2014年06月14日

慶長津波で相馬藩の湊が喪失した (小高ら中村へー岡田清一氏の論文の再考)


慶長津波で相馬藩の湊が喪失した

(小高ら中村へー岡田清一氏の論文の再考)


小高ら中村へー戦国武将相馬義胤の転換点
http://www.tohoku-gakuin.ac.jp/research/journal/bk2011/pdf/bk2011no09_01.pdf

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●中世は思ったより船運が盛んであり大きな湊が各地にあった

慶長津波のことがなぜ一行しか記されなかったのかということを探求するには
慶長津波の前後の相馬藩内の政治情勢とかどういう暮らしをしていたのかということを知らねばならない。
その時代は戦国末期であり秀吉や家康と相馬藩はかかわり四苦八苦していた。
相馬藩の領土すら安堵されていないし領地を失う危機も経験している。
相馬氏は相馬藩内を統一支配する状態にはなかった。
だから中世以来在地の館をもった有力氏族が力をもっていた。
その筆頭になるのが岡田氏であり中村城では別個に岡田館をもったことでもわかる。


小高郷塚原村に「郷中の年貢を大船に罪、当海より東都に運送」するための「蔵院」が置かれた。その間の流れる河口には
「湊 幅十間、深さ4尺、・・・・空船出入りす」


その岡田氏が力をもった背景は何かというとき、それが慶長津波と深い関係があったのだ塚原や村上には海運をになう湊があり物資の流通があった。
そこにそれだけの湊があったからこそ村上に城を作ろうとした。
それは朝鮮出兵で名古屋城に行くと瀬戸内海を見聞して海に接した城、海城を見てヒントを得た。「湊 幅十間、深さ4尺、・・・・空船出入りす」が存在した。

また義胤はその海運のために銚子とか海上へ役夫を出している。
そこまでやるということは当時の舟運は思った以上盛んだったとなる。

「宇多の湊に比定される松川浦の南端位置する磯部を支配したのは佐藤好信は岩城氏の旧臣であったが佐藤一族は「岩城之船」にかかわる氏族であった。
中村城も松川浦(宇多の湊)に面した城館であり南北朝時代に熊野堂や館腰遺跡には「瓦宿」=河原宿という地名も残っている。


八沢浦 小魚を漁して浦舟20艘、13漁船、七荷運舟 浦辺に塩場、釜屋あり 村人塩を焼く

磯部もすでに大きな湊があり船の出入りがあった。八沢浦にも七荷というから七つの種類の荷を運んだのだからすでに中世にそうした湊があり海老村とも関係していた。
八沢村はなく海老村の領域になっていたからだ。
それで善次という大工が津波の被害にあった地域に住んでいて中村の天守造営の時、怪異があったというのは何か津波を示唆しているかもしれない、中村城移転の時、天守造営が行われたからである。

宇多の湊も岩切と同じである。海に通じて川があり川さかのぼってそこに市が開けた。
河原は市になりやすい,また河原宿というとき野宿する場として適地だったのである。
自分も自転車で旅してテントで良く河原に泊まったから河原は泊まるのにいい場所なのである。当時はもっと堤防もなく河原は広かったからだ。

村上城から牛越城から中村城へ移転するときは同時に相馬藩内も激動の時代だった。
その時に慶長地震津波が起きたのである。

牛越城も新田川から舟を利用して河口の古代の泉かんが跡がある所に出るから湊があったもともと桜井に古墳すら川と海が交わる所あり何らかすでに交通の要所としてあった。
古代に泉官衙であった泉廃寺跡に物を運ぶために運河を作っていたことでもわかる。
「大磯の湊」というのもあったということは古代から延長として利用されていた。
それほど川の交通が重視されていた時代なのである。
交通の要所をにぎるものが権力をもつというのは世界的にもそうである。

その湊を管轄して支配していたのが岡田氏であり泉氏などの有力氏族であった。
それらの在地の豪族を牽制するために牛越城が作られた。その位置は確かにそうした背景を物語っている。


●網野史観の忘れられた海民が津波で大勢死んだ


前にも書いたけど海の視点から歴史を見ることが資料などが残らないで見えないのであるそのことが大きな歴史の欠落を生み誤解が生れる。
それを覆したのが網野史学であった。



漁業をやれば必ず魚を売らねばならぬ、これは塩の場合も同様で漁業や塩業をやれば必ず商業と廻船がそれに結びついてくる。


明和7年(1498)の大地震と大津波は伊勢から関東にいたる海辺の湊に大きな被害を与え、一時的に太平洋水運に破壊的な影響を与えたと推定される。


「漁村には資料が少ない」という声をこれまでしばしば見にした。
確かに漁村には火事、津波などの天災が多くそのようなこともあろう。
紀州熊野十八浦の連合によって形成された「岬会合」の二百冊近い貴重な日記類は
1945年の南海大地震の津波のために流出したという
密集した家並みの一軒に火事がおこるとあっというまに燃え広がるのも漁村に大いにありうる。


由利千軒、草戸千軒・・・何々千軒と言われる所はかつて栄えた町があって現在では消え去った時につけられる名称です

由利島は、「由利千軒」の伝承をもち、寺屋敷、長者屋敷、船頭畑、鍛冶屋の尻などの地名が残り、矢立明神、儀光寺、毘沙門天などの寺社のあった港町のある島ではなかったかと思われる。こうした「――千軒」の伝承は列島各地に伝わっており、「草戸千軒」の場合のように、発掘によって埋もれた都市の存在が実証されているので、今後、さらにそうした事例は増えると思われるが、(以下略)(網野善彦「残された課題」)


山野河海等は元々“無主”の地としての特性を持ち、そこを生業の場とする非農業民は農地を占有する農業民と利害が対立します



つまり検地すことにより石高がわかりその土地の生産高が決められていたがその範疇に入らない人々がいた。百姓と農人は明確に別れていたのであり百姓とは百の仕事をもつ人たちだったというのもそのことを物語っている。多様な仕事をしていた人たちである。
田畑ばかりを作っているのではない、松川浦の和田の人は牡蠣をとったり鰻をとったり
田畑も作り馬も飼っている。海ではそうした多様なものが成り立つ環境があった。
そして船が出入りするから湊になり物資が運ばれて都市機能をもつようになる。
都市はギリシャでもそうだが海運と関係して貿易によって栄い都市化してそれはポリスとなり国家に成長した。


ただそういう海と関係した歴史は資料が残りにくいから見逃され忘れられ今になるとどんな暮らしをしていたかも海側がわからなくなったのである。
そして津波によってそうした湊が壊滅状態になり丸ごと失われたことがあった。
それが相馬藩内でも起きたのだ。その時そうした湊を支配していた岡田氏とか泉氏は大打撃を受けた。
しかしそのことがかえって相馬氏の支配を強化できて中村城への移転で中央集権体制の相馬藩が作られたのである。中世の相馬藩内の館が38もあった時代から一つの城へとまとまる政治体制が中村城移転で完成したのである。

ここで慶長津波がそうした激動の相馬藩にどう影響したのか?
それは岡田氏とか泉氏とか湊をもち力をもっていた氏族の力がそがれた。
湊は壊滅して喪失した。その後そうした湊は再建されずわすれられていった。

ではなぜ相馬藩では一行700人溺死としか記されなかったのか?
単なる漁労民とかではない、湊機能がありそこは都市機能さへもっていたとなると
その被害は甚大であり何かしらもっと記されてもいいはずである。
岡田氏や泉氏でもまた磯部館もあったのだから何らか伝えるものがあってもいいはずだがなかった。

そのことは当時の政治の情勢と深く関係していたのである。
相馬氏にとって慶長津波はかえって中村城へ移転して支配を完成する好機となった。
村上でも牛越でも何か反抗があり牛越では領地を失う危機にさらされていたのである。
それは岡田氏や泉氏の反抗があった。
その時慶長津波がきてその力をもった湊が壊滅したのだから反抗するところではなかっただから中村城への移転が慶長津波の後に本格的に決行されたのである。


●慶長津波によって戦わずして在地の勢力を統合できて中村城が作られた


結局慶長津波によって相馬藩は各地を在地の勢力を一つに統一できたとまでなる。
だからこそ復興のために支援するとかそんなことを一切記さない
復興などする必要がなかった。湊を復興したらまた岡田氏や泉氏が力をもち相馬氏に統一することがむずかしくなるからだ。
戦国時代そうして敵対するものの権力をそぐことが常に行われていた。
それは現代の感覚ではわからない、それが戦国時代だったのである。

だから岡田氏や泉氏がいくら慶長津波で大被害を受けたことを訴えてもとりあわなかった。ただ一行700人溺死とそっけなく記すだけだったのである。
また津波の被害のことを語るのは禁止されたということもある。
その時の政治の最優先課題は相馬藩の領地を安堵することであり相馬藩を統一することであった。
もし岡田氏や泉市のために復興のために力を注いだら岡田氏や泉氏を利するだけであり
相馬氏にとっては危険になる。

ただそういう権力構造の中で湊で働いていた人たちは犠牲になり忘れられていった。

それで海老村の九九部が津波の犠牲者を供養したのだが善次という大工が中村城へ移転した天守を造営のためにかりだされた。
海老村には輪蔵館という館もあったのだからそれは寺社系統であり海老村も津波の被害にあったから大工はその津波の被害の方で仕事をすることも強いられていたがどうしても主君の命令に従わねばならないと無理をしたが呪われて死んだのである。

慶長津波のことが記されなかったのは相馬藩内での権力闘争があり岡田氏や泉氏の台頭を相馬氏が恐れた。それで津波の犠牲者のことは語られなかった。

それでも今度は逆に漁労民だけではない、湊がっあってそこに働く人が死んだならやはりその数が多いから何かしら伝えられてもいいとなる。
そのことは他でも・・千軒とか多賀城辺りでもそういうことが津波で起こった。
だから相馬藩だけではない゛千軒が一瞬にして消滅して消えて語られなくなってしまうことが歴史にはある。草戸千軒などは最近の発掘調査でわかったのだからポンペイと同じだった。一瞬にしても千軒が消失して記憶か消える。
それは津波の跡を見ればわかる、土台しか残らず一軒の家もなくなる。
そこに村や町があったことも全くわからなくなる。

相馬藩は特殊な事情としてその時内部で権力争いがありそれが津波のために犠牲になったこ人たちのことが無視された。相馬氏は中村城に移転して相馬氏の支配が確立したのである。

もし相馬氏の支配が確立していたら復興事業もありえた。それができなかったのは相馬氏主導の体制がまだできていなかったからである。
だから伊達政宗はすでに強力なリーダーシップをもったのはそれだけ伊達藩をまとめる力をもっていたからなのだ。
第一スペインまで視野に入れて船まで自前で建造した。瑞巌寺は見張り塔もあり武士の城であり寺だった。海に面した城でもあった。
そういう大きな船を作れるということはそれだけの船の海運の進歩がすでにあったのである。

ただ相馬藩内は津波でそうした湊機能が壊滅した。それが語り伝えられなかったのは例えば石碑一つ建てるにしても金がかかる。今より金がかかるからできない、そんなことより大阪の陣への出兵、江戸城普請に力を注ぐことが領地を安堵することだから腐心していたのである。

歴史は権力争いで犠牲になるという時、それは民同士が戦うというより権力者が己が権力を死守ふるために戦う、民衆はどっちについても暮らしは同じだとなる。
だから明治維新後、会津でもヤーヤー一揆が民衆から起きた。会津の城で白虎隊が討ち死にするが民衆にとって城は命かけてまもるものではない、領主が変わるだけであり民衆の暮らしは変わらないからである。

相馬藩では権力争いで津波による犠牲者は無視された。では支配下においていた岡田氏や泉氏などはなぜ記録を残さなかったのか、被害にあった人たちは語り伝えなかったのか?
結局語り伝えるにもそれだけの力が必要でありその力がなかったともなる。
文字として記すにも民衆は文字を知らないとできないし語り伝えるにしても相馬氏が支配するとそれを訴えることになるから禁止されたとかなる。
相馬藩の場合そういう特殊な事情で慶長津波の被害のことが記されて語りつづけることができなかった。
ただ他にも全く何も語られることもなく消失した千軒というのがあるのだから以前として謎は残る。


会津のヤーヤー一揆
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/6618/honmon2/96.html

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2014年06月12日

津波がきた3キロ地点で何度も海の水にのまれる夢を見た (人間の夢は何か告げているー古代では夢を重んじた)


津波がきた3キロ地点で何度も海の水にのまれる夢を見た

(人間の夢は何か告げているー古代では夢を重んじた)

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子供のときから今に至るまで繰り返し見ているのが、大きな波に呑み込まれる夢だ。
パターンは色々だ。
海水浴場で遊んでいると、大津波が水平線の向こうから聳え立つ。
城塞都市の坂道を歩いていると、坂道の下から白い波がとぐろを巻いて押し寄せてくる。

ガラス張りの旅館のロビーの、そのガラス戸いっぱいに津波が打ち寄せ、窓を破って押し入ってくる。

それでもいったん呑み込まれると、体は波に囚われたままいつまでも浮かびあがらず、もう少し、もう
少しで顔が出ると、我慢しているうちにどんどん息苦しくなってくる……。

http://blog.livedoor.jp/taeko_asano/archives/361351.html


溺れる(溺れそうになる、誰かが溺れている)夢は、精神的に追い詰められたときによく見る夢であると言います




人間は水に溺れる夢を見るのは誰でもある。一面が海になっていて取り残されてもうだめだ、死ぬんだなんて夢を見る。
水にのまれて必死になって泳いだりして浮き上がろうとするがもう助からないという夢を見る、たいだいもうだめだというとき目が覚める。


海水浴場で遊んでいると、大津波が水平線の向こうから聳え立つ。
城塞都市の坂道を歩いていると、坂道の下から白い波がとぐろを巻いて押し寄せてくる


ここまで大津波として夢を見る人はまれだろう。
津波は普通は経験できないし見ることもできないものである。
海の水が押し寄せてきたとしてもそれは津波とは普通は自覚できないだろう。

自分は地震とか火事とか炎につつまれて苦しんでいて脱出するような夢は見ない
ただ水にのまれる夢は何度も見ている
一面が海になってもうどうにもならないという夢も見る
それは何か津波とにているが津波という意識はこれまでもなかった
普通に他の人も見ているだろう
一面が水に囲まれ海に囲まれ絶体絶命になっている
そういう夢は津波とにている
ただ海側に住んでいて津波を今まで考えたこともないし意識したこともない

相馬では400年もこんな巨大津波などなかったのだから誰も津波など来ないと思っていた

ただ自分は今回津波が来た小学校の前で何度も海の水がおしよせてその水に飲まれる夢を見た。
それが今回ちょうど鹿島小学校の前で津波が止まったのである。
その鹿島小学校の前で海の水がおしよせて海の水にのまれ溺れもうだめだという夢を何度も見た。
それは小学校の前だというときその前が家がまれであり田んぼになっていて海に出る
もしかえってそこに家が多く建っていたらそうしたし夢は見ないだろう。
海が近くても住宅地化していたり工場地帯とかなっていたら海がさえぎられるから
海の水がおしよせるような夢は見ない


水におぼれる夢などは何かに追われているから追い詰められているから見ると言われる
もう脱出できないというのはそういう心理状態にあるから見ると言われる
でも何かそうでもない、別にそういう心理状態の時でなくても見ている
だから鹿島小学校前でそういう夢を何度も見たこととが津波が来てから不思議になった。
海から離れて街に住んでいてもそういう夢を見る、そしたら海に接して荒い波の音を聞いてくらしていた人は怖くないのかといつも思っていた。
海を身近に毎日見ていたら何かその海にのまれる夢は日常的になる
海から4キロとか離れてもそういう夢を見ているからだ。

一面が海になるのと違ってその夢が場所が特定されていたことが不思議なのである。
ただ漠然と水にのまれ溺れる夢ではない
鹿島小学校のじき前でそういう海の水にのまれる夢を見たのである。
その鹿島小学校の校舎のある前で津波は止まったのである。

鹿島小学校の近くが住宅が何十軒かあり津波の被害にあった。
あんなところでも床上になり被害が大きかった。
津波の後でもたいして家が破壊されていないからたいしたことないと見ていたのである。しかし津波の被害にあった人は今も津波の来た海の方向が怖いと言っている。


不思議なのは仙台辺りでも石巻でも直接太平洋に接して住宅地になっていた。
石巻などは日和山の前など過密に家が密集していてこんなに家が密集していいのかと通りすぎたことがある。
その密集した家が根こそぎ津波で流された。
そこは入江でもない太平洋に直接面していたのである。

なぜあんな危険な所に人は住んだのかと津波の後に盛んに言われるようになった

そもそも弥生時代になると稲作がはじまり江戸時代辺りから開拓事業が拡大した。
伊達藩でも相馬藩でも海側に原野を開拓したのである。
でも慶長津波では相馬藩内は原野の所が多かった。
でも津波が来ていて危険な場所だという認識はあったはずである。
でも日本では土地がないから米を作るために海側を開拓してきた。
有明海でついに開拓する場がなくなったとき、農民は満州に移住した。
そこでも米作りしていたのである。
日本の宿命は土地が狭く耕作地がないから農業には限界があった。
その限界を突破するために海側を開拓して土地を広げた。
そういうことを可能にしたのは文明の力だった。
それだけの技術力が生れてできたのである。


縄文人が海を埋め立てるのを見たら驚き神罰があたるよとか言ったかもしれない
それは自然を恐れないものであり自然とともに生きていたからそう言った。
自然への畏れが常にあった。弥生時代になるとそういうことなくなった。
ただ米をそうして拡大して作ることによって急速に人口が増加したのである。
人口が増加したのは文明の力だったのである。
縄文時代だったら人口は増加できないのである。

弥生時代になり稲作文明になったとき、すでに自然への恐れは弱められた。

今回の津波ほど自然の恐れを感じさせたことはなかった。
自然の力はとても人間の想定できない力をもっていると驚いた。

古代では人間の夢を尊んだ


 西郷信綱の『古代人と夢』は、昔の人は夢をこんなふうに考えていたのかという新鮮な驚きに満ちている。王位継承者を夢で決めたり、夢の中に現れた観音様のお告げを信じたり、夢の売り買いまでする人々がいた。西郷は夢を主題化することによって「人間的な何かを忘却のなかから想い出すよすがにしてみたい」という。それにしても、夢を信じる、言い換えれば、夢ももう一つの現実であるという認識は、どのように生じるのだろうか。

 西郷がくりかえし強調するのは、夢の他者性である。夢は自分のものではなく、「人間が神々と交わる回路」であり、「神や仏という他者が人間に見させるもの」だという。

「住の江の岸による浪よるさへや夢の通ひ路人目よくらむ」(藤原敏行朝臣)
http://d.hatena.ne.jp/hyakkenn09/20140427/1398575416


これは興味深い、夢は神の御告げのような役割を果たしていたのだ。
それだけ人間の夢は不思議でありその夢を解くことが要求された。


人間的な何かを忘却のなかから想い出すよすがにしてみたい


津波は400年に一度となるとみんな忘れてしまい相馬藩では伝承などほとんど残っていなかった。
しかし津波のことを忘れていても海にじかに接して住んでいれば何か海への恐怖感が日常的にあるのが普通である。それが海に接してすむ人たちになかったのも理解できないということはある。


例えば

海に接して住んでいる人にこんなことを言った。

「わたしは何度も鹿島小学校の前で夢を見たんです
海からの水がおしよせてその水にのまれて溺れそうになる夢です
目が覚めると夢がさめてそ助かったなと何度見ていたのです」
「それは何なんだろう、あんなところに海の水が押し寄せるということはない
かなり離れていて海も見えないんだけどな」
「いや、小学校の前は家は少なく田が広がり海に通じている、だから海が近くに感じることもあるんだよ、前に住宅地があって海がさえぎられていると見えない
だから海を意識しないこともある」
「でもそんなところで海の水にのまれるとはなんなのだろう、
俺たちのように海に接して住んでいればわかるけど遠いからな」
「だからこの夢はなんなのか不思議だろう、この夢を買ってくれ」
「そんな夢を買えるか、海を見て俺たちは毎日暮らしている
海を恐れていてはここに住むことすらできなくなるべえ」
「それならいいですが、何か災いが起きなければいいんですが・・」
「俺を脅すつもりか」
「いいえ、その夢を何度も見たから言ったまでです」

ともかくあの地点ということが自分の夢では明確だった。漠然としたものではなかったのである。


住の江の岸による浪よるさへや夢の通ひ路人目よくらむ


これだけど恋人が波がよるのにも寄ってくるのが見えるというのはこの辺ではありえないいつも荒々しい波が防波堤に打ちつけていて荒寥としていた。
西の海とは違い穏やかな海ではない。

海にゐるのは、
あれは人魚ではないのです。
海にゐるのは、
あれは、波ばかり。


曇った北海の空の下、

浪はところどころ歯をむいて、
空を呪つてゐるのです。
いつはてるともしれない呪。


中原中也

この辺ではこういう海だった。人魚は沖縄だったらふさわしいだろう、実際にジュゴンがいるのだから空想でもなかった。
その海とはあまりにも違っていたのである。

いづれにしろ文明が発達するとそうした人間の夢でもそんなもの意味ないよとかなる
でも鹿島小学校前で自分が何度も海の水がおしよせてきて溺れる夢を見たことの不思議である。それは明らかに今になると津波だったのである。

posted by 老鶯 at 19:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係

2014年06月09日

なぜ慶長津波のことが相馬藩で700人溺死としか記されなかったのか? (歴史は勝者と権力者によって記されから無視された)

 

なぜ慶長津波のことが相馬藩で700人溺死としか記されなかったのか?


(歴史は勝者と権力者によって記されから無視された)

南海老村に残る中村城天守造営にたづさわった大工の伝説
http://blog.sakura.ne.jp/pages/my/blog/article/edit/input?id=99130060


歴史というのは例えば大和王権に対して蝦夷が抵抗したことはわかっている。
では蝦夷が何者かというとほとんどわからない
ただ蝦夷は強大な大和王権に抵抗する勢力だった
それはアイヌの一部が交じっていたかもしれないし
最近では大阪辺りでナガスネヒコや物部などが政権争いに敗れ
東北に逃れて在地の勢力を従い反抗した
その中にさまさまな勢力がありカヤ(伽耶)族も交じっていたかもしれない
伽耶というとそれだけ古い渡来人であり日本に土着化していたのである


歴史が勝者の歴史としたとき、勝者の側にたって歴史は記される。
だから蝦夷は賊とされ征伐されなければならないものとして記される
それは鬼ともされるが実際はそうではない、むしろ鬼としたのは征服側である
だから蝦夷のことをいくらわかろうしとしても資料がないからわからないままである
大和王権のことはいろいろと記されても蝦夷のことは記されない


それで柳田国男はそういう権力者側、支配者側ではない民間の人たちの側にたって歴史を見る作業をしたことに功績があった
文字で記されない民間人が伝える口碑を解きあかして民間人側からの歴史を見させるようにした。
そういうことが今回の津波にもあった。

これだけ巨大な慶長津波のことが記されなかったのか?
それはやはりその時、戦国時代の終わりであり津波の被害のことなどに
復興などに財源を使えなかった、大阪の陣の出費やら江戸城の普請などに
かりだされた時期でありそういう余裕がなかった。
そして相馬藩ではまだ開拓されない原野が津波にあい被害が少なかった
とはいえ700人溺死と記されていたのだからそれだけの被害があった

ではそれは誰が死んだのかというと謎なのだけどやはり漁労民などが主に死んだのだろうただその内訳は不明である、その手がかりとして南海老村に残された伝説を引用した。

南海老という場所や中村の天守造営にたづさわった大工の伝説である。
それが何か慶長津波を示唆しているのだ。
茶銚が大きくなり転々としたというのは津波に流された様子であり垣が路をさえぎったというのは津波で流されたものかもしれない
六十六部の墓から青い光を発したというのも海の色を思わせる。
この六十六部は仏教の修行者であり津波の被害者をとむらったのかもしれない
海水で洗うとこの怪異があるというのはそのことを示唆している。
海水で遺品や死体を洗ったかもしれないからだ


そして中村の天守造営は大工にとって名誉なことなのに引き止めるものがあった。
その理由は何なのか?
それが何か自分などが探求した慶長津波のことが記されなかった無視されたことに通じている
この大工は何か呪われたようにして死んだのである。
普通だったら天守造営にたずさわったものなら代々の名誉として記される
それが南海老村の伝承では呪われたものとなっている
これは相馬藩政記に記されたのとは違い民間人側から記されたのである。

歴史に記されないくても何かそのことで民間人の間で伝説が残される
蝦夷にても大和王権側には記されないがアラハバキ神社などが残された
何かは痕跡は残される、だからこの南海老村の伝説は何か記されなかったことの
象徴的なものであり謎がここにあるかもしれない。


「天守造営より津波の被害の復興のために善次は大工は働け」

そういうことがまわりからあったが主君の命令でできなかった。
それで津波の供養をした六十六部の墓から青い光となり茶銚が転々としたとか
垣が路をさえぎったとか津波のことを生々しく思い出させるものを示した
ただ藤金沢は高い場所だから津波は来ていない
でもすぐ近くには津波が来ていて被害があった


相馬藩の主君は

「善次よ、津波より天守の造営に勤めよ、津波の被害のことは忘れよ」
「そのことはわかりますが津波の被害も甚大でありこちらでも働かねばならないのですが・・・」
「主君に逆らうのか」
「滅相もございません、ただあまりにも津波の被害が大きく仲間も死んでおりますので・・」
「それよりも天守造営こそ大事だ」
「わかりました、わかりました」
その時、相馬藩の歴史を記す筆吏が
「津波の被害のことはいかがいたしましょうか」
「まあ、人的被害は大きかったが原野が主に津波の被害にあったから米は例年のようにとれるようだ、だから700人溺死とかしるしておけ」
「700人では多くないでしょうか」
「だいたいの数でいいよ、これだけの津波だからそのくらいは記しておかないと・・」
「かしこまりました、おおせの通りにいたします」


こんな調子だったのかもしれない、ただその津波で死んだ人たちは善次にその無念がふりかかって善次は呪い殺されたともなる。
つまり700人溺死した怨念がここに残っていたのかもしれない、
あとで相馬藩で民のことを思い天守は財政的に苦しいから民のために使うため作らなかったなどと言っているが実際は天守造営を中止した。
それはその時津波の被害があり何か天守を建てるのをためらった
津波の被害者のことを恐れて天守を作らなかったのかもしれない
それがあとで相馬藩の主君は名君で民のことを思い天守は作らず民のために作ったとなったのかもしれない・・・・


いづれにしろ当時の慶長津波のことを解きあかす資料はほとんどないから
これが唯一の資料かもしれないとしたら貴重である。
ただ伝説の解釈はいろいろあるが中村城の天守を造営していた大工が南海老村にいたということは大事である。
時期的にも場所でも津波の被害と深く関連していたからである。

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2014年06月07日

南海老村に残る中村城天守造営にたづさわった大工の伝説 (これは唯一津波の伝説なのだろうか?)



南海老村に残る中村城天守造営にたづさわった大工の伝説

(これは唯一津波の伝説なのだろうか?)

藤金沢堤の傍らに塚あり、上元塚と名づく、六十六部回国上元なる者の塚という。
在昔村に匠人善次なる者あり、中村城天守造営の時日々中村にいたり造工たり。
深更に及び家に帰る。円光塚よりいず。転々として大いなること茶銚のごとし。
その光青色なり。また垣の如きもの路に横たわる。善次中刀をぬきこれを切って
通行す、この如きこと数回なりという。記者言う、狐狸の如きもの怪か。

その後善次病死して棺を出す。時に大原村二森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで
雲中に入る。宝蔵寺の僧これを聞き走り来りり七重の袈裟を雲中に投ず。
声ありて曰く、「おいか」と。

棺おく雲散じ空晴れてこれを葬るという。是の世に希有のことなり。
知らず「おいか」とは何の言なるか。
ある人いふう葬礼の諸品を海水に洗えばすなわちこの怪異ありと。



南海老に伝わる鹿島町誌に記された伝説は何なのか?
何か皆目見当もつかないような内容である。
ここで大事なのは 、中村城天守造営の時日々中村にいたり造工たり
こう記されていてこれは中村に城が移転された時天守造営にたずさわった大工だったということである
。中村の城には相馬藩の城は殿様が倹約のために民を困らせるから作らなかったとか伝えられるが天守は作られてあった。
のちの話として相馬の殿様が名君であったとか美化されて話しが作られたのである。
こういうことはよくあることである。
権力者は常にそういうことをしている。
だから歴史書も当時の支配者となった勝者となった権力者が記しているのだから
公平なものとしては記されていない、何かそこに今回の津波のことが記されていないように肝心なものが欠落している。
それは原発の安全神話が作られて政府や東電やマスコミが一体となり情報操作したのとにている。


それよりここで問題なのはこの伝説が慶長津波と関係しているのがどうかである。
南海老なら確実に津波の被害が慶長津波でもあった。
そして中村に城を移転したとき天守造営にかかわり毎日通っていたのである。


寛永18年(1641)将軍家光公は上覧に供すべしと命ぜられ、
その頃、相馬の家譜、官禄、勲功・・・・の文書はつまびらかでなく
探したが見つからなかった。

天守の梁に結びつけて置いた包物を発見して、筆史がこれをおろしてみると金の輪に九曜の紋がついた菱皮の籠があり、
中には八幡大菩薩の文字の旗、証文、雑文などが百余通が入っていた。


天守の梁と奥相馬秘鑑にでている。天守閣はあったのである。


円光塚よりいず。転々として大いなること茶銚のごとし
また垣の如きもの路に横たわる。善次中刀をぬきこれを切って
通行す、・・・・


これは茶碗のようなものがそれも大きなものが転々としたという、それは津波で流された日用品を意味しているのか?
垣とは垣根であり壁の意もあり路をかなり大きなものがさえぎっていた。
何度もそのことがしったということは長い間津波の後に残された瓦礫のうよなものであったのか?
南海老なら津波の時、そういうことはありうる。


その後善次病死して棺を出す。時に大原村二森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで
雲中に入る


死んだ善次の棺が持ち運ばれてしまった。これもなぜなのかわからない、大原村と関係あることは確かである。
それよりも


葬礼の諸品を海水に洗えばすなわちこの怪異ありと


ここで海水で洗うととありそれも葬礼とありこれはもともと津波で死んだ人たちのことにまつわる話しかもしれない、津波で死んだ人たちの遺品は海水で今回の津波でも洗われていた。
六十六部回国上元なる者の塚ということはこの人は仏教の修行者であり
もしかしたら津波の被害者を弔ったのかもしれない、その時、津波の被害者の遺品などを海水で洗ったことからこんな伝説が生れたのか?

こじつけになるかもしれないがこれは一つの津波の被害があったがそのことを訴えたが
相馬藩では戦国時代の最後の仕上げの時代でありそんなことにかまっていられなかった。つまり南海老村なら津波の被害がありそれを訴えてもいいはずである。
それができないことがこんな伝説に残ったとも推測される。

その犠牲者になったのが善次という大工だったのである。

「善次よ、中村城の天守造りに励んでいる時か、津波の被害の惨状を見ろ
こっちの方で働くべきなことはいわなくてもわかるだろう」
「そんなことを言っても殿様の命令には逆らえないんだよ、首が飛ぶよ」


南海老に住んでいた善次は慶長津波の被害をまのあたり南海老だから見ていた。
その時、中村城への天守の造営にかり出されたのだがうしろめたいものを感じていた。
それで夢にうなされていたりして怪異なことが起きた。
垣が路をさえぎるということは中村城に行くなということの例え暗示かもしれない。
中村城の天守造営をひきとめるものが何かあった。

ただ「おいか」というのがわかればいい、これもどう考えても「おいか」とは「おまえ」の意味だろう。
なぜ死んで入った棺桶が大原の方から来た黒雲にもちあげられたのか?
これもなぞだけど何かの祟りだったのか、善次という中村城天守造営にたずさわったものは何か呪われたのである。
そうではないか?中村城の天守造営にたずさわることは名誉なことであり
こんな怪異なことが起こり得ようがないのである。

これは民間で伝えたものであり相馬藩政記などには記されなかった。
六十六部の墓とは津波で死んだ人かもしれない、ともかくこの伝説を津波で解くと
それなりに辻褄があう、いや合わせているのかともなる
津波に関する伝承が全く記されていないからこれが唯一そうなのかと思った。

この伝説も何なのか本当は皆目わからない、ただ中村城の天守造営に日々たずさわっていた大工が南海老村にいたということは大事である。
その時、慶長津波が起きているからである。



垣はkakinojoii1.jpgの字である

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2014年06月06日

巨大津波は400年1000年間隔になり伝説化しやすい (相馬藩内溺死700人はなかったという説への疑問)



巨大津波は400年1000年間隔になり伝説化しやすい


(相馬藩内溺死700人はなかったという説への疑問)

●巨大津波は神話にもなり伝説にもなり謎となる

関東南部の遺跡分布を観てみよう。海抜20m以下の地域に、BC1世紀以前の遺跡が何一つない。東京湾東部には、100を超える貝塚があるが、住居跡などの遺跡は皆無。その原因は大津波だろう。古事記上巻は、この事実を書き記している。東日本大震災も、この歴史的教訓を学んでいれば軽減できた…。

BC1世紀、関東地域を大津波が襲った。古事記は、その歴史的事実を「國稚如浮脂而久羅下那洲多陀用幣流之時」と記す。栄えていた上代日本の文明は一夜にして壊滅。その復興に立ち上がったのが、宇摩志阿斯訶備比古遲と天之常立だった。数代後、伊耶那岐と伊耶那美が国土の「修理固成」を決断する。
http://www.geocities.jp/waikoku/twittera046.html

これなどは津波が日本の国造りの起源にしている。古事記に残された記述は津波の証拠だったとなる。
なぜこういうことが今語られるのか?それは津波があまりにも想像を絶するものだったからである。
こうした津波が400年に一回とか起きないとするとそれは経験した人は死んでいるのだからもう語り継ぐ人すらいなくなる。
この辺で老人は「ここに津波が来た話しは聞いていねえ」と早く逃げろと息子が言っても聞かずに死んだ人が結構いる。
400年前に起きた津波など誰も生々しく語り得ようがない。
そして相馬藩内では伝説すらわずかに残るだけでありそれに注目したのは
今回の津波があったからであれそれまではなんら注目していない。
「津波なんかこの辺ではこねえ」と老人が頑固になり死んだことでもわかる。


相馬藩内で700人溺死と相馬藩政記に記されているのが唯一の公式な記録である。
それすらその700人がどういう人たちなのかどんな暮らしをしていたのかも皆目わからない。
ではそもそもどうして700人と割り出したのだろうか?
700人死んだと記すだけでもそれなりの根拠があったはずである。
だいだいの人数にしてもどうして700人となったのだろうかとなる
それで津波原発を調査している人が


700人死んだというのは信用できない、慶長津波の襲った所には人は住んでいなかった


その記述まで否定する仮設を出してきた、それだけ津波のことが皆目資料がないからそうまでなる
でも烏崎には遠藤氏という人が津波の前に南北朝の時から住んでいた。
真野中館は霊山落城の時逃れた武士がたどりついた場所だった。その時から住む人があり烏崎に住んだの
その流れをくむものであり遠藤氏の名前がある。
そして八竜神社は川子にもあり小島田にもあり慶長津波の前からあった。
小島田の方が古いというのも不思議である。
だから烏崎のぎりぎりで残った八竜神社は慶長津波の前からあった。
あそこに物見丘とかあり相馬藩の番所もあり海を見張る場所だった。


●慶長津波の前にも縄文時代以来の生活の継続があった


調査員の報告では岩崎氏の本で八竜神社はもともと縄文人の遺跡のある上にあるのが多いというのを統計的に割り出している。
つまり八竜神社は多くその由来も古く縄文時代までもさかのぼるのかともなる。
八竜神社が今回の津波で被害がまねがれたのはそうして古い神社だから津波の来ない高台とか海岸より奥に祭られていた。
小島田にしても津波の被害があったが全壊とかの被害がまねがれている。
だから小島田は津波からまねがれるぎりぎりの地点にあったと今は見る。
そうでなければもっと海側だったら全滅していたからである。
南右田も北右田も江戸時代からあってもほとんど全滅して人は住めなくなったからだ。
ということは小島田も江戸時代より前より人は住んでいたとなる。


だから調査員が言っている700人溺死はなかったという説が生れた根拠は
そういうことではなく津波の被害にあった地域はまだ田としては開拓されていない
原野だったということは言える。
原野に津波が来ても別に被害がないから報告されることもないのである。

その証拠が慶長前からあった「田中城」である。
その回りは湿地帯であったと記録にある。
あそこが湿地帯の中にあったということはその前の広大な地域はまだ干拓されていない、田とはなっていない今のような原野になっていた。


貞治5年(1366年)桑折五郎元家は伊達郡桑折より真野郷に移り中館を居城として真野五郎と名乗った。その後桑折治部少輔忠家の時に田中城に移り以後代々桑折氏の居城となった。


天文11年(1542年)伊達稙宗と伊達晴宗による天文の乱で、稙宗方にあった黒木城主黒木弾正が田中城を攻めた時、城主桑折久家は相馬顕胤に従って掛田の陣中にいたが、顕胤の命で急ぎ田中城に戻り防戦に努めた。一度は退けたものの再び大軍を率いて攻めてきた黒木弾正は城下で戦い策を持って退いたが、これを追った桑折父子は伏兵にあって討死した。(七橋の戦い)

天正年間(1573年〜1592年)頃、相馬義胤の弟相馬郷胤が田中城代となり、田中忠次郎郷胤と称したが、慶長7年(1602年)廃城となった。

tanakajyou111.jpg
田中城のすぐ近くまで津波は来ていた

千倉庄田中の城へ黒木武石東郷の面々押し寄せたり、田中の城三方は大
淵囲み古松、老柏、繁茂して容易に近づきかたければ冬より夏にいたる。

此の城平野の田畑となりしは近き世、石田治部少輔三成堀久太郎大崎の仕置きに下りしとき数日田中に逗留するとき大樹を倒し堀を埋め立て平地となす、顕胤は掛田帰陣も近ければ不日にもに田中を責め落とさんと評議せり(奥相茶話記)

天正18(1590)年2月、父・相馬義胤は関白豊臣秀吉から小田原へ参陣するよう命じられたものの、5月下旬に小田原へ着陣という失態を演じてしまった。このとき、石田三成の周旋によって特に咎めはなく済み、かえって秀吉の御前に招かれて、懇ろな上意を賜った。こののち、相馬義胤と石田三成と入魂になる。12月7日、秀吉から行方・宇多・標葉三郡四万八千七百石の朱印状を拝領した。


 天正19(1591)年、義胤は妻子を連れて上洛し、北野千本に屋敷を拝領し、上洛時の賄料として近江国大森村五百石が宛がわれた

ただし隠居・義胤は中村には移らずに、慶長17(1612)年4月、標葉郡泉田村に移り住み、隠居料として泉田・高瀬・棚塩・室原村から三千石が給された。
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen1/hanshu1.htm#tositane


これは正式に記録されたものだから信頼できる。そこに棚塩とありここは津波で被害があった。
海に接していて危険な場所だった。その棚塩をふくめた地域から隠居料が支払われた。
しかし棚塩は慶長津波の被害があった。慶長16(16111)が慶長津波だった。
なぜその棚塩からまで隠居料として払わされたものがあったのか?
相馬藩の武士は慶長津波に関しては何ら記していないからわからないのだ。
慶長津波の前は四万八千七百石でり六万石になるのはそのあとであり足りない石高はほとんど慶長津波の後の開拓によるものだった。
だから慶長津波でもその時は今回のように田んぼが津波の被害にあったということは少なかった。
それは伊達藩とは違っていた大きな相違かもしれない。
では700人死んだというのは何故なのだろうか?
その人たちはどういう人たちなのか、確かに人は死んだのである。


●田畑をもっていない漁労民が死んだ?


その記述を疑う根拠は何なのか、自分の考えでは700人は確かに死んだ
その人たちは田畑をもっている農民ではない、純粋な漁労民だった。
百姓の意味は百の仕事を持つ人の意であり米を作る人の意ではない
農民の前進は必ずしも米を作っるだけの人ではない
暮らしは海にもあり海では魚も貝もとれていたから縄文時代から暮らしがあったのである弥生時代から稲作がはじめられたにしても延々と以前として縄文時代の漁労生活は海岸沿いにあったのである。
だから人は住んでいた。そうでなければ津波の一年後に棚塩が隠居料を支払う土地にはなりえないのである。
津波の被害があった後にもすでに人が住んでいたのである。


これも一つの謎だけど田んぼや畑だったら津波の被害にあったらその後長い間十年以上も使い物にならなくなる。しかし海が別である。一年後でも別に粗末な小屋を建てても魚もとれるし貝だって多少はとれるようになっていたかもしれない、だからこそそこには人が住み始めていたのである。
三陸の津波でも早い時期からあれだけの被害でも人は海近くに住居を構えたのはそこが便利であり海の幸をとりやすい場所だからもどってきたのである。
今の水道が使えない、電気が使えない、道が使えない・・・などインフラなど必要ない
もともと漁師など掘っ立て小屋に住んでいたのである。
だから津波の後でも簡単にそういう家は建てられるのである。
津波の被害にあっても放射能汚染とは違うしまず魚や貝を食べないとその当時は生きていけない、補償金などもらえない物資も入ってこないからである。


おそらく700人死んだとあるがその人たちは農民ではない、漁労民だったのである。
その漁労民は年貢を収める農民と違って軽く扱われていた。
つまりすでに慶長津波の前に四万八千七百石あったからそこから年貢が収められていて藩の財政は成り立っていた。
漁労民はその時そうした藩の財政に寄与するものがなかったのである。
だから相馬藩にとって700人溺死でもさして財政的には打撃ではなかった。
伊達藩では広大な田が津波で大損害を受けたから立ち直るために開拓しなければならなかった。相馬藩ではもともと原野でありそうした田の被害はなかったのである。
ただ700人の貧しい漁労民が死んだのでありそれで無視されたのである。


義胤は妻子を連れて上洛し、北野千本に屋敷を拝領し


この北野とあるが相馬市の松川浦近くの梅田川そいの程田村に北野神社がありその時その北野からもたらされた神社かもしれない。
そして新田村まで津波の被害があり北野神社までは津波は来ていない
でもその時もその前はまだ開拓されず原野だった。
つまり神社古ければ古いほど原野のある所には建てないから津波をまねがれたとなる。

津波というのは何かここまで海だったのだと意識するようになった。
海はこの辺では遠いと思っていたが吹いて来る風にしても今まではあまり感じなかった
でも町近くでもこの風は海から吹いてくると感じる
実際に海が見えるから当然そうなるし海の水が押し寄せてきたのだから当然だとなる
それで3キロ離れて被害にあった家の人は夜に海の方を怖がっているのもわかる。


涼し津波の後に海見える


その海の風は3キロ4キロ離れても海から直接吹いてくる風と感じるのである。


●人間の営みは海辺でも延々と細々でも続いていた


会田綱雄氏の名作「伝説」が想起されます。


   湖から

   蟹が這いあがってくると
   わたくしたちはそれを縄にくくりつけ
   山をこえて
   市場の
   石ころだらけの道に立つ
   蟹を食うひともあるのだ
    (略)
   蟹は銭になり
   わたくしたちはひとにぎりの米と塩を買い
   山をこえて
   湖のほとりにかえる
   ここは
   草も枯れ
   風はつめたく
   わたくしたちの小屋は灯をともさぬ
    (略)
   わたくしたちのちちははも
   わたくしたちのように
   この湖の蟹をとらえ
   あの山をこえ
   ひとにぎりの米と塩をもちかえり
   わたくしたちのために
   熱いお粥をたいてくれたのだった

   わたくしたちはやがてまた
   わたくしたちのちちははのように
   痩せほそったちいさなからだを
   かるく
   かるく
   湖にすてにゆくだろう
   そしてわたくしたちのぬけがらを
   蟹はあとかたもなく食いつくすだろう
   むかし
   わたくしたちのちちははのぬけがらを
   あとかたもなく食いつくしたように
   それはわたくしたちのねがいである

これは山の方からの視点だけど海側からもこういうことがあったのではないか?
つまり津波の跡に漁師の生活も魚を売り米や味噌とかを買っていたのかもしれない
その人たちは米を作っていないからそうなった。
ただ味噌には塩が必要だから塩を作って売っていた。
米を作っていない漁労民がいてその人たちは津波にのまれ記録も残されなかった
ただそういう人たちがどれこだけいたのか?700人死んだというのは多すぎるということもある。その辺は謎にしても海辺だけで暮らす人々がいたことはいたのである。
おそらくその数は大雑把なものでありそんなに死んでいないかもしれない
ただおよそものとして記したのかもしれない、300人程度かもしれない
その実体は全く資料がないからわからないのである


その人たちは津波にのまれあとは海から這い上がってきた蟹によってその死体が食われたかもしれない
それもまた無情、無常なのだけどそれは自然の中への大きな流転の現象かもしれない
人間は一時神から糧を与えられてやがてまた死んで自然に還るということを考えれば
それまた自然な死だったともなる
人間の営みにしてもそんなに永続するものはない、自然から見ればはかなく自然の力には及ばないから抵抗しても無駄であり自然の流転に従い津波が来たあとにも同じような漁労民の営みがあったともなる。
三陸では明治でも二万人とか死んでいても同じように便利な海近くに住むようになっていたのである。
そこで魚をとり貝をとりしなければ生きていけないからそうなった。
補償金ももらえないし何か援助してくれるものもないし他に食べていける手段がないからそうなった。

今はいろいろあるから贅沢になりもう住んでいられないと都会に住み簡単に離れてゆく

中世とかの死生観も今とは全然違っている。
生きている地獄であり死ぬのが一番いい、極楽だという苦しいものだった。
だから念仏でも唱えて死ぬの往生するのがいいとなった。死体は路上に転がり橋のようにつながっていたとか悲惨だったのである。
医者にかかることもできないから念仏唱えて死ぬ他なかったのである。
その死生観もまた時代にあったものでありそれまた生けるものの無常だったのである。
これからも津波に絶対に負けない防波堤を作るとか自然に逆らう人間の技(わざ)はかえって災いをもたらす、むしろ自然の力にまかす、自然の流転のままに生きることもまた
人間にとっては必要とも言える。

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2014年06月02日

相馬藩内の慶長津波が伝えられなかった謎? (結局伊達藩の記録から相馬藩のことを推測するほかない)



相馬藩内の慶長津波が伝えられなかった謎?

(結局伊達藩の記録から相馬藩のことを推測するほかない)

相馬藩世紀、第一御年譜(利胤)の慶長16年10月28日条には、「海辺生波にて相馬領の者700人溺死」

正式な文書としてはこの一行が唯一だと言ってもいい、浪江の同慶寺に「同年一〇月廿八日、奥州筋生波(津波)上波」と記されています。津波記したものだとするは文書で残っているのは他にないだろう。津波が一般化するのは慶長津波以後になるがこの表記はまだ一般化されるまえだからこの表現になった。津波にはいろいろな表現がありまだ一定していなかった。慶長津波以後一定したのである。
同慶寺は南北朝時代の記録もあり古いから残ってていも不思議ではない。

そしてこの津波が襲って溺死した人が700人とあるがその内容も全くわからないのである。
その後に津波にどう対処したのかもわからない、ほとんど津波に関することが浮かんでこないのである。
例えば700人溺死とあれば当時にすれば今回の津波被害に匹敵する大被害だったのである。
他ではそうした資料が残っているが相馬藩内には残っていないのである。
だからなぜこうした歴史の空白が生じたのかということがかえって疑問になり知りたいとなるのも不思議である。

つまりそもそも700人溺死とあるがその人たちはどういう暮らしをしていたのか、
漁業を主にしていた人たちなのか、田畑を作っていた人たちだったのかそうした死んだ人がどういう人たちだったのかも皆目見当もつかないのである。
ただ海辺に住んでいた人たちだということは見当はつく、でも海辺といっても
その時漁民だけではない農耕していた人達がいたかもしれないし生業が何かも全くわからなのである
結局だから伊達藩の資料を基にして相馬藩内の津波でも想像するほか手がないのである。
物産に鰻、百貫、鮭八十尾、鰯四百駄と記される漁業中心の村だったと
次の資料にあるごとく純粋に漁村が成り立っていた。ここで鰻(うなぎ)百貫というのが興味深い、
なぜなら屋形の老人から父親が明治のとき、川俣町まで天秤棒かついで鰻を売りに行っていたというのだた。
そんなところまで天秤棒かついで行けたのかということが信じられないのである。
ただ鰻が結構貴重な食料であった。海辺では鰻がとれる。天然の牡蠣もとれる。
和田村の老人は松川浦では鰻でも貝でも浦でとれくものを食べていたという。
放射能など関係ないと言っていた。85にもなっていたらそうなる。鰻は自分の父親が田んぼの畦で
ミミスを餌にして穴にさしこんでとっていた。その待つ時間が長いのである。
当時にすれば鰻は栄養価も高いし売れるということもあった。
当時の生活というのも様々な観点からイメージしてゆく作業は必要である。

(家蔵)によると寛永九年(1632)に開発がはじまり、
寛文三年(1663)二木村から分離する。正保二〜三年(1645〜6)頃
の「正保郷帳」に田五貫五十五文・畑壱貫七百三十文とあり、水損と注される。
「名取郡地誌(=皇国地誌)」によると明治
十年(1878)頃の戸数は五十三、男二百六・女百八十五、馬三十一で、舟
が五十七艘あった。物産に鰻、百貫、鮭八十尾、鰯四百駄と記される漁業中心の
村だった。 (平凡社「宮城県の地名」参照)
(六郷の歴史)

ここの六郷では相馬藩の侍の家臣団が移住して中野村まで形成していた。
伊達藩では津波の後にも大規模な開拓が行われたし塩田作りも行われた。
それだけのことができたのは伊達政宗など家臣団が陣頭指揮で復興事業の開拓でも塩作りでもかかわっていた。
そういう藩全体が津波の復興事業にかかわりかえって前より豊かになっていった。
でも実際の津波の被害状況は今回の津波のように凄惨なものだったのであり
そのために村を捨てた人もかなりいた。
今回の津波でももう住めないとか復興自体あきらめた人もいた。
最も被害の大きかった村が壊滅して消失した所には伝説が残らないという時、みんな死んでしまい語る人がいないということだった。
現実に津波で壊滅して村ごとなくなったこの辺では磯部や海老や烏崎村の状態がそうだった。
なんにもない、なんにもなくなってしまう、村があったということすら信じられなくなる。そのように全く消えてしまった町や村も過去にあったのだ。
草戸千軒とかそうであり最近発掘してここに町があったということが実証された。
多賀城辺りにも津波でそういう市場を成していた町が消失して不明になっていた。
相馬藩でも記録がないということはそういうふうに村ごと消失してしまって語るものものもなくなっていたからかもしれない、
つまりそれほど津波の被害は恐ろしいものだったということである。その様相は三年たっても何ら変わりないのである。

慶長津波の後の復興のために中村に城を移転したというのはビスカイノの報告が残っているのでありえない。
ビスカイノが城を訪ねた時、城が破壊されて工事中だったと報告されていた。
つまり城はすでに津波が来る前から建設されていた。
慶長地震でその工事中の城が破壊されていたのである。
南海老村に中村天守造営にたずさわった大工がいたと鹿島町誌に記されている。
その怪異の伝説は何を示しているのか?津波のことも関係しているのか
なぜならその時南海老村にも津波が襲っているからである。
この記述からは津波の被害のことより中村城の天守造営が優先されていた。
津波のことに関しても鹿島町誌には何の記述もないのである。

何か相馬藩は家臣団でも積極的に津波の復興のための開拓などにかかわった記録もない、
そして不思議なのは中野村に居住していた藩士の家臣団が六郷に移住して津波の後の開拓に携わっていたのである。
普通だったら相馬の侍の家臣団が率先して津波の後の復興のために開拓に入っていてもいいはずである。
伊達藩ではそうしなければとても復興の開拓ができる状態ではなかった。
相馬藩内でも同じなのに伊達藩へ移住してそこで開拓に従事したことが解せないのである。
このことが何か津波の後の相馬藩の特殊な事情があった。
だから相馬藩内の津波に関しては知る資料がない、伊達藩内から相馬藩のことを推測するほかないのである。
塩田の開発でも伊達藩が先でありそのあとに相馬藩内で行われた。

ただ不思議なのは津波の跡は所有者がいなくなり誰の土地だか不明になり新規に参入しやすい状態になっていた。
それで寛永九年(1632)に開発がはじまり、寛文三年(1663)二木村から分離する。
その頃は田畑なくしては生活が成り立たないから常に土地を求めていた。
分家するにも土地を与えないとできなかった。すると誰の土地でもなくなった津波の跡は格好の開拓地になったということもある。
だから現代の考え方とは全然違っている。今だったら誰もすでに農業などやりたくない、
津波の前からも農業は金にならないと跡継ぎがいないとか問題だった。
その当時は農業中心だから土地が最も大事なものだったのである。
だから津波の跡の誰の所有地でない土地は貴重だったとなる。
今はとても農地としして利用するなど考えないだろう。

津波からの復興というとき慶長津波のことは現代では時代が違いすぎて同じようにはできない、
観光などというとまた反発されるが漁業とか農業とかの側面ではなく
現代的な復興となるとそれも一つの手であり他にも現代的価値観に基づかないと
復興はむずかしくなるだろう。ただこれだけの変化があるとき、被害でうちのめされたにしても
新しいものを作り安いということはありうる。
何にもなくなったのだから全く新しい発想のものが作り安いことなのである。
それが何なのかはそれぞれの立場によって違ってくる。
ソーラパネルがはやっているが何か自然景観を壊すので自分では嫌なのである。
お花畑にしたらいいとかなるとこれまたお前の頭はもともとお花畑なんだよとなる。
でも何か新しい発想で新しいもの作り出さなければ復興がないことは確かなのである。
伊達藩で津波の跡が無所有の土地となって新規の人が参入しやすくなったという時、
漁業でも農業でも既得権で外部から参入しにくくなっているがそういう古いものが津波で問われる、
なぜなら何もなくなったとき、新しいものが入り安いからそうなる
posted by 老鶯 at 22:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係

2014年06月01日

慶長奥州地震津波と復興」 蝦名裕一を読む (慶長津波の後に伊達藩から相馬藩へ塩作りが伝播された)


「慶長奥州地震津波と復興」 蝦名裕一を読む

(慶長津波の後に伊達藩から相馬藩へ塩作りが伝播された)

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北屋形村 釜前 東釜前


八沢浦 小魚を漁して浦舟20艘、13漁船、七荷運舟 浦辺に塩場、釜屋あり 村人塩を焼く 

南海老村


常願壇


この地を常願壇という、往時常願なるも者八沢塩場を開く、故に常願明神と崇め塩釜7社の内に加えこれを祭る


北海老村


地勢小山多し東方平地北方瀬浦塩場多し


塩入 釜舟戸


下海老村 高屋釜


塩崎村

北の山側に塩会屋あり、今あやまりて鳥屋前という、鳥屋前より海を隔てる一里ただし上古のことなり


相馬中村藩における塩田開発


慶長津波から程なくして製塩事業が開始されたという話しがあります
松川浦の辺りの和田村に村社塩釜神社があります

江戸時代に記された塩釜神社の縁起によれば元和元年に諸国を徘徊している堀内玄番という老人が訪れました。
この人は千葉県の行徳の出身で和田村にとどまっているうちこの村が故郷の行徳ににているのでよい塩場になるだろうと見込んで村の人に製塩法を伝えました
これにより和田村には相馬藩領内でも最上級の塩場が完成しこの場所を玄番壇という地名がつけられました。


塩害の土地で塩の生産


塩害で農業が困難になった地域に塩の生産をはじめる
川村孫兵衛が製塩事業を伝えた場所はその地名に(釜)の字が用いられていた

仙台藩が安永年間に作成した地誌「安永風土記」の中の「代数有之御百姓書出」に亘理郡高屋村鳥屋崎浜の塩田の歴史が記されています

伊藤三郎左衛門という孫兵衛と同じく長州からやってきた浪人でした。
伊藤三郎左衛門元和6年(1620)8月に仙台藩の重臣である佐々若狭と川村孫兵衛に呼び出され塩田に適する場所を見立てるように命じられました


この本は慶長津波のあとに水田として利用できなくなった土地を塩田にして復興したという趣旨である。
そういえば塩田として活用すれば一番適していたことになる
つまり塩作り塩田の歴史から慶長津波のことを解明してゆくことに焦点をあてた
塩田の歴史も失われたものが多くわかりにくい、わずかに地名などに痕跡を残している

この本を読んで塩田で塩作りで津波からの復興をしたというとき、相馬藩でも塩田作りに着手した。和田村は松川浦の奥まった所であり波静かであり塩田には最適だったのである。

そして相馬中村藩でも塩田作りが伊達藩よりは遅れていても和田村ではじめられた。
のちに塩は相馬藩では原釜で作られ重要な産業となり飯館村まで塩の道が形成された。
飯樋には塩の役所があり60人が住んでいたとか塩は相馬藩にとって大きな役割を果たした。
当時の産業は木材とか塩とかでありそのために争いが起きたことでもわかる。
入会権の争いであった。当時では木材は石油に匹敵しているし塩の価値も高かった。
アフリカの砂漠では塩と黄金がとりひきされていたとかそれだけ貴重なものだったのである。

不思議なのは伊達藩の塩田開発したところの地名と
北の山側に塩会屋あり、今あやまりて鳥屋前という、(塩崎村)

亘理郡高屋村鳥屋崎浜とあるのもなぜだろうか?
それから高屋村とあり高屋釜と下海老村にある。

相馬藩と伊達藩は戦国時代は争ったけど戦国時代が終わると平和な時代になり交流が深まった。
だから相馬藩内には伊達藩から来た神が多い、小牛田神は山神でありこれが一番多い。
その他に信仰に類するものも多い。館腰という地名があったがこれも信仰として相馬藩内にも伝わっていたのである。
例えば相馬中村城の大手門の門の瓦は滴水瓦であり朝鮮系統の技術の伝播であり伊達政宗が朝鮮出兵で伝えたものらしい。
伊達藩から入ってくる技術があり伊達藩との関係が相馬藩では深いのである。
伊達と相馬の境のさくら、花は相馬に実は伊達に」というのはまさにそうである。

だから慶長津波の後に塩田開発が相馬藩でも行われたという時、それは伊達藩が先であり伊達藩の人が技術を伝えた。
それで同じような地名がつけられた。


慶長津波のすぐあとに相馬藩士が伊達藩に移住したのか?
中野村でありその時城もできていた。
それなのになぜわざわざ伊達藩に津波の跡に移住する必要があったのか?
これも塩田開発の技術習得のために移住させたのかもしれない、その後相馬藩でも松川浦の和田をはじめとして塩田開発が行われた。
ただ藻塩焼くとか原始的な状態であったことは推測できるが塩田となるとこれはかなり
高度な技術だからどのくらいの規模で行われたかはわからない。
北屋形、海老村にあり塩崎村にもあったかもしれない、なぜなら塩崎村まで津波が来ていて塩害に苦しんでいた。
すると塩田にしたのかということもありうる。
ただその資料はないのでわからないのである。
塩田の歴史もなかなかわかりにくいのだ。


八沢浦 小魚を漁して浦舟20艘、13漁船、七荷運舟 浦辺に塩場、釜屋あり 村人塩を焼く    

八沢浦というのも謎である。ここは漁業だけではなく塩を焼いていた。ただ塩を焼くとなると藻塩焼くであり原始的な製法になる。
ただ塩場となると塩田のような小規模のものがあったのかもしれない。
自分が一番気にかかっているのは七荷運舟があったということである。
これは明らかに外洋に出るそれなりの大型の船だったのか?
七つの種類の荷物を運ぶとなるとその七荷は何だったのか?
塩が運ばれたのか?何を積み出したのかも謎である。
たた船は出入りしていたことは確かであり八沢浦は深い入江であり港に適していたのである。

古歌として八沢浦八景が残っているけど都の人たちは八沢浦に船で入ってきたのかということである。
もしそうだとすると歌の解釈もかなり違ってくる。
その歌もいつの時代かわからないけど八沢浦は明らかに港であり船の出入りがあり
現実に大型の船も出入りしていた。
また松川浦には名取の船乗りが難破したという名前を記した碑が貝殻地蔵にあった。
海の交流はなかなかわかりにくいが今回の津波は相馬から伊達藩内から岩手県まで海を意識させられたのである。


もしおやく海女の苫屋を霧と見て滝の沢辺に落つるかりがね
高瀬さす八沢が浦の夜の雨に波のうきねを明かしかねつつ
磯桜八沢が浦の夕浪に色をみだせる雪の遠山
塩釜の浦浪遠くてる月の影もへだてぬ秋の夜すがら


藻塩焼くとなれば原始的な塩を焼く風景である。ただ塩場があったとなると塩田の小規模なものがあった。

高瀬さす八沢が浦の夜の雨に波のうきねを明かしかねつつ

この歌は船旅として八沢浦によったとしたらこういう感覚になるだろう。
波にゆられるて波の浮寝ということは船で寝ていたからそうなった。
船で八沢浦に来たということはこの歌の読み方が違ってくるのだ。
だから八沢浦が元の美しい入江にもどったというときただ想像ではなく現実としての
八沢浦が再現されたから驚きだったのである。

 

参考年号表ー元号の最後の年を明記

1591 大正
1595 文禄
1614 慶長 1611  慶長津波
1623 元和
1643 寛永
1647 正保
1651 慶安
1654 承応
1657 明暦
1659 万治
1672 寛文
1680 延宝
1683 天和
1687 貞享
1703 元禄
1710 宝永
1715 正徳
1735 享保
1740 元文
1743 寛保
1747 延享
1750 寛延
1763 宝暦
1771 明和
1780 安永
1787 天明 
1800 寛政
1803 享和
1817 文化
1829 文政
1843 天保
1847 弘化
1853 嘉永
1859 安政
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2014年05月30日

地元に根ざした土着的メデアの必要性 (南相馬市の博物館に東北大の学者が津波のことを警告していた)


地元に根ざした土着的メデアの必要性

(南相馬市の博物館に東北大の学者が津波のことを警告していた)

すでに10カ月もいる地元の津波のことを主に調査研究している人が
南相馬市の博物館にも津波のことを最新の研究から警告しにきていたという。
でもとりあわなかったという。

自分も前に時事問題の深層で松川浦からかなり奥まで津波が来ていて
その砂が発見されたということを書いた。
ボーリング調査でそのことがわかってきていたのである。
それは宮城県でもそうであり実際は科学的調査は進んでいた。
その実績をふまえ東電にも貞観津波のことを警告していたのである。
それを東電では全くとりあわなかった
南相馬市の博物館に来て警告してもとりあわなかった。
ただ一応南相馬市では津波に備えよと広報で出してはいた


ではなぜ南相馬市博物館でとりあなかったのか?
それは津波は郷土史と関係ないと思っていたのかもしれない
野馬追いのことなどが主要なテーマであり
貞観津波のことを言われてもなんのこととなったのだろう。
南相馬市は原発に実際に勤めていた人は思った以上に多かった
そうならば原発にもっと関心があっても良かったはずである。
でも意外と関心がなかった
ただ小高にできるとなると関心がでてきたろう。
それも実際に小高にすでに東北電力で原発が建てられることが決まり
工事がはじまるところだったのである。
それも原町や鹿島では知らない人も多かった。
自分も知らなかったし原発の話しは聞いても関心がなかった
30キロ離れているということで関心がもてなかった


でも相馬藩となると原発が建った双葉地域も相馬藩内だった。
郷土史という観点からすると郷土史的に関心をもつべきだった
郷土史というと狭い範囲のものだと思っているが
実際は郷土史は自然史の段階からはじまるからまず広範囲な知識が要求される
だから郷土史といっても一人の手に負えるものではない広範囲な研究分野なのである
郷土史など狭い範囲だから調べ尽くされて新しいものはないだろうと思っている
ところが実際は灯台下暗しでわからないのである。

最近すぐ近くの神社に「天明」と刻まれた碑があった
そこは子供の頃遊んだ神社である。
そこに天明の碑があることを知らなかった
天明というと大飢饉があり相馬藩が疲弊してどん底に陥った時だったのである。
するとこの辺もその被害がありその碑が建てられて天明と刻まれたのかとなる
町内だから新しい地域だと思っていたのである。

このように人間は最も身近な所が意外と知らないのである。
鹿島御子神社のある脇の墓地にも天保の碑があったが
天明はそれより古いという驚きなのである。

郷土史というときそれはトータルな学問でありそれは別に過去だけではない
過去から現代に通じるものであり歴史から今を考察するのである。
人間は過去を知らなければ現在をしりえないのである。
ある人の一生でも過去がどうだったのか知らなければしりえようがないだろう。
だから津波のことがこの辺では記録もほとんどなく忘れられてしまっていた。
そのことが今回のような大被害になった
磯部や海老や烏崎など見れはわかる、壊滅して土台しか残っていない
そしてなぜあんな危険なところに密集して住んでいたのかと盛んに言われるようになった
それは原初の自然の状態から歴史を還りみないとわからないのである。


もし東北大の学者が東電でも警告してそして南相馬市の博物館にもきて津波のことを警告していた。
そういうことがあったのかと真面目に答えて郷土史をふりかえれば津波の対策もでてきたし
原発をかかえているのから余計に関心をもつべきだったのである
そういう歴史がほとんど相馬藩では記されていないし語り継ぐこともないから
今回の大被害になったともいえる
ただ比較的記録が残っていた宮城県でもそうだったからいちがいには言えない

科学者が言うには千年前のことを言ったりすると笑われるという。
予言者のようになり誰も信じないという。
仙台の海側に住宅地として広がった所は不動産屋に津波があったと警告しただけで
学者に土地が安くなるからそんな警告するなと脅されたということでもわかる

宮城県では伊達藩では慶長津波の被害のことは比較的記されて語り継がれていてもそうだった
ただ女川原発はやはり百年前にも三陸で大被害があったから危機感が違っていて高くしてぎりぎりで助かったのである。
相馬藩では津波のことはほとんど記されず伝えられなかった
それで双葉の原発にしても危機感が地元の人でもなかったのである。

要するに地元の人の危機感のなさが危険な原発を容認した
女川のように原発を建てるにしても安全性を見ていない
金さえもらえればいい、安全だとあれほど言っているのだから安全だ
それより金なんだよとなっていた

そういうのを警告するのはメデアの役目である
でも福島県のメデアは新聞でも雑誌でも原発から金をもらっているからしない
地元だからもっと地元メデアとしての使命があったが成されなかった
なぜそうなるかというと新聞でも雑誌でも金がかかりすぎるのである
新聞は毎日だけど雑誌なんか一カ月に一回しか出していない
するとどうして給料が支払われるのだろうとなる
それは企業とかからの宣伝費とかになる

すると東電の宣伝費だったらそれだけ経営が成り立つとなり
原発の危険性などどうでもいい金が先だ、経営が先だとなってしまうのである。
それで福島民報でも聖教新聞を刷って経営が成り立つような状態である
つまりメデアも経営的には弱い立場だから権力の笠下につくだけである。
それが象徴的だったのは東電で朝日新聞でもなんでもマスコミの幹部を
中国に招待していたとき原発事故が起きたのである。
何かこれも象徴的なことだったと思う。


マスコミでもそうだがメデアは自立していない、その経営は宣伝費でありそれは大会社のいいなりになるということになる。
すると地元のことでも何か企業のことでも批判できないのである。
だからメデアはメデウムであり中間というとき片寄らない報道が大事なのである。
それがマスコミにも地元メデアでもできないのである。
それは例えば地元でも漁業組合を批判することはできなかった

今になると漁業組合は事故前も事故後も破格の補償金を東電からもらっていたことがわかった。
でも地元のメデアで漁業組合のことを批判できたかというとできない
今でもできない、民友では汚染水問題で漁業組合で「苦渋の決断」をしたと
社説で書いている。これにしてもおかしいのである。
一旦どんなものでもそれが団体化して組織化するとタブー化して誰も批判できなくなる。
必ず抗議が団体から来るからできなくなる
そうなると批判されないからそうした組織団体は増長してゆき
今回のようにな大災害とか事故で明るみに出されるのである。
それは韓国のフェーリー沈没事故でも同じだったのである。
カルト宗教団体というのもいかに危険なものになっているからわかる
必ずそうしたものは増長してとめるものがなくなりついには巨悪となり
それを暴いたのは人間ではない津波であり神の力だったともなる


いづれにしろ民主主義ではメデアの報道のもつ役割は大きい。
知らされなければわかりえようがないし危険なものでもそれを暴くこともできない
政府ー東電ーマスコミが結託したとき、その隠された真実を暴くことはできなくなる
地元のメデアはマスコミとも違って地元密着型にならねばならない
郷土史でもやはり自然史から古代史から災害史から様々な角度から郷土のことを検討するべきなのである。
インターネットで発信することが無料なのだから自分のプログもそうしたメデアの一つとして多少の力を発揮するようになる。
そういうことはこれからのメデアでは必要である

福島県でも広いから福島県のメデアだけではないさらにその土地に根ざしたメデアが必要なのである。
それは企業の宣伝費とかで成り立つようでは地元全体のためにはならない

だから「標葉郷」が浪江のもともとの名でありそれは禁断の地だったのである。
こういうことも何か不吉だとして原発を建てないとするものも必ずしも非科学的だともならない、
わずかに残っていた伝説もそうだった
郷土史とは好事家のものではなく総合的なものとして現代に通じたものであり
そういうメデアは相馬藩を基にしてもつべきだったのである
福島県だと広すぎるからかえって原発のことに危機感をもつことはできなかった
中通りまで被害があるとは思いもよらなかったのである。



時事問題深層2005


スマトラ大津波の恐怖(陸奥の古代にも巨大津波の記録)


陸奥国府を襲った貞観年津波(じょうがん)

 3代実録(日本紀略、類聚国史171)の貞観11年5月26日(西暦869年7月13日)の記録に、 次の注目すべき災害の発生が記されています。「陸奥国地大震動。流光如晝隠映。 頃之。人民叫呼。伏不能起。或屋仆壓死。或地裂埋殪。馬牛駭奔。或相昇踏。 城郭倉庫。門櫓墻壁。頽落顛覆。不知其数。海嘯哮吼。聲似雷霆。驚濤涌潮。 泝徊漲長。忽至城下。去海数千百里。浩々不辧其涯俟矣。原野道路。惣為滄溟。 乗船不湟。登山難及。溺死者千許。資産苗稼。殆無孑遺焉。」

 内容は、光を伴った鳴動と共に大地震が起き、 次いで押し寄せた津波は平野の奥深くまで侵入して陸奥国府の城下まで達し、 1000名を越す犠牲者が出た、と解読されます。


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この期待を持って発掘を試みたところ、厚さ数pの砂の層が仙台平野の広範囲にわたって分布 している事実が明らかにされました。様々な地球科学的分析により、砂は津波によって運ばれ堆積 したと結論されました。地層に含まれる木片の放射性炭素年代は、砂層の堆積年代が貞観の時代を 示唆しています。す同様の砂層が相馬市でも発見され、津波堆積層の広がりから正史の記録に誇張 はないと判断され、津波は仙台平野を水浸しにしたのは事実のようです。

貞観津波の数値的復元に成功しました。 これにより、仙台平野の海岸で最大で9mに達する到達波が、7・8分間隔で繰り返し襲来したと推定されました。
相馬市の海岸には更に規模の大きな津波が襲来したようです。将来予測は、科学の最大目的の1つです

津波被害はくりかえす
http://web.bureau.tohoku.ac.jp/manabi/manabi16/mm16-45.html


スマトラ大津波の恐怖(陸奥の古代にも巨大津波の記録)
http://musubu.jp/jijimondai25.htm

これは2005年にスマトラ津波が起きた時自分が書いた
今になるとこれを書いたということは今回の津波のにつながることであった
そういう意識は全くないにしろこうして何かの事件に対して記しておくことは
あとあと見直されることがある
そういうことはマスメデアではしていたが個人ではできなかった
インターネットがはじまって個人でそれぞれの記録を記すことができるうよになった

だから意外とこれを記したことは大事なものになっていた
結局歴史は何が大事になるものかあとになってみないとわからないこともある
その時重要なことでなないと思っても重要なことがある
重要だと思われても重要でいないこともある
だから個々人が記す記録などでもあとで重要になることもある
ただその情報が膨大になると結局個々人の記録は忘れられ消失する


スマトラ津波の時、言われたことは盛んにインドネシアでは日本のように
津波を知らないから逃げられなかったのが被害を大きくしたと言われた。
これも他山の石としないことだったのである。
日本が津波国でも逃げないで死んだ人がスマトラと同じように多かったのである。
そして原発事故でも過去にチェルノブエリ事故があったが
あれは日本とは違いソ連の技術は遅れているからな日本は技術は優れているから
事故にはならないよなとみんな日本人は見ていたのである。
これは戦争の時と変わらない、アメリカなんかたいした国じゃないよ、
日本は神国だから神が守ってくもる国だから勝つに決まっているよ
こういう国の奢りが滅びに通じていたのである。


相馬市の海岸には更に規模の大きな津波が襲来したようです。


これは本当は相当に注目する必要があったのである。
もしそんな津波が来たら原発が危険だと察したからである
原発だけではない危険な場所に住んでいた人たちも真剣に考えたらこんな被害にはならなかったのだ

somatunami11.jpg

図を拝借したが相馬地域が黄色であり一番大きな津波が来ていた

地震も仙台より揺れが激しかった、地震の波動は相馬市へ一番強く向かっていたのである。

岩本氏が貞観津波の記述は相馬市のことだったというのも科学的にみると根拠のないものでもないのか?

不思議なのは原発は現代の最先端の科学であり津波のこうした最近の調査も最先端の科学なのである。
どちらも伝説とかとは違う、ではなぜ科学者同士がそうしたことに互いに検討しあい
危険を回避する方法をとれなかったのか?
科学者は科学者と話し合えば話しがあう、なぜなら伝説などを根拠にしているのではない

「津波の砂が発見されたんですよ」
「それは本当ですか、科学者だから科学的に発見されたのだから嘘ではないです
あなたたちも科学者だからわかるでしょう」
「・・・・」


なぜこうならなかったのか科学者はどういう人たちなのか自分にはわからない
人間は科学でも総合的見地かはものを見ることがみんな苦手になっている
専門化しずきている。それが盲点となり事故が起きた。
原発は戦艦大和だったというのはわかる
その指揮官は国の運命をになうような重責だった
そういう意識が国にも東電にも欠けていたのである。

posted by 老鶯 at 21:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係

2014年05月26日

津波の被害が記録されない空白が作り出される謎 (相馬藩内では1677年延宝房総沖地震津波の被害について全く記録されていない)


津波の被害が記録されない空白が作り出される謎

(相馬藩内では1677年延宝房総沖地震津波の被害について全く記録されていない)

●津波の伝承や記録が希薄であり忘れられる


1677年延宝房総沖地震津波では下川(小名浜)から四ツ倉にかけて死者84人・流出家屋487軒、なかでも江名・豊間両浦で死者44人・流出家屋218軒という被害は、2011年東北地方太平洋沖地震に類似する。同地震でも豊間・薄磯で多数の死者と家屋流出が発生している。

いわき市薄磯地区には、「大きな地震が発生したら津波が来るので薄井神社が鎮座する丘に避難すること」という伝承が残されているが、これは1677年延宝房房総沖地震津波の体験による可能性が考えられる。

tunamizuuuuu1.jpg


慶長津波が1611年であり1677年に延宝房総沖地震津波があった。こ66年後にまた大きな津波があった。
この津波についての記録は岩沼まで被害の記録がある。
でも相馬藩から新地から亘理まではないのも不思議である

慶長津波では相馬藩で700人溺死したとある。でも77年後にも大きな津波が来たのである。
その被害もあったはずだが何にもこの時は記されていない、
慶長津波の前でもその後でも江戸への普請のことでは人数とか記されている。
江戸幕府からのそうした圧力が大きなものであり財政が逼迫して給人が税を支払えないと訴えている。
当時の政治は中央が地方に援助するというのではなく中央が幕府が地方から税をとり労役を課すことだった。
だからそうした幕府からの圧力が強いし負担となっているから相馬藩の政治でも
その負担をどうしたらいいのかというのが課題となる。
だからそこは記録されている。


しかし慶長津波でも延宝津波でも特に延宝津波では何の記録もないのも解せないのである
四倉となると浪江とか双葉とか富岡の隣であり近い、双葉は相馬藩の境であり富岡は岩城藩内ではあった。
それにしても明らかに塩釜まで被害があったら相馬藩で被害がなかったとはありえないのである。
要するにこの時も津波のことは空白状態になっていたのである。
それはなぜなのか不明であるがこの記録の空白が後の世に今回の津波のように大被害をもたらす要因になった。

相馬藩内では確かにわずかだが慶長津波のものと思われる伝承はあった。
しかしそれは地元の人でも知らない、取り上げないものであり津波が海岸に接している人たちにも伝えられていない
、海岸に接して津波のことを意識したのはチリ地震津波のことだったのである。
その時のことを経験してチリ地震津波から津波を推測していたのである。


1793年の「寛政津波」については、<1793年〜1796年がまったくの空白>であり、<飢饉災害として処理された>と記述。1995年、飯沼氏は『仙台平野の歴史津波〜巨大津波が仙台平野を襲う〜』


相馬藩内だけではなく津波については記録されない、空白現象が起きている。
「津波を忘れるな」と警告した碑が残されているのも津波は台風などの被害と違い忘れやすいのである。祖父母ですら経験していないのが普通だからである。すると伝説とか
記録が頼りになるがそれも一行くらいしか記されていないからわかりにくくなる。
ただこの津波の伝承や記録の空白現象が今回のような大被害の要因になっていた。


●女川原発が救われたのは危機意識が違っていた


宮城県ではそれなりに大きな津波被害があったから伝説も残りそれで岩沼に1611年(慶長16年)に発生した
大津波は阿武隈川(※1)を遡上して氾濫し、千貫松まで届いたとか残っている。

この伝説を聞かされて東北電力の副社長だった平井弥之助氏人が女川の原発を14メートルの高さにした。貞観津波まで考慮していたという。


三陸地方は過去に何度も津波の被害を受けていたため、津波の怖さを多くの人々が共有していたと思われる。三陸地方の人々にとって津波は常識であろう

「女川原子力発電所における津波に対する安全評価と防災対策」のスライドである。これを見ると、東北電力の方々が津波に関する考古学的調査や津波の数値シミュレーションなどに真面目に取り組んでいたことを理解することができる。東北に生まれ育った人が、原子力発電所が立地する東北の地域の安全環境を守ることを自分達の問題として捉えていたと想像することができる


東京電力の原子力発電所の計画・建設に参加した人の大部分は東北地方と関係がなく、東北からみればよそ者であった。そのため、津波に関する畏怖がなく、立地する地域に原子力災害が及ぶ可能性を想像することができなかった。 仕事のときだけ福島に赴き、任務が終われば東京に帰り、現地への愛着が薄かったのではないか-Riyuu.html

http://oceangreen.jp/kaisetsu-shuu/Onagawa-Tasukatta


要するに津波に関しては宮城県の方が危機意識をもっていた。
それは三陸などでもそうだが明治にも津波の大被害があったのだから違っていた。
津波に対する恐怖の意識があるところだったのである。
これが致命的な分かれ目になっていたのである。
女川の原発すら実際ぎりぎりで助かったのでありある意味で幸運でもあったのだ。
女川の街は壊滅したのでありもう立ち直れないような状態になっている。
その被害を見たら原発の方が残ったというのも皮肉である。
近くの人も津波の時、原発に逃げたのである。
だから奇妙なのは街が壊滅して原発の方が残ったということも何か示唆している。

原発という危険極まりないものでもそれなりに危機意識をもっていれば事故にならない。
ところが一方で街に住んでいる人達は津波に対して女川原発に対してもっていたように危機意識がなかったのである。
もし東北電力が想定した津波の高さを真剣に考慮すれば街だって壊滅することはわかる
しかし肝心の街に住む人たちはそんな高い津波のことなど想定していない、危機意識がなかったのである。


●津波の記録の空白地帯だった双葉の原発


そもそも双葉は夜ノ森が相馬藩の殿が余の森として相馬藩と岩城藩の境となっていたところであり
森であり原野の地域だったのである。
そこは近くに大きな病院もないもともと不便な場所であった。
だから双葉でも浪江でも南相馬市立病院に入院していた人がいた。
片道30分もかけて往復して看病していた人がいた。
南相馬かイワキの方にむずかしい病気はみてもらえないのである。
原発はそうした遅れた不便な地域に建てられやすい、
今でもそうした地域では経済活性化のために積極的に原発でも誘致しているのだ。

原発はまた大都会近くに建てにくい事情もある。
だからそうした辺境地帯が立地条件がいいとしてねらわれるのである。

結局津波に対する危機意識でも東京に建てれば一千万人が常に危機意識をもつ、
その前に危険だからと東京にはとても建てられないからそうした辺境地帯に建てられた
今回の事故でも危機意識を東京の人たちは離れているからともっていなかった。
東電でも事故があっても離れているからという意識になった。
もし地元に住んでいればまた危機意識をもつから違っていた。
ただ一時的に勤めてまた東京に帰るというふうになるから土着意識がなかった。
東北電力には土着意識がもともと地元だからあったのである。
岩沼の津波伝説を聞いて決めたというよりあの辺はもともとそうした津波の危機意識を共有していた地域だった。

だから原発ともなるとそれだけの危機意識をもっていたからギリギリで助かったのである
それだって幸運だったのであり危ない状態だった。
それはまず女川が壊滅したことでもわかる。女川の被害は最悪だったのである。

危機意識というとき、人間は平和な生活が長くつづくともてなくなる。
平和がいつまでもつづくと思うようになる。
でも人間の歴史をみると絶えず天災でも戦争でも起きていて平和な時代はつづいていない、
だから江戸時代は世界史では例外的な状態だった。
戦後は確かに戦争で300万人が死んだというあとにしては平和で繁栄の時代だった。
団塊の世代はそれで恵まれていたとなるが今やそうした繁栄から衰亡の時代に入った。
そして再び天災でも対外的にも危機の時代に入っている。

でも以前として平和になれているから危機意識がないから日本は他国に簡単に侵略されるかもしれない、
危機をあおるわけではないが平和になれると油断が生れそこをつかれて滅びしまう
そういうことは平家であれローマであれ中華帝国であれ常に起きていることなのだ。
危機の問題は急激にやってくるから対応できないのである。

女川にはおそらく原発ができる前に行っている。鯨の解体しているのをみているのだ。
牡鹿半島では鮎川が鯨の基地だったから女川でも鯨と関係していた。
女川という地名も何か気にかかるようになった。
女川はオナミであり男波でありこれは津波と関係していたとか
他にも福島県浜通りにも浪江とかにもあるので言われようになった。
深い入江になっていて逃げ場がない地形だった。
だから津波を奥まで勢いよく上って行ったのである。
ともかく津波というのは実感するためには現場に立ってみる必要がある
なぜなら地形とかと深く関係しているから現場に立たないとわからないのである。
それで女川に行ってみたいと自分でも思ったのである。

posted by 老鶯 at 17:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係

2014年05月22日

相馬藩が中村に城を移転したのはなぜか? (津波の後の復興のためなのかー伊達藩の政宗の政策から推測した)


相馬藩が中村に城を移転したのはなぜか?

(津波の後の復興のためなのかー伊達藩の政宗の政策から推測した)

●慶長時代には海側に住む郷士はいてもわずかだった


青原氏からの質問があって確かに700人溺死の中に郷士もいたの
だから藩で全く津波の被害を無視したという自分の説には疑問だというのもなるほどなと思った。
相馬藩は他より郷士が多い、農民兼侍だったのが郷士である。
だから野馬追いの時は原町とか相馬とかでも街内からでるのはほとんどないのである
農家の在の方から出るのである。
だから海側の村でも必ず郷士の末裔で野馬追いに出ている家がある
ただ慶長津波が起きた時、どれくらいの人が海側に住んでいて郷士だったのか
それはわかりにくい、海側に住んで郷士の人がどれくらい被害にあったのかわからない。

ただ海岸に接した村は比較的後から住んだ人たちが多い。

鹿島区では海老村でももとは海側でなくて後ろの田のある地域に住んでいた。
それが塩をとるとか港ができて海に進出するようになり海老村になった。
右田村も真野川沿いであり湿地帯であり開拓されたのは江戸時代でも遅くなってからである。
大内村は古く山側に住んでいた人たちは今回の津波でも助かった。
そして大内村の出村のような袋村は真野川の河口と海岸に接していたが消失した。
江戸時代に村としてあったが消失したのは真野川の洪水とかで稲作ができなくなったのだろう。

八沢浦も明治になってから開拓されたのでありだから妙見神社が祭ってあった。
小高の井田川は大正になってから開拓されたのである。
だからそういう住むのに適していない場所に郷士が入ったのは慶長時代以前だと
少ないかもしれない、ただ確かに郷士がいないということはありえないだろう。

だから津波の被害にあったら郷士が藩に窮状を訴えたはずである。
でもそうであったら余計に何らかもっと藩で対策を考える、その窮状を記録してもいいはずである。
その辺の事情が記録がないのだからわからないから推測するほかなくなる。
つまり郷士が津波の被害にあったらもっと何か藩でもその窮状に対して
どう対応したかなど記していてもいいということも考えられる。
そのことが700人溺死としか記されていないのだからやはり無視されたともとれる


●伊達藩の政宗の政策に習ったのか?


なぜこういう説が出たのか?それは実際は何ら根拠のないものであった。
ただわかったことはこの説は伊達藩から政宗の政策から出ていたのである。
それをプログに書いていた人がいる。


@領内の金山の管理の徹底、開発の推進→慶長十七年二月より
A徳川家との関係強化→慶長十六年十二月十三日、江戸城は将軍徳川秀忠御前における
嗣子虎菊丸の元服。秀忠よりの「忠」の一字拝領
B遣欧使節派遣による海外交渉・貿易の実現→財政を豊かに。国を豊かにするため。


遣使船サン・ファン・バウティスタ号の建造。これは、石巻・牡鹿地方という三陸津波の一大被災地で行った一大公共事業です

アマーティの『伊達政宗遣欧使節記』の第十二章には「国王(政宗)は大急ぎで船の建造に取りかかるように命じ、その作業に八〇〇人の大工と七〇〇人の鍛冶、それから三〇〇〇人の人夫を投入した。」(翻訳『仙台市史 特別編8 慶長遣欧使節』平成22年刊
http://blogs.dion.ne.jp/honmarukaikan/archives/10071959.html

ここに公共事業と明確に書いてあるのでこの辺を参考にしていたのかもしれない。
津波被害で伊達藩内だけに目を向けていては復興できない、
それよりも対外的にスペインまで目を向けて津波の被害を克服しようとしたという説である。
そのような大災害の時、外国に目を向けて貿易で復興しようとしたというのも当時からすると
スケールが大きいというかその目的が何であったのかは明確にはなっていない。
徳川幕府に家康に対抗するためにだとも言われる。
まだ天下取りをあきらめていないから最後の手段をスペインの協力をえて天下をとろうとしたともなる。


ただその船の建造も大事業であり今なら復興の公共事業になっていたことは言える。
資金は金山から生れたのか?やはりそれだけの財政の裏付けがないとできない。
その時幕府では援助しないからである。むしろ政宗の弱体化を望んだろう。

つまり伊達藩の政宗がそうした津波の被害の復興をどうしたのか?
それを相馬藩では知っていて相馬藩でもこの際、中村に移転しようと決心したのか。
相馬藩では対外的には伊達が最大の敵なのだからその境の中村に城を移転するのが一番ふさわしかった。
その時、移転するとはり城下町の整備が公共事業的なものとなったことはありうる。
ただ伊達藩のようにそうした記録がほとんどないので資料がないので証明するのはむずかしく推測になるだけである。


不思議なのは


相馬市
「城は破損し再築中」「同市も海水の漲溢に依り海岸の村落に及ぼしたる被害
の影響を受けたり」(『ビスカイノ金銀島探検報告』)

http://www.dcrc.tohoku.ac.jp/surveys/20110311/docs/20111202_04_ebina.pdf


ここの相馬市とは東京の方になっているのはなぜなのか、間違いなのか?
相馬藩について『ビスカイノ金銀島探検報告』で百行くらい記されているというがその内容はわからない。
これが相馬市のこと中村城のことだとすると今の城の所まで津波が来たのかとなる。
川をさかのぼってくることがあるからどういうことなのかわからない。
ただ城は破損し再築中とあれば津波の被害があり再築していたとなる。

ということは慶長津波の前にすでに城はあり工事はしていたが藩士や主君が移動したのは
別に津波があったからではなく津波の前に移転することは決まっていて工事していたともなる
そうなれば別に津波が起きたからではなく前からの計画ですでに工事もしていて津波にかかわらず実施したとなる。
ただ津波の被害があったことが移転に何らか影響していたことは推測される。
でもそうした記録が一切ないから推測の域を出ないのである。


●相馬藩士が慶長津波の後に伊達藩に開拓に入った謎


古老の話によると、慶長津波の後に福島県相馬地方の武士であった相澤家、
大友家、柴崎家などが移住して中野集落ができたと言伝えられる。相馬の地名
にちなんで中村屋敷、吉田屋敷とよばれていた。この地は現在も住宅地である。

(六郷の会)
http://www.stks.city.sendai.jp/citizen/WebPages/wakachu/


これは結構大規模な移住だった。中野というのは中村のことである。
なぜ相馬藩での被害も大きいのに伊達藩に藩士が開拓に入ったのか?
伊達藩では積極的な津波復興の奨励策をとり人を呼び込んだ。
だから相馬藩でも入る人がいた。それも藩士だということはそれに従うものは
その家来や従者がいるから侍でないものも従ったのである。
これもなぜなのかというと謎である。


つまり相馬藩で被害が大きいのだからまず相馬藩内の復興が優先されるはずである。
それがなぜ相馬藩士が移住したのか?
ここにも一つの相馬藩の慶長津波のことを解く鍵がある。
相馬藩の被害が大きく復興できないような状態に陥っていたのか?
伊達藩でも被害は今回と同じく相馬より被害が大きかった。
ただ伊達藩では相馬藩より復興策が政宗の陣頭指揮でとられていた。
相馬藩は小藩だから対策がとれなかったのか、資料がないのでわからないのである。


相馬藩士が移住したのは郷士であれ被害を受けて相馬藩内で生活できなくなり
奨励策をとっていた伊達藩に移住した。その時伊達藩でも被害が大きいから人材が必要だった。
それにしても相馬藩内はその時どうなっていたのか?
相馬藩士自体が見捨てて他藩にゆくのか?
これはやはり相馬藩内での慶長津波の結果として伊達藩に移住した。
その理由はわからないにしろそういう激動を体験した。
津波であれ原発事故であれそういう激動の時に人は移動しやすいのである。
避難民であふれるようにそんな緊急事態が起きていたのだろう。

ただ津波の被害を受けてまた津波の被害地に移住するというのも何なのだろうとなる

いづれにしろ相馬藩と伊達藩は敵同士でも密接な関係があり
伊達藩から相馬藩のことが解きあかされることがある。
まさに中村への城の移転が津波の復興のためとか公共事業のためとかの説がでてきたのは
伊達藩に政宗の政策にならったものを相馬藩でも実行したのだという説になったのである
ともかく資料がないので推測になる。
慶長津波が政治にどう影響したのかはこれもあまりにも大きなテーマだったのである。
リスボンが地震で衰退してしまったように甚大な災害は歴史を大きく変えてしまうことがあるし
日本は災害の国だから特に天災が国に影響することが大きかったことは確かなのである。

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2014年05月17日

津波でもどった日本の 原初の景観 (松原は人工林であり津波には弱かった)


津波でもどった日本の 原初の景観

(松原は人工林であり津波には弱かった)

●白砂青松の景観は自然林ではなく危険だった


松原遠く消ゆるところ
白帆の影は浮かぶ
干綱浜に高くして
鴎は低く波に飛ぶ
見よ昼の海
見よ昼の海

島山闇に著きあたり
漁火淡し
寄る波岸に緩くして
浦風軽く沙(いさご)吹く
見よ夜の海
見よ夜の海

こういう風景が日本の風景だった。


室町幕府の武将にして歌人、今川了俊(いまがわりょうしゅん)が九州に向かう途中に立ち寄った明石(あかし)の海浜を、浜は雪を敷いたように白い砂で覆われ、年輪を重ねた松が強い風に捩じ曲げられた枝々に深い緑の葉を茂らせていると和文で記してい
るのである。



松林の下に自然に生えてくる広葉樹の若木を下刈りすることなどがその典型だといえます。しかしそれは、皮肉にも津波に対する防潮機能をいちじるしく弱めることになってしまいました。

 たとえば陸前高田市の「高田松原」は、まさに日本の「三大白砂青松」の地と呼ばれてきました。しかもここのマツ林は、明治三陸大津波や昭和三陸津波の際には津波の被害も大きく防いでくれました。しかし、明治三陸大津波の際には、「下木として多数の広葉樹が生育していた」(213)そうです。それがその後、昭和15年には「史蹟名勝天然記念物」にも指定され、保護管理区域として「林内で広葉樹が生育しないように、毎年、除草と下刈りが行われ」


マツの単植林が防潮、防災に適さない理由として、一般的に広葉樹に比べて根が浅いという点があげられる。

http://hiroshige724.blog22.fc2.com/blog-entry-124.html

松原は美的観点からだけみれば問題なかった。ただ美的なものではなく防潮林であり
塩害を防ぐ役目も果たしていた。なぜなら干拓して田を広げた時作られたからである。
松原が人工林だったことはやはり田畑もそうだが松原すら自然破壊の産物だったのである。
それが美しいと見えたのは人工林としての庭園美のように見て称賛されていた。
前に書いたけどぶなの木が無用の木ではなく山林にはもともとあった樹である。
ところが杉林になったとき人工林化して洪水に弱くなり土砂崩れを起こす原因ともなった。
ぶなが無用ではなく自然ではその無用と思われるものが有用だった。
それは荘子の思想にあった。そこに中国の大陸的思想があった。

つまり人間の狭い料簡ではとても自然は計れないということである。
人間はそもそも自然を計ることはできない、計られる存在なのである。
だから確率論で一万年に一回しか事故は起きないとか真面目に原発のことで言っていた
科学者がいたがそうした自然を計ろうとした人間の傲慢が津波で打ち砕かれたのである。

山林でもいろいろな樹がぶなでも何でも混合しているのが自然であり単一化しているのは自然ではない、
だからもともと海岸にも原生林がありいろいろな種類の樹が森が形成されていた。
松原だけの単一化したものではなかった。

そういう種々の樹が密生していると今回のように無数の松がなぎ倒されて消失するようなことがないかもしれなかった。
例えば竹林の方が津波には強かった。根が強く広く張っているから根こそ流されなかったという。
それと津波を防いだのは緩衝地帯があった場合相当に違っていた。
四倉は海岸に接して街があっても比較的被害が少なかったのは緩衝地帯の砂浜が広かったからである。
松川浦でも原釜や海にじかに接していたところは被害が大きかった
でも浦に面した所はそこが緩衝地帯となり津波の勢いが弱まり被害が少なくてすんだ。
海岸沿いの道が堤防のようになり浦が感傷地帯となり津波の勢いを弱くした。


●人間が生き始めた時自然破壊が必然的起きていた


要するに自然に手を加えたものはすでに自然を破壊した人工的なものである。
それは人間が住み始めた時からはじまっていた。焼畑農業がこれも森林破壊であり
肥料を簡易に作るために森林を燃やした原始的農法である。
農業にとって肥料がいかに大事か実際にしている人は痛いほどわかっている。
そのために洪水で土壌流出が起こり安くなったのである。

人間が自然の中で生きる時必ず自然破壊が起こりそれが災いともなる。
人間の技(わざ)は必ず災い(技わい)を生むのである。
それはプロメテウスが神から火を盗んだ時からはじまっていたのである。
人間の業(わざ)は自然を破壊しないと生きられないということにもあった。
人間の業は必ず自然を逸脱するものとなりその報復が自然から災害として受ける宿命にある。
だから農業自体が大規模な自然破壊の文明でもあったのだ。
そのことが津波で証明された。
無理して海側に干拓した地帯や人工林の松原が根こそぎ喪失してしまった。
何万本もあった松が陸前高田市では一本も残らなかったのである。
もし自然林だったらそういうことはなかったろう。
欅などは塩分に強いとかなると塩分に強いものが自然にはあり津波の跡でも生育してゆく
松原という単一化は庭園のように人間の美的感覚だけで作られたものであり生来の美ではなかったのである。


そもそも自然は多様性であり多様な植生であり多様な生物が生きるものとして作られていたが
単一化することは自然の文化の破壊だったのである。
米だけの単一生産もまたコーヒーだけの単一生産が危険なのは
外国から食料を輸入できないと飢えに直面することなのである。
現実に東北では江戸に米を商品として作りすぎて天候不順で冷害とかなると飢饉で餓死者を多数だした。
これは多様な食料を作っていれば飢えなかった。
冷害にも強い種は食料となるものが自然にはあるからだ。
食料でも単一化は人間の生物であれば危険なのである。
だから松の人工林である松原や杉林は自然ではないから災害には弱いのである。


●山も松原と同じように単一化された人工林になっていた


カラマツは、日本の天然林に多く見られるブナに比べると、その保水能力は数分の一とかなり低く
ブナの木は山の保水能力を高めること、 野生動物のエサとなる(人間でも食べられるらしいが) 実をたくさんつけることがわかりました。


樹齢250年のブナの木は、8トンの水を蓄えるだけの保水能力を持っているんですよ。


広葉樹は横に根を張り、土壌を安定させるのに対し、
針葉樹は縦に根を伸ばす為、保水能力が低い。


人工林は針葉樹ばかり。
つまり、現代の洪水は、人災。

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ぶな?(木偏に無)がなぜこの字になったのか?この木はもともと森にあった先住民である。それがなぜ無駄な木、無用の木とされたか?それは杉とか檜が効用があったからそうなった。ところが自然にとっては森にとっては欠かせないものだった。不可欠なものだった。保水能力があり木の実は動物たちの食糧になる。ブナは生態系を維持するために不可欠なものとしてもともと山にあった。それを無用のものとして切り杉や檜を植えたとき保水能力が失われ麓で洪水が増えた
http://musubu2.sblo.jp/article/48417815.html



山も杉林などで一様化し単一の森にした。それで土砂崩れが起きやすくなったのである。
ブナの木を無駄としたのは人間の一方的利便性の追求でありそれが自然のバランスを壊すことになった。
自然のバランスを人間の知恵では計り知れないほど微妙なのである。
人間の体さえ未だにわかっていないというのは生命というのが
地球と宇宙と切り離されず一体として生れたからである。だから津波も天体と月とかとも
関係していたというのも本当かもしれないしまだ人間の力では解明されていないのだ。


津波の予兆というのはいろいろ言われる。津波の前の年が夏が異常に暑かったのである。
あんな暑さを経験したことがない異常な暑さだった。
確かに温暖化で暑くはなっていたがあの暑さは異常でありそれが天体の異変と結びつき
津波と起こす予兆だったかもしれない、月が満ちるとかあるが天体にも何かそういう作用があったのかもしれない、
地球と宇宙も別なものではない、一体だからそう考えるのも不自然ではない。


いづれにしろ人間の知恵は永遠に神の知恵に及ぶことはない、
この世界を人間を創造したもののみが知っているのである。だから万能細胞などありえないのである。
要するに奇跡としかいいようがないのがこの世界なのである。
そしてまた新しい奇跡は神の力によって起こされる。
それがいかなるものかは知り得ない、それも想像を絶するものなのである。
文明というのはあくまでも人間の小賢しい知恵であり技でありそこには常に何か危険なものが生れる。
原子力にしても原子とかを操作するから危険が生れた。
もし神のような知恵があれば可能だが人間にはもち得ないからもう毒が出てとめられなくなり人類滅亡にさえなる。
だから火を盗んだフロメテウスの神話から人類に警告されてきたがそれは便利さの追求のために無視されてきたのである。


●文明は津波に敗れて山河あり


漢詩に「国破れて山河在り」とあるが、今日では「国栄えて山河破れ」となる。

国ではなくもはやグローバル化した世界では文明栄えて山河破れに共通になっている。
今や文明による環境破壊は世界的であり世界自体が狭くなっているからそうなる。

津浪は自然のそうした大きなバランスを保つための作用であり
自然界が悪い意図で人間を苦しめているというのではないのだ
四〇〇年に一回であれ千年単位で起きる津浪も自然のバランスを保つ為の作用であった。

異論はあるにしても原始の状態に自然が回帰するようになったのはそれは
自然の作用であり自然のバランスを保つために津波が起きたともとれる。
自然は無情で非情だと呪ったりもしたが津波によって元の自然がもどったということは
自然の美が回復したのである。

白砂というのは右田浜だろうがどこでも日本ではほとんど消失していた。
松原は松風など吹いて気持良かったが海岸線は防波堤でありブロックの山であり
そこに美はなかったのである。そんな美観より災害に備えるのが先だというのはわかる。
でも津波を防ぐ防波堤を海が見えなくするほど高くするのはどうかと思う。
海が見えてこそ海辺に住むものの良さがある。
確かに松原の景色はこの辺で失われたが変わって海が広々と見えるようになった。
今までは松原とかにさえぎられて見えなかったのである。
草原化して原野化して砂が運ばれてまるで北海道のような風景になった。

ただ3キロも津波がきて原野化したのだからその範囲はつくづく広いと思った。
それだけの広さの土地を干拓して人工化したというのもその労力も大変なものだと思った。
それが一瞬にして失われたのである。

津波で失われた所はもとのままにして手を加えない方がいい、
人はもうそこに住まないで元の自然に返す方がいいという意見の人がいた。自分もその意見に賛同する。
防潮堤とかそんなもの作っても無駄でありむしろ津波が来ない地域に住むようにした方がいいとなる。
漁業するにも港に通うというのがいい、車があるのだから昔とは違うからである。
米だって減反時代だからここでとれなくても他からいくらでも入ってくる。
もちろんそうしたら何で生活してゆくのだとかなるがそれはまた別問題である。


津波はただ否定的なものとしてばかり災害としてばかりとらえているが
自然側からすれば自然のバランスを保つための作用だったとなる。
自然の作用だからそこには必ず美が生れる。富士山も噴火した時は被害を与えてもあのような
優美な姿が噴火によって作り出されたのである。
文明破れて山河は残るのである。津波とは自然から見れば大きな浄化作用だっかもしれない。

ただ否定的な面ばかり主張されがやはり元の自然の状態にもどることは悪いことだけではなかった。
自然の美が回復したということはあったのだ。
そんな美よりここで死んだ人を思いというのもわかる。
ここで死んだ人の気持がわかるかというのも犠牲者になればそうである。
ただそればかりを思いつづけいたら復興もなくなるだろう。
いつまでもそうして暗い気持で生きていいのだろうかという疑問がある
被害者になってみなければそれはわからないというのもある。
それは別に死別は常時ありいつまでも死者のことにこだわるのも問題なのである。
一方で忘れるのも問題なのである。その辺の兼ね合いがむずかしいのである。
妻をなくしした人がペットは死ぬから別れるのが嫌だから飼わないと言う
その真意はわからないにしてもいつまでも死者にこだわるのも問題なのである。


いづれにしろ日本は津波国なのに津波災害に対して甘かった。
女川でも石巻でも海岸に密集して家があり石巻の日和山のところにあんなに
家が密集していたのを不自然に思った。こんなに海岸に接して家が密集していたから目立った。
女川でも地形的にまるで津波を呼び込むような地形になっていた。
平坦な地域がほとんどないのである。

それも利便性からそうしした危険な地帯に住むようになったのは
文明が自然を破壊せずに生きていけないのとにていたのかもしれない。
文明とはそもそも利便性の追求でありそれに歯止めがかからないのである。
科学も利便性の追求であり交通事故があろと車を一割も減らすことは生死にかかわるとかなりできない、
もちろんエネルギーも減らすことができないのである。
人間社会には減らす思想がないのである。
一方で宗教は老子であれ釈迦であれキリストであれ清貧であり物質のあくなき豊かさの追求を戒めるものだった。
人間はどこまでも物質的豊かさを求める時、制御がなくなるとそこに文明の崩壊が起きてくる。
その引き金となるのが今回のような大災害だったのである。

posted by 老鶯 at 21:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係

2014年05月12日

津浪で再現した真野の入江 (大内村は山側に住んでいた人たちは助かった)


津浪で再現した真野の入江

(大内村は山側に住んでいた人たちは助かった)

●津浪が明らかにした真野の入江

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真野の入江ーバノラマ写真

クリック拡大


中世において、川津は長田の名前で呼ばれていました。その長田に「長田市庭」と呼ばれる場所があったことを示す古文書があります。永仁七年(1299)二月十一日付の、長田余一昌重宛て大仏宣時・北条高時連署の関東下知状に「市庭村」という地名が、長田西郷に含まれています
http://blogs.yahoo.co.jp/zett_59_turtlehead/11208687.html


島大通りと、島大向かいの学園二丁目あたりは江戸時代以降の干拓地、すなわち中世は「海」とも呼ばれた広い沼沢だったので


「笠津灘」という小字があります。現在のみしまや楽山店が所在するところです。ここも津という名がついていることからして、河港が存在したことがわかります

八日市庭・三日市庭(下市庭)などの市庭(地名)と魚座・相物座・御器座などの商業座、さらに上座・中座・下座の座地名について
http://www2.ezbbs.net/cgi/bbs?id=mietyusei&dd=40&p=23


地名には何か共通性がある。市庭というとき全国的にある。市庭⇒市場になった。
でもそもそも市庭がいつ頃から生れた地名なのだろうとなる。
一般的には中世で継続して使われていた。でも平安時代から奈良時代にもあったのだろう
座となると明確に中世的地名だが東北地方にはないからそれだけ東北地方には商業は発達していない証明でもある。

ところが市庭というのは南相馬市の塩崎村にありこれはそこが海だった時に名付けられたとすると奈良時代までもさかのぼる。
万葉集時代にもなる。
だからそこが真野の草原(かやはら)であり草原は地名だという根拠にもなる
塩崎には船着という地名もあるから船が来ていたのである。
それを証明したのが今回の津浪だったことに驚いた。
船着辺りまで津浪が来ていた。そして船が実際に流されてきたことにも驚いた。
今回の津浪は明らかに奈良時代辺りの環境を再現したのである。

●大内村の曽我船(そがふね)地名の謎

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島とつく地名も湿地帯がありそういう場所に名付けられている。島通りというのもそういう地帯だった。
小島田も真野川にそってあり湿地帯であり離れた島のようになっていたのだろう。
そののち開拓されて田になって小島田となった。
北右田、南右田とあるが右田も真野川沿いであり湿地帯でありあとから開拓された。
烏崎村に接した真野川沿いに袋村があったが消失したのは真野川の洪水が度々あって
使いなくなったのだろう。明らかに大内村の人が土地を広げて開拓したのである。


慶長津浪から1611年基点にして歴史をみることが普通になった。
その時代前がどういうものだったかその時の村の状態はどうだったのか
実際にあったのかなかったのかというのが郷土史で重要な問題となった。
慶長津浪の前に小島田に八龍神社があり川子のはそれより古い。
すると烏崎村の八竜神社も津浪にすれすれで残ったが津浪の前に建てられたのかもしれない、
なぜなら慶長津浪の後ならもっと高い所に建てる、すれすれには建てないからである
いづれにしろ小島田でも大内でも津浪の被害にあった。それでも被害が少なかったのは
そこが比較的古い村だった。海老村でも海に面した所はやはり新しい村だった。

ただ烏崎村は特殊であり鎌倉時代から人が住んでいた。それは漁労関係の人が小屋を建てて住んでいたのだろう。

地名から考察すると鎌倉がら船で来た岩松氏が烏となづけたのはそこが空の州だったからである。
何もなかったからその名がついた。実際にそうだったのである。
烏から烏崎村に変更されたのは崖の下に村落があるからそこが崎のようになっていたから変更した。
港があった所はもともと牛島とかの地名であり湿地帯だった。


そして大内村が確かに被害があったかなぜ少なくてすんだのか?
それは大内村は道をはさんで山側と元の海側に住んだ人に分かれていたのである。
山側に住んでいる人も多くそこは助かったから烏崎村のような壊滅状態になっていない
そこに不思議なのは曽我船という地名が化石のように残っていることなのだ

そがふねとはそががさかのぼるという意味で船がここからさかのぼるのが見えたから名付けられたという、
この地名はまず不思議である
普通そんな名前つかない、それだけ船が来るのが見えたから名付けられた。


それよりもソガとはソグからきていて何かをソグである。海の波が寄せてきてソグところであり
曽我船はさかのほるの意味ではない、
黄昏る(たそがれるーソガレルであり浸食する意味であり減退してゆくとかの意味になる。)

塩崎村の船着でも市庭でもそうである。それがいつの時代のものかはっきりしないのである。
ただ奈良時代から発しているというのはその時そこが
海だったことは明らかだからであるそれが津浪で証明されたのである。
大内村はもともと海だった海側に家を作った人たちは古い家ではない、
道をはさんで山側に家があった人たちが大内村を作っていた。
だから大内村は被害があっても村としては残っている。烏崎村は壊滅したから悲惨なのである。
津浪は太古の自然の状態とか歴史的村の発展状態とかを明らかにしたのである。


●東松島の元の鳴瀬町の白萩の地名の謎


東松島の被害状況を見ると元の鳴瀬町の白萩とか浜市とかは津浪で被害が大きく壊滅状態になった。
そこは海からかなり近かった。そこに浜市とあるのは江戸時代にあったとして
もその前にさかのぼるかどうかわらない、牛綱村は後方でありそれは古い。
浜市は新しい、白萩という地名はやはりもともとそこは海に近く鳴瀬川にそってあったから
度々洪水の被害を受けていた。だから萩がはぎとられるという地名になったのは信憑性があるのかもしれない
、白い萩が繁っていたという名がつくのは普通ないからである。

でも不思議なのは浜市方面に漁をするための使う綱を運んだからその名がついたというとき
牛綱村の起源が浜市に由来するのも不思議である。
普通は逆でありもともと牛綱村があって浜市に進出したからである。

「白日別」の「白(しら)」は「しらす」、つまり「治める、統治する」の意味である。



接ぎ
はぎ
歯軋り
はぎしり
剥ぎ取る
はぎとる
端切れ
歯切れ
はぎれ
脛を齧る


古事記」上巻


 波の穂より天(あめ)の羅摩(かがみ)の船に乗りて、鵝(ひむし)の皮を内剥(うつはぎ)に剥ぎて、衣服(きもの)と為(し)て、帰(よ)り来る神有り。・・・少名毘古那の神ぞ。

萩(はぎ)は剥ぐから生れた言葉なのだろう。白というのは知らすであり治めるだからはぎ取り治めるなのか?
そこはともかく何かをはぎとり住むようになった。
萩という花とは関係ないだろう。

萩と荻はにている。萩の前は荻だったのかもしれない、萩を区別できなかった。


おそらくヨモギ(くさよもぎ)という意味のことをおっしゃっているのでしょうが、上述のように「萩」の原義にあたります。しかしヨモギは、日本では草餅などに使うことから春の香草として知られ、俳句の季語でも春に分類されます。それだけに字に「秋」が含まれるのはイメージにそぐわず、これを字形の似た「荻」で代用して、「萩」の字は国字としてハギの意味で使われるようになったのでしょう(ハギは日本ではよく自生しますが中国ではマイナーな植物のようで、本来の漢字があるかどうかは不明です
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1422402179


「 荻の葉のそよぐ音こそ秋風の
     人に知らるる はじめなりけり 」 紀貫之 (拾遺集)


荻(おぎ)には「風ききぐさ」という異名があります。
水辺に繁殖するその草は背丈が高く、細長い葉や茎は風に靡いて
さやさやと音を立てます。
http://manyuraku.exblog.jp/10708377

オギから沖(オキ)という言葉が生れた。荻が繁っているところは陸地から離れたところでありさらに離れた海かオキなのである。言葉は身近なところから意味が拡大してゆくのである。


●大内村は元の海側の家が被害か多いが山側は残った


大内村は道路を挟んで元の海側と山側で明暗を分けた。山側の家は一部被害があり残らなかったがほとんど残った。
道路をはさんで元の海側は北側は残らなかった。
ただ海老村や烏崎村のように壊滅しなかった。
それでも被害はそれなりに大きかった。あそこてトラックの運転手が津浪を来てから必死で逃げて助かったという、
津浪を見て逃げるだけの距離が大内にはあった。
でも元の海側に面した所では家は一部を残して消失した。
もともと海側に家を建てた人は新しい人たちだったのだろう。

大内村から真野川に沿った地域と海に面した地域に進出した開拓した人たちがいて江戸時代に袋村があったが消えた。
真野川の洪水や湿地帯であり維持できなかった。
まず川にそった地域もいい土地ではない、洪水があるからそうなる。

つまり人間はもともとそうした災害のある所には住まない、縄文人も住んでいなかった。
ただ住む土地を広げるために悪条件の場所に進出したのである。
そこは危険地帯であり開拓するのもむずかしいし危険地帯だった。
だから袋村は江戸時代にあったが消失した。
真野川の洪水などで維持できなくなった。

大内村は今山側に蛙が結構ないていた。蛙まで山側に移った。田んぼには水がないし住めない、
山側には蛙が増えるというのも蛙も津浪の後に住む場所を変えて繁殖しているのだろう。
自然の生物は適応力が人間よりあるから繁殖できるのだろう。

大内村は大内氏がはじまりであり大内という姓の家があった。
その大内氏は鎌倉から烏崎に船で上陸した岩松氏からはじまっている
大内村はだから烏崎村や小島田村より古い。
ただ八竜神社は州てに慶長津浪の前に小島田にも川子にも大内にもあったし
烏崎村の八竜神社は慶長津浪の前に建てられたのだろう。

ともかく慶長津浪でも相馬藩内で700人溺死したとなると今回の死者と同じくらいの被害があった。
でもその時は海老村でも烏崎村でも八沢村はもちろん明治以降だから人か住んでいない、
するとその死者の数がかなり多い、すてにそれだけの津浪の被害を受ける人たちが住んでいたことになる。
すでに海側に住んで漁業する人たちかなりいたともなる。
ただ今のように津浪警報もないから急激に来て死者も多くなったのか?
その死者がどうして生れたのか全く不明なのである。

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烏崎でも海が近くても残った家

真野の入江と八沢浦
http://www.musubu.jp/manoirie.htm

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2014年05月03日

野蒜海岸や東松島の牛綱や浜市の津浪の跡をたずねる(1) (奥松島⇒野蒜海岸⇒鳴瀬町⇒石巻(自転車の旅-夏)


野蒜海岸や東松島の牛綱や浜市の津浪の跡をたずねる(1)


(奥松島⇒野蒜海岸⇒鳴瀬町⇒石巻(自転車の旅-夏)
http://musubu2.sblo.jp/article/29414836.html

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東松島(牛綱、浜市、白萩)

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前の写真と重ねると確かにこの松である

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ここにあった家はほとんど流された

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社があった


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自分のプログのこのページが長い間一定の人が見ていたことが不思議だった。
というのは写真にしてもたいしたこともないし紀行文としてもたいしたものではない
ではなぜ見られていたのか?
それが今回同じように野蒜から鳴瀬街から石巻と訪ねてみてわかった。
特に松の写真をとった場所がなんにもなくなっていたのである。

つまり野蒜から東松島市になった鳴瀬町とかは1000人が死んだとか被害が大きかったのである。

まず野蒜は未だにその被害が大きいことが感じられた。
かなりの家が破壊されたし駅も復興していない。更地が多く松も残っていても痛々しい、ただ結構松は残っている。
その理由が防潮堤にあった。幅が広く分厚いために津浪でも破壊されなかったのである。
低い防潮堤だったが全く壊れていない
これだけ厚ければ津浪でも壊れないことがわかった。
ただ低いから軽くその上を越えて津浪がおしよせた。
でも結構松が残っているのは津浪の勢いがこの防潮堤でそがれたためなのである。
だから防潮堤が無駄だとは言えない
ただこの防潮堤にしてもその上を津浪が押し寄せたのだから被害が大きかった。
ここは前に島もないのでもろに津浪に襲われた。
電車も津浪におそわれて曲げられらた映像が写された。


ここは今は高台に住宅地を移すために大工事が行われている。
高台の山の土を削りそれを機械で運び野蒜駅前には高い大きな山を作っているから驚く
その山の高さが高いのである。まるで人工の山である。
あんなに高くしたら景観的には海辺の街という感覚はなくなる。
野蒜の海は変わらず砂浜が広がりきれいだった


そこから陸前小野まで代行バスで行き前通った白萩地区の町の方に向かった。
浜市小学校などがありここも大被害だった。ここは廃校になった。
かなり海が近い場所であり被害が大きかった。
鉄道まで津浪をかぶった。
鳴瀬川の堤防も越え津浪の水が流れてきたので堤防を高くする工事をしていた。
津浪はまず川をさかのぼってくるから川が意外と危険なのである。
大川小学校の悲劇は北上川を津浪がさかのぼってきたことにあった。

白萩地区というのは地名の考察では真っ白に土がばきとられるという意味だとかなるとまさにそうなっていた。
萩がはぎ取る意味だというのも謎である。

ここは牛綱村とか浜市にしても江戸時代の文書が残っているように古い村だった。
家が密集して狭い道があり写真のように松が道を覆っていた。
そこで思ったことはこの道はトラックなどが通れない道だと思った。
だからこの松が印象として残っていたのである。
何か隠された車も通りにくい場所とかイメージした。
実際はここは東松島の自衛隊の基地がありジェット機が飛ぶ所で有名だった。
その騒音で早い時期から移転問題すらあったのだ。
そういうことを知らないから隠された村のように錯覚していたのである。


いづれにしろここは自転車で一回だけ通っただけである。
それでもここがそこに住む人にとっても自分にとっても忘れられない場所になったのは
一回だけ通ったにしろその村すらほとんど消失してしまったことなのである。
津浪はこうして村ごと町ごと消滅させるから怖いのである。
ただ自分がとった松の写真の一本は確かに残っていた。
だから確かにあの道を通ったことは確かである。
それもなんともいえず不思議な光景としかいいようがない。
近くに津龍院という寺があるのも不思議である。津浪と関係あるのかとも思う。


帰りに陸前小野駅の鉄道線路の前で畑を耕す女性に聞いた。

「どの辺まで津浪が来ましたか」
「鉄道の線路を越えましたよ」
「ええ、あの線路も越えたのですか」
「今は移転している家が多いですがもっと家があったんです」
「確かに家があったようですね」
「松もありましたが塩水をかぶり枯れたして残っていない、塩分に強いのは欅です」
「ここも津浪をかぶっていますが大丈夫ですか」
「塩分に強い野菜をつくっています」
「そうですか、自分の近くにも津浪が来ましたが、津浪は低くても被害が大きい、いろんなものが流れてきますから」
「この辺もそうですよ,だから家を壊したのが多いんですよ」


塩分に強いというとき、松は弱いらしい、松は津浪には弱い、
ただ原始状態の混生林だと竹でも他の樹でも根を深く張るから津浪の衝撃に耐えやすくなるとか書いている人がいた。
松林は防潮林でも津浪を防ぐものではなく塩害を防ぐものとして作られていたのである。
津浪には竹藪のようなものがかえっていい、現実に相馬市の新田では竹藪があり津浪の勢いがそがれたとか聞いた。

今回の津浪ではいろんなことが問題になったのである。
それはあまりにも多岐にわたるものであり日本の国土を見直すきっかけとなった。

いづれにしろ自分にとってそこを通ったのは一回だげであり
それが今回の津浪でその通った場所が村が消えてしまうというのが信じられないことだったのである。

ともかく津浪はなかなか映像だけからでもわからない、現場に立たないと実感しえない。
あの野蒜の土を運び山を作っているのもその高さが実感しにくい、こんな高くしてどうするのだという感じになる。
そのことがいかに今回の津浪が高いものだったかを逆に証明しているのである。


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2014年04月29日

今回の津浪災害の責任論 (一体この世の問題の責任は誰にあるのか?) 今回の津浪災害の責任論 (一体この世の問題の責任は誰にあるのか?)

 

今回の津浪災害の責任論

(一体この世の問題の責任は誰にあるのか?)

●責任は個人にとどまらず必ず他人に負わされる

NHKのクローズアップ現代で生前に障害がある子供のことがわかるようになった。
それで中絶する人も多くなったがあえて産む人もいた。
その判断には悩んだというのもわかる。
障害者を産んだら生涯めんどうみなければならないのか社会でどう受け入れられるのかと悩んだ
それはすでに一個人の問題ではない、社会の問題でもあった。
社会で障害者をどう受け入れるのか、そんなやっかいな子供を生んでくれるなという
社会の要請もある。社会での負担も大きいからである。
すると産むか産まないかは個人ですら決められない、
個人ですべて負担しきれないからそうなる。
障害児を産み育てることは他人が無関係ではない他人もかかわる問題だったのである。

だからつくづくあらゆることの責任は誰にあるのかとなる。

離婚にしてもその影響は子供も一番受けるし回りも必ずまきこむのである。
離婚は別に二人だけの問題であり二人が責任をとればいいとはならない
子供も大きな傷を受けるし影響も受ける、回りも大きな影響を及ぼす
必ず離婚でも回りをまきこみ混乱させる。
親戚も混乱するしいがみあいにもなる。
だから離婚も二人だけの問題ではない。
その責任は二人だけではなく他者にも及ぼすのである。
そしてあまりにも無責任な結婚と離婚が多すぎるのである。
その責任は本人は負わない、離婚してすぐ生活保護を受けるとかするものもいる
そうした個々人の無責任な態度が社会の負担となってゆく


これは借金でも同じである。
見栄から借金しているのが実に多い、身の丈にあった生活をしていれば借金する必要はなかった。
でも借金して見栄を張り成功者を装っていた。
その責任は本人がとらない、他者に責任転嫁される。
その被害者が自分でもあった。
病気の時まで相手は借金で追い詰められているから自分を助けるところではない
「金をだせ、金をだせ・・」と請求される
弱者であり前からの関係もあり助けるものと思って頼った。
そしたら軽く一千万の機械を買ってくれとか要求してくる
何か頼めばそれだけの金を要求する
もし車を頼めば一回百万もとられるかもしれないような恐怖だったのである。
相手はそう思っていなくても事業している人の金銭感覚はそうなのである。
だからとても頼めないと思っていたがなりゆき上頼らざるをえなかったのである。
こうして人は自分の責任をとらない、他者にその責任をおしつけるのだ。
自分の弱さにつけこんで火事場泥棒にもあったし
こうして借金の要求をされて苦しめられたのである。
脅迫罪とは実際には害を与えなくても恐怖心を与えたことで罪に問われている。
だからこうして恐怖心を与えたものも罪に問われる
恐怖心を与えたものは何も感じていないのである


●津波災害の責任を誰に問うのか

今回の津浪原発事故の責任も一体誰の責任なのだろうか?
天災となれば責任は人間側にはないからあきらめるほかない
でも簡単にそんなであきらめつかないからいろいろ責任論がでてくる
古代だったら天皇に責任があったとか王様に責任があったとか
王様自体が責任をとらされて殺されたということもあった
それだけ被害が大きいから犠牲が必要になったのである


●津浪は天災だから責任が問いない
●津浪を警戒しなかった住民が責任がある
●津浪を警戒しないで逃げない住民に責任がある
●気象庁やマスメデアがNHKが適切に警告しなかった
●これは無念の死者の怨霊
●人心の乱れによる人間世界に対する罰としての災害
・・・・・・・・・

その責任を問いば一つではない、様々な複合要因でそうなったとなる
死者の怨霊とかは馬鹿げて非科学的だとも現代では批判される
でも相馬藩で700人溺死と一行しか記されないことが
今回の津浪の被害を大きくしたことにも通じていたことは確かである。
その責任は誰にあるのか、為政者にもあったとなる。
400年前の人に責任があるのかとなればそれはもう問うことはできないにしろ
400年前まで責任を問うのが歴史だということも認識されたのである。
その因果が400年前までさかのぼって問われたのである。
歴史の因果とはそうし千年でも二千年でも現代に影響しているということなのだ。


人心の乱れもそんなもの自然が起こすことであり科学的な法則として起こってくる。
プレートは人間の世界とは関係ない地球の規則的運動であり人間の世情とかとは関係ないというのもある。
でも本当にそうなのか?人間界が乱れる時自然も乱れることはありうる。
自分の一身上のことも関係ないのか?
なぜ自分はこんな非情な目にあわねばならなかったのか?
それはお前のカルマであり自業自得だとも言える
でもそうした非情があり呪いつづけたとき津浪原発事故が起きたのである。
他人の一身上のことなど関係ないというが自分にすればそうではなかった
そういう非情な目にあったときやはり自然も非情になり怒ったともとる
だから古代に無念に死んだ人の怨霊を恐れたというのもわかる
その怨霊と自然災害を関連づけたのもわかる。


貞観津浪や慶長津浪といった大津浪が起きた時は日本の歴史では混乱していた時代である
蝦夷征服で大和政権に殺された蝦夷の怨霊が問題になったのもわかる。
慶長津浪では戦国時代でありここでも時代は乱れ混乱していたのである。
その時は人心が乱れ殺された人たちの怨念に満ち満ちていた時代だったのである。
戦国時代から鎖国の300年は貧乏でも人心は安定していたのである
だから大災害も比較的起きていないのである。


明治維新以降は西欧化され日本的なものが否定され日本人の心は乱れた。
三回も大戦争があり犠牲者があった。
太平洋戦争では300万人死んだとか犠牲者があった。
明治以降は人心が歴史上最も乱れた時代なのである。
戦後60年は経済成長の時代であり確かに平和がつづいた。
ただこの高度成長時代は金だけが唯一の価値となり人間は非情化した
だから人心はやはり乱れていた。
そうして60年後に津浪原発事故が起きたのである。

 
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2014年04月28日

人間は自ら痛みがないと無責任になる (100円でも金を寄付することをしぶる、痛みがでてくるから)


人間は自ら痛みがないと無責任になる

(100円でも金を寄付することをしぶる、痛みがでてくるから)

津浪で家を流され家族まで失った人たちがこの辺でもかなりいる。
でも不思議なのはそうした同じ小さな町に住んでいても津浪の被害のない人は
その痛みを感じていないことなのだ
だから海老の浜で別荘があり他にも家があって流されたな・・・
あの別荘は一千万で売り出していたけどゼロになったなとか
そこで家族や家を失った人たちの痛みを感じないことなのだ
なぜなら津浪で何の被害もない人は感じないのである。

でももし人間は自分の金を百円でも千円でも盗まれたら頭に来る
それは金持ちだって同じなのである。
それは自分の金だからである。

ところが他人のものになると一千万で売り出された家も津浪で流されたな
もったいなかったなとかは言っても本人は全然痛みを感じないのである
だから被害にあった人からすればずいぶん非情だと思うだろう
現実に村自体消滅したような所でも同じ地域に住んでもそういう面がある
そうしたら他から来る人は興味本位で見に来る人はいくらでもいる
観光気分で来る人はいくらでもいる

それでも千円でも寄付しろとなるとそうはならない
なぜなら自分の出す金だから痛みをともなうからだ
すると千円でも寄付すれば痛みをともなうことになる
そしてその金がどういうふうに使われるか千円寄付した人でも考える
よそ事としてではなく自分の痛みがあるから真剣に考える
その寄付がどこかに寄付を集める人に勝手に使われるとかあると
千円でも寄付した人は怒ったりするのだ
それだけ寄付した人は当事者意識が生まれている。

ともかく何でも自分で金を出さない人は自分に痛みがともなわない
例えばある人は一千万盗まれたとか言っても何の痛みもない
それは他人の金で自分の金ではないからだ
でも盗まれた本人にすれば金持ちでも痛みがともなう
なぜ官僚が莫大な国の税金を無駄使いするかというと
国民の税金であり自分の金ではないからなのだ。
何兆円の金でもそれは自分の金ではない
もし自分の金から出していたら千円でもどう使われるか真剣になる
そういうふうに痛みをともなわない金は無駄に使われやすいのである


なぜ人は他人の苦しみに無関心なのか?
それは自分が何の痛みも感じないからなのだ。
人が殺されても痛みを感じない
でも自分がその被害者になったら死ぬまでも延々と恨みつづけるだろう
ついに復讐して殺すということもまでも毎日思いつめる
でも他人は痛みがないからそんなに恨んでも無駄だとか他人事として言うだけである。

だから同じ地域に住んでも家族が死んで家が流された人たちの痛みを共有していない
それは自ら何ら痛みを感じていないからである。
むしろ家と土地ある人はこの辺は値段が上がって良かったなとかなる
人間はつくづくそうして利己的なものなのである。

他人が一千万盗まれようが殺されてすら無関心なのである
盗まれる方が殺される方が悪いんだとかなり無責任でいられる。
それは自らが何ら痛みを感じないからである。
だから日常的に他人の苦しみには無関心なのである。
津波の被害者もあんな危険な所に住んでいたのがあまりにも無警戒だった
住んでいる人もにも責任があった
原発事故でも周辺地域は責任があり自業自得だとか言われるのである

具体的に金を払うということは金持ちでも痛みをともなっている
ただその金がどういうふうな金なのかでまた相当に違っている
百万円を建築現場で汗水流して危険を犯しても稼いだ金と
遺産のように何の苦労もしないで入って来る金は違っている

だから若い時苦労して土地と家を買った人は
その家に特別愛着があり離れたくないという

ところが遺産として家をゆずり受けた人にはそういう気持にならない
なにか家に住んでいても間借りしていたよう気分なのである。
その家を建てるために何か努力したわけでもなく
痛みが苦労がともなっていないからである。


でも結局、津浪の被害にしても家族や家を流された人たちが
その現場に立ってどういう思いになるのか?
それはその本人しかわからないのは被害のない人には痛みがないからなのだ
故郷を離れて避難した人たちでもあいつらは補償金でぜいたくしている
それらは国民の税金であり、多少でも自分でもその税金を出している
なんであんなに補償金がもらえるんだとかなる
反面避難した人たちもなぜこんな苦しみを受けねばならないのかということがある
その痛みもなかなか他者にはわかりにくいからである

つまり人間は他者に同情するとき、自らも痛みをともなわないとできない
それは一つの犠牲になる。
千円でも寄付すれば痛みがともない犠牲ともなる

つくづく他人の金だと無責任になる痛みをともなわないからそうなる
金は具体的に痛みをともなうものだからわかりやすいのである
どんな金持ちだって勝手に金を出さないのはそれなりに痛みをともなうからである
身銭を切るというのはそれだけ痛みをともなうのである。
それは貧乏人だったら百円の寄付でもすれば痛みがともなう
その差はあるにしても金持ちが全く痛みをともなわないかというとそうではない
その度合いは違っていても痛みがある


人間が他人の苦しみや不孝に無関心なのは痛みをともなわないからである。
少しでも自らが痛みを感じれば無関心ではなくなる
百円でも千円でも寄付すると痛みをともなうから違ってくる。
その時苦しんでいる人と不孝な人と共有するものがでてくる。
ただ口でかわいそうですねとか言ってもそこには痛みがともなわないからだめなのである
現実はその女性は口だけでは盛んに心配しているんだよとか言っているけど
全く愛情もなにもなかった
だから自分たちが借金で追い詰められるようになったとき
入院して苦しんでいる自分に借金を要求してきた。
一種の恐喝だったのである。
それには弱い立場にあったから逆らうこともできないから恐怖だったのである。

痛みをともなわない同情は同情にならない
でも千円だって人間は寄付したなくないのが普通である
自腹を切る、身銭を切ることがいかに少ないかでもわかる
他人の金なら税金なら湯水のように使うが自分の金だったらそんなことできないのだ

だからボランティアなんか無駄だというがそうでもない、
泥を運び津浪の被害の家で手伝ったことはそれなりに労働という痛みをともなっていたからだ。
だから人間は自ら痛みをともなわないと不孝な人たちとかかわれないだろう。
ただ歌を歌ったりしていたのでは痛みがともなわないから同情したとはならない
かわいそうですねとかは誰でも言うことができる、でも痛みをともなうことはできない

百円すら寄付することをしぶるのが人間なのである。
ただ何か痛みを犠牲をともなえば不孝な人たちと深くかかわってくる
それは大きな犠牲ではなくても百円の寄付でもそうだったのである。
百円すら一体どう使われるのだろうかと無責任にはならないのである。
一兆円とかでも自分の出した金でないとなんら関心がないのは自分の金ではないからなのだ。
この世のことを考えるときやはり金というのは具体的わかりやすいから例にされるのである

posted by 老鶯 at 17:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係

2014年04月27日

歴史もカルマだった (個々人にも国にも報いは必ず来る)

 

歴史もカルマだった

(個々人にも国にも報いは必ず来る)


歴史は繰り返すという時それは個々人のカルマと同じだった。
カルマの法則は厳しいし逃れることができない
カルマを意識しないことが多いがいづれは意識される
相馬藩政記に慶長津浪で相馬藩内で700溺死と一行記されていた。
それが見逃されていたのである。
それが今回カルマとなって同じ被害が生まれた。

しかし400年前の慶長津浪のことを知っている人はまれであり
海岸に接して住んでいた人もほとんど知らないだろう。
でもすでに400年前でも人が住んでいたからそれだけの被害があったのである。
この事実がほとんど看過されていたことの不思議である。
例えカルマは意識されまいが忘れていようが必ず現実化して起こる
カルマはいづれ個々人でも集団でも国単位でも意識される
カルマを逃れることごまかすことができないのである。

700溺死とあるときその頃の相馬藩の状況は戦国時代であり戦争のことや
跡継ぎ問題が主要な政治のテーマだった。
だから誰々が・・戦いで死んだとか跡継ぎの問題はことこまかに記されている。
しかし慶長津浪で死んだ人たちのことはただ700溺死としか記されなかった。
そこに為政者の大きな問題があった。
報道でも報道されないことが多々ありそこにマスメデアの問題が指摘される。
歴史でも常に戦争のことは大きく記されるが日常的な庶民のことは記されない

ドラマでも面白いから戦国時代のことは多く放送される
その他のことは放送されにくい、地方の歴史は全国版ではドラマ化されにくいのである。
今回相馬藩で津浪が起きたことか注目されたのは実際に津浪の被害があったからである。
だから相馬藩内で起きた700溺死という事実は大きな一つのカルマになっていた。
それが今回の津浪で否応なく意識されたのである。


個々人でもいづれはカルマを意識させられる。カルマの特徴は意識されないことなのだ。
自分になぜこんな苦しいことが起きるのだろうというときカルマか関係している。
この7年間の自分の苦しみも自分のカルマを清算させられるために起きたことが意識させられた。
なぜなら自分はそれだけ親に世話になりカルマを積んでいたのである。
なぜこんなに介護で苦しまねばならないのか?
そう問うとき、それは自分のカルマだったのである。
なぜ個々人でもこんな目にあわなければならないのかと問うとカルマだったことがわかる
カルマとは法則であるから原因があれば結果として必ずでてくる。
だからカルマから誰も逃れることができないしカルマの清算を要求される
借金がごまかせないのと同じく厳しくカルマの返還を要求されるのである。


歴史のカルマというと国でも大きいからわかりにくい、でも今回のように災害も単に自然の作用であり
人間にはどうにもならないとういことではなかった。
もし400年前の相馬藩内で700溺死ということを絶えず意識させられていたら
こんな大被害にならなかったかもしれないのである
カルマの特徴は個々人でも国単位でも意識しにくいのである。
わかりやすいのはアメリカが日本に原爆を落としたことは逃れられないカルマなのだ
だからアメリカは日本を恐れている、それはあまりにも歴然としたカルマ立ったからである
そのカルマはいつか返すことを要求される。
アメリカに原爆が落とされてカルマが清算されることになるかもしれない
そういう恐怖をアメリカからぬぐいさることができないのである。


戦争は何なのか未だにわかりにくい、善悪でも判断しにくい、戦争自体が人類のカルマになっているからだ。
だから何度も戦争というカルマをくりかえし人類は滅びるということも予言される。
日本の戦争にしても全部日本の非があるわけではない、
全体の当時の世界の政治関係で起きたことなのである。
だから日本だけを責めるのはかたよっているしアメリカも責められるべきなのである。
喧嘩両成敗なのが歴史でも同じなのである。
一方的に日本だけの非を責めるのは偏ったものとなるのだ。


ともかくカルマは意識されないことが一番の問題なのである。
歴史的に相馬藩内で700人溺死したという事実は大きなカルマだった。
ただそのカルマは400年の間に意識されず忘れていったのである。
当時の相馬藩の指導者も何か後世にとって重大なことかを記さなかった。
ただ跡継ぎ問題や個々の戦争のことばかり記していたのである。
その時700人溺死した民衆の苦しみを何も記さなかった。
それがある意味で怨霊ともなり今回の大被害にもなった。
何らの供養するものもなくただ忘れられ消えてしまった無念があった
だからカルマの報いは必ず来る
意識されなくても忘れてもまた再び歴史は繰り返し事実として起きてくる。

 
 
 
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2014年04月26日

慶長津浪で相馬藩政記に700溺死、伊達藩で5000人死亡 (この事実の重みを知っていたのか)


慶長津浪で相馬藩政記に700溺死、伊達藩で5000人死亡

(この事実の重みを知っていたのか)


慶長16年 1611年(11月13日)慶長三陸津波 相馬藩700人溺死、伊達藩5000人死亡とも

今回の津浪の被害で盛んになぜあんな危険な海岸に接して人が住んでいたのだろうと何度も言われる。
今になるとそれは当然である。
ただ浜通りなどではほんとんど津浪のことが語られないのだ。
確かに伝説のようなものが二三残っていた。
それについても知っている人は極まれだったろう。
でも相馬藩政記に700人溺死と記されていたことは今になると重大である。


相馬藩で700人、伊達藩で5000人死亡


この事実は今回の津浪と同規模だったのである。
この事実に一番驚愕しなけれはならなかったのは誰か?
それは今回津浪の被害にあった海岸に接して住んでいた人たちだった

津浪は毎日海を見ている人にとっては本当と一番怖いものである。

相馬藩でも宮城県でも海に面していても例えば自分の南相馬市でも
海岸に接している住んでいる人たちとそうでない人たちがいた。
海をじかに見て毎日暮らしている人たちとそうでない人たちがいた
今では松原などがあり海はさえぎられて見えない
海が見えないということは海を毎日意識することはない

ところが海に直接面して日々海を見て暮らしている人たちがいる。
この辺の浪は荒いからその浪の音を毎日聞いて寝る人たちもいた
その人たちにとって海は怖くないかと感じていた。

ただ自分もよく小学校前までゆくとそこからは人家が少なく
田んぼが海まで広がっているのでその小学校前まで浪にのまれる夢を見ていた。
今から思うとそれが津浪だったのである。
自分の住んでいる街は海からは相当離れていると思っていた。
だから海に対する意識は海に接して海を毎日見て生活している人たちと
海が近くても海が見えない浪の音も聞こえない
地域に住んでいる人たちの意識は相当に違っている。


相馬藩で700人、伊達藩で5000人死亡


慶長津浪でこれだけ死んだという事実を知っていれば恐怖感は違っていた。
それが毎日海を見て荒い浪の音を聞いて眠っている人たちが
この事実を知っている人はいたのか?
郷土史を研究している学者でも自分でも知らなかった。
この一行が注目されたのは今回の津浪か起きてからだったのである。


ただ時事問題の深層で相馬市の奥まで津浪が来ていてその砂が
ボーリンク調査で発見されたということを興味本位で自分も書いていた。
そんなところまで津浪が来ていたのということはあったが真剣に考えなかった。
それは貞観津浪の砂だったのであり400年前の慶長津浪ではなかった
もし400年前の砂だったら歴史的記載の事実と一致するから危機感をもったかもしれない。
貞観津浪のことは国史にも記されて京都の人たちにも知らされていた。
だからそのことは全国的に知られていたのである。
だから東電に警告したのは貞観津浪のことであった。
慶長津浪のことではないし相馬藩政記に700人溺死と記されたことを例にしていない


結局歴史の重大な事実でもそれが注目されていなかった
相馬藩政記にはことこまかに跡継ぎ問題や戦争のことは記されている。
でも700人溺死という事実は注目されなかったのである。
そのことに一番恐怖すべきは海岸に接して住んでいる人たちだった。
松川浦であれ海老村であれ烏崎村であれ萱浜であれ・・・
その海岸に接している人たちはその事実を知っていれば恐怖しただろう
それは宮城県地域ではさらにそうだった。


結局本当に当事者になるのは同じ地域でも地域によって違っている。
原発でも毎日原発の煙突を見て暮らしている人とそうでない人たちは危機感が自ずと違っていた。
南相馬市でも30キロ離れていたから自分では危機感をそれほどもたなかった。
となると危機感をもつべきだったのは津浪でも原発事故でもすぐ近くに住んでいた人たちとなる。
ただ飯館村などはそうした危機感とは遠い所にあった。
それは原発というものがどういうものかわからないことにあった。

津浪の後には被害者は海が怖くて近づけないとか津浪がトラウマになって
精神障害に陥っている人たちが紹介された。
それはこの辺でも3キロ離れたところで津浪の被害にあった人は海が怖くて近づけないという
何か幽霊でもさまよっているようで夜が怖いとか言う

実際に津浪の被害にあった人達とあわない人たちの差も同地域では大きい。

「八沢浦が元の美しい入江にもどった」ということを書いて被害者がここで泥に埋まった
子供の死体を発見されたのだと正気なのかとも批判された。
つまり同じ地域でも津浪の被害にあった人たちとあわない人たちは違っているのだ。

これは別に津浪でなくても日頃でもそうである。
人はいろんな困難に出会うし苦しみがある。
でも自分に関係がなければ無関心なのである。
あそこの家で何かあったのとかなるだけなのである。


だから今回も海老の浜が津浪の跡にタンポポが一面に咲いていて
明るさに満ちていたなどと俳句にした。
以前としてそんなことが言えるのかと被害者の立場にたてばそうなる。
ここで家族や家を失った人たちよすれば何が明るさに満ちているとなる
以前としてそこに長くいられなかったとかなる。
では自分もそういう気分になれというのだろうか
暗く沈んで悲しいふりでもしていろとなるのだろうか?
これもまた疑問なのである。
あえて喜ぶ必要がないけどやはりタンポポか一面に咲いていることは明るく感じたのである。
津浪の被害にあわない人たちは同じ地域でもそうなるからその差が大きいのである。


同じ地域に住んでいてももっと海側に住んでいた人たちは今になると
津浪のことを知って恐怖すべきだったとか言われる。
それは浜通りでも松川浦とか海老村とか烏崎村とかは海に接して家が密集していた。
だからその人たちと海から離れて住んでいた人たちの感覚は違っていたからである。
人間はやはり当事者意識が生まれるのは同じ地域でも違っていた。
犯罪でも近くで凶悪な犯罪が起きればテレビのニュースで遠い所で報道されるのとは
違った危機感をもつのと同じなのである。


歴史とはもともとは事実を基にしている。
その事実が忘れ去れる
何が事実かもわからなくなる
今になれば


相馬藩で700人、伊達藩で5000人死亡


この慶長津浪の事実がいかに重大なことか再び事実でもって証明されたのである。

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2014年04月22日

グローバル化時代には世界が他山の石となる (なぜ日本ではスマトラの大津波のことをもっと検証しなかったのだろうか)


グローバル化時代には世界が他山の石となる

(なぜ日本ではスマトラの大津波のことをもっと検証しなかったのだろうか?)

 


他山の石(たざんのいし)の意味
他の人のつまらないおこないであっても、それを参考にすれば自分を成長させる役に立つこと。

「他山」…他人
「他山の石」…他の人のつまらないおこない

「友人の失敗を他山の石とする」 


 

これは中国的大陸的発想なのだろう。中国は広いから他山の石とかは普通にある。
他山の石となると関係ないように見えても中国という広い国でも関係しているということが成り立つ。
日本人的島国的発想は他山の石をそもそも認めにくいのである。
村という小さな単位が生活の基本にあったから遠い国の価値もない石などに価値を認めない、何の関係もないと関心をもたない。
それが日本人の島国的偏狭性を作り出した。

ただ世界がグローバル化したとき、世界があらゆることで他山の石となってしまった。

毎日のように世界の出来事がニュースで流されるから他人事ではなくなる。
それでも日本人はそういうことを他山の石として価値あるものとして自分たちの生活に影響するものとしてとらえていないのだ。
それは島国的閉鎖的環境で培われた国民性である。

日本から離れた国で何が起ころうとそれが自分たちに何の関係があるのだと思ってしまう国民性である。
大陸は陸続きだから隣の国に異変があれば必ず影響する。
その危機感覚は相当に違っているのだ。だから外国の情報に対しては敏感になる。

日本は海に囲まれていたから海が障壁となっていて守られているという感覚になっていた
しかし日本は海についても他山の石だったのである。

なぜスマトラのあの大地震震度9があり大津波があったとき、それを他山の石としなかったのだろうか?
そのことが今になると不思議なのである。
絶えず報道していたのは津波に対する警戒態勢がなかったとか日本ではありえないことだったということばかりだったのである。
日本ではみんな逃げていたからあんなに死者は出なかったろうとという報道が体制だった
スマトラでは津浪に無警戒だったとか日本ではありえないとか思っていたのである。
津浪国でありながら他国の津浪を他山の石としなかったのである。


それは原発事故でもそうだった。チェルノブエリの事故も他山の石にすることはなかった。
日本の技術は優秀だという先入観があり安全神話が官民一体となり作られていた。
日本の技術が優秀だという時、すべての技術が優秀ではなかった。
それをとりちがいていたのである。カメラでは優秀でも原発という総合技術になると優秀ではなかったのである。
総合的な面ではアメリカの方が優れていたのである。


現代ではあらゆることで他山の石が要求される時代である。世界中のことに関心をもつことが要求される。
グローバル化がいい悪いということがあっても現実に世界が狭くなり結びついているから無関心ではいられないのである。
だから何が他山の石になるかわからないのだ。
一見つまらない世界の事件が他山の石となり日本にも参考になるし影響してくる。
そういう時代に否応なくさはんせられているのが現実なのである。


だからなぜスマトラであれだけ巨大地震があり大津波があったのにそのことについて日本でも恐怖しなかったのか?
いろいろな面から探求していないのか不思議だった。
日本ではそんなことが起こらない、警戒態勢があるから起こらない、人はそんなに死なないと思っていたのである。
あれだけの津浪が起こったのだから日本でももっと警戒すべきだった。
日本では津浪国でありあんなに人が死ぬことなどありえないと思っていたのである。
つまり他国の友人の失敗を他山の石とする とすることができなかったのである。

現代は世界中で起きることが他山の石とすべき時代となっている。
「あんなこと外国で起きているけど日本じゃありえないよな・・・・」
そういうふうに見ている人が多いのである。
でも世界に起きることが即日本にも起きるし影響するのがグローバル化の時代なのである。
グローバル化がいい悪いという面があっても世界が一体化することはさけられないのである。

それは自然現象でもそうなった。スマトラは日本との地震の関連性はプレートは違うし関係ないよと専門家さえそう見ていた。
でもあれだけの津浪の被害を見たら日本は震度9の地震が近くで起きたらどうなるだろうと真剣に検証してもいいはずだったのである。
日本人は海のことにもっと関心をもっていいはずだがなかったというのも不思議なのである。
スマトラも海に囲まれていたし日本も同じだった。

いづれにしろ日本人の島国的発想はグローバル化時代では危険である。
日本人は卑下することもないけど何か日本人は優秀なんだとか特別なんだという意識が
醸成されやすいのが日本の島国的環境なのである。
そういう面はあってもまた反面大陸的発想がないが故に他山の石的発想がない故に
日本は世界から孤立したり自画自賛になりやすい国柄なのである。
日本のいい面はいい面として認めることは否定しない。
でもあらゆることで日本が優秀だとはならないのである。


スマトラのように津浪であんなに死んだようなことは日本では起こらないよな
チェルノブエリの事故のようなことは日本では起こらないよな
日本は津浪国だし日本の技術は優秀だからな・・・・


こういう発想が日本人にあったからこそ津浪と原発事故が起きたともいえるのだ。
だから中国とかインドとか大文明を作り出した国に学ぶべきものはかなりある。
ところが現代だと中国でもインドでも何か後進国として見ている。
何も学ぶべきものがないとなってしまっている。
欧米から学ぶべきものはあっても中国とインドにはないと思っているのだ。
それは技術的な面ではそうでも文明は技術だけではない総体的なものだから
大文明を作り出した国に学ぶべきものはやはりあるのである。

ともかく諺など日本でもいろいろあってもそんなもの哲学とか宗教からすると低いものだと思っていた。
でも最近、いろいろ自分の一身上で深刻な経験を積んで諺(ことわざ)がいかに
人間の普遍的経験から生み出したものであり今も通用しているか身にしみてわかった。
「金の切れ目が縁の切れ目」というとき、これも全くそうだった。
金だけのつながりは必ず切れる。親戚でもそうだしそうういことは時代が変わっても変わらなかったのである。
むしろ現代では金がすべてになるときその言葉が最も適用されている時代になっていたのである。
他山の石もむしろグローバル化した現代にこそ最も普遍的なものとして通用するものとなっていたのである。

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2014年04月15日

津波の被害は現場に立って説明されなと実感しない (八沢浦の悲劇ー崖の上に上りぎりぎりで助かった)


津波の被害は現場に立って説明されなと実感しない

(八沢浦の悲劇ー崖の上に上りぎりぎりで助かった)

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名付ければ「命拾いの崖」なのか



八沢浦で現場で津波の被害の話を聞いた時ある程度実感した。
津波の被害はその現場に立たないとその恐ろしさが実感しにくい

「浪が前からも横からもきてここで合流したんですよ、
あそこの家の人はあの崖によじ上って助かったんですよ
白石から移り住んだ家族は何人か一緒に死んだからかわいそうでした
海岸沿いには30軒家がありましたよ
もう私等は貯金なんかしませんね、生きていたのがもうけもんですよ
家も何も流された人の気持などわかりっこないですよ
いくら言っても他人事ですから・・・・・」


前に書いた八沢浦は前に丘があるとないので明確に明暗を分けた。
意外と津波はみんな一様によせてこない、それを目の当たりに見たものと
見ないものの差は大きい。
一時テレビでも津波が渦巻いていたとき恐ろしかった
あそこでも崖の前で津波が前からも横からも押し寄せた時、どれだけ恐ろしかっただろう。
というのは八沢浦では海老でも崖の所や高い町があった所に高く寄せてきたという。
その浪が海老から下った鶏足神社がある坂でさえぎられて弱まって助かったという人がいた。
なぜあそこに津波が高く寄せたのかわかりにくい。
津波は一様な高さでは寄せてこない、ある所では高く寄せてきていたのだ。
それは海底の地形とも関係していたとか複雑である。


とにかくあそこの崖に上って助かったというとき、あそこの前の津波は空恐ろしいものだった。
その崖にしてもギリギリの線だったから津波にのみこまれる恐怖におののいていた。
その時助からない死ぬと思っていたかもしれない、その恐怖がどんなものだったか
想像もできない、ただなぜ自分が今回その話しで
ある程度津波の恐怖を感じたのかというとあそこの崖を見たからである。
あそこのぎりぎりで助かったということがあの地形を見て崖を見て実感したのである。
あの崖の上に逃れて助かった人が戦慄するさまがイメージできた。
だから津波の被害はその現場に立って被害を受けた人から聞けばある程度実感できる。
その高さと地形の関係が一目瞭然になるからだ。
だから津波の被害にあったビルを三陸の方で残すべきだというのはその高さ実感できなくなるからだ。
思った以上に津波は高いから想像できなくなっているのだ。


津波の被害は今でも残っている。こんな大きな石が流されてきたとか残っている。
それよりやはり津波は高さがわかるとその恐怖をイメージしやすいのだ。
あそこはあの崖が高さを示しているから実感しやすかったのである。
だからあそこの崖の上に立ってみて津波のことを想像すると空恐ろしいものがよみがえってくるだろう。
実際に「こんなに高いところに津波がおしよせた」ということが実感できるのがあの崖の上だったかもしれない、
あそこは何かそういう点で津波を知るのにわかりやすい場所に見えたのである。

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2014年04月13日

八沢浦の津波の被害にあった人に聞く (海岸沿いには30軒くらいあった)


八沢浦の津波の被害にあった人に聞く

(海岸沿いには30軒くらいあった)

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30軒くらいあった
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旭化成の工場

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流されてきた石

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この崖の上に逃げて助かった

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高い場所でも海に近く前にさえぎるものがなく被害を受けた。

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古歌にある長岩も完全に津波でくぐった
割れたようになっているのは前からそうだったのか
津波の衝撃のためなのか?


八沢浦でもここは前に障害となる山もない、距離的には一キロもないかもしれない、だからもろに津波を受けた。
海岸沿いに30軒くらいあったという、10軒くらいしかないと思っていた。
八沢浦は海老村とか烏崎村とかと違って被害が目に見えて見えない
磯部でもそうだけど村ごと壊滅したところは悲惨そのものである。
何も言わなくてもそこに立てば一目瞭然である。
でも八沢浦はそんなに家が密集していなかったように見えたのである。
ただ港とあるから港の機能があった。


江戸時代は浦になっていたから船が行き来していた。荷物を乗せる大きな船も行き来したから港となっていた。
だからそこには家が昔からあったとなる。
ただ八沢浦は明治に開拓ささたのだから明治以降にできた村だと思っていた。
一部は北海老村になっているから30軒流された家は江戸時代から港があったときから住んでいた人がいるかもしれない、
あそこは北海老村であり八沢村ではない、そこが間違いやすい。

旭化成の工場がある地点も高いようだがぎりぎりだったのかもしれない、あそこに建てたのは土地がなからだろう。それで助かった。
工場は土地がないからあういう土地としては価値がないところに立つことがある。
あの丘があるおかげで津波が防げてその背後の家は被害が少なくて家も残ったのである。

一方で前に何もない、海岸沿いとそこから一キロも離れていない写真にとった場所は家も破壊されてない。
この家は結構高い場所に建っていたのである。
でも前に何もなくもろに津波が押し寄せたからひとたまりもなかった。
浪が一方からではなく横の方からもおしよせたという、浪がこの辺で合流したようになり強さを増しておしよせた。

津波は地形によって変化するし強さの度合いも違っているのだ。
そしてあの崖によじのぼって助かったという、あの崖の下まで津波が来たのである
あそこて津波を見てから逃げたのか?それだけの距離があり時間あって助かったのか?
後ろが山であり津波を瞬間的に見てとっさに逃げたのか、でもほとんど時間はないから
津波警報がでてから逃げたのだろうか?

この辺は詳しくわからないがあの崖の上に立って津波が来るのを見ていたらどんな気持になったのか?
それは経験した人しかわからない、あそこでは海に面した崖の上の家族が子供をふくめて何人か死んで墓があった。
白石から移った人だったという。これも不運としかいいようがない。


その女性が言うにはいくら津波の怖さを言っても理解してもらえない、忘れられると言っていた。
津波の被害を近くであったとしても被害にあわない人はその怖さや苦しみを理解できないのである。
現実に自分も八沢浦が津波の被害にあったとき、それが江戸時代の浦のようになったので
入江になったので美しい八沢浦がもどったと報告した。
そしたらここで子供も死んで泥から取り出されたのだとか批判された。
しかし自分はいつもあそこが入江になっていたらどれだけ美しいかといつもイメージしていた。
正直そのことの方に関心があったから実際にそうなったとき浦になみ春の光に浦浪が光りよせたとき美しいと思った。
浦浪というのはこの辺では見ないのである。荒々しい浪しか見ないからだ。

そして八沢浦は家がまばらにしかないと見えていた。でもあの海岸沿いでも30軒もあったのである。
だからそれなりに瓦礫も流れてきたのである。
海老とかとは違ってもやはり被害がかなりあった。
その海岸沿い港は土台すらなくなって沼になってしまったのである。
津波が土台まで運んでしまった。それだけ強い浪が襲ったのである。
コンクリートの土台がえぐりとられるほどの津波の猛威だったのである。


その女性が言うには

「私らは津波の被害にあってから考え方が変わってしまいましたよ
もう貯金などしない、命があるだけでもうけものです
今を生きることです、明日のため将来のために用意して生きることはしません」


津波の被害にあった人は実際に人生観まで変わった。あまりの衝撃に命が助かっただけで良かったとなり
将来のために貯金などしていられない、死んでしまってはなにもならないとなった。
現実に家も何もなくなった人が多数いるからだ。
その人たちにとっては今生きているということが幸福になっているのかもしれない。
明日のことなど考えられないとなった。
これはそういう経験した人としない人の差は大きいのである。

人間はどんな体験でも苦しみでも経験しない人は理解できないのである。
だから津波の被害にあった人は被害の苦しみを言うけど介護の苦しみを言ってもたいしたことないよと言っている。
これもやはり自分としては納得いかないのである。

その人は介護の経験がないからそう言っているのだ。
それはみんな同じなのである。経験してみないとどんなことでも津波すらこれほどまじかにあっても
経験しないと実際に被害にあわないとわからないのである。

だから津波の被害にあった人と同じ町に住んでいても津波の被害にあわない人の差がものすごく大きいのである。
同じ町でもなんら被害がない人は無関心なのである。
でももしなんらかの津波によるダメージを受けたらこんなことにはならない。
自分は地震や原発事故での被害を受けているが津波の被害を受けていないから
津波に関しては何か同じ町に住んでいても他人事なのである。
だから面白がって写真撮って報告しているのかともなる。
津波の被害にあった人にしてみれば腹ただしいともなるのだ。

それは事故や事件でマスコミが取材するのとにている。
マスコミにとってそうした事故や事件は格好の餌であり別に助けるわけでもない
同情するわけでもない、報道して視聴率をとることが第一とされているのと同じである。

自分の場合は地元だから津波のことを関心をもって何が起きたのか追求している。
これも一つの郷土史だということもあるからだ。
郷土史として記録しておくことも必要だからである。

その女性はすでに仮設に一年いて家を建てたから良かったという、仮設にいても将来がない
仮設は早くでるべきだと言っていたのは同感である
復興住宅にしろ小高に帰るべきであり仮設ははやく去るべきところなのである。
近くで烏崎の人が家を建てたがこれもほっとしているだろうなと思う
家もなくなってどうしよかと途方にくれていたのだから家ができたということは安心する
その人も家が建てられたから安心したと言っていた。

ともかく港は前も防波堤が台風で決壊して海の水が流れたこんで被害があった。
干拓した場所だから低い場所だった。
その時、ここは危険だと感じて他に移れば助かった
でも人間はなかなか長く住んでいる場所から離れられない
よほどのことがない限り離れられない
自分もここが不便で嫌なことがあっても土地と家があるから離れられないのである
だから人間と危険なところでも住み続けている傾向があるのだ。

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2014年04月10日

津波の後の三年後磯部台畑を春に訪ねるエッセイ


津波の後の三年後磯部台畑を春に訪ねるエッセイ

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台畑

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寄木神社

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その畑は隠されていた。家の前の一区画の小さな畑である。ここは小高い丘であり崖のようになっていてそこを上らないと見えない、たまたま残雪の蔵王が見えて桜の木があっておりしも咲いたのでその桜を視界に入れた写真をとろうとその崖を木の根につかまって上った。そこに思わず畑があった。そこには梅林があり梅がまたおりしも紛々と匂っていた。確かに家は下から見えたのだがここに畑のあることは梅が咲いていることは見えなかった。


ここに上ってみたらここは複雑な地形であり丘陵でありそこに家があり畑があった。地名は台畑だからあっていた。
そもそもこういう丘に住むということは不便だと思う。上ったり下りたりするのも不便である。ここに人はいつから住み始めたのだろうか。人と土地の関係で大事なのは一体いつからそこに人が住みはじめたかである。江戸時代から住みはじめたらそこは古い場所である。でもここは住みにくい場所である。だから意外と新しい場所なのかもしれない。

その小高い丘の上から下る畑の中に道があった。そこの畑には人がいた。こういうところに家があり人がいることか意外だった。その畑の下りる道に薪を積む家があった。薪の風呂に入っているのだろう。結構薪を積んだ家を街中でもみかける。薪の風呂はあったかさが違うという。だから薪の風呂は今は贅沢である。確かに家が見えても隠されるような場所にあった。なぜか地名に一畑とかある。それは一つの畑である。小さな畑かもしれない。
一反田という地名もありこれも人が住み着いて名付けられた地名である。
日本では土地が狭く耕地が山が多く得難い、だから畑にするにしろ田にするにしろ平坦な地は少ない、だからこそ海側に平坦な地を求めて開墾して広い田を作ったのである。

そこが今回の津波で被害にあった。
狭い土地でも畑にするといろいろなものか収穫できることがわかった。小さな一つの畑でもそれなりに野菜がとれて収穫がある。だから自給自足するくらいのものはとれたといえる。だから小さな一つの畑でも田でも日本では貴重なものとなっていた。

この隠されたような場所の不思議はすぐ下まで津波が推しよせていた。磯部村は人家も多くそこは壊滅した。その人家が密集していたところは原始の状態では砂州のようになっていた所である。なぜそんなところに家が密集していたのか?
その後背地は広い干拓された田であり津波で一時広い湖のようになったことには驚いた。この小高い丘から高い丘の方の家は津波の被害をまねがれた。

磯部では500人が死んだとか被害が大きかった。だからこの小高い丘に住んでいた人は助かったのだからほっとしているだろう。

磯部村はもともと古磯部という地名があるようにそこも入江になっていてそっちに先に人が住んでいた。その入江は狭く干拓しやすかったのかもしれない、その低い場所に住んでいた家は流された。その家の数は少なかった。今回壊滅した磯部の海岸沿いは悲惨すぎた。今や何もない、そこは松川浦とつながっている。
そして寄木神社というのがありこれも津波からまねがれた神社である。石段も残っていてそれからまた上だからかなり余裕があった。この神社の謂われは何なのか?
石巻の方から移住してきたとか碑に記されてあった。姓は君島である。

磯部村は江戸時代からありここの津波をまねがれた隠された土地はむしろ新しく人が住んだ所かもしれない、不便なところだからあとから開墾して住み着いた。その丘の平坦な地に畑を作り家を作った。斜面も畑になっていた。

ここで感じたことは人間の住む場所は特に日本のような狭い土地の少ない場所ではこうした丘のような所でも人はすむ。むしろ壊滅した海岸沿いの村はもともと人が住むには不自然だったのである。こうした小高い丘にこそ人は先に住んだのである。
ただここが住んだのが江戸時代からであり古いのかはわからない。古い碑などがあれは目安となる。墓地もそうだが墓地はもっと高い場所にある。

しかしそれにしても今回の津波だけは恐ろしいことはなかった。津波の被害にあった人が家が上に吹き上げられたのをこの丘から見たという。その人も被害者だった。その光景を見たら信じられないもであり恐怖におののいたろう。
津波から三年目にしても磯部でも何ら変わっていない。荒寥とした風景があるのみである。ただ新しく道路が松川浦の方に向かってできたのは変わっていた。

磯部からも残雪の蔵王が大きく見えていた。前に家がなくなると視界が開け蔵王が見えやすくなったのだろうか、こんなに蔵王を見えたことはなかった。蔵王がかなり迫ってきて見えるのである。ここから蔵王までの距離は相当にある。それでも見えるのだからやはり蔵王はかなた標高が高いことがこれでもわかる。山は美しく見える場所がある。
富士山でもそうである。山は見る場所や視点によって見え方がみんな違っているのである。だから山を知るにはそうしたきれいに見える場所から見ることである。
山形県側から見ると蔵王は美しくに見えないのである。


こうして小高い丘の上にその隠された家があり一つの畑がありそこに紛々と梅がにおい桜が咲いてかなたに残雪の蔵王が見える風景は美しい。原初の状態にもどれば今田んぼになった所も一時海のようになったから入江の浦のかなたに残雪の蔵王が見えた。
この丘の方に新しく家を建てた人もいる。もう海岸沿いには家は建たないだろう。
一つの畑が丘の上に隠されるようにあり家もあり何かここに春の平和を感じた。

やはり寄木神社などはその土地の一つの拠り所であり最初に住んだ人が祭ったのだから
その土地の先祖を祭ったともなる。だから津波で壊滅した磯部の海岸沿いをその神社から見る時何か不思議である。

要するにその神社を要として村が開かれその子孫が代を重ねてすんだ。その碑にあった君島とかはその土地に最初に住み着いた人なのだろ。その神社はその土地の根っこのような存在だったのだろう。今、その神社に立ってみると全く津波の前とは違った感懐を抱くのである。これだけの人家が消えてしまうと磯部村そのものが成り立たなくなるだろう。
三分の二以上消失したら村が成り立たない、未だに磯部の人は仮設に住んでいる。
ここでも復興するとはどういうことなのだうと思う。ここには人が住まないとなると復興は別な土地ではじまるとなる。
ただ村の根っことしての神社は残っているという不思議があるのだ。


隠されて一畑に人梅匂ふ

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八沢浦と磯部の地形と神社 (津波との関係は・・・)


八沢浦と磯部の地形と神社

(津波との関係は・・・)




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蒲庭に行くところ

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この熊野神社江戸時代に祭られたのか


磯部村

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寄木神社


 窪地が選ばれた理由には、都市域の拡大とともに、寺院が時の権力者によって強制的に郊外へと移転させられたことが関係している。寺院の移転先は、当時はまだ、利用されていなかった土地が多かったのだ。利用されていなかった場所とは、谷戸や窪地、湿地などのことである
http://matogrosso.jp/suribachi/suribachi-12.html

仙台藩では大規模干拓が行われ、60万石から220万石まで増産した。その過程であらたな干拓地への移住が行われ、元の集落の本社から新集落への分社もあったはず。

まず移住、条件のよい場所へ分社の設置が行われ、その後干拓の進展によって海岸線が後退、集落は前進していく。そして現在、当初の集落の位置と等高線を反映した場所に神社が残っており、相対的に標高が高く、海から距離があったことで、結果的に津波を免れやすかったのではないか。
http://shinonome-do.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-7a92.html


権力者によって作られ街はかえって整然としている。権力者が真っ直ぐな道路を作る時必ずそこに住んでいれば障害が生まれる。
でもまっすぐな道路を作ることは便利になる。
だからローマ帝国ではまっすぐな道を作った。
日本でも大阪には緑地が少ないという、江戸にはそれなりに緑地があるのは
幕府の権力が強く緑地を残したということもインターネットで読んだ。
寺は武士に所属する官僚のような役目をになっていた。下部権力構造として幕府を支えていた。
でも権力者の都合で不便な土地に移転させられた。

不便な所に住むのは草分けとかではない、あとから入ってきた人や草分けから分かれて土地を求めた人は当然悪い土地、
不便な土地に住み着くことになる。
いい場所はすでに開墾されて人が古くから住んでいる土地だからである。

縄文時代は人は自然にさからなわないで逆らえず住んでいた。
まず稲作のために海を埋め立てたりできない、そんな技術力がないから自然条件に適合して生きる他なかった。
だから湿地帯とか海の平坦な地には住まない、だから津波が来るような場所には住まない
高台に人が最初に住んだという時、平地はヨーロッパでも湿地帯であり
害虫やその他のバイ菌などが発生するので高台に住んだのは同じである。


八沢浦では明治になって開拓された。江戸時代までは入江であり浦であり海が奥まで入り込んでいた。
それは今回の津波で一時その江戸時代の風景が再現されて驚いた。
それで妙見神社が海近くに祭られていて流されたのである。
神社の関係では熊野神社がこの丘の反対側の小高い丘にあり祭られていた。
八沢浦は明治時代以降住み始めた人が多い。
でもここは江戸時代から住んでいたかもしれない、熊野神社は古いからである。
ただ前は入江の海になっていた。でも小高い丘だからそこには住めた。

今回の津波でこの丘が防波堤になりその反対側の家は流されたりしなかった。
浸水しても家は残り今も住んでいる。

津波が来た時も津波がきた瞬間でも裏山に逃げれば助かった。
実際逃げて助かった人もいる。逃げ場家の後ろだから逃げやすい。
神社まで逃げなくてもちょっと上れば助かった。ここでは人は死んでいないだろう。
津波は地形によってその影響がかなり違っていたのだ。
新地相馬の火力発電所が海岸にあって被害が少なかったのはちょっとした地形の差にあった。
原町火力発電所はもろに津波をかぶってしまったのである。


蒲庭から古磯部の入江に牛頭天王神社が高台にありこれ津波からまねがれた。
古磯部となると磯部より古いから古がついた。
もともとはここが磯部の地名の発祥地である。
松川浦の方には後から人が住んだとなる。
ここも開拓された浦沿いに人が住んでいて津波で流された。
ただここは丘があり丘にもともと人が住んでいたところである。
だから磯辺小学校のある丘に住んでいる人には被害はなかった。

稲荷神社と寄木神社もこの丘の所にあり津波の被害からまねがれた。

神社は一般的に高い所にある。それは八沢浦にしても前が海であり低地には建てられない、
牛頭神社もそうである。あそこも入江だったからである。
磯部は砂州のような低地でありそんな危険な所に神社は建てられない。
だからこれらの神社は津波が来るすれすれではない、余裕ある高さに位置していた。

ただインターネットではしきりに学者でも津波の被害を経験していたから
その津波の被害の経験から津波の来ない高さに神社を祭ったというのは違っている。
もともと神社は津波を警戒して建てられた形跡あるものはわずかである。
津波は今回でも400年に一回くらいしか来ないとすると川の洪水のうよには警戒しない
もともと古ければ古いほど高い所に建てられる傾向かあるのが神社である。
高いところはそもそも理屈なしで神様がいるにはいい場所だからである。


津波は地形の影響が大きいという時、日本ではそうした警戒感がなく津波に流されるように街を作っていた。
磯部でも砂州のようになっている所に家を密集して作ったので壊滅した。陸前高田市でも三陸でも津波をもろに受ける場所に作っていた。
それは百年前とかにも大被害があってもそうしていたのである。
そこは仕事するのに便利だから同じように人が海近くの低地に生活するようになった。

そして今回の津波の被害を大きくしたのは稲作とも関係あるのかもしれない
海老村でも漁業するより稲作をする場所として最初に南海老村があり北海老むらになり
上海老村とか下海老村とかに分かれた。
海老村というと漁業の村のように思えるが実際はその前は稲作をしていた田んぼだった。

それは烏崎村でも一見漁業の村のように見えても袋村が消えたように開拓して田を作り広げていたのである。
漁業だけで村が生まれ発展するということはなかなかない

海はそもそも危険であり船を作る技術なとが進まないと住めない地域である。
それを象徴していたのか鳴瀬町の牛綱村だった。
漁業で使う網のつなを作り浜町に運んでいたからである。
浜市とあっても背後に農家がないと成りたたないのだ
漁業だけで生活するのは初めは無理だった。


そして浜側に家が密集したのはその後ろが広い田んぼになっている。
その田んぼでは米をとるので家を建てにくい、すると海側の狭い地域に家を密集して建てたということもある。
日本では土地がすくない、田んぼにする土地が少ないから苦労してきたのである。
家として確保する土地より田んぼとして土地を確保して家を建てるというのが順序だったかもしれない。
それで海岸の砂州のような危険な場所に家か密集したということもありうる。

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2014年04月08日

八竜神社と津神社は慶長津波と関係していたのか (津神社は二つは確実だがあとは関係していないと推測)


八竜神社と津神社は慶長津波と関係していたのか

(津神社は二つは確実だがあとは関係していないと推測)

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高台にある鹿島区川子の八龍神社


八龍社
大同元年(806)上栃窪村 八龍明神 天津彦火々出神 近代冠嶺神社
永長元年(1096) 江井村(館内) 八龍社 大綿津見神 江井氏の守護神
永亭(1437) 馬場村 八龍大権現 大綿津見神
文安2年(1446) 萱浜村 八龍大権現
天文十三年(1545) 小島田村 八龍大権現
元亀元年(1570) 萩迫村 八龍大権現 綿津見神
天正年中(1573ー1592) 川子村 森山 八龍大権現
烏崎村 八龍社?

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川子の森山の八龍社ができて何十年後に烏崎村の八龍社ができたのか?
順序としてはそうなる可能性が強い
ただ百年後とかではないからその時間差が何を意味しているのか
30年後とかに作るのか
神社がなぜ作られたのか不明なのが多いのである。



津神社

大宝二年(702) 棚塩村 津大明神(貴船大明神) 高霊神(たかむすび)
(貴船宮 祭神 高霊神(たかおかみのかみ)
祈雨・止雨の神として水を掌る神)

慶長年中 烏崎村 (牛島) 津大明神
享保年間 北原村(1716ー1736) (本屋敷) 津明神 3月23日祭り


烏崎村の八龍神社は津浪が来た水位ですれすれで残った。
これは何かと不思議に思うのは当然である。
慶長津浪の後に作られたから津浪を知っていて祭ったからあの高さに作った。
急な石段を上るからそういうふうに見える。
しかし神社の謂われは意外と古く、東北でも古い。
古代にもさかのほり大同村とかあるように蝦夷の大和王権の征服と関係して建てられた神社が多い。
鹿島神社もそうである。
これは国津神系統である。征服神である。

その他の無数の神社は何を祭っているのか、何に由来しているのかわかりにくい。
しかし調べてみると古い時代のものであることがわかる。

1611年12月2日(慶長16年10月28日)に起きた津浪の前にできたものが多いのである。
八龍社にしてもそうである。烏崎村には慶長津浪の起こる前に南北朝時代に霊山から逃れた桑折氏などが住み、
その系統の遠藤氏がすでに住んでいた。
だからいつ建てられたのかというと慶長津浪より前だと推測する。

その重要な手がかりが川子村の高台の森山にあった。
そこの八竜社は目立たないので新しいと思ったが古かったのである。神社は新しいようで古いのである。


天正年中(1573ー1592) 川子村 森山 八龍大権現


これは慶長津浪の前にできたものである。
その後、20年後に慶長津浪が来ているからこの時間差が何を意味しているのか?
一つの予測としては川子の八竜社ができて次に順序としては烏崎村に作ったと推測される。
ただこの逆もありうるが順序としてはそうなる。

八竜社に共通しているのは綿津見神である。
海の神であるから海と関係していたとしてもあとはまた違ったものとなっている。
自分の予測ては慶長津浪の前に建てられたのであり偶然に津浪のすれすれで残った。
もし本当に慶長津浪を知っていて建てたならもっと津浪を怖がるから高く建てるということも考えられる、
すれすれでは危険だからである。
慶長津浪の高さがその時烏崎でどのくらいの高さまで来たかはわからない。
だからなんともいえないことはある。

一方津神社を見ると


大宝二年(702) 棚塩村(浪江町) 津大明神(貴船大明神) 高霊神(たかむすび)


貴船宮 祭神 高霊神(たかおかみのかみ)
祈雨・止雨の神として水を掌る神


この津神社は何なのか?これも貞観津浪とかは関係ないだろう。
津神社というのは岐阜県にもあるからこれも津浪とは関係ない
津とついているからと津浪とは関係ない


確かなのは烏崎村の牛島の津神社は明らかに津波を記念した神社だった。
なぜなら慶長年間に祭られたとすると時代的にあっているからだ。
海岸沿いにあるのはおかしいとなるがそこが鯨を祭っていたというのは
津波で鯨が打ち上げられたからかもしれない、そういう例は他にもある。
それで鯨を祭るようになったのかもしれない。
だから海岸に接してあってもとかしくないのである。


享保年間 北原村(原町区)(1716ー1736) (本屋敷) 津明神 3月23日祭り


この神社は慶長津波から百年後に建てられている。
これは高い所にあり今回の津波でもあの高さまでは来ない高い所である。
それはなぜなのか?なぜ百年後にあそこに建てたのか
慶長津波と関係していたのだろうか?
もし慶長津波を知って建てていたらあの高さに建てれば津波は来ない
だからこそ建てたとなる。
でも百年後になるとする津波の記憶もうすれているはずである。
なぜそのころ建てたのかという疑問になる。
伝承として伝えられたからあらためて建てたのだろうか?

相馬市の津神社(つのみや)は津波が来たとき逃げれば助かるという言い伝えがあったという。
あの高さでも危険ではあったがまねがれる位置にあった。
だから津波と関係して建てられたのだろうとなる

結局相馬郡では慶長津波でもその伝承は二三残っていたとしても希薄だった。
だから津神社にしても津波の伝承は明確に残されていない
神社が津波から残ったのはただ偶然だったともなる。
平地で津波か来た地点にあった浪分神社などは明らかに津波の来た地点を示していた。
その他はどこまで証明できるのかかてたむずかしい作業である。

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2014年04月07日

海老村に残った二本の松の根 (津波の時以来そのままの海老村に土筆が生える)


海老村に残った二本の松の根

(津波の時以来そのままの海老村に土筆が生える)

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家消えて津浪の跡に土筆かな

津浪跡根のみそ残り松二本海老村消ゆも土筆生えにき
凄まじき津浪を語る松二本根のみ残りて春北風(はるきた)唸る

場所替えて海老村の人のこの町になお根づきつつ生きるものかな

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STONEGGG1222.jpg


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山の激流を感じる庭である
この庭は見物である
ここからは海も一望できる


壊滅した海老村は三年過ぎても何も変わらない、その時のままである。
ただ春になり土筆が生えていた。
なんか今回の津浪や原発事故周辺の不思議はかえって
自然の方が復興していることなのだ。
津浪の跡にも土筆が生えタンポポも咲いていた。
土筆が生えたということは自然は復興しても人間の方は復興したとはならない

原発事故で人が住まなくなった飯館村行く山の道には羚羊がでてきた
人間世界の不思議はもし人が住まなくなったらどうなるのか?
それは元の自然が回復してゆく不思議である。

人の世界は消えても自然は元あった自然に回復する
それは東京のような大都会でも未曾有の災害が起こり巨大な街が消失しても
その跡にはやはり自然が回復してゆく
野が森が海が回復してゆくことは美しい自然がまたもどってくるということなのだ
この辺は別に美しい自然はあった。ただそこにさらに元の自然にもどってゆく


いづれにしろ海老村の跡は津浪の起きた時と同じであり何も変わっていない
だからよそからきた人はこれを見れば津浪のすさまじさを一目見てわかる。
この二本の松の根は残された。
海老村は墓地を残して消えた。でもその住民はこの土地にまだ住んでいる
三陸の方では住まない人も多くなっている。
こうしていつまでも荒れ果てた状態になっているのか?

復興とは何なのかこの辺では三年過ぎても同じである

変わったのは富士旅館である。
その庭か芸術品なのである。
激流か流れてその上に石の橋がかかっている
石がごつごつした山の磐の道が作られている
ここは旅館なのだろうか
まだ人は泊まったり使ったりしてはいない
ただ前に家がなくなり海が一望できるしこの石の庭は圧巻である
春北風(はるきた)がまだ唸っていた

posted by 老鶯 at 21:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係

2014年03月10日

津波原発事故から3年過ぎて (なぜ復興はすすまないのかー文明の崩壊現象が起きている?)


津波原発事故から3年過ぎて

(なぜ復興はすすまないのかー文明の崩壊現象が起きている?)



東北の被災地は被災前から高齢者が多く過疎化していた。神戸の復興は震災後2年すると仮設住宅からでて、自力で再建の道を進む人が多かった。都市部で人口も多く、若いひとたちは立ち直って新たな生活を築く力があった。
http://himawari-gumi.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-0e49.html

地方都市に行くと、農地の中に住宅がばらばらに点在して、これではインフラの整備が大変だろうと思う。日
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/90e61af78b413efff3f2ebf6c9ed7122


 被災者の人々は、被災前の元の街に戻してほしいという希望が
あると思うのですが、全てが流されてしまった被災地を元通りに戻すのは
現実的には不可能なんおではないでしょうか。
http://ainodennsyobato.at.webry.info/201303/article_7.html


被災地で緊急を要する事案であるのに、
通常ルールで申請をして、
許可を得なければならない。
また、復興交付金制度を使い山を削ろうとしたら、
今度は都市計画設計をしなければならないという
ルールもある。




今回の災害はあまりにも大きかった。どこがどうなっているのかも近くでもわからない。だから一体どう復興を進めていいのかもわからない、原発事故周辺は津波の被害もあってかさなり何らすすんでいない、今回の復興がすすまないのは社会自体の文明自体の崩壊現象のようなものが起きたからではないかとも書いてきた。
それほど被害が大きくどう理解していいのか何が起きたのか今でもわからないものがある。放射能汚染だってこれも今でもどこまで有害なのかもわからない、その原因をあげたらきりがないだろう。それはすでに現代社会自体の様々な矛盾や問題が災害とともに一気にふきだした感じなのである。


この災害によって今の社会の文明社会の隠された問題も表面にでてきてむきだしになった。だから文明の崩壊現象のようなことが起きた時、それを簡単に復興することはむずかしい。もう前のようには元どおりにはならないというあきらめ感もでてくる。
大きく言えば新しい文明の再構築すらせまられているのかもしれない、そうでなくても今までの規制の社会に基づいた考えでは復興はない、それほどまでに破壊された恐怖だった。だからもううちのめされてあきらめるになる人も高齢化社会ではでてくる。
高齢者は老後は楽に暮らしたいという人が多いからそうなる。
そして肝心の若い人は流出してゆくときさらに街の再建や復興は絶望的になる。


ともかくどれだけの問題がここに生まれたかとても手に負えないものとなっている。
縦割り行政の問題もある。国と地方が対立していることもある。地方自治力の衰えがあり国指導になってうまくいかなこともある。そのことは別に災害前にもあったことが震災後に露骨に現れたにすぎない、すべての問題が震災のためではない、すでにそういう問題が噴出する根は震災前にあったのである。
だからインカ帝国などが滅びたのは簡単に何百人かの侵略者によって滅びたのはその社会がそのシステムが機能しなくなっていて外部からの侵略者によって簡単に滅びたとも言われる。

何かそうした文明のシステムの弱体化とか機能不全状態に陥っている。問題が災害とともに噴出した結果、いろいろ問題が山山積みであり解決しない、人手不足でも深刻であり福祉の建物ができてもそこで働く人がいなとかなり建物より人の確保が大事だともなる。

だから再建しようとするとき今までの社会のモデルを参考にはできない、全く新しい発想が必要だというのもそのためである。
一面これだけ破壊されたらそこには全く新しい構想の街も作りやすいということはある。規制の概念にとらえられない街作りも可能になる。
ただそれもまた少子高齢化で担い手がいないとかなんとか問題が山積みなのである。


歴史をふりかえると農業や漁業や山林業など一次産業主体の社会だったら比較的復興はしやすかったのかもしれない、別に道路だ、水道だ、建物だ・・・と言ったインフラは必要ない、もともとその土地での自給自足を基本にしていたのだから例え津波で水田がだめになってもやはりそれがまたチャンスとなって相馬藩からもわざわざ伊達藩に開拓に入っている。今は農業でも第一次産業主体でないからこの際跡継ぎもないから高齢者ばかりでやる気もないからやめるというふうになってしまった。
高度成長期のような社会ではなく衰退する成熟する社会で起きた大災害でありそれで復興もできない、それはもう個々ではいくら努力しても無理でありもう社会自体が沈滞化して衰退してゆく、街の復興などももうできないというあきらめになってしまう。


まず復興住宅にしても数パーセントしか達成していない、その数が膨大なことと土地も膨大であり進まない、その後の生活設計も見えてこない、だからすでに津波でも原発被害でも被害がひどい街は放棄されつつある。新たな場所に移って再建をはじめている。
飯館村でも長泥地区では建築業の人が福島市に移り再開したからもうもどらない。
農業中心だったら土地が必要でありそんなことはできないが今は飯館村でも農業だけでは成り立っていない、それなりに会社があって工場があって成り立っている。
それはどこでもそうでありだから土地に制約されないとすると他に移っても抵抗感がないのである。


国主導の復興に問題があるとしても予算は国からでくから金をにぎっているのが国だから地方自治体は従わざるをえない、現代とは地方の地方の自治力が弱体化していたから災害でもそうなる。つまりすべての問題は災害によって起こったわけではない、その前からそうした問題は指摘されていた。それが震災であらわになっただけなのである。
だから個々の努力が必要にしてもそこには限界がある。
今までにない新しい社会の構想が必要になる。でもそんてものが簡単に見えないし作れないのである。ただ文明の崩壊現象が起きているからそれほど何か新しいものを作り出すものが必要になっている。


そういうことは明治維新の時にも起きた。社会を根本から作り直す必要にせまられたのである。戦争に負けた跡もその焼け野原は今の壊滅した市町村の状態ともにていた。
ただそうした歴史をふりかえっても今回の方が再建は復興はむずかしいようにも見える。インカ帝国のように社会自体が文明自体が衰退してゆくときに起きたことだからである。つまり大きな文明的問題に直面しているから復興がなかなかすすまないとも言える。
個々の問題は山積みでもそうした大きな社会文明の転換さえ要求されいるうような巨大災害だったのである。




文明が崩壊するのは、「脳が文明を手に負えなくなる」からだ。本書はそう主張する。マヤ、ローマ、クメール、どの文明も、始めは不利な環境や障害を克服して立ち上がった。その後も予想を上回る困難に遭遇するが、創意工夫や多様性で乗り切っていく。しかし、やがて、潜在的な問題が複雑さを増してきて、正しい解決方法を考えることが難しくなる。そして遂に、文明がもつ知識で解決可能な「認知閾」を越えてしまい、問題を次世代に先送りするしかない状況に陥る。これが、文明の滅亡のプロセスだという。

http://honz.jp/9606

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2014年03月06日

津波原発の緊急事態に即断できなかった (大川小学校でもそうだが集団行動では緊急時には対応できない)


津波原発の緊急事態に即断できなかった

(大川小学校でもそうだが集団行動では緊急時には対応できない)



「この山に子供を上がらせても大丈夫ですか?」、住民は「ここまで津波は来ない」と言っていたのを聞いていました。教師は、「学校の方が安全だから残った方がいい」と、小学校6年男子は「山さ逃げだ方がいい」とそれぞれ訴えていました。その後の惨事だった。

大川小のワケワカ行動は偶然校長が不在だったことがすべてだと思う。

個人の中で、危機的自覚、状況の把握、最悪の状況の想定、自分の存在と責任をかけた行動の選択
このプロセスが行われていれば、結果はもっとメリハリのあるものになっていたような気がする。
結局、いきなりの集団稟議体制で情報の錯綜、留保、遠慮、妥協が続いてズブになった感がある。
普段から校長がいなければ話は違ったろうし、いたとしてもどこまで役に立ったかは判らんがw



緊急時代になるとそれぞれがどうして判断していいかわからなくなる
大川小学校の悲劇もそうだった。急に強烈な地震が来ても津波が来るといってもどう対処していいかそれぞれがまちまちになる。
そんな議論をしている暇に時間がたち津波に襲われる。議論しているその危険が何なのか調べたり判断する時間がないのである。
即断しないと助からなかったのである。
でも誰が即断するのか?校長なのか教師なのか、普通だったら校長であり校長の命令にしたがって避難すればいい、
でも校庭に生徒を並べて集団で避難しようともしていた。
でもどこに避難するかとまどっていた。それがこの議論になっていたのである。

こういうことは銀行でもあった。上司の命令にしたがって死んで訴えられた。
他にも山元町では自動車教習所の車で集団で逃げる時津波にのまれて若い人が死んで
裁判になっている。

緊急の時は人間は即断できない、津波が来るといっても6メートルの津波が来ると言ってもたいしたことがないと思っている人もいた。
自分も6メートルなんか聞いたことないと思った。そのあとすぐに10メートル来るというときは驚いた。
まず地震でものが落ちてそのことで頭が一杯で津波のことなど考えもしなかった。
だから自分も津波が来る地域にいたら逃げなかったろう。
ただここは津波が来る地域ではないからそのことは安心していた

ただ今度は原発が爆発したときも何が起こったのかのみこめなかった。
ただ爆発したのだから何か大きなことが起きたのかとは思った。
そしたら町の体育館に集められて何か市の職員がぼそぼそ言っていた。
それも聞き取れなかった。市ではバスを用意するから避難する人は避難してくださいということだった
ただそれも良くのみこめなかった。
バスは全員に用意できないということは聞き取れた。
じゃ、すぐに乗らないと避難できないのかと思った。

自分は介護している家族がいるしそのことを言ったら何かわからず体がふるえていた。
年も年であり無理して避難したら死んでいた。
そうして死んだ人もかなりいるみたいだから介護されているような人は避難するべきではなかった
双葉町の原発の近くの人も介護していて逃げなかったことがわかる
ここではしきりに家から出ないでくださいとは町でスピーカーでアナウンスしていた。
でも自分は一番線量が高い時、外を出て歩いていた。
他の人はどうしたのだろうと思い見て歩いた。
ただ他の人が避難したのか避難しないのかわからなかった


南相馬市の市立病院では相当に危機感があった。院長が死ぬのではないかとテレビで言っていた。
そうした危機感をもった人もいた。そもそも放射能についは皆目わからないから危機感を持つ人はもった。
医者は知っているからそういう危機感を感じたのかもしれない
その時病院の看護師は半分は避難した。そのことで今は非難されている。
患者を見捨てたとか非難されている。現実に双葉病院では置き去りにされて患者が死んだとかあった。
それも誤解だったらしい。

結局津波でも原発事故でも緊急で経験がないから
どうしていいかわからず判断できなかった

石巻大川小学校でも300年も津波が来なかったという、もう津波を伝えるものがこの辺と同じく何もなかったのである。
そういう未経験のことは判断しにくい。

大川小学校は地形的に津波に襲われやすい場所だった。
なぜならまず川を津波は上ってくる、その前に小高い山でもあると被害は少なくなる。
大川小学校の前にはそうした小高い山もなく大きな川を津波が上ってきたから被害が大きかった。

津波デンデコ・・とはそれぞれとにかく早く逃げろが津波の教訓だった。
集団でまとまって逃げるとなると時間的遅くなる。整列するだけで時間がかかる。
でも日頃は集団で行動しているの学校であり会社である
だから教師の命令や上司の許可を得ないと行動しないという習慣がある。

でも子供自体が危機感を感じて山に逃げた方がいいと思っていたのは正しかったのである。
釜石では子供はそうして全員助かった。

危機の時、集団が一致して行動することはそれだけ時間がかかる。
時間がないのだから集団で行動すること自体も危険になる。
集団をまとめるだけで時間がかかるのである。
しかし学校は一般的には常に集団で整列して教師の命令に従うように訓練されている
会社でもそうである。それで助かればいいが今回はそうはいかなかったので批判される。

自分でも原発事故で屋内退避の地域でも30キロ圏外でも半分は避難した。
その時、近所の人に聞いても正しい判断はできなかったろう。
そもそも何が起きたのか理解できなかったからである。
放射能自体何なのかもわからない、だから飯館村ではかなり被爆しても避難しなかったのである。
放射能自体を市町村の役所でも知らない
だから浪江町では一番線量の高い津島に避難していたのである。
それは町長の指導でそうしていたのである。


結局こういう危機の時、誰も正確な判断はできなかったろう
政府すら正確に判断しないで住民を被爆させたのである。

ただ常に学校でも会社でもどこでも集団的に行動することが習慣化していると危険になる場合かある。
集団が一致して行動することは正しいようで危機の時は正しくない。
だから現代社会はすべて権力集団化して行動している。
労働組合でもカルト宗教団体でも会社自体でもそうである。
学校はそもそも集団行動のためのしつけをする所であり各自が独自の判断をするようには教えられていない、
そういう強制的集団行動の組織である。


ただ南相馬市立病院などは別に院長とか上司のことなど関係なく危険を感じて半分は避難したのである。
これは賛否両論があるがそもそも放射能で死ぬという判断を院長までしていたらそれもやむをえないとなるだろう
。危機感を感じた人はそうなった。
後の人は何が起こったのかわからず右往左往して介護しているからとやむなく残ったりした。
まあ、患者は家族とは違うから置き去りにするのもわかる。家族だったらそんなことはしないだろう。
看護師だって自分の命を二の次には考えないのが普通である。
患者を嫌悪している看護師も結構多いから患者を置き去りにしても不思議ではない。
看護師は天使でもなんでもない、普通の人間であり人の痛みすら感じない人も結構いる。
いちいち一人一人あわれんでいたら体がもたないごたろう。
だからかえって看護師が残酷になる悪魔に変身するというのもある。
300人殺した医者が外国にいた。もう病人が嫌になって一挙に始末したい、病院の財政事情でもそうなった。
それもまた病院の真実なのである。

ただ自分の場合は

30キロ圏外は屋内退避で避難指示は出なかった
その30キロ圏外だということが多少の安心感になっていたかもしれない
ただ正直何が起こったか津波でも原発事故でもわからなかった。

結局教訓としては緊急の時は集団で行動すること、上の命令に従うことも危険である。
政府や東電もその時何ら助けにならなかった。
「ただちに影響しません・・」そういうだけだったのである。
その時、政府の人でも東電も避難してあるものは外国まで逃げた人もいたとか、
現実に東京から九州に避難した人もいた。危機感を感じる人はそれだけ感じたのである。


いづれにしろ集団行動は地獄への道づれになるということもある。
カルト宗教団体などでも巨大な集団だから救われるなど全くない
それは地獄への集団行動なのである。
それは戦争の時だって日本全員が一致して地獄への行進だったともなる
みなんで赤信号わたれば怖くないというのは集団心理なのである。

みんなで地獄に行くなら怖くない・・

こういうことだって現実今の社会ではそうなっている。何百万人が団体化していれば救われるとなる。
これは身近なことで実験した人がいた。
みんな行くので同じ方向にいった。その方向は危険な場所だった。
それが人間の集団心理なのである。
根拠もなにもないのにみんなが行く方にしたがって行くことは常にあることなのだ
大勢が正しいとは限らないし集団行動が危機を救うということもない

それは日頃の行動でも同じなのである。
集団で成仏することもないし集団で天国に行くこともない
むしろ集団は地獄への道になる。宗教の場合はそうである。
ただ今回は個人でも危険を判断しにくかった。

では誰かに聞いたり上司に聞いたり集団で行動に従ったりしても助からなかった。
かといって各自で判断しても助かるものと助からないものがいた。
津波なんか今まで来たことかないからと逃げない老人が死んだ。

それでも双葉町民はすぐ全員避難した。
それはあれだけ近いから危機感が違っていたしそれなりの情報も全員共有していた。
それでも混乱した。

津波だって海岸沿いに住んでいる人は何か危機感をもつべきだった。
それは海側は怖いと海は怖いと常に言っている人もいた。
そういう何か本能的に察知する危機感が消失していた。
なぜなら相馬藩でも200年前にも津波が来て8人死んでいたのである。
そしたらそれなり警戒してもいいはずだった。
だか全く警戒もしなかったのである。

結局津波でもどこまで裁判でも責任が問われるのか判断はむずかしい
自分でも判断できない状態に陥っていたからだ。

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2014年03月05日

慶長津波が起きた相馬藩の前後の歴史 (戦国時代の混乱の延長で財政は困窮ー津波の被害者は無視)


慶長津波が起きた相馬藩の前後の歴史

(戦国時代の混乱の延長で財政は困窮ー津波の被害者は無視)




慶長3年小高城より牛越城に移る慶長6年 田中城郷たね病死 屋形村北原に葬る この菩提の位牌所として鹿島村に陽山寺を建立
慶長11年 参勤交代始まる、江戸屋敷を置く
慶長16年 1611年(11月13日)慶長三陸津波 相馬藩700人溺死、伊達藩5000人死亡とも
慶長 1611 12月 中村城に移転
慶長18年 財政困窮 給人、寺社方、職人にいたるまで役金を義務

慶長19年 大阪陣に参加



慶長三陸津波の時、1611年ころは相馬藩の草創期であり政治は安定していない

中村城普請、江戸屋敷の普請、参勤交代の資金・・・などが費用で苦しむ


慶長18年 財政困窮 給人、寺社方、職人にいたるまで役金を義務は元和までつづいて
給人は支払いできず知行地を返還したいと訴える


寛文8年(1668) 百姓の騒動、給人三人切腹

給人の知行開発があまりに多い故、山野がゆきづまり百姓たちが春の草をとるとことや、
馬をつなぎ、稲を干す場所もなくなり困り果てていた

それで新田開発を一人十石限りとされた
慶長16年 1611年(11月13日)慶長三陸津波 相馬藩700人溺死、伊達藩5000人死亡とも


津波があった前後の日本の政治情勢は戦国時代の延長でしり不安定だった。
そういうときに津波の被害があっても政治の優先課題は別な方にあった
財政的にも苦しく津波の被害者に注意を払う余裕がてかったのである
つまり津波の被害者をあえて無視するというより混乱期でみる余裕がなかったのである。
ただ被害にあった民衆にすればそれだけの被害だから何か伝えるものがあってもよかった
それがないのはなぜなのかということは謎である


給人の知行開発が多いということは開拓が盛んに行われた。
それでもともといた百姓が土地を奪われて困った
前にも述べたように戦後十年までは土地が生活の糧だったからそうなった
明治になって八沢浦の開拓、大正になっても
小高の井田川浦の開拓とつづいていたのである

このことは津波の被害があっても土地を開拓しないと人を養えない
だから津波の被害のあった所でも開拓をすすめた
それは伊達藩の被害も今回の津波のように被害が大きかった
そこで相馬藩の侍が開拓に入ったというのもそのためである
相馬藩には津波があったときでも養える土地が不足していたのである

結局なぜ相馬藩では慶長津波のことが記されていないのか
民衆でも伝承しかったのか?
それは政治的には戦国時代の延長の混乱期であり
津波の被害に目を向ける余裕がなかった
財政的余裕などほとんどなかった
それゆえ津波の被害者は無視された

ただなぜ津波の被害者自身が語り継がなかったのかは謎である
当時の政治事情と関係なくそれだけの被害があれば何かしら語るからである
それとも政治的に上から被害を語るをことを禁止されたのか?

ともかく財政的困窮を言えなかった。

慶長19年に大阪陣に出陣したことでもわかる。
その費用も大きい出費である
でもその費用の方をけずることはできない
それが戦国時代である
まだ津波の被害があり免除してもらいたとはなれないのである

それにしても津神社が津波を記念して建てられたというが
これすら実際はわからない
津神社は各地にあり津波の記念の神社なのかもわからない
これもまたなぜそうなっているのか謎である
ただ海側にあるからその確率は高い
八竜神社は山側にも多く津神社は限定されている
それにしてもその伝承すらないということがな謎なのである


「殿、民が津波で大きな被害がありました」
「なに、今は余はそれどころじゃない、藩の財政は火の車なんじゃよ
中村に移り新しい城の普請の費用、江戸屋敷の普請、
役金を課したが給人は不満で反乱を起こすと言っている」
「そうはいいましても津波の被害も甚大です、何も記さないわけにはいきませんでしょう
「では死んだ数だけ記しておけ、あと一切必要なし」
「それだけではものたりないのでは、その惨状を記しておくべきでは」
「そんなことはどうでもいい、今の藩の財政では何もできんのじゃ
役金を収められないから給人は刀、武具、馬具、家財まで売り払っているのじゃ
それほどにしてもまだまだ役金はたりず集まらないのじゃ、
役金が集まらないと江戸への参勤もままならぬ、それはさけねばならぬのじゃ」
「殿、そのことは重々承知していますが津波の被害も重大です
そのことを記さないと後世のためにもなりません」
「ともかく死んだ人数を調べてそれだけを記しておけ」
「それではたりないと思いますが・・・・・」
「お前は余の家来であり余の言うままに記すのが勤めしゃ、うるさく言うな」
「はあ、ではそういたします」

津波のことはこうして死んだ数は調べられたが700人溺死としか記されなかった。
それで無視された700人き溺死者の怨霊であったのか、
400年後にまた大きな津波に襲われて大惨事となった

「俺たち津波で死んだもののことを忘れたからそうなった、その時代もあったが
俺たちはあの時は無視された、そして忘れられた・・・」
いつかそうした民の苦しみを記されず忘れた時、同じ大きな災いがまたやってくる
それが歴史のカルマとなってゆくのだ」

それにしてもなぜ藩では記さないにしても民の間で津波の被害が語り継がれなかったのか、
字が書けなくても語り継ぐことはできた。
なぜその時700人も死んだ人たちの供養もされなかったのが、その碑すらないのか
今回の津波では嫌というほど語られ映像に残されるから400年たって忘れられることはないだろう。
ただ400年の歳月は何を語るのか予測はつかない、ただ津波はまた必ず襲ってくる
それは海側に住むもの宿命である。
でも今回は海側に住む人がいないから津波の被害はおさえられるだろう。


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野馬追いの金札旗ー財政を示す

戦争でも金がないとやれない

金はその時も政治を左右するものだったということ

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2014年03月04日

南相馬市鹿島区の屋形村に田中城主-相馬郷胤をたづねて思う (権力闘争の興亡は詳細に歴史に記されても慶長津波の被害者は無視された)


南相馬市鹿島区の屋形村に田中城主-相馬郷胤をたづねて思う


(権力闘争の興亡は詳細に歴史に記されても慶長津波の被害者は無視された)

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陽山寺はここが起源になっている


相馬郷胤【そうま・さとたね ?〜1601(慶長6)】
義胤の弟。父盛胤の隠居地、田中城(館)で同居し、盛胤が中村城に移った後は田中城代となる。

南相馬市鹿島区台田中の墓を調べる (田中城に由来する墓?)
http://musubu.sblo.jp/article/14899907.html


ここに田中城主の郷胤の墓があったことは気づかなかった。
確かに慶長と記されているから相馬藩内を調べた年号では自分が見つけた限りでは一番古い。
この郷胤が死んだあと慶長16年に慶長三陸津波が起きた。
つまり10年後だったのである。


ではなぜここに屋形村にあったのか?
田中城内にあればわかる
でも離れた屋形村にあった。
なぜ墓をどこに作るかはどうして決めるのか?
これもわかりにくい
単に適当にその墓の場所を決めるのだろうか
この墓はもともと郷胤の墓のみであり
孤立した墓でありあとにつけくわえられた墓もある
ただ別に田中城からそれほと遠いということではない
その距離が問題かもしれない

もう一つの問題はここに城主だけの墓を作ったことである
田中城は滅びたのだから田中城内には作れなかった
それでも田中城近くにはかか作られたのがわかる
自分が城主だからその近くにありたいということは人情である


田中城滅びて近く郷胤の墓のありしや春の日暮れぬ


慶長の年号確か郷胤のここに眠るや春の日さしぬ


いづれにしろこういうふうに相馬藩では権力争いのことは詳しく記されて残されたが
慶長津波のことは700人溺死としか記されていない
だから歴史というのは民衆のことは消されやすいということだろう
歴史を記すものが権力の興亡にかかわって生きているからそうなる
権力闘争の中で歴史を記す人も生きていて何が大事かとなると
自分の身がどうなるのかということがあり権力闘争の結果が自分にもひびくから
ことこまかにそうした跡継ぎ問題とかは記される
その中で民衆のことは忘却される

それは津波の被害でも原発事故でも同じ傾向があった

原発の安全神話は権力をもつものが操作して作られたのである。
現代の権力構造は複雑であるがやはり事故の後に明確になった
政治家官僚(検察)宗教団体、労働組合、漁業組合、マスメデア・・・
現代の権力を作るものが安全神話を作っていたのである。
そこには金が流れていた、マスコミには宣伝費として流れていた。
宗教団体にも雑誌の宣伝費として流れていた
それはあらゆる所に金がばらまかれていたのである。


歴史がはじまって以来、そもそも権力者が民衆のことを考えるだろうか
考えるとしても権力を得たいためであり権力をもちたいためである
議員でも民衆のためとか嫌になるほど訴えるが自分が権力を得たいためであると
議員自身が言っているのだからまちがいない
戦国時代とか江戸時代はそうした嘘はない
ただ力あるものが上にたち治める
民衆のためとかという現代的感覚がないから正直である

現代は大儀名文ばかりで心にもいなことを平気で言う時代である
民衆のことなどどうでもいい、俺は議員になり威張りたい、金も得たい、
そのためなら嫌なことでもするし心にないことも言うし嘘もつく
それは自分の欲望を達するためにそうするのである
だからあらゆる所で正直さをなくした社会ともなる
二枚舌になりやすい社会と言える


こういう激しい権力闘争の興亡の後に慶長津波が起きた
それは何を意味しているのか?
やはり世が乱れる時、自然も乱れる
貞観津波でも蝦夷征伐の時期であり世が乱れていた
慶長津波の時も戦国時代の延長がつづいていた
そして大津波が来たのである

そして今も世は大きく乱れている
そういう時、自然も乱れ大災害が起こる

つまり700人溺死としか記されなかったことが権力者への抗議となっている
その惨状を苦しみをとりあげ記述していない
そのことが実は民衆を無視していた証拠である

歴史として記されないから存在しなかったとなる
蝦夷の征伐についても蝦夷について記されないのは
歴史は勝者の歴史だから記されないのである
大和朝廷に征服された蝦夷についてわからないのはそのためである
それは民衆でもそうであり民衆のことは記されていないのだ


ただ現代の進歩は民衆が伝える力を訴える力をもったことである。
ただそれも巨大な数となり団体となりしないと訴えられないのは同じである
だからまた民衆が今度は権力をもつ時代になった
でも国民戦争になったときもやはり権力者に操作されるということは常にあった
結局民衆も権力を求めている。
つまり人間の欲望は消えないし権力をもって上にたちたいというのが民衆でもありみんな同じなのだ。
虐げられた人間は特にそうなる。そうした状態に満足する人はいないのである


ともかく実際に津波で死んだ人がいてそれをいたむことがあってもいいはずである
相馬藩の侍は教養かあるのだから歌を作っていた
そしたら歌の一つも津波の被害者に対して作っているのが普通なのである
それが一切ないということは謎になる
何か津波の被害を無視したとしか思えないのである
どうを考えてもまた慶長津波の被害にあった

民衆にしても何も伝えなかったというのも謎である
いくら伝える術がないとしてもそれだけの被害かあれば
やはり子孫に伝えようとするだろう
すると何かしら伝説でも伝承でも残っていいはずなのである
そういうものがほとんどないということがやはり謎なのである

現代ではこれまでも個人が何かを残し訴えることはやはりむずかしかった
本など出版できるのも権力をもった団体の後押しがないとできなかった
だからこそ原発の安全神話は作られたのである
インターネットは最近のものだがそうした個人が発言することを可能にした
影響力は弱いにしてもやはり一つの進歩である

これだけ津波のことにくいて写真でも残して本でもインターネットでも語られたら
400年たったら忘れられるとは思えないのである

ただかえって記録過剰で肝心なものが見逃されるということはありうる
地元のことでもこんなに身近にあったものが今頃、もう死も近いというとき発見していることでもわかる。
近くでも人間は知らないことが多すぎるのだ。
かえって地球の果てのようて所に行くことができるから
そっちの方に詳しい人も現代ではいる
しかし肝心な一番身近な所を知らないという皮肉が現代にある。
灯台下暮らしはこれがたけの情報社会でも同じだったのである。
津波のことをもっと関心をもっていいはずだったが全くもたなかった。
原発でも近くでも関心をもたなかった
それが危険につながっていたという皮肉があったのである

posted by 老鶯 at 23:08| Comment(1) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係

2014年03月03日

南海老村は漁村ではなく干拓された田の地域だった (津波の被害にあっても田んぼを作らねば生きていけなかった)

 

南海老村は漁村ではなく干拓された田の地域だった

(津波の被害にあっても田んぼを作らねば生きていけなかった)

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南海老村の領域には広い田んぼがあった-クリック拡大

そもそもどういうふうにして海老村でも烏崎村でもできたのか?
磯部村でもそうである。
そこは海岸線に密集して家が人が集まってできた村である
だから何か漁業と関係してできたように見る
でも最初は漁業はそれほど盛んではなかった
鹿島区でも小高区でも縄文時代の前期は海側に集落がなかったのだろう
後期になり海側に進出して集落を形成した
だから縄文時代も海の幸の恵みは受けていた

だから鹿島区の桜田山の下に縄文時代の遺跡があり
そこにはいろいろな魚が食べた跡や鹿を食べていたことがわかっている
つまり魚も食べたし鹿も食べた
「狩浜」なとの地名は鹿などを狩りしていたから海側でもついた名だろう
鹿島区では桜田山の下辺りが海からかなり引いた所だから縄文時代は
住むには適地だったのかもしれない

山側の北海老村に古墳があるというとき今の南海老村はその後に住む人が集まった

ではなぜ南海老村がすでに人が住んでいて
慶長三陸津波の12年くらい後にまた住みはじめたのか?
それは日本の土地が山が多く平地は湿地帯が多く米作りする土地がなかった
葦原瑞穂の国というときそうだった
平地があっても湿地帯が多くまた山が多いから米作りする土地が確保しにくかった
中世でもまず鹿島区では江垂の中館とか屋形でも山側に敵から守るための
館(たて)を作った、館とつく地名は中世の城であった
それは多々敵から守るというだけではない、
平地が湿地帯であり住みずらいということがあった

湿地帯には害虫も多いし蛇や蟹や害になるものも多い
それで蛇田とか蟹田とかの地名はそういう所に田を作ったからである
また沼田という地名が非常に多いのもそのためである。
今回の津波では本当にあちらこちら沼が生れて湿地帯化したのである

まず縄文時代のような狩猟と漁労とかの生活では人口は増やせない
一定の人口しか保てないだろう。
弥生時代になり稲作がはしまり飛躍的に人口がふえる
それだけの人口を養えるのが稲作だったのである。

だから北海老村に大きな藤金沢の溜池がある。
それは拡張されて大きくされた
その功績があった人の名も伝えられている
その水は南海老の田んぼに流れていたのである。
南海老村は御刀神社の辺まで広がっていた
つまり南海老村は田んぼの領域が広い
漁村とは違っていて田んぼが干拓されてできて南海老村ができた


だから結局なぜ津波の後に12年くらい後に干拓して住みはじめたのか?
普通ならもうそんな津波の被害のあるところには人は住まない
ところが当時の事情は平地がない、米作りには平地が土地が必要だった
山側では稲作する土地が得られないである
すると現代のように津波の被害のあんたところはこりごりだと街に移り
そこで会社にでも入って新しく生活をやり直そうとかにはならない
そういうことは簡単にできない
生きる糧はその土地にしかないのである
するとどうしても津波の被害にあってもそこで米作りする他ないとなる
それが津波の後の12年後くらいでも住んだ理由なのだろう
それは伊達藩でも同じであった
米はすでに江戸に船で運び商品として売っていたから津波の後でも
米作りをやめるわけにいかなかった


結局日本は土地がない、山国であり土地が極めて制約される
平坦な土地も湿地帯であり条件が悪いからそこで苦闘した
田下駄とか下駄は湿地帯で米を作るためのものだった
下駄の起源がそこにあったことでもわかる
湿地帯との苦闘の歴史が下駄を生み出したのである


磯部村でも南海老村でも烏崎村でも海岸線に家が密集して人口が集中したのは
漁業のために見えるが違っていた
その後背地は広い田んぼであり稲作をしていた
大内村で海老村と同じ地形があった
山側に先に館が作られ海側へはあとに人が住んだ
それが津波で明確にわかった。
海側に住んだ人は津波の被害にあい山側に住んだ人は無事だったからである

その後に南海老村が上海老村とか下海老村とか人口も増えたのは
それは海と関係した仕事が増えたためである
何らか塩を作る技術とか舟を作る技術とかがもたらされ
海の幸を得ることができて南海老村は人口が増えた

ともかく慶長三陸津波では相馬藩で700人溺死している
その数は当時からすれば相当な数であり被害である
そのことはすでに海岸側に人が相当数住んでいたからそうなった
縄文時代あたりだったらそんな被害はない
もともとそこには住んでいなかっただろうからである

結局自然の制約を越えて無理に田んぼでも干拓して造らねば人口はふやせない
稲作文明も人工的文明でありそれは自然に逆らうものがあった
それは文明というものはみんなそうである
ただ稲作は第二の自然であり松原もそう見ていた

ただ原発でもそれは文明の成せる業でありそれが自然の報復を受けた
津波もまた自然に逆らって海側を干拓して田んぼを作り集落を作った
そのことが津波の被害を大きくしたのである
でも稲作文明を維持するためには土地が必要であり
そこにまた住まざるを得ない宿命になっていたのである

だから原発がやめられないというとき文明をやめることになるからできない
原発と心中するほかないと言った時、稲作文明にも言えたのである


日本にはふえる人口を養う土地がない


これが満州まで土地を求めて戦争までになった
日本の悲劇がここから生れていたというのも日本の歴史だったのである


不思議に今もその問題は継続している。
津波や原発事故で全壊した家が南相馬市で4600軒もあった
そして住宅地にする区画が900も必要だという
そんな土地がどこにあるのだろうかとなる
でも実際は広大な田んぼはまだこの辺にはある
そこに建てたらいいじゃないかとなる
でもそこは農地であり簡単に宅地にはできない
その発想は以前として土地が大事であり農本主義的発想である
農か基という発想である
それは自分も田舎は農本主義であるべきだと思う

でも津波や原発事故でそうもいかなくなっている
つまり復興住宅の用地がそれだけ必要なのである
そうなると田んぼでもつぶしてそこに建てる他ないということにもなる
それては農業は破壊されてしまうとなるのもわかる
そのことは津波の被害があった慶長三陸津波の時と同じなのである

いづれにしろ津波原発でこの辺で課せられたものはあまりにも大きすぎたのである
だからどうしたらいいのだろうとなるときただ困惑するだけだと今でもなっている
「もう農業なんかみんなやめたかったのだからこの際やめる」
そんなふうになるのもわかる

では農業やめてこの辺は何を主要産業にするのだろう?
結局浪江町のように廃炉事業の基地の街にしようとなった
そんなものしか思いつかないのである。
後は核の廃棄処理場でありそんな市町村が何なのだろうとなる
殺伐とした風景となった原発事故の廃墟の街なのだろうかとなる
石炭全盛時代に栄えた街が衰退する、夕張などと同じになるのだろうか
津波から原発事故から三年過ぎてもその被害が大きすぎるから未来が見えないのである

それにしても自分はいつも海側の田んぼを見ていた
黄金色に実る稲穂の原をみて松原を見ていたのである
ただそこは右田の松原であり南海老村の領域が先立ったとは思わなかった
これも意外と地元のことですらなかなかわかっていない
農業はやはり実地に農業している人でないとわかりにくい
屋形の農家生まれの人の話を聞いて実感したのである

posted by 老鶯 at 21:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係

海老村は慶長三陸津波の一二年後にかなりの人が住んでいた (海老村の歴史は古く先に人は海岸沿いに住んだ)


海老村は慶長三陸津波の一二年後にかなりの人が住んでいた

(海老村の歴史は古く先に人は海岸沿いに住んだ)

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ニコニゴ堂の住所
福島県南相馬市鹿島区北海老字藤金沢110


あそこの喫茶店はどうみても屋形村である。海老村とは思えなかった。
そこで前に書いた海老村の発展経路が間違っていたことに気づいた。
なぜなら南屋形村が岩松氏の阿弥陀寺があり鎌倉時代にさかのぼり一番鹿島区では古い。
その南屋形村から海の方に向かって北海老村と南海老村となったと解説した。

しかし北となると方向が違っていた。
南屋形から見て北の方向にはない、北屋形村が八沢浦の方にある。
それは明らかに南屋形から見て北の方向になる。
ただ北海老村が明暦からの記録がある

南海老村は寛永からの記録がある


慶長元年 1596


1611年12月2日(慶長16年10月28日)、慶長三陸地震津波で相馬藩で700人溺死


元和元年 1615

寛永元年 1624 寛永中田ほ査丈士位上、村秣千五百三四石五斗六升四合 南深田この時にあり海老一村なり

正保元年 1644
慶安元年 1648
承応元年 1652
明暦元年 1655 検地開始
万治元年 1658
寛文元年 1661
延宝元年 1673
天和元年 1681
貞享元年 1684
元禄元年


南海老村の方が北海老村より記録的には古い、南海老村は新しいものかと思った。
すると南海老が北海老村より古いとなる。
そうなると海側に進出してそれから山側の北海老に住居を広げたのかとなる
山側は津波の後にかなり新しい家が建っているからそれなりの土地があった
そこは津波の来ない高台にあった

では南海老が北海老より古いとするとこれも解せないのである
ただ地形を見ると南海老であれ山側はかなり急な山の斜面になっているから
人は住みにくい、屋形の北海老はまだ住むのにはいい
それでも南海老から北海老村に別れて発展したというのも解せない
北屋形村から北海老村に山側から発展するのはわかる

でも実際は南海老に人家が寛永時代から集中したのである

人口が集中したから下海老村と上海老村は南海老村から分かれたのである。
北海老村ではない南海老村に集中した。
そこは海に面して今回の津波で壊滅した地域だった。

南海老が北海老より早く開け屋形よりも早く田も作られていた謎である。


そして最大の謎は慶長三陸津波の後の寛永元年に鹿島町誌に記録がでている。
慶長三陸津波から一二年しか過ぎていないのにそこに人が多く住み始めて
田まで作られていた。
何らか慶長津波では今回のようにそこはどうなってしまったのか
その時はまだ人がすんでおらず津波で人が死んだりしなかったのか?
津波で死んだとしてそこに一二年後に住み始めたのだろうか?
現代の感覚では住めないというのが普通である
もちろんそこが津波の被害にあったかどうかは皆目不明である。

ただ慶長三陸津波は今回と同じくらいの津波だとすると何らか被害があった
その時どれくらい南海老村に人が住んでいたのかわからない

ただ南海老村が屋形より古い記録があり人が古くから住み始めた。
それはもともとあそこは海側は湊ととなっていて塩などをとっていた。
魚もとっていた。明治時代には帆掛け舟もみかけたと聞く
すると海の幸を求めて早くからそこに人が集まったのか?

でも慶長津波から一二年後にそんなところに人が集中するだろうか?
今回のように北海老村の山側に住居を写して北海老村ができたのか?

何かここにも慶長津波の謎を解く鍵がある
慶長津波は烏崎にもかなりの被害を与えた
ただそこがどういう状態だったのか
人が住んでいたのかどうか
ただ記録的には岩松氏が上陸した地点であり
すでに人が住んでいた。
だから慶長津波の被害があった


つまり一見浜側は新しく住み始めた人たちだったとしているがそうでもないのかもしれない、
田んぼがなくても米がとれなくても魚介類をとっていれば縄文人のように一応飢えずに暮らせるということもある
だから海側でも早い時期に人が住み始めたということがある

慶長津波をもし南海老村で経験した人がいてその一二年後に住みはじめることがあるのか?
その頃は津波に対する考え方も違っている。
三陸ではあれだけの被害があってもやはり海側に何度も住んでいる
それはそこが魚介類がとれて便利だからである
だからここでもそういうことがあったのだろうか?
つまり生活の糧を得ることが先決であり
津波の被害より当時はその方が大事でありまた住み始めたとも考えられる
今の時代との考え方は違っているからである

ただ今回の津波を経験した人は怖くて絶対に住めない
だからその当時だって津波を経験したら住めないと想像する
それでも背に腹は代えられないと住んだのだろうか?


追記

北海老村に古墳群があったから北海老が南海老村よりは古い地になる。
南海老村にはないし貝塚も鹿島区では発見されていない
するとなぜ南海老村が鹿島町誌では寛永からの記録があるのか
それは魚介類をとるためとも思えない
田があったとするとあそこは津波の後も田として開拓した

慶長津波の後に相馬藩の侍が伊達藩の津波の被害のあった地点に開拓のために移住した。
津波の後でも開拓していたのが当時の状況である
すると海老村もそれとにた状況があったのか?
慶長津波から一二年後でも開拓する場所を求めて田を作った
そこは無所有の土地でありそこで早くから開拓に入った
他の土地は岩松氏などの所領であり開拓に入りにくかったのか?
伊達藩でもそこに開拓する人手が必要になり敵方の相馬藩の侍でも受け入れた

いづれにしろこの謎もまた深い
でも一つの発見でありまた研究すれば津波のことがわかる可能性はある
ただその資料は少ないしその謎の解明は容易ではない

posted by 老鶯 at 00:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係

2014年03月01日

津波から三年たつ海老村の状況の写真 (旅館が一軒と喫茶店が一軒新しく建った)


津波から三年たつ海老村の状況の写真

(旅館が一軒と喫茶店が一軒新しく建った)

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この字がよめなくなっている

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この旅館の庭は石の庭である
まだ完成していないのだろう



何もなき海老の村かな庭の石点々と残り春の日曇る

碑の一つ字もわからずに津波跡残りてあわれ春の夕暮

春の海曇りて一艘貨物船沖ゆく見ゆる海老の浜かな

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宮城県の人などもきていた

テレビの宣伝でくるものなのだろうか

鹿島区の仮設食堂の双葉はテレビで宣伝したから入るのだという

テレビの宣伝がそんなに効果あるものなのかわからない




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納屋を改造したものだがしゃれた作りになっている

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ニコニコ堂への道はわかりにくい
案内もない
阿弥陀寺と八沢小学校の中間の道である
その道をまっすぐ言くと
マッサージ浅野という看板がありそこを曲がるとある



海老村に南海老と北海老があったが北海老村はほとんど墓地を残して壊滅した。
そこに「富士旅館」というのが建った
あれは津波からも残ったのかと思っていた。
残った家を改造して旅館にしたのだろう。
それはその家の人ではなく外部の人が買い取り旅館にした。
今営業しているかどうかわからない
その前はほとんど全部の家が津波で流された
だから海まで見える見晴らしのいい場所になった

あそこに残った庭の石が散らばり積み重ねられている
あの石にも所有者がいて勝手にはできないという
ただあの場所にはもう住む人がいないのだから
まだ早いかもしれないが公園のような場所にするほかないだろう
だからそこに残った石を活かすかとも考えねばならない
新しく家を建てた人は自分の石をまた庭にもってゆく
残った石は使用しない石は津波の跡のモニュメントのようにする
石を買い取るほかないとなるとまた問題だかこれはあくまでも一つの構想である

いづれれにしろ景観まるで変わったから
あそこの富士旅館は見晴らしは抜群である
そういうことで泊まる人がでてくるかもしれない
津波のことはそこで必ず語られる


石碑が倒れてあった。あれは金砂神社のものなのか?
字すら津波の力でそがれてわからなくなっているようだ
津波で流された石碑はどうなったのだろうか?
それも文化財の消失だった
村ごと消えるなど想像もできなかった


そこからテレビで写された海老の新しい喫茶店を探したがわかりにくかった。
あの辺は屋形村であり海老村とは思えない
まるで隠されるようにあった
入り口に看板もないのでわかりにくかった
六号線のダイユーエイトを海の方に行きそこで曲がり
阿弥陀寺の方に行きそこから八沢小学校の手前の道を入りマーサージ浅野という
看板の所を入って行った場所で本当にわかりにくい
もともと納屋だったのを改造した
中は結構しゃれた造りになっている
人数にしても15人くらい入れるから狭いとも言えない


ただここの弱点は海老村とあっても海は全く見えない
山陰になっていて見晴らしが悪い
見えるのは前の畑と庭である
ここで花などは見れるようになる
喫茶店とかレストランでも立地が作用する
見晴らしがいいと食べるのも休むのもいい
津波の跡でまだ観光気分にはなれないが
海が見えたらやはり気持がいいだろう
海を船がゆっくりと行き来して
カモメが飛んでいるのを見ていると海らしいとなる
あそこはそうした海が全く見えないから喫茶店としては
かなり立地条件では落ちる


海老や屋形村の方から右田の方を見ると低くなっている。
海老村に向かって田んぼは低いにしても段々畑のように高くなっている。
右田村や烏崎は高低ではかなり低い場所であり
それが津波で判明した
この辺で海側で一つ所はみんな湿地帯か海の延長部分だったのである
八沢浦はまさに奥まで入江になっていたことでわかる


ともかく津波から三年たつがその間にまた変化があった
海老村は二軒新しい商売の店や旅館ができた
観光気分ではないにしろ津波の跡地利用どうするかが今後問題になる
津波の跡で観光気分かここで人が死んだんだぞ
そこで笑って観光かともまた遺族からしかられるかもしれない
でもいづれは何らか記念的なものモニュメント化するだろう

三年目はそうした津波の悲しい記憶ばかりを語ることはできなくなるだろう
その跡地をどうするかということが実際問題として考えねばならなくなる

だから庭の石を活かすモニュメント公園もいいじゃしいかという一つの提案である
その庭の石に腰をおろして海を見るということはやはり津波をふりかえることでもある
その石は津波に流されたり残ったりしたものだからである。


海老村に自転車で街に来るニートをよくみかけた。
その人が住んでいる家がわかった。
あそこから見るとスーパーのある街はかなたに見えた。
かなり遠く見えた
だから買い物するだけでかなりの労力である
その人は車がないからそうなる
近くに店屋もない
前は万屋(よろずや)などがあったがそんな店も今はない

だから田舎だと街から離れていかに不便になるかである
タクシーにしても1500円とかかかることになる
だから田舎は広いから車がないと住めない
でも街内だとなんとか住める

つまり田舎は街もあり街から少し離れても農家になり
さらに離れて村があり漁村がありと複雑なのである。
生活も土地土地で多様なものとなっていた
だから田舎のことは都会の人にはわかりにくい
まず誰か詳しい案内人がいないと知っていないと住めないだろう
人間関係も狭いから都会とはあまりにも違いすぎるのだ


こうした土地の距離感とか土地の高低はまず地図など見てもわからない
実感としてわかるためにはその土地を現実に踏まない限りわからない
そこに何か田舎に対しての誤ったイメージを描くのである
ともかく津波原発事故から三年は大きな区切りの年だろう
いつまでもかわいそうな人たちだとかそんなことばかりで
外部の人にあまえてはいられなくなるだろう。
だからいつまでも津波の跡を放置してゆくことはよくない
津波のことは忘れないにしても何らかの対策することが必要である

posted by 老鶯 at 16:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係

2014年02月11日

津波被害の裏話 (銀行では流された書類を探していた)


津波被害の裏話

(銀行では流された書類を探していた)

●書類もコンピューターに保存されて残っていた


津波の被害にはいろいろあった。そのことは各地で語られているがまだまだわからないことが多い。被害が広範囲になったからである。

銀行に勤める孫をもっている人が言うには銀行も津波の被害がありその時、金庫とかではなく紙幣ではなく書類を探していたという。預金者などの書類の方が大事だったのである。それを探して見つかったという、どろどろになっていたが見つかった。
こういうことは他にもあった。役所でも書類が流されると大変なことになる。


ただ実際はその書類でも何でもコンピューター化しているからどこかに保存されているのが現代である。だから貯金している情報はコンピューター化されて本部にでもどこでも保管されている。それは一枚のディスクでもいいわけである。
膨大な情報も一枚のディスクに保存される時代である。

ただコンピューターの弱点は何かで記録したものが一瞬にして全部消えることがある恐怖なのである。それもいくつもコピーしてあるからなかなか消えないといかことはあるだろう。だから紙でも津波などで流されるということは想像外のことだった。
だから役所などでは苦労したろう。


ある人は銀行にあづけてある預金など金は数字にすぎないという。数字として金はある。紙幣としてもそれは紙切れであり数字にすぎないという。だから数字はゼロになることがありいくら金をもっていても金だけでは紙に過ぎずその資産はゼロになるという恐怖がつきまとっているのであく。それで土地バブルが起きた。土地は数字ではなくゼロにはならないからである。

。被災庁舎の金庫内で回収された土地台帳は、デジタル化されておらず今後の復興作業でも不可欠な文書のため町では対応に苦慮していた。

6 月初旬に公文書の被災状況の調査に訪れた群馬県に公文書の復旧が要請された。

濡れた文書の乾燥、
塩分や汚れの除去、綴り直し、文書目録の作成、背文字の貼付で、土地台帳、家屋台帳、戸籍関係の書類など 339 冊であった。なお、被災した公文書は、


東日本大震災で津波被害を受けた自治体の公文書
http://www.archives.pref.gunma.jp/20110311-hisaibunsyo/
20110311-hisaibunsyo-hou/20110311-hisaibunsyo-hou-ona.pdf


●自衛隊の幹部が部下が拾った金庫をネコババして解雇された


東日本大震災津波で流された金庫が5,700個?
http://www.onoe-kaikei.com/hac/2013_6.pdf


富岡町長の5億円の金庫が流されて回収してくれと頼まれたことなどか話題になった。
これだけの金庫が流されたのも流された家の数の多さからそうなった。
たいがい家に金庫はある。金庫でも重いものもある。
そんな重いものでも今回は軽く流されたのである。


自衛隊では死体など探していたがそれで流された金庫を発見した。
それを上の幹部の隊長なのか知らないけど届けた。
その金庫がネコババされたことがわかった。
隊員は手帳に記録することが義務づけられていてそれでわかったという。
その隊長は解雇されたという。

そういうふうに組織で安全策を講じている

推理小説のドラマでよくノートを手帳を調べているけどこれはこうした事実を基にしていたのである。
ただ今はパソコンで記録しているとなるとそれが証拠になるのかどうか問題になる。
ただ一枚のディスクでもパソコンだと膨大なものが記録できるのである。
それは無尽蔵に記録できる。
この記録はクラウドとかどこにでも記録できるからかえって災害の時は記録は保存される。
ただこれにも弱点があり一瞬にして何かの銚子て消えることが恐怖なのである。


●記憶は一時期であり記録は歴史の時間で残る(記憶⇒記録⇒歴史的価値ずけ)


記録は流されても、記憶は流されない
http://www.jibun-shi.org/modules/blog/details.php?bid=30


記録というのはどうしても消えることがある。記録というものはいくら記録されていてもその意味をもたせないと価値がなくなる。
なぜなら記録は今や膨大な天文学数字としてある。
それらをいちいち読み価値づけすることができなくなる。
戦争のことだってその記録は膨大でありそれを読み解くこともむずかしくなる。

「人は誰しも歴史を持っている。それはささやかなものであるかもしれないが、誰にも顧みられなく、ただ時の流れに消え去るものであるかもしれない。個人史は当人にとってはかけがいのない生きた証であり、無限の想い出を秘めた喜怒哀楽の足跡なのである。この足跡を軽んずる資格を持つ人間など誰ひとり存在しない」(色川大吉『ある昭和史―自分史の試み』から)


これは言える。だから自分は相馬郷土史研究でそういう個人に焦点をあてて老人の話しを聞いて時々書いてきた。
そういう個人的なことはやはり家族史、家の歴史にもなる。
だから郷土史はおばしちゃんやおじぃちゃんから聞いた話しからはじまるというのはそのことである。
それが一番身近だからである。

では記録と記憶の相違は何なのか?記録がなければ過去のことがわからないということも事実である。
ただ記録が写真が文書が家が流されても以前として各人は生きている限り
記憶を維持されているから延々と語り続けることになる。

誰かが誰かに語るということは記録を読むのとは違う。
そこには感情的なものや様々なその人なりに伝えるものを聞くことになる。
語ることから「民話」が生れたのである。
語ることを書き記すことによりまたそれが記録され後世に残されたのが歴史でもあった。
語ることは記録としては消えやすいのである。
文書にすると消えにくくなる。
だからその人自身の書いたものが残っていると歴史もわかりやすいとなる。

誰かに語ったことは尾ひれがついて何が真実か事実なのかもわからなくなってしまうことがあるからだ。

だから記録は流されても 記憶は流されない・・・
というとき実はそれは一時代とか短い時間だったら記憶は流されないが長くなると流される、消えやすいということなのだ。
生きている内は語り続けてもいづれは死ぬと語る人は語ることもなく残された記憶しか
ふりかえることができなくなるからでてある。


ただ記録はすべて歴史ではない、記録は無限であり膨大であるとしたとき、
その記録をすべて解読することも関心うもつこともできないからである。
その記録を自分のものとして読み解く時、歴史は価値あるものとなる。
そしてそうした記録は無数に埋もれていて不明になっているのだ。
江戸時代の古い碑を紹介して読み解く作業をしたけどそれらは記録として残っていても
今では意味がわからなくなっているのだ。

posted by 老鶯 at 16:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係

2014年02月10日

寛政地震で相馬藩内で8人死んだ津波があった (200年前だったがこれも記録されていなかった)


寛政地震で相馬藩内で8人死んだ津波があった

(200年前だったがこれも記録されていなかった)


1793年 2月17日
(寛政 5) 陸前・陸中・磐城 8〜8.4 仙台藩(現、宮城県)で死者12、家屋破損1,060余。宮城南部の震度は5〜6程度であった。相馬で津波があり、死者8発生。
http://www.mlit.go.jp/kokudokeikaku/iten/information/council/shuto-research/jishin_kentou/c_js06.html


寛政五年正月七日午刻(昼九ツ時過)(1793年2月17日正午過頃)牡鹿半島沖に大地震が発生した。
『古廟山主将記録』には、大津波が発生し須賀浦にて家17軒が流れ12-13人が流死したとある。『東藩史稿』には仙台藩領内で圧死12人、馬13頭、潰家1060余とある[1]。
全体で潰家および流失家1730軒余、船の流失・破損33、死者44人以上とされ、相馬では余震が10ヶ月以上続いた記録がある[2]。


宇佐美龍夫(2003)は、津波が相馬、いわきで引き波で始まったことから1896年の明治三陸地震にも似ていることを考慮して震央(北緯38.5°、東経144.5°)をより沖に定め、規模もM8.0-8.4と推定した。1897年の地震との類似を考慮すればM7.9程度になると推定している[2]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E6%94%BF%E5%9C%B0%E9%9C%87


寛政五年(1793)宮城県沖に
発生した地震の詳細震度分布と津波の状況
http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_19/16-Namegaya1.pdf



ここの図では松川浦から請戸で2メートルから4メートル浸水している
この時8人死んだということはそれなりの被害があった
津波は慶長地震の津波だけではない、相馬藩内でも寛政地震であった。
慶長地震が400年前でありその200年後に寛政地震があり相馬地方にも津波があった
それは今から200年前でありこの辺が津波の伝承を聞かないというとき
200年前だったらその伝承が残ってもいいはずであった
400年前は無理にしろ200年前となるとそんなに昔とはならないからだ

ただこれについても相馬藩政記に記されていなのだろう

慶長津波では400人溺死と記されている。寛政地震津波では記されていないとすると
このことも謎になる。
まあ、死者8人くらいなら軽くみることもわかる。
でも津波の記憶は残しておくべきだった、伊達藩には記されていて伝えられた。

そして慶長津波も寛政地震津波も今回の三陸沖津波も震源地か近いのである。
だいたい同じような場所から起こっているかことに注意するべきだった
そこには明らかな周期性があり大きな地震が百年単位とかで起きている。
明治時代にも三陸津波で大きな被害があった。

だから相馬は宮城県とも岩手県とも近いのだから無視できるものではなかった

それが何か相馬では福島県の浜通りでは津波は起こらないという感覚になっていた
三陸で岩手県でまた津波か、ここには津波は起こらないよという感覚になっていた
ても歴史を調べれば400年前にも200年前にも大きな津波がきていたのである。
ただ200年前の寛政地震津波でも8人死んだくらいだから記録にも残らなかった
だからここの津波についてもほとんど相馬藩でも知られていないのである。
民間の伝承も残っていないのである


ただ津波が200年前にもあった、
それも8人も死んだということは重大なことだったのである

つまり歴史では何が重大なものかその時ではわからない
この時は相馬藩は戦国時代ではなく政治も安定していた時代である。
だから自然災害にも藩で注目してもいいはずだった
それも注目されなかったのはなぜかという空白が問題になる


相馬地方では津波か来ないということがみんなで思いこまれていたのである
だからまるで危機感がなかった
三陸に起きても相馬では起きないという確信のようにまでなっていたのである。
でも現実に200年前にも来ていて8人か死んでいる
だから相馬地方でも浜通りでも津波は来ると警戒してければならなかった
今回のようなき巨大なものではないにしろ津波は日本の海岸では必ず来るものなのである
そういう宿命、カルマを背負った国土が日本だったのである

posted by 老鶯 at 22:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係

2014年01月29日

南相馬市鹿島区の右田浜から雪の蔵王連峰がはっきり見えた (津浪の後に原始の風景に戻った右田浜)


南相馬市鹿島区の右田浜から雪の蔵王連峰がはっきり見えた

(津浪の後に原始の風景に戻った右田浜)

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蔵王連邦がはっきりと見える

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何を見ゆ一本松や冬の暮

海見えて枯野暮るるや一本松
津浪跡残る木の根や冬の海
離れざる木の根露に冬深む


新年や津浪の後によする波かなたにましろし蔵王望みぬ

北風の吹いて砂浜に風紋の生まれ変わりし右田浜かも

御堂一つ津浪の跡に残るかな冬の夕暮北右田村

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tunamimatufuyu111.jpg
この松の方が松らしい

全部クリックして見て下さい


右田浜の川口から見た景色は見物だった。一番の見物が雪の蔵王連峰がはっきりと大きく見えたことの驚きである。八沢浦から見えていたが右田浜からあんなに大きく蔵王連峰が見えるのは驚きだった。今までも見えていたのかというとこの年で見えたことがない、
それは家や松原に遮られていたからなのだろう。何もなくなった結果、蔵王が小さくではなく連なった連峰が見えていたのである。
そもそもあんなに身近に大きく蔵王が見えること自体ありえないと思っていた。
蔵王は意外とみじかに福島県でも見えるものなのである。

確かに奇跡の一本松とか鹿島区に残っているのも不思議である。あの松は高い松である。今までは別な残った松に注目していた。
別な残った松の方が枝振りも良く松らしいからだ。その残った松もよくも残ったという凄まじさを感じた。
この一本松にはあまり感じない、ただ高い松だというだけである。
でもこれもやがて枯れるのだろうか、どうしても海岸線の松は枯れてゆくのではないか?
今のうちだけ見れるものなかもしれない。
いつまでも残っていれば明らかに名勝になる。

実際この写真を見ればわかるようにここは明らかに景色が変わり景色的には名勝になった。
原始の状態に戻った驚きである。原始の状態はこんな風景だったのである。
ただ松原とか防波堤とか家でさえぎられて見通しがきかなくなっていた。
それがとりはらわれた結果、蔵王連峰がくっきりと見えたのである。

これでわかったことは何か松原でもさえぎられていたから見晴らしがよくなく見えないものがあった。
海ももちろん松原げさえぎられて浜通りでも見えなかった。
もともと海は遠くからも見えていたのである。


このことから江戸でも富士山がくっきり見えたことがわかった。
浮世絵でははっきりと見えて絵の中心になっていることでもわかる。あのように本当に見えたのである。
高層ビルなどないのだから見通しがよく富士山が浮世絵のように本当に身近に見えたのである。
浮世絵は絵だけど当時の写真でもあったのだ。


ともかく津浪がもたらした驚きは生々しい跡はい以前として残っている。
右田の浜は石ゴロゴロだった。今はその石が流され一つもない、そして砂浜に北風が吹いて風紋ができている。
北風で生じた風紋であることはその方向を見ればまちがいない。
冬はこの辺は毎日くらい北風が吹くからである。
ともかく原始状態に戻った自然を見るというのもなかなかできないだろう。
だから津浪の驚異は驚くべきものだったのである。
確かに右田浜でもとこでも死んだ人がいたがこうした原始状態戻った景色は名勝になる。
新たな名勝が津浪によって生まれとも言える。


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2014年01月28日

全線復旧した三陸鉄道に乗りたいと案内してくれと頼まれた (その人も相馬で津浪の被害にあった)


全線復旧した三陸鉄道に乗りたいと案内してくれと頼まれた

(その人も相馬で津浪の被害にあった)

最近知り合った人に三陸に行きたいからインターネットで調べてくれと言われた。その人は友達と二人で行く、一人は75歳で車での旅はしたが電車の旅はほとんどしていない、だけど三陸を旅したいという、三陸は津浪被害で鉄道が破損して途絶えた区間ができた。
でも全線開通したという、それが4月でありだから行きたいとなった。
またNHKのドラマでも有名になったこともあり行きたいとなった。
一人も60代の女性だけどテレビの鉄道番組を見るのが好きだという、その女性は働きつめであり貧乏でもあり電車の旅をしていない、団塊の世代は会社勤めでも結構遊んでいるし旅行しているのだ。自分は例外にしてもだからどこどこに行ったとかいうとだいたい日本なら全国行っているのでわかる。

三陸の鉄道が全線開通したというとき、早く開通したと驚いた。常磐線は六年後とかいつになるかわからないからだ。なぜそんなに早く開通できたのたろうかとも思う。
映像を見た限りあんなひどい状態から良く全線開通できたものだと思う。
鉄道のトンネルを被災者が歩いているのを見たときは驚いた。その訳は鉄道は歩くのには便利だったのかもしれない、三陸はトンネルが多いし隣への道が途絶えれば鉄道の方が便利だとなって歩いていたのかもしれない。
テレビで見ただけでは被害状況はわからない。

ただ自分は三陸でも岩手県も宮城県の海岸線も全部電車に乗っている。全国ほとんど乗って私鉄の線くらいしか残っていないのだ。けれどもここ七年間は介護などでしていない。ただ一回岩手の釜石まで行った記憶がある。その時釜石駅まで津浪が来た報道されて驚いた。釜石の海を見ていないからだ。あんなところまで津浪が来たのかというのかどこでも驚きだった。


三陸に旅行したいという75歳の人も津浪の被害にあった。3キロとか離れていたけど津浪の被害にあった。床上浸水だった。自分が見た限りでは床下でたいしたことがないと思っていた。津浪は洪水とは違う、圧力をともなった波が押し寄せてくるから50センチでも怖いのである。遠くでも怖いものなのである。その人はその時近くの女性に助けられたのでその女性と三陸に行きたいというので自分に調べてくれと言われた。
それで調べたら津浪を語る旅行も盛岡からも三陸沿線からも出ている。
全線開通して旅しても津浪の被害状況を見るためのものものになる。
でもその二人は津浪の被害者でもあるから話しがあうということにもなる。


その75歳の男性は津浪の浸水で一時相馬市に避難して一年間くらいアパートで暮らして最近ようやく荷物を家に運んだという。それから仙台の方にまで避難したという。
縁故の人がおおくててきた。仙台では一時物が不足して物を買うために並んでいたという。仙台でどうしてなのか?津浪の直接の被害はないし東京からの道路も断たれたわけではなかった。ただ名取の仙台空港や仙台港には倉庫が一杯あり船が入ってきていた。
そうしたところて物流が途絶えたのだろうか?その辺の事情がわからないが仙台まで津浪の被害が影響していたことは意外だった。確かに長町辺りも仮設住宅が建っていた。


仙台に避難者が集中しているということはあるだろう。相馬辺りでも原発避難者でも仙台に避難してそこに住み着くという人も出ているという。仙台は東北では一番の都会だから住みたい人がいた。でも住居費でも何でも高くなるから苦しい面はある。
この辺は相馬まで仙台と常磐線でつながっていた。通勤していた人もいた。だから常磐線を通じて関係が深い。福島市より関係が深かった。現実に鉄道が途絶えたときバスは出ていてもなんか行きたくなくなったのである。介護で行きにくいこともあるがやはり電車は便利なのである。


ともかく自分は考えて見ればた旅ばかりしていたのだから旅の案内に向いているとは言える。インターネットでも案内しやすくなっている。旅行ガイドというのが自分に実際の職業としたら向いているかもしれないと思った。ただ自分で自由に旅行はしたいがガイドなとしたくないということはある。でもどういう見どころがあるかは教えられる。
盛岡だったら城跡と中津川と北上川と岩手山は見ていけとかなる。それは観光案内にでていてもそれより深く説明できる。文学的にもできる。でも文学的なことはあまり普通の人は関心がない、でも関心がなくても庶民的な案内もできる。旅行ガイドというのもまたプロフェシャナルにありえるそれでも旅は自分なりの発見をするのが旅だというとき人まかせでは自分なりの旅はできないのである。


大船渡辺りを電車が通ったとき朝日が昇っていたことを記憶する。それは冬でありきれいだった。でもあの大船渡の被害も大きかった。家族五人くらいか死んで一人残された人が自殺したという報道があったときその被害がどのくらいのものなのか何も解説しなくてもわかった。津浪とは一家全滅になるような恐ろしいものだったのである。
いづれにしろ三陸の旅は津浪の被害の跡をたずねることになるから今までの観光旅行とは違ったものになる。そういうことを事前に心得ていないと地元の人に拒絶されるかもしれない、まだそういう観光のらヴな浮かれたものにはなっていないのである。

posted by 老鶯 at 23:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係

2014年01月25日

南相馬市の復興の最大問題は住宅問題だった (南相馬市の全壊数が4682軒もあった!)


南相馬市の復興の最大問題は住宅問題だった

(南相馬市の全壊数が4682軒もあった!)

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ここの区画は30軒である。
二階建てが十軒ある
二階建ては結構広い感じがする
子供がいる家族用になるのか
あとは一人用二人用になる

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これが自分の墓の前に建った
三階建てでも高いから圧迫される
何かこの辺は都会化しているんだよ
街の中心にこれだけのものが建つとそうなる
団地より一軒家の方がいいだろう
今はただ一軒家相当ぜいたくになってしまった

これだって50個くらいだからな

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津浪原発事故から3年たとうとしているけど結局三年間も混乱状態はつづいていた。その混乱状態の中で冷静に見られないものが多々あった。何が全体的に起きているのか問題なのかわからないことがあった。今になると最大の復興の問題は住宅問題だった。
仮設も三年目であり5年目で仮設を出て復興住宅などに移る予定になる。

この辺で最初から土地がないか土地がないかと避難者から必ずたずねられる。みんな土地を求めている。新しい家を建てるための土地を求めている。そのことか避難者の一番の関心事である。仮設はあくまでも仮の住まいだからそこに定住はできない、家が建てられれば家族とともに住めるからまず家を欲しいとなり土地を求めている。
家の前に土地がないのである。
だからなんか六号線の鹿島区から金沢に入る所の狭い場所を整地していたからあんな所に家が建つのかと思った。もっとましな土地があると思うがないからそうなる。
金沢地区も津浪の被害で相当数家を失っているからだ。


自分が今になって驚いたことがあった。


南相馬市の全壊数が4682軒もあった!


こんなに多いのかと今になって驚いた。相馬市では1000だからである。えか、それにしても多いなと驚いた。死者数よりこの全壊した数に今になって驚いた。
つまりこの数はどれくらいのものか?本当にこんな数が全壊したのかということか実感できない。
この数から推測すればいかに新しい住宅が必要かわかる。確かに鹿島区でも新しい家が相当数建った。50軒なのか百軒なのかわからないか新築ラッシュになった。それでもこの全壊した数から見ればほんのわずかだということなのである。
新築できた人は財力もある幸運な人たちだったけど一部にすぎないのである。

災害復興住宅が立ち始めたけど40軒くらいのがすでに形になりできあがっている。そこでも一区画30軒くらいだろう。一区画の土地を確保するだけでも容易ではない、
900もの区画した土地が南相馬市で必要だと聞いた時嘘だと思った。
そんな区画した土地が作れるのかとなる。

考えてみると900×40にしても3600だからそれでもたりないとなる。900の土地区画でもたりないだけの人が入る新住宅が必要となっているのだ。
この復興住宅ができないと仮設から出れない、復興にはならないのである。
この圧力は大きい、ものすごい重圧となってきている。
そんなに土地でも家でも建てられるのかとなる数である。

だから土地が欲しい土地が欲しいとなり空家でも土地ごと欲しいという人が多いということがわかる。それにしてももう空屋にしても借り上げ住宅にしても限度がある。

それに加え原発避難者も小高などに帰らずに原町区や鹿島区に家を建てることを求めるとなるととてもまかなえきれない数である。
さらに双葉町であれ浪江町も受け入れるとするとさらに膨大なものとなってしまうのである。
南相馬市だけでも精一杯でありたりないのに受け入れられるのかということが現実問題としてあるのだ。
安い市営の住宅があるけどあれなども仮設が閉鎖になったら需要がまして満室になる。
復興住宅で全部まかなえきれなのである。


ただ土地がないということではない、田畑が原発事故の放射能で荒地化している。でも田畑は農家関係ではなかなか売れないようになっているとか農業が再開できないのは土地を新しく整理するためだとか言われている。もともと田畑は特に田んぼはなかなか売れないようになんていた。だから今でも田となっていた土地が広大でもそれは売れないし宅地に転化できないのである。

田畑は田舎ではなくなったら田舎でなくなる。でもこれだけの住宅が必要だとなるとまた別な発想が必要になっていないか?減反とかの政策があったけどもう田畑を今までのように守ろうとするのではなく宅地に転用する。何かそうした特区的政策が必要になっているのではないか?それだけの土地と新築の家が早めに必要だからである。
そうしなければ復興はありえないのである。

シルバータウン特区というのもそうだったが何かこの辺では今までの規制概念ではもう復興はできない、思い切ったことをしなければもう復興ができない、それは特区構想になる。そういうことが強いられた場所になってしまっているのだ。
もう思い切って自分ももとのままがいいのだが極端にしろ農地の半分を別な用途に使うとかの変革が要請されているのではないか?
農業自体が存亡の危機にも面している。


いづれにしろ3年目でも何ら未来は見えてこない、その最大の問題が新しい住宅を確保できないことなのだ。津浪で4632軒が全壊してさらに小高区が一万人以上避難者になり仮説に住んでその人たちも新しい土地と家を求めるとなるとそれに応じるには個々人ではもはや無理である。何か特区を設定して思いきった施策が要求されている。
それが新市長にできるのだろうか?何かそういうことができないということで批判されつづけられたが再選した。対抗馬も魅力がないからそうなった。

結局三年目でも何ら復興は端緒についたばかりである。
その最大問題が新しい家が建てられないということにあったのだ。


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2014年01月16日

忘れやすい歴史認識力が欠如している日本人 (四〇〇年前の相馬藩の津浪災害も復興のために尽くしたとか美談化している危険)


忘れやすい歴史認識力が欠如している日本人

(四〇〇年前の相馬藩の津浪災害も復興のために尽くしたとか美談化している危険)


オームの事件も二〇年過ぎたのか?二十年過ぎると忘れないにしろ何か興味なくなる。関心もなくなる。あれだけ騒がれたものでももう日本人の関心は薄れオウム事件を知らない20才の若者もすでに発言していた。戦争のこともその遺品が売られているとか忘却されてゆく、ただ一通の手紙が残っていて家門の誇りとか家には迷惑をかけないとか書いて死んでいった若者がいた。家門などというのも今は相当な旧家でないと出ない言葉になってるだろう。まだ家というのが大きな役割を果たしていた時代だったのだ。
オウムのことも戦争のことも何だったのか?日本人は過去を執拗に探求しない、あいまいにして忘れてゆくだけである。台風一過のようにからっと忘れてゆく、それが日本の風土と関係していたというのもわかる。

日本は災害国家であり次々に災害が起きる。でもその災害も次々に起こるから忘れてゆく、津波はあまりにも大きな災害だからまだまだ忘れない、それでも部外者は関心がうすれているだろう。地元だとまだまだ生々しく津波の跡が残っているから忘れない。

神戸の地震だってもう二〇年過ぎたとなるとこれも過去のものとなる。特にもう地震の災害の跡の建物も建て替えられたりして元のようになると余計にあれだけの災害でも思いだすものがなくなってしまう。二〇年の歳月はそれだけ一昔以上になる。十年一昔というけど日本では災害が多いから次々にそういう災害を追っていると前のことは忘れやすいのである。大島での災害も部外者はすでに関心がない、新しいものが災害も事件も次々に起こるからそれに追われて忘れてゆく。全国規模になると世界規模になるとと大きな災害でも事故でも事件でも忘れやすい、それはニュースの画面だけで一時だけ見て終わりでありまた次に新しい事件があり新しいことが起こり前のことは忘れてゆく。


日本人の国民性は明らかに忘れやすい、過去を水に流すとか過去を記憶しないで次々に新しいものを求める。伊勢神宮の遷宮も二〇年ごとであり新しい宮に建てかえる。
つまり二〇年が区切りでありその二〇年で過去は水に流して忘れてゆく。
そして新しい宮で神様を迎える。新年を迎えるとなる。
だから初日の出とか初という言葉が日本人は好きなのである。それは忌まわしい過去など忘れて新しいものを迎えて再出発するという感覚である。これは神道の感覚でもあるのだろう。だから日本人は過去から積み上げた歴史が作れないのである。
言葉でも英語のように時制がないし過去を意識されないのもその要因である。

ただそれだけではない、日本人はどんな過去でも水に流したいという感覚がある。

一方でヨーロッパでもその文化が石の建築から成り立っているから石は二〇〇〇年前でも残っているからローマ時代となると現代と全くかけ離れた世界ではなく現代とも密着して連続したものとして具体的に意識されている。いたるところにローマ時代の石の遺跡がヨーロッパに残っているからそうなる。二〇〇〇年前からでも歴史を過去から積み上げて認識することが具体的にも言葉でも様々な文献でも何でも過去から現代を認識されやすいのである。中国も歴史の国であり青史に名を残すとは歴史に名を残すことを生きる目的としていることでもわかる。

日本人は過去を執拗に探求しない、過去は水に流すものである。そして絶えず新しものこそいいものである。だから日本人は歴史認識にヨーロッパや中国よりも比べて欠けている。あれだけの戦争のことも何だったのか日本人は追求していない、過去は水に流す方がいいのだとかなりただ美化するようになる。

この辺で学者でも小説家でも相馬藩が四〇〇年前の慶長津波で七〇〇人溺死と記されていたがそれ意外のことは一切記されていない。それでも城を中村に移したのは津浪の復興のためだったとか小説でも美談のように書かれている。相馬藩の侍でもそうした津浪の復興事業にかかわったことなど一切記されていない、でもあたかもそれが事実のように美談のように書いている。だから知らない人はそんなことがあったのかとその架空の小説が歴史だと思う人も結構いるのだ。それは戦国時代でも維持維新でも小説化ドラマ化されると何か事実なのかわからなくなる。ドラマを事実だと現実に思っているいる人も多くなるのだ。なぜなら大衆はわかりやすいことを望むから水戸黄門のうよなドラマの方がわかりやすいからそういうもので歴史をみてしまう。


歴史が事実を基にしていることは間違いない、架空のことを事実としたら歴史に対して間違った認識を与えるから危険なものになる。相馬藩で慶長津浪で七〇〇人溺死と記されたことは事実である。ただそれ意外の事実は調べようがない、わからないのである。だから小説でもたいがい事実を基にしている。その事実が全くないのに現代の公共事業のように津浪の復興事業が行われたとか書いているし学者も小説家も書くのは何か納得できないのである。歴史小説でも事実を踏まえて探求したものを書くべきだろう。そこに小説の重みも生れてくる。

いづれにしろあれほど騒がれたオーム事件も二〇年たって自分自身も興味なくなった。
津浪とか原発事故とかの当事者になったりして余計に興味なくなったのである。

一身上のことでも大事件があったりすると人間は自分のことに追われて忘れてしまう。
今年だってそうである。離婚騒動にまきこまれ新しく出会った人間に関心をもち前につきあっていた人は忘れてゆく、結婚でも何十年で一緒にいても離婚したらまた忘れてゆく。人間は次々に新しく起きることに追われ過去は忘れてゆく運命にあるのだ。
年取ると段々新しく起こることについていけなくなる。これから同時代の人も次々に死んでゆく。
するとすでに同時代の人さえ忘れてゆく人が膨大になるのだ。
あの人死んだか、あの人も死んだか、あの人は何だったのか、もうどうでもいいやとかなり関心なくなるのである。ただ一時ニュースの画面に出て消えるだけなのである。

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2013年12月13日

南相馬市小高区福岡で津波のボーリング調査 (十和田湖カルデラ火山の灰の下から貞観津波の砂を発掘)



南相馬市小高区福岡で津波のボーリング調査

(十和田湖カルデラ火山の灰の下から貞観津波の砂を発掘)


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この図では富士山火山活動と貞観地震は5年後に起きている。すると貞観地震と関連している。それから46年後に十和田湖火山爆発が起きている。これが関係しているのかどうかはわかりにくい、そして慶長地震津波はずっとあとである。
だからポーリングで砂が発見にしにくいのか?時代が特定しにくいのかわかりにくい。



■■■貞観11年5月26日  三陸沖〜九州・貞観大地震(東北大震災と同等クラスあるいはそれ以上?)

陸奥国に大地震 津波

陸奥国、地大いに震動りて、流光昼の如く陰映す。しばらくのあいだに人民叫び、伏して起つ能はず、或は屋倒れておされ死に、或は地裂けて埋れ死にき。馬牛は驚き奔りて或は相昇り踏む。城郭倉庫、門櫓牆壁のくづれくつがえるものは其の数を知らず。海口(みなと)は哮吼えて、声いかづちに似、なみ(驚濤)湧き上がり、くるめ(泝)き、みなぎりて忽ちに城下に至り、海を去ること数十百里、浩々としてそのはてをわきまえず、原野も道路もすべてうみ(滄溟)となり、船に乗るにいとまあらず、山に登るも及び難くして、溺れ死ぬる者千ばかり、たから(資産)も苗もほとほと残るもの無かりき。

 京都延暦寺の僧侶によって平安時代に書かれた『扶桑略記』(ふそうりゃっき)の延喜十五年(915年)七月の条に,「915年8月18日の朝日には輝きがなく,まるで月のようだった.人々はこれを不思議に思った.8月26日になって,灰が降って二寸積もった.桑の葉が各地で枯れたそうだ,と出羽の国から報告があった.

 京都は十和田湖から800km離れている.火山灰を運ぶ上空の風の速さは,ジェット気流(西風)で時速100km程度,北風の場合はもっと遅いから,京都から見える水平線の位置で朝日の見え方に影響を与えるためには,噴火はその前日に起こっていなければならない.したがって,毛馬内火砕流の噴火は915年8月17日に起こったと考えられる.
この噴火では50億トンのマグマが噴出した.浅間山の1783年噴火(7億トン),雲仙岳の1991年噴火(4億トン)より桁違いに大きい.十和田湖のこの噴火は,過去2000年間に日本で起こった噴火のなかで最大規模である.
この地震の5年前の貞観6年(864年)には富士山の青木ヶ原樹海における溶岩流を噴出した貞観大噴火が起きている

陸奥国地大震動を十和田カルデラの噴火に関連するものと考えた研究も存在するが[6]、古くから吉田東伍は「流光如昼隱映」は噴火によるものとは限らず、この発光現象は他に原因があるものと考えていた。十和田カルデラの噴火は『扶桑略記』にある915年(延喜15年)に発生したと推定されており、このテフラの堆積物(火山灰)は貞観津波堆積物層(砂)の直上に位置し、貞観津波堆積物と明確に区別可能であり、またこの堆積物が貞観津波によるものであることを容易に識別させる時代考証の指標にもなっている[22]。

小高の福岡でボーリング調査で十和田湖カルデラ噴火の火山灰が掘り出された。その下に砂も掘り出されたからその砂は津浪によってもたらされた砂だという、つまり貞観津浪の砂だったのか?十和田湖火山の火山灰から年代を推測すればそうなる。
でも福岡という地域は海に結構近い。今回は完全に津浪に没した地域である。
小高は駅を越えて津波が街内まで入ってきたことに本当に驚いた。
だから福岡の地点では驚かない、ただ年代的には貞観津波の砂としか考えられないのだ。それよりあの辺は縄文時代海だとすると平安時代も深く海が入り込んでいた。
だから砂が掘り出されても不思議がないともなる。
もっと奥だったら貞観津波の大きさを実感できただろう。
ただ十和田湖火山の火山灰が積もっていたということの驚きである。


十和田火山灰より上位に津波堆積物と考えられる砂層が検
出された.歴史記録から判断すると,この砂層は西暦
1611年慶長津波によるものと推定される.


十和田a
火山灰より上位に津波堆積物と考えられる砂層が検
出された.歴史記録から判断すると,この砂層は西暦
1611年慶長津波によるものと推定される.

http://unit.aist.go.jp/actfault-eq/Tohoku/06_08_03.pdf

この火山灰により年代特定ができる。火山というのも未知であり鹿児島のような桜島げは日常的にか火山灰の被害にあっている。それだけ火山灰はやっかいなものだけど過去には火山灰は肥料のような役目を果たしていた。焼畑農業はまさに人為的に森を焼いて灰を作っていたのだ。


姶良カルデラが吹き上げたAT層は酸性で赤いから焼畑くらいしかできないが、阿蘇や日本アルプスや阿武隈山地の火山灰土は真っ黒で「黒ボク土」といわれている。
滋味豊かで畑作にも使うことができる。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54501093.html


相馬市のボーリング調査でも松川浦からずっと奥で砂が発見された。それは貞観津波のものだろうと言われる。
それにしても不思議なのは慶長津波の砂が相馬市でも小高の福岡でも発見されていないのか?この辺の科学的研究も実際はまだまだなのだろう。砂が発見されなくても砂はありうるからだ。だからすべて科学的研究だけで解明されるというものではない、でも現代は科学的研究が一番信頼される。
ただ慶長津波の砂が相馬地方で発見されない、相馬市の調査でも慶長津波ではなく貞観津波のものだった。


貞観津波の記述で


船に乗るにいとまあらず、山に登るも及び難くして、溺れ死ぬる者千ばかり、


船に乗ると助かったが乗れなかった。山に登ろうとして途中で波にのまれて死んだ人もいる。この記述は実際に見た人の証言だった。

津波でもそうだが十和田湖級の火山爆発になるとこれまた想像を絶するものとして日本全体に影響した。とにかく日本は火山が多い、それだけ日本の国土は大陸と違って若いのである。火山があることにより富士山のうよな優美な山ができた。火山国だから日本の自然は作られた。そして地震国であり津波国なのが日本だった。
ただ最近日本の風土的特徴を忘れていたことがある。今回の津波でそのことを思い知らされた。

この調査結果を東電に報告した時は貞観津波の砂ことであり慶長津波のことではなかった。貞観津波の砂は十和田湖火山灰の堆積により特定しやすいということなのか?

貞観時代辺りは地震や津波や火山が続発して起きた活動期である。だから南海東海地震も津波も起きる゛富士山噴火も警告される。自然が何も起きないときは眠っているのではない、巨大なエネルギーを地下であれ海底であれ蓄積しているのだ。だから何も起きていない、地震がないということで安心できないのである。

自然も絶えざる変化なのである。小笠原諸島の西之島kのそばに海底火山が噴火して新島ができたように地球は絶えず海底でも地下でも活動している。宇宙でも活動している。そうした活動を休むことはない、休む時はエネルギーを蓄積しているだけなのだ。土地でも冬には休ませるという、肥料をやって眠らせるという。すると春には土は肥えて実りをもてらす。ふゆはふゆ(ふえる)ことだというとき増える準備をしているのが冬なのである。活動するために眠っているだけなのである。
だから自然が完全に眠る停止するということはないのである。

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2013年12月10日

権利ばかり主張して感謝しない時代 (民主主義の弊害-津浪は神からの罰だった?)


権利ばかり主張して感謝しない時代

(民主主義の弊害-津浪は神からの罰だった?)

●人間はそんなに権利がそもそもあるものなの


現代は民主主義社会では常に権利が主張される。どんな人にも権利がある。人権も人としての権利がある。だから障害者だろうが生活保護者だろうが最低限の生活はする権利があると主張する。そして権利は平等だとなる。だから親の財産でも平等に分けるべきだとなり絶対にゆずらない、権利はrightのことである。何か正しいという根拠に基づいて権利がある。だから権利は最初は権理と名付けられていた。なにかしらreasonがあって権利がある。ただいくら権利があるといっても後進国ではでは生活保護の権利があるとデモになるかといえばならない、生活保護は豊かな国で保証される権利である。

つまり豊かでなければそんな権利はありえないのだ。乞食が恵みが足りないと怒り相手を恐喝するのともにている。ただ生活保護は今は高齢化社会での老人は別扱いだと思う。
いくら一生働いても公務員のように高い年金をもらえるとは限らないからその不平等を補うために生活保護もある。ただ若い内はやはり安易に生活保護になるのは問題だろう。


民主主義で権利だけ主張するようになったのは人間の欲望は全面的に認めるべきであり満たされるべきでありその権利があるということにもなっている。欲望を抑えるべきではない、それが欲望資本主義なのである。禁欲から修道院からはじまった資本主義が歯止めのない欲望資本主義になった。だから権利と欲望は必ず一体化しているのだ。
遺産を兄弟で分けるのが問題ある時がある。土地をもっていて兄弟で分ければ農業ができなくなることもある。でも権利を主張するから認められるからそこでかえって兄弟の和は破壊される。つまり人間の欲望は限りないから止めることができないから権利を認めればそうならざるをえない。


自分の場合でも遺産の問題でもめた。でもそれは二〇年以上前のことであり相手は時効になっていることも気付いていないのだ。殺人でも時効になっている。裁判に訴えるというとき、それは何の法律的権利もなくなっていた。でも相手はどうしても金が欲しいから権利を主張する。
こちらではそういうことではなく何かしてやろうとしても相手はそのことが当たり前であり何の感謝もしない、要するに当然もらえるものを権利を主張しているだけだとなる。
権利はあったにしても権利ばかり主張してお前は金だけをよこせとなるともう交際はできない。これは今の親子関係でも起きている。金だけをよこせばいい、感謝などはしない、なせならそれが子供の権利だからとなってしまう。
だからもう金をやらないことにした。またそうできない事情もあった。
福祉関係だからめんどうになるからだ。


何かこういうことは現代ではどこでも起きている。常に人は権利だけを主張する。
その権利はあらゆる欲望は満たされるべきだという権利なのである。
そんなこと果たして神が自然が許すものだろうか?
この地球の富は資源は人間のために利用するの権利がある。
人間が地球の主人だからともなる。
それが古代では最初は人間は自然の実りに対して感謝していた。食料でも何でもとれることに神に自然に感謝していた。それが一つの祭りになっていた。
するとこうした祭りは近代的ではない科学的ではないと否定されてきた。
神であれ自然であれ感謝することが意外と大事なことだった。


●相手に尽くしても感謝しない人が増えた


なぜなら魚一匹でもとれることに感謝する。それは神から与えられた贈り物のように感謝する。現代は例えば漁師でも農家の人でも神に自然に食料がとれたからと感謝しない。
魚でももっと多く多くとり売りたいとなる。食料でも野菜でも米でもみんな商品化している。売れれば得したとなり自然そのものに感謝することはない。買うものが無限にふえたということもある。だから自然にとれるものは自然の神に感謝するよりもっと多く取り多くのものを買いたいという欲望に変化したのである。


そういうことは一体神から見たらどうなるのか?
なぜ神はこれほどのものを与えているのになぜ人間は感謝しないのか?
ただ足りないもっと欲しい、もっと売って得をしたいとしか思わないのか?
漁業権者は漁業権ばかり主張して莫大な富を原発で電力会社から得た。
彼らが一匹の魚を得たことでどれだけ感謝したか?
彼らは電力会社に感謝していたのである。
自分たちにそういう権利があると心底思っていたからである。

人間-神-自然という関係ではなく、人間-人間の関係だとわかりやすい。


「患者が感謝の気持ちを示してくれなかった」 しゃべれない患者6人の骨を折った看護師女(26)供述 兵庫 (227)
http://r-2ch.com/t/newsplus/1268381885/


看護師が感謝しないと殺す事件もあった。これも一見異常に見えるが看護師という仕事がそれだけハードだから起きてくる。看護師とか介護士とかは直接人間と接するから余計感じるのだ。なぜこれだけ世話している尽くしているのに感謝がないのかとなる。
そういうことを自分も介護とかして感じた。
これは子供でも育てるのが大変だから親が思うこともあるだろう。
昔だったら子供は何であれ親に感謝して親にその恩を報いるべきだとなっていた。

これは神-自然と人間にあてはめると

「なぜこれだけ私(神)は人間に与えているのに人間は感謝しないのか
もう人間に与えるのは嫌だ、災いを与えてやろう」


何かそういう心境になるのがわかるのだ。ただいくら尽くそうと感謝を感じない人は感じないから強制などできない、でもそれを感じないことが神ー人間でも人間ー人間でもありうる。その時相手にこれだけ世話して尽くしているのに感謝もされないなら馬鹿らしいからやる気がないとか極端になると殺してやるまでなる。神にしても人間はただ自分たちの権利だとして欲望をみたすことだけを要求する。そんな人間の権利をすべてかなえられるか?となり神は怒り災いももたらすとも考えられる。


●津浪はやはり感謝もしない神の怒りだったのか?


つまり津浪というのがあまりにも大きな災害だからこれは何なのだと思い考えつづけてきた。小さな災害なら台風とかなら考えない、通常のことである。今回の津浪はあまりにも大きな災害でありそれが大きすぎるからこれは何なのだという疑問が消えないのである。
ただ人間社会でも尽くしても感謝されない、やる気がなくなるなど日常的に起きている。家族のなかでも妻が夫に尽くしても感謝しないとかこの逆も起きている。

自分はいろいろ矛盾もあったが家族には感謝している。やりたいことをやらしてくれたことなどで感謝している。だから介護も供養もしている。
親でもいろいろありただ毒だけの親も普通にいるから自分は矛盾した普通の家族でも自分にとっては良かったと今では思う。

ともかく現代は民主主義であれ資本主義であれ欲望の無限の権利を主張する。
あらゆることが「権利だ、権利だ、権利を勝ち取れ」となる時代である。

カルト宗教団体でも宗教も同じである。ただ自分たちの権利だけを欲望を得るために団体化する。そして欲望を権利を主張するたげである。それは様々な利権となっている。
それは仏教から神道から新興宗教はほとんどそうである。檀家なども戒名利権だとか京都なら観光利権だとか利権団体なのである。こうした利権団体は巨大化して誰も批判できない。この辺では漁業者には漁業権があり原発から多額の補償金をもらっていたなと批判していない、今でもできないだろう。それはここだけではない社会すべてに通じているのだ。個人もそうであり団体もそうであり利権を主張するために団体化する。
利権というとき権利というとき何か正当な正義の実現だと思われる。実際は個々の欲望を実現するためのものでありその欲望がすべて正しいとはならないのだ。


その反面感謝することがない、そういう社会に人間に神が怒ったのが津浪だったとか思うようにもなる。
原発事故にしても人間の欲望から生れた。その欲望を神はかなえさてくれなかったのである。それは何かタブーを無視したのでありそれに神が怒ったのである。
だから今回の津浪はノアの方舟とか火を盗んだプロテウスの罰とかとにていると書いた。神の罰のような恐ろしいものが津浪であり原発事故だった。
プロトニウムの毒が二万年消えないとかもそれだけの恐ろしいものが消えずこの辺に残ってしまうものとなってしまったのである。

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2013年12月01日

歴史は事実を基にしているからフィクションの小説は誤解を生む (慶長、元和の大津波-近衛龍春の小説の疑問)


歴史は事実を基にしているからフィクションの小説は誤解を生む

(慶長、元和の大津波-近衛龍春の小説の疑問)

booktunami1111.jpg

なぜこの小説で相馬藩の津浪のことが書かれている。それは何を根拠にしているのか?
その根拠となるものがない、相馬藩政記には「700人溺死としか書いていない」
ただ700人と書いてあるのだからその被害を記したことは確かである。700人という数を調べて記録した。だから全く藩でかかわらないということではなかった。
ただ津浪のことはこの記録意外何もわからないことなのだ。
だから確かに小説のようだったと勝手に想像して面白く書くことは非難できない。
つまり小説はあくまでもフィクションでもいいし面白く書いてもかまわない。
ところが現代はNHKの大河ドラマのようにあくまでフィクション化したものを
歴史の真実と見ている人が多いのである。


現代は様々なメデアの時代であり小説であれドラマであれ映像であれフィクションが
現実のように思わせることが多い時代である。それでやらせの問題がでてきた。
動画さえ架空のものを真実と思わさせられるのである。
そういう技術が発達した時代である。写真さえそれが本物なのかわからない、
合成して作り出せるからである。

司馬遼太郎は小説家であり歴史家なのだけどそこにフィクションが確実に作り出されている。「竜馬が行く」で竜馬のことが小説化してことさら英雄化された。
そこにフィクションが事実のように思い込まされたことがあるのだ。
竜馬についての歴史的真実は何だったのかとなるかそれを考証することは普通の人には容易でないから大衆はフィクションを本当のことだ信じてしまうのである。
だから坂本竜馬は司馬遼太郎によって誇大に小説化されて英雄化されたという批判があるのだ。つまり歴史的真実は今やわからないからそう批判されるのである。

この小説にしてもなぜこの時期に出たかというと津浪があったからであり話題になるからである。でもどうして津浪のことをまるで真実のように書いてあるのか?

小説だからフィクションだから何を書いてもいいとなるのが相馬藩では当時の主君の義胤でも何も記していない、ことこまかに記されているのは戦争のことであり跡継ぎ問題などである。飯館村の飯樋の木材資源をめぐる争いなどはことこまかに記されている。
津浪はそれより重大な問題であり被害があった。それが全く700人死んだとしか記されていないしまた伝説にも残ってない、それは何なのだろうと他の人たち、研究者も疑問に思って調べていた若い研究者の人がいた。その人は相馬藩内にも津浪の伝説はあった。
柚木に「急ぎ坂」という言い伝えがあった。津浪で急いで逃げたからなのかこれもどこまで慶長の津浪に由来するかは不明である。相馬藩ではほとんど津浪の言い伝えを聞かないからである。だから庶民の側でもなぜ記録を伝承でも口伝えでも残せなかったのか不思議だとなる。そこに何らか事情があったのか?その辺は謎である。


ただ城を中村に今の相馬市に津浪の復興事業のために移したと岩本氏も言っているがこれもどうしてそう言ったかのかその根拠は何なのか記されていないのだ。何かその根拠となるものを示せば納得するだろう。そういうものが一切ないのである。では学者なのになぜそういうことを言ったのだろうか?小説ならわかるがそれも解せないのである。
むしろこの記録されないということが何か大きな問題をふくんでいる。
歴史の大きな記憶の空白を生んだことが実はそこに歴史の真実があるとなる。
例えば蝦夷というものが大和朝廷に滅ぼされたけどこれも歴史として残されないから謎となっている。歴史は勝者の記録だとするとき敗者は無視される。だから敗者の歴史は埋もれてしまった。それも歴史の大きな空白なのである。


結局700人溺死という津浪の被害は当時の行政だったもの君主だった義胤にも無視されたともなる。その頃まだ相馬藩の政治は戦国時代であり安定していない、だから戦争のことや跡継ぎのこと飯館の飯樋の森林資源の争いで財政を確保することなどが重要であり津浪の被害まで頭が回らなかった。だから例え津浪の被害を訴えてきてもとたあわない、とりあう余裕もなかった。徳川の城普請も要求されたり財政的に余裕もない、だから津浪の被害者のことは無視された。復興のために中村に城を移したとか復興事業に尽力したことなどなかったのである。なぜならそうしたことを何もしりえようがない、資料もないのである。


歴史はフィクションではない、でも容易にもう遠い過去のことだからフィクション化されやすい、聖書は事実を記したものである。でもフィクションだという人がいるがそれはすでに信仰の問題でありその事実を否定するものは信仰も成り立たなくなる。
でも一般的には歴史の事実を知ることは庶民にとってはめんどうだから小説の方を事実のように見てしまう。これは原発事故でもそうだった。安全神話が政府指導で作られて誰も本当のことを知らせないようにした。また調べることもできないようにした。
戦争中も皇国であり日本は絶対に負けないと負けた事実を信じないで嘘を信じていたのである。要するに人間は嘘でもそれが大きな嘘は信じやすいということである。

それは人間はあらゆることを知りえない、特に科学はむずかしいから知りえようがない、そして原子力は科学のなかでもさらに一番むずかしいから何が真実かを知り得ようがないからだまされたとなる。

マスメデアが批判されるのはメデアが権力化して伝えるべきものを伝えない相馬藩の津浪のように重大なことが知らされない、原発でもそうだった。そこに大きな空白が生まれ
事故につながった。相馬藩の津浪でももしことこまかに記されていればここにそんな津浪があったのだと日頃から意識されていたはずなのである。ただこれはここだけの問題ではないからいちがいには言えない、でもここでは全く津浪が意識されることがなかったのである。だから津浪の危険を警告もできなかった。


他でも人間がだまされやすいのは大きな事業をしている人なのである。事業のことはわかりにくい、異種業者になるとわからない、でも何か大きな事業をしているとなると素人にわかりにくいからだまされるのである。電気関係の事業をしている人が一億円の資産があるといったとき信じてしまった。それは電気のことなどわからないからである。
そういう技術的なものはもうけが違っているのかと思ってしまうのである。
その事業者は借金で首が回らなくなっていた。事業の危険は20人に一人しか成功していないという厳しさだったのである。
つまり歴史でも嘘を真実だとフィクションを真実だと信じていることが相当数ある。
なぜなら遠い過去になるとますます事実が何かわからないからそうなっているのだ。

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2013年11月26日

なくなってはじめて意識する人間の感覚の不思議 (歴史には記憶が消える空白化が膨大にある


なくなってはじめて意識する人間の感覚の不思議

(歴史には記憶が消える空白化が膨大にある)

日々通るこの道の脇家の跡誰か住みしと冬のくれかな


●その家が消えてはじめて意識する人間の感覚の不思議


人間の不思議はその家がある時はその家のことを意識しない、六号線の脇の家もそうだった。誰が住み何をしているのかも意識しない,普通にありふれた一軒の家にすぎない、そこに誰が住んでいて何をしているのかも関心がない、しかしなぜその家がなくなった時、その家のことを意識したのだろうか?
そこを散歩の為に毎日通っているということもあった。毎日通るからどうしても更地と化したその場所が気になる、意識するのである。
もう一つはその家について誰が住んだのか何をしたのか?そうしたことが全く不明なためである。だからこの家は何だったと意識する。
これは人間として奇妙なことである。それは人間特有の感覚である。
あった時何も意識しない関心もないのになくなったとき意識する。


例えば墓にしても碑にしても名前がなかったり何も書いてないものがある。字も薄れて何が書いてあるのか年代もわからない、すると何とかその書いてある字を知りたいとなる。知り得ないから余計に知りたいとなるのも不思議である。かえって明確に字が記されているとああそうかで終わりになる場合もある。だから人間の感覚は不思議である。
謎であればその謎を知りたい究めたいとなる。
古代文明の興味はすでにわからない謎になっているからいつまでたっても興味の対象となっているのだ。

そしてもう一つは人間は何らかの空白に耐えられないのだ。真空になっていることを許さない、そこに何かがあるべきものとしての感覚である。何もないということはそれは物理的現象だけではない人間的に存在についても言えるのである。
何もないということはあってはならないことなのだ。

だから奇妙なことなのだけどここに住んだ人は誰だったのだ?何をした人だったのだ。
故郷にとってどういう人だったのだとかまで考える。
この辺は津浪で家をなくした人が多い、それから移動したり何かで家が壊されて更地になった所もふえた。そして次々と家が建っているのが現実である。
そういう変化の激しい地域になっている。
だから家がなくなったのはこの家だけではない、でもなぜかその家を意識するのは自分が毎日通るということにもあった。
その家に住んだ人について何も語り得ないことが空白になっいることがかえって余計に意識するようになっている不思議である。


●人間も生きている時は意識せず死んだ時意識する


人間でも生きている時は意識しない、死んだ時かえってその人を意識するようになる。
大原の斎藤茂延さんのことを忘れていたが死んだと聞いてまた意識した。より深く意識するようになった。一カ月ではなかった。実際二〇日間くらい一緒に病院にいて話を聞いただけだったが病院は閉鎖された特殊な異様な空間でありそれで親密になったということもあった。ただその前にその人のことを全く知らなかった。大原についても興味はなかった。だけどその人を通じて大原に関心を持つようになった。
そして死んだ時さらに関心をもつようになった。


あの人がここに生きて死んだ、この土地で農業していたからこの土地に愛着をもっていただろうな、それで跡継ぎがないとか廃屋が増えて村が廃れてくるとか何かそういうことに関心をもつ、そして山の中に田んぼなのか荒地になっているところを見たら先祖がさぞかし苦労して開墾した土地なのに捨てられる、放射能汚染地域でもう誰も耕さないのかとなると悲しいとなる。

それがちょうどその茂延さんの墓所のすぐ近くだったのである。

そして茂延さんは死んだのだけどまだ愛着ある大原に生きていると感じるのも不思議である。なんか大原の道を歩いているとひょいと出てきて逢うような気がするのも不思議である。これは都会に暮らしている人と違ってその土地と密着して生きた農家のような人たちはそうなる。死んだらその土地の先祖となりその土地の霊となる。山の神となるというのはそれは理屈ではなく日本人の自然な感覚だったのである。


●歴史にも記録の空白化がいくらでもある


いづれにしろ人間はどんな人でも死んだ時点で死んだ時その人を一時的でも意識する。
近くに住んでいた人は一回も話していないし名前もしらないし何をした人かもしらない、仙台から拾ってきたんだとか噂していた。でも三〇年も一緒にいたのである。
周りの人も何もしらない、一人だけ知っていた人はいるにはいた。
でもほとんどの人はその人について何も知らない、それで夫は金がなく市で始末してくれるだろう、無縁仏になると言っていた。でも最近籍に入れていたとすると墓に入れられたのである。でも貧乏だから母親の名前も墓誌に刻んでいないから何もできないのである。そういう人でもその人は何だったろうとなる。
それなりの人生があったのだろうと思う、すぐ隣にいても全く不明だったという不思議である。無縁仏になっていてもそれなりの人生はあったとのだろうとなる。
ただもう誰もわからないし知り得ようもないのだ。誰ももう聞こうともしない、これも全くの消失空白化になっているから気にかかるということもある。


歴史的にも歴史となると膨大な人々が生きているのだからいくらでもこうした記憶の空白化は起きている。人間は日々死んでいるのだから日々忘れられてゆくというのも現実である。相馬藩でなぜ溺死者七〇〇人としか四〇〇年前の慶長津浪のことが記されていないのか?これも謎であり歴史の空白化現象なのかもしれない、他に・・千軒とか街ごと消失した伝説が各地にある。多賀城にもあり横浜にもあり草戸千軒は有名である。
それらについてもただ・・・千軒があったということしか伝えられていない、だから本当にあったのかどうかさえわからないのだ。ただ草戸千軒の場合は最近発掘物で実際にあったとわかったのである。

相馬藩政記のことを時々紹介しているけど他のこと戦争のことや跡継ぎ問題などはことこまかに記録している。だから津浪で七〇〇人死んだということの記録が一行だけというのはやはり一つの歴史の空白を作り出していたのである。
津浪でも相馬市の奥まで津浪が来ていたと土を掘り下げてわかった。それは貞観津浪の砂だった。とにかく歴史となると長いからそうした記録の空白がいくらでもある。
津波で神社のことが問題になったけど神社についても謂われもいつ建てられたのかもわからないのが多い。
建てたときはやはり何かしら建てる理由があり建てられたけどわからなくなってしまったのだ。
でも何らかの記念であったことは確かなのである。
津神社などは何かわからなくなっていた。それが津波の記念だったのかどうかなのもよくわからないのだ。
津波のあとの百年後とかにも建てられているからだ。
意味不明の神社が相当数ある。それも歴史の空白化現象なのである。

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2013年11月06日

相馬藩が中村城に移転したのは津浪の復興などと何の関係もない (当時の戦国時代の政治的事情で無視された)


相馬藩が中村城に移転したのは津浪の復興などと何の関係もない


(当時の戦国時代の政治的事情で無視された)

 
 
1611(慶長16)年12月2日、三陸沖、M8.1

さらに慶長16年(1611年)12月に宇多郡中村城に本拠を移し、ここが相馬藩の城下町となった。
治家記録慶長16年11月30日条に、この津波の到達した場所を推定できる記載がある。海に出ている間に地震発生、津波に流され、舟ごと「千貫松」に流れついた記載。

「相馬藩世紀」には相馬中村藩の領内(現在の相馬、南相馬、浪江、双葉、大熊、飯舘の各市町村)で約700人が津波で死亡したとある

400年前の津波の後、相馬中村藩は城を軸に城下を整備する都市計画を進め、商工業の振興を促したという
http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2011/04/post_921.html



1611年 (慶長 16年)、相馬利胤は藩境を接する伊達政宗に備えるため相馬藩の本拠地を小高域から 中村城に移し、廃藩置県を迎えるまでの260年余りの間、相馬中村は城下町となりました。


烏帽子親であった石田三成の一字を賜って初名を三胤といったが、これは義胤が豊臣秀吉の小田原陣に参陣した際に、石田三成の取り成しで本領を安堵され、それ以来三成と昵懇であったためであった。


三成の旗印が野馬追いに残ったのもそのためだった。


江戸に上る際に三成の偏諱をはばかって密胤と名を改め、その後さらに幕閣の実力者土井利勝の利の字を偏諱として再び改名し、利胤と名乗りを改めている。


名前も二度も変えているのである。名前は普通は簡単に変えないけどそれだけ上からの圧力が強い時代だった。この戦国時代の時は、まずどれだけ領地を守ること一族を守ることに必死になっていたかわかる。こういうとき中村城に移転したのか慶長津浪から一カ月後なのである。なぜそんな時期にわざわざ難儀な城の移転をしたのか?
それまた問題になった。これも学者が津浪の被害がありその復興のために中村城に移転したという説を出した。

これもその当時ありえないことである。まず公共事業で経済を活発化するなどという現代の感覚などゼロである。中村城移転は何ら津浪とは関係していない、伊達に備えるためだったというのがやはり正解だろう。新地が一時伊達領だったことでもわかる。
この戦国時代には領地の奪い合いなのだから領地を守るとなれば中村城が一番適地になる。それは津浪が起きたこととは何ら関係ない。

そもそも溺死者700名としか相馬藩政記に記されていないことがその証明である。
政治の中心は津浪の被害より領地を守ることに専念されていた。

そして相馬氏一族の安泰を計ることが第一である。たから家来が戦死したとかは藩政記に記されている。でも津浪で死んで被害がどうだこうだとかは全く記されていない、その時の関心は領地を守ることでありそれに必死になっていた。
その時津浪の被害も報告されたがただ溺死者700名としか記されない、もし公共事業のように中村城を移転したならもっと津浪のことについて書いている。
津浪で民が被害にあい苦しんでいる、そのために・・・と何か記しているはずである。
それがまるっきりないのである。だからむしろ津浪の被害者はこの時の政治で無視されたのである。津浪の被害は政治の最重要課題になっていないのである。
だからといって津浪の被害を受けた人たちにとって最大の問題だった。

でもその当時政治の課題は領地を守ることであり津浪の被害があってもそれは無視された。だから三カ月後に今度は徳川家康の冬の陣に大坂城に参戦している。これも津浪の被害の後にそれだけの財力があったのかと思う。今ならもう津浪の被害に政治がかかりきりなるはずだからである。つまり津浪の被害はほとんど無視されたから記録されなかったのである。もちろん津浪のために中村城に移転したということはありえない、ではなぜ津浪の被害にあった人たちの声が残されなかったのか?


これも謎なのだけど津浪の被害にあった民衆にその記録を残す力がなかったとも言える。もしかしたら被害を訴えたかもしれないけど政治の最重要課題は領地を守ることであり津浪の被害に対処できる状態ではなかった。だから無視してその財力も徳川を応援するための参戦するために使われた。つまり津浪の被害者には何ら藩では助力もしなかったともなる。それもできなかったともなる。だからそっけない一行で700人溺死としか記さなかった。その他のこと相馬藩の存続にかかわる跡継ぎ問題などは詳しく記されているからだ。
津浪のことが記されていないことは当時の相馬藩の政治事情のためでありそれで無視されて記録もされず忘れられてしまった。政治は今でも何が第一の課題か問題になる。何を優先するかが問題になる。それは必ずしも民衆をの要望を第一にするとは限らないのだ。
だから津浪で死んだ700人は当時は無視され歴史の闇に消えてしまったのである。
その消えたこと消されたことが実は大きな歴史であり意味あるものとして見直すことが必要だった。


相馬藩は歴史が古いために藩主相馬氏の蔵入地は他藩と比べて極端に少なかった。太閤検地の際の相馬氏の蔵入地は16%に過ぎなかったといわれている。実に8割以上が、藩士や寺社領であった。

このように財政基盤が弱いところに、江戸開幕後の軍役負担、中村城築城などの出費があり、たちまち財政難に陥った。つまり相馬藩は成立時から財政難に苦しめられたのである。

(戦国時代における蔵入地は、戦国大名が自己の所領のうち、家臣へ与える知行地に対して代官を派遣して直接支配を行って年貢・諸役などの徴収にあたった直轄地を指す。)
http://roadsite.road.jp/history/chishi/hanshi/mutsu-soma.html


まずこれだけ財政難なのだからそもそも津浪との被害のための復興としての公共事業などという発想すらできない、藩士や寺社領だったということは自前の財力がない、ただ藩士や寺社の領地が津浪の被害を出したら寺社でも藩士でも損害だからて何らか記録が残ったかもしれない、でも寺社にしても津浪で死んだから供養したなどない、海側が被害にあったのだからそこには自分たちの領地が少なかったのかもしれない、海側は米がとれないから漁業だけだと年貢にならない、検地もしないから記録として残りにくいということがあったかもしれない、様々な事情が重なって津浪の被害は無視されたのである。


実際に今なら津浪の被害者の名前がみんな石碑に刻まれているから忘れられることはありえないのだ。当時は津浪の被害にあった人たちはそうした石碑を残すことさえできなかった。それだけの経済力がなかった。墓を庶民が残せたのは江戸時代の後期だったのである。では伝説などで語り継がれなかったのか、それも謎なのだけどやはり津浪の被害は普通の災害とは違っている。・・・千軒とかが伝説に残されているように一瞬にして村自体が消滅するような災害である。すると村自体が消失したら歴史も記録も消えてしまうことになりかねない。例えば津浪で村自体が消失して他の村や町に移ったときそのことを語っても信じられなとならないか?みんな死んで村がなくなってしまったんだよと語っても信じられないとなり語り継がれることもなくなった。草戸千軒などはそうである。最近になって遺物が発見されてあったとなっているからだ。溺死者700人というのはそれとにて歴史から消失してしまった。しかしそのことか今になって重大なこととして蘇ったのである。その当時の記憶が同じ津浪が呼び起こされたのである。

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2013年11月05日

なぜ相馬藩では慶長津浪が記録が皆無に近いのか? (初代の時に津浪の被害があり戦国時代で混乱していたから?)


なぜ相馬藩では慶長津浪が記録が皆無に近いのか?

(初代の時に津浪の被害があり戦国時代で混乱していたから?)

相馬藩初代となる利胤は、天正9年に相馬氏十五代相馬義胤の長男として陸奥国行方郡小高城で生まれる。
慶長元年(1596年)元服の際に父義胤は石田三成に烏帽子親を頼み、三成の一字を得て三胤と名乗る。
これは義胤が豊臣秀吉の小田原陣に参陣した際に、石田三成の取り成しで本領を安堵され、以来三成と昵懇であったためであった。


徳川家康は会津の上杉攻めに向う途中、下野小山で石田三成の挙兵を聞き兵を返す。
慶長5年(1600年)8月関ヶ原本戦で家康が勝利、この報を聞いた義胤は遅ればせながら翌慶長6年正月に上杉領であった安達郡を攻めて失敗している。


慶長7年(1602年)5月24日に関ヶ原不参により義胤は領地を没収される。このとき常陸の佐竹義宣も領地を没収されて、出羽久保田20万石に移封されたが、義胤には佐竹領のうち1万石が分与される予定であったという。

さらに慶長6年(1601年)に正室を亡くしていた密胤は、秀忠の側近土屋忠直の異父妹で旗本岡田元次の二女を正室にこ迎えた。
 旗本の二女ではあったが秀忠の養女として嫁ぎ、この婚姻の仲立ちとなった土井利勝の利の字を偏諱として再び改名し、利胤と名乗りを改めた。また、徳川家と縁戚となったなったことで従四位下、大膳大夫に昇任している。

この間、慶長3年(1598年)に小高城から本拠を牛越城に移しているが、領地没収騒動を不吉として。
慶長8年(1603年)には再び小高城に戻っている。

 慶長12年(1607年)江戸城普請の手伝い、慶長16年(1611年)12月には小高城から宇多郡中村城に本拠を移している。以後、ここが相馬藩の城下町となる。
 利胤は宇多川の流れを変え、碁盤の目状に街割を行って城下町の形成に意を注いだが、この際に北方の伊達氏を仮想敵として考慮したという。




慶長地震の津浪が起こる前のことからたどると詳しく初代の利胤の記録が残っているのだ。この時注意しなければならないのは戦国動乱の時代であり相馬藩は初代であり安定していない。つまり政治といっても藩主の関心は戦国時代の中でどうして藩を維持するのかということが最大の関心事だった。だから石田三成が主役の時代は三成にとりいることが政治であり名前まで三成からもらっている。野馬追いの旗にも三成の旗印が残っているのもそのためである。鹿島区の田中城にも実際に三成は来ていたのである。
相馬藩の初代が戦国時代でありそこでの関心は民にはない、城も中村城に移る前は何度も移動しいる。一端中村城に移ってからも移動している。それほど安定していない、こういう中で民に気を配ることすらできないだろう。
だから記録としてはそうした戦国時代で領地をどうしたら安堵してもらえるかが政治だったのである。


さらに慶長6年(1601年)に正室を亡くしていた密胤は、秀忠の側近土屋忠直の異父妹で旗本岡田元次の二女を正室にこ迎えた


こういうことまで記録されているのになぜ700人も死んだ津浪のことか全く空白になっているのか?今の時代からすると理解できないが当時の事情からするとそうではない、相馬藩の基盤が安定していない、だから民のことはないがしろにされていた。


文禄二年に(1559)に相馬三郡の検地があった。


文禄に検地があった?とすると新地にあった文禄の碑は検地を記念したものなのか?
検地の時に記念として年号を石碑に刻む傾向はあった。明暦とか元禄とかにも検地があり葛尾村の落合にあった碑にも刻まれていたのである。その時あの辺に検地が施行ささたのかもしれない、検地の記念として年号が刻まれた。ただその時新地は相馬領になっていたのかどうか不明である。


文禄の時代でも慶長津浪の11年前にもそうした記録は正確に残っているのだ。だから慶長津浪の記録が残されないということは民の歴史を藩では行政では無視したということになる。その前に度々戦争があり戦死者150名とかも月夜畑の戦いであった。
そういう方には関心があり津浪の被害とか死者数には関心がなかった。

ただ一方でなぜ民間で津浪のことが伝承されなかったのか?
それも深い謎なのである。伝説にも残らないし都神社か津浪を記念したとしても不明となっていた。津神社がすべて津浪を記念したものとは限らないしその謂われも不明となっていたのだ。


つまり津浪に対して全く相馬藩では記録の空白地帯となっていたのである。
伊達藩では相馬藩より歴史が古く伊達政宗の活躍の時代だから慶長津浪のことは伊達藩から全国に知られるようになったのである。ただ相馬藩の津浪に関しては閑却されていた。
だから歴史の記録は必ずぬけおちるものがある。その事実もわからなくなるものが相当にある。何が事実だったのか特定して証明することが歴史研究だともなる。
ある人が存在したのか存在しなかったのかも証明することが歴史だとなる。

歴史の記録の欠落には重大なことが見逃されているということをかえって証明しているのだ。そういうことを掘り起こすことは容易ではない、柳田国男が民間の人たちから口碑として聞いたものを集めて学問にしたことでもわかる。それは文書で記録されたものに対しての反抗として生れた学問だったのである。
膨大な伝説とか民話とかそうした民間で語られたものの中にも歴史があったということである。そういう歴史は文書に残されないことで忘れられてしまった。それを掘り起こすことが学問になった。
そういう民間の歴史の消失がいかにあとで重要なものとなっていたか、津浪のことでわかったのである。柳田国男か戦争ばかりが歴史ではないというときまさにそうだったのである。ドラマでも面白いから戦争のことばかりドラマにするけど地味な民間の伝承とかは話題になりにくいから忘れられるのである。


その当時でも津浪で700人死んだということは民間人から見れば大事件だった。でも戦争に追われていたものが支配者だったとき戦争で死ぬことの方が大事件になっていた。
こういうことは歴史をふりかえるとき研究する時必ずある。
忘却された記録されない歴史の空白が実は重大なことを語っているということがあるのだ。津浪のことが伝えられない語られないということでこんなひどい被害になったともなるからだ。


ただ伊達藩の記録には名取辺りまでは濃厚に民間の伝承は伝えられていた。ただ相馬藩になると地元の人もほとんど注目していなかっのたである。伊達藩でそれだけの津浪の被害が記録されていれば相馬藩でも注目するべきだったのである。それも郷土史というと一地域の狭い範囲のことに関心が向きやすいということもある。全国的レベルで共通の課題を研究することに欠けている。そういう方法もなかった。インターネットでそういう方法が生れたことは言える。
まず郷土史研究が何か科学のように命にかかわるようなものというより好事的なものであり一般的に暇人がしていくくらいしか思われない、でも歴史の研究は民俗学であれ何か重大なものか命にかかわるものさえあったということである。
もし貞観津浪とか慶長津浪のことをもっと知っていれば海岸に接して人は住まないだろう。最近は科学で証明もされていた。それでも危機感をもちえなかった。
歴史を忘れてしまうことは常にそうした危険がある。戦争のことでもすでに何かわからないものとなっている。300万人以上死んだ戦争すらだんだん霧の中になり忘却されてゆきまた同じような戦争も起こりうるのである。


だから歴史は繰り返す、個人的にも家族的に家系でもカルマは消滅せず繰り返されるのである。カルマが何かというときそのカルマ自体が何か気付かない人が多いのである。だからカルマを繰り返しているということにもなっているからである。あなたにはこういういうカルマがありますよと指摘してもそんなこと意に介さない人が多いのである。そしてどうしてこんなに不幸なことばかり起きるのかとかばかり言っているのだ。仏法なら原因があり結果があるということでありただナムナムナムと唱えて入れは解決するとはならないのである。でもカルマを直視することは厳しいからできないということもある。ナムナムナと唱えれば何でも解決しますよと言うのが楽だから人間は楽な方に目が向いてしまうのである。そのために人間のカルマは一向に解消しないということがあるのだ。歴史もまた一つのカルマを背負っているのである。
そのカルマについて良くしらないと重大なことが見逃されてしまうのである。

 
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2013年10月23日

なぜ相馬藩では慶長津浪が伝えられなかったのか? (伊達藩の政宗が中央政治とかかわり相馬藩は小藩で情報が伝えられなかった)


なぜ相馬藩では慶長津浪が伝えられなかったのか?

(伊達藩の政宗が中央政治とかかわり相馬藩は小藩で情報が伝えられなかった)


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1579年 (13歳)
陸奥国磐城三春城主、田村清顕の娘、愛姫と結婚。

1581年 (15歳)
相馬氏攻めで初陣

●家督相続
1584年 (18歳)
父、伊達輝宗の隠居により、家督を継ぐ。

陸奥国岩代の人取橋の戦で、佐竹、蘆名連合軍に勝利。
●奥州南部平定

1589年 (23歳)
陸奥国岩代の摺上原の戦で蘆名義広を破り、奥州南部を制圧。

その後周辺の諸族を支配下に置き、出羽国羽前南部、陸奥国岩代、陸奥国陸前南部など合計114万石の太守に。
陸奥国岩代の黒川城(会津若松城)に本城を移す。

●秀吉に臣従
1590年 (24歳)
小田原城攻めを行っていた豊臣秀吉に、ギリギリのところで伺候し臣下につく。

1591年 (25歳)
惣無事令違反、領内での一揆(葛西大崎一揆)を煽動した疑いなどから、米沢など約150万石から陸奥国陸前玉造郡など58万石に減封となり、岩出山城(岩手沢城)に入る。

岩手沢城を岩出山城に改名。

1592年 (26歳)
文禄の役(朝鮮出兵)に参戦。
出陣の際の装束が派手で、「伊達者」の語源となった。

●青葉城
1601年 (35歳)
仙台城(青葉城)を築城し居城とし、初代仙台藩主に。(60万石)

1611 慶長津浪
伊達藩の死者-5000名


相馬藩の溺死者700名


一カ月後相馬氏が小高より中村に今の相馬市に城を移す

 
相馬藩の武士、津浪の跡に開拓に入る


1613年 (47歳)
支倉常長を慶長遣欧使節とし欧州へ派遣。

1614年 (48歳)
大坂冬の陣に
参陣。

相馬氏参戦

1615年 (49歳)
大坂夏の陣で、豊臣方の後藤又兵衛を討つ。



「政宗領所、海涯の人屋、波濤大いに漲り来り、悉く流失、溺死者五千人、
世にこれを津波と曰うと云々
……
時に海面滔天、大浪山の如く来る。肝を消失し魂を失するのところ、こ
の舟彼の波上に浮びて沈まず。しかる後、
波の平らかなるところに至る。こ
の時心を静め眼を開きてこれを見るに、彼の漁人住するところの郷辺、山
上の松の傍なり、
これ所謂千貫の松なり。
すなわち舟を彼の松に撃ぐ。波濤退去
の後、舟松の梢に在り。

政宗これを語る由、後藤少三郎御前に於てこれ
を言上す。」

『駿府記』には伊達政宗に献上する初鱈を獲るため侍2人を遣わし、漁人らは潮色が異常であるとして難色を示したものの、「主命を請けて行かざるは君を誣するなり、止むべきにあらず」とて出漁した漁人らは津波に逢い漁人の生所なる山上の千貫松の傍に流れ着いたが、家は一軒残らず流失したとある[1]。この『駿府記』にある「松平陸奥守政宗献初鱈、就之政宗領所海涯人屋、波涛大漲来、悉流失、溺死者五千人、世曰津波云々」が、文献に現れる最古の「津波」という語句の記述とされる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E9%95%B7%E4%B8%89%

E9%99%B8%E5%9C%B0%E9%9C%87


ビスカイノの三陸沿岸の探索は1611年(慶長十六年)七月七日、徳川家康に対して日本の東沿岸の測量や造船などに関する朱印状交付の為の請願書を提出したことに始まった。・・・・・

伊達政宗との出会い
旧暦五月十四日、ビスカイノ達の暦では六月二十四日だった。(この日は聖ファン(ヨハネ)の日)
彼は隋員と一緒にミサに参加するため聖フランシスコ会の修道院に赴いた。
その時、政宗が多数の士卒と騎乗の士を率いて江戸市街の木戸に着いた時、ビスカイノ一行を見た。
政宗はすぐさま伝言を送り、火縄銃を発射する様子を家臣たちに見せたいと伝えた。
 要望受け射撃が実行され、出し抜けに二回発射されたので、政宗は驚き両耳をふさいだという。
他の者達の馬は大音響に混乱し、主人達を地面に投げ落として逃げ出し、食料などを積んだ馬は転倒し大騒ぎになった。
この出来事をきっかけに両者の交流が始まった。
この日がサンファンの日であることから、サン・ファンバウティスタ号の船名になったという説があるが、定かではありません。




慶長津浪死者数

伊達藩 5000
相馬藩 700

5,000 / 700 = 7.1
...............................

今回の津浪の福島県の死者数


宮城県死者-9537

福島県 1606
9,537 / 1,606 = 5.9


なぜか死者数の割合が同じだという不思議である。相馬藩は磐城は入っていないがほぼ割合的には同じ人数が死んでいる。ただ慶長津浪でも今回でも圧倒的に伊達藩が宮城県の被害が大きいのである。

そしてなぜこれほどに伊達藩では慶長津浪の記録が残された。その原因は当時伊達藩は東北をたばねる一大大名であり秀吉も恐れたし家康も恐れていたのである。全国制覇をもくろむ地位にあった。だから政宗の動向は常に注意が払われていた。
伊達藩で起きたことも中央政府に報告され監視されていた。


津浪が起きた時、隠居中の徳川家康をめぐる政治情勢を記した日記。1611年(慶長16)8月1日から15年(元和1)12月29日までの約4年半に及ぶ駿府記で記録されたように徳川幕府から情報が拡大化した。それはスペインの使節からもヨーロッパに報告されて記録された。
伊達政宗の時代は国際的な時代だった。政宗は仙台にいる日数は少なく絶えず大阪の秀吉の伏見城や京都に滞在していた。そこに愛姫(めごひめ)が人質として住んでいて仙台には帰ることなく住んでいた。だから当時でも国際的視野をもつことかができたのである。

そして津浪の情報も外部との接触がありつたから伝えられ安かった。つまり情報は戦国時代辺りだとどうして伝わったかというとそうした政治の中枢部に影響していないと伝わらない。それは多賀城で奈良や京都の人がかかわりちょうど貞観津浪を京都の官吏も武人も目撃して京都に伝えたのである。それで末の松山がみちのくの歌枕となり残された。
それは京都の人がかかわって全国に知られるようになったのである。

当時だと情報は中央中心にしか伝わらない、地方の情報や事件はほとんど伝わらない、中央政府とかかわったとき伝わり歴史に記録された。そういうシステムになっていた。

みちのくの歌枕もそうした情報の伝え方でありその歌を通じて遠いみちのくをイメージしていたのである。写真もない何もない時代は歌枕が頼りになる。だから短歌は一つの情報伝達の手段でもあった。それが後世に残された。ただ事実を伝えるより短歌の方が興味をひくということがあった。事実の羅列だと無味乾燥になってしまうかちだ。
記録にしても無味乾燥だとただ事実の羅列だと興味をひかないから庶民まで事実自体が残らないということがある。今でもテレビで事件をあくことなく放送しているのは見ている人が興味をもつからである。それが下賤でも興味本位でも一応テレビを通じて全国に伝わるからそういうことがあったという事実を全国で認識する。
短歌はそういう興味をひきつけるものとして情報を後世に伝えた。


相馬藩がなぜ慶長津浪のことが溺死者700名しか記録がないのか?
津浪の記録の空白地帯になっているのか本当に謎である。
その一つの原因が相馬藩が中央に影響を及ぼす力のない小藩だったことにもあった。
相馬藩のことは伊達藩を通じてしか中央に知られなかった。
ただ戦国時代に石田三成が相馬藩内にきている。鹿島の田中城にもきている。それで三成の旗が野馬追いに出ていたのである。ここでは直接かかわっていたのである。

そのあとは家康の徳川時代はかかわっていない、伊達政宗を通じてしか相馬藩のことは知られないということがあった。

だから不思議なのは伊達領の仙台平野の六郷に津浪の後に開拓に入って地名まで残した相馬藩の武士が何人がいた。それは一団だったからどれくらいの数かしらないが50人とかの規模になっていたかもしれない、一族郎党をひきいるとそれなりの数になっているだろう。一方で相馬藩も津浪の被害にあったのにその被害の後のことは語られず地元の郷士などがどうしたのかとか一切不明なのである。伊達藩のこととして相馬藩が語られていて相馬藩独自では津浪のことは記録されていないのである。


それは伊達藩中心の世界があり伊達藩が中央政治とかかわりそれが歴史記録となった。
中央とかかわらないと歴史として記録されない、少数民族の歴史が消失するのとにていたのである。情報は常に中央の権力中枢から発信されている。それは今でもマスコミが情報発信の中枢をになっていたことで同じである。地方から全国に発信するこはむずかしかった。インターネットはそれを打ち破るものとして生まれた。南相馬市の市長がYUTUBEで世界にきけ窮状を訴えて反響があり世界の百人に選ばれたということでもわかる。

インターネットは地方からも一応発信する機会を与えたのである。

それでも中央が中枢となり情報は発信されやすい。情報を発信することも権力をもつことなのである。例えはキーワードでも自分のサイトに来るのをみていると京都 俳句とか
奈良 俳句とか鎌倉 俳句とかか一番多い、仙台 俳句などほとんどないし相馬 俳句や短歌で調べている人がほとんどいないのである。そういう有名な場所に集中しやすいのである。だから京都 俳句とあったらそこからまた東北でも相馬でもリンクをたどれるようになっていると注目されるのである。情報の注目度は今でも中央に偏るのである。
インターネットでも発信する能力があっても注目されなければ知られないということなのである。ただ今回は福島県は相馬でも原発事故で世界まで注目されたのである。
だからフクシマから来たというと誰でもわかる、悪い意味で有名になったのである。

だから自分のサイトもまた500名とか訪問者が増えた。常時リンクが1000とかなっている。ただ福島県とか相馬意外からどれくらいの割合できているか今のサーバーでは分析できない。外部からも相当来ている。
半分以上は外部からのものだろう。それは原発事故がが世界的興味となり注目されたからなのである。


慶長の津浪の被害が当時も甚大だったのにそのあと三年後に大阪冬の陣とかに出陣したり相馬藩でも出陣しているその後ヨーロッパに使節う派遣したりとどうしてそうした大事業ができたのか、それだけの経済力があったのか、今なら被災地はうちのめされて復興にはなっていない、この辺は原発事故だからまた事情が違っていても慶長津浪では大きな被害にもかかわらず大きな事業をしているのは謎である。津浪の被害にあった田は十年くらい塩害で回復しなかったというから余計にそうである。今なら技術が発達しているからそういうことはない。ただ当時は農業中心の社会だから農業に対する熱意が全然違っていた。いくら被害があっても農業でやるほかないということでは一致していたからである。

今の状況とは相当違っている。今は漁業でも農業でも衰退産業であり高齢化でありそういう所に津浪が襲ったので壊滅状態になった。この際やめた方がいいという人が多いのも当時とは事情が違う。

ともかく仙台なら津浪が来ると最近警告の本が出て紹介した。それもそうした記録や民間の伝承が残っているから可能だった。相馬藩ではほとんど残っていないのだからそういう警告すら出せなかったのである。ただ最近科学者が相馬の松川浦の奥深くまで貞観津浪の時の砂が発見されたと報告していたので自分も時事問題の深層に軽い気持ちで面白がり出していたのである。ただそうした情報は専門家の間では重要てものとして新しい発見として注目されていた。他の人はほとんど関心がなかった。


それでも南相馬市の2009年の広報で大きな地震が宮城県沖で来ると警告していた。津浪も警告していた。それも真剣に読む人はほとんどいなかった。東電でもとりあわなかった。女川原発が津浪の被害を辛うじてまねがれたのはやはり仙台には津浪の記録や伝説があり三陸とも近いのだから福島県とは違っていた。福島県は津浪の記録の空白地帯だったのである。だから東京電力となると余計に危機感がなかった。
だから原発は東京に建てるべきだったというのは正論だったのである。
そしたら緊張感で仕事していたし危機にも備えていたのである。
責任の重さの感じ方がまるで違ったものなっていた。
それでも東京にばみんなが反対するから建てられない、それなら建てるべきではなかったとなる。

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2013年10月20日

2009(平成21)地震洪水パザードマップが南相馬市から出ていた (切迫していると書いてあった)


2009(平成21)地震洪水パザードマップが南相馬市から出ていた


(切迫していると書いてあった)
KOUHOUSOMA1.jpg

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ここで地震だけではない、津浪も警告されていた。

切迫性が指摘されてあり中央防災会議の検討対象として選定した津浪の中で福島県大熊町以北の沿岸では最大の水位と名とされ、
そのマグニチュードは8・2です


このように切迫されていると専門家の間でも予想されていた。
8・2というのは今回9だとしてもそれに近い予想うをしていたのである。
津浪も予想されていた。専門家の予測してすでに警告していた。

それがなぜ東電ではきかなかったのか?
政府ではなぜ危機感をもたなかったのか?

想定外と常に言うけどこれだけ警告されていた
津浪の危険も東電に専門家が政治家でも共産党などが進言していた

東電はそれを聞かなかった。

政府も保安院も何ら対策を打たなかった。
市町村レベルでもこのように切迫したものとして警告していたのである。

そもそも原発は国策だから気象庁でも優秀な地震津浪に関しての優秀な専門家がいた。
それらをなぜ活用できなかったか?

すべてを東電にまかせきりの体制になっていた。

ただ津浪が起きる前に学者を再三警告していたのである。
なぜ手を打たなかったのか
それはやはり東電はまずコストのことを考える
そもそも土台を高くしたのをわざわざ低くしたのはコストのためである。
地下に電源を置いたのもそのためである。
高いと不便になりコストがかかる。
津浪対策でも膨大なコストがかかる
そこでうやむやにして先に延ばしていた

政府も真剣に津浪対策などしない
保安院は何の働きもしない税金食いだった
ただ飾りだったのである
東電のいいなりだったのである。
だから政府にも責任があったというのは一理ある


大島の土砂災害でも津浪とにていたと言われる
それも火山のことは経験しているから火山にばかり注意を払う
土砂崩れは想定外となっていた
人間は二つのことに注意できないのである。
こうつうじこかさけられないのは目が二つあっても
見るのは一方であり必ず死角ができるからである。

一つのことにしか人は集中できない
そして一つのことにかかりきりだと必ず他のことは忘れているのだ

家事でも主婦のように専門的に日常的にししていれば管理しやすい
でも他に仕事をもっている人とか何か創作とか別な仕事に集中している人は
簡単な家事でもいろいろ忘れやすく集中できないのである。


人間の弱点は二つのことに集中できないことである
一方に注意を払えば一方は必ずおろそかになる。
右ばかり注意している左からの危険を見逃すのである


南相馬市でもこれだけ警告していたのだから宮城県ではそれ以上警告していただろう
でもあれだけの広範囲な大惨事となった。

そしてどういうわけか危険な時は悪いことが重なるのである。
ちょうど大島では町長が不在だったとか
代わりの副町長を置かなかったとか不備が必ずある


それは個人的にもそうである
急激に緊急に来ること人間は一番弱いのだ
急に病気になったり異変が起きることに弱い
そこで悪いことが重なりどうにもならなくなる

それをここ6年間の苦しみで自ら経験したのである。
まず備えが人の関係でもまるでなかった
助けを呼ぶ人もいなかった
家族も病気になり自分も病気になった
それで火事場泥棒にあい甚大な被害にあった
こうした備えが自分には全くなかった
信頼すべき人もいなかった


大島でも同じだった。
町長が留守になり信頼して留守をまかす人がいなかったのである
また気象庁や政府との連絡も密に行われていなかった
共産党の市長だからと批判もある
確かに批判は学者のように得意でも実務はまた違っている
そもそも政治家は官僚よた実務にはうとい
選挙で選ばれていつも専門の分野で働いてるわけではないからだ
だから官僚支配になる
政治家は行政について熟知しているとはならない
政治家は一時的に配置されているだけであり実務は官僚しているとなる
そういう行政は危機には弱い


やはり危機に強いのは戦国武将だったろう
いつも危機にあるのだから危機意識が違う
そういうとき信長のようにとっさの判断が生死を決する
そううい人がいないと全滅してしまう恐怖である

津浪も災害もそういうとっさに来る危険だから対応できないのである

専門家が土砂崩れが起きやすい危険だということ察知して連絡はしていた
でもそれを決めるのは市町村の長だというときその判断にすべてをゆだねるのも危険だとなる
だから個々人で危険を判断すべきだということがしきりに言われる
しかしそれまた素人にはむずかしいとなる


南相馬市の広報など津浪避難マップなど真剣に見ていた人もいないだろう
でも切迫しているというのは専門家の見方だったのである

結局津浪で逃げ後れた死んだ人たちはいろひいろ責任を言っても逃げないで死んだ人が悪いとなってしまったし現実にはそうである。
自分の命を救うのは自分しかない、行政でも他人も緊急の場合は助けないということがある

津浪デンデコは他人のことをかまっていたら自分も死ぬということになるから生まれた言葉である 他人のことを心配して引き返して一緒に死んだ人もいる

聖書でゾトムゴムラが神の罰一瞬に滅ぼされるとき、ロトはふりかえって石になって死んだ。
まさに緊急のときはふりかえるとそのまま死んでしまうことを暗示している。
一目散にふりかえらず逃げるほかなかったのである。

ただ緊急の場合はどう判断していいかわからないのが普通である

これも誰が責任かというとなかなか言えない、南相馬市では広報で津浪のことは警告していましたよ、それを真剣に読まない市民が悪いともなる。
今になと南相馬市は津浪に対して警告していたし責任は果たしていたともなるかもしれない、ただ原発に対しては福島県全体で無防備だったのである。


あの地震が起きた時は今まで経験しないものだった。
だから海側の人は津波の危険を察知するべきだった
それももしこの広報を真剣に読んでいたら違っていたかもしれない
頭の中に少しでも危険情報が入っていたら反応することがある
津波はこの辺では400年起きていないのだからとっさに反応するのは難しい
でも広報に書いてあったから津波が来るかもしれないと
反応することはありうる
ただほとんどの人は広報など真剣に読んでいないのである。
ということはやはりこれは個々人の責任になるのかとなる

posted by 老鶯 at 17:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係

気仙沼の地図から今回の津浪の被害をよむ (山と海の狭間の地形で土地がなく海側に宅地を広げた)


気仙沼の地図から今回の津浪の被害をよむ

(山と海の狭間の地形で土地がなく海側に宅地を広げた)


気仙沼復興街作り調査
http://web.sfc.keio.ac.jp/~shimnov/kesennuma_reconstruction_research.pdf


まずここを読んでください。
KESENNNNUMA1111.jpg

クリック拡大!


(網地島の伝説)


文永3年(1266)建立の神石碑が鈴木寛也氏宅の角にある。この後方の東森山頂上には、部落の人たちが海上安全を祈願した安波大明神が祭ってある。

【安波大杉神社】は関東から東北地方にかけての太平洋側の漁村に信仰されている神様で、女神やお船霊様であるとされている。発祥は茨城県稲敷郡桜川村にある安波大明神である。(安波様は長渡の根組の半島にもあり、春には大漁と海上安全を祈願して祭りが行われる)
寛永18年(1641)頃には寄磯の人口は30人以上になり平和な年月を送っていたが、天保4年(1835)に大飢饉が起ったため部落民は食料を確保するため悪天候の中へでも出漁せざるを得ない状況が続いていた。


そんな危険な綱渡りの様な漁を繰り返していたある日、渡辺平五郎という人が出漁中の時、天候が俄かに悪化し風浪高く荒れ狂い、小船は大破して乗組員全員が絶体絶命の危機に陥った。がしかし一心で安波大明神を念じたところ、辛うじて海岸にたどり着き危機は逃れる事が出来たという事故が起きた。(この渡辺平五郎が遭難した場所は以後平五郎根と呼ばれるようになった)
http://ajisime.web.fc2.com/txt/yoriiso.htm


安波祭( あんばまつり)  (浪江町請戸)がありこれは気仙沼にもあり茨城県の太平洋岸から伝わり太平洋岸にそって伝播した。気仙沼に安波山とあるのがまさにそうである。
気仙沼の中心にあるように鎮座する山となる。前にも書いたけど今回の津浪は非常に海を意識させられたのである。津浪の被害にあった茨城から岩手県までその範囲は広範囲でありこの一体はもともと海と密接な関係を保ち生活していた地域だった。だから共通の海の文化があった。その海が忘れられていたのである。確かに漁港があり海が港が中心のように見えても実際の生活は海の幸より工業化して海で暮らす人はみんな魚をとって暮らすわけではなかった。それを象徴していたのが牡鹿半島だった。あそこには小さな港が点々と孤立したようにあった。零細な自給自足の港であり近年はもう漁期業でも跡継ぎがいないとか漁獲高にしろ牡蠣の養殖であれ落ち込んでいたのである。

漁業は衰退産業になっていた。これは日本全国で同じでありそれで女川の原発で働く人が多いというときまさに福島県の浜通りとにていたのである。
ただ漁獲高は10倍とかあり福島県の浜通りとは規模が違っていた。
漁業だけでは生活していけない、農業だけでは生活していけないとなっていて原発に頼るようになり事故が起きたのである。
津浪が来たから漁業が成り立たないのではなくその前に衰退していて津浪の一撃で致命的な打撃を受けたのである。


気仙沼の地図を見るとその成り立ちをたどることができる。つまり海岸沿い海に直接接している所はもともと海であり塩田になっていた。そしてさらにそこを埋め立てたのが新しい町、新浜町だった。その埋め立て地域か一番被害が大きかった。
古町は前の町であり海岸から離れている。そして三日町八日町と市がたつ所があり八日町まで津浪が来ていた。また寺や神社があるところは比較的高い所にあり津浪をまねがれた。それは人が住んだ順序を示していたのである。
人は最初海に接して住んではいない、そこは湿地帯とかであり塩田になった。
こういうことは海岸沿いで同じである。海であった所を湿地帯などを干拓して人が住むようになった。防潮林として松原を作ったのも白砂青松の日本的風景を作っていた。
それは人工的に作られたものだった。それが津浪で根こそぎ破壊されたのである。


なぜこれほど津波の被害が甚大になったのか?それはまさに共通している原因か海であった所を開拓して埋め立てて田にした。それから気仙沼辺りでは街にしたし仙台や多賀城では海に接して街が広がり住宅地となってったのである。それが被害を大きくなった主要な原因だった。もともと気仙沼とかに津波は度々襲ってきている。津波の供養の碑もあった。それても海側を埋め立てて人家をふやしていったのである。ここでも日本の国土の狭さが影響していた。なぜなら土地が狭いから海側に干拓しても埋め立てても広げざるをえないことがあった。気仙沼なとどをみればわかる。後ろ山が迫り土地がないのである。
だから埋め立てて土地を作る他なかったのである。これは日本全国どこでも同じである。海だったところを干拓したり埋め立てて土地を確保して米を作りまた市街地として人家を拡大したのである。仙台は特にそうだった。


津波も一つの自然現象とみるとき、自然に逆らって生活圏を広げたのが日本だった。
その原因かあまりにも土地が限られていることだったのである。日本人が満州に憧れたのは広大な土地があったことなのである。それが戦争の原因にもなった。土地バブルが起きたのも素ためである。日本の地形はどこまでも平坦な土地が少なく海と山の地形である。海と山のはざまにわずかに平坦地がある地形である。特に三陸から岩手県の地域は後ろが山がそびえ住める場所は限られていたのである。そのことは津浪の被害を大きくした根本原因である。


網地島の伝説でもわかるように日本自体が小さな島にも例えられる。そこで生活するには厳しいとなる。飢饉が起きたときやはり島でも食料が米など入らず苦しくなった。
それで海が荒れても漁に危険を犯して出でざるをえなかった。
相馬藩の原釜でも飢饉で死んだ人が結構いた。それはやはり漁業だけでは食料をまかないためだった。魚は定期的にとれるものでないから定期的に収穫がある農業が必要だったとなる。日本だけではもう人口が増えてやっていけないとなり満州や戦後はプラジルとかに移民になった。それも農業するためだったのである。農業には土地が必要だからそうなった。

今回の津浪の教訓は何なのか?それはいろいろあり様々な問題提起の場所になった。

明らかなことは自然に逆らうことは大きな危険がひそんでいたことである。海に接して人家をふやしつづけたのは人間側の事情である。でも自然から見ればそんなことは知ったことではない、自然には自然の営みがあり人間側のいいようにはならない、津浪も別に人間に敵意を抱いて起きたわけではない、津浪は自然現象でありそれは例え400年に一回でも起こるものなのである。だから自然に逆らう人間側に責任があったとなる。
自然は無情だというのも確かだが闇雲に自然は害を及ぼすものとも違う。

人間側で自然と調和する方法はあった。それができないのはまた日本の自然条件があったということがある。やはり自然は何か必ず制限するものがありその制限を越えると危険なものとなり自然から制裁を受ける。

原発事故でもそもそも核を破壊するとかは科学者でも神を畏れぬ不遜てものだったとか謙虚に反省している人もいる。原子力は何か人間の思い上がりの結果生まれた面があった。人間には常に限界がありそれを突破することはできない、神の領域がありそれを越える事がてきない、神のみが全能だからである。それを越えようとするとき今回のような天罰が下るようなことが起きてくる。

ともかく人間はまずその風土に適合して暮らすことを自然から要求されている。いくら土地がないにしろ日本には日本の恵みがある。それを活かし生きる他ない、それを越えて逆らう生活は今回のように大きな災害に見舞われる。日本の土地には土地の宿命がありそれを越えることはできない、原発は地震国の日本には適合しないものだったのである。

津浪がくる前にすでにこわれていたように原発は思った以上ずさんに作られていたのである。ともかくそれぞれの国にはそれぞれの風土がありそれに適合したように住むほかない。日本の国土が狭いにしろそれが美を作っていたし恵みもあった。その中で暮らす他なかったということである。日本の人口は6000千万くらいが適正規模だというとき1億2千万はもう日本の国土では養え切れない人口になっていたし海側に発展しようとしてもそこには無理があったのである。だから人口抑制が自然の働きかけであり少子高齢化も自然の成り行きだったともなるのである。

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仙台までの常磐線の駅を秋に偲びぬ (津浪の後の駅を偲びて短歌十首)


仙台までの常磐線の駅を秋に偲びぬ

(津浪の後の駅を偲びて短歌十首)

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常磐線の亘理から駒ヶ嶺までの津浪の被害状況
http://shi.na.coocan.jp/tohokukantodaijisin-8.html


駒ヶ嶺即過ぎ去りて新地かな伊達と相馬の境なるかな

新地駅海の近きに屋並見え虫の音聞きつしばし止まりぬ
新地駅月影さして明るしやおりたちしばし休む時かな
坂本駅秋の灯ともりここすぎて相馬となるや電車に帰りぬ
磯浜に港のありて知らざりき山元駅の親しきものを
山元駅瀟洒な住宅建ちにしをみな津浪にて流されしかも
仙台に勤めに通う人のあれ山元駅や秋の日暮れぬ
浜吉田浜とあれども海見えず駅まで襲う津浪なるかも
仙台へ亘理る来れば近しかな海の近きは思わざるかな
鳥の海蔵王の見えて船よりぬ阿武隈川もここにそそぎぬ
逢熊駅とまりて鳴きぬ蝉の鳴く声のひびきて新しき駅
仙台に電車に通う常の日や津浪に失ういつの日通ぜむ
仙台へ電車通わず十三夜の月影照らしあわれなるかな


相馬と仙台は密接に結びついていた。それは常磐線があったからである。相馬藩は江戸時代でも伊達藩との結びつきが強い。戦国時代に伊達政宗と争ったにしても強いのである。だからいろいろな江戸時代の碑は伊達藩のものが多いのである。


「地名は知っていた(下)(太宰幸子)で


海蔵寺は江戸後期に開山された寺だそうでその頃から須賀畑周辺に住む人が多くなったのだろうか。

しかし地元の人は「もっと前から住んでいた人がいると思うよ」と話し「何代もつづいた古い家が多いだんよね、秀吉の朝鮮出兵の際、船の漕ぎ手として行ったという家もあるよ」とつづけた。
領主であった伊達成実(しげさね)とともに、文禄の駅(1592-1593)に参戦した方の子孫もいるのだという。


この話で気づいたのは新地の神社に「文禄」と記された碑があったのだ。これは何を意味しているのか?ただ文禄とだけ記されている碑もめずらしい。そもそも相馬では文禄時代の碑など皆無である。元禄辺りからあるし増えているが文禄は古いのである。伊達藩は相馬藩より古いから古いものが保存されている。
新地は一時伊達領だった。境であり争った城もある。伊達政宗の朝鮮出兵は大きな歴史的出来事だった。だからその時朝鮮人を側室にしたとか言われるが真意はわからない、朝鮮の陶工などを強制的に秀吉は唐津などにつれてきたのだからそういうこともないとはいえない。


滴水瓦(てきすいがわら)

 瓦の瓦当面が、雨水が滴るように「雲頭形・倒三角形」に垂れ下がった軒平瓦で、一般に「朝鮮瓦」と呼ばれます。豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に参戦した大名達が権力の象徴として、朝鮮の瓦を真似たものとされています。
 仙台城本丸跡では、瓦当中央が花菱文の滴水瓦(3点)や菊花文(10点)が出土しており、仙台城二ノ丸跡・松島瑞巌寺・利府町大沢窯跡などでも出土しています。
http://www.city.sendai.jp/kyouiku/bunkazai/castle/08.html


相馬市の城跡の大手門の瓦も滴水瓦なのである。この時伊達藩の方から技術が伝わったのかもしれない、新地には伊達藩の侍だった人が住んでいて相馬市との合併を拒んでいたという。その屋敷も津浪で流されたのである。伊達とは敵対しても因縁深いのが相馬藩なのである。そもそも野馬追いも伊達に対抗するための軍事訓練からはじまっていることでもわかる。
ともかくこの話から文禄という碑は文禄の役の記念だったと推測されるのである。
新地はやはり伊達とのつながりが深いのである。
相馬藩の歴史は伊達藩の歴史とクロスしているから伊達藩のことを知らないと相馬藩のこともしりにくいのである。
相馬藩には仙台方面の古い碑が多く仙台の方にお参りしていたことが如実にわかる。
小牛田神や山神などがそうでありこれはどこでもみられるからだ。


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新地の神社にあった


常磐線は自分も仙台には通っていた。遊びにしろ仙台は身近だった。第一相馬から通勤していた人もいたから通勤圏でもあった。一カ月に二回とかは行っていた。前は本を買うために行っていた。他に仙台はやはり東北では大都会だから違っていた。
でも駅の名は暗唱するくらい頭に残っていても実は相馬市から亘理まであれほど海が近いということを意識しなかった。海が新地でわずかに見えるだけで見えなかったのである。海に近くても海が見えないと意識されないのである。それで新地駅にしろ山元駅にしろ
あれだけ無残に破壊されたことにはショックだった。線路がぐにゃぐにゃに曲げられ見るも無残な状態になった。そもそも新地はわかるにしても山元駅があんなに海に近いとは思わなかった。磯浜に港があることもわからなかった。ただ山元駅はさらに仙台の通勤圏内に入り駅の回りに瀟洒な家が建っていた住宅街があった。そこにプロ野球を引退した人が住んでいたのである。そも全部津浪で流された。

最も意外だったのは浜吉田駅である。いつも通っても浜とあっても全く浜と意識されなかったのである。それがあそこまで津浪が襲った。あそこもかなり海に近かったのである。写真を見たらあそこの駅前まで津浪で海のようになっていた。あの光景も信じられないものだった。浜吉田の浜はだてについているものではなかったのである。

電車には思い入れが強いから駅が一つの記憶の場所になる。逢熊駅も最近できたから記憶に残る。そこは新しい駅なのである。仙台に近いから新興住宅地ができるから新しい駅ができた。そういう駅でも歴史を知らないと何かただ通りすぎるだけになる。旅をするとそうした歴史を知るのはむずかしい。
坂本駅でもあそこが伊達と相馬の境だなと思って旅する人はまれだろう。そこに旅が失った所以がある。例えば江戸時代なら境に関所があれば否応なく意識されるから違っていたのである。不便でもそこで意識されて記憶されるから違っていた。

亘理駅に来れば仙台は近い、ただここでも海が近いということは意識されない、ただ今度は阿武隈川をわたることは意識する。海は意識されないのだ。ただ一度鳥の浜に行ったとき、蔵王が大きく見えて船が寄っていることは新鮮な風景だった。あの辺から蔵王ははっきりと見える。阿武隈川は福島市から船で米などが運ばれ荒浜から江戸へ運ばれた歴史もあったのである。それなりに交通の要所となっていた。

仙台は何か電車が通じないと遠くになった。ここ半年以上めんどうだから行っていない、何か仙台も遠いなとなり十三夜の月影が津浪で襲われ破壊された駅や線路を照らしているのも感慨深い、何かこうして交通がたたれると江戸時代にもどったような気分になるのだ。江戸時代はめったに遠くには行かないからだ。
それは小さな今回津浪に襲われた港でもそうである。牡鹿半島の湊は小さい、そこでも江戸時代から暮らしがあった。そして隣とは山でさえぎられているからあまり行き来がなかったという、船越とは船で越すからであり陸では閉ざされた地域が点々とあった。
でも魚や貝がとれたとしても米はとれないし野菜もそれほどとれないとしたらどうして自給自足できたのだろうかとなる。それもまた海の生活というのがわかりにくくなったためである。牡鹿半島では津浪の時、後ろの清水を飲んでしのいだとあった。あそこには確かに清水が出るから山があり山の木で燃料も補給できたのである。ある程度自給自足できていたのだろう。だから交流がなくても最低限生活できたとなる。

地名というのは自然と密接に結びついている。

「岩沼」の地名の由来の一つとして、
「宮城県地名考」に「伊達家の家臣、泉田安芸重光が、この地に築城して「鵜ヶ崎城」と称した。このお城回りの堀が「沼」になっていて、10の沼があった上に、このお城の一角と沼とを併せて「岩沼」と呼んだといわれてい

こういう情景が津浪でリアルになった。津浪の後にいたるところに沼ができたからである。でも今までは岩沼は繁華な地であり沼を想像することはできない、いつも見るのは団地だったからである。あそこには千貫松の伝説も残っているから伊達藩には慶長津浪の記録であり伝説が多く残されている。第一相馬藩の武士が慶長津浪の後の六郷に移住した。
そこに吉田とか地名となって残っている。これもわかりにくいのだ。
なぜなら相馬藩でも700人溺死しているとしたらその被害も大きいのにわざわざ伊達藩まで移住して津浪の後にすみついたのかその動機も良くわからないのである。


そもそも相馬藩の慶長津浪の歴史は相馬藩政気に一行だけ700人溺死としか記されていない、これもなぜなのか?津神社も忘れられていた。伝説もごくごくまれにしかない、一方で伊達藩領域には記録も伝説も豊富なのである。その相違は何なのか、一つの歴史の大きな謎であり課題にもなった。記録されない語られない空白はなぜ起きたのか、それを疑問に思ってたずねてきた若い研究者もいた。これの解明はなかなかできないだろう。
伊達藩それだけ歴史が古いし大きい藩だったし今も宮城県の被害が相馬藩より格段に大きいように何かそのことが影響していた。ただこれは相当な謎である。

posted by 老鶯 at 03:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係

2013年10月16日

地名は知っていた(上)太宰幸子を読んで (なぜ奥松島から野蒜から鳴瀬町の旅行のことが読まれているのか


地名は知っていた(上)太宰幸子を読んで

(なぜ奥松島から野蒜から鳴瀬町の旅行のことが読まれているのか)

奥松島⇒野蒜海岸⇒鳴瀬町⇒石巻(自転車の旅-夏)
http://musubu2.sblo.jp/article/29414836.html


地名から津波の被害地域を回って書いた本だが地名の深い考察はここにはなかった。津波の被害地域を回ってその状態を報告したという本である。地名はもっと字地名とかの分析が必要になる。この本にはほとんどなかった。
それでも今回の津波は東北の海岸地帯が一つに結ばれていることを意識させられたのである。津波の被害ということで意識させられた。これまでは津波は宮城県の三陸などでは度々襲われているから語られてきた。でも宮城県でも松島とか多賀城から名取などはあまり語られていない、それでも福島県の浜通りよりは伝説が残されていた。

だからある程度津波については知られていた。しかしやはり危機感が不足していた。
被害を大きくしたのは仙台の市街地が海岸沿いに無制限に広がったことである。
だから多賀城などでは家が密集して海が全く意識されなくなっていた。
でも砂押川に津波が押し寄せてきりぎりで土手でとめたという。意外と海は近かったのである。末ノ松山も多賀城駅からすぐ近くだったのである。
貞観津波では古代の多賀城近辺までおしよせたのでその恐怖を書き記して都であった京都に伝えたのである。


一衣带水


一本の帯のように狭い川や海またはそれによって隔てられること、たとえ隔たってもそのことが互いの往来を妨げないこと


この意味とも違うが東北の海岸地帯は海で共通の文化が意識された。大陸は大河で結ばれるけど日本は回りが海なのだから海で結ばれることが古代からあった。ヤマトタケルの東の国への遠征が舟て行われたというのもそのためである。それはどの辺まで来たのかめいかくではないにしろ多賀城も視野に入る東北の長い沿岸であった。


市がたつような場所はどちらかというと城下から少し離れた川沿いや浜沿いが多かった。古い時代には八幡川の名彼と海岸に近い場所だったと想定できる。川や海が運んでくる大量の土砂が退席していつか土地が安定してくると人々はそこに集まり家が建つようになり埋め立てが行われる。
(志津川-十日町)


これは確かにそうである。磯部の家密集していた所は砂州だったけども田として開拓した地より地盤が安定していた。砂州だからそんなことはないように見えても当時は湿地帯が広かったのだから湿地でないところに家を建てた。それは烏崎でもにている。

浜市から離れて牛綱村というのがある。牛綱村は昔は吾妻街道であったが漁師は漁をするために海辺まで綱を牛によって運んだので牛綱村となったという。
綱で牛をひいて浜市まで来た、浜市には牛で運べるものが魚でもとれたので売っていたので運んだということなのか?牛綱村と浜市には人の行き来があった。もともとは牛綱村に人が住むのが先であったが浜市が市場になり人がそこに移動した。そういう関係が烏崎村にもあった。ここの津浪の被害も大きかった。


白萩はシラはシロは「まっさらになること」ハギは「表土や土地がはがされること」を意味することが多い


あそこがこんな状態になったのか?相当に家が集まっていて街のようになっていた。たた道が細く松の枝がおおいかぶさるように伸びていた。あの写真などが消えたので注目されているのか?白萩とは一面に萩が咲いている所とはまるで違った意味だった。

ともかく東名とか野蒜とか鳴瀬川一帯、白萩、牛綱などはいい場所だった。それが根こそぎ津波で破壊された。そこはもう仙石線は通らないという。津波の被害地域には通さないから高台に移動する。すると廃線後としてプログで紹介していたサイトがあった。
あの辺は家が密集していたから被害も大きかった。でも仙台の郊外であり別に職を失うわけではないから人口はそんなに減っていないという。残る人が結構多い。石巻などや牡鹿半島でも零細な港は漁業が牡蠣などが生業だったが野蒜は仙台の延長として通勤圏としてあったから違っていた。

東名とかまでは海に接して仙石線が走っていた。真近に島も見えて写真をとっていた。あういうふうに海に接して走ることがなくなるとその経験は貴重だったとなる。だからあの辺を津波の後どうなっているか訪ねてみたい、でもあの辺は交通が遮断されているしめんどうである。車がないからなかなか行きにくいし自分の事情もある。

ただ津波の被害で東北の海岸がつながっていたことは意識された。例えば津神社は海岸にしかない、その津神社は慶長津波の記念だったとすると前にも東北の海岸地帯は同じような被害があった。ただこの津神社は津波の神社として一連のものとして意識されなかったのである。もし津波神社とみんな名前になっていたら意識したのである。津神社というのがあいまいにして津波を明確に意識させなかったのである。八龍神社は海側だけではない、山側にもある水の神である。津神社は明らかに津波の記念だとすると海岸に接した所にしかないのである。たたあとで綿津見神社とかなり稲作の神となり内陸部に広がった。
そもそも綿津見神社が内陸部に広がることがわかりにくい、海の豊漁を願うなら海岸にあるべきだが内陸になると稲作の実りを祈る神となるからだ。オコゼを山の神にささげたというとき海と山との交流があったことは確かである。それは魚を山に住んでいる人も食べたいのだから歓迎されることは今でもわかる。


ただ海の歴史は消失しやすいのだ。海は大地のように何かモノでも記憶させない、海に船が沈んだら記憶から消える。港も一時的に栄えても船が来なくなり衰退すると船が一杯きて物を運んできたとか言っても時間がたつにつれそれが伝説の港になってしまう。船の交流は記録として残りにくいから小高に港があって船が入ってきて栄えていたといっても遺跡も遺物もないから想像もできなくなる。古墳などはいつまでも形を留めて残っているからそこから歴史をたどりやすいが海の交流は記録が残らないからそこに誤解が生まれているのである。津波の記憶すら明確に残されないのもそのためである。なぜなら町ごと村ごと津波で全部流されたら何も残らないとてる。神社すら流されてしまい消えたからである。

posted by 老鶯 at 20:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係

2013年10月14日

津波がなぜ伝えられなかったのかその不思議 (仙台平野の歴史津波−飯沼勇義)読む


津波がなぜ伝えられないのかその不思議

(仙台平野の歴史津波−飯沼勇義)読む


●津波に対する人間の心理(嫌なことに目をそむける)

 寺に葬った時、住職が過去帳を開いて、世にも不思
議なことがあるものかと驚いた。140 年以上前の宝永年
中にも、この家では母と三婦、二女の女六人が死んだこ
とが記録されていたのであった。過去帳にも載っている
程のことなので、この家では、地震の際に船に乗っては
ならないことを申し伝えておけば良いものを、そうしな
かったのであった。災害のことを話せば、悲しくて耐え
られないので、兎に角、言わないようにしていたのであっ
た。そして、100 年以上たって、災害の教訓は多くの人々
に伝えられなかったのである。
 この話は繰り返す災害ということ

。「悲しい出来事は早く忘れたほうが良
い」、「悲しい出来事は言わない方が良い」と考える人々
が多いこと。自分が被災した経験を人に伝える活動を続
けられる人はむしろ少ない。その少数派の体験者が年を
とり、亡くなってしまえば、教訓が伝承されないのであ
る。
 津波災害はめったに起こるも

http://www.rits-dmuch.jp/jp/results/disaster/dl_files/13go/13_3.pdf

今回の震災も後世にこんな風に残すなら、どういう方法がいいのでしょうね。電子媒体だとデータが消えたら終わりだし、読み込めなくなっても終わり。文書に残しても破損したり紛失したりしたら終わり。何か絶対に伝わる方法があれば一番いいけど、江戸時代の震災の記録だって残っていたのにダレもそれが近々起きるなんて思ってなかったのだから、こういう記録を残してもやっぱり伝わらないのかな・・・。
http://love.mania.daa.jp/?eid=990003


つらいこと、嫌なこと、こうした災いは、いつのまにか歴史の外においやられ、時間の経過とともに事実を隠し長い長い年月を経ているうちに過去においてこの地に確かに大きな津波を来たにもかからわず遠い昔のことであるためにいつのまにか昔話となってしまうということなのです
(仙台平野の歴史津波−飯沼勇義)


なぜ津波のことがこれほどの大惨事なのに語り継がれなかったのか?それは人間の心理的なものもあった。あまりにも悲惨なこと自体、人は目をそむける。死人などや無残な病人でも人はそういう場にいたくない、病院でも悲惨な状態だからそういう場に長いはしたくないし病気も重病になると誰もよりつかない、南相馬市立病院に入院していた浪江の人はそうだった。ただ手をやっとあげるだけでありしゃべることもなにすることもできない、ただ妻が手をにぎるときやっとわかるのか手をにぎりあとは何もできないのである。
そうなったとき土地の農業の指導者だったけど誰もよりつかないと奥さんが怒っていた。人間はみんなそうなると寄りつかない、そうした悲惨な姿に目をそむける傾向があるのだ。そもそも汚いもの苦しい姿を見たくないというのが人間の心理である。それは冷たいというものでもなく人間の正直な心理なのである。


それは別に病気でなくても老人はみんなみにくくなるのでその姿自体に嫌悪する。だから医者であれ看護師であれ過酷な仕事だから性格がゆがんでいるきつい性格になるというのはやむをえないことなのである。
でもそうした嫌なこと汚いことに誰かが従事せざるを得ないのも事実なのである。
人間には隠微して隠したいものがある。確かに「八沢浦が元の美しい入江にもどった」と写真だして紹介したとき「お前はここで死んだ泥まみれの子供のことをどう思うんだ」と言われた。自衛隊の人が泥をかき分けて死体を探していたのである。それは水が引いたあとだった。でもそういうものは見えず美しい入江にもどった八沢浦に正直感嘆していたのだ。そこに住んでいた人ならそんなふうにはみない事は確かである。


●ポンペイのように津波で壊滅して語り継ぐものがいなかった


津波伝説の残される地域


(1)津波伝説は津波の空白域といわれる海域周辺に接する地方に多い。
現在の仙台地方の多賀城地方に津波伝説が多いのはこの二地方は貞観津波、慶長津波以来の空白地域にあたるからである

(2)津波浸水の最終到達付近に津波伝説が良く残される
(3)津波伝説は小高い山、高台、高所、丘、と何らか関係をもって作られる
こういうところには津波の生存者がいて、事実を語り継がれている場合が多い
(4)津波浸水の最終到達点へ来る前の通過地域に津波伝説が少ない。


(仙台平野の歴史津波−飯沼勇義)の本が津波の前に出ていた。津波を郷土史を研究して警告していたのである。今になって注目されたが当時はほんとんど注目されていないのだ。津波にあの辺も無警戒だったのである。科学者も仙台の海側が宅地が広がっている時、昔津波が来ていたと警告したが無視されただけではない、不動産屋が土地の値段が下がるからそんなこと言うなと脅迫さえしてきたのである。人間は原発でも同じだけど現在の利益に頭が一杯になる。過去とか未来とかを考慮することに極端に欠けているのだ。
現在にすべてが身も心も奪われているのが人間である。特に自分の利益にかかわると目の色を変えるからこういうことを平気で言うのである。


自分もそうだがなぜ相馬藩内でも700人が死んだ津波の被害があったのにほとんど語られなかったのだろうという不思議である。新地辺りの地蔵森には津波の伝説が残っていた。それは海岸からかなり奥になる。津波がここでもそうだがこんなところまで津波がきたのかと津波の来た到達地点が問題になる。それで残り谷(残り屋)という地名が残る理由もわかる。この家が良く残ったと感心したのここでも同じである。

そしてなぜ最も被害の大きい海岸に接した所ではかえって津波のことが語られなかったというのも不思議である。一つの理由として海岸に接したところは人家も残らず人もみんな死んで壊滅した。今でも磯部とか烏崎村はそうだった。人家も残らず家族が全部死んだらその地点の伝承も残らない、誰も語るものがいないから津波の伝承も伝説も残らなかったというのも津波の恐ろしさを示している。ポンペイのように一瞬にして火山の爆発で埋もれた街は最近まで二千年近く忘れられていたのである。それは生き残るものがいなかったから伝えられることもなかったためである。そういう恐るべき自然災害が過去にもあったのである。


本村八幡(多賀城市八幡)には上千軒、下千軒といって繁盛していたがいつの頃だったか大津波に流されて砂原と化してしまったという伝説が今でも残っている。


今でもというとき多賀城はあれだけ海に接して人家が密集している。昔もそういう時があって不思議ではない、これだけの家が一瞬にして流されて消える。そのあとに津波の跡のよう茫漠とした原野と化してしまう。そういうことはこの辺りでも目の当たりにしたしそのことを写真入りで度々プログに出してきた。家があったところが何もなくなり沼と化して鴫たつ沢になったということも書いた。津波はまるで夢のようなだと最初から書いてきた。一年くらいは全く夢心地であり現実に思えなかったのである。一瞬にしてこれだけの人家が消えればそれはまるで夢のようだとなりその街自体消失して誰も伝えるものがなく幻の街があったとなるだけである。それは草戸千軒というのもそうなのだろう。何も伝えがない不思議があった。でも最近の考古学の発掘で遺物がでてきてそれが証明されたのである。つまり幻の街ではなかっのである。
人間の街も消える時は一瞬にして消える。徐々に消えるのではない一瞬にしてすべてが消えてしまうのである。それが最後の審判の時である。徐々に消えてゆくのではない、一瞬にしてすべてが消えるのだ。それが人類最後の有り様なのであり津波からそういうことはリアルにシュミレートされるのである。


ただなぜ津波の事が語り継がれなかったのか?


津波伝説は津波の空白域といわれる海域周辺に接する地方に多い


こう言っているけど相馬地方では伝説すら極めてまれでありほとんど伝えられていない、だからこそ津神社が津波の神社でも全く忘れられていた。「本邦祠の研究」の岩崎氏も津神社を津波の神社だと書いていないのである。津波については知り得ようがない状態がこの辺にはあった。多賀城や名取でもあの辺には結構津波の伝説が多い。だからこそ飯沼氏も津波を警告するまでの本を書いていたのである。相馬地方ではそういうことすら書くこともできない状態だった。何も伝えられていないとしたら書くことも警告する事もできない。ただ科学者が松川浦の奥まで津波が押し寄せて残した砂などを発掘してこれば貞観津波のものだと言っていたのでそんなことがあったのかと一回だけ面白がって時事問題の深層に書いたのである。


●一瞬にして幻のように消える街は歴史の事実


相馬地方でも海岸地域に烏崎村でもすでに人が住んでいて壊滅的状態になった。人家もなくなりその惨状を生き残る人もいないから伝えられなくなっていたのかもしれない、なぜならその時もっと人家がまばらであり烏崎に人が集中してもそこだけでありそこが壊滅してしまいば語る人がいなくなるからだ。それほど語る人まで奪ってしまうほど津波は恐ろしいものだったということである。一瞬にして千軒二千軒の家が消失して跡形もなくなり後は原野となってしまう。現実にそういう場面を写真で報告してきた。


歴史を考える時、嫌なこと目をそむけたくなるようなことを人は語り継ぎたくない、そのことはかなり危険なことであることが津波の経験からもわかった。例えば戦争のこともその悲惨なことは実際は隠されている。戦場で人を殺したということなどあからさま今生きている人も語らないのである。語れないのである。実際に戦争に遠くのことが隠されている。それはあからさまにできない悲惨なことであるからだ。ただ事実だから隠し終えないで今になり伝えられる。でもどうしても隠したいということが働くのが人間の心理でありかえって戦争が美化されるのも現実なのである。その美化されることに危険がありまこた戦争になるという危険がある。人間は個人的にもそうである。嫌なことは忘れたいのである。そして何か人生を美化してしまう。何らか罪を犯さない人はいないしそういうことも隠される。でも実際は隠せるものではない、良心の痛みとしてそれは死ぬまでひきづることになる。だから若い時の過ちは実際は軽いものではなく重いものとして老人になってかえって苦しめられることになるから注意すべきなのである。でも若気のいたりというのは誰にでもある。


とにくか相馬地方では伝説すら残らなかった。その理由は明確でないにしろこういう一面があった。人間は悲惨なことを忘れたい隠したいという人間心理が働いた。それと今回のように磯部や烏崎のように村自体が壊滅して消失して伝える人がいなくなっていた。
だからここに千軒二千軒の街があったとか村があったとか幻のようになり伝えられなかったのである。こうして幻のごとく街自体が消えてしまうこともあることなのだ。
人間もそうだが村や街といってもいかに繁華であっても一瞬に消えることがあるという事実なのである。このことこそがまさにこの世の無常だとかしかいいようがないことだったのである。


ポンペイは一瞬にして炎と煙につつまれ消滅した
以来灰と土に埋もれて二千年忘れられていた
抱き合ったまま死んでいた男女死体もあった
誰も語るものもなく埋もれてしまった
その無常は津波の被害とにていた
村や街は一瞬にして津波にのまれ消失した
人々は街を捨てて悲劇を忘れたい
最愛の家族を失ったことは語りたくない
あまりにも無残であったから
ただ平和の日の良き思い出だけを語りたい
思い出したいとなるのが人間の心理
でも災害は災難は常に人間に逃れがたくやってくる
病魔もそうであり自然災害もそうである
幸せを粉々に打ち砕きどん底に陥れる
それが無常の世なのは変わりなかった

posted by 老鶯 at 15:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係

2013年10月12日

南相馬市鹿島区烏崎村の八龍神社の謎は深い(一部) (津波をまねがれたその位置に解く鍵が・・)


南相馬市鹿島区烏崎村の八龍神社の謎は深い(一部)


(津波をまねがれたその位置に解く鍵が・・)

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●岩松氏とのかかわりを探る



元亭3年(1323) 相馬 重胤建武元年 (1343) 代官岩松本阿弥陀仏と申す者 千倉来住(会津四家考)
建武元年 真野五郎氏康南軍(北畠顕家軍)に味方す
建武2年(1335) 北畠顕家(16歳)父 親房とともに義良親王を奉じて多賀城に入る
建武3年 相馬 重胤(北軍)鎌倉法華堂にて自害
建武3年 五月南軍の顕家軍北軍相馬氏の小高城を攻め落とす
建武4年 顕家軍 多賀城より霊山に移る
暦応元年(1338)真野五郎顕定江垂村中館に居館す

貞和3年(1347) 南軍顕信の拠る霊山城落ちる
この時が宝財踊りの起源となる

貞治5年(1366)桑折五郎元家伊達桑折より横手村に移り真野五郎と改称す
応永13年(1406) 鎌倉公方足利満兼、岩松義政に奥州下向命ず
この時善導大師六号名字(船板名号)船鼻に奉じて来る

この年中目山阿弥陀寺開山と定める
慶長地震津波(1611年)

慶長16年(1611-地震の後一カ月後) 相馬 利胤(一七代)城を小高より中村に移す

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暦応元年(1338)真野五郎顕定江垂村中館に居館す


これは岩松氏が千倉の庄を所領するより早くあった。鎌倉南北朝の頃は混乱しているからわかりにくい。ただ津波を探る場合、岩松氏の時は津波は来ていない、慶長津波から200年間くらいの期間がある。

それで烏崎の地名は最初は烏浜だった。烏は空の州のことでありそこに上陸して名付けられた。後に烏崎と変わったのは地形から見ると烏崎は後ろが小高い山であり台地があり崎としての地形となっていた。最初は浜を意識したのだがあとでここは崎が目立つものとして烏崎になった。あとで地形を良く見て名付けたのだろう。最初は上陸した浜だけを見ていて烏浜と名付けたがあとで地形全体を見て烏崎とした。
岩松氏は烏崎に上陸した時、そこには住み着いていない、住むには適していなかったのだろう。でも人はすでに住んでいたのである。だから大内の方に移った。大内は住みよい場所であることは今でもわかる。烏崎は住みにくいのである。まわりは湿地帯であり辛うじて崎になっている山の前が湿地帯ではなく住む場所に適していたのかもしれない、なぜなら回りは湿地帯であり乾いた土地がないとしたら家も建てられないのである。

そこで問題になるのが津波で辛うじて残った八龍神社がいつ建てられたのか?
その疑問は相当に大きい。大きな問題点は慶長津波の前にあったのか、それとも後に建てられたのかという疑問である。津神社は津波の後に建てられたことは誰でもわかる。
しかし八龍神社はいつの時代のものか特定できない、ただこれは岩松氏が烏浜に上陸したことと深い関係がある。岩松氏は鎌倉から阿弥陀信仰をもってきたし他にもいろいろな神を信仰をもってきたのである。岩松氏が烏浜に上陸してから津波まで約200年が過ぎている。その200年の間に何があったかが問題になる。200年は長い。その間に様々な変化もあったし烏浜には人も住み着くようになったことは確かである。


●烏崎に残された貞低3年(1686)の碑の謎

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「鹿島町の石造遺物」では烏崎に貞低3年(1686) 為月庭妙と記された自然石があった。
これは何を意味しているのか、それなりに古い、慶長津波は1611年だとすると75年後に津波が来ていることになる。この期間に烏崎がどういう状態だったか予想がつかない。岩松氏は上陸してすでに大内村に移っている。大内とは御所になぞらえて岩松氏が名付けたというから岩松氏に由来している。千倉とか御前内もそうである。ではそこに人が住んでいたのかとなる。
そもそもこの文字の意味は何なのか?それが問題である。戸屋の所にあり八龍神社の近辺にあったことは八龍神社も古いものなのだろう。

貞低3年(1686)から二年後に元禄時代になっている。元禄時代に近いのだから人が烏崎にもすみつき寺もできてこの碑が残されたのだろうか、隣の金沢は元禄時代に開拓されていたから古かったのである。狭い地域だから開拓しやすかったのだろう。


ていきんおうらい【庭訓往来】


往来物の一種。作者不詳。南北朝後期から室町初期の作と推定される。庭訓は,孔子が庭で息子を呼びとめ,詩や礼を学ぶべきことを説いた故事から出た語で,家庭での教訓,父から子への教訓を意味する。手紙文の形式をとり

庭訓とは、孔子の子伯魚が庭を通った時、孔子に呼び止められ、 詩や礼の大切さを 教えられた故事[論語季氏]から、 家庭の教訓、 家庭教育を意味する。また往来は往復 の ...
そもそも「往来」とは、往復の書簡の意で、平安時代後期に編まれた『明衡【めいこう】往来』以来、手紙のやりとりの形態をとって文字を学ばせるためのテキストでした。後には、手紙文以外のものも行われ、特に江戸時代には、教訓、地理・歴史、法政、算学から実業的な内容を含むものまで幅広い広がりを見せました。


http://shakaigaku.exblog.jp/1917083/


さんがつ‐ていきん 〔サングワツ‐〕 【三月庭▽訓】

正月から12月までの手紙を集めた「庭訓往来」を手本として字を習う者が、3月あたりでやめてしまうこと。勉強に飽きやすいこと。三日坊主。

そのつき、何のをり、その人の詠みたる歌はいかに』と問ひ聞こえさせ給(たま)ふを」

庭とあるから庭訓のこと教えることなのか、為月(月のため)とあってもこれはお月さまとは限らない、月々の教えかもしれない、庭とあるから庭訓が浮かんだ。これも鹿島御子神社の神宮寺であったのが寺になり寺子屋となり不詩朗謡と記され天保と記された石碑と同じ類のものなのか?戸屋はすでに家があり寺もできたのか?大きな寺ではないにしろ寺のようなもお堂のようなものができていたのか?貞低3年から二年後が元禄であり元禄には隣の金沢浦が開拓されていたのである。あそこは思った以上に古かったのである。

ただ鎌倉文化を岩松氏が持ち込んだとするとそういう場所として最初烏浜があったのか?それは津波の後の60年後とかなるとどういうことになるのから岩松氏とは関係ない。60年という歳月も長いから津波の伝承は忘れられていたかもしれない、寿命が短い時、10歳で津波を経験しても60年過ぎたら70でありその時は死んでいる人が多いからである。ともかく岩松氏が烏浜に上陸してから200年後に慶長の津波が来ている。

その間に八龍神社が建てられたのか、または岩松氏が烏浜に上陸した記念として祭ったのだろうか、無事に航海して到達したということでそのお礼に八龍神社を祭ったのか、
なぜなら八龍神社は海の神でもあり航海の神でもあったからだ。ただ岩松氏は阿弥陀信仰があり船の先に阿弥陀を奉じていた。現実に祭ったのは阿弥陀信仰の仏像であり阿弥陀堂が今でも残っている。八龍神社は岩松氏の伝承ではどこにも語られていない不思議がある。


●烏崎には真野氏系統の有力者がすでに住んでいた
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上陸後当地を横領していた田中の城主真野太郎信家との政治折衝が進められこの仲介役を成したのが烏崎の住人遠藤形部と申す人である。(中目山阿弥陀寺史)

岩松氏が烏浜に上陸したときすでに真野氏や相馬氏の勢力があった。そうすると烏浜という名は岩松氏が上陸する前に地名としてあった。有力者も住んでいたのである。


三苫虚空蔵菩薩由来

 桓武天皇御代延暦二十四年四月最澄傳教大師入唐求法帰路六月十三日花鶴濱(古賀濱)に上陸一ヶ月滞在の折巡錫布教の砌り三苫虚空蔵菩薩像を彫刻安置し地区住民の財宝の恩恵を授けるの始で千百八十有余年の歴史を持ち今日まで法統連綿として引継がれ家門隆昌の守護を授けるものなり  俗に空(無一文)から蔵が立つという七福神の一体でもあり三十三忌の守り本尊でもあります
http://www.jinja.sakura.ne.jp/higashiku/no45/no45.htm


これなどは上陸記念として祭られたものである。綿津見神社と八大龍王は一体として祭られている。このうよなことがあると岩松氏が上陸した時もそういうことがあったのか?
ただ阿弥陀信仰は語られても八大龍王については何も語られていないのである。
つまり八大龍王神社について語られることが何もないということが謎なのである。

八龍神社の最大の問題は津波の前に建てられたのか?後に建てられたのか?
前とは後ではずいぶん違ったものになる。なぜなら前だったらどうしてあんな高い所に建てたのか?後たったら津波のことを知っていてあの高い場所に建てたとなるからだ。
その違いは大きいのである。
あれを見ると何か津波のことを知っていてあの高さに建てたと想像する。それはぎりぎりだったからである。ぎりぎりで助かる高さだったのである。

現場を実地に歩めば一番不思議なのはなぜあの位置に八龍神社があったかということである。断面図みたいのを描いたがあそこに岩松氏が上陸したのはあそこしか烏浜では上陸する場所がない、今の港のある所は湿地帯であり上陸できない、あそこは坂になっていて一段高くなっているから湿地帯ではない、それで人もすみついた。坂を下ると湿地帯が広がりそこが江戸時代から干拓されて田になった。だから人家の密集地帯からすぐ近くが沼となり元の自然にもどり水葵が咲きだしたのである。

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●八大龍王神社は南朝の戦いで霊山から落ち延びた武士が真野氏からもたらされた?


八大龍王総本山龍光寺


 生駒山上にある龍光寺には、楠公(正行)が四條畷へ向かう時(足利家の高軍と戦う前)、龍光寺に宿営し、「八大龍王の神前に額づき『我れ無き後も永へに八大龍王の清水の絶えたる事無きが如く、我が菊水の水も絶える事無し』と祈願せられ、以て八大龍王の本殿に菊水の定紋を残して、至誠の真を表し給ふ。」


八大龍王信仰は鎌倉時代辺りから急速に日本全国に広がった神である。それは水と深く関係していた神である。だから盲点として南朝の北畠顕家が霊山にあり奮闘して真野地域に敗れて落ち延びた人たちがすでに先住民だったのである。八龍神社は海側にあると思っているけど山側や平地にもある。なぜか烏崎辺りに集中しているというけど川子にもある。では川子と烏崎の八龍神社がどっちが古いのかとなる。南朝の北畠家系統から真野の中館に落ち延びた武士が八大龍王神社の信仰をもたらしたとしたらやはり古いものであり津波の前にも建てられたとなる。なぜなら岩松氏が烏浜に上陸した時、遠藤氏など有力者がすでに住んでいたのである。だから遠藤氏などが八龍神社を祭ったことも推測されるのである。ただその時津波が来る前だからなぜあの高い所に祭ったのか、もしかしたら見晴らし台のような役目も果たしていたのかもしれない、あそこで漁したとなると遠くを見晴らす必要も出てくる。神社には信仰だけではなく何か別の役目もあった。実用的なものとしても建てられたことも考えられる。明らかなことは岩松氏関係の伝承には八大龍王信仰の関係のものがないことなのだ。真野氏関係だったら岩松氏より古いとなる。


八龍神社の位置はあそこは坂を上ったゆきどまりでありもともと高い地域でありそしてそのゆきどまりに八龍神社が建てられた。一般的に神社が古く寺があとになるというときすでに戸屋のところに寺ができた時あの八龍神社があったのか、鹿島御子神社のように由来がはっきりしているのはわかりやすいがあの神社はそもそも祠のようなものであり小さいしそこに人が住んでも忘れられていた感じなのである。でも神社だから由来もわからなくても土地の人の信仰が薄れても残っていたのだろう。土地の人が信仰つづけていればその回りに必ず石碑が建っている。あそこには何の石碑もないのである。ただ社だけがある。それは原町の雫(しどけ)の近くの津神社も同じである。ただ烏崎村の牛島の港のあったところに建てられた津神社は大きい、ただその神社にしてももともとは小さかったのだろう。それでも津神社という津波ということの記憶を保存していたのである。

それではなぜあそこに建てられたのか、やはり慶長年間に湿地帯が開拓されて建てられるようになったのか、神社は今でも移動することがある。津波によって神社が破壊されて今回浮州神社が大内に移転したし慶長津波でもそういうふうに移転することがあったのだ。

推測としては八大龍王信仰は岩松氏と関係ないとするとすでに勢力があった真野氏系統のものが烏浜に建てた。遠藤氏という名前も正確に伝わっているとすると津波の前にすでにあり相当に古いものだとなる。それは津波と関係なく建てられたのであり偶然に津波からまねがれたものだとなる。もし津波の後だとするとその解釈はまるで違ったものとなる。

posted by 老鶯 at 23:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波水害関係