねがれたものが多いそれは古い神社であり慶長津浪の前にも建てられていた。そして数も多い。
それは縄文人の遺跡とも関係しているともあり古いから津浪からまねがれた。
縄文人は縄文海進があり海だった所には住んでいないからだ。

ところが津神社は相馬藩内では多いのだろう。日立の海にもあるが津神社自体は全国的にあったとして散在しているしまれであろう。
なぜ伊達藩内、宮城県には見当たらないのも不思議である。

浪江の棚塩の津神社の謂われはなぜ702年とか大宝の時代なのなのか?
そんなに古い謂われをどうしてもっているのかとなる。
海中から現れたという時津浪と関係しているのか?

津神社は目立たない神社である。貴船神社は結構あり有名であるがそれと合殿になったり安波(あんば)様と一体化したりして津神社の名も消えている。

ただ相馬藩内の海岸に満遍なくあるということはそれなりの意味をもっているのかもしれない。
鹿島の烏崎の牛島をのぞいて比較的高い出鼻にある。原町の北原の津神社は本当に高い所に隠されるようにあった。
この津神社が目立ってあるのは相馬市の松川浦の津神社(ツノミヤ、ツノミツ)である。
それと鹿島の牛島の津神社も隠されるようにはない、港に近くにあった比較的大きな神社だった。

小高の角部内にある津神社は何なのか?これも角宮とあるごとく津神社と関係していたのか?
ここに津神社が祭られて角部となったとしたら慶長津波の時に名付けられたのか
その時地名化していたらここは重要な地域である。
角のように海に出ている所でもあり地形から名付けられたのか
ただ津神社が祭られていることから地名化したとなると慶長津波以後なのか
時代的には特定できない

烏崎の津神社は慶長年間に建てられているから時代的にも慶長津浪を記念したものだろうあとは時代が早かったり遅かったりしているからだ。
慶長年間に建てられ津神社は相馬藩内でも明確にはわからないからだ。

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2014年06月24日

なぜ慶長津浪の被害は語られなかったのか? (津浪の後に役金を課して民を苦しめていた謎ー下海老村に米を積み出す湊があった)


なぜ慶長津浪の被害は語られなかったのか?

(津浪の後に役金を課して民を苦しめていた謎ー下海老村に米を積み出す湊があった)


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●相馬氏統一の前の中世の館

一国一城になるまえは各地に館があり城となっていた。中村城に移転することによって中央政権体制がでる。そこで相馬藩内で38もの館があったが廃止された。
ここには抵抗があった。特に有力な豪族は海側に港をもち物資を運び財力があった。
小高の村上や塚原がそうであった。
だからこそそこをおさえるために村上に城を築いたが地元勢力の反発がありすぐに中止した。何か不吉だからということではない、在地勢力の抵抗があったためである。


標葉郷 泉田館 両竹館

小高郷 岡田館
中之郷 泉館 泉氏から岡田氏へ
大甕館 岡田氏
北郷
上海老輪蔵館


輪蔵館 反畑にあり 往昔この地に一切経蔵あり。故に輪蔵館と名づく
天文弘治の頃、桑折上野直家この塁に居る。
直家は田中城主桑折左馬助久家の弟治部助家の嫡子なり。


●津浪の二年後に役金を課して民を苦しめる


はじめは天守も築かれていたが、寛文10年(1670)に落雷のため焼失する。この時の藩主は相馬貞胤で、領民に負担を懸けるに忍びないと言って天守は再建されなかった
その性格は江戸時代以降の相馬氏の居城中村城がお殿様のお屋敷という雰囲気なのに比べ小高城は実戦的な砦という 感じがします


最近の小高城の発掘で小高城に火事がありそれは戦闘の結果らしいとか報告があった。
中村城は岡田館などがあるように中世の館とも違いそれほど防備に重点をおいていない城だった。


慶長18年 財政困窮 給人、寺社方、職人にいたるまで役金を義務
慶長19年 大阪陣に参加

慶長三陸津波の時、1611年ころは相馬藩の草創期であり政治は安定していない
中村城普請、江戸屋敷の普請、参勤交代の資金・・・などが費用で苦しむ

慶長18年 財政困窮 給人、寺社方、職人にいたるまで役金を義務は元和までつづいて
給人は支払いできず知行地を返還したいと訴える
http://musubu2.sblo.jp/article/89007433.html

財政が困窮し給人から役金(えききん)を要求した。これが元で一揆さえ起きるほどになった。給人の身分の返上さえあった。つまり役金がとられるのが死活問題になったのだ。

寛文8年(1668) 百姓の騒動、給人三人切腹

給人の知行開発があまりに多い故、山野がゆきづまり百姓たちが春の草をとるとことや、馬をつなぎ、稲を干す場所もなくなり困り果てていた
それで新田開発を一人十石限りとされた

慶長津波から50年くらいたってこういう状態になった。


慶長16年 1611年(11月13日)慶長三陸津波 相馬藩700人溺死、伊達藩5000人死亡とも
慶長 1611 12月 中村城に移転
慶長18年 財政困窮 給人、寺社方、職人にいたるまで役金を義務
慶長19年 大阪陣に参加


慶長18年 財政困窮 給人、寺社方、職人にいたるまで役金を義務は元和までつづいて
給人は支払いできず知行地を返還したいと訴える

慶長18年は慶長津浪から二年後である。その時どうして給人、寺社方、職人まで役金、税金を課してのか?
給人、寺社方、職人とでているが寺社方というのは中世では仏教や修験者の勢力が大きかった。ここで気になるのは寺社方であり職人である。
●南海老村の大工の善次はその役金への不満の象徴だったのか?


南海老村の伝説は善次という大工が中村城の天守閣の造営にかりだされていた。
それが九十九部という仏教の修験者がかかわっていた。
それは確かに南海老村には輪蔵館という寺社の館がすでにあったのである。


輪蔵館 反畑にあり、住昔この地に一切経蔵あり、故に輪蔵塁と名づく、けだし仏閣ありか、天文弘治の頃、上野直家の塁に居る。直家は田中城桑折左馬助久家の弟治部助家の嫡子なり。


相馬 利胤(そうま としたね、1581年(天正9年) − 1625年10月11日(寛永2年9月10日)は、江戸時代前期の大名。相馬義胤(第16代)の長男。陸奥相馬中村藩初代藩主。初名は相馬三胤、相馬蜜胤
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E9%A6%AC%E5%88%A9%E8%83%A4


武家天野氏羽衣の来由

天野尾張同筑後正常あり、正常義胤公に仕えますます戦功を積んで加田を賜る。
その後天野備後なる者、勇猛の士なり。利胤公の世、牛越後経営の時に当り公の
慮に違へ采地を没せられて下海老村に蟄居す。
荒川某数々備後の過無きを訴え君公之許す。
天野家塁世功あるをもって采地二十二石賜ふ。爾後下海老村に居り代々天野新兵衛と号す方今新兵衛高祖祖父天野新太郎となる者、村絆官管船官となる。
力量抜群、槍柄二を合わせその先に載せ槍柄を取って是を揚ぐ。
一時米を運船に積む。米包多く積みその中につき一包抜く。又これを入れるること元の如し。その他人目を驚かすこと算・・あらず。以て美談となす。

下海老村の地図
http://musubu.sakura.ne.jp/sblo_files/musubu/image/ebimuramap111111111.jpg


下海老村 倉庫海岸にあり、この郷の税米を収め江戸に運船す

下海老村には湊があり船で江戸まで米が運ばれていた。それはすでに相馬氏が中村城に移転して地域を統一したときである。


相馬 利胤(そうま としたね、1581年(天正9年) − 1625年10月11日

この時代に慶長地震と津浪が起きているのだ。

そのことは何一つ記されていない謎である。
その時確かに下海老村もあった。そこには湊もあった。
そして重要なことは津波のあったときかもしれない、
そしたら慶長津浪のことはなぜ一言も記されていないのだろうか?

その時生きていた人物の由来も明確に記され慶長津浪のあった利胤の時代にこれだけのことが記されている。それでなぜ甚大な被害のあった津浪のことが記されていないのか?
今回の津浪から見ればその被害はやはり壊滅的だったはずである。
それが何一つ記されていないのはなぜなのだろうか?


ただ一つ南海老村の大工が確かに中村城に移転したとき、天守造営にかかわっていた。
そこで海水で洗うと怪異が起きたというのは津浪で死んだ人たちがいてその死んだ遺骸などを海水で洗ったものなのだろうか?

慶長十八年に財政困窮したというのは慶長十六年で津浪の被害が甚大で影響したのか?
でもそこにさらに役金を課すということはどういうことなのだろうか
そのために南海老村の輪蔵館支配下にあった善次という大工は中村城の天守造営にかりだされたが領主は輪蔵館にありひきとめられたということもあるのか?


●やはり津浪の被害は相馬藩の当時の政治事情で語ることを禁止されたのか?


いづれにしろ慶長津浪のことが一行だけ七百人溺死しか記されていないことの謎は
解明しようがない、ただその前後に何があったかは詳しく記されているのだ。
不思議なのは慶長津浪の後にも下海老村に湊があり船が運行して米が積まれて運ばれていたのである。
もともとそこには塩場があり塩もとっていた地域である。
津浪があっても塩とることには影響されない、むしろ塩をとるのは津浪の後の方がやりやすいということもあった。ただ湊が破壊されることは船が使えないので打撃だった。
でも下海老村の湊は津浪の後も使われていたのである。
その当時の湊はどうなっていたか不明である。
今のような護岸のある港ととは違う、それでも米を積み出すくらいだからそれなりに港の機能はあったのだろう。

不思議なのはすでに慶長津浪のあったときはそこに住んでいた人物の由来もはっきりしているしその子孫も明確だし今日までつづいているのである。
それがなぜ慶長津浪に関して何も伝わらないのかが大きな謎なのである。

慶長津浪の後の二年後に役金を課しているということそれに不満があったことが記されないことに影響しているのか?
つまり相馬氏にとって津浪の被害を訴えられて役金を徴収できなくなるから津浪の被害のことを無視して記さなかった。それはその時の政治情勢でそうなった。
相馬氏のその時の最大の課題は秀吉や家康との関係を良くして領地を安堵してもらうことだったからである。そのために今の時代だったら津浪の被害があったら外部から援助されるがその時はそんなことはない、だから牛越城の時改易される取りつぶしの危機も経験しているからそっちの方が政治の優先課題であり津浪の被害は無視されたのである。

ただそれにしても相馬氏では無視してもそれだけの被害があればその土地のものとか何か記してもいいはずである。現実に伊達藩では津浪の被害にあったその土地の支配者が記している。それすらないということがとをいうことなのか解明しようがないということである。
「津浪の被害は語るな、口外するな、・・」
何かそういうことが相馬氏から強制されていたのかともなる。

だからただ一つ南海老村の天守造営にかりだされた善次の伝説が津浪を語っているのかとなる。
新地の地蔵森や相馬市の諏訪神社の津浪伝説は貞観津浪のことだったらしい。
慶長津浪のことは何か相馬藩ではほとんどわからない、資料も伝説すら残っていないのである。
柚木の急ぎ坂とか・・・が慶長津浪のことだとすると南海老村に近いし八沢浦の被害からみればありうることである。
地蔵森や諏訪神社より慶長津浪の伝説としてはありうる。
それにしたってもっと何か具体的に伝わるものがあってもいいはずなのである。
それが一切ないということがあまりにも不可解であり謎なのである。


南海老村に残る中村城天守造営にたづさわった大工の伝説
http://musubu2.sblo.jp/article/99130060.html


ある人いふう葬礼の諸品を海水に洗えばすなわちこの怪異ありと・・・

葬礼と関係しているから津浪で死んだ人たちがいたことが伝説化していたのか?
ここがなんか伝説にしても津浪の被害を語っているように思える
なぜなら今回も津浪で流された家族の遺品を懸命に探していたからである。



円光塚よりいず。転々として大いなること茶銚のごとし

また垣の如きもの路に横たわる。善次中刀をぬきこれを切って
通行す、・・・・


転々として大いなること茶銚のごとし



これは津浪で流される様を表現したものではないか
津浪によって転々と大きなものでも日用品でも流されたからである

垣の如きもの路に横たわる


これは垣とは壁だとか垣根であり津浪で流されて道をさえぎった様を言っている。
これも津浪の被害をその様子を知っていて記されたのかもしれない
ただ本当に津浪の被害のことは資料がないから知りえようがないのである。

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2014年06月18日

相馬藩では慶長津波のすぐ後に野馬土手や田作りに励む (津波については探る資料がない)


相馬藩では慶長津波のすぐ後に野馬土手や田作りに励む

(津波については探る資料がない)

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慶長16年中村に市坊を置いた。街道の宿駅の整備

同じ頃宇多郡中村城に馬場を開き,騎馬演習を行った。
南北百八十間、東側の濠の土手には桜を植え故に桜の馬場といった。

また慶長年間、行方郡横手村より真野川に堰を作って東流させ
屋形村に引き鹿島、両海老、両右田の五村に分水して田を潤した。

これは慶長年間なのか?二宮仕法で行われたともある。


そもそも慶長年間に鹿島、海老はあった。右田はそのあとに開発されたのではないか?
だから時代的に後であり時代というのも間違って記していることが多々ある。
今回の津浪では田中城まで津浪は来なかった。
屋形とか山沿いから下の田畑は右田の方から比べると一段と高くなっている。
だから屋形や海老の山沿いに大きな溜池を作ればその高いところには田畑が作れる。

ただ津浪のことを考える時、慶長津浪の影響があったことは何も記されていない
記録から読む限り慶長津浪があったということはどこにも見いだせない不思議がある。

なぜなら慶長津浪の後に相馬藩が力を注いだのは津浪の復興などではない
街道の宿駅の整備、そして一番力を注いだのは野馬土手の整備なのである。
それから堰を作り溜池を作り田を作ることが鹿島の屋形村や海老村で行われた。

普通だったら津浪の復興が第一となる。伊達藩ではやはり津浪の被害が大きくそういうことが記録から感じられる。
ただ相馬藩では鹿島区でも津浪の被害にあった所は原野であり田畑化されていなかったのだろう。
だから津浪の被害にあわない屋形の山沿いから田を作りはじめたのかもしれない。


グーグルの写真地図で見ると津浪の浸水地域は海岸の南海老村と右田の方になっている。海岸の方はあとから人がすみはじめた地域である。
屋形村や南海老村でも山沿いの所は一段と高くなっていてそこは溜池から水を引けば
田にできた。その面積もそれなりに広い。だから慶長年間にそこは田にしたのかとなる。

陸前浜街道は慶長津浪があり津浪が来ない所に道が作られたというのも今回の津浪から見ればそうなる。でもまだ相馬藩では田を開拓され作っていない原野が湿地帯が多かった。だから湿地帯をさけて道を作ったともなる。
必ずしも慶長津浪が影響して津浪が来ない所に作ったということではないだろう。


いづれにしろ相馬藩は慶長年間まで戦国時代の延長であり相馬氏が支配を確立していたわけではない、中村城に移転した時支配が一応確立したのである。
野馬土手作りに力を注いだのはやはり軍事を優先したからである。
北朝鮮でも軍事優先であり飢えている子供がいるということは外部の人によって明るみに出されたのである。当時は藩が国だとすると外部に弱みを見せないということで
津浪の被害を隠したのかもしれない、慶長津浪のことは全く探る手がかりもないからだ。外部の人に伝えなければ餓死してるとか悲惨なことはわからない。
ミサイルを打ってくるくらいだからかえって恐れたりしている。
内情は兵士は食べ物もなくやせ衰えていたのである。
今でも対外的には強い所を常に見せておかないと他国に攻められるのは同じなのである。

そして伊達藩でも岩手県の宮古でも牛馬が死んだと記されている。
それは馬が人間と一体化していたから馬が大事だからその数も記された。
相馬藩では死んだのは人間しか記されていない
それも野馬追いがある相馬藩では変だなと思う。
ただ野馬土手などが作られたのは慶長津浪以後であり津浪の被害にあった所で馬をまだ飼っていない地域だったかもしれない、海岸地域は馬を飼いにくいこともあった。
それでも何か解せないものがある
記録にも時代が間違っていたりすべて真実とはならないことも問題なのである。


家屋から家財道具まで流され、先祖伝来の武具、文書、飼い馬も一緒に流されて
誇りや伝統も一緒に流されちまったよ! と言ってたな親戚が‥返す言葉が無かった。


津浪には飼いにし馬も傷つくも負けじといでぬ祭りなるかな


津浪で流された馬もいたし傷ついた馬もいたのである。人間だけじゃない牛馬を津浪の被害者だった。今だったら馬が死んだ数まで記さないだろう。
津浪の被害にあった家が野馬追いに出ることが放送された。
そういうことは慶長津浪ではなかった。それより資料がないから推測もできない。
ただ原町でもそうだが馬を放牧する広い原があったということはそれだけ原野がまだ
相馬藩では多かった。
そうなると海側も原野が広がっていたとなる。

それではな海側に人がどれだけ住んでどんな暮らしをしていたのかとなる。
湊があり湊中心の漁労生活者だったのか?そういう人たちが死んだのか?
まだ田畑の被害は原野だから少なかった。
それにしてもなぜ700人も死んだのだろうとなる。
その死んだ人たちのことを探ることが資料がないから皆目わからないとなる不思議がある歴史にはそうして消失したしまった人たちはいくらでもいるのだろう。

相馬藩でも戦争で死んだ人のことはいろいろ記してありその功績も記されている。
しかし津浪で死んだ人たちのことは何一つ記されていない、700人溺死としか記されていないのである。
被害にあった民衆の間でも語り伝えられてもいいものだがそれもなかった。
そうなると本当に慶長津浪の被害が本当にあったのかとまで疑うことも不思議ではない
歴史的事実として何をもってそれだけの被害があったか探りようがないからだ。
神話でも伝説でも何かしら事実があって語り継がれる。
でも小説では相馬藩が復興に力を注いだと美化しているがそんなことどこからも事実として何もないのである。

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2014年06月17日

相馬藩の牛越城移転で泉氏が人夫徴発で火を放つ (津浪の記録の再検証ー人馬一体となり死す)


相馬藩の牛越城移転で泉氏が人夫徴発に不満で火を放つ

(津浪の記録の再検証ー人馬一体となり死す)

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野馬土手で囲む前はもっと広い原があって馬が放牧されていた。
原町は原という地名が多く広大な原があった


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桜井古墳の前まで津波がきていた


●牛越城で泉氏が人夫徴発のことで不満で館に火を放つ

牛越城の施行は慶長二年(1597)近郷の土豪を夫役に徴発してはじめられた。
中ノ郷の備頭(そなえかしら)泉右衛門政胤(泉館在住)はこの人夫徴発のことで不満があり館に火を放って会津の上杉氏に走る事件があった。

野馬を神馬扱いにして大事に保護したため、馬が増えるばかりで近隣農民にとっては農作物の被害に迷惑しながらやむをえず従っていた。
その不満はつのりこれをみかねて忠胤の時、寛文六年(1666)ようやく農民の保護と興武のための対陣作戦の必要から牛越原に野馬土手を築くことになった。


村上城から牛越城へさらにまた小高城へとなぜ転々と城を移転せねばならなかったのか?
村上城で火事があり不吉だとしてとりやめたのは岡田氏や館がありこれも泉氏と同じ理由で火をつけられた。各地にまだ相馬氏に反抗する勢力があり統一されていなかった。
この動乱の時に慶長津浪が起きた。
慶長津浪のことはただ700人溺死としか記されていないが海老村の大工の善次も輪蔵館から人夫として中村城の天守造営に出されていた。
そのことが泉氏と同様不満があり善次はとめられたが無理して行こうとして怪異があり
不慮の死を遂げた。
それは明らかに牛越城築城に泉氏が反対したと同じ理由があった。
牛越城の時はまだ慶長津浪は来ていない、しかし海老村の伝説は明らかに中村城の天守造営と記してあるのだから慶長津浪がありその後のことにしても何らか慶長津浪の記憶がある時だったのである。

慶長津浪の後の数十年、30年から40年くらいは原野のままに放置されていた。
そこは湿地帯にもなっていたから人は入りこみにくい状態だった。

ただ萱浜に「巣掛場」とか地名があるから狩りの場になっていた。

その後大規模な野馬土手が作られた。これは今の原町の市街をつつみこむように作られ周りに木戸がいくつも作られた。それが大木戸として地名化している。
これほど大規模な馬の放牧地を作り馬を重んじたのは戦国時代の延長として相馬藩が伊達に対抗するための軍事訓練の場として作った。
これは軍馬であり戦争するための馬なのである。
戦国時代は馬が最大の武器となるのだから馬の飼育には力を入れた。
鎌倉武士が平家に勝ったのは騎馬軍団をもったからである。
だから鎌倉時代とかその後南北朝時代、戦国時代は馬の時代だったのである。
放牧地が広大な牧が各地にあったのだ。
だから江戸時代は何か田んぼが広がる景色のように見えるがその前は牧が広がっていたのある。

だから相馬藩の野馬土手は実際に広大なものだった。
そこで気になったのが桜井古墳から上渋佐まで野馬土手が広がっているのだが
上渋佐で微妙な線を描いてとまっている。
あそこまで津浪が来ていたのである。
津浪が来た線でとまっているのはそこは原野になり湿地帯になっていた。

慶長津浪の後にまだまだ開拓されていないから田畑は少なかった。
ただ萱浜の巣掛場木戸というのがあったとするとずいぶん海岸近くまで広がったいたとなる。
巣掛場辺りは今回の津浪をもろに受けた被害の大きい所だった。

野馬を神馬扱いにして大事に保護したため、馬が増えるばかりで近隣農民にとっては農作物の被害に迷惑しながらやむをえず従っていた。
その不満はつのりこれをみかねて忠胤の時、寛文六年(1666)ようやく農民の保護と興武のための対陣作戦の必要から牛越原に野馬土手を築くことになった。

これをよく読むと野馬土手を作ったのは馬を囲いこむためでありそれまではもっと広い原野がありそこを馬が駆けていた。野馬土手がないから馬が田畑まで入りこんだのである。それだけ広い馬がいる原があった。モンゴルの草原ではないにしろそれは日本にしては広大な広さである。
田畑より牧の方が中世には広いということがあった。
その牧に放した馬を家に連れて帰る絵を見たがその家に帰る道も長く農家が一軒ある。


●人馬三千余名死すー人馬一体となり死す


今回の津浪では野馬追いに出る家も津浪の被害があり野馬追いのことが語られた。
海老村では妻をなくした人が弔いの野馬追いに出るのが放送された。
浪江からも野馬追いに出て復興の野馬追いになった。相馬藩の祭りとして相馬藩が一体になるものとして復興の野馬追いになったのである。


相馬藩御経済略記:同年10月海辺津波御領分ノ者700人溺死

相馬藩政紀第一(御年譜利胤):10月28日、海辺生波にて相馬領の者700人溺死

相馬市「城は破損し再築中」「同市も海水の漲溢に依り海岸の村落に及ぼしたる被害
の影響を受けたり」(『ビスカイノ金銀島探検報告』)

青森県沿岸「南部・津軽の海辺の人屋溺失して人馬三千余死す」(『駿府記』)
宮古市「大津浪にて門馬、黒田、宮古、以の外に騒動…」(『宮古由来記』)

仙台藩の歴史が記されている「伊達氏治家記録」にも仙台藩の領内で津波で1783人が死亡し、牛馬85頭が死んだという記録が残っている。

相馬藩の記録では牛馬の死は記されていない、伊達藩では85頭まで記されている。
青森県沿岸で人馬三千余死すとある。野馬追いの地で馬のことが記されていない。
牛馬の数をそこまで詳細に記したことはやはり牛馬を重んじていたのだろう。
牛馬も死んだと記しているだけでも津浪には相馬藩より関心があり記した。

宮古市「大津浪にて門馬、黒田、宮古、以の外に騒動…」

宮古市では騒動まで起きたというから生々しいものとして残っている。
騒動が起きても不思議がないほどの大被害だった。
何か物騒な状態になっていることが記録されたということは
食うや食わずで家も失った人たちが津浪の後に彷徨っていたはもなる

相馬藩では700人溺死だけでその他何かてがかりになるものが残されないないのが
慶長津浪のことを解きあかそうにもできないのである。
ビスカイノの報告が唯一の資料ともなる。これにしても城が破損したということは記されている。その他のことは不明である。


海辺津波御領分ノ者700人溺死


ここに津浪と記してあるのはなぜだろうか?相馬藩で津浪ということを知っていたのか?
これは当時記したものではなく後から津浪が一般的になり記したものなのか
生波と記したのはこれはその時津浪ということを知らないから記した。
だからこれはその当時に記しことになる。

いづれにしろ津浪に関しては相馬藩では何ら資料がない、だからいくら探るにも限界がある。相馬藩ではその歴史はいろいろい記されている。
でも津浪に関しては何一つ記されていない、700人溺死しか記されていない
ただこの数は伊達藩の死者と比べてみると死者数の数は今回の津浪より数が多い感じがする。それほどの被害だったのである。
在地の豪族が相馬氏の政治に不満をもつことは語られている。
実際に事件もありそのことを記されている。
ただ慶長16年に起きた津浪に関しては記されていない。

伊達藩でも詳しく記したのはたまたま伊達藩内に来ていた人たちだった。
それで津浪のことが全国に伝えられこの時から津浪という言葉が一般化した。
外から来たものは津浪を伝えるのにはばかるものがなかったが伊達藩でも伊達政宗が一言も津浪について言及していないように津浪の被害を隠していた。

誤解しやすいのは貞観津浪と慶長津浪が混同していることである。
貞観津浪の伝説が慶長津浪の伝説だとしている。
岩沼の千貫松の伝説も貞観津浪のことだろうというのもそのためである。
相馬藩の新地の地蔵森でも諏訪神社でもとても津浪の来るような所にはなく
奥の方になっているからだ。


●慶長津浪の明確な年代は本当はわからない?


慶長三陸津波を起こした地震は古い地震で謎が多い。発生したとされる時期も一般に採
用されている1611(慶長16)年の他に、1614(慶長19)年、1616(元和2)年など

慶長16年と記されていても慶長年間と記されているのもある。だから年代も明確ではない慶長年間なのがまちがいないというだけである。


慶長地震とは一つの地震ではなく、慶長年間(1596年-1615年)に日本列島で起こった地震の総称だった。更に正確に言うと、文禄5年9月1日、4日、5日と大地震が連続したので、慶長と改元したが、その後も地震が連続したのだそうだ。慶長地震(ウィキペディア)から抜粋する


慶長伊予地震 - 文禄5(1596)年9月1日、伊予国をおそった地震。M 7.0
慶長豊後地震(大分地震) - 文禄5(1596年)9月4日、M 7.0〜7.8、死者710人。
慶長伏見地震 - 文禄5(1596)年9月5日、近畿地方をおそった地震。M 7.0〜7.1、
京都や堺で死者合計1,000人以上。
慶長大地震 - 慶長9(1605)年2月3日、東海・東南海・南海連動型地震でM 7.9〜8.0。さらに房総 沖までが連動したと考えられ、M 8.4〜8.5の説も存在する。地震動による被害は少な かったが現在の千葉県から九州に至る広範囲の太平洋岸に津波が襲来し、死者1〜2万
慶長会津地震(会津地震) - 慶長16(1611)年9月27日
慶長三陸地震(慶長三陸地震津波) - 慶長16(1611)年12月2日に三陸沖を震源として発生した地 震でM8.1。

慶長年間というのはこれだけの地震の被害もあった。大地震が連続して起きていたのである。文禄からはじまり慶長年間は地震で象徴されていた時代である。
この時は戦国時代だったのである。動乱の時代でありそれに地震や大津波でまさに末世の様相を示していたことは今回の津浪は日本の動乱の時代のはじまりなのかもしれない。

算命学 2011


国家を揺るがすような強烈な出来事が起こってもおかしくは無いのです。
貯蓄・防災・危機管理の徹底など、いざという時の為に備えは万全にしておきましょう


これは2011年1月に占いの人のプログに書かれていたのである。
プログの特徴は日付が記されているからそこから個人であれ歴史を読むことができる。
だから20011月の3月11日の津浪の前と後では時代が明確に区別されるのである。

1611ー2011とかアメリカのビルが破壊された9・11とか何か11は不気味である。
1ははじまりであり開始でありだからその前に大規模な破壊が起きることはありうる。
ただ占いも不安をあおり金儲けにしているものもいる。
それでも2011ー3・11という数字が並んだことは不気味だった。
となると2111が最高に危険な年になる、人類滅亡の年になるのか、その時は自分は死んでいるからどうでもいいともなるが・・・

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