2013年04月04日

地元の人に津浪の話しを聞く(鹿島区の御刀神社の後ろの家の人) (東部高速道路のようなものが津浪には有効だった)


地元の人に津浪の話しを聞く(鹿島区の御刀神社の後ろの家の人)

(東部高速道路のようなものが津浪には有効だった)


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海老村の歴史
http://musubu2.sblo.jp/article/43585610.html


北海老村-下海老村は壊滅した



今日はたまたま老人が家から出てきていたので津浪のことを聞いた。場所は写真の所である。御刀神社がありそこは林になっていてその後ろの家は結構被害が大きかった。ボランティアが来て泥をとるのを見ていた。京都や大阪から来ていた。今日話を聞いたのはその後ろの家である。床上ちょっとだけ浸水した。ただその前のは家は氏神の社を残してなくなった。御刀神社の前の家はほとんど喪失した。あそこが家が残るか残らないかの境界線だった。


ただ不思議だったのは津浪は海老の方から高くなって押し寄せてきたという。それでその前に坂になって高い道がありそれで波がさえぎられて助かったという。ええ、あんな坂が津浪をさえぎったのか?それを聞いて何か納得がいかなかった。津浪は海老の方で高く押し寄せたという、海老の家が密集している所は右田などから比べると高台になったのであそこが壊滅状態になったことで驚いた。
だから津浪は低い所に高く押し寄せたのかと思っていた。それがある部分的に高くなって津浪は押し寄せていた。それで海老の崖になっている所も高かったのだがあそこに高い波が押し寄せたからあんな被害になった。


反射・屈折・干渉などの「波」の性質を持っていて、条件により変化するため、予測されないところで被害が生じる場合がある。波の中では孤立波、その中でも伝播中に形状や速度が変化せずお互い衝突しても安定している「ソリトン」に分類される。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E6%B3%A2


これはわからないにしても津浪と海底が浅かったり深かったりしても影響する。津浪は一様な高さで押し寄せるとは限らない、津浪はまた地形に影響されやすいことは前にも書いた。
今回聞いた津浪の話しでも同じだった。その地形とは高い坂になった道路だった。でもその道路はその道路だけが高いというのではない高台に作られた道路だったのである。道路というより地形の影響だったのだろう。津浪が海老の方から高く押し寄せてきて右田の方の平坦な地域からそれほど強い波が押し寄せたのではなかった。津浪の押し寄せる力は場所によって違っていたのだ。ただ御刀神社を境にしてその前の家はなくなった。全部流されたわけではないが被害がひどいので壊されてなくなった。御刀神社の後ろの家が残ったのは流された木材などが神社の林でおさえられたこともあったろう。その後ろの家は被害がひどく壊されてなくなった。
その後ろの家の人に今日津浪の話しを聞いた。家が三軒ほどでも前がさえぎられて海が見えなかった。


津浪が来たときその前の家の人に聞いて逃げたという。最初の一波はひたひたと押し寄せる低い波なのだ。その時逃げればみんな助かった。それは磯部の人も海を見に行ったら低い波がよせてきて逃げて助かった。最初の一波は低い波なのである。それから津浪はある程度距離があると津浪が来るのが見えてからでも必死で逃げれば助かる。大内は結構距離があるから津浪が来てトラックで逃げて助かった。八沢浦の人は海が近いのだけど前に小山があってその小山にさえぎられ津浪が弱められた。

そし津浪が見えていたから後ろの山に逃げて助かった。つまり津浪は見えてから逃げて助かるということがあった。あそこには4軒くらいしか家がないのにその家にさえぎられて前が見えないから海がみえないし津浪が来るのもわからないとなる。もちろん外に出ればあれだけ視界が開けているのだからわかる。ただ家から海の方が見えないのだ。この海が見えないということが死角になっていた。


多賀城と石巻とか都会は家が密集して海が全く見えないし海を意識すらしない、ただ砂押川をさかのぼってきたのでそれで川と海がつながっていることを改めて知ったのである。海が見えないということが意外と死角となっていた。石巻の大川小学校の悲劇も住宅にさえぎられて海が見えない、だから津浪が来るのが見えないからわからなかった。それで逃げ遅れたのである。海は意外と近くにいても見えない場所が多くなったのである。この辺でも松原があると海は見えなくなっていた。常磐線では海の見える地域が極一部である。だかち海が近くても海が見えないのである。浜吉田も浜がどこにあるのか海を意識したことがなっかたけどあそこまで津浪が押し寄せて海が近いと改めて知ったのである。


亘理から名取の海岸線を走る東部高速道路はかなり高いからバスからの眺めがいい、鳥の海とか河口か見えて海が見える、あそこの高速道路に必死に上って助かった人がいた。あれだけ高いと津浪には効果的だった。あれがもっと海岸線近くに作られていたら相当に津浪を防げたので参考になった。
今回聞いた話でもあの道路があのわずかに高い地形が影響して津浪をさえぎったというので不思議だった。津浪は地形に影響されるし津浪自体が良く解明されていない、それはかなり複雑なものであり海底の浅さや深さでも違ってくる。


南海老村は被害がなかった。下海老村と北海老村が壊滅した。そこはあとから人が海の方に向かって開けた地域である。だからその神社も新しいとなる。神社が津浪の被害からまねがれたというとき北海老や下海老村の神社は新しいから流された。古い神社は津浪が来た経験から高い所や津浪の来た地点を記憶していて昔の人が建てた。神社が古ければ古いほど津浪が来た所には建てていないというのは本当なのだろう。


あの辺の田んぼは塩害やら放射能で使い物にならないので農協であづかり広く整地するという。今まではなかなか土地を農家の人が手放さないのでできなかったがもう何もできないとあきらめて農協が一括してあづかることになったからできる。そういうことで大規模な農業経営に移行しやすいということもあった。宮城県などでも津浪で壊滅した町は御破算になってしまったから新しい町作りを一からはじめられることはある。そうはいってももう人が流出していてはできない。これだけ被害が大きいと今までの狭い土地に執着することや何か他でも新しい発想が必要になってくる。それが何なのか模索することになる。そうはいってもなかなか新しくするというのはむずかしいだろう。でも町自体消えることはそうならざるをえないということもあるのだ。

posted by 老鶯 at 17:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2013年03月29日

永正9年(1512)の津浪が四倉にあった?-1696-元禄磐城小名浜大津波もあった (400年周期で大きな地震と津浪が太平洋側にあった)


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永正9年(1512)の津浪が四倉にあった?-1696-元禄磐城小名浜大津波もあった

(400年周期で大きな地震と津浪が太平洋側にあった)


本多徳次さんが昭和61(1986)年に著した『四倉の歴史と伝説』という本に「千人塚」の話が載っている。本を読むまで知らなかった。伝説をかみくだいて言うと、ざっと500年前の永正年間、四倉の大浦全域に津波が来襲し、家屋が流失した。死者が続出したため、仁井田浦に遺骸を合葬して「千人塚」を築いた。今は跡形もないという。 永正年間に津波が押し寄せたのは事実なのだろうか。

千人塚ができたのは永正年間から下ること100年余、元禄 9(1696)年の大津波のときだった。
その年、「大津波来襲、磐城七浜で死者2400名余。四倉、小名浜に千人塚を築く」。そのわずか19年前の延宝5(1677)年にも、磐城の浜に「大津波来襲、死者800名余」の大惨事になった。
http://www.j-cast.com/2012/01/22119521.html


永正9年(1512)8月4日、津波が宍喰を襲い、宍喰浦で3,700余人の犠牲者が出て、1,500余人は助かったという。この時代には、城や宍喰の中心は現在の正梶の地にあったが、津波により街が壊滅したため、その後現在の愛宕山に城を移したと言われている。なお、この永正9年の津波は幻の津波と呼ばれている。この日、徳島はもちろん、国内のどこにも地震の記録が見当たらず、外国の遠地津波によるものでもないようである。暴風津波(高潮)という説もあるが、被害規模から、被害地域が宍喰浦のみというのは疑問が残る。


一つは「村越伝説」である。静岡県史には、この頃浜名湖を襲った津波・高潮として、応永13年(1406年)、明応7年(1498年)、永正7年(1510年)の3件の記載がある。
http://murakushi.net/information/history_06.html


1498(明応7)年の大地震の津波で太平洋の遠州灘の接する箇所決壊して海と湖水が通じ、
さらに1511(永正7)年の大津波でその間が広まり、今切という地名の名前が生まれた。

舞阪の象徴ともいえる浜名湖に浮かぶ弁天島は、1498(明応7)年の大地震で島となったところで、1709(宝永6)年に今切り渡船の安全を祈願して弁天神社が建てられてから、弁天島と呼ばれるようになった。
http://home.q08.itscom.net/you99/maisaka.htm


1605年2月3日(慶長9年12月16日)慶長地震 - 東海東、南海道で津波による死者多数。津波地震と推定される。

1611年12月2日(慶長16年10月28日)慶長三陸地震 - 東北の慶長津波(千島海溝沿いを震源とする説あり)、津波地震と推定され、伊
達政宗領内で溺死者5,000人[12]。仙台平野で内陸を2km溯上したと見られ、北海道南東部沿岸も大きな被害。最古の「津波」という語句の記載(『駿府記』)。


相馬藩政記-700人溺死



こうした記録は何を語っているのだろうか?津浪の記録は消失しやすい、だから永正9年(1512)の津浪は幻の津浪とされている。ただその後の慶長津浪は伊達藩にあり明確に記録されている。相馬藩政記-700人溺死と記されている。しかしただ一行だけでありどういう被害があったかは記されていない。
永正9年(1512)の津浪が四倉にあったというのは推測であり不明である。「千人塚」も津浪の死者を埋めたところとは限らない、戦死者とか台風とか他の被害もある。インタ-ネットでは津浪の被害で死んだというのは見いだされない。ただあまりにも多くの人が死んだので墓標のように埋められた死体があった。だから千人塚とういうこともありうることは推測できる。塩木が塩が来る-潮来というのもどうなのか?塩を焼く木を切った所かもしれない、そういう地名はあった。山の方でなく海辺にある村とするとどうなのか?そもそも四国や静岡などで起こった津浪が磐城地方でも起きたのか?
そういう明確な記録がないだろう。第一この津浪が幻とされているのだから磐城地方の四倉にあったということはどういうことなのか謎である。幻と言ってもそれなりに記録や伝承があるのだからあったことは確かだろう。


この頃浜名湖を襲った津波・高潮として、応永13年(1406年)、明応7年(1498年)、永正7年(1510年)の3件の記載がある。


明応7年(1498年)、永正7年(1510年)

1605年2月3日(慶長9年12月16日)慶長地震 - 東海東、南海道で津波による死者多数。津波地震と推定される。
1611年12月2日(慶長16年10月28日)慶長三陸地震 - 東北の慶長津波(千島海溝沿いを震源とする説あり)、津波地震と推定され、伊達政宗領内で溺死者5,000人[


明応7年(1498年)、永正7年(1510年)の間は12年
慶長地震から慶長三陸地震津浪は6年である


12年後と3年後にまた津浪が来ている。そんなに短い間に津浪が来るものなのか?3年後としたらこの辺は2年過ぎて3年目になるのだから津浪の警戒が必要だとなる。

伊達政宗領内で溺死者5,000人という数字はほぼ正確ではないか?相馬藩の700人溺死も数としてほぼ正確ではないか?なぜなら今回の津浪被害で宮城県が一番大きかったからだ。伊達藩は山元町までありそこも浜の方で被害が大きかった。伊達藩では津浪の後も開拓して米作りしていた。人手がたりなくなったので相馬藩の武士も開墾に従事した。その時は今のように津浪の来る所をさけるようなことがなかった。それより江戸に送る米が必要だからあえて危険でも開拓した。塩分はぬけるし米は塩分にも強いらしい。松川浦の和田の人は塩分の田んぼでも米をがとれたとか言っていた。放射能よりはましだとなる。


こういう記録を見ると400年前に慶長津浪は確実にあり 東南海地震,津浪もあったのだから周期的に東北でも東海道、四国でも起きることは推測されていた。それは科学者の仕事でもあり最近は貞観津浪が相馬市の松川浦の奥まで押し寄せたという砂が発見された。他にも貞観津浪の痕跡が明確に証拠として発見されていた。記録的にも400年後であり大きな地震が東北にも東南海にも起きる時期だったのである。貞観津浪のことは言われていたが慶長津浪のことはあまり言われなかった。
やはり記録からして東南海地震や津浪はいつ起きても不思議ではない、ただその時は東南海地震の6年後に慶長三陸地震が起きた。つまり今回とは逆になるのだ。でもプレ-トがつながっているから互いに影響し合うことが考えられる。互いにプレ-トがバランスをとるために交互に大きな地震が起きる。これは素人の推測だが何かわかりやすい解釈である。最近の河口湖の水が退いているのも前触れなのか?何か不気味である。

四倉は今回は被害は大きくない、広い砂浜が緩衝地帯になりあれだけ海に近くても被害が少なかった。海岸の松によじのほって助かった人がいたがここでは松ごと流されたから助からなかった。
津浪は地形に影響されやすいのだ。四倉の街が津浪にのまれたら大被害になった。久之浜は海岸にじかに接しているから被害が大きかった。だから四倉に永正9年(1512)の津浪があったということは何か疑問なのである。記録では海嘯としているからそれはあたっている。津浪は慶長三陸津浪のあとに呼ばれるようになったからだ。

元禄 9(1696)年の大津波のときだった。 その年、「大津波来襲、磐城七浜で死者2400名余
 
元禄磐城小名浜大津波 ……… 1696年7月25日(元禄9年6月27日)
http://www.bosaijoho.jp/topnews/item_5820.html

この津浪の名前が磐城小名浜大津波であり限定された地域の津浪だった。津浪が幅広く押し寄せるときこれはどうしてなのだろうか?局所的大地震だったのか?プレ-ト地震ではなかったのか?
磐城小名浜にこれだけの津浪があれば原発のあった所の双葉浪江でも影響があったろう。
相馬藩の記録にはない、この地震の津浪なら四倉に確実に影響した。

千人塚ができたのは永正年間から下ること100年余、元禄 9(1696)年の大津波のときだった。
千人塚がこの時のものだとすると永正7年(1510年の津浪で死んだ人たちではない。


明治の学者・大須賀筠軒の著した「塩木村誌」を読む。「耕田寺縁起を按スルニ永正年間海嘯アリ近隣諸村併セ民家悉(コトゴト)ク流滅ス。天文ノ頃海嘯猶ホ来る故ニ潮来(シホキ)村ト名ツク後轉ジテ塩木村ニ作(ナ?)ルト云フ」


海嘯は慶長三陸津浪の前の名前だった。ただこの記録はどうして四倉に残ったのか?

ただこれらの記録から推察すればいかに双葉や浪江は近いのだから危険だったか明瞭である。
なぜ東電や政府はこうした津浪に警戒しなかったのか?その責任は重いはずである。
津浪には全く警戒していなかったのだ。ただ一応危険を指摘はしていたが何の対策もしなかった。
コストがかかるとあいまいにしてしなかったのである。


元禄磐城小名浜大津波 ……… 1696年7月25日(元禄9年6月27日)


この津浪を話題にしているものがほとんどないというのも不思議である。すぐ近くだから危機感があってもいいはずだった。これは300年前のことだった。津浪は短い期間の間にも来るし300年とかの間にも大きな津浪がどこかに来るということである。プレ-トだけではない、局所的なものとして津浪が来ることが記録から判明している。プレ-トのことばかり指摘しているが地震はどこに起きるかわからないのである。それに応じて津浪もどこに起きるかわからないのである。だから原発は日本では危険なのである。



「大仏石」が伝えていた大津波 過去の自然災害に鈍感だった【福島・いわき発】

http://www.j-cast.com/2012/10/05149145.html

こういう伝承があるだけで津浪に関心をもつ、相馬ではそういう伝承があったとしても身近に聞いたことがない
そういうモノも残っていない、神社さえ津浪を記念したとしても由来が不明になっていたのだ。

こういうものがあるとすると塩来は津浪由来なのかな・・・・

 

posted by 老鶯 at 20:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2013年03月25日

失われた貴重な右田の松原 (残された詩で思い出す)


失われた貴重な右田の松原

(残された詩で思い出す)


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松影老鴬

松影の道
釣人並び
沖行く船
老鴬鳴く
車輪梅咲き
南風そよぐ
我が歩む
海辺の道



右田の松原は松川浦よりもいい松原だった。調っていたし松風や松影が気持ちよかったのである。あの松原に注目していた人が少なかった。松の幹もそれなりに太かったしいい松原だった。あそこは一本一本の松として意識していない、今は残った松を一本一本意識している。松原としてあったから一本一本の松を意識しなかったのである。陸前高田市の松も一本一本の松ではなく松原として意識していた。あそこの松原の前の旅館に一度だけ泊まったことがあった。確実にあの旅館は津浪で流されてしまった。松も一本も残らなかった。前の広田湾は静かでいい湾だなと思っていたけどあそこあんな被害にあったのはショックである。今回の津浪は美しい光景の場所が津浪にあってめちゃくちゃにされた。陸前高田市でもあの松原は憩いの場所でありその生活に密着した場所だった。特にあそこは街と一体化していたから余計にそうだった。ただ街の方には行っていなかった。あんな大きな街があったとは知らなかった。風光明媚な地がもう人が住めないくらい破壊されたことは信じられない、街が大きかっただけでにダメ-ジも大きかった。そして松原は人の記憶にしか残らなくなった。

一本の松をその松原を思い出すために建てた気持ちもわからないではない。ただ松原としてあったのだから一本の松を建てても思い出とはなりにくい。右田の松原もあくまでも松原として意識されていた。ただ不思議なのもその松原が消失したのだから松原があったということはただ記憶の中にあるだけである。現実にはもうないということが未だに信じられないというか不思議だとなる。
松原がある風景の中で暮らしていたものが失われた。それは二度と経験できなくなったのである。
人工的自然であったがそれは失われたから二度ともどってこない、松原はただ思い出の中にしかなくなった。

だからこの詩もたいした詩ではないにしても松原を思い出すものとして貴重かもしれない、正直自分でもものたりないのだが松原があったときの風景を思い出す一つにはなる。
夏になると釣りする人が必ず車で来て並んでいたのである。その前の海には漁船が見えた。それは烏崎港から出た船だった。それは別になんでもないいつもの風景だったけどそういう風景をもう見ることができないのだ。車輪梅も咲いていたがそれも根こそぎ喪失した。崩れた防波堤があるのみである
実際このように消失してしまうと思い出すことがむずかしくなる。もっと写真とか画家がいたら松原の風景を描いてもらっていたら思い出したかもしれない、それももうできないというショックである。貴重な財産が一瞬にして喪失したのである。風景そのものが消失したというショックである。
それはここだけではない、松原は仙台辺りまで延々とつづいていたのだ。それらは根こそぎ喪失したショックである。そしてそれらはもう回復しないというのもショックである。ただもともと松原は人工的な風景だから元の自然に原野に帰ったといえばそれまでである。でもその衝撃は圧りにも大きすぎたのである。
posted by 老鶯 at 14:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2013年03月16日

松川浦の尾浜の漁師から津浪の話しを聞く (津浪はともかく早く逃げないと助からない)


松川浦の尾浜の漁師から津浪の話しを聞く

(津浪はともかく早く逃げないと助からない)

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原釜(はらがま)は鎌倉のようにカマ(鎌)の地形だった。もろに津浪に襲われる地形だった。
尾浜は山にさえぎられて津浪が弱められた。ただもう一方からも津浪が来たがそれも離れていたので
被害も大きかったが原釜よりは被害が少なくてすんだ。津浪はちょっとした地形で被害が違っていた。

地形により津浪の大きさは違っていた
http://musubu.sblo.jp/article/44126846.html



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ボランティアが金沢で砂を掘り起こして津浪の漂流物を掃除していた

南相馬市の原町区の金沢でポランティアが砂浜を掘り起こして津浪で流された木片などを掘り出していた。金沢の浜はサ-フィンで有名だった。サ-フィンをする人がすでにきていた。ボランティアは一人は静岡で東京の人であった。他にも結構遠くから来ている。それから松川浦の尾浜で漁師をしている青年にあって津浪の話しを聞いた。その人は屋根に上ってそれから山の方に上り助かったという。おじいさんは死んだという。家が流されなかったのは高台にあったのと柱が太い鉄骨だったかめだという。鉄骨が細かったら流されていたという。柱に鉄骨を使っている家はすくない、ましてや太い鉄骨は使わない、ただコンクリ-トの家は流されず残ったということはある。もし鉄骨でなかったら一階まで津浪が来たのだから家自体が流されてしまって助からないということもあった。


テレビで最初3メ-トルと聞き次に6メ-トルと聞いたがそれほど驚かなかったという。ところが10メ-トルと聞いたとき驚いて逃げたがそれまでの時間がないので屋根に即座に上ったという。つまり津浪は時間の余裕がないのである。津浪でんでこというときばらばらになってとにかく早く逃げろというのはそのことであった。予兆としては川が異常に退いてた。こんなに引いたことはないという、津浪の予兆は川であれ海であれ異常に引くのである。これだけはみんな言うから間違いな兆候なのである。そしてすぐに逃げない限り助からないこともこれまで経験したことで伝わっていた。四倉では即座に松の木に登り助かった人がいた。四倉は砂浜が広く緩衝地帯があったため意外と被害が少なかったのである。この辺では松に登っても海岸線では助からない、強烈な10メ-トル以上の津浪が襲ってきたからである。


原釜は直接に波がおしよせる所にあり被害がひどかった。波が二方面から来て原釜で渦巻いていたというかち恐い。新沼の方も低地であり津浪の被害が大きかった。だけど松川浦に面していた尾浜は裏の山にさえぎられ前からの津浪も多少緩和したから家は残っていた。海岸に接していた磯部では土台しか残らず壊滅した。津浪は地形の影響を受けやすいのだ。八沢浦では海岸に近いのに前に山がありそれで緩和されて助かっていた。その家ではじいちゃんだけが死んだだけだったから被害が少ない方だとも言っていた。船も沖に出して助かった。船を沖に出すのを遅れて船が流されてつかまってそこから脱出して助かった人もいたという。松川浦では船を沖にだしたので90艘くらいは被害がなかった。今回は意外と老人が逃げずに津浪にのまれた。それはなぜかというと老人は自分の経験から津浪など経験していないから津浪などこないと逃げなかった人が多いのである。家族のものが逃げようと言っても津浪なんか来ないと逃げずに死んだ人が多いのである。


津浪はそもそもこの辺では400年前に起きたことであり誰も知らない、相馬藩政記に一行700人溺死と記録されていただけである。どういう状態なのかもわからない、一方宮城県の方では岩沼辺りでは船が山まで流されてきたとか伝説が伝えられていてその話を聞いた東北電力の副社長が10メ-トルでいいではないかと決められるところをもっと高くして女川原発は助かったのである。相馬地方では津浪の伝説すら聞いたことがない、津神社が津浪を記念したものだともわからなくなっていた。


これでわかることは長い歴史になるともう生きている老人に古老に聞いてもわからないことである。400年前のことをどうして知り得るのか?それはただ一行しか記されていなかった相馬藩の記録しかなかったのである。だから歴史はこういうふうに昔になりすぎると生きている人間からは知り得ようがないのだ。そしたら何で知るのか?文献には一行だけ残っていたが誰も注目もしなかった。伝説もないとすると知り得ようがなかったのである。そしてかえって老人は津浪など来ないとして死んだ人が多いのである。歴史というのは長い時間のことであるけど老人は百才生きても400年前のことは知らない、経験しないものについてはかえってありえないとして対応できなかった。


若い人はなんとなく危ないと感じて助かったしまた逃げるのも早いから助かるということがあった。老人は逃げるにしても遅くなると助からないのである。今回の教訓として歴史は長い時間のものでありその中で歴史を見直す必要があることだった。400年前としても現実にここでもあったことだからそれを検討する必要があったのだ。それは老人に聞いてもわからなかったのである。そこに人間はとても三代くらいの期間ではわかりえないものがあるということを知った。もちろん歴史は古代から勉強している。でも津浪についてこれほどこの辺で看過されていたのはなぜなのかという疑問がある。最近の地層の検査でかなり松川浦の奥まで津浪が来た証拠が津浪の砂が発見されていたのである。それもあまり注目されていなかった。人の経験は三代過ぎたらもう伝説になるしわからなくなる。するとどうして後世に伝えるかとなると文献に残すというのもある、伝説もある。ただそれにしても不確かなものとなっていた。庶民は文字を書けない時代だから津浪のような体験でも残しにくいということもあった。ただ口誦で伝説すら残らなかったというのはなぜなのだろうか?その疑問がこの辺ではある。


漁師だからその話しも興味深かかった。放射能検査でも魚はわからないという、一匹くらい選んで検査してもわからないという、米だったら全部検査できるから安心だという。魚は検査しにくいのである。そして補償金はもらっているが検査のための漁でも船に乗って出ないと金はもらえないという。その人は船ももっているからそれなりに補償はあるのだろう。ただ今でも原発から汚染水が海に流れだしているという、なぜなら海に流れた水をとりかえても何度も計っても放射能の濃度が下がらないという。水をとりかえてもまた汚染された水がながれだしているためである。このことは報道されていないという。何から放射能は常に隠されているから困るのである。
海にはまだ相当数放射性物質が流れだしているのだ。だから濃縮される魚が危険だとはいえる。
魚の安全性はわからない、正確な検査がむずかしいからだ。一方で米などは正確に検査ができるから安全だとなるのか?海の汚染は今もつ
づき相当なものだが濃度が薄められるから危機を感じないのである。その人は仕事しないから体がなまってきたという、母親なども仮設で畑仕事などしないから心臓病になったとか言っていた。やはり仮設暮らしは運動不足とかになり体に悪いのである。

posted by 老鶯 at 20:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2013年03月14日

津浪がもたらした良いもの (海がきれいになった?人間界の悪を暴いた)


津浪がもたらした良いもの

(海がきれいになった?人間界の悪を暴いた)


津波のおかげ、と言ったらいいのでしょうか。
湾内の海底がきれいになりました。

津波は、人間が生産し、排出したヘドロを、陸上へと返して寄越したんですね。
まるで、天罰のよう。


その後、重茂地区を襲った津波の写真を再び見ました。
外洋の津波の色は、青いのです。
だから、黒い津波は、人間の色。
人間は、たぶん腹黒い。


そして、今、岸壁に付着している海藻類やシュウリ貝を成長を目にし、たくさんの稚魚を見ると、海がきれいになったような気がする。

津波は、海を再生させたんだ、きっと。


津波の記憶 11
http://platinum-room.seesaa.net/category/11960509-1.html


津浪はあまりにも陰惨な悲惨な光景しか写しださなかった。それで自分が津浪で美しい八沢浦がもどったという記事を書いたとき「お前はここで死んだ人のことを考えないのか」と意見があった。実際に死んだ人はいた。一家で三人くらい死んだ人もいる。でも一方で本当に八沢浦開拓する前の元の入江にもどった。そのことに自分は正直驚嘆した。八沢浦は村が壊滅するようなことはなかった。家も入江になった中には一二軒しかなかった。海岸に接してあったが数軒だった。自分はいつもあそこが入江だったらどんなに美しいだろうとイメ-ジしていた。それが一時現実にそうなったからそっちの方に関心が向いてしまった。奥まで水が入り込んでキラキラと朝日に光り浦波が岸辺によせてきたときは本当に奇跡のように感じた。これは偽らない感情である。あとで確かに泥の中を自衛隊が死体を探していた。その残酷さ無惨さも事実であり一時津浪によって美が現れたことも事実なのである。


プログなどで報道を素人がするようになったとき、報道とは何だろうと思った。それは事実を報道することなのだ。いろいろ解説する前に事実を報道することなのである。ところが事実が報道されないのだ。テレビでも新聞でも事実が報道されない、必ず隠蔽されるものがある隠されるものがある。
津浪のプラスの面は報道されていない、津浪によって暴かれた悪が確かにあったのだ。それは前にも書いた。それは戦争中と同じ悪だった。すべてが原発の利権に群がり原発を推進してきたのである。そこでは原発で不祥事が小さな事故があっても報道されなかった。報道管制がしかれていたのである。報道はいろいろと解釈するのではなくまず事実の報道がベ-スになるべきなのである。その事実が報道されないのである。だからまずニュ-スにテレビ局やマスコミで色をつけないで事実そのものを報道すればいいといわれる。その事実が報道されないことが大きな過ちにつながる。ある意味で事実を報道することは命懸けになるのである。


この世の中は複雑であり悪と善が入り交じり何が悪か善かも見えない世界である。まさに津浪のように醜悪なものと美が混在していたのも事実なのである。圧倒的に醜悪な陰惨なものであったがその中に津浪のプラスの面もあったのである。これも事実だったのである。だから津浪には海を浄化する作用があったということである。それは原発事故の悪を暴いたと同じではないか?おそらく津浪がなかったらこんな巨大な悪は暴かれることはなかったのである。検察までかかわり巧妙に絶対的権力で隠蔽されていたからである。だから朝日新聞さえ東電からかなりの宣伝費をもらっていたのである。これは戦争中と同じだったのである。日本が原発で大政翼賛会になっていたのである。創価などのカルト宗教団体もそうだしあらゆるものがそうだったのである。金が入れば利権になればと原発を推進してきたのである。それは地元の人でもそうである。国民も戦争に熱狂的だったとか言われるのと同じである。こうなると事実であっても隠蔽されるから本当のことはもう闇の中になり突然今回のような事故で明るみに出される。それは人間の力ではない、自然の力というか神の力さえ感じた。

津浪は海上では青かった。ところが陸地に入ってくると黒くなっていたのである。まさに人間の住む陸地に向かったときどす黒くなった。これも意外だった。津浪は海上から黒いと思っていたからだ。まさに腹黒いという表現がひったりである。人間界は腹黒いやつで一杯なのである。


外洋の津波の色は、青いのです。
だから、黒い津波は、人間の色。
人間は、たぶん腹黒い。


津浪とはだから自然の浄化作用という側面もあった。今回の津浪が想定外というときこれも人間の奢りを打ち砕いたのである。このプログの記事は漁師だから海を津浪を良く冷静に観察していたのである。一般には津浪を冷静に観察できない、津浪に対する憤りに満ちていたからだ。
津浪は大きな人間の想定を越えた自然の作用であった。そして神からの警告でもあった。原発のようなものを日本のような地震国には作るなという警告であった。でもまたこの警告は忘れられようとしている。

 
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2013年03月10日

鴨長明「方丈記」を読む この世には災難は常にあり無常の世であることにかわりなかった


鴨長明「方丈記」を読む

(この世には災難は常にあり無常の世であることにかわりなかった)



ゆく河の流れは絶えることなく、しかも、もとの水ではない。そのよどみ[流れずに留まっているところ]に浮かぶ泡沫(うたかた)[泡沫。水上の泡のこと]は、あるいは消え、あるいは結びつき、久しく留ったためしはない。世の中に生きる人と住みかも、またそのようなものだ。


 玉を敷き詰めたような都(みやこ)のうちに、棟(むね)を並べ、軒(のき)を争うような、高貴なもの、貧しきものの住まいは、世の移り変わりにも、尽きることはないが、それが真実(しんじつ)かと尋ねれば、昔からある家は稀(まれ)である。ある家は去年焼けて、今年造り直す。あるいは大きな屋敷も、小家へと移(うつ)り変わる。住む人もこれに同じ。場所も変わらず、人も多く見えるが、かつて顔を見合わせた人は、二三十人がうちに、わずかにひとりふたりしかいない。朝(あした)に死に、夕べに生まれる人の営みは、ただ水の泡沫(あわ)にこそ似たものであろうか。


あるいは煙にむせながら、倒れてはうつ伏せになり、あるいは炎(ほのお)に目がくらんで、たちまち死んでしまう。あるいは自身だけは辛うじて逃れるものの、資財(しざい)[財産や宝物など]を取り出すことは適わず、七珍万宝(しっちんまんぽう)[あらゆる宝ものの例え]は、まるで灰燼(かいじん)[燃えた灰や、塵、燃えかす]のようになってしまった。その値(あたい)、いったいどれくらいであろうか。

このたび、公卿の家は十六も焼けた。ましてその他は、数え知ることさえ出来ない。すべて合わせれば、都(みやこ)のうち、三分が一も焼失したという。男女(だんじょ)、死んだもの数千人、馬や牛などにいたっては、際限さえ分からない。


京の慣習、何を行うにしても、もともとは田舎をこそ頼みとしているのに、それさえ途絶えて、のぼり来る物さえなくなれば、どうして体裁を取りつくろっていられようか。神に念じつつ、悲嘆に暮れながら、さまざまの財(たから)さえ、片端から捨てるように売るが、それに関心を持つ人さえいない。たまたま換え得たとしても、金の価値は軽く、粟の値段ばかりを重くする。乞食(こじき)は道のほとりにあふれ、憂い悲しむ声は、耳に響き渡った。


死者の数を知ろうとして、四月から五月にわたって数えたところ、みやこのうち、一条大路よりは南、九条大路よりは北、京極(きょうごく)大路よりは西、朱雀(すざく)大路よりは東の、道に横たわる頭(かしら)、あわせて四万二千三百あまりにもなったという




今回の津浪原発事故ほどまた無常を感じたことはない、この無常は自分の身内の認知症にも感じた。この六年間は一身上でも無常と苦難の連続だった。自ら病気にもなったしその中で親の介護をしなければならなかった。身寄りはなく助けもなかった。ただ弱みにくけこまれ犯罪にあい弱者としていじめられた。人間の非情もいやというほど体験したけどまた自然も非情であり無情だった。津浪ほど自然の無情を示したものはなかった。


そのよどみ[流れずに留まっているところ]に浮かぶ泡沫(うたかた)


人間は津浪にのまれ泡のように多くの命が消えた。日本では洪水も多く水の災害が多い。津浪も水の災害だった。


昔からある家は稀(まれ)である。ある家は去年焼けて、今年造り直す。あるいは大きな屋敷も、小家へと移(うつ)り変わる。住む人もこれに同じ。場所も変わらず、人も多く見えるが、かつて顔を見合わせた人は、二三十人がうちに、わずかにひとりふたりしかいない。

これも全く津浪で現実化した。また原発事故でもそうなった。大きな屋敷も、小家へと移(うつ)り変わる・・・・これは仮設住宅のことである。田舎ではみんな大きな屋敷に住んでいたのである。それが狭い仮設に住むことになった。この変化も大きいのである。

この辺では壊された家が多い。こんなに家が壊されてゆくのかとも思った。今もまた一つ近くで家が解体される。家の解体は無料になるのでこの辺では多くなっている。更地になったところが多い。一方で津浪などで家をなくした人が家を建てている。その数は壊された家より多くなっている。これも大きな変化である。住む人も本当に変わってしまう。今まで住んでいた人も今はどこに行ったかもわからない、いづれ自分の家もそうなってしまうのだろう。


資財(しざい)[財産や宝物など]を取り出すことは適わず、七珍万宝(しっちんまんぽう)[あらゆる宝ものの例え]は、まるで灰燼(かいじん)[燃えた灰や、塵、燃えかす]のようになってしまった。その値(あたい)、いったいどれくらいであろうか。


これも津浪でまざまざと見た。ここに別荘が建っていて1200万で売っていたな、でも流されて一文にもならなかった。ここにもう家を建てる人はいない、家そのものより町自体が喪失する、なくなるということも見た。ただその前に茫然としているほかなかった。それは今でもつづいている。津浪の跡に家は建たないし更地のままなのである。こういう場に直面した人はただ茫然自失するほかなかったのである。こんなことがありうるのか?これは夢ではないかと夢うつつになってしまった。事実を事実として認められなかったのである。素寒貧になり命だけ助かったなど川柳に読んでいたがそんな余裕ある心境ではなかった。

今までもっていたものをすべて失った人もいた。家族を失い家を失いその人は自殺した。それほど悲惨なことだった。損得の勘定をしているような状態ではなかった。ただ自分は命があったということであり死んだ人は無数にいた。家族を失った人はそのことを痛切に感じているし今も同じである。こういうことはいくら話を聞いても被害にあった人しかわからないものである。同情するにしてもお前は口だけだとか言われるだろう。俳優で泣いてみせた人がいたが俳優だからあういうこともできる。とても家族を失った人の悲しみはその人しかわからない、またそれぞれの自分の悲しみも苦しみも他人にはわからなかった。要するに相手の苦しみ悲しみはいくらひどくても他人事になるのだ。


京の慣習、何を行うにしても、もともとは田舎をこそ頼みとしているのに、それさえ途絶えて、のぼり来る物さえなくなれば、どうして体裁を取りつくろっていられようか。神に念じつつ、悲嘆に暮れながら、さまざまの財(たから)さえ、片端から捨てるように売るが、それに関心を持つ人さえいない。たまたま換え得たとしても、金の価値は軽く、粟の値段ばかりを重くする。乞食(こじき)は道のほとりにあふれ、憂い悲しむ声は、
耳に響き渡った。


京都ではやはり食糧を田舎が供給していたから田舎を頼みとしていた。金の価値より食べものの粟が高くなったというのは戦争中と同じである。農家に高価の衣服をもってわずかの食糧と交換したのが都会の人だった。実は津浪の災難でもそれとにたことは何度も歴史上で起きていた。ただ戦後60年間は平和であり繁栄の時だったから忘れていたのである。戦争の苦難も3百万人以上死んだのも歴史的には最近のことだった。その生き残りもまだまだいる。そういう話を聞くのだが自らが苦しみにあっていないからよそ事になってしまっていた。3百万人以上死んだといっても実感をもてないのだ。
人間は自ら苦しまない限りその苦しみを自分のものとしてみないのだ。


NHKの特報首都圏という番組で、東京大空襲の戦災孤児の体験談のレポートがありました。
 あの夜、10万もの民衆が死に、同時に12万人もの孤児が生まれた。彼らは、暖を取るために死者の墓標を抜いて燃やし、食い物を盗んで飢えを凌いだ。街娼として町に立つ友達を見て驚き、疎開先でも孤児たちは邪険にされ、「犬小屋」と書かれた教室で学ばされた。
http://eiji.txt-nifty.com/diary/


こういう悲惨なことがあってもすでに忘れている。犬小屋というときやはり原発避難民のことを書いたがこれ異常に食う食わずの人たちがあふれ苦しんでいたのである。現代はあまりにも恵まれているが故に差別が生まれた。人間はそうした歴史的には人災もあり自然災害もあり百年単位とかになれば常にそういう苦しみを受けてきた。ただ平和がつづいたから忘れていたのである。人間の社会はこの世は無常だというとき常に言われてきたことである。それを津浪や原発事故でこの辺では苦しむ結果となったのである。無常こそこの世であり変化がこの世でありそれを否応なく思い知らされたのである。


財産に頼ってもその財産を失う、家族も失う、町自体がなくなるということは想像もつかなかった。市町村すらなくなってしまうことがあるという驚きだった。遂には国すら地球すらなくなってしまうという黙示録の恐怖に通じる。この世にあるものはみな変化し今日あるものは明日はないというまでになる。老人になれば本当に今日あっている人が明日は会わないということが実感する。だからこの世であった人はその人が悪人でもあっても縁がありこの世での何らかの定めだったかもしれないとも思う。これは例えは相手を憎んでいる人でもそうである。憎んでいる裏返しは愛しているからでもある。憎しみ合っても最後になると実は愛しているからだったとまでなる。無関心だったら憎みも愛しもしないからた。だから憎む人があったらそれなりにその人と縁があり愛の裏返しだったともなるかもしれない。


つまり世の中に生きるということはただこうして一時のことである。恨むも憎む愛すもそうである。たちまち人はこの世から消えてなくなる。「さよならだけが人生だ」に本当になるのが人生だった。そういうことが津浪でまざまざと現実で見た。常にそういうことは言われてきてもこれだけ大規模に無常をみることはなかった。でも戦争ではそうだったしそれは60年前がそうであり戦争を体験した人はこんなことは別にありうるから驚かないというのも本当だろう。こういうことを経験していない人はこれは何なのだとなるだけなのである。この世にはこういうことが無常が起きてくる。人災の戦争であれ自然災害であり常に起きてきたのである。人間が死ぬということから見ればこの世はすべて無常になる、虚しいとなるのだ。そういうことを具体的事実として示されたから驚嘆した。それは別に一身上でもすべての人に死がありすべてはただ無常と化してゆく。それが人間の変わらぬ現実であった。そこに宗教が生まれたのである。だから今回は災害のあった地域では宗教の発心が生まれやすい、無常を感じる時宗教を求めるからである。ただ葬式仏教とかカルトでは救いにならない。そういうところは宗教と何の関係もなくなっている。


戦争中の苦難と今を比べるとずいぶん楽だなともなる。でもそういう比較はまた時代が変わるから簡単にはできない、そににしても戦争中の苦難と比べれば楽だなともなるだろう。飢饉でも今日食べるものがないという切迫感の中に生きていたし現実に飢死した人が無数にいたのである。だから今回の津浪原発事故は過去に起きた受難の歴史を思い返す契機になったのである。

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2013年03月07日

仙台市周辺の津浪被害の大きかったのはなぜ? (災害地名、津波被災地に「浜」「浮」- 宮城県多賀城市)


仙台市周辺の津浪被害の大きかったのはなぜ?

(災害地名、津波被災地に「浜」「浮」- 宮城県多賀城市)
http://www.chunichi.co.jp/article/earthquake/
sonae/20130121/CK2013012102000078.html

別にこれが災害地名ということはない、思うに日本は災害列島であり地名自体の半分くらいが災害地名になってしまう。鹿島区の浮田などもそうなってしまう。浜などという地名はいくらでもある。
ただ多賀城市では末の松山の歌が貞観津浪から発していたというのは本当なのだろう。現実に今回も波は越さなかった。そこまで逃げて助かったという。ただなぜ宮城県の被害があれほど大きくなったのか?それは現代的なものがかなりあった。宅地造成が海の方に向かって急速に広がったことである。仙台市の周辺、郊外に住宅を求める人が増えたのである。山元町は仙台から遠いが仙台の通勤圏であり今回の津浪で駅まで流された。駅前に新興の住宅地があった。その辺に元プロ野球の選手の家もあった。仙台市の影響は福島県でも岩手県でも拡大している。東北の中心都市だからそうなる。


仙台空港が名取にあり電車で空港まで行くが名取まで仙台市のように見えた。家が仙台から密集しているからだ。名取や岩沼は仙台市の一部のように見えた。石巻まで行く仙石線でも野蒜辺りでも仙台の郊外の住宅地であった。元から住んでいる人たちではない、仙台市が拡大化して住宅が増えたのである。だから勤め先は仙台であり仕事は仙台だから失っていないという。石巻辺りでは水産関係で仕事自体を失った人たちが結構多いのとは違っていた。石巻と仙台周辺の相違は石巻はまだ地元志向土着的なところがあった。だからそこにはボランティアが商店街でもとぎれなく来ていたという。一方多賀城など仙台の周辺化した土地にはもともとそうした土着的志向がない土地でありイオンとかマガドナルドとかヤマダ電気など中央資本の建物が多かった。それらが津浪の被害を受けたけどボランティアは来ていなかった。多賀城では海が意識されなかった。家が密集しているから海も見えないしなぜあそこに末の松山があり波こさじなのか他からきた人はわかりにくくかった。でも砂押川をさかのぼって津浪が押し寄せ被害があったのである。海に近いところだった。多賀城からフェリ-乗り場に行ったことがある。海は確かに近かったのが意識されなかった。


仙台市周辺の津浪被害も大きかった。新興住宅地が海岸の方に広がったからだ。そこで学者が津浪の危険があると忠告したら不動産屋が脅してきたという。土地の値段が下がると心配したためである。ここにも常に利益優先社会の弊害があった。山側でも地盤が軟弱なとこがあり地盤が地震で崩れた。千葉県でも液状化現象が起きた。そこはもともと沼地だった。日本にはもともと沼地とか湿地帯の所が多かった。実にそういう地名が多いのはもともと湿地帯だったからである。海岸地帯は特にそうだった。日本が災害列島だというときそれは日本の地形がもともとそうだった。平地が限られていて住む場所も山とかであり平地が少ないから海側に開拓するようになった。仙台平野も開拓してあれだけ広い地域を水田にしてその米を江戸に運んだ。もともとは湿地帯であった。

そういう所が日本全国いたるところにある。海に囲まれて平地がないから当然そうなる。南相馬市鹿島区の八沢浦は明治になって開拓されたものであり井田川浦も大正になって開拓された。土地がないから海側に土地を求めて稲作地帯を人工的に作り出したのだ。それで塩害をふせぐために松原を作った。それは白砂松原の風景として人工的な日本の美を作りだした。それは自然の風景ではなかったのだ。日本という国はとにかく平地が少ない、だから人口を増やすためには絶えず江戸時代から新田開発をしてきた。農業中心の社会だから土地がなくては農業はできないからだ。それで満州に憧れたのはとてつもない土地があってそこで農業をしようとしたことにあった。あの寒冷地帯で米を作ったことでもわかる。土地がないことが戦争の原因にまでなっていたのだ。


今回の津浪被害ではいろいろなことが問われた。その大きな問題の一つが自然条件を無理して人工化したことによって津浪の被害が拡大した。もともとあった自然条件を無視したことが自然からの反撃にあった。縄文時代海だったところ万葉時代までこの辺では塩崎まで海だった。その範囲は非常に広いのだ。そこまで海だったことが津浪で再現したのである。だからそういうもともとあった自然条件を無視した開拓でも宅地造成でも自然からの反撃を受けた。ただ無理といえばそもそもがこれだけ巨大な文明化したこと自体、自然の法則に反するものであり無理だったとなる。エネルギ-でも石炭でたりない、石油でたりない、原子力だとなった。それ自体無理をしていた。無理をしなければ文明を維持できなくなっていた。東京のような一千万都市をどうして維持できるのか?東京の都市を見たら目眩を起こすだろう。そういう巨大都市が世界にいくつあるのか、それだけで空恐ろしいともなる。それらの人間を食べさせエネルギ-供給すること自体限界を感じるのだ。


今回の津浪原発事故で文明の崩壊現象のようなものが現れた。全然復興が進まないというときそれは一地域の力ではどうにもならない、文明的広域の崩壊現象が現れたためである。グロ-バル化社会でもギリシャの財政破綻が世界恐慌になるとか騒がれた。世界は経済でも一体化しているからギリシャの経済破綻でも世界的に影響する。そういう巨大文明の崩壊現象があり復興か容易ではないというのも本当だろう。

自給自足の社会だったらもともと何もないのだからその土地にあるもので生活していたのだから復興は容易なのである。海岸でも津浪の被害にあっても掘っ建て小屋のような家に住み港もなく地引き網のような漁業をしているなら復興も楽なのである。巨大なインフラを復興させる必要もないからだ。巨大化した文明は災害にかえって弱いのである。石油が配達されなくなり車も使えなくなる。電気もきれたら燃料もない、水道も使えなくなる。その時、山の清水や井戸の水を使い裏山の薪を燃料としてしのいだ人たちがいた。水を歩いて運んでいたのである。自給自足の昔の生活にもどったのである。こういうことは牡鹿半島などではできた。大都会では水道も電気も石油も運ばれなかったもうどうにもならなくなる。そういう恐怖が大都会にはあるのだ。石油コンビナ-トととか燃えるものがありそれらが火の海と化してゆくのを見た。東京辺りだとこれ以上の災禍が襲ってくる。もう手をつけられない、恐るべき崩壊現象が起きてくる。そしてそこから復興するのにはまた今回の津浪原発事故と同じ様に簡単には自給自足の社会のようにはできなくなるのだ。だから巨大化した文明はバベルの塔のように崩壊する恐怖がある。文明自体の崩壊である。最後に生き残るのは自給自足していた人たちであったという皮肉がうまれかねない、そういう恐るべき経験を今回の津浪原発事故でしたのでありそれは今もつづいているのだ。
 
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2013年03月05日

春になる八沢浦の変化 (変化しつづける津波の跡の風景)


春になる八沢浦の変化

(変化しつづける津波の跡の風景)

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争うや東風(こち)に北風浜通り
東風吹いて海に向き立つ観音像
津波にも残れる家に猫柳
春日さし残れる家のなごみかな
津波跡沼の二つや冬の暮
松二本寒の戻りや八沢浦
沼の岸冬芒かな松二本
春北風(はるきた)や坂越えて来る街中へ
喫茶店相馬に来て春の雲


八沢浦海鳥飛び来ぬ春の朝雪の残れる遠山を見ゆ

八沢浦寥々として松二本残りてあわれ春北風(はるきた)の吹く
八沢浦二本の松や春来るも悲しみ深く二年の過ぎぬ
松が枝折れてとまれる烏二羽津波の跡や海老の浜かな

春北風(はるきた)に森の騒ぎて城跡や津波の被害のなお癒えざりき

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パノラマ写真


海老浜に海を向き観音像が建てられた。慰霊の像として建てられた。津波観音ともなる。他でも津波で死んだ人を供養するものが建てられているだろう。おりしも今日は朝に行ったのだが最初は東風だった、やはりこれくらいあたたかくなると東風は吹くし3月になれば東風が吹く度合いが増えてくる。今年は寒かったがそれでも今日は本当にあたたかい、東風を受けて観音様が海を向き立っているのもにあっている。巨大な観音様が各地に建てられているがそれはあまり意味もない、観光のために建てられていた、客集めのために建てられていたのである。そういうものには意味がない、金をかけても意味がない、この観音様はそういうものとは違っている。津波で死んだ人たちを弔うという人々の祈りがあって建てられたものだからである。だからこの観音様には津波で死んだ人たちの霊が宿るともなる。今回の津波で死んだ人たちをどう供養していいかわからないということがあった。これは一つの供養となるだろう。津浪の被害の記念碑なのである。それは末長く語り継がれるものである。

ただ人間は忘れやすいのである。四〇〇年前の慶長地震の津浪も今回と同じ様に大きかった。それを記念した津神社が相馬市の松川浦にも鹿島区にも原町区の小沢辺りにもあった。でも忘れてしまっていたのだ。何の謂われある神社かからなくなっていたのだ。やっぱり四〇〇年となると長い、これから四〇〇年すぎたら一体この辺はどうなっているのか?これも想像もつかないのである。


松が倒れた折れた枝に烏が二羽とまっていた。何か絵のようである。未だに津浪の跡の不思議な光景がつづいているのだ。八沢浦はまた変わっていた。二本の松が支えあうように立っている。道は新しくなった。一時あそこに自衛隊が鉄の橋をわたしていた。今はきれいな道路となった。八沢浦の海岸に近いところに何軒が家があったがあそこは一番危険だった。高潮で潮水に浸されたのは最近だった。そういう危険な場所だった。海老浜は高いからそういう危険を感じなかった。八沢浦の被害は海老や烏崎や磯部のように凄惨なものを感じなかった。実際は死んでいる人がいるのに何だ、美しい入江が蘇ったということで批判してきた人がいた。確かに死んだ人がいたが八沢浦の被害は大きくなかった。ガレキの山ともならなかった。意外と近くの家でも被害が少なかった。津浪が見えてから後ろの山に逃れて助かった人がいる。百メ-トルくらいしかない感じでも被害が少なかった。地形に影響されたのである。前に山がありそれで津浪の力がそがれたのだ。津浪は地形の影響が大きいのである。前に何も障害物がなければまともに津浪を受けて磯部のように壊滅した。

春日がさして残っている家を見てほっとした。津浪が来てから家でも見方が変わった。残り谷(家)という地名が残ったように津浪は根こそぎ家が流されて死んだものと家も残り家族も助かった人との差が大きいのである。一方はすべてを失い一方は助かったとなる。

八沢浦はもともと入江だった。明治になって開拓された。だから自分は不遜でも津浪のくる前からここが入江だったらどれだけ美しいだろうと想像していた。ここは狭いからイメ-ジしやすかったのである。右田から烏崎から大内から塩崎まで潮水に一時おおわれて海になった。これだけ広いとイメ-ジしにくいが万葉時代は海だったのである。その名残として八沢浦は明治まで残っていたのである。だからここが本当はかなりの名勝の地でありみちのくの歌枕の地だった。

ここはそういう美しい場所だったし開拓されてからもそういう面影は残っていたしイメ-ジできた。ただ人間の想像力には限界がある。今回の津浪で実際にかりてり奥まで水にひたされたことには驚いた。奥深い入江は四国や瀬戸内海にはあるが福島県にはなかった。いつも荒い波がうちつけていたので入江が生まれ春の光に波が光って岸辺に打ち寄せたのを見たときは信じられない、奇跡のようだった。ここはガレキの山になっていなかったのだ。だから批判はあってもそういう美しいものが再現されたのも現実であり津浪の一面だった。津浪が美しかったなどと報告している人はいないし写真もほとんどない、ただ凄惨な場面ばかりだった。だから津浪にも死者が出ても美しいものが再現したのである。それでこの八沢浦に残された古歌をリアルに鑑賞できた。


八沢浦八景


八沢浦の夜雨 磯桜八沢が浦の夜の雨に浪のうきねを明かしかねつつ

遠山の暮雪 高瀬さす八沢が浦の夕波に色をみだせる雪の遠山
行沼(なめぬま)の晩鐘 行沼の蘆の間ひとり歩み居ればあわれいづこに入相の鐘


津浪で蘇ったみちのくの歌枕-古歌
http://musubu2.sblo.jp/article/54362194.html


磯桜ということ自体、ここが入江でなければでてこない言葉である。入江にさざなみのうよに浦波がよせてきて磯桜がある。浦波はこの辺では見られない、入江の穏やかな波は見られない、荒波がいつも打ちつける荒寥とした風景だった。遠山の暮雪にしても朝に雪が遠山に残っていた。

八沢浦海鳥飛び来ぬ春の朝雪の残れる遠山を見ゆ

この山影が入江に写るからまた絵のように美しいものとなっていた。 夕波がたって色がみだれたというのはまさに雪の遠山に帰ってきた舟によ写った影がみだれたのである。行沼の晩鐘というのも
沼になっていたことでリアルにイメ-ジできるようになったのである。

ともかく今日は海から東風が吹いてきた。それからすぐに春北風(はるきた)になった。春北風は春の光のなかに吹く比較的あたたかい風である。今の季節は二つの風が交互に吹く、最後は相馬の城跡を回って帰ってきた。この辺は何か津浪原発事故で戦争のようにもなった。浪江が小高の出城が落城したようになり相馬の本拠地の城が最後の守りの城となった感じになる。小高の人が帰りたくないというときやはり浪江が封鎖されているからその影響もある。
この津浪原発が一段落するのには十年はかかる、神戸でも十年かかった。もう十年は帰れないとか覚悟するほかないのだろう。十年たって何かやっと十年一昔で落ち着くのではないか?そのくらいの大災害だったのである。
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2013年02月27日

津波の跡の松二本(詩) (二年過ぎようとする南相馬市に住む心境)


津波の跡の松二本(詩)

(二年過ぎようとする南相馬市に住む心境)


一瞬に家は津波に流され
未曾有の大雪に埋もれ
砂漠の砂に埋もれ
人の記憶は消えぬ
大いなる自然の力
人の奢りは打ち砕かれぬ
一世すぎまた一世
人の記憶はただ忘却の中にあり
皓々と寒月照らし
津波の跡に残る松二本
人のなおここに生きむとするや
仮設に盆栽の手入れ
冬の灯あわれ二年過ぎむ
昔の街道の細道
古き碑の傾き何語る
そも忘られんとするや
今年はなお寒々として
春はまだしも
相馬の城跡へ行くや
相馬藩の要にこそあれ
この危機にこそ要なれ
野馬追いに再興の願いかな


すでに津波原発事故から二年過ぎようとしている。でも復興はほとんど進んでいない、陸前高田市で残った一本の松に今回の津波は象徴されていた。この辺では何本か松は残っていた。陸前高田市では土地の個々人の権利が問題になっている。そういう権利を放棄しない限り新しい街作りはできないというのも本当である。この未曾有の災害は個々人の財産も吹っ飛んでしまったという恐怖だった。
着の身着のままで家も何もなくした人もいる。家族すらみんななくした人もいる。その衝撃があまりにも大きすぎたのである。津波の衝撃は大いなる自然の力を神の力を知らしめられたのだ。
科学文明が高度に発達して人間は奢っていた。原発でもそうだった。神の力を手に入れたとような錯覚に陥っていた。神は全能であり人間の力はそれには及ばない、そこで神の力が人間を砕くのである。それは世の終わりかと思ったほどの恐怖だった。

二年すぎてもこの辺は原発事故の混乱も治まっていない、ただ仮設でも何かなじんできたというのはある。でも仮設には生活感がない、わずかに盆栽を仕入れしている人がいて感じる。でもそれは趣味であり生活ではない、あとはただ補償金でのうのうと暮らしているとなり外から今や同情されていないのも変化である。南相馬市だと相馬藩内だしその最期の砦として相馬の城があった。相馬市は平常に機能していることは大きかった。そこから野馬追いも平年通りに行われるというときやはり野馬追いを通じて一体感がもてるということはある。


いづれにしろ人間の記憶は消されやすい、津波もまた人間の記憶を消してしまうという衝撃だった。残ったのは土台だけだった。災害がなくても人間の記憶は消えやすいのだ。だから津神社が津波を記念したものだったということさえわからなくなっていた。神社にはいわれのわからないのが結構ある。何か記念したものであっても理由があってもその理由もわからないのである。人間は一人一人が死んだ時点で急速に忘れ去られてゆく運命にある。60すぎたりしたら次から次と死んで行くからいちいち関心がもてない、有名人でもそうである。あの人死んだこの人死んだと次々と死んでゆくとそんなに人に関心がもてないのだ。そしてまた次々に若い人がでてくるからこれも何者なのかわからなくなる。だんだん年とると認知症的になるのだ。つまり強烈に記憶されたものは思い出すがあとは記憶すらされなくなるのだ。


今年は寒いから3月11日になっても東風が吹かないかもしれない、東風はやはり春を告げる風でありこういうふうに寒いと吹かないかもしれない、今年だったら飯館の方に東風が吹かず放射能が拡散しなかったかもしれない、北風だったら海の方に流れた。海沿いは放射能が低いのは海に流れたからである。飯館村は悲劇であり不運だった。恨みの東風だったのである。

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2013年02月10日

津浪から二年過ぎようとして感想の短歌十首 (二年過ぎて現実感がひしひしと迫る)


津浪から二年過ぎようとして感想の短歌十首

(二年過ぎて現実感がひしひしと迫る)


一瞬に奪われる命いづこにや嘆けどなきや波の音ひびく

なお消えぬ傷痕深く津浪跡家しも建たず土台のみかな
形見にそ残れる松の凄まじく海に向き立ち海し離れじ
なお海に生きむとするや若者のよそより来つつ根ずかむとす
恐ろしき津浪にしあれその記憶大地に留め消えざりしかな
大いなる海の力を知らしめぬ傷跡消えじもなお生きるかな
鎮魂のいかにあるべし術もなく津浪の跡や二年過ぎなむ
一瞬に奪う命や何故に天も恨みぬいやさざりけり
一瞬に奪う命や短きに世は変わりゆく無常なるかな
地名より人の命の短きに世は変わりゆく無常なるかな
人の世の栄は一時消え失せぬ津浪の跡の寒の月かな


津浪というのはまず普通の感覚では想像しえないものであった。最初はこれは何なのだとか現実だと思えなかった。夢のように思えたのである。それはその後も長くつづいた。今でも何か現実に思えないところがあるのだ。津浪の恐怖は一瞬にしてすべてを失うということである。家も家族も失って土台しか残っていなかった。そんなことがありうるのかと別に家族を失った人でなくても現実のように思えないのである。津浪はだから普通の台風とかの災害とは違う。一瞬にして村や町自体すら消えてなくなるという恐怖だった。こんなことがありうるのかという恐怖が未だにある。
最初は津浪から原発事故が重なり本当に世の終わりが来たかと思い震撼とした。
ともかく原発事故で町ごと避難した人たちでもこれは何なのだという現実感をもつことがむずかしいのではないか?今でもそうではないか?そういう戸惑いのなかにまだあるのではないか?
そのことが復興へ向かわないものとなっている。何をどうしたらいいのかという明確な指針が得られないのである。


ただ二年過ぎようとして何か現実感がでてきた。三陸では他から来た若者が地元の人たちと一緒になり海産物屋で働きここに定住しようとしている放送があった。大工の人も関西から来て地元の人と結婚した。新たな段階に入って津浪の被害から現実的に厳しいが立ち向かうという姿が見えた。でも町自体が崩壊しているような状態で人も流出しているからこれからどうなってゆくのかかなり厳しい道のりになる。ただもう夢のようだとか言っていられない、現実を見据えて立ち向かわねばならない状態になってきている。

津浪で死んだ人の鎮魂ということも一瞬にしてこれだけの人たちが死んだということが何なのか?
どう対処していいのかわからないのだ。それは家族の一人が死んだとか一家族の問題でもない。
神を恨むとか天を恨むとか言っていた人もいるけどその気持ちもわかる。一瞬にして無惨にこれだけの人の命も財産も奪うということがあまりにも無情、非情だったのである。
そして人間の命は地名より実にはかない、地名でも千年とか前からあるものが普通にある。
人間で何か残るかとなると名前すら残らない、名前が一行でも残っているのはいい方である。その名前しかわからないのが無数にある。その名前をいちいち気にしてその人を考える人もないのだ。
地名はその土地に長く記されているから人間より寿命がはるかに長いとなる。


そして明かに大地に津浪の痕は刻まれていた。地層に残されていたのだ。400年に一回しか来ない津浪でも地史的に見ればそれは規則的なものであり大地に記される。最近貞観津浪でも慶長津浪でも地層を調べてその痕が大地の残されていたのだ。そのことを東電に忠告しても聞く耳をもたずだった。相馬でもその地層が発見されていて自分も時事問題の深層に書いていた。これは実はもっと注目すべきことだったのである。本当に相馬でも奥まで津浪がきていてその痕跡が発見されていた。
それを大々的にとりあげる人もいないし考える人もいなかった。
仙台の不動産業者が海の方に開発した宅地などの価値が下がると津浪のことを警告していた学者を脅迫していた。この体質は東電と同じだった。ただみな利益だけをがむしゃらに求めて他は見えなくなっいた。そのことはみんながそうであり400年前のことなどもちだすな、まして千年前のことなどもちだすなとかなっていた。それは人間の奢りだった。


今回はそうした人間の奢りが打ち砕かれたのだ。津浪の防波堤にしてもあれだけ高くしたから安全だというのが奢りだったのである。自然の力は人間の知を越えていることをまざまざと見せつけられたのである。自然は人間の力で計ることはできない、計られるているのは人間の方だったのである。神の力は計ることはできない、人間は計られている存在なのである。科学がこれだけ発達したから科学者の奢りもあった。原発事故でも百万年に一回しか事故は起こらないと真面目に言っていた。これも科学者の奢りだった。科学者は神の力を手に入れたようにおごるようになっていた。今一番崇められているのが科学者であり医者とかでありその人たちはやはり何か奢りがあった。謙虚さを失っていた。人間で一番恐ろしいのは奢りである。それが人間自体もこの世自体も滅ぼすのである。

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2013年01月25日

なぜ津浪の被害のある海岸沿いに人は住んだのか? (海の幸があり海民として港での貿易があったから-相馬藩の場合)


なぜ津浪の被害のある海岸沿いに人は住んだのか?

(海の幸があり海民として港での貿易があったから-相馬藩の場合)

●海岸は古代中世でも人が住み着く機能があった


今日もコンビニの前で88才の地元の老人と話した。なぜ海老村でも烏崎村でも磯部村でも原釜村でもあれだけ人口が集中したのだろうか?そして今回のような津浪の被害にあったのか?それはここだけの問題ではない、今回の津浪の被害にあったところではそれが研究課題となった。三陸などは度々津浪に襲われているのだから石巻や多賀城や名取から福島県の浜通りとは違っていた。百年前にすでに大きな津浪がありそのことは知っていたのにあれだけの被害があったのである。まずこの辺では津浪について語られたこともないし伝説も聞いたことがない、ただ一行相馬藩政記に慶長津浪で700人溺死と記録されていただけだった。それは一行でありどういう状態だったのかも記録されていない。それで今になって津神社が津浪の記念として建てられたものだと言うが「本祠小祠の研究」岩崎敏夫著にも津浪に由来したものだと書いていない。鯨が打ち上げられたとか謂われを書いているが津浪だとは書いていない、津神社は海岸沿いにあった。烏崎にもあったがそれは鯨の祭りがされていたし金比羅とか鯨の碑があった。何らか鯨に関係しているものとされていたのである。ただ津浪という言葉は400年前の慶長地震の時生まれた言葉だから津神社というのが津浪に由来されるというふうに今回の津浪でされた。でもこれまでは津浪に由来していると地元の人も思っていなかったからこそ鯨の祭りをしていたのである。いかに慶長の津浪が大きな被害を与えていても忘れられていたのである。


今回の津浪で疑問だったのはなぜ人々は海岸に接してあれだけ人家が密集して住むようになったのかということである。おそらく慶長津浪の後にも人が海岸に接して住んで人口が増えたのである。普通だったらそれだけの被害があると住まなくなる。それはやはり海岸は海の幸がありそのためにやはり住みつづけて人口が増えた。三陸ではやはり海の幸が牡蠣でもノリでも貝でも豊富だから津浪の後にも人が帰ってきて同じ様に人口が増えていった。今回の津浪でも三陸ではやはり海の幸がなくなったわけではないからそこに外部の人も交じり若い人でも住む人がいるのだ。特に400年前となると人口を増やすのには海へ出ることが不可欠になっていた。農民ではなく海民が生まれたというのは確かなのだろう。それで小高の村上に貴布根神社を祭り相馬藩の城を作ろうとしたのか?今からするとその理由がわからないがやはり塚原に港があり海への交通があった。それで海に開ける城を作ったとなる。城主が瀬戸内海とかを実際に見て海に接して港の機能のあるところに城を築こうとした意図がわかる。ただそういう海に関する資料は埋もれて残らないからわからなくなる。特に港なども廃れると記録にも残らないし船の航行も残らないから海への視覚が欠落するのである。


●大内村は低地には人が住んでいなかった


南相馬市鹿島区大内村も被害が大きかった。でもあそこはもともとは山側に人家があり低地におりてきたのはあとのことである。低地の家は新しい家となる。前が湿地帯であり古代には海でありそれで曽賀船という地名が残っているのも不思議である。船がさかのぼってくる、入ってくるのがいつも見えるからそんな名前が地名化したというのも不思議である。実際に今度の津浪で古代が奈良から平安時代辺りの風景が再現されたことには驚いた。塩崎の船着とか市庭という地名がありそこまで津浪が押し寄せたのである。だから大内の前は湿地帯であり海であり人家は低地にはなかった。それで大内村と烏崎村の間に新田村として袋村があったが消えた。それはなぜなのか?これも謎なのだがおそらく烏崎村の方が海の幸を求めて人が集まり人口が増えた。もう一つは港の機能があり小高の塚原のようにそこに人口が集中した。なぜなら烏崎に浜町とあり町とは人がよそから集った場所だからである。町とは一区画の意味でありそこには商人や職人やいろいろな外部の人も集った場所だったのである。烏崎には鎌倉から来た岩松氏の伝承がありそこは町として発展した地域だったのである。海岸沿いはやはり原釜のように塩田があり海の幸があり人口が増えたのである。津浪があってもそうした海の幸はなくならないから当時は工業社会でないから幸があるところから離れられなかったのである。

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忘れられた海への視点
http://musubu2.sblo.jp/category/698208-1.html

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大内-烏崎村-浜町に人家が集中していた


●土地や田を与えて分家させた地名


福岡県には、この「〜丸」地名として、「太郎丸」「次郎丸」「三郎丸」から始まって、途中「七郎丸」「八郎丸」が他県なのを除けば、「九郎丸」「十郎丸」までそろっている。こうした地名は一般には、鎌倉時代にさかのぼる「名田」(みょうでん)の名残だとされている。
http://www.shochian.com/harubaru2.htm


福島県喜多方市四郎田
愛知県西尾市米津町五郎田
宮城県角田市藤田下六郎田
双葉郡葛尾村大字野川字六良田
東京都南葛飾郡八郎右衛門新田


墓地を見ると同じ苗字のもがあり分家したものだとわかる。そもそも分家するときは今なら財産として金を与えるが昔は土地だったのである。田を与えればそれで生活が成り立つから土地を分けることが分家であり人口を増やすことだった。昔は兄弟が多いから八郎まであるのが普通である。この辺でも五郎とか八郎という名前の人が普通にいる。子だくさんだからそうなった。その土地で暮らすには工場もない時代だから土地がないことには暮らしていけないからである。ただ農民だけではない、田畑を作るだけではない、海の幸を求めても人は増えた。港があり貿易があれば都市的機能が生まれ人口が増えた。それが海岸沿いに接して人家が増えた理由である。つまり確かに慶長津浪があっても海の幸があり現代とは生活も第一次産業が主体だから海から離れられなかったのである。400年に一回くらいの津浪だとまた海の幸があるからまた人が集り暮らし始めたのである。三陸とかではそうなっている。高台に移ったら暮らしにくいからまた海近くに戻り海の幸を求めて同じ様に生活がくりかえされたのである。現代の生活感覚とは相当に違っていたからだ。だから今回の名取とかの広大な田野が津浪に襲われたが伊達政宗は米を商品として江戸に船で運んでいたので津浪のあとも相馬藩からも開拓に入っていた人たちがいたのである。別に塩分化した田でも米は作れたのである。現代のようにもう高齢者しか農業をやらないから跡継ぎがいないから金にならないからやめるとはならなかったのである。結局慶長津浪ではかなりの人が死に被害があってもそこで暮らす糧があったから幸があったから前と同じ様に住み人口が増えた。そして津浪のことは全く忘れられていたのである。

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2012年12月07日

津浪の高さ1メ-トルか、それにしては大騒ぎ? (人間は何を信用すればいいのか?)


津浪の高さ1メ-トルか、それにしては大騒ぎ?

(人間は何を信用すればいいのか?)


●1メ-トルという数字にこだわる人間の心理


今日の地震は怖かった。揺れが長いし何か不安になった。すぐに津波警報がでた。南相馬市でも津浪注意報で高台に逃げてくださいと家のそなえつけのスピ-カ-から何度もアナウンスされた。その場所まで指定された。注意報でそれほどまでするのかと思った。海岸とか川には近づかないのがいいがそこまで避難せねばならないのかとなるとやりすぎではとも思った。やりすぎでもやはり地震が大きいからしかたないという意見も多かった。北海道から関東まで広範囲の地震だった。師走に日本列島が震えた。やはり自分の場合ガスに火をつけて味噌汁を作っていたがテレビで盛んに警告していたので火をつけていたのを忘れ鍋をこがし使いなくした。台所が離れているから別に地震でなくても忘れることがある。火はこうして地震のとき消せないことが多いのだ。特にガスは危ないとなる。


1メ-トルの津浪とNHKで盛んに言ったし現実に鮎川に一メ-トルの津浪が来たというしそれ以上のものが来るとも言った。でも一メ-トルだと恐怖感がまるでないのだ。3・11の津浪は6メ-トルだった。こんな数字を見たことがない、たいがい一メ-トルくらいで一メ-トル以下のが何十センチが多かった。6メ-トルは瞬間的に高いと思ったがそれでも反応しない人が多かったのである。6メ-トルは10メ-トルでもあったし実際は20メ-トルだったのである。なぜ反応できなかったのか?一メ-トルだったらわかる、6メ-トルは瞬間的にしても恐ろしく高い数字だったのである。なぜかわからないが津浪の数字など出さない方がいい、早く逃げろと言った方がいいとかいう人がいた。人間はなぜこういうとき数字にこだわるのだろう。文明とは基本的に数字から成り立っている。何でも数字で判断するのが習慣となっている。統計的にも常に数字が文明の言葉にすらなっているのだ。これが江戸時代やまして縄文時代とかなれば数字では判断しない、数字の魔術がありそれで見えるものも見えなくなっているのかもしれないのだ。


●数字の魔術に注意


例えば病気になってから新聞の死亡蘭を毎日見るようになった。そこで必ず50才でも60代でも死んでいる。一割は死んでいる。高齢化なのにこんなに死ぬのかと不安になるのだ。統計を見ると例えは65まで生きる人はすでに15パ-セントは死んでいるのだ。65までいきられなかったのである。
これが百人の15パ-セントは15人死んでいるのことなのだ。同級生で50人クラスだと6人くらい死んでいる。それだとたいした数ではない、でも百人になると15人でありこれが千人になると150人であり
百万人になると15万人死んでいるのだ。ええ、15万人も65になるまで生きられず死んだのかと驚くのだ。ここに数字の魔術がある。数字だけで判断すると何か具体的なものとかけ離れる場合があるのだ。現代文明は数字だけを追っている傾向がある。遂に人間は数にすぎないと文明批判した人もいる。個性はなく名前もなく数にすぎないとなる。現実的に文明はそうなって人間存在が希薄している。
名前すらなく数にすぎないとされる。選挙などもそうである。一票もしょせん数であり数で決まるとなり人間は一票の数にすぎない、それだけの価値しかないとなる。だから創価などでは選挙の一票としてしか人間を見ていない、どうしたら数を集めるしか頭にない、一票に結びつけばそれだけ権力をもつことができるからだ。それはどこの団体でもそうである。数を集めたものが民主主義では権力をもつことになるからだ。政治は金と数だと田中首相が言ったがそれが現実なのだ。


ただこの数字で何でも判断すると津浪さえ何かその魔術にひっかかり誤ることがあるのだ。1メ-トルというとき人間は不思議に1メ-トルにこだわる。やけに数字にこだわる。数字で判断するのだ。もし数字が出なければまた判断は違ってくるのだ。だからかえって数字を出すなという意見もあった。
6メ-トルでなくて最初に10メ-トルだとかなりのインパクトがあった。6メ-トルと出したことでそれでも避難しない人が多く死につながったのである。数字が生死を分けたことに驚いたのである。
津浪とか地震とかは数字で計れないものかもしれない、体感が大事だということもある。
機械に頼り機械の数字で地震の強度を判定して放送して失敗したという報告もあった。
体感的には3・11の地震は数字で計れずあとでマグニチャ-ド9にしたのである。
つまり体感ではなく機械を頼り数字を頼ることは一面危機に対して判断を誤ることがある。
かえって直観的な感にたよることが助かる場合があるのだ。その感が今や機械化で衰退した。
だから機械に頼り数字に頼り放送に頼りとそういうものに頼り自分の感に頼ることをしないことが危険になる。海外旅行では若者は有利である。言葉を知らなくても平気でどこでも行けるのは若者は環境にすぐに同化して外国人でも友達になりやすいとか一番有利なのはその場その場で感が働くのである。自分は50才で海外旅行だから全く感が働かないからひどいめにあった。だからもう海外旅行には行きたくないとなる。


いづれにしろ今回の地震は体感的には大きく感じたから怖かったのだ。実際に広範囲でありだからこそあれだけ警戒したのもNHKを責めることはできないとなった。揺れが震度5でもマグニチュ-ドや体感からすると大きな怖いものを感じたのである。だからこのくらいだと津浪が襲ってくると普通に判断できるし逃げるのが無難だともなったのである。ただ一メ-トルにこだわるのは危険だともなる。
今回はそうでも次はそうでもないからだ。ただ震源地が遠いから津浪もたいしたことがなかった。
3・11は近くて大きかったのである。


●高さ一メ-トルで百パ-セント死ぬの疑問


理論上では、高さ1メートルの津波にのまれると死亡率は100%。台風や大雨と違い、横から押し寄せるエネルギーで身動きが取れなくなるためだ。

中日新聞
http://www.chunichi.co.jp/article/earthquake/sonae/20120917/CK2012091702000033.html


これって本当なの?波の圧力が一方向じゃないのが津浪なのか?一メ-トルでも圧力が違っているのか?津浪はわかりにくい、引き波で一メ-トルでもひきずりこまれるということも怖いのだ。
でも1メ-トルでそんなに怖いの?これも疑問なんだよな、1メ-トルでは逃げないだろう。
でも一メ-トルの意味は体一メ-トルにひたることだと思う。身長が1メ-トル70センチでも一メ-トルだったら半分以上水にひたるから怖い、でも体に一メ-トル水がひたるとは書いていないのだ。
つまり津浪の高さが1メ-トルとはどこから一メ-トルなのか書かれていないのだ。
体が一メ-トルひたれば怖いが普通はそうならない、どこの水面から1メ-トルなのかが問題である。
だからこういう記事も良く自分で想像してみないと誤り安いのだ。


テレビでもそうだが新聞の記事でも瞬間的に見出しからすべてを判断してしまうのである。
だからテレビの報道は常に瞬間的に判断を強いられるから危険である。
犯罪でも一旦報道されただけでその報道されたことですでに犯罪人扱いされるし悪い印象をもち消せなくなるのだ。人間はやはり想像力が大事なんだけどテレビとか個々人の想像力が入る隙間がないのである。一方的に瞬間的に決められてしまうから判断を誤るのである。テレビ局によって判断されるのであり個々の人間の判断力は全く無視されるのである。

中日新聞でも津浪の高さが1メ-トルで百パ-セント死ぬというとき一瞬驚くけど中日新聞社だから一応新聞社だから信用することがある。それは科学的に確かでもその意味は違っているのだ。でもこれも瞬間的にすりこまれて恐怖になるのだ。そういうことが報道には非常に多いのである。

今や人間の信用するのがマスメデアとかにあった。NHKは一番信用されているからその影響が大きくなりすぎたのである。そこに落とし穴もあった。原発事故などでも全くみんなマスコミを信用していたからそうなった。誰も原発が危険だなどと放送しない、東電やら電事連やら多額の宣伝費が入っていたからである。それでも今はマスメデアをみんな信じているから影響が大きいのである。
批判した本がでていてもそれはSF的な冗談のような扱いにされていたしそういうふうにしむけられていたのである。

何を信用するかとなると誰も個人的なプログとか2ちゃんねるとか信じる度合いは極端に低いのである。プログなどは別に宣伝費などもらっていないのだからかえって信用すべきものがあるかもしれないが信用されない、匿名だということも信用されない、とすると信用されるのにはどうするのかということも大事になる。インタ-ネットが信用できないのはやはり匿名だということがあるのだ。例え信用したくてもそれで信用できないということがある。名なしの人や誰かわからなん人は信用されなくても当然だからである。そこにインタ-ネットの問題があったのである。


そんな中、「地震で家が崩れ外に出られない、救助を呼んでくれ」という
「デマツイート」が急激に拡散され、朝日新聞社会部のアカウントも釣られる事態となった。

このユーザーあてに「大丈夫?」「寒いですし、大変ですが耐えてください いつか救助が必ずきます」など 心配のコメントが寄せられた。また、朝日新聞社会部のアカウントからも「朝日新聞社会部です。
場所はどちらですか?DMなどでもいいのでお知らせいただけますか?」との返信があった。

http://www.j-cast.com/2012/12/07157349.html

これも匿名だし身元が特定できないからこういう問題が起きる。
こうした緊急の場合とかはインタ-ネットは役に立たない、信用できない面がある。
ただ速報性に優れているから緊急の場合役立つのだ。
テレビ以上に速報性はあるのだ。
今何が起きているから知らせることができるのだ。
問題は信用できないことなのである。
緊急の場合は疑っていて遅れたら死んでしまうから困るのだ。
この場合もそう思った人がいたのである。

朝日新聞もだまされたんだな、今やそれだけインタ-ネットは広がっている
社会化しているんだから責任もでてきているんだよ
便利なもんだから庶民にも役に立つけど信用できないんだよな
マスメデアも無視できなくなっているんだよ

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2012年10月11日

津波の跡の不思議な現象 (異常に増えた蝶-残った石仏)


津波の跡の不思議な現象

(異常に増えた蝶-残った石仏)

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ここの御堂は荒れ放題であり石仏だけが残った。


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こちらせ前からあり残った方の御堂

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コンクリ-トの家は残りやすいのか

津波ほど信じられない世界を作り出したものはない、こんなことがありうるのだろうかということが未だにある。こんなに世界が変わってしまうことがありうるのだろうかということである。
本当に不思議な世界でありだからこうして毎日報告することがある。普通ならこの辺のことを報告しても外部では関心を示さないだろう。またそんなに報告することもないのである。
津波というとただただ陰惨なこと悲しいことばかりのように見える。
だから八沢浦が美しい入江にもどったということを写真で紹介して書いたときここでも子供も死んだしその死体を探していた。そのことを指摘して批判した人がいた。それもわかる。
あなたはそういう人に同情しないのかということも言われた。映像で見るのはほとんどそういう映像である。しかし津波の跡はやはり何か大きな自然の変化が生まれたのである。

こういう変化は4百年に一度という大変化であり簡単に生きている間には見れないものだったのである。それはあくまでも事実なのである。八沢浦は家が田んぼのなかには一二軒しかなかった。
それが奥まで水に満たされたことには一番驚いたのである。それは奇跡としか言いようがなかったのである。ただそれを率直に報告したにすぎない。そこで死んだ人はいたにしてもそうだったのである。無惨な瓦礫の山になっていなかったのである。

津波の跡が草原化したというのも湿地帯化したのも驚きだった。他でも水葵が咲いたことは報告されている。それも美しいとして報告した。そして今回なぜこれほどに蝶が異常に繁殖しているのだろうか?草原でも無数に蝶が舞っている。それは白い蝶なのである。こんなに蝶がこの辺にいるわけがない、ここにどこからか集まって来たのか?その理由がわからない、

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胡蝶蘭のようになっている不思議

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くリック拡大


異常に増えた蝶-点々と白いのはすべて蝶である

吸水する蝶
http://www.pteron-world.com/topics/ecology/water.html


基本的に母蝶は自分たちの食草を探し当てて、その葉などに産卵します。


ここに幼虫が育つ食草があってふえたのか?蝶は花の蜜だけで吸っているのではない、基本的に塩分を補給するために湿地帯とか今回のような塩分化した津波の跡は栄養があるからこれだけ増えたのかもしれない、これもただ実際は自然の謎の現象なのである。津波には原初の自然の謎を解く鍵を与えたのである。こんな現象は400年に一回くらしか体験できないから貴重だとなる。ただそうなるとお前は津波を喜んでいるのかとか批判される。でもこれだけ不思議な現象は体験できないことも確かなのである。だから毎日これだけ報告することがあるのだ。


南相馬市鹿島区の北右田の所にあった御堂に石仏が流されず残っていた。それが今は草に埋もれている。ここの御堂は土地の人が放置して荒れ放題になっていたのである。誰もお参りもしていなかった。ところが津波が来てここにあった石仏がまるでその津波を見ていたかのように海の方を向いて残っているのだ。別に偶然にそうなったのだけどこれも不思議に思えた。この石仏が流されなかったのはコンクリ-トで固定していたからである。海岸に接していたらこれでも根こそぎ流された。ただこの石仏も本当に何か津波の来た海の方をじっとながめているから不思議になる。津波を記憶するようにここに残ったのである。残っている御堂は別な御堂でありこれは部落の人が守っていた。烏崎では大きな庭の石が津波に流されず残った。津波を記憶して記念の石のように残った。津波の残した記憶がいろいろある。それはここだけではない津波の被害にあった広い範囲に残ったのである。残り谷(残り家)という地名も津波に良く残ったということで地名化したけどこれも津波の体験がなければ理解できないものだった。津波を体験しなければ理解できないものが理解できたのである。ともかく津波がもたらしたものは人の悲しみが主なものだけど自然の大きな変化もそうだったのである。そこがテレビでもほとんど紹介されていないのである。


津波の跡の寒露


津波の跡は草茫々となり草原化した
残った石仏が草深く埋もれている
その仏はただ津波の来た海の方をながめている
ここの部落は壊滅して消失した
家のあった庭の樹に烏が二羽とまっている
もう一年半過ぎて今日は寒露である。
朝の草原に無数の蝶が舞っている
たしかにそこの草に寒露が光っている
ここに残された石仏は津波を記憶して
ここで死んだ人に祈りをささげているのかもしれない
奇せずしてそうなったのも不思議としか言いようがない
これは直視する他ない現実なのである。

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2012年09月02日

相馬総合病院に津浪の被害を聞く


相馬総合病院に津浪の被害を聞く

相馬総合病院が相馬市立病院になっていないのは新地町と共同だからそうなっていた。新地町が相馬市と合併しないのは新地町の独自性の維持が背後に常にある。新地町がもともと伊達市の城があったごとく一時は伊達氏に属していたのである。その子孫が合併に反対したというときそういう歴史があったのである。その子孫の侍の家も津波で流された。病院には津浪の被害にあった人が多い。同室にすでに二人いる。新地の釣師浜と相馬市の和田である。
和田の人は野馬追いの馬が津浪に襲われたが助かったという。津浪にも生き残り野馬追いにでた馬もいた。この辺では野馬追いにでるためだけに馬を飼っている。その費用が結構かかるし手間である。

今日は90歳の山元町の人がいた。新地の釣師浜の人に聞いていたが山元町の磯浜に津浪の避難館があった。その由来をその人は体験として知っていた。

小学三年のとき磯浜に津浪の被害があった。そのとき防波堤がなかったので磯浜が被害にあい避難館を作ったという。それは昭和8年頃だった。ところがその後その津浪館は下の方に移されたという。津浪は滅多に来ないから忘れるのである。他でも津浪を記念した古い碑が何なのかもわからなくなっている。
新地にツノガ神社があった。それは津神社のように津浪を記念したものかどうかわからないにしてもそういう神社の由来もわからなくなっている。津浪は滅多にこないから忘れてしまうのである。

それにしても津浪の被害にあった浪江の請戸の人もいた。病院にこれだけ集まっているということは思った以上に津浪の被害者は多い。ただここであった人は家族は死んでいない、だからそれほど悲壮感がない、毎日仮設住宅でパークゴルフをやっているとか暇をもてあましている人が多いのである。それなりに食うには困らないのでのんびりしている。でも実情は深刻である。新地町でも山元町でも仙台に勤めている人が多くその人たちが流失している。息子、娘を頼ってでて行く人も多い。山元町は仙台のベッ
トタウンだから余計にそうなっているのだ。働き手や若い人が流失していることが深刻なのである。

相馬市にいると丸森の人がいたり山元町の人がいたりとなる。つまり相馬市は伊達市との境界意識を強くもつところである。地理的にここに小高より城を移したことが実感としてわかる。

病院から原釜が見えた。そこには津浪の傷跡が遠いけど見える。それだけ津浪の被害は大きかった。津浪の傷はそれほど深いということである。
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2012年08月18日

萱浜ではない、泉の前向の赤い屋根の家は津浪で流された(小学生二人と高校生、おばあさんが流され死んだ)


萱浜ではない、泉の前向の赤い屋根の家は津浪で流された

(小学生二人と高校生、おばあさんが流され死んだ)


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この家が流されて死んだ人がいた
やはり下流であり海が近かったから逃げようがなかった。
近くに山もない、津浪は早く逃げるほか助かる方法がなかったのである。

>二枚目の写真の赤い家では小学生二人高校生一人
>とおばあさんが建物ごと亡くなったおうちです。


この立派な家が流されたのか?小学生二人と高校生とおばあさんが死んだ。
これはかなりいたましいことです。

萱浜ではなく泉でありでも海にやはり近かった。あんなに家があったとは思わなかった。
だからあそこがどこかわからなかった。たまたま鵜の写真をとろとしていただけであり
萱浜をとろとしていたのではなかった。偶然に残っていたのである。
記憶でもあそこにあんなに家があったとは思えなかった。
あそこは結構新しい家だから新しい住宅地だったのか、ただ海にかなり近かったことが災いした。
もっと上流の方かとも思った。あそこにあれだけの家があって流されたことは驚きである。
今になるとこういう写真が貴重になる。
ともかく平和な日が津浪で根こそぎ失われた。
ご冥福をお祈りします


新田川の河口には小さな漁港があったというのはやはり江戸時代からあったのかもしれない、海老浜からは帆掛け舟がでていたと90歳の老人から聞いた。烏崎の港はそれなりに大きかった。
右田浜の神社に三十人の船主の碑があった。ただ新田川に小さいながらでも漁港があったことはそれなりに海を通じて営みがあったということである。萱浜は田として開拓されて漁港はないと思っていたからである。


ともかく老人施設のヨッシランドは高台にありあそこまで津浪が来るとは誰も思わなかった。老人施設では36人死んでいる。萱浜一帯は思ったより被害が大きかった。ヨッシ-ランドであれだけの被害があるとしたら写真にとった泉の前向の家は完全に家ごと全部流されて家にいた人も死んだのである。逃げられずに死んだのである。八沢浦では海から近いのに津浪を見て裏山に逃げて助かった人がいた。あそこは山がないから見てからでは遅かったのである。ヨッシ-ランドは結構距離があるから異変を察して即座に逃げたら助かったかもしれないが老人であり反応するのが遅かったのかもしれない、その前に職員は逃げなければ助からない、説得したり老人を逃がそうとしたら自分が助からない、その時間の余裕がないのだ。現実に老人を助けに行って死んだ人が他であった。津浪は他者を助ける時間的余裕がないのだ。だから津浪でんでこでばらばらになってともかく逃げろということが伝わった。


原発事故の避難者も大勢だがやはり津浪の被害者は家族が死んでいるから一番被害が深刻だった。
ただ原発の避難者が多いので津浪の被害者にはあまりあわない、萱浜も津浪の跡を見たときは荒寥としていた。高台まで津浪が来ていたので驚いた。死んだ人の話しを聞けば津浪の恐ろしさをさらに実感する。思った以上にそういう人に会えないから今回の報告は驚きだった。

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2012年08月07日

八沢浦が美しい自然にもどった・・この発言は不謹慎について

八沢浦が美しい自然にもどった・・この発言は不謹慎について


津浪は凄惨な光景ばかり放送されている。もしかしたら美しい自然にもどったなどと報道したのは自分くらいしかいないかもしれない、そんなこと不謹慎だ、被害にあった人のことを考えて見ろ、よくそんなこと言えるものだと批判されるのが普通かもしれない、どれくらいの人が死んだかわかっているのか?お前は死者を冒涜しているとなる。でも自分は正直に津浪の否定的な面ばかり伝えられるが
津浪がすべて悪とされるのだろうか?そういう疑問も正直にある。津浪もやはり自然の作用であり自然にとって別に人間に対する悪意はない、自然の作用だから自然は必ず美をもたらす。なぜならこれほど日本の海岸線が防潮堤でコンクリ-トの壁となり美観が損なわれたのか、それはもともと自然の状態のままにしないということだったのである。何も波に浸食されるならそのままにしてもいい、かえって防潮堤がなくなり原野になり北海道のような砂浜が生まれる。人間の方が自然に合わせてそういう場所には住まないようにするのが自然に従い生きることであり理にかなっている。
青松白砂の風景は人工的なものだったが人間が作り出したものでも自然に調和していた。しかしそれも人工的なものであり自然破壊だったことを津浪でわかったのである。

つまり今回の津浪の悲劇は日本の国土が狭すぎるために起きた。田んぼにするためにもともと米作りには適さない海岸沿いに田んぼを開拓して広げた。それは日本が土地が狭いから広げる地がないからそうなった。右田でも八沢浦でも烏崎の辺は低地であり海に近く稲作には適していなかったのである。そしてどうして磯部であれ烏崎であれ海岸に接して家が密集していたのだろう?それは磯部でもその前は広い田んぼになっていて開拓された地帯だった。右田でも烏崎でもそうである。その広く開拓された地域には人家がほとんど建っていない、海岸沿いに家が密集していた。三陸のように漁業するためではない、もともと田を作り稲作するために海岸沿いに家が集中するようになった。松川浦は塩田とか漁業があったにしろ他は田を作り米をとることが生活の基盤であった。磯部でももともと砂州の所に家が密集したのである。それは田んぼになるところに家が建てばそれだけ田んぼの土地が狭くなるということがあったのでは?家が海岸沿いに密集したのは田んぼにする土地を確保するためだったのかもしれない、漁業のためにではなかった。


日本は土地が狭いから山でも棚田など作り手間をかけて米を作り生活してきた。それは山だけではない、海岸沿いもそうだった。だから海岸沿いに田んぼを作り人が住むことは自然に反することであり危険なことでもあった。だからこそ自然に復讐されたともなる。日本が中国と戦争したのも満州という広大な地が必要だった、あそこはあれだけ寒いのに米作りをしようとしていた。その時まで日本人の発想は農業が基本であり農業でもって土地を拡大して生活するということしかなかった。戦前でもそうだし戦後10年くらいでも開拓していたのである。戦争の原因は明かに満州にあり土地にこだわったことにあったのだ。今になると減反政策になり工業化こそ国を豊にすることになったから時代の制約で農業しか豊にする発想ができなかったのが悲劇に通じていたのである。原発事故もロシアやアメリカのように広大な土地があれば移住できた。それができないから日本の国土には原発が向いていないということもあったのだ。日本は土地がないから土地が一番価値あるものとされてバブルが起きた。農業にはどうしても土地が基本になるから土地に執着する。それが戦争の原因だったのである。


津浪がすべて否定的になるが果たして人間側に問題がなかったのか?自然に適合しない人間側にも問題があった。自然に適合しないことは必ず自然と調和しないから美が損なわれるのである。日本の海岸線は防潮堤たげの白砂のない浜辺になった。そして防潮堤が一部破壊されてそこから波が押しよせて白砂の浜辺が生まれた。それは一部自然にもどったことなのである。防潮堤がなくなり波の浸食のままにまかせていたら原初の砂浜にもどる、北海道のようになる。それも美しい光景になる。現実に磯部の前の田んぼが広大な湖のようになったときも驚嘆した。それは美しい光景でありそこは雨がふったりして淡水湖のようになった。これが自然の作用なのかと驚嘆した。あの辺も田んぼの中にはほとんど家はなかったのである。家が密集している所は凄惨なものになった。そこには美はなかった。だから都会が災害にあうときものすごい凄惨なものになる。自然がそこにはないから救われない、
ただ人工化した廃墟だけが残る。一方でもともと自然があったところは津浪でも原初の自然が再現されて奇跡のように美しい光景か一時的にも現れたのである。それは救いだったのである。
現代は大都会でも美が喪失している。その光景自体が絶望的ではないか?そういう世界がもし消失しても惜しいと思うだろうか?もちろん人命は貴重であるがそれ以上にその環境に美がなかったら人間が住んでも価値が生まれない、自然に美があるから人間もまた美しく飾られているのである。

都会のような人工化した世界がとれだけ醜悪になっているのか?そういうところに住んでいる人間すら価値あるのかとなる。

ただ一般的にはあまりにも凄惨な津浪の被害しか放送されない、そういうものだけではなくわずかであっても津浪は原初の自然を再現して驚嘆すべき美を再現したと伝えるのもまた報道なのである。
だから八沢浦とか磯部の前の田んぼは一時的にも海になり美しかったと報告するのも一つの報道でありこれをとがめる人がいても自分は正直にそう報道する。もちろん磯部では多くの人が死んだからまたそのことを言われるが田んぼだった所には家は本当に少なかったし八沢浦でもそうだった。

実際に八沢浦でどれだけの死者がでたのか?磯部と違ってかなり少ないと思う。確かに被害者はいた。その人の冥福はお祈りする。しかし一時的に美しい自然がもどったということでこいつはなんという奴だ、非人間だとか批判するのはおかしいのである。津浪はやはり自然の作用でありその自然の作用に逆らう人間側にも問題があった。お前は被害にあった人間の悲しみを無視するのかとかなるのは納得がいかない、またこれは別問題なのである。


美しい入江に戻った?瓦礫の山じゃない?
頭悪いんですか?
海水の底になって瓦礫が見えないだけです。

元々家が少ないから?
亡くなった方もたくさんいました。
0歳児から高齢者まで。本当にたくさん。

干拓記念碑が倒されていた?
あれは倒されたのではなく
地震で倒れたんです。
考えなくても普通にわかりますよね。
考えられないなら仕方ないですが。

ポンプで海水を汲み上げたあとの光景は悲惨でした。
たくさんの瓦礫。
ボールのように丸くなった自動車。
たくさんの方達の思い出の品。

半月以上海水に沈んでいたので
自衛隊さんによる本格的な捜索が行われたのは
4月になってから。

そんな状況に置かれていた場所をあなたは
美しい元の風景に戻った

などと不謹慎極まりない発言をされたのですよ。
人として理解不能な発言ですね。



この発言の答えです
最初だけ美しい入江にもどった
あとはすぐに水がひいて汚い風景になった

そのあとの処理は大変だった
自分が言っているのは最初の一時が美しかった、驚嘆した
それは正直な感想である

人として許されないとか言うのは納得がいかない
確かに自分はその後の処理は何もしていない
だからといってそれが責められるものだろうか?

津浪の悪い面だけではなく一時的でも美しかったというのは
正直な感想でありこれが悪いとは思えない

オマエは何もしていない、自衛隊の人がどれほど苦労したか
そういう人の身になってみろというのもわかる

でも津浪がもたらしたものが全部がただ悪いものであり何もいいことはなかった
それだけなのか?
富士山でも噴火があってあの優美な山が生まれた
津浪だってやはり自然の作用だからそこに一時的に原初の美を再現したのである。

家が破壊され人が死に醜悪なものばかりだった
そのあとかたづけをしたものの身になってみろというものもわかる

でも一時的にしろそういうものは見えずに原初の美を見たのである。
全部がすべてただ醜悪なものしかなかったというのではなかった
それを否定はできないのである。

posted by 老鶯 at 21:21| Comment(2) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2012年08月04日

南相馬市原町区萱浜(かいはま)の津浪前の写真の風景?


南相馬市原町区萱浜(かいはま)の津浪前の写真の風景?

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海側の橋の所の家は残ったのか
高いところは残っていた

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ここがどの辺かわからない、上流ではない
下流だけど家は津浪で流されたか
あんなに家が見えるのもわからない
ここはどこかわかりにくい。

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桜井古墳の方まで津浪が来たから
ここに写っている家も流されたのか?

ここまでクリック拡大!

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一葉松に行く所にあった農家の前の碑(文久とある)


南相馬市原町区も江戸時代に開拓した所であった。だからそれなりに古い。条件の悪い所だった。
あそこには港すらなかった。ただ田を作り米をとるために開拓したところである。

一葉松がある方へゆく道に甲子塔という碑があり文久とあるから江戸時代からあの農家はあった。
道というのではなく農家の前にあったからだ。一葉松まで津浪が来た。一葉松が塩分で腐れるのではないかと危惧されているのもそのためである。とすれば貴重なものが失われることになる。
あの松は長い間手入れしてやっとあの姿を復元して保つことができたから残念だとなる。


萱浜(かいはま)はあまり密集して家はなかったがぽつりぽつりと家があった。写真にとっていた所の風景の中の家は消えたのか?津浪にやられたのか?桜井古墳辺りまで津浪が来ていたから津浪をかぶったことは確かである。


ただ新田川沿いの家はどうなっているのか、どの辺なのか位置がわからなくなった。たまたま鵜が飛んでいる姿を撮ろうはしていたのであり風景をとろうとしたのではなかった。でも新田川の下流だからどうなったのかと思う。あんなに家が並んでいたのか後ろの方の家なのかもしれない、川沿いにあんなに家はなかった。


不思議なのはなぜ海岸に接して家が多かったかというと開拓した田の中に家を作れば田とする米のとれる土地が少なくなるからだったかもしれない、海に接して家を建てればそこはそもそも田にできない土地だから家として有効活用できたのである。それは磯部とか烏崎とかにも言えるかもしれない、砂州のような所に磯部では家が密集していたのである。

萱浜に実りのありしその時や津浪に流され今はなしかも

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萱浜や津浪のあとに庭の石残り離れじあわれなるかな

これは新田川の橋のたもとにあった家である。
あそこは何度か通ったけど跡形もなくただ庭の石が残っていた。
それが離れがたく残っていた。
庭の石は人間化した石だったのである。
どこでも庭の石とか樹が形見のように残っている
なんともこの辺は本当に不思議な光景であり
その状態は変わっていない、
こういう変化になじむには相当時間がかかる
あまりにも変わりすぎたからである

posted by 老鶯 at 12:12| Comment(6) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2012年07月04日

南相馬市鹿島区右田浜の消えた松原の貴重な写真



南相馬市鹿島区右田浜の消えた松原の貴重な写真

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この道のまっすぐ行った所の家は消失した

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これは火力発電所ができるまえの烏崎である。
この家が全部なくなった。


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これは真野川河口である。
河川改修する前の真野川河口で自然の状態があった
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これは河川改修する前の薬師堂への道である。
薬師堂は移動して残っている。
これも故郷の記録としてあった。


注意

クリックすると拡大して鮮明に見えます

他の写真も縮小してぼやけてみえていました

クリックすると鮮明に見えます



右田浜の松原が消えてしまったことは今でも信じられない、長年親しんできたしあの松原も百年くらいあったのか、それが一瞬にして津浪で消失した。こんなふうになるのだったらもっと記念に写真とっておけばよかったと思った。名残りを惜しんでいれば良かった。
右田の松原は松がそれなりに太くていい松原だと見ていた。松川浦の松原は松が細いのであまりいいと見ていなかった。ともかく今や松原を思い出すのは頭の中と写真しかない、写真がいかに貴重かわかる。記録として貴重なのである。烏崎の村は全部消失した。この写真は火力発電所ができるまえの自然のままの光景のときとっていたのがたまたま残っていた。今になるとこういう写真がいかに貴重かわかる。なぜならこの写真に写っている烏崎の家は全部なくなったからである。この写真をとったのはすでに30年前とかなのである。あの頃からよく自転車で原町に高台の道を通り行っていた。あの時は火力発電所がなかったから自然のままの砂浜が残っていたのである。その砂浜の写真はとっていなかったのが失敗だった。


他の人も写真をとっていたら貴重である。右田浜からまっすぐの道の北右田の家は消失した。
これも貴重である。他でもいい松原が消失したから思い出すのは写真くらいしかなくなった。

posted by 老鶯 at 16:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2012年06月23日

自然に還った夏の右田浜(短歌十首) (鵜が増えて鵜の崎とかの地名を身近に感じた)


自然に還った夏の右田浜(短歌十首)

(鵜が増えて鵜の崎とかの地名を身近に感じた)

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青々と草の繁れる津浪跡風にあおられ蝶一つ飛ぶ


津浪跡湿地の水に夏の日のまばゆく光り青鷺の来ぬ


広々と湿地に代わる葦さやぎ青鷺の来て餌を探しぬ


右田浜津浪の跡に鵜の群れて残れる松や夏の夕暮


五六本残れる松の形見かないたいたしかも夏の夕暮


家消えて砂原に来て鳥歩む足跡残り夏の日暮れぬ


津浪跡何か形見と残れるや庭の石残り海の風の涼しも


津浪跡残れるものは墓一つ二本の樹や夏の日暮れぬ


津浪跡神社の跡に船の名の石碑に二十ほど夏の日暮れぬ


海の鳥夕べさえずり夏日射す砂原飛びぬ津浪の跡かな


家もなく土地生業も奪われて何をよすがにこれより生きむ

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自然の状態に還ったというときそれは明かに北海道である。広大な湿地帯がまだ残っている所がある。苫小牧につけば本州とはすでに空気まで違っている。苫小牧でも湿地帯が海岸の方は広がっている。大きな沼、それあ浅い広い沼がありそこに鷺が下りてくる。それとにた風景が津浪の跡に再現している。津浪で流された家の跡が湿地化してそこを歩む鳥がいた。足跡が残っている。鵜も今日は数が増えている。津浪の跡を放置しておくと明かに北海道のような自然に還る、それは都会と違って荒寥とした人工的破壊の跡とは違っている。砂原が広がってアジサシのような海の鳥が甲高くさえづり飛んでいた。北海道でも砂原か広がって葦が繁っている風景をみる。それとにているのだ。


今回津浪にあった所は石巻とか気仙沼とか都会をのぞいては原初の状態が再現している。野蒜浜などももともと野蒜が繁る浜だから名づけられていた。人はほとんど住んでいない時があった。あそこの被害も大きかった。松原はなぎたおされ家もめちゃくちゃに破壊され駅まで破壊され線路はずたずたにされ今でも仙石線のその区間が回復していない。ただ津浪の前はいかにあそこは仙台の繁華な地帯から離れて別荘地のように住みよい場所だった。松原もあり広大な海が広がっていたのである。


野蒜駅おりて松原影静か芒の浜に鳥の足跡


こんな静かな所でもあったのだ。それが余りにも悲惨な状態になった。今回の津浪の跡はテレビなどで見ていると何かぐちゃぐちゃに壊された家ばかり見える。だから何か陰惨に見える。でも実際は都会ではないこの辺は北海道のような自然に還っているという不思議があるのだ。自然に還るということは自然は破壊されていないのだから美しい原初の自然が還ったとなる。松原も美しい光景だったけど砂原に還ったり湿地帯に還れば北海道と同じ風景になっている。おそらくこれから何年も何十年も放置していたらそうなる。原初の状態にもどってしまうということである。鵜あんなにして木に何羽もとまっているのは見たことがない、家がなく人もいないから鵜が来やすくなったのである。それも自然にもどっている。


それにしても川口神社に二十隻もの船の名前が記されていた。そんなに船をもっていた人がいたのか?
烏崎の方に確かにそのくらいの船は停留していた。その船も烏崎からはもう出ないかもしれない、松川浦が試験で漁がはじまった。烏崎は一軒も家がないのだから回復することはないだろう。するとやはり北海道のような元の自然状態に還るのか、あそこにあった津神社は江戸時代からあったものだろう。川口神社は明治時代からのもので新しい。でも右田村からも野馬追いに出ている人がいる。
右田村も烏崎村も江戸時代からあったのである。墓が一つ残っていたのは二上とあったからあそこの出身の人がいた。しかしあの墓はあの家の前にあったのか?流されて来たのだろうか?
右田浜というと鎌田一族が主な家だった。でもあれだけ船をもっている人がいたのは意外だった。




津浪の跡に来た鵜の群れ


茫漠たる海
砂原に風
鳥の足跡
甲高く鳴く声
余りに多くのものが
この世に記された
自然はそれをなみした
田んぼも家も砂にうもれ
湿地帯となり葦がさやぎ
ヨシキリが巣を作り
鵜が津浪に残った松にとまる
鵜に海風がそよぎ
鵜が海の遠くを見つめている
鵜の崎とかの地名が多い日本
鵜の飛行の距離は長い
鵜は海から川の奥へとさかのぼり飛ぶ
鵜の視界は広く海とともにある
夏の日海風がそよぎわたり
津浪の跡の砂にうもれた浜が暮れる
田の代わりに草原がはるかにつつき
蝶が一羽風にあおられている


鵜ヶ崎城(要害)は丘陵の舌状部を利用した平山城で地名に由来する10を数える大小の沼を掘に見立てた堅固な城でした。本丸など城郭の中枢部分は現在の岩沼駅周辺で、駅開設や宅地開発が進むと、堀は埋め立てられ土塁などの高所は削られ、ほとんど原型をとどめていません。


岩沼辺りでもあそこは街近くまで津浪がきていたし線路を越えた山まで千貫松まで船が流された伝承が残っている。かなり海に接近していたから鵜ヶ崎城があった。鵜と関係していたことは海に近いということなのだ。鵜はかなり遠くを見ている鳥である。今までは余り鵜には注目していなかった。自然の変化で注目したのである。鵜ヶ崎城は海側にあるからもあるが鵜は遠く監視している感じだから城の名には向いている。岩沼から海を思うことはなかった。仙台に近いから海を意識しない、海岸線でも相馬から岩沼まで海を意識していない、海が見えないからだ。今回は津浪でこの海岸線を意識させられたのである。東北の古代史をみるときこの原初の状態を見ないと見えない、津浪で福島県から石巻までの海岸線が一つのつながりのように見えたのである。

posted by 老鶯 at 21:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2012年06月22日

津浪の被害にあった小高の人と話する (一キロ先で危険を察知して逃げた、家族全員が死んだ家のわけ)


津浪の被害にあった小高の人と話する

(一キロ先で危険を察知して逃げた、家族全員が死んだ家のわけ)


小高の人と話したけど川原田の辺りだったのか、この人は津浪の被害に直接あった。助かったのは地震があって外に出て海の方を見ていたら空がガスかかったように異様になっていたという。海から空から異様なものを感じた。それで逃げたという。ところがそういうふうに何か異常なものを感じた人と感じない人がいた。何たいしたことはないと残っていた老人は死んだという。それは家族のなかでも同じだった。家族全員が死んだ家がありその家では誰も逃げようとしなかったのである。だから全員死んでしまった。例えば村上の辺りでもすぐ近くに城のあった小高い山がありあそこに逃げれば助かった。すぐ近くだったからである。ただここでは一キロ先というわけにはいかないから津浪が来てそれを見て助かる人はいなかった。異様に感じたときはすでに時遅しとなっていた。

助かった人の話を聞くと危険を察して早く逃げた人と一キロくらい離れていても津浪が来たときその津浪を見て逃げて助かった人もいる。一キロ先だと津浪が来ても必死で逃げれば助かったのである。後ろに山が小高い丘でもあればそこに逃げれば助かった。そういう映像は見ている。津浪に追われて逃げても急死に一生で助かっている。途中で階段を上ってのぼりきれず途中で津浪に流された人もいる。津浪は一キロ先くらいだったら津浪が来たことを察知してすぐ逃げれば助かる。大内の人はトラックで逃げて助かった。海岸に接していた所は磯部や烏崎のように全滅になった。津浪が来た時はすでに遅しとなっていた。それでも最初の一波が来たとき水があふれてきたとき危険を察して来るまで逃げた人は助かった。ともかく津浪の場合はこの海からの距離感が明暗を分けたとういこともある。ただ大川小学校のように奥の方でも被害があった。それは家にさえぎられて津浪が来たのが見えなかった、異様なものを感じなかったのかもしれない、小高の人はその前が家がさほどなく海の方が見えて空の方からも異様なものを感じて逃げて助かったのである。地震でものが落ちたとき家の中でわたわたしていただけですぐに時間過ぎてしまった。家の外に出れない、もちろん家の下敷きになった人は逃げようもなかった。海に近い人でもそうして家の中で時間をとられていたら津浪の被害にあった。家にさえぎられている所が遠くが海の方が見えにくいから危険を察知しなかったともいえるかもしれない、津浪は意外と視界が問題になるのかもしれない、一キロ先でも津浪を見ていれば必死で逃げれば助かることがあったからだ。


家族でも誰かが危険を察して強く逃げることを言えば家族全員が助かったが逆に何も言わない、津浪を来ないと思っていた家族は全員死んだりしている。例え部落で逃げろと騒いでもたいしたことないと留まった人は死んでしまった。例えば砂漠のことで話ししたことがあるが日本人の旅行者で砂漠を何度か旅した人は水のある方向に導いた。それは一つの賭けだったが経験がありその人の導きで全員が水のあるところに行き助かった。それは全員がリ-ダ-に従ったからである。津浪の場合は部落全員が日頃まとまりがあっても津浪なんか来ないよという人がいてそういう人は逃げずに死んでしまった。そういう人をいくら逃げろと言っても逃げないからどうにもならなかったのである。結局砂漠の場合、砂漠は危険な所と承知して団体で行っている。だから経験者従いリ-ダ-に従い全員助かった。

これは登山などでもそういうことがある。経験あるリ-ダ-に従って全員助かることがある。それは山も危険なところとして承知していてリ-ダ-に従うから助かったのである。津浪はそういうことがなくいくら説得しても危険と思わない人は思わなかった。津浪が来る危険だということをみんな承知していないかぎり逃げろと言っても逃げない人はいる。それは三陸でも経験しているのにそうだった。
逃げない人は逃げなかったのである。つなみでんでこ・・というときばらばらに人のことをかまわず逃げろというのはまさに説得するにも時間がない、そんなうち人を助けようとして自分が死んでしまうからばらばらでも人にかまわず逃げろとなった。津浪は全員一致で行動しにくいのである。そこには危険を感じる人と感じない人がいるしそれぞれの行動が自由だとなればそうなる。


遊牧民の社会では導く方向が大事になる。だから星が旗印になる。水のある場所、草のある場所に羊を導く方向が大事になる。そこに導く指導者がリ-ダ-が生死を決定することがあるからリ-ダ-の力は大きくなる。しかしそのリ-ダ-に従うのはみんな危険を察知しているから従うのである。そういう習慣が遊牧民の中に培われているから従う。津浪は何百年に一回くらいしかないから日常的にそういう危険を感じないからリ-ダ-がいくら逃げろと言っても従わないのである。津浪が来るとばあちゃんが言っていたけどそういうものも軽くあしらわれていた。三陸辺りでもそうなのだから日本は災害が多くても忘れやすい民族なのだろうか?水に流すとか忘れてしまう。


いづれにしろ津浪原発事故と小高の人や浪江の人は被害が大きかった。警戒区域が解除になっても店がないとか住んでいる人はほとんどいない、住む人がいないのだから店もできないとかゴミがたまっているとか国で管理しているからできないとかなかなか小高に住めない、農協の建物を仮設のようにして住まわせる計画があるそうだ。一時的にも小高に仮設を作ることになる。また浪江や小高でも相馬の方が通えるからいいという。近いからそうなる。これからどうなるのか東電では賠償を渋っているという、ただその人は長年、原発で働いていたからあまり文句を言えないという。収入は良かったという。たしかにグラフを見ても曹双相地域の経済は原発でもっていたし結構原発とかかわることで豊になっていたのである。原発に近くなればなるほど原発で働く人が多い恩恵も多かった。小高もそうだったのである。今でも火力発電所の存在は大きい、千人も雇っているのには驚いた。原町や鹿島の方にすでに家を建てた人もいる。小高には帰れないとか住めないと思っている人もいる。そこで問題なのが原町とか鹿島に働く場があれば住めるという、若い人も住むという、働く場所がないから若い人も住まないという。浪江の人も空家を借りて住んでいて二本松の移った会社まで来るまで通っているというからそんな生活が長くつづかない、原町や鹿島や相馬市にそれだけの雇用の場があれば住めるとなる。ソ-ラ-パネル発電が津浪の跡に会社が入ってはじめるというのはいいニュ-スなのだろう。雇用の場ができるからだ。



その人が言うには親戚で何人か避難生活していて死んだという、まだ弱っている病人とか高齢者は負担がかかり死んでいるのだ。避難してからまもなくも100人以上負担で死んでいるし今も死んでいるのだ。なれしたんだ所を離れると老人は弱いし病人は特に弱ってしんでいる。
これはこの状態が改善しないかぎりつづいてゆく・・・・いつ帰れるかわからないからだ。
posted by 老鶯 at 16:17| Comment(6) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2012年06月18日

南相馬市鹿島区右田浜一年過ぎた夏(短歌十首) (北海道化した津浪の跡の不思議な写真)


南相馬市鹿島区右田浜一年過ぎた夏(短歌十首)

(北海道化した津浪の跡の不思議な写真)

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小さな水たまりに小さな魚が結構いた
十匹くらいいた

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枝がなくなっているところまで津浪が来た
松原の約倍の高さで襲った
海岸に近いところはその衝撃が凄まじいものだった
だからこの松くらいの高さで枝がそぎおとされた。


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だれの家だったのだろう


海風の草原にそよぎ夏雲雀


今日もまた草原広く夏雲雀


鵜の二羽や海風涼し残る松


大内ゆ夏野開けて鹿狼(がろうさん)見ゆ


あめんぼう波紋描きてとんぼ飛ぶ


家の跡二本の樹の草原に離れがたくも残りけるかも


津浪跡人家の消えて葦茂りヨシキリ鳴きて巣の作るかな


夏の日や津浪の跡に葦原の風にさやぎて白雲湧きぬ


百本の松も消えにし数本の残れる松に海風涼し


庭の石ここに残りてポピ-咲く砂浜熱く白波たちぬ


家の跡砂に埋もれぬ形見とて花をささぐも夏の海映ゆ


津浪跡たまりし水に小さなる魚およぎぬ夏となりにき


慶応と記さる墓や形見とて集め残され海の風吹く


痛々し津浪の跡に残る松その根の堅く離れざるかも


ノカンゾウ日陰に咲きてかたづけのなおつづくかな草原と化して



今日は晴れたので右田の方にまた行ってみた。草原化して津浪で流された家の跡に日本の樹が立っている。その樹がなんとも他でもそうだが人間に見えるのだ。離れがたく二本の樹が愛し合うように立っている。それは夫婦にも見えるし人間に見えるのだ。庭の樹は人間化した樹になっていた。飯館村などでも人がいなくても残された樹は人間を待っている。人間化した樹なのである。それはペットがもはや原始の動物ではない、人間化した動物であり半分人間になっていると同じである。

以前として津浪の跡の風景は異様である。この風景になれこれが当たり前になるのには日常化するには時間がかかる。ただこういう風景は北海道でみている。防波堤が壊れ家がなくなり砂浜となる。

これはもともとあった自然にもどっているのだ。葦が茂りヨシキリが鳴いていた。吉原など何か人間めいてエロチックになるけど葦はその吉原とは余りに違っていた。原初の自然だといたるところに葦の原があった。人家は消えて葦の原になるとそこにヨシキリが巣を作るのである。これはまさに自然に還っていることなのだ。砂浜の所は水たまりになりそこに小さな魚が泳いでいた。これは海の魚だろう。すでに海の魚がそこに生きはじめていた神秘がある。おそらく津浪で残った水たまりに魚が残されたのだろう。魚は大きな水たまりではなく小さな水たまりに生きていた。この水たまりが海とつながるのはやはり海が荒れてここまで波が越えてこないとつながらないからやがて死んでしまうのか?ただ台風などが来て水が増えると淡水化した沼のようになる。


明かに防波堤は破壊され砂浜が再現して北海道のようになっている。夏の日はかえってこういう自然のままの状態が涼しくて気持ちもいいとなる。家のあった所には花が献げられていたのも不思議なあわれな風景だが夏になると波が白くたち気持ちいいものとなっている。前に良く来ていた右田のキャンプ場の残った松に海鵜が二羽止まっている風景も不思議としかいいようがない、海鵜にとって人間のことなど関知しないのだろう。海からの風がかえって涼しいとなる。

ここに墓地があったのか?墓地があった所は知っていた。流された墓をここに集めたのだろう。
鎌田というのは右田では初代の鹿島町の町長をやった人で有名だった。身内が役場に勤めていたから聞かされていた。そこに慶応の墓があったから江戸時代からのものもあった。右田でもそれなりに古いのである。野馬追いに出る村は江戸時代からのものであり村はほとんど江戸時代からある。

大内から鹿狼山(がろう)が見えたのは家がなくなり視界が開けたからである。あそこから鹿狼山を望んだ記憶がない、風景ががらりと変わってしまったのだ。草原化して夏野化してしまった。この辺は田んぼだったのだから青田の風景であり夏野という風景ではなかった。烏崎に葦が茂り沼が生まれ水葵が咲いていたところは消失したのが残念だった。烏崎は人家が多かった。そういう場所は津浪の跡でもすさまじい一段と荒寥としたものを感じる。

一方で右田の方は家は少なかったから元の自然に還ったという感覚になる。つまり何か自然に還ったということでほっとするという面もあったのだ。

人口の密集地帯で津浪に襲われた所は無残である。三陸でも家が密集していたところの跡はすさまじいものとなっている。もしそこが草原化して湿地帯化して花も咲き生き物もすみつくと何か救われた感じもするのである。まず東京のような所は地震でも津浪でも火事でもその跡はすさまじいものになる。神戸などは都会だからその跡は見ていないけどすさまじいものとなっていた。草原化したりしないし湿地帯化もしない、人工化した人間のビルの破壊されたものとか家が燃えた跡とかが延々とつづいていたらまさに地獄的な光景である。


まだ片づけはつづいている。大内の人がかたづけをしていた。ただ森の方は日陰になりノカンゾウが咲いてほっとした。大内の半分の多少でも高くなっている所はなんとか被害をまねがれたが低い方はほとんど消失した。明かに大内村では二つに明暗が分かれた。あの辺は大昔は海が迫っていて低い方は太古は海だったのだろう。それは一時津浪で海に還ったのである。万葉の時代に海だったところは確実に津浪にやられた。六号線を越えて船着とか市庭となる塩崎まで津浪が来たのには驚いた。船が流されてきたのも驚いた。万葉時代の海が再現されたのである。それで「みちのくの真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを 笠女郎」この草原は何なのか?萱(かや)とすれば秋の萱(かや)である。萱が一面に繁った場所だったのか?津浪で海となって草原化したから草原(くさはら)だったらその光景と一致している。萱原だったら秋であり一致しないけど秋になったら一面に萱原がなびいていたのか?八沢浦は古い写真で萱原になっていたからそういう風景なのだろうか?


ところがむしろ萱がないたぷたぷと潮水に充たされた光景こそ美しいものであった。その風景を一回だけ見たのである。それは奇跡的だった。入江でも萱がなびいているより萱がない方が美しいのである。だからどうなのか?草原を地名として港だったと考察したがなお謎である。萱原ではなく真野の入江だったら美しいことは確かであり今回の津浪で真野の入江になった驚きである。

近江の方言でカヤが入江だとインタ-ネットに出ていた。もしそれが本当なら真野の草原は入江なのだろう。いづれにしろ笠女郎はその光景を一度も見ていないのだからどうして面影に見えるのかという問題がある。ただ最近読んだ本に真野公という木簡の字が石巻から発見された。とすると石巻の真野の萱原もその場所なのか?なんらかのつながりがあることは確かである。


いづれにしろこの余りにも変化した風景には以前として驚くほかない、防波堤がなければ広く海が入り込んで田んぼも作らなければ原初の砂浜が再現されるのだろうか?そしたらかえって景色としては美しいものとなる。砂浜はどこでもなくなっているからだ。ただ風化にまかせていればそうなるのかもしれない、磯部辺りは元の砂州となり人はもう住まない、この辺も住まないから自然と自然に還ってしるうのだろう?なんとも不思議としかいいようがない、これだけの変化は何百年に一回しかない、400年後に襲った変化だったのである。

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2012年05月06日

自然に悪意はない、津浪はただ自然のバランスを取り戻すためだった (失われた白砂の風景が津浪で回復する)


自然に悪意はない、津浪はただ自然のバランスを取り戻すためだった

(失われた白砂の風景が津浪で回復する)



もし,防潮堤が造られていなかったら,どうなって
いただろうか.時に浜や松林が侵蝕されることはあろ
うが,また徐々に浜に砂が戻り,自然に復元される.
昔ながらの風景が残されたのではないだろうか?
http://www.gsj.jp/data/chishitsunews/05_12_03.pdf

どんな文明はそもそも自然破壊になる。文明は人工的に自然を改造することである。縄文時代は自然とマッチしていた生活だけど稲作は文明でありその時飛躍的に人口がふえた。この稲作文明は日本でも二千年ととかつづいた。だから江戸時代になるといたるところ開墾して山では棚田を作り海側を干拓するようになった。それは一見自然のように見えて美しいのだけど自然破壊から成り立っていた。焼き畑農業にしても自然破壊だった。森を切って畑を作れば自然破壊なのである。人間は自然破壊しなければ生きていけない宿命を背負っていたのである。動物は自然破壊をしない、ある種だけが異常にふえたりしない、増えれば淘汰されバランスを保つ、自然は絶妙なバランスの上に成り立っている。そのバランスを壊したのが人間だった。道具をもつことも自然破壊に通じていた。だから老子は2千年前に道具をもつことさえ否定した。小国寡民が理想だとした。それは自然を破壊しない生活だったのである。縄文時代は小国寡民である。弥生時代は稲作はイナリが鋳成りのように鉄の道具と密接に結びついていた。稲作は土木事業であり鉄器の鍬や鎌などの道具がないとできないから一大文明だったのである。


もう江戸時代になると米を作る場所がない、もう人口は増えない限界に達していたのだ。稲作中心の文明は限界に達していた。そこから工業化が起こり明治になるとまた飛躍的に人口がふえたのである。結果的にはもっと大規模な自然破壊になった。自然破壊は今や頂点に達していた。白砂青松の風景は人工的な風景であっても美しかった。ただ白砂はどこでも喪失していた。青松は松原はどこでもあっても白砂の浜辺を見る所はまれになっていた。だから江戸時代にあった白砂青松の風景はなくなっていたのだ。海岸の浸食も激しくただ海岸では防潮堤を見るだけになっていた。今回の津浪は悲惨だったけど元の自然にもどったということがある。防潮堤は破壊されて白波が海岸に直接よせて白い波が砕けている。防潮堤がなくなれば元の白砂の浜辺に戻るかもしれない。

松原がなくなり名取り辺りまでの海岸線は白砂の浜辺になるかもしれない、遠くから海も見えるようになる。湿地帯であり白砂の浜辺は北海道になる。それは元の自然にもどった。自然は無常であり残酷というけどそもそも人間に自然が敵対して人間に罰を与えるとかそういう意図はない、ただ人間側に悪が蔓延すると天変地異が起こるというのはむしろ自然災害によって地を清めるという作用もあった。津浪は元の自然にもどした。自然はそういうバランス感覚がある。海岸線は白砂が長くつづいていてそこは丁度海の前庭だった。海には前庭が必要だった。そこが人工的に干拓されて田になったということが不自然だったのである。自然から見れば何か悪い意図があったということでない。人間側で無造作に不用意に自然を改造しすぎたから津浪がきて元の状態にもどされたともなる。津浪が自然の側からすれば特別なことではなく自然なことだったとなる。


自然災害は文明化すればするほど被害が甚大になる。都会はだから災害に弱い。大地震がきてこれからどんな被害になるか予想もつかないのはそのためである。原発事故も文明故の災禍だった。そんな危険なものを作るなよという自然からの警告だった。前から書いてきたけど文明はあまりにも天地から遊離してしまったのである。誰も古代のよう天にお伺(うかが)いをたてることなどしない、お伺いは科学者にたてる。科学者が現代文明の神官だからである。天に海に古代のようにお伺いをたてることなどしないのである。文明とは人間が神となってしまったことに通じている。すべては人間の力で解決できる。科学時代は科学の力で解決できる。科学万能時代になった。それは絶対化して科学が宗教になった時代である。何かあれば科学的に説明してくれ。それで納得するとなる。でもその科学的説明がかえって科学的ではなく人をだましてしまった。

科学的に人をだますということである。宗教的に人をだますということもカルト宗教ではある。宗教的詐欺がある。宗教は責任は問われない。直人間に手をかけて治療したりしない、手術したりはしない、工事をしたりもしない、それを実際にやるのは科学者であり技術者である。科学を絶対化すれば科学も宗教になる。天にお伺いたててどうなるんだ、科学的に解析して証明すれば問題は起こらないというのが現代だったのである。浪江はやはり津浪を暗示した名であり標葉(しめは)とは禁断の地だったのか?人間が入ってはならない地だったのか?何かそういうものを暗示したものだったのか?そこが今回原発のあるところであり津浪が来て事故になったのである。


「こゝへ畑起してもいヽかあ。」「こゝに家建ててもいヽかあ。」「こゝで火たいてもいいかあ。」「すこし木(きい)貰(もら)つてもいゝかあ。」それに森は一斉に「いゝぞお。」とか「ようし。」と答え・・・(賢治-狼森と笊森、盗森)


森におうかがいをたてている。ここに畑を作っていいかとか、田を作っていいかとか、村を作っていいかここに町を作っていいかとか・・そんなことを自然におうかがいをたてることなどしない、それはすべて科学者が技術者が決めることでありその人たちが万能になっていたのである。神となっていたのである。確率的には百万年に一回しか事故は起こらないと統計的数学的に確率論で割り出していることこそこれも宗教的詐欺とにている。科学によって人を信じさせていたのである。科学が宗教になればそうなる。単なるあてずっぽうではなく科学的だから確実であり信頼できるとなりだまされたのである。結果的には科学もだます一つの手段だったとなる。ただ呪文を唱えている時代とは違う。科学は確実に効果を効験があるから科学時代になった。そして科学が宗教になったときそこに落とし穴があったのである。ともかく科学は万能ではない、原子力のことは全部知らないしもともとコントロ-ルもできない危険なものだったのである。だから火を盗んだプロメテウスのように過酷な罰を受ける結果になった。人間はどれだけ科学は発達しても万能にはならなし神が最終的には左右する力をもっている。神が奇跡を起こすというときまさに科学を越えたものを神はできるし奇跡を起こしてきた。万能だからできることである。その万能の神に最後は祈るほかないとなる。津浪によって人間はその無力を知らしめられたのである。

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2012年04月17日

春の雷 (警戒区域解除-南相馬市小高区に入り俳句と短歌を作る)


春の雷

(警戒区域解除-南相馬市小高区に入り俳句と短歌を作る)


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小高区へ燕の飛ぶや入れたり


小高区へ入るや轟く春の雷


山に雷海に波打ち揚雲雀


雷鳴りて波しぶきあがり藪椿


波ひびき街復興せむ春の雷


故郷の病院あわれ花曇り


雨ぬれて病院に誰か夕桜


荒々し波うちよせて藪椿赤々と映ゆ城跡の山


庭の石ここにも残り家ありて残れる松や春の日あわれ

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小高区へ入ったら春の雷が鳴った。燕も飛んだからやっと入れたということでうれしかった。
第一そもそも警戒区域とかで入れないことが信じられないというか何か理不尽なのである。
ある土地が入れなくなるということが今まであっただろうか?
こんなとき春の雷が激しくなってちょっと雨がふった。ともかく入れたということが感激になっているのも奇妙である。小高にはあまりこれまで行かなかった。土地に特徴がない、高瀬川のような急流もあるわけでもない、見るところがないのだ。

村上城のあったところに一面に藪椿が咲いていたのは見物だった。あれは自生していたものであり数が多いから見物であった。この時も波も荒く打ち寄せていた。海への恐怖感が植えつけられたから津浪のあったところには住みたくないというのは心情としてわかる。海は怖いなとつくづく思った。
この辺の波は荒いからそもそも親しめるという感覚がない、瀬戸内海のような海とはもともと違っていた。

ここでも流された家の跡に庭の石が残っていた。不思議なのは小さな石も残っていたことである。烏崎村でもそうだった。小さな石は流されてもいいはずだがみんな残っているのだ。

小高の被害は海に接して大きな集落がなかったから被害が小さかったかもしれない、塚原の方は家が全部流されたとかはあまりないみたいだ。山沿いにあり多少高かったから助かったのかもしれない、一番の被害は海側に直接面していたところだった。村上の城跡の山が一つあっても津浪を和らげる力になった。津浪を防ぐのは高い堤防とは限らない、厚い土盛りしたものが効果的である。
名取や仙台辺りでは高速道路が高く厚く土盛りしてあるので津浪をさえぎったのである。


南相馬市立病院には一か月入院していたのでなじみかある。故郷で一番なじみのある場所になったのはこの病院かもしれない、最後に死ぬときも今は病院に世話になる。病院が最後の場所になるとしたらそこはやはり大事な場所になる。あそこの桜は見物である。見晴らしもよく桜も咲くから環境がいいのである。医者や看護師もいい病院の条件だが環境もいい病院の条件なのだ。特にタ-ミナルケアとかの病院になったら環境はさらに大事な条件になる。その点相馬市立病院の環境は悪い、回りに見るべきものがない、情緒的には良くない、ただ看護師とか医者はまた別である。すひべてがいい病院などないのである。


今日はまた母が胃が痛いとかで病院に行った。そこでは南相馬市出身の医者がいた。地元出身だと何か親しみがもてるかもしれない、医者は土着性がないと指摘があった。意外と土着性というのも仕事に必要なことかもしれない、病気になったりしたらいい医者が遠くにいても親しみがもていなとか何か心の面で安心しないとか落ち着かないという心の問題が起きてくる。そういうことも病気に影響することは確かである。医者自体心が体に影響すると言っているのだから病気には心の問題が影響するからだ。病気は総合的なものとして対処するのが理想なのである。土着的だとか回りの環境も影響する。その土地に根付くように仕事をするということが必要なのかもしれない、ただ技術的なことだけならば他かの遠くの医者が上手であり高い技術をもっていることはいえる。高度な手術はやはり地方の小さな病院では無理だということはいえる。小高に泌尿器科の医院があったのは意外だった。
病院は近くにあるのが意外と大事である。確かに車がある時代だから遠くに行けるようでも車がない人もあり車に乗っていても病人は疲れるのである。だから近くがいいとどうしてもなるからだ。


ともかく忙しい一日だった。旅をしないと一日家にいると暇になることは確かだが介護とかあるので暇がもてないということもある。食事の問題が一番時間をくう、片づけたり洗ったりするのがめんどうなのである。だから原町にあるチェ-ン店で200円の朝食があるのには驚いた。
350円でも納豆定食食べられるからあれだったら楽だし金もかからないからいい。
朝昼は外食で夜だけちょっと軽いものを作るとなれば時間はかからない。
なんかあと5,6年しか生きないとすれば短いがまた10年とか生きれば結構長いものかもしれない。
とにかく人間はいつ死ぬかは医者もわからない、60代でも結構死んでいるから死は身近なのである。

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警戒区域解除の南相馬市小高区の写真


警戒区域解除の南相馬市小高区の写真


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六号線を津浪が越えた。堤谷の付近
向こうに海が見え波しぶきが見える。

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六号線を津浪が越えた


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小浜の方面、この高さが写真だけからはわかりにくい
あそこは高いから津浪は来ないと思っていたろう
そういう所まで津浪が来た

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村上城のあった所、この一つの山が津浪をやわらげその前の家が流されていなかった。
前に何もない所は一軒の家も残らない、こんなに海に近くて家が残っていたのは
この山のおかげである。
小高は海側に大きな集落がないから鹿島区の海老村や烏崎村のような被害にならなかった。

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ここにも庭の石が残っていた。


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意外とここは松が残っていた。

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ピアノをここでひいていた。

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車がここまで流された。

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小高駅を越えて津浪が街に入ってきていた。小高は海に近かった。

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ゴ-ストタウンというときこういうのを見ると確かにそうである。小高の通りは歩道など整備ささたから鹿島区より感じがいいと思っていた。医院でも泌尿器科がある所があった。老人が増えると泌尿器科にかかる人がふえるからいいと思った。こういう病気は近くにあると便利なのである。


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核兵器廃絶宣言

鹿島区でもこの辺で核兵器廃止宣言の町と看板を出していた。これは何であったのだろうか?
広島でも原水協では核兵器には反対でも平和利用の原発には賛成していたのである。というのは労働組合が中心だとそのなかに必ず電力会社の組合が入っていたからである。この組合は強力であり資金力もある。そうすると平和利用はいい、原発は安全だと言われればそうかなとなり賛成していたのである。そこが誤ってしまった。核そのものが危険なものだったのである。

結局思うに組織団体化したところは巨大な利権団体でありその圧力が大きいから何も言えなくなる。カルト宗教団体も大きな力をもっているしどこにでもいる。創価の圧力も大きい。電事連合とかも大きな力をもっている。そういう組織の意向によって社会は動かされているのだ。
原水協自体がそうでありすると原発が危険なものだという安全神話にくみしていたのである。
ただ共産党系の一部が原発の危険を指摘していた。しかしそれもかえってイデオロギ-的に特赦な人たちとして見られていた。だから原発反対はSF的架空の小説のように見られていた。
現実的に危険なものでも科学的にも検証されないし一般人には安全神話で知らされていなかったのである。

このことで情報は常に権力をもっているものによって操作されていることがわかった。権力を操作する側にとって都合の悪いことは知らされないのである。スピ-ディが最初に知らされたのがアメリカであり日本ではなかった。これも信じられない、日本人に知らせないでアメリカに知らせていたのである。そして浪江の人たちは放射線量か高い津島に集団として避難した。そこで被曝したのである。それで国を訴え裁判になる。
何か今になると核兵器の核は反対だけど平和利用の原子力はいい核だとういのも権力側によって作られたいたのだろうか?小高にも鹿島もこの看板があった。それが何だか虚しいのである。

今回は井田川の方に行けなかった。雷が鳴り雨がふってきた。山の方は雲で暗かった。
原発事故でゴ-ストタウンが生まれた。雨もちょっとふって暗かったから余計に暗く感じた。
そして浪江の方も暗く浪江の方には行けないというとき双葉辺りが昔の相馬藩の境であり余の森、藩主の森として領有を宣言した所である。あの辺は大野とか広野とあるように江戸時代は森がおおっていた。だから今になると森に帰り閉ざされた地帯になってしまうのかと思った。
ただ小高までは自由に出入りできるので燕が飛んできたりと気持ち良かった。
出入りが自由になるとゴ-ストタウンではなくなる。飯館村は人が住んでいなくても出入りは自由であり人影も見えるのでゴ-ストタウンとは違っている。これからあとかたづけとかインフラ整備とかで人が入ってくる。放射線は計測器を忘れて計れなかった。

明日はまた井田川の方に行ってみたい、まだ水がある内に見たい、今度は放射線量を計ってみよう。

 
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2012年04月11日

相馬市の日立木の「日下石(にっけし)」「日ケ子(し)」で地名の謎が解けた 怪しい地名の研究-鳥野博文氏


相馬市の日立木の「日下石(にっけし)」「日ケ子(し)」で地名の謎が解けた

怪しい地名の研究-鳥野博文氏
http://www005.upp.so-net.ne.jp/unolab/timei4/timei4.htm



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津浪の浸水地域(相馬市日下石-磯部)

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「西(にし)」と「東(ひがし)」


「太陽の昇るのが東で、沈むのが西」と教わり、同じ事を子供たちに教える。このフレーズは何回発せられたであろうか。日本人に限らず世界の多くの人々が方位の認識に「太陽」利用している。
ところで、正反対の方位である「にし」と「ひがし」はともに末尾は「し」である。

東日本に分布が厚い「橋」の付く地名の語源解釈のなかで、「は」は「端(は)」で、「し」は単なる部分ではなく重要な部分という意味ではないかと考えた。「橋」は「端の重要な部分」ではないかと考察した。

東は太陽(ひ)の昇る方向であり、太陽にとって重要な部分すなわち「日ケ子(し)」ではないか、とだれでも考えることだと思う。



相馬郷土史研究をしているので地名も研究しています、もともと小生は学問に興味をもったのは旅をして地名に興味をもったからです。「怪しい地名の研究」はプロ級だと思い感心して読みました。
ただこの頃原発事故のあった所に住んでいるので他のことに注意が向きません
怪しい地名の研究も読んでいませんでしたし深く検討もしていませんでした。 今回ちょっと読み直して発見がありました。相馬市では津浪がありました。津浪には本当に驚きました。津浪によって今までわからないことが明かにされたことが多々ありました。その中で縄文海進時代の海の状態が明らかになった。再現されたことには驚きました。縄文海進時代が目の前に再現されたのです。


この辺では「日下石(にっけし)」という地名はアイヌ語で解明していました。日本語では解明しにくいからそうなったのでしょう。それで「日ケ子(し)」と書いてあることに驚きました。まさにここの日下石(にっけし)そのものです。その日下石(にっけしのすぐ近くまで津浪は来ていました。
あの辺に磯部から死体が流れ着きました。磯部の被害は大きく、相馬市磯部村 1,813人 497世帯
このうち250人死んだとすると13パ-セントが死んだことになる。家は一軒も残らずもともと砂州だった所が砂州に戻ったのは驚きです。


最近出版された「この地名が危ない」楠原祐介は興味深いものでした。小名浜(いわき)女場(おなば-小高)とか女川(おながわ)は男波(おなみ)であり津浪のことだという指摘など津浪関係のことが書いてあった。どうも怪しい地名の研究でも日本語の一字から解明しているけどこれは縄文語にも通じる古いものだった。アイヌ語ではない縄文時代から使われていた言葉だった。ヨコがヨから解明していたりネという言葉やワという五十音の一字に注意していたのは自分もそれを解明しようとしたができなかった。南相馬市小高の縄文時代のことを書きましたがやはり縄文人が住んだ所の遺跡はもともと海だった所をさけて住んでいた。それより海だから住めなかったのです。そこが本当に津浪で海になったから驚きです。海側の地名は縄文海進時代からものでそれだけ古いことがわかった。これは津浪でわかったことです。


最近原発事故とかのことで忙しいので「怪しい地名の研究」などでも読んでいません。最初からこれほど研究されていることに驚きました。そこまでインタ-ネットでは出さないから学者並だと思っていました。大和言葉の五十音の一字一字には深い意味がある。そこが怪しい地名研究の発見ではないでしょうか?そこから新しい地名の発見があるでしょう。それが「日下石(にっけし)」が「日ケ子(し)」という発見だったのです。


「にし」とは「土、地面」の上のどこかにある「日」の没する重要な部分ということになる。日の昇る場所が「日ケ子」で、日の没する場所のあるところの重要な地面が「土(に)子(し)」である。九州到達までは方位の定義としては適切である。


「日ケ子」は日下石(にっけし)でありニに日(陽)をあてたのは正解です。太陽のことです。津浪でわかったようにまさに太陽が昇る所だったのです。地名には重要なことが隠されているようです。

誤解があった-日ケ子(ひけし)?であり日下石(にっけし)である。

陸の方向「土(に)子(し)」だとする日下石(にっけし)は西の方角になる。日ケ子(ひけし)のことですか?東はひんがしであり日が昇る岸でしょう。不思議なのは日下石(にっけし)まで海になったとき太陽は沈むのを見ました。それは日下石(にっけし)西の方に沈んで行ったのです。つまり陸地の方に向かって沈んでゆきました。その前は海でした。ということは陸からみて陽が昇る岸がひんがしであり西は海から陸になる地帯である。ともかく海から見た感覚であり陸地から太陽を見ていないとなる。日本人は海洋民族であり海から望むということは船で陸地を見ている人の感覚である。
日下石(にっけし)が西の方向という感覚はわかりにくい、海に接しいるのだから西となると海側から見て陸地だから西だとなる。日はひではなくニに当てた字である。

地名は科学的に証明するのがむずかしい。統計的に証明しようとしたのは科学的に証明しようとしたからその努力には驚きました。

最近、原発事故のことで忙しいのでいろいろ読めません、本を献呈されても深く読めません。

インタ-ネット上で暇があったら相馬郷土史研究の一つとしてまた発見があったら書いてみます。
どうもコメントやら本の献呈やらの申し出ありがとうございます、アマゾンでも買えるようですから買うかもしれません。いろいろ本も読むのが今あり目を通せません


ところで津浪に関しての地名についてインタ-ネット上で書いているでしょうか?
書いていたらお知らせください、今津浪のことを継続して研究していますのでよろしくお願いします



あとがき


海から渡ってきて陸の方に太陽が沈む、陸を意識して西のニが土だということはわかる。つまり陸からみて陸に沈む太陽ではなく海から見て陸に沈む方向が西だった。これが大陸だったら陸から昇り陸から沈むから日本人の感覚にはならない。日本人は海を意識した民族というのは海に囲まれているから当然である。だから津浪と海岸線の地名は深い関係があるかもしれないということはありえますねこの辺が今回の津浪で解明されれば興味深いし警告にもなるとい
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2012年03月28日

なぜ人は危険な海岸沿いに住むようになったのか? (弥生文明-米作りも自然破壊文明であった)


なぜ人は危険な海岸沿いに住むようになったのか?

(弥生文明-米作りも自然破壊文明であった)

●海沿いに人家が増えたのは米作りの結果


今回の津浪でみんなが思ったことはなぜあんな危険な場所に住んでいるのかということだった。三陸などは何度も津浪に襲われ大被害を受けていたのにやっぱり海近くに住んでいた。それは便利だからという漁業に便利だからそうなった。一方で宮城県から福島県の浜通りは津浪が来ないという思い込みが形成されていた。400年前に慶長津浪の被害があったのだか忘れられていた。でも慶長津浪の後に田を干拓して人は住んだのである。津浪のことを知らないで住んでいたのではない、津浪のすぐあとにも開拓していたのである。その感覚が今ではわかりにくい、その時の主要な産業が米作りであり米なしでは成り立たない生活だった。伊達政宗の伊達藩では特に米を商品化して石巻港から輸出していた。江戸で消費される米の量の3分の1にも達した。この米の量は多い。それだけの米を江戸に出すにはそれだけの田にする土地が必要だった。その土地が得るために海側を干拓したのである。津浪の後にもすぐに干拓している。名取の六郷には相馬藩士も干拓に入っていて記録が残っている。今の感覚だとわかりにくい、米余りであり高齢化でありあきらめるというのが現代の農業の現実である。

しかし江戸時代は米なしでありえない経済だった。売るのも米であり自ら食べるのも米である。米はその両方のために作らざるをえなかったのである。こういうことは戦後もつづいていたのである。

そもそも満州に日本が進出したのは農業をする土地がないというこが原因となっていた。その頃は農業中心の社会だからそうなっていた。あの寒い満州でも日本人は米作りに挑んでいた。それほど米に執着していたのが日本人なのである。だから日本の隅々まで米作りが行われた。その米作り故に海岸沿いにも集落が増えたのである。海岸沿いというとき漁業のことを思うが海岸沿いに人家が増えたのは必ずしも漁業だけではない、半農半漁の生活であり漁民は農民でもあった。漁業といっても塩作りも大きな産業だった。塩田が松川浦でも行われていた。双葉辺りでも戦後まもなく塩田があり塩作りして東京に売りに行っていたという。塩作りは大きな産業であった。塩田が大きな産業となり海側に集落が増えたともいえる。それと同時に米作りも海側に集落が増えた要因だった。磯部村にしてもなぜあれだけの人口があったのか?漁業だけではない、塩田となると原釜の方である。むしろ磯部村の前に広がっている田んぼが干拓されて作られたとき海側に人家が増えた。それは宮城県の広く干拓された名取などとにている。米を運ぶために運河まで作られた。そのために海側に人口が増えた。


●人は便利な場所から不便な場所に住む


村の新旧でも磯部の前は高台の古磯部が磯部であり海側の低地に人家が集中したのは新しい。海老村南海老村と下海老村があり北海老村があり海側の村は新しい村であり烏崎村も前は大内村との間に袋村があった。右田村もここでは漁業はないのだから港もないのだから湿地帯の低地を開拓してできた村である。海側に人口が集中したのはかえって陸地から米作りして増えたのである。漁業だけでは零細であり生活が成り立たなかった。なぜ海岸沿いに人家が集中してきたのかというと干拓して田を作り米作りのために集中したのである。ただ石巻のような港は違っていた。大きな港であり貿易港となっていた。日本は国土が狭いから土地がないから海側を干拓して米作りしてきた。それが今回の津浪の被害を大きくした原因だったのである。人間は人が増えると住むに適した地から不便な所に移るほかない、その土地で一番住み安い土地はその土地で最初に人が住んだ。南相馬市の鹿島区だと浮田国造(うきたくにのみやっこ)の置かれた地域であることが納得がいく。平坦な高台であり前は湿地帯になり海になっていた。海側の住みにくい場所を干拓して住んだのは人が増えて養うのにはそうした不便な所に人が住むほかなかったのである。ネパ-ルでもなぜ高いところ高いところとまるで天空まで人が住むのかというふうにさえ見える高いところに住む。それは山国だから低い所は人が住んで住めない、どうしても不便な地に住むほかないからである。鹿島区でも上萱は戦後開拓に入った人が住んだ。あそこもあんな不便な場所なのに住んだのは住む場所がないからである。


●文明とは自然破壊であり現代文明は自然から復讐を受ける運命に


こうした歴史をふりかえると国土造りを考えさせられる。縄文時代なら人口は弥生時代より相当に少ない、弥生時代になると米作りが盛んになり飛躍的に人口が増えたのである。しかしその人口を増やすために元の自然をかなり無理して使った。もともと海であったような住むには危険な地域も干拓して米作りして住むようになった。縄文時代は自然を無理やり開拓したりする技術もないからそんな無理をしないしできない、だから自然にとって適正な規模の生活をしていた。だから津浪のような大被害を受けることはなかった。そんな危険な場所には住めないからである。結局米作りは実際は相当な自然破壊の側面があった一大文明であった。農耕の道具として鉄器も使用したし灌漑事業でもあり大規模な土木事業でもあった。それで帰化人の技術者が活躍した。青松白砂の情景は日本的な自然な風景となったが実際は人工的な風景だったのである。しかしそれからが津浪で一挙に破壊されたのはショックだった。でもよくよく考えると米作りも一大文明事業であり自然破壊がありそれで自然から復讐されたのかもしれない、米作りなどは自然とマッチしたものであり自然と調和する文明だと思っていた。それでも自然破壊の面があった。文明とは自然を破壊してしか成り立たない側面がある。

米作りすらそうだった。その後の文明は自然破壊が未だかつてない巨大な規模で行われている。
文明が滅びるとか崩壊するというとき自然に対する負担が過重になるとき起こるのかもしれない、

今や文明は過去の弥生時代であれどれだけの過重な負担を強いているか、世界的な経済発展によりどれだけ地球に負担をかけているか、それは恐ろしいほどである。文明が崩壊するというときそうした過重な負担が限度に来たとき来るのかもしれない、その一つが今回の原発事故だった。これも本当は反自然なものであり自然破壊する最たるものだった。自然にない物質、毒を生み出して半永久的に自然を汚染してしまうものだった。一見そういうことを明確に認識できなかったが事故が起きてみんなその危険性を嫌でも認識させられたのである。原子力によって原子力文明によって自然は致命的に破壊され文明そのものが衰退して崩壊する。過去にもマヤ文明などが崩壊して消失した。その原因はわからないにししても高度な天文学や科学技術文明があった。それが何らかの原因で崩壊して衰退して消えた。それは原発事故と同じ様なことが起こったのかもしれない、そうした事故によって一挙に衰退し消滅したかもしれない、そういうことありうるんだということを原発事故から知ったのである。なぜ過去の文明が古代文明が崩壊して消失したとかが不明なのは人間では予測できないことから起きているからである。今回の津浪も想定外の自然の力が加わり原発事故が起きた。予測し得ない力が自然にはありとてもそれに備えることは人間にはできない、そこに人間の限界がある。だから原発のような危険なものは作ってならない。文明が滅びるのは人間の予測し得ないものから起きる。人間は未来をしることはできない、未来は神の手の中にあるからだ。それを知ることはできないのである。それは個々人の運命すらそうである。個々人の宿命や運命も不可解なものと同じ様に人間の未来もしりえようがないからだ。

つまり文明は予測しえない、意外な原因で滅びる・・・・


穏やかな雲間に雷雨が潜むように

今日私に媚びるものが明日には私を傷つける

ほとんど重量とてないとるにたらぬ原子から

世界は最後の審判を受ける
(ハンス、カロッサ)


偶然に原子力が発見された、そしてその原子力が核が基で世界が滅びる、それは予測すらできないことだった。人間は全く予測しえないことで滅びる、予測しえないからこそ人間は危険を知らずに住んでいる。でもある時原発事故のようなものが起こりたちまち滅びてしまう。神にはかわっていた、そんなものに人間よ、手を出すなと・・ただ警告しても人間はきかないから滅びる。神によって滅ぼされるのである。いづれにしろ今回の津浪や原発事故ほど驚いたことはなかった。一年たっても以前としてこれは何なのだろうという疑問が消えないのである。
消えた村

一瞬にして村は消えた

その自然のなみする力の脅威よ

ここの集落に一軒の家もない

もとの海岸の砂州、砂地にもどった

ぼうぼうと風が吹き集落の跡は砂に埋もれる

千本の松は一挙に消えさり

ただ一本の二本の松が辛うじて残っている

ここにあったものは何もない、何もない

ただ人は茫然とたたずみ無常

何もない、何もない、ただ風の音、浪の音

思い出は砂に埋もれてしまった

一枚の写真が残る、それが過去の記憶

あとはみな消え去ってしまった

ここにも春は来たが春はない

村人は散り散りになり人はもうここには住まない

無人の境にただ風が鳴るのみ

 
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2012年03月27日

津浪から一年すぎた松川浦-(海老村)の写真


津浪から一年すぎた松川浦-(海老村)の写真


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海老村は墓所が残り家はほとんど消えた。

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パノラマ写真

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八沢浦干拓の碑

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磯部の近くの神社の杉

塩害で枯れるから切ったのか?はらまち一葉松も塩害心配されている。

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岩の子の蔵は残っていた

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岩の子の塩釜神社

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慶長津波の後に復興して建てられた

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船溜には船が積み上げられていた
あそこは一軒も家がなくなった


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パノラマ写真(クリック拡大)

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原釜に残った松

沖には船が見えた。


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パノラマ写真クリック拡大

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新沼までは津波は来ないにしろかなり近くまで来ていた。
飢饉のことはもう忘れて春の日がさしていた。
しかし津波は近くまで来ていたのだ。飢饉は語られていたが津波のことは
語られなかった。津波の被害も大きかったはずなのに語られなかった。
飢饉で三分の一人口へったから飢饉の被害の方は語られ続けていたのである。


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沖に船海面光りて朝雲雀

津浪こぬ高台にさす春日かな

春日さし遠き昔や飢饉の碑


家消えて墓所のみ残る海老村に春の日さすもあわれなるかな


大杉のここに一本社あり春の日さして形見と残す


津波にも残る文字島春日さし向き合う形しげしげと見ゆ

津浪にも残れる松や春日さし船の入りくる原釜の港


春北風(はるきた)に松川浦の波だちぬ鴎飛びつつ港の跡かな


船溜(ふなだまり)春の日させど荒寥と松川浦に松の残骸

飢饉の碑遠き昔や春日さしまじかに迫る津波の恐怖


海近く湿地の沼に春の日のまばゆく光り雲雀鳴くかも



家とか松原がなくなったから見晴らしが良くなった。遠くに船が見えて春の日に光り雲雀が鳴いていた。海老村では墓所だけが高いところにあり家は消えた。墓参りはできても家がないからがっかりするだろう。この逆だと良かった。墓は流されてもいいから家が残っていればなと思うだろう。
他でも墓は残って家がなくなっている。石巻がそうだった。墓は残り先祖に祈り家はないというのも奇妙である。


磯部は古磯部がありそれは高台の方であり磯部で古く住んでいたのは高台の方だったのだ。古町が古いのであり古磯部が古いのである。低地に住んだのはあとだった。磯部は砂州のような地形になっていた。そういう危険な場所に住んだのは慶長の津浪の後だろう。でもその記憶があれば怖いから住まないとなるが便利だから住むようになった。松川浦から魚をとるようになって住むようになった。
磯部は家が多かったから被害も大きかった。一軒の家も残らなかった。

磯部から少し離れたところに神社があった。あそこにあったのを知らなかった。大きな杉が一本あった。それもきられた。半分残っているのが奇妙だけどずいぶん大きな杉だったことがわかる。


松川浦には杉の残骸がまだかたづけられず大量に残っていた。どれだけの松が流されたかわからない。岩の子に蔵が一つ残っていた。あそこはかなり津浪の被害が大きかった。浦にも近いから津浪の衝撃も強かったが蔵はそっくり残っていた。蔵は津浪にも強いのかもしれない、岩の子の塩釜神社は小高い丘にあった。あそこに逃げれば助かった。あの神社は慶長津浪があった次の年に復興して建てられた。小高から中村へ今の相馬市に城を移したのが慶長津浪から一か月後であり次の年に復興したとあるから津浪の被害があって復興したと記したのかもしれない、ただ神社が建てられたのはそれより300年前とかになっている。それが本当だとすると神社もずいぶへ古いとなる。津浪は余りにも被害が大きいし驚くべき恐るべきことだから何らか記念として残すということがあっても不思議ではない、ただ時間がたつにつれて忘れられてしまったのである。


文字島が残ったのは不思議である。あれだけの津浪だから破壊されても不思議ではない、でも残っていた。津浪に残るというだけでそれが貴重なものに見えるのも確かである。この形が人が向き合う形でもある。一方は男であり一方は女にも見える。この島にはさほど注目していなかったが津浪に良く残ったと思い今回は注目した。


原釜の津神社(つのみや)は高台にある。あれも慶長津浪の記念に建てられたのか縁起は記されていない、でもあそこに逃げれば確実に助かった。松川浦は一軒食堂をやっていたが閑散としている。
高台は春の日がさして助かって良かったなとぽかぽかした気分になるが被害のあった地域は悲惨である。高台で家が助かっても回りが悲惨だし仕事も松川浦全体でしていたから影響をもろにうける。高台で助かったとしても回りの影響で仕事にならないとか空き地や空家があった。これは石巻とかでも同じである。あそこも全体への影響があまりにも大きすぎたのである。


松川浦の原釜から新地の方に行くと沼があった。溜池らしいが湿地帯の沼に見えた。もともとこの辺は湿地帯で沼が多かったのだ。海岸近くは湿地帯であり沼地だったのである。

原釜とか釜石とか鎌倉とある釜は噛まれたような地形と指摘していたがそうかもしれない、それより釜は鎌であり鎌の形をした地形である。原釜もそうであり鎌倉もそうである。地名は地形と密接に関係していたのである。

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2012年03月20日

津浪とロトの妻の運命 (財産に未練を残した結果死んだことでは同じ)


津浪とロトの妻の運命

(財産に未練を残した結果死んだことでは同じ)

一刻も早く町の外に脱出すること。そして、低地に留まらずに山中に逃れること。また、山中に入っても、いかなる事態になろうとも、決して後ろを振り返ってはならないということなどである。
 しかし、その忠告にもかかわらず、ロトの妻は、残して来た財産への未練なのか後ろを振り返り、塩の柱に変わり果てて死んでしまうこととなる。


今回の津浪ほど驚いたことはないし恐怖したことはない、まさにこの世の生き地獄だった。だから未だに現実ではない、夢のような感覚からぬけだせないのだ。現実に被害にあった人はなおさらそうなっているだろう。村ごとなくなってしまっている、街すらなくなってしまった。それも一瞬にしてである。それが現実に思えない、ただ茫然として津浪の跡に立っている。これは戦争中のような焼け野原のような体験がないから余計にそうなのかもしれない、異常なことを体験していればこういうことは世の中にある、戦争体験者ならそう思うかもしれない、戦後60年はあまりにも平和な時代だったとなる。


一時は津浪原発事故でこの世の終わりかとさえ思った。本当にこの世の終わり聖書で予言する終末が来たのかと真剣に思い驚愕した津浪と原発事故はそういうこの世の終わりともなるような恐ろしいものだった。放射能については恐怖していなかった。放射能の怖さを知らないからこの辺では屋内退避だったけど外に出ていた。本当は爆発したときなどこの辺にも3時間くらい20マイクロシ-ベルトとかになっていた。その時ヨウソを吸うと甲状腺癌になっていた。これは8日間で消えるが大量に被曝したらそうなっていた。だから避難しなかった人や浪江のように津島などの飯館方面の山側に逃げた人は被曝した。ヨウソは大量にばらまかれそれらは8日間で消えた。だからこそ最初の時期に素早く避難することが必要だったけど放射能の無知からそうしなかったし政府でもそうさせなかった。
その時も安全だ、安全だと言っていたのである。つくづく人間は危険から素早く避難できない、それは津浪でも起こったことである。


ロトの妻は、残して来た財産への未練なのか後ろを振り返り、塩の柱に変わり果てて死んでしまうこととなる


津浪では野良仕事にでていても避難勧告がでて家に通帳とかなにか取りに行った人は死んだりしている。野良仕事していたらそのまま逃げなければまにあわない、そういうことを語っていた人がいた。それほど時間が切迫していたのである。財産に未練があり家に帰った人は死んだケ-スがかなりあった。タンス預金もあったろうし通帳は大事だから通帳だけはと家にもどったりした人は死んでいる。緊急のときはそういう余裕すらない、着の身着のまま逃げるほかない、もし財産に未練残していたらロトの妻のように死んでいる。津浪の被害にあった人はロトの妻と同じ様な恐怖を味わったのである。

ソドム、ゴモラも一瞬にして消失した。その後に海の水が流れ込み死海が生まれた。地殻変動があったから巨大な地震が起きたのかもしれない、今回の地震でも地盤が沈下したからだ。街自体がなくなるという光景が信じられない、でもヒロシマ,ナガサキは原爆投下で焼け野原になったから津浪の被害よりケタが違っていた。その凄まじい光景は津浪より恐怖であった。大きな街が一瞬にして消失するということが過去にもあった。それは別にソドム、ゴモラだけではない、日本にもあったし被害にあった人も目撃した人もまだ生きているのだ。草戸千軒なども災害で消失したのだろう。ただ東北では神戸の地震被害もヒロシマ、ナガサキも遠いからなかなか実感しえないものとしてあった。ただ今度の津浪の被害は目の前で起こったからショックだった。こんなことがありうるのかというショックであり被害にあった人人も夢うつつになっているのではないか?あまりにも急激な変化を人は受け入れられないのである。


ただこうした緊急の危機の時は財産に執着すると命も助からない、命あってのものだねとなる。現実に着の身着のままで逃れて仮設住宅に住んでいる人がかなりいるのだ。その人たちはただ命が助かったというだけであった。それでもだんだん時がたつと失った財産が惜しいとか財産への執着がでてくる。金も必要になってくるからどうしてもまた失った財産のことを思うようになる。


一刻も早く町の外に脱出すること。そして、低地に留まらずに山中に逃れること・・・・・


ソドム、ゴモラは低地にあり海とつながり海の水が流れてきて水没もした、低地はやはり危険なのか?低地には水がながれこむ、人はもともと低地には住まなかった、海に接ししていても低地には住んでいない、邪馬台国というのは台とあるのは高台のことである。水の危険を感じていたし低地は湿地帯などであり住むことができなかった。


もう一つは一刻も早く街から脱出すること・・・それは家が密集している街から脱出しろ・・・ということである。そこは火の海になったり建物が壊れその残骸が流れて危険になる。家の密集した所は災害のとき危険になる。ということは東京や大都会はもはや街から一刻も早く脱出できないからいかに災害に弱いかわかる。帰宅困難者とかあふれ大パニックになる。古い建物が密集しているところもあり神戸のように火事になったら最悪である。つまり東京などは山中や高台など逃れる場所がないのだ。津浪ではまだ後方に逃れる場所がある地域だったがと東京などは逃れる空き地もないし高台も山もないのである。その恐怖をリアルにイメ-ジしたら戦慄するだろう。今からでも東京を脱出しておく方がいいと逃れる人がいても異常ともいえないのである。すでに大地震が近々予測されているし確実なのだから。


今回の津浪のような大災害はやはり人間の想定を越えているから何らかの神意があって起きたのかと思う。原発のような危険なものを作るなとか日本人に対しての神からの警告だった。しかしなぜその警告をまた無視して原発を再稼働させようとしているのか?さらなる災害が今度は西の方に東京の方に起きることはまちがいない、日本人はまだ真剣に反省していない、最後のとどめをさす災害が起きる。そして日本は海に囲まれて逃れる場所がない、放射能でも狭い日本では逃れる場所がない、日本は滅亡してしまう。放射能で飢饉が起きる、日本で放射能汚染で食べるものがなくなる。それでも日本人は原発に固執する、映画で原発を神と崇めて滅んだ人々のように、あれはアメリカであった。
日本もまた同じ運命をだどる。核は軍事力としてもあり平和利用はいいとされたが核で滅びるというとき核戦争でも原発でも滅びることで同じだったのである。核そのものの利用が人類を滅ぼすことになっていたのだ。それにヒロシマの被害者は気づかなかった。原発に賛成していたのである。

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2012年03月17日

津浪で失われた風景 (春の海-海岸沿いをゆく-大熊-請戸)


津浪で失われた風景

(春の海-海岸沿いをゆく-大熊-請戸)


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熊川-請戸(写真)
http://musubu2.sblo.jp/article/17459204.html


過去の情報としてこれは貴重だった。熊川から海に出た所だった。ここは明かに津浪にやられた。
家もあったからその家も流されたし死んだ人もいるだろう。
浜通りで海をみて俳句を作っていた人がいた。農家の人だった。


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春耕や一時休み沖に船


耕しというのがあった。海辺の農家だったら海を見ている。そういう風景は普通にある。
海江田とか海田という地名はあっている。広島県安芸郡海田町があり海田駅もある。瀬戸内海辺りだとそれは日常的な風景だろう。この辺は海が荒いし海は親しみ安いものでもなかった。


ともかく大熊や浪江は警戒区域で入れないのだからこの写真は貴重である。熊川の桜も津浪で流されたかもしれないし人が入れない、請戸の港の写真も貴重である。あそこは一軒の家もなくなった。
土台しか残っていないことが信じられないのだ。この辺は全く春が来ない、春が失われてしまったのだ。

春耕がこの辺では見られない、南相馬市では耕作していないからだ。相馬市に行けばまだ春耕はありうる。いづれれにしろ海辺の方は津浪の被害で春耕という平和な景色は見れない、殺伐としているのだ。

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2012年03月11日

黙祷(震災津波より一年)


黙祷(震災津波より一年)

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津波より一年過ぎぬ亡き人の思いの深くここに留まる


志津川の湾の巌に大輪の浜菊咲きて夕べ明るし


北海道日本海側磯菊の咲きつづきつつ風の荒しも

震災から津波から一年たった。海の方に向かって黙祷した。故郷というとき今の時点だけではない時間がそこには積み重なっている。死者も故郷にいるのだ。墓参りの地として故郷もある。死んだ人とともに思い出がそこにあるのだ。だからなかなか故郷を離れられない、田舎だとどうしてもその土地に愛着をもつし土地と一体化する。長く住むとその土地の樹や石のらうになってゆく・・・それが生物として自然なのことである。そして故郷の土になる。時間のなかで積み重ねられたものはなかなか外の人には理解しにくいのである。だから旅してもその土地の歴史を理解することがむずかしい。特に外国にゆくとそうである。二千年の歴史があるといってもその場にたっても理解できないのである。それは東京にもう日本人だって江戸時代をしりえようがないのと同じである。余りにも変わりすぎてしまったからである。そうした時間として積み重ねられた歴史を奪ったのが原発事故でもあったのだ。

富岡町でまだ生活していた人がいた。90何才かの母親を介護しているから家で死にたいといっていたから家に留まった。原発事故では死んだ人は一人もいないというがその関連で百人くらい死んでいる。老人が衰弱して死んでいるのだ。自分の家も同じ介護があったから逃げられなかった。そのことを余り報道されていないのである。今回は実際はこれだけの被害だから報道されないことはいくらでもある。1万5千人も死んだらその一人一人が語られないからである。特別目立ったものしか語られない、そして数が多いからみんなに注目できないのである。
南三陸町というとき前は志津川町と言っていた。町名が変わったから今まであそこが志津川町だと思わなかった。町名が変わることも困る。川にちなんだ名前だがその志津川を津波がさかのぼったことを知ったから思い出した。南相馬市も名前が変わった時、何かしっくりこない、なじんでいないからそうなる。原町市というのがなじんでいたからその方がピンとくる。あんまり市町村名は変えない方がいいということがこれでもわかる。志津川町は志津川というとひびきが良くかえって前の名前が良かった感じがする。南三陸は広い地域にしたからわかりにくくなったのだろう。南三陸は他から見てわかりにくいのも難点だった。

津波はまず川からさかのぼってくる。多賀城の砂押川もさかのぼった津波を見たとき恐怖した。あの小さな川に津波の水があふれたのである。ここも真野川から津波がさかのぼりあふれるということがあったから恐怖した。それにしても志津川町は前が穏やかな湾で静かな町であった。陸前高田も大きな広田湾があり静かな所だと思った。それが一転して悲惨なもの凄惨なものになった。津波にとっては危険な場所だったのである。


志津川町で記憶に残っているのは巌に大きな白い浜菊が咲いていたことである。あそこでも長い間訪ねたことはないから記憶から薄れていた。だから南三陸町になったということがわからなかったのだ。海辺に咲く菊というときこの辺では南限の地として車輪梅が有名であった。それも根こそぎ津波でなくなった。それから北海道の留萌辺りを自転車で走っていたとき、磯菊が咲きつづいていた。
黄色の磯菊は日本海側にあった花だった。地に根を張り生命力がある花の感じだった。やはりその土地にあった花というのがある。車輪梅というのは奄美の方に咲く南国系なのである。

太平洋側の黒潮流域としてつながりがあった。これは明るい感じであり磯菊は何か渋い感じの花である。日本全国を旅ばかりしていたけどその土地にあったものが思い出となる。花もその土地にあったものだと思い出として残る。ただ思い出も日々薄れてゆくだけなのである。留萌辺りは風が強いことで有名な地帯だった。自転車で走るのには向いていなかった。それも記憶が薄れてしまったのである。これが車だとその風の記憶さえ覚えていないだろう。便利なんだけど記憶に残る旅をしないとあとでふりかえることもできなくなる。


震災から津波から一年たったけど自分の住んでいる場所は原発事故から30キロ圏から数キロ離れたところであり津波の被害もなかった。飯館村のように放射能の被害もあったにしろ故郷を離れるようなこともなかった。そういうことで比較的客観的に冷静に見れる立場にあった。だから俳句とか短歌を書けた。当事者の気持ちにもある程度なれた位置にあった。被害をもろに受けた場所にあったらこうして客観的に冷静になっていられなかった。現実に津波で家も家族もなくした人はその場に立ったら川柳も作られなかったのである。ものを書くにはやはり客観的にならないと書けないのである。
自らが過酷な被害者になると客観的になれない、いろいろ書けたのはそういう客観的立場にたてる位置にあったからでる。

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2012年03月10日

深夜にあの津波に襲われたら、死者は10万人に達していた (津波を見てから逃げて助かった人がかなりいた)


深夜にあの津波に襲われたら、死者は10万人に達していた

(津波を見てから逃げて助かった人がかなりいた)
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1331076028/

陸前高田にボランティアに行った
そこで地元の人の話を聞いたんだが
「生き残った人は津波を見て死に物狂いで逃げた人が多い

死んだ人は波を見ることが無かった人だ」と言うことだった


津波を見なかったので、最後までのんびりして死んだ人が多いらしい

そうすると波の見えない夜中は警察の言うように
死者は爆発的に増加したはずだ 本当に昼間で良かった


こういうこともあったんだな、磯部の人も一波の浪が防波堤を越えてから車で逃げた。他でも最初の浪は大きくない、でも浪が防波堤を越えて来たら即逃げないとまにあわない、津浪を見ようと海の方に行った人はかなりいる、津浪はなかなか経験したものしかわからないのだ。
テレビでは津浪を見てから必死に逃げていた人がいた。あれでも助かっている。津浪を見て必死で逃げれば助かることもありうる。津浪を見ない人は助からなかったということはわかる。
津浪が家にさえぎられて見えないので恐怖を感じず被害にあった人がいる。


海は今は松原や家や街にさえぎられて見えない場所が多くなっている。相馬から宮城の海岸線でも海が見える所がないから普通海を意識していないのである。山元町でもあそこであれほど被害にあったことに驚いた。そんなに海側に家があったのか、松原で海が見えないから普通海を意識していないのだ。駅には新興住宅地があったから家があったことはそれなりに意識していた。ただ海は意識していなかったのである。例えば今回のように松原も家もなくなり海が広々と見えるようになったとき、もし津浪が来たら肉眼で見て津浪を来るのを知ることができた。他の人も高い建物から津浪を来るのを見ていた。それでビデオにとっていた。その様子は危機感がなかった。、たいしたことないと見ていた。最初はみんなそうだった、だんだん高くなってきたので驚いたのである。


津浪に関しては経験がない人がほとんどだからのんびり構えていた人が多かったのである。だから海の方に見にゆくとなった。昼間だから津浪を見て裏山に逃げたりして助かった人はかなりいた。
裏がすぐ小高い丘になっている所がありそこに逃げて助かった人がいた。津浪が来るのを見えて家の裏山に逃げて助かった人もいる。昼間だから津浪が見えて助かった人は確かにかなりいる。夜だったら津浪が見えないから死者が十万人とかありえたかもしれない、夜はそれだけ津浪では危険だったのである。津浪に対する危機意識は低いから余計見ない限り逃げないという人もいた。


南相馬市の鹿島区の大内の人も右田浜の松原を軽く越える津浪を見てからトラックで逃げたと言っていた。これも津波を見てから逃げて助かった一人である。もし夜だったら逃げられず流されて死んでいたかもしれない、昼間だったということが幸いしたことは確かである。
つまり津波を見て逃げて助かった人がかなりいるということは夜だったら被害は十倍にも拡大していたということはありえる。考えてみると津波が夜来た場合の訓練をしていない、津波の避難の訓練は昼にしているからだ。こういう所も盲点なのである。今度は夜に地震がきて津波が来るかもしれないのだ。そういう備えをしている人は少ないのである。そしてまた大きな被害になる。
東京辺りでも夜に大地震がきて停電になったりしたら情報も入らないしパニック状態になり騒乱状態になり被害が拡大化する。懐中電灯すら探せず真っ暗な中で取り残されて津波が襲ってきたら最悪である。


ともかく現代は海が近くても海が見えない所に住んでいる人が多い、津波の映像でも家が密集しているから津波が襲ってくるのが見えないのである。松原によってもさえぎられているから遠くから津波が来るということは見えない、海は今は松原であれ家であれ高い建物であれさえぎられて見えないことが多いのである。海が近くても海を意識しないことが多いのだ。そこが盲点となり津波の被害を拡大化した。自分の場合、郷土史とか研究してここはもともと海であったとか常に書いてきた。その所が津波で海になったことに驚いた。もともと海だったところは何らか海として意識する必要があったのかもしれない、多賀城市でも東松島町でも自衛隊の駐屯地として海側に作ったのは失敗だったと今は反省している。ここでも津波の備えはなかった。ただ多賀城市では奥に入った地域だから津波は来ないとされていた。でもその見通しが甘かった。そもそも太古は海が深く入り込んでいた。それで沖の石があった。そこまで海の底だったのである。

そういう太古の状態があった。都会化したことによって海が見えなくなり海は意識されなくなっていた。多賀城市などは全く海を意識できなくなっていた。多賀城市の場合、駅前の砂押川に津波があふれたのである。この川はかなた海に近かったのである。ただ家やマンションやビルや工場地帯が密集しているから海の視界が全くさえぎられてしまったのである。川は津波では遡上してくるから危険だった。川を通路にして津波が遡上してくるからである。

今はどこでもそういうことがありうる。海は松原であり家であれ工場であれ何かそうした文明化したものによってさえぎられ見えなくなっている。海が意識されにくくなっているのだ。

海に囲まれた日本なのだけど意外と海の近くでも海を意識していないのである。海岸沿いに住んでいても海がさえぎられていることが多いと海を常に意識しているわけではないのだ。
ともかく江戸時代に松原を防潮林として作ったとき海への視界がさえぎられた。そのことを危険なものとして指摘する人はいない、松原は白砂青松の日本的風景として定着していたのである。
松原は美しいのだけど遠くから海が見えにくくなったとか気にしている、危険を感じた人はまれだろう。ただ津波がおしよせてからその津波を見て逃げて助かった人はかなりいる。津波は見えてから逃げても助かるということである。地震は見えないから助からない、津波は一応見えるので見てから逃げて助かる確率があるということなのだ。

津浪で蘇ったみちのくの歌枕-古歌
(南相馬市八沢浦から末の松山-野田の玉川)

http://musubu.sblo.jp/article/54362182.html

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2012年03月09日

津浪で蘇ったみちのくの歌枕-古歌 (南相馬市八沢浦から末の松山-野田の玉川)


津浪で蘇ったみちのくの歌枕-古歌

(南相馬市八沢浦から末の松山-野田の玉川)

●津浪で意識させられた海

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八沢浦の夜雨 磯桜八沢が浦の夜の雨に浪のうきねを明かしかねつつ


長岩の晴嵐 雲晴れて入日移らふ長岩の松にしぐれを誘ふ浦風


南相馬市の鹿島区の八沢浦は歌枕として注目されていない、地元の人でも注目していない、ただ今回の津浪で八沢浦が元の満々と水をたたえた入江にもどったときほど驚いたことはない。前からここは海だったと想像してその合成写真も出していた。実際に海になったときは想像を越えていた。
浪が奥に打ち寄せキラキラと春の光にきらめいていたのである。この光景を見たのは一回だけだった。浦浪というのをここではじめて見た。この辺は海岸沿いは荒波しかないのである。だから入江があり浦浪がよせる景色はなんとも穏やかで美しいものだった。それは一時奇跡の光景だった。
ここは明治になってから開拓されたのである。


磯桜八沢が浦の夜の雨に浪のうきねを明かしかねつつ


磯というときこれは入江が磯となっていたのだろう。この辺では磯はない、浪のうきねというとき入江によせる浦浪だった。そもそも磯桜という表現はあまりしないだろう。これを歌った人はやはり海辺の磯のある所に住んだいた人なのか?京都の人でもそういう風景に親しんだ人かもしれない。
浦浪がよせてきて旅人は興奮して眠れない、そういうことは旅では良くある。桜が咲いていたということは美しい光景だった。それは入江があり浦浪がよせることで美しい光景となっていたのである。長岩というのも海に浮かんでいた。確かに長い岩であり松がその上に今もある。
みちのくの真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを・・笠女郎の歌の草原も地名だと考証した。その塩崎の市庭とか船着という地名が残っているところまで津浪が来たことには驚いた。古代の海の情景を津浪が再現したのである。


八沢浦は八つの浦だった
http://musubu2.sblo.jp/article/44187778.html


今回の津浪の影響はより海を意識するようになった意識させられたのである。海は別に近いのだから特別意識する必要もないというが常磐線で海が見える所はわずかだから電車に乗っても海を意識しない。相馬から仙台で海を意識するのは新地駅だけどそこもわずかかしか海が見えないのだ。今回の津浪で六号線でバスでゆくと広々と海が見えるようになった。今までは町や松原でさえぎられて海が見えなかったのである。浜吉田とあっても浜だから浜があるはずだけどあそこで海を意識したことは一度もないのだ。海はかえって遠くにあると思っていたのである。その浜吉田駅まで津浪が来たことには驚いた。昔は広々と仙台までの常磐線沿いは海だったのである。


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六号線のバスから海の方を見たら沖に船が見えた。まずこうした景色は見れなかった。海は近くても見えなかったのである。景観が変わってしまって海が広々と視野に入ってくる。一面この光景は海を意識させるし新たな景観を作り出したというより元の海の景色を再現したといえる。


●末の松山をたずねる


末の松山は多賀城駅から近い、多賀城駅まで津浪が来たのも驚きであった。今度は高架橋を作り駅を作っていた。末の松山は砂押川の橋を渡り近かった。駅からもその松山が見える。末ノ松山から沖の石まではかなり落差があり末ノ松山の下が海でありあの石が沈んでいたのだろう。その感覚はやはり歩いて見ないとわからない、あの辺には古い農家があり蔵が残っていたからわかった。そこにも津浪の被害があった。新しい街並のなかに古い農家が埋もれていたのである。津浪でも蔵はここでも残っていた。


春の暮末の松山残りたる松二本や浪こさじかも


享保四年(1719)の「奥州観蹟聞老志」に「丘上有青松数十株」とあり、当時、数十本の松が群生していた。しかし、仙台藩の儒学者舟山万年が著した「塩松勝譜」によれば、それから百年ほど後の文政六年(1823)ごろになると、わずか五本を残すのみとなった。

末松山(末音寿衛)。附宝国寺。八幡坊々側寺アリ。宝国寺ト云フ。寺後ニ高丘アリ。累々墓ヲ為ス。是末松山ナリ。往時ハ松樹、山ニ遍満ス。今存スルモノ僅カニ五株。而シテ其最モ東ノ一株、之ヲ末松ト称スルナリ。
(「塩松勝譜」)


多賀城は高いマンションとか工場地帯でありここは確かに太平洋汽船の船がでているから何度も利用したにしろ多賀城でもビルや家にさえぎられるから海を意識しない。海が全くさえぎられているし海が見えないから海を意識しないのである。だからあえて歌枕の地でも訪ねることはなかった。そういう情緒がまるで感じられないものとなっていたのだ。それはすでに江戸時代にも古代の面影はなくなっていた。あの辺で古代を感じることはほとんどなかった。ただ今回の津浪で古代の海を意識するようになったのである。多賀城駅の前の砂押川にも津浪が押し寄せて被害があった。津浪はまず川をさかのぼる。それでこの辺でも被害があった。この川は実際は海に近いからかなりの勢いで津浪が押し寄せた。それではじめてこの川は海とつながっているのかと意識した。普通あの辺は住宅が密集してビルが高いから海を意識しないのである。つまり今回の津浪は今まで海を意識しないところが海を意識させられたのである。だから砂押川に鴎が飛んでくるとき海が近いから当然鴎が飛んできてもおかしくない、鴎も津浪と同じ様に川をさかのぼる。それで枯葦がしげっていたので古代の風景を思い浮かべることになったのである。今まではこの辺は何か都会化した殺風景なものとしてしか見ていなかったのである。


枯葦に昔の面影砂押川


早春や多賀城駅に鴎飛ぶ

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こんな句ができたのも津浪の影響だった。それから野田の玉川の昔の光景も浮かんできた。


ゆふさればしほ風こしてみちのくののだの玉河千鳥なくなり 能因


ふままうきもみぢのにしきちりしきて人もかよはぬおもはくのはし (山家集-西行)


仙台藩の儒学者佐久間洞巌著「奥羽観蹟聞老志」(享保四年<1719>刊)によれば、「野田の玉川」は、往昔、月影を映し、海水が遡る河流だったが、当時、既にその面影はなく「唯野田の溝渠(みぞ)を遺すのみ」の小流になっていたという。


「思惑の橋」というときここがすでに人間臭い橋となっていた。でも古代は淋しい風景だった。
潮風が吹き千鳥が鳴くのみの淋しい光景だった。そういう光景をこの辺からは全く思い浮かべることもできなかった。情緒が全くない景色だったのである。まず潮風自体感じないし吹いてこないのである。津浪で見直すべきは多賀城を中心とした地域は海に近く海を意識しないでは語られないものだったのである。だから浮島神社があるというのもそのためである。多賀城近くに海に浮かぶ島があったのである。そしてなぜこれほど末ノ松山とかが都の人に意識されたのか?

それは貞観津浪というのは赴任した都の人にとっては驚くべきものであり忘れられないものとなっていたから京都に伝えられた。貞観津浪の供養のために祇園祭りがあったということもそのためである。それだけこの津浪は衝撃的だったのである。

宮城野というともともと淋しい地域だったが宮城野には全くその面影はない、でもそこから小鶴新田まで来るとまだ野が広がっている。宮城野延長としての野の感じがまだ残っているのだ。ここからは雪の残る泉が岳も見えて気持ちよかったここで意外な発見は古歌が残っていた不思議である。


千歳ふる 小鶴の池も かわらねばおやの齢(よわい)を 思いこそやれ (源重之集)


こんなところに新興地にこんな古い歌が残っていたのが不思議である。小鶴の池は変わらないけど親の齢はたちまち変わり老いるものだという意味だろう。しかし今や小鶴の池はないしその自然こそまるで変わってしまった。古代では自然の変化はすくないからこの歌ができたのである。つまり自然は変わらないものだが人間は変わるものだというのが古代の常識である。今は自然の方が先に変わる。
小鶴新田辺りから多賀城辺りまで今も田野が広がっているからかえってあの辺が古代を偲べる。多賀城市は家が密集してビルが高いからかえって古代を意識できないのである。歴史はやはり地理であり原始の状態からその歴史をたどる必要がある。それが都会化するとできなくなるのだ。今回の津浪はそうした古代の情景が再現されて海をより意識させられたのである。


仙台から小鶴新田で途中下車(仙石線の旅)
http://musubu2.sblo.jp/article/29398767.html

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松島は大きな島が防波堤になり被害が少なかった (松島は普通に観光できる)


松島は大きな島が防波堤になり被害が少なかった
(松島は普通に観光できる)

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松島の地形は複雑であった。200くらいの島がありその位置関係がわかりにくいのだ。松島の津浪の被害は少なかった。今行ってみるとどこが津浪の被害を受けたのかわかりにくい、石巻とは大違いである。観光に行っても別に悲惨な状態がないからいつものとおり観光できる。それでも観光客が半分に減っているという。その原因が津浪というよりは原発の放射能の風評被害だという。放射能の方を怖がっている。これも変だなと思った。ただ牡鹿半島から一関の方に放射性物質が流れ一関にホットスポットができたというのは風の流れでそうなったのである。風の影響でとんでもない遠くに影響するのが放射性物質の流れだった。

それにしても津浪は瑞巌寺の門を入ったが本堂に入る入り口の入場券を売るところでとまっている。あの辺までしか来なかったのかという意外さである。地図を見ればわかるように宮戸島や寒風沢島とか大きな島がありそれによってさえぎられたのである。あれは島ではなく半島かと思っていた。

この辺の地理はわかりにくい、地図を見れば確かに松島はこの大きな島によって守られていたのだ。一方宮戸島や寒風沢島とか防波堤の役割をした島はそれなりに被害が大きかった。
そして多賀城市もかなりの被害があった。前に島があっても宮戸島や寒風沢島のような大きな島ではなかった。それでそれなりの被害があった。塩釜も被害があったがここは多賀城市の隣でも入江となっていたので津浪の勢いをそいだ。津浪は地形によって被害が違っていた。前にちょっとした丘のようなものがあっても津浪の勢いがそがれる。津浪をまともに受けた海岸線は壊滅した。


松島の人が言っていた。風呂の水があふれるように津浪が来た。なるほどと思った。もろに津浪が根こそぎ松や町を破壊したりしなかった。徐々に水があふれ水かさがましてゆく、1.2メ-トルくらいの高さで確かに松も水にくぐったとしても松は倒れなかった。水の勢いがただ風呂の水があふれるように徐々にあがっただけだったからである。石巻の方を見れば前に何もない、海の前に島もなにもないからもろに津浪を受けて被害が甚大なものになったのだ。津浪の被害は今でも凄惨な感じがする。相馬辺りでも磯部は一軒も家がなくなった。石巻でもそうだが凄惨なものを感じてしまう。

しかし松島はそういう凄惨も被害はない、どこが被害にあったのだといぶかる。海に面した松や樹が倒れて流されたというがそれもほとんどわからないのだ。松は今まで通りあるからどこが被害にあったかわからない、牡蠣は被害にあって半分にへったという。今までは大きな牡蠣を出していたが小さな牡蠣でまずかった。そういう影響はあった。風景そのものは何ら変わっていないからほっとした。ちょうど春の日がさしていて海は穏やかに輝いていた。松島だけは地形によって救われた感じだ。

野蒜海岸でも前に大きな島がないから大きな被害になった。あそこの松は流された。

いづれにしろ松島は別に観光でも普通に行けるし違和感がない、石巻などは観光というわけにはいかない、まだ凄惨な感じが生々しく残っているからだ。それであそこだけは救われた感じがした。
風光明媚な風景は何ら変わっていなかったのである。

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2012年03月01日

津浪で流された家の跡に残っている二本の木の不思議 (春の日に金沢や烏崎をめぐる)


津浪で流された家の跡に残っている二本の木の不思議

(春の日に金沢や烏崎をめぐる)


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小高工業のプレハブ校舎

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一葉松

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港の松
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公園に三本の木春日さす


街離れ一葉松や残る雪


春の日や勢いよくも鵜の飛べり


人はなし港の跡に春の鴨


春の日や港の跡に松二本


二本の木の残るかな家の跡人は帰らじ春となるとも


どういうわけか津浪の跡をめぐると必ず家の跡に二本の木がある。対になったように二本の木が残っている。一本ではなく二本なことが不思議なのだ。松も一本のところがあるが二本が対になって残っているのがある。そしてその木や松はあの脅威の津浪のことを語っているようだ。生き残ったものとして語っている。つまり生き残った松は貴重なのである。戦友のように生き残っている。
高田の松原の松はついに一本残った松も枯れる。全滅してしまったのである。その凄まじさは言葉にならない。ともかく庭とか家の回りにあった木なども自然の木とは違っていたのである。
それは人間化した木や松だった。ペットもほとんど人間と同じだから介護までしてその施設まである。野生の動物とは違う、人間化した動物である。庭の石だって人間化した石である。だから突然家も家の人もいなくなって唖然としている。それにしてもなぜ二本の木なのだろうか?偶然とも思えない、何か夫婦のような感じもする。だから二本なのか?

鹿島区烏崎の港は全滅した。一軒の家も残らなかった。それなりに船もあり魚もとれた。津浪を記念したという津神社も跡形もない、ただ今は鴨が港に浮かんでいる。鵜が何匹か勢いよく陸地の方に飛んで行った。廃墟と化した港に鴨が浮かんでいる風景も不思議である。季節はめぐって春となったが荒寥とした風景は変わらない、烏崎の港などは復興するのか?公園のようになってしまうのだろうか?とても住民が前のように帰って住み漁業をするというわけにはいかないだろう。松川浦辺りは漁船の数が多いからいづれ漁をはじめるかもしれない、それも原発事故の影響で先が長い、それでも二十軒の旅館が半分がはじめたということはそれだけまだ家があそこは残っていたのである。

原町の六号線のゴルフ場に小高工業高校のプレハブ校舎が建った。今日は卒業式でばらばらにしていた。今度はここに集るのだろう。小高は警戒区域でもさほど放射線量が高くないのだから帰れると思うけどどうなっているのか?仮設に住めるのは二年である。仮設に住んでいてもその回りの地元の人には迷惑だという面もある。その一番の要因が働かずに遊んでいる、パチンコやサウナに昼間から行って遊んでいるというふうに見られることなのだ。回りの人は普通は働いているからそういわれる。働かない限りまた地元に定着するということはない、そういう落ち着かない状態を仮設は作り出している。だから肯定的に見られないのである。

今日はあたたかかったから金沢から烏崎と回ってきた。あたたかくなると遠くまで行ける、でもなんかあと疲れる。
 
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2012年02月11日

東北の太平洋岸は一つのつながりある地域だった (津浪の共通体験でそれがわかった)


東北の太平洋岸は一つのつながりある地域だった

(津浪の共通体験でそれがわかった)

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雪残る鳴瀬川や朝の海


冬鴎車窓より見て亘理かな


どうしても津浪とか原発事故がクロスオ-バ-してくる。これはさけられない、その影響は余りにも大きかった。石巻の津浪の被害は甚大だった。宮城県は津浪に関しては被害が福島県より何倍も大きい。石巻でも市街が津浪の被害にあった。そこから牡鹿半島の小さな漁村もみな津浪の被害を受けた。宮城県は港が多いから津浪の被害が大きかった。福島県は浜通りでも津浪の被害あっても原発事故の被害の方がずっと大きかった。その相違があった。亘理駅で鴎が飛んでいるのを見たとき、あまりみかけないけど鴎が飛ぶということは海が近いのである。ところが常磐線でも電車から海が見えるのは新地町だけであり他は見えない、するとこの辺に住んでいる人でも海を意識しないのである。
浜吉田という駅があったけどここで海を意識したことはない、その駅まで津浪が来ていたことには驚いた。海が近かったのである。亘理もそうだし岩沼もそうだったし名取もそうだった。だから鴎が飛んでいるのを見たとき海が近いと今度は意識したのである。


鳴瀬川にひかれるのは名前がいいからである。何かリズムカルであり響きがいいのである。そしてこの川が海に注いでいるということで気持ちいいのである。この川はまた電車からもバスからも見えた。バスは高速で行くので海を見えるところにはとまらないが鳴瀬川は見えた。それほどの被害はなかったのかただ松原が半分くらい残っている。やはり津浪の衝撃は他より弱かったのか、名取から相馬から磐城など松原は根こそぎ流された。陸前高田でも松原が全部流された。あそこには湾があっても衝撃が強かった。津波の強さは地域によって違っていた。それは地形と関係していた。ともかく今回の津浪の被害は青森県から岩手県から宮城県から福島県と広範囲だった。一番被害が大きかったのは宮城県だった。津浪の被害は一度その場に立てば実感する。テレビとかで見てもなにかもう一つ実感しないのである。津浪の被害の跡に立つと荒寥としたものを一段と感じる。それはテレビで見ているのとは違っている。体全体で感じる荒寥感である。石巻はそうだった。


今日の一句一首も津浪や原発事故とは関係ない平和なときの営みである。でも津浪の被害や原発事故はあらゆるところに影響した。自然の見方自体変わったのである。自然そのもの地形すら変わった。あらゆるものがその影響からまねがれることはできない、地形的には福島県の浜通りは宮城県の海岸沿いの港とかずっと海を通じて関連していた。それが津浪で同じ海側に面した共通性を認識したのである。三陸の津浪は三陸独自のリアス式海岸だから津浪の被害が大きくなるということは何度も言われていた。でも名取など平地はそれほど言われなかった。でも名取には津浪の被害が前にもあり伝説も残っていたし最近では地下の土を採取して津浪が奥深くまで津浪が来ていたことが証明されていた。そういうことに福島県浜通りでも無関心だった。隣合っているのに無関心だった。福島県とか宮城県とかはあくまで人工的に作られた境でありそういうものにこだわるより自然の地形的な連鎖反応が大事だった。福島県浜通りは明かに海側として海岸線として共通の自然の地形の中にあった。地形の一体感があった。山国は山国でありそうして海を通じた地形の一体感はない、ただ海側でもそうして広い範囲の一体感を共有していなかった。三陸には津浪が来るが仙台から福島県などの平地の浜通りには来ないとか安心していたのである。歴史的人工的な世界観より自然の形成された世界観が必要だったのである。


三陸などは宮城県、岩手県の海側は漁業が昔から産業だから海と密接にかかわり生活していた。宮城県の仙台辺りから名取、亘理、福島県の浜通りは漁業が盛んでないから海と密接にかかわるという生活ではなかった。むしろ仙台や名取でも米を作る開拓地として意識されていた。でも松川浦では津浪が来るときは沖に船を出した方がいいと言い伝えがありいち早く船は沖にだして助かった。海とかかわっているからそういう言い伝えがあった。でも郷土史で津浪の言い伝えをほとんど聞いたことがない、ただ最近地下の土を採取して津浪が相馬の奥深くまで来ていたことがわかった。そのことを一時時事問題の深層に書いたことがあった。だからその時自分も多少津浪のことを意識したけどこんな津浪が来るとは思いも寄らなかった。だから郷土史なども狭い範囲だけの研究では役に立たないということもあった。自然の上に人間の歴史があるとき、相馬藩が成立したのは400年前くらいであり確かにその時、慶長三陸津浪でここも700人死んだとか相馬藩政記に記録されていた。記録は残っていたのである。ただ詳細な記録とはいえず見逃していた人が多いだろう。でもそれは大きな事実の記録だったのである。他に何か明確な記録がないとしたら記録されただけで貴重だったとなる。
今回の津浪は東北の太平洋岸が自然的一つのつながりある地域だったことを認識した。津浪で共通体験したからそういう意識が生まれたことは確かである。

 

スマトラ津浪の恐怖(陸奥の古代にも巨大津波の記録) 2005
http://www.musubu.jp/jijimondai25.htm#suma

わが町(亘理)に「三十三間堂遺跡」というのがあります。小高い山地に整然と並んだ礎石群があり、当時は多賀城に陸奥国府が置かれ要所に郡衙(グンガ)と呼ばれる出先機関があったようです。その中でも最大規模のものだったようです。敷地は10万坪以上の広大さで、礎石群から数百メートル離れた雑木林に政務を司どった正殿の柱穴などがあって確定されたということです。礎石群の用途はそこに倉庫が建っており、税として集めた米倉だったというのです。
現在は陸地であるにもかかわらず、「島」という地名がたくさんあります。愛島、笠島、小豆島などなど、これらはかつては海岸線が奥地まで侵入していた時代の名残を示すものだと思っています。近くの貝塚を見るたびにこんなことを考えてしまいます。


亘理に住んでいる人の日記に書いてあった。亘理から逢熊駅にとまるとそこの小高い丘に確かに「三十三間堂遺跡」と案内板があった。国府の多賀城が津波に見舞われたからその教訓から高い所に郡衙を作ったのか、それはわからないにしても確かに島という地名はかつてはそこは島だった可能性がある。海が深くは入り込んでいたからだ。その入江のような所に島が浮かんでいた。そういう光景は日本には多かった。大坂湾も古代には八十島が浮かんでいた。日本は島が多い国なのだ。それにしても相馬にもこの大津波が押し寄せてきたことには驚きだ。最近やたら地震がつづいているので不安になる。こんな千年に一回とかいう大津波を警戒することはむずかしい。それでも日本地震国だからこうした記録が残っているのだ。これは丁度大和政権が多賀城を築き蝦夷を征服しようとする最中であったからその様子が伝えられ記録に残った。そうでなければ文書としては残らず伝説になったかもしれない、国というのは歴史を災害でも記録するという役目があったのだ。今回のスマトラ大津波についてはツナミということばさえわからない世界だった。ツナミは世界の言葉になっているごとく日本から生まれた言葉なのだ。津波もまた身近なものだった。

 



これを書いてから6年後に今回の大津波が起きた。この時もっと日本でも警戒するべきだったのである。世界的に陸はつながっているのだし海側はやはりつながりが深いのである。  
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2012年02月08日

石巻の津浪の被害を見に行く(短歌十首)


石巻の津浪の被害を見に行く(短歌十首)


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袖の渡しの松は残っていた

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この松は枯れるだろう
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遠くに田代島-網地島が重なり見えた



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この寺だけが残り前の住宅地は壊滅した

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千人風呂とあるからまだ風呂に入れない人がいるのか?
共同の風呂なのか?



冬鴎車窓より見て亘理かな


風花や仙台の通り鳩歩む


松二本根元結ばれ冬深む


津波後冬満月の照らす海


冬満月海を鎮めむ津波跡


(袖の渡し)


津波にも残れる松や我がよりぬ袖の渡しや冬の日暮れぬ


石巻悲しみ深く冬の暮残れる松に我がより去りぬ


この河を津波上りて大川の小学校の悲劇語り継がれむ


(日和山)


日和山松風鳴りて残る雪かなたに重なる島二つかな


冬のくれ牡鹿半島の小さなる島一つ見ゆ日和山かな


みちのくに我が住みにつつ日和山冬に上りて沖に船見ゆ


日和山松の太しも船を待つ冬にしあれど我がより去りぬ


日和山上りて遠く松島の島一つ見ゆ冬のくれかな


石巻海の光りて冬の暮日和山に松風鳴りぬ


日和山松島近く瑞巌寺ありしを思ふ冬のくれかな


凄まじき津波の跡に墓残り松風鳴りて冬の日暮れぬ


街中を津浪の襲う石巻傷跡深く住む人語る


津浪にて流さる家のその跡やたずねてあわれ北風の鳴る


石巻なお死ぬ人ありにしと傷跡深く冬の日暮れぬ


石巻相馬の津浪語りつつ北風鳴りぬ海に面して


生き死にのくりかえしつつ人の生津波襲うも定めなるかも



石巻まで行ってきた。津浪の被害のことはその場にたたない限り実感がわかない、テレビで見ていても実感がわかない、テレビでも写真でも一部を切り取ったものであり実感がわかない、人間はやはりその場に立てば五感が働く、視覚だけではない、情も働く。自然でも人間でも物でも人間の情がうつる、反応する。だから津浪の被害は確かにテレビで見ただけで写真でも悲惨なのだけど本当の実感はその場にたたないと実感できない、感覚的にわからない。物見遊山で観光で津浪の被害を見物すべきではないというのも言える。でもそもそも津浪の被害のひどさはその場にたたないと実感できないのである。それで石巻に行ったのは自分で確かめてみたいからだった。北上川沿いは意外と家が残っている感じだった。実際は土地の人からすると当時はひどかった。空き地になっているところ結構あるけど家も結構残っているなと感じた。近くで村自体消失した一軒も家がないところを見てきたので特にそう思った。松川浦とにている。山陰の所は家は残っていた。


でもあの川沿いを上って大川小学校があり悲劇が生まれた。津浪で川は危険である。でも川沿いに意外と家は残っていた。津浪は一回だけではない、何回も来る。一回目はたいしたことがない、そのあと大きなものが来る。石巻でも何度も津浪がきた。あとのほうが大きくなった。磯部でも最初たいしたことがなくて油断した人がいた。水があがってから車で逃げて助かった人がいた。津浪が来てから助かる人もいる。日和山の海岸に面した所は全滅だった。昼間で働いていた人たちも犠牲にあった。水産加工場が多かった。車で逃げた人も死んだ。やはり渋滞になったらしい。後ろの日和山に逃げれば良かったように思うが車だと物を積めるから車で逃げたのかもしれない、着の身着のまま逃げるというより何か車に積んで逃げようとしたときそれが徒になったのかもしれない、日和山がすぐ後ろにあるのだから歩いて逃げた方が助かった。ただあの辺の状態がどうなっていたのかわからない、寺が一軒あり無残にそこは墓だけが辛うじて残っていた。あとは家は全滅だった。寺は墓を守っているのだから墓は残ったといえ肝心の家は全滅したのである。あそこは一番悲惨だった。墓が残るより家が残ってほしかったと思っているだろう。


日和山の喫茶店で話ししたが高いところは何ら被害受けなくて良かったですねと言ったらみんな被害にあった人と関係しているからそういうことはない、下の水産加工場に勤めていて死んだ人もいる、今日も死んだ人の所に行くとか言っていた、まだそうして死ぬ人がまだいるということである。だからまだ観光というわけにもいかない、日和山の下には多数の死者が出たから手を合わせる、供養しなければならないような状態である。ただ日和山にはいい松があり景色もいい、宮城県沿いの石巻までの海岸線の松は全滅というのではない、半分くらい残っているみたいだ。石巻でもそっくり松原が残っていた。衝撃がそれほど強くなかったのか?相馬の方の松はほぼ全滅だった。ただ宮城県は全般的に福島県の浜通りより津浪の被害は大きかった。海岸に面した地域が多かったからである。石巻の被害は街の中まで及んだ。駅まで津浪が来たというのには驚いた。それだけ広範囲に津浪が来たし人家が多いから被害も大きかった。店を閉めたり空き地化している所も所々見える。こんなところまで津浪が来たのかと驚く。だから石巻はもう十年くらいは津浪の被害が尾をひく、神戸でも十年かかった。まず津浪で全滅した海に面した所には前のように家はたたないだろう。そうするとそのまま生々しい津浪の跡がそのままに残ることになるのだ。だからまだ観光で訪ねような場ではない、日和山の下で多数の死者がでている、その上で観光気分になれないし地元の人もそんな気持ちになれない、供養するとか寄付とか復興の応援をかねて訪ねるようになる。でも日和山からの風景は実にいい、その美しさまで否定することはないだろう。


今度はなんとか相馬-原町間が電車が通るようになったので遅く帰ることができた。バスの外は冬満月だった。海が近くなったから海を照らしていた。月でも地球に関係しているかもしれない、天体が地震とも関係しているかもしれない、月も太陽も星も宇宙も全体として関連している。ただそれがまだ人間はすべてわかっているわけではない、だからこそ想定外のことが起こるのだ。ただ津浪も人間が縄文時代から生死をくりかえしてきたなかで必ず津浪は何度も来ていたのだ。それは海側に住むものの定めだったのである。そういう自覚がいつのまにか忘却してしまったのである。

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2012年01月29日

慶長時代は連続して大地震が起きた時代 (会津の大地震の三日後に慶長三陸地震で津波の被害)


慶長時代は連続して大地震が起きた時代

(会津の大地震の三日後に慶長三陸地震で津波の被害)

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慶長地震とは一つの地震ではなく、慶長年間(1596年-1615年)に日本列島で起こった地震の総称だった。更に正確に言うと、文禄5年9月1日、4日、5日と大地震が連続したので、慶長と改元したが、その後も地震が連続したのだそうだ。慶長地震(ウィキペディア)から抜粋する(ココ)。



・慶長伊予地震 - 文禄5(1596)年9月1日、伊予国をおそった地震。M 7.0、寺社倒壊等。中央構造線における地震。
・慶長豊後地震(大分地震) - 文禄5(1596年)9月4日、豊後国をおそった地震。M 7.0〜7.8、死者710人。中央構造線と連続している可能性がある別府湾・日出生断層帯で発生した(上記地震との)連動型地震である。
・慶長伏見地震 - 文禄5(1596)年9月5日、近畿地方をおそった地震。M 7.0〜7.1、京都や堺で死者合計1,000人以上。伏見城の天守や石垣が損壊、余震が翌年春まで続く。六甲・淡路島断層帯における地震とされる。上記二つの地震に誘発されて発生した可能性がある。
・慶長大地震 - 慶長9(1605)年2月3日、東海・東南海・南海連動型地震でM 7.9〜8.0。さらに房総沖までが連動したと考えられ、M 8.4〜8.5の説も存在する。地震動による被害は少なかったが現在の千葉県から九州に至る広範囲の太平洋岸に津波が襲来し、死者1〜2万人を数えた。
・慶長会津地震(会津地震) - 慶長16(1611)年9月27日、会津地方をおそった直下型地震。M 6.9。寺社損壊、死者3,700人。
・慶長三陸地震(慶長三陸地震津波) - 慶長16(1611)年12月2日に三陸沖を震源として発生した地震でM8.1。実際には千島・色丹沖の震源と連動した大地震・津波だったとする説もある。この大津波による北海道・三陸の死者・被害甚大。


この地震において、現在の三陸海岸一帯は強震に見舞われたが、太平洋側沿岸における震度は4 - 5程度と推定され、地震による被害はほとんどなく、津波による被害が大きかったことから津波地震と推定されている。この地震による津波被害は「慶長三陸地震津波」あるいは「慶長三陸津波」とも呼ばれている。さらに、この地震の7年前には同じく津波地震と考えられ、東海・東南海・南海のトラフ寄りが震源とされる慶長地震があった


『駿府記』には伊達政宗に献上する初鱈を獲るため侍2人を遣わし、漁人らは潮色が異常であるとして難色を示したものの、「主命を請けて行かざるは君を誣するなり、止むべきにあらず」とて出漁した漁人らは津波に逢い漁人の生所なる山上の千貫松の傍に流れ着いたが、家は一軒残らず流失したとある[1]。この『駿府記』にある「松平陸奥守政宗献初鱈、就之政宗領所海涯人屋、波涛大漲来、悉流失、溺死者五千人、世曰津波云々」が、文献に現れる最古の「津波」という語句の記述とされる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E9%95%B7%E4%B8%89%
E9%99%B8%E5%9C%B0%E9%9C%87


慶長三陸津波の後、仙台平野において塩害で約10年間経過しても米が収穫できず、名取郡の農民が仙台藩の奉行に年貢の申上状を提出したとされる。



慶長会津地震

慶長16年(1611-9月27日)に大地震があった。この地震のときには盆地の真ん中に湖ができ、柳津の虚空地蔵様をまつったお堂は只見川に転がり落ちまた鶴ヶ城の七層の天守も大きな被害を受けた。鶴ヶ城の天守は慶長の大地震で大きく傾き石垣はすべて崩れ落ちた。明成は領民に大動員をかけて七層の天守を今の五層に改めほぼ現在の鶴ヶ城の規模を作り上げた。


慶長時代にこれだけ地震が起きていた恐怖である。地震は連続して起こる。巨大な地震が起きるとき大規模な地殻変動が起きているためなのだろう。こんなに連続して地震が起きる。この辺は今でも地震が起きつづけているし関東でも地震が多いから4年内に大地震が来ると警告を出した。


相馬市と南相馬市の烏崎の津神社について書いたが津波と表記されるようになったのは慶長三陸津波からである。だから津(津の宮)神社となった。津波神社を約したのが津神社なのだろう。なぜならそれまでは津波という表記はなく海嘯とか別な表記だったからである。津というのは日本独自の地形であり津に入ると波が急激に高くなるから津波となった。津々浦々というように日本にはそういう地形が多いためでありそれが津波の被害を増大させたためである。

慶長時代に慶長会津地震があったというのも驚きである。これは慶長三陸地震の津波の起きた地震ではない、慶長会津地は慶長16年(1611-9月27日)に大地震があった。慶長三陸地震(慶長三陸地震津波) - 慶長16(1611)年12月2日であり同じ年でも三ケ月後だった。でも三ケ月後というのは短い。4-5年おきに大地震があった年であり関東地方に4年後に大地震が起きるという推測はこうした過去の記録も参考にしているのだろう。



慶長伊予地震 - 文禄5(1596)年9月1日、伊予国をおそった地震。M 7.0
慶長豊後地震(大分地震) - 文禄5(1596年)9月4日、M 7.0〜7.8、死者710人。
慶長伏見地震 - 文禄5(1596)年9月5日、近畿地方をおそった地震。M 7.0〜7.1、
京都や堺で死者合計1,000人以上。
慶長大地震 - 慶長9(1605)年2月3日、東海・東南海・南海連動型地震でM 7.9〜8.0。さらに房総 沖までが連動したと考えられ、M 8.4〜8.5の説も存在する。地震動による被害は少な かったが現在の千葉県から九州に至る広範囲の太平洋岸に津波が襲来し、死者1〜2万
慶長会津地震(会津地震) - 慶長16(1611)年9月27日
慶長三陸地震(慶長三陸地震津波) - 慶長16(1611)年12月2日に三陸沖を震源として発生した地 震でM8.1。


(1596)年9月1日-(1596年)9月4日-(1596)年9月5日-(1605)年2月3日-(1611)年9月27日-(1611)年12月2日



3日後に大地震が連続して起こった。10年後にまた起きた。地震はやはり連動しているのか、地下で地殻がつながり影響しあっている。地殻変動が活発化するときは全国に及ぶ。会津でも大きな地震があり地形が変わり湖までできたことには驚く。七層の黒川城も五層に改築された。それは地震の影響だったのである。城でも日本は耐震構造にしないともたない、石垣がすべて崩れ落ちたというのも凄い衝撃だった。今の五層の会津城が地震の影響でそうなったということをふりかえればまた別な見方がでてくる。会津でもこれだけの地震の被害がありその三か月後に大津波で仙台でも相馬藩でも大被害を受けた。十年間塩害の影響があったというのも十年間くらい塩害をとりのぞき元にもどすのにかかる。ただ現代は技術が発達しているからそれよりは短くなるだろう。ともかくそういう一時代のことが今やよみがえってきているのかもしれない、だから全国的に地震の警戒状態に入る。ここ十年間でまちがいなく巨大地震が起きる。。過去の記録をないがしろにしていた結果として今回の津波の大被害があった。この辺でも四百年前に大津波の被害を受けていた。そういうことはほとんど語られなかった。しかし慶長時代は全国的に大きな地震が連続して起きた時代だった。たからこそこの時から津波という言葉が定着したのである。


七層の黒川城の崩れたり五層に直して今にあるかな

七層の黒川城
http://www.asahi-net.or.jp/~de3m-ozw/0aizu/0byako/oshiro/oshiro00.htm

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2012年01月28日

南相馬市鹿島区烏崎村にも津神社あり慶長津波の後に建てられた? (仙台、名取の津波の歴史-ここでも警告は無視された)


南相馬市鹿島区烏崎村にも津神社あり慶長津波の後に建てられた?

仙台、名取の津波の歴史-ここでも警告は無視された


鯨引き
<由来・沿革>
烏崎の津神社の丑(うし)年4月第1日曜日の浜下りには、2つの山車(だし)が伴います。1つは小舟の上に張り子の鯨を乗せたもの、もう1つは直径1.5m程のやはり張り子の蕪(かぶ)で、いずれもリヤカーなどに乗せます。
http://www.city.minamisoma.lg.jp/bunkazai/minzokugeinou.jsp

kujirakarasu11.jpg


鯨の碑があったのはこの神社の裏だった?津神社とは津波と関係している。松川浦の津(つのみや)神社もそうである。そこは高台にありそこに逃げて助かった人がいた。でもそれが津波を記念して建てられたものと明確に自覚して伝えられたとも思えない。烏崎の津神社も松川浦と同じ様に慶長津波のあとに祭られた。400年前の慶長津波は今回の津波とにて大きなものだった。相馬藩政記に700人死んだと記録されている。当時にしたら700人は多い。でも記述はそれだけなので記録としては余りにもインパクトがなさすぎたのである。慶長津波から一か月して相馬市に小高にあった城を移した。それは津波の被害の復興のための事業としても同時に行われたと津波の経験で推測している。
そもそもいつ神社が祭られたのかわかりにくい、津神社あるところは港に近く家が密集していた所とは違っている。ただこの津神社は松川浦と同じ様に慶長津波のあとに祭られた。なぜ鯨引きとかの
祭りが行われているのか?鯨の碑や金比羅の碑があるが明治に建てられたものである。江戸時代からあったものではない、でも津神社自体は慶長津波の後に建てられたとすると古い。それでもそうした大きな津波の後に人が住むのかという疑問がある。


古老の話によると、慶長津波の後に福島県相馬地方の武士であった相澤家、
大友家、柴崎家などが移住して中野集落ができたと言伝えられる。相馬の地名
にちなんで中村屋敷、吉田屋敷とよばれていた。この地は現在も住宅地である。

(六郷の会)
http://www.stks.city.sendai.jp/citizen/WebPages/wakachu/
archives/sagufuji.pdf


名取りの方に慶長津波の後に開拓に入った相馬藩の侍がいたということはその被害があったからこそ開拓に入った。人手が必要としたから開拓に入った。とすると烏崎辺りも漁業というより開拓して米を作り住むことだった。仙台辺りまでの海岸は漁業はそんなに盛んではない、むしろ津波の後にも開拓する人が必要だったように稲作をすることが第一と考えられていたのだ。だから烏崎でも大内村との間に袋村があり田を作るために開拓して海岸線に住むようになった。それは慶長津波の後である。烏崎の町のあった近くに水葵が咲きだしたのもそのためである。この花は水田に咲くからである。表土が流されて咲きだしたという不思議がある。


津波の被害があってもその頃は稲作中心の社会だったのでやめるわけにはいかなかった。だから津波の後にもかえって人手が必要となり名取とかで開拓したのである。だから烏崎も津波の後でも開拓して水田を作ることが優先された。それが今の常識とは違っていた。たとえ大きな被害があっても米を作らねば食べていけないからそうなった。
江戸で消費される米の三分の一を仙台藩がまかなっていた。その米は石巻港から運ばれていた。この米の量は多い。仙台藩にとって米は輸出品でありどうしても生産を止めることができないし増量することが強いられていたのである。

一方今回の津波の被害は現代的なものだった。
仙台でも名取でも山元町でも住宅地が被害にあった。仙台の若林区とかは仙台市街から住宅地を求めて住んだ人なのである。新興の住宅地でありそこは別に米をとるために開拓するようなものとは違っていた。山元町の被害も大きかったのは新興の住宅地として海側に開発された地帯だったからである。山元町だけで700人が死んだのは多すぎるからだ。そして20年前に学者が津波が前にもここには来ているから住宅地にするのは危険だと警告していた。最近を地下の土壌検査で津波がかなり奥まで来ていたことが実証されていたのである。その貞観津波のことで東電にも福島原発が危険だと警告していた。確かにこれは最近わかったことでもやはり科学的に実証されたということが信憑性が高いものとなっていたのだ。しかし警告した学者は住宅を開発する人々により脅迫電話とか受けてその後はあまり言えなくなったという。

20年前にそういう事実があった。これも原発事故とにている。人々は高度成長時代にただひたすらた利益を求めて突っ走っていった。福島の原発でもコストカッタ-と異名をとった社長がいたのと同じである。ただひたすら利益だけを求めなりふりかまわない、それに歯止めをかけるようなことを言わせないという全体の雰囲気があった、空気があったのだ。原発でも地元でもそうである。利益があればいい、危険のことなどあとまわしにされた。だから天罰だったということも原発と同じ様に津波の被害にあった仙台から名取などの海岸地帯の人にも言われる。


『仙台平野の歴史津波―巨大津波が仙台平野を襲う』(1995年。絶版)という著書を出し、地震による大津波に警鐘を鳴らし、対策を構築するよう提案してきた在野の歴史研究者がいます


これも15年前であり警告する人がいた。ただ相馬の浜通り辺りでは津波の伝説すら聞いたことがない、そういうのも残っていなかった。貞観津波が相馬の奥まで来ていたということは学者によって地下の土を検査して実証されていた。でもそのことを真剣に考える人はいなかった。ただあれだけ海の近くに住んでいると不安になる。津波が来たらどうなるんだろうとか常識的に心配になる。ただ400年も津波がこの辺では来ないから安心していた。やはり400年という歳月が津波の被害を全く風化させて忘却させられたのである。自分は。海から離れた町に住んでいるから直接的恐怖は感じないにしろ小学校辺りまで津波でないにしろ夢で波にのまれる夢を何度も見た。あの前に家は少なく見通しがよく海に通じていたからである。その小学校の前まで津波が来たことに驚いた。夢が事実になった。夢も何かを語っているのだ。ともかく松川浦でも烏崎でも津神社があり津波を記念して神社が建てられたとしたらそのことをもっと語られていれば警告にはなっていた。でも実際は神社というのは何のいわれなのかいつ建てられたのかわからないのが多いのである。400年も過ぎると謂われさえ不明になる。


津(津の宮)神社の謎 (やはり慶長地震の津波を伝えたものか?)
http://musubu2.sblo.jp/article/48005137.html

posted by 老鶯 at 21:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

津波で消失した風景の不思議 (北右田の蔵は残った-磯部の船溜は消滅)



津波で消失した風景の不思議

(北右田の蔵は残った-磯部の船溜は消滅)

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流された家を配置 クリック拡大!
kuraend.jpg

クリック拡大!

kura22222.jpg

kitamigita.JPG

funadamari.jpg

磯部の船溜-バス停には船溜とあった


蔵二つ津波に残り冬の暮


御堂一つ部落に残り冬の暮


津波跡残れる樹々や山脈を望めば雪に北風鳴りぬ


思ほえず死にしものかな庭の石残りて一つ寒さ身にしむ



あの辺は家は少ないけどまばらにあった。公会堂もあり一つの集落ではあった。でも残ったのが蔵と御堂だった。家も残っていたがコンクリ-トの家をのぞいて壊したのだろう。蔵はそっくり残っていた。やはり蔵は頑丈なのか?火事でも蔵は残る。防火用として蔵は建てられた。ただ蔵でも蔵のあった家は流された。多少海に近い方だったからか、あの蔵は頑丈でない蔵だった。写真が残っていたので元あった所に写真を配置した。実際は道に沿ってあった。それにしても残った二つの樹がまるで門のようであり御堂が残っている風景も不思議である。今日は部落の人がみんなでかたずけをしていた。まだまだかたずけるものがあるのだ。土に埋もれているからだ。それにしても御堂が残ったりしたけどあそこの集落は前のように復興できるのだろうか?もともと家が少ないからどうなるのか、何か残された風景を見ると不思議である。蔵が残り御堂が残り樹が残った。何か集落の骨格だけが残ったような不思議さがある。烏崎村では大きな庭の巨岩が一つ残った。あれも不思議な光景である。

今年は寒い、その寒さが荒寥とした風景の中で身に沁みる。人間も相当数死んでいるから余計に荒寥としているのだ。

松川浦の磯部の方の船溜も壊滅した。写真は鮮明ではないがあの辺の家は全滅して一軒も残っていない。土台しか残っていない、磯部は一番悲惨だった。写真は鮮明ではないが貴重になった。磯部には家が多かった。その家が跡形もなく土台だけを残して壊滅したのである。松川浦の原釜とか旅館のあるところはまだ家が残っているが磯部は一軒も残らないから悲惨だった

津波で残った烏崎の庭の大石
http://musubu2.sblo.jp/article/50543018.html


1月27日


津波で消えた松原の写真(南相馬市右田の松原など)

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車輪梅で有名だった海老と右田の松原
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岩沼の海岸から仙台の方を望む
この辺は松原がつづいていた

これは2010年にとっていた写真である。時系列に並べて調べてみたらでてきた。津波で失われた風景はかなりある。警戒区域で立ち入れできない所の風景も今は見れない、原発事故でも風景自体が失ったわけではないから高瀬川渓谷などは別に警戒区域が解除されれば見れる、放射能を度外視すれば風景自体が失われてはいない、津波では風景自体が失われた。陸前高田市では7万本の松が流され一本残った松もかれてゆく、この辺ではまだ多少松は残っている。それでも右田の松原とか松原自体はどこもなくなり景観は失われたしもはやもどってこない、松原がなくなると思っていなかったから写真もとっていなかった。ただこの時松原に雪がふりその雪景色がめずらしいので写真にとっていたのである。


海老浜の車輪梅は南限の生息地として有名だった。海老村はほぼ壊滅したし防波堤も破壊された。
烏崎村も壊滅した。残ったのは庭の大きな岩だけだった。その破壊の跡はあまりにもすさまじい。
阿武隈川を下り仙台の方に行ったところの松原もなくなったろう。亘理でも岩沼辺りでも破壊がすさまじかった。あの松原から雪の蔵王が見えた。あの松原もなくなった。岩手県までの海岸沿いの風景はかなりの部分喪失した。特に松の破壊はすさまじかった。ただ記録として貴重となったのでここにのせておく。他にもまだあったので探してだしておこう。

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2012年01月27日

津波で消えた松原の写真(南相馬市右田の松原など)



津波で消えた松原の写真(南相馬市右田の松原など)

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車輪梅で有名だった海老と右田の松原
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岩沼の海岸から仙台の方を望む
この辺は松原がつづいていた

これは2010年にとっていた写真である。時系列に並べて調べてみたらでてきた。津波で失われた風景はかなりある。警戒区域で立ち入れできない所の風景も今は見れない、原発事故でも風景自体が失ったわけではないから高瀬川渓谷などは別に警戒区域が解除されれば見れる、放射能を度外視すれば風景自体が失われてはいない、津波では風景自体が失われた。陸前高田市では7万本の松が流され一本残った松もかれてゆく、この辺ではまだ多少松は残っている。それでも右田の松原とか松原自体はどこもなくなり景観は失われたしもはやもどってこない、松原がなくなると思っていなかったから写真もとっていなかった。ただこの時松原に雪がふりその雪景色がめずらしいので写真にとっていたのである。


海老浜の車輪梅は南限の生息地として有名だった。海老村はほぼ壊滅したし防波堤も破壊された。
烏崎村も壊滅した。残ったのは庭の大きな岩だけだった。その破壊の跡はあまりにもすさまじい。
阿武隈川を下り仙台の方に行ったところの松原もなくなったろう。亘理でも岩沼辺りでも破壊がすさまじかった。あの松原から雪の蔵王が見えた。あの松原もなくなった。岩手県までの海岸沿いの風景はかなりの部分喪失した。特に松の破壊はすさまじかった。ただ記録として貴重となったのでここにのせておく。他にもまだあったので探してだしておこう。

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2012年01月20日

津波で流された貴重な松の写真


津波で流された貴重な松の写真

●右田の松原はなくなった

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右田の松原

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残った松
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松川浦の松原



右田の松原はいい松原だった。それが流されたこと消えたことが信じられない、残った一本の松は凄まじい、津波の猛威をこの残った一本の松から今も感じる。全身傷だらけになり残った。

松川浦の松原も消えた。松は多かったが太い松はないから右田の松原の方がいいと思っていた。でも松影の道がまっすぐ伸びて気持ち良かった。この辺をサイクリングするのは気持ちが良かった。


●石巻の袖の渡しの松は残っていた


残った松
http://blog.goo.ne.jp/ebijirusi/c/b6504b8c2681f1b077f3a78d15ba94cc/8


石巻-袖の渡し
http://www.musubu.jp/hyoronsodenowatashi1.html


あの松が残っていたということは意外だった。距離的に海に近いから松も流されたかと思った。
やはり家とか河口で多少奥に入っていたから残った。海岸にじかに接したところはほとんどの松が
根こそぎ流された。やはり家が密集していてそれが障害となって流されなかった。
奥の方でも前に障害物がないと流される。中州は障害物がないから完全に流された。

ともかくあそこの松はいい松だったので残って良かった。救われた感じた。また行けばやはり昔を偲べる、昔すら偲べない所がかなりある。陸前高田は一本も松が残らない。海岸に接していたから流された。今回の津波が襲った所はいい松林が松原のある所だった。その松が流されたことがショックだった。白砂青松の景色が根こそぎ奪われた。白砂は少ないにしてもやはり松原が根こそぎどこも流された。その被害が余りにも大きかったのである。

ishimaku111111.jpg
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海からそれなりに距離があったから松も残った。

 
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2012年01月08日

日本人の歴史感覚の欠如が今回の津波の被害の原因 (ヨ-ロッパと比べて歴史感覚がなさすぎる日本の文化)


日本人の歴史感覚の欠如が今回の津波の被害の原因

(ヨ-ロッパと比べて歴史感覚がなさすぎる日本の文化)


●ヨ-ロッパ人の歴史感覚


彼らと話して驚くのは何気ない会話の中にも正確な歴史年号がよく出てくることである。丁度、煉瓦をきらんと積み重ねてゆくように彼らの考えの中に、無学な一般の人でも過去何千何百年歴史の一コマ一コマが、きちんとして西暦年号で積み重ねられている。(ドイツの森-小塩節)

大部分のヨ-ロッパ人にとって洋服タンスは重要な装飾家具であり例えばそれがブル-地に城の花模様のバロック箪笥タンスならベッドもブル-に白の線の入るバロック、という風に、時代とスタイルを揃えるのが。常識である。木材もロ-ズウッドのテ-ブルがあればサイドテ-ブルもイスモロ-ズウッド。時代がエドワ-ドならカ-テンの模様もエドワ-ドの風とそろってくる。そしてそのような家具は曽祖父から祖父母へ父母へ受け継がれてゆく(ラインの岸辺-犬養道子)


古代の列中と中世の教会が合体した珍しい建物。2世紀にアントニウス帝が妻ファウスティーナに捧げるために建造し、二人の没後は墓所となったとされています。


邸宅の前の坂に連なるアーチは、坂の麓のひとつだけが、
ノルマン民族に侵攻された11世紀のもので、あとはゴート族に侵攻された
5世紀のものだそうです。
ひとつだけ、色が違うので、いわれてみるとなるほど、です



ヨ-ロッパの歴史の地層は明確に残っている。その時代もその地層から見分けることができる。その歴史感覚は日本とは相当違っている。そもそも庶民レベルで西暦年号まで記憶して語っている人は特別な専門家しかない、庶民レベルでは日本では江戸時代すら語られていない、明治時代ももう生きている人がいないので「明治は遠くになりけり」になる。実際に何度も甚大な津波の被害を受けたのに堤防を高くしたにしろ警戒を怠って即座に逃げない人が多かったというのもそういう昔がリアルにありありと日々語られていないということにあった。つまり日本人は過去を忘れやすい民族である。その原因が過去の遺物がほとんど残らないということがある。そのことが過去を意識されないのだ。
ヨ-ロッパでは過去をいやおうでも意識させられる。遺跡がそっくり残っている、石だから残っている。そこで歴史感覚が自ずと養われる。同じ家に一世紀に二世紀とか住んでいることが考えられない。コロッセウムの隣にあった教会は地下はロ-マの遺跡でありその上に教会が建築されている。あれなどもまさに歴史が明確に連結されて時代分けされているのだ。だから時代感覚も養われる。


オランダの風車も住居になっているが二百年前のものだと聞いて驚く。それが今もまだ使われていた。アムステルダムの商人の邸宅の街並みも昔のままである。ドイツでも中世の街並みが塀に囲まれた街がそっくり残っている。日本では街自体が城下町でも近代化されたなかでビルの中に埋もれてしまっている。城下町といっても城だけがわずかに残って新しく建築されているが街並みから昔を想像することはむずかしい。江戸時代があっても東京に行って江戸時代を偲べる場所がない、江戸城の跡は皇居になったけど江戸城がどういうものだったかわかりにくい、むしろ東京で一番建物で意識されるのが東京駅なのである。明治の象徴としてのオランダのアムステルダム駅をまねた駅だけなのだ。あとは全部変わってしまって江戸時代を偲ぶ建物がまれである。せいぜいどこどこの屋敷跡というだけでそこはビルになり何も残っていないのだ。ロ-マだったら貴族の邸宅跡が未だに残っている。その礎も遺跡として残っている。常に過去が歴史が意識されるのがヨ-ロッパである。ロ-マの遺跡はヨ-ロッパ中にありそれがいつも背景となっている。だからロ-マを具体的に常に意識するのである。
それは専門家でなくても庶民レベルで日常生活の中で意識しているのだ。だから家具でもその時代時代の特徴でアレンジすることができる。それは庶民レベルでもそういう歴史感覚が育まれているのだ。言葉でも英語には時制が明確であり過去を意識して未来を意識するということを言われている。


●日本人は生(き)の文化、今だけに生きる文化?


日本の建築にしても神社が伊勢神宮では20年後とに建て変えるという社があり新しい方がいい、神の意にかなうということが日本の文化なのである。生(き)の文化だというときそれを端的に象徴している。それが生ものとして生きている時じ旬であり建築もそういう意識がある。日本の家はせいぜい30年しかもたないというのもそのためである。家が確かに歴史感覚を作る基になるときそれがないからそこでも庶民レベルで歴史感覚が希薄になる民族なのである。日本では祭りは由来がわからなくても一番歴史を意識させる、祇園祭は貞観地震の津波などの供養のためだったというときそんなに古いかのかと感心した。それでも一時的まさにお祭騒ぎで歴史が日常的に意識されることはない。

日本は過去を意識することがあまりにも希薄な民族なのである。過去というと時、歴史というとき

戦国時代の信長、秀吉、家康くらいしか一般的には意識しないだろう。そもそも何々時代の家具をそろえることなどできない、家具を置くだけのゆとりある家もまれだった。そういう豊さがなかったこともいえる。ただ日本人は例えば水に流すというようにみんなその時その時で水に流すという傾向が強い。今回のこれだけの被害にあったことでも正に水に流すで忘れてしまうのだろうか?そうなるとまた同じ被害を受ける、相馬藩政記は相馬藩内だけではない他の人でも参考にしている。相馬藩は代替えがない大名であり一貫して継続したので資料になりやすい。そこに確かに400年前の慶長津波のことが記されていた。それも津波があった、7百人死んだというだけである。ほかは何も記されていないのだ。もっと詳しく書かれていれば津波のことを恐怖して読んでいたかも語れていたかもしれない、そういうことが余りにもなさすぎたのである。わずかに碑が忘れられたように残っていただけである。その碑も本当にいつの時代かもわからない、字すら消えていたのである。


日本人はただ今に生きているだけの民族なのかもしれない、今の旬、生(き)なるものを生ものの寿司などを味わう文化なのかもしれない、過去は忘れて今を生きるだけの文化なのかもしれない、それでも明治時代とか大正時代は特徴があった。大正ロマンとかあり短い時代でも郷愁ある時代としてみている。大正生まれの人は90以上でもまだ生きている。その後は昭和からは何か時代的特徴を見るのはむずかしい。ただモノや技術だけで計られる時代なのかもしれない、鉄道時代や車時代やテレビ時代・・・とか技術の進歩が歴史でありそれくらいしか時代を見分けることがないし特徴もないとなる。祭りのように過去は一時的お祭り騒ぎで過ぎ去ってゆくものなかもしれない、ヨ-ロッパのように石のようにしつこく大地に刻印されて残り意識されるのとは違った歴史感覚なのだ。その歴史感覚は津波のような被害だけではない、対外的にも外交でも大きな失敗につながり大きな犠牲を生む、大東亜戦争というのもそのためだったという指摘も否定はできない。ヨ-ロッパの歴史もアメリカの歴史も中国の歴史も深くコミットすることにかけていた。言葉からもそういうことは言えた。


●successは成功でなかった、継続の意味


succeed:(自動)1) 成功する 2) あとを継ぐ、(他動)1) あとを継ぐ 2) 次いで起こる(「後について行く」ことから。sub- は「下、副、従」などを表すが、ここは「後に従って」。「成功する」は「後にうまくついて行く」ことから)

success:(名)成功
successful:(形)成功した
succession:(名)連続、継承
successive:(形)連続する(consecutive と異なり中断が入ることもある)
successor:(名)後継者

に続くこと → あとに続くこと → うまく事がはこび続けること


筆者はホテルに戻って早速、英英辞典を引くと、語源的には successful は continuous という意味がもとであるということを発見する。


  不思議な国ニッポン
  自分一代での「せつな的成功」と「継続は力なり」で何世代も続ける努力
  木造建築と石造建築のちがいからくる、日本文化と欧米文化とのちがい


その時々の成功ではない、継続することが歴史を受け継ぐことが成功の起源である。津波でこれほどの被害を受けたのは過去を受け継がないから大失敗をしたのである。常に人間の生を継続しているものとして考えないから起こった。これだけの大津波もただ祭りとして過去のこととしてし大騒ぎして忘れてしまうのだろうか?あれだけ被害をだした戦争にしても忘れてしまうのだろうか?ここの原発事故も忘れてしまうのだろうか?原発事故でも過去のことをまるで考慮しなかったために失敗した。
貞観津波のことを学者が指摘しても全く受け入れられない、それは余りにも遠い過去として考慮されない、それも歴史感覚がないためではないか?ヨ-ロッパだったらロ-マ時代でも記録が膨大であり生々しく再現される。そして現代とその生活感覚たいして変わりないことに驚くのである。もう近代の生活と変わりないことがかなりあるのだ。現代の身近な生活として受け継がれているものがある。
日本人の歴史感覚は見直すべき時だろう。歴史的にものを考えることは長期的視野で考えることである。今でも常に今日明日が問題であり10年後をどうするなど考えられない、それは世界的傾向としてそうなったが長い時間をかけて歴史的に構築するという時間感覚が失われることは危険である。それは津波のことでも意識されたのである。

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2011年12月07日

震災津浪の被災地を励ます詩


震災津浪の被災地を励ます詩

秘密


カロッサ


星は天空にあって
眠ることなく燃えねばならぬ
地球を包んで
緑の生命が息づくためには


血は流さねばならぬ
多くの血が、多くの涙が
私たちにとって地球が
真の故郷となるためには


さまざまの力が荒れ狂い
傷つきにくみ合うところ
清らかな治癒の泉が
よき死の底から湧きあがる


私たちが迷い迷うあいだ、
私たちを見守ってくれる力がある。
にがい苦しい努力のうちに
私たちは一致して光を求める


すべての奇跡は
はるかな岸辺におこる
私たちはみな、きそって
自由な岸辺をめざす


私たち身に
太陽の物質を背負っている
私たちは消えてゆかねばならぬ
それほどまでに私たちは強いのだ


どこまで行っても終わりはない
ただ燃えるような奉仕があるだけ
くだけ散りつつ、私たちは
あたりに光を放射する




この詩は震災や津浪や原発事故の被災者を慰めるのにぴったりではないか?


多くの血が、多くの涙が
私たちにとって地球が
真の故郷となるためには


これは津浪の被害にあった人達である。どれだけ多くの涙が流れたことだろうか?多くの血が流れたというときこれは戦争だったらそうなるが今回は涙の方だろう。こういうことがそもそも人類の歴史だった。戦争でもどれだけ多くの血が流されたかわからない、戦争は経験してしいなくても400万人も死んだとなれば忘れられるものではない、延々として語られるだろう。今回の津浪の被害もそうだった。原発事故も未だかつてない事故の経験だった。その傷痕は余りにも深いのである。


どこまで行っても終わりはない
ただ燃えるような奉仕があるだけ
くだけ散りつつ、私たちは
あたりに光を放射する


どこまで行っても終わりはない・・・この震災や津浪や原発事故の被害は終わりがない・・・それぼと被害が大きすぎた。そして燃えるような奉仕が確かに必要とされている。原町の産婦人科の院長などはそうした人の一人になるだろう。病気になったということは砕け散りつつともなる。そういうことが強いられたともなる。あたりに光を放射する・・・・・奉仕しながら死んでゆくのだからそれが光となっている。これはむずかしい詩ではない、でも震災にあった人達にはぴったりの詩ではないか?これは戦争で傷ついた人達をイメ-ジして作られたのものだろう。でも震災や津浪や原発事故にもあてはまる。原発事故では放射能で汚染されたからその自然が汚されたということがこれはなかなか修復できないのでその傷痕は大きすぎる。ただボランティアとかはそういう奉仕があったことは確かである。その奉仕はやはり光を放射していた。それを批判する人もいたが実際に何もしないよりは光を放ったのである。被災者のなかで働くことは金儲けより奉仕になっていたのである。


この辺では働く若い人が避難していなくて困っているということでもわかる。残されたのは老人だけになり老人だけで支えることはできない、そういうときこういう放射能汚染地帯で働くことは誰もしたくないから奉仕だとなる。これはまた別かもしれないがこういうところで誰も働きたくない、そしたら老人だけが残されて衰退してしまう。こういうときここで奉仕させるというのは無理でも残った金のある老人は働く若い人をとどめるためにも金を多く払わねばならなくなるということもある。
働く人がいないということは働く人が貴重なのである。

今までのように時給いくらとかでは働く人を確保できないかもしれない、働きたいという人が大勢いればそれでかまわないが、働く人がいなければそうなる。ただこれだけ移動が自由な社会だから年金を多くもらっている人はサ-ビスのいい市とかに移動はできる。現実そうして移住している人はいる。年金をもらい金がある人はできるのだ。

こういう放射能汚染地帯とかにいればいいサ-ビスは老人でも受けられない、だからサ-ビスを受けようとすれば人件費はかなり高くなってしまうのではないか?なぜなら働く人がいないということは人手不足なのだから賃金も上がるからである。その上がる賃金分をここに住む人が払わねばならないのだ。要するにこの詩の燃えるような奉仕をする人はがまれだとすると賃金をかなりあげないと誰も働かない、働き手も入ってこないということである。本当に外国人でも中国人でも入れないと働く人がいなくなってしまう。中国人などなら今の給料でも高いとなるから働くとなる。そういうことはすでに震災被災者ではなく日本全国で人手不足になり外国人を入れるほかないとか特に医療や介護分野では問題になっていたのである。特に被災地では顕著になったということである。

ハンスカロッサは医者であり戦争にも参加して献身的に働いたからこの詩ができた。
ということは原町の産婦人科の院長も共通していたのだ。
詩もそうした実践の経験がないと書けない
想像だけでは書けない、つまらないことでも実践していることが言葉になり詩になったりするのだ

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2011年11月19日

科学時代の盲点 (地震学は素人の感より頼りない-フジテレビのプライムニュ-スを見て)


科学時代の盲点

(地震学は素人の感より頼りない-フジテレビのプライムニュ-スを見て)

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地球的規模で地震を見ていなかった


●科学万能主義に陥る危険


「科学的思考」と「科学万能主義」とは違う、科学的思考は科学万能主義にはならない。あくまでも一つの方法である。科学でこの世のことがすべてわかる、解決するとはならない、フジテレビの討論で地震学者が地震予知はできないことを言っていた。地震は未知の世界であり学者もわからないしそのことをもっと言うべきだった。地震の研究は狭い地域で分けてパ-ツにして研究していた。宮城県沖とか福島県沖とか岩手県沖とか部分に分けて研究していた。これは科学の手法である。部分化するのが西洋科学だった。ところがそこに盲点があったのだ。


震度9という地震を経験したことがなかった。経験していないのだからその経験から研究できなかったと言う。ところがスマトラでもアラスカでも震度9の地震は起きていた。スマトラは最近起きていた。それが全く関係ないと言えたのだろうか?地球は一つでありつながっている。地殻は連動している。だから日本のプレ-トがスマトラとかアラスカとは関係ないとは断言できない。地殻の変動は地球的規模になるからだ。人間の盲点は全体を知ることができないことである。科学は部分に分けて部分の研究は微にいり細にいりする。しかし全体として見ることは不得意なのである。地震学はそうした地球全体として研究せねばならないからそこに地震は予知できないのである。

もう一つ科学の盲点は長いスパンになると千年単位とかなると過去のことはまさに科学的に研究できない、貞観地震のことは最近科学的に研究されてわかってきた。しかし以前として推測の域であり

それがまた起こるという確定はむずかしかった。つまり千年とか単位となると科学者も確定的なことは言えなくなる。それから全体的把握になると科学は弱い。地球全体を研究するとなると手に余るとなる。だから部分的な研究には精をだしても地球全体を知ることはできないからそこが盲点になって想定外の巨大地震を予知もできなかった。でもスマトラとアラスカに起きたのだから日本で起きないとは言えなかったのである。



●現代文明に科学的思考は不可欠


それから地震の警報で問題になったのは地震警報は天気予報などと全く別なものだった。それを科学者も予報官もそれを聞いた住民も錯覚していたのである。天気予報は正確であるから地震も正確だと知らず科学に対する錯覚が生まれていたのである。科学はある分野では正確であり効力を発しているし科学の時代だから科学に望み期待することも大きくなっている。だから科学万能主義にもなる。科学がすべてを解決できると科学万能主義になる。科学的見方と分析と科学万能主義は違っている。
科学というときもはやこれを否定はできないのが現代である。例えば宗教にしても科学的にみるべきところはみなければならない、なぜならカルト宗教がこれほど大衆を洗脳するのはなぜなのか?それは不思議にも科学時代に科学的に見ないということなのだ。あらゆることを宗教に結びつけることはすでにガリレオの宗教と科学の分離に反している。またカトリックの政教分離でもそうである。宗教と科学や政治をまたは経済でも分離して考えるようになったのが現代である。


例えば創価などでもあなたが不幸になったのは信心しないからでありあなたの不幸の原因をすべて宗教にしてしまう。会社が倒産したり商店街が衰退して倒産したり病気になったりといろいろな不幸がある。それをすべて宗教に結びつけるやり方は科学的ではないのだ。その理由はすべて宗教にあるのではない、商店街の衰退は車社会になったとか巨大ス-パ-ができたとかにあると社会を科学的に分析するのが正解であり宗教は関係していない、病気にしてもみんな病気になるとしたらすべて宗教が関係するとはならない。現実宗教団体に入って祈ればすべて解決するとかにはどこもならないのである。こういうところでも科学的に見る眼が必要なのが現代である。科学時代に科学的な思考をせず盲信に陥ってゆくというのもまた科学万能ではないからそうなる。


●地震学は素人の感より頼りないもの


現代では科学が苦手でも科学的思考が必要な時代である。現代文明は科学的思考の上に成り立っている。それが科学万能主義となることとは別問題である。科学は万能でないからこそ原発事故も起きた。原子力や核について人間はすべてを知っているわけでないから事故が起きた。原発の安全神話は科学万能主義の宗教に似通ったものとなっていたのだ。科学が万能なら事故は起きない、でも事故は起きた。地震予知と不確かなものとこれまでもそのことは知っていた。だからあくまでも一つの目安にすぎないと科学者が言うようになった。地震について津波についてはわからないと言っていた。だから地震が起きたら津波の警報にしてもあくまでも目安にすぎないから自己判断で危険を感じて避難すべきだと言っていた。ところがやはりテレビとかマスコミが情報を受けていることが日常化しているときそこで錯覚が生まれたのである。

3メ-トルや6メ-トルの津波警報が出たときそんなものかと最初からみくびってしまった。それは常にテレビとかの情報から流されることになれていたことにもある。天気予報とにたものとして見るようになってしまっている。日常的には天気予報は正確なのだけど地震予知は正確ではないのだ。特に巨大地震は千年に一度でも起こるしこれからも想定外のものである。だからこそ予知はできないと言っていたから各自危険を感じて避難する他ないと言っていた。

そして地震警報をだしたのはその時、大阪管内であり大阪では東京のような揺れを直接感じていなかった。だからもし東京管内だったら直接のゆれを感じたからたれは尋常ではないと人間の感が働きもっと津波警報も違ってものとなっていた。そんなことを地震学者が言っている。ええ、人間の感の方が体感の方が頼りになる?それなら地震学者はいらないとなる。これほど地震学は未熟なもので頼りないものだった。それはこれまでもそうだったのである。でも日常的に天気予報とかが正確だからそこに錯覚が生まれたのである。日常的でないものに対し人間は弱いということである。

そうなると夢とか人間の不安とかの方が地震や津波に対して予知になったともなる。なぜなら海岸沿いに住んでいる人は大きな浪に飲まれる夢をみる、自分も小学校の前まで海の水がおしよせてのまれる夢を良くみてたいたのである。その通りに小学校前まで津波は押し見せていたことに驚いた。小学校前から海まではほとんど家もないからそういう夢をみていた。そういう夢が本当に現実化したことに驚いたのである。隕石が落ちる夢などは見ない、しかし浪にのまれる夢は実際度々みているのである。そうした人間の不安は現実化する。だから都会に住んでいる人がビルが倒れたりする夢を見るかもしれないがそれはいつしか現実化する。そういうことはありうるのだ。絶対に倒れないことはありえないのだ。そういう危険を感じることは回りにある。それはいつか現実化するのである。

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2011年11月17日

津波に残った庭の大石 (霊験を帯びた石となった)


津波に残った庭の大石

(霊験を帯びた石となった)


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津波に残る庭の石


津波にも残れる庭の石

堂々として動かざるかな

その石に土台のみ残りぬ

今北風鳴りてこの大石や

故郷に残りけるかも

その背(そびら)松二本も

前の港の跡に残りけり

人よ、この残れる石に祈れ

この石の津波にも残り

霊験を帯びたるを知れ

津波にも動かざるもの

不動なるものの力よ

この石に新たな力宿りぬ


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360度パノラマ

今回の津波によってのちのちに語られることが様々に生まれた。陸前高田市の奇跡の松もそうだった。゛何万本のうち一本だけ残ったということは本当に奇跡だった。この辺で残った松もそうだった。右田の松原にはいい松があった。松が太いのでいい松原だった。それで前に紹介した松は本当に悲壮な松となっていた。松の幹ははがれ枝は折れていてまるで激しい戦いを生き抜いた武将のようだった。その姿は凄まじいものだった。よくぞ残ったあっぱれといいようがない松だった。他にもどういうわけか二本並んで残っている松がこの辺では八沢浦とか右田とかにあるし烏崎にもあった。

そして烏崎に残ったこの石も記念碑的な石となった。石だってあの津波では流されたのが多いのだ。防潮堤も破壊されたし石だって流される。津波の力は本当にそら恐ろしいものだった。その津波にもちこたえてこの庭の大石は残った。この石の回りの石も忠実な従者のように残った。小さいから流されても不思議ではないがこの真ん中の大石とともに残ったのである。


石の配置は前に置く石があり脇に置く石がありと定められている。それがそのまま残っていた。この石は津波で一つの記念碑的石となった。何か霊験を帯びる石となった。残った松もそうである。自然のものでもこういうとき今までにない価値が帯びてくる。霊験を帯びてくる。もともと石や岩の霊験は動かないということ不動にあった。不動ということは回りのものに惑わされない、付和雷同しない象徴として石や岩があった。
それがますます津波にも耐えて動かなかったことで不動という価値を増した。新たに霊験が加わったのである。そういうところから一つの信仰も生まれてもくる。謂われがある自然物,石や岩や樹でも何かそういう霊験をあったのだが時間がたってわからなくなったのである。この石はまだ霊験が新しい。でも時間がたてば伝説的な石となってゆく。津波を記念する石となる。


ともかく津波の後遺症はまだまだ残り長びく、伝説が残るほどの惨事だった。冬となり北風が吹き津波の跡に土台と庭の石と松が残っている。その残ったものが風格を帯びて霊験が加わったのである。陸前高田市のように壊滅的打撃を受けた所では残った一本の松でも頼りにする、そういう悲惨な状態だからこそその一本の残った松は貴重であり拠り所となったのである。それはもはやただの松ではない、住民がそこに残るという願いがこめられていたのである。

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2011年10月10日

熊野山地の洪水の山崩れも自然破壊にあった (原発事故周辺の町も十津川村と同じ運命に)


熊野山地の洪水の山崩れも自然破壊にあった

(原発事故周辺の町も十津川村と同じ運命に)



白神山地のブナ林の土壌は「ブナの森から出る水に肥料いらず」といわれるほど理想的な森林土壤であり,高い保水能力を持った土壤である。ところ力 5 ,昭和 33 年から人工造林計?が始まり,ブナを伐採して逮材用のスギゃヒノキなどの針染樹を植えた結果、洪水被害が増えた。


大きいブナだな”と思うもので樹齢は約250年


カラマツは、日本の天然林に多く見られるブナに比べると、その保水能力は数分の一とかなり低く

ブナの木は山の保水能力を高めること、 野生動物のエサとなる(人間でも食べられるらしいが) 実をたくさんつけることがわかりました。


樹齢250年のブナの木は、8トンの水を蓄えるだけの保水能力を持っているんですよ。


広葉樹は横に根を張り、土壌を安定させるのに対し、
針葉樹は縦に根を伸ばす為、保水能力が低い。

人工林は針葉樹ばかり。
つまり、現代の洪水は、人災。



ぶな?(木偏に無)がなぜこの字になったのか?この木はもともと森にあった先住民である。それがなぜ無駄な木、無用の木とされたか?それは杉とか檜が効用があったからそうなった。ところが自然にとっては森にとっては欠かせないものだった。不可欠なものだった。保水能力があり木の実は動物たちの食糧になる。ブナは生態系を維持するために不可欠なものとしてもともと山にあった。それを無用のものとして切り杉や檜を植えたとき保水能力が失われ麓で洪水が増えた。山崩れの原因もブナと杉では根の張り方まで違っていた。ブナは土に密着して広く深く根を張っていたから土壌を堅くする用をなしていた。人間側にとって無用と見えたものが実は山にとっては不可欠な有用なものだったのである。人間はもう文明が開始された何千年前から自然のままではない人工的自然を作って住んできたのである。それが結局常に災いのもとになった。技(わざ)わいなのである。ブナを無用だとすることは人間の一方的な便利さのみを追求した結果であり自然の知恵によって作られた山と森と水のシステムがあった。それを壊した結果洪水が増え山崩れが増えた。今回の熊野地方の山崩れ災害はそのためだった。そしては十津川村は北海道に移住して第二の故郷の十津川村を作った。文明の崩壊が自然破壊と密接に関係していた。イ-スタ-島では森林を破壊しつくして崩壊した。土壌が疲弊して荒廃して文明が崩壊することもある。船を作るためにレバノン杉をとりつくして王国が滅亡した。
ウルクの王ギルガメシュは、ウルクの繁栄を願い、盟友エンキドゥとともに香柏(レバノン杉)を得るために、香柏の森の守護者(半獣半神)のフンババを退治に出かけることを決意しました。戦いのために、ギルガメシュは、エンキドゥと刀鍛冶を訪れて、3ビルトゥ(90Kg)の強力な青銅の斧と大太刀を作らせました。


人間はやはり自然に逆らうと復讐を受ける、そもそもプロメテウスも火を盗んだ結果として過酷な刑罰を与えられたのもそうである。今回の津波でもそうだった。もともと海だったところを開拓して水田にした。防潮林として松林を作った。それは自然とマッチした人工の美だったのである。その風景が根こそぎ津波で失われたのには驚嘆した。これも自然が自然をとりもどすために津波を起こしたのかともなる。青松白砂や水田さえ自然破壊をして作られた風景だったのである。津波があったところは自然に則して生活していれば津波の被害にあわない。人間は自然から離れ自然を破壊して文明を作ってきた。だから今の大都会は一旦災害には弱い、不自然なものであり極端に人工化した所だからである。その例が神戸大地震だった。火の海になり大被害を出した。海より低い場所に住宅地を作ること自体いかに危険なことか今回の津波でわかった。東京辺りにはそういう一帯があるからいかに危険かわかる。


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ともかく老子が無用の用を二千年まえに主張したときまさにこういうことだったのである。ブナを?(木偏に無)としたときまさに人間が便利なもの人間にとって便利なものだけを有用なものだけを追求した結果としてこの字をあてた傲慢があった。そういう人間側だけからの自然利用は必ず復讐を受ける。それが山崩れであり山津波であり今回の大津波でもあった。その復讐は恐るべきものになる。自然はとても人間の知恵では今でも計り知れないものだった。そういう計り知れない自然を畏れることなく原子力発電を海岸に作った。それが自然に復讐されたのだ。自然を甘くみてコストカットのみを追求した、そして自然にはない物質を原発は作り出してその毒で回りは住めなくなったのである。それは自然からの人間の傲慢に対する復讐だったのである。そういうことは地球全体にあり地球の自然が人間側の便利さや有効さなどの追求の結果として起こる。資本主義というのも貪欲に自然を人間側の欲のために破壊してゆくから大きな自然災害が起きて復讐される。自然には自然の知恵と理があって存続している。それを人間側の一方的論理と便利さのみ追求は危険なものとなる。


1889年 奈良県吉野郡十津川村水害遭難、壊滅。
1957年 新十津川村、町制施行。「新十津川町」


原発周辺の住めなくなった市町村はどうなってしまうのか?北海道に移住するようなことは今はできないだろう。すると散り散りになり消滅する。その歴史も断たれてしまう深刻なものとなってしまう。市町村が消滅するということはどういうことなのか?それは歴史と風土とかすべて失うことになる。そこに原発事故の残酷さがあったのである。

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2011年10月03日

原町区の萱浜(かいはま)は元の萱の浜にもどった


原町区の萱浜(かいはま)は元の萱の浜にもどった


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烏崎の沼

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萱浜

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萱浜にあった家

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瓢箪や平和もどらむ二つかな

水葵色濃くなりてここに咲きまた来たりて秋となるかな


萱浜はぼうぼうとして萱の原元に帰りて秋風の吹く


誰か住む形見と残る庭の石草も枯れつつ秋風の吹く




烏崎の沼になったところは不思議である。水葵は色が濃くなったみたい、もともとあのような色なのか?あそこだけが本当に沼のようになった。他は水がたまっても浅いし汚い、あそこだけなぜ水葵と白い花が咲いたのか謎である。もともとそういう素地があって沼になった。なぜならあそこだけが自然に帰ったのである。他はあのように自然に帰っていない、湿地帯化しているところがあるが汚いのである。あそこの水は何か深く感じるし湿地帯の沼である。
いづれにしろ津波の跡は何度行ってみても不思議としかいいようがない、萱浜(かいはま)はもともと萱の原だったからこんな情景だった。江戸時代に越中から移住した人などが苦労して開拓した地域であり今でもその時のことを語り伝えていた。それが今や水の泡になった。元の萱の浜に帰った不思議である。一軒の家があった所に庭の石だけが残っている。これはどこでもそうである。庭の石だけは残ってあとは土台だけになってしまった。老人ホ-ムがあったところまで水が来て被害があった。


ともかくなんとも荒寥とした風景になった。あの辺にはもう家は建たないし田を作ることもないだろう。無理して田んぼを作り米作りする時代ではないから農家でも廃業する人はふえるだろう。すると萱の浜のまま放置されるのか、でも土地は広いから何か利用するというとき産業廃棄物とか放射能の処理場にいいとなってしまう。その他にソ-ラパネルでも置くかとなり現実にそういう会社がアメリカから来たりしている。津波の跡はもはや水田にはならない、それだけの労力を費やす人はもういないだろう。湿地帯化すれば自然がもどったことになるがきれいな北海道のような湿地帯になるかどうかはわからない、菖蒲などが咲けばそうなる。

瓢箪は秋の季語であり平和がもどってほしい、今までの普通の日常がもどってほしい、津波と原発事故の前は瓢箪が下がっていてこの辺はのんびりしたところがあった。今は毎日毎日放射能がどうだこうだそしてぼうぼうとした草がなびく津波跡とか平和が失われたのだ。瓢箪とか糸瓜を養う余裕がなくなった。そういう余分な人を養う余裕がない社会もまた窮屈なのである。年金暮らしの人は金の心配がないから残れるというけどそうでもない、現実に南相馬市から半分の医者や看護師がいなくなった。すると金があっても世話する人がいなくなるのだ。だから年金をもらっても金があってもサ-ビスを受けられると限らないし金があると安心もしていられないのだ。市町村でも全体が衰退することの影響が大きいのだ。全体が衰退したらもう個々人でも家でも栄えることはありえない、個々が栄えることは全体が栄えてはじめてありうる、全体が衰退したらあらゆるものが衰退してゆく、芸術とかもやはり生まれない、育まれない、決して個々人が金があるとしてもそういう市町村では栄えることはない、そういう衰退する市町村では金の価値すらなくなっているのだ。そもそもサ-ビスを受けられないからだ。物は通信販売でも手に入っても医療とか福祉関係など人的サ-ビスは受けられなくなる。
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2011年10月02日

牡鹿半島の村で再び定置網で大漁の喜び (津波被害で消滅の危機の村)


牡鹿半島の村で再び定置網で大漁の喜び

(津波被害で消滅の危機の村)

テレビで見た大谷川浜での定置網漁は興味深かった。村落が消滅しかかっていたが漁をはじめたら魚はもどってきて大漁だった。その時漁師の顔は喜びに満ちていた。それまでまず避難所暮らしやら仮設暮らしで何もしていない、仕事がないというとき金がないというだけではない、仕事そのものが生きがいになっていることを自覚させられた。日頃何気なくしている仕事がもしできなくなったらどうなるのか?生活できなくなるということもあるが仮設で一応援助があって暮らしていけても何年も仕事がなかったら退屈するし生きがいがなくなる。その生きがいが特区にして企業に雇われるようにすればいいというがそれでは生き甲斐がなくなる。サラリ-マンになるのは嫌だいう漁師の気持ちを察してやれというのもわかる。自分の暮らしている場所が見える海で漁ができて生活が成り立つ、それが漁師にとっては生き甲斐なのである。それは農家だったら前田で働くことである。家の前の前田や前畑で働くことは充実感がある。サラリ-マンのように家から遠くへ出勤するのとは違う。つまり農家とか漁師は大地とか海と直結して一体化して生活する。自分たちの村のすぐ前の海で漁することは前田と同じ感覚である。人間の基本的生活感覚はそこから生まれたのである。牡鹿半島というと山も低いが大谷川村では清水が湧きでていて小さなサンショウウオまでいた。その清水は涸れたことがないというから水に恵まれていたことの不思議である。耕地になるような田畑はないが水に恵まれていればそれなりに生活できる。ただ鮎川は明治以降に鯨の遠洋漁業で栄えた。


鮎川は明治中期まで55戸ほどの寒村にすぎなかった。しかし,捕鯨会社の進出により,一躍,労働者がたくさん流れ込んできた。


網地島に隠居していた老人も遠洋漁業に行っていて話したことがある。鮎川は寒村に過ぎなかった。金華山は相馬辺りでも碑が結構ある。
でも金華山は古代まで歴史がさかのぼれるのか疑問である。
この辺の碑は明治以降になってから建てられたりしている。湯殿とかは古いが金華山信仰は新しいのである。

荻浜は北海道との航路があり港があり明治時代に栄えた。そこで啄木がより歌を残した。月が浦からは支倉常長の船がメキシコ回りでヨ-ロッバまで行った。東北では海への歴史がそれなりにある場所である。牡鹿半島を地形的に見ると後背地に山しかなく田畑は作れない、すると漁業だけで生きてゆくほかない、それで遠洋漁業に活路を見出すのは必然だった。そういう場所は対馬とかにもあった。山と海しかないのだ。海山の間がないから地形的に活路を見出すとなると海に乗り出すほかないのである。


今回はその漁村が壊滅的打撃を受けて村が消滅する危機に瀕している。もともと第一次産業は高齢化であり跡継ぎがなくなっていた。大学などを出せば故郷にはもどってこない、もしその土地で暮らすなら別に教育はいらない、その土地のこと海の漁のことに通じればいいのである。それは長年経験を積んだ両親とか祖父母から学べばいいのである。そこに世代間のつながりが生まれてくる。そういう生活が長い間つづいてきた。そういう生活が津波で奪われたとき皮肉なことに海に魚がもどりみんなで定置網で漁をして大漁になったときその喜びは深かった。津波で被害があっても海は死んではいなかった。海は豊かな恵みを与える海だった。海を恨んだがまた海に感謝する営みがもどった。その時の喜びは深い、人間の生活はもともと海であれ大地であれ山であれそういう自然と結びついていることにこそあった。そういうものが文明が発達したとき喪失してしまった。みんなサラリ-マンになり工員になってしまった。実際に第一次産業にたずさわるものは一割くらいになったときその価値は極端に低下したのである。現実は女川でも原発があり雇われる人が多く漁師だけで生活している人は少なくなっていた。それは漁業だけではない農業でもそうである。8割が第一次産業に従事していた時代とはあまりにも変化しすぎたのである。その時第一次産業にたずさわる人の心も変化した。農業であれ漁業であれ金にならない、跡継ぎもなくなるとか社会全体で価値が低いものとされたのである。

そのことが原発事故とも関係ないこともなかった。つまり漁業権を私的権利として原発を作るとき多額の補償金をもらっていた。浪江の請戸では5千万をもらった人もいたと白状した。それだけの権利が漁業権にはあったのだ。福島県の漁業組合ではみんな東電からもらっていたのである。この辺は牡蠣の養殖とかもないし漁業は盛んではない、だからまた容易に漁業権を売り渡すことにもなった。
でも農家でも漁師でも海と共に大地と共に山と共に生活する喜びとか価値を見出せなくなっていた。それより金になっていた。そういうことが原発を容易に建てさせた要因でもあった。現に原発のある玄海町でも漁師が反対しても金をもらっていたのである。金の魅力があまりにも大きくなりすぎたのである。それでも人間の本当の生活の喜びは山とか大地とか海と共と一体となってある所にある。

そういうことが見失われていたが津波や原発事故でそういうことが見直された。漁師が魚が踊る、大漁旗をかかげる、そこにこそ生きる喜びがあった。そういうことは金に代えられないものでもあった。それは農民でもそうだったがそういう生き甲斐とかより金だとなるとき容易に原発を誘致して手っとり早く金を得るということにひかれる。自分たちが求めていたものが何であったのか、そういうことを見直す機会にもなったことは確かである。海に大地に山に感謝しない文明生活はやはり神から見ると不遜なものだった。確かに津波はその自然からの大被害を受けたのだが人間は文明生活に浸り大地にも海にも山にも感謝しなくなっていたのである。江戸時代の生活は第一次産業がほとんどだから自然を畏れ感謝する生活をしていたのである。それが信仰にもなっていた。それが喪失したとき容易に原発が誘致されたともいえるのだ。ともかく金になればいいということでそうなったからである。それで津波が天罰だったというときそういう面も確かにあったかもしれないし人間の本来の生活を見直す契機になったのはそのことを証明している。



網地島
http://musubu.sblo.jp/article/29256713.html



再び大漁の喜び



再び魚が踊る

その魚をとらえる

鮭ももどってきた

その感触がいい

再び大漁だ

喜びが満面に満ちる

その魚を積んで村に帰る

妻や子供がそこに待っている

魚は村のものに分けられる

その喜びは深い

何にも得難い喜びがあった

久しぶりに働いた充実感

それは体全体にみなぎる

仲間とくみ交わす酒がうまい

人の絆がさらに深まる

津波はあまりにも酷かったが

海には魚がもどっていた

その魚の恵みがうれしい

再びまたここで魚をとり暮らせたら

そうつくづく漁師達は心から思った

・・・・・・




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父の形見の大漁旗
http://www.daily-tohoku.co.jp/special/sansya/news/news2011/san110803c.htm


大漁旗にはいろいろな思いがこもっていた。大漁旗のキ-ワ-ドでわかった。こういうときインタ-ネットは便利である。

TBS

集落消滅の危機に・・・男たちは海に賭けた (2011/10/1 放送)

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2011年10月01日

磯部の津波の被害にあった人の話 (津波警報の出し方に問題があった)


磯部の津波の被害にあった人の話

(津波警報の出し方に問題があった)

磯部の人と原町区の火力発電所の所であって話を聞いた。磯部は一軒も家が残らなかった。土台だけであり相馬市で五百人ほど死んで半分は磯部の人だった。死体がここに流れ着いたんですよと聞いたときは生々しかった。その人の話では津波がどうしてやってきたか説明していた。突然に大きな津波は来ない、テレビの映像だと突然に大きな津波が巨大な波飛沫をあげて襲ったように見えるがそうではなかった。まず警報がでたとき海がどうなっているか見に行ったという、写真にとろうとして見に行った人もいた。あんな巨大な津波が来るとはそもそも思いもよらなかったのだ。防波堤は6メ-トルあるから大丈夫だとかここは津波が来ないとかまるで津波に対する警戒心がなかった。だから津波を写真にとってみようかとかなる。珍しい津波がくるから記念にとっておこうというくらいの意識しかなかった。九十才くらいの老人でも津波を警戒していなかった。そもそも津波の経験がないのだから歳には関係なかった。チリ地震の津波もあったがそれもたいしたことなかたことが警戒しないものになっていた。この心理は三陸とかでも同じだった。あそこでは何度も被害にあっていたのだからもっと警戒してもいいき思ったが同じだった。防波堤がありまずそれに安心していた。それからチリ地震の津波くらいだと過少評価していた。その大きな原因が最初の津波警報にあった。


3メ-トルの津波が来る
6メ-トルの津波が来る


つまり最初に出された水位がそんなものだった。自分は6メ-トルとテレビで見たとき驚いた。そんな高い津波警報が出たことがなかったからだ。津波注意報はしょっちゅう出ていた。津波警報はめったに出ないものである。でもこの津波警報の出し方が大きく影響していた。6メ-トルといってもそれほどでないと思う人がいた。最初から10メ-トル以上の津波が来るといったら対応の仕方も違っていたかもしれない、10メ-トルとなればかなりの衝撃を与える。磯部では地震の時、停電してテレビを見れなくなった。それでも海を見たいたら水はひいたという、それから第一波がやってきた、それは最初たいしたことがなかった。水が堤防を越えてきたのであわてて車で逃げたという、ええ、水が来てから逃げられたのかと思った。テレビではものすごい勢いで波が高く打ち上がっていたから見ただけ恐ろしかった。水があがってから車で逃げて助かったのか?近くの磯辺小学校の所に逃げて助かった。第二波、三波が来るまでそれなりに時間差があり助かったのだろうか?第二波、三波は巨大なものであり家が吹き飛んだのを見たという、それから凄い音がしたという、何かに爆撃されたような状態だった。


ともかく津波警報の出し方が大きな問題があった。今はテレビの情報を頼りにしている。人間の経験とか五感ではない、川の水がひいたからとか海の水がひいたからとかで危険を感じるのではない、テレビの情報に頼っている。ただそこに錯覚が生まれたのである。3メ-トルか6メ-トルかとその数字を見てたいしたことがないと判断した人もいる。現代は人間の五感とか経験を頼りにしていない、テレビの情報を頼りにしている生活でありそれが習慣化しているからとっさの危険の場合もそうなった。そこが盲点ともなっていたのだ。テレヒだけに頼るということが実は危険をまねいていた。誰かが今度の異変は普通とは違う、大きな津波が来るぞと予感してもそのことを言っても従う人はまれだったろう。テレビで気象庁から科学的な根拠のもとで発表するものだったら信じる。人間の五感とか第六感とかとっさの危機感よりテレビの気象庁の科学的根拠を基にした情報に従う。そのことがかえって今回裏目に出たのかもしれない、防波堤を作ったということでも安心していた。それも裏目にでた。また停電したり携帯が使えなくなったりすると情報も遮断されるからそういう日頃便利なものが一旦使いなくなったときどうにもならなくなる、各地で停電が起こり携帯が使いなくなったからだ

このことは原発事故でもそうである。気象庁とは誰かといえば原初力専門家委員であり政府でありマスコミでもあった。そういう所の情報を信じていたし放射能については地元の人も知らないから突然の事故に対処する方法がなかった。事故には全く備えていなかった。安全だと気象庁から言われていれば信じる。それは科学的根拠に基づいているから信じると現代でなっている。つまりかえってそういう情報の権威が一方的になっているとき他の情報をとり入れる方法がない、今でこそすべてのマスコミが原発が危険だと言っているけど事故の前は全部が安全神話を作る方だったのである。それは戦争と同じだった。戦争前は日本は勝つという情報しかださない、負けたとたんにアメリカ一辺倒になった。だから信じられなくなった。今回の原発事故でも「原発は危険だ」という情報が極めて少ない、原発は安全だという情報が圧倒的である。するとどうしても原発は危険だということから考えることがない、はじめに危険ありきから考えられないのである。現代ではマスコミが危険を知らせる役目をになっていた。しかしその役目を果たせなかった。だから津波の水が来てから逃げていたというのも他からは考えられないがそれでも助かっていたのである。津波は第一波ではなく第二波や第三波が巨大となり怖いということである。ともかく津波警報は今では6メ-トルくると言っても恐れない、10メ-トル以上の津波来ると言ったらその効果は相当違っていた。とっさに逃げる人もいた。つまりNHKの情報の出し方が問題だった。津波警報だけでは人々は即座に避難しないのである。


10メ-トルの津波来るぞ


こういえばかなりの効果が出ていたかもしれない、情報がテレビ時代となり危険を察知するのもテレビだけとなるとやはりそこに問題が生まれたというのもあった。それは津波の情報だけではない、様々な問題でテレビだけから情報をとっているとそういう間違いを犯しやすいのである。政治的判断でもテレビを見てばかり判断しているとそうなる。増税はやむをえないという発信ばかり聞いていたらそうかなといつのまにか思ってしまう。増税は役人や官僚がしたいのであり都合がいいからそうなる。国民が痛んでも官僚や役人は痛まないからそうなる。増税が震災復興のためにはどうしても必要なんだというときしかたがないとかなる。それもやはりマスコミがそういうとしかたがないのかともなる。いづれにしろ情報は出し方と受け取り方によってずいぶん解釈も違ったものとなる。テレビでもマスコミでも出される情報がすべて信用していいものではないしそのまま受け取っていいものでもない、独自の分析が必要になったりする。津波のような危険情報の時はそういう考える分析する余裕もないから情報が出す方が責任がある。その時人々の生死がかかっていたからである。



地震発生から1〜2分以内にあるいは発生後揺れが収まらない内に津波が到達することもあり、今後も警報・注意報の発表が津波到達時刻に間に合わない事例の発生が考えられる(現実に、津波警報等の発表の時点で第1波の到達予想時刻が「すでに到達と推測」となっていたケースは1999年以降でも幾つか存在する)。ゆえに海岸付近の住民は揺れを感じたら津波警報の発表を待つまでもなくすぐに津波の襲来を考えて、安全な高台に避難する事が第一優先といえる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E6%B3%A2%E8%AD%A6%E5%A0%B1

市役所のアナウンスに全然危機感ない所に役所のクソっぷりが出てるな
津波が腰まで来てんのに「大津波警報が〜、高い津波が観測〜」ってバカか
「沿岸部で今車押し流されてっからすぐ逃げろ!!!」くらいに煽れよバカ
そういう呑気な警報だから逃げ遅れるんだろうがクソ役所



こういうこともあった、役所の人はこういうことある、普通の時はいいがこんな緊急事態だと対応できない

機転がきかない、そういう場に遭遇した経験もないから普通のような対応していた


波がきてからでも助かっていた人はいた、第二波、第三波でのまれ死んだ人が多かった


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2011年09月18日

神戸震災の中で作られた俳句


神戸震災の中で作られた俳句


枯草や住居なくんば命熱し 永田耕衣
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その後、避難所生活ののち、老人ホームで生涯を閉じた。享年97。
耕衣は常々「雑草の哲学」と口にしていたらしい。


神戸の震災は遠いからそれほど実感しなかった。ただ驚いたのがアナウンサ-が燃えたばかりの骨を手にもって報道していたことである。それが熱いといっていた。あの長田区の火事はテレビで見ただけで凄まじいものだった。神戸に近い大阪辺りだったらその恐ろしさを実感したのだ。6千人も死んだのだからあの地震も恐怖として焼きついていた。ただ遠いということでイマイチ実感に欠けていた。やはり遠いということはいくらテレビで報道しても実感できないのである。
それでもあの映像を見たときショックだったから3000円送った。今回は見舞金5万もらったから少なかった。ただこの5万円は原発が関係している。あと30キロ圏外でも一人十万はもらえる。
原発の被害は意外と大きいものだった。田畑が耕せなくなったり地元で作ったものが食べられないのは本当に困る。


・・・・焼かれ芽吹きぬ・・・・・
http://tsdai181.blog61.fc2.com/blog-entry-119.html


この俳句も異常である。やはり火の恐怖がここにあった。津波の恐怖は水の恐怖だった。気仙沼では火事もあったから火と水の恐怖が一度にやってきた。そこにいた人の恐怖はどれだけのものだったろうか。自分も津波と原発事故が重なったとき本当にこの世の終わりが来たかと真剣に思った。家族の認知症介護から次に自分の病気から犯罪にあうことや災難続きであり
今度は地震、津波、原発事故と来れば本当にこの世の終わりかと思う。人間は火と水で滅ぶというのを実感した。今は放射能でも滅ぶ。


永田耕衣は

1995(平成7)年、阪神淡路大震災、永田耕衣は夜中にたまたまトイレに入って、全壊の家から、トイレの手水の金タライをカンカンと打ち鳴らし、近所の青年にトイレの窓から助け出された95歳の時である。耕衣は震災を詠んだ



95才でこうした大災難にあいそのまま死んだ人もいる。今回の津波原発事故でも百人くらい避難所とかで高齢者が弱り死んでいる。こんな年まで災難はある。95才の母は動けなかった。
神戸の地震災害にあった人は体験しているから今回の津波でもいち早く支援してくれたということがあった。こんな災害のとき俳句とか短歌などよんでいられないきが普通である。ただ習慣的に俳句短歌を作った人はそういう場合でも作るのである。習慣とはどんな時でも継続されているのだ。


枯草や住居なくんば命熱し


95才でこんな俳句作れるものだろうか、相当気丈夫だったのか、健康だったのか?95才だったらこれだけの災難にあえばまいってしまう。自分なんか年としては30年違っているからその年に驚く、ただ今は90才は珍しくなくなっている。そこまで゛生きるのはわかるにしても命熱くとなるだろうか?命がなえてしまわないか?なんか自分は病気になって気弱になったからそう思うのだろう。90才を想定した人生は本当に長い。あと30年生きるとなるとこれも一つの人生の期間である。25才頃師が90才の人生と言っていたが本当にそれは長いのだ。ただ高齢者でも津波の被害にあった人はたくさんいるし死んでもいる。原発事故では避難所暮らしした人もいるし今は仮設で暮らしている。だから高齢者も災難を逃れることはできなかった。戦後生まれの人は災難とは何か知らない、戦争を経験した人は知っている。人生に災難はさけられない、自分の家でも二回水害で浸水している。一回目は伊勢湾台風では家が流されたと思ったが辛うじて残ったのである。倒産-貧乏-戦争-貧乏-水害-病気-地震-津波とかそういう時代を85以上の人は送っている。人間は死ぬまで災難がつづくのだ。火宅の世に生きるのが運命なのである。


「火宅無常の世界は、万のこと皆もって、空事・たわごと・真実あること無きに、ただ念仏のみぞまことにて在します」(歎異鈔)

 「この世は、ひさしに火のついた家に居るように、常のない、不安な世界である。ただ、阿弥陀如来の本願だけが、不変不壊の絶対の幸福に救いたまう、真実なのだ」


つくづくこういう世界に人間は生きている。人とて頼りにならない、裏切りなどはどこにでもある。こういうことをここ5年間に一時に体験した。だから念仏のみとなるのは今の世ではありえないにしろこれだけ種々のものに恵まれている時代でも火宅の世に変わりなかった。ただたまたまそれが来るのが遅かっただけである。


芽吹きと地割れ
http://musubu2.sblo.jp/article/44138907.html

posted by 老鶯 at 09:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係