2022年08月22日

夏の日に飯舘村へー飯館村には芙蓉が似合う (ただ荒地がまだ多いのが残念)


夏の日に飯舘村へー飯館村には芙蓉が似合う

(ただ荒地がまだ多いのが残念)



栃窪ー大倉

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これも養蚕の家だろう

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大倉から飯館の塩の道は通行止め

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養蚕の家の残るや木槿かな

大倉や一本の杉高く影涼し

蝉鳴いてまた一坂越え行かむ


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道の駅

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荒地が多いから人かこの先住んでいるように思いなかった

飯館村には森におおわれているからこうした森の道が多い、ここをサイクリングするには向いている
でもスポーツカーで行くのには向いていない、バイクでも早すぎるのである


飯樋の馬頭観世音

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石垣が組まれている、この上に城があるように見える

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美しい村を子供たちに残すとある肝心の子供がいないのである
飯館村の外から通っているのである
だからこれも何か虚しいともなる
ただ帰ってきている人達はいる、野球の試合もしていたからわからない

きれいに見るにはクリック拡大




喜々として芙蓉に舞いぬ揚羽かな

飯館の家々離れ芙蓉かな

一面に夏菊覆う道の駅

飯館や木陰の長き道を行く

蝉の声ひびき高鳴り人帰る

その御堂馬頭観世音桔梗かな


ひまわりの高くも咲きて芙蓉咲き飯館広く久方に来ぬ

森の道つづくも先に家あれやソバナの花のうなだれぬ

飯館の家々離れ芙蓉咲く広々としてなごみけるかな

夏菊の風にゆれつつ軽やかに揚羽舞い飛ぶ奥の道かな

四五本のポプラに風のそよぎつつ夏野広がる

石と石組まれつあれや城のごと夏の日に来ぬ畑耕す人


久しぶりに飯館村へ行った、暑いと陽射しが強いと熱中症になるから一か月二カ月なのか
遠くに行かなかった、行けなかった、でも今日はそれほど暑くないと見て行った
大倉のダムの岸で休むと風が涼しくて気持ち良かった
見ると一本の高い杉が立っていた、前の学校の校庭の前だった
何故か一軒店があったがなくなってその後に郵便局なっていた
この郵便局はコンビニよう全国にある、与那国島に行ったとき一番最初に見たのは郵便局だったのである、郵便局は不可欠なものとして全国にあった
郵便夫が昔の恰好して馬籠宿の坂を歩き郵便を配っていた、それは飛脚だったのかとも見た、とにかく郵便というのはそうして人が歩き配っていたのである
それも苦労だったのである

土壁の蔵が飯館村にあったが意外と土壁の蔵はまれである、石の倉が多かった
それは明治以降大谷石とかが出回って石の倉にしたらしい
養蚕の家は見ればわかる、兜の形をした屋根をしているからである
地方の経済が何で成立っていたかというと養蚕だったのである
生糸をアメリカに輸出していたのである
それで私の母親は原町紡績で十年間糸取りをして働いていたのである
でも昼食はたくわんと味噌汁と御飯だと言っていた
そんな食事で良く働いた思う、でも江戸時代の遊女もそんな食事だったのである
今からすると貧乏な人でもサシミを食べているし他も食べているから贅沢だともなる
明治生まれの父は最後病気になりサシミを食べれるようになったけど食べたくないと言って死んだのである
サシミはもう相当な贅沢だったことは確かである、めったに食べられないものだったのである

飯館の道の駅でスポーツカーを集めたイベントがあって人が集まっていた
フェラリーが多かった、スポーツカーは4千万とか五千万するというから驚く
でもそれは投資のためにそうしている人もいる、かなり高く売れるのである
だから資産として持っている、売れば高いからである
昨今ともかく貯金しても利子もつかないから増えない、それより物価高でも目減りしているのである、だからこれを投資として資産として持っていることは悪いことではない
何か盗難防止用の工夫もしているのもわかる
4千万から5千万もするからだ、全国になれば金持ちはいる
ただ正直飯館村にスポーツカーは合っていない、エンジンをふかした音がうるさかった
飯館村にあっているのはサイクリングする自転車である
森の中に道があり木陰で涼しいから気持ち良かったからである

飯館村に合っている花は芙蓉である、芙蓉がいたるところに咲いていた
家々にも芙蓉が咲いている、芙蓉の花は大きく広々とした飯館村に合っている
その土地に合った花がある、この辺だと相馬市は城下町であり藤の花が合っている
原町市はもともと原ノ町駅が機関区でありそこから駅前通りができて発展した
だからひまわりが合っている、そして鹿島区なると草深いとなり月見草とかあっている
藪甘草も合っている
道の駅の前にひまわり畑があり夏菊がおおうように咲いていたのは良かった
でも飯館村は一部は確かに田んぼと畑になったが少なかった
牧草地は放置されて荒地となり草ぼうぼうなのである
これは栃窪村になると田んぼは回復していた、また右田村でも確かに一部は荒地だが
かなり田んぼになり回復しているから比べると飯館村は田畑がまだまだ回復していない
要するににぎわっているのは道の駅だけなのである
今日は日曜日でスポーツ―カーのイベントがあったからにぎやかだった

それからあいのさとの溜池で休んだ、管理棟の人は外部から来た人である
何か話ししても通じない、飯館村は外部から入ってきた人が多いのである
それでも年配の人が多い、だから復興になるのかどうなっているのか良くわからない
どういう状況なのかわからない、ただ荒地をどうして活かすのかが問題になる
飯館村は前は森の中に隠されるように一軒一軒の家があり前は畑であり庭であり花が映えていた、今もそういうことがある、でも人はそんなに住んでいないと見る

それでも蝉が鳴くということはそこに人が住んで蝉も活きるとなる
人間と動物でも昆虫でも共に実際は共生しているのである
そのために原発事故以後蛙がいなくなり鷺もいなくなったのである
鷺は蛙も餌としていたからである、その後田んぼも回復して鷺が戻ってきたときは感動した、それから蛙の合唱を聞いた時も感動した、そのことで復興したと思った
飯館村は田畑が回復していないからそういうことがないと見る

やはりそこに暮らしがあり田畑でもあれば人が耕していればその村も活きているのである何か新しい家にしてもそこに住まず別荘のように利用していては暮らしにはならない
でもなぜ山村が過疎化しているかというと山でも木材をとって売れないとか外材と競争できないとか農業しても金にならないとかなり前から農業には不満が大きかった
それが一挙に原発事故で水でも土でも空気まで汚染されて木すら放射線で汚染されたのである、なぜなら私が計ったら木の幹でも3マイクロシーベルトとか合ったからである
森自体も汚染された、その放射線量は減っていないと思う
つまり原発事故の被害は農業とか林業に大きな被害があったのである
そしてもともと農業はもうからないとか60歳以上の人がしてもうつづかないとかなっていた、現実に私の近くでも一人は60代で病気になりやめた、その人は死んだ
隣の畑もやめた、その人は80くらいになっていたのかもしれない、車にのせられてきて畑を手入れしていたがつつがなかった、そしてそこは草ぼうぼうなっている

今回野飯館村の発見はまるで城の石垣のような所があった、これは人工に組まれた石のようでありここには城があったと言えば誰でも信じる、人工的にしか見えないからである
飯館村は広いからわからない所がある、サイクリングするにはいい場所なのである
これまでは暑くて来れなかった、陽射しが強いと熱中症になるからだ
でも今回は風が涼しくて良かった、すでに秋めいては来ているのである

今回の失敗はスマホをなくしたことである、ヤマハのYPJ-XCは優れモノなのだけど荷物を載せることができない、そのためにスマホを落としやすい場所に入れたみたいだ
スマホでもわかったことは小さいものは落としやすいことである
カードも小さいから三回くらいなくしている、それは小さいからだったのである
だから今度は大きなスマホを買うことにした、これも損だった、何か損がつづいている
どうしても自転車だと荷物を載せられない、それでダリヤの大きなものを買った
それは安かったのである、でも途中でこれも落としてしまったのである

また原町の方から七曲の坂を上りきって下がった所から入る道を行ったら途中で大きな崩落がありまた土砂崩れで道がさえぎられていた
車は通れないが自転車の場合意外と脇の方を通ると通れるのである
ただ自転車も常に危険がある、暗くなると危険である、側溝にまた落ちる所だったが足がついたので助かった、自転車も結構危険なのである、それで私は前歯三本を折ったことがあり頭を打っていたら死んでいたのである、自転車でも十分に死ぬことがある
それがどこかわからないのである、予測しないことで事故になり死ぬとなるからだ


飯館村は森の庭園に

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2021年11月13日

飯館村考(小国という地名がなぜ多いのかー人は隣村でも人が交わらない世界)


飯館村考(小国という地名がなぜ多いのかー人は隣村でも人が交わらない世界)

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かくして二里三里の険阻な山を越えなければ、入って行かれない川内が日本に多かった
それを住む人の側では或いはよぐに(小国)などとも呼んでいた
これらは標後の地名である
しかもそのその時代の古かるべきはことは言葉だけでなく、分内が梢、広くして生活品は藍さえも土地に産することがあり、武陵桃源の隠れ里の如く、彼が自得自賛の根拠あることを感んぜしめるからである

神を祭る人々に稲は絶対必要である、野川の流れはまた交通の唯一の栞である
(柳田国男ー地名考)

河内、川内、九州の隈、または福良も小川内であって盆地の上下をくくる所の急たんな地が都留(つる)である

小国村のなにがしの男、ある日早池峰池に竹を切りに行きしに、地竹の夥しく茂りたるなかに大なる男一人寝ていたるを見たり、地竹に編みたる三尺ばかりの草履を脱ぎてあり
あおに伏して大なる鼾をかきてあり

●下閉伊郡小国村大字小国


閉伊川の流れに淵多く恐ろしき伝説少なからず、小国川との落合に近き所に、川井という村あり、その村の長者の奉公人、ある淵の上なる山に木を刈るとて水中に斧を落としたり主人のものなれば淵に入りてこれを探りしに水の底に入るままに物音聞こゆ
これを求めて行くに岩の陰に家あり、奥の方に美しき機をおりていたり、
その脇に彼の斧をたててあり

小国の三浦某というは村一の金持ちなり、今より二三代前の主人、まだ家貧しくて
妻は少しく魯鈍なりき、この妻ある日門の前を流れる小さき川に沿いて蕗をとりに入りしに、良きもの少なければしだいに谷深く登りたり、そうして見れば黒き門の家あり
いぶかしけれど門の中に入りてみれば大いなる庭にて紅白の花一面に咲き鶏多く遊べり
その庭の裏方に回れば、牛小屋ありて牛多く、馬舎あり、馬多くいれども、一向に人をおらずその次の間に朱と黒との膳椀
をあまた取り出したり、奥の座敷に火鉢ありて鉄瓶の湯のたぎれるを見ゆ
されども終に人影なければもしや山男の家ではないかと急に恐ろしくなり駆けだして家に帰れり
此の事をひに語れども真と思う者なかりしが、またある日我が家の門に出て物洗いしに
川上より赤き椀の流て来たれり

柳田国男ー遠野物語




こうした言い伝えとかはどうして生まれたのか?それは江戸時代までは隣村でも行き来がまれである、だから隣村同士でも人は交わらずに生活していた
その隣村の人が来たとしてもそれは異人になるしまた隣村さえ異界なのである
だから麦付きに来た若者が蛇だったとかなる、人との交流がないのである
ではなぜそういう社会で隣村とも交わらずに生活できていたのか?
それが現代の様な世界とも交わるグロ−バル化社会とは全く異質の世界なのである

それで飯館の大倉村と佐須村が明治以降合併しようとしたとき民情が違うとして合併しなかったのである、今ならそんなに近くでそんなことがありえるのかとなる
でも歩いてみればかなり大倉村と佐須村は遠いのである、その歩いた感覚が今になるとわからないからそうなるのである

そして古代から川が道となっていた、だから真野川をさかのぼり大倉村ができた
その村も古い、でもダムの底に主要な家は沈んで消えた、そこには山津見神社があり
その川をさかのぼってゆくと佐須村がある
川が道となっていたのである、川内という地名が多いのは川の側は水があるから住みやすいからである、小川だと洗い物をするにいい、最近までそういう洗い物をした小川が栃窪にあった
そして信じられないことは私の家のすぐそばに掘りの川がありそこで洗い物をしていたのである、街内でも川の水を利用してい洗い物をしていたのである
戦後十年は水道もないから井戸水であり燃料は炭だったのである
だからそうした原始的生活と江戸時代のつづきだったのである
電気は裸電球一つだった、トイレは外の便所でありその糞尿も近くの農家の人が汲み取りに来ていたのである、その女性を知っていたが死んでしまった
街内でも農家があったのでありこの辺でも農家中心の部落だった
だから近くの神社に「天明の碑」がある、それは飢饉の時の碑なのである
裏の畑は麦とか桑畑であり養蚕をしいた家が街中にもあった

とにかく昔を知る時、大事なのは村はそれぞれ自給自足であり村人は滅多に交わらないのである、交わらなくても物のやりとり売買がなくても自給自足が基本だったのである
それより一軒農家があるとしたらその家自体が自給自足だったのである
その一軒の家で何でもまかなうともなっていたのである
裏に林があれば燃料にするし家の材料にもなるしまた鶏を飼って卵でも鶏をつぶして肉を食べるとかしていたのである
そして納豆まで作っていたとか一軒農家自体が自給自足が基本的にあったのである
そういうことがこれだけ買うことが生活になった時代とまくで違ったものだったのである何か作り生産して売るというのではなく自給自足の生活というのがわからなくなったのである
飯館村などはまだそういうことが継続していてまでいな村としてあった
だから水道を使わずに山の清水でも利用していたからそれは無料だったとなる
それが放射性物質で汚染されて飲めないから住めなくなったとなる

飯館村の山津見神社は海から安曇族などの渡来人が海人が入ってきて開拓した場所であるとにかく綿津見神社と山津見神社は相馬藩内で本当に多い、栃窪に山津見神社があり
大倉に山津見神社がありそして本元が佐須の山津見神社になる
でもこれはもともと海から海人が入ってきて開拓したのである
その人達の伝承もないから謎になる、でもこれだけ綿津見神社神社と山津見神社が相馬藩内に多いのにその由来も解き明かされていないのである
佐須の山津見神社で狼を神体としているのは焼畑がありそれが鹿やイノシシとか猿に荒らされる、狼はその天敵となっていたから神としてあがめられたという経緯があり
すでにそれは縄文時代から狼は神として崇められていたのである
佐須とは焼畑地名であり渡来人が名付けた地名なのである、焼畑地名は多いのは縄文時代は採集と狩猟じだいであり次に焼畑時代となり稲作時代と変化したのである
ただこの綿津見神社と山津見神社のことは何か伝承も残っていない不思議なのである
長野県の安曇野(あづみ)には安曇族が入植したことが明確であり船の祭りを今でもしている、ただこの辺で何の伝承もないのが謎なのである

小国という地名が日本全国に多いののは日本人がともかく小さな村で自給自足していて
それで俺たちは小さな国でもここが俺たちのクニだとして生活していた
隣の村さえ交流がなく自給自足していた誇りをもっていたのかもしれない
それを比べると今や日本全国の村でも町でもグロ−バル化して財源でも東京に頼ったり
物資でも世界から輸入したりとあまりにも変わりすぎたのである
その結果として原発が作られて水も飲めなくなり飯館村に住めなくなりやがては廃村にもなる
今や電気がなければ車がなければ石油がなければ生活できないとなっている
でも江戸時代から戦前までも人間はそういうものがなくても暮らしていたのである
そういう文明の利器がなくても生活してきたのである
つまりそうした文明の利器がなくても死ぬことはなかったのである
今だと近くの人が毎月電気水道ガス代が払えないとして死んでしまうとなっているのも変だとなる、そうしたら昔の人はみんな死んでいたとなるからである

柳田国男の遠野物語でも何か神秘的なものとなっているがそれは人と人が隣村でも交わらないから隣村でもそこに住んでいる人でも神秘的になる
そして大男とか巨人が住んでいたとなるのは何故か?
それは小さな村だと人間が大きく見える、存在感が大きくなるのである

牡鹿半島のある島に寄った啄木が小さな島を歩く人が巨人のように見えたとか書き残している、小さな島だと人間が大きく見えたということである
大男に見えるというのはそういう小さな島とかでは人間が目立つからである
また山の中でも人間が大男になる、人間が巨人になる、それはなぜかというとそこでは人間が主役になっている、人間の存在が大きくなっている
でも現代は人間の存在が卑小化される、小人化される、それよりもう人間はいないともなっている、大都会に行けばそこは群衆と大衆であり人はただ点になり実際に人間は数にすぎない、千人も歩いていればそれは数であり一人一人の人間はいないのである
名前もない数でしかない、選挙でも名前など関係ない、数として統計としてしか人間は存在しないのである
だから奇妙だけど東京であれ大都会の人間はもう一人の大男とか巨人はいない、そもそももう人間はいないのである、大衆であり群衆でありそんな一人の人間が大男とか巨人になっりしないし伝説とかも生れないのである
人間は自然と一体化したときその存在も大きくなっていた、山には大男や巨人が住んでいたとなる

だから現代文明人はいくら科学技術の進歩による機械による便利な生活をしていても
人間の存在感はもうない、人間はいないのである、巨大なビルの谷間で人間は蟻のようになり人間はいない、文明人はいかにも進歩したものとして見ているけどその存在感は本当にない、一千万人の都会でどういう人間の存在感があるのかとなる
それは抽象化した数であり名前も個性もない、常に数として金銭として無機物として数えられているだけなのである、選挙がそれを一番象徴している
一票などなんの意味もないし力もない、まとまった数とならない限り現代では何も通用しない、ボランティアすら一人ではできない、十人以上集まらないとできないし一人とかもう誰も相手にしないのである、ただ数がすべての世界なのである

だからこそかえって飯館村のような世界は文明世界からすると貴重なものがあったがそれも文明の最先端の科学技術の原発で根こそぎ失われた
水も土も木も空気も汚染されたからである、そうしたら縄文時代からつづいた生態系に依拠した生活はできなくなったからである
とにかく飯館村であれ山村であれそこで人間は自給自足して生きてきたのである
でもそういう何千年と生活して来たものを根こそぎ原発が破壊したのである
このことは本当にここだけではない、文明というもの自体を考え直すことを強いられているのである

柳田国男が探求して来たものは人間の本源的な生活の在り方がどうあるべきなのか探ったのである、人間はどうして山深くでも生活できていたのかそれが伝説化したのかとかを探った、それが時代が変わり不明となり遠野物語のように神秘化したのである
何かそうした山の村でもいい暮らしている人がいてそこで長者伝説が生まれたのである
遠野がそういう場所として有名になったけど飯館村にもそういう村として共通な面はあった、それが失われたことは相当に損失だった
でも東京の人達がそんなことを余り考えないだろう、原発が何を破壊したのか
それを本当にみんなで真剣に考えるべきである
それは文明というのが何を破壊して喪失させたかという問題にもなる
そういう大きな大局的な問題としてと飯館村の原発による被害があったことを知るべきである





posted by 老鶯 at 19:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2021年11月07日

飯館村考ー何が失われたのか? (一つの詩から問うー失われた貴重なものとは)


飯館村考ー何が失われたのか?

(一つの詩から問うー失われた貴重なものとは)

●飯館村を象徴する詩から考える

世界の秘密 ホーフマンスタール 

深い泉たぶん知っている
かつてみんな深く 無言だった
そしてみんながそれを知っていた

奥底まで理解されずに
口づてで語られる呪文のように
それは今人々の口から口へ伝わっている

深い泉たぶんそれを知っている
その泉をのぞきこんで 一人の男がそれを知った
それを知ってやがて失ってしまった

宝石がそこに隠されているとも知らないで
乞食の足は砂利をふみつける

飯館村では失われたのは何なのか?この詩がそれを象徴しているかもしれない
深い泉というとき「作見の井戸」が飯館村にあり豊作になるかどうかを占った
その井戸が知っているとういとき自然の神秘がありそれを村人が知っていて
祭りとして行われて来たとなる

飯館村というとき広いから近くてもわかりにくいのである、回りの森でも深いからそこには踏み入れていない場所があり神秘があるとなる
今回訪ねたのは大倉から佐須の方へ行く道の山間の高い所に一軒家があった
前は二軒あった、でも一軒しか残っていない、そこには人は住んでいない
でも蛇口があり水が止まらず流れていた、飯館村とかではまだ自然の水を利用している
吸い上げたりして利用している、他でも利用していた場所があった
そもそも水でも水道はなく自給自足であり水はあった
それは自然の水だったのである、街内でも水は井戸水だったのである
農家ではみんな井戸水だったのである、自分の家では井戸がなかったらか近く井戸ある家で水をもらっていたのである

飯館村なら山の家なら水は自然の水があった、そこではどうして暮らしていたのかとみると炭焼き小屋の跡があるから炭を作って街に売っていた
炭が現金収入になっていた、街中でも炭が燃料であり自分の家にも囲炉裏があったということが不思議になる、そんな生活があったということが不思議である
だからつくづく戦後十年の生活経験は子供にしろ貴重だったとなる
人間はやはり水とか燃料となるものとかが今でも大事である
それが水道とか石油とか電気に変わったからである

結局その電気に変わったことでそれが原発になりこの辺では大被害を受けた
飯館村が一番放射線量が高く被害が大きかったのである
佐須村で泥が25マイクロシーベルトとかあったことには驚いた
それだけ放射線量が高かったのである、南相馬市とかの海岸地域は二日三日やはり20マイクロシーベルとになったが急激に下がったのである
ところが飯館村は一カ月も高い状態がつづいたし福島市でもつづいたのである
だからわからないのは福島市の方が南相馬市より高かったのである
でも補償金はほとんど出ないとなっていたのである

それは東風が吹いて飯館へ吹き福島市まで吹いたからである
春になるとその時海から東風が強く吹くからである、その風にって福島市の方まで流れたのである、その時期が悪かったのである、なぜなら冬だったら北風であり海の方に流されたからである、一カ月遅れて事故になっていたら被害は大きくならなかったのである
その時雪が降ったりしてそれで放射性物質も雪とともに降ったのも不運だったのである
ただ飯館村が原発と関係ないと言うがやはり原発で働いていた人がいたのである
それは給料が三倍にもなるし意外と重労働ではない、何分か交代してやる
中に長くいて作業できないからである、すると休む時間の方が長くなるともなるからだ
原発で働く人はこの辺では本当に多かったからそれで財を築いた人たちもいる
そのことであまり東電を批判できないという人達も多いのである

●飯館村の歴史は古

こんこんと水は湧きいず紅葉映えここに暮らしの失われしかも

ともかくあのように閉ざされたような隠れた場所に生活していた人がいたということが今になると不思議になる、それが不思議だというときもともとそういう生活が江戸時代からでも継続していたのである、つまり電気も水道もガスでもなくても人はそこで生活してきたのである、一時は戦後引揚者が入ってきて一万人近く住んでいたから驚く
その時は林業が盛んであったから住むことができたとなる
でも基本は自給自足の生活だったのである

第一飯館村には縄文中期の古い遺跡があり縄文時代からでも人は住んでいたのである
まったく人が住まない森でもなかった、もともとは日本がだったら森にどこでも覆われていた、その後稲作技術が入ってきて森が切られて平地になり米が作られて住むようになった、それが弥生時代なのである
そして不思議なのは佐須という地名は焼畑地名なのである、でも焼畑の技術は外部からもたらされた
それが山津見神社が佐須村の中心にあるけどまた綿津見神社があるけどこれは渡来人がここに入植して焼畑を伝えたからである、それで南相馬市には本当に綿津見神社と山津見神社が多い、この二つの神社に対になっていて一体なのである
長野県の安曇町は安曇族が入植した地でありそれで船の祭りが今でも伝えられている
海人族で船の操作にたけた人達だったからである、最近では南相馬市の鹿島区で船の線刻が発見されている

ともかくその一団が相馬藩一体に入植して拓いたのである
でも謎なのはその時代はいつなのか?それが不思議なのである
おそらく縄文時代があり次に弥生時代があったとすると弥生時代だともなる
そんなに古いのかというのも謎である、ただ焼畑農業はこれは実際は稲作より古いのである、それは月と関係している、五穀の神である、山では稗とか粟とか山でとれるから山芋とかもとれるらそれなりに山でとれるものがあり生活があった
だから飢饉の時やるに逃げろというのは何か食料になるものがあったからだとなる
ただ山の生活とかが戦後は特にわからなくなったのである

山津見神社には狼が祭られているけどそれも焼畑と関係している、畑がイノシシとか鹿とか猿とかに荒らされるというとき狼が天敵となっけ追い払ったともなるからだ

加工されたニホンオオカミの頭骨や牙が縄文時代の遺跡から出土していることから、その頃にはオオカミに対する信仰があり、頭骨や牙をお守りにしていたと推測されています

江戸時代以前から伝わる農家の旧家で形成される集落では、住宅や土蔵の入口に武蔵御嶽神社のお犬さまの御札を貼ってお祀りを続けているといいます。

飯館村の旧家からも狼の御札が発見されたのである、ともかくこの狼信仰は犬神信仰となり長く継続されていたし古いのである、縄文時代から信仰の対象ともなっていたからである

飯館村はこうして相当に古い歴史があり飯館村が無くなるとなるとこうした歴史も失われるのである
それより残念なのはここでの森があり自然と一体となり暮らしていた暮らしが失われることである、それが原発事故で一番罪深いことだった
それを象徴しているのが自然の水を湧き水であり山の清水でも利用していたのができない放射性物質に汚染されて水すら飲めなくなった
これが原発事故の酷さを示していたのである
そして補償金で村は分断されてばらばらになって離散してしまった
多額の補償金をもらった結果として不便な村に住みたくないとなり若い人は流出して残されたのは別荘に住んでいる老人だけだとなる

●飯館村の今後はどうなるのかどうすべきなのか

でも若い世代が流出したから村はもう継続できないとなる、多額の金をもらってもそれで村が元の村にもどることはない、飯館村でも補償金で争って分断して二派に分かれた
これもふりかえると南相馬市でもそうだが政府の策略だったのかともみる
補償金で内部抗争して分断された、そうすれば政府を一致して批判するより内部で争うから政府とか東電にとっていいとなるからだ
放射線量など正確に計れないのである、空気自体が汚染されているし水も汚染されているしそうしたらどうして汚染度合いで決められるのか?
そこで政府では大成建設とかにモニタリングボストの下の土をとって放射線量を低くしたのである、それは私もその回りを計ったら放射線量は倍にもなっていた
だからモニタリングボストの放射線量は実際は倍だとなみるべきである
そのことで抗議した

役場にあった線量計の値が平常時の年間許容量(1ミリシーベルト)を1日余りで超える「毎時40マイクロシーベルト超」を計測していたと指摘。驚く長谷川さんに向かって、村職員が「この数字、公表しねえでくれよ。(菅野典雄)村長から『絶対人に言うな』と止められている」と“口止め”されていたことを明かしていた。


長谷川健一さん死因は「甲状腺がん」…福島原発事故と戦った飯舘村の酪農家が投げかけたもの

これショックだった、やはりこれだけ放射線量が高かったら何らかガンになっても不思議でとはない、菅野村長のレリーフがある小さな公園が佐須村にできたがこの人は本当にそうした功績があった人なのかとみる、一か月間これだけの放射線量をあびたらなんらか体でも症状がでる、これから増えるとすると怖い
菅野町長は強引に村人を避難させないようにしたのである
ただその時何が起ったのか急なことで理解できなかった
それは南相馬市でも桜井市長がいち早く北海道に逃げたとか言われる、その真意はわからないがどう対応していいのかわからなくてそうなった
その自分自身も何が起きたのか理解できずに爆発した時でも外を歩いていたのである
ここでも半分は避難したが半分は残っていた
何が起きたのか急なことで理解できないからそうなったのである

いづれにしろ飯館村は自分にとっても思い入れある場所である、自転車で何十回も七曲の坂を上って行っているからである
ただ別に村の人とは何の関係もしていない、花を見て帰るとかだけである
自分にとって一番神秘的だったのは木戸木の森におおわれて流れであった
あそこは手つかずであり神秘的な場所だった、それも道ができてなくなったのが残念だった、ただそこに十軒くらいの戦後に開墾に入った引き揚げ者がいたのである
でも自分はそこには注目していなかった
あんな辺鄙な所に住んだのは住む場所がないからそうなった、そこでもどういう生活をしていたのかわからなくなった

ともかく飯館村は広いから未だにわからない場所がある、森でも広いからである
そういう踏み入っていない場所が相当ある、飯館村が今後どうするのか?
それはもう飯館村だけではどうにもならないのではないか?
もう自治体として自立して存続するのは無理ともなる
ただ土地はか山林を持っている人達がいてそれを利権化しようとするだけの場所になるのか?ソーラーパネルなどは土地を貸すからそうなる
牛の村でもあったがそれも極端に減った、これも存続するのがむずかしくなる
佐須村では花の村として丘に花畑を作ったりはししている、花は放射線と関係ないからである

もともと何か飯館村に入ると草深く野の花でも映えるしきれいに見える、今だ汚されていない花に見えた、そして広いから森の中に隠されるように農家があった
その前の広い庭に畑があり花が映えてひっそり静まっていたのである
それをただ天から神が見ているような感覚になっていたのである
そうして広い場所に森に隠されるように一軒一軒家があるからそれが贅沢だと見ていた
そういうことは都会ではまた街でもありえないからだ
街の庭は狭いし家々が隣り合って窮屈で息苦しいともなっているからだ
それでそこは癒しの場となっていたのである、なにかほっとする場所になっていたのである

●飯館村の貴重なものをとは何だったのか

飯館村の自然自体がなくなったわけではない、やはり森に囲まれた村でありそういう自然はなくなっていない、でも村として自治体として自治できる村なのかとなると今後は相当にむずかしい、だからもう南相馬市と合併するほかない、そこで管理されるほかないと地元の年配の女性が言うのもわかる
その人は村議会選挙で南相馬市の人はかかわるな邪魔だというのとは違っていて飯館村の現状をわかっていてそう言ったのである
飯館村にもいろいろな人がいる、でも一人の印象が悪い人がそれもその村の印象となる
ただ自分にとっては神はその暮らしを隠したというときそこに自然の花がより美しく映えていたとはなる、つまり人ととかかわらないとき自然の美だけが映えていたとなっていたのである

それでもその隠された暮らしすらなくなるとどうなるのか、猿やイノシシに荒らされ放題になってしまう、人はそこに住んでいないからである
だから原発の被害の影響は一番飯館村に現れたのである
そこにあった自然とか暮らしを根こそぎ奪ってしまったのである
木にしても3マイクロシーベルトが樹皮で計ったらあったから森自体が汚染された
その森から放射線は消えないのである、循環しているから消えないのである
落葉になって土に還るけどそれで放射性物質は消えないのである
だから土をとるとか大変な作業になってしまうのである、溜池を除染したけどそれだっけ森から放射性物質がきりなく流れてくるから除染作業は終わらないのである

真野ダムにも相当な放射性物質が貯えられているけどここだってもう除染することが不可能であり依然として飲み水としてペットぺットボトルの水を買って飲んでいる人達がこの辺でいる
要するに水とか空気とか森とか汚染されたら住めなくなるということである
この甚大な被害を修復するのもプルトニウムだったら二万年も毒が消えないとなる
こんなものをなぜ作ったのか、その管理もずさんでありただ「安全神話」を権力で作り金をばらまきそれでよしとしたのである
それでも東電の幹部は訴えられても無罪を主張している、そもそも検察がグルだったから裁くこともできないのである、天下りしているし利益を得ているからである

何が失われたのか?それは村人でも意識しないものでもあったかもしれない
村人でもみんながそこに暮らすことで満足していたわけではないからである

深い泉たぶんそれを知っている
その泉をのぞきこんで 一人の男がそれを知った
それを知ってやがて失ってしまった

宝石がそこに隠されているとも知らないで
乞食の足は砂利をふみつける

一人の男が知ったとはその男は誰のことなのか?宝石が隠されていたが乞食の足によって踏みつけられた、その乞食とは誰なのか何なのか
原発乞食と言われた補償金だけを要求しつづける人達なのか、またそうした自然の村に住んでいても踏みつける人たちなのか、外部の人達なのか、それを示唆した詩がこれだったのである


大倉から佐須へ行く山間の高い場所にあった家の写真をとれないことが失敗だった
もう一回行ってとってこよう

posted by 老鶯 at 10:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2021年11月05日

飯館村の大倉村から佐須村から霊山へ (紅葉を見に行って佐須村で現状を聞いた)


飯館村の大倉村から佐須村から霊山へ

(紅葉を見に行って佐須村で現状を聞いた)

monkey11.jpg
猿がイノシシの檻にかかった―大倉



大倉で何かひきづっていた、なんだろうとみたら猿だった
イノシシの檻に入ったという、餌があるから入ったのかと思ったら獣の道にあり入ったという、とにかく猿が増えて困ったという、畑でも荒らされからである
大倉で30軒あったが今は二十軒だという、でもまだそれだけ残っている
空家が増えるとどうしても猿とかイノシシとかネズミでも家に入りこんでくるのである
それで家も荒れる、猿でもイノシシでも警戒しなくなるのが問題なのである
だから核兵器で人類が滅びた後に猿が支配したという猿の惑星は本当にこの辺で現実として起きたから驚いたのである
つまり人間は愚かだとしきりに猿が言っていた、本当に人間は愚かだというのがこの辺で証明されたとなる

赤々と紅葉の映えてこの家に人はなしかも水もいずるに

この水は山の水であり水道の水とは違うだろう、山では水を吸い上げたり山か水をとって利用したりしていたからである、ただ水は出っ放しであったからそう見た
ここは一段と高い所の家であり良くそんな所に住んだと見ていた
山の閉ざされて住むということはどういう感覚になるのか?それで生業があり炭焼きなどして住んでいた、ただ炭焼きは戦後十年くらいつづいても終わっている
その後はどういう生活だったのかわかりにくい、前に畑や田んぼがあってもわずかだからである、林業があればそれで暮らせた時期もあった、ただ外材になりそれもだめになったあとは他では牛を飼って暮らしていたのである
ただあの辺はどういう暮らしをしていたか良くわからないのである

大倉から佐須までは結構遠い、だから大倉村と佐須村が明治以降に民情が違うとして合併しなかった、地理的にも相当距離がある、今なら車だから感じなくても歩くほかないとしたら相当に遠いのである

佐須までを歩くとなれば遠きかな大倉より来て秋の日暮れぬ

飯館や懸命に鳴く残る虫

佐須に来たら風と土の家がありそこは宿泊もできる、簡易なベッドがあった
ただここも予約制だから泊まりずらい、何か撮影の人が来ていた
そこで一人の年配の女性が歩いていたのできいた
立派な石組の塀があったのでその中の家に人が住んでいるのですかと聞いたら住んでいるという、それは新しく建てた別荘であり時々帰るにしても住んでいないと思った
でも実際はここで住んでいるという、ただ年寄りだけが住んで若い人たちは他に移ったという
そしてその女性はもう飯館村はなくなると言っていた、菅野町長が30億とかの金をもらって村の人に配ったとか言っていた、飯館村の補償金が大きかった

ただその女性が言うには補償金だっていづれなくなるし飯館村ではもう生活できないと言い南相馬市と合併されてめんどうみてもらうようになるとか言っていた
この前の飯館村の議員選挙の応援の人は南相馬市だと言ったらただ関心があり聞いたのにかかわるなと言ってはねつけた
これは本当におかしいと思った、つまりこの女性の言うように飯館村はもう飯館村だけで成り立たなくなっているのだ、だからこそ南相馬市と合併するようになると言ったのであるそういう自分たちの事情すらわからない人がいたのである
この女性はこうして村の事情をわかっている

また補償金でもめたというのも聞いた、これは全体的にそうである、たいして放射線量も変わらないのに補償金に差がついたからである
それは伊達市でも親戚同士でも争ったというのも聞いた
つまり放射線量で区切って差別したことが問題だったのである
それは結局政府がそうさせた、みんなで一致して要求させないためにそうして分断させたかえって仲間内で争い分断されたさせられたともなるからだ

ともかく佐須村は山津見神社があるがこれは綿津見神社と一体であり安曇族とか海人族が入ってきた場所であり佐須とは焼畑のことである、この焼畑地名は多い
焼畑をするという技術は外国から入ってきたのである、縄文時代にはなかったからであるそこの佐須という地名は海人族が入ってきて拓いた土地なのである

その佐須から霊山に来た、その霊山から福島市の方に霊山町の方に行った
高速道路が福島市まで完成して高い所を走っていた、でも前の道は旧道となり車も走らない、サイクリングにはいい道になった
ただ店とかは閉じてまた空家が多くなった、車も通らないのだから商売した人たちは他に移ったのかもしれない、これも道路の影響が大きいと思った
常磐高速道路でも町全体とはかかわらない、ただ一時飲み食いして去るだけであり街の方に来ることはない、鉄道の駅とかは街とかかわり駅前通りができたが車だとそうはならないのである

霊山の食堂で芋煮が1000円で食べられた、これは安かった、天ぷらもついていたし安かった、こういうものはなかなか食べられないから良かった
それから蜂蜜とユズのサイダーを注文した、それは飯坂で作っていたのである
何か変だったが飯坂温泉が寂れて廃墟化しているとかyoutubeで見た
それで何か売るものとしてこれを作ったのかもしれない
霊山では紅葉の季節であり人は結構来ていた
ただ紅葉は今年はどこでもあまりきれいではない、気候の関係でそうなった
それが残念だった
posted by 老鶯 at 20:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2021年10月06日

飯館村の村議会選挙の問題(2) (よそ者は関係ないから邪魔だ、かかわるなで考えた民主主義)


飯館村の村議会選挙の問題(2)

(よそ者は関係ないから邪魔だ、かかわるなで考えた民主主義)

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民主主義の根幹は選挙である、誰でも一票を持っていることである
その一票を持つことの意義が理解できなかった
でも飯館村に行ったとき村議会選挙でよそ者はかかわるなとか邪魔だ、目障りだと言われたことで自分はこの村について何の権利もない、何も言えないのだと実感した
制度上は飯館村は飯館村の人でないと選挙権を持てないのである
こうした村議会では6000人くらいしか人口がないのだから一票にも重みが出て来る
だから一人一人に票を得るためにあたるのである

ところが南相馬市とは飯館村は地理的一体である、新田川は飯館村の中心を流れている
真野川も鹿島区に流れて来る、それで放射性物質の検査を環境庁の人が常にしていたのである
また放射性物質のフレコンバックが破れて流れ出したのである
それは確実に南相馬市にも流れてくるのである
それで隣の川俣町で風力発電の風車を山に作ったら景観が乱されると抗議があったのである、つまり飯館村だけのものとして何でもやれないのである
隣の自治体があり迷惑だともされるからである

ともかく飯館村は南相馬市と合併しなかった、でもそれが原発事故以後補償金を飯館村だけでもらうようになったから億の金をもらった人もいる、飯館村は被害が大きいから補償金も大きくなった
それはいいとしてただ飯館村の問題はもはや飯館村だけの問題ではなくなっている
特に南相馬氏とは地理的に一体であり放射性物質の処理で深くかかわっているからだ
今になると飯館村は広域社会となったとき自分たちは合併しないというのは地域エゴだったかもしれない、現代どうしても広域化グロ−バル化した世界だから互いに関係が生まれて分離できないからである
江戸時代なら自給自足でそれぞれぞれの飯館村だけではない、狭い地区単位で自給自足していたからかかわらないでも生活できていたのかもしれない
それで大倉村と佐須村が民情が違うとして明治以降合併しなかったのである
そんな小さな村でもそうだったのである

でも相馬藩内であり飯館村が飢饉の時相馬藩内では支援したのである
飯館村は実際は相馬藩内として役人もいたし特に塩役人が多くいたのである
飯樋村に塩役所があり60人も働いていた、塩の道を通り松川浦から運ばれていたからだ
そういうふうに飯館村は歴史でも地理でも一体化した地域である
川俣町も地理的に隣だが歴史的には別なのである
飯館村は鎌倉時代でも鹿島区の岩松氏の所領でもあったから歴史的にも一体なのである

そして不思議なのはこの原発事故は相馬藩内で一番被害があったことである
大熊とか双葉でも相馬藩内だったからである、すると相馬藩全体として見ることにもなる地理的に歴史的にも見ることになる、だからこそ飯館村がその全体の一部としてあり俺たちは俺たちだとか合併しないというのは地域エゴだったともなる
そして現実にもう飯館村に住んでいる人は三割くらいだという、それもほとんど老人なのである、子供は放射線の被害があるから住んでいない、外から通っているのである
学校も何十億とかかけて施設も立派にしたが生徒はわずかしかいないのである

だからそもそもこういう村が成り立つのか?

それが疑問なのである、ただ原発事故以後は補償金をもらう場所であり多額の利権の場所になったように見える、村議会員選挙でもそうした利権狙いかもしれない
議員となっていれば利権を得やすいからである、実際議員に立候補した人でも住んでいないかもしれないからである
ツツりそこは住む場所ではなく利権を得る場所になったようにも見える

それは他の原発避難民も同じなのである、近くに浪江の復興住宅かある
でも南相馬市の市民とはなっていない、一票は持っていないのである
だから市政に対して文句や要望を言うこともはばかれる、そもそも一票がないから議員だってその人達をよそ者と見てしまうからである
それは飯館村で自分に成されたことと同じなのである
それで鹿島区の仮設住宅に入っていた小高の人達に鹿島区の議員がかかわり親切にしていた、それは小高の人は合併して南相馬市民であり一票をもっているからそうしたのである別に南相馬市民だったら南相馬市内に住んでいれば一票の権利を持っている
狭い範囲だと一票の重みがあると思った

それで浪江町民は今でも南相馬市民ではない、他でも依然として原発避難民は元の町であれ村であれそこの行政に属していて時々役所の人が回ってくるのである
ただ県でもかかわっていて県の役人の人が回っていた
復興団地とか住宅は県で建てたからである、ここに県という大きな行政としてかかわっていた、県も予算が大きいから金を出すから自治体に対して力をもっている
ただ県会議員とかなると直接かかわる度合いが低いから一票の重さも感じられないのである

何かこの原発事故とか津浪ではいろいろなこさとを考えさせられた
それは科学技術のことか政治のことからマスコミとか報道のこととかあらゆることとかかわっていたのである、それは総合的な問題であり科学技術だけの問題ではなかったのである
ただ広域社会になったとき飯館村のように小さい村だけではとても成り立たない
それは地域エゴになっていた、おらが村がいいければ良いということだけでは成立たない実際にその周辺に南相馬市でも飯館村の人が住んでいたりしているからだ
不思議なのは飯館村の周辺に住んでいる人達に対して私が言われたようなことをここは俺たちの村だからかかわるな、邪魔だと言われたらどう感じるのか
自分が感じたこと同じことを感じるだろう
ただ江戸時代でも村同士で水争いとかで争い木材利用の入会権とかで戦国時代にもなったとされている、だから必ず村同士でも利害が対立して争うことがある
それは人間が存在したとから動物の縄張り争いのようなものがあったからさけられないともなる

いづれにしろ狭い範囲だと民主主義が身近なものになる、国政選挙とかなる百万単位の票でありどうせ一票などなんの影響もないとなり投票もしないともなる
でも身近な問題になると関心があり今回のように故郷に住めなくなるとかなり住んでいるだけで重い責任があることを自覚したのである
そもそも民主主義とはギリシャのポリスから始まったのでありそれは一万足らずの規模であり狭い範囲で行われていたのである
だから直接選挙であり身近なものとなっていた、一票が重いものとしてあったのだ
それで規模があまり大きくなると成り立たなくなる
現代では規模が何百倍以上になっているから成り立たなくなっているともなる

とにかく酷な言い方をすると

原発避難民は故郷にもどり住め、住まない人はその土地であれ権利を放棄しろ
そして別な自治体民になれ、どうせ戻らないのだから

ただ補償金を得るためには元の町村に籍を置かねばならないとかなる
でも自分が飯館村の議員の運動員に言われたようによそ者は選挙の邪魔だからかかわるなうざいから消えろとまでなる

何かこれは今世界で難民があふれているけどそれと多少似ている、原発事故の避難民もやはり 難民だからである
でも避難民はここは俺たちの国であり入ってくるなとなる
数が多いので引き受けることもできないからである
要するに人間の権利と何なのか、市町村であれそこに属して権利が生まれる
でも国籍とかない、市町村にも属しないとすると権利もないとなる
そして難民となって他国に住む権利などもともとないのである
ただ人道的に引き受けるとして限度がある
つまりそうして難民化した人達にも責任がありそれを自分たちで負うべきだともなる

何かこうして市町村でもそこに住むことだけでも責任が課せられていたのである
自分たちの国は市町村は自分たちで守れとかなっていたのである
原発事故は実際はその一地域だけの問題ではない、周辺を広範囲にまきこむものだから
そんな一地域で決められるものでもなかったのである
環境問題になると世界とかかわる、そのためにトリチウムを海に流すなと世界から言われるのである

だからこうして事故後は故郷に住めないとか責任を地元の人達はとらされた
故にそのことを深く考えて原発の是非を決めるものだったが一土地の所有者とか地元で金になるかとかで簡単に決められたのである
是非論があるにてもほとんど議論などされなかったのである
それはみんな金になるから利益になるからとして引き受けたからである
そういうことがあってもやはりせめてみんなで真剣に議論すべきだったとはなる
そういうことで新潟県の巻町が原発を町民の話し合いで決めたということは稀有のことだったのである
posted by 老鶯 at 19:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2021年09月24日

地域エゴは人間の争いの原因として常にあった (飯館村はそもそも村を維持できるのか?)


地域エゴは人間の争いの原因として常にあった

(飯館村はそもそも村を維持できるのか?)




印旛地域の行政中心地は成田市の2つ隣に位置する佐倉市だ。江戸時代には老中を輩出した佐倉藩があり、明治時代には7県が合併した印旛県の県庁が置かれた街である。現在も、保健所やパスポートの交付窓口などがある。博物館も美術館も大学もある。東京から帰る電車が深夜まで走っている。成田市民は、佐倉市民が羨ましいんだな。

しかし成田市域の大半は幕府領。下総佐倉藩の「領地」ではなかった。よそ者の私などは「一通り窓口や施設の揃った街に暮らしているんだ、という気分が味わいたいなら、佐倉市に吸収合併されるのがいちばん安上がりだ」と思うのだが、賛同されたことはない。佐倉の下に入るなど考えられない、らしい。

地方自治体の境界線は、住民の心に枠を作ってしまう。中小の町村が、何でも自前で施設を持つ必要はない。隣町に一定のお金を払って、施設を使わせてもらえばいいのだ。が、「我が町の土地にない施設に公金を投入するのは、どうしても許せない」というのが住民感情である。

県も同じだ。「なぜ我が県には空港がないのだ」と考えてしまう。そうして、どれだけ無駄遣いをしてきたのだろうか。県単位で人口の増減に一喜一憂したり、県単位で産業メニューをフルコースで揃えようとしたり。地域エゴのために合理性がどれだけ歪められてきたか

夕張市だって、「札幌市の辺境部」だったなら、無謀な人口維持策を講じることなく、静かに滅びていくこともできたろう。限定された行政区域の内側で自立しなければならぬ、という強迫観念があるから、衰退の道に甘んじるという選択ができないのだ。

 地域エゴに固執する者は自己が災難に見舞われたときに他者の地域エゴの報いを受けざるをえまい。他者を助けずして自己のみが生存(ながら)えようというのが道理であろうはずはない。瓦礫の広域処理は同胞の相互扶助の精神の如何(いかん)を問う重大なテストケースである。

 今後も、自分を中心に考える自分中心、自国エゴ、地域エゴ、民族エゴの流れは進んでいきそうです。



●自治体でも衰退して維持できなくなる 

人間のもめごとは様々なエゴから起きて来る、要するに自分さえ良ければいいということであり自分さえ利益になれば他は関係ないとなる
諸悪の根源はここにある、そもそも部族同士の争いから人間の戦争は始まっている
日本でも村同士の争いから戦国大名が生まれた、何か山林の入会権の争そいとかあった
この辺で有名なのは丸森の森林資源をめぐって米沢藩と伊達藩と相馬藩が熾烈に戦った歴史がある、そういう歴史がそもそも人間の歴史だったとなる

佐倉市と成田市の争いでもそうである、歴史的にもそうなのである、よそから来た人にとっては佐倉市と成田市は合併した方が事務手続きでも便利だとなるからだ
東京から近い人が移住しやすいからよそ者にとっては佐倉市とかに大きな市に合併された方が住みやすいとなるのだ
つまり現代ではみんな広域的にグロ−バル化して生活しているから一地域に限定して生活することが合わなくなったのである

何かこの原発事故は本当に相馬藩領域が最大の被害地になったのである
大熊双葉浪江でもそうだし飯館村も相馬藩領域だった、だから伊達藩との境目で森林資源の争そいがあったのも丸森と似ている、飯館村は森林資源が豊富だったから同じようなことが起きた

夕張市だって、「札幌市の辺境部」だったなら、無謀な人口維持策を講じることなく、静かに滅びていくこともできたろう。限定された行政区域の内側で自立しなければならぬ、という強迫観念があるから、衰退の道に甘んじるという選択ができないのだ。

こういう考えもある、日本で少子高齢化で人口が減るとそういう所が増えてくる
今でもすでに日本全国で空家が800万軒あるとなるからだ
この辺で原発事故でゴーストタウンにもなり町自体が空家の町になってしまった
そして若い世代が流出して子供がいない、極端なものになった
老人ばかり住んでいてその町であれ村であれ未来があるのかとなる
ただ南相馬市の小高区は南相馬市内に入っているからかえって移住するにも南相馬市内だと問題がない、だから原町区が便利なので移住した人が多い
でも他の人達も移住している、大熊とか双葉とか浪江とかからも復興団地があり移住している、四階建てのビルでありいくつも建ったからである

そうして浪江町とか双葉町とか大熊町とかでも復興しないから帰れないのである
また飯館村の人も相当数近辺に散らばり住んでいる、もちろん南相馬市にも住んでいる
川俣町とか福島市の方にも新しく補償金で家を建てて住んでいる人もいる
第一学校自体他の土地の学校に通っている人が多い
いくら立派な校舎を建物を作っても親たちは住んでいない、飯館村の外に住んで通っているのである、それも数名とかしかいないのである
こういう状態でよそ者はうろうろするなとかかかわるなとか飯館村選挙で言っている人は全く自分たちの現状を理解していないのである
ただこの人は特殊な人だったのかもしれないがそんな人がまだいるということに驚いた

●地域エゴは根強い問題

でも現実問題として地域エゴは根強いものだから歴史的にも常に問題になってきた
そもそも国(くに)というとき漢字だったら回りを囲むとなり閉ざすそこが国となる
クニは区切るなのである、一つの境をもうけて区切った場所がクニなのである
そこで内と外を意識させて生活していたとなるから
だから江戸時代なら村と村の境界とかが大事になる、そこで常に境の石とかあり境界を明確にしていたのである、そこで強い村の結束が生まれた

それにはいい面と悪い面が常に生まれる、村だけで閉鎖的になってしまうことである
江戸時代の村は本当に閉鎖的でありよそ者は簡単に入れない、すぐ目立つからわかる
それで明治になって合併がすすめられたとき飯館村の大倉村と佐須村が合併しなかったのは民情が違うからだとなっていた
民情が違うというのはわかりにくいがやはり何か隣村でも通じないものがあったからそうなる
つまり村は隣村の人さえ自由に交わらない社会だったのである
そこで民話の伝説では隣村から来た麦付きの男が蛇だったとかなる
隣村さえ得たいのしれない者となっていたのである
日本人は長い間そうして閉鎖的な生活をしていた、そうした村意識は簡単に消えないのである

ただ原発事故以後はそうした江戸時代の感覚の村の維持は不可能になった
飯館村の住民自体が周辺でも遠くでもばらばらに住んでいるからである
不思議なのは村議会選挙があるとして立候補している人は飯館村内に住んでいるのか?
それも疑問なのである、なぜなら前の村長は飯館村内に住んでいなかったからである
もはや飯館村自体が飯館村だけで成り立たなくなっている
外部から百人とか移住しているのもそうである
何か議員にとしてもそこに住んでいないかもしれないのだ、飯館村はどうして成立つのだろうか?

その村が補償金を得るための利権の場のようになっているかもしれない
巨額の補償金がばらまかれたからである、そのために村は分断された
その補償金が入ってきたがそれも十年すぎて村の予算としてと財政的にどうなるのか
何か村自体が維持していけるのだろうかという疑問がある
だからよそ者はかかわるなとかならない、南相馬市であれ福島市であれ伊達市であれ川俣町であれ広範囲にかかわざるをえないのである

●復興はできないとしたらいつまでも予算でつぎこむことは無駄?

何か復興させたいとしても最初はそう思ったが現実問題としても復興をあきらめるということも考えざるを得ない状態になっているのではないか?
なぜなら未来を担う若い世代が流出して子供もいないからである
老人だけが住んで成り立つのかとなる、そこに予算をつぎこむことも無駄になるのではないか?
それで津波被害の三陸地域に官僚の人がジジババに金をつぎ込んでも無駄だと本根が出たのである
そもそも住民がその村内とか町内に住んでいないということはどういうことなのか?
飯館村の瀟洒な建物は別荘であり人が住んでいない、時々帰ってきているだけだという
これも何か不思議なのである、軽井沢のような所だとそういうこともありうるが
そもそも貧乏な村で別荘にして維持できるのかとなる
またそんな暮らしが成り立つのかともなる、別荘村にするなら福島市とかに住んで金持ちでないと無理である、でもいづれはそんな収入は得られなくなるだろう
補償金でも使えばなくなるからである

確かなことは飯館村だけでは維持できない、他の大熊とか双葉とか浪江とかでもそうである
小高の場合も実際は維持できないとしても南相馬市だからそこを捨てても南相馬市内の問題として処理できるのである
もはやかたくなに町でも村でも維持できなくなる、それはここだけの問題ではない
少子高齢化と人口が激減してくくとき全国で起きて来る
ただここでは原発事故で極端な現象として現れたのである
だから大熊とか双葉とか浪江とかが合併するほかないという案もでたのである
もはろ飯館村は飯館村だけで維持できない、それで南相馬市と合併するべきだったとなる確かに原発事故では補償金を十分に村でもらったから合併しなくていいとなった
でもこれから先の問題としてもう補償金だけでは維持できない
やがて廃墟の村になってしまう、現実問題として住民が住まない村は誰のものなのか?
回りの市町村に住民が新築の家を建てて住んでいて飯館村の住民となりうるのか?
また権利でもあるのかとなる、つくづくこれもむずかしい問題である
ただ飯館村に所属して利権を得るためなのか?補償金をもらうには飯館村の住民でないともらえない、他でもそうだったからである

それで飯館村の人が相馬市に移住してトマト農家に雇ってくれと言ったが断られたとNHKでそのことを訴えていた、NHKは原発避難者側についた、それを見た人はなんでそんな冷たいのだと瞬間的に怒りになる
でも相馬市の海側では松川浦などでは津波の被害が大きかったのである
そこでは補償金ももらっていない、だから津波の被害者を雇ったのだから別に冷たいことはなかったのである
こういうふうに広域的なものとてし飯館村住民もありそれをよそ者だからうろうろするなとかかわるなとか邪魔だとか言う人がいるのは信じられないとなる
つまり現状を全く理解していないということである

今までとは全然違った状態になっていることを理解していないのである
ともかく飯館村が維持できるのか?それ自体が疑問なのである
ただいろいろな人がいるからその実情がわからないから何とも言えない
確かなことは飯館村だけでは問題は解決しないし維持すらできないことである
別に江戸時代の様な村であれば自給自足であり自立しているから大倉村と佐須村が合併しなかったようにそれでも良かったのである
でも今になるとそんなことでは成り立たないのである、村自体が維持できなるのかと見るからである

●復興できない、自立できないとしたらどうするのか?

浪江の人が近くの復興住宅に住んでいる、それで選挙の時、議員になる人が運動する人が車で回った、そしたらよそ者は来るなとなったらどうなるのか?
政治運動するなともなる、ただそういうふうに今は原発避難区域の人達は散らばって住んでいるのである、そして働かないという時回りの人は不満だった
補償金で金があるから高いものを買っているとか見ていたのである
その人は相馬市の人だったのである
それはいわき市とかでもそうだった、2万人とか避難してその人達は補償金で新築の家を建てた、地元の人は建てられない人たちがいたしそれでうらやまく思い嫌がらせが起きた普通避難民世界ではテントを張って暮らすとかもうぎりぎりの生活なのである
でも原発避難民は避難民様となり貴族にもなっていたとなる
だから傲慢になっていたともみる

何かこの原発事故は原発か近い所遠い所と距離で分けられた、双葉とか大熊は一番被害が大きかったが恩恵も一番あったのである
それでここにもカルマの法則が適応されたともなる
原発は距離に比例して被害が大きかったからである、それ故にカルマとなりカルマとは責任であり恩恵があればそれに比例し責任も大きく課せられていたとなる
ただそういうことは自覚しない、得すればいいとしかなかった
飯館村は確かに恩恵を受けていないから余計に同情された

でも今になればもう十年を過ぎればどうして復興するのかが問題でありいつまでも外部であれ頼るというわけにはいかなくなる
いつまでも特別優遇されるべきだとはならなくなっている
それは他の避難区域の人達でもそうである、一体どうして復興するのか、それは外部まかせでできるのか、何らか自助努力もしないと復興できないしそうできなければもう復興をあきらめて別な道を模索しなければならない、現実はもうあきらめているとなるとそこにいつまでもこだわっていても無理であり一層見捨てるということにもなる
北海道の夕張ではそうするほかないとなる、いつまでも夕張市を維持しようとしてもできないからそう言っている

そういうことは誰の意志で決めるのかわからない、ただいつまでも復興できないのに復興にこだわっても無理だとなる、ただ費用だけがかかってくるからである
一層会社でも倒産して整理した方がいいともなる
ただそこには会社の社長もいないし従業員がいたとして町民とか村民とかいたとしてその人達の意志で決めるとなる
でも一方ですでに分散して住んでいるのだからその住民は別な市町村の一員になる
しかしまだ別な市町村に籍を変えたということでもない、その辺の所属とか身分があいまいなのである
いづれにしろ原発避難区域はそこの住民だけでも決められないようにもなっている
だから夕張市が札幌市になっていればその周辺として処理することができるとなる
だから浪江とか双葉とか大熊とかが合併するとか提案された、それより南相馬市と合併すればその周辺地域として処理するともなる
ただそういう地域を背負うことは負担になるのである
言えることはもう自立した自治体として機能できないような状態になっている
だから今になると飯館村は南相馬市と合併していた方が良かったともなる
なぜなら自立しようとしてもできない、そして広域化した社会で自立することは地域エゴになってしまうのである、

それは世界的にみてもアフガニスタンが自立するのはいい
でも食料不足になり自立できない、そうしたらいくらタリバンでも国を守るとしてもできないのである、外部からの援助が必要なのである、つまりよそ者を入れないということ
外国人を入れない排斥するのはいいとしてそれは経済的にも自立していればできることである、江戸時代の村は貧乏でも自給自足が基本であり自立できていたのである
今はできない、グロ−バル化してさらに国内でも広域化した社会で生きているからである例えばなぜ都会の人達が東京の人達が過疎地域とかに不満なのかというとそういう地域を維持するのに80倍とかの金がかかる、インフラ整備に電気であれ水道であれかかる
そのために税金を地方交付税をとして払うことに不満だからそうなる
でも江戸時代とか戦前では水道がなくても江戸の水を利用するとか燃料は炭だとか電気もなかったのである、葛尾村村など戦後遅くやっと電気が通ったのである
そういう村だったら自立しているから東京とか大都会とは関係ないともなる
そして逆に木材であり石材であり石炭であれ様々な資源を地方を頼りにしていたのであるそのために蒸気機関車で東京にそうした物資を運んでいたのである
それが外材とかなったとき地方は衰退した、そこで東京の人は地方に税金を払うのは馬鹿らしいとなって不満になりそういう過疎地域はもういらないと見るようになったのである

●ソーラーパネルの村になっていもいいのか?

飯舘電力では、耕作放棄地となっていた広大な農地にソーラーパネルを立てて発電し、その売電収入を復興の資金にしようと考えます。

畑があっても、耕す人がいなくて放っておけば農地は荒れてしまいます。だけど僕らがそれを借りて発電をすれば地代も払えるし、農地を管理することもできると考えたんです。
2019年4月1日現在で飯舘村の避難者は4358人。村内居住者は1258人(内、帰還者は1118人)、帰還者は村の人口の20%ほどにとどまっています。戻らない理由については、避難から7年以上が経ち、生活基盤が他でできてしまっていることも大きいかと私は思います。

ソーラーパネルがやはり希望となっているのか、これも景観破壊である
でも土地利用できないから収入がないと生きていけないからそうなる
要するに住民は飯館村に住まなくても土地を貸して収入になる、それで他の土地で生活すればいいともなる、こういうことが果たしていいものだろうか?そして時折別荘に帰って故郷をなつかしむのかとなる
それはもう昔のまでいな暮らしの飯館村とはならないだろう
そんな生活がありかるのかと思うからだ

でも荒地のままにしても置けないからどこでもソーラーパネル化しやすいのである
その時飯館村はソーラーパネル工場となり昔の飯館村ではなくなる
現実問題としてはどうすればいいのかと自分に問われてもわからないとなる
自分自身はただ飯館村に来て花を見て帰ってきたというだけだからである
その時はそれで良かったのだが今になると昔の飯館村は消失した
ただ外部からの人がいろいろと尽くしている、つまり今や飯館村は外部の力に頼ることが多い村なのである、だから南相馬市から来てよそ者がかかわるなというときまたうろうろするななどと言う人がいることが信じられないとなる
なぜならこうして原発事故以後外部の人と接する村になったからである

どこもかしこもソーラーパネルにしていいのだろうか?

丸森も山が全体がソーラーパネルになった場所がある、そうすると景観が失われる
ただそうなるのも外材で木が利用できない、つまりそこに木材でも利用して森も活かされるし住民でも住めるということがあった、それは江戸時代ならそうだったのである
その時景観も保たれていたのである
だから自然保護といってもその自然が人間の生活に活用されないと守れないということがある、かえって自然は荒廃するともなる
ただ山を所有しても生活の足しにならないとなりソーラーパネルにして金にした方がいいとなるからだ
とにかく飯館村をどうするのか?他の原発避難区域でもどうするのか?
それを決めるのは誰なのか?そこの住民だけなのかとなるとこれもわからないのである
現実に周りの市町村に住んでいるからである、新しい家を建てて住んだら帰らないからである
そういうことで何か空白状態になりそういう場所には外部から人が入り安い
また空家化して荒地化すると猿とかイノシシが増えてくる、そして恐れもなく道を歩いている、イノシシとか猿が増えたからである、そこの住人は獣にもなってしまうのである

ただ外部から多方面の経験知識をもった人たちが入ってきている、そういう人達が復興の鍵を握っているのかもしれない、新しい村作りの主役となるのかもしれない
その辺については詳しくない、ただよそ者を受け入れざるをえないしもう飯館村だけでは成り立たない、周辺地域とも深く関係せざるをえないのである
それも選挙は飯館村だけのものであり外部の者は南相馬市でもかかわるなとか関係ないとうろうろするなとか言うことが信じられないとなる
そんな人がいたら復興自体不可能である
posted by 老鶯 at 17:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2021年09月23日

秋の蝉、芙蓉、秋涼し(飯館村の秋ー飯館村議会選挙(2)


秋の蝉、露草、秋涼し、芙蓉(飯館村の秋ー飯館村議会選挙(2)

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あいのさわの羊草

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亀石
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臥牛石

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清流や露草咲きて竹真すぐ

コスモスにまわりとまらぬ風車

秋涼し峠を越えて飯館へ

秋の雲影を落として村一つ

秋の蝉一つ鳴いてそ峠越ゆ

山鳩に遊びの庭や芙蓉咲く


また一つ森の広きも石重く道の辺にあり秋となるかな

秋の蝉一つひびけり我がたずぬ飯館村を我が帰るかな

広々と大池に咲く羊草風のかそかにトンボ飛ぶかな

飯館の人の作れるダリヤかな我が部屋にさしめでにけるかな

飯館の地は荒れにしも様々の色のダリヤ畑に映えぬ

家々に芙蓉の咲くも人住まず花のみ映えて我が見て帰る

亀石に臥牛石かな秋の日や飯館村に落ち着き住みぬ

十五夜の満月輝き我が家かなかつて共に住む姉をし思ふ


一昨日は飯館まで行ったけど涼しかった、やはり涼しいと疲れない、気持ちよく運動できた
飯館村では森に囲まれている、そしてその森に様々の形の石がある
だから石の村だともなる、その一つ一つに名前を付けると面白いとなる

あいのさわには羊草が咲いていた、広い池だから気持いい、近くに大きな石が五つくらいある公園がある、あそこもいいが草に埋もれていた、あまり人が行き来しないからだともなる、外部から来る人が減ったからだろう
あいのさわでもキャンプしている人も見かけなかった、今は休みだから来ていてもいいと見たがいない

飯館村でにぎわっているのは道の駅のまでい館だけである、昼間は食事する人で満員だった、その裏の子どもの遊びの庭があり芙蓉が咲いて彫刻がありそこに山鳩がとまっている何か飯館村には山鳩が似合うのである、ただまでい館の彫刻に男女の像があるのは似合っていない、森の国だから森と小鳥とか石の彫刻だとあっているとなる

飯館村には何か芙蓉があう、芙蓉が山の村にゆったり咲いているのが似合うとなる
ただ正直やはり人が住んでいないということで前とは違う
私が芙蓉が見た家も空家だったからである、ただいつも花を見て飯館村を帰ってきた
それで畑のダリヤを栽培している所があった
そのダリヤをまでい館で売っていたので買った、250円は安かった
その畑だけが彩り鮮やかで活きていてなごんだとなる

までい館の前の農産学校は廃墟であり壊すほかないとも見た
あそこの学校に南相馬市の鹿島区の人が学んでいたことを聞いた
なぜわざわざそこに入ったのかわからない、事情があって入っていたとなる
でも高校までも一応あった時代があった
ただその人はすでに40以上になっている、その頃学生の数も多くてそこに入ったのかもしれない、必ずしも高校となると地元の人が入るとは限らない
何か他でも空家が多く古い兜屋根の養蚕していた家はまるで文化財のようにも見えたのである
実際今は空家だらけなのである、生活でもどうして成立っているのかわからない
おそらく補償金で生活しているのかとも見る、相当に飯館村だともちっているからその金で生活できることはある、ただいつまでも補償金で生活できるのかとなる
近くの復興団地でもそうである、だから生活が苦しい人がいて電気を消している人がいる
ただ今回は不愉快だった、選挙中であり運動員がうろうろするなとか邪魔だと言われた
田舎だととにかく姑息な人が多いのである

それで何度言うように飯館村であれ暮らしが隠されている所が自然につつまれている所がいいのである、そこでこのように人と接する時、必ずどこでもそういう嫌な人と逢うことになっている、田舎の人とかがみんな素朴だとかそんなことが今はない
だから補償金もらえるとなると金しか見えなくなり村は分断されたのである
要するに人が出てこなくて自然の中につつまれ隠されて花だけが映えるようだと良かったのである
ただ原発事故以後はもうそういう村でありえなくなったのである
不思議なのはそもそも議員になる人自体飯館村に住んでいるのかとなる
一応籍があっても外に住んでいるかもしれない、前の村長がそうだったからである
そして孫は外部から学校に通っていたからである
ただ今全体的どういう状況なのかはわかりにくい、でも子どもも住んでいないというときその未来はどうなるのだろうとなる、外部から来た人も年配の人が多いからだ

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こういうことを言う人がいる、だからみんなが外の人は何もいうな目障りだというのは異常だとなる
このように外からの意見も聞くとしているからだ
ただこうして一人でも印象が悪い人がいるとどこでも嫌になる
人間はやはりそこに住んでいる人が作るのでありそこに住んでいる人の気持ちとかその人となりが影響する、今だと何か人間ではなく建物だとか機械だとかが社会を作っているように見える、でもすこに住んでいる人の心持ちだとかその場所を良くしたり悪くしたりもする、そういう気持ちがあれば人がいれば復興もするともなる

第一よその声無視できないのは学校でも村内の学校に通うより外部の学校に通っている人が多いとなるか、そうしたらよその声を今は無視できないのである
ただ田舎の人が何か姑息なのである、視野が狭いのである
よそ者を嫌うということはある、南相馬市の人すらよそ者として受け入れない人がいたからだ、だから自分の場合は今までは別に飯館村の人とは接していなかったのである
要するにその時はかえって良かったとなる、なぜなら花を見て帰るだけだったからである
posted by 老鶯 at 12:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2021年09月21日

飯館村村議会選挙運動で思ったこと (よそ者はうろうろするな、邪魔だ、かかわるなと運動員に言われた)


飯館村村議会選挙運動で思ったこと

(よそ者はうろうろするな、邪魔だ、かかわるなと運動員に言われた)

何かわからなかったが飯館村の村議会選挙だった
それで道の駅のところと住宅地の所で合ったので興味があり聞こうとした
そしたら運動員がうろうろするな、邪魔だとか関係ないからかかわるなとか言う
でも南相馬市の者だと言って関係あるから聞いたのである
現実に放射性物質とか飯館村から南相馬市にでも相馬市でも流れてゆく
放射性物質の汚染では広範囲にかかわっているから聞いたのである
でも確かに一票は持っていないから飯館村の村議会議員でもかかわらないとなる
もし一票を持っていたらこうはならないからだ
村議会とかなると一票でも貴重になるからだ

ただこう言った運動員は江戸時代の人間だった!

江戸時代の村に住んでいる人間の感覚のままなのである
江戸時代だったら隣の村と村すら交わらない、よそ者となり受け入れないとなる
そういう感覚の人がまだいんたということに驚く

第一飯館村自体がもう村として成り立っているのか?

よそから入った人が100人くらいるという、実際に住んでいる人はどれくらいいるのか空家だらけだとなる
そういう村でよそ者はうろうろするなとかかかわるなと言えるのか?
実際に飯館村の住民は南相馬市でも相馬市でも川俣町でも移住している
それは浪江町の復興団地も鹿島にあったり広範囲に移住しているのだ
もちろん今回の原発事故で飯館村は責められない、それはわかるにしても現実問題として放射性物質に汚染されたことは南相馬市とも深く関係する
新田川は飯館村の中心が源流となっているし大倉村では真野ダムがありそれは鹿島区に流れるから密接に関係しているのである
それで放射性物質のフレコンバックが破れて流れ出した、すると南相馬市まで流れてくるのである

原発事故では広範囲に被害があり結果的に合併したような状況になった
大熊でも双葉でも浪江でも南相馬市に移り住んでいるからだ
そしてその人たちが何かなのか身分がはっきりしないのである
依然として移り住んでも家を建てても浪江町の人は浪江町民であり税金も払わないということがある、飯館村の人でもそうである
他に移り住んでも飯館村の住民なのである、そうしているのは補償金をもらうためだともなる、別な場所に移るとその権利がなくなるからそうなる
そういう不安定な状態にある

今までなら飯館村にかかわる必要もなかった、ただ花を見て帰るとかで終わりである
でも原発事故以後はそういかなくなったのである
飯館村は地理的に南相馬市と一体だったのである
一見は離れているようでも水は飯館村から流れて来るから繋がっていて一体なのである
それで飯館村の森が除染されないからそこから放射性物質が南相馬市にも流れてくるのである、また真野ダムの水でも飲料水に利用しているとなると相馬市も関係しているとなる
ともかくその人は本当に江戸時代の感覚の人だった、原発事故以後は自分の村だけで閉鎖して暮らしていけないことを身をもって知ったのにそうだった
飯館村の人は回りの市町村に世話になっている、それで小高の人が鹿島区の仮設住宅に移ったとき文句を言う人がいた、補償金をもらって高速無料とか医療費無料は十年つづいてさらにまた引き伸ばされたのである
鹿島区は同じ南相馬市でも半年で医療費無料は打ち切られたのである
この差も大きかった

ただ南相馬市民となれば南相馬市全体を問題にして議員でも運動する
だから鹿島区の議員でも仮設の小高の人を応援したのである、一票をもっているからだ
それで市町村レベルだと狭い範囲だ一票の重みが違ってくる
でも現代は広域化社会になっている、さらにグロ−バル化社会になっているから広くかかわらざるをえないのである
そして飯館村は飯館村民だけのものではない、こういう事故になったときみんなよそ者かかわらざるをえなくなったのである
だからもう他に家を建てて移り住んだ人たちは権利がなくなったのかともみる
いつまでも帰らないとか住まないとなると権利も消失する

いづれにしろ飯館村の村議会選挙によそ者はかかわるな口出しするなということ江戸時代の人かと思った
そんな江戸時代の村意識で復興などできるのか?
そもそもよそ者が百人とか住んでいるとか広範囲にかかわらざるをえなくなったのが
原発事故だったのである

とにかくこの辺で原発事故で明らかになったのは何か狭い地域エゴとか自分だけの利権を得るとかが露骨だったのである
漁業者は自分の前の海も自分のものだとして補償金をもらおうとしていた
船主は海は自分たちのものだとして漁業権を東電に売り多額の補償金を事故前も後ももらっていたのである
そもそもここは俺の物だと主張する、そんなこと主張できるのか
飯館村は俺の物だ、村人のものだとか言えるのか?
そんなこと江戸時代なら言えたかもしれない、今これだけ人が交わり物を運んでいる時代にそんなことを言えない
別に飯館村を自転車で回っていてもうろうろするなとか言えないだろう
ただ村の政治に口出しするなとは言えるかもしれない、それでも今や不可分に土地でもつながっているのだからそんなことどこでも言えないのである

今や飯館村のものは飯館村の人達のものとはならない、、そこにいつまで空家にしておくのか?そこに住まないのならいづれ権利を失う、誰でもいいよそ者でもいい住む人があればその人に権利が生まれるとまでなる
別荘のようにして時々来る人は住民なのだろうか?
そういう人はその土地に責任ももたなくなる、なぜなら住んでいないから回りで何かあっても関心がなくなるからだ、住んでいればそこに住む以上関心をもつ、なぜなら無関心だったら今回のように住めなくなることがあるからだ
つまり原発事故でわかったことは人間は住んでいるだけで責任を負わされていたのである
だから一番被害があった大熊とか双葉とか浪江とかではその責任をとらされた、住めなくなったからである、住んでいること自体に責任が課せられていたのである
でも別荘のように時々来るとかなるとどうなるのか?何か住んでいないから関心が薄れることはありうる

もう今や日本は日本人のものだとかすら言えなくなる
例えば人口が減って日本を維持できなるなとき移民が入って国を維持するようなこになれそうなる、別に国を維持するのは日本人でなければならないいうこともないからである
飯館村とか他の避難区域でも住民は流出したのだから他から来た人が住んで町村を維持する、地元の人だけで維持できないからそれを止めることもできないのである
つまり故郷に住む権利を失ってもしょうがないとなる
空家だらけにして誰も住まないようりはいいとなるからだ

ただ前時代的人間はいた、そういう人はかえって飯館村では生きていけなくなるかもしれない、ただ津波の被害地でもよそ者が入ってきて同じような問題が起きた
でもよそ者を受け入れざるを得なくなったのである、住む人がいなくなんたからである
うろうろしているという人も必要なのである、別に泥棒するわけでもないし運動していたり自然を鑑賞したりしているからである
マウテンバイクを走らせるルートを作った場所もある
飯館村では人をよそ者を入れる必要があるのだ
なぜ南相馬市から来てうろうろするなとか言えるのか?
そこの土地はお前だけのものではない、みんなのものなのである
漁業者でも漁業権を盾に東電から多額の補償金をもらっていた
それも結局自分たちの海だとしていたからである、実際はその自治体のものであった
みんなのものだったのである、ただ漁業権は魚を取り過ぎないために与えられていたのである
たから原発によって魚も食べられなくなったのだから原発に反対するのが筋だったのである

とにかくこの辺で起きていることは何か様々な問題を露骨にしている
飯館村は南相馬市と合併しなくて良かったとしているがそれも補償金を村でもらい分配することがなかったからである
飯館村は特に補償金を他より多くもらったからである
でも今になると本当は飯館村は一見離れているようでも南相馬市と一体であり川でも通じているから放射性物質も流れて来る
それで南相馬市と一体の地域としてあり合併しても不自然ではなかったのである
歴史的にも鎌倉時代の鹿島区の岩松氏の領地ともなっていた
その後相馬氏が支配したのである、歴史的にも地理的にも一体だったのである
だから南相馬市と関係ないとかは言えない

ただ別に他の人は五人山とか塩の道の宿だったという人が説明してくれた
飯館村の人が全部こんな人ではない、そういう人もいたというので驚いたのである
何も普通にこういうことが争点になっているとか話ししてもいいからである
なぜなら南相馬市は無関心ではいらないからである
一票にはならないにしてもそれだけで判断するのは地域エゴだとなる

今は広域社会でありあらゆることか広い範囲で関係しあっている
江戸時代のようにはならないのである、そのマイナス面としてコロナウィルスとかで苦しむことになった、でももうとても江戸時代には戻れないのである
何か人間の社会が時代を逆戻りできないのである
コロナウィルスで閉鎖的になるにしろやはり別なように閉鎖的になる
同じように閉鎖的にはならないのである、テレワークなどでもそうである
家にいながらつながるということもあり江戸時代のようにはならないのである

それで今気をつけなければならないことは一個人でも報道する道具をインタ−ネットで
もった、確かに私は新聞記者でもない、一個人だからなんの権力ももっていない
でもプログとかで報告できる、それを読む人もいる
すると少しでも何か影響する、こういうことは今までなかった
リアルタイムで報告する、だから一個人でも権力がないとして軽くみられない時代にもなる、だから一個人でも馬鹿にして対処するとそれが飯館村全体にも影響する
それを注意すべきである、ただその人はそういう現代の情報社会のことを知らない
でも今やネットの時代でありスマホをもっているし何か多少でも影響するので注意すべきである
S議員でもそういう運動員がいることはマイナスとして働く、そんな人が議員の運動員なのかとなるからだ、するとS議員の印象も悪くなることもありうるからだ
こんな人が飯館村にいたのかというとき村の印象まで悪くなることもありうる
これは私憤から言っているのではない、公憤ともなっているのである

posted by 老鶯 at 21:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2021年09月20日

廃屋から感じる淋しさ (原発避難区域の復興はない)


廃屋から感じる淋しさ

(原発避難区域の復興はない)


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飯館村の養蚕していた家



廃屋だらけの村とか街とかを普通は経験できない、そこは遠くから来るなら別に感じることはない、通り過ぎてゆくだけだからである、ただ面白いとかなるだけである
それで廃墟の村を訪れて紹介する
でもこれが近くだと違ってくる、廃屋には何か荒寥としたものを感じる
それが数軒とかなていれば感じない、どこでも今は空家がいたるところにあるからだ
でもまだ人がそれなりに住んでいるから感じない
ただそれでも廃屋には何か一段と淋しいものを感じる
その理由は何かわからない、やはり人が住んでいたということで人が住まなくなったとき一段と淋しいものを感じる
それで庭でも石でも人が住んでいないと一段と淋しいものを感じる
その庭の石は人間化した石とばなっていたからである

津浪で家が流されて庭だけが残された所がある、そこにはいろいろな石がある
平板な大きな石があるとするとそれがやはり人間にも見えて庭に離れない離れたくないともなる、何かそこに住んでいた人間の気持ちが石にうつる
もともと石は一定の場所に動かない、定着するものである
そこに人間が住んでいると石も人間化する、だからもともと人が住んでいない所にある
自然の石と人間が住んで感じる石は違っている

何か飯館村とかでも廃屋だらけだからそこは荒寥としたものになる
もともと飯館村などは一軒一軒家が林の中に隠れてあった、そして前の広い庭に畑があったりし花が映えていた、だから淋しい村だったのである、隠された村だったのである
でもそこが廃屋の村となったとき隠された村とも違う、一段と淋しいものとなる
確かに瀟洒な小さな新しい家を建てている、それは廃屋ではない
でも人が住んでいなかったのである、最初人が住んでいると錯覚していた
そこはただ別荘のように時々住んでいた人が帰ってくるという
やはり人が住んでいないのである

そもそも家に感じたことは人が住んでこそ家である、人が住んで家が活きている
人が住んでいなかったいくら立派な家でも大きな幽霊屋敷になるだけである
家は死んでしまうのである、何かの抜け殻のようになる
それは村とか街でも人が住まなくなればゴーストタウンになる
そんなことを近くで経験するとは思わなかった、そういうことを実感することはなかなか普通はできないだろう
人が住まないと住むのでは相当に差がある、あばら屋でも人が住んでいれば活きているのである

もともと人が住んでいない場所で原始の森とかになっていればそう感じないのである
一旦人が住むと人間化するから人がいなくなると淋しく感じるのである
原発避難区域になった場所は全体的にそうである、住んでいるのは老人だけであり
余計に淋しく感じるのである、子供がいないということはやがて老人もさらに年をとり介護になったりしたら子どもに引き取られるとかになる
外部から来て住んでいる人も若い人ではない、その人たちもすぐに年をとる、すると病院もないし施設とか介護とかで働く人もいないから住めなくなる
そういう未来しか見えてこないのである
そのために小高とか浪江でも便利な原町に移り住んだとなる
そして故郷には帰らないとなる

ただ正直全国で空家が800万軒にもなるというのは恐怖である
いたるところに空家が増えて放置されると全体にも影響する
空家はいつまでもそのつまにしておくと問題になる、高度成長期とかなるとそういう家には何かしら利用していた、ただ家が50万くらいで持てるという時代にもなる
そのままに空家にしているより誰でもいいから住んでくれとなるからだ
空家とか廃屋があると印象が悪くなるからである

とにかく原発避難区域になった所は何か回復がむずかしいように見える
もともと過疎化していたとかもあり原発事故で最悪になってしまったのである
いつまでも廃屋としてあってもそれが印象を悪くする
何か幽霊が本当に住んでいる感じになる、そういう所にはあまり行きたくないとなる
でも建物だけ立派にしても人が住まないとやはり復興したとはならない
いくら金をつぎ込んでも建物を立派にしても復興しないのである
だから戦後の引揚者が飯館村なども木戸木(こどき)とか辺鄙な場所に開墾に入り住んだそいいう時代はかえって山に活気があった
一万人以上も飯館村でも住んでいた時代があったから山では農林関係とか石材とかで仕事があった、貧しくても仕事があり一応それだけの人が住める村だったのである
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戦後に引揚者が開墾に入った人達が多く一万人以上になった、その後は減りつづけた
ただ6000千人くらいが適正人口だったのか、戦後は引揚者で増えた




戦後引揚者が開墾に入り一万人にもなった、その後は低下するだけだった
また牧畜で牛を飼うことで仕事をもったのでなんとか人口を維持してきた
牛の村として維持できていた経過がある
それも放射線量被害で急激に減ったのである
意外と菊池製作所は残っていてまた川俣の方に働く人もいた、農林業だけではないものは残り生活できているともなる、社会がもともとそういうふうに変わっていたからである
写真の家は二階が兜作りの養蚕をした家である
そういう家は今でも全国で多いのである、また絹織物の機織りの紡績工場が全国に多かった、それがアメリカなどへの輸出品となっていたのである
そういう時代の遺産として今でもいたるところに兜作りの養蚕した家が残っているのである
不思議なのは戦後でもアメリカに生糸などを輸出して日本の経済が成り立っていたのである、だからアメリカと戦争したら生糸でも売れなくなる日本の経済が成り立たなくなっていた、だから経済的な面でもアメリカとの戦争は無謀だったのである
posted by 老鶯 at 11:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2021年05月22日

木の根っこ(飯館村の春の詩―私の思い)


木の根っこ(飯館村の春の詩―私の思い)

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木は大地に根を張る
徐々に深く深く根を張る
そして長い時間で成長する
ここに飢饉の碑がある
江戸時代の宝暦と記されている
寒冷の高原の地で民は苦しむ
でもここに根を張った木は動かない
その時代から代々人はここに生き続ける
そして我々の生は受け継がれる
その土地土地に歴史がある
歴史は先祖の苦労を偲ぶこと
その土地の根となること
それがこの地に生きること
苦しくも悲しくもまた喜びをともにする
それが断たれ失われ時
その根っこも失われる
その土地に死者も生き続ける
その土地から離れず生き続ける
その土地に根付き働き苦労して
その土地を作ったものだから
苦しくも峠を越えて私はまたここにやってきた
木は春になり芽吹く
風がそよぎ春の光りその根にさしている
私はその露わなる根を見る
土地に根付くその根を見る
そしてここに生きる人を思う
その場に人は生きた
その深い思いがここに残っている
でも人が住まなければそれもない
それが悔しく残念である
故にこうさせたものを憎む
憤りをもつ、怒りとなる


六字名号の碑の側に根も露わな木がある、今回はその根に感じた
何かそれが飯館村を象徴していた、飢饉もあり人々は苦しんだ
でもそれでも人々は代々ここに生き続けていたのである
村がなくなるということはなかった
人口が減っても村自体がなくなるとういことはなかった
そんなこと想像もできなかった
その村自体に人が住まなくなり荒廃した

確かに新しいこじんまりした家は建っている、でもそれは別荘だとういのも変なのである別荘とそこで暮らすのは違っている、別荘という時東京の金持ちが東京近辺に建てるものである、飯館村は別荘は似合わない、だから違和感がある
要するに原発事故で飯館村でも他でも放射線被害の大きい避難区域は根が失われたのではないか?
ただ帰ってきて何か農業でも始める人もいるし外から来た人が新しいことをはじめはている
でも肝心の村人で帰った人は少ないし60過ぎの人が多いだろう
もともと農業は60以上の人がしていた、そして近くの畑でも遂に死んだ人もいるし体がつづかなくなり畑をやめたとかある
そして耕作放棄地になった、原発事故以後はそういう土地が多いのである
それはここだけではない全国的にそうなのである

人間が生きるということはやはり生きる場が必要である
その場が故郷であり代々生きることが継続される
それが断たれることは歴史を失うことであり深刻になる
ただ歴史が失われるとしてもそれを感じない人もいる
金をもらえばいいとかなる人もいる
もともとここで暮らすのは苦しいから嫌だから住みたくないという人もいた
ただそこに生きることにかけがえのないものを感じていた人もいる
そういうことをまた原発事故以後痛切に感じた人もいる

それで山尾三省が東京に住んでどれほど田舎で暮らすことに価値を見出したか
まるで田舎の殉教者みたくなっていたのである
あんなふうに第一田舎の人でもならない、なぜならみんな車をもっているし一人一台でももっているからである、車がないと田舎では暮らせないからである
それは極端にしても何かそれほどまで一つの自分の生きる場を郷(くに)を求めた人はいない
それで原発事故以後共鳴したのである、あからさまに原発事故に反対してそのアンチテーゼとして自ら実践したのである
おそらく田舎に住む人より田舎の価値を農業の価値を生きたかったのである
それでその喜びが詩ともなったのである

私はただ別に農業をするわけでもない、飯館村に行ったのは他国をたずねるような気分でしかなかった、そこに暮らす人の苦労も知らない、ただ花を見て帰っただけだともなる
でもそこに峠を越えて常に行っていたから思い入れが生まれたのである
飯館村は相馬藩内だからやはり土地でもつながっていた
なぜなら新田川の上流が飯館の中心部の草野から流れていたからである
真野川は大倉村から流れているからである
土地としてもつながっている、それで放射性物質をつめこんだ袋が破れて流れたとき
それは南相馬市にも流れて来る、もちろん真野ダムに放射性物質がたまり流れだして来るだから飯館村だけが汚染されるということでもなかったのである

posted by 老鶯 at 21:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2021年03月29日

飯館村の国の詩 (飯館村の復興)


飯館村の国の詩 (飯館村の復興)

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高原のさわやかな大気
生業にいそしむ者よ
拓かれし田畑の実り
里の味、凍み大根

厳かに樹々の列
樅の樹は直ぐに立つ
荘重なる森の深しも
神殿のごとし

塩の道松川浦より
山中に入り運ばれぬ
その道のり遠しも
馬とともに働く昔

助の観音に我は休みぬ
椿の咲きて一時安らぐ
ここに助けと泊まるや
故にその名のあり

塩の道去年(こぞ)の落葉にうもれ
山中に一すじ通じぬ
沢沿いの道馬と来て危し
その細道伝い来ぬ

新たに樅の木の若木の育つ
ここに直ぐにして育つべし
蝶々の喜びに乱れ舞い
寒き山中に春は来ぬ

耐えてこそ喜びの日は来る
林に石は寄り添い春の日さしぬ
今ここに共にありしを喜ぶ
ここは我らの国なり

我らは貧しくともここに生き
ここに死して安らぐ
我らのかけがのない地なり
まことの国のここにあり

大石は牛のごとく動かず
ここに住みつき蕗の薹
樹々は芽吹き風にゆれる
この地に我らの国なり

我らはここに生き死ぬ
ここに生きて生は全うされる
他の地にあらざるべし
こここそ我らの命なり

外に出て国を失う者よ
そは心充たされじも
金のみにて人は充たされじも
心はここにありここにとどまる

栄華はなく貧しくも
神は美しく装いたもう
真の日と美のここにあれ
この国に生きてこの国に死す

草に埋もれてうなだれ咲く野の花
神はその村をかくしたまいぬ
その時ここに平和のありしも
森につつまれ村は隠されぬ

しかし今残れる空家を見れば悲しも
ここにかつての暮らし生業はあり
なほ枯芒に埋もれて人は住まず
春はここには来たらじ人は国を去る

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飯館村が浜通りとかの市や町とも違っている、そこが森に囲まれて広いということもあるただ日本では国(くに)というとき山に囲まれた地域だった、そこ国のまほろばになる
海に面しているのとは違う、だから奈良が一つの国となり大和の起源になった

ヤマトタケルの望郷の歌

倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠(やまこも)れる 倭しうるはし

命の またけむ人は たたみこも 平群(へぐり)の山の 熊白檮(くまかし)が葉を 髻華(うず)に挿せ その子

会津嶺の国をさ遠み逢はなはば偲ひにせもと紐結ばさね

国(くに)というとき今の国家とは違う、自然と一体化したアイディンティティ化したのが国であり行政的な今の感覚の国とは違うのである
お国言葉の訛りとかがありまたその国は自然がありそこに帰りたいとなる

久慈川は幸くあり待て潮船にま楫しじ貫き我は帰り来む

久慈川がありそこが我が故郷であり帰りたいとなる
だから東京とか大都会になるとそこが故郷として国として意識できない
ただ何か国というときこうして日本では山に囲まれた場所が国として意識されたのであるそれで飯館村が山に囲まれていて森に囲まれていてそこが国にふさわしいとなる
とにかく飯館村の特徴は広いことなのである、だから6000人が住んでいたとしてもそこに街というものが草野にあってもそれも街とも言えない、広い地域に人家が分散して森につつまれて生活していた、だから貧しくても住いをみれば贅沢だと見ていたのである

命の またけむ人は たたみこも 平群(へぐり)の山の 熊白檮(くまかし)が葉を 髻華(うず)に挿せ その子

命のまたけむ人は・・・・またけむとは全うするとなる、国という全体の中に生きることに人間の価値があるともなる、人間は部分として職業でも生きても命を全うできないということなのだ、国があって命が全うできるとなる

熊白檮(くまかし)が葉を 髻華(うず)に挿せ その子

未来はその国の力は熊白檮(くまかし)が葉にあり森に囲まれた自然の中にあるとなる
それは原始的心性だったとなる
現代だと全くそういうことはない、その子は子供たちはたいがい都会に育ち自然と分離した中で生きているからだ、また田舎でも現実は自然を肌で知るより様々な都会的なものの中で生きているからだ、工業社会になると当然全体がそうなってゆく
だからこそ今は科学技術社会であり原発が未来だったのである

その飯館村でも戦後まもなく戦争の引揚者が開墾に入り住んだ、それで一万人以上も住んでいた時があったのだ、なぜそんなに人が住めたのか不思議だとなる
戦後引揚者は職がなくそういう場所でも住まざるをえなかったのである
まず木戸木などは飯館村でも辺鄙な場所でありあんな場所に良く住んだなと思う
田畑にする平の場所はわずかであり何で暮らしたのかとなる
おそらく林業とかあり炭焼きとかあり暮らしたともなる
炭焼きは木材が豊富だから山で暮らすことができたのである
だから山村が豊かではないにしろそこで生活する術がありえた
かえって平地より山の幸がありえてそれだけの人口を養っていたしそれは江戸時代でもそうなのである、飢饉の時山に逃れろというのも山には何かしら食料となるものがあったからそう言われていたのである

そして原発事故で人は住まなくなった、新しい家があっても人は住んでいないのである
その新しい家の前にばあちゃんがいた、春の日がさしていた、その人も福島市の方に住んでいて我が家に来てなつかしんでいる
でも実際は住んでいないのである
だから飯館村に原発事故以後何が起きているのか?それが良くわからないし不思議だとなる
要するにもともと住んでいた人は住んでいないのである、第一村長自体が住んでいない
わずかの生徒は村外から通っていて飯館村には住んでいないのである
そうなると飯館村の住人といえるのかともなる
村が空洞化したのである、でも建物だけは立派なのである、ただそれを活かす人間が住んでいないとなる、果たして別荘のようにして新しい家があるけどそこは人は住んでいないのである、するとそこは何になるのだろうとなる

軽井沢のような別荘なら金持ちが住む場所であり理解できる、でも飯館村がそんな金持ちとなりただ別荘として利用する、そんな村でありえるのかという疑問である
現実に飯館村では住民がいなくなったから外から人を移住させようとしている
それで今度の村長自体はここて育ったとしても離れて暮らしてきた人である
そのことが飯館村を象徴している、郵便配達していた年配の人も外から来た人だった
外部から入ってきた人が多い、百人くらい入ってきているという
ただその人たちも年配の人が多いからそういう人が村を維持させることができるのかともなる

ただ不思議なのはこうなると外部から入りやすい、もともとの人のしがらみもなく、その広い土地を自由に活かしてくださいとなるからだ
北海道のような開拓地のようにもなる、もともと住んでいた人たちはいなくなったのである
すると外部から入ってきた人たちが自由な発想新たな村作りをするともなる
村を担うものが外部の人達だともなってしまう
それは原発の避難区域になったところではそういうことが起きている
外部の力を頼むとなる、でも小高辺りではなじめなく若い人も去ったという
そこに取り残されたのは老人だけだともなる


ともかくあれだけ広い土地をどう活かすのかとなる、するとソーラーパネルとか今度は風力発電とかに空き地を利用するようになる、一部はなっている
すると昔の山村という感じでもなくなる、そこに生業はなくなっているからだ
見直されたことは人はその土地に住んでこそ生きる意義が見出される
住んでこそその土地の国の住人になる、住まなければよそ者のままである
だから飯館村のような場所だと住むことが前より価値があることになる
普通はこんなこと考えない、住むなど当たり前だとなりそこに特別の価値は生まれない
でも今の状態だと住むことが価値あることになる
もともとの住民がいなくなりそこに外部からの人たちが入り一から新しい村作りをするとなる、北海道の開拓者のようにもなる
だから外部の人たちの希望の地ともなる、それが北海道だったからである
新しい国作りが行われその創始者ともなる、そもそも国とかあってもそれは誰のものなのだろうとなる
その国に確かに死者も関係している、先祖も関係している、先祖の努力が苦労あって作られものだからである
だから何かこうして人間存在の根源的なものとして問われるようになったの不思議なである
ただ正直飯館村がどうなるのかとをなっているのか理解しにくいのである

震災後、村職員は村外出身者の採用が増え、その数は半数近くに上る。住民も「もう半分くらい知らな
い人だ」という。震災前、役場に行けば皆顔見知りで、何か行政区の困りごとを相談すると、各課の職員がわらわらと集まって話を聞いてくれていたという

「地域があるから人があるの?」「県があるから地域があるの?」「国があるから県があるの?」違う。逆でしょうって。人がいるから地域が生まれ、地域の仕事がたくさんあるから村になり町になり、そして県や国が成り立っているということなんじゃないの。過疎地だって、結局潰れないのは人がいてふるさとを支えているからでしょう?」

危機に立つ住民主体の村づくり
飯舘村における「復興」計画と「村民の復興」の乖離

こういう状況であり本当に人があって地域があり国があるともなる
人が住まなければ地域も国もないのである、だから住むことが第一になる
住まなければその土地が放射性物質の廃棄場になってもソーラーパネル工場のようになっても関心がくなる、人が住んでいれば嫌だとして反対する人がでてくる
例えば占有権というのがある、誰も住んでいない土地に住んだ人がその土地の所有者ともなる、つまりその土地に住んでいなければ権利を失うということである
だからもう外部の人がその土地の所有者になる、別荘として家もっていても権利がなくなるともなる、土地と家を持っていても住んでないなことが致命的になるからだ

だからこの指摘は鋭い、いくら立派な建物を作っても肝心のそれを利用する人が住んでいないからだ
そんな立派な建物がなくても人が集まる場所はありえる
だから住む人がいて村も成り立つけど住まないとしたらその人は村の住民にもならない
でも飯館村は放射線量が未だに高いのだから住めないとなる
だから農業とか林業ですら放射性物質に汚染されてむずかしいとなる
ただ確かなことは人が住まなければ復興はない、そしたら肝心の人が流出したのだから
復興はできないとなる、そうした矛盾と困難があり外部頼みとなったともなる
外から来る人にとってはかえって自分たち村作りの構想を作り自分たちの村を作るということでいいとなる、ただそれでも外部から来る人も年配の人が多いから村を継続できるのかという問題もある
とにかくあの広大な地域をどう活用するのかがその先が見えないのである

posted by 老鶯 at 12:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2021年03月25日

蕗の薹、春風、紅梅(飯館村の春の塩の道を行く)


蕗の薹、春風、紅梅(飯館村の春の塩の道を行く)

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助の観音

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塩の道
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春が来ない廃屋 車が埋もれている

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あいの沢の水芭蕉

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栃窪の耕作放棄地








春日さし塩の道行く飯館へ

椿咲き助の観音に休むかな

春風の頂上に吹き峠越ゆ

春風の山のかなたより吹きて行く

春の日に斜面を上る山の雉

入り乱れ蝶の飛びかう山の道

山の道いぬふぐりにそ蕗の薹

木の根にも春の日さすや飯館村

大石やここに住みつき蕗の薹

春日さし寄りそう石の五つ六つ

飯館に石重なりて芽吹きかな

春は来ぬ廃屋一つ冬芒

紅梅の匂いて夕べ走り去る

紅梅の匂いの良しや夕べかな

山里や紅梅匂う夕べかな

美しく空地を充たすレンゲかな


紋様の違ふ三羽の蝶山路にそ交わり飛ぶや我は来にけり

塩の道殿様道も春の日や去年の落葉にうもれけるかな

飯館に飢饉のありぬ供養塔去年(こぞ)の落葉を踏みて見るかな

根づく木の根も露わにそ供養塔ここにありしも春の日さしぬ

春の日や家の前にそ媼いて我と語りぬ飯館の道

我が家の前にそあわれ媼いて村なつかしむ春の日さして


栃窪から塩の道をたどり飯館村まで行った、さらに高く登ってゆくと北から春の風が吹いてくる、普通浜通りでは春は東風(こち)で海から吹いてくる、山では北から吹いてくるこの道は久しぶりで通った、何か山頂の方に春風吹いて気持良かった
ただこの道は途中で大きく崖崩れがあって通れない、自転車でも通るのに難儀した

途中助の観音で休んだ
相馬市から塩を運んでここで泊まったということもあった
一日馬で来てこの辺で日が暮れたとなる
今来た道は新しい道であり塩の道は沢沿いを来て森の中に通じている
途中に馬繋ぎ木とかありいかにも馬がつながれて休んだ場所がしのばれる
ただそこを行くことは荒廃して難儀でありずっと行っていない
でも何か道が細く危険な場所である
だから牛転がしとか馬転がしとかの地名がつく、道が細く下を見ると谷間になっていて怖いのである

地名めぐり・町名めぐり
https://history.riok.net/chapter04_section04.html

助の観音で休んだ、そこに椿が咲いていた、そして塩の道がここから通じている、森の中に入る、そこに道が二つに分かれていた
殿様道というのがあったのだ、それは平民と殿様が通る道に分かれていたのだ
なぜそうしたのか?平民と殿様が合うとまずいということで二つの道を作ったのである
これも江戸時代の厳しい身分制の歴史を示している
その道は去年(こぞ)の落葉に埋もれていた、この塩の道をたどるのは今でも危険であり難儀である

そこからもまだ山の道はつづきようやく飯館村に出た
道の駅の後ろでばあちゃんがここは風が強いと言っていた、新しい家に住んでいる
でも家が少ないからまともに風を受ける、また標高が高いから風を受けやすいということである、ただ別に平地でも北風が吹くから風は受ける、ただ北風がここではまともに受けて寒いしここでしか感じられないものが気候には必ずある
飯館村は冬は寒いのである、それで宝暦の飢饉は悲惨なものになったのである
この寒い所で米をとることはかなりむずかしい地域だったからである

その後ろの道は塩の道だった、前に書いたが塩の道の宿だったという蔵ある家があった
その人は前の土地をもっていてその土地に新しい住宅が建てられたから金が入ったとされる、だから新しい家を建てた、ただそのばあちゃんは私は財産などなかったからたいして補償金もらえなかったとか言っていた
この補償金の差がまた大きいのである、だから必ず不満な人がででくる

その塩の道を行く隣に新しい家の前でばあちゃんが休んでいた
それで話しかけたら私は福島市に住んでいてここに時々来ている
ここは私の家です、でも住んではいないんです
今飯館村で誤解しやすいのは新しい家があるから人が住んでいるように見えるのである
てっきり住んでいると自分も思ったからだ
そのばあちゃんは車を持っていたが返納したという、そういう人が本当に多いのである

第一飯館村のような広い場所では車はもう必需品である
今はスーパーすらないのだから隣の川俣村に買い物に行くにもバスがでているとしても車がないと不便であり生活もできなくなる
そのばあちゃんは85にしては若く見えた、肌が若い、一方もう一人のばあちゃんは65なのにふけて見えた、85なのかとも見えた
何か年齢で60以降は計れない、若い人は若いし老ける人はふける
その差が大きいのである、
20才も差があるのに20歳上の人が若く見えたのである

飯館村では森の中に石がありその石を見る、いろいろな形があり石がよりそい春の日がさしてそれが人間に見えるのである
そこに住んでいる村人に見える
何ひか暇な老人が何人か集まる場がある、そのように人に見えるのである

ただ問題は何か飯館村でも建物は立派になっても人が住んでいないことが最大の問題なのである
いくら立派な建物を建てても活かすそこに住んでいる人間だからである
確かに外から来た人がかなりいる、大倉の方に郵便を配達ひてきた人は外部から移り住んだ人だった
でもまた移り住む人も老人が多い、となると未来の村を担う人がいなくなり将来どうなるのだろうとみる
時々新しい家があり昔をなつかしんで帰ってくるという光景も不思議なのである

そして飯館村で考えることは人は住むこと自体に大きな価値があるということである
こんなこと普通は意識しない、でも人が住まない町とか村になると住むこと自体が相当な価値あることになる
今まではそんなことを感じなかった、むしろこのような不便な村を出たいということがあった、そのために補償金をもらい若い世代は福島市などに流出した
逆にそうなったとき村に残り住む人はここで生きること住むこと自体新たな大きな価値を生むことになった
人間は住まない限りその村のその土地の一員となることはできない
時々なつかしんで住んでいた村に家に来てもその村の一員にはなれない、生活は別な街でしているからである

それで

大石のここに動かず蕗の薹

こんなふうになる、動かないここに住んで動かないということでその石も活きているとなるからだ、そしてここにも芽吹きがあり蕗の薹がでてくる
そして山菜料理をここで食べている時ここに住む価値がある
だから心とはココのことでありその生きている場所と一体化することなのである
だからこの辺ではありえないことが起きていろいなことを見直すことになったのである

なんとかまた飯館村の大倉にでて栃窪に出た、この時バッテリがきれていたから苦しくなった、でもバッテリー無しでもなんとか走れるから自転車はいいのである
バイクとかでも燃料がなくなれば走れないからである
ただこの電動自転車は楽に走れるので遠くまで行けるのである

栃窪村では紅梅が匂い夕べになっていた、その耕作放棄地にレンゲが咲いていた
自然は空虚になった場所をうめる、美てもって覆う、このレンゲが美なのである
それが自然の作用なのである、美があるから救われるのである
それで津波で八沢浦が入江になったときほど驚いたことはない
確かにそこでとがめられた、でも美しい入江になった、津浪でも闇黒をもたらしたが一部では美をもたらした、海岸地帯は湿地化して釧路湿原のようにもなったからである



posted by 老鶯 at 10:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2021年03月12日

冬の日の飯館村(ホームページから抜粋) ー飯館村のかつての風景


冬の日の飯館村(ホームページから抜粋)

ー飯館村のかつての風景

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前に書いていたホームページを見ていたらこれを発見した
こさも忘れていた、何しろ膨大な量を出しているから忘れる
それで今その整理をしているけどいくら整理しても整理しきれないのである
「時事問題の深層」とかに書いたのも今になると一つの資料として貴重なものかもしれない、その時何があったかを知るからである
なぜなら自分で書いたものでも忘れているからである
それで前に書いたものを参考にすることが結構あるからだ
インタ−ネットだとリンクできることが便利なのである

今こういう風景が飯館村から喪失した、田畑は草ぼうぼうであり放射性廃棄物の処理場のようになってしまい荒れ果てている
その風景は生業(なりわい)とともに作られていたのだ
その生業もないし奇妙なのはこじんまりとしたしゃたれた別荘が家があったところに建てられている、そこに時々帰って畑などで野菜を作っているというのも不思議である
それは今までの風景とは余りに違ったものである
ただ飯館村の人たちは補償金が多くもらったから福島市などに新しい家を建てている
だから家が二つあることにもなるから確かに別荘であり金持ちになったのかともみる

いづれにしろここに私が残した飯館村の風景は失われた
なんでもない平凡なものだがそこに何か貴重なものがあったことをふりかえる
今の風景からもうそういうものをイメージもでなくなっているからだ
そして生業を失うことは村が死んだことなのである
ソーラーパネル工場となり風力発電所となり田畑は失われ人々は補償金で村が二分されてばらばらになった
それは別に飯館村の人たちの責任ではない、飯館村は原発の恩恵を受けていなかったからだ
原発によって村はずたずたにされたのである
ここに原発事故のむごさが一番現れたからである

そして生業を失うことは長年培われた江戸時代からの景観でも失われたともなる
そこに生業がなくなればやはり死んだものとなる
「作見の井戸」の行事も失われた、それは井戸の水を見て豊作か不作かを占うものだったそれももう田んぼがないのだから無用化して失われた
祭りも失われたのである、神社は誰も参らず捨てられている
こうしして相馬藩内だった飯館村が失われたことは大損失にもなった
飯館村は一見地理的に相馬市とか南相馬市と離れているようで結びついている
なぜなら新田川の源流が飯館村内にあり真野ダムでも大倉にありそこから放射性物資が流れてくるからである
飯館村の佐須では泥が20マイクロシーベルトあったことに驚いた
その泥が真野ダムの方に流れてくるから怖いのである
現実に放射性物質をつめたフレコンバックの土が破れてもれて流れ出したからである
飯館村は依然として放射線量が高いのである

ともかく飯館村の何が貴重だったのか?それも失われるとわからなくなる
なぜならそういう景観が失われたからである
ただ私は何度も行っているから今残された写真を見てこんな風景があったなとなんでもない風景を見てそこにかつての飯館村の面影を偲ぶともなる



posted by 老鶯 at 10:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2021年03月06日

震災から10年―復興できない避難区域 (住民を帰還させることは無理?)


震災から10年―復興できない避難区域

(住民を帰還させることは無理?)

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飯館村は建物は立派でも人は住んでいない
(人が住まない村では復興はない・・・・)
http://musubu.sblo.jp/article/187349335.html


どうみても双葉とか浪江町とか大熊とか富岡とか飯館村とか原発事故の避難区域は復興できないとみる
なぜなら高齢者が多かったが10年過ぎてさらに高齢化進んだことである
双葉町の牛を飼っていた人は67才とかであり夫も事故後に死んでいたのである
生き残っていた牛はその飼い主を覚えていた
でも家は取り壊すほかなくなっていた、10年間洗濯物が干されていたのも不思議だとなる
飯館村では長泥でも避難区域で未だに解除されていない地区である
そこへの思いがあってももう帰ることは不可能だとみた
もう一つの原因が高齢化なのである
60過ぎたら農業するのは苦しくなる、農業は結構な重労働にもなる
それで70才になるの女性は畑をやっていたがやめた
腰が悪く病院通いが仕事なのである

もともとこうして地方の田舎は少子高齢化で後継ぐ人が減っていて維持することがむずかしくなっていたのだ、それに追い打ちをかけたのが津波とか原発事故だったのである
だから本当に津波で死んだ人の慰霊碑に刻まれた人でも高齢者が多いのである
それは漁業でも同じであり第一次産業の割合が一割とかに下がってきたのが日本の経済である
農業ではやっていけない、漁業ではやっていけない、林業もないとかなって地方の農山村は衰退して限界集落化するところが増えてくる
つまり跡継ぎもそういう場所では育たない、それが原発事故で極端な過疎化から無人化した町村になった
ただ老人は長年生きた場所に愛着があり帰りたいとなるが若い世代はそういうこともないのである
すると多額の補償金をもらって都会にでも出た方がいいとなる
実際にすでに家を建てて移った場所で仕事を持ち子供はその都会の学校に通っているともなる、だからその子供たちにとって飯館村でも故郷ではなくなる

でも飯館村とかなると愛着があるから福島市であれ外に家を建ててもなつかしいからと家は残している、その古い家があったところにこじんまりした家を建てている
それは新しいしゃれた家でありそれは別荘でありたまに畑の野菜をなどを見に来ると言っている
これも不思議なの光景である、軽井沢の金持ちになったのかともみる
別荘となればそうなる
ただ長泥は放射性物質に汚染された土を利用する工場を作っている
それでまた農業を再生させようと努力している

いづれにしろ10年過ぎて避難区域に帰ることはもう無理に見える
何か人のつながりも希薄化したとか人のつながりがなくなったという
その人のつながりは場所を共有して仕事をしていることでありえた
田舎だととくに農業している人は人のつながりは濃密なのである
だからその土地から離れて十年とかなり仕事を通じたつながりもなくなるとそうなる

それで外人の文化人類学者の人が墓地がつながりをもつ場所だと言っていた
何か不思議なのは津波の被害地域でも高台に墓地が残っているのである
でも人が住まなくなると他に移りすむとその墓も移動するのである
子供が移り住んだ場所に移動するからである
そうなるとその場所とのつながりも消失してゆく
でも飯館村だと別荘としてたまに昔をなつかしむ場所として行く
ただそんなことがこれからも成り立つのかとも思う
軽井沢のような地域ではないからだ

10年過ぎてむしろ元の状態の復興はかえって遠のいた、そしてもうあきらめる他ないとまでみる、政府では全地区避難解除してもどすというけどそれは今の現実をみたらその政策は合わない、ただそうしないと政府で補償金を払い続けることがありそうしようとしているのかともみる
でも現実的に元の状態にもどすことは無理だとみる
現実は他に家を建て子供たちはその土地の学校に通い十年もすぎたからである
この十年の時間の重みがありそれで元の状態の復興はもうできないとまでみる
それをしようとすると何かかえって徒労だともみる
金をつぎこんで立派な施設を作ってもそこに肝心の人が住まないし活きないのである

学者がふるさとは場所と人間があるが人間があって場所があるのであり人間がいなくなれば人のつながりも消える
歴史も場所と密接につながっているのだが人間が住まなくなるとその歴史も途絶える
神社とか古碑とかも埋もれてゆく、しばらくは廃墟として残るがいづれ草に森に埋もれてしまうのである
そして新しい歴史が移った場所ではじまる、そうして先祖は忘れられる

要するに時間は貴重なものであり十年一昔になる、それは昔のことだとなり関心もうすれてゆく、何か地元でも津波の被害を語っても関心がなくなる
ただ原発事故は依然として継続したものとしてあるがこれも忘れられてゆく
今の関心はコロナウィルスになり津浪とか原発事故でもそれは昔のことだとなってしまうそして今に生きることで精一杯になっているのが人間なのである

だから政府のいうように避難解除して元の町や村にもどすことは不可能だともみる
その政策自体が間違いである、となればどうするのか?
一つの解答が飯館村の別荘化だったともなる、そこで場所とのつながりを依然として一応持ち続けるとういことである
ただ将来的にそういうことがつづくのかはわからない、それがいいともならないがそれも一つの解答だとなる、ただ村でも人が住んで暮らしがあって村だとなる
それで風力発電を見えない場所にしろと隣の川俣町から言われた
川俣町は避難区域ではないから人が住んでいるから景観を気にしてそう言ったのである
人が住んでいると毎日そこから見えるものが気になるのである
人が住まなければ気にならなくなり放射性廃棄物の処理場になろうがソーラーパネル工場になっても抗議する人もいなくなるのである
むしろ土地を持っている人は金にしようとするから余計に景観のことなど考えなくなる
こうして人が住まないと荒廃してゆくのである

災害で村人が助け合った江戸時代の話に共鳴
(原発避難民は補償金で町も村も家族もばらばらに分断された)
http://musubu.sblo.jp/article/187785463.html


3月6日のTBS 報道特集を参考にしました

posted by 老鶯 at 20:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2020年10月23日

ナショナリズムとグローバリズムとは何なのか? (郷(くに)を基とした文化の形成が人間の基本―飯館村を破壊した原発事故)


ナショナリズムとグローバリズムとは何なのか?

(郷(くに)を基とした文化の形成が人間の基本―飯館村を破壊した原発事故)

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「ナショナリズム対グローバリズム(前半)」三橋貴明

これは確かにわかりやすい、何か自分の追求し来たことが右側のナショナリズムである
飯館村のことで郷(くに)のことを山尾三省の詩から追求した
つまり歴史的ときとういとき身近なものではそれぞれの家族があり親がいて祖父母がいて継続されたものとしてみる、そこが歴史の基本である
それで私の親が双葉の新山で丁稚奉公したということを書いてその土地と共感したのである
それは歴史的であり継続的なことなのである、その歴史というのも日本だと天皇があり二千年前からつづいていたとなりそこまでさかのぼる

つまりグロ−バリゼーションとはこの逆なのである、国々の歴史とか風土とか文化を無視する、グロ−バルに経済的単位としてしか見ないのである
そして歴史とか文化は金にならないというのもわかる
自分の追求したものは金にならないのである、金に換えられないものなのである
原発事故ではまさにそうして金に換えられないものを失ったのである
その土地の郷(くに)で生きてきた先祖代々の生活がありその郷での暮らしがあり文化があったが失われたのである
ただグロ−バリゼーションというときここで多額な補償金としてその損失を補償したのである、でも失ったものはもともと金に換えられないものであり金では取り戻せないものだったのである
だから意外とそこに住んでいる人もそのことを気付かないということがある
別にそれだけの補償金もらったきだから良かったのではないかとか他からも内部でもそう思う人もいる
つまり価値をなんでも金に換算すればそうなるのである

でも金に換算されないものがこの世界にはある!

それが原発事故で問われたのである、郷(くに)とは経済的一単位ではない、総合的なその土地と時間的継続と風土でもって結びついた有機体でありそれを分解したりできないものである、その一部のものを取り上げてそれを金銭に換算できるようなものではないのである

人間は経済的単位ではない!

でもグロ−バリゼーションは国でも地域でも一つの経済的単位利益とみる
国(くに)を形成しているバックグランドを見ないのである
その時金に換えられないものが奪われていることに気づく、それが原発事故で明らかになったのである
確かに補償金を得て他に都市にでもでて立派な家を建てることができた、だから良かったじゃないかとなる
でも何か他にそうして移り住んで精神的空虚感を覚える
野菜でも山菜でもその土地にあり自ら生産して食べる時、その土地に生きる充実感があるそれで飯館村特産のかぼちゃを生産して喜んでいる女性がいた
それはその土地の実りだからである、だから買ってばかり生活していると不安になるというのもわかる、金で買えてもいつか金はなくなるからである
でも野菜でも米でも継続的にその土地でとれれば安心だとなるのである

つまり東京とかはすべて経済的単位の人工的空間と化している
そこに文化がない、その土地を耕す、cultivateするcultureがないのである
あるのは人工化された経済化された精神のない世界である
だから墓でも団地の様な狭い空間に閉ざされて作られる
田舎だと墓地はたいがい自然の中にあり今なら秋の日がさして土地の人々が眠っている

グロ−バリゼーションとナショナリズムの対立は都会と田舎の地方の対立でもある
東京とかとなるとグロ−バリゼーションになる、つまり食料でも日本の地方より外国から輸入すればいい、日本の地方は効率的ではないとして切り離すべきだともなる
でも日本の国土と不可分に東京でもつながっている、だから原発事故は東京まで影響したのである
いづれにしろ大都会民と地方民田舎人とは分離する、心も通じなくなる
そしてやがて地下に大都会ができて地下人間と地上人間は心も通じなくなったりする
だから国内でも別にそうした分離が起きていたのである
なぜなら一千万もの大都会があるということ自体が国土を分断してしまったのである

だからコロナウィルスとかで東京が密集しているから危険だとかなり交通でも遮断されるとかなり人の交流でも物の輸送でも止められたのはそれは世界的変化としてナショナリズム的志向になる、グロ−バリゼーションでもある程度は許容されるし貿易も必要である
でもそれが過度になり世界的な歪みをもたらしたのである
それを是正するものとしてコロナウィルスが生まれたのかともみる
一つの時代の変化が起きたともみる

ヤマトタケルノミコトのお歌として伝えられる歌に

いのちの全けむ人はたたみこも平群(へぐり)の山のくまかしが葉を うずにさせ その子 

いのちの全けむ人はとはまさに郷(くに)に全体として不可分に結びついた郷(くに)に生きる人のことである、そしてくまかしの葉ををずにさせ・・・とはその森の豊かさを身に帯びる、または森の霊力を帯びるともなる
だからこういう感覚は自然人として生きた古代人とか原始人的な感覚なのである
人間と自然が一体化していたのである
これからの時代は経済的単位としての人間ではない、郷人(くにびと)として生きることにアイディンティティを見出して安定してし継続する生きる力を取り戻すことである
リストアーすることである、そういうときいかに原発事故がそういう郷(くに)を破壊したことは大罪だったのである、放射性物質で森の木々まで汚染されたし森全体も汚染された、それは30年でセシウムは半減するとしても消えないからだ
その罪は余りにも重すぎたのである






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山尾三省が追及した郷(くに)とは 山尾三省が追及した郷(くに)とは (原発事後で奪われた郷(くに)と生業-飯館村から考える)


山尾三省が追及した郷(くに)とは

(原発事後で奪われた郷(くに)と生業-飯館村から考える)



びろう葉帽子の下で

郷(くに)ということばと
郷人(くにびと)ということばを つぶやく
奄美の郷(くに)
奄美の郷人(くにびと)
沖縄の郷(くに)
アイヌの郷人ということばを
心をこめて つぶやく
原子力発電所のない、郷(くに)
核兵器のない郷
その郷人のなりわい
・・・・・・・・

びろう葉帽子の下で
国ではなく
郷(くに)を思う
畑の草を刈りながら
畑の土を掘りながら
日本の郷とつぶやいてみる
わたくしの郷とつぶやいてみる
そうつぶやくと

(山尾三省)



山尾三省の不思議は必ず原子力発電とかチェルノブエリのことに反対している
そのアンチテーゼというか、それに反発するものとしてこうして郷(くに)のことを詩にしている
そもそもこの人は東京生まれだけど田舎の生活に憧れていた、その憧れも普通ではない
何か渇望するように憧れていた、それは東京砂漠というようにそこに自分が生きるアイディンティティを見いだせなかったからである
それで極貧でも囲炉裏で炭を使い生活していた
そういう人はまれだが若い人ででてきている、でも依然として変わり者である
飯館村にもいたようである

現実はそういう田舎に住んでいてもみんなそんな暮らしをしたくないとなっている
しかたないから暮らしているとなる、でも東京とかではそういう田舎の暮らしを渇望している人がまれにだがいる
つまり東京には郷(くに)がないからだ
ただこの国(くに)というときどれくらいの範囲なのかわかりにくい、日本に小国(おぐに)という地名が多い、そこは何か山の中の平な土地であり小盆地なのである
そこは山に閉ざされてある、そういう地形が日本には多いから小国が多いのである
そこは一つの国として意識されたともなる

でも実際くにというとき

 会津嶺の 国をさ遠み 逢はなはば 偲ひにせもと 紐結ばさね

この国は相当に広いのである、ただ万葉時代にすでにこれだけ広い土地が国として意識されていたのである、それだけ会津が古い土地だということがこの歌で示している
国を意識する時そこは土地だけではない、そこに愛する妻がいるとか親がいるとか友がいるとかでも郷(くに)となる、そういう人と離れたくないということがある
また故郷というとき実は故あるというとき親とか祖父母とか先祖と深く関係した場所なのである
私の父親は双葉の新山の酒屋で丁稚奉公していた、それで何かそこに行ってみたら廃墟の街になっていた、その酒屋のあった近くの道を歩いた時不思議だった
父もここを歩いていたのかと感慨深かかった、何か出会い橋とかあり父と会うようにも思えたのである、ここで父が働いていたんだなと思った
何かそういうふうに人との死んだ人でもつながりを感じる場所が故郷なのである

山尾三省は東京で暮らしていたからそういうものがないからあれだけ渇望して極貧でもその郷の人として屋久島で62才くらいで死んだのである、妻も死んだ、それはその生活が楽ではなかったからだとなる、第一今ではそこまで田舎を求める人はいない
ただかえって東京とかに住んでいればその渇望が強くなってそうなったのである

人間はやはり生物であり生物本能がある、人間は植物でもある、だから一つの土地に木が根付きそこに定着する、そして木のように深くその土地に根を張りその土地と一体化するそれが生命として自然なのである、そのために根を張る土地をもたねばならない
それが山尾三省が言った郷(くに)なのである
ただこのクニというとき何か山間の小国という場所がふさわしいのである
海側だとそういうものを感じないのである、海は遠くを意識する、だから海と山とで意識するものが相当に違ってくる、山は墓所になった、死者を葬ったということは山はまさに死者が眠る場所にふさわしいからである
そして山には先祖がいて春になると田植えの時期になると里に降りて来るという信仰にもなったのが日本である
つまりクニというとき先祖も関係しているのである、だから日本国となると歴史的に天皇が二千年なのか代々国を受け継いできたとなる
先祖のさらに大先祖となりそれが国の歴史となる
何か自分の家族は全部死んだけどやはり死者は私の心の中にその土地に生き続けているという感覚になるのである

飯館村は何か地形からしてクニにふさわしい場所である、それは私は自転車で行っていたから高いし遠いのである、今回行ったら体中がいたくなった、だんだん年になり行くのが苦しくなった、でもそうして苦労してあの坂を上り行くことが記憶に刻まれる
この地形というのは地図を見ても車で行ってもわからない、坂は峠は歩いてでも自転車でも上ってみると体感できるのである
だから不思議なのは車がない時代の生活なのである、どうしてその坂を歩いて上って生活していたのかとなる、そうなると峠を越えた向こうは相当に遠くなる
近くても別世界になるのである、でも不思議なのは今ならグロ−バル化経済であり世界から食料でもなんでも入ってくる、昔だったら外国から入ってくるものがない
食糧など全く入ってこない、戦後でもバナナは仙台にしかなかった、それで私の父親が病気になったとき仙台からバナナを買ってきたのである
今からすると本当に食料は貧弱だったことは確かである
飯館村で魚を食べるにしても海側でないから簡単には食べられない、江戸時代だったら塩の道があった、それも助け小屋とかありそこで泊まるとかして塩を運んだ、その時魚も運んだかもしれない、そしてその塩の道は沢伝いの細い道であり馬で運んだのだが下を見ると落ちそうであり怖い場所である、それだけ馬で運ぶにしても難儀したのである

いづれにしろ原発事故の無惨さは飯館村に一番現れた、そこはもともと原発と関係していなかったからである、恩恵もなかったからである、ただそこでも原発で働いていた人がいたのである、なぜなら原発だと普通の給料の三倍くらいもらうからそうなっていたのである、飯館村は福島県でも最低の収入しかなかったからだ
だから全く関係しないということはなかった、原発の恩恵はそれだけ大きいものだったのである、ただ皮肉なことに原発事故以後飯館村では補償が手厚かったから億の金をもらった人が普通にいるだろう、そしてその金をもらって外に出て行ってしまったとなる
そして新しいこじんまりとした家がどこにでも建っている、それが別荘だというのも不思議である、人は住んでいないのである、別荘として利用している
それから50億円をかけて学校やその他の施設を作り建物は立派だけで生徒は五人とかなっているし村には住んでいないのである
そこでもう村が成り立つのかという疑問である

ともかくその村で失ったものは何なのか?それは山尾三省があれほど渇望した郷(くに)を失ったということである、そこで常に原発のことを核兵器のことを批判していたのである、ただ現実問題として別に飯館村とか田舎に住んでいる人は人で山尾三省のように田舎をいいものとして生活していない、だからこそ豊かな暮らしをしたいとして原発を積極的に誘致したのである
またこの辺では山尾三省のように原発に反対したら住めなくなっていたのである
もうみんな原発で金になるとなると目の色を変えていたからである
だから反対運動は起こらなかったのである
つまり田舎でも山尾三省は変人だったのである、何か貧乏生活してテレビにでも出て見世物にして金をもらうのかというふうにも見られる  

それが現代の生活からみればそうなっていたのである
バンが贅沢だとなればそうなる、ただ別に自分の子供時代は炭で生活していた
今からすると山尾三省の生活をみんなしていたし飯館村とかは森が多いから炭にする材料が多いから炭を売って金持ちになった人もいたし大倉では材木を売って金持ちになり相馬の女学校に行った人もいたのである、そこからは通いないから親戚の家から通っていたという、相馬の女学校というときここに行っているというだけで相当な金持ちだったのである、私の母親は尋常高等小学校くらいだからである
その時代では学校は知識をえる唯一の場所だから貴重だったのである
なぜなら子供の時、家には一冊の本も置いていなかったからである
そうなる学校以外で知識を吸収する場所がなかったからだ 

いづれにしろクニをうしなうことはその存在基盤、生き死にの場を失うことである
それは普通なら意識されない、むしろそんな場所に生きることの不満が多かったのであるでも前からそういうクニを渇望して求めてそこで死んだという人がいたということであるもしこれだけの意識をもっていたら原発など誘致しなかったのである
ただ飯館村は遠いから関係ないと思っていたのである
自分の住んでいる所でも30キロ離れていたから遠いと思っていたのである
それが福島県全体に関係するとはみんな思っていなかったのである
だから真剣に対処しなかった、また政府でも東電でも安全神話を作りその危険性を隠していたのである

だからその生き死にの場所であるクニを放射性物質で汚染したということ住めなくさせたことの罪は大きい、ただ東京ではそういうことを意識しないのである
そもそも東京にはクニがないからである、それで経営者が言っていた
一か所に家をもって定住することは金ももうける機会を失うからしてはいけない
チャンスの場所は変わるから一か所に家をもち定住することは良くないという
それが東京人の感覚だとなる、そこでは経済が最優先でありクニとかは関係ない場所なのである、経済のことしか頭にないからである

それで飯館村とかのことなど田舎は経済的に無駄だとかなるのである
その感覚の差が大きすぎるのである、要するに大都会人と田舎人は人間そのものが違ったものだともなる、同じ人間ではないともなる、東京人は異星人だともなる
彼らの頭には経済のことしかない、それがすべてであり山尾三省が追求したことなどただ変人の戯言となってしまうのである
そうは言ってもまた田舎でも実際は大都会人と同じ意識にもなる
みんないい家が欲しい車が欲しい、うまいものが食べたい、その欲は都会人と同じで限りないのである、田舎でも山尾三省は変人なになっているのである
だからこそ原発が積極的に誘致された経緯があったのであ

この辺の問題は今や何か原発に反対するにしてもそれが常に補償金がからんでくる
補償金をもっとよこせとなるだけである、もともとでは山尾三省のような生活を望んでいなかった、だからこの際補償金をもらうだけもらって他に住めばいいともなる
それが正当化される、だから山尾三省がその時代に原発に反対してそういう生活を渇望して実際に実践していたということは評価できるのである
ここでは原発事故後意識したとしてもその前は意識していない、もっと贅沢な暮らしをしたいとして原発を積極的に誘致したからである、それが違っていたのである
ただ飯館村自体はほとんど原発とは関係していなかったのである



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2020年10月22日

残る虫(飯館村考- 場所の魅力)


残る虫(飯館村考-   場所の魅力)

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 残る虫の声

 幽かに残る虫が鳴きあっている
 山の静けさにその声がひびく
 その声に山は聞き入る
 小さきもの、幽かなもの
 そこでここで大きな声となる
 木の葉一枚が散り落ちぬ
 山の大いなる静けさがつつむ
 虫の声はそこにひびきつづける
 山は黙してその声聞いている
 山に陽は没り一村は暮れぬ


 飯館村というとき山と森の村である、飯館村はもともと相馬藩になる前から岩松氏が鎌倉時代に支配していたときから一体化していた
その後に相馬氏が支配したのである、だからそういう古い時代から地理的一体感があったなぜなら新田川の源流が草野を流れている
大倉は真野川の上流であり真野ダムがある、だから地理的につながっているのだ
それで飯館村が南相馬市が実は地理的に一体なのである
それで放射性物質のフレコンバックが破れて流れ出したというときそれは飯館村だけの問題ではなかった、南相馬市にもその放射性物質は川を通じても流れてくるのである
だから飯館村は飯館村で合併しなかったが地理的に一体化した地域だったのである
地理と歴史が一体化した地域である

相馬藩というとき新地が伊達藩内として境界というときあそこから牡鹿半島と金華山が明確に見える、すると宮城県を意識するのである
確かに原町片倉のフラワーランドから金華山と牡鹿半島が見えたが小さいのである
新地からはかなり大きく見えるから意識するのである

地形的な魅力としては飯館村と丸森にある、丸森は阿武隈川も流れているし蔵王も大きく見えるから魅力がある、川と森の国でもある
ただ平地が少ない、飯館村は森の国でも平地が結構ある、広い地域なのである
私はこのその土地の魅力という時、その地形の魅力、その土地の個性を形成するのはその土地の独特の雰囲気なのである
これは人間が作ったものではない、地形が作ったものである

だから相馬藩領域は一つの地理的一体感がある、ただ海側に住んでいると山というのを意識しにくい、でも山も身近なのである
そして田舎というとき人間が少ないということで存在感が大きくなる
特に飯館村とかなると広い地域に人が少ないから存在感が大きくなる
もちろん経済的には前から貧しかったからそこに住んでいる人はいいとはならなかった
飯館村は福島県でも最低クラスの収入しかなかった
ただ私はそういうことを見なかった、時々自転車で大倉から木戸木から草野に出るのがいつものコースとして行っていた
そして木戸木に出る峠で休んでいた、そこで秋の蝉の声を聴いていた
今回は残る虫の声を聴いていた

何か残る虫の音が合っていた、今まさに飯館村に残っている人は二割くらいなのか少ないそれも老人が多いという時、まさに残る虫になる
でもそうした虫の声でも山の静けさに森の静けさに大きな声となっているのだ
それが山の静けさに大きくひびいて余韻が残る
つまりその残る虫の存在感が大きいのである
こういうことは都会にはありえないのだ、どうしても場所の魅力がもてない
場所の魅力は自然が神が作りだしたともなるからだ
人工的空間では作れないからである
だから何度行ってもその場所の魅力を感じる、ただ場所の魅力はまだ発見されていない
すぐ近くにそういう魅力がある場所があったからだ

相馬藩地域だと海があり山があり実際は変化に富んでいる、ただ高い山がないことは欠けているのだ、それが残念なのである、遠くに蔵王が見える、でもその大きさを感じにくい街中に岩手山のような山がそびえているとその山を身近に見るから一体化するのである、アイディンティティ化されるのである

原発事故でもこの場所の魅力が失われたわけではない、ただそこに人が住まないとか暮らしがないとそこは何なのだろうとなる
虫の声でもそれは人間をイメージして聞いている、残る虫はまさに飯館村に残っている人だともなるからだ、だから暮らしがないと自然も活きてこないのである
ほんの一部は実りがあった、でも荒れ果てたままであった
すると何か荒涼としたものになる、飯館村の復興はどうあるべきなのか?
それはやはりその場所の魅力を活かすことだとなる

森に囲まれているからそこで精神が醸成される、森の中に分け入るとまるで神殿の柱のように樅の木があった、それはドイツの黒い森と同じである
それは丸森でも同じだった、森の国なのである
そこにふさわしいのは森に醸成される精神形成だともなる、別にその森は失われてはいない、ただ放射性物質に汚染はされているが森は存在しつづけている
放射性物質に関係ないものとして花の栽培などはつづけられる
他に何かあるのかというときそこは瞑想の森であり例えば昔なら宗教の修行の場所にもなる、そういう場所なのである

ただそこに働く場所がないと人は住めない、だから菊池製作所がありそこで人は働き住んでいる、工場だと放射性物質に汚染されなかったからである
そこに矛盾がある
飯館村には外から入ってきた人が多いみたいだ、郵便配達していた人は外から来た人である、普通郵便局に勤める人は地元の人になっている、でも外から入ってきている人が多いのである、それだけ人が流出したから外からの人を受け入れているとなる
もう外からの人が村を支えているともなっているのかもしれない
郵便配達している人が外からの人だというのもそうなのである

ともかく新しい家が建てられてそこに人は住んでいない、別荘だというのも不思議であるそんな村が成り立つのかともなる、5人の生徒のために50億円かけて校舎やその他の施設を作ったというときもそうである
そして村は補償金をもらい分断して人が消えたとなる、残っているのはわずかの人であり残る虫が鳴いているとなる
ただその場所の魅力は失われていないのである、それが救いなのである 

ヤマトタケルノミコトのお歌として伝えられる歌に

いのちの全けむ人はたたみこも平群の山のくまかしが葉を うずにさせ その子

いのちの全けむ人は・・・これは命はその場所とともにある、場所と一体化してある
現代文明人の命は無数に部品化されて全きことはない、そこにいかに経済的に繁栄しても命がないのである、全けむ人とはその場所と命が一体化した人のことである
そこに生きる意味がある、現代はその場所が失われたのである
また原発事故によってそういう命の場所を喪失させたともなる

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2020年10月21日

残る虫、秋の暮(飯館村に行くー木戸木は戦後開墾された場所)


残る虫、秋の暮(飯館村に行くー木戸木は戦後開墾された場所)

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飯館村というと山菜で有名であり山菜料理が定番だった
その山菜がとれないことは一番悔しいとなる


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木戸木にそ半鐘残り秋の暮

十軒ほどここに暮らしや秋の暮

残る虫かすか鳴きあう山の中 

三四匹残れる虫の声を聴く

我が一人夜更けけ聴き残る虫

闇深く残る虫の音の余韻かな

闇深く残る虫の音の余韻かな

樹々の間に山の静かに秋日没る

街離れ大原あわれ山に月

明らかに輝き映えぬ山に月



大倉を郵便局員配達す坂を上るや秋のくれかな 

一枚の木の葉の散りぬ残る虫鳴く声ひびき山の暮れにき

人行かぬ山の道かな竜胆の四五輪咲きて木戸木の暮れぬ

人住まぬ家にしあらむ飯館にいつ帰らむや残る虫鳴く

この石の何を語らむキノコ石名付けてあわれ秋のくれかな

耳すまし残る虫の音我が聴きて帰り来ぬかな   


飯館へいつものコースで自転車で行った、夏は暑くて行けなかった、だから久しぶりだった、でも体がかなりいたんだ、なかなか行けなくなる
大倉で何か郵便局員が配達していた、その人は最近来た人らしい
なぜなら今新しく作られた郵便局の支店の前に店があったことを知らなかったからだ
店はやめても自動販売機があったようだがそれもなくなり遂にそこが郵便局の支局になった、何か不思議なのは郵便局はどんな辺鄙な所にもある

コンビニによりある、与那国島についたときも最初に見かけたのは郵便局だったのであるまたどんな辺鄙な所にも郵便局から委託された家がありそれが高収入となっていた
でもゆうちょと変わりもうそうした贅沢は維持できなくなってもいる
ゆうちょで不正があったりするのもそのためである、日本経済が落ち込んで銀行とかゆうちょは危機になっているからだ
でも大倉とかの辺鄙な所に郵便局があるというのは何か頼りになるのか?
郵便というものがそもそも減っている、インタ−ネットになりもう通信はハガキとか手紙とかが廃れる、それも時代である、でも一軒一軒郵便局員が回るということで安否を確認するとかしているのもわかる、辺鄙な山の中だとそういう役目もでてくる

大倉から飯館の草野に出るのは苦労である、ここで疲れる
大倉から木戸木に出る、ここに十軒くらいの部落があった、ここにあまり注目しなかったそれより新しくできた道路があったところに神秘的な流れがありそこは森に覆われていたそこに踏み入る人はほとんどなかった、まさに秘境だった
しかしその秘境は失われた、それは原発事故前からあった、七曲の坂が不便なのでそこを道にしたのである、ただ自分としては残念だった

木戸木は戦後開墾に入った人たちが住んだ、それは共栄橋とかあるのでもわかる
それにしても平地が少なく確かに田畑があっても土地が狭すぎるのである
そういう場所でどうして生活していたのか?それは戦後引揚者が開墾に入った場所はそういう場所であり半分が撤退したのもわかる、とても生活できないということである
おそらく林業とかで成り立っていたのだろう
半鐘が残っているがあれも必要だったのだろうかともみる、十軒くらいしかないのに火事を知らせるのか?でも半鐘はいたるところにあった
自分の家の近くの神社にもあった、その半鐘に上ったことがあるからだ
だから狭い範囲でも火事に注意したとはなる 

木戸木の山の道を分け入ると竜胆が四五輪咲いていた、なかなか自生する竜胆は見かけない、飯館村だと見かけるとなる
それから飯館の方に向かった、何か七曲の坂でも去年の台風で通行止めになったのが多い今も工事がつづいている、あの被害は実際は本当に大きなものだった
道でもずたずたにされたのである

私はいつも峠の道で秋なら秋の蝉の声を聴いていた、そして飯館村も秋だなと感じていた昨日は虫の声を聴いた、それももう残る虫となっていた、山の静けさにただその残る虫の音がひびいていた
何か残る虫というのが飯館村にふさわしかった、そこに残り住んでいる人をイメージするからである

飯館村では一部稲が実っていた、それはほんの一部である、でも大きな倉庫を建てていたそれは米を貯蔵するものだという、飯館村でそんなに米が作れるのか?
それが疑問だったが米を作れるようにしていることは確かである
でも飯館村の問題は森に囲まれているから周囲から流れる水でも泥でも放射性物質をふくんでいる、その放射性物質は減らないのである
それが一番のやっかいな問題なのである、花の栽培とかは影響しない
ともかく飯館村の特徴は森に覆われた村である、70パーセントが森だからである
ただその森は活かすという時、詩的にみれば森の癒しとか荘厳な森の国をイメージする
ドイツの黒い樅の木の森とかである
それで飯館村とか丸森は森の国として貴重である、浜通りは海があり山は低いが森があり二つの世界があることで魅力あるとなる

いづれにしろ木戸木でもそうだが一つの部落が失われるとか村自体が失われるとかは何なのだろうとなる、それは双葉町でもそこは廃墟の町であり何なのだろうとなる
そこでは私の父親が酒屋の丁稚として働いていたので特に感じたのである
戦後開墾に入った人たちが築いた村が結構多い、山村に多い
それも一つの歴史だったのである、そうした歴史が失われるということは何なのかとなる人間は親がいて祖父母がいて家族も作られる、歴史はその延長としてさらに長いものとして作られて来た、だからそういう歴史が失われることは何なのだろうとなる
何か人間の存在の重い意味が失われることではないか?
それは日ごろ自覚できない、こんな不便な所に生活したくないとかばかりになる
でもそこに住み生活を築いた親がいて祖父母がいて先祖がいたとなる
その歴史が省みられなくなるとき、先祖もそこで一度死に二度死ぬことになる
誰もいない村を幽霊として行き場もなくさまようとなる

橲原(じさばら)は通行止めであり大原の方から回って帰ってきた
大原には月がでていた、山に月が出るというのも海側では見ない、最近はずっと海から月がでていた、あれ山から月が出るのかと不思議だった
それは明るく輝いていた、大原というと原町の街から相当遠いのである
海で感じるのと山で感じるのは相当違うのである、この辺は両方があるから変化がある
ただ自転車では疲れるようになった、体中痛いのである
でもなんとか行けたので良かった









posted by 老鶯 at 14:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2020年08月18日

溜池除染に効果があるのか? (飯館村は利権の場になり除染でも業者が暗躍-かつての面影は消失)


溜池除染に効果があるのか?

(飯館村は利権の場になり除染でも業者が暗躍-かつての面影は消失)

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政経東北8月号

ため池の底の除染をするのであれば、水を抜き、表面0-2cmの剥ぎ取りで、90%以上の除去が可能と思われますが、水抜きの際に水とともに表面の汚染土が流れ出る可能性も高く、また山の汚染落ち葉や土壌の流入により、再汚染が起こると考えられます。
山の除染も含めて、広く考えて対処する必要があると思います。

そもそも溜池はこのように森が放射性物質が流れて来る、除染したとしてもやはり森から流れて来る、するとその汚染源の森全体を除染しなければならなくなる
すると切りなく除染をつづけなければならなくなる
それはまるでシーシュポスの岩の神話のように岩を持ち上げてはまた転がされてまた持ち上げるそれが終らない罰とされたと同じである
放射性物質はいくら取り去るにもそうして無限の罰であり徒労のようになる
第一プルトニウムは二万年とか半減するのにかかると言われるからだ
これだけの罰をこの辺では受けたのである
何かギリシャ神話の再現された場所になった、それは飯館村に一番現れたのである
飯館村はもともと原発の恩恵は受けていなかったが被害が一番大きかったからである

そしてそこが利権の場になったことである
補償金も多額でありまたそこに事故処理するために除染でも他にもバイオマス発電とかでもそうである、そこに郡山の会社がかかわりその人が市議会議員であった
バイオマスでも飯館村の木材を燃やすと放射性物質が煙となって拡散される
事故当時に木の皮の放射線量を計ったら3マイクロシーベルトあったから高いのである
それが南相馬市にも影響してくる、第一放射性物質が例えば新田川の上流は飯館村の中から流れて来る、
すると前に放射性物質のフレコンバッグが破れて流れ出たときそれは新田川でも真野川ても泥に交じり流れてくるのである
だから飯館村は南相馬市と一体化して結びついているのである
それで勝手に飯館村で起きることが南相馬市でも被害となる
また田村市にもバイオマス発電所が作られたのでそれて三春とか福島県内でも全国で団体が反対している
どうしても煙となり空気中に拡散して遠くまでも放射性物質が運ばれるからである

飯館村にはかつての平和な日々は消失した、その平和は実はその暮らしが隠されていたことにあったのだ、その時平和があったのである
おそらく生活的には飯館村は苦しい、でも別に私が行ったからとそういう声を聴いたわけでもない、ただ隠されていてただ花だけが映え森につつまれていたのである
私は別に飯館村の人と付き合いもないし知らなかったからである
ただそういう時が飯館村は隠されて平和な村としてあった
もちろんその時不満があるのはどこでも同じである
でもその声を聴くこともなく小鳥のなく声を聴いて帰ってきたのが自分だったのである

今や本当に飯館村はもうこうして補償金で二分されたり事故処理の利権の場となった
とにかく原発の利権は他と違って膨大だからその利権にあずかろうとする人たちが生れる欲がでてくる、欲が刺激されるのである
それで土木建築関係の会社が暴利を得たとかある
それは犯罪であり警察に逮捕されたとかもある
そうして常にそういうふうに補償金でも金をもらうことしか頭になくなる
復興とは補償金をもらうことであり何か汗して復興事業することでもないのである
そうしして補償金で荒廃したのがこの辺だったのである
特に飯館村は10年過ぎようとしてもそういうことが継続されている
それは被害が一番大きかったからである
菅野村長は年でもあり引退した、病気でもあり相当に疲れたとういこともある
浪江町長も死んでしまった、結局原発事故に翻弄されて終わったともなる

ともかく原発事故は汚染水の処理でも溜池の除染でもその処理作用がとてつもない負担なのである、南相馬市の鹿島区の四方が10メートルなのか狭い溜池を除染するのに3月までかかる、半年以上もかかるとういことが信じられないとなる
それだけの手間暇がまた金もかかるのが除染の仕事でありそれもどれだけ効果あるのかもわからないのである
それはただ無駄金を使っているのかとまでなる
それが仕事となり請け負った会社の利権がまた大きいので政経東北で批判しているとなる                
原発事故というのはこれだけもう除染でもお手あげになるくらいの負担なのである
除染しても除染しても放射性物質は消えない、それは岩を持ち上げても持ち上げてもまた岩が落ちてくる、そうした作業が延々とつづく罰を与えられたのだ
それくらい原発というのは神に反逆したものとして罰を与えられたのである
だからこの辺は本当にギリシャ神話の再現の場であり後世にそれも何千年後にも語られる場所になった、その見本として人類史に刻まれたのである

飯館村とか浪江町とかはほとんど復興していない、帰ったのは一割とかにみたない、
飯館村はそれより多いとしてもほとんど老人である
ただ奇妙なのは老人には放射性物質はほとんど影響しない、それでキノコを食べているという老人がいた、どうせまもなく死ぬとなれば放射線量のことなど気にしないからであるただ致命的なのは子供に放射線は影響が強くでるとか遺伝子に影響するとかが深刻だったのである、なぜならそうなると世代が継続できない、そこで村自体がもう継続できなくなる、町でもできなくなるからだ
コロナウィルスだったら老人が死んで若い世代に影響がないとするとそれで市町村でも継続できないということはない、だからそれほど騒ぐものなのかとなる
今少子化で子供自体が減っている時コロナウィルスでも子供に影響したらもう国すら持続できないとなり深刻なものになっていた

いづれにしろ飯館村は一番残念だった、もう前のような平和な村はない、かつての面影は消失した
こうして何か利権の場になり欲で動く人たちが遠くからも集まり内部では補償金でもめて二分するとかずたずたなのである
人間の欲が露骨に現れてその風景もフレコンバッグとか田畑も荒廃して草ぼうぼうであり神社でも捨てられて幽霊が徘徊している感じになる
猿の群れが人をおそれず歩き回りイノシシがそこらじゅう掘り起こしている
無惨な風景となってしまった、そして奇妙なのは別荘のような新しいこじんまりした家が建てられた、でもそこには人は住んでいないのである
後は古い家は幽霊屋敷のように残されたとなる
飯館村の復興は相当先になる、もう百年後とか二百年後でもみなければならない
その時飯館村に人が住んでいるかどうかわからない、ただ別な形で逆に復興しているということもありうる、それはもう老人にはわかならい、死んでしまうからである

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シーシュポスの岩




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2020年07月11日

荘厳に蘇る春の森(詩) (飯館村の森の復興ー失われたその価値)

                                        
荘厳に蘇る春の森(詩)

(飯館村の森の復興ー失われたその価値)


荘厳なるいつかしの森に春の風がそよぎなる
一すじ清らかな流れのひびき
山の奥から蝶が喜々と舞い飛び来たりぬ
樅の木は神殿の柱のように堅固に立つ
そこに種は落ちて春の日がさしして若木が育つ
老木はここに歳月を重ね朽ちて土となる
森に循環する命の営みはつづく
しきりにさえづる鳥の声が森の奥処にひびきわたる
我々はここに力強く生きる
この木のように強く心は折れない
不壊のごとくに木は立ちここに深く根付く
我々は森とともにあり生きる
ここが我らの生きる場所なり
かけがえのない生き死にの場所なり
その命は森に還りまたよみがえる
春の日が再びこの森に回帰してくる
重々しく大石はここに座をしめ
かたえにキクザキイチゲが雪のように純白に咲く
この大石に神は座してとどまる
その石は厳粛にして口をつつしむ
そこは聖なる地なればなり
時にこぶしの花が天に向き咲き散ってくる
まるで天国の花園から散ってきたように
再び人は還ってくるだろう
いつの日か森は村は再び蘇える
その日は遠くも神は見捨てはしないだろう
荘厳な森は人の心をも作る
我が生も終わりとなりただそれを願うほかなし
そして再びここに生きることを望むなりしも
先祖となりてここを見守る者となりにけらしも


聖なる森の国

清らかに細い流れ
その深き山間より流れ
その岸辺に春の日はさしぬ
キクザキイチゲやカタクリの花
紋鮮やかに山の蝶の舞い来たり
樹々はもの寂びたギリシャの神殿の
列柱のように立つ
樅の木はゴシック聖堂の柱のように
重厚に風雪を帯びて立つ
かつて森につつまれし道
人の踏み入らぬ道
そこに隠された大石
そは聖なる石にもあれ
深く沈黙して不動なり
夏の日に深い木陰に
揚羽はその羽根を休みて 
花を探して花の夢を見る
その村は高原の森に隠されてあり 
森厳な森に囲まれて
春の日のさして新しく木は生えたちぬ
木はすくすくと真すぐに伸びて風にゆれ
流れは心地よくひびきぬ
この地に幸いのあれ
しかしその幸いの日は失われぬ
ただ樹々はなお厳粛に立っている
縄文時代よりの深い森の村
そこはカムイコタンにありしも

飯館村に育つ若木

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こころはここのこと

ここに生きたから
ここにこころがある
ここに生きたから
ここにこころがある
ここにあなたと生きたから
ここに心がある
ここを離れてこころはない
こころはここに結ばれる
ここに心と心は通いあふ
いつか人はここからいなくなる
でもその人のこころはここにある
いつまでもいつまでもここにある
ここがあるかぎりその人はここに生きている
人の心はここがありて通じ合う
ここを離れて心はない
ここを離れると回りの景色も消える
ここは回りの景色とともにある場
部分として切り取られた場ではない
ここはいとおしい場所
いつかはみな人はここを離れる
そしてここがあるかぎりここを思い出す
それが故郷かもしれない
そういう場をもつこと
ここに心は永遠に生きつづける
ここがあるかぎり・・・・・   

故郷は何かと原発事故以降問うてきた、相馬地域でも海から山と広い、そこでまだ知られざる地域がある、それもすぐ近くにあった
要するに本当に人間は灯台下暗しなのである、故郷に住んでいるから故郷を知っているとは限らないのである
かえって今の時代外国に詳しい人がいる、でも肝心の日本を知らないともなっているのだ
飯館は70パーセントが森である、森につつまれている、ただ川とかはない、それがものたりない所でも小川のようなものはある
そして何回も言うように飯館村は広いのである、その広さが特徴なのである
例えば丸森も字の通り森の国でもそれほど広さを感じない、飯館村は平地でも結構広いのである、だからまだ未踏の地がある

そして特徴は森の国であり木の国だとなる、その木でも樅の木がふさわしいとなる
それがドイツの森の樅の木の森に似ている、寒い国だからにている
ただ樅の木の林というのはない、数本の樅の木があるだけである
でもやはりその樅の木がいかにもふさわしいとなる
それはあの荘重なゴシックの大聖堂なのである、樅の木はその石の柱なのである

ただ今回の放射性物質の汚染で森も汚染された、それで生育に影響したという報告もあるでも表だってはそういうことはない、種が落ちてまた新しい芽がでて成長していた
その時森は復興してゆくのだと見た
でも村は復興しない、第一人が住んでいないからだ
別荘として元あった家をこじんまりした新しい家にしても住んでいないからだ
50億円かけた学校でも福島市とかからスクールバスを用意して通わせている
そして5人しかないというからショックである、5人に50億の学校を建てたというのも驚きである、それだけ金あ与えられたからそうできた
でもそれで村が復興はしなかったのである
だから金だけで何でもできるということはなかった

むしろ金が補償金が人の心を分断して村も二つに分かれて争うことにもなった
それで村に住めという村長はやめた、病気でもあったからだ
これは水俣病闘争でも補償金で分断されてだめになったというのと同じである
もう補償金をもらうことは復興の闘争になった
村全体をどうしようなどなくなったのである、そして個々人でも家族でもばらばらになったのである、それは南相馬市でも同じことが起きたからである
遺産相続のようになり兄弟でも争うようになる、それは伊達市でも親族が補償金で争ったというからどこでも起きたのである

天の時、地の利、人の和が勝敗を決めるその人の和が乱れたとき戦いに敗れる
奈良の十津川村では全員心が一致して北海道に移住した
それは補償金を政府からもらってもそれは全員公平に村のために使ったからである
村人が争うことは何もなかったからである
人の和があり成し得たことである
そして放射性物質に汚染されたことも致命的だった
なぜなら森でも放射性物質は消えない、空気になっても循環するから消えない
セシウムが半減するのは30年後としているからだ、ただ放射線量は思ったより減ったことは確かである
だからもう飯館村の復興は30年後でありさらに50年後であり100年後にもなる
天の時をまつほかない、時間が解決するほかなくなっている
それほどの被害でありまるでギリシャ神話の火を盗んでプロメテウスのが過酷な罰を与えられているのとにている

そして人が住まないということはそれがどうなるのか?
そのままにはならない、土地を持っている人は金にしようとしてソーラーパネルにしたり風力発電の工場のようにしたり他にもすでに放射性廃棄物の処理場は作られている
森でもすでに外材にたより森を手入れするものがなくり荒廃したようになる
つまりなんらか人の手が入りそこが生活の場になっていた時に森も活きていたのである
人が住まないからといって元の自然にもどるわけではない、もし人が住んでいれば
ソーラーパネルでも風力発電でも嫌だ反対する人がでてくる
放射性物質の廃棄場でもそうである、でも人が住まないということはその場所と関係なくなるのである

そのことは南相馬市にも影響してくる、一時放射性物質のフレコンバックが破れてもれだした、そういう放射性物質は水とともに流れてくる
真野川にも流れて来る、新田川にも流れて来る、土地はつながっているからである
だから人が住まなくなることは元の自然にもどるわけではない、誰も関心がなくなり
外から来た企業にその土地でも何でも買われて勝手にされても誰も文句が言えなくなる土地をもっていた人は金になればどうなってもいいとなるからだ

つまり心のこころの詩のようになる、そこに心が離れてこころがなくなるのである
人間のアイディンティティはその土地と場所と一体化しているからだ
その場から離れると関心もなくなりその場の持っている意味も喪失する
場とはそれだけ重要な意味をもっていたのである
その土地とが場は生産としても重要だが精神的なものとして重要な意味をもっていた
それは意外とそこに住んでいる人も自覚されにくいものだったのである
だからこそ補償金をもらってみんな一挙に外にでてしまった
でも老人はその場で生きた記憶がありそれが精神に安定をもたらすしまた老人は最後は記憶に生きるからその場を失うことは生きた意味すら失うことなに
東京の高層ビルに住むようになってそれをひしひしと感じともなる

そうした場とは生き死にの場でありそういう場を失った時、人間はアイディンティティを失い漂流者となる、それが現代文明人なのである、都会はまさにそうした場をもたない人たちが過剰に密集して住んでいるからである
そこで自己同一化するものを持たないのである、高層ビルを見上げて人間はただの点となりおしつぶされるようになり死んだら団地のような狭い空間にやはり押し込められる
墓でも森の中とか見晴しのいい土地にあるのがいいとなるからだ
そこは墓参りするにも気持いい場所になるからだ、そこで先祖とのつながりを確認して
一体感を持つのである

場とは先祖とも関係して時間の中で意味をもつものなのである
それで御先祖様が春になると山からおりてくる、その時は田植えの時期であり営々とつづけられた生の営みの中に死んだ人も生き続けるともなる
何かそういうことは工業社会とか商業社会になるとなくなったのである
それで生態系も維持できなくなった、コロナウィルスがその生態系からの逆襲だったという見解もそうである、人間は経済成長一辺倒になりグロ−バル経済で貴重な自然を破壊してずかずかと神聖なる自然の神秘な奥地までも入って動物からウィルスが伝染したとなるからだ
その罰としてコロナウィルスによって復讐されているということも納得するのである

人間は誰も多様な「根元」を必要としている、人間にはその一部を形成している環境を通してその道徳的、知的、精神的生活のすべてを引き出す必要があるのだ

人間が必要とするのは土地の切れ端ではなく、「場所」なのである
それは人間としてのびのび発展し、自分自身になるための背景なのである
この意味で場所はお金で買うことはできない
それは長い時間をかけて人々の平凡な営みによって作らねばならない
彼らの愛情によってスケールや意味を与えられなければならない
そしてそれを保護されなければならない
「場の現象学」エドワードレルフ

この本だけは一番感心した本である、人間にとって場がどれほど価値があり意味があるものかを語る、それは日常的に意識されないのである
だから物とか食料のように意識されない、ただ精神的価値はもともと意識されない
金とならない、それが最も現しているのが景観なのである
景観自体は金にならないからだ、だから人間はそうした景観でもそこに住んでいる人でも価値ないとみて壊されてゆく
それでソーラーパネルになったり風力発電になったりする
今や飯館村は人が住んでいないのだから景観など関係ないとして土地を金にするために
土地を貸して売って金にした方がいいとなりそうなった
そもそもなぜそれまで飯館村が何か他と違うように見えていた感じたのだろうか?
それが不思議だった、それはそこ独自の場があったということである
村全体にあったことである、別に海側でもそういう場所はある
ただおそらくそうた盆地的な場所は日本の原風景だったのである、国のまほろばだったのである

人間は金になるものは意識する、でも金にならないものは意識しないのである
でもそこに精神的価値がありかけがえのないものがあった
それを原発事故で住めなくなって普通の人でも意識したとなる
そして飯館村がいいと見えたのは私は別に飯館村の人と誰ともつきあっていないし知らないのである
だから木戸木があってそこに十軒くらい開拓部落があったことも最近気づいたのである
そこに二三軒しかないと思ったが一部落を形成していたのである

森に隠された村

七曲の坂を上りようやくその村に入った
そこに人の気配もない
森の中にその暮らしは隠されていた
人がでてくるとき何か醜いものを感じる
それはどこでも同じである
人は見ないけど草深く花がうなだれ咲いていた
何か人に見られるのは恥じらうように・・・
人の顔は見ないが広い前の庭に畑に
様々な花が咲いて飾られていた
それを天から神が見ているだけのように
人の暮らしは隠されて平和な村があった
夏の蝶が森深くから舞い出てきてまた去る
そこに人の顔は見ない
ただ森の中に家はつつまれて静まっている
我が心に映るはその花々だけだった
そして私はまたその村を後にしたのである

こんなふうだった、神が人の暮らしをか隠したという時、そこに美だけが映えたともなるそれを証明したのが原発事故だったのである
人間の醜悪さが金をめぐって露骨になり村は二分されて争う
ソーラーパネルが覆い、次に森に風力発電の巨大風車がその景観を壊す
そして放射性廃棄物の処理場ができる
それは村人のしたことではないにしろ醜いものが露骨にむきだしになったからである
ただ人間は貧しいことに耐えられない、ただやむなく貧しくてかえってそのことが
森に隠される村がありえたのである

ともかくかつての隠された飯館村は消失した、村人は金の亡者とも化して二分して争う醜さが露骨になる、そうなると純粋な花すら映えないとなる
ただそもそもそこには人は住んでいない、住まなくなる
老人だけでありやがて消滅する村ともなる、そしてそこが元の森におおわれというのではなく、ソーラーパネルとか風力発電とか放射性廃棄物の処理場とかそんなものしか残されない、かつての村はない、人もいない、何か50億かけた立派な五人しかいない生徒のために建てた学校もむなしいとなる
つまり金だけでは復興できない、金で何でもできるとはならない
精神的価値を形成していたものが失われたのである
場が失われたのである、ただそれは金にならないから意識されなかったのである

ただなぜ人間はこれほど場とか景観を破壊して何も感じないのか?

それを東京とか都会にみる、そここそ全く場所でも景観でも破壊されたむきだしの醜悪さを示した場所だからである
そこまで人間は景観とか場所に無感覚なのである
そうして場所を失い空虚な場で腹は満たしても心は満たされず死んでゆくのである
その墓も団地の様な狭い一室に葬れるだけである
そんなところで死ぬほかないのである、だから死ぬにしてもそんな場所に葬られるのは嫌だとなる、田舎なら一応は墓所は景観のいい場所にあるからである

いづれにしろ飯館村は原発事故で象徴的な場所になった、何かギリシャ神話のような場所にすらなった、それほど悲劇な場所になったのである
そして原発事故の被害はプルトニウムが消えるのは二万年後というようにそのカルマが甚大なものだったのである
それほどの過酷な罰が与えられたとなるのだ、でも依然として日本に原発がありまた事故になり悲劇が繰り返されるかもしれない、それは結局東京をみればわかる
あのような非人間的、自然もない場所でロボットのように生きられるのを見ればわかる
そういねう人たちが非人間化した人たちが金にならないものはいらないと無造作に破壊してゆく、それはグロ−バル経済でも世界の森を破壊したりしたからである
その一つの象徴が飯館村だったともなる、他にもそうした村があり日本がから消失してゆくのである
posted by 老鶯 at 15:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2020年07月10日

飯館村村長の菅野典夫氏が村長をやめる (立派な箱ものだけでは飯館村も復興はできない)


飯館村村長の菅野典夫氏が村長をやめる

(立派な箱ものだけでは飯館村も復興はできない)



福島県飯舘村 “子ども5人に57億円”の仰天施設に村民の怒り

女性自身  

2016年10月15日 06:00 


 村広報誌に毎年掲載されている一般会計の決算状況によると、2009(平成21)年度歳出は約44億円だったが、2017(平成29)年度歳出は約177億円で、約4倍に膨れ上がっている。2017年度の歳入は約202億円で、そのうち国庫支出金が約72億円、地方交付税が約52億円、県支出金が約16億円。もともと自主財源比率が3割程度の自治体だが、国・県の補助事業増加に伴い、その傾向が強まっている。

 さまざまな事業の中でも特に目立つのは、公共施設整備と教育・子育て環境の充実だ。
スクールバスは児童・生徒や家族への負担を考慮して移動時間30分程度に設定されているが、福島市から飯舘村までは約1時間かかる。しかも、こども園、小学校、中学校でそれぞれ帰宅時間が異なるため、集団下校させるわけにもいかず、帰りも複数の便を出さなければならない。そのため、多くの費用がかかる

【原発】【福島】菅野飯舘村長「帰還政策」の欺瞞 

生業再生後回しでハコモノ整備

月刊 政経東北
2019/08/26

菅野村長の悪行はこれだけではない。2013年1月、蕨平(わらびだいら)地区住民が、帰還困難区域である長泥地区と同じ財物賠償(土地・家屋などに対する賠償)を求めてADR(裁判外紛争解決手続き)に申立てを行った。蕨平は長泥地区に隣接、場所によっては長泥と変わらない高い線量が計測されており、ADRは訴えを認めた。居住制限区域にも帰還困難区域と同様の賠償を認める画期的な内容だった。

 だが、菅野村長はあろうことか、数土文夫・東電会長に対し、この和解案を受け入れないよう求める要求書を村民に隠れて提出していた。「東電がこの要求を受け入れた場合、住民が帰還しなくなる恐れがある」というのだ。

蕨平の人にあったが不満を言っていたのはこのことだったのか・


一般の人の年間被曝(ひばく)限度量は年間1千マイクロシーベルトを超えかね
ないと報じられる。同じ記事で公表された、他の自治体の線量を見ると、福島市10.50μSV、南会津町 0.09μSV、南相馬市 3.33μSV、いわき市 1.01μSV となっており、飯舘村 24.60μSVという数字が異常に高いことが見て取れる。村民が不安に思うのは自然なことである。

「地域があるから人があるの?」「県があるから地域があるの?」「国があるから県がある
の?」違う。逆でしょうって。人がいるから地域が生まれ、地域の仕事がたくさんあるから村になり町になり、そして県や国が成り立っているということなんじゃないの。過疎地だって、結局潰れないのは人がいてふるさとを支えているからでしょう?」

「地域があるから人があるの?」「県があるから地域があるの?」「国があるから県があるの?」違う。逆でしょうって。人がいるから地域が生まれ、地域の仕事がたくさんあるから村になり町になり、そして県や国が成り立っているということなんじゃないの。過疎地だって、結局潰れないのは人がいてふるさとを支えているからでしょう?」27    



菅野村長の飯館村の出身地は中心部の草野ではない、佐須だった、佐須とは焼畑の意味である、飯館村は相当に古い、何か縄文中期の遺物が出て来たとかあった
そこに山津見神社が有名だが綿津見神社も対になしてある
これは相馬地域の歴史で考察した、とにかくこの辺では綿津見神社と山津見神社が多いのである
それはなぜかとなると安曇氏などが最初に広い範囲で開墾した土地だからだとなる
だから佐須とか他にも焼畑地名があるとするとその焼畑の技術はそうした安曇氏とかの海洋民族が技術としてもたらした
その人たちは照葉樹林帯の文化の伝播者だったのである
だから飯館村は縄文時代は今でも山菜を食べていたように山の幸が豊富だった
また狩猟でもイノシシとか鹿をかなりいて食べていた、そういう場所に渡来人系の海洋民族の安曇氏などが入ってきた

私自身が飯館村にかかわったというとき大倉からあの七曲の坂を上って自転車でしょっちゅう行っていたことである、前は本当に七曲がりの道が大倉からありさらに木戸木にでるそこは戦後引揚者が開墾した新しい村である
10数軒の村である、その時私はその村があることに注目していなかった
それより今道に舗装されている所が森になっていて小川が森につつまれるように流れていた、そこは道もないような所であり神秘的な場所だったのである
私はそういう場所が好きだった、今でも近くにそういう場所がありそこに心安らぐのである、自然の中に様々な地形がありその場所は神秘的なのである

人間は意外と近くにそうした神秘的な場所があることに気づかないのである
最近でもそういう場所を私は発見したからである
木戸木は大倉の七曲の坂を越えてまた七曲の坂を越える閉ざされた地形にある
だからこそそこにはもともと人が住んでいないから戦争の引揚者が開墾するために入ってきた、でもそこはわずかの田畑があるだけでありそれだけでは生活できない
林業とかあり何か別の仕事がありそこで生活していた
つまり山には木材とか石材とか資源があり山持ちだとかえって裕福な人がいた
炭を売って生活するとなるとかえって豊かになっていたのである
木材という資源が豊かだったからである

でもそこも舗装されるまっすぐな道ができて神秘的な小川の流れる場所は喪失したのである、ただ飯館村の不思議は高原であり一段と高くなっているからそこは何か別世界に来た感覚になる、森に囲まもているし一軒一軒が森につつまれてあり贅沢だとなと見ていた
そこで大家族で住んでいたとなると確かに貧乏ではあったが空間的には贅沢である
東京の様なごちゃごちゃした場所に大金持ちで豪邸に住んでも環境が良くない場所が悪いのである、それでそうした豪邸でもうらやましいとはならないのである

飯館村は実際広いから地理的に今だにわからないのである
森におおわれた森につつまれた場所である、そこに太い樅の木がありそれが神殿の柱のように見えた、そして若木が生えて春に光を浴びて育とうとしていた
しかしそれを見たとき残念だったのはそこに住んでいるのは老人であり子供は住んでいない、依然として放射線量が高いからである
なぜ放射性物質が減らないかとなるといくら除染しても森に放射性物質は循環しているからである、だから森自体を除染できないからそうなっている
それで子供は50億とかかけた学校に遠くから通っている
他にも箱ものは立派でも肝心の子供とか若い人は住んでいないのである
村のスクールバスで通っている、それにも国から金をもらっているから金をかけている
金をかけていても金があっても金だけでは復興できないものがあった
箱ものは立派でありる、でも肝心の人間が住んでいないとしたらその立派な箱ものを活かせないのである
そういう矛盾は原発避難区域であった、

人がいるから地域が生まれ、地域の仕事がたくさんあるから村になり町になり、そして県や国が成り立っているということなんじゃないの

その肝心の人が住んでいないから村に立派な箱ものを建てても活きていないのである
むしろ貧しい建物でも例えばそこに学びたいという熱い心の人が集まれば活きてくる
その肝心の人がいないのである
ただ佐須で放射線量を計った時、泥が20マイクロシーベルトあったことに驚いた
そこがホットスポットでそうなったと思っていたが実は飯館村は最初の時期にそのくらいあった、全体的にそのくらいあったから驚きである
南相馬市でも二三日20マイクロシーベルとった
樋の下は近くで7マイクロシーベルトとあった、そして南相馬市より福島市の方が放射線量が高かったのである

菅野町長は何かそうして飯館村への帰還を徹底してすすめることで批判された
それで実際は心臓の病気であり交通事故も二回起こしていた
それだけ体に負担がかかっていた、その政策は村民から支持されたとはなっていなかったただ菅野村長派もいるからわからない、外部の人でもフリーのジャ―ナリストが応援している 
菅野村長を批判しているのは政経東北である
私自身も菅野町長は飯館村に住んでいない、孫も住んでいない、飯館村の外から通わせている、それなのに飯館村に住めというのは矛盾していとも思っていた
ただ正直この飯館村の人たちがどう対処するのかわからない面がある 

多額の補償金をもらって喜んでいた人も実際にいたし福島市とかに移り住んでかえって良かったという人もいることは確かなのである
それで新しいこじんまりとした家が古い家の代わりに建っていた
それはどこでも建っているから帰っているのかと見たのである
でもそれは別荘だというのである、確かに大家族で住むのには小さすぎるからだ
時々畑じ野菜つくりして見にきているとか言う
それも不思議なの感覚になる、別荘となればぜいたくだなとも見る
本家は別に福島市にとか建てたとなるからだ

でもそんな別荘地として飯館村がありえるのか?
軽井沢ならわかるがここでそんなことが成り立つのか?
ただ飯館村をどうするのかとなると本当にむずかしい、他の避難区域になったところでもそうである、第一住民自体がどうしたいのかわからない、熱意がない
何かあきらめている感じになる、それを外部からとやかく言うとまためんどうになる
ただ南相馬市では小高は一体なので私は嫌なことでも言った
それで反発された、でも南相馬市なのだから負担にもなるから復興してもらわないと困るから言った

おそらく菅野村長は国よりになり国の方針に従うということで反発されたのかもしれない国としては早く避難区域を解除して補償金を払いたくないからである
それでもう放射性物質の被害はないとしていたのである
ただ放射線量は飯館村ではもともと高かったから減らないのである
それでけモニタリングボスとでも低くなっているがそれは大成建設などがその下の土を掘って低くみせていたことで村民が抗議した
つまり政府では放射線の被害はないから村に住めという方針である
それは菅野町長の態度と一致するのである
私自身は外部であっても土地のつながりで相馬地域として一体だから人が住んでもらいたいのである

フレコンバックの山とか今度はソーラーパネルとか風力発電の風車の風景が嫌なのであるでも人が住まないと何か土地を活かすために金にするために必ずソーラーパネルとか風力発電の風車も景観を乱すから嫌なのである
それらが本当に自然エネルギ―なのかとなると違うということは述べてきた
風車の風は自然の風ではないから植物でも正常には育たなくなる
またソーラーパネルも純粋の自然エネルギーではない、そして税金をとるからかえって高くつくのである、ただこの世に純粋の自然エネルギーは人間には作りだせないとなる
山が荒れたの木材が外材に代わり利益を産まなくなったからである
それと同じように利益を産まないと現実問題としてソーラーパネルでも金になればいいとなるのである、そしてもう飯館村に住んでいないとしたら別に気にするも必要もないとなる、時々昔をなつかしみ別荘に帰ってくるだけの場所になる
軽井沢のようになってしまうのも不思議だとなる

ただコロナウィルス騒ぎで東京のことを書いたけど東京に本当にこれからコロナウィルスだけではない大地震がきて東京に住めなくなる
東京脱出が起こり飯館村とか浪江町とかは空地空家だらけなのだからそこに住めとなる
もしかしたら住ませてください、何でもいいから住ませてくださいとかなるかもしれないそれで東京の人たちは原発事故の罪の償いをする    
それで重いカルマから解放されるとなる、カルマはどこかで苦しみとなって現れるからである、苦しいから嫌だとしてもここで住みここを復興させろともなる
今は復興をあきらめていても時代が代わり意外なことで復興しているかもしれない

とにかくそうしてそんなことに期待するのももう住民は帰らないからである
あきらめているからそんなことでも妄想するとなる
小高でも飯館村でも帰ったのは老人でありやがて介護状態になる
その介護する家族もいないし誰が介護するのか?
結局家族がひきとることになる、そして無人化してゆくともなる
実際に神社でも誰もお参りするものもいない、神様も捨てられたのである
そして人間も捨てられるのである、それは荒寥としたものになる
草ぼうぼうのゴーストタウンならぬゴーストビレッジ、幽霊村になってしまうのである
だから原発事故の無惨さは飯館村に一番被害としてもたらされたのである

何か古い家があった、そこに住んだ人の重さがあった、年輪を重ねた古い木のようにそこにあった、そこはやはり兜屋根であり養蚕をしていた
そして古い碑があり枯れた萱に隠されていた、なんともわびしい風景だった
そのようにわびしいのは人が住んだ所が人がすまなくなるとどこでもそうなる
何かかえって淋しくなるのである
そして幽霊がかつてあった町とか村を本当にさまようようになるのである
幽霊がそうして廃墟と化した町でも村でもさまようようになるのである

いづれにしろ復興といってもそこに住んでいる人たちがもう帰還することをあきらめている、近くでも何するでもなくギャンブルしていたり釣りしていたり何かすることはない
何か仕事をしないということも心が退廃してくる
金があったとしてもその移り住んだ地域でも何もすることがなく役割もない
すると地域から浮いた存在になる、またいつまでも補償金で暮らせない
ではみんなで復興するのかとなるともうばらばらになっている
親も子も祖父母でもばらばらに住んでいる人も多い、家族すらばらばらになっている
そこで復興といっても10年過ぎても明るいものがないのである
未来への芽がないのである

ただ飯館村の森に入った時、樅の木が新たに根付き伸びようとしていた
春の光りをあびて伸びようとしていた、自然は復興している
ただ放射線量は減らない、でもその樅の木が森に根付いて育とうとしていた
そこに未来を感じたのである、飯館村は森の国であり木が豊富だからそうなる
放射線に汚染されても木はと生き続けている、枯れてはいないのである
ただその森も汚染されているから除染もできない、でも森が死ぬことはない、いつか放射線もなくなり元の森に還る、それは相当に長い年月が必要になる
それだけの神話的な深刻な被害として飯館村は記録されるものとなったのである

そして結局復興は先が長いと見なければならない、セシウムが半減するのが30年後と言われた、現実的には10年後でも相当に減った、でも住めるようになるには時間がかかる
おそらく30年後とか50年後とか百年後とかなる、それだけの時間かかかる
つまり時間でしか解決しなくなったのである 
でもまた飯館村に誰かが住んでいるかもしれない、それは元の住民でないかもしれない
何かコロナウィルスのような異変があって都会の人が移り住むかもしれないからだ
そういうことは予測できない、そしてもはや我々老人はその未来を見ることはできない
菅野村長もやはり病気であり引退したのはそのためだった
浪江町長もやはり死んだ、未来を担うものは子供は住んでいないのである
ただ未来は誰もわからない、30年後でも50年後でも百年後でも人が住んでいるかもしれないその時間に期待するほかない、人間ではもう解決できなくなくなったのである

いづれにしろ箱ものだけを立派にしてもそれを活かせない、そもそも住民がそこに住まないからである、そしてなぜそうなったのかというと心が一つになれなくなったのである
それは多額の補償金をもらったことにもあった
それによってみんなで市町村の復興を考えるより個人とか家族単位の復興になったのである
だから現実として子供は別な地域に行きそこの学校に通う、大人も別な地域で仕事をするそれも十年もすぎたらそれが既成事実となりもう飯館村には帰らないのである
それで菅野村長が村に帰り住むということに固執した
実際はそうあるべきであり自分自身もそうあってほしいとなる
でも現実はもうそういうことはなくなった
するとそこに固執することは反発を受けるようになった
いくら村長がそう思っても住民がそう思わないとしたらもう心はばらばらである
すでに心がばらばらでありただ個々人の家族の復興しか考えなくなったのである
それは南相馬市でも同じだったのである
そして家族もばらばらになり老人だけが取り残されたのである

これは奈良の十津川部落とはあまりにも違っていた
心が強固に一つとなり団結して奈良から北海道に移住したのである
国から補償金もらったとしてもあくまでも村全体で使うものためであり個々人家族ではなかった
とにかく村人の心が一つになっていた、だから移住先でも団結して暮らすことができた
補償金は村のために使われただけであり個々人とか家族には使われなかったのである

人間はやはり建物とか物とか金が必要でも心が大事だとなる
第一菅野村長が飯館村に住んでくれといっても本人は福島市のマンションを真っ先に買って住んだと言われる
そして孫がいてもその立派な学校に通わせているのである
つまり本人が住まないのに住めというのは成り立たない
それは浪江町長でも大玉村とかに家を建てた、そして浪江町には住まなくなっていたのである、ただまもなく死んでしまったということである
菅野村長も病気だということになれば強いことは言えない
結局過労になり病気でもあり引退したとなる

こういうことで飯館村は何か建物が立派になってももう住民は帰って住まないのである
そういう規制事実ができあがっているのだから元に戻すことは不可能である
だから森は除染してもできない、すると30年待ってセシウムが半減するとか放射線量が減ることを待つほかないのである
それが50年とか百年にもなるかもしれないがその先は予測できない
意外なことが必ず人間には起こる、コロナウィルスを予測した人は一人もいなかったからである、地震とかはいろいろ言ってもコロナウィルスのことを当てた人は一人もいなかったからである、だから30年後でも50年後でも百年後に何が起きてくるのか予測できないのである、意外と飯館村に東京の人が来て住んでいたとかなるかもしれないのである
そういう変化がコロナウィルスで起きたからである
こうなると立派な建物を50億で建てたということでも無駄になる
第一それを活用する肝心の人が住んでいないからである
また何兆円もかけて除染してもそれが復興になったともいえない
つまり金をそんなにかけても効果的にならなかったのである
だから金があればなんでもできるとなる時代だがここではそうはならなかった

建物があって人があるの、人があって建物が家でも公共の建物でもある
人がいて子供がいて学校という建物がある、それが逆になったともなる

小高でも老人施設があってもそこに働く人、介護士とかがいないから青森に送られている建物が立派でも働く人がいなくなったのである
人が住まないからそうした建物も宝の持ち腐れとなる
5人くらいしかいない学校に50億円も建物に金を費やしても復興していないのである
それは菅野村長のせいというだけではなく住民がそもそも帰らないと決めたのだからどうにもならないとなる、それが現実だったがそれを無視したから反発されたとなる
本当は村長だけが浮いた存在にてっていたのかもしれない、ただ私には複雑な事情はわからない、でも新しいこじんまりした家が建っていたので人が住んでいると思った
それが別荘であり人は住んでいないというのが不思議だったのである


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枯芒に車が埋もれている、ここで時がとまったままなのである
まずいい飯館村では車がないと生活できない
買物もまともにできないからだ

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ここは道に向いて古い碑がある
ここは塩の道だったのか?
ここを上るとこの兜屋根の養蚕農家がある、これは相当に古い
壁は土壁であり古い、こうした廃墟が飯館村にはある
壊された家も多い、その跡地には何も残っていない

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道の駅のまでい館に建った子供館

次々に立派な建物は建った




posted by 老鶯 at 15:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2020年04月05日

飯館村は建物は立派でも人は住んでいない (人が住まない村では復興はない・・・・)


飯館村は建物は立派でも人は住んでいない

(人が住まない村では復興はない・・・・)

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飯樋小学校

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飯樋の公園の丘の樅の木にノスリ


飯館村にはとにかく立派な建物はいくつも作られている、今度はまでい館の裏に子供向きの公園と遊戯館ができた
学校でも立派なものが作られている
でも肝心の人が住んでいないのである、町長自体が住んでいない、その孫とかも飯館村の学校に通っていて地元には住んでいないのである
それでなんか不思議だったのは新しい家が多い、それは一軒屋とか平屋のこじんまりしたものである
そこに人が住んでいると思った、結構帰ってきて住んでいるのかと見た
でも人は住んでいなかったのである、前も家があると人が住んでいると錯覚した

ただそうして新しい家があるが家自体壊されて更地になっているのも見た
それもかなりの数になる、つまり住んでいる人は帰った人は二割くらいである
だから飯樋では街になったいたけど二軒くらいしか住んでいなかった
そこに飯樋小学校がありその建物も立派なのである
でも現実にはそこに生徒がいない、コロナウィルスの関係でいないのか?
おそらく保育所とか幼稚園も併設されているが利用されていない
だから何か無人の街になっていた、しんみりとしていた
人の気配が感じられなかった

そしてその丘に上った時、一本の樅の木が立っていてそこに大きくノスリがとまっていたことにびんくりしたのである
つまり今そこの主人はそのノスリになっていた 
田畑に荒地化するとそこにノネズミが増えて来る、そのネズミを食べるのがノスリなのである、それから猿が群れをなして田畑に出て来る、人間をあまり恐れくなっている
それを見たとき核戦争の後に猿が人間を支配していた「猿の惑星」をイメージした
猿が人間の代わりに主人となっていたのである

この光景の不思議は建物があっても人間が住んでいなければそこは死んでいる
ただ自然は回復して鳥獣でも生き生きして住みつくようになる
でもそうした村でも人間が生活してこそそこに歴史が生れ意味や価値が生まれる
それがなくなったとき死の村や町になる
現実に神社があっても誰もお参りもしなくなる、その石段を猿が上っていたからである
猿がお参りしているのかとなる
住民は新しい別荘に野菜作りとかで畑を時々見に来るとかなるのも不思議である
それなりの補償金をもらったから別荘として利用するとなるのか?

村でも町でも活きたものになるのはやはり人が住むことによってである
いつくら建物が立派でも人間が住まなかったらその建物も活かされない
血が通わない、建物も死んだものとなる
でももしそな立派な建物がなくても人間が住んでいれば活きた村や町になる
それで武田信玄が

人は石垣、人は城・・・

として城を作らなかった、つまり建物を作らなかったのである
建物がなくても人こそが城なのである
だから飯館村から人が住まなくなり帰ってこないということは復興はないとなる
いくら立派な建物があっても復興にはならないということである

そうはいってもあれだけの広い土地をどうするのか?
それを活かす方法があるのか?
それを誰がするのか?外から来ている人もいる
何かこうして肝心の元からいた住民がいなくなる、広い土地をどう利用するのか?
そういうとき外からは入りやすくなる、田舎はもともと外部からの人を拒むからである
そういう拒むものがいない、元から住んでいる住民はいない
ただ広い土地がそこにあり自由に使ってくださいとなる入り安いのである
しがらみもなにもないからである、白紙の状態になっているからだ
だからかなり先になるのが飯館村は外から来た人たちによって復興するかもしれない

なぜならコロナウィルス騒ぎで東京封鎖とか人口密集の大都市が危険なことがわかったからである
だから都会から人が移動してくるかもしれない、そこでまた新しい村が作られるかもしれない、木戸木などは戦後開墾に入って作られた部落である
それも時代によって働く場所がなくあんな辺鄙な場所に住むようになった
そこでどんな暮らしをしていたのかイメージできなくなった
それだけ生活が変化して便利になったからである

まず新しくできた道路の所は森におおわれていて隠された道があり清らかな流れがあったそこは本当に人跡未踏のような神秘的な場所だったのだ
私はいつもそこに行っていた、人とは合わなかった
ただそこにそうした部落があることがわからなかった、二軒くらい家があるなと見ていただけである
今は二軒くらい住んでいる、何かやはり今でも神秘的な場所だった
特に奥の方に隠されて一軒あった家は不思議である
あんな所に人が住んでいたことが不思議なのである
山に閉ざされたまさに秘境だったとなる

あそこにコテッジとか何か作り休む場所があればいいとも思った、そこにも小川が山から流れていてカタクリの花が咲いていた、二つの小川が流れていたのである
だから何かキャンプとかするにはいい場所である
あそこは原発事故前にすでに二軒くらいは廃屋になっていた
あそこで住むとなると今でも不便である、ただ車あれば新しい道ができたからなんとか暮らせるとなる、でもおそらくそこも若い世代は住んでいないだろう
だから飯館村自体若い世代が住んでいないとなるともう廃村になるのか?
牛飼う人もまたはじめたというが少ない、何か仕事が必要である
菊池製作所では働いている、農業は前から跡継ぎがいなとか継続できないものとなっていた、そして放射性物質お汚染で余計にだめなった
花は栽培している、だからそれは復興にはなる、でも人が住んでいないということが致命的なのである

posted by 老鶯 at 20:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2020年04月03日

春の日(飯館村が住民の別荘地になった?)


春の日(飯館村が住民の別荘地になった?)

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新しく建てられた家ュ(別荘)

人は住んでいない、こういう家が多い

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廃屋


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新しい遊戯館と公園(までい館の裏)



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木戸木の奥の人が住んでいた隠された家

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蝶がこの木にとまっている

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キクザキイチゲと片栗
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これは綿津見神社だろう

山津見神社と対になっているからだ

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飯樋の丘の公園の樅の木にノスリ




樹々芽吹き流れのひびき不動岩

片栗や流れの清く一部落

松一本社の標春日暮る

(木戸木)

かたくりにキクザキイチゲ蕗の薹飯館村に我が入るかな

奥の山住みにし跡とあわれかな枝垂桜の名残と咲きぬ

森深く友呼ぶ声や鳥のなく春の山陰耳をすましぬ

くいこみて絡まる蔦の離れじやここを住処と死ぬ人のあり

我が町の梅は散りにき飯館の梅は盛りと今匂いけり

丘の上に樅の木一本見上げればノスリとまりて人の住まぬ村

人住まぬ村の淋しも古き碑も捨てられしごと春となりしも

人住まぬ村の淋しも鶯の夕べ啼きしももの悲しかも 


栃窪村から真野川をさかのぼり大倉に行き坂を上って木戸木に行った
そこは十軒くらいあった戦後開拓に入った部落だった
そこに十軒も家があることを知らなかった、三四軒くらいしかないと思っていた
私が関心があったのは草野の方に行く流れが森の中に隠されてあったのだ
今はそこが道路になってない、そこは神秘的な場所だったのである
人は一日一人も通らないということがある、そこの木戸木の部落の人しか通らなかったろう、森の中で暗い道だったからである
なにしろ木戸木はその道ができる前は大倉に行くにしても相当に不便である
それより草野に行くとしても七曲の峠道を行くから本当に不便だった
戦後開墾に入ったのはそういう不便な土地にしか入れなかったからである

そこでの暮らしは本当に原始的な暮らしである
そこが不便なのは田畑にする場所がないことである
平坦な土地がない、ただ燃料は炭だった、戦後一〇年くらいは街でも炭だった
私の家でも街に住んでいても囲炉裏があったからだ
ただまだ私が住んでいたのは街だったがそこはもっと辺鄙でありどんな暮らしをしていたのか想像もできなくなった
山菜くらい食べても生きていけるきかともなるからだ
あの小川で岩魚かとれるとか言っていた人がいたけどこの辺では岩魚はいない、山女はいるが岩魚はいない、だから何を食べていたのかイメージできなくなった

そこでは一〇軒くらいあって二軒くらい住んでいる人がいた
飯館村で今回不思議だったのは家が新しくなっている、その家が平屋で小さいのである
そういう家が多いのとどうしてだろうと思った
補償金が入って新しく家を建てたたのかと見ていた
そこに住んでいると見ていた、でも人は住んでいなかったのだ

それでまでい館で案内している人に聞いた
そしたらそれは別荘だというのだ、人は住んでいないのである
そこに住んでいた人か畑で野菜を作ったりしているという、また帰ってくるために作ったでも人は住んでいないのである、それも奇妙だった
人が住んでいて家が壊され空地になった所もみかける、でも新しい家が建っているからここで生活しているのかと見ていた
ここに住んでいた人は他に移り住んでいる、他で家を建てて住んでいる人もいる
でもここに別荘として家を残して通っている

飯館村は別荘地となっていたのだ!

ともかく飯館村では例えば町長も村に住んでいない、その孫でも立派な学校に他から通っている、町長自体が住んでいない、そして他の場所から川俣とかから通っている
これも何か変だと見た、飯館村ではとにかく建物だけは立派になった
また一つ子供のための遊戯場とか公園がまでい館のじき側にできる
その建物も子供が喜ぶようなデザインの建物である
ただまでい館に寄ってそこで遊んで去ってゆく、肝心の人間が住んでいないのである

そんな村とか町がありうるのか?

それは何か仮の村であり通過するだけの村となってしまう
別に通過するだけならそれでいいとなる、デズニ―ランドのような遊び場で遊んで帰るというだけである
でもそういう村はもう村とは言えない、暮らしがないからだ
ただ一部ならそうしたレジャーランドとかキャンプ場のようなものはあってもいい
でも村全体レジャーランドになったらそれが村なのか?
人間が住んでこそ村でありえる

ともかく人間が住まない村とはな何のだろうとと思った
古い碑とか墓がある、それも何か捨てられた感じになる、住んでいればそれが眼につくから古い碑でも墓でも死んだ人でもその土地に一緒に生きているという感覚になる
人間が住んでいればその村の継続した生がありうるのだ
そういう生の継続が途切れた感じになる
小高だとすでに6割以上とか帰って住んでいるとなると何とか町が成立しているのかとなる、ただ老人が多いから老人の街が継続できるのかという問題がある
そこは姥捨て山になるのではないかという不安がある

今回飯館村に行って感じたことは死んだ村という感じである
例え立派な建物があっても肝心の人間が住んでいないからである
特に草野辺りはなんとか通過する人でも寄る人があるから活きている
でも飯樋とかは一軒か二軒しか住んでいない
そこは前は塩の道の塩を運ぶための相馬藩の役所があり60人も役人が住んでいたのである、それが死の町となっている
その丘の公園に上ったら一本の樅の木があり人の住んでいな町と人のいない学校が見えたそして樅の木の天辺にノスリかとまっていることにびっくりした
何か前もそうだったが人間がいなくなるとこうした野生の生物が生き生きとしてくる
だから荒地となった田畑には猿の軍団が出てくる
猿は人間を恐れなくなっているからだ

飯館村どうしても死んだ村に感じた、やはり人間が住み人間の暮らしがないと死んだものとなる、ただ田畑でも放置されたのは農業を前から継続することが限界にきていた
それはどこでも共通しているが飯館村だと特にそういうことがあったかもしれない
何か産業というものがなくなっていたからである
それで多額の補償金をもらったとき他に家を建てて移りすんだ
そしてまた前らか住んでいた所に別荘として家を残したとなる
それだけの金の余裕があってそうしたともなる
だからこれはなになのだろうとなる、奇妙な感じになったのである

ただ人が住まなければ何か社でも古いもの、昔から伝えられたものでも途絶えて死んでゆく感じがした、村を守るものとして社があったりするからである
その是非はともかく人が住まないとしたら神様も捨てられたとなるのだ
現実に石段を上って猿がお参りしているのかとも見たからである
廃村には廃墟の村ではないにしろ何か奇妙な感覚になる
前も家はあるから人が住んでいると見ていた、その時も人は住んでいなかったのである






posted by 老鶯 at 22:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2020年02月06日

復興できない飯館村の問題 (外部からの支援と村民の復興の相違)


復興できない飯館村の問題

(外部からの支援と村民の復興の相違)


「真の復興」とは、被災者がその災禍から立ち上がり、東日本大震災前の当たり前の日
常に少しでも近づけることだと感じる。少なくとも、経済を復興させることや、ハコモノを次々と建てることではない。自治体をどのように再建するか、「地域」をどのように存続させるかということばかりが重視され、被災した人の暮らしや想いはこのままでは、多くの人が置き去りにされる。また故郷を消失し、思いを断ちきることになる。これのどこが「復興」というのだろうか。

生業の喪失

現在、福島市の避難住宅で暮らしている。
「賠償金もらえて最初の 2、3 か月はよかったよ。だけど、もう生きている気がしねぇ。ただ生かされている感じだ。餌与えられて生きる牛や豚と一緒だ」。
危機に立つ住民主体の村づくり

飯舘村は、「結」を大切にする地域だった。いや、助け合わなければ暮らしが成り立たなかった歴史があり、それは震災前も同じで行政区ごとの共同作業によって、美しい村が維持されてきた。
「自然と、隣近所や親類が「結」で助け合った。田植え、稲刈りをはじめ、山でカヤ(ススキ)刈りをしての屋根ふき作業も。そうしなければ、お互いに生きていけなかった。

危機に立つ住民主体の村づくり

飯舘村における「復興」計画と「村民の復興」の乖離 

復興が何かわからなくなってしまった、別に経済的に前より豊かになった人がいる
小高でも仙台に移り住み不動産とかアパート業で豊かになった人がいる
それは補償金をもらったからそれを資本金にして成功したのである
そしたらその人は前より豊かになったのだから復興したとなる
その人は個人的には家族単位では復興したのである

でも小高が復興したのかとなるとならない、帰ったのは老人がほとんどであり学校すら小高に住んでいないから原町とかから通っている
これは飯館村でもそうである、あれだけ立派な学校を作ってもそこに子供は住んでいない近くの避難した町から通っているのである
そこでそうした立派な箱ものばかり作っても肝心の人が住まないし村が復興したとはならない                    

そもそも前にも書いたけど現代はグローバル社会であり広域社会である
具体的にどうなったかというと家を作るにしても地元の人が作るのではない
大手のハウス会社が二週間くらいで組み立て作る、プラモデルのように部品を組み立てて作る
昔だったら家を建てることは一大事業である、自分の家は三か月以上かかった
それも材料は柱は橲原の木を利用していてそのことを自慢していた
今は材料も外材であり土地の人ととのつながりがないのである
だから何か原町でも鹿島でも相馬市でも新地でも他でも外から入ってきた人たちが本当に多いのである
一番顕著なのはいわき市である、二万人とか入ってきて補償金で家を建てたから地元の人たちにうらやましがられたのである

なぜそういうことができるのかというと広域社会グロ−バル社会だからである
そもそも外材は外国から入ってくるからである
そういうふうに外国であれ国内であれ一地域で経済では成り立たない社会である
そこで何が大事になるのか?
金が一番大事になる、金さえあれば何でも手に入るとなるからだ
すると絆のことを盛んに言っていたけど地元の人の絆は希薄化していたのである
それで簡単に町でも村でもばらばらになってしまったのかとも見た
簡単にゴーストタウンになってしまったのかとみる
避難区域に指定されたことはわかるし放射能のこともわかる
でも何か瞬時にして町でも村でも人がいなくなり結局回復しなくなった

だからなぜこうなったのだろうと私は思った
そんな簡単に町でも村でも故郷でも捨てられてしまうのかということである
絆などなかったのかとなる、人もばらばらになり長年代々住んだ土地も捨てられたとなるからだ
もちろんその土地に故郷に執着して帰りたいというのは老人なことは理解できる
でも老人ばかり帰っても復興しないのである
そして生業を返せというときその生業とは何なのか?
生業とは生とはなりわいのことである、なりとは成ることなのである
その土地に住んで自ずと成るもので生きるということである
それを象徴していたのが飯館村の山菜料理であり山から山菜を無料でとって生活することである
生業(なりわい)とはその土地に根付いてその土地に成るもので暮らすことなのである
それがなくなったとき福島市とかに住んでも山菜とりできないとか何もすることがないと嘆くことになった
そこで山菜を無料でとって暮らす生活が見直されたのである

つまり人間は何か当たり前の価値がわからないのである
それ失った時初めてわかる、親がいて何でもしてくれているのか当たり前だが死んでしまったら全部自分でしなければならず親のありがたみがわかる
また妻に何でもしてもらっていた夫も妻が死んで何でも自分でやらなければならないから妻のありがたみがわかる
人間は本当に当たり前の価値がわからないのである、まずそんな当たり前のことを価値と認めないのである
そこに人間の盲点がある

とにかく飯館村は今回の原発事故で被害が露骨に現れた、未だにそうである
その風景は一変した、もはや田畑はなく放射性物質の置き場になっているだけである
あとはソーラーパネルになり景観も前のとは違っている
新しい中高一貫の校歌を作った人がいるが確かに凍てる大地に根付く木とかの歌詞は評価できるにしてもここにも矛盾が現れているのだ

そもそもその曲を作った人も校歌を作詞した人も地元に住んでいない、東京から来た人であり外部の人である
いろいろ今回は外部の人が入ってきてかかわることになった
でもそこにもともと住んだ人がそうして歌詞でも作ると土着的になる
東京から来た人は観光客なのである、そこで保養して後は帰るだけである
そこの凍てた大地に育つのはそこに住む若い世代なのである
外部から入ってきてそこに住まない人は観光客なのである
凍みた大地で生きることはない、飯館では凍み大根が有名だけど外部から來る人と内部にその土地に根付いて暮らす人とは根本的に違っている

そこにリアリティがないのである、東京からただイメージして作っているのである
ここで苦労することもないからリアリティに欠けているのである
何か文学でもリアリティが実際に体験したことでないと訴えない
小説だってやはり現実に体験したことでないと訴えない
それを自分も指摘されたからわかる
森でも外から見ているのと中から見るのは違う、森に入ると枝とかがありツルが生えてからまったり蛇だでてきたりといろいろ難儀することがある、外から見ていればそういうことはないのである

自分もただ外部から来たものになっていた
ただ近いから東京から來る人は違う、例えば放射性物質のフレコンバッグが水があふれて破れてもれたことがあっ
すると放射性物質は南相馬市に流れて来る、真野ダムに集積した放射性物質は土地はつながっているのだから流れてくるのである
だから飯館村の問題は南相馬市の問題になる、土地はつながっているから切り離せないのである
だから佐須で泥が20マイクロシーベルとあったのには驚いた
その放射性物質の泥も真野ダムに流れてたまっている

ここで問題にしているのはそこにもともと住んでいる人たちが村をどうしたいのかとなるとき何か箱ものとかその人たちの意に沿わないものとなっていることを書いている
そもそもそこに住む人たち、代々住んでいる人が主役になるべきだとしている
それが外部から入ってきた人たちが主役になっている
それで山木屋では東京の方から大学の人がきたけど一年でやめたとか嘆いているのもそうである
一時的には来てもそこに土着して住むとういことがないからである
一時的な実験場のように利用したとなる

飯館村では一部落全員を帰還の条件としたというときそれだけつながりが深いからそうなった、他の津波の被害地でもそういう部落があり全員一致して高台に住宅を作った
元の町が村が回復する復興するということはそうなる
(結(ゆい)のような組織があり村人がが助け合って生きてきたというのもそうである
それがばらばらになった、飯館村なら補償金などでも同じにすれば良かったのである
被害はさほど変わらないし第一一つの村としてある、土地もつながっているからである
南相馬市でも小高区とかを避難区域として分離してしまったことである
そこで小高と原町と鹿島に補償金で分断されたのである
補償金で統一することがむずかしくなったのである
それも政府の企みがあってそうなったのかとかんぐる
なぜなら政府の責任を市町村が一体になって追求するより分断して仲間同士で争わせた方がいいとなるからだ

ともかく市長も町長も村長もまとめ役とはなれなかった、市町村をまとめることができなかったのである、それだけの指導力をもつこともできなかったとなる
それでそれぞれの私益だけを追及する結果になったのである
だから放射線量で補償金で細分化されて分断された、それは政府の思う壺になったともなる
だだみんな補償金を多くもらいたいということしかなくなったのである
もう故郷に帰ることではない、補償金でそれぞれ勝手にどこでも暮らせとなったのであるただ飯館村だと人のつながり土地とのつながりがあり一致して部落で全員帰還を目指したのである


飯舘村の「帰還農家」で咲かせた未来への希望

荒れ野の古里によみがえる高原の花々

posted by 老鶯 at 19:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2019年10月09日

飯館村の詩(隠されし村)


 飯館村の詩(隠されし村)

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隠されし村

草深く花は美しく咲き
花は恥じらいつつましく
花は草深く隠れ咲きぬ
一軒一軒森につつまれし家
庭は広く畑ありて花の映える
揚羽蝶は一日花を求めて舞い飛び
疲れてしばし深き木陰に
大石のありて羽根を休めぬ
そこに清流の音のひびき
一羽の小鳥の鳴きて夕暮れぬ
そこに道あれど行く人なしも
そこにあえて声揚げる者なしも
深き森につつまれてひそかに
小鳥の一羽鳴く声のみなりき
そこにあえて装うものもなしも
森につつまれ草深く花の咲きうなだれ
人の暮らしは長く隠されありぬ
そこの森深く未だ知られざる花
つつみ隠されて神の見るらむ
神は道なき道をそっと歩みて
音もたてずにその姿を奥深く隠しぬ


飯館村の一番の不思議は大倉から坂を越えた所の木戸木から森があり清流があったところである、そこは道ができてなくなった
その前から七曲の道があったが車でも不便であり危険だった
でもあそこに清流が流れていて気持ちいい場所だった
ただあそこに戦後開墾した家が十軒くらいあった、それに気づかなかった
何軒はあったが奥にもっと家があった
そこは土地がないから田でも作っても米はさほどとれない、だから相当貧しかった
この?20パーセントちかく戦後引揚者が開墾して入った所が多いのである
浪江町の津島もそうだった、苦労して開墾して住んだから協力して住んだから愛着があるというのもわかる、津島などはもう住めないし帰れない状態になった
そこで中国人の嫁がナタで夫を襲った
その理由が都会に住みたいということだったのである
確かに相当に辺鄙な場所でありそれもわかるとなる
その後どうなったのかわからない

村という時市町村でもそれぞれ個性がある、原町と相馬市は他から来たらたいして変わらないは見るが違っている、相馬市は城があり一応城下町であったからだ
それで入母屋作りに公共の施設はしているから落ち着いて静かなのである
原町は明治以降機関区になって鉄道中心に発展したから駅前通りがある
相馬市はそういうことがなかったのである
原町は鉄道とともに発展した街だったのである

飯館村の特徴はともかく広いということである、未だに行っていない場所があるし一回くらい長泥とかに行った記憶があるけどそれが遠く感じた、自転車だからかもしれないが何か相当に辺鄙な場所だった
あんなところに人が住んでいるというのも不思議だった
ただそこは今は閉鎖されて住んでいない
そして何度も言っているけど飯館村の特徴は一軒一軒が森につつまれて家がある
その前は庭であっても広いし畑がある、そこに花々が映えていたのである
それが何か他と比べて恵まれていたとみていたのである

村にも個性がある、丸森はまた景観的にいい場所であり奥深い秘境のような所があった
飯館村と丸森町は何か特別なものを感じる
村でもいろいろあり地勢も違っているからなかなかわかりにくいのである
丸森も未だに行ってない場所がある、あそこも森が深いのであく
そこでその森の中に入って出れなくなった恐怖を経験したのである

私は別に飯館村に行ってそこに住んでいる人とかかわらない、ただ花を見て帰って来ただけである、でもその時が実はいい時だったのである
今になるともう放射能汚染で土はむきだしになりフレコンパックとか積み上げられて草ぼうぼうなのである、そして補償金争いで村は二分したとかもめている
それは南相馬市でもそうだった、水俣病でも経験者は補償金でだめになったというときここでもそうだったのである
その額が大きいからそうなったのである、ぎりぎりで暮らしている人が一億円とか入ったりしたらどうなるのか?金銭感覚が麻痺してしまうのである、飯館村は被害が大きいから補償金の額も大きくなったからだ

それで小高の人はフィリンピン人の女性に貢ぎ金を使ってしまってないとか異常化したのである
それで自分が小高の人を批判すると「お前は傷に塩ぬって楽しいか」とか批判する
もう被害者意識でこりかたまっている、でも現実はギャンブルとかパチンコでその被害者は遊んでいたのである、それを批判するなというけど事実は事実なのである
批判するべきはそうした内部の人なのである

要するに神はその暮らしを隠したという時、そこはいい場所だったのである
今は人間の醜さがむきだしになっているからだ
飯館村にしても補償金に場所により差があるのもおかしいのである、それは南相馬市でもそうである
隣が高くもらっているのにもらえないとかもある、そういうことで自治体が分裂したのである
そうしたの政府の策略だという人もいるが現実に分断されて団結できなくなっているからうそなのかとなる    

淋しき山々の中にわれは聞きぬ
われを追い来る低き息づかい
目に見見分けがたき動きの音
踏みゆく草生とほとんど同じくかそけき跫音
(ワーズワース)

これは自然に生きる動物のことである、自然の中に入るにはそいうふうに静に入らねばならないのである
ただ大倉の坂道でバイクが飛ばしていたからそういう場所でもどこでも騒音化して乱される
何か現代は自然が必ず壊される乱される、どこまでも侵入してくる
それは何か自然にふさわしくないのである、自然も大衆化とか何かで乱される
神聖な場所にずかずか誰でも入ってくるのである

それは観光でもそうである、外国人が来て商売になるから京都の情緒まで失われるとなる
自然に入るにはそれにふさわしいものとなるべきものだがそれがないのである 
とにかく木戸木の森につつまれた清流の場所は一番神秘的だったのである
なにかその雰囲気が語れない、そういう場所が丸森とかにもある
橲原(じさばら)の奥にもあり未だ発見されていないのである
それはそこに長く住んでいないと意外とわからないのである
だから日本にはいくらでもそういう場所がある、でも地元の人でないとわからない場所なのである

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 自分が求めたのは秘境だった
(ワーズワ-スと飯館村などのこと(自分の詩)

posted by 老鶯 at 08:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2019年10月08日

飯館村の水利組合の原発マネーの利権化     (原発マネーはブラックであり人も市町村も汚す)


 飯館村の水利組合の原発マネーの利権化
  
 (原発マネーはブラックであり人も市町村も汚す)

東京電力福島第1原発事故で生じた汚染廃棄物を燃やす福島県飯舘村の仮設焼却施設に絡み、環境省が農業用水路の利用料として、地元農家らでつくる水利組合に3年5カ月にわたり計約2億円を支払っていたことが7日、関係者への取材で分かった。会計検査院は、不要な支出だったと指摘する方針
飯館村は原発事故前は貧乏でも何か素朴な村として見ていた
それで花が純粋に映える、何か高原でもあり原始的なものを感じる
不思議に花が草深く咲いていた、高山植物のような感覚にもなっていた
また木戸木の所は道がなく森で覆われていて清流が流れていた
そこは隠された秘密の場所だったのである  

飯館村は何かこの辺の平地の感覚と違ったものになる、それは不思議だった
それはやはりそうした環境があり昔からそういうふうに開発もされないからそうなっていた、工場があるにしても小規模だし何か自然のままにあった村だった
それで山菜をとることが習慣であり料理の定番となっていた

それが原発事故以後変わってしまった
飯館村はほとんど原発とはかかわっていなかった、でもやはり原発で金になるから働いていた人はいたのである
それでも原発とはかかわらない村だった、ただ風の影響などで被害が大きくなった
だから同情されたのである
でも今や飯館村は金まみれである、補償金の問題で村は二分されているし分裂した
それは南相馬市でも同じだった、補償金でもめて分断された
それは伊達市でもあったというから金でもめるのはどこでも同じである

ここで水利組合とかででくるけど漁業組合ともにていると思った
原発事故以後やはり原発利権が大きいからそこから金を得ようとする
それは権利とあるにしても何か金を東電からむしりとろうとするとも見える
農業用水路というけどその水は実は南相馬市にも流れてくるのである
真野ダムにも流れて来る、すると相馬市でも南相馬市でも汚染された水が流れて来るともなる
土地はつながっているから飯館村で何かあれば影響するのである
海でもつながっているから影響する、その場所だけで処理できるならいいができない
だから前に書いたけどい飯館村の問題は南相馬市とか周りの問題でもある
飯館村だけで決めることができないのである
だから飯館村は南相馬市と合併しなかったけどそれで補償金を独自にもらえるから良かったとしているが実際は土地はつながっているのだから南相馬市の問題にもなっているのだだから別に合併しなくても広域的に対処すべきものだった

まず飯館村は原発利権化した村になった、それは原発マネーで騒いでいる高浜町と同じである
それを喜んでいる人もいる、その人の家は新築されたからである
相当な原発マネーが入ってきたからである
でも何か飯館村は事故前の村の魅力が失われた

例えば花が映えるという時、それは実はそこに住んでいる人たちの心がまともであれば映える、自然の美と人々の心がモラルは関係している
例えば悪しき心の人は花を美として見れるのか?
心が穢れた人が花をまともに見れるのか?また映えるのかとなる
そのことを言えばこの世がすべてそうだとはなる
前は飯館村に行っていたときはその村は隠されるようにあったから良かった
それが今は何かいろいろなものがむきだしになっている
除染されて土がむきだしになり田畑は草ぼうぼうになっている
それからソーラーパネルとかでも景観が乱されている

そしてまた人が住んでいないということでも荒廃している
前は飯館村は広いから一軒一軒森につつまれて家があり広い庭があり畑があり花が映えていたのである、何かそれが高原の村だから花だけが美しく映えたとなっていた
それが今は人は住んでいないし荒廃した
そこから伝えられるのは醜い金をめぐる争いであり原発マネーで利権化した村である
それは高浜町とにているのだ、までいな村とかはもうない、原発マネーに踊らされる村である
だからそうなると花も映えないのかとなる
前は別にいろいろな人がいて田舎の人が素朴だとかなくなっている
でも隠されていたということでそういうものが外から来たとき目立たない、ただ私が見たのは花だけだったとなる

そして立派な施設ができても学校がてきてもそこに通う生徒は地元に住んでいないのである、外から通っている、これも何か人間は果たして立派な施設が学校ができてもそこで良き心が養われるのか?
それも疑問になる、貧しくても良き心は養われることはある
かえってもう原発マネーは巨額なのでそれに惑わされて何も見えなくなってしまう
それだけ高浜町でもわかるように金の額が大きいからそうなる
金にみんな狂ってしまうのである
それが原発マネーの怖さだったのである

そして最後は街は廃墟化してずたずたにされて住めなくなったのである
住めなくなることが最悪だったのである
その土地に住まないということはその土地と離れて住むということは何なのか?
もうそこに愛郷心とか生まれないだろう、一つの原発マネーを得る利権の場所である
村長でも町長でも利権の場として見るということがある
それは高浜町で起きたことと同じである
利権をむさぼるということだけになる、そういうところからいくら金が得てもまともな人間が育つのかともなる

ただ今の時代は金でありそれを否定できない、おそらくもし原発マネーでなかったらそうはならなかったのかもしれない、原発マネーは何かブラックなのである
その金を得てもいいとはなっていないのである
それは福島原発でも高浜原発でも同じことが起きていたことでもわかる
金が湯水のように使わればらまかれるのである
そこから自治体が金にまどわされ狂乱状態になる
そして遺産争いのようになり分裂して分断されてその亀裂が修復できなくなっているのだそれは原発の業(カルマ)だったとなる
原発はそういうカルマを背負っている、それで原発を作った自治体では同じようなことが起きているのである

posted by 老鶯 at 13:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2019年08月30日

地方の自然破壊は高度成長時代から始まっていた (飯館村の自然破壊の歴史から未来を見る―真野ダムができる前の大倉の映像)


地方の自然破壊は高度成長時代から始まっていた

(飯館村の自然破壊の歴史から未来を見る―真野ダムができる前の大倉の映像)


大倉村はダムができる前は本当に秘境だった、真野川の上流にあり家が固まってあった
それがダムに沈んだとき家が高台のみになり失われた
葉山祭りという古い祭りも失われた、ダムというのも自然を破壊して村を破壊していた
ただダムとなるとこれに反対する人はあまりいなかった
やはり効用があるからそうなった、それで大倉ダムがダムの底に沈んだときこの時多額の補償金が出たのだ、それで立派な家を街の方に建てた人が結構いて話題になったのであるそれで山でぱダムができれば金になるということで期待する人が全国でいたのである

それはもう50年前とかであり日本がという国は高度成長時代になり大規模な自然破壊が始まっていたのである、その最初がダムだったのである
これによってなんらか川の流れなども自然の状態ではなくなった
ただダムについては危険視する人は騒ぐ人はいなかった
ただダムも自然破壊だったことは確かである

そして気づいていないかもしれないが飯館村の木戸木から新しい道ができたけど七曲りの坂ではない道ができたけどあそこに道がないときは細い流れがあり森につつまれていた
そこは人が入らない神秘的な道だった、歩いていたのは10軒くらいあった開拓部落の人たちだけだった、その流れは長く清流であり森につつまれていた
一つの秘境だったのである
自分はそこに良く行っていたのである
でもそれもなくなったのが残念だった、でもそのことで誰も騒がない、むしろ道路を作ることが進められた、車社会だからそうなったのである
七曲りの道は車だと危険にもなるからだ
新しくできた道でも本当に必要だったかどうかわからない、なぜならそこを通る車はまれだからである

要するにここだけではない戦後は自然破壊が全国的に大規模に行われたのである
道路を作ることも地方では公共事業として進めれた、だからダムでも道路でも過剰に作られた、農道まで舗装されたとかまた水路でもコンクリートの水路になり自然の小川もなくなりメダカとかどじょうだとか生息できなくなったのである

文明が発達するということは必然的に自然が確実に破壊される、それは止めようがないのである、ただエジプト文明とかなるとこれは古いとするが自然と調和する文明だったのである、そこでは動物が崇拝された、アニミズム信仰ともなるがそれだけ動物が崇拝されることは自然と調和していたということなのである
そういう文明がピラミッドを作る大規模公共事業を成したということも不思議である
現代のような技術力があった、でも自然と調和した文明だったのである
普通だったら科学技術はどうしても自然を破壊する
それも科学技術の力が大きくなると大規模な破壊が生じる
人間の技術の力が弱小な時は自然破壊は大規模にはできないからだ 

現代は科学技術の力によって自然は地球が大規模に破壊された時代だとなる
アマゾンが大火事になって消失するとか問題になる
それも原因は何なのかわからないにしても何か大規模に自然が消失してゆく
それが現代文明社会の最大の特徴でありそういうことが起きたのかとなる
そして地球が大規模に汚染されてゆく
原発がまさにそういうものだった、この辺のように人が住めなくなるのだ

要するにやがて地球に人が住めなくなる

このことを暗示したのが今回の原発事故だったともなる、空気であれ水と土でも汚染された住めなくなる、そういうことが地球規模で起きてくる
中国などは広いにしてもそういうことが大規模に起きている
原発の数も多いし増やしているからだ、そういうことでいつかこの辺のように大規模な汚染が生まれて人が住めなくなる
文明によって人は地球に住めなくなる、これを暗示している
そして人間の文明そのものが滅亡してゆく、自滅してゆく
それは人間自身の技が発達して災い(わざわい)となり自滅自壊してゆく

それはあくまでも人間側の問題であり神の知恵で創造したものとは違うからである
生態系は神が創ったものだが科学技術は人間の知恵と技で作り出したものだからである
それによってまた人間が滅びるのもカルマだとなり自滅自壊がすでに定められていたとなる
それで火を盗んだプロメテウスが神から厳しい罰を与えられたことでそのことはすでに神話で暗示されていた、それが20世紀になり科学技術の発達で現実化してきたのである
何か現代はグロ−バル経済でも資本主義システムでも限界にきている
それは結局強欲資本主義でありあくなき人間の欲望を是認するものだからである
それで今の若いものは欲がない、欲をもてというのも変なのである
断捨離とかミニマム経済とかになるのはやはり時代なのである
拡大成長一辺倒の経済は地球規模で限界に来たからそうなっているのだ

ともかく一地域を見ても本当に自然破壊の歴史だったことをふりかえる
今度は飯館村に風力発電ができるという、これもまた自然破壊だったのである
ソーラーパネルも草野にしきつめられたが今度は肝心の森につつまれた飯館村が風力発電でその本来の自然が破壊される
一見ソーラーパネルとか風力発電は自然を利用した自然を破壊しないものとして作られたしかし実際は違っている、やはり何かしら人間の作り出す技は自然を破壊するように宿命づけられている
確実に風力発電でも森を破壊する、人口の風を起こすことでそうなる、また景観も乱す
つまりソーラーパネルでも風力発電も自然のエネルギーを奪う行為でありそれはプロメテウスが火を盗んだのと同じなのである
風力発電でも自然の風ではない、自然の風を奪う行為だからそこに必ず自然破壊が生じて森が破壊される
それで科学者の武田邦彦氏がそのことを指摘している

そして未来とは何なんだったのか?それは山尾三省とかが言うには未来とは新しい科学技術のことである
今でもそうである、AIとか自動運転が世界を変えるとか核融合のエネルギーができるとか寿命はまだまだ長くなるとか科学技術が未来なのである
でもそれが未来だとして本当に人間の未来なのか?

科学技術への過信は危険

むしろ生態系の維持とか接続可能社会とかが最近話題になるのもそのためである
私は極端にしろこうして自然が破壊されることに耐えられない
もうそういう社会には生きたくないともなる、クルマ社会でもいいものとは必ずしも言えない、だから自転車にのっているともなる
車も自然を破壊するものなのである、クルマ社会だからこそ飯館村の神秘的な小川が喪失したのである、ただそれに注目した人は一人もいない、飯館村の人でもいない
自分一人だったとなる、つまり別に飯館村に住んでいるからとして自分のように自然を見ている人はいない、そういうふうに強いられたからそういう生活をしていたのである
それで多額の補償金が入った結果として飯館村を出ていく人が多いことでもわかる
金の力がそれだけ強くなったからそうなるのである
実際外から見ていれば自然がありそういう村がいいと言えるのはそこで暮らしていないからである
でも未来は何なのか?未来に残すべきは何なのか?

未来に残すべきは自然だった!

これから生きる未来に生きる子供たちに残すべきは何だったったのか?
それは自然だったのである、その自然が破壊されたとき暗黒になる
もう人も住めなくなったのである
住むべき自然が残されなかったのである
その責任は今の世代にあり文明自体を作った人たちにもあった
ただそれはここだけではなく世界全体グロ−バルに起きたことなのである
ただ未来とは確実にすべて科学技術こそ未来を作るということで一致していることは世界で共通しているのである
でもそれがここではそうではないことを現実に示したのである
放射能の被害は何代もつづき人は住めなくなった、これこそ最悪だったのである
貧乏でも住めるならいい、住めないということは最悪だったのである

自分たちの世代はもう消えてゆく、でもではこれから生きる子供たちとか世代はどうなるのか?それをう考える時自然が破壊されて残されていないとなるとそこに幸福がありうるのか?まず次の世代まで考えて生きている人はほとんどいない
今が良ければいいとしかない、そのことによって次の世代が苦しむ
カルマとなって次の世代にのしかかる、そもそも幸福とは何かというときそのこと自体の価値観の過ちがこういう結果を生んだともなる
限りない欲望の拡大しかないのである、もう金のためなら何でもする
自然破壊もそのためにはやむをえないとなるとか無関心となる

そもそも人間は景観を見て感動するより飯の種にならなかったらそういうものは美はいらないとなっているからだ、それが人間の醜悪さとしてある
だからこそ東京のような怪物都市とかニュヨークでもそこに美がなくても生きていられるのである、その人間こそが異常なのである
そういう異常性に気づいていないのである、ただ経済だけを見ている
美を価値として見ていないのである
だから東京に住んでいた山尾三省があれほど田舎に執着してまるで田舎に命を捧げるほどになったのは逆説だったとなる 

第一田舎の人こそ東京の人と変わりないしむしろ東京の人より価値観では同じであり強いともなる、いい家が欲しい、いい食べ物を食べたい、いい車が欲しいとかもうきりないのである、借金してもそうしているのが現実なのである
田舎があって自然があってその価値観に生きている人はいないのである
だからこそ原発は積極的に誘致されたのである、原発は金の成る木だったからである
だからなんらかそうした都会の価値観とか文明の価値観を否定しないかぎりそもそもまた同じことが起きて住めなくなる、その価値観を変えなければならないのだがそれがもう簡単にはできない、それがみんな望むことでありそれを一人が反対してもどうにもならない

その一つがクルマ社会が変えられないのはみんなが車がなくては暮らしていけないと思っているからだ、だからわずかでも減らすこともできないのである
そして自転車を邪魔扱いしている、そういうこと自体いかにもう変えることが不可能かわかる
自然などどうでもいい、美などどうでもいい、それより便利さでありあくなき欲望の充足である、山なんかはげ山になってもいいとか森がなくなってもいいとかそれより電気だとか贅沢な暮らしだとなる、そういう価値観を変えられないのだから根本的には変えることはできず同じことが起きる、その未来も同じだとなる
そこに最終的に人類文明の崩壊が起きるという暗いものになる
それより人間の文明が神によって滅ぼされるともなる未来が見えてくるのである  

ただではどうするのか、炭焼きの時代にもどるのか?森が活用されなくなったとき木材が外材となり利用されなくなったとき森が無用のものとなり人の手がは入れらずに荒廃した、つまり炭焼きでも入会の共同の山でも森でも利用していたとき自然も活きていたのである、いくら景観をどうのこうのといっても現実の実利として自然と結びつかないと自然も維持できないのである
だからどうしても自然保護だけとなえているときれいごとだけになり結局自然は維持できなくなる
でも本当にこの辺は原発事故でどういう生活があるべきなのか?山尾三省は極端にしてもそれほどまでに自然との合一した生活を修行者として自然への殉教者のように実践して早めに死んだといことは何だったのだろうと問うのである

実際は全く田舎であれ地方であれむしろ都会人より欲望は深く都会人志向であった
だからこそ原発は積極的にむしろ地域で豊かになるために奪い合うようにして誘致していたのである
この辺では反対した人は一人もいない、それがこの辺の特徴だったと思う
そして残すべき自然は破壊された、未来に生きるものは放射性物質と遺伝子の恐怖に延々とおびえるというより住めなくなったのである、子供たちでも飯館村には住んでいない、将来も住まないのである
それは飯館村の責任でもない、原発によって自然は奪われて住むことができなくなったのである   



真野ダムができる前の大倉村の真野川の映像

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大倉がダムになる前のビデオ映像が残っていた
ただこれも30年前であり画質が相当に悪い、でも真野川が大倉を流れていた
急流ともなって岩を打ち流れていた、その真野川にそって家が結構あった、一部落を形成していた
ダムに沈んだとき高台の方の家は今に残っている
これは貴重な映像である、他にも30年前のビデオの映像が残っているのでそれを記録してプログに出す予定である




posted by 老鶯 at 16:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2019年08月27日

地方(大倉村)の小さな碑が語る歴史の重い事実 (神社は国家神道となり戦勝を祈る場となった)


地方(大倉村)の小さな碑が語る歴史の重い事実

(神社は国家神道となり戦勝を祈る場となった)
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大倉の山津見神社


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他の稲荷神社

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アマテラスやコトシロヌシといった人格神から始まったわけではない。「場所」の特定が最初だった。神社は、そこに神籬(ひもろぎ)や榊(境木)や標縄(しめなわ)などを示し、「ヤシロ」(屋代)という神のエージェントともいうべき「代」を設定することから発生した。
 やがてこの「場所」をめぐって自然信仰や穀霊信仰や祖霊信仰などが加わり、さらに部族や豪族の思い出や出自をめぐる信仰がかぶさって、しだいに神社としての様態をあらわしていったのだと思われる。

 神仏集合


神社の起源は複雑で多様でわかりにくい、例えばなぜ相馬地方に綿津見神社と山津見神社がこれほど多いのか?
それは松川浦に山津見という地名があり山津見だから山と関係しているとはならない
綿津見神社と山津見神社は対になって伝えられた
それは海から移住してきた安曇族の神だったとしている
安曇族が大和国家形成の前に日本を移動して子孫を増やした
それで長野県の安曇にその名を残してそこでは船の祭りをしている
船と関係しているのは船を操作するのにたけていた海洋民族だったからである

その安曇族が相馬地方では海からやってきて飯館村の山津見神社を祀らせた
つまり安曇族の子孫の神である、ただわからないのは安曇族というのは何かはっきりしない、その痕跡も残っていないが綿津見神社と山津見神社がこれだけ多いのはその子孫がここに定着して住んだからだとなる
そして古事記でも国造りでもそうしした海洋民族が作った神話として理解される
国産み神話では海洋民族の特色が色濃いからである
そして死までも佐渡島まで国産み神話で生まれたという時そこまで安曇族などの海洋民族が移動したことを示しているのである

とにかく神社とは何か?それはこの解説のように場所と深く関係して生まれたのである
それで自分自身が場のことをアイディンティティ化して詩にしているのと通じている
人間の生はその場と一体として文化も作られてきた、だから世界でも文化はcutivate-cultureなのである
何かその土地で神聖な場所に社を建てたとなる
その感覚は今でも人間として生きる限り変わらないのである
人間はその土地と一体化してゆく、その土地とアイディンティティ化して一体化してゆくそのことで私は詩を作って来た、その土地の山であり石であり岩であれ樹であれアイディンティティ化して一体化してゆく
それは外国でもそうである、ギリシャにあれだけ神々がるあるのともにているのだ
それはその土地と不可分に結びついている
ゼウスが住んだというオリンポス山は春に行ったみたら雪に覆われて本当に神々しいものだったのである、ギリシャは海と山が迫り島が多く日本の地形とにていたのである
だから自然の中に八百万の神が宿る日本とにていたのである

私は常に墓とか古い碑に関心をもっていた、江戸時代の碑があるとそこに注目してしげしげと見る、ただ明治以降になるとあまり関心がないのである
例えば身近でも意外と古いものがある、近くの神社に天明の碑があったり鹿島神社の脇に暗唱せよという小さな碑があったりしてこれは寺子屋があった証拠である
そして鹿島神社は建御雷(たけみかづち)の神を祀るものである
これは武の神なのである、その脇に墓地がありそこは元は鹿島神社の領域でありそこに寺が作られた、神仏習合の寺であり神宮寺とあればそれである
だからこういう小さな忘れられた碑が歴史を語っているのだ

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これは僧侶の名だろう、ここに暗唱せよというのが記されている


不詩(文)朗謡-朗詠

朗謡-朗詠・・・暗唱
詩に文にせず暗唱せよ
謡(うた)いなさい

自分の家の墓地に江戸時代の碑

佐須村より多いのは真野ダムの前には戸数も人口も多かったからである
村の中心部がダムに沈んだためである、また官林の面積が広くそこで山林事業で財をなした山持ちがいたためである

それで今回発見したのが大倉の墓地がある所に忘れられたように石段も崩れてある山津見神社の入り口の狛犬の台に
国威宣揚、武運長久とか記されていた
これは太平洋戦争時代に記されたものである
この時こうした村の小社まで国家神道化して戦勝祈願していた
つまり大倉村など本当に小さな村なのだ、所帯数にしてもわずかである
そこには平地がない、でも山持ちで金持ちがいて相馬市の前は中村市の女学校に通っていたというばあちゃんがいたのである
相馬の女学校に通っていたとなるとこの辺ではエリートであり相当な金持ちしか行けなかったのである
私の姉は頭が良かったけど女学校に行けなかったと悔しかったと言っていたからだ

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そしてなぜこんなと小さな村の小社にまで戦争の痕跡があったことに驚いた
ここでもこうして戦争に狩りだされて戦争に参加した人がいた
それは全国でもそうである、そして今なお戦死者名を記している原町区の馬場の綿津見神社神社にあった、神社と戦争は不可分な関係にあり「忠魂碑」未だにどこの神社でもある、それは天皇が現人神(あらひはかみ)となり戦争に兵士として小さな村からも満遍なく集められたからである
それで映画があり戦争が終わって村に英霊となり帰ってくる幽霊を写していた
村に英霊となり亡霊となり村の社に帰ってくるのである

ある日、清作さんは、村の子供たちをつれて、帰ったら、かならずいこうと思おもっていた、源吉さんのお墓へお詣まいりをしました。そこは小高い山やまでありました。
「さあ、これが話をした源吉さんのお墓だ。お国のためにつくした村の勇士しだ。みんなよくお礼れいをいって拝おがみなさい。」
 子供こどもたちは、お墓はかの前まえにならんで、手てを合あわせて頭あたまを下さげました。

 村へ帰った傷兵 小川未明

この時日本全国が戦争一色になっていた、だからこんな小さな村にもそうした痕跡が残されていた、第一この狛犬の台座にこうした言葉を記すというのも違和感を感じる
それは戦勝祈願だからである
もちろん戦争には今でもいろいろな見方がある、それを全部を否定できない
でも戦争というとアジアからアメリカイギリスもかかわり世界的になる
でもこの一部落がこんな小社が戦争に関係づけられたということの事実である
その当時はこの小社でも戦勝祈願の社となっていたのである
国家神道化されていたのである
戦争という時、姉が従軍看護婦としてシンガポールの向かい側のジョホールバルの赤十字病院で地獄の苦しみのなかで働いたことを延々と聞かされた
遂に認知症になってもそのことを千回も聞かされた、だから戦争は身近にもなる

ただ70年も過ぎると忘れられてゆく、そしてこのように当時のことも忘れられていたがその狛犬の台座に当時のことが生々しく記されていたのだ
歴史とはこうして忘れられるのである、そして残された碑でも忘れられてゆく
注目もしなくなるのである
ただ自分にとってこれは衝撃だった、こんな忘れられような小さな部落に戦争を伝えるものが残っていたということがショックだったとなる
ここから当時をふりかえることになる
戦争という時戦後でも相馬地方で山に開墾に入った人たちが多い、15パーセントくらいいるとなるとその数は多いのである  

私は小池に引揚者で入った人がいることを知っている
そこに玉子買いにやらされていたからである
それから飯館村でも大倉から坂を上って木戸木には十軒くらいの開墾部落があった
そこは本当に辺鄙な場所なのである、そんなところでどういう生活をしていたのか不思議だとなる
浪江の山の方へ放射線被害が大きかた津島の方だとそこも多かった
それで苦労して開墾して住んだから強い絆があるというのもわかる
それがそこには住めなくなったのである
つまり戦争から戦後となるとすでに戦後でもその時は子供時代でも団塊の世代は戦争とかかわる時代だったのである

とにかく人間は常に時代が変わり忘れられてゆくのが早いのである
だからこの狛犬の台座に記されている字で戦争がここにも色濃く反映して影響して会ったことを知ったのである、歴史というのはこうして忘れられてわずかのものから回想することになる、それが大きな事実でも忘れられて小さな碑のわずかな文字が昔を語るだけだとなる、戦争も70年過ぎるとそうなってゆくのである




夢 (映画)黒沢明
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トンネル


敗戦後、ひとり復員した陸軍将校が部下達の遺族を訪ねるべく、人気のない山道を歩いてトンネルに差し掛かると、中から奇妙な犬が走り出てきて威嚇してきた。

追われるように駆け込んだトンネルの暗闇で私は、戦死させてしまった小隊の亡霊と向き合うことになる。自らの覚悟を語り、彷徨うことの詮無さを説いて部下達を見送った私はトンネルを出るが、またあの犬が現れ、吠えかかってきた。

私はただ、戸惑うしか無かった

戦死者が亡霊となって故郷へ帰ってくる、トンネルを出てくる
それを返すのだがそれが何か生々しいのである
戦死者の亡霊は小さな村の社から出征して帰ってくるがそれが亡霊となっていたのである未だに戦死者の亡霊は実際は日本中で彷徨っている
posted by 老鶯 at 14:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2019年08月26日

芙蓉が似合う飯館村 (新涼に訪ねるー人が住まないと建物も自然も活かされない)


芙蓉が似合う飯館村

(新涼に訪ねるー人が住まないと建物も自然も活かされない)

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ここは栃窪でありこの石碑は明治時代が多い

ところが上の方に行くと金毘羅の碑が多く江戸時代の碑なのである

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山津見神社

綿津見神社も飯館にあり対になってこの辺では本当に多い

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文化という時代である、この石碑は倒れていた
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大倉村の主要部分はダムに沈んだ
ダムになる前に行ったことがある、そこはまさに秘境だったのである

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芙蓉がいたる所に咲いていたーここは新しくできたふれ愛館である

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石がその土地に根付いて離れない

そんな感じの大きな石



蔵に映ゆ木槿や農家ここに古る

栃窪に古碑の並ぶや実りかな
                                                        

草深くフジクロセンノウ咲きにけり飯館に我がたずねきたるも

大倉の墓地またたずね人気なき秋の蝉の声ひびき静まる

大倉に我は休みぬ秋の蝉ここに鳴きにつ誰か住みなむ

夏草にうもれし碑かな大黒天その碑倒るも直す人なし

ひぐらしの森の奥よりひびきけり大倉暮れて我が帰るかな

ゆったりと赤と白との芙蓉咲き客を迎えむ飯館村かな

この石の土地に根づきて離れざり虫の音聴きて夕暮るるかな




芙蓉が似合う飯館村

峠越えて新涼の山の村
悠長なる時の流れて
赤と白との芙蓉咲き
二つの花の愛のそそがる
至福なる日の我にあり
ここに心安らかに客を迎えむ
広々とした所に
一軒一軒森に包まれた家
その花の大らかにふくよかに
山間の空を仰ぎ咲く
ここを訪ねし者よ
疲れし者よ、癒されむ
去りてもそが心に深く
その花の写し残さむ 




今日は涼しい感じだから飯館村まで行った、途中大倉により墓地とか古い碑を見た
江戸時代のものがあった、大倉は古い村なのである
葉山(羽山)祭りというのが残されていてそれは古いものなのである
この辺では葉山信仰が盛んなのである
ただ墓地にあったのは山津見神社である
これは栃窪村にもある、その本山が佐須にある山津見神社であり飯館村には綿津見神社もある、これは二つがセットになった神なのである
安曇族のもたらした神だとされている、とにくかこの神社は相馬地方に本当に多いのである、それはなぜなのかとなる

大倉村には人が住んでいる、少ないにしろ住んでいる、だから蝉の声を聴くときやはり人が住んいるのと住んでいないのでは大きな差がある
またそこに暮らしがあるとないのでも大きな差がある
人が住んでいれば蝉の声でも人をイメージする、秋の蝉の声がひびけばやはりその村自体が山村に住む人たちの秋を感じるのである
つまりそこに村があり人の暮らしがあるのとないのとはまるで違ったものに感じる
人が住んでいてければ原始的な森になる、そこから人をイメージできなくなる
そこに人が住んで暮らしがあれば季節の移り変わりがあり人のことを思うのである

飯館村にはなぜ秋の蝉が鳴くころ行っているのかとなるとやはり暑いと自転車では行きにくいからである、特に最近日ざしに弱くなり熱中症になったから怖くなる
今日は新涼であり気持ち良かった
だから楽に飯館村まで行けた
途中会ったのが新幹線で郡山まできて三春からこっちの方に自転車で来た東京の人だった新幹線は輪行できた、これはいい方法である、景色のいいところを回れるからである
そして二三日だとそれほど疲れないからである
東京から自転車できたら大変だからである
いい景色の所を回るには途中下車で輪行するのがいい
飯館村のキコリの宿は泊まれるようになった
ただ食事は出ないからそこは気をつけた方がいい、コンビニがあり弁当は買える

飯館村はいたる所に芙蓉が咲いていた、道の辻でもまでい館でもまた新しい交流館でも
芙蓉が咲いていた
飯館の花はひまわりの里としているが芙蓉の里である
ひまわりは他でもあり飯館村は芙蓉があっている
花というのもその土地にあったものがある
相馬市だと神社に古い藤の木があり藤の花である
鹿島だと草深く咲く月見草とかなり原町だとひまわりがにあっている
何かにあう花がある、飯館村は前から草深く森深く花が映える
フジクロセンノウというのも草深く咲いていた、これも飯館村にあっている
飯館村の不思議は花が他より純粋に美しく見えるのである
高山植物のようにも見えるのである

ただ正直そこが放射線物質のフレコンバッグが積まれていたり荒地になっているので荒涼とする、ただ花を植えたりはしている、でも荒れ果てたという感じになる
それは小高でもそうである、田んぼが草ぼうぼうになり荒地になっているのだ
それが嫌なのである、田んぼというのは自分も気づかなかったが田んぼが荒地になり草ぼうぼうになったとき蛙が消えてその鳴き声を聞こえなくなり鷺も消えたのである
だから田んぼというのは米を作るだけではない、生態系を維持するものとしてもあった
景観を維持するものとしてもあった、それに気づかなかった
その効用に気づかなかったのである、だから農業をただ食料をとれるだけのものとして見ることは間違っている、自然を生態系を維持するための機能があった
それは金にならないにしても自然と一体化してあった
蛙の鳴き声が聞こえず鷺でも見れないとしたら淋しいとなるからだ 

景観(自然)と生業と暮らしが宝だった!

飯館村というときまさにこれがあったとき宝だった、それが全体として価値を作っていたのである
ただそこは貧乏にしても外から来た時でもなんともいえぬ味わいを出していたのである
そもそもそういう価値は全体が作り出すのでありそれが破壊されたとき失われたのである
それが原発事故の罪深さでありそれが飯館村に一番象徴的に現れたのである
多額の補償金をもらって外の便利な街に移り住んで良かったという人も現実にいる
外からただその暮らしの現実を見ないで理想化するのは問題だということもある
畑を趣味でしいてもそれがいかに苦しいものか理解している
畑仕事はブヨにくわれた、キジに野菜が食われた、ネズミに食われた、盗まれた、種が高い、肥料が高い・・・
様々な問題があり外から見ているだけなのとは現実は違っているからだ
ただ旅人のように訪れる時そうした苦労も人間の嫌な面も見ないですむからいいのである
それでツキデウスの人間の暮らしを神が隠したというとき自然の中に隠されるように人間の暮らしがあるときそこは桃源郷のようにいいものとなったのである、でもこの世に桃源郷などないのである、それはありえないから桃源郷なのである

までい館でアスパラガスと大きなトマトを買った
それは飯館村で作ったものである
そこでは放射線量を計っている人がいた
放射線量は量に作用される、多く食べれば体に蓄積される、少なければそうではない
それも確かである、相当の量を食べないと蓄積されないだろう
飯館村に住んでいた老人が山菜をキノコでも食べていた、その人は70以上とか80とかなっているから放射線は関係ないとして食べていたのである
その人は外から派遣された人ではなかった、飯館村の人だったのである
真野川の水質検査している人は中央から派遣されている人である
この前は農水省の人とあった、まだそういう人がこの辺には派遣されている
トラックが放射性物質を運んでいるのだろう
道路が狭いから危険なところがあった

までい館の前は住宅地化して家が建つ、その前の古い農家ではその土地を売って補償金でも多くもらったから新しい家になっていた
何か飯館村では補償金の額が大きかったから外に出る人も多く残る人と残らない人でもめたとかあった
現実に交流館とか他に学校でも建物は立派なのである
でもそこに住む人がいないことが致命的なのである
子供すら外から通っているのであり住んでいないからである
村長の孫とかでも通っているのである、それもは矛盾である
なぜなら村長自体が住まないのだからその他の人も住まないとなるからだ
帰ったのは二割弱というから少ない、そのことで人が住まない牛を飼うことなどの暮らしがないということで前に来たような感覚になれないのである

やはり人間は建物でもそこに人が住んでいないければ活きてこない
施設を立派にしても活かされないのである
それで立派な施設が南相馬市にあってもそこで働く介護士などいないから青森にこの辺では介護者が移されているのである
つまり立派な施設が建物がなくても人がいれば活きるということがある
人がまずいなければ建物でもなんでも活かされないのである
前に着たときも芙蓉が咲いているのが印象に残っていた
でも何か前の印象とは違うのである、それが残念なのである 

ともかくようやく涼しくなり自転車で遠くに出かけられた、暑い時はぐったりと疲れて寝ることが多かった、秋になれば遠出ができる

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2019年05月04日

新緑と山桜と枝垂桜(写真12枚) (大倉から飯館へ―人が住んでいて安堵した)


新緑と山桜と枝垂桜(写真12枚)

(大倉から飯館へ―人が住んでいて安堵した)

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藤の花と山吹
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山桜と山吹

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ルリタテハが神秘的だった

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猿がいた

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草野の方へ
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人が住んで菜の花畑にした
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ここはなんだったのか謎

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安政の碑があった
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木戸木の奥の人が住んでいた跡
小屋のようなものがあった、こんな所に人が住んでいたことの不思議

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拡大しないとはっきりしません




新緑の常磐高速早しかな

雲流れ光のさして山桜

山桜高みに映えてなお散らじ

八重桜老人出会うサイクル車

猿登る山桜かな山に住む

飯館の家々離れ夕桜

落椿赤さ広がり夕暮れぬ


山吹に藤の花映ゆ清らかに流れひびきて山分け入りぬ
                          
新緑の山を一気に満たすかななお残り咲く山桜映ゆ

山桜と山吹映えて新緑の道のつづきて坂越え行きぬ

山の影そびらに映えて夕暮れや山桜見ゆ山の深きを   

菜の花に古き碑ありて山桜映えてそ山の暮らしありしも

なお知らじ道をし行けば家ありて山桜映ゆ森の深しも

家あるとしるべや森の深きかな夕べ映えにし山桜かな

飯館のともしびあわれ家々に枝垂桜や夕暮るるかも

          (木戸木)
          
木戸木なるその奥にそ棲む人の跡たどりてあわれ散る椿かな 

木戸木なるその奥に住む跡ありや枝垂桜に散る椿かな

幽遠に人住む跡や山の奥枝垂桜に夕暮れあわれ

赤々と椿の散りて木戸木かな誰か棲む跡夕ぐれぬかも

半鐘の一つありにし暮らしあり木戸木の村や春の夕ぐれ

橋一つ共栄橋とここにしも開墾に入る暮らしありしも




飯館村の春

影なす森の道ここにつづき
森深くしるべの如く住む家ありぬ
山桜そちこちに咲き
広らかな土地に幸いや
墓地ありて眠る人 
道の辺の石は黙して古りぬ
すみれの飾らずあまた咲き
夕べともしびあわれ
枝垂桜の色深め
家々は離れ眠りにつきぬ
ここに生きる幸いを知るべし
村は悲しも分かたれぬ
土は活きず森も活かされず
牛の声は消えぬ
この村に原発事故の罪深きを示す
いつの日にこの村の元に戻らむ
ただ時のみそそれをかなえるや
その日は長くも森は残りぬ   



飯館村で今回感じたことはそれなり草野周辺は人が帰って家に住んでいる、住んでいない家があるにしても前よりは様子が変わったと見た、だから一軒一軒に枝垂桜が咲きともしびが見えたとき何か安堵した
飯館村の特徴はとにかく広いのである、道が幾重にも分かれて森の道がつづく、それで方向がわからなくなり迷うのである
飯館村にはどれだけ行っているかわからないのにそうなのである、それだけ広いということである
だから長泥(ながとろ)とかに行ったのは一回でありそれも記憶から消えているのである

その広いことにより家があることがまるで道標(みちしるべ)のようになる、それが飯館村の魅力だとなる
ここは自転車で行くの向いている、私は前は気ままに自転車で阿武隈高地を行っていた
ただここ十年は介護とか病気で行けなかったのである

今回は大倉村で山桜にルリタテハが舞っていたのは神秘的だった、新緑と山桜と山吹と藤の花も咲き始めた
この頃が一番いい季節である、これが梅雨になったり7月になると暑くなると去年は日射病になったから行けなくなる
新しいヤマハの電動自転車は楽だから行ける、前のだと相当に疲れて行けなかったのである
だから70歳でロードに乗っていた人には驚いたのである

ともかく飯館村は森が広いし土地も広いことが魅力でありそういう中にまるで家が道標(みちしるべ)のようにある
それだけ広いからそうなる、モンゴルとかの草原でテントがあったとき道しるべとなっているのとにているのである
ただもしそこに人が住んでいないら空家ならそうはならないのである
人が住んでいるから道標になる、ただ草野周辺は結構人が住んでいた、でも広いからあとは人がどさだけ住んでいるのか?
とにかくやはり人が住まないとあんなに広いのだから荒涼となってしまうのである

帰りは木戸木によったけどそこが一番不思議だった、あんな奥に家があり人が住んでいたことが不思議である
あそこは必ず通っていたけどあんなところに人が住んでいると思わなかった
今あそこに住んでいるのは一軒だけである、車があったからわかった
あそこは戦後入植した村である、共栄橋とかあるし不便な所だからである
それでも十数軒ったのは意外だった、あんなところに暮らしていけたのかとなる

飯館村のように広いと墓地でもそこに眠っている人は気持ちいいだろうなと思ってしまう
自分の家の墓は街内にありごちゃごちゃして墓の中を歩くこともできないのである
都会の墓よりはいいとしても狭すぎるのである
死んだらわからないにしても飯館村のような広い所だと墓地でも死者も悠々と眠れるとなる
東京辺りでは墓まで団地のような所の狭い空間に区切られて閉じ込められているのである
死んでからも窮屈なのである

原発事故では飯館村のような自然に恵まれた村が一番被害が大きかった、それが原発事故の罪深さを示したのである
東京などは別になくなってもいいとも感じる、あんなモンスターのような都会のどこがいいのかとなる
そういう文明が誇れるのかとなる、でも現実そこに密集して人が住んでいる、そこは密集地獄なのである
確かに一方では飯館村に住んで満足していたかというとしていない、だからこそ多額の補償金をもらったとき福島市とかに移り住んだ人が多いのである
歯医者すらないしスーパーだって小規模であったからだ、車がなかったら買い物すらできないし医者にかかれないのである
そういう不便さがあるけど広々とした自然の中につつまれて生きている、ただそういう暮らしにみんな満足していたとは限らない
そして外部から来る人はそうした生活の不便さや貧しさなど感じないからいいと思うのである

いづれにしろ人は前よりかなり帰って住んでいる、でも草野周辺しか見ていない、広いから後は住んでいるのかどうかわからない
でも人が住んで灯がともり枝垂桜が一軒一軒に咲いていて安堵した
その灯がなんともいえぬ人のぬくもりを感じたのである
それはやはり飯館村は広いから一軒一軒の家が離れてあるからそうなる





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2019年05月03日

5月に大倉から飯館村まで出会った人 (それなりに前より帰っている家は眼についた)


5月に大倉から飯館村まで出会った人

(それなりに前より帰っている家は眼についた)

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真野ダムは青い線まで水があった

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5月25日サイクリング大会

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猿がいた、クリック拡大

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相馬農業高校の分校
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震災以後時計は止まったまま
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ここで60代の女性と話した



最初出会ったのが大倉の真野ダムで原町の人でありロードにのっていた
若い人かと思ったら60代と70の人だったのである
60でもそうだが70でロードに乗るのはきついと思った
前から乗っていたにしろ70はきつい、あそこは坂がきついからである
自分はいつでも歩いて上っていたのである
あの年でも坂を上りきることが快感であり電動自転車は使わないという
高齢化でみんな年齢では計れない、体力の差があるし健康の差も大きくなる
病気になった人は弱った、脳梗塞を経験した人は同じ年でも弱ったからである

真野ダムの水位はあんなに低くなると不安になる、なんでも崖のところに水がないと水圧がなくなり崩れという、そういうこともあるのかと思った
大倉にも何軒か帰っているにしろ一軒の店はなくなり自動販売機もなくなったから困ることはある、飲み物を用意していないと困る
サイクリングが5月25日にある、あの辺はサイクリングに向いている

そこから木戸木に行って新しい道を行った、猿が山桜の木に登っていたり渓流にも猿がいた、人間がいなくなると猿とかイノシシは住みやすくなる、警戒しなくなるのだ

までい館が休んだ、あそこには地元で作ったものを置いていないので魅力がない
それもどうしようもない、放射能でとれない、キノコを置いてあっても売れるのか?

次にそのまでい館の前の新しい住宅地におばあちゃんがいたので話した
までい館の前に相馬農業高校の分校があり震災前まで生徒がいたのである
その学校の時計が4時12分で止まっている
それは3月11日に地震があった日の時間でありそれ以来止まったままなのである

「あそこの学校は震災前は生徒がいたんですね」
「あそこはずっと前はみんな集まってにぎやかなときがありましたよ」
「なんか淋しいですね」
「どこからきたの」
「鹿島です、飯館にはしょっちゅう来てました、でもあそこの学校の奥の方に行ったら知らない所だった、いや、本当に飯館は広い、知らない道がありどこに行くのかほからなくなる」

それから放射能のことを話した

「長泥(ながとろ)ではまだ除染しているようですね、私の知っている人の息子も除染の仕事したといいますから」
「だいたい終わったのよ、長泥からは東電の原発の煙突が見えるんですよ」
「ええ、本当ですか?相当遠いはずだけど・・・・」

長泥からとても原発の煙突が見えると思えなかった、長泥という場所に一回くらい行った記憶があるけどそれも相当に遠い場所だったと記憶している

「ところでここに住んでいるのは若い人住んでいますか」
「一軒くらいは住んでいるけど老人が多いよ」
「やっぱり、前の新しく建てた住宅でも老人が多いと言っていましたから」
「放射能でどうにもならないよ、若い人は帰らないよ」
「なんかこの土地は前の農家の土地でその人が土地が売れて金が入り喜んでいました」
「そうですか、私は土地も家もない住宅に住んでいたから」

その女性は確かに飯館に住んでいても家も土地もなかったのである
その前の家は塩の道の通にあり蔵があり古い家だったのである
その家は新しい家を建てたから確かに金が入ったことは言える
一般的に飯館村は補償金は相当にもらった
だから新築の家が多いのである
そしてそれなりに人が帰っている、でも飯館村は広いから草野からはずれた遠くは人は住んでいなのかもしれない、ただ広いからわからないのである

そしてまた帰りに大倉に寄ると東京の練馬から来た人が公園でキャンプのために
テントを張っていた、そして煮炊きもしていた
なんか前にもボランティアで大倉に来ていた、だから知っていたのである
そこはキャンプはしていけなかったが特別許可をもらったらしい
なんでも練馬区から来たと言っていた
環境緑化新聞の記者だとも言った
インタ−ネットで調べたらあった

環境緑化新聞

夫婦ともう一人男性がいた、もう一人の男性は造園関係だと言っていた
東京というとき練馬区ってどこなの?となる
                                           
“都心3区”と呼ばれるのは千代田区、中央区、港区の3つ。
皇居に隣接しているため、昔から商業はもちろん、政治や企業の本社機能などの中心として栄えてきました。

現在も東京駅を中心とした大手町・丸の内などのビジネスエリア、銀座・表参道などの商業エリアとして日本の経済活動の中心となっています。

東京の中でも地価がもっとも高いエリアでもあり、居住者は少なく夜間人口は昼間人口に比べてグッと下がります。

やはり江戸城を中心に見るといいのかもしれない、ただ練馬大根とあると江戸時代だったら農村部だった
今は全然違っている、ただ江戸城からもともと離れた地域だとみるが東京は地理はわからない
わかるのは皇居のある中心部だけである

今回キャンプしている人は遊んでいる人である、前にボランティに来たとしても今は何もすることがない
八戸とか災害地に行っているというが何かする訳ではない室根山に行ったとかも行っていた
車で東北を旅行しているのである、ただキャンピングカーではない、そういう人も今高齢化社会で仕事していな人が多いからいる
めずらしいことではない、ボランティアでも今は何もしない、ただ旅行しているというだけである  

ともかく飯館村ではそれなりに草野辺りから周辺と帰って住んでいる人が前よりかなり多くなっている、ただ老人が多いのだろう
老人は離れられないここに住む他ないと言っていたからである、それは小高でも避難区域ではそうなっているのである
別にそこであった60代の女性でも山菜を食べているという、前もそういう人がいたのである
飯館村では山菜を食べるのが普通だったからである、それができないとなると飯館で暮らすメリットがないのである
ただあれだけの広い地域をどう活かすのか、確かに牛を飼いはじめた人がいたとしても極わずかである
牛を飼うのに良かったのはとにかく土地が広いからである、牧場にできるからである

でも今になるとこれだけ広い地域をどう活かすのだろうとなる、農業は放射能汚染でしにくいからだ
それぞれの地域によって復興は違ってくる、飯館村はとにかく広いのである
その広さをどう活かすのかとなる、小高だったらマルシェのようにな街中心の復興がありえる
飯館村の復興となるとその広さの故にどう活かしていいのかとまどうのである
今回も迷うから遅くなるから早く帰って来た、そこは行ったことがない所だった
道が幾重にも分かれていて入ってゆくと方向がわからなくなった
前にもそうだった、東京から来た人はGPSを備えているというのもわかる
方向がわからなくなる、磁石をつけているがそれでも東と西が何か絶えず変わり方向がわからなくなるのである
次は時間をかけてまた飯館村を探索してみよう

飯館村ではまだ山桜が咲いていた、そのことは今日の一句一首でつづきとして書く

posted by 老鶯 at 21:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2019年01月10日

花の映える飯館村(詩) (原発事故で一番被害を受けた無惨になった村)


花の映える飯館村(詩)

(原発事故で一番被害を受けた無惨になった村)



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広々と各々庭のあり
夏の日に花は映えぬ
とりどりに小さな花々も
明るく大きな花も伸びやかに咲く
秋の日は芙蓉がゆったりと咲く
時の流れはゆるやかに花々は
それぞれの色と形もて
存分に与えらた個性を示す
天より神はその花を見る
そこにつつましい暮らしがある
山菜を食べるまでいな暮らしがある
もうとこちらで牛が鳴き
あちらで牛がもうと鳴く
森に囲まれ小鳥の鳴く声のひびく
その音色は澄んでひびきわたる
それぞれの家は森に囲まれている
人々の家も暮らしも隠されし村
ただ花が日がな映えて咲く村
花と花は争わず互いに認め合い咲く
道の辺の一本の木に秋の日のさして
かなた安達太良の山に陽は没りぬ
秋の蝉ここに静かに鳴きひびき生を終える
その命はここに尽きて幸いなりと・・・
今悲しもその村は荒れ人は去りにき
ただ残れる一本の木に我はよる
村人のここに還る日を待ちにつつ
墓に眠る先祖もまた帰るのを待っている
美しき村よ蘇えれ!
安住の地を回復せよ
そこに人は心身ともに養われるべし



飯館村の不思議は何か南相馬市方面から行くと標高が高いのである、だから自転車だと坂を上るのに苦労した
歩くほかないのである、電動自転車だと楽ではあったがそれでも坂がきついのである
ここに花の詩を書いたけど何か不思議なのだけど飯館村では花が自然のままに咲いているという感じになる
またここでは書いていないけど草むら深く咲く野の花がありそれはまだ誰の目にもふれていないという高山植物のようにな感じになっていた、なぜ花が映えるのか?

それは高原であり森につつまれていて人家も森に隠されている、するとそこで目立つの花になるのである
一軒一軒が広い庭があるし森につつまれているからである、人影もまばらであり自然の中に隠された感じになる
すると人の暮らしを隠せというヘシオドスの言うことがわかる
都会のように人の暮らしがむきだしになり人と家で埋め尽くされた所がどれだけ醜くなっているか比べれば一目瞭然だからである

ただ人の暮らしを隠せというとき飯館村だってそうである、そこに住んでいる人たちも実際はどこでもそうだが醜いのである
田舎の人間が素朴だという時代はとっくに終わっているし前からでも田舎の人間は田舎の人間特有のいやらしさがある
もうそれで嫌にもなるのである、しつこく蛇のようにからみつき噂にした干渉したりするからである
人間はどこでもそうなのである、ただ飯館村はそうした人でも暮らしでも隠されているからただその村の人と関係しないと花だけでも見て帰っていたからそこがこのように見えたのである  

いづれにしろ飯館村は悲惨であり愕然とする、田んぼの土ははがされむきだしになり放射性物質のフレコンバックがいたるところに積まれている
だからあんなに土をはぎとったのは問題だった、除染にしても何かやり方があった、だから下の土と入れ替えるということもそうだったなと思う、たが科学的知識がないからわからない
でもあまりにも無惨の景観になってしまったのである

そして事故後は補償金で村は二分されたのは南相馬市と同じである、前のまでいな村とで一体になるということはない
その補償金が大着すぎたからまたそうなったのである、までいな暮らしより一億円もらって外で新しい家を建てて豊かな暮らしをした方がいいとなったのである、それだけ今は金の力が大きいのである
もしそんな金をもらわなっかたらやむをえないとして質素でもまでいな暮らしで満足する他なかったからである
その時外から来る人は一時的にいるとしたらいい村だとして帰ってゆくのである

でもそこに住んでいる人には不満が大きいのである、スーパーが小さいのがあったとしても貧弱だった
歯医者もなにもないのである、馬券売り場を作ったがそこでもめた、娯楽がないからそうなった
パチンコ屋もなかったからだ、ただ飯館村は原発とは関係ない村だと思っていた
それでも原発で働いていた人がいたということは意外だった
それだけ原発は金になるからそうなったのである

いづれにしろ花が映えるというとき庭が広々としているからそうなった、そして贅沢なのは一軒一軒森につつまれていたからである
それは都会のごみごみした密集した家と比べればわかる、そこにどんな豪邸を建ててもそれが豊かだとは言えない
だからこういう原発と関係のなかった村を破壊した罪が一番大きかったとなる
極端に言えば東京などは価値がないからなくなってもいい、でもこういう自然の中にある村は神がよしとして天から見ていた
そこに天から神の眼は注がれていたのである
だから原発事故の罪の重さはまさに飯館村にその罪の重さを示したのである


posted by 老鶯 at 14:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2018年12月03日

四人石(詩) (飯館村のまでいな村作りは間違っていなかった しかし原発事故がみんな駄目にした)


四人石(詩)

(飯館村のまでいな村作りは間違っていなかった
しかし原発事故がみんな駄目にした)

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落葉に埋もる四人石

大都会の顔のない
群衆に交じり
その無数の人に疲れぬ
誰でも疲れぬ
その顔に疲弊の色が濃い
山の村の林に
四つの石が落葉に埋もれあり
互いに寄りそいいつまでもあらむ
かなたに稜線の明確に
冬の陽は輝き没らむとす
その鋭い影を心に刻みぬ
ああ 都会に無数の人の群れ
その顔を覚えられることもなし
ただあわただしく消えるのみ
四人石、ここに離れず
記憶を留めぬ
一つ一つの石は異なり
そは長くもあれな
互いに寄りそいつ
ここに留まりて忘れられざるべし
人はみな散り散りになる悲しさ
金の切れ目が縁の切れ目
人はかくして離れて帰らじ
四人石ここに変わらず
長くあるべし
黙しつつも心は通じあう
そは幸いなり
北風は一段と吹き唸るも
ここに変わらず身を寄せ合いぬ
死すともここにあるべし
その場こそ生き死にの場なればなり



何かパラドックス(逆説)があった、双葉町は原子力とともに歩む町として進んだ
結果として住むことすらできなくなった
生業をもどしてくれといってもできない、それは何を意味しているのか?
何が間違っていたのか?

一方飯館村は貧しい村だったけどまでいな村として村作りをしていた
そこはもともと原発とは関係していない地域だった
ただやはり原発で働いていた人はいたのである
原発はそれだけ金になっていたからである

でも飯館村の村作りはまでいな村作りである、までいなとは無駄にしないで物を使うとか生活するとかの意味である、山菜なども利用してまでいな生活をすることである
物を粗末にしないことである、もったいないという言葉とにている
もともとみんなそういう生活をしていた、そうしなければ生活できないからである
外国からなど石油でも入ってこないからエネルギーは炭だとかなっていたから自ずとそうなった

この二つの村は対象的なものとしてあったとなる
しかし原発事故でどちらも崩壊した、双葉は積極的に原発を誘致して町作りしたのだから自業自得だという面があった、だから何か補償金でも限りなく要求することは国民から嫌がられる、原発乞食だとか見られる
それは最初から原発を町の方針として受け入れてそれで町作りして豊かになろうとしたからである

飯館村にはそういうことはなかった、ただ風向きとかその時雨がふったとかで雪がふったとかで条件が悪く最も汚染されてしまったのである
でももともとまでいな村作りしていたし東電からなど補償金をもらっていないだろう
だから飯館村の方針は今になれば正しかった
でも村民でもなんとか豊かになりたいということはあった
だからこそ原発で現金収入を得たいと働いた人がいたのである

ただ原発事故以後は今度は多額な補償金でもめるようになった
できるだけ補償金をもらって村を出る組と残るべきだという組に二に分断された
一つのまでいな村としてまとまることはできなくなった
それは南相馬市でもそうである、補償金のことで分断された

結果的にいづれにしろ飯館村の荒廃はひどい、放射線量が以前として高いのである
だからそこに住めるのかとなり若い世代は出で行きたいとなり帰ったのは15パーセントでありそれも老人が大半だとなりそれは他でも同じである

何か原発とういものが一番打撃を与えたのは不思議に漁業関係とか農業とか林業だったのである、それこそまさに第一次産業でありそれでこれまで生業として成り立っていたものだった、でも高度成長時代になるとその第一次産業は全体の経済活動の一割にも満たなくなっていたのである
そして誰も跡を継がないとかなっていた、グロ-バル化経済でも地方は打撃を受けた
木材は外材になり森の木材を活かせないとか農業でもそうである
そしてもう跡継ぎがいないとかなっていた
今でも農業に従事しているのは65歳以上であり後継ぐものがいないから農業が崩壊して食料危機になるともされている

ともかく何か極端なアンバランスな経済になった、中央と東京と地方の関係でもそうである、日本国土がアンバランスなものとなり歪みが生じたのである
だからこのアンバランスな状態を歪みを元にもどさねばならないということが政策にならねばならない、でもそれも簡単にはできない
それで東南海地震が津波が来ればもう東京でも一極集中だめだとなり地方分散することを決断せざるをえなくなるということを予想する人もいる
なかなか荒料理はそうした大きなことが起きないとできないからである

やはり最初の方針が間違っていたから今日の結果があるともなる
ただ豊かさのみを金になることのみを極端に求めることしかなかった
原発は金の鳴る木であり漁業組合は東電に漁業権を売り渡して贅沢な暮らしをした
事故前補償金で潤い事故後もなんら困ることがないのである
それも矛盾に満ちたものだったのである   
それは漁業だけではない、農業でも林業でもそんなものより金がとなり東電に国家権力の政府に売り渡したのかともなる
そこに価値を見出さなくなっていたからである、そもそも国土というけど東京に住んでいたら土もないのだから意識できない

意識するのはトヨタとか日産とか自動車産業で世界で売ってもうけるということが最優先にされるし政治でもそうなる
だから国土は地は血であり血肉である、そういうものを金のために売り渡したともなる
現実に空気でも土でも水でも森でも汚染されたらもう住めなくなるからである
実際は国土なくしてありえないのだがそういう意識もなくなっていたのである
車を売ることとか電気を生産することの方が最優先されていたのである、それに意義を唱える人などいなかったからである
豊かになるためには金になるのはそれしかないとなっていたからである

私は都会を嫌って田舎で文化を追求してきた、その田舎がこんなふうになるとは予想もできなかった、石が四つ離れずにある、そこに住めることこそ最も最優先することである
その住むことができなくなったらもうすべて終わりだとなる
何がなんでもその場に住めることこそ最優先なのである
それが奪われたときすべての努力は無に帰したとなってしまったのである

だからなにか修復できなくなったこの状態に茫然とする
でばどうしたらいいのかとなると自分にわからないのである
ただ何か無力感がそこに漂うだけになる、なぜなら放射能汚染というのはどうにもならないからである
一旦町でも村でも崩壊すると元に戻すことが至難になるのだとつくづく思った
そこには何もない所から始めるより困難になる
積み木のように一旦壊したらまた同じものを建てるのが嫌になるからである
ただそこに新しいものを違ったものを子供は作ろうとする
それは人間の心理なのである、復旧とは前と同じものにすることでありそれではなく復興は何か前と違ったものに前よりいいものとして復興することである

それができたのは新地町だったのである、駅で書いたが前よりずっと良くなっている、そこはやはり津波の被害だけだから復興できた放射線被害はこれはそのベースとなる土とか水とか森とか空気まで汚染したからどうにもならないものとなった
それに対処する方法がない、ただ花は放射能汚染と関係ないから花栽培はしている
後は奇妙なのだけど老人は山菜を食べているともいう、放射能など関係ないというのもわかる
いづれはガンになるしもう関係ないとなり食べている
でも若い世代が帰らないから復興できないのである

高度成長時代とかグロ-バル経済とか世界的にもゆきづまり次の時代は東京一極時代の転換も言われるようになりそういう転換期に原発事故が起きた、津波も起きた、その時もし原発事故がなかったら飯館村などは貧しくても注目される村になっていた
までいな村とかそれはこれからの人がかえって見本とすべきものでありかえってそれで人が集まるということがあったかもしれない
時代の風潮がありそれに今度は合うものとして村があり移住者すら増えていたかもしれないのである
だから原発事故は本当にあまりにも悲惨なとりかえしのつかないものとして打撃だったと思う
村は補償金で分断されて荒廃した村の土地がある、金があればいいとなるがそれにも大きな負の面がありそれがあからさまにこの辺では現れたのである 

ただこういうことは歴史でも世の中には起きてきた、金の切れ目が縁の切れ目でありそういうことを一身上で嫌というほど経験した
みんな求めるのは金だけでありみんな去った、そして二度と近くにいても合わない、絆とか盛んに言われたがそもそもそんな絆があったのかとなる、結局金の方が大事だったとなる、ここではそういうことが極端な現象となって現れたのである
この世の中でそういうことは日常的に起きているのである、だからつくづくこんな風に町でも村でも崩壊するとなると絆が何であったのかともなるのである、自然の無情、人間の無情、無常を極端なものとして経験したのである
これほど常なきものかということを経験したのである、町や村すら消失するということは想像できなかったからである

ただ冬の空には高原だからやはり一段と星が美しく輝いていたからそういう所は変わらなかった
それは救いだとなる、冬の銀河はその空にかわりなく映えていたのである 


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2018年05月18日

飯館を掘る(天明の飢饉と福島原発(佐藤昌明著を読んで)



飯館を掘る(天明の飢饉と福島原発(佐藤昌明著を読んで)

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宝暦の飢饉の時飯館村の被害が大きかった、明和-安永とつづき天明が最大の被害にあった

相馬藩の飢饉の歴史(宝暦から始まっていた)

相馬市(日立木の薬師堂の宝暦の碑−甲子塔の謎)


1751年宝歴1年
1763年宝歴13年
1764年明和1年
1772年安永1年
1781年天明1年
1788年天明8年戊申

人口が三分の一に減ったのが天明飢饉だった,だから鹿島の秋葉神社に「天明」の碑があるのかもしれない,ここは町内でもやはり農家が多いし農作物の被害が大きかった
神社の隣も農家だし街のはずれだから農家の集落だったともなる

飯館村は標高が高いから夏は涼しくていいが冷害に合いやすい場所だったのである。
それで米を作るより牛を飼うようにしたというのもわかる
なぜ越中とか越後とかから飢饉で空家となった荒廃した相馬藩にそれも江戸時代は自由に移動できないから命懸けで移民してきたのか?
それは江戸時代と今はあまりにも社会が違っている
米所である新潟県は人口が東京より多かった,江戸は百万都市としてあったが新潟県は
166万人いたのである。

@新潟県 165万人
A兵庫県 151万人
B愛知県 143万人
C東京府 135万人

江戸から明治の人口がこうなっていたのである。つまり稲作中心の社会だとこうなっていたのである。
だから越中でもなぜ飢饉で荒廃した相馬藩に移住してきたのか?
それは稲作とは土地中心の社会である。土地がなければ何もできないのである。
そういう社会のベースになっているものを理解しないと時代を理解しないとわからなくなるのだ
それは芸術でもそうだった,時代を反映するからその社会をわからないと芸術もわからないという人がいたからである。
人間は時代の子であり時代を越えて生きられないのである。
その時代も次々に変わってゆくからその時代時代の社会がどうなっていたのかわからなくなるのである。
自分にしても子供時代は炭がエネルギー源であり井戸水を使っていたということ時代をもう感覚的にわからなくなる,そういうことを経験していてもわからなくなる

こういう土地中心の農業中心の社会では土地が一番大事である。土地の価値が高いのである。それで村人が逃散した荒廃した土地に移住しようとしたのはその空いた土地が得られるとういことで命懸けで移住したとなる
またそこで謎なのが今だったら東京とか都会に行った方が食料があると思うだろう
江戸に行った方が食料があるからそっちに移住した方がいいと思う
今なら食がないと東京に行くからである。
これも時代の差である,農業中心の社会では土地があれば生きられるという感覚だったのである。
なぜ満州に日本人は進出したのか?明治大正昭和の人口の増え方は江戸時代の倍になり三倍になりと増え続けたのである。
それで江戸時代からつづいた開墾,開拓はゆきづまっていたのである。

すると農業中心の社会では土地を求めて満州に進出した,広大な土地があるということで移住しようとしたのである。そしてやはりそこでも米を日本人は作ろうとしていたのである。
この満州への移民が戦争のきっかけにもなっていたのである。
それはゲルマン人の移動とか移民は世界史も変えてしまう大きな要因となっているからである。モンゴルでも食料を求めて食料の豊かな中国に侵入するから万里長城を作ったのである。
つまり土地が与えられればとにかく食えるという時代だったのである。
自給自足が基本の社会だからである。
それにしても飯館村の被害が今回の原発事故の被害と似ている面があることも不思議である。

農民が土地を求めた満州に戦争の原因が・・・
http://www.musubu.jp/jijimondai38.html#man

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原発事故の被害状況 天明の飢饉の被害状況


飢饉の被害にあった地域と原発事故の被害とが相似形になっている重なっているのであるこれも何なのだろうとなる,何か人間の歴史にはカルマがある
歴史は繰り返すというときそれも人間個人でもそうだが社会全体でもその土地にカルマがあり繰り返すということもあるのか?
津浪もそうだったのである。400年前の被害を忘れていたがその土地のカルマが40年後に現れたのである。
個々人でも自分のカルマのことを書いたけど必ずカルマは苦しみとなって現れるのである家々にも必ずカルマを背負っていてそれがある時必ず苦しみとなって現れる
これはもう逃れようがないのである。

この時の飢饉で一番困ったのは人口が三分の一まで相馬藩で減ったことなのである。
それを穴埋めすることが最大の問題だったのである。
それで山形県から女買い入れまでしていたのである。

相馬藩は赤子養育仕法で間引き禁止,子供を大事に育てようとした,あるいは五人組制度を強化したのは領民互いに助け合うように説いたものだった,囲米は各村に郷倉をつくって食料を備蓄,飢饉に備えた
相馬藩の復興策は人々の暮らしの視点を大事にした
ハード事業よりソフト事業を優先した

ここで著者が指摘することは原発事故の復興をどうするかの示唆を与えている
例えば飯館村には立派な老人施設とか道の駅も本当に立派である。
学校でも新しく建てた学校は立派である
でもそこに通うのは村外からであり住んでいる人はいないとかなる
村長でも福島市にマンションを買ったとか住んでいない
浪江町でも町長は二本松に家を建てたとか肝心の地元には住んでいない
そんなこと江戸時代ならありえないしイメージもできないのである。
つまり殿様が地元に住まないで外に出ようなどできないからである。

現代ではこうしたハード面では充実している
でもソフト面ではそうではない,五人組など古いというが近隣で助け合うということは苦しいときだからこそそうなる
逆に原発事故では再三しつこく追及してきたがそういうソフト面は何もないとうより
補償金だけをもらいたいとなったのである。
金ですべて解決する,人の絆だとか助け合いなどより金だとなったのである。
だから家族すら老人は残ってもその息子娘所帯は外に出て家を建て別な生活をはじめたのである。
まず江戸時代とかとはあまりにも違った社会なのである。
土地にしがみついて自給自足で生きる社会とはまるで違った社会である。
金さえあればどこでも豊かな生活ができる
江戸時代は金ではない,土地が一番価値あるものだったのである。
その相違があまりにも大きいから復興の比較はできても今の復興にはつながらない

いづれにしろ時代は違っているけど何か似ているのも不思議である。
この時子育てが重んじられたのは子供もいなくなったら藩も維持できないからである。
それで子安神社が建てられたというのもわかる
原発事故でもまさに子安神社が必要になる
放射線の被害から神様守ってくださいとなるからだ

相馬藩は飢饉かから立ち直ったのは人々の助け合いとか越中や越後や加賀からの移民があってできた
それは何か現代でも移民というとき外国の移民を受けいるれか受け入れないかでもめているが共通している,人がいなくなった土地で誰が村を維持していくのかとなるからだ
若い人は流出していて一体誰か復興の主体となるのか?
補償金もらったらみんな村を出てゆき村に残ったものは老人だけだとなる

だから江戸時代が貧乏だからすべて悪いとはらない,豊かになってもかえってその豊かさが復興させなくさせているともなる
金をもらったらもう金のことしかない,補償金で暮らせればいいとしかなくなったのである。
かえって貧しくても村は維持できたが豊かになりすぎて維持できないということもあった金をもらえば貧しい村不便な村に住む必要はない
一億円もらったら村には住まないとなったのである。
実際は一億円の価値の方が現代では高くなっていたという証明なのである。

それだけ金の社会になり五人組など古い封建的束縛社会のものだとなっていたが
もう村人の絆もなにもない,金さえあればいいという社会で分解したとなる
それはここだけではない,南相馬市でもそうであり小高と鹿島は分断されたのである。
飯館村でも金をもらって外に出た方がいいという村人と残るべきだという村人に分断されているのである。
そうなったのはすべて高額な補償金のためだったのである。
これはもしかしたら現代の社会と意外とその絆が弱いからもろい,何かあったときこうして簡単に崩壊してゆくのではないか?
確かに広域的グローバル社会でありそれは世界的である。
でも意外とその核となるコミニュティは喪失して何かあったら簡単に分解分離して崩壊するということがこの辺を見れば
具体的なものとして提示されたともなる

現実に原発事故後七年すぎても避難した人は以前として働いていないのである。
パチンコ屋に若い人も多いと聞いたときその人たちは原発避難者なのか?
そういう人達は今も働かないで遊んで暮らしているのかとも思った
老人は多いのがわかるが昼間からパチンコしているのが若い人も多いとなるとそうかもしれない。
そういう人はもう働く気もなくなる,俺たちは被害者だと訴えつづける,韓国や沖縄の人達と同じになる,そういっていれば通る社会でもあるだ
そしてそれは一代でも終わらない,被害者だということは次の代にも受け継がれるして韓国と沖縄と同じになる
そして何かうまくいかなければ原発のせいだ、政府のせいだ,東電のせいだとしていれば言い訳になるから扱いにくいのである。
だからそういう人達とはなるべくつきあいたくない,距離を置くとなってしまう

とにかくかえって江戸時代のような貧乏な社会で飢饉かから立ち直ったが今回の原発事故では豊かな社会なる故に復興できないというのもなぜだろうともなる
そうういことを考えさせられる本だった
金やハードや事業がすべてでないということを言っていたのは共感できる
人々の心のつながりが絆がしきりに言われたがその絆が断ち切られたのである。
絆は外部のものとはあったがそれも一時的なものである。
肝心の復興の主体になる内部のものが分断されて離散してばらばらになったのである。
その原因も時代にあったといえばそうなる,だからこそ時代を越えて人間はありえないともなるのである。
posted by 老鶯 at 16:50| Comment(2) | TrackBack(0) | 飯館村

2017年12月26日

自分が求めたのは秘境だった (ワーズワ-スと飯館村などのこと(自分の詩)


自分が求めたのは秘境だった

(ワーズワ-スと飯館村などのこと(自分の詩)

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 ワーズワース

 1770年4月7日 - 1850年4月23日

 1830年、やはりスチーブンソンの手によるリバプール・アンド・マンチェスター鉄道が開業した

湖水地方までは鉄道は通っていない,湖水地方は何かまだ孤絶した地域だった,都会でも相当に離れていた,そこで相手にするのは農民とか羊飼いとかであり工業にたずさわっている人などもいない,工場などないからである。
だからこそ純な自然が保全されていた,それを飯館村とかと比べると原発事故以後に残ったのは菊地製作所であり他でも仕事しているのは製作所とか工業関係なのである。
なぜなら工業は土とか水でも放射能に汚染されないから仕事ができているのである。

イギリスの鉄道は相当に古い,イギリスで最初に蒸気機関車が発明されたから当然だとなる,それが今は日本の日立で特急の車両を作り運行しているのだから明治維新から150年でそれだけ変わってしまったのである。
イギリスに行って日本製の車両に乗るのも不思議だとなる

ワーズワースがほめたたえた湖水地方の住人
達が生活を営む場は、集約農法や製造業の発展といった産業形態の変化の
中で失われつつあった。

この時産業も家内工業から工場や会社形態と変わりゆく時代だった,江戸時代から明治時代に変わるのとにている,ここで人間的なものは失われた。
それは世界的に産業化工業化するなかで同じ経過をたどってきたのである。
アメリカでもソローが生まれたように鉄道すら拒否されていたのである。
文明の発展が確実に自然を破壊することは人間の歴史をふりかえればわかる
森林の破壊なのである。木材は船でも炭にしたりエネルギー源になるから伐採されて破壊されるのは古代からはじまっていてレバノン杉の森は喪失したのである。
湖水地方でも自然の多様な樹々が失われ一様な杉のようなものが植えられたことを嘆いているのもそうである。日本だって杉林の前は多様な種類の木がまじる森だったのである

相馬地方の自然の特徴は何か、丸森とか阿武隈高原があり森と海が特徴である。高い山はないが森が意外と深いのである。丸森は名前のごとく森の世界だった
そこで迷い入り出れなくなったときは恐怖だった,それだけ森が深いのである。
原町の高倉からとかでも飯館村に行く道は細い道が一本通じているだけで森におおわれている,一番印象的だったのは飯館村の大倉から坂を越えた所だった
そこに小川が流れていて森におおわれていて細い道が森の中に通じていた
そこはほとんど人が通らないのである。一日一人も通らない道だったのである。
ただそこにも戦後入植した人達があり十軒ほど家があったのである。
それに気づいたのは最近だった,二三軒はあるなと思っていたけど実際は十軒くらいあったのである。「共栄橋」とかありそこは戦後に入植した人達の村だったのである。
それまではそこは森におおわれていて人は住んでいなかったのである。
そういう場所は日本には結構ある,戦後引揚者が働く場所がなくそうした辺鄙な場所に入ってきたからである。それは浪江の津島とかにもあり山の奥地にも多いのである。
飯館村でもここだけではない,入植者が入ってきた所が結構ある。
佐須などとというときそこは山津見神社があり焼き畑の地名であり相当に古いが戦後に入植者も入ってきているからまぎらわしいのである。

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ただ自分が一番神秘的に感じていた手つかずの自然の森につつまれた所は道路になり失われた,それは原発事故前のことであり今はどこでも車が通り自然が破壊されるのである。原発事故の影響はあまりにも大きいものだった,村は荒廃してしまい人が住めなくなった飯館村の不思議は高原でありそこが別世界のようになっていた
何か花でも高山の花のように高山植物のように純なものとして見える不思議があった
そういう原始的な雰囲気が残されてそうなっていたのである。
ただワーズワースが求めていたように羊飼いとか純朴な農民がいるのとも違う
牛の村だったがにているところはあってもまたやはり現代の村だったのである。
ただ違っていたのは一軒一軒の家が広い庭をもって森につつまれてあった
それが他とは違って贅沢に見えたのである。

迷える足のほか踏みしことなき
人住まぬ谷間や奥深き山中を
いと古き代より汚れを知らぬ地域を
思いのままにさまよいる自由こそは
定命もてるかよわき人間にとり
いかばかり神聖なものぞ!

冬の日にワ−ズワ−スを読む

こういう場所がそこにはあった,ワーズワースが求めたものは何か?それは自分と共通したものがある,自然と人間の精神のモラルの一致でありアイディンティティ化することである,自然こそ真の聖堂であり教会とかの建物に神は存在しない,神は大自然の中にこそ存在する,森は神殿でありそれを模したものがゴシック建築となった

この辺はそれほど純な自然というものが目立たない,それは高い山がないし温泉などもないから外から見ると平凡なのである。
でも平凡に見えるところでも実際はどこでも知られざる秘境はまだ存在している
原町の高倉から森に分け入り飯館村に行く所や鹿島でも水無川をたどって上流の大古林道などに知られざる岩がある
それから丸森の川を上った所にも秘境があった,他にもまだあるがそれは道のない道を分け入ればある
自分のテーマは石であり岩であった

隠された大岩

深い森の影なす一すじの道
それが隠された村に通じていた
その山陰の森の道を一日誰通らない
大きな岩がどっしりとある
その岩の回りに春になると
キクザキイチゲが残る雪のように咲く
それを見た者はいない
そこはまだ開かれていない
分厚い本のいち一ページである。
自分一人のみがそのページを開いて見た
そして閉じていたのである
清らかな流れがひびき
夕べ聞こえるのは小鳥の鳴く声
神秘の蝶がそこに羽根を休める
そこはなぜか日影になりやすい場である。
木暗い場でありしんとして夕ぐるる場である
その大岩は村の人さえ知らないもの
しかしその大岩は今はない
ただ私ははその大岩のように眠りたい
患いもなく千歳眠りたい
その眠りを覚ましてくれるな
ああ 災いの地となってしまった
でも私の心にその森と大岩がある
そしてもう一すじの森の径は消えた
そこに行くことはもうできない
ただ騒乱の日を過ぎ去ることを願う
そして再びそこに千歳の大岩として
私はありて休らぎたい
そこは再び深い森におおわれる
樹々は風のさやぎ森は鎮まる
耳をすませばただ小鳥の呼び合う声が聞こえ
平和なる山鳩はその森に眠る

失われた森の聖域

そは久しくも隠されてありぬ
卑しき人の眼に触れざる所
千歳の岩は威厳を保ちぬ
その岩を飾るは可憐な花なり
清らかに小川は流れ花はうなだれ咲きぬ
さえづる純真な小鳥の声はここにひびき
そのソロの音色に酔わしめぬ
天然の歌人はここに養われぬ
純白の木の花は天に向かい咲き
神のみぞ天より見るのみ
森は深く影なしおおわれぬ
花を探し求めて追いて疲れし
一羽の揚羽蝶舞いきて羽を休めぬ
家々は森につつまれ隠されありぬ
ここに家ありとも知らじ
石はただ黙して千歳動かじ
卑しき人の眼に触れざる所
人の踏み入らざる所
あらかじめ神の定めし座に岩のあれ
純なる自然の聖なる神域にこそあれ
森は黒々としてつつみかくしぬ

the fixed rock is a deep seated place of my homeland

人間の座はどこにあるのか?それはもともと自然の中にありそこで安らぎとその場を得て安定する、自然に育まれて精神もモラルも一体化して養われる
そういう場がなくなったとき精神もモラルも荒廃したとなる
displacementが疎外でありまさにそのfundamentalな場所を失ったからこそ人間の存在が消失してただ統計的数字のようになってしまったのである。

ワーズワースの詩よりヘルダリーンの詩が思想的には深いと今読んで気づいた
彼の詩はライン川ときってもきれずに結びついている

雪の峰は大地にそそぐ
この上もなく清い水を 生まれながらに
あなたが純一なのは そのためなのだ
根源の近くに住む者は その場を離れない

しかしラインは夢に忘れない おのれの出自を
かりにも彼が 根源を忘れ
若き日の純粋な声を忘れようものなら
住む家も消え,掟も消え
人間たちの生きる日は
異形の幻に帰するに違いない

根源を忘れるというとき原発事故でもそういうことがあったのかもしれない
根源の地を失ったからである。根源に生きることからはずれて生きるようになり原発事故になり根源の地に住めなくなったともなる

いづれにしろ芸術の霊感の源は自然でありそこから離れて芸術も宗教も哲学もありえないのである。都会ではだから経済とか工業とか商業はあっても宗教とか芸術とか哲学とかありえていのである。
富岡八幡神社とかカルト宗教団体の巣窟になっているのである。
ただそこでは膨大な人が集まり金が集まる,賽銭が集まるのである。
それで繁華な所だから人が集まる所だからそうなっている
でも本来の宗教とは全く無縁な場所となっていたのである。
神道だって本来は日本の純な自然の中から生まれたものだからである。

then last wish
My last and favourite aspiration!then
I yearn towards soma philosophic Song
Of Truth that cherishes our daily life
With meditaitions passhinate from deep
Recesses in man,s heart ,inmmortal varse
Thoughtfully fitted to the Orephean lyre

かくして最後の望み
我が愛するいやはての熱望!
われが日々の生をいたわる真理を語る
哲理の歌を憧れるなり
人の心の深き奥よりいずる
幾たびの熱情的瞑想を含み
オルペウスの竪琴に思慮深く合わせたる
不滅の詩句を綴らむ
(ワーズワース)

philosophic Song,Thoughtfully とかはdeep Recessesから起きてくる

隠れ場所,隠遁いんとん所;((recesses)) 人けのない奥まった所,奥地,隠所,奥底,隅;(心の)奥;(学問などの)奥義

これは秘境のことなのである。

要するにワーズワースとかでも追及したのは自然との一体化でありそれは詩だけではない哲理であり宗教までにもなる、自然の事物を人間の精神とアイディンティティ化して一体化して表現することだったのである。
ただ今は田舎でも素朴な人間はいない,金,金,金に追われているだけなのである。
だからこそ飯館村でも原発で働いていたことは意外だったのである。
自分にしてもエアコンの部屋でこの文を書いていることも矛盾しているのである。
囲炉裏とかであたたまり書いていればいいが現代ではそうはありえないのである。
石油も使っているからである

ただワーズワースの時代は日本の江戸時代であり街とはかけ離れた場所にあった
そこは確かに風光明媚でも辺鄙な場所でありそこに住むことは今田舎に住んでいる感覚とは違う,今は田舎ではみんな車をもっているし都会と生活そのものが変わりないからである。田舎の人でもどれだけ金を贅沢を求めているかそれは都会より欲深くなっているともなる,純朴な羊飼いなどありえない世界である。
ただワーズワースの時代のような羊飼いがギリシャの山奥でスパルタの方に行ったとき山岳地帯で見た,そこの山の岩場にそういう羊飼いがいたしモンゴルなどにも今でもいるし中国の草原地帯にもいるしまだそういう人はいる
ただヘシオドスのように人間の暮らしが生活が隠されていたというとき人間を意識しないときそこは自然につつまれて理想郷のように桃源郷のようになっていたのである。
どんなところでも人間が住んでいれば必ず汚れるし嫌なものとなるのである。飯館村でも別に自分は人間とは交わらないから良かったともなる,今や飯館村原発事故後に南相馬市と同じく村が補償金とかで分断されたからである。

往来する旅人の顔というものを一度も知らぬ
あの隠者の家の戸口には・・・・(ワーズワース)

その丘の岩場に羊飼いが休み
去り行くも人影の見ず
雲は淋しく流れてゆく
湖水は山の影を写して
風は岩に鳴り
人の跡をとどめざらむとす
・・・・・・・・

なんかこんなふうに人が踏みいらない,旅人すら来ない場所であり時代だった
別に自分の住んでいる場所はそんな淋しい場所ではない,鉄道も通っている知らない人も頻繁に来ている場所なのである。現代では世界中で旅人の来ない所もないから車も通っているからそういう場所は探すのがむずかしいとなる






posted by 老鶯 at 11:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2017年11月01日

一本の樹(詩)から考える (飯館村などの避難区域のこと)

    
 一本の樹(詩)から考える

 (飯館村などの避難区域のこと)
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一本の樹

この道の辺に
一本の樹
秋の夕日のさして
ここに立ちて久しも
そは何を語るや
ここに根づきて
ここにありしことの尊さ
何ごとのなけれど
ここに長くありしがゆえに
人は去りしも
ここに立ちて動かざれ
ここにありつづけるもの
その意味と尊さを知れ
一本の樹
かくもここに長くもありて
その土地の標(しるし)となりぬ
この道を歩みてまた暮るるかな
 
   
 野の樫

野にひともとの樫立つ
冬の日の老いた幹と枝は
いま光る緑につつまれて
野の道のほとりに立つ
行き還りその傍らをすぎるとき
明るい悲哀とものしずかな勇気が
ひとの古い想いの内にひびく
(伊藤静雄)


飯館村でもどこでもそうだがこうした木はある,それは日ごろ意識しない、でも村の中でもどこでもそういう
木は人間化した木になる、だからこそ村に人が住まなくなったとき余計にさみしく感じるのである。
空き家になった庭の木でも石でもそうである。

人間はこうしてしただあるものの価値を感じない、でも一旦この辺のように原発事故で人が住まなくなったときこれは一体何なのだろうと常に考えるようになったのである。
村でも町でもどこでも一本の木はある、そういうものはまるでその村の目印のようにあった
だから一本松とかが地名になり残された、それは意識しないが常にあったものでてある。
人間も生物の一種だから老人になると定着志向になる、その土地に根付きやがてその土地に朽ちてその土地の養分ともなる、それは生物はそういう循環を繰り返してきたからである。
人間もまた同じように自然の中に生を繰り返してきたのである。

ここで見直されたのはただあることの価値である。そこにあるだけで価値あるものがあった
そして長くあるものは価値があった、木とか石とか自然は長くあるから価値がある
人間は変わりやすいから価値が消失してくる
そこにいつまでもあるものはやはり価値を帯びてくる
本当の価値はそこに長くあるものでありそこに価値と意味と尊さが生まれる

それが現代では常に変化して新しいものを求めて古いものが捨てられる、
常に人間の社会は古いものがあって新しいものがある野だが技術の面では常に変化してしそのスピードが早い,
だから老人は技術的には追いつけないから無用のものとされる
でも精神的な価値を求めると老人的な価値がむしろ社会の価値を作ってきた、成熟しなけければ本当の価値は生まれない、
若者的なものが必要でも騒々しいものになる、
自然でもなかなか若いときその意味と価値を会得でとないのである。
それで自然と同化するアイディンティティ化するには時間がかかるから老人にならないと自然でも人生のこともわからないのである。

老人は人生をふりかえるから誰でもそれなりに人生とはこういうものだったのかとわかる
ただその時は時遅しとなっているが老人はそういうことで若者とは違った見方をしている
ただ本当にあるというだけで価値が帯びてくる、そういうものがあるということに気づく
そして原発事故で人が住まなくなった町や村はそこに住む人の担(にな)うものが大きくてなった
村でも町でも市でもそれがなくなるということはイメージもできなかった

そこで意識したのは村全体のこと町全体のことだったのである。
普通村全体でもなかなか意識しない、常に個々人とか家族は意識して暮らしている
でも村の暮らしをどうしようかなどは意識しにくい、飯館村辺りはそういうことが震災前もあった
でもやはり避難区域になったとき人々は補償金をもらい家族だけは守ろうと帰らなくなった
それはやはり村全体を意識することがなかったからでてある。
村があり町があり市があり家族もあり個々人もあると意識しなかったのである。
そういう全体は意識しにくいのである。ただ今回のように村でも町でも人が住まなくなり村自体が町自体が消失する危機となり意識したのである。

木でも川子の農家の二本の木は変わらずにある、ますますそこに結び合い離れないようにある二本の樹である。この辺では木もかなり切られた、ここの木は残っている

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 the twined trees
 in stability 
 the faithful ones
 
それは老夫婦のようでもある、何か顕密に結びあっている、無言ではあるが互いにもの言わずも信頼して結び合っているという感じになる 

二本の樹

常にここに
二本の樹
もの言わずとも
互いにここに
長くしあれば
信頼し結び合ふ
そは離れざるかな
秋の日はさして
秋は深まり
ここに静かに
二本の樹は変わらずに
今日もありしも

この二本の木も変わらないことによって価値が帯びているのである。その意味を深めているのである。
それを感じるのはやはりこの辺が変わりすぎた結果なのである。 

俳句になると

晩菊や牛数頭のここにいる

飯館村は牛の村だった、牛は定着的な価値の象徴なのである。 牛がいるということで定着を示唆している
そこに落ち着きがあり生の充実がある、こころがここの意味というときまさにここにあるのが牛なのである。
とにかく避難区域に帰って住むことは今までは村とか町の価値はその人口分で維持していた、でもその一割とか二割しか帰らないとなるとその減った人の分を村や町で負うことになる
価値が何倍にもなるのである。そしてそこで村や町に継続された歴史を担うことになる
だからそれを思いばやりがいがあるともなる、ただこんなふうに考えるのは思想的哲学的詩的に考えるのは普通はいない
みんな利益からしか考えないからこそ原発だって建てられたのである。
そのあともやはり補償金でもめてもう不便な土地は嫌だと帰らなくなったのである。

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人が減ると同じ地域でもになうものが大きくなる
百人いたのが10人になったら十倍にになうものがふえる
それは生活でもそうだが精神的なものでもそうである。
村や町には歴史をとして残されたものがあるし死者も墓に住んでいたり
他に歴史として生き続けているものがあるからだ

それを人がへれば担うことになり重いものとなってゆく、でもそこに住むことは
価値あることになる
でも不便だからその不便さもになうことになる
それで村や町を捨てるとなるが残る者には前より十倍もの負担があっても価値があるともなる
いづれにしろ村や町がその全体が消失することがいかなることがまだ自覚されていないのだと思う
posted by 老鶯 at 16:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2017年10月07日

飯館村の蕨平(わらびたいら)の地名の由来は (植物地名は日本には多い・・・)


飯館村の蕨平(わらびたいら)の地名の由来は

(植物地名は日本には多い・・・)

蕨平 (わらびだいら) [宮城県伊具郡丸森町]
蕨平 (わらびだいら) [福島県相馬郡飯舘村]

蕨の野草地で家畜の放牧をつづけていると家畜が食わないために徐々に広がる
野焼きを繰り返しても増えるようである,ワラビが若葉を広げる姿は春の到来実感させるが家畜の放牧では極めて有害な危険な草であり,いかにしてワラビ防除するかは畜産上の大きな課題とされている(四季の博物誌-荒垣秀雄)

ワラビは、「ワラ」が茎をさし、「ビ」が食用になること・・・つまり「茎が食用になる」という意味に由来するという説がある。また、アク出ししたワラビの色が、燃やしたワラに似ていることから「ワラ火」に由来するという説とか、ワラビの若芽を「童菜(ワラベナ)」という方言から「ワラベ」が転訛したという説がある。

この説明はどういうことなのだろうか?飯館村の蕨平は牛を飼う農家もいた,今も40軒があったがもどって一軒で牛を飼っているという,この蕨平は戦後入植した人が名付けたものではない,もともと蕨平という地名があった,蕨が繁茂していたからその名がついた,しかしそこは家畜を放牧するには適した場ではなかった
蕨平に住んでいた人とあったがその人は今でも山菜をとって食べているという
老人だから気にしない,ただ山菜は一番放射性物質が蓄積されているし飯館村となると何か不安に普通はなる,その老人は全く気にしていないのである。

蕨とつく地名はある,鹿島区の橲原(じさばら)の蕨跡はわらびの植物ではなく藁火であり藁を燃やした跡なのかもしれない,それとも蕨が一杯もともととれた場所だったがとれなくなったのか?やはり植物の蕨と関係して名付けられたというのがまともかもしれない

山菜は、アイヌ語では何と言いますか。
:オハウコプとかキナと言います。地名の中では、ハルとも言われます。春志内は、アイヌ語で「食 料の多い沢」という意味ですが、この場合の食料とは、山菜を指しています地名にまでなるくらいですから、山菜がいかに重要だったかわかりますね。

アイヌ語の「クッタル・ウシ」(イタドリが生える所)。イタドリの漢語表記「虎杖」から、「虎杖浜」の地名が成立した。なお、「クッタル・ウシ」に当て字をしたものが、近隣に存在する湖、倶多楽湖の地名由来である。

日本は植物が豊富だし山国だから山菜も豊富である。日本の紋様が植物が多いのはやはり風土である。ヨーロッパでは動物類が多いからだ。
日本人の生活は縄文人の生活は狩猟,採集:漁労である。とすると採集するのは食べられる植物である。その植物に詳しくなる必要がある。
地名は風流とかではつけられない,何か実用性がありつけられる,だから花の名前の地名はまれになる,わらびでも食べられる茎に注目していたのである。

北海道には原初の状態が残っている場がある,一面に虎杖(いたどり)が繁茂していてそこが虎杖という地名になっていた。虎杖も食料になっていた,アイヌも狩猟,漁労,採集民族だから植物を食料とするから縄文人と同じだった

クッタラ湖にも行ったことがあり何かなつかしいとなる,地名を知ると何かその土地に親しみが出るのである。旅をずいぶんしたから地名に興味をまず覚えた,地名は何かその土地を探るものとしてある。

この辺では津浪や原発事故で一時原初の状態にもどった,海沿いは湿原になり沼があちらこちらにできた,日本には沼という地名が多い,それは湿原になっていたからである。
そういう湿原地帯を田んぼにしてきたのである。

芹田,蕗田,蕨田,蓬田・・・・

こういう田んぼの地名があるとき田んぼになる前の原初の状態をさしていたのである。

八木沢の麓の大葦とか薔薇坂という地名があるがこの薔薇坂は何なのだろうとわからなかった,薔薇から薔薇の花をイメージしていたからわからなかった
ところがそこが原発事故で放射能汚染で住めなくなり荒地化したのである。そこでは牛を飼っていたがいなくなった,そこにカモシカが出てきたときは驚いた
そしてそこは野茨にひっかかった,それには刺(トゲ)があるから痛かった
そこがなぜ薔薇坂となったのか?それは茨(いばら)のことだったのである。
つまり原初の状態だと茨が密生している所があった,そこに踏み入れると刺にさされる
それで茨城の地名が生まれた由来がある
地名の由来を知るには原初の状態をイメージすることが大事なのである。

原町の雫(しどけ)というのもシドキであり食料としていた山菜である。ただあそこは海岸だからシドキがあったのかとなるとわからないが高台であり森のようになっていた
だからシドキもとれていたともなる

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伊達市に楮畑という地名がある。楮(こうぞ)は和紙の原料である。それからゼンマイという地名もある,これは蕨の方が古いのだから新しいとなる
焼き切りとかあるのは焼き畑地名である。
焼き畑地名はともかく多いのである。
山菜はあまり好きではないけどアシタバもテンプラはうまかった,テンプラにすれば山菜でもうまいとなる。飯館村は山菜を常食としていた
それが原発事故でできなくなるということは飯館村に住むことのメリットというか文化さえ喪失させられたともなる
飯館村を見たとき一番原発事故の酷さを実感した
なぜならそこは森につつまれた自然のある村だったからである。
それが今や無惨な姿となってしまったのである。
だからあれを見ると原発事故を起こしたものに怒りを感じるのである。
ただ飯館村でもいろいろであり補償金もらって良かったという人もいるだろう。
便利な所に移ってそっちが良かったともなる人もいる
飯館村はやはり不便だからそうなる人も現代ではいる

ともかく蕨平というところには何回も通っている,家が散在して淋しい所である。
ただ飯館村はあれだけ広いのだから牛を放牧したりる土地があるから良かったのである。これからあれだけ広い土地をどういかすのか?
帰らない人が多いとしたらどうなるのか?蕨平でも40軒あって一軒しか帰っていないというからだ,高齢化もありやめる人も多い,それは農業でも漁業でもそうなのである。
みんな老人になりつづけられなくなっていたのが多いのである。
それでこの際補償金をもらってやめるとうい人も多いのである。
ただ飯館村の特徴は山の村では山菜を常食としていた,それが豊かさであった
それができないことは原発事故が飯館村を見るとき一番ひどいなと感じていたのである。

「生態学の研究によると,それほど地球の深いところまでを必要としないということであるこの土地部分は表層土壌また地表土と呼ばれ,わずか50センチからTメートルに満たない厚さの土地にすぎないのであるが,今日我々が利用しているのはこの地表の形成にはなんと数千年にわたる植生の積み重ねがあるという」
(エコノミーとエコロジー-玉野井芳郎)

飯館村の田んぼや畑の地表はけずりとられているのが無惨なのである。
つまりここに言うようにその地表を作るのには数千年の歳月を要していたのたである。
それだけ自然というのは長い歳月で作られてきたものである。
それが一瞬の原発事故でだいなしにされた,数千年の歳月で作られたものがだいなしにされたのである。そこに原発事故の罪深さがあった
自然というのもがそういうものでありそれが意識されていなかったのである。

山菜を常食にする山村の生活は縄文時代からつづいていた
それが一瞬の原発事故でだいなしにされた,回復できないようにもされた
つまり原発事故とか科学工業文明の怖さは自然から離れて自然がどういうものか意識されなくなったことである。
だからこそ無造作に破壊されてしまうのである。
数千年で作られてきた表層の土壌である。それが一瞬の事故でだいなしにされる,回復不可能にもされる,その怖さを意識しない,原発と生態系はマッチしていないのである。

南相馬市ではあまり表層の土は削っていない,それほどの汚染ではなかったからだろう。飯館村は削り取られたのが目立つから無惨だったのである。





タグ:蕨平の由来
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2017年09月23日

オオカミ絵のお札、版木 飯舘の個人宅で複数発見 (佐須は焼き畑で地名で狼は害獣から防ぐから神となった)


オオカミ絵のお札、版木 飯舘の個人宅で複数発見


(佐須は焼き畑で地名で狼は害獣から防ぐから神となった)


縄文人は、クルミや木の実中心の生活でした。その後、焼畑という農業が伝わるようになってヒエ、アワなどの他に、ソバや大豆などが作られることになります。秩父や長野県、山形県などの地域で蕎麦作りが盛んなのは、焼畑農業の歴史があるからです。

福島県虎捕山は、サス山とも言います。サスとは、焼畑という意味です。ここでも、別の豪族によって追われている阿部家の子孫といわれる人が住んでいた所です。(山津見神社がある佐須)


真神(まかみ)は、日本に生息していた狼(ニホンオオカミ)が神格化したもの。大口真神(おおくちのまがみ、おおぐちまかみ)、御神犬とも呼ばれる。
真神は古来より聖獣として崇拝された。大和国(現在の奈良県)にある飛鳥の真神原の老狼は、大勢の人間を食べてきたため、その獰猛さから神格化され[1]、猪や鹿から作物を守護するものとされた。
『万葉集』巻八には「大口の まかみの原に ふる雪は いたくなふりそ 家もあらなくに」(舎人娘子)

間地の耕作は「焼畑」が中心。そのため、イノシシの害にはほとほと手を焼いていました。イノシシの侵入を防ぐために、山林と耕地との境に猪垣(ししがき)を築いたり猪堀(いぼり、ししぼり)を掘ったりしたのだそうです

日本人と狼 



飯館村の佐須村は焼き畑のことである。他に比曽(ヒソ)もそうであり飯館村は森が深くあれだけの広さがあるから焼畑としては適地だったのである。
飯館村に人が住んだのは古い,縄文時代からでありそれだけ森の幸,山の幸があった
佐須というと大倉からさらに奥地だかちいかにも焼き畑に適していた土地だった
焼き畑農業はこれも渡来人がもたらしたものだといわれる,稲作の前に焼き畑農業が行われていた。鎌倉時代にも行われていた,山間では必ず焼き畑が行われていた。

山林を切り払って焼き、その灰を肥料に雑穀や豆、イモ類などを栽培する
焼き畑が普及したのは稲作などより簡単だからである。農業には肥料が欠かせないのである。その肥料で苦労しているし害獣でも苦労している
畑は常にキジに食われたとか虫がついたとかともかく常に被害がある
だからなんとかしてくれとなるとき狼がイノシシとか鹿の害から防いでくれるとなり狼は大神になったのである。
狼はイノシシ,シカ,サルなどの害獣を襲い撃退してくれるからありがたいものとなった
日本はまず縄文時代がありその時は森の中の木の実とか採集狩猟時代であり焼き畑をしていない,十五夜に芋とかを供物にしているのは焼き畑でとれたものを捧げていたのである太陽信仰に天照大神の信仰になったのは稲作がはじまってからである。
それまでは月の信仰だったのである,月読み神の信仰だったのである。
歴も陰暦であり月の満ち欠けで決めていたのである。

焼き畑になったとき芋類とか食べられるとなると相当に栄養が良くなった,芋は常食にもなり栄養豊かだからだ,すると養える人口も増えたとなる
鎌倉時代あたりまでは相当に焼き畑が行われていた,それからだんだん少なくなり地名だけ残ったのである。焼き畑地名は日本全国で非常に多いのはそれだけ焼畑が行われていた証拠なのなのである。
飯館村の場合はそこが焼畑をしていたということがイメージしやすいのである。

飯館村は焼き畑をしていたがその後稲作をするようになった,でも高原であり寒い地域だから稲作に適せず天候不良で飢饉になった,夏でも高原だから涼しいのだが稲作はもともと南国向きであり寒いところには適さないものがあった
焼き畑農業と稲作農業もその生活形態はまるで違う,それは蝦夷が狩猟,採集,漁労の生活であり稲作はヤマト王権によりもたらされたものなのである。
そういう生活の相違が実際は江戸時代から明治以降までつづいていてふ柳田国男の遠野物語の山民が存続しつづけた伝説となった

何か神社は場所と密接に結びついたものがある。佐須は奥深い地域でありそこに神社があることがふさわしいのである。
日本人の生活がもともと自給自足だったというときやはり最低限の食料がまかなわれたということがあるだろう。それは日本だけではないどこでも山の民でもそこで生活できる糧があって自給自足できるのである。
佐須では畑の中に「乳神」の碑があった,それが印象的だったのはまず乳が出なかったら子供が育てられない時代があった,ただ飯館村で牛を飼うようになったのは戦後とかであり新しいのである。だから乳がでなければ子供は育てられないのである。
それは江戸時代でも同じである,それで乳神に祈るしかないとなっていたのである。

飯館村は歴史は新しいようで古いのである。縄文時代からはじまって焼き畑時代があり
稲作時代となっている,それは日本のたどった歴史である。
日本では全く未開の地はまれだろう。たいだい早い時期から人が入っている

「多胡の入野」も、早く『万葉集』の東歌に見えながらもその後詠まれることが極めて稀であったものだが、まずはその『万葉集』所載の1首を挙げてみよう。

吾が恋はまさかもかなし草枕多胡の入野のおくもかなしも[万葉集3421]

野とつくのは傾斜地であり焼畑であった。小林のコバも焼畑地名だった。焼畑に由来するものが多いのだ。鹿野というのもそうでありカノはノがついているから焼畑なのだ。ノは焼畑なのである。山の神である、名はオホヤマツミ神を生み、次に野の神である、名はカヤノヒメ神を生んだ。またの名はノヅチ神と言う ... 山の神の次にカヤノヒメ神を生んだのはまさに最初に山の神があり狩猟中心の世界があり次に焼畑に写った。この生業の変化がどのようにもたらされたか、焼畑は狩猟採集より発達した文明の段階になるからこの技術が渡来人によってもたらされたかもしれない、これも稲作と同じように定期的に収穫が得られるから権力基盤をもち地方の国造、毛野王国などを各地に作ったのだ。その毛野王国のなかに渡来人が入ってきて焼畑の技術をが入ってきたのかもしれないそれが万葉集の入野の歌だった。東和町の白髭は高麗(こま)からきている。この白髭は各地に多数ある白髭は新羅であり毛野に新羅人が入植したのだ。

これは前に自分が考察したものである。焼き畑地名が多いし稲作の前は焼き畑文明だったから当然だとなる
佐須という地域はこの入野にふさわしいのである。おくかもかなし・・・というとき山間の奥地で焼畑が行われていたのである。そこには恋しい人が住んでいたとなる
佐須という場はそういう場所にふさわしいことは実際にそこを訊ねればほかる。

いづれにしろ今回の狼の札の発見は他でもあり狼信仰が焼き畑とともに生まれたことの証拠である。例えば飯野(いいの)なども焼き畑が行われた地域なのである。
野は傾斜地であり焼き畑が行われた日本独自の地形を示す語なのである。
原とかとは朝鮮語系統から渡来人系統から入ったものであり別個の言葉なのである。
それは焼き畑に由来している,原というときモンゴルのような草原をイメージする
野となると日本的な風景から生まれた言葉なのである。

posted by 老鶯 at 20:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2017年09月11日

戦後引揚者の歴史は見逃せない (飯館村の大倉の木戸木は最も辺鄙な開拓者が入った土地)


戦後引揚者の歴史は見逃せない

(飯館村の大倉の木戸木は最も辺鄙な開拓者が入った土地)

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真野ダムから木戸木に入る

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木戸木にあった半鐘 -ここはそれなりに一部落を形成していた 



飯館村の大倉から七曲がりの坂を上ったおりた所に共栄橋とかありおそらく十軒くらい家があったかもしれない,今でも家五六軒残っている
ここは草野まで行くにもまた七曲がりの坂を上らねばならない
本当に閉鎖された最も交通不便な土地である。
地名として木戸木となっている

飯館でも長泥とか比曽とか佐須とかあるけどそれらは比曽とか佐須は焼畑地名である
そのことは何を意味しているのか?焼き畑していたということはそれだけ古くから人が入っていたということであり人が住んだのは実際は相当に古いのである。
飯館村は縄文時代でも浜通りより古いとかあり山の幸があり暮らしていたとなる

飯館村は新しいようで意外と古い時代から人が住んでいたのである。それは縄文時代にさかのぼる。大倉村というときこれも相当に古い,大倉の葉山ごもりという祭りも古い。
真野ダムができる前に集落がダムの底にあった,その時から自分は行っている

ただ山村でも誤解しやすいのがそういう古い村があるのだが戦後に戦争からの引揚者が土地を求めてどこにでも入ってきたのである。
戦争から引き上げても街は焼け野原になっているし何も仕事かない,どうして食べていこうとなれば農業しかない,それで開墾に入った歴史がある
それは街から近い鹿島なら今菅野漬け物屋の倉庫がある所にも戦後引揚者が開墾に入っていて自分はその家に子供の時行っていたから知っている,家で店をはじめて卵を買いに行っていたのである。その時真野川をわたる橋は土橋であり時代劇にでてくるような危険な橋だった,ゆれるし怖い橋だったのである。

卵は自転車で運び糠に入れていたのだが必ず割れていたのである。
そもそもなぜあんな近くに開墾に入ったのかというのがわからないがとにくか農業するために土地を求めて入ってきたのである。
その人は父親が双葉の新山と酒作りしていた仲間だったのである。
その生活は実際は貧困のどん底だった,子供のときだから良くわからなかったが戦後十年は何度も書いているが日本全体がどん底だったのである。
自分の家は店をはじめて早めに豊かになったが山村が豊かになるのは遅れたのである。

それより不思議なのは大倉からさらに七曲がりの道を延々と上る,そしてそこにわずかに開けた土地がある,そこで田んぼがある,そこからまた草野に行く道はさらにもっときつい七曲がりの道なのである。
そして最近できたのが別な道である。そこはまっすぐなので車も通りやすいのである。
今は道になっているがそこは森におおわれて小川にそって隠された細い道があった
そこは神秘的な場所だったのである。人がまだ踏み行ったことがないような神秘的な場所であり春になると大石がありその脇にキクザキイチゲが残雪のように咲いていた
そこはまず人はほとんど通らないのである。
そこはまた山の陰になっていて何かそれで神秘的な場所だったのである。
飯館というときあそこは一番神秘的に感じていたが舗装された道になって失われたのである。

ともかくあそこには人が住んだのは戦後である。共栄橋というのは戦後開墾に入った人達が住み名付けたのである。そういう場所は日本中いたるところにあるのだ。


全国で21万1千戸が開拓地に入植し、105万6千戸の既存農家が開拓地に農地を取得した。開墾施行面積は、44万9千haであった。しかし、開拓地の営農は困難を極め、開拓を諦め離村した者も多く、21万1千戸の入植者のうち開拓行政終了時点で入植を継続している戸数は9万3千戸と、半分以下に減っていた

戦後開拓地のうちには、大規模な国営開拓により、酪農等のモデル的な大規模営農が成立した地域[1]がある他、入植者の努力により畜産や果樹・蔬菜などの産地形成に成功した地域[2]もあるが、一方で営農条件の悪い地域も多く、特に山間部の小規模開拓地においては、開拓行政に基づく手厚い営農指導にもかかわらず、土壌や気候等の劣悪な環境の下営農基盤を確立できず、全戸離村に至った開拓地も多い

この戦後引揚者の問題は戦後の大きな歴史である,なぜなら今の山村であれ街の近くの農地でもそうした引揚者が開墾に入っているからその影響が大きかったのである。
もともと古い村があってもそのあとに開墾に入ってきた人達が必ず村には混じっているからである
相馬藩では天明の飢饉で三分の一に人口が減ったが越中からの移民で穴埋めできたのともにている,相馬藩ではそうしした越中からの移民などはやはり耕作には適していない土地を開墾するほかなかったらかである。それで苦しいので加賀泣きという言葉が残っているのである。

21万1千戸の入植者のうち開拓行政終了時点で入植を継続している戸数は9万3千戸と、半分以下に減っていた

これほど厳しかったのである。

これでもわかるようになぜ大倉村でもそこから七曲がりの道を越えたわずかな土地を開墾して暮らしたのか?あんなところでどうして暮らしたのか?
炭焼きなどで煮炊きはできた,清水が流れているから利用した,全くそこは自給自足しないかぎり生きていけいなのである。田んぼで米をとれたとしても土地が狭いからわずかなのである。
ただ戦前から戦後は木材の需要が多いから大倉のばあちゃんが俺は相馬の女学校出たんだよと言っていた,山持ちで金持ちになっている人が山にはいた,なぜなら木材は日本のものをみんな利用していた時代だったからである。
なんか自分はそうしたそこに暮らしている人に興味をもたなかった
自分は森に覆われた小川が流れている原始のままの自然状態に惹かれていたのである。

でもそこに人が住んでいて暮らしがあった,それは地形的に隔絶されていたのである。
でも十軒くらい家があった,自分が行ったとき車で帰ってきて家にいた人が見えた
何か半鐘などもあった,だから開拓村として一部落を形成していたのである。
でも交通が不便だから大倉に草野に出るだけで大変な労力が必要だった
車がないのだから徒歩なのか馬なのかそこは地形的に閉ざされているのである。
飯館村でも他は古い村であり昔から生活していたのである。

人間はなぜそんな不便な土地にあえて住んだのか?それは住む所がない生活する場がないから住んだのである。
田から前にも書いたがそういう時代と比べると飯館村でも原発事故で避難区域になった所は確かに無惨なのだけどその当時の開墾者比べればましだともなる
贅沢しすぎてもうそんな極貧の生活などしたくないのである。
隣の街に行けば今まで通りの贅沢な暮らしができる,補償金もたんまりもらったらそこで暮らした方がいいとなるからだ
その時代の差があまりにも大きい,だから越中の移民を見習いとか戦後の開拓者を見習いといってもそんなことをあえてする人は誰もいないとなる
その時そういう生活するほかない,強いられた時代だったのである。

とにかく飯館村は本当に広い,木戸木というところは自転車でまず大倉まで上り次にまた長いまがりくねった坂を上り出る,そこからまた七曲がりの道を上ってゆくから閉ざされた秘境だともなる
戦前でも何かこうした閉ざされた秘境のような所に住んでいた人は多い
なぜなら農業とか山林でも林業とかなればそうなる
福島県の檜枝岐は秘境というけど近くにそうした秘境があり人は自給自足を基本にして生活していたきである。
つまり秘境はいたるところにあった,それがあまりにも便利になり車でどこにでも行けるとなったとき秘境は日本から消えたのである。
自分としてはだからそういう社会はつまらないともなる
ただ飯館村は広いからまだ未知の場所がある,今回草に埋もれ石も発見したことでもわかる
道は未知への世界いざなう,それが飯館村とか阿武隈高原にある,いく筋もの道が山間に通じているからである。そこを自転車で行くとき未知(道)への旅をしているのである。
サイクリングだったら飯館の阿武隈高原を行くのが楽しいと思う
六号線とかなると車だらけであり嫌になるからだ。

いづれにしろずいぶんなの辺を自分は自転車で走った,それで今回久しぶりで遠くに行ったのである。十年間は介護で遠くに行けなかった,そのうち体力がなくなり行けなくなった,でも今回は前に気ままに阿武隈高原の道を自転車で行ったことを思い出したのである
posted by 老鶯 at 16:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2017年09月10日

飯館村の道の駅,までい館オープン (久しぶりに飯館村を回る)



飯館村の道の駅,までい館オープン


(久しぶりに飯館村を回る)


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山鳩は飯館村にあって良かったが男女の像は都会的であっていなかった


夏菊や明るさ満ちて遠出かな

黒揚羽とまる朱きや彼岸花

黒揚羽日影の長く舞いてゆく

黒揚羽舞いて隠りぬ森深し

道の駅人々休み芙蓉かな



峠越え森の中にそ石一つ苔むし静か秋の日さしぬ

秋の蝉鳴くもあむれも飯館に帰る家や夕暮れぬかも

森深み秋の蝉鳴く余韻かなその声聞きつ夕暮れぬかも

石一つ草に埋もれて奥の道野菊咲きそめ人知らじかな

この辺り人の住まじも草うもる石の一つに野菊咲きそむ

道遠く我が迷えるや秋の陽の山の間に没り我がひきかえしぬ

飯館は実りもなしに荒れ果てぬいつ帰らむや秋の日暮れぬ

草埋る石一つ

人の汚き息のかからじ
しんとして人も通らぬ
奥の山の道の辺に
草に埋もれて石一つ
人知らずありぬ
野菊数輪はやも咲くかな
その花けがれなきかも
その石に向かいて咲きぬ
人住まずなりしも
花は変わらずここに咲くかな

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飯館村へ一年半ぶりとかに行った気がする,それより今年は7月ころから自分は病気になっていた,熱中症にもなり暑くて体が弱り遠出できなかった
今日は秋めいて涼しいのででかけた,まだ夏のような感じもして夏菊が栃窪に咲いていたとき気持ちよかった,そして飯館村をまわりひさしぶりに旅の気分を味わった

飯館村の道の駅はすばらしい,ただあそこだけが飯館では復興した感じである。
近くのきれいな住宅は子供も一緒に住めるように作ったと聞いたが住んでいたのは老人だけなのである。それは小高とか原発避難区域とにている。
若い人たちは帰らないから子供も帰らないのである。
学校がまだ開校できないのか通っても外から通うし飯館に住まないのである。

つまりどこでも立派な建物は作る,肝心のその建物を運営する人がいないのである。
飯館村には立派な建物が老人ホームでもできている,ではそこに働く人がいるのかとなると不足しているのだ。そもそも肝心の人が帰らないし住まないのだから復興はないのである。

道の駅のまでい館は立派である。釣り花とか芙蓉が咲いていた,芙蓉は前にも飯館村で書いたがあった花である。おおらかにゆったりと山中に咲くということであっていた
飯館で常に感じたことは花が他に咲くより何か本来の野生の美しさをもって咲いていた
それはいつも不思議に思ったことである。
それは森が深いと草深いとか何か原始性が残っているためである。
雰囲気が他と違うのである。

彫刻として山鳩をあしらったのは良かった,森が深い飯館村には山鳩が塒(ねぐら)となりあっていた。ただ男女の像は何か都会的であっていなかった。
やはり都会人が作ったものだかそうなったのか,何か木とか花とかをイメージしたものが良かった。こういうのはそこに住んでいる人が作るのが理想的だしそうでなくても
そうしたことを聞いて相談して作るべきではあった
その土地柄にあったものはなかなか外部の人にはわからないことがあるからだ。
ただあの釣り花とか芙蓉を飾ったのはあっていたのである。


それで今回感じたのは道に迷ってずいぶん遠くに行ったなと見たら草に埋もれた石があった,そこにすでに野菊が数輪咲きそめていた,それが他で見るより何か汚れなくきれいに見える,その辺りの雰囲気がそうさせているのである。
それはいつも感じていたことでありまた発見したのである。
ただそこに人が住んでいないということは奇妙なのである。
一応家々があるから人が住んでいないとも見えないのである。
わずかだが帰っている人はいる
でも荒れ果てた荒野にもどっている

そして人間は村でも人が住まなくなるなるとどうなるのか?
例えば秋の蝉が鳴いている,それは人が住んでいてその声がひびくとき人にひびいているのである。
では人が住まなかったらどうなるのか?それは原始の森にもどりそこにひびくことになる
でもその声を人の住まない森で聞くのとは感じが違ってくる
秋の蝉というときやがてはもう聞こえなくる消えてゆく蝉をイメージする
それは人間でもそうイメージしているからである。
人が住まなくなればそのようにイメージできなくなるのである。

ただ道がつづいていて人がまれではあるが通る,でもまだ除染の人とか家の解体工事とか仕事している人がいるが人は住んでいないから変なのである。
ただ人がまれでも通ることで死んだとはならない,完全に原始状態にもどったとはならない,だからこそ草に埋もれた石を詩にした,詩にすること絵にすることそれは人間化しているからである。

そしてもうこの年になると自分は旅してきたが遂に伝説化してくる,自分は何かその草に埋もれた石となってそこに埋もれてゆく感じになる
旅路の果てに遂には遠い奥の道の人もまれにしか通らぬ,草に埋もれた石となる
それが自分にふさわしいとつくづく思った

ともかく久しぶりに旅の気分を味わった,日差しが弱くなったのとやはり秋なので風が涼しいからそれほど体は疲れなかった,まだ行けるのかとも思ったがあとでまた疲れた
旅は道に迷うがそれが旅なのである。気ままに別れ道があったらどっちに行こうかとか行くのが旅である。車だと旅にはなりにくい,別れ道といっても何か歩いたり自転車で行くのとは違う,前に阿武隈高原の魅力は道にあるということを書いた
道が延々とつづいている,それも山の中でありそれが魅力なのである。
浜通りになるとそういヴ魅力に欠ける,やはり山の中ということでその魅力が生れていたのである。だからまた飯館から川俣とか三春とか行ってみたいとなった
そうなると一日では行けない,体力的にはかなり苦しくなった。

阿武隈高原の魅力は道にある
posted by 老鶯 at 08:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2017年07月24日

「飯館村の原発事故避難者による営農再開と展望」を読む (ソーラーパネルなどで景観が破壊される)


「飯館村の原発事故避難者による営農再開と展望」を読む

(ソーラーパネルなどで景観が破壊される)


原発事故避難者による営農再開と展望
―福島県相馬郡飯舘村の事例分-

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営農を再開するという決意の前提として非経済的動機,つまり「何が何でも再開しよう」という動機があったと言えるだろう。それは,避難先の狭い住居で無
為に過ごし,体調を崩している親を「見るに見かねた」こと(K 氏)であったり

全体で60 ha の水田があり,そのうちの20 haはNTT と20年間の契約をして太陽光パネルの設置に利用することが決まっている。残りの40 ha を利用し
て牛の放牧をするのである。

「個人化」とは,避難生活によって地域社会や家族が分断され,一堂に会することが
物理的に難しくなるということでもあるが,それ以上に選択を被害者「本人の自由」に任せることによって,事実上,責任を被害者に負わせ,自己責任を強いることを意味する。


これは自分がプログで書いてきたことであり一致する、やはり無為にすごすことに耐えられないということがあった、毎日パチンコやギャンブルではやりきれないとなってゆく
かといって何をするかというと今までしたことをする他ない
それは農業である。それで仮設の前の畑にカボチャの種を植えて実ったことで喜びがあったとなる、つまり農業自体に喜びがある
だから趣味で畑で農作業している女性は文句は常に言っているがともかく畑の方に関心があり自分の家のことには関心がないのである。
自主的に汚れたところも掃除もするきがない、皿二三枚しか洗う他なにもしない
それは見ていてわかる、畑の方が文句ばかりでいつも関心は畑にある
その人は根っから農業が好きなのである。

飯館村はやはり水田があってももう米作りはしないのだろう。無惨に表土が削られてフレコンバックの山になっている。表土が削られることによって栄養分も喪失している
すると米作りも簡単にはできないのである。もともと飯館は高地であり米作りには向いていなかっだ、それで常に冷害に見舞われていた。
すると田んぼがなくなるから蛙も鳴かなくなり鷺なども見えなくなる
自分にとってこの蛙が盛んに鳴いたときこの辺は復興したなと感じた
ただ山側は田んぼになっていない、小池辺りでは田んぼを草地にして牛の飼料にしていただから飯館村でも田んぼを放牧地にしてあとはソーラパネルにする
その風景も奇妙なものになる

草野では原町から川俣への幹線道路沿いに道の駅を建設中でありその脇にメガソーラーパネル場になった、何かそこに違和感を感じる、素朴な飯館村という感じは喪失した
ソーラーパネルは森とか山の風致でも破壊するし何か台風とか来たりすると危険にもなるそういうことは土手を削った所にソーラーパネルを置いたので水害になったということがあった、これから何が起きるかわからないのである。
そして景観を破壊するから昔の飯館村、森につつまれた村ではなくなってゆく
ただ飯館村は広いから全部ソーラーパネルにはできないが一部でも森の中にソーラーパネルがあると景観が破壊される
でも土地の利用が方法がないからそうなってしまう
膨大な土地がありその土地から収入を得るにはソーラーパネルくらいしかないからである。
家族が分断され地域が分断されて個人化したということも書いた
飯館村では牧畜でも牛を飼うにしても農業するにも人手は家族でしている
だから三世代とかが住んで農業に従事していた
それが分断された、地域も分断された
結果的にどうなったかというと個人化した、それぞれの個人でやりたいようにやれとなった、そのために補償金を払ったのだとなる、自己責任化したのである。

南相馬市でも避難区域の小高ではそうなった、いろいろな人がいても補償金をもらったことにより個人化して地域の一体感は喪失した
家族も分断されて地域も分断された、親の子供世代は放射能が危険として帰ってこない
そして取り残されたのが老人だった、でも小高では2300人が帰っている
それが多いとなるのか少ないとなるのかわからない、ただ半分は65才以上の老人なのである。
小高の人は金がある人は新地であれ相馬市であれ鹿島であれ原町に家を建てた
浪江の人も建てた゛つまり地域は個人化して分断されたのである。
個人化すればをとすればいいんだとなれば金があれば他で家を建てて生計をたてる他ないからである。

飯館村では仮設暮らしの無為に暇に耐えられなくなったとき農業をはじめたがそれが非常な困難をともなっていた。その場所を探すこと一からはじめることが容易ではないからだ農業はそれなりに設備が必要なのである。
飯館で有名だったトルコキキョウなどの花栽培でもそうであり簡単にできるものではなかった、トルコキキョウというと飯館のような涼しい地にあっていたのかもしれない
トルコキキョウと竜胆(りんどう)はにている、飯館村は何か花が美しく見えた
それはいつも不思議だった、やはり何か環境が影響していたのである。
飯館村は一つの桃源郷とかアルカディアの雰囲気があった
ただそういうものは原発事故後そこなわれたのが残念である。
それよりそういう所を破壊した原発に怒りをもつのである。
アイヌのカムイコタンとは神の村と言うときそういう側面が飯館村にはまだあった
森につつまれてあった神秘性もあった
だから峠を越えてゆくと何か別世界に来たような新鮮な感覚になっていたのである。
それで詩を書いたりしていた。

ともかく飯館村の農業の復興は至難である。放射線量が高いこともある、土も水も森も汚染されたからである。それが致命的になったのである。
はっきりいって自分はソーラーパネルが置かれる場所には行きたくない
大倉から峠を越えて入った場所は前は森におおわれていて人が踏みいらぬ神秘的な場所だった、そこが道になり喪失した、だから原発事故前にすでに自然が破壊されていたということがあった、ただ全体的には森につつまれた森を維持していていて飯館村が好きな人が多くいたのである。
だから残念だとというより自分は原発事故に対して怒りをもっている
なぜそうした森につつまれた村を破壊したのだとなる
ただ自分のように景観とか風致にこだわる人はそこに住んでいる人でも少ない
やはり金が入れば土地の人は景観など考えない
だから容易に今や利用されない土地はソーラーパネル工場になってしまうのである。

森深く月のみのぞく神秘かな

そんな神秘的な世界がまだあった、それが失われたのである。




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2017年07月05日

残れさるべき神秘の領域(サンクチュアリー) (飯館村への道の詩)


残されるべき神秘の領域(サンクチュアリー)


(飯館村への道の詩)


神秘の領域

深い森の中に
揚羽が一羽
美しい羽を広げる
そを見る者は誰か
そのたまゆらの美
揚羽は森深く舞いさる
深くつつまれた森に
宝石のように
秘められて
たまゆら現れて消える
その森へ行く道は
草むして
あると思えば消える
人間の入るのをこばむように
そういう神秘の領域
サンクチャアリーとして
心に平安を与える


人間の思想形成は自然と離れてありえないだろう。政治とか経済の話ばかりになるのも耐えられないだろう。そういう世界の中でオワシスとなるべき所が必要である。
都会になるとそれがなくなる、ただ都会にも規模があるから10万くらいまでは郊外があり自然もある、相馬地方だと相馬市と原町と鹿島とか小高とか浪江とかでは感覚的に違っていた、飯館村となると森におおわれた神秘の領域になっていた、そこから発想されるものは自然と深く結びついていたのである。今も別にその自然が消失したというのではない
森は残っているからだ。

飯館村というとき飯館村に入る所も森がつづいている、南相馬市でも浪江でも相馬市でもそうである。この辺は高い山はないが森がつづいている、丸森が森とあるごとく森が深いのである。ただ杉林にはなる
そういう森が現実にあるというときそこから詩でも思想も生まれてくる

飯館村に入る道はいくつもありそこは深い森を通ってゆくのである。
そこは深い影をなす道である。飯館村は森の国だった、70パーセントが森だったから除染もできないのである。
この辺の自然の魅力としては飯館村は欠かせないものとしてあった
もちろんその村が消失したとかはない、でもその村があまりにも変貌してしまった
メガソーラ場とか田んぼでも土が削りとられるとフレコンバックがつまれているとかで
森の国としての自然と融合した昔の村ではない
それはこの辺でも山の方はそうなっている

ただこのサンクチュアリーはかなり日本でも消失している、ただ北海道は全体的にまだ残っている、自分はそうした自然から詩を発想して書いてきた
それは相当な量になるがこれはその一部である。
芸術は都会からは生まれない、自然が最大の芸術品であり人工的な風景にばかり接していたら心は荒廃して安らぎもないのである。
だから飯館村とかは貴重な場だったし他に橲原(じさばら)村なども心の中に常に反映してきて安らぎを与えるのである。

確かにサンクチュアリーとなると観光資源にはなってもなかなか経済的効果がない
その経済的効果がないことに価値がないのかとなるそうではない
精神的な価値がある、自分が古代文明に魅力を感じるのは自然と結びついて文明が作られれてた、マヤ文明でもカンボジアのアンコールワットでもエジプト文明でもそうである。そこに神話が生まれるというとき自然と融合していた文明だからである。
現代文明はただ経済の規模の増大であり技術の発展だけを追求している

今からふりかえるとアニミズム的文明とかなるがそれも自然と深く一体化していたからそうなったのである。科学技術文明とはそうしたアニミズム文明とは正反対のものにある
でも自然から遊離しているから危険な文明ともなっていたのである。
アニミズム文明とはそれぞれの地域に生態系があり必然的に発生したものである。
もちろん偶像崇拝として拒否するべきものでも自然と切り離せない密着した生活していた人々にとってはそれは必然だったのである。

この辺では葉山(端山)信仰などは稲作と密接に関係していて生まれたのとにている、水の管理が必要でありそれが山に負っていたから生まれた
もし本当にそうした自然と一体化して生活していたら原発など拒否していたろう。
そういう生活が遅れているとかと見るのは現代文明からの見方でありそれが災いを生んだ
夏でも飯館村にゆく道は木蔭の道がつづき涼しい、ただ自転車でそこまで行くのが日射病になってから怖くなり行けない、でも心の中にいつも近くの自然は反映されているのである。

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2017年04月30日

駅で飯館村の蕨平の人に会い話を聞く (菅野村長の不満を言っていた)


駅で飯館村の蕨平の人に会い話を聞く


(菅野村長の不満を言っていた)


飯館村の人が駅にいた、原町に住んでいる、浪江の人とは良くあうが飯館村の人とは合わない、はじめてあった。
競輪場の券の売り場にきていた、あそこに来る人は原町からも来る
その人の格好はとても飯館村で牛飼っているようには見えない
サングラスかけて白髪だけどそっち系統のものかのように見えた
でも確かに蕨平に住んでいる、避難困難区域に指定された長泥の隣であるから放射線量は高い、何でも40町の山を所有して賠償金はもらったというがそれほどでもていのか?
何か菅野村長はだめだとしきり言っていた

まず蕨平では40軒あっても一軒しか帰らない、その人はやはり牛を飼って暮らす、飯館村は広いからまず草野中心に中核の街を作りそこから離れた人はもう生活できない状態のようだ、草野から20キロ離れているとか言っていた、蕨平とか何度か通った
でも長泥というと通ったことがあるのか一回くらいある。
飯館を全部回ることは近くてもできない、それだけ広いのである。
この前も佐須でも山津見神社にしてもあそこの道は通っていなかった

あの人は別に椎茸でも山菜でもキノコでも事故後も食べていたという、それは危険だと思うが年取っているから気にしない人はしない、あの人の不満は何なのか?
飯館村では残って暮らす人と補償金をもらって外に暮らす人とで分かれている
NHKでその対立を放送していたがどっちにかたよることはなかった
外に出たいという人は放射線量が高いということがあり住めないと判断しているからだ。それなら補償金もらって外で再出発したほうがいいとしている

菅野町長派は残って生活再建するを望んでいる、草野の中心部にはメガソーラーを作り
住宅地を作り何か大きな施設なのか作っている
そこに菊地製作所もありそこが働き場となる、他にも製作所がありそこで人が働いていた農業は土が削られてできない、そして荒地になり木が伸びたとかイノシシにやられたとかネズミがでたからネズミのよりつかない薬をまいているとか言っていた
イノシシの害は浪江でもある、浪江の人も復興住宅に移り住んでいるからだ。

浪江の人は28年に補償金が打ち切られるとか言っていた、あの人も昼間から酒飲んでいた前にもそういう人をみかけた、昼間から酒を飲みギャンブルしていのは小高でもそうだが他も同じなのである。何もすることがないからそうなる
それもこの辺の問題だった、飯館村の人がギャンブラーになったというときもそうである今は飯館村の人でもみんな素朴な人とは限らないのである。
前から馬券売り場などはあったしそういうことはしていたからである。
金が入って暇になりギャンブルする人が増えたのである。それは田舎でも普通にどこでもあることでもあった。

ともかく飯館村の人は少ないから合わなかった、鹿島でも会っていない、浪江の人にはあっていた。浪江は2万人だから多いからそうなる
ただ最近遠くの仮設から南相馬市とかに復興住宅などに移住していることは確かである。その人は前にもみかけたけど競輪場の券の売り場に来ていたのである。
だからその人とはまた会う、飯館村の人にあわないから事情がわかりにい、ただ一人一人でもいろいろな考え方があるからその人の言うことだけをうみのみにはできない

結局飯館村でも草野中心にコンパクトビィレッジになり浪江もコンパクトタウンになるのだろう。
農業とか畜産になるとそれはむずかしくなる、その人は牛を五頭くらいしか飼っていないみたいだ
最近できた放射性物質のふくんだ廃棄物の処理場で働いているみたいだ
故障してなんだとか言っていたが良く言うことがのみこめなかった。
その人も白髪だから相当な年なのだろう。ただその見た感じがとても牛を飼っている人とかそんな人には見えない、そっち系の人なのかと見えた
次男であって料理が好きとかでそういう仕事をしたかったとかも言っていた

飯館村の問題は土地が広いのである。ただ原町より広いとしても平地が少ないし森が多いのだから山が多いのだからその土地を活かすにしても牛を飼うのには向いていてもそれもしにくいとなるとどうするのか?
除染しても結局無駄だったとかその人も言っていた。
土地をもっていてもそれが何にもならない、荒地になるだけだとなるとそれを誰かに何でもいいから売りたいともなる、貸したいともなるときどうしてもソーラパネルになりやすいのである。そうなると飯館村の良さは失われる
前とはまるで違った世界となる、別に飯館村だからといって素朴な人たちが住んでいるわけではない、ただそこが隠されている場所でありそれで人も隠されていたからいいとなっていたのだ、飯館村でもあのような人がいるということは何かそぐわないとも感じたからである。ただ自分の見方だからそういう感じでも違った人でもあるかもしれない。

ただ飯館村の良さはあれだけ広い所に牛を飼って暮らしている所にあった、それが草野中心に菊地製作所とか工場で働くとかになると飯館村の特徴は失われる
多々あの人は別に放射能のことなど全く気にしていない、それも意外だった
キノコとかシイタケは一番放射線量が高いから食べるなと警告されていたからである。
それを食べていてなんか鼻血をだしたという、その鼻血では騒いだことが一時あったから本当にあったことなのだろうか?
第一その人は事故後もいてキノコなど普通に食べていたのである。
そういう人が飯館村にはいた,知らないからそうなる

軽度の被曝によって鼻血がでたのは事実であり、小学校でも記録されている---。原発事故直後、子供も大人も鼻血で悩まされた。
50歳の男性が今まで人生で一度-も-鼻-血を出さなかったのが、大量の鼻血が突然出たのでびっくりした人など、枚挙に-いと-まが-ない

この真偽はわからない、枚挙にいとまがないというほど出たのだろうか?
何かこういうとき噂が噂を呼びありもしないことフェクニュースとなって拡散しやすいからである。この事実を確かめることはできないだろう。
ただ飯館村の蕨平といったら長泥の隣であり相当に放射線量が高かったからありえないことではない。そこで前と同じような生活をしていればキノコなどを普通に食べていれば内部被爆したりする、あそこだったら本当だったのかともなる

自分も爆発したとき外を出てあるっていたのである。ただ助かったのはこの辺では20マイクロシーベルトになったの二回くらいであとは低くなっていたのである。
ところが飯館村では一カ月くらい避難しなかった。それでかなりその時被爆したと言われる、つまりキノコを食べていれば内部被爆したことは確かである。
それで鼻血になったのか?それはわからない。
菅野村長は避難するなとは言わなかったが全員に避難命令を出さなかったから残った人が多いのである。
葛尾村では即座に村長の命令で避難したことで評価された

その人が菅野村長の不満を言っていたが何か不満なのか良くわからなかった、話してもわからないとかは言っていた、ここに来るのは下っぱばかりで話にならない、何もしてくれないとかは言っていた。
何かどこでも官庁でも役所でも会社でも良く伝えておきますとは言うが何もしてくれないことが普通にある、そのことで不満だったのかもしれない。
ただ具体的にどういうことが不満なのかわからなかったのである。




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2017年04月07日

ソーラーパネル工場と化した飯館村 (昔の牧歌的風景は失われた)


ソーラーパネル工場と化した飯館村

(昔の牧歌的風景は失われた)

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草野に建つ施設



もうこれ以上待てない」と、帰村を待ち望んでいる高齢者の切実な声だと聞いた。
村は、村民の声をとても大切にしてきた。

2015 年の終わり、7400 人のうち人口の約 6%に当たる 400 人しか戻っていない。さらに、その内訳は 60 歳以上が 69.1%を占め、20〜39 歳の層は 3.6%しかいない。「楢葉町の今」
を取り上げた NHK スペシャル「原発事故 5 年 ゼロからの町再建」(2016 年 1 月 26 日放送)では、周囲が空き家のなか、1

一部の村民からは、「復興拠点もそうだけど、ハコモノばかり作って維持管理費はどうするんだ」という批判があった。

復興復旧は国に頼らざるを得ない。しかし、国が用意できるのは公共事業である。ハード面などの事業が終われば「復興」が終わったことになってしまい、村民たちは置いてきぼりにされる。置いてきぼりにされた村民は、抗う力さえ残っていない。


危機に立つ住民主体の村づくり
飯舘村における「復興」計画と「村民の復興」の乖離 




世代間の分断
地域の分断

原発事故で起きたのは様々な分断であり争いでもあった、放射線量で色分けして補償金の差をつけたのもその主な原因である。
隣がちょっと高いから補償金を高くするとか隣は低いから補償金は低くするとか土地はつながっているのだからそんなこと簡単にできないのである。
放射性物質だって空間で土地でも境がないから流れて拡散するのである。
飯館村の70パーセントは森だからその森から放射性物質が流れてくる、放射性物質に汚染された泥も流れてくるとしたら田畑も汚染されるから深刻である。
飯館村は草野でも7マイクロシーベルとあった、だから飯館村は他よりは高いと思った
佐須で泥のかたまりが20マイクロシーベルとあったのには驚いた、そうしたホットスポットがあった。
だから飯館村の放射性物質の汚染は深刻だと思っていた。
例えば木材でも3マイクロシーベルとあったのだから木材すら利用できない、石すら汚染されているともなる

飯館村で除染していた人が石をぶつけられたのでショックだったという人がいた。
なぜそんなことになったのか?飯館村でも補償金が一様に支払われていない
放射線量で区分けしているからそうなった、自分の家は除染したところで補償金を他よりもらえないからは除染している人に石をぶつけた。
その家では除染してもらうより補償金をもらいたいかったのかとなる
こういうことは南相馬市でも起きていたのだ。
30キロ圏内で区切られたのが南相馬市である。その区切られた所が塩崎あたりでありそこで若い母親が泣いて訴えていた、30キロで区切られ隣がもらえて自分の家はもらえないとかなったからである、そういうことは原発事故以後争いの元になった
南相馬市では小高区と鹿島区はいがみあうようになった
ところが小高区内でも争っているし今度は小高は浪江がうらやましいとかなっているし浪江は浪江で区分けされているから争いになったのである。

そして地域間の分断があり世代間の分断も深刻である。家族は若い人たちと老人は分離した、そして若い人たちは避難している六年の間に生活が別になり既成事実となり帰らないとなったのである。
東京に避難した息子はその孫が東京の学校を中学、高校を出て就職したという、そして妻も息子の所に行き帰ってこないのである。
老人が一人災害復興住宅に住んでいる、老人だけが取り残されて住んでいるのが多いのである。6年の間に生活が別になりもう帰れなくなったのである。

「もうこれ以上待てない」と、帰村を待ち望んでいる高齢者の切実な声だと聞いた。
村は、村民の声をとても大切にしてきた。

老人は先がないし遠い先のことを考えられないのである。いつ死ぬのか死んだらどうするのかなど考えるが先のことをは考えられないのである。
前田の墓地の老木のようになっているのが老人なのである。
他にもその土地に根付いて離れない石ともにている、そこに長く住んでいれば人間は自然と石のようになってくるのである。
「ぽかぽかと春の日がさしてあったかいな、ここを動きたくない」とかなるのが老人なのである。

60 歳以上が 69.1%を占め、20〜39 歳の層は 3.6%しかいない。

楢葉町ではそうだが大内村だと70パーセントが帰るとか飯館村でも30パーセントが帰るということは老人が多いこともあるが老人が帰りたいのは切実なのである。
そこには土地に執着するものが他に強いのである。
他で新しい生活をはじめることはむずかしいのが老人でありそこに若い世代との分離が生れた

飯館村の復興とは何なのか?それがこの著者もわからないというとき元の暮らしにもどれないからそうなる、春になったら春田となりこれから田植えがはじまるのだという暮らしがあった、それも失われて荒地になっている、そしてソーラーパネル工場地帯になる
飯館村ではとにかく広いのである。比曽とか長泥とかは一回くらい何十年も前に行った記憶がある、そこも意外と古い村だったのである。
そしてまだ行っていない所があり飯館村は広いなとつくづく思う、すると牧草地になっていた土地もまた広いのである。そういう場所を活かすことができなくなったのが深刻である。

結果的にはソーラーパネル工場になってしまう、村自体がソーラーパネル工場を経営して成り立つような状態になる、そんな村になったらまでいな村とかとは関係ない、村自体が実はソーラーパネル工場地帯となる。
そんなところが癒しの場とはもうならない、森の風景もなくなる、ソーラーパネルが向いているのは平原とか砂漠でも何か人が住んでいないような大陸的広さの土地があるところに向いている。日本のような狭い場所には向いていない、景観が破壊されるからである。でも生活するためには村だって税金がないと成り立たない、すると村の役所が実はソーラーパネル工場を経営する会社と化していたのである。
それは結局双葉であれ大熊とか富岡が実は東電の会社員になっていたとにているのだ
自治体が巨大企業の下請けになり社員化していたのである。
実際に浪江町とか避難した人たちは東電の社宅のビルに避難して生活したからである

グローバル化社会になると多国籍企業が実は国家より力があり支配しているというときとにている。東電という国家と一体化した大企業によって小さな自治体など買収される、それだけ巨大な企業だったのである。
現実に漁業権を東電に売り渡して漁業者は贅沢していたのである。
要するにそれだけ巨大な会社でありその巨大さ故に小さな自治体などとりこまれてしまうだから飯館村が「までいな村」としての村作りをしていたというがそんな江戸時代の感覚とはまるで違ったものとして東電などが巨大企業がある。
それが今度はソーラーパネル工場となり村を経営するとなる
そこにはまでいなとか牧歌的なものはなにもない、飯館村は現代では牧歌的なアルカディアの風景があった、でもその飯館村でも比曽の人が原発で働いていたし大内村では三分の一が原発で働いていたのである。
だから原発地帯は東電の社員化していたのである。
それが原発事故後明確なものとして認識されたのである。

復興でもソーラーパネル工場が主流でありそれに箱物を作る工業事業であり除染しても実際は除染はたいして効果がない、森から放射性物質が流れだしてくるからである。
それで裏山の木を切って一億円かけて除染するより一億円もらった方がいいというのもその土地の人にとってはそうなる
飯館村のまでいな村作りはすでに喪失しているし不可能になっている
そもそもその基盤となる農業ができないからである。
ソーラーパネル工場の管理人となるのが役所の人でも村民でもそうである。
それが人間の生活する村なのかとなる、でも現実問題としてはそれしか方法がない
そして土地をもっている人は権利があり活かしたいとなるからソーラーパネル工場になる元の自然に環るわけではないのである。

ともかく人間が作る技術でも必ずいい面と悪い面が生れる、別に電気が悪いものではない石器でも発明したときそれは必ず人殺しに利用されたし鉄器でもそうである。
原子力でも核兵器にもなるが平和利用として原発は言いものだとされていたのである。
でも実際は原発は恐るべき害をもたらすものだった、石炭でも二酸化炭素を出すとか
石油でも温暖化するとかあるがではソーラーパネルが自然を破壊しないかというとこれも実際は景観を破壊するし消去できない廃棄物を出すのである。

そんなことを言うと炭とかをエネルギーにしていた時代が良かったともなる、それが一番自然と調和する生活だったと成る、現実に戦争の引揚者が飯館村に大量に入り一万人近くの人口があったことに驚くのである。
そんなに大勢の人間が飯館村にいたのか?飯館村で生活できたのかとなる
その時は本当に自給自足的な生活であり炭を燃料としていた時代だかである。
それで一万の人口を飯館村で養い生活していたということは今になるとイメージできないその時は木材があるからそれを売ったり石材は今でも売っている、何か地元のものが資源となり生活が成り立っていた、だから炭焼きの時代にもどればいいとかなる
そうすれば飯館村の牧歌的風景は貴重であり人々も訪れる、それは外からくる人には言える、でもそこで実際に生活するとなると収入がないとできないからソーラーパネル工場になってしまうのである。
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ここで死にたいんだ、執念の老木



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2017年04月06日

飯館村考(歴史をさかのぼり現状をみる)


飯館村考(歴史をさかのぼり現状をみる)


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●みなみそうま(南相馬)と記された古文書があった

真野川をさかのぼり真野ダムにでる、そこは大倉である。ここは岩松氏が相馬氏などが関係して岩松氏が滅ぼされてその奥方が逃げた場所であり湯舟とかの地名が残っている
奥方が妊娠してそうなったとかある。大倉に逃れてきて悲劇の死をとげた。
草野は岩松氏の所領にあった。ただ相馬氏の岡田氏とか伊達氏もかかわり所領争いがあった地域である。前は大館とかがあり中世の館があり飯樋問と大館が明治に合併して飯館になった歴史がある。

地名にも歴史があり由来がある。面白いのは相馬岡田文書に

ゆつりかわたすそうまの小次郎たねもりのあとの事

下総(しもつさ)のくに、みなミそうまのうちいつみ(泉)のむら、ならひのむつのくになめかたのこおりおかたのむら(岡田の村)、このところは五郎たねやすそうりょうしきとして永大知行すべし


しもつさの国ミなミそうまのむら、かなやま(金山)、かミやなと、ふなつ(船津)
ならひにミつの国なめかたのこおり(郡)おかたのむら(岡田)やつうさぎ(八兎)
いといのかりくら、(飯樋、狩倉)かのところはたねやすちうたい(重代)さうてん(相伝)のしりょう(私領)たる間・・・

ここにみなみそうま(南相馬)として出ていることである。すると南相馬市の由来はここにある、ただその領域は小高中心なのである。
もともと小高に相馬氏の城がありそこが相馬氏の中心であり拡大した、それで鹿島はその小高から北であり北郷となっていたのである。当時のみなみそうまとは小高中心であり原町の領域、中ノ郷は入っていないのである。
ただ歴史的にみなみそうまというのが古文書に記されていたことは重要である。
ではなぜみなみそうまなのか?この時むしろ北を意識してみなみそうまと記したのだろうか?わざわざみなみそうまと記すのはなぜなのか?
つまりみなみそうまとは今の南相馬市とは領域が違っている、原町(中の郷とか北郷(鹿島)は入っていないのである。小高を南相馬としていたのである。
ただすでに南相馬市(南相馬)という名称があったということである。
すると南相馬市は歴史的地名なのかとなる。ただこれがどうしてみなみそうまになっていたのか?その解明が必要になる

●伊達市になったとき感覚的その領域が拡大した

伊達市というとき

1898年(明治31年)1月19日 掛田村が町制施行して掛田町となった。
1928年(昭和3年)1月1日 小手川村が町制施行して月舘町となった。
1940年(昭和15年)4月1日 長岡村が町制施行して伊達町となった。

2006年(平成18年)1月1日 伊達町、梁川町、保原町、霊山町、月舘町が合併して伊達市となった。

伊達町があったとしてもその前に伊達町はなかった、長岡村だったのである。伊達市というとどうしても伊達政宗をイメージする、相馬市とか南相馬市だと相馬氏を意識するようになった。
それで佐須の峠を越えるとき伊達市に入るとなり感覚的に前とは違ったものとなる
前は霊山町だったから霊山神社があり南北朝の由来にもとづく地名として意識していた。た、伊達市になると南北朝時代から伊達政宗と相馬氏が争った戦国時代になる。
ここから伊達市に入るというとき伊達政宗の時代を意識するのである。
それが地名の大きな影響なのである。もともと

伊達と相馬の境の桜 花は相馬に 実は伊達に

といわれたように境が意識されていたし現実に境があった。飯館村では岩松氏の所領ともなり相馬氏の所領ともなり伊達氏も領地争いにかかわっていた。

「草野通率一族」とあるように相馬一族のものが草野村の一部を所領していた

「草野通」とあるようにこの村を一筋の道があって行方郡と伊達郡(小手保9を通じて知られていた

これは地理的にも今でそうである。原発事故避難区域になっていてもこの草野通だけは交通として閉鎖されず通じていたのである。これはやはり地理がわからないと歴史も理解できないのである。

●前田は草分けの地、注意すべき戦後入植した人たちが多いこと

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前田 
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豊栄は戦後入植した地名


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ここに入植した人が住んでいた

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山津見神社から前田に出たが前田というときそこは必ず草分けとなった農家がありその前田から村が発展したのである。
前田には江戸時代の古い碑が並んでいたことでもわかる、他でも大原の前田という地域は大原の奥にありそこに南相馬市立病院で同室だった斉藤氏が住んでいた。
その家は代々つづいた古い家だったのである。その人はすでに死んだ
その前田からさらに八木沢の方へ遠田という地名があることでも前田を中心にして大原があり拡大したことがわかる

佐須というとき佐須は焼き畑の地名である。他にヒソとかもそうだった。最初に入ってきたのは焼き畑をする人たちだった。縄文時代から人は住んでいてもそのあとは焼き畑をしていた。飯館村というとき何か新しい感覚になるけど古い村から成り立っている

比曽村には氏神を祭る社があり中に古い鉦が下がっていて延亭2(1745)年の年号と先祖の菅野伝左衛門の銘がありました

比曽村にこんなに古い由来があったのかと驚く、ともかく飯館村は広いのである。
何十年も前に一回くらいか比曽村とか長泥村を通った記憶がありそこにも古い碑があったのである。
葛尾村にも元禄の碑があったからあそこも古い、草野になると鎌倉時代からはじまり館がありそれが今の飯館村になっている。

ただここでまぎらわしいのは飯館村の人口をみると

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戦後開墾に入った人たちが多くそれが混同しやすいのである。一万人近く飯館村の人口があったことに驚く、それは戦後引揚者が生活の場がなく農業で生活するために辺鄙な山村にも入ってきたからである。
例えば自分が知っている人でも小池でも町に近い所に開墾に入っている、菅野漬け物の倉があったところにである。そんなところが開墾する場だったのかとなる
それだけ戦争が終わり仕事がなく開墾に入った歴史がある。
それは全国的にそうであり浪江の津島でもそうでありそれで苦労したので団結力があると報道されていた。
第一一万人も飯館村に生活していたということが驚きなのである。どんな生活をしていたかとなると相当に貧しい生活である。炭焼きとかが主流となっていたのだろう。
それは現金収入にもなり豊になった人もいたからである。
あとは木材とか石材の供給地でありそれなりに生活できていた。その後は牛を飼うようになった。

この戦後入植してき来た人たちは山村に多いことを注意する必要がある。飯館村でもそういう場が多いからだ。豊栄とか共栄橋とかの地名は開墾に入った場であり昔からある地名ではないのであく。戦後開拓に入った人たちがなづけた地名である。
それで豊栄辺りで聞いてみたらやっぱり戦後開墾に入ってすみついた人であった
その人はそこに避難解除になり住んでいる、息子は川俣の会社に勤めているという。
もともとは農家であり牛などを飼っていた。
今飯館村で仕事しているのは菊地製作所とかの小さな工場である。他は仕事をしていない
牧場があり牛が放牧される広い土地がありそこは何にも使われていない、そこがこれから何に使うのか?ソーラーバネルとかになりやすいのである。
すると飯館村の景観は破壊されるし昔の飯館村とは違ったものとなる

飯館村のモニタリングポストでは佐須とかで0・6とかある、でもモニタリングポストの放射線量は実際の半分なのである。なぜなら土をけずりとって設置していたからである。
自分もその脇を計ったら倍だったからである。
そもそも名もあのヴらなモニタリングポストが必要だったのかとなる、放射線量をごまかすためにかともなる、それも本来の復興のために金が使われなかったということなのである。
ただ飯館村はもともと放射線量が高かった、草野で7くらいもあった、だから今でも0・6とあっても実際はその倍にもなるとなると今では相当高いともなるからそこに住むのが嫌だというのが理解できるのである。
それで裏山の木を切って除染したのに一億円かかったというときその一億円をもらった方がいいというのもわかる。除染してもまた山から森から放射性物質がでてきて減らないからである。だからなんのために除染しているのかとなる
無駄な金かゼネコンに流れただけだともなるからだ。

それで村に居残る派と補償金をもらい村を出る人に分かれ争いになった。
ただそうなると一体江戸時代からある古い村はどうなるのか?元の自然に環るのかとなると還らない、そこはソーラーバネルとか放射性廃棄物の処理場とかにされる
なぜなら土地をもっている人がいるしその人たちに権利があり金にしたいとなるからだ
ただ荒地にしていても金にならないからである。
小さな工場だけが仕事しているというとき農業ができないからである。
農業がない飯館村がイメージできない、ソーラーバネルを見るだけとなったら飯館村の魅力はなくなる。だからこれからの村造りをどうするかとなるとその解答は簡単に出ないのである。
でも何軒かは人が住みはじめたから人が住まないことには村も活きてこないのである。

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佐須で0・7は高い、この倍にはなっている
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2017年04月05日

避難解除した飯館村の春をめぐり短歌十首と俳句


避難解除した飯館村の春をめぐり短歌十首と俳句

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真野川の上流
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根元石
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根付き石-ここには人は住まなくなった

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滑の残雪
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クリック拡大ー残雪の吾妻嶺
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森につつまれ一軒一軒ある家
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クリック拡大
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前田の古い碑ー江戸時代のもの 

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前田の墓地にあった老木、

俺はここに残って死にたいんだ

そんな執念のような木に見えた


 


大倉や春の日さして根元石
飯館にまた人住まむ春の雲
春北風(はるきた)や峠を肥えて伊達に行く
前田には古き碑並び残る雪
春日さし老木の墓地に残るかな
飯館に春田のなしも悲しかな
春日さし石あたたむる動かざり


川上の春の流れの清しかも瑞枝の影のやわらきかな
清流の磐打ちひびき流るかな残れる雪のここに清しき
天上に浮かびしごとく残雪の吾妻峰仰ぐ神々しかも
山津見の社や遠く奥深し残れる雪に住む人ありぬ
知られざる道に誘われ春の日や遠くに行かむ山を望みて
八石山石切り場かな飯館に営みありて春の日さしぬ
前田より開けし土地や古き碑のここに並びて梅におい散る
広々とと飯館めぐり春の日や深く息して帰りけるかな
飯館の広々として春の鳥さえづりつつもわたり飛ぶかな
根付く石ここ離れじも淋しか春は来れど人住まぬ家
飯館に春の灯ともれ人影にほのぼのとして村も活きなむ

飯館の佐須から霊山に行きまたもどり山津見神社から八つ石をめぐり前田に出て臼石から草野を回り大倉から真野川に出て帰ってきた
つくづく山津見から前田の方には行ったことがない、飯館村は本当に広いからまだ行っていない道がある。
前に阿武隈高原の魅力が道にあると書いた、道が縦横にありどこまでもある。
その道を春の日がさしてきままに誘われ自転車で行くとき気持いいのである。
ただ介護十年で自由が奪われたので行けなかった、三食用意するとなるといつも追われていてゆっくりできないからである。
いつ帰ってもいいなと思うと楽であり追われることもなくなったのである。

飯館村は奥深いからところどころまた雪が残っていた、やはり寒い所なのだと思った。
あたたかくなったから雪は残っていないと思ったからである。
ただ最近まで寒い日があったから雪が残っていても不思議ではない
佐須から峠を越えて伊達市に入り霊山から望む吾妻峰は雪が厚く最高の景色であった
山は見る場所によって相当に印象がちがう、季節によってもそうである。
福島市から吾妻嶺を見てもそんなに美しく見えないのである。それも富士山でも同じである。場所や季節によって山の見え方は相当に違うのである。

今回は大倉の奥に木の根元にあったから根元石とか草野から大倉に出る所の石は根付き石とかなづけた。ぽかぽかと春の日がさしていた、そして石はそうして春の日がさして気持ちよく動きたくないとなる、老人になると特に動きたくなくなるのだ
「ここがいいな、ぽかほか春の日にあたたまって」とかなる
老人になるとそうして慣れ親しんだ所がいいのであり移動するのが不幸になる
だから大内村とかで70ハーセントも帰るとか飯館村でも30パーセント帰るというとき老人が多いからだろう。老人は慣れ親しんだ所に帰りたいのである
原発事故の酷さはそういう場を奪ったことにもあった。老人に過酷だったのである。

ともかく飯館村は何軒か避難解除になって住む人がいた、でももう住まない人もいて空家になっている、根付き石の所にある家も壊されていた、人が住まないということはどういうことになるのか、そして普通だったら春田になっている、春田というときこれから田に水が流れて田植えがはじまるという時期の田であり単なる荒地ではない
今はその春田がなく荒地になっている、そういう暮らしが消えるときそこは何なのだろうとなる、飯館村は広いから牧場とかあり土地が広いからそこをどう利用するのかとなる
ソーラーパネルとかになりやすいのである。

次回も飯館村に行って感じたことを書く
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2016年12月09日

飯館村考(高倉から長泥、比曽への道) 江戸時代から原発事故までの考察)


飯館村考(高倉から長泥、比曽への道)


江戸時代から原発事故までの考察)

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●江戸時代の飯館村

飯館村というとき歴史がそれなりに古い、大きな杉木立の居久根があり氏神を祭る社があり中に古い鉦が下がっていて延享2の年号と先祖の菅野伝左衛門の銘がありました。

1747延享
1750寛延
1751宝暦
1764明和
1772安永
1781天明

1747延享 から歴史が始まるから古い、比曽はヒソであり焼き畑に入った場所である。佐須もそうである。なぜなら草野が中心部でありそこからまた離れている山中にあるからだ。佐須もそうである。地名というのは何か人間の営みと自然と関係して命名され残されている。
ただこれは何か地図を見てもわからないのだ。飯館村自体が本当に広いから地理をわかるのは容易ではない、それは狭い地域でもそうなのである。

飯館村は中心部の草野と飯樋(いいとい)とその周辺部から構成される
草野は臼石とか二枚橋とかも含まれる、館東とか地名があるのももともと大館と飯樋が明治以降合併して飯館村になった。
草野は最初は伊達氏に半分くらい属していた。飯館で何か伊達と争いがあった。
戦山(いくさやま)とかあるのはそのこととかんけいしているかもしれない

大倉は鎌倉から来た南相馬市の鹿島区の岩松氏が大倉を所領としていた。館とつく地名は中世の江戸時代の前の館でありそこが城の役目を果たしていた。
だから館、楯とつく地名がある所は古いのである。
南相馬市だと今の市街を形成した原町の市街は雲雀が原の野馬土手があったところで原っぱだったのである。あそこが中心部ではない、その周辺の深野とかその他が古い場所である。
郷土史というとき村の新旧とか時代を知ることがまず第一なのである。その市町村でどこが一番古い場所かである。
飯館村の場合は草野になる、なぜならそこは上田が多かった、いい田が多かった。
飯館村というと山が多いから山だけのように見えるが広い平地もありそこに田が作られ米がとれた。一番とれたのは草野地域でありそれでそこに人が一番多く住み中心地になった

次ぎに飯樋が飯館村の二番目に人口が多く集中したところである。江戸時代には塩の道の番所があり60人もの役人が勤めていた。そしてそこで伊達藩と相馬藩が森林資源をめぐって争いがあった。玉野では伊達藩と米沢藩と相馬藩が三つ巴で森林資源を争ったことは有名である。飯館村は伊達藩と争う境界であり境目付とか横目付とかが多いのである。
江戸時代でも村と村は自給自足体制で合同しないから境畑とか境がつけば何か村と村の境だった。
飯館村はそうした境の土地だから比曽でも川俣の山木屋に近くそうした争いが生まれる土地だった。山木屋となると三春藩の領域とも接する、山木屋から三春へ自転車で行ったことがあり三春に通じているのである。
ただ飯館村は広いからふりかえってもその地理がわからなくなっている
大倉から佐須から霊山の道はわかりやすいが比曽はわかりにくいし頭の中で位置が混乱している。
高の倉ダムから道なき道というか森の中をゆく道がある。高の倉の奥に行ったら長泥であり通行止めになっていた。長泥は放射線量が高く住めない地域になっていた。
すると高の倉も放射線量は高かったとなる、国見山で7マイクロシーベルとあったからだ

●明治以降の比曽からも原町に通じていたトロッコ(森林鉄道)

明治以降の飯館村の歴史は今に通じる、やはり木材資源や石材や資源がある村としてあった。もともとは自給自足体制経済である。だから交通として馬を利用していたがその飼料となるのは草でも山から供給できた。今なら車でもガソリンが必要になる
馬が足となっていた時代は長い、だから馬頭観音の碑が今でもいたるところにある。
それは明治以降のものであり大正時代以降も多いのである。江戸時代はかえってまれなのである。馬車屋があったように運搬はもっはら馬だったのである。
つまり馬は野馬追いのように軍馬ではなく運搬用とか耕作用として使われていたのである
それが変わったのはトロッコが森林鉄道ができたときからである。この森林鉄道は網の目のように全国にめぐらされていたのだ。例えば浪江の高瀬川そいの岩をくりぬいて葛尾村の落合まで通じていた。それだけ木材の需要とか石材の需要があったためである。
それは原ノ町機関区から蒸気機関車で東京に運ばれたのである。
常磐炭鉱だと石炭がエネルギーとして運ばれた、それから森林でおおわほれているから飯館村は炭焼きをした人は金持ちになり羨まれたとかある。
街でも炭で煮炊きしたり暖をとっていた、自分の家でも囲炉裏があったのである。
すると炭の需要が大きいから山村でも生活できていたのである。
それで大倉の老婆が「わたしは相馬の女学校に行っていたんです、鹿島の親戚の家から鉄道で通っていたんです」と言っていた。
相馬の女学校というとき入れる人は相当な金持ちでありほんのわずかしかいなかった。
たいがい尋常小学校くらいである。自分の姉は頭が良かったから女学校に入りたかったができずに看護婦の免許を東京でとった。看護婦もその頃簡単になれない、東京まで行って試験を受けねばならなかったのである。
まず相馬の女学校出たというだけでこの辺では大学を出たという感じになるお嬢様になるその大倉の老婆はそんな感じは全くなくなっていた。
ただ当時山だと金持ちがいた、山持ちは金持ちになっていたのは木材が利用されていたからである。

いづれにしろこのトロッコはいたるところにあり目だっていたのである。
それで何か自分の姉が葛尾村の親戚に行くとき歩いて行ったことを何度も話していた。
そこでもしきりにトロッコのことを語っていたのである。
そのトロッコで面白いのは高の倉に鉱山があり石炭を掘っていた、比曽の人が働きにそこに行った、
芥川の小説にも「トロッコ」という題の小説を書いている、トロッコはどこにでもありなじみがあった。石炭を掘り出してもトロッコで積み出していたからである。

塵労じんろうに疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している。…………

まさにそのトロッコの道は細々と残されている、その森林鉄道をたどって探すマニアがいる。この時トロッコは坂は馬でひっぱった。原町までは坂道が多いから下るのは楽だったそして街にでて買ったのは米だったという、だから米には不自由しなかったという。
それは闇米で帰りは藁に隠して運んだ、馬にひっぱらせて上って行った。
まだ馬はかなり使われていたのである。森林鉄道というときトロッコであり人力だったのである。
ここで興味深いのは飯館村が米がとれていても比曽とか長泥となるととれるのはわずかでありその米は原町から運んだものだのであった。
要するにあのような山中の村でもなぜ生活がなりたつかというと外との交流があったからである。一見孤立して自給自足に見えても確かに水とか炭とか木材とかで自給していたが塩の道があったように外部との交流なしでは山村でも暮らせないのであるる。
自給自足の村だったというとき基本的なものはそうだが全部はそうではなかった。
その辺が誤解しやすいのである。

うちの母は腸捻転で亡くなったけど亡くなるとき「おなかが痛い痛い」と言ってトロ(トロッコ)にのせて原町に下って各医者を回ったけど手遅れでトロに乗って帰ってきた。その時は死んでいた。
(もどれない故郷ー長泥)

こういう話は全国にあったろう。辺鄙なところでは病気は死につなかる。、北海道の雄冬という地域でもおんぶして子供を連れてゆくうちに死んでいたとか不便な場所はそうなりやすい。救急車もない時代だったのである。
電話一本で救急車が来るということかいかに便利であり助かることか今になるとそのありがたみを感じないのである。人間はそうした過去の苦しみを忘れるのである。
ここでは原紡で働いていたことも書いてある。その時原町紡織は軍需工場になっていた。自分の母親が働いていたときは糸取りであり絹織物を作っていた。
パラシュートとか帆布とか軍服を作っていた。
原紡というときこの辺の中心的役割を果たした工場だった。

今になると飯館村が原発事故で住めなくなったというときやはり原発で働いていた人もいたし山中でも山菜だけをとって暮らしていたわけではないのである。
大内村でも原発から近いから三分の一が原発で働いていたから成り立っていたのである。そこが何か誤解しやすい、今は木材でも国内のものを使わないから何か山村と街とか都会とのつながりを感じなくなっているのである。
そうなると山村はなんであるんだ、都会の人が税金をはらい馬鹿高いインフラを維持しなくてはならないとなり不満になる。
別に炭をエネルギーとしていれば山の清水で水道も使わないし最低限の生活は維持できるそれが今のように何でも電気になれば車でも一人一台もつとなればガソリンも必要になる飯館村だってとても金がないと生活できないのである。
まず飯館村だったら自分は住めない、車がないから住めないのである。買い物すら車がなかったらできないからである。

最近自分はユニットバスを作ってもらったけどこれも水の使う量が増えたりガスも使う量が増えたりやはりエネルギーを多く消費するようになる、でも風呂であたたまってあとは眠れるからいいし運動したあともあたためるといいとなり一旦こういう便利なものを使うとやめられなくなる、車でもそうである。

●飯館村の贅沢は一軒一軒の家が森につつまれていた

ただ自分の場合、別に飯館村に行ったとしても原発事故前はその生活のことを考えなかった。自分が飯館村と一番親しい場所は大倉から入った人も住んでいない森となっていた地域である。そこには森に隠され清流が流れていたのである。
あそこは人の手が入らない神秘的な場所だったのである。そこには大石があり春にはキクザキイチゲが残る雪のように咲いていたのである。
そこが自分にとって一番印象的な場所だったのである。
それから高の倉ダムから長泥や比曽に出る場所も長い森の道で暗い、夏でもそこは影なして涼しいとなる。そういう場所があることが何か心に安らぎを与える
それをイメージするとき心の中にやはりその奥深い森の影が反映されるのである。

飯館村の一番の特徴は何かというとき、何か目だったものがないのだが深い森の村だったとなる。そして一軒一軒が森の中につつまれるようにあった。
それが贅沢だなといつも見ていたのである。都会のようにこの辺の街でも街になると家々が接して狭いからである。
一軒一軒の家が広い庭と森につまれてあったのである。だからそのことがかえって贅沢なのである。
東京辺りだと電車にのるのも満員電車でぎゅうぎゅうづめになる、田舎だったらこの辺だったらがら空きとかなる、それが贅沢なことなのである。
ただ反面経済的活力はなく「死者の眠る街」と書いたが生者も眠る街になってしまうのが問題なのである。田舎の方がエネルギー効率が悪いというのもそうである。
人が集まりすめばまとめて住めばそれだけエネルギーは効率的に使える
飯館村のようにあんなに広いところにぽつんぽつんと家があり住んでいればエネルギー効率は悪くなる,でもそういう場所に住むということは都会から見れば贅沢なのである。

田舎の良さは本当はそうした自然と一体となり生活を充実させることにあった。それは別にそういうまでもなくそういう暮らしをするほかないのが田舎だった。
最近だからここに一本の樅の木がある、その陰に隠されるように家がある、街から離れているから農家だとなるが今は必ずしもそうではない、でもこの一本の樅の木が真っ直ぐにたっているとその陰に家があるとき村や町でも支えているのは農家であったとか意識する飯館村などはそうした道々でも木がいくらでもある。
そうした自然と一体化するアイディンティティ化するのが田舎なのである。

一本の樅のすぐに立つ冬の陽の没りて陰にそ家のありしも

樅の木は田舎ではどこにでもみかけるのである。飯館村では奥の誰も入らないような所に重厚な樅の木があった。それは古い神殿の石の柱のように見えたのである。
飯館村のような所になると一軒一軒の家に重みがでてくる。存在感がある。
都会にはとてもそうした存在感を豪邸に住んでももていないのである。
家はなにか家だけでは成り立たない、見晴らしのいい場所とか自然が反映する場所に建っていれば価値は百倍にもなる、それが都会には得られないのである。
飯館村には古い家が残っているというときそれは森林があり木材が豊富だから作れた。
自分の家も木材は橲原からとられたもので柱もいいものだという、飯館村などになると大黒柱になりさらに重みがあるものとなる
だからそういう家から離れるのは捨てるのは嫌だともなる。

●万葉集の歌から飯館村をイメージする

あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室(やど)は座(ま)せども飽かぬかも

右は、聞かく「左大臣長屋王(ながやのおほきみ)の佐保の宅(いへ)に御在(いでま)せる肆宴(とよのあかり)の御製(おほみうた)なり」といへり。

板葺の黒木の屋根は山近し明日の日取りて持ちて参ゐ来む

黒木取り草(かや)も刈(か)りつつ仕(つか)へめど勤(いそ)しき奴(わけ)と誉(ほ)めむともあらず

これらの万葉集の歌は飯館村をイメージすればイメージしやすいとなる
現実にそういう古い家が残っていたしその材料は身近にありとることができた。明日にでももってこようというのはそのためである。
そういう自給自足の中での生活の充実があった、でも反面すでに自給自足でもそれが豊だと意識しないということもある。
その土地の黒木でも草(かや)でもとって働き仕えてもほめてくれないというのはそのことだろう。何か別なことならほめるとなる、現代なら米などありあまっているとか米を作る人などほめない、余って困っているんだとかなるだけなのと同じである。
減反政策などもそれと通じている、つまり都となればそれだけすでにそうした黒木であれ草(かや)をとっても価値ある労働とはならない、別なものが価値あるものとなる。
それは今なら車とか電気製品とかいろひいろありすぎるから米は価値がなくなる、木材でも外材になり価値がなくなる、それで本来の価値が自然と一体化した生活の価値が低下させられる、それが高じて原発を作り事故になり飯館村のような所が最大の被害地になったのである。

●までいなとは(真手とは)

飯館村ではまでいな村作りを盛んに言っている、でもこのまでいなとは何か?
ていねいにおそろかにしないということである。
片手だと何か軽くなるが両手だと真心をこめて対処するとなる
ただこれはどういうことなのか良くわからない面もある。

「左右手」を「まで」と読ませています。この謎を解いて下さい。


(答え)「ま」=「真」で「完全なもの」。「左右手(両手)」で「真手」となるわけです。普段から両手で何かすることを「真手(まで)」と言っていたのでしょう。それを「〜するまで」という助詞の用法に当てはめたのです。

「諸手」「二手」で「まで」と読ませています。

◎左右の臣。羽の臣。鏡臣と剣臣。

『あまのこやねと ものぬしと まてにはへりて みちものへ』ホ27
『おしくもと くしみかたまと まてにあり たねこはみこの おおんもり』ホ27

「まつ(和つ)」の名詞形。
ここでは「A: 合う/合わす・匹敵する・対になる」などの意。
また「まつ(和つ)」+「て(方・手)」の合成。

原文: 大海尓 荒莫吹 四長鳥 居名之湖尓 舟泊左右手

作者: 不明

よみ: 大海(おほうみ)に、あらしな吹(ふ)きそ、しなが鳥(どり)、猪名(ゐな)の港(みなと)に、舟(ふね)泊(は)つるまで

・・・・まで(真手)は待つことにも通じている、しながとりとは何か悠長に待つものの例えかもしれない、嵐よ、吹いてくれるな、猪名(ゐな)の港(みなと)に、泊つるまでは吹いてくれるな、何かそうした祈りみたいなものがこの歌にはある。
歌は祝詞でもあったからそういう言霊の祈りとしての歌が感じられる
両手を合わせて祈る姿なのか、真手というとき真直 (まなお )とかもあり大和言葉の原始性があるのかもしれない

これを現代的心境にこの辺をイメージすると津波だ原発事故で避難したり翻弄されたが嵐にあったが港に船は泊まりそこで休みたいともなる
ただその港に住んでいた村や町に帰れないということにも通じている
ともかく万葉集には一つ一つの歌に深い意味があり日本の自然と一体化したもので同じものが作れないことにある。

飯館に我が帰りたしも帰れじに時はすぎゆく今年も終えむ

こんな心境にもなる、いづれにしろ飯館村がどうなるのか?草野辺りにコンパクトシティ化タウン化して生き残るのか?
二千人くらいの規模蜷というがそれまた村を維持することは容易ではない、老人は帰りたいと言ってもそれを支える若い人が流出したことが致命的なのである。
それは限界集落とにているのである。飯館村だけの問題ではない、全国的な地方の衰退が極端なものとしてこの辺で津波と原発事故で起きたのである。

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2016年09月01日

塩の道の旧家で飯館村の現状を聞く (家を壊しても新しい家が建っている)


塩の道の旧家で飯館村の現状を聞く

(家を壊しても新しい家が建っている)

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塩の道の旅館だったという旧家

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これだけ広い所に家が建つ

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五人で所有しているという山、旧家の前のやまである。



夏から秋になる塩の道で九代つづく旧家の人がいたので話して飯館村がどうなっているのか聞いた。

「この家は古いんですか」
「九代目です」
「そんなに古いんですか、すごいですね」
「この前の土地は自分の土地です、今度ここに復興住宅が建つんですよ」
「こんなに広い土地に復興住宅が建つ、50件くらい建つのかな、鹿島区でも復興住宅が50軒くらい建った所がありますよ、ここもそのくらい広いみたいです」

そもそも飯館村については良くわからない、これだけの広い土地に人が住むとなるとそれはどういうことなのか?飯館村では千軒の家が取り壊されたとかテレビで写していた
途中で家が取り壊されて土台しかないところを見た

「家が壊されて何もないところ見たんですがもう帰ってこないでしょう」
「いや、あそこも新しい家が建ち帰るんですよ」
「ええ、帰ってくるんですか?」
「隣の家も直しているようですがここも帰るのかな」
「ここも帰りすますよ、アバートがあるけどまたアパートが建てている、あそこも自分の土地なんですよ、トラックや重機を置いてあるけどここも自分の土地だよ」
「ええ、そんなに土地がある」
「ここの前は田んぼで自分の土地だったんです」
「こんなに広い場所を整地した」

考えてみると飯館村はやはり若い人は帰らないし深刻だと思っていた。なにしろ小高などと比べると不便だからである。それが意外とそうでないみたいなのだ。家を壊したのは新しく建てるためだったのか?避難区域になったところでは楢葉の竜田駅前の家は壊していたが住むないと言っていた。新しく家を建てないのである。飯館では壊して新しい家を建てるのか?福島市に建てた人もいるが飯館村に古い家を壊して新しく建てるのか?その辺はもう一つのみこめなかった。

「自分の息子は保原にいますが帰ってきます」
「本当ですか」
「小高辺りでは帰らないみたいですけど・・・・」
「いいといなどは帰らないよ」
「あそこは離れているからか、でも結構家が多かったですが・・・」
「この草野には帰る人が多いよ」
「草野は幹線道路があることが強みなことはわかっていたが・・・」
「アグリのコーヒー軒パン屋も福島市に本店を建てて飯館に支店を開きますよ」
「ええ、そうですか、休む所がなくて困っていたんですが・・・」
「今でも結構帰って家に住んでいる人はいます」

これを聞いて意外だった、飯館村はみんな帰らないと思っていた。ここで生活するにも何をするのか菊地製作所はあったとしても農業がないとしたら何で生活するのだろう
だからここに復興住宅を広い土地に建てるということがわからない
おそらくここに集めた方が暮らしやすいためなのか

「まあん農業はやれないよ、牛をだめだよ、花栽培している家はある」
「花は放射能と関係ないですから、大内村辺りでも勧めているみたいです」
「ここは水がいいし涼しいからトルコキキョウなど有名だったんだよ、沖縄辺りまで出荷していたんだよ」
「それは聞いていましたが花栽培ならできる」

でも考えてみると花栽培だけで村の生活が成り立つというのも考えられなかった。

「道の駅があったけど売るものに困る、他から買って置くのもな」
「村でとれた特産品でも置かないと商売になられない」
「この前でソバ屋をやれと知っている人に言ったいるんだよ」
「この幹線道路には店があればそれなりに入る、ここに復興住宅が建てば食べる人もいる」

それにしてもこの広い土地の隣はソーラーバネルが並び回りは放射性物質に汚染されたフレコンバックと宿舎のプレハブである。一つあるコンビニには行列ができていた
除染関係の人でにぎわっている。

その家は塩の道にそってあった九代つづいた古い家なのである。

「ここが塩の道だったんだ」
「幹線道路は六号線のようにあとからできた」
「ここは旅館だったんです、塩の道の宿屋だったのか?」
「作見の井戸というのも有名ですからここが塩の道で古い道だった」
「この辺は古い家が多いよ、野馬追いに出る家も近くにいる、4騎くらい出ているよ」
「ええ、今も出ている、相馬藩として飯館村は江戸時代には出ていた」
「今でも出ていますよ」
「草野はやはり飯館村では古い所だから」

飯樋(いいとい)は離れているから帰らない、中心部から離れると不便になり帰らない、小高でも街内に復興住宅が建った、だから街内に集めると介護でもやりやすいし生活しやすい、あそこでも農業をすることはむずかしい。
飯館村はさらに農業することはむずかしい、放射能汚染が他より高いからである。
でもなんか飯館村の良さはまでいな生活として素朴な村という良さがあった。
ただ福島県でも最低の収入の村だったのである。

自分が飯館村で今度行って感じたのは栃窪村は実りがもどり古い碑でも何か全体が復興した感じになる、つまり田んぼがあり実りがあるときそれが一番復興したと感じる
それが飯館村には全くない、荒地であり農業も牛もいなくなったし菊地製作所があるだけでありこれが山の村なのかとなる
農業がない村が村なのかという疑問がある。そこに素朴なものはなくなる。
何か自然でも花でも樹でも飯館村は全体の雰囲気が来たとき違っていたのである。
ソバナの花が咲いていれば何かそういう自然の花が飯館村にはにあうし他では感じないものがここでは感じる、浜通りなどの市町村にはそういうことが感じない
飯館村には特別自然が純朴なものとして感じる不思議があった。
だから農業がなくなる飯館村はこれからどうなるのか、何か前の本来の飯館村が失われのではないかと思った。
第一その話を聞いた人は何か落胆したような感じではない、何かそんな雰囲気はない
子供も帰ってくるしあれだけの土地が売れたとすると補償金でも入ってきたしそれで前より金が入ってかえって余裕があるのかもしれない
もちろん福島市に家を建てた人もいるから相当な補償金が飯館村にも入ったのである。

「飯館村は合併しなくて良かった」
「南相馬市では合併して補償金でもめているからそういうことは言える」

飯館村は南相馬市として合併することも検討されていた。しかししなかったからこそ補償金でもめることはなかったのである。
要するに補償金の額が多いからそれで得している人も飯館村にも相当いるのかもしれないでもそれが現状を見るとき自分はこれが貧しくても素朴な飯館村なのか?
その良さが失われていないか?まずフレコンバックばかりの風景とかソーラーバネルでも景観を乱している、農業がないことがそうさせる
ソーラーパネル工場なのかともなる。そんな村で塩の道など偲べるかともなる

「飯館村は木材が昔から豊富だった、炭の材料として塩と交換した」
「あそこの山は五人で共有している山なんだ」
「あの山ですか」
「五人で共有しているから勝手にできない」
「昔から江戸時代から山は共有して勝手にできなかった」
「他にも山は個人ではもてない、みんな共有なんだよ」
「明治になって私有になった、それが山を破壊する原因にもなった」
「二枚橋の郵便局で大きな範囲で山をもっている」
「それは役所から払いさげられたもんかも、明治になってそういうことがあった」

山はもともと共有であり個人で勝手にできなかった、入会権があり山は共有であり個人では勝手にできないものだった。それが明治時代以降変わったのである。私有が認められるようなった、それで山が個人の所有として無数に分割されてしまったのである、
ただ五人の山だというときそれは明治以降に五人で山を分けた、隣の山も何人かで所有しているとかなると明治以降五人で分けて所有した。もともとは村全体のものだが三人であれ五人であれ分けてやがて個人所有になった。そして無数に個人所有に分割された。
木材をめぐって飯館村でも伊達藩とか争いがあった、木材は当時の燃料だから貴重だった

「この塩の道を通じて塩が運ばれ飯館から木材が運ばれた」
「この道を馬で運んだ、自分の家は旅館だった」
「そういえば他にも飯館には馬と人が泊まった家があった、ここもそうだったのかな」
「ここは旅館だったんだよ,そうかもしれないな」
「ここは塩の道なんだ、蔵を俺は直した、あの紋を見ろシダヤという屋号だった」
「立派な紋だ、太とあるからシダヤなのか」
「蔵も直さないとだめなんだよ」

ここの家はシダヤという旅館だった、屋号があり家紋があり9代つづく旧家である。
でも前の田んぼは売りそこに復興住宅が建つとここが新しい街のようになるだろう。
この変化も大きいし何か飯館村の素朴さが失われる、でも金は入ってくるから余裕であり得したと喜んでいるのかもしれない、何か暗い表情ではないのである。そこが意外だったのである。そして飯館村のまでいな生活とか独自のものが失われてゆく
そうなると飯館村の魅力を失われてゆくのかという疑問はもった。
つまり栃窪村のように田んぼに実りがもどったとき古い碑も生き村全体が復興したという感じをもったからである。
ここに復興住宅ができて街のようになってもどんな生活があるのか?
それも疑問である、何かその人たちが生活できるものがあるのかとなる、農業はないとしたら何で生活するのか?菊地製作所にしても人が減っているというからである。
なんかその人から聞いただけでは飯館村の現状はまだわかりにくかったのである。


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2015年12月08日

飯館村考(もう30年50年とかたたないと復興はできないだろう)



飯館村考(もう30年50年とかたたないと復興はできないだろう)


世界は世界観はどこでも空間と時間から作られる。それは縦軸は時間であり横軸は空間である。人間の思考は空間認識と時間認識で作られている
時間認識は歴史となり空間認識は地理となる。だから地歴という科目になったのである
それは空間と時間は切り離せないからである。
一つの場がありそこに人間の営為があり時間が積み重ねられて歴史となる
故郷とはそういう場と時間によって作られた場所である。
故郷というとき相馬藩内とか一つの場として形成されたアイディンティティ化されたものがある
その範囲は狭いからアイディンティティが形成しやすい場所であった
伊達藩とかなると大きいからアイディンティティを形成しにくい、それは政治的に大きくなり政治的境界を作ったからである。福島県でも浜通りは一体感があるが中通りとなるとない、阿武隈高原にさえぎられてなくなる


会津は会津藩であれ歴史的にも地理的にもそうである。
そして相馬藩内でもその土地土地によって村々によって住む場所か違っている
海側の漁村と山側の山村に住むのでは相当に感覚的に違ってくる
だから飯館村の大倉村と佐須村が隣り合って近いのに民情が違うから明治になって合併することに反対したのである。
江戸時代になるとその場その場で村々で自給自足していたから別な場と時間を生きていたのである。だから江戸時代の方が多様な世界に生きていたとなる
それは言葉でも隣り合う村でも微妙に違って方言化していたことでもわかる
隣村でもそんなに交流しないからそうなる


明治以降そうした江戸時代の土地に根ざして生活していたアイディンティティが失われたそれは交通の発達も原因していた。鉄道の発達が全国を交流させた。関所もなくなり気軽に切符一枚でどこにでも行けるようになったのである。
江戸時代から生きて鉄道に乗った人は驚きだったろう。一気に異空間に旅たてるようになったのである。そこには相当な恐怖感とか違和感があった。
見知らぬ土地へ行くときは常に恐怖がつきまとっていた。

佐保さほすぎて 奈良の手向たむけに 置く幣ぬさは 妹いもを目離めかれず
相見あひみしめとそ  長屋王


峠は故郷と異郷とを分かっ結界である。人が未知の世界へ分け入
る山の神や渡津の神が人の生命を奪うとする思考は、境界の意識と
る境として神威への畏怖を感じ神を奉斉して通る場所である。

峠を越えることは相当な恐怖だった。別世界異界に行くことだった
親しい愛する妻と別れることはとなりの村辺りでも何か遠い感じになるからこの歌ができた。歩いて峠を越えたということをイメージしなければならない、今だったら車であり妻と離れるのが解放された気分になるだろう。
自分も故郷の閉鎖された環境から離れることは解放感になったから旅ばかりしていたとなる
それだけ閉鎖された所で長年生活するということはその土地に密着して生きることになる
飯館村とか川内村とかは都市から原町でも福島市でも離れている、そして標高が高いから八木沢峠のような急峻な坂がつづく、その坂を越えたとき確かに別世界に入り空気も違っているものを感じるのである。

そうした土地に密着した生活から時間軸と空間で場で作られてきたのが村であり町であるその村や町が失われることは何かその場で培われた時間軸と空間の一つの世界が失われることにもなる。
それは飯館村だけではない、日本全国の限界集落などがそうである。
そういうところが今は価値がない、都会からするとインフラに税金がかかるから消えた方がいいと今は盛んに言われる
でもそれが都会の人にとって回りにとっても損失なのである。
経済的な面から見ればそうなるが精神的な面から見れば飯館村があることによってそこがオワシスのように癒しの場となっていたのである。
高原の空気は澄んでいたし森につつまれた癒しの空間だったのである。
例えそこに人が住んでないくても森があり山があることで癒しの空間を作ってきた。
それは人間にとって欠かせないものとして山があり森がある
都会にはそうした空間がないからビルだけになっているから殺伐としたものとなる


までいな生活というのもそれは飯館村の価値観を作る他とは違う村作りを目指していた。そして山菜料理を食べているというときそれは自給自足の延長としてあった。
それは買うものではなく自ら山に入りとる縄文時代の延長としての生活があった。
だから補償金をもらっても何でも買うとなると米まで買うとなると不安になるというのもわかる。
そもそもそういう自給的な生活がなくなったら飯館村に生きる価値がない、その生活は都会と同じだとなってしまう。確かに菊地製作所とかは今でも残っていて通っている
それが村を支えているとなるがそれだけではもう他と変わりないのである。
つまり自給自足的な生活がなければ本当は村に生きる価値がなくなっていた
都会に出れば何でも買えて贅沢はできてもそうした自給自足のまでいな生活はまた別な価値があった。
放射能汚染でそれができなくなったときさらに帰ることを絶望的にしたのである。
除染しても効果がない、補償金一億円もらって他で新しい生活をしたほうがいいとなった都会の方がぜいたくできるし便利だとなるからだ。
結局人間は何か得るものがあれば失うものがある、時代的にもそうである。
江戸時代は貧乏で嫌だといってもそこには今にない価値観があり得るものがある
そして現代とは互いに田舎でも信頼できない社会である。
田舎といっても今は昔とは全く違う金の力がもの言うのは同じである。
なぜアメリカに投資してアメリカのことが気になりカナダに投資してカナダのことを気にしている自分にも言える
何かそこに人間的な規模を越えた非人間化した社会で生きているのである。

保証人が必要だっていうのは、 
それだけ、世の中は信用できない人が多いってことなのかな。 
戦後の昭和史を見た限りでは、就職に『保証人』が必要な企業なんて、 
金融関係以外はほとんどなかったみたいです。 
会社にわざと迷惑をかけるような悪い社員がいることも事実みたいだから、 
会社側からいえば、仕方ないんやろけど。 

自分も身寄りがなくなってこのことで嫌になった。何でも保証人なのである。
その保証人がないために親戚でも脅してきたのである。
入院しても手術するにも何でも保証人なのである
就職するのにも保証人であり保証人のない人は部屋も借りられないとか
老人ホームにも入れないとかもう生きていけなくもなっている
保証人がいないということはホームレスになり野垂れ死ねということにもなっている
それだけ人間と人間が信頼できなくなったのが広域的グローバル社会である。
それいい点があったとしてもまたそれによって失われたものも大きい
もう江戸時代の五人組で保証される、連帯責任の方がいいともなる
時代が変わるとかつて封建的なもので平等でないとか差別されたことにもそれなりの
その社会でのいいものとして機能していたものがあったともなる
原発事故の避難区域で金しかなくなったのもそういう社会になったためでもある
金さえあればどこでも暮らしていいという社会になっていたからである。
今の市町村にはかつての村のような連帯とかつながりがすでになくなっていたのである。

今は贅沢で便利であるが失ったものもある。
例えば原町と小高とか鹿島とか新地になると不便になる
医者も二軒とか買い物でもスーパーは一軒とかイオンに行くと一割りは物価が安くものが豊富にあるとか差が大きい、現代の標準的生活をするとなるとまず4,5万の都市の規模が必要なのである。
それでも敢えて不便な所に住むというのも別な価値観に生きるということがある
それが意識できないとなるとそこにはもう生活できないとなり補償金をどれだけ高くもらうかしか今や関心はなくなったのである。


そして何か補償金をめぐってここの人間のエゴがむきだしになった。それは飯館村だけではない、もう金しかないと極端化したのである。もらうだけはもらうしかない
飯館村の人も福島市でギャンブラーになったとか荒廃した。
飯館村でも別に馬券売り場とかありギャンブルしていた人はそれなりにいた。
でもそういうことが目立つことなく隠されていたから良かったのである。
別に自分は村の人と交流もなにもなかった。
別に村の人と交流がなくてもその生活が隠されていたときそこは別世界になっていたのである。
それが原発事故後はその人々のエゴが剥き出しになり求めるものは金しかなくなった
隠された人間の醜さがむきだしになって現れてしまったのである。
そこで語られるものが補償金しかないのである。
村長がさらに寄付金を募るというのもまたそうである。これ以上金が必要なのかとなる
その金で何をするのかとなる、まさか村民に配りその人たちがギャンブルにまで使うのかと思ってしまうのである。
小高の人は鹿島の競輪場の券の売り場ち通っている、そんな生活に何の実りがあるのか、そんなことをしていれば精神を荒廃してゆくだけである
いづれちしろ残念だけど飯館村は住めないとしたら元の森に埋もれて30年後とかた50年後とかの時間をまてば放射能もへりまた住む人がでてくるだろうと願うほかない
放射能汚染をとめることは時間をかけないとできないのである。
だからもう飯館村でも時間が解決するほかない、今は補償金だけが関心であり村民も住むのは無理である。


第一津波の被害地でも店をはじめようとしたが買う人がいないとなりやめた。
原発の避難区域でも外に出る人は半額にして残る人に多く補償金を出せばいいと書いたが考えてみればそういう場所に残っても金が一億もらってもそれを今度は有効に使えないとなる、つまり回りには金を使えるものがない、荒野に一億円もっていても使いようがないのである。そして水さえ飲めない環境では本当に価値あるものがなくなったとなる
だから外に出る人をとがめることもできないとなる
小高とか他の地域とは飯館村はまた事情が違っているからである。


とにかく現代の町とか村は第一次産業主体だとすると崩壊しやすい、解体しやすくなっていたのである。それは自給自足の生活とは違う、田舎でも山村でもグローバルな世界に生きているからである。
国さえも捨てて外国に住むという人もいる社会である。
菊地製作所が残ってそこが働く場所として飯館村を支えているというのもそうである。
エネルギーにしても江戸時代からしたら何千倍か何万倍か知らないけと消費している社会である。
炭焼きとかがエネルギーだった社会とはあまにりも違ってるのだ



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2015年09月06日

一年ぶりに飯館村に行き思ったこと (初秋飯館村の短歌に写真など)


一年ぶりに飯館村に行き思ったこと


(初秋飯館村の短歌に写真など)



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じさばらの滝
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滑の流れ

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じさばら渓谷の山紫陽花

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飯館の原野化した原にミソハギが咲く

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ここに化と見えるから江戸時代ものか?

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飯館に芙蓉に木槿農家かな
飯館や十輪ほどの秋薊
あいの沢初秋の石や蛙鳴く
何語る社一つや秋の蝉


橲原の道をたどれば黒揚羽一羽飛びつつ消えにけるかな
橲原に山紫陽花や雨ぬれしあと日のさして苔水々し
八木沢の峠越えゆく蝉の声ひびきて今日は曇りけるかな
飯館の道の辺あわれ芒に野菊ワレモモコウかな
飯館に空家一つや郵便箱木槿の咲いて人すまじかも
夏草に埋もれてあわれ道の辺に馬頭観世音飯館の道
作見の井戸見ることもなく五年すぎ村人何を思う秋かな
蝉の声ひびくもあわれ飯館に生きて死なむと思いしものを
葉山への社の道や夏草に埋もれて誰かお参りに来なむ
石一つ除染のあとに現れぬ平たい石や何と名づけむ
蛙石臥牛石久々に来てそを見れば何か心の落ち着きにけり
飯館ははや一本の樹を見ればほのかに赤く色づきにけり
飯館の広くもあれや知らぬ道萩の花咲き月見草咲く
飯館の奥の深きや森深く家一軒や桔梗の咲きぬ
滑にそい流れとどろき早しかな我が自転車に下りくるかな

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空き家に郵便箱に木槿

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この石は除染のあとに現れた



あいのさわ

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この丸い石は顔に見える

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牛の背のような大きな石

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早くも色づいた樹


除染の風景
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パノラマ写真

前田辺り

クリックして拡大するときれいに見えます


芙蓉の咲く村

ゆったりと芙蓉の花が映える
木槿も咲いて農家のありぬ
家は家は森に隠されて
花のみがその色も濃く映えている
その広い空間が癒しになる
素朴なるものがそこに映える
芙蓉の花はあどけなく一日
煩わされることなくゆったりと咲く
赤と白と花は調和して咲いている
花のみがそこには淀みなく映えている
その空間は広々として牛がもうと鳴き
花のみがゆったりと己が色を出して咲いている

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飯館村に八木沢峠を越えて一年半とかぶりに行った。コンビニができたというので行った自転車は暑さに弱い、今年も暑くて行けなかった。
そして雨がつづいて行けなかった。でもかなり走ったけど涼しいから疲れなかった。
自転車はやはり夏は向いていない、体力が消耗する。
秋になると涼しいからかえって気持がいい。
橲原渓谷を通って八木沢峠を上った。橲原渓谷の道は荒れてしまった。車が震災以来通行止めだから通っていないからだ。
今度のカメラは流れや動きあるものをとるのに優れている。だから滝とか流をとった。
カメラは今は何するにも欠かせないのだ。
まずカメラで記録してふりかえり俳句とか短歌にしているからだ。

飯館の不思議はいつも何か雰囲気が違っている。街といってもスーバーが一軒とかパチンコ屋も歯医者も何もないのである。
ただ飯館は本当に広いなとつくづく何回も行っているのに思った。
今回はあいの沢から前田とかに出た、そこも広い山間だった。
そこにも家が何軒かあった、ただ今は除染の工事だけである。
それにしても今は飯館村は除染の土をつめた袋がどこでも置かれている
そして道の脇は除染している。
それにしてもいたるところ除染しているから除染はとてつもない労力が必要だと思った
そもそも飯館村は森が七割であり広いからである。
だからあそこも飯館村の領域だったのかとはじめて知ったのである。
ただなぜか葦は茂ってないないで萱が芒が多くなっていた。
葦は除染のために切ったためかもしれない、八沢浦などはまた一面の葦原である。

除染はどれだけの効果があるのだろうか?
あれだけしているのだからそさなりに効果はあるのだろう
でも森からまた放射性物質が流れてくるからどうなのか?
あそこでまた米とか野菜を作れるのか?牛を飼うことはあきらめただろう。
すると他でも小高ですら放射線量が低いのに帰らないとなるなと
村民は帰るのだろうかとなる、工場があってそこだけは働く場としてある
ではその他の農業とか林業とかはどうなるのかとなる
そしてもともと飯館村には病院もないし不便な場所だったから帰らない人も増えてくる
だから一旦田んぼでも放置したらそれを復興するのはむずかしくなる
前々から金にならないとかばかりどこでも農業は言われて来たからである。
跡継ぎもいないとかなりこの際やめて補償金もらって他で暮らした方がいいと考える人もいるのもわかる

ただ飯館村とか村には村の良さがありそこで生きたものはまたそこで死にたいともなる。老人は帰りたいというときそれは一種の生物的本能でもある
飯館村に蝉が鳴いていた、するとそこで蝉がなくようにその地に死んでゆきたいともなるその心境は老人でないとわからない、つまり老人と若い人の差はそういう精神的な面でも大きな差がある。
別にどこでも死んでいいとかにはならない、都会とかで東京の高層ビルで死にたいとは思わないだろう。
つまり田舎と故郷で見逃されているのが死に場所としての自然がある故郷であり田舎なのである。このことはあまり注目されていないのである。
何か生活が不便だとか経済的側面だけが強調されて精神的な側面が注目されない
もちろん病院がなければ年寄りは病気になるから暮らせないというのも現実である。
実際にだから小高でも夫婦で妻の方が病気になり子供の所で暮らすようになったから帰らないとなる。飯館村でもそういうことが起きているだろう。
それでもどこで死にたいかとなるとた別問題になるだろう。
いづれにしろ老人の問題は死と切り離されずある、そこが意外と注目されないのである。それで原町の90何才かの人が他にもう移りたくないと墓に入りたいと自殺したのも冗談のようであるがやはり精神的なものが大きく影響していたのである。
他にも移りたくないと自殺した人もいたことでもわかる。
人間は故郷とか自然の中で家で死にたいというのが本能的なものとしてある。
それが人間も機械ではなく生物であるからそうした本能をもつのである。

あいの沢では例の石を見たときほっとした。一つは何か円く顔に見えるしもう一つは牛が寝そべっているような大きな石である。何かあそこにきてほっとしたのである。
飯館村自体の自然がなくなったわけではない、だから自然環境保存村とかとして残す方法もある。
だからそこにはキコリの宿のような宿泊所が必ず必要なのである。コンビニができただけで行きやすいとなったからである。
それでもそこに村民が住んでいないなら成り立たないともなる
飯館村は赤宇木村とかと規模が違う、6000千人の村はそれなりに大きいのである。
赤宇木村とかはあそこの道を通っても村として意識できなかった
家が隠されて見えないこともあった。飯館村は面積が広いから大きな村なのである。
そしていいのは森に家が一軒一軒隠されていて家も人間も目立たないのである。

だから人間の生活を隠したということでヘシオドスの言う平和な村になっていた。
そういう場所では花とかが自然がかえって映えるのである。
それでいつも飯館村に来たときなにかここのアトモスフィア(雰囲気)とか空気まで違う感じになっていたのである。
前は大倉から来る道から七曲がりの道がありもう一つの新しい道路がなかった。
その時森におおわれて道があっても人が通らない昼も暗い道があった。
そこに清い流れがあり春になるとキクザキイチゲなどがひっそりと咲いていた
そしてそこには大きな石がありそれしか目立つものはなかったのである。
だから自分はあそこが道になったことは残念だった。
飯館にはそういう神秘的な人の手がつかない自然のままの所があった。
飯館はとにかく広いから隈なく行くことはできない
今回は前田の方とかに出たがそこは始めて行く場所だったことでもわかる

ともかち赤宇木村でも廃村になるというときその村の記録を残そうとして聞き歩いていることが放送された。
飯館村はどうなるののか?何か村に残された社とか碑とかが忘れられて本当に草に埋もれてしまうこともあるだろう。
信仰の問題は別としてそれは文化財なのである。そういうものも失われてとどうなるのか人が住まなくなるとそういうものを死んでしまうというより幽鬼のようにそこから彷徨うものがでてくるようになる
廃村になった廃墟の村ではそうなっているし前に大原の廃屋を紹介したけどそこも幽霊屋敷のようになり不気味なのである。
例えば大原に一本の老木がったけどそ大原も歴史が実際は古い
するとその老木に人間をみるのである。大原の人で病院で知り合った人がそうだった。
その人はそこで死ぬまで農業をしていたのである。
その人は数年前死んだ、老木は何かそうした人間をイメージして残っているのである。

津波で本当に不思議だったのは庭に残っている二本の樹があるとしたらそれがまるで夫婦のように離れがたくそこに立って残っていたことなのである。
その樹が人間に見えたのである。村でも一旦人間が長く住んだ場所は純な原生の自然とは違ったものになっている。人間化した自然なのである。
だから村の樹でもそれが人間化して見えるものがある
人間が住まなくなるとその樹も人間がいないので一段と取り残されたように淋しいものとなっているのである。
それで廃村とか廃墟になったところは幽鬼が死んだ人の霊魂が彷徨っているような異様なものとなっているのである。
自然に帰るとかはならない、そこにはやはり人間的なものが異様なものとなっても残っているのである。そこにも限界集落でも廃村化してゆくことの大きな問題がある。
別にそんなところ経済的に損になるだけだからなくしてもかまわないと都会の人が言うが経済的側面からしか人間を語るべきではない、人間は経済的なものだけでは計られないものがあるからだ。


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posted by 老鶯 at 11:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村