2024年05月26日

飯館村の蕨平から長泥の間に住んでいた人と雲雀が原で話する 【集団就職で東京に出ていた人だった・・・】


飯館村の蕨平から長泥の間に住んでいた人と雲雀が原で話する

【集団就職で東京に出ていた人だった・・・】

雲雀が原の神旗争奪戦を見る人がいた。夫婦なのかと見たら長泥とかその近くに住んでいた人だった。ただすでに15歳の時集団就職で東京にでて故郷には帰ることはなかった。
最近10年くらいなのか帰って来て原町に住んでいる。その二人は夫婦と見ていたがただ飯館村に住んでいた仲間だったのである。一人の女性は飯館村に家をもっていたが原発事故で原町に移り住むようになった。その女性はその家の庭とか畑なのか花栽培しているという。だから空家でもそうして時々帰って花栽培などしているから必ずしも完全に放置された空家でもないのである。
完全に放置された空家とは区別しなければならない。

男性の方は東京へ集団就職して働いた。親に仕送りもしていた。そういう時代でもあった。私は三流大学で遊んでいたからその相違も大きかった。何かその男性の方は相馬流山の民謡を歌い故郷を偲んでいたという。涙流して偲んでいたという。相馬恋しやと歌にあるからまさにそうして故郷を偲んでいたのである。私の父親違いの兄も集団就職であり40歳で交通事故で死んだ。その当時の歴史として集団就職があった。またその男性の友達が墓石作りの場で何か挟まれて死んだという。危険な仕事が現場では常にある。建築現場では事故で死んでいる人がいるだろう。東京辺りで働いた事故で死んだ人もいるだろう。その人たちが今故郷に帰って来ているのを結構見かけるのである。

ともかくその女性の人は高倉から森の中を通じる舗装されない道がありそこを通り原町に来ていた。あそこもどうなったのか10数年も行っていないのである。あそこは近道にしても不便な場所である。原町に住むには便利だから飯館村の人でも小高の人でも移り住んでいる。だから原町でも鹿島でも相馬市でも移り住む人が多いからそれで人口でも維持できる。原町はかなり多く鹿島区でも未だに宅地造成をして新築の家を売り出している。他から移り住む人がまだいるからだとなる。

この年になると過去のことが歴史化する。集団就職にしても遠い昔の話でありその当事者もすでに75以上になりたいがい親は死んでいるのである。その親戚にしても東京暮らしが長いから疎遠にもなっている。それだけの歳月が過ぎて何でも変わってしまったのである。
その女性が栽培しているというとき長泥でもトルコ桔梗とかの花栽培しているとか飯館村全体で花栽培しているのは放射能の影響を花が受けないからである。

それにしてもあのような辺鄙な所から東京に出たということはその変化が大きい。全然違った環境になったとなる。
そして蒸気機関車で集団就職で東京に出たということも遠い昔である。どうしても蒸気機関車だったということが信じられなくもなる。トンネルをくぐると煤けたのはそのためである。だからトンネルのときは窓を閉めないといけなかった。でもその窓が木製であり開けるのが苦労だったのである。

確かなことは年を取り集団就職した人であれ故郷に帰ってきている人が多くなっている。やはり東京より故郷がいいとなるからだ。でもまと増えるのはそうした老人だけだともなる。
女性の方には管理をまかせる息子と何人かいるからまた空家でも他の人が勝手にできない問題がある。でも将来的にどうするのかは日本全体の問題である。
新しいこじんまりと家を飯館村では建てている。でもそこに常に住んでいなくても花を栽培してとか全く放置しているのとも違うのである。
でもそういうかかわりかたをいつまでできるのかとなると問題である。でも息子娘がいればまた空家でも土地でも勝手にはできないのである。そこに空家問題のむずかしさがある。

その男性の方飯館村で馬を飼っていて馬を使って農耕していた。そういう農家は多い・それで馬は臆病だから驚かしてはならないとしきり言っていた、馬のことに通じていたのである。何か人が乗らない馬が走っているのを見てそう言っていた。馬のことを知っていたからである。前の野馬追にはその農耕馬がでていた。それは足も太く力がある馬だった。今の馬は競走馬であり脚は細いでも走れば早いのである。近くの農家の人も馬を飼っていてバコと呼んでいた。馬は農家で飼っていてのが多かったのである。

双葉からも外から支援する若い人見に来ていた。双葉からも8騎でているという。ある人は会津からもでているとも言っていた
浪江から双葉とかまで相馬藩であり拡大すればそれなりの参加者があるとなる。それでも去年は350騎である今年にしても観客は少ないみたいだった。期日を変えたことが影響したのかもしれない、夏休みでないから子供連れでは来れなかったとのある



posted by 天華 at 17:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2024年05月23日

遠く隠された村【詩】−夏の日の長泥から津島への道


遠く隠された村【詩】−夏の日の長泥から津島への道


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隠された一すじの清き流れ
森深く山の奥に流れはひびく
森の影は濃く人行くまれに
一つの石が厳しく黙し鎮座する
藤の花が長々と垂れ咲き
反る巌の狭路の谷間に夕月
その道のかなたに一つの村
秘境ともあれや暮らしは続く
道の辺の石に寄り休む
街から遠く隠された村
ここに古くから営みありて
村人の暮らしは続きぬ

森中清流
影深涼風
鎮座大石
藤花長垂
谷間狭路
巌反繊月
一村隠遠
夕闇家々
誰棲深想


遊山西村 陸游

莫笑農家臘酒渾
豊年留客足鶏豚
山重水複疑無路
柳暗花明又一村
簫鼓追随春社近
衣冠簡朴古風存
従今若許閑乗月
拄杖無時夜叩門

山西(さんせい)の村(むら)に遊(あそ)ぶ 陸游(りくゆう)
笑(わら)う莫(な)かれ 農家(のうか)の臘酒(ろうしゅ)渾(にご)れるを
豊年(ほうねん) 客(かく)を留(とど)めて 鶏豚(けいとん)足(た)る
山重(やまかさ)なり 水複(みずふく)して 路無(みちな)きかと疑(うたが)えば
柳暗(やなぎくら)く 花明(はなあか)るく 又一村(またいっそん)あり
簫鼓(しょうこ) 追随(ついずい)して 春社(しゅんしゃ)近(ちか)く
衣冠(いかん)簡朴(かんぼく)にして 古風(こふう)存(そん)す
今(いま)より若(も)し閑(かん)に月(つき)に乗(じょう)ずることを許(ゆる)さば
杖(つえ)を拄(つい)て時無(ときな)く 夜(よる) 門(もん)を叩(たた)かん


山重(やまかさ)なり 水複(みずふく)して 路無(みちな)きかと疑(うたが)えば

路無(みちな)というとき中国は広いからそういう場所は普通にあった。
農家(のうか)の臘酒(ろうしゅ)渾(にご)れるを
といとき日本だったら濁酒になる。そんなところで歓待するものもないがその味もどえなりにいいとなっていたのか、その土地の味だったかもしれない。第一そんな村に訪ねたことが貴重なことだったとなる。

私も阿武隈山系の石川郡なのか万屋【よろずや】で味噌汁と御飯を御馳走になった。そんなこと今はありえない。でも店もないような場所だったのである。阿武隈山地はの山村は過疎化して限界集落になり維持できるのかとなる。街すら維持できるのかとなる時山村はさらに厳しくなている。ただそうして村が消失すれば多様な生活も消失して旅してもつまらない住んでいてもつまらないとなってしまう。

何か十数年行かないと前に行った時とは違っていた。というより記憶が薄れたので初めて行ったようになる。そいうことは旅ではある。こんなところだったのかと初めて来た感じにもなる。
何か狭隘な道を行き秘境に行った感じになった。それは夕暮れになり月でも雲が隠していたが出ていたことで感覚的に違ったものとなった。こんな狭い道だったのかとなった。
いずれにしろ秘境に行く感じになった。

ただこういう村は日本に結構ある。日本が山が多いから同じような風景になる。まるで山水画の風景だった。津島は浪江町から相当に離れているからだ。なぜあそこが浪江町なのかわからない、
今回は特に赤宇木【あこうぎ】の方を回ったから違った感じになった。清流が流れつづき気持ちいい場所だった。水は結構流れていた。夏でもあそこは木陰が続くから涼しいとなる。

それで思い出すのは木戸木【ことぎ】に森に隠された清流がありそこは神秘的だった。あそこが道になって残念だった。それにしても飯館村は本当に広い、長泥にしてもかなり遠いからである。
第一あそこの道は行ったことがなかったからである。
つまり未だに行ったことがない場所が飯館村にあったし津嶋方面にあったのである。
いずれにしろ介護に十数年とか津波原発事故で行けなかったのである。十数年も過ぎると何か始めて行った感じにもなったのである。ただ正直自転車では疲れた、体が弱ったからである。それだけ遠かったということである。

A hidden stream of clear water
Deep in the forest, deep in the mountains, the stream echoes
The shadow of the forest is thick and rarely visited
A stone sits stern and silent
Wisteria flowers droop and bloom
The evening moon in the narrow valley of a warped rock
Beyond the road, a village
Unexplored land or not, life goes on
Resting on a stone by the side of the road
A village hidden far from the city
There is a village that has existed here since ancient times
The life of the villagers continues

Translated with DeepL.com (free version)

posted by 天華 at 10:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2024年05月22日

長泥から津島へー石の短歌 【石に名前をつけて人間化する】


長泥から津島へー石の短歌

【石に名前をつけて人間化する】

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【長泥】

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長泥に残れる石の一つかな人住まじも石は変わらじ
長泥に代々長く住む人や今は住まじも石は残りぬ
長泥の遠くにありや暮らしかな刻まる日々の生活(たつき)尊し

【津島へ】

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これは大き角石とかなる

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亀石とかなる



誰か棲む山の森に墓数基形見と残るも誰か参らむ
赤宇木(あこうぎ)ゆ津島にい出でて夕暮れぬ白藤垂れて月も出るかな
畑あれ玉石一つや津島にそ根ずき生きにし人を想いぬ
津島へと行く道の辺に石一つ我がもたれつつ夏の夕暮
津島へと谷間の曇り月の出る夏の夕暮道は続きぬ


飯館村であれどもでも私は石に興味があり見ている。今回長泥から津島まで行きいろいろ石があると見た。長泥の祖父石と孫石は目立った。その石はまだ名ずけられていない、石でも名前を付けた時人間化するのである。
でもその村自体が消失したら石でもその存在する意味もなくなってしまうかもしれない、というのはつくずく庭の石は人間化した石だった。だから空家が多くなっているが残された石はなんとも淋しいものとなる。人間と石が一体化していたからそうなったのである。

それは長泥であれ津島であれ村自体が消滅したらもともと村の中にあった石でもどうなるのか、その存在意義と意味も失われる
確かに石は残っていたとしても空家化した庭の石のようにもなる。前に飯館村に石を四人石とか臥牛石【がぎゅう】とか名っずけるとき飯館村では牛を飼う人が多かったからである。
三人石であれ四人石であれ五人石であれまさに家族のようになる。孫石というときまさに家族をイメージするのである。
そうして石は人間化する。また歴史的な物になると伝説化した石となる

でも原発事故で飯館村とかでもどうなるのか、存続できるのか、飯館村も広いから一部は残るとしても維持できるのだろうかとなる。それより日本全国で限界集落が増えて消滅すると言われる。
そうするとその村と共に人間化した石のその存在意味がなくなってもなくなってしまうともなる。それは庭の石と似ていたのである。村人が去って庭の石が残されたように確かに石は残っているが人は住んでいないとなる
ともかく人間が自然の物でも名ずけるとき人間化したのである。
だから石でも木でも山でも人間化するのである。



posted by 天華 at 09:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2024年05月21日

長泥ー津島をめぐり昔を回顧する 【戻れない故郷ながどろ】を読むー私の父親の関連


長泥ー津島をめぐり昔を回顧する

【戻れない故郷ながどろ】を読むー私の父親の関連

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●不便な長泥でも帰りたい理由

長泥とかあのような山深いなかでどんな暮らしがあったか、江戸時代から人は住んでいた、ただ天明の飢饉があり村が消失する危機があった。でも江戸時代から家は続いていたのである。
七〇戸ありそこは一つの家族のようにもなっていてそれで避難した人たちが帰りたいとなる。そんな不便な所に帰りたいのとかと思うがそこには仲間がいて助け合う村の人たちがいてそういう暮らしを長年していれば自ずとそれもいいとなる。
そして年取ると慣れ親しんだ場所とか人とといるのがいいとなる。もし若ければ適応力があるから知らない土地に移り住んでも
そこが第二の故郷ともなる。適応力があるから若ければ他に移り住んでもそれほど感じない返って便利になっていいとかなる。

そうは言っても大倉の近くの木戸木(ことぎ)に一人で住んでいる老人は買い物でも巡回のバスで行く。車がないと不便である。車というのは田舎では広い地域に住んでいるから街から離れていると必需品になる。その老人は体も弱っているから苦しくなっている。医者に通うとなると車がないと不便なのである。知っている人は息子が車に運転してもらい通っている。
その人は大工であり若い時は東京の方に行き稼いだと言っていた
そして長泥でも原発で働いていた人がいたし出稼ぎもしていた

ただ不思議なのはトロッコで石材とか運んでいたという、あんなところまでトロッコが使われていたのかとなる。いい御影石がとれるとかで石材の加工をしていた人がいたという。私の近くでも墓石を作る人がいた。機械がなくノミのようなもので削っていた。なぜ石材が必要だったのかとなるとそのころ外国からは石でも材料が入って来ない時代だったからである。
今では中国からでも石材の御影石でも入ってっ来る。そういうことも山村とかが生活するのに苦しくなった。グローバル経済の影響は余りにも大きいものだったのである。

●阿武隈山地は葉タバコが向いていた

ともかく山村でもそれなりの暮らしがあり生活していた。葉タバコは江戸時代から栽培されていた。阿武隈山地は寒冷であり葉タバコに向いていたのである。明治生まれの私の父親はキセルを使い葉タバコを詰めて吸っていた。それは江戸時代の続きだったのである。葉タバコの消費量は相当なものだった。キセルでも時代劇でいいキセルが欲しいとなり大金を払うとなる。花魁とかも長いキセルを手にして吸っていた。

煙管(キセル)の持ち方で身分が判明?花魁や男女の持ち方とは?

侍や町民や農民でキセルの持ち方が違っていた。これも身分社会だからそうなった。そもそも侍とか町民とか農民では言葉使いも違っていたからである。
とにかく葉タバコがとれてそれせ現金収入になることは助かったとなる。ただ健康的にはいいものではなかった。

四国の貞光町は藩政時代には葉たばこの集散地として栄えたところ。商家の重層(二層)、瓦葺のうだつが往時の繁栄を偲ばせる。

それだけタバコの重要が大きかったのである。

私の父は肺癌で死んだというときタバコが関係していたのか?それはわからないがタバコは体に良くないのである
山村暮らしでも現金収入になるものはあった。養蚕はかなりの収入になった。蚕に食べさせる桑の葉はどこでも作れるからである
石材など木材でも戦後網の目のよう森林鉄道が張りめぐらされて東京に運ばれた。だから長泥からも運ばれた。そして原ノ町駅が
機関区になっていた蒸気機関車で東京に運ばれたのである。石炭は常磐炭田があり平駅から今のいわき市から運ばれた
牛を飼うようになったのは戦後であり牛の肉を食べることは日本人になかったがアメリカにならって牛の肉でも牛乳でも飲むようになった。
また飯館村でも江戸時代から住んでいた人もいたが戦後の引揚者が入植した人もいてまぎらしいのである。村の歴史を見る場合まず古い家を知ることが大事だからである。何か辺鄙な所に住んでいる人は意外と戦後開墾して住んだ人なのである。

●長泥の店と私の父が双葉の酒屋の丁稚だったこと

長泥にも店屋があり万屋(よろずや)が一軒あった。何でも売る店である。津島の方から炭を買っていた。
昔は炭をしょってきて酒飲みに来たんだ、
昔は掛け売りで月の最期に集金、飯館村だけではない双葉村まで集金した、なんだかんんだで払わね奴ははらわねいしな、
戻れない故郷ながどろ

これを読んで明治生まれの私の父親が双葉の新山の酒屋で丁稚奉公していた。その後暖簾分けして鹿島区に写り酒屋を始めた
掛け売りというとき現金がないから借りて買うということである。貧乏な時代にはそういうことが多かった。何か私の家で部屋貸していたらしく毎日家賃をとりにいったとか聞いた。日銭払いとかになっていた。それだけ貯金などしていないのである。 江戸っ子は宵越しの銭は持たぬというがそれは気前がいいというより貯金と町民はしていなかったのかもしれない。ただ商売している商人は蔵に小判を貯めていたから盗賊に狙われたとなる

普通の町民はそもそも貯える金など持っていない、そんな収入がなく掛け売りとか日払いでその日その日をしのいでいたとなる。
長泥のことで双葉のことがでてくるが双葉で酒造りしていた。
今でも一軒酒屋が富沢酒店が残っている。煉瓦の煙突があり大きな酒屋だった。そもそも昔の戦前でも酒屋が街の中心となっていた。酒屋でも樽から少量でも酒を売っていたのである。子供の時近くの酒屋に酒を買いにいかされたからである。その時私の家では酒屋をやめてなんでも売る店を始めたからである。

とにかく私の父は通い帳を残していて酒でも掛け売りでありその取り立てに苦労していたのだろう。それでわずかの土地を担保にして酒を売っていた。その土地の借用書権利書が残っていて今でもそのために税金をはらっているのである。その土地がどこなのかもわからないのである。
だからみんな貧乏で酒でも満足に飲めていなかったのである。ただ酒自体も体に良くない、それでも信長の時代日本にキリスト教を伝えた宣教師が酒を飲んで栄養にしたというとき酒でも栄養になったからそうなったとなる。・
何か長泥とか遠くて関係ないと見たがそうでもない、双葉と長泥は関係していた交流があった。やはり相馬藩内だと交流があるとなる。結婚にしても昔は相馬藩内でしていたからである。

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父の残した通い帳

●長泥に住む価値は都会よりは大きなものだった

いずれにしろ長泥であれ津島であれ飯館村でも回復する復興するのは相当に難しいのではないか。特に長泥とか津島となると90マイクロシーベルトあったとか信じられない放射性物質に汚染されたからである。だから今でも山は立ち入り禁止になっている。それだけもはや除染することもできないし集落は崩壊したとなる。
飯館村の方では確かに住んでいる人がいる。長泥とか津島とかでわ住んでる人もいない。そこを復興しようにもどうしてしたらいいのかもわからないとなる。山の領域は生活で活かせない。山菜戻ることもできないするとどうしたらいいのかとなると相馬市の玉野村のようにまた丸森町のように山ごとソーラーパネルにしてしまうのかもしれない。そもそも何らかの収入がなければ山で生活することは不可能だからである

ただトルコキキョウを栽培するとか花の栽培をするとか長泥でもはじめているというのは飯館でも花栽培をしたからである。花は食べるものではないから放射性物質に汚染されない関係ないからである花というのは現金収入にもなりそれで農家では花栽培で生活している人がいるからである。
山菜とかは取れてもそれを売ることもできないからである第一水とかと土とか水とか木材でも木でも汚染されるということは生活の基盤は失われてしまったということであるそのことが致命的になったのである。もし生活の基盤が失わらなければ貧しいなりにこれまでも生活できたのだからできないことはない.
でも生活の基盤となる水から土から木まで汚染されたらどうにもならないとなそのことが一番放射原発事故の被害の大きいものだったのである。

都会の人は限界集落などなくしてしまいと言っているがそうなる時日本はどうなるのか人間はさまざまな地域に住んでいることで多様性が生まれる。だからあんな辺鄙なところに人が住んでいるということは何か特別貴重なものにも見えた。そこに暮らしている価値は大きい物だったかもしれない
価値というとき経済的価値とかだけを見ていれば山村などは何の価値もなる。も精神的というか人間的価値という時また別なのでその価値は東京とかより全く違ってその価値は大きいとなる。 70軒あったとしてその一軒一軒が価値あるものとなる。 1000万の大都会となれば一軒一軒などどうでも良いからである。
大都会の価値はい千万分の一ともなってしまうのである

でもあのような辺鄙なところで生きることは帰って精神的な面からまたは文化的な面から見れば全然違った価値がそこにあるとなる
そして日本全国でもさまざまな土地に人は住んでいてその多様性が様々な価値を作り出しているのであるその多様性とはその様々な土地から基本的に生まれてくるからである
海側に住んでいるとか平地に住んでいるとか山に住んでいるとかそれによってそのそこに多様な文化が形成されそれが人間を豊かにするのである。それがなくなったときただ都市だけになったらそこに文化もなくなり多様性がなくなり生きていてもつまらないとなる。

だいたい都市と言っても何か皆同じようなものであり大都会になると世界でも巨大なビルが立ち並び同じようなものになっている
世界でもはニューヨークであれ東京に行くようになったらつまらない
経済的には大規模であり人はそこに吸い込まれてゆくのだがそこでは人間の充実した生が営まれるかというとそういうこともないのである
そこで人間はどうなっていくのかただ数として数えられて無機質な個性のない人たちが大衆となり群衆となり消えてゆくだけだと思う。無縁化孤立化してつながりもなく死んで山に帰り先祖となるとかもない、そこに山はないからである。その遺骨は狭い団地のような区切られた一室に押し込められるともなる。それは番号になっているのかもしれない、誰も一千万とかの都会となれば数として番号化されだけだとなる。何番が死んだとかなる。
そこにその人の個性を示すものはないとなる。

でもこうした辺鄙な山の中村とかでは一軒一軒の一人一人が存在感があるものとなる。だからこそ長泥でも津島でも帰りたいという人がいるときそれは何か経済的なものを物質的なものではなく精神的なものがありそれを求めて帰りたいとなるのである。
とても東京とか大都会は故郷にはなりえないからである。だから経済的効果がないしもはや復興することもできないとして村が消失する時は何かやはりこの辺では大事なものは体の一部分が失われるような感覚にもなるのである。だから人間はすべて経済的効率から見ることはできないのである

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2023年11月08日

母なる山と実り【飯館村の詩】 【万葉集の三輪山とも似ていた風景】

母なる山と実り【飯館村の詩】

【万葉集の三輪山とも似ていた風景】

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母なる山

どっしりと前に山がある
大地に腰を据えて山がある
母のように頼もしく
山があり実りが蘇る
隠れて石があり草の花が咲く
いくつか寄り合う石がある
ここに暮らしがあり
ここに生きる喜びがあり
悲しみがある
こころはここにある
ここを離れて心はない
いつも母なる山があり
その山は動かず落ち着く
静かに日は没り山は暮れぬ


額田王の近江国(おふみのくに)に下りし時に作れる歌、井戸王(ゐのへのわふきみ)のすなはち和(こた)へたる歌

味酒(うまさけ) 三輪(みわ)の山 あをによし 奈良の山の 山際(ま)に い隠(かく)るまで 道の隈(くま) い積(つ)もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を 情(こころ)なく 雲の 隠さふべしや

三輪山は低い山である。でもその山の高さが人間的なものとなった。人間的になる山は高く厳しくなるとなかなか人を寄せ付けないものとなり厳しいものとなるから人間的親しみを感じるというわけにはいかない。味酒(うまさけ)というときやはり山でも何か人間の暮らしを提供するものがある。酒作りにもきれいな水が必要だからである。だからまるで親しい人間のように別れを惜しんだのである。何か飯館村を離れ他に移り住んだ人たちも同じ心境になっているかもしれない、つまり山と人間が一体化してそうなったのである。

だから母山とかありまた祖母山とかある。ただ里から離れて高い山でもある。飯館村の山は里山であり低い山である。でも浜通りだとこうして身近に感じる山はない、阿武隈山脈でも遠くから眺めているからである。
飯館村になるとそういう遠くから眺めるものではなくすぐ身近に親しい山である。だからそれが母のようにも見えるのである
奈良の三輪山でも高い山ではなく飯館村で見たのと似た感じになる。だから奈良を去り近江に行くときその山が人間のように見えて別れてゆくのを惜しんだのである。それほどその山が人間が一体化していたのである。

飯館村でわ原発事故からようやく全部ではないにしろ田んぼが回復して実りの季節が来た。その稲穂の実りが山の前に広がる。それが何とも言えぬものを感じた。
飯館村はもう放射性物質で汚染されて農業はできないのではないかとされた。それで森林公園にしたらいいのではないかという提案もあった。それだけそこに住む人が激減してしまったからである。おそらくここに住んでいる子供が居るのかとも見る。なぜなら村外から学校があっても通っているからである。立派な学校を建ててもそもそもそこで学ぶ子供はいくなっているのである。

やはり何か人間はそこに暮らしがないと村でも生きてこない。実りがあり山がありそこに自然と人間と一体にるものがある。そこに暮らしがなくなれば村も活きてこない。
飯館村でも一時1万人近くの人が住んでいた。それはやはり炭焼きとか木材とかを石材でも東京に森林鉄道でまた蒸気機関車で貨物列車で東京まで運んでいたからである。戦後は引揚者が開拓に入ってきて農業をしたのである。だから今から1万人も近くいたということは相当ににぎわっていたとなる。でも1万人ででも飯館村は広いからそれでも少ないとなっていたのである。

とにかくその土地のことが意外と知らない。私自身はも飯館村には頻繁に行っていても新しい発見がある。それだけ飯舘村は広いということである。ただ飯館村でももう十年くらい田んぼは草ぼうぼうであり実りはなかった。でもそれが回復したのを見たときやはり暮らしがなければ村は生きてこない。現実にかなりの農家でも空家となり放置された。ただ必ずそこにこじんまりとした新しい家が建っていて住んでいるかと思ったら住んでいない。そこは別荘だという人もいた。軽井沢だったらわかるが飯館村ではそんなことはありえないと思った。ただ確かに相当数が飯館村から去ってしまった事は確かである。

でも稲穂の実りがあり花畑などがあり花などを作ってまでい館で道の駅で売っている。花は放射性物質に汚染されても関係ないからである。ただ依然として土は放射性物質に汚染されているということがありその影響は続いている。やはり土を取ったりしているから土の養分がなくなって野菜などでも米でもなかなか前のようには回復しないかもしれない。それだけ飯館村は放射性物質に汚染されてしまったのである。

秋になり飯館村に行く
【秋の風、秋の蝶、実り、秋晴れ、草の花、山津見神社】




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2023年06月03日

相馬藩内の市町村の特徴−花から見る (地理と風土が基本にあり飯館村も一体であった)


相馬藩内の市町村の特徴−花から見る

(地理と風土が基本にあり飯館村も一体であった)

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市町村の特徴はどうして作られるのか。それはまず地理とか地勢とか風土を基本にして形成される。それを基にして歴史が形成され個性が作られる。相馬藩というとき規模が小さい、六万石だから小さい、でも地形的には変化に富んでいる。
海があり山がありと地形的に変化がある。海の民山の民の国だとなる。それは日本が海彦山彦の神話があるごとくそういう国柄だからである。だから飯館村が相馬藩だったの一見離れてみえるが地理的に一体なのである。なぜなら南相馬に主な川が三つあるとして真野川は飯館村の大倉の真野ダムに通じている、その川は佐須を源流としている新田川は草野の飯館村の中心地を源流としている。

こうして飯館村地理的に離れて別世界になっているようで海側の南相馬市と一体なのである。だから放射性物質でもフレコンバッグが破れて流れ出しいたというときそれが川を通じて流れてくるから騒いだのである。真野ダム蓄積した放射性物質も真野川を通じて流れ出してくる。だから飯館村と南相馬市は一体なのである。それはすでに鎌倉時代でも鹿島区の鎌倉から来た岩松氏の領地になっていたことでも歴史的にも一体化していたのである
相馬藩になっても山中郷としてあり野馬追にも出ていたのである

ただ飯館村が海側と違った高地にあり温度でも5度も違うということはそこは亜寒帯であり植生も違っている。
なぜなら海側は浜通りは温暖だからである。それで照葉樹林帯の南限の地としてマルハシャリンバイが海老地区に指定されていた
また多珂神社の近くにスダシイ神社があるのも南国的な照葉樹林帯に属するか自生したとなる
そして大和王権が鹿島区辺りまで支配地とした。それで万葉集の真野の草原の歌は気候の境界線であり草原でない、かやはらを萱を歌ったものではない、大和王権の支配地として認定された歌でもあった。そこに大きな歴史的意味があったのである。

ともかくその土地のことを肌で知ることはむずかしい、その土地を知ることはまず地理と風土を知る。そこから始まる。
ところがそれは地図を見てもわからないのである。なぜなら地図を見てもなかなか土地の高低がわからない、モンゴルでは海抜が1000メートルある。飯館村の海抜が平均500メートルくらいだから倍の標高さがある。飯館村で平地の海側より温度が5度も違っている
そのために飯館村では冷害があり飢饉となり苦しんだ歴史がある。米がとれなかったからである。
ただ夏は高原地帯となり涼しいのである。

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このようにモンゴルは冬は非常に寒く厳しい地帯なのである。
日本人が北海道の人がテントで一年間暮らして一回り痩せたと言っていた。ということは栄養がとれずにやせたとなる
服でも分厚い服を着ているのは冬が寒いからである。
マイナス30度くらいになるから厳しい風土なのである。

世界になると地理でも風土でも知ることは簡単にできない、地図を見ただけではわからない、それが近くでもそうなのである。
海側と山側では特に飯館村は相当に風土が違っているのである

そして最近飯館村の森に銀蘭が咲いていることを教えられた。
その花は森の中に入らないと見れないしあいの沢の管理人は教えないと言っていた。採ってゆく人がいるからだと言っていた
確かにこの花は森の中でしか見れないとしたらめずらしいとなる
白色の花が暗い林内では銀色に見えるというときこの花の神秘は森の中で見るとき感じるものなのである。
それで飯館村の花は銀蘭にした。でも一回も見ていないのだからこの花が適当なのか問題になる。でも森の中に咲いているということで飯館村にふさわしいとなる。
それから原町の花をヒマワリにしていたがこれは外国産であり自生したものではない、それで小川町の川の土手に咲いている夏菊がふさわしいとみて原町の花は夏菊にした
相馬市は城下町であり藤の花があっていた。鹿島区は草深いとなり藪甘草が合っていると見た。小高区は最初に相馬氏が城を築いた所であり枝垂桜がさいていたのでふさわしと見た

ただ南相馬市というとき範囲が広くなったので町とか村の特徴を消したことはある、つまり南相馬市より原町市に方がふさわしかったからである。原町というのは長い間なじんだものであり南相馬市というのはただ相馬市の南としかならなかったからである。
それが無味乾燥にしたとはなる。相馬市は江戸時代の城下町でも原町市は常磐線の機関区となり別な発展をして作られた市だったからである。

確かに県の花とかある、でもさらに市町村ごとの花もある、しかしそれもふさわしいかどうか風土性と地理と歴史から感じるものだからである。それは地元の人でもなかなか気づかないとなる
つまり文化的なものはこうして風土とか地理とか歴史が複合的に関係していて気づきにくいし地元の人でも発見できないことがある。それだけ相馬藩であれ一地域のことでも知るのはむずかしいのである。それでもアイデンティティ化することはその土地と一体化することでありそこから文化が産まれるのである
そして豊かになれば時間にも余裕が生まれると文化が産まれる。
私が指摘したもの新たに地元で発見したものである。
その土地の魅力は実際はまだ発見されていない、未だに知らないことがあり感じないことがあるからである。
地元の人でもそうなのだから外から来る人が余計にわからないのである。相馬市と原町の相違がわからなとなる。これは旅してもそうなのである。表面的にしか理解できない感じないのである。
それで芭蕉がみちのくを旅してその風土性と歴史性を実感したことに感嘆するのである。

五月雨の降り残してや金色堂

五月雨とは自然の変わらぬ気候の巡りである。その大自然の五月雨にも朽ちず残された金色堂を歴史と自然の中で見事にとらえたのである。そこに悠久の歴史を感じまた自然の猛威ともなる五月雨を感じるのである
自然と風土と歴史性がこの短い句に凝縮されたのである
そのようにみちくの自然と風土と歴史性が一体化したことで
不朽のものともなったのである。
それはそれぞれの地域で風土と歴史性が一体化することアイデンティティ化すうることが文化なのである
だからcaltureとはcultivate(耕す)なのである。その土地のことはそこに長年住んでいる人でも発見されないことがある。
それだけ時間がかかるということである。
この歴史性というときそれを活かす時文化になる。飯館村までの塩の道が落葉に埋もれ忘れられている、でもそこをたどれば昔の人の苦労を偲ぶことができる。

それで栃窪にまんじゅうだけを売っている店がある。するとそれを助のまんじゅうとかすれば歴史を感じることになる
助の観音とは栃窪から山の道を行き休んだ場所だからである
白石に足軽饅頭というのを売っているからである。その饅頭を食べて力をつけたということである。その謂れを知り昔を偲ぶとなる、ただ腹を満たすだけではないものとなるのである
ただこの風土性とか歴史性とかを感じるのはむづかしいのである
地理でも車で一気に飯館村に行くと何かその高さとか塩の道でも苦労して塩を運んだことを偲べないのである。そこに返って便利になっていろいろなことを人間は感じなくなったともなる

とても奥の細道の芭蕉が感じたようなことは感じない、時代のせいもあるにしても余りにも便利になりすぎて感じなくなったのである。新幹線で二時間ちょっとくらいで来たら感じないのである。だから意外と今は旅でも浅薄な旅となり印象でも深いものを感じずに通り過ぎてゆくだけだともなっているのである。





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2023年05月31日

松川浦から飯館村への塩の道(詩)

松川浦から飯館村への塩の道(詩)


塩の道去年(こぞ)の落葉踏み
助の観音あわれ
塩を運ぶ昔の道
塩を待つ山の民
塩を運ぶ海の民
その長き道のり
その塩の貴重さ
塩を待ちわびる人
塩を苦労して運ぶ人
人と人は塩を通じて
ここに結ばれぬ
今その道は忘れられ
山の森に埋もれぬ
しかしその道を歩むとき
積る落葉を踏みて
助の観音を助け泊まる
昔の苦労を偲びぬ

今日は天気が良いので栃窪から塩の道を行った。土地を途中崖道が崩れて通れない所があった。でも自転車ではその脇を通ることができた。
でもさらに行くと土砂崩れのようになって道を遮りそこは通ることができなかった。ただ工事しているから通れるようにはなる
それで引き返して上萱の道を八木沢峠の方に下った。上萱(うえがや)に残っていた茅葺の家はなくなっていた。何か津波でも海側の家がなくなったりしている。ここもそうである。

塩の道は栃窪から沢の道を行く、下を沢になり道も細いから危険だった。そこは随分長く行っていない、難所であり馬で行くのも危険だった、だからこそ牛転がしとかの地名がついた、長野県の日本海から松本市へ行く塩の道は長い、そこで塩を運んだのは牛だったのである。それで牛つなぎ石とか残っている。
松川浦から塩を馬で運びこの助の観音で泊まることがあった
一日では飯館村まで運べなかったのである。

いずれにしろ道が細く沢伝いとか山中の道を上るのだから難儀した。つまり人間の営みとして常に運ぶことがあり苦労したとなる
日本では木材が豊富でも山の斜面とから切り出し運ぶので苦労した、馬車で運んでいたから苦労した。外国では平地に延々と森があり運ぶには楽だとなる。
日本に森林鉄道が張りめぐらせたのは木材と石材とか運ぶためだった。

いずれにしろ塩は貴重なものであった。サラリーというときそれは塩の意味だった。ローマ帝国の兵士に塩を配ったことが起源となっている。
またアフリカで塩と黄金が等価で交換されたのもそれだけ塩が貴重だったからである。地の塩たれというのもそのためである。
塩なしで人間は生活できない。縄文時代でもやはり塩が必要であり海岸に暮らしていた人は塩は取ることができた。
でも山となると塩を手に入れることは容易なことではない
だからこの辺で早い時期から塩を手に入れるため山の民が海の方にやってきた。その道が大原から八木沢峠を越える道でありまた栃窪からゆく塩の道である。

もう一つは松川浦から宇多川を登ってよく道である。一番利用されたのは松川浦から栃窪を通って行く塩の道である。そのの道は安曇族が飯館村まで行った道でもあった
なぜなら八木沢峠のヤギとは安曇族の八木氏のことだからである。
また山津見神社が栃窪にあり塩の道を登ってゆくと山の中にも山津見神社がr安曇族は松川浦から宇多川を登って途中栃窪から塩の道を登った道と大原から八木沢峠を登って飯館村に到達したのである


春の塩の道を行く―写真あり

助の観音の内部の絵馬―馬と人が休んでいる絵

二か所崩落があり自転車でも通れなかった

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2023年05月13日

飯館村の海岸地帯の気候風土の相違 (山津見神社と焼畑の関係ー安曇一族の八木氏の跡)

飯館村の海岸地帯の気候風土の相違

(山津見神社と焼畑の関係ー安曇一族の八木氏の跡)

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●焼畑に関する引用

御祭神は神日本磐余彦尊(カンヤマトイワレヒコノミコト)、山の神である大山祇神(オオヤマヅミノカミ)、火の神である火産霊神(ホムスビノカミ)は3柱になります。

神日本磐余彦尊は初代神武天皇のこと。

創建は約1900年前に、大和武尊(ヤマトタケルノミコト)が山中で火事に出くわし、その火をニホンオオカミが消し止めたのを大山祇神のご神徳と考え、3柱の神を祀ったのがはじまりです。

宝登山という名前は、「火を止める山」「火止山=ほどさん」に由来します。ニホンオオカミは神の使い・御眷属様(お犬さま)として親しまれ、授与品には白と黒2頭の狼が向かい合う御札があります。

日本武尊(ヤマトタケル)が東征の途中で地元の賊衆に襲われた時、草薙剣で葦を薙ぎ倒し、そこで賊衆を迎えうち、火を放って難を逃れた。その様相が烈火のように見えた、あるいはその火で葦が焼け燃え盛ったという伝承から、「焼津」と命名された

さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の火中に立ちて 問ひし君はも」
(ああ、相模の野原で火に囲まれた時、火中に立ち私を気遣ってくださったあなた)

かつては日本でも山間地を中心に行われ、秩父地方では「サス」、奥羽地方では「カノ」「アラキ」、飛騨地方では「ナギ」、九州地方では「コバ」など種々の地方名で呼ばれてきた
日本ではヒエ、アワ、ソバ、ダイズ、アズキを中心にムギ、サトイモ、ダイコンなども加えた雑穀栽培型の焼畑農業が一般的である。焼畑の造成はキオロシと呼ばれる樹木の伐採作業から始められる。耕作地を更地にした後、しばらく乾燥させて火を入れる。その後に播種するが、1年目はソバ、2年目はアワ、といったように輪作されることが多い[24]。耕作期間は3 - 5年で、その後、植林して15 - 20年間放置し、地力を回復させる。


椎葉さんが営む民宿焼畑に宿泊したのは立春前。夕食には椎葉村で受け継がれてきた伝統食が並びます。ヤマメの背ごしと地鶏のたたき。干したけのこのきんぴら。大根と芋、たけのこ、こんにゃく、椎茸の煮物。山菜の三杯酢漬け。金柑。大根の葉、ヒメジオン、ヨモギ、ムクボカヅラ、ハハコグサ、セリなどの山菜の天ぷら。ノビルと柚子の漬物。ごぼうや椎茸、イリコで出汁をとった「わくど汁」には、ソバを茹で柔らかく溶いた団子が入っています。
そして翌日の朝食には、前日に抜いた平家カブの味噌汁と、平家大根のおろしが添えられていました。椎葉さんの言葉通り、大根おろしはピリッと辛く、ヒエご飯が進む力強い味がしました。

。第一は大陸との交渉が著明でなく,農業の痕跡のない期間,第二は大陸との著明な交渉を持ち,農業の一般化した期間である。前者は縄紋土器の文化に相当し後者の最初の段階が弥生式の文化である」として,特筆すべき事項に@大陸との交渉とA農業による新生活手段の二点をあげた[山内 


暖流の影響を受ける東北南部の海岸部や関東地方の平野部まで照葉樹林はひろがり,また照葉樹林の中にも二次林としてコナラなどの落葉樹林が成立するエリアも存在するのである。この状況は安田氏の森林帯気候の分布図でも明らかに示されている〔安田 1982〕。
落葉樹林帯ではカタクリやウバユリ,ヤマユリなどの野生種を利用するデンプン採集が存在したが,そこからは重要な栽培植物は出現していないという。また照葉樹林帯のタロ系統やヤム系統のイモ類は東アジアの暖温帯に起源があり,そこで品種分化したもののうちわずかな系統のものが列島に伝播した栽培植物だといわれているので縄文時代に存在した可能性は少ない。イモ類は熱帯では主食として利用されるのが多いのに対し,暖温帯ではおかずとして利用されることが多い。

生業からみた縄文から弥生 藤尾 慎一郎

秋田縣の北部より青森縣に亘るマタギ聚落に嶢畑が多いのはマタギを主生業とし焼畑を副とした時代の名残とも見られる。
北上山地の名子と焼畑とは密接な關係がある。この關係は山形縣や幅島縣の一 部に於てもみられた。貧窮者が山小作にて一 部を
焼畑とし,凶作に供へ、生活を支へるのである。

東北地方の焼畑

稲作は前一万年頃縄文時代に種子島ルートで焼畑陸稲耕作が伝わり、前五世紀頃縄文時代後期に北部九州から水田耕作の文化が入ってきた。

対馬の豊玉の津を拠点にする「安曇族」の「豊玉彦命」は島根半島を拠点にする「安曇族」の「穂高見命」と一体化し島根半島から糸魚川(めのおの原産地)に移動入植し、さらに糸魚川を遡上し穂高岳に降臨し、安曇野、信濃の諏訪(黒曜石の原産地)を開拓し、「穂高見命」と兄弟の「振魂命」はさらに日本海を北上し新潟へ移動、入植して阿賀野川を遡上し会津若松に降臨し、猪苗代湖盆地を開拓し、兄弟共に東北の渡来弥生人として活躍した。

縄文・弥生文化を運んだ海人族と渡来先住民(鴨族)の共生

わが国の山地には、古くから、おそらく縄文期以来、伝統的な農耕形態として焼畑が広く営まれていた。近世以前には面積にして20万町歩(約24万ha)を超え、昭和25(1950)年ごろでも5〜6万haにおよんでいたとされている。「むさし」の「さし」をはじめ、東京付近にたくさんある「さす」「さし」のつく地名はいずれも、かつての焼畑の存在を示すといわれるほど広がっていたのであり、近世に確固となる小農自立の重要な基礎となっていた

日本人は焼畑民族だった説


そもそも焼畑はどこから伝わったのか、それは図を見るとミャンマーとかから中国の山岳地帯の雲南から揚子江地帯になる、その揚子江地帯から稲作なども伝わったとされている、気にかかるのはミャンマーの言葉と日本語が似ているという、実際にここにきたミャンマーの人は日本語が上手に話していたのである。やはり日本語と似ているからなのかとなる

●飯館村の山津見神社と佐須の地名解読

文化的には照葉樹林帯の文化になりそれが焼畑をしている人たちであり稲作をしていた揚子江の地域から日本に伝わった。
その橋渡しをしたのが航海などにたけた海人族でありその氏族が安曇族であり日本の山中深く入ってきて土着した
それを証明しているのが綿津見と山津見神であり移動してその地名を残しているのである。
松川浦には和田と山津見という地名がありそれは和田とは綿津見であり二つが対になっているのである。。
この神は一体であり安曇族が奉じる神でもあった。
その移動する経緯が地名化していたのである。
まず南相馬市の原町区は綿津見神社が多い、なぜこんなに多いのかとなる。。
そして山の方の大原にも綿津見神社があった。そこから八木沢峠に行くのだがその八木沢とは安曇氏の後継となる八木氏なのである。その八木氏から矢木沢となったのである。
他にも宇多川を上ると八木原がありこれも八木氏のことなのである。
他に霊山の近くに犬飼という地名がありこれも安曇族の後継者なのである。だから古代の氏族名は地名化がしやすいのである。最初の入植者だからである。
そして焼畑をしたのは佐須であり焼畑地名として残されている。

万葉集」巻13の3270に「さし焼かむ、小屋の醜屋」とある。「さし=焼き畑」。武蔵国の国名も、古くは「ムナザシ」で、焼き畑地名と考えられている。【中世の村のかたちと暮らし 原田 信男 角川選書】

柳田邦男の「地名の研究」によると、「そり」「そうり」は焼き畑を林に戻した所の意味
【かの・かのう】: 「鹿野」「叶」
・ かの(かのはた): 山形県、新潟県、福島県、栃木県。
・ かんの: 新潟県北部、大分県北部(大分県では「さし」とも言うんじゃないか?)

焼畑を示す地名は他にかのとかいろいろありこばというのもそうである。小林のコバである。
だから安曇族の後継者の八木氏が八木沢をのぼり飯館村に入った。
また真野川をのぼり飯館に入ったのである。もう一つは宇多川を登り霊山の方に出て石戸村に入った。そこに犬飼(犬養)という地名がありそれはやはり安曇族の後継者であるからだ。
このように安曇族の後継者の跡が神社や地名として明確に記されているのである。
そして佐須とかは焼畑地名であり他に比曽とかもそうである。飯館村は森が多いから焼畑には適していた。まだ山津見神社の祭神が狼なのは焼畑と関係していて焼畑で作られる根菜類が他の動物にイノシシとか猿とか鹿に食べられるが狼は食べない。狼は肉食でありむしろ鹿とかお食べるから焼畑の芋でも食べられることから守る役割になったので崇められたともなる

●照葉樹林帯の海岸地帯と寒冷地帯の飯館の相違

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飯館村は標高が400mくらいと高い。南相馬市となると海岸沿いであり津波に襲われたように低い倒置である土地である。
飯館村は涼しい高原地帯でもある。でも冬は寒冷地タイとなり稲作には適していない。その植生も寒冷地隊の者であり気にしても寒冷地タイの落葉樹とかになる。
一方で浜通りは照葉樹林の限界地点でもある南限の地でもある南の限界の地でもある。それで奄美大島からなど種が流れ着いて丸葉シャリンバイが海老村に自生したのである。
それは暖かい地域だからである。その気候は人間に大きく作用して風土を作り文化を作るのである

それでみちのくの真野の萱原の万葉集の歌はその風土の気候の境界線だったのである。照葉樹林帯の境界線だったのである。
真野川の上流で栃窪の奥からサンゴの化石も発見されている。
その相違がありこの地域の変化を作り出しているのである。
飯館村は森が深く縄文時代から人が進み縄文中期の遺跡も発見されているから相当に古い時代から人が住んでいた。
海岸地帯は貝とか魚とか恵まれていたがむしろ縄文時代になると森の中で暮らしていた人が多いなる。。
森の中にはどんぐりとか栃の実などがあり他にも山菜などがありまた百合の根とか食べるものがあった。
ハマグリの語源・由来 ハマグリは形が 栗 の 実 に似ており、浜辺に生息していることから「浜栗」の意味が定説。

栗からイメージされたことは山の住民が浜にでて」なずけたともとれる、その起源は山に暮らした人が名付けたからそうなった

植生的にも飯館村は寒冷地帯になり浜通りとは違った違っていたのである。森が深いし樅の木などが育ち北方的要素がある
ただ寒冷地帯になるから稲作にはむ向いていない。それで飢饉になったりもした。どちらかというと焼き畑による根菜類の栽培にも向いていたともなる。山の幸で暮らしていたとなるからだ。
ともかく飯館村の魅力は森が深いことでありだからこそ山野草でもギンランとかが咲いていたのである。
人間が生きるということは食糧の確保が第一である。
それで彼岸花がありその根を食べられるとしても毒にもなっている
その毒を抜くことに苦労する。でもどうしても食べたいから苦労しても死ぬことがあっても食べていたのである。
はまなすでも名前は実が取れるということでその名がある
花より実の方が大事である。花より団子になるのである。それだけいかに食べることに苦労してきたかである。ただ風流からなど自然を観ていないのである。風流から見るということはそれだけ心に余裕ができたときそうなったのである。






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2023年05月11日

飯館村のあいの沢の管理事務所の人と山野草について語る (ギンランという蘭の花を見つけたことを語る―ため池は干上がっていた)

飯館村のあいの沢の管理事務所の人と山野草について語る

(ギンランという蘭の花を見つけたことを語る―ため池は干上がっていた)

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橲原の川の水害で削られた道は直したが去年の地震で崩れた道は直していない?

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ここで盛んに燕が飛んでいた

巣をつくろうとしていた

干ばつになるのか?

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真野川上流も川床が現れている



あいの沢の管理事務所の人がいろいろと山野草について語った。
その人は地元の人であり前のように外部から来た人ではない。
飯館村には外部から来た人が多いのである。
キコリの宿のフロントの人も女性も外部から来た人であった。その人と語ろうとしたがその女性は何か語りたくなかったようである。
でもあいの沢の今日事務所の人はいろいろと語った。
「銀蘭を咲いていました、これはなかなか見れない」
「聞いたことないな、私の庭にはエビネランが咲いていますが・・・銀蘭ですか・・・」
「これを咲いている場所知っていますが教えたくないです
取ってもってゆく人がいますから・・・」
飯館村は標高が高いんです、400メートルくらい高いです
温度でも5度違います、それで高山系の花が咲くんです、木でも寒い地域の木が育つんです」
「浜通りは海に面していてここよりあたたかい、照葉樹林帯になり鹿島地区の海老村は丸葉車輪梅の南限の地として有名ですから
スダシイ神社もあり南国系統の木も育つ、椿の木でもいわきの浜に自生していますから」
他にも珍しい花が群生しているとか語った。サワギキョウなども咲いているとか語った。サワギキョウは尾瀬に行った時見たとか私も花に興味があるので答えた

クルマユリも咲いていると言った、その名前の由来が葉が車の形をしているからだという
「クルマユリも咲いています」
「私も見ました、橙色で花に点々の模様があった」
「飯館村の花は山百合です、でも山百合が見かけなくなっている、イノシシでも」サルでもその球根を食べるんです」
原発事故以後サルとかイノシシがふえましたから、山には動物でも食料になるものがあるということですね、山芋などは栄養がありますから」
なにかこんなに花について話すことが不思議だった、それも飯館村の森に咲いている自生している花の話を聞いて興味を覚えた
そして銀蘭を探して見たいと思った、でも森が深いので迷うことがある、それで丸森の森で森から抜け出れなくなった恐怖を経験した。それだけ森が飯館村でも深いのである。
市の花とかあるけど相馬市は藤の花が似合う、鹿島区は草深く咲く藪甘草が似合う、原町市はひまわりが似合うとかなる

花の魅力というと栽培する庭に植える花もいいが森であれ自生している花は神秘的であり魅力がある。でも森が深いから簡単に見つけられない、だから神秘的になる。
飯館村では結構半分以上水田にして田植えをはじめる
だから復興しているのかともみる。前は草ぼうぼうだったからである。この辺でも田が回復してカエルがなき鷺がもどってきたとき復興を感じたからである。米でも自前で作り食べないとしたら
外部から買うだけならその土地に住み続けることはできない
自前で食料でも生産して食べればその土地で生きることができる。なぜならそうして縄文時代から江戸時代から戦前でも戦後でも継続した生き続けてきたからである。

でも飯館村では6000人いたが今は1000人だという、一時は9000人も住んでいたことがあった
「飯館村はこれからどうなるでしょう」
「まあ 補償金もらっているうちはなんとかなるけど
もらえなくなるもらった金でもなくなると終わりになる」
それが現実なのかもしれないとも思った
若い人たち流出してしまったから村を継続するのが難しくなったのである。残されたのは老人ばかりになっているからである。
「飯館村はなぜ南相馬市と合併しなかったんですか」
「飯館村のブランド、飯館村の名前を消したくないことがあった」
「でも今は合併した方がいいのでは・・・・」
「南相馬市で合併したくないと思う、ここには利益を生むものもないから負担になるだけだから・・・」
「・・・・・」
なにも飯館にはないとはならないと思うが現実に経済的に利益を生むものがないとなる。木材と石でも売れる時代なら小言うことはなかった
それで道の駅のまでい館で地元の人が作った、凍み餅を買った
それにはもち米にごんぼっぱという野草を入れて作ったものなのである。

かつては、救荒植物といって、凶作のときにも収穫できる貴重な植物でした。今も乾燥させた葉を
餅のつなぎにしたり、生の葉を天ぷらにして食べたりします。

飢えた時は山に行けというのは山には何かしら食べるものがあったからだとしている、山百合の球根は食べられる、それは栄養がある、それを食べれば飢饉でもしのげたのかとなる。
ただ飯館村の問題は放射性物質に汚染されたことである、それで山菜でも山野草や球根とかでも食べれなくなったことである
原発事故でも12年過ぎてもその影響がある、ただ老人は放射線でガンになることなど気にしないで山菜でも食べていたのである
老人は十年でもすぐれば死んでいるからどうでもいいともなったのである。

までい館には燕がしきりに飛んできて巣作る場を探していた
盛んに何羽か飛んでいた、それで何かそこでは人が交わり交流の場ともなっていた。
そこは復興していた、でもすぐ近くでも空家化して荒廃している場も多い、ただ田を始めることみたので前よりは復興して前進しているように見えた
でもため池が干上がっていた、干ばつのこと土地の人が言っている。鹿島区では干上がったため池をみていない、飯館村で干上がったため池を三つくらい見ている、真野ダムもかなり水量が減り下の土がむき出しになっていた、これもどうなるの?
なんか地震があり水害があり今度は干ばつなのかなるのも怖い
飯館村が干ばつになればその下に南相馬市である影響するからである


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2023年02月28日

飯館村の樅の木(詩)(原発事故で失われたものー定着文化の時代に)

飯館村の樅の木(詩)(原発事故で失われたものー定着文化の時代に)

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飯館村の樅の木

山の奥へ分け入る道
二本の樅の木の厳かに
古りた神殿の柱のように
またゴシックの大聖堂の
石の柱のように重厚に立つ
そはここに離れざるかな!
その長き歳月をここに
静かに重々しく厳粛に
清らかな流れは谷間にひびき
その二柱は隠され立ちぬ
落葉を踏み我はここに来ぬ
ああ 人の世はただ別れなり
人は逢うもたちまち別れぬ
人の関係は永続しない
烏合離散して消失する
故に離れずここに二本の樅の木
ここにありしを深く思いぬ
離散して荒れ果てし村の悲し
人は故郷に帰らざるかな

飯館村は七〇パーセントが森である、また丸森もそうである、そのために丸森では木材資源を米沢藩と伊達藩と相馬藩で熾烈な資源を得るための争そいがあった
それだけ森が広くあり木材資源が豊かだったからである。
それで外材が入らない時はその木材は森林鉄道があり東京に運ばれたのである
全国に森林鉄道が多いのは国内で木材をまかなっていたからである。
高瀬川の上流でも岩をくりぬいて森林鉄道が通じていたのである
それは葛尾村の方まで通じていた

森という時杉林になるが杉林は人工林であり木材に加工するから植えられた。もともとは?(ぶな)などが森を覆っていた、でも?無用のものとされた、加工するのにいいものではなかったからである。それは人間の都合でそうなった。だからこの辺でも鹿島区の小山田の奥の森にぶな坂というのがありブナがかなりあった
日本は鎮守の森とあるように森で覆われていた森の国だった
これだけ山が多いのだからそうなる、縄文時代になるとほとど森であり森の中の暗い所に住んでいたのである。そこで木の実とか採集したり狩猟して暮らしていたのである
それで丸森で道に迷って森から出れなくなった恐怖を体験した
それだけ森が広くあったためである、森は見通しがきかないから迷い森から出れなくなることがある

飯館村で坂を上り山を分け入れると二本の樅の木があった、それが何とも重厚であり力強いものを感じた、そこは隠されていてわからなかった、飯館村は広いからわからない所がまだある。そこで見た二本の樅の木が印象に残った。
それはもの寂びた神殿の柱のようでもありまたゴシックの大聖堂の石の柱のようにも見えた。
ドイツは樅の木の森だ覆っていた、樅の木の国である。だからその森がありあのゴシックの大聖堂が作られた。その石の柱は高い、あれだけのものを作ったことに感心する
それは樅の木を象ったものだとなる
ギリシャの神殿にはそういうものは感じない、低いし高くないからである

飯館村の現状は村自体が維持できないように見える、村人は福島市とか他でも移り住むようになったからである。学校にしても何人なのか小学校に通っているにしても村内に親は住んでいないのである。建物は立派にしても肝心の人が住んでいないのである。
多額の補償金をもらったから村から出て福島市であれ南相馬市であれ移り住んでいる
それは原発事故の避難区域になったところの住人はこうして移り住んだ人が多いのである現代は移動する時代であり長年住んでいたとしても金があれば移り住むことが容易であるだからいわき市とかでは大量の人が避難して新しい家を建てたので回りの人がうらやんでもめたのである。

ただそこで失ったものは何なのか?先祖代々からつづく歴史であり共同してきた村であり人の絆だったともなる。ただ現代は村であれ車社会であた移動する社会である。
だから移動するとか移住するとかでもさほど抵抗ない社会だともなる
一見回りが田畑だから農業が中心のように見えてもそうではない、会社員とかが多くまた建築土木関係だと知っている人は青森に行ったり九州の佐世保に行ったりまた地元で暮らしていても三時に五時に起きて郡山の方に車で現場に行っているとか遠くに働く人が多いのである、だから近くでも何をして働いて暮しているのかわからないのである
また広域化グロ−バル化した社会というのはそもそも地元だけの経済ではない
そのことも地元のつながりを希薄化している、家を建てるにしてもハウス会社がプラモデルのように二週間くらいで組み立てて建てるのである
地元の大工がかかわることもそんなになくなったのである。すると地元の人間のつながりも希薄化するのである

私の家も震災以後は瓦はいわき市の人が来てユニットバスは仙台市の人が百万で作った
それはイワタニとかでも地元でもできたがそうなる二倍三倍になったのである
常磐高速道路ができたことも広域化して仕事することになったのである
トイレも去年の地震で配管とかが壊れた、それを直したのは郡山の会社である
こうして仕事自体が広域化している
そういう社会が影響して移住も金があれば別に家を建てて住めばいいということになる
でも農業していたら土地がないとできない、それでも実際は農業が主要産業ではないのである、だから移住しても困らないとなる、ただ飯館村の場あいは農業している割合が多かったかもしれない、でも車があって川俣とか福島市とかに通って働いている人もいたからそうともならないのである。菊池製作所があるからそこで働いている人も多かったのである

こうして広域化グロ−バル化する社会は移動する輸送する社会である。
アマゾンで電熱ベストを注文したら中国から輸送されたものであり途中関税をとられ処がありそれを知ることができる、そのために三週間くらかかかったのである
アマゾンだと中国でもアメリカでも品物が入ってくるのである。
そういう社会は近隣とかで用を足す社会とは違っている、ただここでの問題は物は入ってきてもそれで人間同士が連帯するとか協力するとかにはならない
だから中国とうまくいかなくなったりするのは物をやりとりするだけで人間は協力関係を築けないのである、物と心は一体であり物が憑くというとき物にも心が憑いていて物になるからである、いくら物のやりとりしてもグロ−バル化しても人間と人間が協力するということでないのである

そして一見広域化グロ−バル化はいいようにも思える、でもそこで失われたものもある。地域でも人間のつながりが希薄した、一万の田舎町でも隣でも何をしているかわからないということがある、特に原発事故以後そういう人たちのことがわからない、前の自転車屋でも知らない人が多いというのもそうだった。
そして今は地の時代から風の時代だというとき風とは地に根ざさない移動する時代を生きることである、でも逆にこれからは地に根ざすことが要求される
風の時代から逆に地に根ざす時代に変わるともなる、そんなに人間が風のように生きられるのかとなる、もちろん旅ばかりした自分の風のように生きたとはなる
でも人間はやはり定着して木のように根付いてこそそこで充実感がありアイディンティティ化する、そもそも文明自体定着してできたものである、農業が生まれて定着したからエジプト文明でありメソポタミア文明であれ生まれたのである。
マヤ文明でも何でも定着して生まれたのである。
風の時代は終わり地の時代にも移行する、コロナウィルスでもそうである、引きこもり状態にもなったからである。グロ−バル化といっても米中対立とかウクライナ戦争とかかえって軋轢がました、共存共栄というのがグロ−バル化でもむずかしいからである

精神的にもグロ−バル化というとき文化は育まれない、文化は地域に根ざした狭い範囲で生まれているからである。、ルネサンスにしても5万くらいのフィレンツとかで生まれたでも一千万の大都会とかから生まれないのである、これからは風の時代ではない、地の時代になってゆく、文化の時代になってゆく、cultureとはcultivateでありその土地土地を耕して生まれるからである、育まれるからである
土地土地に合ったもの、食糧でもワインでもその土地の名がついている、そして人間の生きる時間は短い、ただもう人間が逢うにしてもただ行きあたりばったりでありそこに永続的なものがないからはかないとなる、人と人の絆が作れないのである
何か老人が愛人と暮らしたが病気になり妻が介護してその妻との暮らしが長いから思い出があるから愛人はそうした思い出がないから深いつながりがもてずに愛人がその世話した男を嫉妬して殺した、つまり人間の関係はそうして長い時間がないと信頼でも愛情でも生まれないのである、でも時間は限れらているからそういう関係を作ること自体簡単にできない、それでただ金の関係だけになり破綻するとなる

石の柱のように重厚に立つ
そはここに離れざるかな!

こういう関係を切実に望むようにもなっている。飯館村とかでも原発事故ではは家族でも離れ離れになりそういうことを感じた人が多いのである
そもそも現代社会自体が人間の繋がりがなくなった金だけが物いう社会になったときそうなった、孤独死が増えるのもそうである。この辺では原発事故で特にそうなったのである今生活が広域化している、すると親と子も離れて暮らしていると互いの事情もわからなくなり介護とかでも困ることになる、やはりいつも一緒に暮していないと親のことでもわからなくなる、生活を共にしないことは情すら薄れてゆくのである
もちろんいつも同じ人だけど接していると何か新しいことを知り得ないとういこともあるでも現代は生活でも広域化してかつての村落社会ともかけ離れている
そういうことで原発事故で町や村が簡単に解体してしまったのかともみる
放射線被害があったとしても江戸時代から続いた村や町が簡単に解体することに驚いたからである、いくら移動しやすい移住しやすいとしてもそういう社会は人間にとっていいものかどうか問題になる

そんな閉塞した社会に村とか田舎に住みたくないというのもわかる、自分自身もそうである、でも人間はアイディンティティを人との紐帯を育み作る場所が必要だとはなる
風のように移動して生活してもそれは若いうちはいいにしてもだんだんやはり人間は大地に根を張るように落ち着く生活をしたいのである、だから過去の文明でも文化でも一つの定着した場がありそこで時間をかけて作られたのである
移動する民の遊牧民は文明を作らなかったからである、農業になり一定の場所に定着した時文明が生まれたのである。今は風の時代ではない、地の時代になり定着する時代に変化しつつある、グロ−バル化も限界になっているしコロナウィルスでも人々が密にグロ−バルに交わることが必ずしもいいものとならない危険なものと認識したからである
だからかえって国内回帰とか地方回帰現象が起きてくる、現実に起きている

そしてSDGs(持続可能な社会)を目指すということはむしろグロ−バル化とか広域社会でも縮小化に向かうのである。物の自由な広域的グロ−バル化の流通があったとしても心の方を重視する方向に変わる。物がいくら流通しても人間の心は通わない、そこにグロ−バル化の問題があった。そこで必ず覇権争いがあり様々な軋轢が生れ戦争にもまたなる
物だけの流通では人間の心は通じ合わないのである

そはここに離れざるかな!
その長き歳月をここに

一つの場所に離れないであること生きること育てることがアイディンティティを作る
それは空間を自由に往き来するより時間軸で生きる、一つの場所でも長い時間で育まれるものを作る時代になる。常に転々として渡り歩くことをしていたらそれができないからである、旅としてそれはあるとしてもやはり人間は最後は定着して落ち着きたいとなるのである、そして人の出合いでもめまぐるしく変わることより小数でも信頼する人達と住みたいとなるのである、それは老人の心境にもなるがそういう時代になったということもある














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2022年10月27日

飯館村の木戸木(ことぎ)で残された老人が語る (ここには戦前も人が住んでいた、水車もあった、縄文時代のヤジリや石斧も発見された)


飯館村の木戸木(ことぎ)で残された老人が語る

(ここには戦前も人が住んでいた、水車もあった、縄文時代のヤジリや石斧も発見された)

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道も歩いていたキツネ

キツネは二匹いた

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これは確かにキツネである、キタキツネと似ている(大倉)で見た

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この半鐘は盗まれたという

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森の所に家があった
獣道があり「こだき」といっていた、でも地図にはない
手前の荒地に語った人がいた、心臓悪くて仕事ができないと言っていた
この鉄条網の線には電気が通っていて効果がある
でも狭い鉄条網から猿がくぐりぬけてくるという
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老人が植えた桜が50年で大きくなった
ここの平な土地は田んぼであり荒地になった
ここを平にするのに苦労したと言っていた




畑だった所が草ぼうぼうになりそこに老人が草むしりとかしていた
鉄線で囲まれているのは猿が入ってくるからだという、電流が流れる線に触れると猿は怖がるが鉄条網でもその穴から入ってくるという、狭い穴で入るのである
なぜ大倉でキツネを二匹もいたのか、今まで見たこともないのである
だからキツネはいなくなっていたと見ていた
だからそもそもキツネはどんなものかわからなくなった
犬とも似ているからである、でも確かに尻尾は太いし明らかにキツネだった
キツネはもともと多くいたのである、それで街にも来てキツネが鶏をねらっているとか食われたとか子供の時聞いたことがある、キツネは身近な存在だったのである
それでキツネにだまされた昔話がいろいろ残っているのはそのためである
原発事故以後この辺では飯館村などでは特に人が住む人がかなり減った
そのためなのか猿とかイノシシとかが人を恐れなくなり荒すようになったのである

その人は昭和16年生まれだった、ということは戦争中に生きていた
でもまだ幼児だからどれだけ記憶があるかわからない、そこでわかったことは木戸木は
戦後の引揚者が入ったからできた村ではなかった
すでに戦前でも住んでいた人がいたのである、だからその老人は大きな水車があったとしきりに言っていた、

挽臼(ひきうす)
https://www.city.mitaka.lg.jp/suisya/shikumi/usu.html

大きな水車で挽臼(ひきうす)を回して麦とかついていた、米もここでも作られていたが麦も作られていたのである、何か私の住んでいる街内でもうしろは麦とか桑畑があった
麦は結構作られていたのである、今でもネパールとかで田んぼと麦畑が一緒にある
だから麦は欠かせないものとして作られていた、子供の時は麦御飯だったことでもわかる麦を食べないと白米だけだと脚気になる
それで江戸では白米ばかり食べていたから江戸患いとして脚気(かっけ)が多かったのである
これは明治以降も原因がわからなかったのである、それで森鴎外は医者だったがその原因がわからず脚気を増やしてしまったのである
臼石とか飯館村には村があるから石臼水車の米つきとかに使っていたからその名が残ったともなるのか、臼石というと戦前でも使っていたとなる

木戸木では確かに戦後の引揚者だけではない、戦前から人が住んでいた
それよりそこでヤジリとか石斧が発見されたという、それには驚いた
するとここには縄文人が住んでいたのかとなるからだ
もともと飯館村からは縄文中期のものが発見されていてかえって海側に住んでいた人より古い場所だったのである
ということは何かしらそこにも食べるものがあった、もちろん鹿とかを追って動物を追って狩猟して食べていたのかもしれない、そこに住んでいたのかどうかわからない
でもあそこにもそんな古くから人が住んでいたとういことに驚いたのである
今は十軒であり残されたのは老人だけだという、若い人もいたが原町でも相馬市でも鹿島の方にも移り住んだと言っていた
それは大倉に真野ダムができたときもこの近くにそのダムに沈んだ家があり移り住んだ人がいたのである、それは相当に古い話である

そこで発見したのはそこが意外と古くから人が住んでいた場所だったのである
ただ共栄橋とかあるのはやはり戦後の引揚者が住んだ人が名付けたためであるとなる
そして高い森の所にも人が住んでいたという、家があったという
そしてその近くにも獣道がありそこを人が通っていたという
それをコダキと言っていた、漢字にするとどうなるのか?
今通っている道は新しいのであり助けというのがあったという
それは塩の道として助け観音があるがそれとは別なものである
あそこに道があり人が通っていたということはわからなかった、その土地の人しかもうわからないだろう、あそこを越えて佐須の方へも行ったという
獣道を利用していたというのも驚きである

その人は盛んに前の田んぼのことを言っていた、学者の人が来て修復しようとしたがうまくいかないとか言っていた、何でも平らにできなかったとか平らでなくなったことをしきりに言っていた、山だから傾斜地になりやすい、何か泥ででも埋まったらしい
だか平らにしなければならないとしきりに言っていたのである
つまり日本では山が多いから平らな所が少ない、それで苦労していたのである
平という地名は山の中にもあり平たいらにしないと田畑にてきないからである
平にすることが山で生きる場所を作ることでもあったからだ
そもそも日本で野というのは山の傾斜地のことであった、だから平な場所が少なかったのである、そこで平氏とあるのはまさにその平な地が日本では重要だからそこから平氏が生まれたともなる

その人はいろいろ語った、ここの桜は私が植えたものであり50年過ぎたとかもともと山は杉とか植えていないで自生した木が育っていた
確かに杉は家を建てる木材として植林した人工林なのである、それは海側の松原も人工林だった、そのために津波で全部流されてしまったのである
もともと自生した木だと20年くらいで育つとか言っていた
だから自生する木を利用すればいいとかも言っていた,その人は山を持っているという
でも今は利用しないから金にならないから仕事がないとなる
ただ50年過ぎて大きなった杉などは今利用されるようになっている

山でも炭焼きとか木材を利用していたとき山にも金持ちがいたのである
それは大倉の女性が相馬女学校に通っていた、それも山からおりて街で親戚の家から通っていたと言っていた
相馬女学校に入れると人は特別な女性だったのである、まずそこに入れ人は頭がいいとかではなく金持ちでないと入れなかったのである
だから相馬女学校出だというだけで特別扱いだったのである

その老人は大工であり何か東京の方に呼ばれて仕事をしたという、大工としての腕がいいから呼ばれたとなる
だからその老人は木戸木だけで暮らした人ではない、仕事は大工だったのである
だから山でも大工の仕事があった、でも東京の方でも仕事をしたとなる
今そこで一人暮らしになっているけど息子は相馬市で役所に勤め博物館の仕事をしていたという、それで縄文時代のヤジりとか石斧を発見したことなどを言っていたのかもしれない

それにしても今そこに住んでいる人は十人くらいなのか、それも老人である
不思議なのはフィリピン人の嫁がいると家がある、夫はここから外に出て働いているという、その嫁も40以上である、だから結構長く夫婦だったともなる
前は浪江の津島で中国人の嫁がこんな山の中に住んでいられないと夫を鉈で襲った事件があった、あそこも辺鄙な所だったからである
それから玉野村でもフィリピン人の夫が乳牛を飼っていたのだが放射線被害で仕事ができなくなり自殺したとかあった
だからここから見えてくるのはこういう辺鄙な場所に嫁に来る人はいないから外国人の嫁をもらったとなる
これも現代を象徴していたのである

いづれにしろその人の語ることでその土地のことが見えてきた、半鐘が何でここにあるのかと思ったらここで山火事があったという、子供の遊びで山火事があった
だから半鐘もあったとなる、その半鐘の鐘は盗まれたという、それはいつのことかわからないが金属が高く売れる時代があった
戦後は子供の時屑鉄拾いをして売っていたからである、それはいつの時代かわからないがそんなものまで盗むのだろうかとなる
ただ十軒ばかりしか家がないのに半鐘があることが不思議だった
でも半鐘は私の家の近くの神社にもあった、その半鐘に上り遊んだことを覚えているからだ、半鐘は必要なものとしてあったのだ

昭和20年代初頭の頃までは、学区内のほとんどの村には火の見櫓や警鐘台が設置されていた。

元々は、火災や洪水を村人に報せる目的で建立され、構造としては四角鉄塔や梯子状の自立木柱、中には1本木柱の櫓もあったようだが、いずれも頂上付近には半鐘といわれる吊り鐘が取り付けられていた。

戦時中は青年団員の警鐘係が決まっていて、駐在所から村役場へ警戒警報が伝達されると警鐘係は直ちに福泊の鐘楼に登り、「− ・・」(カ〜ン カンカン)、空襲警報だと「− ・・・・」(カ〜ン カンカンカンカン)と半鐘を打ち鳴らし、各村落の半鐘もこれに和して鐘の音が村落の虚空に響き渡り、学童は裏山へ、村民は防空壕へと身を潜めたものだ。

火の見櫓今昔
https://townweb.e-okayamacity.jp/tomiyama-r/intro/tower/tower.html

半鐘はどこにでもあった、火事を知らせることが重要だったからである

ともかくその老人の語ることでその土地のことがこれだけわかった
何かこういう歴史というのは郷土史でもその場に立たないと実感しないのである
今回はその場に立って聞いたから実感したのである
だから土地のことを知るにはそこに住んでいる人に聞かないと本当の所はわからないのである、ただ問題はそういうふうにうまく話ししてくれ人がいるかどうかである
その人は結構話してくれたし話すのもうまかったのである
話好きな人だったのかもしれない、でも老人は昔のことを語りたいことは誰にでもある

それにしてもあんな辺鄙な場所に一人住んでいられるのか?
なぜなら車ももっていないというからだ
それで一週間に三回くらい村のバスが通うからその時買物するのだという
そもそも飯館村だと草野の方にでてもスーパーなどなくなっている
その人は冷凍食品を買っているという、たまたま宅配便の車が来ていた
宅配便は便利なのである、辺鄙な場所でも配達してくれるからである
草野の道の駅のコンビニでは配達もしている、張り紙が張ってあったからだ
何か配達してもらわないと困る、飯館村は広いからである
車がなかったら不便である、アマゾンだと食料まで配達してくれるから便利である
移動販売車もあるがここには来ないという、それも人が少なすぎるからである
ここにきても商売にならないからである

こうしてとにかく老人の語ることを聞いてこの土地のことを知った
こうして土地のことはそこに住んでいる人に特に昔から住んでいる人に聞かないとわからないのである、ちょっとしたことすらわからないのである
なぜこんな辺鄙な場所に半鐘があるのだろうと疑問に思っていたが山火事を知らせるためだったともなる、山火事は燃え広がり怖いからである
なんでもその時消防車などなく旧式の手で押すポンプとかでありどうにもならなかったとかも言っていた、火事を消すにしても昔はなかなか簡単にできなかったのである
水もないからできないと言っていた、小さな川とか江戸水はあってもそれではたりないからである、大量の水を必要とするからである、でもまた手で押すポンプではどうにもならないということがあった

ただ言えることは木戸木は消滅する、後を継ぐ子供すらいないからである、だからいづれは誰も住まない場所となる、今住んでいるのも老人でありまた住めるのは補償金をもらっていたからだとなるからだ、それもなくなると村自体がもたないのである
そんな収入がないから国からでも金が出ない限り村を維持できないのである
確かにしばらくは補償金とか援助かあるから暮らしていけるけど若い世代は流出したし後を継ぐ人がいないのである、こういうことは全国でも同じことが起きている
だた原発事故の避難区域は極端な現象として現れたのである

飯館村では他にも消滅する村がありそのことで本に書いて村の歴史を残すとかしている
この木戸木もそうなるかもしれない、ここはもう維持すのことは不可能に見えるからだ
もともと少ない軒数であり維持できないとなる
夜もここを通ったが真っ暗だった、そんな暗い所に一人住んでいるのも淋しいと見る
それでも愛着がいる住んでいるのかとなる、さすがにこんな所には私でも住みたくないとなる、住みたくないというより住めない、食事するにも大変だからである、買い物もできないとなるからだ

でも不思議なのは車もない時代人々はこういう山の村の不便な場所でも住んでいたのである、なぜなら電気もない時代があったからだ、炭を使って暮らしていた、炭は街に売れたからである、それから山に仕事がありなんとか暮らしていたとなる
つまり電気も水道もガスもなく暮らしていた時代があった
でもその時それなりに人口が多かったというのも不思議である
その人は11人兄弟だったという、とにかく戦後食べ物がなくても子だくさんであり
子供がどこでもわんさといて遊ぶ声が木霊していたのである
今子供を見かけるのは幼稚園くらいであり子供の遊ぶ声など聞こえないのである
これもなんなのだろうと思う

とにかく木戸木は消滅してゆく、私はここに人が住んでいることに関心がなかった
私が関心がもっていたのは森の中に清流の流れがありそこがなんとも神秘的な場所だったからである、でも今は道路になってなくなったことが残念だったのである
でもここに住んでいる人に関心がなかったのである
かえってそういう場所は保存しているべきだと自分自身は思っていた
でもそんなことを思う人は一人もいなかったとなる、むしろ便利な道路を作った方がいいとなっていたのである、でも私にすれば残念だったとなる

飯館の道

残る虫、秋の暮(飯館村に行くー木戸木は戦後開墾された場所)
http://musubu.sblo.jp/article/188048143.html


posted by 天華 at 22:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2022年08月22日

夏の日に飯舘村へー飯館村には芙蓉が似合う (ただ荒地がまだ多いのが残念)


夏の日に飯舘村へー飯館村には芙蓉が似合う

(ただ荒地がまだ多いのが残念)



栃窪ー大倉

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これも養蚕の家だろう

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大倉から飯館の塩の道は通行止め

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養蚕の家の残るや木槿かな

大倉や一本の杉高く影涼し

蝉鳴いてまた一坂越え行かむ


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道の駅

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荒地が多いから人かこの先住んでいるように思いなかった

飯館村には森におおわれているからこうした森の道が多い、ここをサイクリングするには向いている
でもスポーツカーで行くのには向いていない、バイクでも早すぎるのである


飯樋の馬頭観世音

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石垣が組まれている、この上に城があるように見える

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美しい村を子供たちに残すとある肝心の子供がいないのである
飯館村の外から通っているのである
だからこれも何か虚しいともなる
ただ帰ってきている人達はいる、野球の試合もしていたからわからない

きれいに見るにはクリック拡大




喜々として芙蓉に舞いぬ揚羽かな

飯館の家々離れ芙蓉かな

一面に夏菊覆う道の駅

飯館や木陰の長き道を行く

蝉の声ひびき高鳴り人帰る

その御堂馬頭観世音桔梗かな


ひまわりの高くも咲きて芙蓉咲き飯館広く久方に来ぬ

森の道つづくも先に家あれやソバナの花のうなだれぬ

飯館の家々離れ芙蓉咲く広々としてなごみけるかな

夏菊の風にゆれつつ軽やかに揚羽舞い飛ぶ奥の道かな

四五本のポプラに風のそよぎつつ夏野広がる

石と石組まれつあれや城のごと夏の日に来ぬ畑耕す人


久しぶりに飯館村へ行った、暑いと陽射しが強いと熱中症になるから一か月二カ月なのか
遠くに行かなかった、行けなかった、でも今日はそれほど暑くないと見て行った
大倉のダムの岸で休むと風が涼しくて気持ち良かった
見ると一本の高い杉が立っていた、前の学校の校庭の前だった
何故か一軒店があったがなくなってその後に郵便局なっていた
この郵便局はコンビニよう全国にある、与那国島に行ったとき一番最初に見たのは郵便局だったのである、郵便局は不可欠なものとして全国にあった
郵便夫が昔の恰好して馬籠宿の坂を歩き郵便を配っていた、それは飛脚だったのかとも見た、とにかく郵便というのはそうして人が歩き配っていたのである
それも苦労だったのである

土壁の蔵が飯館村にあったが意外と土壁の蔵はまれである、石の倉が多かった
それは明治以降大谷石とかが出回って石の倉にしたらしい
養蚕の家は見ればわかる、兜の形をした屋根をしているからである
地方の経済が何で成立っていたかというと養蚕だったのである
生糸をアメリカに輸出していたのである
それで私の母親は原町紡績で十年間糸取りをして働いていたのである
でも昼食はたくわんと味噌汁と御飯だと言っていた
そんな食事で良く働いた思う、でも江戸時代の遊女もそんな食事だったのである
今からすると貧乏な人でもサシミを食べているし他も食べているから贅沢だともなる
明治生まれの父は最後病気になりサシミを食べれるようになったけど食べたくないと言って死んだのである
サシミはもう相当な贅沢だったことは確かである、めったに食べられないものだったのである

飯館の道の駅でスポーツカーを集めたイベントがあって人が集まっていた
フェラリーが多かった、スポーツカーは4千万とか五千万するというから驚く
でもそれは投資のためにそうしている人もいる、かなり高く売れるのである
だから資産として持っている、売れば高いからである
昨今ともかく貯金しても利子もつかないから増えない、それより物価高でも目減りしているのである、だからこれを投資として資産として持っていることは悪いことではない
何か盗難防止用の工夫もしているのもわかる
4千万から5千万もするからだ、全国になれば金持ちはいる
ただ正直飯館村にスポーツカーは合っていない、エンジンをふかした音がうるさかった
飯館村にあっているのはサイクリングする自転車である
森の中に道があり木陰で涼しいから気持ち良かったからである

飯館村に合っている花は芙蓉である、芙蓉がいたるところに咲いていた
家々にも芙蓉が咲いている、芙蓉の花は大きく広々とした飯館村に合っている
その土地に合った花がある、この辺だと相馬市は城下町であり藤の花が合っている
原町市はもともと原ノ町駅が機関区でありそこから駅前通りができて発展した
だからひまわりが合っている、そして鹿島区なると草深いとなり月見草とかあっている
藪甘草も合っている
道の駅の前にひまわり畑があり夏菊がおおうように咲いていたのは良かった
でも飯館村は一部は確かに田んぼと畑になったが少なかった
牧草地は放置されて荒地となり草ぼうぼうなのである
これは栃窪村になると田んぼは回復していた、また右田村でも確かに一部は荒地だが
かなり田んぼになり回復しているから比べると飯館村は田畑がまだまだ回復していない
要するににぎわっているのは道の駅だけなのである
今日は日曜日でスポーツ―カーのイベントがあったからにぎやかだった

それからあいのさとの溜池で休んだ、管理棟の人は外部から来た人である
何か話ししても通じない、飯館村は外部から入ってきた人が多いのである
それでも年配の人が多い、だから復興になるのかどうなっているのか良くわからない
どういう状況なのかわからない、ただ荒地をどうして活かすのかが問題になる
飯館村は前は森の中に隠されるように一軒一軒の家があり前は畑であり庭であり花が映えていた、今もそういうことがある、でも人はそんなに住んでいないと見る

それでも蝉が鳴くということはそこに人が住んで蝉も活きるとなる
人間と動物でも昆虫でも共に実際は共生しているのである
そのために原発事故以後蛙がいなくなり鷺もいなくなったのである
鷺は蛙も餌としていたからである、その後田んぼも回復して鷺が戻ってきたときは感動した、それから蛙の合唱を聞いた時も感動した、そのことで復興したと思った
飯館村は田畑が回復していないからそういうことがないと見る

やはりそこに暮らしがあり田畑でもあれば人が耕していればその村も活きているのである何か新しい家にしてもそこに住まず別荘のように利用していては暮らしにはならない
でもなぜ山村が過疎化しているかというと山でも木材をとって売れないとか外材と競争できないとか農業しても金にならないとかなり前から農業には不満が大きかった
それが一挙に原発事故で水でも土でも空気まで汚染されて木すら放射線で汚染されたのである、なぜなら私が計ったら木の幹でも3マイクロシーベルトとか合ったからである
森自体も汚染された、その放射線量は減っていないと思う
つまり原発事故の被害は農業とか林業に大きな被害があったのである
そしてもともと農業はもうからないとか60歳以上の人がしてもうつづかないとかなっていた、現実に私の近くでも一人は60代で病気になりやめた、その人は死んだ
隣の畑もやめた、その人は80くらいになっていたのかもしれない、車にのせられてきて畑を手入れしていたがつつがなかった、そしてそこは草ぼうぼうなっている

今回野飯館村の発見はまるで城の石垣のような所があった、これは人工に組まれた石のようでありここには城があったと言えば誰でも信じる、人工的にしか見えないからである
飯館村は広いからわからない所がある、サイクリングするにはいい場所なのである
これまでは暑くて来れなかった、陽射しが強いと熱中症になるからだ
でも今回は風が涼しくて良かった、すでに秋めいては来ているのである

今回の失敗はスマホをなくしたことである、ヤマハのYPJ-XCは優れモノなのだけど荷物を載せることができない、そのためにスマホを落としやすい場所に入れたみたいだ
スマホでもわかったことは小さいものは落としやすいことである
カードも小さいから三回くらいなくしている、それは小さいからだったのである
だから今度は大きなスマホを買うことにした、これも損だった、何か損がつづいている
どうしても自転車だと荷物を載せられない、それでダリヤの大きなものを買った
それは安かったのである、でも途中でこれも落としてしまったのである

また原町の方から七曲の坂を上りきって下がった所から入る道を行ったら途中で大きな崩落がありまた土砂崩れで道がさえぎられていた
車は通れないが自転車の場合意外と脇の方を通ると通れるのである
ただ自転車も常に危険がある、暗くなると危険である、側溝にまた落ちる所だったが足がついたので助かった、自転車も結構危険なのである、それで私は前歯三本を折ったことがあり頭を打っていたら死んでいたのである、自転車でも十分に死ぬことがある
それがどこかわからないのである、予測しないことで事故になり死ぬとなるからだ


飯館村は森の庭園に

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2021年11月13日

飯館村考(小国という地名がなぜ多いのかー人は隣村でも人が交わらない世界)


飯館村考(小国という地名がなぜ多いのかー人は隣村でも人が交わらない世界)

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かくして二里三里の険阻な山を越えなければ、入って行かれない川内が日本に多かった
それを住む人の側では或いはよぐに(小国)などとも呼んでいた
これらは標後の地名である
しかもそのその時代の古かるべきはことは言葉だけでなく、分内が梢、広くして生活品は藍さえも土地に産することがあり、武陵桃源の隠れ里の如く、彼が自得自賛の根拠あることを感んぜしめるからである

神を祭る人々に稲は絶対必要である、野川の流れはまた交通の唯一の栞である
(柳田国男ー地名考)

河内、川内、九州の隈、または福良も小川内であって盆地の上下をくくる所の急たんな地が都留(つる)である

小国村のなにがしの男、ある日早池峰池に竹を切りに行きしに、地竹の夥しく茂りたるなかに大なる男一人寝ていたるを見たり、地竹に編みたる三尺ばかりの草履を脱ぎてあり
あおに伏して大なる鼾をかきてあり

●下閉伊郡小国村大字小国


閉伊川の流れに淵多く恐ろしき伝説少なからず、小国川との落合に近き所に、川井という村あり、その村の長者の奉公人、ある淵の上なる山に木を刈るとて水中に斧を落としたり主人のものなれば淵に入りてこれを探りしに水の底に入るままに物音聞こゆ
これを求めて行くに岩の陰に家あり、奥の方に美しき機をおりていたり、
その脇に彼の斧をたててあり

小国の三浦某というは村一の金持ちなり、今より二三代前の主人、まだ家貧しくて
妻は少しく魯鈍なりき、この妻ある日門の前を流れる小さき川に沿いて蕗をとりに入りしに、良きもの少なければしだいに谷深く登りたり、そうして見れば黒き門の家あり
いぶかしけれど門の中に入りてみれば大いなる庭にて紅白の花一面に咲き鶏多く遊べり
その庭の裏方に回れば、牛小屋ありて牛多く、馬舎あり、馬多くいれども、一向に人をおらずその次の間に朱と黒との膳椀
をあまた取り出したり、奥の座敷に火鉢ありて鉄瓶の湯のたぎれるを見ゆ
されども終に人影なければもしや山男の家ではないかと急に恐ろしくなり駆けだして家に帰れり
此の事をひに語れども真と思う者なかりしが、またある日我が家の門に出て物洗いしに
川上より赤き椀の流て来たれり

柳田国男ー遠野物語




こうした言い伝えとかはどうして生まれたのか?それは江戸時代までは隣村でも行き来がまれである、だから隣村同士でも人は交わらずに生活していた
その隣村の人が来たとしてもそれは異人になるしまた隣村さえ異界なのである
だから麦付きに来た若者が蛇だったとかなる、人との交流がないのである
ではなぜそういう社会で隣村とも交わらずに生活できていたのか?
それが現代の様な世界とも交わるグロ−バル化社会とは全く異質の世界なのである

それで飯館の大倉村と佐須村が明治以降合併しようとしたとき民情が違うとして合併しなかったのである、今ならそんなに近くでそんなことがありえるのかとなる
でも歩いてみればかなり大倉村と佐須村は遠いのである、その歩いた感覚が今になるとわからないからそうなるのである

そして古代から川が道となっていた、だから真野川をさかのぼり大倉村ができた
その村も古い、でもダムの底に主要な家は沈んで消えた、そこには山津見神社があり
その川をさかのぼってゆくと佐須村がある
川が道となっていたのである、川内という地名が多いのは川の側は水があるから住みやすいからである、小川だと洗い物をするにいい、最近までそういう洗い物をした小川が栃窪にあった
そして信じられないことは私の家のすぐそばに掘りの川がありそこで洗い物をしていたのである、街内でも川の水を利用してい洗い物をしていたのである
戦後十年は水道もないから井戸水であり燃料は炭だったのである
だからそうした原始的生活と江戸時代のつづきだったのである
電気は裸電球一つだった、トイレは外の便所でありその糞尿も近くの農家の人が汲み取りに来ていたのである、その女性を知っていたが死んでしまった
街内でも農家があったのでありこの辺でも農家中心の部落だった
だから近くの神社に「天明の碑」がある、それは飢饉の時の碑なのである
裏の畑は麦とか桑畑であり養蚕をしいた家が街中にもあった

とにかく昔を知る時、大事なのは村はそれぞれ自給自足であり村人は滅多に交わらないのである、交わらなくても物のやりとり売買がなくても自給自足が基本だったのである
それより一軒農家があるとしたらその家自体が自給自足だったのである
その一軒の家で何でもまかなうともなっていたのである
裏に林があれば燃料にするし家の材料にもなるしまた鶏を飼って卵でも鶏をつぶして肉を食べるとかしていたのである
そして納豆まで作っていたとか一軒農家自体が自給自足が基本的にあったのである
そういうことがこれだけ買うことが生活になった時代とまくで違ったものだったのである何か作り生産して売るというのではなく自給自足の生活というのがわからなくなったのである
飯館村などはまだそういうことが継続していてまでいな村としてあった
だから水道を使わずに山の清水でも利用していたからそれは無料だったとなる
それが放射性物質で汚染されて飲めないから住めなくなったとなる

飯館村の山津見神社は海から安曇族などの渡来人が海人が入ってきて開拓した場所であるとにかく綿津見神社と山津見神社は相馬藩内で本当に多い、栃窪に山津見神社があり
大倉に山津見神社がありそして本元が佐須の山津見神社になる
でもこれはもともと海から海人が入ってきて開拓したのである
その人達の伝承もないから謎になる、でもこれだけ綿津見神社神社と山津見神社が相馬藩内に多いのにその由来も解き明かされていないのである
佐須の山津見神社で狼を神体としているのは焼畑がありそれが鹿やイノシシとか猿に荒らされる、狼はその天敵となっていたから神としてあがめられたという経緯があり
すでにそれは縄文時代から狼は神として崇められていたのである
佐須とは焼畑地名であり渡来人が名付けた地名なのである、焼畑地名は多いのは縄文時代は採集と狩猟じだいであり次に焼畑時代となり稲作時代と変化したのである
ただこの綿津見神社と山津見神社のことは何か伝承も残っていない不思議なのである
長野県の安曇野(あづみ)には安曇族が入植したことが明確であり船の祭りを今でもしている、ただこの辺で何の伝承もないのが謎なのである

小国という地名が日本全国に多いののは日本人がともかく小さな村で自給自足していて
それで俺たちは小さな国でもここが俺たちのクニだとして生活していた
隣の村さえ交流がなく自給自足していた誇りをもっていたのかもしれない
それを比べると今や日本全国の村でも町でもグロ−バル化して財源でも東京に頼ったり
物資でも世界から輸入したりとあまりにも変わりすぎたのである
その結果として原発が作られて水も飲めなくなり飯館村に住めなくなりやがては廃村にもなる
今や電気がなければ車がなければ石油がなければ生活できないとなっている
でも江戸時代から戦前までも人間はそういうものがなくても暮らしていたのである
そういう文明の利器がなくても生活してきたのである
つまりそうした文明の利器がなくても死ぬことはなかったのである
今だと近くの人が毎月電気水道ガス代が払えないとして死んでしまうとなっているのも変だとなる、そうしたら昔の人はみんな死んでいたとなるからである

柳田国男の遠野物語でも何か神秘的なものとなっているがそれは人と人が隣村でも交わらないから隣村でもそこに住んでいる人でも神秘的になる
そして大男とか巨人が住んでいたとなるのは何故か?
それは小さな村だと人間が大きく見える、存在感が大きくなるのである

牡鹿半島のある島に寄った啄木が小さな島を歩く人が巨人のように見えたとか書き残している、小さな島だと人間が大きく見えたということである
大男に見えるというのはそういう小さな島とかでは人間が目立つからである
また山の中でも人間が大男になる、人間が巨人になる、それはなぜかというとそこでは人間が主役になっている、人間の存在が大きくなっている
でも現代は人間の存在が卑小化される、小人化される、それよりもう人間はいないともなっている、大都会に行けばそこは群衆と大衆であり人はただ点になり実際に人間は数にすぎない、千人も歩いていればそれは数であり一人一人の人間はいないのである
名前もない数でしかない、選挙でも名前など関係ない、数として統計としてしか人間は存在しないのである
だから奇妙だけど東京であれ大都会の人間はもう一人の大男とか巨人はいない、そもそももう人間はいないのである、大衆であり群衆でありそんな一人の人間が大男とか巨人になっりしないし伝説とかも生れないのである
人間は自然と一体化したときその存在も大きくなっていた、山には大男や巨人が住んでいたとなる

だから現代文明人はいくら科学技術の進歩による機械による便利な生活をしていても
人間の存在感はもうない、人間はいないのである、巨大なビルの谷間で人間は蟻のようになり人間はいない、文明人はいかにも進歩したものとして見ているけどその存在感は本当にない、一千万人の都会でどういう人間の存在感があるのかとなる
それは抽象化した数であり名前も個性もない、常に数として金銭として無機物として数えられているだけなのである、選挙がそれを一番象徴している
一票などなんの意味もないし力もない、まとまった数とならない限り現代では何も通用しない、ボランティアすら一人ではできない、十人以上集まらないとできないし一人とかもう誰も相手にしないのである、ただ数がすべての世界なのである

だからこそかえって飯館村のような世界は文明世界からすると貴重なものがあったがそれも文明の最先端の科学技術の原発で根こそぎ失われた
水も土も木も空気も汚染されたからである、そうしたら縄文時代からつづいた生態系に依拠した生活はできなくなったからである
とにかく飯館村であれ山村であれそこで人間は自給自足して生きてきたのである
でもそういう何千年と生活して来たものを根こそぎ原発が破壊したのである
このことは本当にここだけではない、文明というもの自体を考え直すことを強いられているのである

柳田国男が探求して来たものは人間の本源的な生活の在り方がどうあるべきなのか探ったのである、人間はどうして山深くでも生活できていたのかそれが伝説化したのかとかを探った、それが時代が変わり不明となり遠野物語のように神秘化したのである
何かそうした山の村でもいい暮らしている人がいてそこで長者伝説が生まれたのである
遠野がそういう場所として有名になったけど飯館村にもそういう村として共通な面はあった、それが失われたことは相当に損失だった
でも東京の人達がそんなことを余り考えないだろう、原発が何を破壊したのか
それを本当にみんなで真剣に考えるべきである
それは文明というのが何を破壊して喪失させたかという問題にもなる
そういう大きな大局的な問題としてと飯館村の原発による被害があったことを知るべきである





posted by 天華 at 19:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2021年11月07日

飯館村考ー何が失われたのか? (一つの詩から問うー失われた貴重なものとは)


飯館村考ー何が失われたのか?

(一つの詩から問うー失われた貴重なものとは)

●飯館村を象徴する詩から考える

世界の秘密 ホーフマンスタール 

深い泉たぶん知っている
かつてみんな深く 無言だった
そしてみんながそれを知っていた

奥底まで理解されずに
口づてで語られる呪文のように
それは今人々の口から口へ伝わっている

深い泉たぶんそれを知っている
その泉をのぞきこんで 一人の男がそれを知った
それを知ってやがて失ってしまった

宝石がそこに隠されているとも知らないで
乞食の足は砂利をふみつける

飯館村では失われたのは何なのか?この詩がそれを象徴しているかもしれない
深い泉というとき「作見の井戸」が飯館村にあり豊作になるかどうかを占った
その井戸が知っているとういとき自然の神秘がありそれを村人が知っていて
祭りとして行われて来たとなる

飯館村というとき広いから近くてもわかりにくいのである、回りの森でも深いからそこには踏み入れていない場所があり神秘があるとなる
今回訪ねたのは大倉から佐須の方へ行く道の山間の高い所に一軒家があった
前は二軒あった、でも一軒しか残っていない、そこには人は住んでいない
でも蛇口があり水が止まらず流れていた、飯館村とかではまだ自然の水を利用している
吸い上げたりして利用している、他でも利用していた場所があった
そもそも水でも水道はなく自給自足であり水はあった
それは自然の水だったのである、街内でも水は井戸水だったのである
農家ではみんな井戸水だったのである、自分の家では井戸がなかったらか近く井戸ある家で水をもらっていたのである

飯館村なら山の家なら水は自然の水があった、そこではどうして暮らしていたのかとみると炭焼き小屋の跡があるから炭を作って街に売っていた
炭が現金収入になっていた、街中でも炭が燃料であり自分の家にも囲炉裏があったということが不思議になる、そんな生活があったということが不思議である
だからつくづく戦後十年の生活経験は子供にしろ貴重だったとなる
人間はやはり水とか燃料となるものとかが今でも大事である
それが水道とか石油とか電気に変わったからである

結局その電気に変わったことでそれが原発になりこの辺では大被害を受けた
飯館村が一番放射線量が高く被害が大きかったのである
佐須村で泥が25マイクロシーベルトとかあったことには驚いた
それだけ放射線量が高かったのである、南相馬市とかの海岸地域は二日三日やはり20マイクロシーベルとになったが急激に下がったのである
ところが飯館村は一カ月も高い状態がつづいたし福島市でもつづいたのである
だからわからないのは福島市の方が南相馬市より高かったのである
でも補償金はほとんど出ないとなっていたのである

それは東風が吹いて飯館へ吹き福島市まで吹いたからである
春になるとその時海から東風が強く吹くからである、その風にって福島市の方まで流れたのである、その時期が悪かったのである、なぜなら冬だったら北風であり海の方に流されたからである、一カ月遅れて事故になっていたら被害は大きくならなかったのである
その時雪が降ったりしてそれで放射性物質も雪とともに降ったのも不運だったのである
ただ飯館村が原発と関係ないと言うがやはり原発で働いていた人がいたのである
それは給料が三倍にもなるし意外と重労働ではない、何分か交代してやる
中に長くいて作業できないからである、すると休む時間の方が長くなるともなるからだ
原発で働く人はこの辺では本当に多かったからそれで財を築いた人たちもいる
そのことであまり東電を批判できないという人達も多いのである

●飯館村の歴史は古

こんこんと水は湧きいず紅葉映えここに暮らしの失われしかも

ともかくあのように閉ざされたような隠れた場所に生活していた人がいたということが今になると不思議になる、それが不思議だというときもともとそういう生活が江戸時代からでも継続していたのである、つまり電気も水道もガスでもなくても人はそこで生活してきたのである、一時は戦後引揚者が入ってきて一万人近く住んでいたから驚く
その時は林業が盛んであったから住むことができたとなる
でも基本は自給自足の生活だったのである

第一飯館村には縄文中期の古い遺跡があり縄文時代からでも人は住んでいたのである
まったく人が住まない森でもなかった、もともとは日本がだったら森にどこでも覆われていた、その後稲作技術が入ってきて森が切られて平地になり米が作られて住むようになった、それが弥生時代なのである
そして不思議なのは佐須という地名は焼畑地名なのである、でも焼畑の技術は外部からもたらされた
それが山津見神社が佐須村の中心にあるけどまた綿津見神社があるけどこれは渡来人がここに入植して焼畑を伝えたからである、それで南相馬市には本当に綿津見神社と山津見神社が多い、この二つの神社に対になっていて一体なのである
長野県の安曇町は安曇族が入植した地でありそれで船の祭りが今でも伝えられている
海人族で船の操作にたけた人達だったからである、最近では南相馬市の鹿島区で船の線刻が発見されている

ともかくその一団が相馬藩一体に入植して拓いたのである
でも謎なのはその時代はいつなのか?それが不思議なのである
おそらく縄文時代があり次に弥生時代があったとすると弥生時代だともなる
そんなに古いのかというのも謎である、ただ焼畑農業はこれは実際は稲作より古いのである、それは月と関係している、五穀の神である、山では稗とか粟とか山でとれるから山芋とかもとれるらそれなりに山でとれるものがあり生活があった
だから飢饉の時やるに逃げろというのは何か食料になるものがあったからだとなる
ただ山の生活とかが戦後は特にわからなくなったのである

山津見神社には狼が祭られているけどそれも焼畑と関係している、畑がイノシシとか鹿とか猿とかに荒らされるというとき狼が天敵となっけ追い払ったともなるからだ

加工されたニホンオオカミの頭骨や牙が縄文時代の遺跡から出土していることから、その頃にはオオカミに対する信仰があり、頭骨や牙をお守りにしていたと推測されています

江戸時代以前から伝わる農家の旧家で形成される集落では、住宅や土蔵の入口に武蔵御嶽神社のお犬さまの御札を貼ってお祀りを続けているといいます。

飯館村の旧家からも狼の御札が発見されたのである、ともかくこの狼信仰は犬神信仰となり長く継続されていたし古いのである、縄文時代から信仰の対象ともなっていたからである

飯館村はこうして相当に古い歴史があり飯館村が無くなるとなるとこうした歴史も失われるのである
それより残念なのはここでの森があり自然と一体となり暮らしていた暮らしが失われることである、それが原発事故で一番罪深いことだった
それを象徴しているのが自然の水を湧き水であり山の清水でも利用していたのができない放射性物質に汚染されて水すら飲めなくなった
これが原発事故の酷さを示していたのである
そして補償金で村は分断されてばらばらになって離散してしまった
多額の補償金をもらった結果として不便な村に住みたくないとなり若い人は流出して残されたのは別荘に住んでいる老人だけだとなる

●飯館村の今後はどうなるのかどうすべきなのか

でも若い世代が流出したから村はもう継続できないとなる、多額の金をもらってもそれで村が元の村にもどることはない、飯館村でも補償金で争って分断して二派に分かれた
これもふりかえると南相馬市でもそうだが政府の策略だったのかともみる
補償金で内部抗争して分断された、そうすれば政府を一致して批判するより内部で争うから政府とか東電にとっていいとなるからだ
放射線量など正確に計れないのである、空気自体が汚染されているし水も汚染されているしそうしたらどうして汚染度合いで決められるのか?
そこで政府では大成建設とかにモニタリングボストの下の土をとって放射線量を低くしたのである、それは私もその回りを計ったら放射線量は倍にもなっていた
だからモニタリングボストの放射線量は実際は倍だとなみるべきである
そのことで抗議した

役場にあった線量計の値が平常時の年間許容量(1ミリシーベルト)を1日余りで超える「毎時40マイクロシーベルト超」を計測していたと指摘。驚く長谷川さんに向かって、村職員が「この数字、公表しねえでくれよ。(菅野典雄)村長から『絶対人に言うな』と止められている」と“口止め”されていたことを明かしていた。


長谷川健一さん死因は「甲状腺がん」…福島原発事故と戦った飯舘村の酪農家が投げかけたもの

これショックだった、やはりこれだけ放射線量が高かったら何らかガンになっても不思議でとはない、菅野村長のレリーフがある小さな公園が佐須村にできたがこの人は本当にそうした功績があった人なのかとみる、一か月間これだけの放射線量をあびたらなんらか体でも症状がでる、これから増えるとすると怖い
菅野町長は強引に村人を避難させないようにしたのである
ただその時何が起ったのか急なことで理解できなかった
それは南相馬市でも桜井市長がいち早く北海道に逃げたとか言われる、その真意はわからないがどう対応していいのかわからなくてそうなった
その自分自身も何が起きたのか理解できずに爆発した時でも外を歩いていたのである
ここでも半分は避難したが半分は残っていた
何が起きたのか急なことで理解できないからそうなったのである

いづれにしろ飯館村は自分にとっても思い入れある場所である、自転車で何十回も七曲の坂を上って行っているからである
ただ別に村の人とは何の関係もしていない、花を見て帰るとかだけである
自分にとって一番神秘的だったのは木戸木の森におおわれて流れであった
あそこは手つかずであり神秘的な場所だった、それも道ができてなくなったのが残念だった、ただそこに十軒くらいの戦後に開墾に入った引き揚げ者がいたのである
でも自分はそこには注目していなかった
あんな辺鄙な所に住んだのは住む場所がないからそうなった、そこでもどういう生活をしていたのかわからなくなった

ともかく飯館村は広いから未だにわからない場所がある、森でも広いからである
そういう踏み入っていない場所が相当ある、飯館村が今後どうするのか?
それはもう飯館村だけではどうにもならないのではないか?
もう自治体として自立して存続するのは無理ともなる
ただ土地はか山林を持っている人達がいてそれを利権化しようとするだけの場所になるのか?ソーラーパネルなどは土地を貸すからそうなる
牛の村でもあったがそれも極端に減った、これも存続するのがむずかしくなる
佐須村では花の村として丘に花畑を作ったりはししている、花は放射線と関係ないからである

もともと何か飯館村に入ると草深く野の花でも映えるしきれいに見える、今だ汚されていない花に見えた、そして広いから森の中に隠されるように農家があった
その前の広い庭に畑があり花が映えてひっそり静まっていたのである
それをただ天から神が見ているような感覚になっていたのである
そうして広い場所に森に隠されるように一軒一軒家があるからそれが贅沢だと見ていた
そういうことは都会ではまた街でもありえないからだ
街の庭は狭いし家々が隣り合って窮屈で息苦しいともなっているからだ
それでそこは癒しの場となっていたのである、なにかほっとする場所になっていたのである

●飯館村の貴重なものをとは何だったのか

飯館村の自然自体がなくなったわけではない、やはり森に囲まれた村でありそういう自然はなくなっていない、でも村として自治体として自治できる村なのかとなると今後は相当にむずかしい、だからもう南相馬市と合併するほかない、そこで管理されるほかないと地元の年配の女性が言うのもわかる
その人は村議会選挙で南相馬市の人はかかわるな邪魔だというのとは違っていて飯館村の現状をわかっていてそう言ったのである
飯館村にもいろいろな人がいる、でも一人の印象が悪い人がそれもその村の印象となる
ただ自分にとっては神はその暮らしを隠したというときそこに自然の花がより美しく映えていたとはなる、つまり人ととかかわらないとき自然の美だけが映えていたとなっていたのである

それでもその隠された暮らしすらなくなるとどうなるのか、猿やイノシシに荒らされ放題になってしまう、人はそこに住んでいないからである
だから原発の被害の影響は一番飯館村に現れたのである
そこにあった自然とか暮らしを根こそぎ奪ってしまったのである
木にしても3マイクロシーベルトが樹皮で計ったらあったから森自体が汚染された
その森から放射線は消えないのである、循環しているから消えないのである
落葉になって土に還るけどそれで放射性物質は消えないのである
だから土をとるとか大変な作業になってしまうのである、溜池を除染したけどそれだっけ森から放射性物質がきりなく流れてくるから除染作業は終わらないのである

真野ダムにも相当な放射性物質が貯えられているけどここだってもう除染することが不可能であり依然として飲み水としてペットぺットボトルの水を買って飲んでいる人達がこの辺でいる
要するに水とか空気とか森とか汚染されたら住めなくなるということである
この甚大な被害を修復するのもプルトニウムだったら二万年も毒が消えないとなる
こんなものをなぜ作ったのか、その管理もずさんでありただ「安全神話」を権力で作り金をばらまきそれでよしとしたのである
それでも東電の幹部は訴えられても無罪を主張している、そもそも検察がグルだったから裁くこともできないのである、天下りしているし利益を得ているからである

何が失われたのか?それは村人でも意識しないものでもあったかもしれない
村人でもみんながそこに暮らすことで満足していたわけではないからである

深い泉たぶんそれを知っている
その泉をのぞきこんで 一人の男がそれを知った
それを知ってやがて失ってしまった

宝石がそこに隠されているとも知らないで
乞食の足は砂利をふみつける

一人の男が知ったとはその男は誰のことなのか?宝石が隠されていたが乞食の足によって踏みつけられた、その乞食とは誰なのか何なのか
原発乞食と言われた補償金だけを要求しつづける人達なのか、またそうした自然の村に住んでいても踏みつける人たちなのか、外部の人達なのか、それを示唆した詩がこれだったのである


大倉から佐須へ行く山間の高い場所にあった家の写真をとれないことが失敗だった
もう一回行ってとってこよう

posted by 天華 at 10:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2021年11月05日

飯館村の大倉村から佐須村から霊山へ (紅葉を見に行って佐須村で現状を聞いた)


飯館村の大倉村から佐須村から霊山へ

(紅葉を見に行って佐須村で現状を聞いた)

monkey11.jpg
猿がイノシシの檻にかかった―大倉



大倉で何かひきづっていた、なんだろうとみたら猿だった
イノシシの檻に入ったという、餌があるから入ったのかと思ったら獣の道にあり入ったという、とにかく猿が増えて困ったという、畑でも荒らされからである
大倉で30軒あったが今は二十軒だという、でもまだそれだけ残っている
空家が増えるとどうしても猿とかイノシシとかネズミでも家に入りこんでくるのである
それで家も荒れる、猿でもイノシシでも警戒しなくなるのが問題なのである
だから核兵器で人類が滅びた後に猿が支配したという猿の惑星は本当にこの辺で現実として起きたから驚いたのである
つまり人間は愚かだとしきりに猿が言っていた、本当に人間は愚かだというのがこの辺で証明されたとなる

赤々と紅葉の映えてこの家に人はなしかも水もいずるに

この水は山の水であり水道の水とは違うだろう、山では水を吸い上げたり山か水をとって利用したりしていたからである、ただ水は出っ放しであったからそう見た
ここは一段と高い所の家であり良くそんな所に住んだと見ていた
山の閉ざされて住むということはどういう感覚になるのか?それで生業があり炭焼きなどして住んでいた、ただ炭焼きは戦後十年くらいつづいても終わっている
その後はどういう生活だったのかわかりにくい、前に畑や田んぼがあってもわずかだからである、林業があればそれで暮らせた時期もあった、ただ外材になりそれもだめになったあとは他では牛を飼って暮らしていたのである
ただあの辺はどういう暮らしをしていたか良くわからないのである

大倉から佐須までは結構遠い、だから大倉村と佐須村が明治以降に民情が違うとして合併しなかった、地理的にも相当距離がある、今なら車だから感じなくても歩くほかないとしたら相当に遠いのである

佐須までを歩くとなれば遠きかな大倉より来て秋の日暮れぬ

飯館や懸命に鳴く残る虫

佐須に来たら風と土の家がありそこは宿泊もできる、簡易なベッドがあった
ただここも予約制だから泊まりずらい、何か撮影の人が来ていた
そこで一人の年配の女性が歩いていたのできいた
立派な石組の塀があったのでその中の家に人が住んでいるのですかと聞いたら住んでいるという、それは新しく建てた別荘であり時々帰るにしても住んでいないと思った
でも実際はここで住んでいるという、ただ年寄りだけが住んで若い人たちは他に移ったという
そしてその女性はもう飯館村はなくなると言っていた、菅野町長が30億とかの金をもらって村の人に配ったとか言っていた、飯館村の補償金が大きかった

ただその女性が言うには補償金だっていづれなくなるし飯館村ではもう生活できないと言い南相馬市と合併されてめんどうみてもらうようになるとか言っていた
この前の飯館村の議員選挙の応援の人は南相馬市だと言ったらただ関心があり聞いたのにかかわるなと言ってはねつけた
これは本当におかしいと思った、つまりこの女性の言うように飯館村はもう飯館村だけで成り立たなくなっているのだ、だからこそ南相馬市と合併するようになると言ったのであるそういう自分たちの事情すらわからない人がいたのである
この女性はこうして村の事情をわかっている

また補償金でもめたというのも聞いた、これは全体的にそうである、たいして放射線量も変わらないのに補償金に差がついたからである
それは伊達市でも親戚同士でも争ったというのも聞いた
つまり放射線量で区切って差別したことが問題だったのである
それは結局政府がそうさせた、みんなで一致して要求させないためにそうして分断させたかえって仲間内で争い分断されたさせられたともなるからだ

ともかく佐須村は山津見神社があるがこれは綿津見神社と一体であり安曇族とか海人族が入ってきた場所であり佐須とは焼畑のことである、この焼畑地名は多い
焼畑をするという技術は外国から入ってきたのである、縄文時代にはなかったからであるそこの佐須という地名は海人族が入ってきて拓いた土地なのである

その佐須から霊山に来た、その霊山から福島市の方に霊山町の方に行った
高速道路が福島市まで完成して高い所を走っていた、でも前の道は旧道となり車も走らない、サイクリングにはいい道になった
ただ店とかは閉じてまた空家が多くなった、車も通らないのだから商売した人たちは他に移ったのかもしれない、これも道路の影響が大きいと思った
常磐高速道路でも町全体とはかかわらない、ただ一時飲み食いして去るだけであり街の方に来ることはない、鉄道の駅とかは街とかかわり駅前通りができたが車だとそうはならないのである

霊山の食堂で芋煮が1000円で食べられた、これは安かった、天ぷらもついていたし安かった、こういうものはなかなか食べられないから良かった
それから蜂蜜とユズのサイダーを注文した、それは飯坂で作っていたのである
何か変だったが飯坂温泉が寂れて廃墟化しているとかyoutubeで見た
それで何か売るものとしてこれを作ったのかもしれない
霊山では紅葉の季節であり人は結構来ていた
ただ紅葉は今年はどこでもあまりきれいではない、気候の関係でそうなった
それが残念だった
posted by 天華 at 20:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2021年10月06日

飯館村の村議会選挙の問題(2) (よそ者は関係ないから邪魔だ、かかわるなで考えた民主主義)


飯館村の村議会選挙の問題(2)

(よそ者は関係ないから邪魔だ、かかわるなで考えた民主主義)

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民主主義の根幹は選挙である、誰でも一票を持っていることである
その一票を持つことの意義が理解できなかった
でも飯館村に行ったとき村議会選挙でよそ者はかかわるなとか邪魔だ、目障りだと言われたことで自分はこの村について何の権利もない、何も言えないのだと実感した
制度上は飯館村は飯館村の人でないと選挙権を持てないのである
こうした村議会では6000人くらいしか人口がないのだから一票にも重みが出て来る
だから一人一人に票を得るためにあたるのである

ところが南相馬市とは飯館村は地理的一体である、新田川は飯館村の中心を流れている
真野川も鹿島区に流れて来る、それで放射性物質の検査を環境庁の人が常にしていたのである
また放射性物質のフレコンバックが破れて流れ出したのである
それは確実に南相馬市にも流れてくるのである
それで隣の川俣町で風力発電の風車を山に作ったら景観が乱されると抗議があったのである、つまり飯館村だけのものとして何でもやれないのである
隣の自治体があり迷惑だともされるからである

ともかく飯館村は南相馬市と合併しなかった、でもそれが原発事故以後補償金を飯館村だけでもらうようになったから億の金をもらった人もいる、飯館村は被害が大きいから補償金も大きくなった
それはいいとしてただ飯館村の問題はもはや飯館村だけの問題ではなくなっている
特に南相馬氏とは地理的に一体であり放射性物質の処理で深くかかわっているからだ
今になると飯館村は広域社会となったとき自分たちは合併しないというのは地域エゴだったかもしれない、現代どうしても広域化グロ−バル化した世界だから互いに関係が生まれて分離できないからである
江戸時代なら自給自足でそれぞれぞれの飯館村だけではない、狭い地区単位で自給自足していたからかかわらないでも生活できていたのかもしれない
それで大倉村と佐須村が民情が違うとして明治以降合併しなかったのである
そんな小さな村でもそうだったのである

でも相馬藩内であり飯館村が飢饉の時相馬藩内では支援したのである
飯館村は実際は相馬藩内として役人もいたし特に塩役人が多くいたのである
飯樋村に塩役所があり60人も働いていた、塩の道を通り松川浦から運ばれていたからだ
そういうふうに飯館村は歴史でも地理でも一体化した地域である
川俣町も地理的に隣だが歴史的には別なのである
飯館村は鎌倉時代でも鹿島区の岩松氏の所領でもあったから歴史的にも一体なのである

そして不思議なのはこの原発事故は相馬藩内で一番被害があったことである
大熊とか双葉でも相馬藩内だったからである、すると相馬藩全体として見ることにもなる地理的に歴史的にも見ることになる、だからこそ飯館村がその全体の一部としてあり俺たちは俺たちだとか合併しないというのは地域エゴだったともなる
そして現実にもう飯館村に住んでいる人は三割くらいだという、それもほとんど老人なのである、子供は放射線の被害があるから住んでいない、外から通っているのである
学校も何十億とかかけて施設も立派にしたが生徒はわずかしかいないのである

だからそもそもこういう村が成り立つのか?

それが疑問なのである、ただ原発事故以後は補償金をもらう場所であり多額の利権の場所になったように見える、村議会員選挙でもそうした利権狙いかもしれない
議員となっていれば利権を得やすいからである、実際議員に立候補した人でも住んでいないかもしれないからである
ツツりそこは住む場所ではなく利権を得る場所になったようにも見える

それは他の原発避難民も同じなのである、近くに浪江の復興住宅かある
でも南相馬市の市民とはなっていない、一票は持っていないのである
だから市政に対して文句や要望を言うこともはばかれる、そもそも一票がないから議員だってその人達をよそ者と見てしまうからである
それは飯館村で自分に成されたことと同じなのである
それで鹿島区の仮設住宅に入っていた小高の人達に鹿島区の議員がかかわり親切にしていた、それは小高の人は合併して南相馬市民であり一票をもっているからそうしたのである別に南相馬市民だったら南相馬市内に住んでいれば一票の権利を持っている
狭い範囲だと一票の重みがあると思った

それで浪江町民は今でも南相馬市民ではない、他でも依然として原発避難民は元の町であれ村であれそこの行政に属していて時々役所の人が回ってくるのである
ただ県でもかかわっていて県の役人の人が回っていた
復興団地とか住宅は県で建てたからである、ここに県という大きな行政としてかかわっていた、県も予算が大きいから金を出すから自治体に対して力をもっている
ただ県会議員とかなると直接かかわる度合いが低いから一票の重さも感じられないのである

何かこの原発事故とか津浪ではいろいろなこさとを考えさせられた
それは科学技術のことか政治のことからマスコミとか報道のこととかあらゆることとかかわっていたのである、それは総合的な問題であり科学技術だけの問題ではなかったのである
ただ広域社会になったとき飯館村のように小さい村だけではとても成り立たない
それは地域エゴになっていた、おらが村がいいければ良いということだけでは成立たない実際にその周辺に南相馬市でも飯館村の人が住んでいたりしているからだ
不思議なのは飯館村の周辺に住んでいる人達に対して私が言われたようなことをここは俺たちの村だからかかわるな、邪魔だと言われたらどう感じるのか
自分が感じたこと同じことを感じるだろう
ただ江戸時代でも村同士で水争いとかで争い木材利用の入会権とかで戦国時代にもなったとされている、だから必ず村同士でも利害が対立して争うことがある
それは人間が存在したとから動物の縄張り争いのようなものがあったからさけられないともなる

いづれにしろ狭い範囲だと民主主義が身近なものになる、国政選挙とかなる百万単位の票でありどうせ一票などなんの影響もないとなり投票もしないともなる
でも身近な問題になると関心があり今回のように故郷に住めなくなるとかなり住んでいるだけで重い責任があることを自覚したのである
そもそも民主主義とはギリシャのポリスから始まったのでありそれは一万足らずの規模であり狭い範囲で行われていたのである
だから直接選挙であり身近なものとなっていた、一票が重いものとしてあったのだ
それで規模があまり大きくなると成り立たなくなる
現代では規模が何百倍以上になっているから成り立たなくなっているともなる

とにかく酷な言い方をすると

原発避難民は故郷にもどり住め、住まない人はその土地であれ権利を放棄しろ
そして別な自治体民になれ、どうせ戻らないのだから

ただ補償金を得るためには元の町村に籍を置かねばならないとかなる
でも自分が飯館村の議員の運動員に言われたようによそ者は選挙の邪魔だからかかわるなうざいから消えろとまでなる

何かこれは今世界で難民があふれているけどそれと多少似ている、原発事故の避難民もやはり 難民だからである
でも避難民はここは俺たちの国であり入ってくるなとなる
数が多いので引き受けることもできないからである
要するに人間の権利と何なのか、市町村であれそこに属して権利が生まれる
でも国籍とかない、市町村にも属しないとすると権利もないとなる
そして難民となって他国に住む権利などもともとないのである
ただ人道的に引き受けるとして限度がある
つまりそうして難民化した人達にも責任がありそれを自分たちで負うべきだともなる

何かこうして市町村でもそこに住むことだけでも責任が課せられていたのである
自分たちの国は市町村は自分たちで守れとかなっていたのである
原発事故は実際はその一地域だけの問題ではない、周辺を広範囲にまきこむものだから
そんな一地域で決められるものでもなかったのである
環境問題になると世界とかかわる、そのためにトリチウムを海に流すなと世界から言われるのである

だからこうして事故後は故郷に住めないとか責任を地元の人達はとらされた
故にそのことを深く考えて原発の是非を決めるものだったが一土地の所有者とか地元で金になるかとかで簡単に決められたのである
是非論があるにてもほとんど議論などされなかったのである
それはみんな金になるから利益になるからとして引き受けたからである
そういうことがあってもやはりせめてみんなで真剣に議論すべきだったとはなる
そういうことで新潟県の巻町が原発を町民の話し合いで決めたということは稀有のことだったのである
posted by 天華 at 19:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2021年09月24日

地域エゴは人間の争いの原因として常にあった (飯館村はそもそも村を維持できるのか?)


地域エゴは人間の争いの原因として常にあった

(飯館村はそもそも村を維持できるのか?)




印旛地域の行政中心地は成田市の2つ隣に位置する佐倉市だ。江戸時代には老中を輩出した佐倉藩があり、明治時代には7県が合併した印旛県の県庁が置かれた街である。現在も、保健所やパスポートの交付窓口などがある。博物館も美術館も大学もある。東京から帰る電車が深夜まで走っている。成田市民は、佐倉市民が羨ましいんだな。

しかし成田市域の大半は幕府領。下総佐倉藩の「領地」ではなかった。よそ者の私などは「一通り窓口や施設の揃った街に暮らしているんだ、という気分が味わいたいなら、佐倉市に吸収合併されるのがいちばん安上がりだ」と思うのだが、賛同されたことはない。佐倉の下に入るなど考えられない、らしい。

地方自治体の境界線は、住民の心に枠を作ってしまう。中小の町村が、何でも自前で施設を持つ必要はない。隣町に一定のお金を払って、施設を使わせてもらえばいいのだ。が、「我が町の土地にない施設に公金を投入するのは、どうしても許せない」というのが住民感情である。

県も同じだ。「なぜ我が県には空港がないのだ」と考えてしまう。そうして、どれだけ無駄遣いをしてきたのだろうか。県単位で人口の増減に一喜一憂したり、県単位で産業メニューをフルコースで揃えようとしたり。地域エゴのために合理性がどれだけ歪められてきたか

夕張市だって、「札幌市の辺境部」だったなら、無謀な人口維持策を講じることなく、静かに滅びていくこともできたろう。限定された行政区域の内側で自立しなければならぬ、という強迫観念があるから、衰退の道に甘んじるという選択ができないのだ。

 地域エゴに固執する者は自己が災難に見舞われたときに他者の地域エゴの報いを受けざるをえまい。他者を助けずして自己のみが生存(ながら)えようというのが道理であろうはずはない。瓦礫の広域処理は同胞の相互扶助の精神の如何(いかん)を問う重大なテストケースである。

 今後も、自分を中心に考える自分中心、自国エゴ、地域エゴ、民族エゴの流れは進んでいきそうです。



●自治体でも衰退して維持できなくなる 

人間のもめごとは様々なエゴから起きて来る、要するに自分さえ良ければいいということであり自分さえ利益になれば他は関係ないとなる
諸悪の根源はここにある、そもそも部族同士の争いから人間の戦争は始まっている
日本でも村同士の争いから戦国大名が生まれた、何か山林の入会権の争そいとかあった
この辺で有名なのは丸森の森林資源をめぐって米沢藩と伊達藩と相馬藩が熾烈に戦った歴史がある、そういう歴史がそもそも人間の歴史だったとなる

佐倉市と成田市の争いでもそうである、歴史的にもそうなのである、よそから来た人にとっては佐倉市と成田市は合併した方が事務手続きでも便利だとなるからだ
東京から近い人が移住しやすいからよそ者にとっては佐倉市とかに大きな市に合併された方が住みやすいとなるのだ
つまり現代ではみんな広域的にグロ−バル化して生活しているから一地域に限定して生活することが合わなくなったのである

何かこの原発事故は本当に相馬藩領域が最大の被害地になったのである
大熊双葉浪江でもそうだし飯館村も相馬藩領域だった、だから伊達藩との境目で森林資源の争そいがあったのも丸森と似ている、飯館村は森林資源が豊富だったから同じようなことが起きた

夕張市だって、「札幌市の辺境部」だったなら、無謀な人口維持策を講じることなく、静かに滅びていくこともできたろう。限定された行政区域の内側で自立しなければならぬ、という強迫観念があるから、衰退の道に甘んじるという選択ができないのだ。

こういう考えもある、日本で少子高齢化で人口が減るとそういう所が増えてくる
今でもすでに日本全国で空家が800万軒あるとなるからだ
この辺で原発事故でゴーストタウンにもなり町自体が空家の町になってしまった
そして若い世代が流出して子供がいない、極端なものになった
老人ばかり住んでいてその町であれ村であれ未来があるのかとなる
ただ南相馬市の小高区は南相馬市内に入っているからかえって移住するにも南相馬市内だと問題がない、だから原町区が便利なので移住した人が多い
でも他の人達も移住している、大熊とか双葉とか浪江とかからも復興団地があり移住している、四階建てのビルでありいくつも建ったからである

そうして浪江町とか双葉町とか大熊町とかでも復興しないから帰れないのである
また飯館村の人も相当数近辺に散らばり住んでいる、もちろん南相馬市にも住んでいる
川俣町とか福島市の方にも新しく補償金で家を建てて住んでいる人もいる
第一学校自体他の土地の学校に通っている人が多い
いくら立派な校舎を建物を作っても親たちは住んでいない、飯館村の外に住んで通っているのである、それも数名とかしかいないのである
こういう状態でよそ者はうろうろするなとかかかわるなとか飯館村選挙で言っている人は全く自分たちの現状を理解していないのである
ただこの人は特殊な人だったのかもしれないがそんな人がまだいるということに驚いた

●地域エゴは根強い問題

でも現実問題として地域エゴは根強いものだから歴史的にも常に問題になってきた
そもそも国(くに)というとき漢字だったら回りを囲むとなり閉ざすそこが国となる
クニは区切るなのである、一つの境をもうけて区切った場所がクニなのである
そこで内と外を意識させて生活していたとなるから
だから江戸時代なら村と村の境界とかが大事になる、そこで常に境の石とかあり境界を明確にしていたのである、そこで強い村の結束が生まれた

それにはいい面と悪い面が常に生まれる、村だけで閉鎖的になってしまうことである
江戸時代の村は本当に閉鎖的でありよそ者は簡単に入れない、すぐ目立つからわかる
それで明治になって合併がすすめられたとき飯館村の大倉村と佐須村が合併しなかったのは民情が違うからだとなっていた
民情が違うというのはわかりにくいがやはり何か隣村でも通じないものがあったからそうなる
つまり村は隣村の人さえ自由に交わらない社会だったのである
そこで民話の伝説では隣村から来た麦付きの男が蛇だったとかなる
隣村さえ得たいのしれない者となっていたのである
日本人は長い間そうして閉鎖的な生活をしていた、そうした村意識は簡単に消えないのである

ただ原発事故以後はそうした江戸時代の感覚の村の維持は不可能になった
飯館村の住民自体が周辺でも遠くでもばらばらに住んでいるからである
不思議なのは村議会選挙があるとして立候補している人は飯館村内に住んでいるのか?
それも疑問なのである、なぜなら前の村長は飯館村内に住んでいなかったからである
もはや飯館村自体が飯館村だけで成り立たなくなっている
外部から百人とか移住しているのもそうである
何か議員にとしてもそこに住んでいないかもしれないのだ、飯館村はどうして成立つのだろうか?

その村が補償金を得るための利権の場のようになっているかもしれない
巨額の補償金がばらまかれたからである、そのために村は分断された
その補償金が入ってきたがそれも十年すぎて村の予算としてと財政的にどうなるのか
何か村自体が維持していけるのだろうかという疑問がある
だからよそ者はかかわるなとかならない、南相馬市であれ福島市であれ伊達市であれ川俣町であれ広範囲にかかわざるをえないのである

●復興はできないとしたらいつまでも予算でつぎこむことは無駄?

何か復興させたいとしても最初はそう思ったが現実問題としても復興をあきらめるということも考えざるを得ない状態になっているのではないか?
なぜなら未来を担う若い世代が流出して子供もいないからである
老人だけが住んで成り立つのかとなる、そこに予算をつぎこむことも無駄になるのではないか?
それで津波被害の三陸地域に官僚の人がジジババに金をつぎ込んでも無駄だと本根が出たのである
そもそも住民がその村内とか町内に住んでいないということはどういうことなのか?
飯館村の瀟洒な建物は別荘であり人が住んでいない、時々帰ってきているだけだという
これも何か不思議なのである、軽井沢のような所だとそういうこともありうるが
そもそも貧乏な村で別荘にして維持できるのかとなる
またそんな暮らしが成り立つのかともなる、別荘村にするなら福島市とかに住んで金持ちでないと無理である、でもいづれはそんな収入は得られなくなるだろう
補償金でも使えばなくなるからである

確かなことは飯館村だけでは維持できない、他の大熊とか双葉とか浪江とかでもそうである
小高の場合も実際は維持できないとしても南相馬市だからそこを捨てても南相馬市内の問題として処理できるのである
もはやかたくなに町でも村でも維持できなくなる、それはここだけの問題ではない
少子高齢化と人口が激減してくくとき全国で起きて来る
ただここでは原発事故で極端な現象として現れたのである
だから大熊とか双葉とか浪江とかが合併するほかないという案もでたのである
もはろ飯館村は飯館村だけで維持できない、それで南相馬市と合併するべきだったとなる確かに原発事故では補償金を十分に村でもらったから合併しなくていいとなった
でもこれから先の問題としてもう補償金だけでは維持できない
やがて廃墟の村になってしまう、現実問題として住民が住まない村は誰のものなのか?
回りの市町村に住民が新築の家を建てて住んでいて飯館村の住民となりうるのか?
また権利でもあるのかとなる、つくづくこれもむずかしい問題である
ただ飯館村に所属して利権を得るためなのか?補償金をもらうには飯館村の住民でないともらえない、他でもそうだったからである

それで飯館村の人が相馬市に移住してトマト農家に雇ってくれと言ったが断られたとNHKでそのことを訴えていた、NHKは原発避難者側についた、それを見た人はなんでそんな冷たいのだと瞬間的に怒りになる
でも相馬市の海側では松川浦などでは津波の被害が大きかったのである
そこでは補償金ももらっていない、だから津波の被害者を雇ったのだから別に冷たいことはなかったのである
こういうふうに広域的なものとてし飯館村住民もありそれをよそ者だからうろうろするなとかかわるなとか邪魔だとか言う人がいるのは信じられないとなる
つまり現状を全く理解していないということである

今までとは全然違った状態になっていることを理解していないのである
ともかく飯館村が維持できるのか?それ自体が疑問なのである
ただいろいろな人がいるからその実情がわからないから何とも言えない
確かなことは飯館村だけでは問題は解決しないし維持すらできないことである
別に江戸時代の様な村であれば自給自足であり自立しているから大倉村と佐須村が合併しなかったようにそれでも良かったのである
でも今になるとそんなことでは成り立たないのである、村自体が維持できなるのかと見るからである

●復興できない、自立できないとしたらどうするのか?

浪江の人が近くの復興住宅に住んでいる、それで選挙の時、議員になる人が運動する人が車で回った、そしたらよそ者は来るなとなったらどうなるのか?
政治運動するなともなる、ただそういうふうに今は原発避難区域の人達は散らばって住んでいるのである、そして働かないという時回りの人は不満だった
補償金で金があるから高いものを買っているとか見ていたのである
その人は相馬市の人だったのである
それはいわき市とかでもそうだった、2万人とか避難してその人達は補償金で新築の家を建てた、地元の人は建てられない人たちがいたしそれでうらやまく思い嫌がらせが起きた普通避難民世界ではテントを張って暮らすとかもうぎりぎりの生活なのである
でも原発避難民は避難民様となり貴族にもなっていたとなる
だから傲慢になっていたともみる

何かこの原発事故は原発か近い所遠い所と距離で分けられた、双葉とか大熊は一番被害が大きかったが恩恵も一番あったのである
それでここにもカルマの法則が適応されたともなる
原発は距離に比例して被害が大きかったからである、それ故にカルマとなりカルマとは責任であり恩恵があればそれに比例し責任も大きく課せられていたとなる
ただそういうことは自覚しない、得すればいいとしかなかった
飯館村は確かに恩恵を受けていないから余計に同情された

でも今になればもう十年を過ぎればどうして復興するのかが問題でありいつまでも外部であれ頼るというわけにはいかなくなる
いつまでも特別優遇されるべきだとはならなくなっている
それは他の避難区域の人達でもそうである、一体どうして復興するのか、それは外部まかせでできるのか、何らか自助努力もしないと復興できないしそうできなければもう復興をあきらめて別な道を模索しなければならない、現実はもうあきらめているとなるとそこにいつまでもこだわっていても無理であり一層見捨てるということにもなる
北海道の夕張ではそうするほかないとなる、いつまでも夕張市を維持しようとしてもできないからそう言っている

そういうことは誰の意志で決めるのかわからない、ただいつまでも復興できないのに復興にこだわっても無理だとなる、ただ費用だけがかかってくるからである
一層会社でも倒産して整理した方がいいともなる
ただそこには会社の社長もいないし従業員がいたとして町民とか村民とかいたとしてその人達の意志で決めるとなる
でも一方ですでに分散して住んでいるのだからその住民は別な市町村の一員になる
しかしまだ別な市町村に籍を変えたということでもない、その辺の所属とか身分があいまいなのである
いづれにしろ原発避難区域はそこの住民だけでも決められないようにもなっている
だから夕張市が札幌市になっていればその周辺として処理することができるとなる
だから浪江とか双葉とか大熊とかが合併するとか提案された、それより南相馬市と合併すればその周辺地域として処理するともなる
ただそういう地域を背負うことは負担になるのである
言えることはもう自立した自治体として機能できないような状態になっている
だから今になると飯館村は南相馬市と合併していた方が良かったともなる
なぜなら自立しようとしてもできない、そして広域化した社会で自立することは地域エゴになってしまうのである、

それは世界的にみてもアフガニスタンが自立するのはいい
でも食料不足になり自立できない、そうしたらいくらタリバンでも国を守るとしてもできないのである、外部からの援助が必要なのである、つまりよそ者を入れないということ
外国人を入れない排斥するのはいいとしてそれは経済的にも自立していればできることである、江戸時代の村は貧乏でも自給自足が基本であり自立できていたのである
今はできない、グロ−バル化してさらに国内でも広域化した社会で生きているからである例えばなぜ都会の人達が東京の人達が過疎地域とかに不満なのかというとそういう地域を維持するのに80倍とかの金がかかる、インフラ整備に電気であれ水道であれかかる
そのために税金を地方交付税をとして払うことに不満だからそうなる
でも江戸時代とか戦前では水道がなくても江戸の水を利用するとか燃料は炭だとか電気もなかったのである、葛尾村村など戦後遅くやっと電気が通ったのである
そういう村だったら自立しているから東京とか大都会とは関係ないともなる
そして逆に木材であり石材であり石炭であれ様々な資源を地方を頼りにしていたのであるそのために蒸気機関車で東京にそうした物資を運んでいたのである
それが外材とかなったとき地方は衰退した、そこで東京の人は地方に税金を払うのは馬鹿らしいとなって不満になりそういう過疎地域はもういらないと見るようになったのである

●ソーラーパネルの村になっていもいいのか?

飯舘電力では、耕作放棄地となっていた広大な農地にソーラーパネルを立てて発電し、その売電収入を復興の資金にしようと考えます。

畑があっても、耕す人がいなくて放っておけば農地は荒れてしまいます。だけど僕らがそれを借りて発電をすれば地代も払えるし、農地を管理することもできると考えたんです。
2019年4月1日現在で飯舘村の避難者は4358人。村内居住者は1258人(内、帰還者は1118人)、帰還者は村の人口の20%ほどにとどまっています。戻らない理由については、避難から7年以上が経ち、生活基盤が他でできてしまっていることも大きいかと私は思います。

ソーラーパネルがやはり希望となっているのか、これも景観破壊である
でも土地利用できないから収入がないと生きていけないからそうなる
要するに住民は飯館村に住まなくても土地を貸して収入になる、それで他の土地で生活すればいいともなる、こういうことが果たしていいものだろうか?そして時折別荘に帰って故郷をなつかしむのかとなる
それはもう昔のまでいな暮らしの飯館村とはならないだろう
そんな生活がありかるのかと思うからだ

でも荒地のままにしても置けないからどこでもソーラーパネル化しやすいのである
その時飯館村はソーラーパネル工場となり昔の飯館村ではなくなる
現実問題としてはどうすればいいのかと自分に問われてもわからないとなる
自分自身はただ飯館村に来て花を見て帰ってきたというだけだからである
その時はそれで良かったのだが今になると昔の飯館村は消失した
ただ外部からの人がいろいろと尽くしている、つまり今や飯館村は外部の力に頼ることが多い村なのである、だから南相馬市から来てよそ者がかかわるなというときまたうろうろするななどと言う人がいることが信じられないとなる
なぜならこうして原発事故以後外部の人と接する村になったからである

どこもかしこもソーラーパネルにしていいのだろうか?

丸森も山が全体がソーラーパネルになった場所がある、そうすると景観が失われる
ただそうなるのも外材で木が利用できない、つまりそこに木材でも利用して森も活かされるし住民でも住めるということがあった、それは江戸時代ならそうだったのである
その時景観も保たれていたのである
だから自然保護といってもその自然が人間の生活に活用されないと守れないということがある、かえって自然は荒廃するともなる
ただ山を所有しても生活の足しにならないとなりソーラーパネルにして金にした方がいいとなるからだ
とにかく飯館村をどうするのか?他の原発避難区域でもどうするのか?
それを決めるのは誰なのか?そこの住民だけなのかとなるとこれもわからないのである
現実に周りの市町村に住んでいるからである、新しい家を建てて住んだら帰らないからである
そういうことで何か空白状態になりそういう場所には外部から人が入り安い
また空家化して荒地化すると猿とかイノシシが増えてくる、そして恐れもなく道を歩いている、イノシシとか猿が増えたからである、そこの住人は獣にもなってしまうのである

ただ外部から多方面の経験知識をもった人たちが入ってきている、そういう人達が復興の鍵を握っているのかもしれない、新しい村作りの主役となるのかもしれない
その辺については詳しくない、ただよそ者を受け入れざるをえないしもう飯館村だけでは成り立たない、周辺地域とも深く関係せざるをえないのである
それも選挙は飯館村だけのものであり外部の者は南相馬市でもかかわるなとか関係ないとうろうろするなとか言うことが信じられないとなる
そんな人がいたら復興自体不可能である
posted by 天華 at 17:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2021年09月23日

秋の蝉、芙蓉、秋涼し(飯館村の秋ー飯館村議会選挙(2)


秋の蝉、露草、秋涼し、芙蓉(飯館村の秋ー飯館村議会選挙(2)

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あいのさわの羊草

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亀石
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臥牛石

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清流や露草咲きて竹真すぐ

コスモスにまわりとまらぬ風車

秋涼し峠を越えて飯館へ

秋の雲影を落として村一つ

秋の蝉一つ鳴いてそ峠越ゆ

山鳩に遊びの庭や芙蓉咲く


また一つ森の広きも石重く道の辺にあり秋となるかな

秋の蝉一つひびけり我がたずぬ飯館村を我が帰るかな

広々と大池に咲く羊草風のかそかにトンボ飛ぶかな

飯館の人の作れるダリヤかな我が部屋にさしめでにけるかな

飯館の地は荒れにしも様々の色のダリヤ畑に映えぬ

家々に芙蓉の咲くも人住まず花のみ映えて我が見て帰る

亀石に臥牛石かな秋の日や飯館村に落ち着き住みぬ

十五夜の満月輝き我が家かなかつて共に住む姉をし思ふ


一昨日は飯館まで行ったけど涼しかった、やはり涼しいと疲れない、気持ちよく運動できた
飯館村では森に囲まれている、そしてその森に様々の形の石がある
だから石の村だともなる、その一つ一つに名前を付けると面白いとなる

あいのさわには羊草が咲いていた、広い池だから気持いい、近くに大きな石が五つくらいある公園がある、あそこもいいが草に埋もれていた、あまり人が行き来しないからだともなる、外部から来る人が減ったからだろう
あいのさわでもキャンプしている人も見かけなかった、今は休みだから来ていてもいいと見たがいない

飯館村でにぎわっているのは道の駅のまでい館だけである、昼間は食事する人で満員だった、その裏の子どもの遊びの庭があり芙蓉が咲いて彫刻がありそこに山鳩がとまっている何か飯館村には山鳩が似合うのである、ただまでい館の彫刻に男女の像があるのは似合っていない、森の国だから森と小鳥とか石の彫刻だとあっているとなる

飯館村には何か芙蓉があう、芙蓉が山の村にゆったり咲いているのが似合うとなる
ただ正直やはり人が住んでいないということで前とは違う
私が芙蓉が見た家も空家だったからである、ただいつも花を見て飯館村を帰ってきた
それで畑のダリヤを栽培している所があった
そのダリヤをまでい館で売っていたので買った、250円は安かった
その畑だけが彩り鮮やかで活きていてなごんだとなる

までい館の前の農産学校は廃墟であり壊すほかないとも見た
あそこの学校に南相馬市の鹿島区の人が学んでいたことを聞いた
なぜわざわざそこに入ったのかわからない、事情があって入っていたとなる
でも高校までも一応あった時代があった
ただその人はすでに40以上になっている、その頃学生の数も多くてそこに入ったのかもしれない、必ずしも高校となると地元の人が入るとは限らない
何か他でも空家が多く古い兜屋根の養蚕していた家はまるで文化財のようにも見えたのである
実際今は空家だらけなのである、生活でもどうして成立っているのかわからない
おそらく補償金で生活しているのかとも見る、相当に飯館村だともちっているからその金で生活できることはある、ただいつまでも補償金で生活できるのかとなる
近くの復興団地でもそうである、だから生活が苦しい人がいて電気を消している人がいる
ただ今回は不愉快だった、選挙中であり運動員がうろうろするなとか邪魔だと言われた
田舎だととにかく姑息な人が多いのである

それで何度言うように飯館村であれ暮らしが隠されている所が自然につつまれている所がいいのである、そこでこのように人と接する時、必ずどこでもそういう嫌な人と逢うことになっている、田舎の人とかがみんな素朴だとかそんなことが今はない
だから補償金もらえるとなると金しか見えなくなり村は分断されたのである
要するに人が出てこなくて自然の中につつまれ隠されて花だけが映えるようだと良かったのである
ただ原発事故以後はもうそういう村でありえなくなったのである
不思議なのはそもそも議員になる人自体飯館村に住んでいるのかとなる
一応籍があっても外に住んでいるかもしれない、前の村長がそうだったからである
そして孫は外部から学校に通っていたからである
ただ今全体的どういう状況なのかはわかりにくい、でも子どもも住んでいないというときその未来はどうなるのだろうとなる、外部から来た人も年配の人が多いからだ

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こういうことを言う人がいる、だからみんなが外の人は何もいうな目障りだというのは異常だとなる
このように外からの意見も聞くとしているからだ
ただこうして一人でも印象が悪い人がいるとどこでも嫌になる
人間はやはりそこに住んでいる人が作るのでありそこに住んでいる人の気持ちとかその人となりが影響する、今だと何か人間ではなく建物だとか機械だとかが社会を作っているように見える、でもすこに住んでいる人の心持ちだとかその場所を良くしたり悪くしたりもする、そういう気持ちがあれば人がいれば復興もするともなる

第一よその声無視できないのは学校でも村内の学校に通うより外部の学校に通っている人が多いとなるか、そうしたらよその声を今は無視できないのである
ただ田舎の人が何か姑息なのである、視野が狭いのである
よそ者を嫌うということはある、南相馬市の人すらよそ者として受け入れない人がいたからだ、だから自分の場合は今までは別に飯館村の人とは接していなかったのである
要するにその時はかえって良かったとなる、なぜなら花を見て帰るだけだったからである
posted by 天華 at 12:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2021年09月21日

飯館村村議会選挙運動で思ったこと (よそ者はうろうろするな、邪魔だ、かかわるなと運動員に言われた)


飯館村村議会選挙運動で思ったこと

(よそ者はうろうろするな、邪魔だ、かかわるなと運動員に言われた)

何かわからなかったが飯館村の村議会選挙だった
それで道の駅のところと住宅地の所で合ったので興味があり聞こうとした
そしたら運動員がうろうろするな、邪魔だとか関係ないからかかわるなとか言う
でも南相馬市の者だと言って関係あるから聞いたのである
現実に放射性物質とか飯館村から南相馬市にでも相馬市でも流れてゆく
放射性物質の汚染では広範囲にかかわっているから聞いたのである
でも確かに一票は持っていないから飯館村の村議会議員でもかかわらないとなる
もし一票を持っていたらこうはならないからだ
村議会とかなると一票でも貴重になるからだ

ただこう言った運動員は江戸時代の人間だった!

江戸時代の村に住んでいる人間の感覚のままなのである
江戸時代だったら隣の村と村すら交わらない、よそ者となり受け入れないとなる
そういう感覚の人がまだいんたということに驚く

第一飯館村自体がもう村として成り立っているのか?

よそから入った人が100人くらいるという、実際に住んでいる人はどれくらいいるのか空家だらけだとなる
そういう村でよそ者はうろうろするなとかかかわるなと言えるのか?
実際に飯館村の住民は南相馬市でも相馬市でも川俣町でも移住している
それは浪江町の復興団地も鹿島にあったり広範囲に移住しているのだ
もちろん今回の原発事故で飯館村は責められない、それはわかるにしても現実問題として放射性物質に汚染されたことは南相馬市とも深く関係する
新田川は飯館村の中心が源流となっているし大倉村では真野ダムがありそれは鹿島区に流れるから密接に関係しているのである
それで放射性物質のフレコンバックが破れて流れ出した、すると南相馬市まで流れてくるのである

原発事故では広範囲に被害があり結果的に合併したような状況になった
大熊でも双葉でも浪江でも南相馬市に移り住んでいるからだ
そしてその人たちが何かなのか身分がはっきりしないのである
依然として移り住んでも家を建てても浪江町の人は浪江町民であり税金も払わないということがある、飯館村の人でもそうである
他に移り住んでも飯館村の住民なのである、そうしているのは補償金をもらうためだともなる、別な場所に移るとその権利がなくなるからそうなる
そういう不安定な状態にある

今までなら飯館村にかかわる必要もなかった、ただ花を見て帰るとかで終わりである
でも原発事故以後はそういかなくなったのである
飯館村は地理的に南相馬市と一体だったのである
一見は離れているようでも水は飯館村から流れて来るから繋がっていて一体なのである
それで飯館村の森が除染されないからそこから放射性物質が南相馬市にも流れてくるのである、また真野ダムの水でも飲料水に利用しているとなると相馬市も関係しているとなる
ともかくその人は本当に江戸時代の感覚の人だった、原発事故以後は自分の村だけで閉鎖して暮らしていけないことを身をもって知ったのにそうだった
飯館村の人は回りの市町村に世話になっている、それで小高の人が鹿島区の仮設住宅に移ったとき文句を言う人がいた、補償金をもらって高速無料とか医療費無料は十年つづいてさらにまた引き伸ばされたのである
鹿島区は同じ南相馬市でも半年で医療費無料は打ち切られたのである
この差も大きかった

ただ南相馬市民となれば南相馬市全体を問題にして議員でも運動する
だから鹿島区の議員でも仮設の小高の人を応援したのである、一票をもっているからだ
それで市町村レベルだと狭い範囲だ一票の重みが違ってくる
でも現代は広域化社会になっている、さらにグロ−バル化社会になっているから広くかかわらざるをえないのである
そして飯館村は飯館村民だけのものではない、こういう事故になったときみんなよそ者かかわらざるをえなくなったのである
だからもう他に家を建てて移り住んだ人たちは権利がなくなったのかともみる
いつまでも帰らないとか住まないとなると権利も消失する

いづれにしろ飯館村の村議会選挙によそ者はかかわるな口出しするなということ江戸時代の人かと思った
そんな江戸時代の村意識で復興などできるのか?
そもそもよそ者が百人とか住んでいるとか広範囲にかかわらざるをえなくなったのが
原発事故だったのである

とにかくこの辺で原発事故で明らかになったのは何か狭い地域エゴとか自分だけの利権を得るとかが露骨だったのである
漁業者は自分の前の海も自分のものだとして補償金をもらおうとしていた
船主は海は自分たちのものだとして漁業権を東電に売り多額の補償金を事故前も後ももらっていたのである
そもそもここは俺の物だと主張する、そんなこと主張できるのか
飯館村は俺の物だ、村人のものだとか言えるのか?
そんなこと江戸時代なら言えたかもしれない、今これだけ人が交わり物を運んでいる時代にそんなことを言えない
別に飯館村を自転車で回っていてもうろうろするなとか言えないだろう
ただ村の政治に口出しするなとは言えるかもしれない、それでも今や不可分に土地でもつながっているのだからそんなことどこでも言えないのである

今や飯館村のものは飯館村の人達のものとはならない、、そこにいつまで空家にしておくのか?そこに住まないのならいづれ権利を失う、誰でもいいよそ者でもいい住む人があればその人に権利が生まれるとまでなる
別荘のようにして時々来る人は住民なのだろうか?
そういう人はその土地に責任ももたなくなる、なぜなら住んでいないから回りで何かあっても関心がなくなるからだ、住んでいればそこに住む以上関心をもつ、なぜなら無関心だったら今回のように住めなくなることがあるからだ
つまり原発事故でわかったことは人間は住んでいるだけで責任を負わされていたのである
だから一番被害があった大熊とか双葉とか浪江とかではその責任をとらされた、住めなくなったからである、住んでいること自体に責任が課せられていたのである
でも別荘のように時々来るとかなるとどうなるのか?何か住んでいないから関心が薄れることはありうる

もう今や日本は日本人のものだとかすら言えなくなる
例えば人口が減って日本を維持できなるなとき移民が入って国を維持するようなこになれそうなる、別に国を維持するのは日本人でなければならないいうこともないからである
飯館村とか他の避難区域でも住民は流出したのだから他から来た人が住んで町村を維持する、地元の人だけで維持できないからそれを止めることもできないのである
つまり故郷に住む権利を失ってもしょうがないとなる
空家だらけにして誰も住まないようりはいいとなるからだ

ただ前時代的人間はいた、そういう人はかえって飯館村では生きていけなくなるかもしれない、ただ津波の被害地でもよそ者が入ってきて同じような問題が起きた
でもよそ者を受け入れざるを得なくなったのである、住む人がいなくなんたからである
うろうろしているという人も必要なのである、別に泥棒するわけでもないし運動していたり自然を鑑賞したりしているからである
マウテンバイクを走らせるルートを作った場所もある
飯館村では人をよそ者を入れる必要があるのだ
なぜ南相馬市から来てうろうろするなとか言えるのか?
そこの土地はお前だけのものではない、みんなのものなのである
漁業者でも漁業権を盾に東電から多額の補償金をもらっていた
それも結局自分たちの海だとしていたからである、実際はその自治体のものであった
みんなのものだったのである、ただ漁業権は魚を取り過ぎないために与えられていたのである
たから原発によって魚も食べられなくなったのだから原発に反対するのが筋だったのである

とにかくこの辺で起きていることは何か様々な問題を露骨にしている
飯館村は南相馬市と合併しなくて良かったとしているがそれも補償金を村でもらい分配することがなかったからである
飯館村は特に補償金を他より多くもらったからである
でも今になると本当は飯館村は一見離れているようでも南相馬市と一体であり川でも通じているから放射性物質も流れて来る
それで南相馬市と一体の地域としてあり合併しても不自然ではなかったのである
歴史的にも鎌倉時代の鹿島区の岩松氏の領地ともなっていた
その後相馬氏が支配したのである、歴史的にも地理的にも一体だったのである
だから南相馬市と関係ないとかは言えない

ただ別に他の人は五人山とか塩の道の宿だったという人が説明してくれた
飯館村の人が全部こんな人ではない、そういう人もいたというので驚いたのである
何も普通にこういうことが争点になっているとか話ししてもいいからである
なぜなら南相馬市は無関心ではいらないからである
一票にはならないにしてもそれだけで判断するのは地域エゴだとなる

今は広域社会でありあらゆることか広い範囲で関係しあっている
江戸時代のようにはならないのである、そのマイナス面としてコロナウィルスとかで苦しむことになった、でももうとても江戸時代には戻れないのである
何か人間の社会が時代を逆戻りできないのである
コロナウィルスで閉鎖的になるにしろやはり別なように閉鎖的になる
同じように閉鎖的にはならないのである、テレワークなどでもそうである
家にいながらつながるということもあり江戸時代のようにはならないのである

それで今気をつけなければならないことは一個人でも報道する道具をインタ−ネットで
もった、確かに私は新聞記者でもない、一個人だからなんの権力ももっていない
でもプログとかで報告できる、それを読む人もいる
すると少しでも何か影響する、こういうことは今までなかった
リアルタイムで報告する、だから一個人でも権力がないとして軽くみられない時代にもなる、だから一個人でも馬鹿にして対処するとそれが飯館村全体にも影響する
それを注意すべきである、ただその人はそういう現代の情報社会のことを知らない
でも今やネットの時代でありスマホをもっているし何か多少でも影響するので注意すべきである
S議員でもそういう運動員がいることはマイナスとして働く、そんな人が議員の運動員なのかとなるからだ、するとS議員の印象も悪くなることもありうるからだ
こんな人が飯館村にいたのかというとき村の印象まで悪くなることもありうる
これは私憤から言っているのではない、公憤ともなっているのである

posted by 天華 at 21:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2021年09月20日

廃屋から感じる淋しさ (原発避難区域の復興はない)


廃屋から感じる淋しさ

(原発避難区域の復興はない)


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飯館村の養蚕していた家



廃屋だらけの村とか街とかを普通は経験できない、そこは遠くから来るなら別に感じることはない、通り過ぎてゆくだけだからである、ただ面白いとかなるだけである
それで廃墟の村を訪れて紹介する
でもこれが近くだと違ってくる、廃屋には何か荒寥としたものを感じる
それが数軒とかなていれば感じない、どこでも今は空家がいたるところにあるからだ
でもまだ人がそれなりに住んでいるから感じない
ただそれでも廃屋には何か一段と淋しいものを感じる
その理由は何かわからない、やはり人が住んでいたということで人が住まなくなったとき一段と淋しいものを感じる
それで庭でも石でも人が住んでいないと一段と淋しいものを感じる
その庭の石は人間化した石とばなっていたからである

津浪で家が流されて庭だけが残された所がある、そこにはいろいろな石がある
平板な大きな石があるとするとそれがやはり人間にも見えて庭に離れない離れたくないともなる、何かそこに住んでいた人間の気持ちが石にうつる
もともと石は一定の場所に動かない、定着するものである
そこに人間が住んでいると石も人間化する、だからもともと人が住んでいない所にある
自然の石と人間が住んで感じる石は違っている

何か飯館村とかでも廃屋だらけだからそこは荒寥としたものになる
もともと飯館村などは一軒一軒家が林の中に隠れてあった、そして前の広い庭に畑があったりし花が映えていた、だから淋しい村だったのである、隠された村だったのである
でもそこが廃屋の村となったとき隠された村とも違う、一段と淋しいものとなる
確かに瀟洒な小さな新しい家を建てている、それは廃屋ではない
でも人が住んでいなかったのである、最初人が住んでいると錯覚していた
そこはただ別荘のように時々住んでいた人が帰ってくるという
やはり人が住んでいないのである

そもそも家に感じたことは人が住んでこそ家である、人が住んで家が活きている
人が住んでいなかったいくら立派な家でも大きな幽霊屋敷になるだけである
家は死んでしまうのである、何かの抜け殻のようになる
それは村とか街でも人が住まなくなればゴーストタウンになる
そんなことを近くで経験するとは思わなかった、そういうことを実感することはなかなか普通はできないだろう
人が住まないと住むのでは相当に差がある、あばら屋でも人が住んでいれば活きているのである

もともと人が住んでいない場所で原始の森とかになっていればそう感じないのである
一旦人が住むと人間化するから人がいなくなると淋しく感じるのである
原発避難区域になった場所は全体的にそうである、住んでいるのは老人だけであり
余計に淋しく感じるのである、子供がいないということはやがて老人もさらに年をとり介護になったりしたら子どもに引き取られるとかになる
外部から来て住んでいる人も若い人ではない、その人たちもすぐに年をとる、すると病院もないし施設とか介護とかで働く人もいないから住めなくなる
そういう未来しか見えてこないのである
そのために小高とか浪江でも便利な原町に移り住んだとなる
そして故郷には帰らないとなる

ただ正直全国で空家が800万軒にもなるというのは恐怖である
いたるところに空家が増えて放置されると全体にも影響する
空家はいつまでもそのつまにしておくと問題になる、高度成長期とかなるとそういう家には何かしら利用していた、ただ家が50万くらいで持てるという時代にもなる
そのままに空家にしているより誰でもいいから住んでくれとなるからだ
空家とか廃屋があると印象が悪くなるからである

とにかく原発避難区域になった所は何か回復がむずかしいように見える
もともと過疎化していたとかもあり原発事故で最悪になってしまったのである
いつまでも廃屋としてあってもそれが印象を悪くする
何か幽霊が本当に住んでいる感じになる、そういう所にはあまり行きたくないとなる
でも建物だけ立派にしても人が住まないとやはり復興したとはならない
いくら金をつぎ込んでも建物を立派にしても復興しないのである
だから戦後の引揚者が飯館村なども木戸木(こどき)とか辺鄙な場所に開墾に入り住んだそいいう時代はかえって山に活気があった
一万人以上も飯館村でも住んでいた時代があったから山では農林関係とか石材とかで仕事があった、貧しくても仕事があり一応それだけの人が住める村だったのである
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戦後に引揚者が開墾に入った人達が多く一万人以上になった、その後は減りつづけた
ただ6000千人くらいが適正人口だったのか、戦後は引揚者で増えた




戦後引揚者が開墾に入り一万人にもなった、その後は低下するだけだった
また牧畜で牛を飼うことで仕事をもったのでなんとか人口を維持してきた
牛の村として維持できていた経過がある
それも放射線量被害で急激に減ったのである
意外と菊池製作所は残っていてまた川俣の方に働く人もいた、農林業だけではないものは残り生活できているともなる、社会がもともとそういうふうに変わっていたからである
写真の家は二階が兜作りの養蚕をした家である
そういう家は今でも全国で多いのである、また絹織物の機織りの紡績工場が全国に多かった、それがアメリカなどへの輸出品となっていたのである
そういう時代の遺産として今でもいたるところに兜作りの養蚕した家が残っているのである
不思議なのは戦後でもアメリカに生糸などを輸出して日本の経済が成り立っていたのである、だからアメリカと戦争したら生糸でも売れなくなる日本の経済が成り立たなくなっていた、だから経済的な面でもアメリカとの戦争は無謀だったのである
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2021年05月22日

木の根っこ(飯館村の春の詩―私の思い)


木の根っこ(飯館村の春の詩―私の思い)

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木は大地に根を張る
徐々に深く深く根を張る
そして長い時間で成長する
ここに飢饉の碑がある
江戸時代の宝暦と記されている
寒冷の高原の地で民は苦しむ
でもここに根を張った木は動かない
その時代から代々人はここに生き続ける
そして我々の生は受け継がれる
その土地土地に歴史がある
歴史は先祖の苦労を偲ぶこと
その土地の根となること
それがこの地に生きること
苦しくも悲しくもまた喜びをともにする
それが断たれ失われ時
その根っこも失われる
その土地に死者も生き続ける
その土地から離れず生き続ける
その土地に根付き働き苦労して
その土地を作ったものだから
苦しくも峠を越えて私はまたここにやってきた
木は春になり芽吹く
風がそよぎ春の光りその根にさしている
私はその露わなる根を見る
土地に根付くその根を見る
そしてここに生きる人を思う
その場に人は生きた
その深い思いがここに残っている
でも人が住まなければそれもない
それが悔しく残念である
故にこうさせたものを憎む
憤りをもつ、怒りとなる


六字名号の碑の側に根も露わな木がある、今回はその根に感じた
何かそれが飯館村を象徴していた、飢饉もあり人々は苦しんだ
でもそれでも人々は代々ここに生き続けていたのである
村がなくなるということはなかった
人口が減っても村自体がなくなるとういことはなかった
そんなこと想像もできなかった
その村自体に人が住まなくなり荒廃した

確かに新しいこじんまりした家は建っている、でもそれは別荘だとういのも変なのである別荘とそこで暮らすのは違っている、別荘という時東京の金持ちが東京近辺に建てるものである、飯館村は別荘は似合わない、だから違和感がある
要するに原発事故で飯館村でも他でも放射線被害の大きい避難区域は根が失われたのではないか?
ただ帰ってきて何か農業でも始める人もいるし外から来た人が新しいことをはじめはている
でも肝心の村人で帰った人は少ないし60過ぎの人が多いだろう
もともと農業は60以上の人がしていた、そして近くの畑でも遂に死んだ人もいるし体がつづかなくなり畑をやめたとかある
そして耕作放棄地になった、原発事故以後はそういう土地が多いのである
それはここだけではない全国的にそうなのである

人間が生きるということはやはり生きる場が必要である
その場が故郷であり代々生きることが継続される
それが断たれることは歴史を失うことであり深刻になる
ただ歴史が失われるとしてもそれを感じない人もいる
金をもらえばいいとかなる人もいる
もともとここで暮らすのは苦しいから嫌だから住みたくないという人もいた
ただそこに生きることにかけがえのないものを感じていた人もいる
そういうことをまた原発事故以後痛切に感じた人もいる

それで山尾三省が東京に住んでどれほど田舎で暮らすことに価値を見出したか
まるで田舎の殉教者みたくなっていたのである
あんなふうに第一田舎の人でもならない、なぜならみんな車をもっているし一人一台でももっているからである、車がないと田舎では暮らせないからである
それは極端にしても何かそれほどまで一つの自分の生きる場を郷(くに)を求めた人はいない
それで原発事故以後共鳴したのである、あからさまに原発事故に反対してそのアンチテーゼとして自ら実践したのである
おそらく田舎に住む人より田舎の価値を農業の価値を生きたかったのである
それでその喜びが詩ともなったのである

私はただ別に農業をするわけでもない、飯館村に行ったのは他国をたずねるような気分でしかなかった、そこに暮らす人の苦労も知らない、ただ花を見て帰っただけだともなる
でもそこに峠を越えて常に行っていたから思い入れが生まれたのである
飯館村は相馬藩内だからやはり土地でもつながっていた
なぜなら新田川の上流が飯館の中心部の草野から流れていたからである
真野川は大倉村から流れているからである
土地としてもつながっている、それで放射性物質をつめこんだ袋が破れて流れたとき
それは南相馬市にも流れて来る、もちろん真野ダムに放射性物質がたまり流れだして来るだから飯館村だけが汚染されるということでもなかったのである

posted by 天華 at 21:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2021年03月29日

飯館村の国の詩 (飯館村の復興)


飯館村の国の詩 (飯館村の復興)

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高原のさわやかな大気
生業にいそしむ者よ
拓かれし田畑の実り
里の味、凍み大根

厳かに樹々の列
樅の樹は直ぐに立つ
荘重なる森の深しも
神殿のごとし

塩の道松川浦より
山中に入り運ばれぬ
その道のり遠しも
馬とともに働く昔

助の観音に我は休みぬ
椿の咲きて一時安らぐ
ここに助けと泊まるや
故にその名のあり

塩の道去年(こぞ)の落葉にうもれ
山中に一すじ通じぬ
沢沿いの道馬と来て危し
その細道伝い来ぬ

新たに樅の木の若木の育つ
ここに直ぐにして育つべし
蝶々の喜びに乱れ舞い
寒き山中に春は来ぬ

耐えてこそ喜びの日は来る
林に石は寄り添い春の日さしぬ
今ここに共にありしを喜ぶ
ここは我らの国なり

我らは貧しくともここに生き
ここに死して安らぐ
我らのかけがのない地なり
まことの国のここにあり

大石は牛のごとく動かず
ここに住みつき蕗の薹
樹々は芽吹き風にゆれる
この地に我らの国なり

我らはここに生き死ぬ
ここに生きて生は全うされる
他の地にあらざるべし
こここそ我らの命なり

外に出て国を失う者よ
そは心充たされじも
金のみにて人は充たされじも
心はここにありここにとどまる

栄華はなく貧しくも
神は美しく装いたもう
真の日と美のここにあれ
この国に生きてこの国に死す

草に埋もれてうなだれ咲く野の花
神はその村をかくしたまいぬ
その時ここに平和のありしも
森につつまれ村は隠されぬ

しかし今残れる空家を見れば悲しも
ここにかつての暮らし生業はあり
なほ枯芒に埋もれて人は住まず
春はここには来たらじ人は国を去る

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飯館村が浜通りとかの市や町とも違っている、そこが森に囲まれて広いということもあるただ日本では国(くに)というとき山に囲まれた地域だった、そこ国のまほろばになる
海に面しているのとは違う、だから奈良が一つの国となり大和の起源になった

ヤマトタケルの望郷の歌

倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠(やまこも)れる 倭しうるはし

命の またけむ人は たたみこも 平群(へぐり)の山の 熊白檮(くまかし)が葉を 髻華(うず)に挿せ その子

会津嶺の国をさ遠み逢はなはば偲ひにせもと紐結ばさね

国(くに)というとき今の国家とは違う、自然と一体化したアイディンティティ化したのが国であり行政的な今の感覚の国とは違うのである
お国言葉の訛りとかがありまたその国は自然がありそこに帰りたいとなる

久慈川は幸くあり待て潮船にま楫しじ貫き我は帰り来む

久慈川がありそこが我が故郷であり帰りたいとなる
だから東京とか大都会になるとそこが故郷として国として意識できない
ただ何か国というときこうして日本では山に囲まれた場所が国として意識されたのであるそれで飯館村が山に囲まれていて森に囲まれていてそこが国にふさわしいとなる
とにかく飯館村の特徴は広いことなのである、だから6000人が住んでいたとしてもそこに街というものが草野にあってもそれも街とも言えない、広い地域に人家が分散して森につつまれて生活していた、だから貧しくても住いをみれば贅沢だと見ていたのである

命の またけむ人は たたみこも 平群(へぐり)の山の 熊白檮(くまかし)が葉を 髻華(うず)に挿せ その子

命のまたけむ人は・・・・またけむとは全うするとなる、国という全体の中に生きることに人間の価値があるともなる、人間は部分として職業でも生きても命を全うできないということなのだ、国があって命が全うできるとなる

熊白檮(くまかし)が葉を 髻華(うず)に挿せ その子

未来はその国の力は熊白檮(くまかし)が葉にあり森に囲まれた自然の中にあるとなる
それは原始的心性だったとなる
現代だと全くそういうことはない、その子は子供たちはたいがい都会に育ち自然と分離した中で生きているからだ、また田舎でも現実は自然を肌で知るより様々な都会的なものの中で生きているからだ、工業社会になると当然全体がそうなってゆく
だからこそ今は科学技術社会であり原発が未来だったのである

その飯館村でも戦後まもなく戦争の引揚者が開墾に入り住んだ、それで一万人以上も住んでいた時があったのだ、なぜそんなに人が住めたのか不思議だとなる
戦後引揚者は職がなくそういう場所でも住まざるをえなかったのである
まず木戸木などは飯館村でも辺鄙な場所でありあんな場所に良く住んだなと思う
田畑にする平の場所はわずかであり何で暮らしたのかとなる
おそらく林業とかあり炭焼きとかあり暮らしたともなる
炭焼きは木材が豊富だから山で暮らすことができたのである
だから山村が豊かではないにしろそこで生活する術がありえた
かえって平地より山の幸がありえてそれだけの人口を養っていたしそれは江戸時代でもそうなのである、飢饉の時山に逃れろというのも山には何かしら食料となるものがあったからそう言われていたのである

そして原発事故で人は住まなくなった、新しい家があっても人は住んでいないのである
その新しい家の前にばあちゃんがいた、春の日がさしていた、その人も福島市の方に住んでいて我が家に来てなつかしんでいる
でも実際は住んでいないのである
だから飯館村に原発事故以後何が起きているのか?それが良くわからないし不思議だとなる
要するにもともと住んでいた人は住んでいないのである、第一村長自体が住んでいない
わずかの生徒は村外から通っていて飯館村には住んでいないのである
そうなると飯館村の住人といえるのかともなる
村が空洞化したのである、でも建物だけは立派なのである、ただそれを活かす人間が住んでいないとなる、果たして別荘のようにして新しい家があるけどそこは人は住んでいないのである、するとそこは何になるのだろうとなる

軽井沢のような別荘なら金持ちが住む場所であり理解できる、でも飯館村がそんな金持ちとなりただ別荘として利用する、そんな村でありえるのかという疑問である
現実に飯館村では住民がいなくなったから外から人を移住させようとしている
それで今度の村長自体はここて育ったとしても離れて暮らしてきた人である
そのことが飯館村を象徴している、郵便配達していた年配の人も外から来た人だった
外部から入ってきた人が多い、百人くらい入ってきているという
ただその人たちも年配の人が多いからそういう人が村を維持させることができるのかともなる

ただ不思議なのはこうなると外部から入りやすい、もともとの人のしがらみもなく、その広い土地を自由に活かしてくださいとなるからだ
北海道のような開拓地のようにもなる、もともと住んでいた人たちはいなくなったのである
すると外部から入ってきた人たちが自由な発想新たな村作りをするともなる
村を担うものが外部の人達だともなってしまう
それは原発の避難区域になったところではそういうことが起きている
外部の力を頼むとなる、でも小高辺りではなじめなく若い人も去ったという
そこに取り残されたのは老人だけだともなる


ともかくあれだけ広い土地をどう活かすのかとなる、するとソーラーパネルとか今度は風力発電とかに空き地を利用するようになる、一部はなっている
すると昔の山村という感じでもなくなる、そこに生業はなくなっているからだ
見直されたことは人はその土地に住んでこそ生きる意義が見出される
住んでこそその土地の国の住人になる、住まなければよそ者のままである
だから飯館村のような場所だと住むことが前より価値があることになる
普通はこんなこと考えない、住むなど当たり前だとなりそこに特別の価値は生まれない
でも今の状態だと住むことが価値あることになる
もともとの住民がいなくなりそこに外部からの人たちが入り一から新しい村作りをするとなる、北海道の開拓者のようにもなる
だから外部の人たちの希望の地ともなる、それが北海道だったからである
新しい国作りが行われその創始者ともなる、そもそも国とかあってもそれは誰のものなのだろうとなる
その国に確かに死者も関係している、先祖も関係している、先祖の努力が苦労あって作られものだからである
だから何かこうして人間存在の根源的なものとして問われるようになったの不思議なである
ただ正直飯館村がどうなるのかとをなっているのか理解しにくいのである

震災後、村職員は村外出身者の採用が増え、その数は半数近くに上る。住民も「もう半分くらい知らな
い人だ」という。震災前、役場に行けば皆顔見知りで、何か行政区の困りごとを相談すると、各課の職員がわらわらと集まって話を聞いてくれていたという

「地域があるから人があるの?」「県があるから地域があるの?」「国があるから県があるの?」違う。逆でしょうって。人がいるから地域が生まれ、地域の仕事がたくさんあるから村になり町になり、そして県や国が成り立っているということなんじゃないの。過疎地だって、結局潰れないのは人がいてふるさとを支えているからでしょう?」

危機に立つ住民主体の村づくり
飯舘村における「復興」計画と「村民の復興」の乖離

こういう状況であり本当に人があって地域があり国があるともなる
人が住まなければ地域も国もないのである、だから住むことが第一になる
住まなければその土地が放射性物質の廃棄場になってもソーラーパネル工場のようになっても関心がくなる、人が住んでいれば嫌だとして反対する人がでてくる
例えば占有権というのがある、誰も住んでいない土地に住んだ人がその土地の所有者ともなる、つまりその土地に住んでいなければ権利を失うということである
だからもう外部の人がその土地の所有者になる、別荘として家もっていても権利がなくなるともなる、土地と家を持っていても住んでないなことが致命的になるからだ

だからこの指摘は鋭い、いくら立派な建物を作っても肝心のそれを利用する人が住んでいないからだ
そんな立派な建物がなくても人が集まる場所はありえる
だから住む人がいて村も成り立つけど住まないとしたらその人は村の住民にもならない
でも飯館村は放射線量が未だに高いのだから住めないとなる
だから農業とか林業ですら放射性物質に汚染されてむずかしいとなる
ただ確かなことは人が住まなければ復興はない、そしたら肝心の人が流出したのだから
復興はできないとなる、そうした矛盾と困難があり外部頼みとなったともなる
外から来る人にとってはかえって自分たち村作りの構想を作り自分たちの村を作るということでいいとなる、ただそれでも外部から来る人も年配の人が多いから村を継続できるのかという問題もある
とにかくあの広大な地域をどう活用するのかがその先が見えないのである

posted by 天華 at 12:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2021年03月25日

蕗の薹、春風、紅梅(飯館村の春の塩の道を行く)


蕗の薹、春風、紅梅(飯館村の春の塩の道を行く)

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助の観音

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塩の道
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春が来ない廃屋 車が埋もれている

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あいの沢の水芭蕉

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栃窪の耕作放棄地








春日さし塩の道行く飯館へ

椿咲き助の観音に休むかな

春風の頂上に吹き峠越ゆ

春風の山のかなたより吹きて行く

春の日に斜面を上る山の雉

入り乱れ蝶の飛びかう山の道

山の道いぬふぐりにそ蕗の薹

木の根にも春の日さすや飯館村

大石やここに住みつき蕗の薹

春日さし寄りそう石の五つ六つ

飯館に石重なりて芽吹きかな

春は来ぬ廃屋一つ冬芒

紅梅の匂いて夕べ走り去る

紅梅の匂いの良しや夕べかな

山里や紅梅匂う夕べかな

美しく空地を充たすレンゲかな


紋様の違ふ三羽の蝶山路にそ交わり飛ぶや我は来にけり

塩の道殿様道も春の日や去年の落葉にうもれけるかな

飯館に飢饉のありぬ供養塔去年(こぞ)の落葉を踏みて見るかな

根づく木の根も露わにそ供養塔ここにありしも春の日さしぬ

春の日や家の前にそ媼いて我と語りぬ飯館の道

我が家の前にそあわれ媼いて村なつかしむ春の日さして


栃窪から塩の道をたどり飯館村まで行った、さらに高く登ってゆくと北から春の風が吹いてくる、普通浜通りでは春は東風(こち)で海から吹いてくる、山では北から吹いてくるこの道は久しぶりで通った、何か山頂の方に春風吹いて気持良かった
ただこの道は途中で大きく崖崩れがあって通れない、自転車でも通るのに難儀した

途中助の観音で休んだ
相馬市から塩を運んでここで泊まったということもあった
一日馬で来てこの辺で日が暮れたとなる
今来た道は新しい道であり塩の道は沢沿いを来て森の中に通じている
途中に馬繋ぎ木とかありいかにも馬がつながれて休んだ場所がしのばれる
ただそこを行くことは荒廃して難儀でありずっと行っていない
でも何か道が細く危険な場所である
だから牛転がしとか馬転がしとかの地名がつく、道が細く下を見ると谷間になっていて怖いのである

地名めぐり・町名めぐり
https://history.riok.net/chapter04_section04.html

助の観音で休んだ、そこに椿が咲いていた、そして塩の道がここから通じている、森の中に入る、そこに道が二つに分かれていた
殿様道というのがあったのだ、それは平民と殿様が通る道に分かれていたのだ
なぜそうしたのか?平民と殿様が合うとまずいということで二つの道を作ったのである
これも江戸時代の厳しい身分制の歴史を示している
その道は去年(こぞ)の落葉に埋もれていた、この塩の道をたどるのは今でも危険であり難儀である

そこからもまだ山の道はつづきようやく飯館村に出た
道の駅の後ろでばあちゃんがここは風が強いと言っていた、新しい家に住んでいる
でも家が少ないからまともに風を受ける、また標高が高いから風を受けやすいということである、ただ別に平地でも北風が吹くから風は受ける、ただ北風がここではまともに受けて寒いしここでしか感じられないものが気候には必ずある
飯館村は冬は寒いのである、それで宝暦の飢饉は悲惨なものになったのである
この寒い所で米をとることはかなりむずかしい地域だったからである

その後ろの道は塩の道だった、前に書いたが塩の道の宿だったという蔵ある家があった
その人は前の土地をもっていてその土地に新しい住宅が建てられたから金が入ったとされる、だから新しい家を建てた、ただそのばあちゃんは私は財産などなかったからたいして補償金もらえなかったとか言っていた
この補償金の差がまた大きいのである、だから必ず不満な人がででくる

その塩の道を行く隣に新しい家の前でばあちゃんが休んでいた
それで話しかけたら私は福島市に住んでいてここに時々来ている
ここは私の家です、でも住んではいないんです
今飯館村で誤解しやすいのは新しい家があるから人が住んでいるように見えるのである
てっきり住んでいると自分も思ったからだ
そのばあちゃんは車を持っていたが返納したという、そういう人が本当に多いのである

第一飯館村のような広い場所では車はもう必需品である
今はスーパーすらないのだから隣の川俣村に買い物に行くにもバスがでているとしても車がないと不便であり生活もできなくなる
そのばあちゃんは85にしては若く見えた、肌が若い、一方もう一人のばあちゃんは65なのにふけて見えた、85なのかとも見えた
何か年齢で60以降は計れない、若い人は若いし老ける人はふける
その差が大きいのである、
20才も差があるのに20歳上の人が若く見えたのである

飯館村では森の中に石がありその石を見る、いろいろな形があり石がよりそい春の日がさしてそれが人間に見えるのである
そこに住んでいる村人に見える
何ひか暇な老人が何人か集まる場がある、そのように人に見えるのである

ただ問題は何か飯館村でも建物は立派になっても人が住んでいないことが最大の問題なのである
いくら立派な建物を建てても活かすそこに住んでいる人間だからである
確かに外から来た人がかなりいる、大倉の方に郵便を配達ひてきた人は外部から移り住んだ人だった
でもまた移り住む人も老人が多い、となると未来の村を担う人がいなくなり将来どうなるのだろうとみる
時々新しい家があり昔をなつかしんで帰ってくるという光景も不思議なのである

そして飯館村で考えることは人は住むこと自体に大きな価値があるということである
こんなこと普通は意識しない、でも人が住まない町とか村になると住むこと自体が相当な価値あることになる
今まではそんなことを感じなかった、むしろこのような不便な村を出たいということがあった、そのために補償金をもらい若い世代は福島市などに流出した
逆にそうなったとき村に残り住む人はここで生きること住むこと自体新たな大きな価値を生むことになった
人間は住まない限りその村のその土地の一員となることはできない
時々なつかしんで住んでいた村に家に来てもその村の一員にはなれない、生活は別な街でしているからである

それで

大石のここに動かず蕗の薹

こんなふうになる、動かないここに住んで動かないということでその石も活きているとなるからだ、そしてここにも芽吹きがあり蕗の薹がでてくる
そして山菜料理をここで食べている時ここに住む価値がある
だから心とはココのことでありその生きている場所と一体化することなのである
だからこの辺ではありえないことが起きていろいなことを見直すことになったのである

なんとかまた飯館村の大倉にでて栃窪に出た、この時バッテリがきれていたから苦しくなった、でもバッテリー無しでもなんとか走れるから自転車はいいのである
バイクとかでも燃料がなくなれば走れないからである
ただこの電動自転車は楽に走れるので遠くまで行けるのである

栃窪村では紅梅が匂い夕べになっていた、その耕作放棄地にレンゲが咲いていた
自然は空虚になった場所をうめる、美てもって覆う、このレンゲが美なのである
それが自然の作用なのである、美があるから救われるのである
それで津波で八沢浦が入江になったときほど驚いたことはない
確かにそこでとがめられた、でも美しい入江になった、津浪でも闇黒をもたらしたが一部では美をもたらした、海岸地帯は湿地化して釧路湿原のようにもなったからである



posted by 天華 at 10:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2021年03月12日

冬の日の飯館村(ホームページから抜粋) ー飯館村のかつての風景


冬の日の飯館村(ホームページから抜粋)

ー飯館村のかつての風景

iidatefuyukeshiki.jpg

iidatefuyu2.jpg

前に書いていたホームページを見ていたらこれを発見した
こさも忘れていた、何しろ膨大な量を出しているから忘れる
それで今その整理をしているけどいくら整理しても整理しきれないのである
「時事問題の深層」とかに書いたのも今になると一つの資料として貴重なものかもしれない、その時何があったかを知るからである
なぜなら自分で書いたものでも忘れているからである
それで前に書いたものを参考にすることが結構あるからだ
インタ−ネットだとリンクできることが便利なのである

今こういう風景が飯館村から喪失した、田畑は草ぼうぼうであり放射性廃棄物の処理場のようになってしまい荒れ果てている
その風景は生業(なりわい)とともに作られていたのだ
その生業もないし奇妙なのはこじんまりとしたしゃたれた別荘が家があったところに建てられている、そこに時々帰って畑などで野菜を作っているというのも不思議である
それは今までの風景とは余りに違ったものである
ただ飯館村の人たちは補償金が多くもらったから福島市などに新しい家を建てている
だから家が二つあることにもなるから確かに別荘であり金持ちになったのかともみる

いづれにしろここに私が残した飯館村の風景は失われた
なんでもない平凡なものだがそこに何か貴重なものがあったことをふりかえる
今の風景からもうそういうものをイメージもでなくなっているからだ
そして生業を失うことは村が死んだことなのである
ソーラーパネル工場となり風力発電所となり田畑は失われ人々は補償金で村が二分されてばらばらになった
それは別に飯館村の人たちの責任ではない、飯館村は原発の恩恵を受けていなかったからだ
原発によって村はずたずたにされたのである
ここに原発事故のむごさが一番現れたからである

そして生業を失うことは長年培われた江戸時代からの景観でも失われたともなる
そこに生業がなくなればやはり死んだものとなる
「作見の井戸」の行事も失われた、それは井戸の水を見て豊作か不作かを占うものだったそれももう田んぼがないのだから無用化して失われた
祭りも失われたのである、神社は誰も参らず捨てられている
こうしして相馬藩内だった飯館村が失われたことは大損失にもなった
飯館村は一見地理的に相馬市とか南相馬市と離れているようで結びついている
なぜなら新田川の源流が飯館村内にあり真野ダムでも大倉にありそこから放射性物資が流れてくるからである
飯館村の佐須では泥が20マイクロシーベルトあったことに驚いた
その泥が真野ダムの方に流れてくるから怖いのである
現実に放射性物質をつめたフレコンバックの土が破れてもれて流れ出したからである
飯館村は依然として放射線量が高いのである

ともかく飯館村の何が貴重だったのか?それも失われるとわからなくなる
なぜならそういう景観が失われたからである
ただ私は何度も行っているから今残された写真を見てこんな風景があったなとなんでもない風景を見てそこにかつての飯館村の面影を偲ぶともなる



posted by 天華 at 10:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2021年03月06日

震災から10年―復興できない避難区域 (住民を帰還させることは無理?)


震災から10年―復興できない避難区域

(住民を帰還させることは無理?)

vilaiidate1.jpg


飯館村は建物は立派でも人は住んでいない
(人が住まない村では復興はない・・・・)
http://musubu.sblo.jp/article/187349335.html


どうみても双葉とか浪江町とか大熊とか富岡とか飯館村とか原発事故の避難区域は復興できないとみる
なぜなら高齢者が多かったが10年過ぎてさらに高齢化進んだことである
双葉町の牛を飼っていた人は67才とかであり夫も事故後に死んでいたのである
生き残っていた牛はその飼い主を覚えていた
でも家は取り壊すほかなくなっていた、10年間洗濯物が干されていたのも不思議だとなる
飯館村では長泥でも避難区域で未だに解除されていない地区である
そこへの思いがあってももう帰ることは不可能だとみた
もう一つの原因が高齢化なのである
60過ぎたら農業するのは苦しくなる、農業は結構な重労働にもなる
それで70才になるの女性は畑をやっていたがやめた
腰が悪く病院通いが仕事なのである

もともとこうして地方の田舎は少子高齢化で後継ぐ人が減っていて維持することがむずかしくなっていたのだ、それに追い打ちをかけたのが津波とか原発事故だったのである
だから本当に津波で死んだ人の慰霊碑に刻まれた人でも高齢者が多いのである
それは漁業でも同じであり第一次産業の割合が一割とかに下がってきたのが日本の経済である
農業ではやっていけない、漁業ではやっていけない、林業もないとかなって地方の農山村は衰退して限界集落化するところが増えてくる
つまり跡継ぎもそういう場所では育たない、それが原発事故で極端な過疎化から無人化した町村になった
ただ老人は長年生きた場所に愛着があり帰りたいとなるが若い世代はそういうこともないのである
すると多額の補償金をもらって都会にでも出た方がいいとなる
実際にすでに家を建てて移った場所で仕事を持ち子供はその都会の学校に通っているともなる、だからその子供たちにとって飯館村でも故郷ではなくなる

でも飯館村とかなると愛着があるから福島市であれ外に家を建ててもなつかしいからと家は残している、その古い家があったところにこじんまりした家を建てている
それは新しいしゃれた家でありそれは別荘でありたまに畑の野菜をなどを見に来ると言っている
これも不思議なの光景である、軽井沢の金持ちになったのかともみる
別荘となればそうなる
ただ長泥は放射性物質に汚染された土を利用する工場を作っている
それでまた農業を再生させようと努力している

いづれにしろ10年過ぎて避難区域に帰ることはもう無理に見える
何か人のつながりも希薄化したとか人のつながりがなくなったという
その人のつながりは場所を共有して仕事をしていることでありえた
田舎だととくに農業している人は人のつながりは濃密なのである
だからその土地から離れて十年とかなり仕事を通じたつながりもなくなるとそうなる

それで外人の文化人類学者の人が墓地がつながりをもつ場所だと言っていた
何か不思議なのは津波の被害地域でも高台に墓地が残っているのである
でも人が住まなくなると他に移りすむとその墓も移動するのである
子供が移り住んだ場所に移動するからである
そうなるとその場所とのつながりも消失してゆく
でも飯館村だと別荘としてたまに昔をなつかしむ場所として行く
ただそんなことがこれからも成り立つのかとも思う
軽井沢のような地域ではないからだ

10年過ぎてむしろ元の状態の復興はかえって遠のいた、そしてもうあきらめる他ないとまでみる、政府では全地区避難解除してもどすというけどそれは今の現実をみたらその政策は合わない、ただそうしないと政府で補償金を払い続けることがありそうしようとしているのかともみる
でも現実的に元の状態にもどすことは無理だとみる
現実は他に家を建て子供たちはその土地の学校に通い十年もすぎたからである
この十年の時間の重みがありそれで元の状態の復興はもうできないとまでみる
それをしようとすると何かかえって徒労だともみる
金をつぎこんで立派な施設を作ってもそこに肝心の人が住まないし活きないのである

学者がふるさとは場所と人間があるが人間があって場所があるのであり人間がいなくなれば人のつながりも消える
歴史も場所と密接につながっているのだが人間が住まなくなるとその歴史も途絶える
神社とか古碑とかも埋もれてゆく、しばらくは廃墟として残るがいづれ草に森に埋もれてしまうのである
そして新しい歴史が移った場所ではじまる、そうして先祖は忘れられる

要するに時間は貴重なものであり十年一昔になる、それは昔のことだとなり関心もうすれてゆく、何か地元でも津波の被害を語っても関心がなくなる
ただ原発事故は依然として継続したものとしてあるがこれも忘れられてゆく
今の関心はコロナウィルスになり津浪とか原発事故でもそれは昔のことだとなってしまうそして今に生きることで精一杯になっているのが人間なのである

だから政府のいうように避難解除して元の町や村にもどすことは不可能だともみる
その政策自体が間違いである、となればどうするのか?
一つの解答が飯館村の別荘化だったともなる、そこで場所とのつながりを依然として一応持ち続けるとういことである
ただ将来的にそういうことがつづくのかはわからない、それがいいともならないがそれも一つの解答だとなる、ただ村でも人が住んで暮らしがあって村だとなる
それで風力発電を見えない場所にしろと隣の川俣町から言われた
川俣町は避難区域ではないから人が住んでいるから景観を気にしてそう言ったのである
人が住んでいると毎日そこから見えるものが気になるのである
人が住まなければ気にならなくなり放射性廃棄物の処理場になろうがソーラーパネル工場になっても抗議する人もいなくなるのである
むしろ土地を持っている人は金にしようとするから余計に景観のことなど考えなくなる
こうして人が住まないと荒廃してゆくのである

災害で村人が助け合った江戸時代の話に共鳴
(原発避難民は補償金で町も村も家族もばらばらに分断された)
http://musubu.sblo.jp/article/187785463.html


3月6日のTBS 報道特集を参考にしました

posted by 天華 at 20:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2020年10月23日

ナショナリズムとグローバリズムとは何なのか? (郷(くに)を基とした文化の形成が人間の基本―飯館村を破壊した原発事故)


ナショナリズムとグローバリズムとは何なのか?

(郷(くに)を基とした文化の形成が人間の基本―飯館村を破壊した原発事故)

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「ナショナリズム対グローバリズム(前半)」三橋貴明

これは確かにわかりやすい、何か自分の追求し来たことが右側のナショナリズムである
飯館村のことで郷(くに)のことを山尾三省の詩から追求した
つまり歴史的ときとういとき身近なものではそれぞれの家族があり親がいて祖父母がいて継続されたものとしてみる、そこが歴史の基本である
それで私の親が双葉の新山で丁稚奉公したということを書いてその土地と共感したのである
それは歴史的であり継続的なことなのである、その歴史というのも日本だと天皇があり二千年前からつづいていたとなりそこまでさかのぼる

つまりグロ−バリゼーションとはこの逆なのである、国々の歴史とか風土とか文化を無視する、グロ−バルに経済的単位としてしか見ないのである
そして歴史とか文化は金にならないというのもわかる
自分の追求したものは金にならないのである、金に換えられないものなのである
原発事故ではまさにそうして金に換えられないものを失ったのである
その土地の郷(くに)で生きてきた先祖代々の生活がありその郷での暮らしがあり文化があったが失われたのである
ただグロ−バリゼーションというときここで多額な補償金としてその損失を補償したのである、でも失ったものはもともと金に換えられないものであり金では取り戻せないものだったのである
だから意外とそこに住んでいる人もそのことを気付かないということがある
別にそれだけの補償金もらったきだから良かったのではないかとか他からも内部でもそう思う人もいる
つまり価値をなんでも金に換算すればそうなるのである

でも金に換算されないものがこの世界にはある!

それが原発事故で問われたのである、郷(くに)とは経済的一単位ではない、総合的なその土地と時間的継続と風土でもって結びついた有機体でありそれを分解したりできないものである、その一部のものを取り上げてそれを金銭に換算できるようなものではないのである

人間は経済的単位ではない!

でもグロ−バリゼーションは国でも地域でも一つの経済的単位利益とみる
国(くに)を形成しているバックグランドを見ないのである
その時金に換えられないものが奪われていることに気づく、それが原発事故で明らかになったのである
確かに補償金を得て他に都市にでもでて立派な家を建てることができた、だから良かったじゃないかとなる
でも何か他にそうして移り住んで精神的空虚感を覚える
野菜でも山菜でもその土地にあり自ら生産して食べる時、その土地に生きる充実感があるそれで飯館村特産のかぼちゃを生産して喜んでいる女性がいた
それはその土地の実りだからである、だから買ってばかり生活していると不安になるというのもわかる、金で買えてもいつか金はなくなるからである
でも野菜でも米でも継続的にその土地でとれれば安心だとなるのである

つまり東京とかはすべて経済的単位の人工的空間と化している
そこに文化がない、その土地を耕す、cultivateするcultureがないのである
あるのは人工化された経済化された精神のない世界である
だから墓でも団地の様な狭い空間に閉ざされて作られる
田舎だと墓地はたいがい自然の中にあり今なら秋の日がさして土地の人々が眠っている

グロ−バリゼーションとナショナリズムの対立は都会と田舎の地方の対立でもある
東京とかとなるとグロ−バリゼーションになる、つまり食料でも日本の地方より外国から輸入すればいい、日本の地方は効率的ではないとして切り離すべきだともなる
でも日本の国土と不可分に東京でもつながっている、だから原発事故は東京まで影響したのである
いづれにしろ大都会民と地方民田舎人とは分離する、心も通じなくなる
そしてやがて地下に大都会ができて地下人間と地上人間は心も通じなくなったりする
だから国内でも別にそうした分離が起きていたのである
なぜなら一千万もの大都会があるということ自体が国土を分断してしまったのである

だからコロナウィルスとかで東京が密集しているから危険だとかなり交通でも遮断されるとかなり人の交流でも物の輸送でも止められたのはそれは世界的変化としてナショナリズム的志向になる、グロ−バリゼーションでもある程度は許容されるし貿易も必要である
でもそれが過度になり世界的な歪みをもたらしたのである
それを是正するものとしてコロナウィルスが生まれたのかともみる
一つの時代の変化が起きたともみる

ヤマトタケルノミコトのお歌として伝えられる歌に

いのちの全けむ人はたたみこも平群(へぐり)の山のくまかしが葉を うずにさせ その子 

いのちの全けむ人はとはまさに郷(くに)に全体として不可分に結びついた郷(くに)に生きる人のことである、そしてくまかしの葉ををずにさせ・・・とはその森の豊かさを身に帯びる、または森の霊力を帯びるともなる
だからこういう感覚は自然人として生きた古代人とか原始人的な感覚なのである
人間と自然が一体化していたのである
これからの時代は経済的単位としての人間ではない、郷人(くにびと)として生きることにアイディンティティを見出して安定してし継続する生きる力を取り戻すことである
リストアーすることである、そういうときいかに原発事故がそういう郷(くに)を破壊したことは大罪だったのである、放射性物質で森の木々まで汚染されたし森全体も汚染された、それは30年でセシウムは半減するとしても消えないからだ
その罪は余りにも重すぎたのである






posted by 天華 at 20:31| Comment(1) | TrackBack(0) | 飯館村

山尾三省が追及した郷(くに)とは 山尾三省が追及した郷(くに)とは (原発事後で奪われた郷(くに)と生業-飯館村から考える)


山尾三省が追及した郷(くに)とは

(原発事後で奪われた郷(くに)と生業-飯館村から考える)



びろう葉帽子の下で

郷(くに)ということばと
郷人(くにびと)ということばを つぶやく
奄美の郷(くに)
奄美の郷人(くにびと)
沖縄の郷(くに)
アイヌの郷人ということばを
心をこめて つぶやく
原子力発電所のない、郷(くに)
核兵器のない郷
その郷人のなりわい
・・・・・・・・

びろう葉帽子の下で
国ではなく
郷(くに)を思う
畑の草を刈りながら
畑の土を掘りながら
日本の郷とつぶやいてみる
わたくしの郷とつぶやいてみる
そうつぶやくと

(山尾三省)



山尾三省の不思議は必ず原子力発電とかチェルノブエリのことに反対している
そのアンチテーゼというか、それに反発するものとしてこうして郷(くに)のことを詩にしている
そもそもこの人は東京生まれだけど田舎の生活に憧れていた、その憧れも普通ではない
何か渇望するように憧れていた、それは東京砂漠というようにそこに自分が生きるアイディンティティを見いだせなかったからである
それで極貧でも囲炉裏で炭を使い生活していた
そういう人はまれだが若い人ででてきている、でも依然として変わり者である
飯館村にもいたようである

現実はそういう田舎に住んでいてもみんなそんな暮らしをしたくないとなっている
しかたないから暮らしているとなる、でも東京とかではそういう田舎の暮らしを渇望している人がまれにだがいる
つまり東京には郷(くに)がないからだ
ただこの国(くに)というときどれくらいの範囲なのかわかりにくい、日本に小国(おぐに)という地名が多い、そこは何か山の中の平な土地であり小盆地なのである
そこは山に閉ざされてある、そういう地形が日本には多いから小国が多いのである
そこは一つの国として意識されたともなる

でも実際くにというとき

 会津嶺の 国をさ遠み 逢はなはば 偲ひにせもと 紐結ばさね

この国は相当に広いのである、ただ万葉時代にすでにこれだけ広い土地が国として意識されていたのである、それだけ会津が古い土地だということがこの歌で示している
国を意識する時そこは土地だけではない、そこに愛する妻がいるとか親がいるとか友がいるとかでも郷(くに)となる、そういう人と離れたくないということがある
また故郷というとき実は故あるというとき親とか祖父母とか先祖と深く関係した場所なのである
私の父親は双葉の新山の酒屋で丁稚奉公していた、それで何かそこに行ってみたら廃墟の街になっていた、その酒屋のあった近くの道を歩いた時不思議だった
父もここを歩いていたのかと感慨深かかった、何か出会い橋とかあり父と会うようにも思えたのである、ここで父が働いていたんだなと思った
何かそういうふうに人との死んだ人でもつながりを感じる場所が故郷なのである

山尾三省は東京で暮らしていたからそういうものがないからあれだけ渇望して極貧でもその郷の人として屋久島で62才くらいで死んだのである、妻も死んだ、それはその生活が楽ではなかったからだとなる、第一今ではそこまで田舎を求める人はいない
ただかえって東京とかに住んでいればその渇望が強くなってそうなったのである

人間はやはり生物であり生物本能がある、人間は植物でもある、だから一つの土地に木が根付きそこに定着する、そして木のように深くその土地に根を張りその土地と一体化するそれが生命として自然なのである、そのために根を張る土地をもたねばならない
それが山尾三省が言った郷(くに)なのである
ただこのクニというとき何か山間の小国という場所がふさわしいのである
海側だとそういうものを感じないのである、海は遠くを意識する、だから海と山とで意識するものが相当に違ってくる、山は墓所になった、死者を葬ったということは山はまさに死者が眠る場所にふさわしいからである
そして山には先祖がいて春になると田植えの時期になると里に降りて来るという信仰にもなったのが日本である
つまりクニというとき先祖も関係しているのである、だから日本国となると歴史的に天皇が二千年なのか代々国を受け継いできたとなる
先祖のさらに大先祖となりそれが国の歴史となる
何か自分の家族は全部死んだけどやはり死者は私の心の中にその土地に生き続けているという感覚になるのである

飯館村は何か地形からしてクニにふさわしい場所である、それは私は自転車で行っていたから高いし遠いのである、今回行ったら体中がいたくなった、だんだん年になり行くのが苦しくなった、でもそうして苦労してあの坂を上り行くことが記憶に刻まれる
この地形というのは地図を見ても車で行ってもわからない、坂は峠は歩いてでも自転車でも上ってみると体感できるのである
だから不思議なのは車がない時代の生活なのである、どうしてその坂を歩いて上って生活していたのかとなる、そうなると峠を越えた向こうは相当に遠くなる
近くても別世界になるのである、でも不思議なのは今ならグロ−バル化経済であり世界から食料でもなんでも入ってくる、昔だったら外国から入ってくるものがない
食糧など全く入ってこない、戦後でもバナナは仙台にしかなかった、それで私の父親が病気になったとき仙台からバナナを買ってきたのである
今からすると本当に食料は貧弱だったことは確かである
飯館村で魚を食べるにしても海側でないから簡単には食べられない、江戸時代だったら塩の道があった、それも助け小屋とかありそこで泊まるとかして塩を運んだ、その時魚も運んだかもしれない、そしてその塩の道は沢伝いの細い道であり馬で運んだのだが下を見ると落ちそうであり怖い場所である、それだけ馬で運ぶにしても難儀したのである

いづれにしろ原発事故の無惨さは飯館村に一番現れた、そこはもともと原発と関係していなかったからである、恩恵もなかったからである、ただそこでも原発で働いていた人がいたのである、なぜなら原発だと普通の給料の三倍くらいもらうからそうなっていたのである、飯館村は福島県でも最低の収入しかなかったからだ
だから全く関係しないということはなかった、原発の恩恵はそれだけ大きいものだったのである、ただ皮肉なことに原発事故以後飯館村では補償が手厚かったから億の金をもらった人が普通にいるだろう、そしてその金をもらって外に出て行ってしまったとなる
そして新しいこじんまりとした家がどこにでも建っている、それが別荘だというのも不思議である、人は住んでいないのである、別荘として利用している
それから50億円をかけて学校やその他の施設を作り建物は立派だけで生徒は五人とかなっているし村には住んでいないのである
そこでもう村が成り立つのかという疑問である

ともかくその村で失ったものは何なのか?それは山尾三省があれほど渇望した郷(くに)を失ったということである、そこで常に原発のことを核兵器のことを批判していたのである、ただ現実問題として別に飯館村とか田舎に住んでいる人は人で山尾三省のように田舎をいいものとして生活していない、だからこそ豊かな暮らしをしたいとして原発を積極的に誘致したのである
またこの辺では山尾三省のように原発に反対したら住めなくなっていたのである
もうみんな原発で金になるとなると目の色を変えていたからである
だから反対運動は起こらなかったのである
つまり田舎でも山尾三省は変人だったのである、何か貧乏生活してテレビにでも出て見世物にして金をもらうのかというふうにも見られる  

それが現代の生活からみればそうなっていたのである
バンが贅沢だとなればそうなる、ただ別に自分の子供時代は炭で生活していた
今からすると山尾三省の生活をみんなしていたし飯館村とかは森が多いから炭にする材料が多いから炭を売って金持ちになった人もいたし大倉では材木を売って金持ちになり相馬の女学校に行った人もいたのである、そこからは通いないから親戚の家から通っていたという、相馬の女学校というときここに行っているというだけで相当な金持ちだったのである、私の母親は尋常高等小学校くらいだからである
その時代では学校は知識をえる唯一の場所だから貴重だったのである
なぜなら子供の時、家には一冊の本も置いていなかったからである
そうなる学校以外で知識を吸収する場所がなかったからだ 

いづれにしろクニをうしなうことはその存在基盤、生き死にの場を失うことである
それは普通なら意識されない、むしろそんな場所に生きることの不満が多かったのであるでも前からそういうクニを渇望して求めてそこで死んだという人がいたということであるもしこれだけの意識をもっていたら原発など誘致しなかったのである
ただ飯館村は遠いから関係ないと思っていたのである
自分の住んでいる所でも30キロ離れていたから遠いと思っていたのである
それが福島県全体に関係するとはみんな思っていなかったのである
だから真剣に対処しなかった、また政府でも東電でも安全神話を作りその危険性を隠していたのである

だからその生き死にの場所であるクニを放射性物質で汚染したということ住めなくさせたことの罪は大きい、ただ東京ではそういうことを意識しないのである
そもそも東京にはクニがないからである、それで経営者が言っていた
一か所に家をもって定住することは金ももうける機会を失うからしてはいけない
チャンスの場所は変わるから一か所に家をもち定住することは良くないという
それが東京人の感覚だとなる、そこでは経済が最優先でありクニとかは関係ない場所なのである、経済のことしか頭にないからである

それで飯館村とかのことなど田舎は経済的に無駄だとかなるのである
その感覚の差が大きすぎるのである、要するに大都会人と田舎人は人間そのものが違ったものだともなる、同じ人間ではないともなる、東京人は異星人だともなる
彼らの頭には経済のことしかない、それがすべてであり山尾三省が追求したことなどただ変人の戯言となってしまうのである
そうは言ってもまた田舎でも実際は大都会人と同じ意識にもなる
みんないい家が欲しい車が欲しい、うまいものが食べたい、その欲は都会人と同じで限りないのである、田舎でも山尾三省は変人なになっているのである
だからこそ原発が積極的に誘致された経緯があったのであ

この辺の問題は今や何か原発に反対するにしてもそれが常に補償金がからんでくる
補償金をもっとよこせとなるだけである、もともとでは山尾三省のような生活を望んでいなかった、だからこの際補償金をもらうだけもらって他に住めばいいともなる
それが正当化される、だから山尾三省がその時代に原発に反対してそういう生活を渇望して実際に実践していたということは評価できるのである
ここでは原発事故後意識したとしてもその前は意識していない、もっと贅沢な暮らしをしたいとして原発を積極的に誘致したからである、それが違っていたのである
ただ飯館村自体はほとんど原発とは関係していなかったのである



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2020年10月22日

残る虫(飯館村考- 場所の魅力)


残る虫(飯館村考-   場所の魅力)

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 残る虫の声

 幽かに残る虫が鳴きあっている
 山の静けさにその声がひびく
 その声に山は聞き入る
 小さきもの、幽かなもの
 そこでここで大きな声となる
 木の葉一枚が散り落ちぬ
 山の大いなる静けさがつつむ
 虫の声はそこにひびきつづける
 山は黙してその声聞いている
 山に陽は没り一村は暮れぬ


 飯館村というとき山と森の村である、飯館村はもともと相馬藩になる前から岩松氏が鎌倉時代に支配していたときから一体化していた
その後に相馬氏が支配したのである、だからそういう古い時代から地理的一体感があったなぜなら新田川の源流が草野を流れている
大倉は真野川の上流であり真野ダムがある、だから地理的につながっているのだ
それで飯館村が南相馬市が実は地理的に一体なのである
それで放射性物質のフレコンバックが破れて流れ出したというときそれは飯館村だけの問題ではなかった、南相馬市にもその放射性物質は川を通じても流れてくるのである
だから飯館村は飯館村で合併しなかったが地理的に一体化した地域だったのである
地理と歴史が一体化した地域である

相馬藩というとき新地が伊達藩内として境界というときあそこから牡鹿半島と金華山が明確に見える、すると宮城県を意識するのである
確かに原町片倉のフラワーランドから金華山と牡鹿半島が見えたが小さいのである
新地からはかなり大きく見えるから意識するのである

地形的な魅力としては飯館村と丸森にある、丸森は阿武隈川も流れているし蔵王も大きく見えるから魅力がある、川と森の国でもある
ただ平地が少ない、飯館村は森の国でも平地が結構ある、広い地域なのである
私はこのその土地の魅力という時、その地形の魅力、その土地の個性を形成するのはその土地の独特の雰囲気なのである
これは人間が作ったものではない、地形が作ったものである

だから相馬藩領域は一つの地理的一体感がある、ただ海側に住んでいると山というのを意識しにくい、でも山も身近なのである
そして田舎というとき人間が少ないということで存在感が大きくなる
特に飯館村とかなると広い地域に人が少ないから存在感が大きくなる
もちろん経済的には前から貧しかったからそこに住んでいる人はいいとはならなかった
飯館村は福島県でも最低クラスの収入しかなかった
ただ私はそういうことを見なかった、時々自転車で大倉から木戸木から草野に出るのがいつものコースとして行っていた
そして木戸木に出る峠で休んでいた、そこで秋の蝉の声を聴いていた
今回は残る虫の声を聴いていた

何か残る虫の音が合っていた、今まさに飯館村に残っている人は二割くらいなのか少ないそれも老人が多いという時、まさに残る虫になる
でもそうした虫の声でも山の静けさに森の静けさに大きな声となっているのだ
それが山の静けさに大きくひびいて余韻が残る
つまりその残る虫の存在感が大きいのである
こういうことは都会にはありえないのだ、どうしても場所の魅力がもてない
場所の魅力は自然が神が作りだしたともなるからだ
人工的空間では作れないからである
だから何度行ってもその場所の魅力を感じる、ただ場所の魅力はまだ発見されていない
すぐ近くにそういう魅力がある場所があったからだ

相馬藩地域だと海があり山があり実際は変化に富んでいる、ただ高い山がないことは欠けているのだ、それが残念なのである、遠くに蔵王が見える、でもその大きさを感じにくい街中に岩手山のような山がそびえているとその山を身近に見るから一体化するのである、アイディンティティ化されるのである

原発事故でもこの場所の魅力が失われたわけではない、ただそこに人が住まないとか暮らしがないとそこは何なのだろうとなる
虫の声でもそれは人間をイメージして聞いている、残る虫はまさに飯館村に残っている人だともなるからだ、だから暮らしがないと自然も活きてこないのである
ほんの一部は実りがあった、でも荒れ果てたままであった
すると何か荒涼としたものになる、飯館村の復興はどうあるべきなのか?
それはやはりその場所の魅力を活かすことだとなる

森に囲まれているからそこで精神が醸成される、森の中に分け入るとまるで神殿の柱のように樅の木があった、それはドイツの黒い森と同じである
それは丸森でも同じだった、森の国なのである
そこにふさわしいのは森に醸成される精神形成だともなる、別にその森は失われてはいない、ただ放射性物質に汚染はされているが森は存在しつづけている
放射性物質に関係ないものとして花の栽培などはつづけられる
他に何かあるのかというときそこは瞑想の森であり例えば昔なら宗教の修行の場所にもなる、そういう場所なのである

ただそこに働く場所がないと人は住めない、だから菊池製作所がありそこで人は働き住んでいる、工場だと放射性物質に汚染されなかったからである
そこに矛盾がある
飯館村には外から入ってきた人が多いみたいだ、郵便配達していた人は外から来た人である、普通郵便局に勤める人は地元の人になっている、でも外から入ってきている人が多いのである、それだけ人が流出したから外からの人を受け入れているとなる
もう外からの人が村を支えているともなっているのかもしれない
郵便配達している人が外からの人だというのもそうなのである

ともかく新しい家が建てられてそこに人は住んでいない、別荘だというのも不思議であるそんな村が成り立つのかともなる、5人の生徒のために50億円かけて校舎やその他の施設を作ったというときもそうである
そして村は補償金をもらい分断して人が消えたとなる、残っているのはわずかの人であり残る虫が鳴いているとなる
ただその場所の魅力は失われていないのである、それが救いなのである 

ヤマトタケルノミコトのお歌として伝えられる歌に

いのちの全けむ人はたたみこも平群の山のくまかしが葉を うずにさせ その子

いのちの全けむ人は・・・これは命はその場所とともにある、場所と一体化してある
現代文明人の命は無数に部品化されて全きことはない、そこにいかに経済的に繁栄しても命がないのである、全けむ人とはその場所と命が一体化した人のことである
そこに生きる意味がある、現代はその場所が失われたのである
また原発事故によってそういう命の場所を喪失させたともなる

posted by 天華 at 08:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2020年10月21日

残る虫、秋の暮(飯館村に行くー木戸木は戦後開墾された場所)


残る虫、秋の暮(飯館村に行くー木戸木は戦後開墾された場所)

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飯館村というと山菜で有名であり山菜料理が定番だった
その山菜がとれないことは一番悔しいとなる


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木戸木にそ半鐘残り秋の暮

十軒ほどここに暮らしや秋の暮

残る虫かすか鳴きあう山の中 

三四匹残れる虫の声を聴く

我が一人夜更けけ聴き残る虫

闇深く残る虫の音の余韻かな

闇深く残る虫の音の余韻かな

樹々の間に山の静かに秋日没る

街離れ大原あわれ山に月

明らかに輝き映えぬ山に月



大倉を郵便局員配達す坂を上るや秋のくれかな 

一枚の木の葉の散りぬ残る虫鳴く声ひびき山の暮れにき

人行かぬ山の道かな竜胆の四五輪咲きて木戸木の暮れぬ

人住まぬ家にしあらむ飯館にいつ帰らむや残る虫鳴く

この石の何を語らむキノコ石名付けてあわれ秋のくれかな

耳すまし残る虫の音我が聴きて帰り来ぬかな   


飯館へいつものコースで自転車で行った、夏は暑くて行けなかった、だから久しぶりだった、でも体がかなりいたんだ、なかなか行けなくなる
大倉で何か郵便局員が配達していた、その人は最近来た人らしい
なぜなら今新しく作られた郵便局の支店の前に店があったことを知らなかったからだ
店はやめても自動販売機があったようだがそれもなくなり遂にそこが郵便局の支局になった、何か不思議なのは郵便局はどんな辺鄙な所にもある

コンビニによりある、与那国島についたときも最初に見かけたのは郵便局だったのであるまたどんな辺鄙な所にも郵便局から委託された家がありそれが高収入となっていた
でもゆうちょと変わりもうそうした贅沢は維持できなくなってもいる
ゆうちょで不正があったりするのもそのためである、日本経済が落ち込んで銀行とかゆうちょは危機になっているからだ
でも大倉とかの辺鄙な所に郵便局があるというのは何か頼りになるのか?
郵便というものがそもそも減っている、インタ−ネットになりもう通信はハガキとか手紙とかが廃れる、それも時代である、でも一軒一軒郵便局員が回るということで安否を確認するとかしているのもわかる、辺鄙な山の中だとそういう役目もでてくる

大倉から飯館の草野に出るのは苦労である、ここで疲れる
大倉から木戸木に出る、ここに十軒くらいの部落があった、ここにあまり注目しなかったそれより新しくできた道路があったところに神秘的な流れがありそこは森に覆われていたそこに踏み入る人はほとんどなかった、まさに秘境だった
しかしその秘境は失われた、それは原発事故前からあった、七曲の坂が不便なのでそこを道にしたのである、ただ自分としては残念だった

木戸木は戦後開墾に入った人たちが住んだ、それは共栄橋とかあるのでもわかる
それにしても平地が少なく確かに田畑があっても土地が狭すぎるのである
そういう場所でどうして生活していたのか?それは戦後引揚者が開墾に入った場所はそういう場所であり半分が撤退したのもわかる、とても生活できないということである
おそらく林業とかで成り立っていたのだろう
半鐘が残っているがあれも必要だったのだろうかともみる、十軒くらいしかないのに火事を知らせるのか?でも半鐘はいたるところにあった
自分の家の近くの神社にもあった、その半鐘に上ったことがあるからだ
だから狭い範囲でも火事に注意したとはなる 

木戸木の山の道を分け入ると竜胆が四五輪咲いていた、なかなか自生する竜胆は見かけない、飯館村だと見かけるとなる
それから飯館の方に向かった、何か七曲の坂でも去年の台風で通行止めになったのが多い今も工事がつづいている、あの被害は実際は本当に大きなものだった
道でもずたずたにされたのである

私はいつも峠の道で秋なら秋の蝉の声を聴いていた、そして飯館村も秋だなと感じていた昨日は虫の声を聴いた、それももう残る虫となっていた、山の静けさにただその残る虫の音がひびいていた
何か残る虫というのが飯館村にふさわしかった、そこに残り住んでいる人をイメージするからである

飯館村では一部稲が実っていた、それはほんの一部である、でも大きな倉庫を建てていたそれは米を貯蔵するものだという、飯館村でそんなに米が作れるのか?
それが疑問だったが米を作れるようにしていることは確かである
でも飯館村の問題は森に囲まれているから周囲から流れる水でも泥でも放射性物質をふくんでいる、その放射性物質は減らないのである
それが一番のやっかいな問題なのである、花の栽培とかは影響しない
ともかく飯館村の特徴は森に覆われた村である、70パーセントが森だからである
ただその森は活かすという時、詩的にみれば森の癒しとか荘厳な森の国をイメージする
ドイツの黒い樅の木の森とかである
それで飯館村とか丸森は森の国として貴重である、浜通りは海があり山は低いが森があり二つの世界があることで魅力あるとなる

いづれにしろ木戸木でもそうだが一つの部落が失われるとか村自体が失われるとかは何なのだろうとなる、それは双葉町でもそこは廃墟の町であり何なのだろうとなる
そこでは私の父親が酒屋の丁稚として働いていたので特に感じたのである
戦後開墾に入った人たちが築いた村が結構多い、山村に多い
それも一つの歴史だったのである、そうした歴史が失われるということは何なのかとなる人間は親がいて祖父母がいて家族も作られる、歴史はその延長としてさらに長いものとして作られて来た、だからそういう歴史が失われることは何なのだろうとなる
何か人間の存在の重い意味が失われることではないか?
それは日ごろ自覚できない、こんな不便な所に生活したくないとかばかりになる
でもそこに住み生活を築いた親がいて祖父母がいて先祖がいたとなる
その歴史が省みられなくなるとき、先祖もそこで一度死に二度死ぬことになる
誰もいない村を幽霊として行き場もなくさまようとなる

橲原(じさばら)は通行止めであり大原の方から回って帰ってきた
大原には月がでていた、山に月が出るというのも海側では見ない、最近はずっと海から月がでていた、あれ山から月が出るのかと不思議だった
それは明るく輝いていた、大原というと原町の街から相当遠いのである
海で感じるのと山で感じるのは相当違うのである、この辺は両方があるから変化がある
ただ自転車では疲れるようになった、体中痛いのである
でもなんとか行けたので良かった









posted by 天華 at 14:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2020年08月18日

溜池除染に効果があるのか? (飯館村は利権の場になり除染でも業者が暗躍-かつての面影は消失)


溜池除染に効果があるのか?

(飯館村は利権の場になり除染でも業者が暗躍-かつての面影は消失)

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政経東北8月号

ため池の底の除染をするのであれば、水を抜き、表面0-2cmの剥ぎ取りで、90%以上の除去が可能と思われますが、水抜きの際に水とともに表面の汚染土が流れ出る可能性も高く、また山の汚染落ち葉や土壌の流入により、再汚染が起こると考えられます。
山の除染も含めて、広く考えて対処する必要があると思います。

そもそも溜池はこのように森が放射性物質が流れて来る、除染したとしてもやはり森から流れて来る、するとその汚染源の森全体を除染しなければならなくなる
すると切りなく除染をつづけなければならなくなる
それはまるでシーシュポスの岩の神話のように岩を持ち上げてはまた転がされてまた持ち上げるそれが終らない罰とされたと同じである
放射性物質はいくら取り去るにもそうして無限の罰であり徒労のようになる
第一プルトニウムは二万年とか半減するのにかかると言われるからだ
これだけの罰をこの辺では受けたのである
何かギリシャ神話の再現された場所になった、それは飯館村に一番現れたのである
飯館村はもともと原発の恩恵は受けていなかったが被害が一番大きかったからである

そしてそこが利権の場になったことである
補償金も多額でありまたそこに事故処理するために除染でも他にもバイオマス発電とかでもそうである、そこに郡山の会社がかかわりその人が市議会議員であった
バイオマスでも飯館村の木材を燃やすと放射性物質が煙となって拡散される
事故当時に木の皮の放射線量を計ったら3マイクロシーベルトあったから高いのである
それが南相馬市にも影響してくる、第一放射性物質が例えば新田川の上流は飯館村の中から流れて来る、
すると前に放射性物質のフレコンバッグが破れて流れ出たときそれは新田川でも真野川ても泥に交じり流れてくるのである
だから飯館村は南相馬市と一体化して結びついているのである
それで勝手に飯館村で起きることが南相馬市でも被害となる
また田村市にもバイオマス発電所が作られたのでそれて三春とか福島県内でも全国で団体が反対している
どうしても煙となり空気中に拡散して遠くまでも放射性物質が運ばれるからである

飯館村にはかつての平和な日々は消失した、その平和は実はその暮らしが隠されていたことにあったのだ、その時平和があったのである
おそらく生活的には飯館村は苦しい、でも別に私が行ったからとそういう声を聴いたわけでもない、ただ隠されていてただ花だけが映え森につつまれていたのである
私は別に飯館村の人と付き合いもないし知らなかったからである
ただそういう時が飯館村は隠されて平和な村としてあった
もちろんその時不満があるのはどこでも同じである
でもその声を聴くこともなく小鳥のなく声を聴いて帰ってきたのが自分だったのである

今や本当に飯館村はもうこうして補償金で二分されたり事故処理の利権の場となった
とにかく原発の利権は他と違って膨大だからその利権にあずかろうとする人たちが生れる欲がでてくる、欲が刺激されるのである
それで土木建築関係の会社が暴利を得たとかある
それは犯罪であり警察に逮捕されたとかもある
そうして常にそういうふうに補償金でも金をもらうことしか頭になくなる
復興とは補償金をもらうことであり何か汗して復興事業することでもないのである
そうしして補償金で荒廃したのがこの辺だったのである
特に飯館村は10年過ぎようとしてもそういうことが継続されている
それは被害が一番大きかったからである
菅野村長は年でもあり引退した、病気でもあり相当に疲れたとういこともある
浪江町長も死んでしまった、結局原発事故に翻弄されて終わったともなる

ともかく原発事故は汚染水の処理でも溜池の除染でもその処理作用がとてつもない負担なのである、南相馬市の鹿島区の四方が10メートルなのか狭い溜池を除染するのに3月までかかる、半年以上もかかるとういことが信じられないとなる
それだけの手間暇がまた金もかかるのが除染の仕事でありそれもどれだけ効果あるのかもわからないのである
それはただ無駄金を使っているのかとまでなる
それが仕事となり請け負った会社の利権がまた大きいので政経東北で批判しているとなる                
原発事故というのはこれだけもう除染でもお手あげになるくらいの負担なのである
除染しても除染しても放射性物質は消えない、それは岩を持ち上げても持ち上げてもまた岩が落ちてくる、そうした作業が延々とつづく罰を与えられたのだ
それくらい原発というのは神に反逆したものとして罰を与えられたのである
だからこの辺は本当にギリシャ神話の再現の場であり後世にそれも何千年後にも語られる場所になった、その見本として人類史に刻まれたのである

飯館村とか浪江町とかはほとんど復興していない、帰ったのは一割とかにみたない、
飯館村はそれより多いとしてもほとんど老人である
ただ奇妙なのは老人には放射性物質はほとんど影響しない、それでキノコを食べているという老人がいた、どうせまもなく死ぬとなれば放射線量のことなど気にしないからであるただ致命的なのは子供に放射線は影響が強くでるとか遺伝子に影響するとかが深刻だったのである、なぜならそうなると世代が継続できない、そこで村自体がもう継続できなくなる、町でもできなくなるからだ
コロナウィルスだったら老人が死んで若い世代に影響がないとするとそれで市町村でも継続できないということはない、だからそれほど騒ぐものなのかとなる
今少子化で子供自体が減っている時コロナウィルスでも子供に影響したらもう国すら持続できないとなり深刻なものになっていた

いづれにしろ飯館村は一番残念だった、もう前のような平和な村はない、かつての面影は消失した
こうして何か利権の場になり欲で動く人たちが遠くからも集まり内部では補償金でもめて二分するとかずたずたなのである
人間の欲が露骨に現れてその風景もフレコンバッグとか田畑も荒廃して草ぼうぼうであり神社でも捨てられて幽霊が徘徊している感じになる
猿の群れが人をおそれず歩き回りイノシシがそこらじゅう掘り起こしている
無惨な風景となってしまった、そして奇妙なのは別荘のような新しいこじんまりした家が建てられた、でもそこには人は住んでいないのである
後は古い家は幽霊屋敷のように残されたとなる
飯館村の復興は相当先になる、もう百年後とか二百年後でもみなければならない
その時飯館村に人が住んでいるかどうかわからない、ただ別な形で逆に復興しているということもありうる、それはもう老人にはわかならい、死んでしまうからである

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シーシュポスの岩




posted by 天華 at 23:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2020年07月11日

荘厳に蘇る春の森(詩) (飯館村の森の復興ー失われたその価値)

                                        
荘厳に蘇る春の森(詩)

(飯館村の森の復興ー失われたその価値)


荘厳なるいつかしの森に春の風がそよぎなる
一すじ清らかな流れのひびき
山の奥から蝶が喜々と舞い飛び来たりぬ
樅の木は神殿の柱のように堅固に立つ
そこに種は落ちて春の日がさしして若木が育つ
老木はここに歳月を重ね朽ちて土となる
森に循環する命の営みはつづく
しきりにさえづる鳥の声が森の奥処にひびきわたる
我々はここに力強く生きる
この木のように強く心は折れない
不壊のごとくに木は立ちここに深く根付く
我々は森とともにあり生きる
ここが我らの生きる場所なり
かけがえのない生き死にの場所なり
その命は森に還りまたよみがえる
春の日が再びこの森に回帰してくる
重々しく大石はここに座をしめ
かたえにキクザキイチゲが雪のように純白に咲く
この大石に神は座してとどまる
その石は厳粛にして口をつつしむ
そこは聖なる地なればなり
時にこぶしの花が天に向き咲き散ってくる
まるで天国の花園から散ってきたように
再び人は還ってくるだろう
いつの日か森は村は再び蘇える
その日は遠くも神は見捨てはしないだろう
荘厳な森は人の心をも作る
我が生も終わりとなりただそれを願うほかなし
そして再びここに生きることを望むなりしも
先祖となりてここを見守る者となりにけらしも


聖なる森の国

清らかに細い流れ
その深き山間より流れ
その岸辺に春の日はさしぬ
キクザキイチゲやカタクリの花
紋鮮やかに山の蝶の舞い来たり
樹々はもの寂びたギリシャの神殿の
列柱のように立つ
樅の木はゴシック聖堂の柱のように
重厚に風雪を帯びて立つ
かつて森につつまれし道
人の踏み入らぬ道
そこに隠された大石
そは聖なる石にもあれ
深く沈黙して不動なり
夏の日に深い木陰に
揚羽はその羽根を休みて 
花を探して花の夢を見る
その村は高原の森に隠されてあり 
森厳な森に囲まれて
春の日のさして新しく木は生えたちぬ
木はすくすくと真すぐに伸びて風にゆれ
流れは心地よくひびきぬ
この地に幸いのあれ
しかしその幸いの日は失われぬ
ただ樹々はなお厳粛に立っている
縄文時代よりの深い森の村
そこはカムイコタンにありしも

飯館村に育つ若木

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こころはここのこと

ここに生きたから
ここにこころがある
ここに生きたから
ここにこころがある
ここにあなたと生きたから
ここに心がある
ここを離れてこころはない
こころはここに結ばれる
ここに心と心は通いあふ
いつか人はここからいなくなる
でもその人のこころはここにある
いつまでもいつまでもここにある
ここがあるかぎりその人はここに生きている
人の心はここがありて通じ合う
ここを離れて心はない
ここを離れると回りの景色も消える
ここは回りの景色とともにある場
部分として切り取られた場ではない
ここはいとおしい場所
いつかはみな人はここを離れる
そしてここがあるかぎりここを思い出す
それが故郷かもしれない
そういう場をもつこと
ここに心は永遠に生きつづける
ここがあるかぎり・・・・・   

故郷は何かと原発事故以降問うてきた、相馬地域でも海から山と広い、そこでまだ知られざる地域がある、それもすぐ近くにあった
要するに本当に人間は灯台下暗しなのである、故郷に住んでいるから故郷を知っているとは限らないのである
かえって今の時代外国に詳しい人がいる、でも肝心の日本を知らないともなっているのだ
飯館は70パーセントが森である、森につつまれている、ただ川とかはない、それがものたりない所でも小川のようなものはある
そして何回も言うように飯館村は広いのである、その広さが特徴なのである
例えば丸森も字の通り森の国でもそれほど広さを感じない、飯館村は平地でも結構広いのである、だからまだ未踏の地がある

そして特徴は森の国であり木の国だとなる、その木でも樅の木がふさわしいとなる
それがドイツの森の樅の木の森に似ている、寒い国だからにている
ただ樅の木の林というのはない、数本の樅の木があるだけである
でもやはりその樅の木がいかにもふさわしいとなる
それはあの荘重なゴシックの大聖堂なのである、樅の木はその石の柱なのである

ただ今回の放射性物質の汚染で森も汚染された、それで生育に影響したという報告もあるでも表だってはそういうことはない、種が落ちてまた新しい芽がでて成長していた
その時森は復興してゆくのだと見た
でも村は復興しない、第一人が住んでいないからだ
別荘として元あった家をこじんまりした新しい家にしても住んでいないからだ
50億円かけた学校でも福島市とかからスクールバスを用意して通わせている
そして5人しかないというからショックである、5人に50億の学校を建てたというのも驚きである、それだけ金あ与えられたからそうできた
でもそれで村が復興はしなかったのである
だから金だけで何でもできるということはなかった

むしろ金が補償金が人の心を分断して村も二つに分かれて争うことにもなった
それで村に住めという村長はやめた、病気でもあったからだ
これは水俣病闘争でも補償金で分断されてだめになったというのと同じである
もう補償金をもらうことは復興の闘争になった
村全体をどうしようなどなくなったのである、そして個々人でも家族でもばらばらになったのである、それは南相馬市でも同じことが起きたからである
遺産相続のようになり兄弟でも争うようになる、それは伊達市でも親族が補償金で争ったというからどこでも起きたのである

天の時、地の利、人の和が勝敗を決めるその人の和が乱れたとき戦いに敗れる
奈良の十津川村では全員心が一致して北海道に移住した
それは補償金を政府からもらってもそれは全員公平に村のために使ったからである
村人が争うことは何もなかったからである
人の和があり成し得たことである
そして放射性物質に汚染されたことも致命的だった
なぜなら森でも放射性物質は消えない、空気になっても循環するから消えない
セシウムが半減するのは30年後としているからだ、ただ放射線量は思ったより減ったことは確かである
だからもう飯館村の復興は30年後でありさらに50年後であり100年後にもなる
天の時をまつほかない、時間が解決するほかなくなっている
それほどの被害でありまるでギリシャ神話の火を盗んでプロメテウスのが過酷な罰を与えられているのとにている

そして人が住まないということはそれがどうなるのか?
そのままにはならない、土地を持っている人は金にしようとしてソーラーパネルにしたり風力発電の工場のようにしたり他にもすでに放射性廃棄物の処理場は作られている
森でもすでに外材にたより森を手入れするものがなくり荒廃したようになる
つまりなんらか人の手が入りそこが生活の場になっていた時に森も活きていたのである
人が住まないからといって元の自然にもどるわけではない、もし人が住んでいれば
ソーラーパネルでも風力発電でも嫌だ反対する人がでてくる
放射性物質の廃棄場でもそうである、でも人が住まないということはその場所と関係なくなるのである

そのことは南相馬市にも影響してくる、一時放射性物質のフレコンバックが破れてもれだした、そういう放射性物質は水とともに流れてくる
真野川にも流れて来る、新田川にも流れて来る、土地はつながっているからである
だから人が住まなくなることは元の自然にもどるわけではない、誰も関心がなくなり
外から来た企業にその土地でも何でも買われて勝手にされても誰も文句が言えなくなる土地をもっていた人は金になればどうなってもいいとなるからだ

つまり心のこころの詩のようになる、そこに心が離れてこころがなくなるのである
人間のアイディンティティはその土地と場所と一体化しているからだ
その場から離れると関心もなくなりその場の持っている意味も喪失する
場とはそれだけ重要な意味をもっていたのである
その土地とが場は生産としても重要だが精神的なものとして重要な意味をもっていた
それは意外とそこに住んでいる人も自覚されにくいものだったのである
だからこそ補償金をもらってみんな一挙に外にでてしまった
でも老人はその場で生きた記憶がありそれが精神に安定をもたらすしまた老人は最後は記憶に生きるからその場を失うことは生きた意味すら失うことなに
東京の高層ビルに住むようになってそれをひしひしと感じともなる

そうした場とは生き死にの場でありそういう場を失った時、人間はアイディンティティを失い漂流者となる、それが現代文明人なのである、都会はまさにそうした場をもたない人たちが過剰に密集して住んでいるからである
そこで自己同一化するものを持たないのである、高層ビルを見上げて人間はただの点となりおしつぶされるようになり死んだら団地のような狭い空間にやはり押し込められる
墓でも森の中とか見晴しのいい土地にあるのがいいとなるからだ
そこは墓参りするにも気持いい場所になるからだ、そこで先祖とのつながりを確認して
一体感を持つのである

場とは先祖とも関係して時間の中で意味をもつものなのである
それで御先祖様が春になると山からおりてくる、その時は田植えの時期であり営々とつづけられた生の営みの中に死んだ人も生き続けるともなる
何かそういうことは工業社会とか商業社会になるとなくなったのである
それで生態系も維持できなくなった、コロナウィルスがその生態系からの逆襲だったという見解もそうである、人間は経済成長一辺倒になりグロ−バル経済で貴重な自然を破壊してずかずかと神聖なる自然の神秘な奥地までも入って動物からウィルスが伝染したとなるからだ
その罰としてコロナウィルスによって復讐されているということも納得するのである

人間は誰も多様な「根元」を必要としている、人間にはその一部を形成している環境を通してその道徳的、知的、精神的生活のすべてを引き出す必要があるのだ

人間が必要とするのは土地の切れ端ではなく、「場所」なのである
それは人間としてのびのび発展し、自分自身になるための背景なのである
この意味で場所はお金で買うことはできない
それは長い時間をかけて人々の平凡な営みによって作らねばならない
彼らの愛情によってスケールや意味を与えられなければならない
そしてそれを保護されなければならない
「場の現象学」エドワードレルフ

この本だけは一番感心した本である、人間にとって場がどれほど価値があり意味があるものかを語る、それは日常的に意識されないのである
だから物とか食料のように意識されない、ただ精神的価値はもともと意識されない
金とならない、それが最も現しているのが景観なのである
景観自体は金にならないからだ、だから人間はそうした景観でもそこに住んでいる人でも価値ないとみて壊されてゆく
それでソーラーパネルになったり風力発電になったりする
今や飯館村は人が住んでいないのだから景観など関係ないとして土地を金にするために
土地を貸して売って金にした方がいいとなりそうなった
そもそもなぜそれまで飯館村が何か他と違うように見えていた感じたのだろうか?
それが不思議だった、それはそこ独自の場があったということである
村全体にあったことである、別に海側でもそういう場所はある
ただおそらくそうた盆地的な場所は日本の原風景だったのである、国のまほろばだったのである

人間は金になるものは意識する、でも金にならないものは意識しないのである
でもそこに精神的価値がありかけがえのないものがあった
それを原発事故で住めなくなって普通の人でも意識したとなる
そして飯館村がいいと見えたのは私は別に飯館村の人と誰ともつきあっていないし知らないのである
だから木戸木があってそこに十軒くらい開拓部落があったことも最近気づいたのである
そこに二三軒しかないと思ったが一部落を形成していたのである

森に隠された村

七曲の坂を上りようやくその村に入った
そこに人の気配もない
森の中にその暮らしは隠されていた
人がでてくるとき何か醜いものを感じる
それはどこでも同じである
人は見ないけど草深く花がうなだれ咲いていた
何か人に見られるのは恥じらうように・・・
人の顔は見ないが広い前の庭に畑に
様々な花が咲いて飾られていた
それを天から神が見ているだけのように
人の暮らしは隠されて平和な村があった
夏の蝶が森深くから舞い出てきてまた去る
そこに人の顔は見ない
ただ森の中に家はつつまれて静まっている
我が心に映るはその花々だけだった
そして私はまたその村を後にしたのである

こんなふうだった、神が人の暮らしをか隠したという時、そこに美だけが映えたともなるそれを証明したのが原発事故だったのである
人間の醜悪さが金をめぐって露骨になり村は二分されて争う
ソーラーパネルが覆い、次に森に風力発電の巨大風車がその景観を壊す
そして放射性廃棄物の処理場ができる
それは村人のしたことではないにしろ醜いものが露骨にむきだしになったからである
ただ人間は貧しいことに耐えられない、ただやむなく貧しくてかえってそのことが
森に隠される村がありえたのである

ともかくかつての隠された飯館村は消失した、村人は金の亡者とも化して二分して争う醜さが露骨になる、そうなると純粋な花すら映えないとなる
ただそもそもそこには人は住んでいない、住まなくなる
老人だけでありやがて消滅する村ともなる、そしてそこが元の森におおわれというのではなく、ソーラーパネルとか風力発電とか放射性廃棄物の処理場とかそんなものしか残されない、かつての村はない、人もいない、何か50億かけた立派な五人しかいない生徒のために建てた学校もむなしいとなる
つまり金だけでは復興できない、金で何でもできるとはならない
精神的価値を形成していたものが失われたのである
場が失われたのである、ただそれは金にならないから意識されなかったのである

ただなぜ人間はこれほど場とか景観を破壊して何も感じないのか?

それを東京とか都会にみる、そここそ全く場所でも景観でも破壊されたむきだしの醜悪さを示した場所だからである
そこまで人間は景観とか場所に無感覚なのである
そうして場所を失い空虚な場で腹は満たしても心は満たされず死んでゆくのである
その墓も団地の様な狭い一室に葬れるだけである
そんなところで死ぬほかないのである、だから死ぬにしてもそんな場所に葬られるのは嫌だとなる、田舎なら一応は墓所は景観のいい場所にあるからである

いづれにしろ飯館村は原発事故で象徴的な場所になった、何かギリシャ神話のような場所にすらなった、それほど悲劇な場所になったのである
そして原発事故の被害はプルトニウムが消えるのは二万年後というようにそのカルマが甚大なものだったのである
それほどの過酷な罰が与えられたとなるのだ、でも依然として日本に原発がありまた事故になり悲劇が繰り返されるかもしれない、それは結局東京をみればわかる
あのような非人間的、自然もない場所でロボットのように生きられるのを見ればわかる
そういねう人たちが非人間化した人たちが金にならないものはいらないと無造作に破壊してゆく、それはグロ−バル経済でも世界の森を破壊したりしたからである
その一つの象徴が飯館村だったともなる、他にもそうした村があり日本がから消失してゆくのである
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2020年07月10日

飯館村村長の菅野典夫氏が村長をやめる (立派な箱ものだけでは飯館村も復興はできない)


飯館村村長の菅野典夫氏が村長をやめる

(立派な箱ものだけでは飯館村も復興はできない)



福島県飯舘村 “子ども5人に57億円”の仰天施設に村民の怒り

女性自身  

2016年10月15日 06:00 


 村広報誌に毎年掲載されている一般会計の決算状況によると、2009(平成21)年度歳出は約44億円だったが、2017(平成29)年度歳出は約177億円で、約4倍に膨れ上がっている。2017年度の歳入は約202億円で、そのうち国庫支出金が約72億円、地方交付税が約52億円、県支出金が約16億円。もともと自主財源比率が3割程度の自治体だが、国・県の補助事業増加に伴い、その傾向が強まっている。

 さまざまな事業の中でも特に目立つのは、公共施設整備と教育・子育て環境の充実だ。
スクールバスは児童・生徒や家族への負担を考慮して移動時間30分程度に設定されているが、福島市から飯舘村までは約1時間かかる。しかも、こども園、小学校、中学校でそれぞれ帰宅時間が異なるため、集団下校させるわけにもいかず、帰りも複数の便を出さなければならない。そのため、多くの費用がかかる

【原発】【福島】菅野飯舘村長「帰還政策」の欺瞞 

生業再生後回しでハコモノ整備

月刊 政経東北
2019/08/26

菅野村長の悪行はこれだけではない。2013年1月、蕨平(わらびだいら)地区住民が、帰還困難区域である長泥地区と同じ財物賠償(土地・家屋などに対する賠償)を求めてADR(裁判外紛争解決手続き)に申立てを行った。蕨平は長泥地区に隣接、場所によっては長泥と変わらない高い線量が計測されており、ADRは訴えを認めた。居住制限区域にも帰還困難区域と同様の賠償を認める画期的な内容だった。

 だが、菅野村長はあろうことか、数土文夫・東電会長に対し、この和解案を受け入れないよう求める要求書を村民に隠れて提出していた。「東電がこの要求を受け入れた場合、住民が帰還しなくなる恐れがある」というのだ。

蕨平の人にあったが不満を言っていたのはこのことだったのか・


一般の人の年間被曝(ひばく)限度量は年間1千マイクロシーベルトを超えかね
ないと報じられる。同じ記事で公表された、他の自治体の線量を見ると、福島市10.50μSV、南会津町 0.09μSV、南相馬市 3.33μSV、いわき市 1.01μSV となっており、飯舘村 24.60μSVという数字が異常に高いことが見て取れる。村民が不安に思うのは自然なことである。

「地域があるから人があるの?」「県があるから地域があるの?」「国があるから県がある
の?」違う。逆でしょうって。人がいるから地域が生まれ、地域の仕事がたくさんあるから村になり町になり、そして県や国が成り立っているということなんじゃないの。過疎地だって、結局潰れないのは人がいてふるさとを支えているからでしょう?」

「地域があるから人があるの?」「県があるから地域があるの?」「国があるから県があるの?」違う。逆でしょうって。人がいるから地域が生まれ、地域の仕事がたくさんあるから村になり町になり、そして県や国が成り立っているということなんじゃないの。過疎地だって、結局潰れないのは人がいてふるさとを支えているからでしょう?」27    



菅野村長の飯館村の出身地は中心部の草野ではない、佐須だった、佐須とは焼畑の意味である、飯館村は相当に古い、何か縄文中期の遺物が出て来たとかあった
そこに山津見神社が有名だが綿津見神社も対になしてある
これは相馬地域の歴史で考察した、とにかくこの辺では綿津見神社と山津見神社が多いのである
それはなぜかとなると安曇氏などが最初に広い範囲で開墾した土地だからだとなる
だから佐須とか他にも焼畑地名があるとするとその焼畑の技術はそうした安曇氏とかの海洋民族が技術としてもたらした
その人たちは照葉樹林帯の文化の伝播者だったのである
だから飯館村は縄文時代は今でも山菜を食べていたように山の幸が豊富だった
また狩猟でもイノシシとか鹿をかなりいて食べていた、そういう場所に渡来人系の海洋民族の安曇氏などが入ってきた

私自身が飯館村にかかわったというとき大倉からあの七曲の坂を上って自転車でしょっちゅう行っていたことである、前は本当に七曲がりの道が大倉からありさらに木戸木にでるそこは戦後引揚者が開墾した新しい村である
10数軒の村である、その時私はその村があることに注目していなかった
それより今道に舗装されている所が森になっていて小川が森につつまれるように流れていた、そこは道もないような所であり神秘的な場所だったのである
私はそういう場所が好きだった、今でも近くにそういう場所がありそこに心安らぐのである、自然の中に様々な地形がありその場所は神秘的なのである

人間は意外と近くにそうした神秘的な場所があることに気づかないのである
最近でもそういう場所を私は発見したからである
木戸木は大倉の七曲の坂を越えてまた七曲の坂を越える閉ざされた地形にある
だからこそそこにはもともと人が住んでいないから戦争の引揚者が開墾するために入ってきた、でもそこはわずかの田畑があるだけでありそれだけでは生活できない
林業とかあり何か別の仕事がありそこで生活していた
つまり山には木材とか石材とか資源があり山持ちだとかえって裕福な人がいた
炭を売って生活するとなるとかえって豊かになっていたのである
木材という資源が豊かだったからである

でもそこも舗装されるまっすぐな道ができて神秘的な小川の流れる場所は喪失したのである、ただ飯館村の不思議は高原であり一段と高くなっているからそこは何か別世界に来た感覚になる、森に囲まもているし一軒一軒が森につつまれてあり贅沢だとなと見ていた
そこで大家族で住んでいたとなると確かに貧乏ではあったが空間的には贅沢である
東京の様なごちゃごちゃした場所に大金持ちで豪邸に住んでも環境が良くない場所が悪いのである、それでそうした豪邸でもうらやましいとはならないのである

飯館村は実際広いから地理的に今だにわからないのである
森におおわれた森につつまれた場所である、そこに太い樅の木がありそれが神殿の柱のように見えた、そして若木が生えて春に光を浴びて育とうとしていた
しかしそれを見たとき残念だったのはそこに住んでいるのは老人であり子供は住んでいない、依然として放射線量が高いからである
なぜ放射性物質が減らないかとなるといくら除染しても森に放射性物質は循環しているからである、だから森自体を除染できないからそうなっている
それで子供は50億とかかけた学校に遠くから通っている
他にも箱ものは立派でも肝心の子供とか若い人は住んでいないのである
村のスクールバスで通っている、それにも国から金をもらっているから金をかけている
金をかけていても金があっても金だけでは復興できないものがあった
箱ものは立派でありる、でも肝心の人間が住んでいないとしたらその立派な箱ものを活かせないのである
そういう矛盾は原発避難区域であった、

人がいるから地域が生まれ、地域の仕事がたくさんあるから村になり町になり、そして県や国が成り立っているということなんじゃないの

その肝心の人が住んでいないから村に立派な箱ものを建てても活きていないのである
むしろ貧しい建物でも例えばそこに学びたいという熱い心の人が集まれば活きてくる
その肝心の人がいないのである
ただ佐須で放射線量を計った時、泥が20マイクロシーベルトあったことに驚いた
そこがホットスポットでそうなったと思っていたが実は飯館村は最初の時期にそのくらいあった、全体的にそのくらいあったから驚きである
南相馬市でも二三日20マイクロシーベルとった
樋の下は近くで7マイクロシーベルトとあった、そして南相馬市より福島市の方が放射線量が高かったのである

菅野町長は何かそうして飯館村への帰還を徹底してすすめることで批判された
それで実際は心臓の病気であり交通事故も二回起こしていた
それだけ体に負担がかかっていた、その政策は村民から支持されたとはなっていなかったただ菅野村長派もいるからわからない、外部の人でもフリーのジャ―ナリストが応援している 
菅野村長を批判しているのは政経東北である
私自身も菅野町長は飯館村に住んでいない、孫も住んでいない、飯館村の外から通わせている、それなのに飯館村に住めというのは矛盾していとも思っていた
ただ正直この飯館村の人たちがどう対処するのかわからない面がある 

多額の補償金をもらって喜んでいた人も実際にいたし福島市とかに移り住んでかえって良かったという人もいることは確かなのである
それで新しいこじんまりとした家が古い家の代わりに建っていた
それはどこでも建っているから帰っているのかと見たのである
でもそれは別荘だというのである、確かに大家族で住むのには小さすぎるからだ
時々畑じ野菜つくりして見にきているとか言う
それも不思議なの感覚になる、別荘となればぜいたくだなとも見る
本家は別に福島市にとか建てたとなるからだ

でもそんな別荘地として飯館村がありえるのか?
軽井沢ならわかるがここでそんなことが成り立つのか?
ただ飯館村をどうするのかとなると本当にむずかしい、他の避難区域になったところでもそうである、第一住民自体がどうしたいのかわからない、熱意がない
何かあきらめている感じになる、それを外部からとやかく言うとまためんどうになる
ただ南相馬市では小高は一体なので私は嫌なことでも言った
それで反発された、でも南相馬市なのだから負担にもなるから復興してもらわないと困るから言った

おそらく菅野村長は国よりになり国の方針に従うということで反発されたのかもしれない国としては早く避難区域を解除して補償金を払いたくないからである
それでもう放射性物質の被害はないとしていたのである
ただ放射線量は飯館村ではもともと高かったから減らないのである
それでけモニタリングボスとでも低くなっているがそれは大成建設などがその下の土を掘って低くみせていたことで村民が抗議した
つまり政府では放射線の被害はないから村に住めという方針である
それは菅野町長の態度と一致するのである
私自身は外部であっても土地のつながりで相馬地域として一体だから人が住んでもらいたいのである

フレコンバックの山とか今度はソーラーパネルとか風力発電の風車の風景が嫌なのであるでも人が住まないと何か土地を活かすために金にするために必ずソーラーパネルとか風力発電の風車も景観を乱すから嫌なのである
それらが本当に自然エネルギ―なのかとなると違うということは述べてきた
風車の風は自然の風ではないから植物でも正常には育たなくなる
またソーラーパネルも純粋の自然エネルギーではない、そして税金をとるからかえって高くつくのである、ただこの世に純粋の自然エネルギーは人間には作りだせないとなる
山が荒れたの木材が外材に代わり利益を産まなくなったからである
それと同じように利益を産まないと現実問題としてソーラーパネルでも金になればいいとなるのである、そしてもう飯館村に住んでいないとしたら別に気にするも必要もないとなる、時々昔をなつかしみ別荘に帰ってくるだけの場所になる
軽井沢のようになってしまうのも不思議だとなる

ただコロナウィルス騒ぎで東京のことを書いたけど東京に本当にこれからコロナウィルスだけではない大地震がきて東京に住めなくなる
東京脱出が起こり飯館村とか浪江町とかは空地空家だらけなのだからそこに住めとなる
もしかしたら住ませてください、何でもいいから住ませてくださいとかなるかもしれないそれで東京の人たちは原発事故の罪の償いをする    
それで重いカルマから解放されるとなる、カルマはどこかで苦しみとなって現れるからである、苦しいから嫌だとしてもここで住みここを復興させろともなる
今は復興をあきらめていても時代が代わり意外なことで復興しているかもしれない

とにかくそうしてそんなことに期待するのももう住民は帰らないからである
あきらめているからそんなことでも妄想するとなる
小高でも飯館村でも帰ったのは老人でありやがて介護状態になる
その介護する家族もいないし誰が介護するのか?
結局家族がひきとることになる、そして無人化してゆくともなる
実際に神社でも誰もお参りするものもいない、神様も捨てられたのである
そして人間も捨てられるのである、それは荒寥としたものになる
草ぼうぼうのゴーストタウンならぬゴーストビレッジ、幽霊村になってしまうのである
だから原発事故の無惨さは飯館村に一番被害としてもたらされたのである

何か古い家があった、そこに住んだ人の重さがあった、年輪を重ねた古い木のようにそこにあった、そこはやはり兜屋根であり養蚕をしていた
そして古い碑があり枯れた萱に隠されていた、なんともわびしい風景だった
そのようにわびしいのは人が住んだ所が人がすまなくなるとどこでもそうなる
何かかえって淋しくなるのである
そして幽霊がかつてあった町とか村を本当にさまようようになるのである
幽霊がそうして廃墟と化した町でも村でもさまようようになるのである

いづれにしろ復興といってもそこに住んでいる人たちがもう帰還することをあきらめている、近くでも何するでもなくギャンブルしていたり釣りしていたり何かすることはない
何か仕事をしないということも心が退廃してくる
金があったとしてもその移り住んだ地域でも何もすることがなく役割もない
すると地域から浮いた存在になる、またいつまでも補償金で暮らせない
ではみんなで復興するのかとなるともうばらばらになっている
親も子も祖父母でもばらばらに住んでいる人も多い、家族すらばらばらになっている
そこで復興といっても10年過ぎても明るいものがないのである
未来への芽がないのである

ただ飯館村の森に入った時、樅の木が新たに根付き伸びようとしていた
春の光りをあびて伸びようとしていた、自然は復興している
ただ放射線量は減らない、でもその樅の木が森に根付いて育とうとしていた
そこに未来を感じたのである、飯館村は森の国であり木が豊富だからそうなる
放射線に汚染されても木はと生き続けている、枯れてはいないのである
ただその森も汚染されているから除染もできない、でも森が死ぬことはない、いつか放射線もなくなり元の森に還る、それは相当に長い年月が必要になる
それだけの神話的な深刻な被害として飯館村は記録されるものとなったのである

そして結局復興は先が長いと見なければならない、セシウムが半減するのが30年後と言われた、現実的には10年後でも相当に減った、でも住めるようになるには時間がかかる
おそらく30年後とか50年後とか百年後とかなる、それだけの時間かかかる
つまり時間でしか解決しなくなったのである 
でもまた飯館村に誰かが住んでいるかもしれない、それは元の住民でないかもしれない
何かコロナウィルスのような異変があって都会の人が移り住むかもしれないからだ
そういうことは予測できない、そしてもはや我々老人はその未来を見ることはできない
菅野村長もやはり病気であり引退したのはそのためだった
浪江町長もやはり死んだ、未来を担うものは子供は住んでいないのである
ただ未来は誰もわからない、30年後でも50年後でも百年後でも人が住んでいるかもしれないその時間に期待するほかない、人間ではもう解決できなくなくなったのである

いづれにしろ箱ものだけを立派にしてもそれを活かせない、そもそも住民がそこに住まないからである、そしてなぜそうなったのかというと心が一つになれなくなったのである
それは多額の補償金をもらったことにもあった
それによってみんなで市町村の復興を考えるより個人とか家族単位の復興になったのである
だから現実として子供は別な地域に行きそこの学校に通う、大人も別な地域で仕事をするそれも十年もすぎたらそれが既成事実となりもう飯館村には帰らないのである
それで菅野村長が村に帰り住むということに固執した
実際はそうあるべきであり自分自身もそうあってほしいとなる
でも現実はもうそういうことはなくなった
するとそこに固執することは反発を受けるようになった
いくら村長がそう思っても住民がそう思わないとしたらもう心はばらばらである
すでに心がばらばらでありただ個々人の家族の復興しか考えなくなったのである
それは南相馬市でも同じだったのである
そして家族もばらばらになり老人だけが取り残されたのである

これは奈良の十津川部落とはあまりにも違っていた
心が強固に一つとなり団結して奈良から北海道に移住したのである
国から補償金もらったとしてもあくまでも村全体で使うものためであり個々人家族ではなかった
とにかく村人の心が一つになっていた、だから移住先でも団結して暮らすことができた
補償金は村のために使われただけであり個々人とか家族には使われなかったのである

人間はやはり建物とか物とか金が必要でも心が大事だとなる
第一菅野村長が飯館村に住んでくれといっても本人は福島市のマンションを真っ先に買って住んだと言われる
そして孫がいてもその立派な学校に通わせているのである
つまり本人が住まないのに住めというのは成り立たない
それは浪江町長でも大玉村とかに家を建てた、そして浪江町には住まなくなっていたのである、ただまもなく死んでしまったということである
菅野村長も病気だということになれば強いことは言えない
結局過労になり病気でもあり引退したとなる

こういうことで飯館村は何か建物が立派になってももう住民は帰って住まないのである
そういう規制事実ができあがっているのだから元に戻すことは不可能である
だから森は除染してもできない、すると30年待ってセシウムが半減するとか放射線量が減ることを待つほかないのである
それが50年とか百年にもなるかもしれないがその先は予測できない
意外なことが必ず人間には起こる、コロナウィルスを予測した人は一人もいなかったからである、地震とかはいろいろ言ってもコロナウィルスのことを当てた人は一人もいなかったからである、だから30年後でも50年後でも百年後に何が起きてくるのか予測できないのである、意外と飯館村に東京の人が来て住んでいたとかなるかもしれないのである
そういう変化がコロナウィルスで起きたからである
こうなると立派な建物を50億で建てたということでも無駄になる
第一それを活用する肝心の人が住んでいないからである
また何兆円もかけて除染してもそれが復興になったともいえない
つまり金をそんなにかけても効果的にならなかったのである
だから金があればなんでもできるとなる時代だがここではそうはならなかった

建物があって人があるの、人があって建物が家でも公共の建物でもある
人がいて子供がいて学校という建物がある、それが逆になったともなる

小高でも老人施設があってもそこに働く人、介護士とかがいないから青森に送られている建物が立派でも働く人がいなくなったのである
人が住まないからそうした建物も宝の持ち腐れとなる
5人くらいしかいない学校に50億円も建物に金を費やしても復興していないのである
それは菅野村長のせいというだけではなく住民がそもそも帰らないと決めたのだからどうにもならないとなる、それが現実だったがそれを無視したから反発されたとなる
本当は村長だけが浮いた存在にてっていたのかもしれない、ただ私には複雑な事情はわからない、でも新しいこじんまりした家が建っていたので人が住んでいると思った
それが別荘であり人は住んでいないというのが不思議だったのである


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枯芒に車が埋もれている、ここで時がとまったままなのである
まずいい飯館村では車がないと生活できない
買物もまともにできないからだ

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ここは道に向いて古い碑がある
ここは塩の道だったのか?
ここを上るとこの兜屋根の養蚕農家がある、これは相当に古い
壁は土壁であり古い、こうした廃墟が飯館村にはある
壊された家も多い、その跡地には何も残っていない

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道の駅のまでい館に建った子供館

次々に立派な建物は建った




posted by 天華 at 15:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2020年04月05日

飯館村は建物は立派でも人は住んでいない (人が住まない村では復興はない・・・・)


飯館村は建物は立派でも人は住んでいない

(人が住まない村では復興はない・・・・)

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飯樋小学校

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飯樋の公園の丘の樅の木にノスリ


飯館村にはとにかく立派な建物はいくつも作られている、今度はまでい館の裏に子供向きの公園と遊戯館ができた
学校でも立派なものが作られている
でも肝心の人が住んでいないのである、町長自体が住んでいない、その孫とかも飯館村の学校に通っていて地元には住んでいないのである
それでなんか不思議だったのは新しい家が多い、それは一軒屋とか平屋のこじんまりしたものである
そこに人が住んでいると思った、結構帰ってきて住んでいるのかと見た
でも人は住んでいなかったのである、前も家があると人が住んでいると錯覚した

ただそうして新しい家があるが家自体壊されて更地になっているのも見た
それもかなりの数になる、つまり住んでいる人は帰った人は二割くらいである
だから飯樋では街になったいたけど二軒くらいしか住んでいなかった
そこに飯樋小学校がありその建物も立派なのである
でも現実にはそこに生徒がいない、コロナウィルスの関係でいないのか?
おそらく保育所とか幼稚園も併設されているが利用されていない
だから何か無人の街になっていた、しんみりとしていた
人の気配が感じられなかった

そしてその丘に上った時、一本の樅の木が立っていてそこに大きくノスリがとまっていたことにびんくりしたのである
つまり今そこの主人はそのノスリになっていた 
田畑に荒地化するとそこにノネズミが増えて来る、そのネズミを食べるのがノスリなのである、それから猿が群れをなして田畑に出て来る、人間をあまり恐れくなっている
それを見たとき核戦争の後に猿が人間を支配していた「猿の惑星」をイメージした
猿が人間の代わりに主人となっていたのである

この光景の不思議は建物があっても人間が住んでいなければそこは死んでいる
ただ自然は回復して鳥獣でも生き生きして住みつくようになる
でもそうした村でも人間が生活してこそそこに歴史が生れ意味や価値が生まれる
それがなくなったとき死の村や町になる
現実に神社があっても誰もお参りもしなくなる、その石段を猿が上っていたからである
猿がお参りしているのかとなる
住民は新しい別荘に野菜作りとかで畑を時々見に来るとかなるのも不思議である
それなりの補償金をもらったから別荘として利用するとなるのか?

村でも町でも活きたものになるのはやはり人が住むことによってである
いつくら建物が立派でも人間が住まなかったらその建物も活かされない
血が通わない、建物も死んだものとなる
でももしそな立派な建物がなくても人間が住んでいれば活きた村や町になる
それで武田信玄が

人は石垣、人は城・・・

として城を作らなかった、つまり建物を作らなかったのである
建物がなくても人こそが城なのである
だから飯館村から人が住まなくなり帰ってこないということは復興はないとなる
いくら立派な建物があっても復興にはならないということである

そうはいってもあれだけの広い土地をどうするのか?
それを活かす方法があるのか?
それを誰がするのか?外から来ている人もいる
何かこうして肝心の元からいた住民がいなくなる、広い土地をどう利用するのか?
そういうとき外からは入りやすくなる、田舎はもともと外部からの人を拒むからである
そういう拒むものがいない、元から住んでいる住民はいない
ただ広い土地がそこにあり自由に使ってくださいとなる入り安いのである
しがらみもなにもないからである、白紙の状態になっているからだ
だからかなり先になるのが飯館村は外から来た人たちによって復興するかもしれない

なぜならコロナウィルス騒ぎで東京封鎖とか人口密集の大都市が危険なことがわかったからである
だから都会から人が移動してくるかもしれない、そこでまた新しい村が作られるかもしれない、木戸木などは戦後開墾に入って作られた部落である
それも時代によって働く場所がなくあんな辺鄙な場所に住むようになった
そこでどんな暮らしをしていたのかイメージできなくなった
それだけ生活が変化して便利になったからである

まず新しくできた道路の所は森におおわれていて隠された道があり清らかな流れがあったそこは本当に人跡未踏のような神秘的な場所だったのだ
私はいつもそこに行っていた、人とは合わなかった
ただそこにそうした部落があることがわからなかった、二軒くらい家があるなと見ていただけである
今は二軒くらい住んでいる、何かやはり今でも神秘的な場所だった
特に奥の方に隠されて一軒あった家は不思議である
あんな所に人が住んでいたことが不思議なのである
山に閉ざされたまさに秘境だったとなる

あそこにコテッジとか何か作り休む場所があればいいとも思った、そこにも小川が山から流れていてカタクリの花が咲いていた、二つの小川が流れていたのである
だから何かキャンプとかするにはいい場所である
あそこは原発事故前にすでに二軒くらいは廃屋になっていた
あそこで住むとなると今でも不便である、ただ車あれば新しい道ができたからなんとか暮らせるとなる、でもおそらくそこも若い世代は住んでいないだろう
だから飯館村自体若い世代が住んでいないとなるともう廃村になるのか?
牛飼う人もまたはじめたというが少ない、何か仕事が必要である
菊池製作所では働いている、農業は前から跡継ぎがいなとか継続できないものとなっていた、そして放射性物質お汚染で余計にだめなった
花は栽培している、だからそれは復興にはなる、でも人が住んでいないということが致命的なのである

posted by 天華 at 20:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2020年04月03日

春の日(飯館村が住民の別荘地になった?)


春の日(飯館村が住民の別荘地になった?)

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新しく建てられた家ュ(別荘)

人は住んでいない、こういう家が多い

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廃屋


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新しい遊戯館と公園(までい館の裏)



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木戸木の奥の人が住んでいた隠された家

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蝶がこの木にとまっている

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キクザキイチゲと片栗
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これは綿津見神社だろう

山津見神社と対になっているからだ

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飯樋の丘の公園の樅の木にノスリ




樹々芽吹き流れのひびき不動岩

片栗や流れの清く一部落

松一本社の標春日暮る

(木戸木)

かたくりにキクザキイチゲ蕗の薹飯館村に我が入るかな

奥の山住みにし跡とあわれかな枝垂桜の名残と咲きぬ

森深く友呼ぶ声や鳥のなく春の山陰耳をすましぬ

くいこみて絡まる蔦の離れじやここを住処と死ぬ人のあり

我が町の梅は散りにき飯館の梅は盛りと今匂いけり

丘の上に樅の木一本見上げればノスリとまりて人の住まぬ村

人住まぬ村の淋しも古き碑も捨てられしごと春となりしも

人住まぬ村の淋しも鶯の夕べ啼きしももの悲しかも 


栃窪村から真野川をさかのぼり大倉に行き坂を上って木戸木に行った
そこは十軒くらいあった戦後開拓に入った部落だった
そこに十軒も家があることを知らなかった、三四軒くらいしかないと思っていた
私が関心があったのは草野の方に行く流れが森の中に隠されてあったのだ
今はそこが道路になってない、そこは神秘的な場所だったのである
人は一日一人も通らないということがある、そこの木戸木の部落の人しか通らなかったろう、森の中で暗い道だったからである
なにしろ木戸木はその道ができる前は大倉に行くにしても相当に不便である
それより草野に行くとしても七曲の峠道を行くから本当に不便だった
戦後開墾に入ったのはそういう不便な土地にしか入れなかったからである

そこでの暮らしは本当に原始的な暮らしである
そこが不便なのは田畑にする場所がないことである
平坦な土地がない、ただ燃料は炭だった、戦後一〇年くらいは街でも炭だった
私の家でも街に住んでいても囲炉裏があったからだ
ただまだ私が住んでいたのは街だったがそこはもっと辺鄙でありどんな暮らしをしていたのか想像もできなくなった
山菜くらい食べても生きていけるきかともなるからだ
あの小川で岩魚かとれるとか言っていた人がいたけどこの辺では岩魚はいない、山女はいるが岩魚はいない、だから何を食べていたのかイメージできなくなった

そこでは一〇軒くらいあって二軒くらい住んでいる人がいた
飯館村で今回不思議だったのは家が新しくなっている、その家が平屋で小さいのである
そういう家が多いのとどうしてだろうと思った
補償金が入って新しく家を建てたたのかと見ていた
そこに住んでいると見ていた、でも人は住んでいなかったのだ

それでまでい館で案内している人に聞いた
そしたらそれは別荘だというのだ、人は住んでいないのである
そこに住んでいた人か畑で野菜を作ったりしているという、また帰ってくるために作ったでも人は住んでいないのである、それも奇妙だった
人が住んでいて家が壊され空地になった所もみかける、でも新しい家が建っているからここで生活しているのかと見ていた
ここに住んでいた人は他に移り住んでいる、他で家を建てて住んでいる人もいる
でもここに別荘として家を残して通っている

飯館村は別荘地となっていたのだ!

ともかく飯館村では例えば町長も村に住んでいない、その孫でも立派な学校に他から通っている、町長自体が住んでいない、そして他の場所から川俣とかから通っている
これも何か変だと見た、飯館村ではとにかく建物だけは立派になった
また一つ子供のための遊戯場とか公園がまでい館のじき側にできる
その建物も子供が喜ぶようなデザインの建物である
ただまでい館に寄ってそこで遊んで去ってゆく、肝心の人間が住んでいないのである

そんな村とか町がありうるのか?

それは何か仮の村であり通過するだけの村となってしまう
別に通過するだけならそれでいいとなる、デズニ―ランドのような遊び場で遊んで帰るというだけである
でもそういう村はもう村とは言えない、暮らしがないからだ
ただ一部ならそうしたレジャーランドとかキャンプ場のようなものはあってもいい
でも村全体レジャーランドになったらそれが村なのか?
人間が住んでこそ村でありえる

ともかく人間が住まない村とはな何のだろうとと思った
古い碑とか墓がある、それも何か捨てられた感じになる、住んでいればそれが眼につくから古い碑でも墓でも死んだ人でもその土地に一緒に生きているという感覚になる
人間が住んでいればその村の継続した生がありうるのだ
そういう生の継続が途切れた感じになる
小高だとすでに6割以上とか帰って住んでいるとなると何とか町が成立しているのかとなる、ただ老人が多いから老人の街が継続できるのかという問題がある
そこは姥捨て山になるのではないかという不安がある

今回飯館村に行って感じたことは死んだ村という感じである
例え立派な建物があっても肝心の人間が住んでいないからである
特に草野辺りはなんとか通過する人でも寄る人があるから活きている
でも飯樋とかは一軒か二軒しか住んでいない
そこは前は塩の道の塩を運ぶための相馬藩の役所があり60人も役人が住んでいたのである、それが死の町となっている
その丘の公園に上ったら一本の樅の木があり人の住んでいな町と人のいない学校が見えたそして樅の木の天辺にノスリかとまっていることにびっくりした
何か前もそうだったが人間がいなくなるとこうした野生の生物が生き生きとしてくる
だから荒地となった田畑には猿の軍団が出てくる
猿は人間を恐れなくなっているからだ

飯館村どうしても死んだ村に感じた、やはり人間が住み人間の暮らしがないと死んだものとなる、ただ田畑でも放置されたのは農業を前から継続することが限界にきていた
それはどこでも共通しているが飯館村だと特にそういうことがあったかもしれない
何か産業というものがなくなっていたからである
それで多額の補償金をもらったとき他に家を建てて移りすんだ
そしてまた前らか住んでいた所に別荘として家を残したとなる
それだけの金の余裕があってそうしたともなる
だからこれはなになのだろうとなる、奇妙な感じになったのである

ただ人が住まなければ何か社でも古いもの、昔から伝えられたものでも途絶えて死んでゆく感じがした、村を守るものとして社があったりするからである
その是非はともかく人が住まないとしたら神様も捨てられたとなるのだ
現実に石段を上って猿がお参りしているのかとも見たからである
廃村には廃墟の村ではないにしろ何か奇妙な感覚になる
前も家はあるから人が住んでいると見ていた、その時も人は住んでいなかったのである






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2020年02月06日

復興できない飯館村の問題 (外部からの支援と村民の復興の相違)


復興できない飯館村の問題

(外部からの支援と村民の復興の相違)


「真の復興」とは、被災者がその災禍から立ち上がり、東日本大震災前の当たり前の日
常に少しでも近づけることだと感じる。少なくとも、経済を復興させることや、ハコモノを次々と建てることではない。自治体をどのように再建するか、「地域」をどのように存続させるかということばかりが重視され、被災した人の暮らしや想いはこのままでは、多くの人が置き去りにされる。また故郷を消失し、思いを断ちきることになる。これのどこが「復興」というのだろうか。

生業の喪失

現在、福島市の避難住宅で暮らしている。
「賠償金もらえて最初の 2、3 か月はよかったよ。だけど、もう生きている気がしねぇ。ただ生かされている感じだ。餌与えられて生きる牛や豚と一緒だ」。
危機に立つ住民主体の村づくり

飯舘村は、「結」を大切にする地域だった。いや、助け合わなければ暮らしが成り立たなかった歴史があり、それは震災前も同じで行政区ごとの共同作業によって、美しい村が維持されてきた。
「自然と、隣近所や親類が「結」で助け合った。田植え、稲刈りをはじめ、山でカヤ(ススキ)刈りをしての屋根ふき作業も。そうしなければ、お互いに生きていけなかった。

危機に立つ住民主体の村づくり

飯舘村における「復興」計画と「村民の復興」の乖離 

復興が何かわからなくなってしまった、別に経済的に前より豊かになった人がいる
小高でも仙台に移り住み不動産とかアパート業で豊かになった人がいる
それは補償金をもらったからそれを資本金にして成功したのである
そしたらその人は前より豊かになったのだから復興したとなる
その人は個人的には家族単位では復興したのである

でも小高が復興したのかとなるとならない、帰ったのは老人がほとんどであり学校すら小高に住んでいないから原町とかから通っている
これは飯館村でもそうである、あれだけ立派な学校を作ってもそこに子供は住んでいない近くの避難した町から通っているのである
そこでそうした立派な箱ものばかり作っても肝心の人が住まないし村が復興したとはならない                    

そもそも前にも書いたけど現代はグローバル社会であり広域社会である
具体的にどうなったかというと家を作るにしても地元の人が作るのではない
大手のハウス会社が二週間くらいで組み立て作る、プラモデルのように部品を組み立てて作る
昔だったら家を建てることは一大事業である、自分の家は三か月以上かかった
それも材料は柱は橲原の木を利用していてそのことを自慢していた
今は材料も外材であり土地の人ととのつながりがないのである
だから何か原町でも鹿島でも相馬市でも新地でも他でも外から入ってきた人たちが本当に多いのである
一番顕著なのはいわき市である、二万人とか入ってきて補償金で家を建てたから地元の人たちにうらやましがられたのである

なぜそういうことができるのかというと広域社会グロ−バル社会だからである
そもそも外材は外国から入ってくるからである
そういうふうに外国であれ国内であれ一地域で経済では成り立たない社会である
そこで何が大事になるのか?
金が一番大事になる、金さえあれば何でも手に入るとなるからだ
すると絆のことを盛んに言っていたけど地元の人の絆は希薄化していたのである
それで簡単に町でも村でもばらばらになってしまったのかとも見た
簡単にゴーストタウンになってしまったのかとみる
避難区域に指定されたことはわかるし放射能のこともわかる
でも何か瞬時にして町でも村でも人がいなくなり結局回復しなくなった

だからなぜこうなったのだろうと私は思った
そんな簡単に町でも村でも故郷でも捨てられてしまうのかということである
絆などなかったのかとなる、人もばらばらになり長年代々住んだ土地も捨てられたとなるからだ
もちろんその土地に故郷に執着して帰りたいというのは老人なことは理解できる
でも老人ばかり帰っても復興しないのである
そして生業を返せというときその生業とは何なのか?
生業とは生とはなりわいのことである、なりとは成ることなのである
その土地に住んで自ずと成るもので生きるということである
それを象徴していたのが飯館村の山菜料理であり山から山菜を無料でとって生活することである
生業(なりわい)とはその土地に根付いてその土地に成るもので暮らすことなのである
それがなくなったとき福島市とかに住んでも山菜とりできないとか何もすることがないと嘆くことになった
そこで山菜を無料でとって暮らす生活が見直されたのである

つまり人間は何か当たり前の価値がわからないのである
それ失った時初めてわかる、親がいて何でもしてくれているのか当たり前だが死んでしまったら全部自分でしなければならず親のありがたみがわかる
また妻に何でもしてもらっていた夫も妻が死んで何でも自分でやらなければならないから妻のありがたみがわかる
人間は本当に当たり前の価値がわからないのである、まずそんな当たり前のことを価値と認めないのである
そこに人間の盲点がある

とにかく飯館村は今回の原発事故で被害が露骨に現れた、未だにそうである
その風景は一変した、もはや田畑はなく放射性物質の置き場になっているだけである
あとはソーラーパネルになり景観も前のとは違っている
新しい中高一貫の校歌を作った人がいるが確かに凍てる大地に根付く木とかの歌詞は評価できるにしてもここにも矛盾が現れているのだ

そもそもその曲を作った人も校歌を作詞した人も地元に住んでいない、東京から来た人であり外部の人である
いろいろ今回は外部の人が入ってきてかかわることになった
でもそこにもともと住んだ人がそうして歌詞でも作ると土着的になる
東京から来た人は観光客なのである、そこで保養して後は帰るだけである
そこの凍てた大地に育つのはそこに住む若い世代なのである
外部から入ってきてそこに住まない人は観光客なのである
凍みた大地で生きることはない、飯館では凍み大根が有名だけど外部から來る人と内部にその土地に根付いて暮らす人とは根本的に違っている

そこにリアリティがないのである、東京からただイメージして作っているのである
ここで苦労することもないからリアリティに欠けているのである
何か文学でもリアリティが実際に体験したことでないと訴えない
小説だってやはり現実に体験したことでないと訴えない
それを自分も指摘されたからわかる
森でも外から見ているのと中から見るのは違う、森に入ると枝とかがありツルが生えてからまったり蛇だでてきたりといろいろ難儀することがある、外から見ていればそういうことはないのである

自分もただ外部から来たものになっていた
ただ近いから東京から來る人は違う、例えば放射性物質のフレコンバッグが水があふれて破れてもれたことがあっ
すると放射性物質は南相馬市に流れて来る、真野ダムに集積した放射性物質は土地はつながっているのだから流れてくるのである
だから飯館村の問題は南相馬市の問題になる、土地はつながっているから切り離せないのである
だから佐須で泥が20マイクロシーベルとあったのには驚いた
その放射性物質の泥も真野ダムに流れてたまっている

ここで問題にしているのはそこにもともと住んでいる人たちが村をどうしたいのかとなるとき何か箱ものとかその人たちの意に沿わないものとなっていることを書いている
そもそもそこに住む人たち、代々住んでいる人が主役になるべきだとしている
それが外部から入ってきた人たちが主役になっている
それで山木屋では東京の方から大学の人がきたけど一年でやめたとか嘆いているのもそうである
一時的には来てもそこに土着して住むとういことがないからである
一時的な実験場のように利用したとなる

飯館村では一部落全員を帰還の条件としたというときそれだけつながりが深いからそうなった、他の津波の被害地でもそういう部落があり全員一致して高台に住宅を作った
元の町が村が回復する復興するということはそうなる
(結(ゆい)のような組織があり村人がが助け合って生きてきたというのもそうである
それがばらばらになった、飯館村なら補償金などでも同じにすれば良かったのである
被害はさほど変わらないし第一一つの村としてある、土地もつながっているからである
南相馬市でも小高区とかを避難区域として分離してしまったことである
そこで小高と原町と鹿島に補償金で分断されたのである
補償金で統一することがむずかしくなったのである
それも政府の企みがあってそうなったのかとかんぐる
なぜなら政府の責任を市町村が一体になって追求するより分断して仲間同士で争わせた方がいいとなるからだ

ともかく市長も町長も村長もまとめ役とはなれなかった、市町村をまとめることができなかったのである、それだけの指導力をもつこともできなかったとなる
それでそれぞれの私益だけを追及する結果になったのである
だから放射線量で補償金で細分化されて分断された、それは政府の思う壺になったともなる
だだみんな補償金を多くもらいたいということしかなくなったのである
もう故郷に帰ることではない、補償金でそれぞれ勝手にどこでも暮らせとなったのであるただ飯館村だと人のつながり土地とのつながりがあり一致して部落で全員帰還を目指したのである


飯舘村の「帰還農家」で咲かせた未来への希望

荒れ野の古里によみがえる高原の花々

posted by 天華 at 19:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2019年10月09日

飯館村の詩(隠されし村)


 飯館村の詩(隠されし村)

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隠されし村

草深く花は美しく咲き
花は恥じらいつつましく
花は草深く隠れ咲きぬ
一軒一軒森につつまれし家
庭は広く畑ありて花の映える
揚羽蝶は一日花を求めて舞い飛び
疲れてしばし深き木陰に
大石のありて羽根を休めぬ
そこに清流の音のひびき
一羽の小鳥の鳴きて夕暮れぬ
そこに道あれど行く人なしも
そこにあえて声揚げる者なしも
深き森につつまれてひそかに
小鳥の一羽鳴く声のみなりき
そこにあえて装うものもなしも
森につつまれ草深く花の咲きうなだれ
人の暮らしは長く隠されありぬ
そこの森深く未だ知られざる花
つつみ隠されて神の見るらむ
神は道なき道をそっと歩みて
音もたてずにその姿を奥深く隠しぬ


飯館村の一番の不思議は大倉から坂を越えた所の木戸木から森があり清流があったところである、そこは道ができてなくなった
その前から七曲の道があったが車でも不便であり危険だった
でもあそこに清流が流れていて気持ちいい場所だった
ただあそこに戦後開墾した家が十軒くらいあった、それに気づかなかった
何軒はあったが奥にもっと家があった
そこは土地がないから田でも作っても米はさほどとれない、だから相当貧しかった
この?20パーセントちかく戦後引揚者が開墾して入った所が多いのである
浪江町の津島もそうだった、苦労して開墾して住んだから協力して住んだから愛着があるというのもわかる、津島などはもう住めないし帰れない状態になった
そこで中国人の嫁がナタで夫を襲った
その理由が都会に住みたいということだったのである
確かに相当に辺鄙な場所でありそれもわかるとなる
その後どうなったのかわからない

村という時市町村でもそれぞれ個性がある、原町と相馬市は他から来たらたいして変わらないは見るが違っている、相馬市は城があり一応城下町であったからだ
それで入母屋作りに公共の施設はしているから落ち着いて静かなのである
原町は明治以降機関区になって鉄道中心に発展したから駅前通りがある
相馬市はそういうことがなかったのである
原町は鉄道とともに発展した街だったのである

飯館村の特徴はともかく広いということである、未だに行っていない場所があるし一回くらい長泥とかに行った記憶があるけどそれが遠く感じた、自転車だからかもしれないが何か相当に辺鄙な場所だった
あんなところに人が住んでいるというのも不思議だった
ただそこは今は閉鎖されて住んでいない
そして何度も言っているけど飯館村の特徴は一軒一軒が森につつまれて家がある
その前は庭であっても広いし畑がある、そこに花々が映えていたのである
それが何か他と比べて恵まれていたとみていたのである

村にも個性がある、丸森はまた景観的にいい場所であり奥深い秘境のような所があった
飯館村と丸森町は何か特別なものを感じる
村でもいろいろあり地勢も違っているからなかなかわかりにくいのである
丸森も未だに行ってない場所がある、あそこも森が深いのであく
そこでその森の中に入って出れなくなった恐怖を経験したのである

私は別に飯館村に行ってそこに住んでいる人とかかわらない、ただ花を見て帰って来ただけである、でもその時が実はいい時だったのである
今になるともう放射能汚染で土はむきだしになりフレコンパックとか積み上げられて草ぼうぼうなのである、そして補償金争いで村は二分したとかもめている
それは南相馬市でもそうだった、水俣病でも経験者は補償金でだめになったというときここでもそうだったのである
その額が大きいからそうなったのである、ぎりぎりで暮らしている人が一億円とか入ったりしたらどうなるのか?金銭感覚が麻痺してしまうのである、飯館村は被害が大きいから補償金の額も大きくなったからだ

それで小高の人はフィリンピン人の女性に貢ぎ金を使ってしまってないとか異常化したのである
それで自分が小高の人を批判すると「お前は傷に塩ぬって楽しいか」とか批判する
もう被害者意識でこりかたまっている、でも現実はギャンブルとかパチンコでその被害者は遊んでいたのである、それを批判するなというけど事実は事実なのである
批判するべきはそうした内部の人なのである

要するに神はその暮らしを隠したという時、そこはいい場所だったのである
今は人間の醜さがむきだしになっているからだ
飯館村にしても補償金に場所により差があるのもおかしいのである、それは南相馬市でもそうである
隣が高くもらっているのにもらえないとかもある、そういうことで自治体が分裂したのである
そうしたの政府の策略だという人もいるが現実に分断されて団結できなくなっているからうそなのかとなる    

淋しき山々の中にわれは聞きぬ
われを追い来る低き息づかい
目に見見分けがたき動きの音
踏みゆく草生とほとんど同じくかそけき跫音
(ワーズワース)

これは自然に生きる動物のことである、自然の中に入るにはそいうふうに静に入らねばならないのである
ただ大倉の坂道でバイクが飛ばしていたからそういう場所でもどこでも騒音化して乱される
何か現代は自然が必ず壊される乱される、どこまでも侵入してくる
それは何か自然にふさわしくないのである、自然も大衆化とか何かで乱される
神聖な場所にずかずか誰でも入ってくるのである

それは観光でもそうである、外国人が来て商売になるから京都の情緒まで失われるとなる
自然に入るにはそれにふさわしいものとなるべきものだがそれがないのである 
とにかく木戸木の森につつまれた清流の場所は一番神秘的だったのである
なにかその雰囲気が語れない、そういう場所が丸森とかにもある
橲原(じさばら)の奥にもあり未だ発見されていないのである
それはそこに長く住んでいないと意外とわからないのである
だから日本にはいくらでもそういう場所がある、でも地元の人でないとわからない場所なのである

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 自分が求めたのは秘境だった
(ワーズワ-スと飯館村などのこと(自分の詩)

posted by 天華 at 08:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2019年10月08日

飯館村の水利組合の原発マネーの利権化     (原発マネーはブラックであり人も市町村も汚す)


 飯館村の水利組合の原発マネーの利権化
  
 (原発マネーはブラックであり人も市町村も汚す)

東京電力福島第1原発事故で生じた汚染廃棄物を燃やす福島県飯舘村の仮設焼却施設に絡み、環境省が農業用水路の利用料として、地元農家らでつくる水利組合に3年5カ月にわたり計約2億円を支払っていたことが7日、関係者への取材で分かった。会計検査院は、不要な支出だったと指摘する方針
飯館村は原発事故前は貧乏でも何か素朴な村として見ていた
それで花が純粋に映える、何か高原でもあり原始的なものを感じる
不思議に花が草深く咲いていた、高山植物のような感覚にもなっていた
また木戸木の所は道がなく森で覆われていて清流が流れていた
そこは隠された秘密の場所だったのである  

飯館村は何かこの辺の平地の感覚と違ったものになる、それは不思議だった
それはやはりそうした環境があり昔からそういうふうに開発もされないからそうなっていた、工場があるにしても小規模だし何か自然のままにあった村だった
それで山菜をとることが習慣であり料理の定番となっていた

それが原発事故以後変わってしまった
飯館村はほとんど原発とはかかわっていなかった、でもやはり原発で金になるから働いていた人はいたのである
それでも原発とはかかわらない村だった、ただ風の影響などで被害が大きくなった
だから同情されたのである
でも今や飯館村は金まみれである、補償金の問題で村は二分されているし分裂した
それは南相馬市でも同じだった、補償金でもめて分断された
それは伊達市でもあったというから金でもめるのはどこでも同じである

ここで水利組合とかででくるけど漁業組合ともにていると思った
原発事故以後やはり原発利権が大きいからそこから金を得ようとする
それは権利とあるにしても何か金を東電からむしりとろうとするとも見える
農業用水路というけどその水は実は南相馬市にも流れてくるのである
真野ダムにも流れて来る、すると相馬市でも南相馬市でも汚染された水が流れて来るともなる
土地はつながっているから飯館村で何かあれば影響するのである
海でもつながっているから影響する、その場所だけで処理できるならいいができない
だから前に書いたけどい飯館村の問題は南相馬市とか周りの問題でもある
飯館村だけで決めることができないのである
だから飯館村は南相馬市と合併しなかったけどそれで補償金を独自にもらえるから良かったとしているが実際は土地はつながっているのだから南相馬市の問題にもなっているのだだから別に合併しなくても広域的に対処すべきものだった

まず飯館村は原発利権化した村になった、それは原発マネーで騒いでいる高浜町と同じである
それを喜んでいる人もいる、その人の家は新築されたからである
相当な原発マネーが入ってきたからである
でも何か飯館村は事故前の村の魅力が失われた

例えば花が映えるという時、それは実はそこに住んでいる人たちの心がまともであれば映える、自然の美と人々の心がモラルは関係している
例えば悪しき心の人は花を美として見れるのか?
心が穢れた人が花をまともに見れるのか?また映えるのかとなる
そのことを言えばこの世がすべてそうだとはなる
前は飯館村に行っていたときはその村は隠されるようにあったから良かった
それが今は何かいろいろなものがむきだしになっている
除染されて土がむきだしになり田畑は草ぼうぼうになっている
それからソーラーパネルとかでも景観が乱されている

そしてまた人が住んでいないということでも荒廃している
前は飯館村は広いから一軒一軒森につつまれて家があり広い庭があり畑があり花が映えていたのである、何かそれが高原の村だから花だけが美しく映えたとなっていた
それが今は人は住んでいないし荒廃した
そこから伝えられるのは醜い金をめぐる争いであり原発マネーで利権化した村である
それは高浜町とにているのだ、までいな村とかはもうない、原発マネーに踊らされる村である
だからそうなると花も映えないのかとなる
前は別にいろいろな人がいて田舎の人が素朴だとかなくなっている
でも隠されていたということでそういうものが外から来たとき目立たない、ただ私が見たのは花だけだったとなる

そして立派な施設ができても学校がてきてもそこに通う生徒は地元に住んでいないのである、外から通っている、これも何か人間は果たして立派な施設が学校ができてもそこで良き心が養われるのか?
それも疑問になる、貧しくても良き心は養われることはある
かえってもう原発マネーは巨額なのでそれに惑わされて何も見えなくなってしまう
それだけ高浜町でもわかるように金の額が大きいからそうなる
金にみんな狂ってしまうのである
それが原発マネーの怖さだったのである

そして最後は街は廃墟化してずたずたにされて住めなくなったのである
住めなくなることが最悪だったのである
その土地に住まないということはその土地と離れて住むということは何なのか?
もうそこに愛郷心とか生まれないだろう、一つの原発マネーを得る利権の場所である
村長でも町長でも利権の場として見るということがある
それは高浜町で起きたことと同じである
利権をむさぼるということだけになる、そういうところからいくら金が得てもまともな人間が育つのかともなる

ただ今の時代は金でありそれを否定できない、おそらくもし原発マネーでなかったらそうはならなかったのかもしれない、原発マネーは何かブラックなのである
その金を得てもいいとはなっていないのである
それは福島原発でも高浜原発でも同じことが起きていたことでもわかる
金が湯水のように使わればらまかれるのである
そこから自治体が金にまどわされ狂乱状態になる
そして遺産争いのようになり分裂して分断されてその亀裂が修復できなくなっているのだそれは原発の業(カルマ)だったとなる
原発はそういうカルマを背負っている、それで原発を作った自治体では同じようなことが起きているのである

posted by 天華 at 13:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2019年08月30日

地方の自然破壊は高度成長時代から始まっていた (飯館村の自然破壊の歴史から未来を見る―真野ダムができる前の大倉の映像)


地方の自然破壊は高度成長時代から始まっていた

(飯館村の自然破壊の歴史から未来を見る―真野ダムができる前の大倉の映像)


大倉村はダムができる前は本当に秘境だった、真野川の上流にあり家が固まってあった
それがダムに沈んだとき家が高台のみになり失われた
葉山祭りという古い祭りも失われた、ダムというのも自然を破壊して村を破壊していた
ただダムとなるとこれに反対する人はあまりいなかった
やはり効用があるからそうなった、それで大倉ダムがダムの底に沈んだときこの時多額の補償金が出たのだ、それで立派な家を街の方に建てた人が結構いて話題になったのであるそれで山でぱダムができれば金になるということで期待する人が全国でいたのである

それはもう50年前とかであり日本がという国は高度成長時代になり大規模な自然破壊が始まっていたのである、その最初がダムだったのである
これによってなんらか川の流れなども自然の状態ではなくなった
ただダムについては危険視する人は騒ぐ人はいなかった
ただダムも自然破壊だったことは確かである

そして気づいていないかもしれないが飯館村の木戸木から新しい道ができたけど七曲りの坂ではない道ができたけどあそこに道がないときは細い流れがあり森につつまれていた
そこは人が入らない神秘的な道だった、歩いていたのは10軒くらいあった開拓部落の人たちだけだった、その流れは長く清流であり森につつまれていた
一つの秘境だったのである
自分はそこに良く行っていたのである
でもそれもなくなったのが残念だった、でもそのことで誰も騒がない、むしろ道路を作ることが進められた、車社会だからそうなったのである
七曲りの道は車だと危険にもなるからだ
新しくできた道でも本当に必要だったかどうかわからない、なぜならそこを通る車はまれだからである

要するにここだけではない戦後は自然破壊が全国的に大規模に行われたのである
道路を作ることも地方では公共事業として進めれた、だからダムでも道路でも過剰に作られた、農道まで舗装されたとかまた水路でもコンクリートの水路になり自然の小川もなくなりメダカとかどじょうだとか生息できなくなったのである

文明が発達するということは必然的に自然が確実に破壊される、それは止めようがないのである、ただエジプト文明とかなるとこれは古いとするが自然と調和する文明だったのである、そこでは動物が崇拝された、アニミズム信仰ともなるがそれだけ動物が崇拝されることは自然と調和していたということなのである
そういう文明がピラミッドを作る大規模公共事業を成したということも不思議である
現代のような技術力があった、でも自然と調和した文明だったのである
普通だったら科学技術はどうしても自然を破壊する
それも科学技術の力が大きくなると大規模な破壊が生じる
人間の技術の力が弱小な時は自然破壊は大規模にはできないからだ 

現代は科学技術の力によって自然は地球が大規模に破壊された時代だとなる
アマゾンが大火事になって消失するとか問題になる
それも原因は何なのかわからないにしても何か大規模に自然が消失してゆく
それが現代文明社会の最大の特徴でありそういうことが起きたのかとなる
そして地球が大規模に汚染されてゆく
原発がまさにそういうものだった、この辺のように人が住めなくなるのだ

要するにやがて地球に人が住めなくなる

このことを暗示したのが今回の原発事故だったともなる、空気であれ水と土でも汚染された住めなくなる、そういうことが地球規模で起きてくる
中国などは広いにしてもそういうことが大規模に起きている
原発の数も多いし増やしているからだ、そういうことでいつかこの辺のように大規模な汚染が生まれて人が住めなくなる
文明によって人は地球に住めなくなる、これを暗示している
そして人間の文明そのものが滅亡してゆく、自滅してゆく
それは人間自身の技が発達して災い(わざわい)となり自滅自壊してゆく

それはあくまでも人間側の問題であり神の知恵で創造したものとは違うからである
生態系は神が創ったものだが科学技術は人間の知恵と技で作り出したものだからである
それによってまた人間が滅びるのもカルマだとなり自滅自壊がすでに定められていたとなる
それで火を盗んだプロメテウスが神から厳しい罰を与えられたことでそのことはすでに神話で暗示されていた、それが20世紀になり科学技術の発達で現実化してきたのである
何か現代はグロ−バル経済でも資本主義システムでも限界にきている
それは結局強欲資本主義でありあくなき人間の欲望を是認するものだからである
それで今の若いものは欲がない、欲をもてというのも変なのである
断捨離とかミニマム経済とかになるのはやはり時代なのである
拡大成長一辺倒の経済は地球規模で限界に来たからそうなっているのだ

ともかく一地域を見ても本当に自然破壊の歴史だったことをふりかえる
今度は飯館村に風力発電ができるという、これもまた自然破壊だったのである
ソーラーパネルも草野にしきつめられたが今度は肝心の森につつまれた飯館村が風力発電でその本来の自然が破壊される
一見ソーラーパネルとか風力発電は自然を利用した自然を破壊しないものとして作られたしかし実際は違っている、やはり何かしら人間の作り出す技は自然を破壊するように宿命づけられている
確実に風力発電でも森を破壊する、人口の風を起こすことでそうなる、また景観も乱す
つまりソーラーパネルでも風力発電も自然のエネルギーを奪う行為でありそれはプロメテウスが火を盗んだのと同じなのである
風力発電でも自然の風ではない、自然の風を奪う行為だからそこに必ず自然破壊が生じて森が破壊される
それで科学者の武田邦彦氏がそのことを指摘している

そして未来とは何なんだったのか?それは山尾三省とかが言うには未来とは新しい科学技術のことである
今でもそうである、AIとか自動運転が世界を変えるとか核融合のエネルギーができるとか寿命はまだまだ長くなるとか科学技術が未来なのである
でもそれが未来だとして本当に人間の未来なのか?

科学技術への過信は危険

むしろ生態系の維持とか接続可能社会とかが最近話題になるのもそのためである
私は極端にしろこうして自然が破壊されることに耐えられない
もうそういう社会には生きたくないともなる、クルマ社会でもいいものとは必ずしも言えない、だから自転車にのっているともなる
車も自然を破壊するものなのである、クルマ社会だからこそ飯館村の神秘的な小川が喪失したのである、ただそれに注目した人は一人もいない、飯館村の人でもいない
自分一人だったとなる、つまり別に飯館村に住んでいるからとして自分のように自然を見ている人はいない、そういうふうに強いられたからそういう生活をしていたのである
それで多額の補償金が入った結果として飯館村を出ていく人が多いことでもわかる
金の力がそれだけ強くなったからそうなるのである
実際外から見ていれば自然がありそういう村がいいと言えるのはそこで暮らしていないからである
でも未来は何なのか?未来に残すべきは何なのか?

未来に残すべきは自然だった!

これから生きる未来に生きる子供たちに残すべきは何だったったのか?
それは自然だったのである、その自然が破壊されたとき暗黒になる
もう人も住めなくなったのである
住むべき自然が残されなかったのである
その責任は今の世代にあり文明自体を作った人たちにもあった
ただそれはここだけではなく世界全体グロ−バルに起きたことなのである
ただ未来とは確実にすべて科学技術こそ未来を作るということで一致していることは世界で共通しているのである
でもそれがここではそうではないことを現実に示したのである
放射能の被害は何代もつづき人は住めなくなった、これこそ最悪だったのである
貧乏でも住めるならいい、住めないということは最悪だったのである

自分たちの世代はもう消えてゆく、でもではこれから生きる子供たちとか世代はどうなるのか?それをう考える時自然が破壊されて残されていないとなるとそこに幸福がありうるのか?まず次の世代まで考えて生きている人はほとんどいない
今が良ければいいとしかない、そのことによって次の世代が苦しむ
カルマとなって次の世代にのしかかる、そもそも幸福とは何かというときそのこと自体の価値観の過ちがこういう結果を生んだともなる
限りない欲望の拡大しかないのである、もう金のためなら何でもする
自然破壊もそのためにはやむをえないとなるとか無関心となる

そもそも人間は景観を見て感動するより飯の種にならなかったらそういうものは美はいらないとなっているからだ、それが人間の醜悪さとしてある
だからこそ東京のような怪物都市とかニュヨークでもそこに美がなくても生きていられるのである、その人間こそが異常なのである
そういう異常性に気づいていないのである、ただ経済だけを見ている
美を価値として見ていないのである
だから東京に住んでいた山尾三省があれほど田舎に執着してまるで田舎に命を捧げるほどになったのは逆説だったとなる 

第一田舎の人こそ東京の人と変わりないしむしろ東京の人より価値観では同じであり強いともなる、いい家が欲しい、いい食べ物を食べたい、いい車が欲しいとかもうきりないのである、借金してもそうしているのが現実なのである
田舎があって自然があってその価値観に生きている人はいないのである
だからこそ原発は積極的に誘致されたのである、原発は金の成る木だったからである
だからなんらかそうした都会の価値観とか文明の価値観を否定しないかぎりそもそもまた同じことが起きて住めなくなる、その価値観を変えなければならないのだがそれがもう簡単にはできない、それがみんな望むことでありそれを一人が反対してもどうにもならない

その一つがクルマ社会が変えられないのはみんなが車がなくては暮らしていけないと思っているからだ、だからわずかでも減らすこともできないのである
そして自転車を邪魔扱いしている、そういうこと自体いかにもう変えることが不可能かわかる
自然などどうでもいい、美などどうでもいい、それより便利さでありあくなき欲望の充足である、山なんかはげ山になってもいいとか森がなくなってもいいとかそれより電気だとか贅沢な暮らしだとなる、そういう価値観を変えられないのだから根本的には変えることはできず同じことが起きる、その未来も同じだとなる
そこに最終的に人類文明の崩壊が起きるという暗いものになる
それより人間の文明が神によって滅ぼされるともなる未来が見えてくるのである  

ただではどうするのか、炭焼きの時代にもどるのか?森が活用されなくなったとき木材が外材となり利用されなくなったとき森が無用のものとなり人の手がは入れらずに荒廃した、つまり炭焼きでも入会の共同の山でも森でも利用していたとき自然も活きていたのである、いくら景観をどうのこうのといっても現実の実利として自然と結びつかないと自然も維持できないのである
だからどうしても自然保護だけとなえているときれいごとだけになり結局自然は維持できなくなる
でも本当にこの辺は原発事故でどういう生活があるべきなのか?山尾三省は極端にしてもそれほどまでに自然との合一した生活を修行者として自然への殉教者のように実践して早めに死んだといことは何だったのだろうと問うのである

実際は全く田舎であれ地方であれむしろ都会人より欲望は深く都会人志向であった
だからこそ原発は積極的にむしろ地域で豊かになるために奪い合うようにして誘致していたのである
この辺では反対した人は一人もいない、それがこの辺の特徴だったと思う
そして残すべき自然は破壊された、未来に生きるものは放射性物質と遺伝子の恐怖に延々とおびえるというより住めなくなったのである、子供たちでも飯館村には住んでいない、将来も住まないのである
それは飯館村の責任でもない、原発によって自然は奪われて住むことができなくなったのである   



真野ダムができる前の大倉村の真野川の映像

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大倉がダムになる前のビデオ映像が残っていた
ただこれも30年前であり画質が相当に悪い、でも真野川が大倉を流れていた
急流ともなって岩を打ち流れていた、その真野川にそって家が結構あった、一部落を形成していた
ダムに沈んだとき高台の方の家は今に残っている
これは貴重な映像である、他にも30年前のビデオの映像が残っているのでそれを記録してプログに出す予定である




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2019年08月27日

地方(大倉村)の小さな碑が語る歴史の重い事実 (神社は国家神道となり戦勝を祈る場となった)


地方(大倉村)の小さな碑が語る歴史の重い事実

(神社は国家神道となり戦勝を祈る場となった)
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大倉の山津見神社


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他の稲荷神社

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アマテラスやコトシロヌシといった人格神から始まったわけではない。「場所」の特定が最初だった。神社は、そこに神籬(ひもろぎ)や榊(境木)や標縄(しめなわ)などを示し、「ヤシロ」(屋代)という神のエージェントともいうべき「代」を設定することから発生した。
 やがてこの「場所」をめぐって自然信仰や穀霊信仰や祖霊信仰などが加わり、さらに部族や豪族の思い出や出自をめぐる信仰がかぶさって、しだいに神社としての様態をあらわしていったのだと思われる。

 神仏集合


神社の起源は複雑で多様でわかりにくい、例えばなぜ相馬地方に綿津見神社と山津見神社がこれほど多いのか?
それは松川浦に山津見という地名があり山津見だから山と関係しているとはならない
綿津見神社と山津見神社は対になって伝えられた
それは海から移住してきた安曇族の神だったとしている
安曇族が大和国家形成の前に日本を移動して子孫を増やした
それで長野県の安曇にその名を残してそこでは船の祭りをしている
船と関係しているのは船を操作するのにたけていた海洋民族だったからである

その安曇族が相馬地方では海からやってきて飯館村の山津見神社を祀らせた
つまり安曇族の子孫の神である、ただわからないのは安曇族というのは何かはっきりしない、その痕跡も残っていないが綿津見神社と山津見神社がこれだけ多いのはその子孫がここに定着して住んだからだとなる
そして古事記でも国造りでもそうしした海洋民族が作った神話として理解される
国産み神話では海洋民族の特色が色濃いからである
そして死までも佐渡島まで国産み神話で生まれたという時そこまで安曇族などの海洋民族が移動したことを示しているのである

とにかく神社とは何か?それはこの解説のように場所と深く関係して生まれたのである
それで自分自身が場のことをアイディンティティ化して詩にしているのと通じている
人間の生はその場と一体として文化も作られてきた、だから世界でも文化はcutivate-cultureなのである
何かその土地で神聖な場所に社を建てたとなる
その感覚は今でも人間として生きる限り変わらないのである
人間はその土地と一体化してゆく、その土地とアイディンティティ化して一体化してゆくそのことで私は詩を作って来た、その土地の山であり石であり岩であれ樹であれアイディンティティ化して一体化してゆく
それは外国でもそうである、ギリシャにあれだけ神々がるあるのともにているのだ
それはその土地と不可分に結びついている
ゼウスが住んだというオリンポス山は春に行ったみたら雪に覆われて本当に神々しいものだったのである、ギリシャは海と山が迫り島が多く日本の地形とにていたのである
だから自然の中に八百万の神が宿る日本とにていたのである

私は常に墓とか古い碑に関心をもっていた、江戸時代の碑があるとそこに注目してしげしげと見る、ただ明治以降になるとあまり関心がないのである
例えば身近でも意外と古いものがある、近くの神社に天明の碑があったり鹿島神社の脇に暗唱せよという小さな碑があったりしてこれは寺子屋があった証拠である
そして鹿島神社は建御雷(たけみかづち)の神を祀るものである
これは武の神なのである、その脇に墓地がありそこは元は鹿島神社の領域でありそこに寺が作られた、神仏習合の寺であり神宮寺とあればそれである
だからこういう小さな忘れられた碑が歴史を語っているのだ

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これは僧侶の名だろう、ここに暗唱せよというのが記されている


不詩(文)朗謡-朗詠

朗謡-朗詠・・・暗唱
詩に文にせず暗唱せよ
謡(うた)いなさい

自分の家の墓地に江戸時代の碑

佐須村より多いのは真野ダムの前には戸数も人口も多かったからである
村の中心部がダムに沈んだためである、また官林の面積が広くそこで山林事業で財をなした山持ちがいたためである

それで今回発見したのが大倉の墓地がある所に忘れられたように石段も崩れてある山津見神社の入り口の狛犬の台に
国威宣揚、武運長久とか記されていた
これは太平洋戦争時代に記されたものである
この時こうした村の小社まで国家神道化して戦勝祈願していた
つまり大倉村など本当に小さな村なのだ、所帯数にしてもわずかである
そこには平地がない、でも山持ちで金持ちがいて相馬市の前は中村市の女学校に通っていたというばあちゃんがいたのである
相馬の女学校に通っていたとなるとこの辺ではエリートであり相当な金持ちしか行けなかったのである
私の姉は頭が良かったけど女学校に行けなかったと悔しかったと言っていたからだ

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そしてなぜこんなと小さな村の小社にまで戦争の痕跡があったことに驚いた
ここでもこうして戦争に狩りだされて戦争に参加した人がいた
それは全国でもそうである、そして今なお戦死者名を記している原町区の馬場の綿津見神社神社にあった、神社と戦争は不可分な関係にあり「忠魂碑」未だにどこの神社でもある、それは天皇が現人神(あらひはかみ)となり戦争に兵士として小さな村からも満遍なく集められたからである
それで映画があり戦争が終わって村に英霊となり帰ってくる幽霊を写していた
村に英霊となり亡霊となり村の社に帰ってくるのである

ある日、清作さんは、村の子供たちをつれて、帰ったら、かならずいこうと思おもっていた、源吉さんのお墓へお詣まいりをしました。そこは小高い山やまでありました。
「さあ、これが話をした源吉さんのお墓だ。お国のためにつくした村の勇士しだ。みんなよくお礼れいをいって拝おがみなさい。」
 子供こどもたちは、お墓はかの前まえにならんで、手てを合あわせて頭あたまを下さげました。

 村へ帰った傷兵 小川未明

この時日本全国が戦争一色になっていた、だからこんな小さな村にもそうした痕跡が残されていた、第一この狛犬の台座にこうした言葉を記すというのも違和感を感じる
それは戦勝祈願だからである
もちろん戦争には今でもいろいろな見方がある、それを全部を否定できない
でも戦争というとアジアからアメリカイギリスもかかわり世界的になる
でもこの一部落がこんな小社が戦争に関係づけられたということの事実である
その当時はこの小社でも戦勝祈願の社となっていたのである
国家神道化されていたのである
戦争という時、姉が従軍看護婦としてシンガポールの向かい側のジョホールバルの赤十字病院で地獄の苦しみのなかで働いたことを延々と聞かされた
遂に認知症になってもそのことを千回も聞かされた、だから戦争は身近にもなる

ただ70年も過ぎると忘れられてゆく、そしてこのように当時のことも忘れられていたがその狛犬の台座に当時のことが生々しく記されていたのだ
歴史とはこうして忘れられるのである、そして残された碑でも忘れられてゆく
注目もしなくなるのである
ただ自分にとってこれは衝撃だった、こんな忘れられような小さな部落に戦争を伝えるものが残っていたということがショックだったとなる
ここから当時をふりかえることになる
戦争という時戦後でも相馬地方で山に開墾に入った人たちが多い、15パーセントくらいいるとなるとその数は多いのである  

私は小池に引揚者で入った人がいることを知っている
そこに玉子買いにやらされていたからである
それから飯館村でも大倉から坂を上って木戸木には十軒くらいの開墾部落があった
そこは本当に辺鄙な場所なのである、そんなところでどういう生活をしていたのか不思議だとなる
浪江の山の方へ放射線被害が大きかた津島の方だとそこも多かった
それで苦労して開墾して住んだから強い絆があるというのもわかる
それがそこには住めなくなったのである
つまり戦争から戦後となるとすでに戦後でもその時は子供時代でも団塊の世代は戦争とかかわる時代だったのである

とにかく人間は常に時代が変わり忘れられてゆくのが早いのである
だからこの狛犬の台座に記されている字で戦争がここにも色濃く反映して影響して会ったことを知ったのである、歴史というのはこうして忘れられてわずかのものから回想することになる、それが大きな事実でも忘れられて小さな碑のわずかな文字が昔を語るだけだとなる、戦争も70年過ぎるとそうなってゆくのである




夢 (映画)黒沢明
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トンネル


敗戦後、ひとり復員した陸軍将校が部下達の遺族を訪ねるべく、人気のない山道を歩いてトンネルに差し掛かると、中から奇妙な犬が走り出てきて威嚇してきた。

追われるように駆け込んだトンネルの暗闇で私は、戦死させてしまった小隊の亡霊と向き合うことになる。自らの覚悟を語り、彷徨うことの詮無さを説いて部下達を見送った私はトンネルを出るが、またあの犬が現れ、吠えかかってきた。

私はただ、戸惑うしか無かった

戦死者が亡霊となって故郷へ帰ってくる、トンネルを出てくる
それを返すのだがそれが何か生々しいのである
戦死者の亡霊は小さな村の社から出征して帰ってくるがそれが亡霊となっていたのである未だに戦死者の亡霊は実際は日本中で彷徨っている
posted by 天華 at 14:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2019年08月26日

芙蓉が似合う飯館村 (新涼に訪ねるー人が住まないと建物も自然も活かされない)


芙蓉が似合う飯館村

(新涼に訪ねるー人が住まないと建物も自然も活かされない)

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ここは栃窪でありこの石碑は明治時代が多い

ところが上の方に行くと金毘羅の碑が多く江戸時代の碑なのである

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山津見神社

綿津見神社も飯館にあり対になってこの辺では本当に多い

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文化という時代である、この石碑は倒れていた
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大倉村の主要部分はダムに沈んだ
ダムになる前に行ったことがある、そこはまさに秘境だったのである

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芙蓉がいたる所に咲いていたーここは新しくできたふれ愛館である

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石がその土地に根付いて離れない

そんな感じの大きな石



蔵に映ゆ木槿や農家ここに古る

栃窪に古碑の並ぶや実りかな
                                                        

草深くフジクロセンノウ咲きにけり飯館に我がたずねきたるも

大倉の墓地またたずね人気なき秋の蝉の声ひびき静まる

大倉に我は休みぬ秋の蝉ここに鳴きにつ誰か住みなむ

夏草にうもれし碑かな大黒天その碑倒るも直す人なし

ひぐらしの森の奥よりひびきけり大倉暮れて我が帰るかな

ゆったりと赤と白との芙蓉咲き客を迎えむ飯館村かな

この石の土地に根づきて離れざり虫の音聴きて夕暮るるかな




芙蓉が似合う飯館村

峠越えて新涼の山の村
悠長なる時の流れて
赤と白との芙蓉咲き
二つの花の愛のそそがる
至福なる日の我にあり
ここに心安らかに客を迎えむ
広々とした所に
一軒一軒森に包まれた家
その花の大らかにふくよかに
山間の空を仰ぎ咲く
ここを訪ねし者よ
疲れし者よ、癒されむ
去りてもそが心に深く
その花の写し残さむ 




今日は涼しい感じだから飯館村まで行った、途中大倉により墓地とか古い碑を見た
江戸時代のものがあった、大倉は古い村なのである
葉山(羽山)祭りというのが残されていてそれは古いものなのである
この辺では葉山信仰が盛んなのである
ただ墓地にあったのは山津見神社である
これは栃窪村にもある、その本山が佐須にある山津見神社であり飯館村には綿津見神社もある、これは二つがセットになった神なのである
安曇族のもたらした神だとされている、とにくかこの神社は相馬地方に本当に多いのである、それはなぜなのかとなる

大倉村には人が住んでいる、少ないにしろ住んでいる、だから蝉の声を聴くときやはり人が住んいるのと住んでいないのでは大きな差がある
またそこに暮らしがあるとないのでも大きな差がある
人が住んでいれば蝉の声でも人をイメージする、秋の蝉の声がひびけばやはりその村自体が山村に住む人たちの秋を感じるのである
つまりそこに村があり人の暮らしがあるのとないのとはまるで違ったものに感じる
人が住んでいてければ原始的な森になる、そこから人をイメージできなくなる
そこに人が住んで暮らしがあれば季節の移り変わりがあり人のことを思うのである

飯館村にはなぜ秋の蝉が鳴くころ行っているのかとなるとやはり暑いと自転車では行きにくいからである、特に最近日ざしに弱くなり熱中症になったから怖くなる
今日は新涼であり気持ち良かった
だから楽に飯館村まで行けた
途中会ったのが新幹線で郡山まできて三春からこっちの方に自転車で来た東京の人だった新幹線は輪行できた、これはいい方法である、景色のいいところを回れるからである
そして二三日だとそれほど疲れないからである
東京から自転車できたら大変だからである
いい景色の所を回るには途中下車で輪行するのがいい
飯館村のキコリの宿は泊まれるようになった
ただ食事は出ないからそこは気をつけた方がいい、コンビニがあり弁当は買える

飯館村はいたる所に芙蓉が咲いていた、道の辻でもまでい館でもまた新しい交流館でも
芙蓉が咲いていた
飯館の花はひまわりの里としているが芙蓉の里である
ひまわりは他でもあり飯館村は芙蓉があっている
花というのもその土地にあったものがある
相馬市だと神社に古い藤の木があり藤の花である
鹿島だと草深く咲く月見草とかなり原町だとひまわりがにあっている
何かにあう花がある、飯館村は前から草深く森深く花が映える
フジクロセンノウというのも草深く咲いていた、これも飯館村にあっている
飯館村の不思議は花が他より純粋に美しく見えるのである
高山植物のようにも見えるのである

ただ正直そこが放射線物質のフレコンバッグが積まれていたり荒地になっているので荒涼とする、ただ花を植えたりはしている、でも荒れ果てたという感じになる
それは小高でもそうである、田んぼが草ぼうぼうになり荒地になっているのだ
それが嫌なのである、田んぼというのは自分も気づかなかったが田んぼが荒地になり草ぼうぼうになったとき蛙が消えてその鳴き声を聞こえなくなり鷺も消えたのである
だから田んぼというのは米を作るだけではない、生態系を維持するものとしてもあった
景観を維持するものとしてもあった、それに気づかなかった
その効用に気づかなかったのである、だから農業をただ食料をとれるだけのものとして見ることは間違っている、自然を生態系を維持するための機能があった
それは金にならないにしても自然と一体化してあった
蛙の鳴き声が聞こえず鷺でも見れないとしたら淋しいとなるからだ 

景観(自然)と生業と暮らしが宝だった!

飯館村というときまさにこれがあったとき宝だった、それが全体として価値を作っていたのである
ただそこは貧乏にしても外から来た時でもなんともいえぬ味わいを出していたのである
そもそもそういう価値は全体が作り出すのでありそれが破壊されたとき失われたのである
それが原発事故の罪深さでありそれが飯館村に一番象徴的に現れたのである
多額の補償金をもらって外の便利な街に移り住んで良かったという人も現実にいる
外からただその暮らしの現実を見ないで理想化するのは問題だということもある
畑を趣味でしいてもそれがいかに苦しいものか理解している
畑仕事はブヨにくわれた、キジに野菜が食われた、ネズミに食われた、盗まれた、種が高い、肥料が高い・・・
様々な問題があり外から見ているだけなのとは現実は違っているからだ
ただ旅人のように訪れる時そうした苦労も人間の嫌な面も見ないですむからいいのである
それでツキデウスの人間の暮らしを神が隠したというとき自然の中に隠されるように人間の暮らしがあるときそこは桃源郷のようにいいものとなったのである、でもこの世に桃源郷などないのである、それはありえないから桃源郷なのである

までい館でアスパラガスと大きなトマトを買った
それは飯館村で作ったものである
そこでは放射線量を計っている人がいた
放射線量は量に作用される、多く食べれば体に蓄積される、少なければそうではない
それも確かである、相当の量を食べないと蓄積されないだろう
飯館村に住んでいた老人が山菜をキノコでも食べていた、その人は70以上とか80とかなっているから放射線は関係ないとして食べていたのである
その人は外から派遣された人ではなかった、飯館村の人だったのである
真野川の水質検査している人は中央から派遣されている人である
この前は農水省の人とあった、まだそういう人がこの辺には派遣されている
トラックが放射性物質を運んでいるのだろう
道路が狭いから危険なところがあった

までい館の前は住宅地化して家が建つ、その前の古い農家ではその土地を売って補償金でも多くもらったから新しい家になっていた
何か飯館村では補償金の額が大きかったから外に出る人も多く残る人と残らない人でもめたとかあった
現実に交流館とか他に学校でも建物は立派なのである
でもそこに住む人がいないことが致命的なのである
子供すら外から通っているのであり住んでいないからである
村長の孫とかでも通っているのである、それもは矛盾である
なぜなら村長自体が住まないのだからその他の人も住まないとなるからだ
帰ったのは二割弱というから少ない、そのことで人が住まない牛を飼うことなどの暮らしがないということで前に来たような感覚になれないのである

やはり人間は建物でもそこに人が住んでいないければ活きてこない
施設を立派にしても活かされないのである
それで立派な施設が南相馬市にあってもそこで働く介護士などいないから青森にこの辺では介護者が移されているのである
つまり立派な施設が建物がなくても人がいれば活きるということがある
人がまずいなければ建物でもなんでも活かされないのである
前に着たときも芙蓉が咲いているのが印象に残っていた
でも何か前の印象とは違うのである、それが残念なのである 

ともかくようやく涼しくなり自転車で遠くに出かけられた、暑い時はぐったりと疲れて寝ることが多かった、秋になれば遠出ができる

posted by 天華 at 21:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2019年05月04日

新緑と山桜と枝垂桜(写真12枚) (大倉から飯館へ―人が住んでいて安堵した)


新緑と山桜と枝垂桜(写真12枚)

(大倉から飯館へ―人が住んでいて安堵した)

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藤の花と山吹
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山桜と山吹

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ルリタテハが神秘的だった

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猿がいた

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草野の方へ
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人が住んで菜の花畑にした
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ここはなんだったのか謎

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安政の碑があった
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木戸木の奥の人が住んでいた跡
小屋のようなものがあった、こんな所に人が住んでいたことの不思議

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新緑の常磐高速早しかな

雲流れ光のさして山桜

山桜高みに映えてなお散らじ

八重桜老人出会うサイクル車

猿登る山桜かな山に住む

飯館の家々離れ夕桜

落椿赤さ広がり夕暮れぬ


山吹に藤の花映ゆ清らかに流れひびきて山分け入りぬ
                          
新緑の山を一気に満たすかななお残り咲く山桜映ゆ

山桜と山吹映えて新緑の道のつづきて坂越え行きぬ

山の影そびらに映えて夕暮れや山桜見ゆ山の深きを   

菜の花に古き碑ありて山桜映えてそ山の暮らしありしも

なお知らじ道をし行けば家ありて山桜映ゆ森の深しも

家あるとしるべや森の深きかな夕べ映えにし山桜かな

飯館のともしびあわれ家々に枝垂桜や夕暮るるかも

          (木戸木)
          
木戸木なるその奥にそ棲む人の跡たどりてあわれ散る椿かな 

木戸木なるその奥に住む跡ありや枝垂桜に散る椿かな

幽遠に人住む跡や山の奥枝垂桜に夕暮れあわれ

赤々と椿の散りて木戸木かな誰か棲む跡夕ぐれぬかも

半鐘の一つありにし暮らしあり木戸木の村や春の夕ぐれ

橋一つ共栄橋とここにしも開墾に入る暮らしありしも




飯館村の春

影なす森の道ここにつづき
森深くしるべの如く住む家ありぬ
山桜そちこちに咲き
広らかな土地に幸いや
墓地ありて眠る人 
道の辺の石は黙して古りぬ
すみれの飾らずあまた咲き
夕べともしびあわれ
枝垂桜の色深め
家々は離れ眠りにつきぬ
ここに生きる幸いを知るべし
村は悲しも分かたれぬ
土は活きず森も活かされず
牛の声は消えぬ
この村に原発事故の罪深きを示す
いつの日にこの村の元に戻らむ
ただ時のみそそれをかなえるや
その日は長くも森は残りぬ   



飯館村で今回感じたことはそれなり草野周辺は人が帰って家に住んでいる、住んでいない家があるにしても前よりは様子が変わったと見た、だから一軒一軒に枝垂桜が咲きともしびが見えたとき何か安堵した
飯館村の特徴はとにかく広いのである、道が幾重にも分かれて森の道がつづく、それで方向がわからなくなり迷うのである
飯館村にはどれだけ行っているかわからないのにそうなのである、それだけ広いということである
だから長泥(ながとろ)とかに行ったのは一回でありそれも記憶から消えているのである

その広いことにより家があることがまるで道標(みちしるべ)のようになる、それが飯館村の魅力だとなる
ここは自転車で行くの向いている、私は前は気ままに自転車で阿武隈高地を行っていた
ただここ十年は介護とか病気で行けなかったのである

今回は大倉村で山桜にルリタテハが舞っていたのは神秘的だった、新緑と山桜と山吹と藤の花も咲き始めた
この頃が一番いい季節である、これが梅雨になったり7月になると暑くなると去年は日射病になったから行けなくなる
新しいヤマハの電動自転車は楽だから行ける、前のだと相当に疲れて行けなかったのである
だから70歳でロードに乗っていた人には驚いたのである

ともかく飯館村は森が広いし土地も広いことが魅力でありそういう中にまるで家が道標(みちしるべ)のようにある
それだけ広いからそうなる、モンゴルとかの草原でテントがあったとき道しるべとなっているのとにているのである
ただもしそこに人が住んでいないら空家ならそうはならないのである
人が住んでいるから道標になる、ただ草野周辺は結構人が住んでいた、でも広いからあとは人がどさだけ住んでいるのか?
とにかくやはり人が住まないとあんなに広いのだから荒涼となってしまうのである

帰りは木戸木によったけどそこが一番不思議だった、あんな奥に家があり人が住んでいたことが不思議である
あそこは必ず通っていたけどあんなところに人が住んでいると思わなかった
今あそこに住んでいるのは一軒だけである、車があったからわかった
あそこは戦後入植した村である、共栄橋とかあるし不便な所だからである
それでも十数軒ったのは意外だった、あんなところに暮らしていけたのかとなる

飯館村のように広いと墓地でもそこに眠っている人は気持ちいいだろうなと思ってしまう
自分の家の墓は街内にありごちゃごちゃして墓の中を歩くこともできないのである
都会の墓よりはいいとしても狭すぎるのである
死んだらわからないにしても飯館村のような広い所だと墓地でも死者も悠々と眠れるとなる
東京辺りでは墓まで団地のような所の狭い空間に区切られて閉じ込められているのである
死んでからも窮屈なのである

原発事故では飯館村のような自然に恵まれた村が一番被害が大きかった、それが原発事故の罪深さを示したのである
東京などは別になくなってもいいとも感じる、あんなモンスターのような都会のどこがいいのかとなる
そういう文明が誇れるのかとなる、でも現実そこに密集して人が住んでいる、そこは密集地獄なのである
確かに一方では飯館村に住んで満足していたかというとしていない、だからこそ多額の補償金をもらったとき福島市とかに移り住んだ人が多いのである
歯医者すらないしスーパーだって小規模であったからだ、車がなかったら買い物すらできないし医者にかかれないのである
そういう不便さがあるけど広々とした自然の中につつまれて生きている、ただそういう暮らしにみんな満足していたとは限らない
そして外部から来る人はそうした生活の不便さや貧しさなど感じないからいいと思うのである

いづれにしろ人は前よりかなり帰って住んでいる、でも草野周辺しか見ていない、広いから後は住んでいるのかどうかわからない
でも人が住んで灯がともり枝垂桜が一軒一軒に咲いていて安堵した
その灯がなんともいえぬ人のぬくもりを感じたのである
それはやはり飯館村は広いから一軒一軒の家が離れてあるからそうなる





posted by 天華 at 11:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2019年05月03日

5月に大倉から飯館村まで出会った人 (それなりに前より帰っている家は眼についた)


5月に大倉から飯館村まで出会った人

(それなりに前より帰っている家は眼についた)

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真野ダムは青い線まで水があった

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5月25日サイクリング大会

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猿がいた、クリック拡大

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相馬農業高校の分校
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震災以後時計は止まったまま
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ここで60代の女性と話した



最初出会ったのが大倉の真野ダムで原町の人でありロードにのっていた
若い人かと思ったら60代と70の人だったのである
60でもそうだが70でロードに乗るのはきついと思った
前から乗っていたにしろ70はきつい、あそこは坂がきついからである
自分はいつでも歩いて上っていたのである
あの年でも坂を上りきることが快感であり電動自転車は使わないという
高齢化でみんな年齢では計れない、体力の差があるし健康の差も大きくなる
病気になった人は弱った、脳梗塞を経験した人は同じ年でも弱ったからである

真野ダムの水位はあんなに低くなると不安になる、なんでも崖のところに水がないと水圧がなくなり崩れという、そういうこともあるのかと思った
大倉にも何軒か帰っているにしろ一軒の店はなくなり自動販売機もなくなったから困ることはある、飲み物を用意していないと困る
サイクリングが5月25日にある、あの辺はサイクリングに向いている

そこから木戸木に行って新しい道を行った、猿が山桜の木に登っていたり渓流にも猿がいた、人間がいなくなると猿とかイノシシは住みやすくなる、警戒しなくなるのだ

までい館が休んだ、あそこには地元で作ったものを置いていないので魅力がない
それもどうしようもない、放射能でとれない、キノコを置いてあっても売れるのか?

次にそのまでい館の前の新しい住宅地におばあちゃんがいたので話した
までい館の前に相馬農業高校の分校があり震災前まで生徒がいたのである
その学校の時計が4時12分で止まっている
それは3月11日に地震があった日の時間でありそれ以来止まったままなのである

「あそこの学校は震災前は生徒がいたんですね」
「あそこはずっと前はみんな集まってにぎやかなときがありましたよ」
「なんか淋しいですね」
「どこからきたの」
「鹿島です、飯館にはしょっちゅう来てました、でもあそこの学校の奥の方に行ったら知らない所だった、いや、本当に飯館は広い、知らない道がありどこに行くのかほからなくなる」

それから放射能のことを話した

「長泥(ながとろ)ではまだ除染しているようですね、私の知っている人の息子も除染の仕事したといいますから」
「だいたい終わったのよ、長泥からは東電の原発の煙突が見えるんですよ」
「ええ、本当ですか?相当遠いはずだけど・・・・」

長泥からとても原発の煙突が見えると思えなかった、長泥という場所に一回くらい行った記憶があるけどそれも相当に遠い場所だったと記憶している

「ところでここに住んでいるのは若い人住んでいますか」
「一軒くらいは住んでいるけど老人が多いよ」
「やっぱり、前の新しく建てた住宅でも老人が多いと言っていましたから」
「放射能でどうにもならないよ、若い人は帰らないよ」
「なんかこの土地は前の農家の土地でその人が土地が売れて金が入り喜んでいました」
「そうですか、私は土地も家もない住宅に住んでいたから」

その女性は確かに飯館に住んでいても家も土地もなかったのである
その前の家は塩の道の通にあり蔵があり古い家だったのである
その家は新しい家を建てたから確かに金が入ったことは言える
一般的に飯館村は補償金は相当にもらった
だから新築の家が多いのである
そしてそれなりに人が帰っている、でも飯館村は広いから草野からはずれた遠くは人は住んでいなのかもしれない、ただ広いからわからないのである

そしてまた帰りに大倉に寄ると東京の練馬から来た人が公園でキャンプのために
テントを張っていた、そして煮炊きもしていた
なんか前にもボランティアで大倉に来ていた、だから知っていたのである
そこはキャンプはしていけなかったが特別許可をもらったらしい
なんでも練馬区から来たと言っていた
環境緑化新聞の記者だとも言った
インタ−ネットで調べたらあった

環境緑化新聞

夫婦ともう一人男性がいた、もう一人の男性は造園関係だと言っていた
東京というとき練馬区ってどこなの?となる
                                           
“都心3区”と呼ばれるのは千代田区、中央区、港区の3つ。
皇居に隣接しているため、昔から商業はもちろん、政治や企業の本社機能などの中心として栄えてきました。

現在も東京駅を中心とした大手町・丸の内などのビジネスエリア、銀座・表参道などの商業エリアとして日本の経済活動の中心となっています。

東京の中でも地価がもっとも高いエリアでもあり、居住者は少なく夜間人口は昼間人口に比べてグッと下がります。

やはり江戸城を中心に見るといいのかもしれない、ただ練馬大根とあると江戸時代だったら農村部だった
今は全然違っている、ただ江戸城からもともと離れた地域だとみるが東京は地理はわからない
わかるのは皇居のある中心部だけである

今回キャンプしている人は遊んでいる人である、前にボランティに来たとしても今は何もすることがない
八戸とか災害地に行っているというが何かする訳ではない室根山に行ったとかも行っていた
車で東北を旅行しているのである、ただキャンピングカーではない、そういう人も今高齢化社会で仕事していな人が多いからいる
めずらしいことではない、ボランティアでも今は何もしない、ただ旅行しているというだけである  

ともかく飯館村ではそれなりに草野辺りから周辺と帰って住んでいる人が前よりかなり多くなっている、ただ老人が多いのだろう
老人は離れられないここに住む他ないと言っていたからである、それは小高でも避難区域ではそうなっているのである
別にそこであった60代の女性でも山菜を食べているという、前もそういう人がいたのである
飯館村では山菜を食べるのが普通だったからである、それができないとなると飯館で暮らすメリットがないのである
ただあれだけの広い地域をどう活かすのか、確かに牛を飼いはじめた人がいたとしても極わずかである
牛を飼うのに良かったのはとにかく土地が広いからである、牧場にできるからである

でも今になるとこれだけ広い地域をどう活かすのだろうとなる、農業は放射能汚染でしにくいからだ
それぞれの地域によって復興は違ってくる、飯館村はとにかく広いのである
その広さをどう活かすのかとなる、小高だったらマルシェのようにな街中心の復興がありえる
飯館村の復興となるとその広さの故にどう活かしていいのかとまどうのである
今回も迷うから遅くなるから早く帰って来た、そこは行ったことがない所だった
道が幾重にも分かれていて入ってゆくと方向がわからなくなった
前にもそうだった、東京から来た人はGPSを備えているというのもわかる
方向がわからなくなる、磁石をつけているがそれでも東と西が何か絶えず変わり方向がわからなくなるのである
次は時間をかけてまた飯館村を探索してみよう

飯館村ではまだ山桜が咲いていた、そのことは今日の一句一首でつづきとして書く

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2019年01月10日

花の映える飯館村(詩) (原発事故で一番被害を受けた無惨になった村)


花の映える飯館村(詩)

(原発事故で一番被害を受けた無惨になった村)



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広々と各々庭のあり
夏の日に花は映えぬ
とりどりに小さな花々も
明るく大きな花も伸びやかに咲く
秋の日は芙蓉がゆったりと咲く
時の流れはゆるやかに花々は
それぞれの色と形もて
存分に与えらた個性を示す
天より神はその花を見る
そこにつつましい暮らしがある
山菜を食べるまでいな暮らしがある
もうとこちらで牛が鳴き
あちらで牛がもうと鳴く
森に囲まれ小鳥の鳴く声のひびく
その音色は澄んでひびきわたる
それぞれの家は森に囲まれている
人々の家も暮らしも隠されし村
ただ花が日がな映えて咲く村
花と花は争わず互いに認め合い咲く
道の辺の一本の木に秋の日のさして
かなた安達太良の山に陽は没りぬ
秋の蝉ここに静かに鳴きひびき生を終える
その命はここに尽きて幸いなりと・・・
今悲しもその村は荒れ人は去りにき
ただ残れる一本の木に我はよる
村人のここに還る日を待ちにつつ
墓に眠る先祖もまた帰るのを待っている
美しき村よ蘇えれ!
安住の地を回復せよ
そこに人は心身ともに養われるべし



飯館村の不思議は何か南相馬市方面から行くと標高が高いのである、だから自転車だと坂を上るのに苦労した
歩くほかないのである、電動自転車だと楽ではあったがそれでも坂がきついのである
ここに花の詩を書いたけど何か不思議なのだけど飯館村では花が自然のままに咲いているという感じになる
またここでは書いていないけど草むら深く咲く野の花がありそれはまだ誰の目にもふれていないという高山植物のようにな感じになっていた、なぜ花が映えるのか?

それは高原であり森につつまれていて人家も森に隠されている、するとそこで目立つの花になるのである
一軒一軒が広い庭があるし森につつまれているからである、人影もまばらであり自然の中に隠された感じになる
すると人の暮らしを隠せというヘシオドスの言うことがわかる
都会のように人の暮らしがむきだしになり人と家で埋め尽くされた所がどれだけ醜くなっているか比べれば一目瞭然だからである

ただ人の暮らしを隠せというとき飯館村だってそうである、そこに住んでいる人たちも実際はどこでもそうだが醜いのである
田舎の人間が素朴だという時代はとっくに終わっているし前からでも田舎の人間は田舎の人間特有のいやらしさがある
もうそれで嫌にもなるのである、しつこく蛇のようにからみつき噂にした干渉したりするからである
人間はどこでもそうなのである、ただ飯館村はそうした人でも暮らしでも隠されているからただその村の人と関係しないと花だけでも見て帰っていたからそこがこのように見えたのである  

いづれにしろ飯館村は悲惨であり愕然とする、田んぼの土ははがされむきだしになり放射性物質のフレコンバックがいたるところに積まれている
だからあんなに土をはぎとったのは問題だった、除染にしても何かやり方があった、だから下の土と入れ替えるということもそうだったなと思う、たが科学的知識がないからわからない
でもあまりにも無惨の景観になってしまったのである

そして事故後は補償金で村は二分されたのは南相馬市と同じである、前のまでいな村とで一体になるということはない
その補償金が大着すぎたからまたそうなったのである、までいな暮らしより一億円もらって外で新しい家を建てて豊かな暮らしをした方がいいとなったのである、それだけ今は金の力が大きいのである
もしそんな金をもらわなっかたらやむをえないとして質素でもまでいな暮らしで満足する他なかったからである
その時外から来る人は一時的にいるとしたらいい村だとして帰ってゆくのである

でもそこに住んでいる人には不満が大きいのである、スーパーが小さいのがあったとしても貧弱だった
歯医者もなにもないのである、馬券売り場を作ったがそこでもめた、娯楽がないからそうなった
パチンコ屋もなかったからだ、ただ飯館村は原発とは関係ない村だと思っていた
それでも原発で働いていた人がいたということは意外だった
それだけ原発は金になるからそうなったのである

いづれにしろ花が映えるというとき庭が広々としているからそうなった、そして贅沢なのは一軒一軒森につつまれていたからである
それは都会のごみごみした密集した家と比べればわかる、そこにどんな豪邸を建ててもそれが豊かだとは言えない
だからこういう原発と関係のなかった村を破壊した罪が一番大きかったとなる
極端に言えば東京などは価値がないからなくなってもいい、でもこういう自然の中にある村は神がよしとして天から見ていた
そこに天から神の眼は注がれていたのである
だから原発事故の罪の重さはまさに飯館村にその罪の重さを示したのである


posted by 天華 at 14:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2018年12月03日

四人石(詩) (飯館村のまでいな村作りは間違っていなかった しかし原発事故がみんな駄目にした)


四人石(詩)

(飯館村のまでいな村作りは間違っていなかった
しかし原発事故がみんな駄目にした)

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落葉に埋もる四人石

大都会の顔のない
群衆に交じり
その無数の人に疲れぬ
誰でも疲れぬ
その顔に疲弊の色が濃い
山の村の林に
四つの石が落葉に埋もれあり
互いに寄りそいいつまでもあらむ
かなたに稜線の明確に
冬の陽は輝き没らむとす
その鋭い影を心に刻みぬ
ああ 都会に無数の人の群れ
その顔を覚えられることもなし
ただあわただしく消えるのみ
四人石、ここに離れず
記憶を留めぬ
一つ一つの石は異なり
そは長くもあれな
互いに寄りそいつ
ここに留まりて忘れられざるべし
人はみな散り散りになる悲しさ
金の切れ目が縁の切れ目
人はかくして離れて帰らじ
四人石ここに変わらず
長くあるべし
黙しつつも心は通じあう
そは幸いなり
北風は一段と吹き唸るも
ここに変わらず身を寄せ合いぬ
死すともここにあるべし
その場こそ生き死にの場なればなり



何かパラドックス(逆説)があった、双葉町は原子力とともに歩む町として進んだ
結果として住むことすらできなくなった
生業をもどしてくれといってもできない、それは何を意味しているのか?
何が間違っていたのか?

一方飯館村は貧しい村だったけどまでいな村として村作りをしていた
そこはもともと原発とは関係していない地域だった
ただやはり原発で働いていた人はいたのである
原発はそれだけ金になっていたからである

でも飯館村の村作りはまでいな村作りである、までいなとは無駄にしないで物を使うとか生活するとかの意味である、山菜なども利用してまでいな生活をすることである
物を粗末にしないことである、もったいないという言葉とにている
もともとみんなそういう生活をしていた、そうしなければ生活できないからである
外国からなど石油でも入ってこないからエネルギーは炭だとかなっていたから自ずとそうなった

この二つの村は対象的なものとしてあったとなる
しかし原発事故でどちらも崩壊した、双葉は積極的に原発を誘致して町作りしたのだから自業自得だという面があった、だから何か補償金でも限りなく要求することは国民から嫌がられる、原発乞食だとか見られる
それは最初から原発を町の方針として受け入れてそれで町作りして豊かになろうとしたからである

飯館村にはそういうことはなかった、ただ風向きとかその時雨がふったとかで雪がふったとかで条件が悪く最も汚染されてしまったのである
でももともとまでいな村作りしていたし東電からなど補償金をもらっていないだろう
だから飯館村の方針は今になれば正しかった
でも村民でもなんとか豊かになりたいということはあった
だからこそ原発で現金収入を得たいと働いた人がいたのである

ただ原発事故以後は今度は多額な補償金でもめるようになった
できるだけ補償金をもらって村を出る組と残るべきだという組に二に分断された
一つのまでいな村としてまとまることはできなくなった
それは南相馬市でもそうである、補償金のことで分断された

結果的にいづれにしろ飯館村の荒廃はひどい、放射線量が以前として高いのである
だからそこに住めるのかとなり若い世代は出で行きたいとなり帰ったのは15パーセントでありそれも老人が大半だとなりそれは他でも同じである

何か原発とういものが一番打撃を与えたのは不思議に漁業関係とか農業とか林業だったのである、それこそまさに第一次産業でありそれでこれまで生業として成り立っていたものだった、でも高度成長時代になるとその第一次産業は全体の経済活動の一割にも満たなくなっていたのである
そして誰も跡を継がないとかなっていた、グロ-バル化経済でも地方は打撃を受けた
木材は外材になり森の木材を活かせないとか農業でもそうである
そしてもう跡継ぎがいないとかなっていた
今でも農業に従事しているのは65歳以上であり後継ぐものがいないから農業が崩壊して食料危機になるともされている

ともかく何か極端なアンバランスな経済になった、中央と東京と地方の関係でもそうである、日本国土がアンバランスなものとなり歪みが生じたのである
だからこのアンバランスな状態を歪みを元にもどさねばならないということが政策にならねばならない、でもそれも簡単にはできない
それで東南海地震が津波が来ればもう東京でも一極集中だめだとなり地方分散することを決断せざるをえなくなるということを予想する人もいる
なかなか荒料理はそうした大きなことが起きないとできないからである

やはり最初の方針が間違っていたから今日の結果があるともなる
ただ豊かさのみを金になることのみを極端に求めることしかなかった
原発は金の鳴る木であり漁業組合は東電に漁業権を売り渡して贅沢な暮らしをした
事故前補償金で潤い事故後もなんら困ることがないのである
それも矛盾に満ちたものだったのである   
それは漁業だけではない、農業でも林業でもそんなものより金がとなり東電に国家権力の政府に売り渡したのかともなる
そこに価値を見出さなくなっていたからである、そもそも国土というけど東京に住んでいたら土もないのだから意識できない

意識するのはトヨタとか日産とか自動車産業で世界で売ってもうけるということが最優先にされるし政治でもそうなる
だから国土は地は血であり血肉である、そういうものを金のために売り渡したともなる
現実に空気でも土でも水でも森でも汚染されたらもう住めなくなるからである
実際は国土なくしてありえないのだがそういう意識もなくなっていたのである
車を売ることとか電気を生産することの方が最優先されていたのである、それに意義を唱える人などいなかったからである
豊かになるためには金になるのはそれしかないとなっていたからである

私は都会を嫌って田舎で文化を追求してきた、その田舎がこんなふうになるとは予想もできなかった、石が四つ離れずにある、そこに住めることこそ最も最優先することである
その住むことができなくなったらもうすべて終わりだとなる
何がなんでもその場に住めることこそ最優先なのである
それが奪われたときすべての努力は無に帰したとなってしまったのである

だからなにか修復できなくなったこの状態に茫然とする
でばどうしたらいいのかとなると自分にわからないのである
ただ何か無力感がそこに漂うだけになる、なぜなら放射能汚染というのはどうにもならないからである
一旦町でも村でも崩壊すると元に戻すことが至難になるのだとつくづく思った
そこには何もない所から始めるより困難になる
積み木のように一旦壊したらまた同じものを建てるのが嫌になるからである
ただそこに新しいものを違ったものを子供は作ろうとする
それは人間の心理なのである、復旧とは前と同じものにすることでありそれではなく復興は何か前と違ったものに前よりいいものとして復興することである

それができたのは新地町だったのである、駅で書いたが前よりずっと良くなっている、そこはやはり津波の被害だけだから復興できた放射線被害はこれはそのベースとなる土とか水とか森とか空気まで汚染したからどうにもならないものとなった
それに対処する方法がない、ただ花は放射能汚染と関係ないから花栽培はしている
後は奇妙なのだけど老人は山菜を食べているともいう、放射能など関係ないというのもわかる
いづれはガンになるしもう関係ないとなり食べている
でも若い世代が帰らないから復興できないのである

高度成長時代とかグロ-バル経済とか世界的にもゆきづまり次の時代は東京一極時代の転換も言われるようになりそういう転換期に原発事故が起きた、津波も起きた、その時もし原発事故がなかったら飯館村などは貧しくても注目される村になっていた
までいな村とかそれはこれからの人がかえって見本とすべきものでありかえってそれで人が集まるということがあったかもしれない
時代の風潮がありそれに今度は合うものとして村があり移住者すら増えていたかもしれないのである
だから原発事故は本当にあまりにも悲惨なとりかえしのつかないものとして打撃だったと思う
村は補償金で分断されて荒廃した村の土地がある、金があればいいとなるがそれにも大きな負の面がありそれがあからさまにこの辺では現れたのである 

ただこういうことは歴史でも世の中には起きてきた、金の切れ目が縁の切れ目でありそういうことを一身上で嫌というほど経験した
みんな求めるのは金だけでありみんな去った、そして二度と近くにいても合わない、絆とか盛んに言われたがそもそもそんな絆があったのかとなる、結局金の方が大事だったとなる、ここではそういうことが極端な現象となって現れたのである
この世の中でそういうことは日常的に起きているのである、だからつくづくこんな風に町でも村でも崩壊するとなると絆が何であったのかともなるのである、自然の無情、人間の無情、無常を極端なものとして経験したのである
これほど常なきものかということを経験したのである、町や村すら消失するということは想像できなかったからである

ただ冬の空には高原だからやはり一段と星が美しく輝いていたからそういう所は変わらなかった
それは救いだとなる、冬の銀河はその空にかわりなく映えていたのである 


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2018年05月18日

飯館を掘る(天明の飢饉と福島原発(佐藤昌明著を読んで)



飯館を掘る(天明の飢饉と福島原発(佐藤昌明著を読んで)

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宝暦の飢饉の時飯館村の被害が大きかった、明和-安永とつづき天明が最大の被害にあった

相馬藩の飢饉の歴史(宝暦から始まっていた)

相馬市(日立木の薬師堂の宝暦の碑−甲子塔の謎)


1751年宝歴1年
1763年宝歴13年
1764年明和1年
1772年安永1年
1781年天明1年
1788年天明8年戊申

人口が三分の一に減ったのが天明飢饉だった,だから鹿島の秋葉神社に「天明」の碑があるのかもしれない,ここは町内でもやはり農家が多いし農作物の被害が大きかった
神社の隣も農家だし街のはずれだから農家の集落だったともなる

飯館村は標高が高いから夏は涼しくていいが冷害に合いやすい場所だったのである。
それで米を作るより牛を飼うようにしたというのもわかる
なぜ越中とか越後とかから飢饉で空家となった荒廃した相馬藩にそれも江戸時代は自由に移動できないから命懸けで移民してきたのか?
それは江戸時代と今はあまりにも社会が違っている
米所である新潟県は人口が東京より多かった,江戸は百万都市としてあったが新潟県は
166万人いたのである。

@新潟県 165万人
A兵庫県 151万人
B愛知県 143万人
C東京府 135万人

江戸から明治の人口がこうなっていたのである。つまり稲作中心の社会だとこうなっていたのである。
だから越中でもなぜ飢饉で荒廃した相馬藩に移住してきたのか?
それは稲作とは土地中心の社会である。土地がなければ何もできないのである。
そういう社会のベースになっているものを理解しないと時代を理解しないとわからなくなるのだ
それは芸術でもそうだった,時代を反映するからその社会をわからないと芸術もわからないという人がいたからである。
人間は時代の子であり時代を越えて生きられないのである。
その時代も次々に変わってゆくからその時代時代の社会がどうなっていたのかわからなくなるのである。
自分にしても子供時代は炭がエネルギー源であり井戸水を使っていたということ時代をもう感覚的にわからなくなる,そういうことを経験していてもわからなくなる

こういう土地中心の農業中心の社会では土地が一番大事である。土地の価値が高いのである。それで村人が逃散した荒廃した土地に移住しようとしたのはその空いた土地が得られるとういことで命懸けで移住したとなる
またそこで謎なのが今だったら東京とか都会に行った方が食料があると思うだろう
江戸に行った方が食料があるからそっちに移住した方がいいと思う
今なら食がないと東京に行くからである。
これも時代の差である,農業中心の社会では土地があれば生きられるという感覚だったのである。
なぜ満州に日本人は進出したのか?明治大正昭和の人口の増え方は江戸時代の倍になり三倍になりと増え続けたのである。
それで江戸時代からつづいた開墾,開拓はゆきづまっていたのである。

すると農業中心の社会では土地を求めて満州に進出した,広大な土地があるということで移住しようとしたのである。そしてやはりそこでも米を日本人は作ろうとしていたのである。
この満州への移民が戦争のきっかけにもなっていたのである。
それはゲルマン人の移動とか移民は世界史も変えてしまう大きな要因となっているからである。モンゴルでも食料を求めて食料の豊かな中国に侵入するから万里長城を作ったのである。
つまり土地が与えられればとにかく食えるという時代だったのである。
自給自足が基本の社会だからである。
それにしても飯館村の被害が今回の原発事故の被害と似ている面があることも不思議である。

農民が土地を求めた満州に戦争の原因が・・・
http://www.musubu.jp/jijimondai38.html#man

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原発事故の被害状況 天明の飢饉の被害状況


飢饉の被害にあった地域と原発事故の被害とが相似形になっている重なっているのであるこれも何なのだろうとなる,何か人間の歴史にはカルマがある
歴史は繰り返すというときそれも人間個人でもそうだが社会全体でもその土地にカルマがあり繰り返すということもあるのか?
津浪もそうだったのである。400年前の被害を忘れていたがその土地のカルマが40年後に現れたのである。
個々人でも自分のカルマのことを書いたけど必ずカルマは苦しみとなって現れるのである家々にも必ずカルマを背負っていてそれがある時必ず苦しみとなって現れる
これはもう逃れようがないのである。

この時の飢饉で一番困ったのは人口が三分の一まで相馬藩で減ったことなのである。
それを穴埋めすることが最大の問題だったのである。
それで山形県から女買い入れまでしていたのである。

相馬藩は赤子養育仕法で間引き禁止,子供を大事に育てようとした,あるいは五人組制度を強化したのは領民互いに助け合うように説いたものだった,囲米は各村に郷倉をつくって食料を備蓄,飢饉に備えた
相馬藩の復興策は人々の暮らしの視点を大事にした
ハード事業よりソフト事業を優先した

ここで著者が指摘することは原発事故の復興をどうするかの示唆を与えている
例えば飯館村には立派な老人施設とか道の駅も本当に立派である。
学校でも新しく建てた学校は立派である
でもそこに通うのは村外からであり住んでいる人はいないとかなる
村長でも福島市にマンションを買ったとか住んでいない
浪江町でも町長は二本松に家を建てたとか肝心の地元には住んでいない
そんなこと江戸時代ならありえないしイメージもできないのである。
つまり殿様が地元に住まないで外に出ようなどできないからである。

現代ではこうしたハード面では充実している
でもソフト面ではそうではない,五人組など古いというが近隣で助け合うということは苦しいときだからこそそうなる
逆に原発事故では再三しつこく追及してきたがそういうソフト面は何もないとうより
補償金だけをもらいたいとなったのである。
金ですべて解決する,人の絆だとか助け合いなどより金だとなったのである。
だから家族すら老人は残ってもその息子娘所帯は外に出て家を建て別な生活をはじめたのである。
まず江戸時代とかとはあまりにも違った社会なのである。
土地にしがみついて自給自足で生きる社会とはまるで違った社会である。
金さえあればどこでも豊かな生活ができる
江戸時代は金ではない,土地が一番価値あるものだったのである。
その相違があまりにも大きいから復興の比較はできても今の復興にはつながらない

いづれにしろ時代は違っているけど何か似ているのも不思議である。
この時子育てが重んじられたのは子供もいなくなったら藩も維持できないからである。
それで子安神社が建てられたというのもわかる
原発事故でもまさに子安神社が必要になる
放射線の被害から神様守ってくださいとなるからだ

相馬藩は飢饉かから立ち直ったのは人々の助け合いとか越中や越後や加賀からの移民があってできた
それは何か現代でも移民というとき外国の移民を受けいるれか受け入れないかでもめているが共通している,人がいなくなった土地で誰が村を維持していくのかとなるからだ
若い人は流出していて一体誰か復興の主体となるのか?
補償金もらったらみんな村を出てゆき村に残ったものは老人だけだとなる

だから江戸時代が貧乏だからすべて悪いとはらない,豊かになってもかえってその豊かさが復興させなくさせているともなる
金をもらったらもう金のことしかない,補償金で暮らせればいいとしかなくなったのである。
かえって貧しくても村は維持できたが豊かになりすぎて維持できないということもあった金をもらえば貧しい村不便な村に住む必要はない
一億円もらったら村には住まないとなったのである。
実際は一億円の価値の方が現代では高くなっていたという証明なのである。

それだけ金の社会になり五人組など古い封建的束縛社会のものだとなっていたが
もう村人の絆もなにもない,金さえあればいいという社会で分解したとなる
それはここだけではない,南相馬市でもそうであり小高と鹿島は分断されたのである。
飯館村でも金をもらって外に出た方がいいという村人と残るべきだという村人に分断されているのである。
そうなったのはすべて高額な補償金のためだったのである。
これはもしかしたら現代の社会と意外とその絆が弱いからもろい,何かあったときこうして簡単に崩壊してゆくのではないか?
確かに広域的グローバル社会でありそれは世界的である。
でも意外とその核となるコミニュティは喪失して何かあったら簡単に分解分離して崩壊するということがこの辺を見れば
具体的なものとして提示されたともなる

現実に原発事故後七年すぎても避難した人は以前として働いていないのである。
パチンコ屋に若い人も多いと聞いたときその人たちは原発避難者なのか?
そういう人達は今も働かないで遊んで暮らしているのかとも思った
老人は多いのがわかるが昼間からパチンコしているのが若い人も多いとなるとそうかもしれない。
そういう人はもう働く気もなくなる,俺たちは被害者だと訴えつづける,韓国や沖縄の人達と同じになる,そういっていれば通る社会でもあるだ
そしてそれは一代でも終わらない,被害者だということは次の代にも受け継がれるして韓国と沖縄と同じになる
そして何かうまくいかなければ原発のせいだ、政府のせいだ,東電のせいだとしていれば言い訳になるから扱いにくいのである。
だからそういう人達とはなるべくつきあいたくない,距離を置くとなってしまう

とにかくかえって江戸時代のような貧乏な社会で飢饉かから立ち直ったが今回の原発事故では豊かな社会なる故に復興できないというのもなぜだろうともなる
そうういことを考えさせられる本だった
金やハードや事業がすべてでないということを言っていたのは共感できる
人々の心のつながりが絆がしきりに言われたがその絆が断ち切られたのである。
絆は外部のものとはあったがそれも一時的なものである。
肝心の復興の主体になる内部のものが分断されて離散してばらばらになったのである。
その原因も時代にあったといえばそうなる,だからこそ時代を越えて人間はありえないともなるのである。
posted by 天華 at 16:50| Comment(2) | TrackBack(0) | 飯館村

2017年12月26日

自分が求めたのは秘境だった (ワーズワ-スと飯館村などのこと(自分の詩)


自分が求めたのは秘境だった

(ワーズワ-スと飯館村などのこと(自分の詩)

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 ワーズワース

 1770年4月7日 - 1850年4月23日

 1830年、やはりスチーブンソンの手によるリバプール・アンド・マンチェスター鉄道が開業した

湖水地方までは鉄道は通っていない,湖水地方は何かまだ孤絶した地域だった,都会でも相当に離れていた,そこで相手にするのは農民とか羊飼いとかであり工業にたずさわっている人などもいない,工場などないからである。
だからこそ純な自然が保全されていた,それを飯館村とかと比べると原発事故以後に残ったのは菊地製作所であり他でも仕事しているのは製作所とか工業関係なのである。
なぜなら工業は土とか水でも放射能に汚染されないから仕事ができているのである。

イギリスの鉄道は相当に古い,イギリスで最初に蒸気機関車が発明されたから当然だとなる,それが今は日本の日立で特急の車両を作り運行しているのだから明治維新から150年でそれだけ変わってしまったのである。
イギリスに行って日本製の車両に乗るのも不思議だとなる

ワーズワースがほめたたえた湖水地方の住人
達が生活を営む場は、集約農法や製造業の発展といった産業形態の変化の
中で失われつつあった。

この時産業も家内工業から工場や会社形態と変わりゆく時代だった,江戸時代から明治時代に変わるのとにている,ここで人間的なものは失われた。
それは世界的に産業化工業化するなかで同じ経過をたどってきたのである。
アメリカでもソローが生まれたように鉄道すら拒否されていたのである。
文明の発展が確実に自然を破壊することは人間の歴史をふりかえればわかる
森林の破壊なのである。木材は船でも炭にしたりエネルギー源になるから伐採されて破壊されるのは古代からはじまっていてレバノン杉の森は喪失したのである。
湖水地方でも自然の多様な樹々が失われ一様な杉のようなものが植えられたことを嘆いているのもそうである。日本だって杉林の前は多様な種類の木がまじる森だったのである

相馬地方の自然の特徴は何か、丸森とか阿武隈高原があり森と海が特徴である。高い山はないが森が意外と深いのである。丸森は名前のごとく森の世界だった
そこで迷い入り出れなくなったときは恐怖だった,それだけ森が深いのである。
原町の高倉からとかでも飯館村に行く道は細い道が一本通じているだけで森におおわれている,一番印象的だったのは飯館村の大倉から坂を越えた所だった
そこに小川が流れていて森におおわれていて細い道が森の中に通じていた
そこはほとんど人が通らないのである。一日一人も通らない道だったのである。
ただそこにも戦後入植した人達があり十軒ほど家があったのである。
それに気づいたのは最近だった,二三軒はあるなと思っていたけど実際は十軒くらいあったのである。「共栄橋」とかありそこは戦後に入植した人達の村だったのである。
それまではそこは森におおわれていて人は住んでいなかったのである。
そういう場所は日本には結構ある,戦後引揚者が働く場所がなくそうした辺鄙な場所に入ってきたからである。それは浪江の津島とかにもあり山の奥地にも多いのである。
飯館村でもここだけではない,入植者が入ってきた所が結構ある。
佐須などとというときそこは山津見神社があり焼き畑の地名であり相当に古いが戦後に入植者も入ってきているからまぎらわしいのである。

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ただ自分が一番神秘的に感じていた手つかずの自然の森につつまれた所は道路になり失われた,それは原発事故前のことであり今はどこでも車が通り自然が破壊されるのである。原発事故の影響はあまりにも大きいものだった,村は荒廃してしまい人が住めなくなった飯館村の不思議は高原でありそこが別世界のようになっていた
何か花でも高山の花のように高山植物のように純なものとして見える不思議があった
そういう原始的な雰囲気が残されてそうなっていたのである。
ただワーズワースが求めていたように羊飼いとか純朴な農民がいるのとも違う
牛の村だったがにているところはあってもまたやはり現代の村だったのである。
ただ違っていたのは一軒一軒の家が広い庭をもって森につつまれてあった
それが他とは違って贅沢に見えたのである。

迷える足のほか踏みしことなき
人住まぬ谷間や奥深き山中を
いと古き代より汚れを知らぬ地域を
思いのままにさまよいる自由こそは
定命もてるかよわき人間にとり
いかばかり神聖なものぞ!

冬の日にワ−ズワ−スを読む

こういう場所がそこにはあった,ワーズワースが求めたものは何か?それは自分と共通したものがある,自然と人間の精神のモラルの一致でありアイディンティティ化することである,自然こそ真の聖堂であり教会とかの建物に神は存在しない,神は大自然の中にこそ存在する,森は神殿でありそれを模したものがゴシック建築となった

この辺はそれほど純な自然というものが目立たない,それは高い山がないし温泉などもないから外から見ると平凡なのである。
でも平凡に見えるところでも実際はどこでも知られざる秘境はまだ存在している
原町の高倉から森に分け入り飯館村に行く所や鹿島でも水無川をたどって上流の大古林道などに知られざる岩がある
それから丸森の川を上った所にも秘境があった,他にもまだあるがそれは道のない道を分け入ればある
自分のテーマは石であり岩であった

隠された大岩

深い森の影なす一すじの道
それが隠された村に通じていた
その山陰の森の道を一日誰通らない
大きな岩がどっしりとある
その岩の回りに春になると
キクザキイチゲが残る雪のように咲く
それを見た者はいない
そこはまだ開かれていない
分厚い本のいち一ページである。
自分一人のみがそのページを開いて見た
そして閉じていたのである
清らかな流れがひびき
夕べ聞こえるのは小鳥の鳴く声
神秘の蝶がそこに羽根を休める
そこはなぜか日影になりやすい場である。
木暗い場でありしんとして夕ぐるる場である
その大岩は村の人さえ知らないもの
しかしその大岩は今はない
ただ私ははその大岩のように眠りたい
患いもなく千歳眠りたい
その眠りを覚ましてくれるな
ああ 災いの地となってしまった
でも私の心にその森と大岩がある
そしてもう一すじの森の径は消えた
そこに行くことはもうできない
ただ騒乱の日を過ぎ去ることを願う
そして再びそこに千歳の大岩として
私はありて休らぎたい
そこは再び深い森におおわれる
樹々は風のさやぎ森は鎮まる
耳をすませばただ小鳥の呼び合う声が聞こえ
平和なる山鳩はその森に眠る

失われた森の聖域

そは久しくも隠されてありぬ
卑しき人の眼に触れざる所
千歳の岩は威厳を保ちぬ
その岩を飾るは可憐な花なり
清らかに小川は流れ花はうなだれ咲きぬ
さえづる純真な小鳥の声はここにひびき
そのソロの音色に酔わしめぬ
天然の歌人はここに養われぬ
純白の木の花は天に向かい咲き
神のみぞ天より見るのみ
森は深く影なしおおわれぬ
花を探し求めて追いて疲れし
一羽の揚羽蝶舞いきて羽を休めぬ
家々は森につつまれ隠されありぬ
ここに家ありとも知らじ
石はただ黙して千歳動かじ
卑しき人の眼に触れざる所
人の踏み入らざる所
あらかじめ神の定めし座に岩のあれ
純なる自然の聖なる神域にこそあれ
森は黒々としてつつみかくしぬ

the fixed rock is a deep seated place of my homeland

人間の座はどこにあるのか?それはもともと自然の中にありそこで安らぎとその場を得て安定する、自然に育まれて精神もモラルも一体化して養われる
そういう場がなくなったとき精神もモラルも荒廃したとなる
displacementが疎外でありまさにそのfundamentalな場所を失ったからこそ人間の存在が消失してただ統計的数字のようになってしまったのである。

ワーズワースの詩よりヘルダリーンの詩が思想的には深いと今読んで気づいた
彼の詩はライン川ときってもきれずに結びついている

雪の峰は大地にそそぐ
この上もなく清い水を 生まれながらに
あなたが純一なのは そのためなのだ
根源の近くに住む者は その場を離れない

しかしラインは夢に忘れない おのれの出自を
かりにも彼が 根源を忘れ
若き日の純粋な声を忘れようものなら
住む家も消え,掟も消え
人間たちの生きる日は
異形の幻に帰するに違いない

根源を忘れるというとき原発事故でもそういうことがあったのかもしれない
根源の地を失ったからである。根源に生きることからはずれて生きるようになり原発事故になり根源の地に住めなくなったともなる

いづれにしろ芸術の霊感の源は自然でありそこから離れて芸術も宗教も哲学もありえないのである。都会ではだから経済とか工業とか商業はあっても宗教とか芸術とか哲学とかありえていのである。
富岡八幡神社とかカルト宗教団体の巣窟になっているのである。
ただそこでは膨大な人が集まり金が集まる,賽銭が集まるのである。
それで繁華な所だから人が集まる所だからそうなっている
でも本来の宗教とは全く無縁な場所となっていたのである。
神道だって本来は日本の純な自然の中から生まれたものだからである。

then last wish
My last and favourite aspiration!then
I yearn towards soma philosophic Song
Of Truth that cherishes our daily life
With meditaitions passhinate from deep
Recesses in man,s heart ,inmmortal varse
Thoughtfully fitted to the Orephean lyre

かくして最後の望み
我が愛するいやはての熱望!
われが日々の生をいたわる真理を語る
哲理の歌を憧れるなり
人の心の深き奥よりいずる
幾たびの熱情的瞑想を含み
オルペウスの竪琴に思慮深く合わせたる
不滅の詩句を綴らむ
(ワーズワース)

philosophic Song,Thoughtfully とかはdeep Recessesから起きてくる

隠れ場所,隠遁いんとん所;((recesses)) 人けのない奥まった所,奥地,隠所,奥底,隅;(心の)奥;(学問などの)奥義

これは秘境のことなのである。

要するにワーズワースとかでも追及したのは自然との一体化でありそれは詩だけではない哲理であり宗教までにもなる、自然の事物を人間の精神とアイディンティティ化して一体化して表現することだったのである。
ただ今は田舎でも素朴な人間はいない,金,金,金に追われているだけなのである。
だからこそ飯館村でも原発で働いていたことは意外だったのである。
自分にしてもエアコンの部屋でこの文を書いていることも矛盾しているのである。
囲炉裏とかであたたまり書いていればいいが現代ではそうはありえないのである。
石油も使っているからである

ただワーズワースの時代は日本の江戸時代であり街とはかけ離れた場所にあった
そこは確かに風光明媚でも辺鄙な場所でありそこに住むことは今田舎に住んでいる感覚とは違う,今は田舎ではみんな車をもっているし都会と生活そのものが変わりないからである。田舎の人でもどれだけ金を贅沢を求めているかそれは都会より欲深くなっているともなる,純朴な羊飼いなどありえない世界である。
ただワーズワースの時代のような羊飼いがギリシャの山奥でスパルタの方に行ったとき山岳地帯で見た,そこの山の岩場にそういう羊飼いがいたしモンゴルなどにも今でもいるし中国の草原地帯にもいるしまだそういう人はいる
ただヘシオドスのように人間の暮らしが生活が隠されていたというとき人間を意識しないときそこは自然につつまれて理想郷のように桃源郷のようになっていたのである。
どんなところでも人間が住んでいれば必ず汚れるし嫌なものとなるのである。飯館村でも別に自分は人間とは交わらないから良かったともなる,今や飯館村原発事故後に南相馬市と同じく村が補償金とかで分断されたからである。

往来する旅人の顔というものを一度も知らぬ
あの隠者の家の戸口には・・・・(ワーズワース)

その丘の岩場に羊飼いが休み
去り行くも人影の見ず
雲は淋しく流れてゆく
湖水は山の影を写して
風は岩に鳴り
人の跡をとどめざらむとす
・・・・・・・・

なんかこんなふうに人が踏みいらない,旅人すら来ない場所であり時代だった
別に自分の住んでいる場所はそんな淋しい場所ではない,鉄道も通っている知らない人も頻繁に来ている場所なのである。現代では世界中で旅人の来ない所もないから車も通っているからそういう場所は探すのがむずかしいとなる






posted by 天華 at 11:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2017年11月01日

一本の樹(詩)から考える (飯館村などの避難区域のこと)

    
 一本の樹(詩)から考える

 (飯館村などの避難区域のこと)
onetree1.jpg

一本の樹

この道の辺に
一本の樹
秋の夕日のさして
ここに立ちて久しも
そは何を語るや
ここに根づきて
ここにありしことの尊さ
何ごとのなけれど
ここに長くありしがゆえに
人は去りしも
ここに立ちて動かざれ
ここにありつづけるもの
その意味と尊さを知れ
一本の樹
かくもここに長くもありて
その土地の標(しるし)となりぬ
この道を歩みてまた暮るるかな
 
   
 野の樫

野にひともとの樫立つ
冬の日の老いた幹と枝は
いま光る緑につつまれて
野の道のほとりに立つ
行き還りその傍らをすぎるとき
明るい悲哀とものしずかな勇気が
ひとの古い想いの内にひびく
(伊藤静雄)


飯館村でもどこでもそうだがこうした木はある,それは日ごろ意識しない、でも村の中でもどこでもそういう
木は人間化した木になる、だからこそ村に人が住まなくなったとき余計にさみしく感じるのである。
空き家になった庭の木でも石でもそうである。

人間はこうしてしただあるものの価値を感じない、でも一旦この辺のように原発事故で人が住まなくなったときこれは一体何なのだろうと常に考えるようになったのである。
村でも町でもどこでも一本の木はある、そういうものはまるでその村の目印のようにあった
だから一本松とかが地名になり残された、それは意識しないが常にあったものでてある。
人間も生物の一種だから老人になると定着志向になる、その土地に根付きやがてその土地に朽ちてその土地の養分ともなる、それは生物はそういう循環を繰り返してきたからである。
人間もまた同じように自然の中に生を繰り返してきたのである。

ここで見直されたのはただあることの価値である。そこにあるだけで価値あるものがあった
そして長くあるものは価値があった、木とか石とか自然は長くあるから価値がある
人間は変わりやすいから価値が消失してくる
そこにいつまでもあるものはやはり価値を帯びてくる
本当の価値はそこに長くあるものでありそこに価値と意味と尊さが生まれる

それが現代では常に変化して新しいものを求めて古いものが捨てられる、
常に人間の社会は古いものがあって新しいものがある野だが技術の面では常に変化してしそのスピードが早い,
だから老人は技術的には追いつけないから無用のものとされる
でも精神的な価値を求めると老人的な価値がむしろ社会の価値を作ってきた、成熟しなけければ本当の価値は生まれない、
若者的なものが必要でも騒々しいものになる、
自然でもなかなか若いときその意味と価値を会得でとないのである。
それで自然と同化するアイディンティティ化するには時間がかかるから老人にならないと自然でも人生のこともわからないのである。

老人は人生をふりかえるから誰でもそれなりに人生とはこういうものだったのかとわかる
ただその時は時遅しとなっているが老人はそういうことで若者とは違った見方をしている
ただ本当にあるというだけで価値が帯びてくる、そういうものがあるということに気づく
そして原発事故で人が住まなくなった町や村はそこに住む人の担(にな)うものが大きくてなった
村でも町でも市でもそれがなくなるということはイメージもできなかった

そこで意識したのは村全体のこと町全体のことだったのである。
普通村全体でもなかなか意識しない、常に個々人とか家族は意識して暮らしている
でも村の暮らしをどうしようかなどは意識しにくい、飯館村辺りはそういうことが震災前もあった
でもやはり避難区域になったとき人々は補償金をもらい家族だけは守ろうと帰らなくなった
それはやはり村全体を意識することがなかったからでてある。
村があり町があり市があり家族もあり個々人もあると意識しなかったのである。
そういう全体は意識しにくいのである。ただ今回のように村でも町でも人が住まなくなり村自体が町自体が消失する危機となり意識したのである。

木でも川子の農家の二本の木は変わらずにある、ますますそこに結び合い離れないようにある二本の樹である。この辺では木もかなり切られた、ここの木は残っている

twotreeee111.JPG
 the twined trees
 in stability 
 the faithful ones
 
それは老夫婦のようでもある、何か顕密に結びあっている、無言ではあるが互いにもの言わずも信頼して結び合っているという感じになる 

二本の樹

常にここに
二本の樹
もの言わずとも
互いにここに
長くしあれば
信頼し結び合ふ
そは離れざるかな
秋の日はさして
秋は深まり
ここに静かに
二本の樹は変わらずに
今日もありしも

この二本の木も変わらないことによって価値が帯びているのである。その意味を深めているのである。
それを感じるのはやはりこの辺が変わりすぎた結果なのである。 

俳句になると

晩菊や牛数頭のここにいる

飯館村は牛の村だった、牛は定着的な価値の象徴なのである。 牛がいるということで定着を示唆している
そこに落ち着きがあり生の充実がある、こころがここの意味というときまさにここにあるのが牛なのである。
とにかく避難区域に帰って住むことは今までは村とか町の価値はその人口分で維持していた、でもその一割とか二割しか帰らないとなるとその減った人の分を村や町で負うことになる
価値が何倍にもなるのである。そしてそこで村や町に継続された歴史を担うことになる
だからそれを思いばやりがいがあるともなる、ただこんなふうに考えるのは思想的哲学的詩的に考えるのは普通はいない
みんな利益からしか考えないからこそ原発だって建てられたのである。
そのあともやはり補償金でもめてもう不便な土地は嫌だと帰らなくなったのである。

humannmmm11.jpg

人が減ると同じ地域でもになうものが大きくなる
百人いたのが10人になったら十倍にになうものがふえる
それは生活でもそうだが精神的なものでもそうである。
村や町には歴史をとして残されたものがあるし死者も墓に住んでいたり
他に歴史として生き続けているものがあるからだ

それを人がへれば担うことになり重いものとなってゆく、でもそこに住むことは
価値あることになる
でも不便だからその不便さもになうことになる
それで村や町を捨てるとなるが残る者には前より十倍もの負担があっても価値があるともなる
いづれにしろ村や町がその全体が消失することがいかなることがまだ自覚されていないのだと思う
posted by 天華 at 16:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2017年10月07日

飯館村の蕨平(わらびたいら)の地名の由来は (植物地名は日本には多い・・・)


飯館村の蕨平(わらびたいら)の地名の由来は

(植物地名は日本には多い・・・)

蕨平 (わらびだいら) [宮城県伊具郡丸森町]
蕨平 (わらびだいら) [福島県相馬郡飯舘村]

蕨の野草地で家畜の放牧をつづけていると家畜が食わないために徐々に広がる
野焼きを繰り返しても増えるようである,ワラビが若葉を広げる姿は春の到来実感させるが家畜の放牧では極めて有害な危険な草であり,いかにしてワラビ防除するかは畜産上の大きな課題とされている(四季の博物誌-荒垣秀雄)

ワラビは、「ワラ」が茎をさし、「ビ」が食用になること・・・つまり「茎が食用になる」という意味に由来するという説がある。また、アク出ししたワラビの色が、燃やしたワラに似ていることから「ワラ火」に由来するという説とか、ワラビの若芽を「童菜(ワラベナ)」という方言から「ワラベ」が転訛したという説がある。

この説明はどういうことなのだろうか?飯館村の蕨平は牛を飼う農家もいた,今も40軒があったがもどって一軒で牛を飼っているという,この蕨平は戦後入植した人が名付けたものではない,もともと蕨平という地名があった,蕨が繁茂していたからその名がついた,しかしそこは家畜を放牧するには適した場ではなかった
蕨平に住んでいた人とあったがその人は今でも山菜をとって食べているという
老人だから気にしない,ただ山菜は一番放射性物質が蓄積されているし飯館村となると何か不安に普通はなる,その老人は全く気にしていないのである。

蕨とつく地名はある,鹿島区の橲原(じさばら)の蕨跡はわらびの植物ではなく藁火であり藁を燃やした跡なのかもしれない,それとも蕨が一杯もともととれた場所だったがとれなくなったのか?やはり植物の蕨と関係して名付けられたというのがまともかもしれない

山菜は、アイヌ語では何と言いますか。
:オハウコプとかキナと言います。地名の中では、ハルとも言われます。春志内は、アイヌ語で「食 料の多い沢」という意味ですが、この場合の食料とは、山菜を指しています地名にまでなるくらいですから、山菜がいかに重要だったかわかりますね。

アイヌ語の「クッタル・ウシ」(イタドリが生える所)。イタドリの漢語表記「虎杖」から、「虎杖浜」の地名が成立した。なお、「クッタル・ウシ」に当て字をしたものが、近隣に存在する湖、倶多楽湖の地名由来である。

日本は植物が豊富だし山国だから山菜も豊富である。日本の紋様が植物が多いのはやはり風土である。ヨーロッパでは動物類が多いからだ。
日本人の生活は縄文人の生活は狩猟,採集:漁労である。とすると採集するのは食べられる植物である。その植物に詳しくなる必要がある。
地名は風流とかではつけられない,何か実用性がありつけられる,だから花の名前の地名はまれになる,わらびでも食べられる茎に注目していたのである。

北海道には原初の状態が残っている場がある,一面に虎杖(いたどり)が繁茂していてそこが虎杖という地名になっていた。虎杖も食料になっていた,アイヌも狩猟,漁労,採集民族だから植物を食料とするから縄文人と同じだった

クッタラ湖にも行ったことがあり何かなつかしいとなる,地名を知ると何かその土地に親しみが出るのである。旅をずいぶんしたから地名に興味をまず覚えた,地名は何かその土地を探るものとしてある。

この辺では津浪や原発事故で一時原初の状態にもどった,海沿いは湿原になり沼があちらこちらにできた,日本には沼という地名が多い,それは湿原になっていたからである。
そういう湿原地帯を田んぼにしてきたのである。

芹田,蕗田,蕨田,蓬田・・・・

こういう田んぼの地名があるとき田んぼになる前の原初の状態をさしていたのである。

八木沢の麓の大葦とか薔薇坂という地名があるがこの薔薇坂は何なのだろうとわからなかった,薔薇から薔薇の花をイメージしていたからわからなかった
ところがそこが原発事故で放射能汚染で住めなくなり荒地化したのである。そこでは牛を飼っていたがいなくなった,そこにカモシカが出てきたときは驚いた
そしてそこは野茨にひっかかった,それには刺(トゲ)があるから痛かった
そこがなぜ薔薇坂となったのか?それは茨(いばら)のことだったのである。
つまり原初の状態だと茨が密生している所があった,そこに踏み入れると刺にさされる
それで茨城の地名が生まれた由来がある
地名の由来を知るには原初の状態をイメージすることが大事なのである。

原町の雫(しどけ)というのもシドキであり食料としていた山菜である。ただあそこは海岸だからシドキがあったのかとなるとわからないが高台であり森のようになっていた
だからシドキもとれていたともなる

datechimei1.JPG

伊達市に楮畑という地名がある。楮(こうぞ)は和紙の原料である。それからゼンマイという地名もある,これは蕨の方が古いのだから新しいとなる
焼き切りとかあるのは焼き畑地名である。
焼き畑地名はともかく多いのである。
山菜はあまり好きではないけどアシタバもテンプラはうまかった,テンプラにすれば山菜でもうまいとなる。飯館村は山菜を常食としていた
それが原発事故でできなくなるということは飯館村に住むことのメリットというか文化さえ喪失させられたともなる
飯館村を見たとき一番原発事故の酷さを実感した
なぜならそこは森につつまれた自然のある村だったからである。
それが今や無惨な姿となってしまったのである。
だからあれを見ると原発事故を起こしたものに怒りを感じるのである。
ただ飯館村でもいろいろであり補償金もらって良かったという人もいるだろう。
便利な所に移ってそっちが良かったともなる人もいる
飯館村はやはり不便だからそうなる人も現代ではいる

ともかく蕨平というところには何回も通っている,家が散在して淋しい所である。
ただ飯館村はあれだけ広いのだから牛を放牧したりる土地があるから良かったのである。これからあれだけ広い土地をどういかすのか?
帰らない人が多いとしたらどうなるのか?蕨平でも40軒あって一軒しか帰っていないというからだ,高齢化もありやめる人も多い,それは農業でも漁業でもそうなのである。
みんな老人になりつづけられなくなっていたのが多いのである。
それでこの際補償金をもらってやめるとうい人も多いのである。
ただ飯館村の特徴は山の村では山菜を常食としていた,それが豊かさであった
それができないことは原発事故が飯館村を見るとき一番ひどいなと感じていたのである。

「生態学の研究によると,それほど地球の深いところまでを必要としないということであるこの土地部分は表層土壌また地表土と呼ばれ,わずか50センチからTメートルに満たない厚さの土地にすぎないのであるが,今日我々が利用しているのはこの地表の形成にはなんと数千年にわたる植生の積み重ねがあるという」
(エコノミーとエコロジー-玉野井芳郎)

飯館村の田んぼや畑の地表はけずりとられているのが無惨なのである。
つまりここに言うようにその地表を作るのには数千年の歳月を要していたのたである。
それだけ自然というのは長い歳月で作られてきたものである。
それが一瞬の原発事故でだいなしにされた,数千年の歳月で作られたものがだいなしにされたのである。そこに原発事故の罪深さがあった
自然というのもがそういうものでありそれが意識されていなかったのである。

山菜を常食にする山村の生活は縄文時代からつづいていた
それが一瞬の原発事故でだいなしにされた,回復できないようにもされた
つまり原発事故とか科学工業文明の怖さは自然から離れて自然がどういうものか意識されなくなったことである。
だからこそ無造作に破壊されてしまうのである。
数千年で作られてきた表層の土壌である。それが一瞬の事故でだいなしにされる,回復不可能にもされる,その怖さを意識しない,原発と生態系はマッチしていないのである。

南相馬市ではあまり表層の土は削っていない,それほどの汚染ではなかったからだろう。飯館村は削り取られたのが目立つから無惨だったのである。





タグ:蕨平の由来
posted by 天華 at 21:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2017年09月23日

オオカミ絵のお札、版木 飯舘の個人宅で複数発見 (佐須は焼き畑で地名で狼は害獣から防ぐから神となった)


オオカミ絵のお札、版木 飯舘の個人宅で複数発見


(佐須は焼き畑で地名で狼は害獣から防ぐから神となった)


縄文人は、クルミや木の実中心の生活でした。その後、焼畑という農業が伝わるようになってヒエ、アワなどの他に、ソバや大豆などが作られることになります。秩父や長野県、山形県などの地域で蕎麦作りが盛んなのは、焼畑農業の歴史があるからです。

福島県虎捕山は、サス山とも言います。サスとは、焼畑という意味です。ここでも、別の豪族によって追われている阿部家の子孫といわれる人が住んでいた所です。(山津見神社がある佐須)


真神(まかみ)は、日本に生息していた狼(ニホンオオカミ)が神格化したもの。大口真神(おおくちのまがみ、おおぐちまかみ)、御神犬とも呼ばれる。
真神は古来より聖獣として崇拝された。大和国(現在の奈良県)にある飛鳥の真神原の老狼は、大勢の人間を食べてきたため、その獰猛さから神格化され[1]、猪や鹿から作物を守護するものとされた。
『万葉集』巻八には「大口の まかみの原に ふる雪は いたくなふりそ 家もあらなくに」(舎人娘子)

間地の耕作は「焼畑」が中心。そのため、イノシシの害にはほとほと手を焼いていました。イノシシの侵入を防ぐために、山林と耕地との境に猪垣(ししがき)を築いたり猪堀(いぼり、ししぼり)を掘ったりしたのだそうです

日本人と狼 



飯館村の佐須村は焼き畑のことである。他に比曽(ヒソ)もそうであり飯館村は森が深くあれだけの広さがあるから焼畑としては適地だったのである。
飯館村に人が住んだのは古い,縄文時代からでありそれだけ森の幸,山の幸があった
佐須というと大倉からさらに奥地だかちいかにも焼き畑に適していた土地だった
焼き畑農業はこれも渡来人がもたらしたものだといわれる,稲作の前に焼き畑農業が行われていた。鎌倉時代にも行われていた,山間では必ず焼き畑が行われていた。

山林を切り払って焼き、その灰を肥料に雑穀や豆、イモ類などを栽培する
焼き畑が普及したのは稲作などより簡単だからである。農業には肥料が欠かせないのである。その肥料で苦労しているし害獣でも苦労している
畑は常にキジに食われたとか虫がついたとかともかく常に被害がある
だからなんとかしてくれとなるとき狼がイノシシとか鹿の害から防いでくれるとなり狼は大神になったのである。
狼はイノシシ,シカ,サルなどの害獣を襲い撃退してくれるからありがたいものとなった
日本はまず縄文時代がありその時は森の中の木の実とか採集狩猟時代であり焼き畑をしていない,十五夜に芋とかを供物にしているのは焼き畑でとれたものを捧げていたのである太陽信仰に天照大神の信仰になったのは稲作がはじまってからである。
それまでは月の信仰だったのである,月読み神の信仰だったのである。
歴も陰暦であり月の満ち欠けで決めていたのである。

焼き畑になったとき芋類とか食べられるとなると相当に栄養が良くなった,芋は常食にもなり栄養豊かだからだ,すると養える人口も増えたとなる
鎌倉時代あたりまでは相当に焼き畑が行われていた,それからだんだん少なくなり地名だけ残ったのである。焼き畑地名は日本全国で非常に多いのはそれだけ焼畑が行われていた証拠なのなのである。
飯館村の場合はそこが焼畑をしていたということがイメージしやすいのである。

飯館村は焼き畑をしていたがその後稲作をするようになった,でも高原であり寒い地域だから稲作に適せず天候不良で飢饉になった,夏でも高原だから涼しいのだが稲作はもともと南国向きであり寒いところには適さないものがあった
焼き畑農業と稲作農業もその生活形態はまるで違う,それは蝦夷が狩猟,採集,漁労の生活であり稲作はヤマト王権によりもたらされたものなのである。
そういう生活の相違が実際は江戸時代から明治以降までつづいていてふ柳田国男の遠野物語の山民が存続しつづけた伝説となった

何か神社は場所と密接に結びついたものがある。佐須は奥深い地域でありそこに神社があることがふさわしいのである。
日本人の生活がもともと自給自足だったというときやはり最低限の食料がまかなわれたということがあるだろう。それは日本だけではないどこでも山の民でもそこで生活できる糧があって自給自足できるのである。
佐須では畑の中に「乳神」の碑があった,それが印象的だったのはまず乳が出なかったら子供が育てられない時代があった,ただ飯館村で牛を飼うようになったのは戦後とかであり新しいのである。だから乳がでなければ子供は育てられないのである。
それは江戸時代でも同じである,それで乳神に祈るしかないとなっていたのである。

飯館村は歴史は新しいようで古いのである。縄文時代からはじまって焼き畑時代があり
稲作時代となっている,それは日本のたどった歴史である。
日本では全く未開の地はまれだろう。たいだい早い時期から人が入っている

「多胡の入野」も、早く『万葉集』の東歌に見えながらもその後詠まれることが極めて稀であったものだが、まずはその『万葉集』所載の1首を挙げてみよう。

吾が恋はまさかもかなし草枕多胡の入野のおくもかなしも[万葉集3421]

野とつくのは傾斜地であり焼畑であった。小林のコバも焼畑地名だった。焼畑に由来するものが多いのだ。鹿野というのもそうでありカノはノがついているから焼畑なのだ。ノは焼畑なのである。山の神である、名はオホヤマツミ神を生み、次に野の神である、名はカヤノヒメ神を生んだ。またの名はノヅチ神と言う ... 山の神の次にカヤノヒメ神を生んだのはまさに最初に山の神があり狩猟中心の世界があり次に焼畑に写った。この生業の変化がどのようにもたらされたか、焼畑は狩猟採集より発達した文明の段階になるからこの技術が渡来人によってもたらされたかもしれない、これも稲作と同じように定期的に収穫が得られるから権力基盤をもち地方の国造、毛野王国などを各地に作ったのだ。その毛野王国のなかに渡来人が入ってきて焼畑の技術をが入ってきたのかもしれないそれが万葉集の入野の歌だった。東和町の白髭は高麗(こま)からきている。この白髭は各地に多数ある白髭は新羅であり毛野に新羅人が入植したのだ。

これは前に自分が考察したものである。焼き畑地名が多いし稲作の前は焼き畑文明だったから当然だとなる
佐須という地域はこの入野にふさわしいのである。おくかもかなし・・・というとき山間の奥地で焼畑が行われていたのである。そこには恋しい人が住んでいたとなる
佐須という場はそういう場所にふさわしいことは実際にそこを訊ねればほかる。

いづれにしろ今回の狼の札の発見は他でもあり狼信仰が焼き畑とともに生まれたことの証拠である。例えば飯野(いいの)なども焼き畑が行われた地域なのである。
野は傾斜地であり焼き畑が行われた日本独自の地形を示す語なのである。
原とかとは朝鮮語系統から渡来人系統から入ったものであり別個の言葉なのである。
それは焼き畑に由来している,原というときモンゴルのような草原をイメージする
野となると日本的な風景から生まれた言葉なのである。

posted by 天華 at 20:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2017年09月11日

戦後引揚者の歴史は見逃せない (飯館村の大倉の木戸木は最も辺鄙な開拓者が入った土地)


戦後引揚者の歴史は見逃せない

(飯館村の大倉の木戸木は最も辺鄙な開拓者が入った土地)

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真野ダムから木戸木に入る

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木戸木にあった半鐘 -ここはそれなりに一部落を形成していた 



飯館村の大倉から七曲がりの坂を上ったおりた所に共栄橋とかありおそらく十軒くらい家があったかもしれない,今でも家五六軒残っている
ここは草野まで行くにもまた七曲がりの坂を上らねばならない
本当に閉鎖された最も交通不便な土地である。
地名として木戸木となっている

飯館でも長泥とか比曽とか佐須とかあるけどそれらは比曽とか佐須は焼畑地名である
そのことは何を意味しているのか?焼き畑していたということはそれだけ古くから人が入っていたということであり人が住んだのは実際は相当に古いのである。
飯館村は縄文時代でも浜通りより古いとかあり山の幸があり暮らしていたとなる

飯館村は新しいようで意外と古い時代から人が住んでいたのである。それは縄文時代にさかのぼる。大倉村というときこれも相当に古い,大倉の葉山ごもりという祭りも古い。
真野ダムができる前に集落がダムの底にあった,その時から自分は行っている

ただ山村でも誤解しやすいのがそういう古い村があるのだが戦後に戦争からの引揚者が土地を求めてどこにでも入ってきたのである。
戦争から引き上げても街は焼け野原になっているし何も仕事かない,どうして食べていこうとなれば農業しかない,それで開墾に入った歴史がある
それは街から近い鹿島なら今菅野漬け物屋の倉庫がある所にも戦後引揚者が開墾に入っていて自分はその家に子供の時行っていたから知っている,家で店をはじめて卵を買いに行っていたのである。その時真野川をわたる橋は土橋であり時代劇にでてくるような危険な橋だった,ゆれるし怖い橋だったのである。

卵は自転車で運び糠に入れていたのだが必ず割れていたのである。
そもそもなぜあんな近くに開墾に入ったのかというのがわからないがとにくか農業するために土地を求めて入ってきたのである。
その人は父親が双葉の新山と酒作りしていた仲間だったのである。
その生活は実際は貧困のどん底だった,子供のときだから良くわからなかったが戦後十年は何度も書いているが日本全体がどん底だったのである。
自分の家は店をはじめて早めに豊かになったが山村が豊かになるのは遅れたのである。

それより不思議なのは大倉からさらに七曲がりの道を延々と上る,そしてそこにわずかに開けた土地がある,そこで田んぼがある,そこからまた草野に行く道はさらにもっときつい七曲がりの道なのである。
そして最近できたのが別な道である。そこはまっすぐなので車も通りやすいのである。
今は道になっているがそこは森におおわれて小川にそって隠された細い道があった
そこは神秘的な場所だったのである。人がまだ踏み行ったことがないような神秘的な場所であり春になると大石がありその脇にキクザキイチゲが残雪のように咲いていた
そこはまず人はほとんど通らないのである。
そこはまた山の陰になっていて何かそれで神秘的な場所だったのである。
飯館というときあそこは一番神秘的に感じていたが舗装された道になって失われたのである。

ともかくあそこには人が住んだのは戦後である。共栄橋というのは戦後開墾に入った人達が住み名付けたのである。そういう場所は日本中いたるところにあるのだ。


全国で21万1千戸が開拓地に入植し、105万6千戸の既存農家が開拓地に農地を取得した。開墾施行面積は、44万9千haであった。しかし、開拓地の営農は困難を極め、開拓を諦め離村した者も多く、21万1千戸の入植者のうち開拓行政終了時点で入植を継続している戸数は9万3千戸と、半分以下に減っていた

戦後開拓地のうちには、大規模な国営開拓により、酪農等のモデル的な大規模営農が成立した地域[1]がある他、入植者の努力により畜産や果樹・蔬菜などの産地形成に成功した地域[2]もあるが、一方で営農条件の悪い地域も多く、特に山間部の小規模開拓地においては、開拓行政に基づく手厚い営農指導にもかかわらず、土壌や気候等の劣悪な環境の下営農基盤を確立できず、全戸離村に至った開拓地も多い

この戦後引揚者の問題は戦後の大きな歴史である,なぜなら今の山村であれ街の近くの農地でもそうした引揚者が開墾に入っているからその影響が大きかったのである。
もともと古い村があってもそのあとに開墾に入ってきた人達が必ず村には混じっているからである
相馬藩では天明の飢饉で三分の一に人口が減ったが越中からの移民で穴埋めできたのともにている,相馬藩ではそうしした越中からの移民などはやはり耕作には適していない土地を開墾するほかなかったらかである。それで苦しいので加賀泣きという言葉が残っているのである。

21万1千戸の入植者のうち開拓行政終了時点で入植を継続している戸数は9万3千戸と、半分以下に減っていた

これほど厳しかったのである。

これでもわかるようになぜ大倉村でもそこから七曲がりの道を越えたわずかな土地を開墾して暮らしたのか?あんなところでどうして暮らしたのか?
炭焼きなどで煮炊きはできた,清水が流れているから利用した,全くそこは自給自足しないかぎり生きていけいなのである。田んぼで米をとれたとしても土地が狭いからわずかなのである。
ただ戦前から戦後は木材の需要が多いから大倉のばあちゃんが俺は相馬の女学校出たんだよと言っていた,山持ちで金持ちになっている人が山にはいた,なぜなら木材は日本のものをみんな利用していた時代だったからである。
なんか自分はそうしたそこに暮らしている人に興味をもたなかった
自分は森に覆われた小川が流れている原始のままの自然状態に惹かれていたのである。

でもそこに人が住んでいて暮らしがあった,それは地形的に隔絶されていたのである。
でも十軒くらい家があった,自分が行ったとき車で帰ってきて家にいた人が見えた
何か半鐘などもあった,だから開拓村として一部落を形成していたのである。
でも交通が不便だから大倉に草野に出るだけで大変な労力が必要だった
車がないのだから徒歩なのか馬なのかそこは地形的に閉ざされているのである。
飯館村でも他は古い村であり昔から生活していたのである。

人間はなぜそんな不便な土地にあえて住んだのか?それは住む所がない生活する場がないから住んだのである。
田から前にも書いたがそういう時代と比べると飯館村でも原発事故で避難区域になった所は確かに無惨なのだけどその当時の開墾者比べればましだともなる
贅沢しすぎてもうそんな極貧の生活などしたくないのである。
隣の街に行けば今まで通りの贅沢な暮らしができる,補償金もたんまりもらったらそこで暮らした方がいいとなるからだ
その時代の差があまりにも大きい,だから越中の移民を見習いとか戦後の開拓者を見習いといってもそんなことをあえてする人は誰もいないとなる
その時そういう生活するほかない,強いられた時代だったのである。

とにかく飯館村は本当に広い,木戸木というところは自転車でまず大倉まで上り次にまた長いまがりくねった坂を上り出る,そこからまた七曲がりの道を上ってゆくから閉ざされた秘境だともなる
戦前でも何かこうした閉ざされた秘境のような所に住んでいた人は多い
なぜなら農業とか山林でも林業とかなればそうなる
福島県の檜枝岐は秘境というけど近くにそうした秘境があり人は自給自足を基本にして生活していたきである。
つまり秘境はいたるところにあった,それがあまりにも便利になり車でどこにでも行けるとなったとき秘境は日本から消えたのである。
自分としてはだからそういう社会はつまらないともなる
ただ飯館村は広いからまだ未知の場所がある,今回草に埋もれ石も発見したことでもわかる
道は未知への世界いざなう,それが飯館村とか阿武隈高原にある,いく筋もの道が山間に通じているからである。そこを自転車で行くとき未知(道)への旅をしているのである。
サイクリングだったら飯館の阿武隈高原を行くのが楽しいと思う
六号線とかなると車だらけであり嫌になるからだ。

いづれにしろずいぶんなの辺を自分は自転車で走った,それで今回久しぶりで遠くに行ったのである。十年間は介護で遠くに行けなかった,そのうち体力がなくなり行けなくなった,でも今回は前に気ままに阿武隈高原の道を自転車で行ったことを思い出したのである
posted by 天華 at 16:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村