2017年07月24日

「飯館村の原発事故避難者による営農再開と展望」を読む (ソーラーパネルなどで景観が破壊される)


「飯館村の原発事故避難者による営農再開と展望」を読む

(ソーラーパネルなどで景観が破壊される)


原発事故避難者による営農再開と展望
―福島県相馬郡飯舘村の事例分-

villiageccccc123.jpg

営農を再開するという決意の前提として非経済的動機,つまり「何が何でも再開しよう」という動機があったと言えるだろう。それは,避難先の狭い住居で無
為に過ごし,体調を崩している親を「見るに見かねた」こと(K 氏)であったり

全体で60 ha の水田があり,そのうちの20 haはNTT と20年間の契約をして太陽光パネルの設置に利用することが決まっている。残りの40 ha を利用し
て牛の放牧をするのである。

「個人化」とは,避難生活によって地域社会や家族が分断され,一堂に会することが
物理的に難しくなるということでもあるが,それ以上に選択を被害者「本人の自由」に任せることによって,事実上,責任を被害者に負わせ,自己責任を強いることを意味する。


これは自分がプログで書いてきたことであり一致する、やはり無為にすごすことに耐えられないということがあった、毎日パチンコやギャンブルではやりきれないとなってゆく
かといって何をするかというと今までしたことをする他ない
それは農業である。それで仮設の前の畑にカボチャの種を植えて実ったことで喜びがあったとなる、つまり農業自体に喜びがある
だから趣味で畑で農作業している女性は文句は常に言っているがともかく畑の方に関心があり自分の家のことには関心がないのである。
自主的に汚れたところも掃除もするきがない、皿二三枚しか洗う他なにもしない
それは見ていてわかる、畑の方が文句ばかりでいつも関心は畑にある
その人は根っから農業が好きなのである。

飯館村はやはり水田があってももう米作りはしないのだろう。無惨に表土が削られてフレコンバックの山になっている。表土が削られることによって栄養分も喪失している
すると米作りも簡単にはできないのである。もともと飯館は高地であり米作りには向いていなかっだ、それで常に冷害に見舞われていた。
すると田んぼがなくなるから蛙も鳴かなくなり鷺なども見えなくなる
自分にとってこの蛙が盛んに鳴いたときこの辺は復興したなと感じた
ただ山側は田んぼになっていない、小池辺りでは田んぼを草地にして牛の飼料にしていただから飯館村でも田んぼを放牧地にしてあとはソーラパネルにする
その風景も奇妙なものになる

草野では原町から川俣への幹線道路沿いに道の駅を建設中でありその脇にメガソーラーパネル場になった、何かそこに違和感を感じる、素朴な飯館村という感じは喪失した
ソーラーパネルは森とか山の風致でも破壊するし何か台風とか来たりすると危険にもなるそういうことは土手を削った所にソーラーパネルを置いたので水害になったということがあった、これから何が起きるかわからないのである。
そして景観を破壊するから昔の飯館村、森につつまれた村ではなくなってゆく
ただ飯館村は広いから全部ソーラーパネルにはできないが一部でも森の中にソーラーパネルがあると景観が破壊される
でも土地の利用が方法がないからそうなってしまう
膨大な土地がありその土地から収入を得るにはソーラーパネルくらいしかないからである。
家族が分断され地域が分断されて個人化したということも書いた
飯館村では牧畜でも牛を飼うにしても農業するにも人手は家族でしている
だから三世代とかが住んで農業に従事していた
それが分断された、地域も分断された
結果的にどうなったかというと個人化した、それぞれの個人でやりたいようにやれとなった、そのために補償金を払ったのだとなる、自己責任化したのである。

南相馬市でも避難区域の小高ではそうなった、いろいろな人がいても補償金をもらったことにより個人化して地域の一体感は喪失した
家族も分断されて地域も分断された、親の子供世代は放射能が危険として帰ってこない
そして取り残されたのが老人だった、でも小高では2300人が帰っている
それが多いとなるのか少ないとなるのかわからない、ただ半分は65才以上の老人なのである。
小高の人は金がある人は新地であれ相馬市であれ鹿島であれ原町に家を建てた
浪江の人も建てた゛つまり地域は個人化して分断されたのである。
個人化すればをとすればいいんだとなれば金があれば他で家を建てて生計をたてる他ないからである。

飯館村では仮設暮らしの無為に暇に耐えられなくなったとき農業をはじめたがそれが非常な困難をともなっていた。その場所を探すこと一からはじめることが容易ではないからだ農業はそれなりに設備が必要なのである。
飯館で有名だったトルコキキョウなどの花栽培でもそうであり簡単にできるものではなかった、トルコキキョウというと飯館のような涼しい地にあっていたのかもしれない
トルコキキョウと竜胆(りんどう)はにている、飯館村は何か花が美しく見えた
それはいつも不思議だった、やはり何か環境が影響していたのである。
飯館村は一つの桃源郷とかアルカディアの雰囲気があった
ただそういうものは原発事故後そこなわれたのが残念である。
それよりそういう所を破壊した原発に怒りをもつのである。
アイヌのカムイコタンとは神の村と言うときそういう側面が飯館村にはまだあった
森につつまれてあった神秘性もあった
だから峠を越えてゆくと何か別世界に来たような新鮮な感覚になっていたのである。
それで詩を書いたりしていた。

ともかく飯館村の農業の復興は至難である。放射線量が高いこともある、土も水も森も汚染されたからである。それが致命的になったのである。
はっきりいって自分はソーラーパネルが置かれる場所には行きたくない
大倉から峠を越えて入った場所は前は森におおわれていて人が踏みいらぬ神秘的な場所だった、そこが道になり喪失した、だから原発事故前にすでに自然が破壊されていたということがあった、ただ全体的には森につつまれた森を維持していていて飯館村が好きな人が多くいたのである。
だから残念だとというより自分は原発事故に対して怒りをもっている
なぜそうした森につつまれた村を破壊したのだとなる
ただ自分のように景観とか風致にこだわる人はそこに住んでいる人でも少ない
やはり金が入れば土地の人は景観など考えない
だから容易に今や利用されない土地はソーラーパネル工場になってしまうのである。

森深く月のみのぞく神秘かな

そんな神秘的な世界がまだあった、それが失われたのである。




posted by 老鶯 at 20:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2017年07月05日

残れさるべき神秘の領域(サンクチュアリー) (飯館村への道の詩)


残されるべき神秘の領域(サンクチュアリー)


(飯館村への道の詩)


神秘の領域

深い森の中に
揚羽が一羽
美しい羽を広げる
そを見る者は誰か
そのたまゆらの美
揚羽は森深く舞いさる
深くつつまれた森に
宝石のように
秘められて
たまゆら現れて消える
その森へ行く道は
草むして
あると思えば消える
人間の入るのをこばむように
そういう神秘の領域
サンクチャアリーとして
心に平安を与える


人間の思想形成は自然と離れてありえないだろう。政治とか経済の話ばかりになるのも耐えられないだろう。そういう世界の中でオワシスとなるべき所が必要である。
都会になるとそれがなくなる、ただ都会にも規模があるから10万くらいまでは郊外があり自然もある、相馬地方だと相馬市と原町と鹿島とか小高とか浪江とかでは感覚的に違っていた、飯館村となると森におおわれた神秘の領域になっていた、そこから発想されるものは自然と深く結びついていたのである。今も別にその自然が消失したというのではない
森は残っているからだ。

飯館村というとき飯館村に入る所も森がつづいている、南相馬市でも浪江でも相馬市でもそうである。この辺は高い山はないが森がつづいている、丸森が森とあるごとく森が深いのである。ただ杉林にはなる
そういう森が現実にあるというときそこから詩でも思想も生まれてくる

飯館村に入る道はいくつもありそこは深い森を通ってゆくのである。
そこは深い影をなす道である。飯館村は森の国だった、70パーセントが森だったから除染もできないのである。
この辺の自然の魅力としては飯館村は欠かせないものとしてあった
もちろんその村が消失したとかはない、でもその村があまりにも変貌してしまった
メガソーラ場とか田んぼでも土が削りとられるとフレコンバックがつまれているとかで
森の国としての自然と融合した昔の村ではない
それはこの辺でも山の方はそうなっている

ただこのサンクチュアリーはかなり日本でも消失している、ただ北海道は全体的にまだ残っている、自分はそうした自然から詩を発想して書いてきた
それは相当な量になるがこれはその一部である。
芸術は都会からは生まれない、自然が最大の芸術品であり人工的な風景にばかり接していたら心は荒廃して安らぎもないのである。
だから飯館村とかは貴重な場だったし他に橲原(じさばら)村なども心の中に常に反映してきて安らぎを与えるのである。

確かにサンクチュアリーとなると観光資源にはなってもなかなか経済的効果がない
その経済的効果がないことに価値がないのかとなるそうではない
精神的な価値がある、自分が古代文明に魅力を感じるのは自然と結びついて文明が作られれてた、マヤ文明でもカンボジアのアンコールワットでもエジプト文明でもそうである。そこに神話が生まれるというとき自然と融合していた文明だからである。
現代文明はただ経済の規模の増大であり技術の発展だけを追求している

今からふりかえるとアニミズム的文明とかなるがそれも自然と深く一体化していたからそうなったのである。科学技術文明とはそうしたアニミズム文明とは正反対のものにある
でも自然から遊離しているから危険な文明ともなっていたのである。
アニミズム文明とはそれぞれの地域に生態系があり必然的に発生したものである。
もちろん偶像崇拝として拒否するべきものでも自然と切り離せない密着した生活していた人々にとってはそれは必然だったのである。

この辺では葉山(端山)信仰などは稲作と密接に関係していて生まれたのとにている、水の管理が必要でありそれが山に負っていたから生まれた
もし本当にそうした自然と一体化して生活していたら原発など拒否していたろう。
そういう生活が遅れているとかと見るのは現代文明からの見方でありそれが災いを生んだ
夏でも飯館村にゆく道は木蔭の道がつづき涼しい、ただ自転車でそこまで行くのが日射病になってから怖くなり行けない、でも心の中にいつも近くの自然は反映されているのである。

posted by 老鶯 at 10:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2017年04月30日

駅で飯館村の蕨平の人に会い話を聞く (菅野村長の不満を言っていた)


駅で飯館村の蕨平の人に会い話を聞く


(菅野村長の不満を言っていた)


飯館村の人が駅にいた、原町に住んでいる、浪江の人とは良くあうが飯館村の人とは合わない、はじめてあった。
競輪場の券の売り場にきていた、あそこに来る人は原町からも来る
その人の格好はとても飯館村で牛飼っているようには見えない
サングラスかけて白髪だけどそっち系統のものかのように見えた
でも確かに蕨平に住んでいる、避難困難区域に指定された長泥の隣であるから放射線量は高い、何でも40町の山を所有して賠償金はもらったというがそれほどでもていのか?
何か菅野村長はだめだとしきり言っていた

まず蕨平では40軒あっても一軒しか帰らない、その人はやはり牛を飼って暮らす、飯館村は広いからまず草野中心に中核の街を作りそこから離れた人はもう生活できない状態のようだ、草野から20キロ離れているとか言っていた、蕨平とか何度か通った
でも長泥というと通ったことがあるのか一回くらいある。
飯館を全部回ることは近くてもできない、それだけ広いのである。
この前も佐須でも山津見神社にしてもあそこの道は通っていなかった

あの人は別に椎茸でも山菜でもキノコでも事故後も食べていたという、それは危険だと思うが年取っているから気にしない人はしない、あの人の不満は何なのか?
飯館村では残って暮らす人と補償金をもらって外に暮らす人とで分かれている
NHKでその対立を放送していたがどっちにかたよることはなかった
外に出たいという人は放射線量が高いということがあり住めないと判断しているからだ。それなら補償金もらって外で再出発したほうがいいとしている

菅野町長派は残って生活再建するを望んでいる、草野の中心部にはメガソーラーを作り
住宅地を作り何か大きな施設なのか作っている
そこに菊地製作所もありそこが働き場となる、他にも製作所がありそこで人が働いていた農業は土が削られてできない、そして荒地になり木が伸びたとかイノシシにやられたとかネズミがでたからネズミのよりつかない薬をまいているとか言っていた
イノシシの害は浪江でもある、浪江の人も復興住宅に移り住んでいるからだ。

浪江の人は28年に補償金が打ち切られるとか言っていた、あの人も昼間から酒飲んでいた前にもそういう人をみかけた、昼間から酒を飲みギャンブルしていのは小高でもそうだが他も同じなのである。何もすることがないからそうなる
それもこの辺の問題だった、飯館村の人がギャンブラーになったというときもそうである今は飯館村の人でもみんな素朴な人とは限らないのである。
前から馬券売り場などはあったしそういうことはしていたからである。
金が入って暇になりギャンブルする人が増えたのである。それは田舎でも普通にどこでもあることでもあった。

ともかく飯館村の人は少ないから合わなかった、鹿島でも会っていない、浪江の人にはあっていた。浪江は2万人だから多いからそうなる
ただ最近遠くの仮設から南相馬市とかに復興住宅などに移住していることは確かである。その人は前にもみかけたけど競輪場の券の売り場に来ていたのである。
だからその人とはまた会う、飯館村の人にあわないから事情がわかりにい、ただ一人一人でもいろいろな考え方があるからその人の言うことだけをうみのみにはできない

結局飯館村でも草野中心にコンパクトビィレッジになり浪江もコンパクトタウンになるのだろう。
農業とか畜産になるとそれはむずかしくなる、その人は牛を五頭くらいしか飼っていないみたいだ
最近できた放射性物質のふくんだ廃棄物の処理場で働いているみたいだ
故障してなんだとか言っていたが良く言うことがのみこめなかった。
その人も白髪だから相当な年なのだろう。ただその見た感じがとても牛を飼っている人とかそんな人には見えない、そっち系の人なのかと見えた
次男であって料理が好きとかでそういう仕事をしたかったとかも言っていた

飯館村の問題は土地が広いのである。ただ原町より広いとしても平地が少ないし森が多いのだから山が多いのだからその土地を活かすにしても牛を飼うのには向いていてもそれもしにくいとなるとどうするのか?
除染しても結局無駄だったとかその人も言っていた。
土地をもっていてもそれが何にもならない、荒地になるだけだとなるとそれを誰かに何でもいいから売りたいともなる、貸したいともなるときどうしてもソーラパネルになりやすいのである。そうなると飯館村の良さは失われる
前とはまるで違った世界となる、別に飯館村だからといって素朴な人たちが住んでいるわけではない、ただそこが隠されている場所でありそれで人も隠されていたからいいとなっていたのだ、飯館村でもあのような人がいるということは何かそぐわないとも感じたからである。ただ自分の見方だからそういう感じでも違った人でもあるかもしれない。

ただ飯館村の良さはあれだけ広い所に牛を飼って暮らしている所にあった、それが草野中心に菊地製作所とか工場で働くとかになると飯館村の特徴は失われる
多々あの人は別に放射能のことなど全く気にしていない、それも意外だった
キノコとかシイタケは一番放射線量が高いから食べるなと警告されていたからである。
それを食べていてなんか鼻血をだしたという、その鼻血では騒いだことが一時あったから本当にあったことなのだろうか?
第一その人は事故後もいてキノコなど普通に食べていたのである。
そういう人が飯館村にはいた,知らないからそうなる

軽度の被曝によって鼻血がでたのは事実であり、小学校でも記録されている---。原発事故直後、子供も大人も鼻血で悩まされた。
50歳の男性が今まで人生で一度-も-鼻-血を出さなかったのが、大量の鼻血が突然出たのでびっくりした人など、枚挙に-いと-まが-ない

この真偽はわからない、枚挙にいとまがないというほど出たのだろうか?
何かこういうとき噂が噂を呼びありもしないことフェクニュースとなって拡散しやすいからである。この事実を確かめることはできないだろう。
ただ飯館村の蕨平といったら長泥の隣であり相当に放射線量が高かったからありえないことではない。そこで前と同じような生活をしていればキノコなどを普通に食べていれば内部被爆したりする、あそこだったら本当だったのかともなる

自分も爆発したとき外を出てあるっていたのである。ただ助かったのはこの辺では20マイクロシーベルトになったの二回くらいであとは低くなっていたのである。
ところが飯館村では一カ月くらい避難しなかった。それでかなりその時被爆したと言われる、つまりキノコを食べていれば内部被爆したことは確かである。
それで鼻血になったのか?それはわからない。
菅野村長は避難するなとは言わなかったが全員に避難命令を出さなかったから残った人が多いのである。
葛尾村では即座に村長の命令で避難したことで評価された

その人が菅野村長の不満を言っていたが何か不満なのか良くわからなかった、話してもわからないとかは言っていた、ここに来るのは下っぱばかりで話にならない、何もしてくれないとかは言っていた。
何かどこでも官庁でも役所でも会社でも良く伝えておきますとは言うが何もしてくれないことが普通にある、そのことで不満だったのかもしれない。
ただ具体的にどういうことが不満なのかわからなかったのである。




posted by 老鶯 at 15:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2017年04月07日

ソーラーパネル工場と化した飯館村 (昔の牧歌的風景は失われた)


ソーラーパネル工場と化した飯館村

(昔の牧歌的風景は失われた)

ssssppppi1.jpg


ssssppppi122.jpg
草野に建つ施設



もうこれ以上待てない」と、帰村を待ち望んでいる高齢者の切実な声だと聞いた。
村は、村民の声をとても大切にしてきた。

2015 年の終わり、7400 人のうち人口の約 6%に当たる 400 人しか戻っていない。さらに、その内訳は 60 歳以上が 69.1%を占め、20〜39 歳の層は 3.6%しかいない。「楢葉町の今」
を取り上げた NHK スペシャル「原発事故 5 年 ゼロからの町再建」(2016 年 1 月 26 日放送)では、周囲が空き家のなか、1

一部の村民からは、「復興拠点もそうだけど、ハコモノばかり作って維持管理費はどうするんだ」という批判があった。

復興復旧は国に頼らざるを得ない。しかし、国が用意できるのは公共事業である。ハード面などの事業が終われば「復興」が終わったことになってしまい、村民たちは置いてきぼりにされる。置いてきぼりにされた村民は、抗う力さえ残っていない。


危機に立つ住民主体の村づくり
飯舘村における「復興」計画と「村民の復興」の乖離 




世代間の分断
地域の分断

原発事故で起きたのは様々な分断であり争いでもあった、放射線量で色分けして補償金の差をつけたのもその主な原因である。
隣がちょっと高いから補償金を高くするとか隣は低いから補償金は低くするとか土地はつながっているのだからそんなこと簡単にできないのである。
放射性物質だって空間で土地でも境がないから流れて拡散するのである。
飯館村の70パーセントは森だからその森から放射性物質が流れてくる、放射性物質に汚染された泥も流れてくるとしたら田畑も汚染されるから深刻である。
飯館村は草野でも7マイクロシーベルとあった、だから飯館村は他よりは高いと思った
佐須で泥のかたまりが20マイクロシーベルとあったのには驚いた、そうしたホットスポットがあった。
だから飯館村の放射性物質の汚染は深刻だと思っていた。
例えば木材でも3マイクロシーベルとあったのだから木材すら利用できない、石すら汚染されているともなる

飯館村で除染していた人が石をぶつけられたのでショックだったという人がいた。
なぜそんなことになったのか?飯館村でも補償金が一様に支払われていない
放射線量で区分けしているからそうなった、自分の家は除染したところで補償金を他よりもらえないからは除染している人に石をぶつけた。
その家では除染してもらうより補償金をもらいたいかったのかとなる
こういうことは南相馬市でも起きていたのだ。
30キロ圏内で区切られたのが南相馬市である。その区切られた所が塩崎あたりでありそこで若い母親が泣いて訴えていた、30キロで区切られ隣がもらえて自分の家はもらえないとかなったからである、そういうことは原発事故以後争いの元になった
南相馬市では小高区と鹿島区はいがみあうようになった
ところが小高区内でも争っているし今度は小高は浪江がうらやましいとかなっているし浪江は浪江で区分けされているから争いになったのである。

そして地域間の分断があり世代間の分断も深刻である。家族は若い人たちと老人は分離した、そして若い人たちは避難している六年の間に生活が別になり既成事実となり帰らないとなったのである。
東京に避難した息子はその孫が東京の学校を中学、高校を出て就職したという、そして妻も息子の所に行き帰ってこないのである。
老人が一人災害復興住宅に住んでいる、老人だけが取り残されて住んでいるのが多いのである。6年の間に生活が別になりもう帰れなくなったのである。

「もうこれ以上待てない」と、帰村を待ち望んでいる高齢者の切実な声だと聞いた。
村は、村民の声をとても大切にしてきた。

老人は先がないし遠い先のことを考えられないのである。いつ死ぬのか死んだらどうするのかなど考えるが先のことをは考えられないのである。
前田の墓地の老木のようになっているのが老人なのである。
他にもその土地に根付いて離れない石ともにている、そこに長く住んでいれば人間は自然と石のようになってくるのである。
「ぽかぽかと春の日がさしてあったかいな、ここを動きたくない」とかなるのが老人なのである。

60 歳以上が 69.1%を占め、20〜39 歳の層は 3.6%しかいない。

楢葉町ではそうだが大内村だと70パーセントが帰るとか飯館村でも30パーセントが帰るということは老人が多いこともあるが老人が帰りたいのは切実なのである。
そこには土地に執着するものが他に強いのである。
他で新しい生活をはじめることはむずかしいのが老人でありそこに若い世代との分離が生れた

飯館村の復興とは何なのか?それがこの著者もわからないというとき元の暮らしにもどれないからそうなる、春になったら春田となりこれから田植えがはじまるのだという暮らしがあった、それも失われて荒地になっている、そしてソーラーパネル工場地帯になる
飯館村ではとにかく広いのである。比曽とか長泥とかは一回くらい何十年も前に行った記憶がある、そこも意外と古い村だったのである。
そしてまだ行っていない所があり飯館村は広いなとつくづく思う、すると牧草地になっていた土地もまた広いのである。そういう場所を活かすことができなくなったのが深刻である。

結果的にはソーラーパネル工場になってしまう、村自体がソーラーパネル工場を経営して成り立つような状態になる、そんな村になったらまでいな村とかとは関係ない、村自体が実はソーラーパネル工場地帯となる。
そんなところが癒しの場とはもうならない、森の風景もなくなる、ソーラーパネルが向いているのは平原とか砂漠でも何か人が住んでいないような大陸的広さの土地があるところに向いている。日本のような狭い場所には向いていない、景観が破壊されるからである。でも生活するためには村だって税金がないと成り立たない、すると村の役所が実はソーラーパネル工場を経営する会社と化していたのである。
それは結局双葉であれ大熊とか富岡が実は東電の会社員になっていたとにているのだ
自治体が巨大企業の下請けになり社員化していたのである。
実際に浪江町とか避難した人たちは東電の社宅のビルに避難して生活したからである

グローバル化社会になると多国籍企業が実は国家より力があり支配しているというときとにている。東電という国家と一体化した大企業によって小さな自治体など買収される、それだけ巨大な企業だったのである。
現実に漁業権を東電に売り渡して漁業者は贅沢していたのである。
要するにそれだけ巨大な会社でありその巨大さ故に小さな自治体などとりこまれてしまうだから飯館村が「までいな村」としての村作りをしていたというがそんな江戸時代の感覚とはまるで違ったものとして東電などが巨大企業がある。
それが今度はソーラーパネル工場となり村を経営するとなる
そこにはまでいなとか牧歌的なものはなにもない、飯館村は現代では牧歌的なアルカディアの風景があった、でもその飯館村でも比曽の人が原発で働いていたし大内村では三分の一が原発で働いていたのである。
だから原発地帯は東電の社員化していたのである。
それが原発事故後明確なものとして認識されたのである。

復興でもソーラーパネル工場が主流でありそれに箱物を作る工業事業であり除染しても実際は除染はたいして効果がない、森から放射性物質が流れだしてくるからである。
それで裏山の木を切って一億円かけて除染するより一億円もらった方がいいというのもその土地の人にとってはそうなる
飯館村のまでいな村作りはすでに喪失しているし不可能になっている
そもそもその基盤となる農業ができないからである。
ソーラーパネル工場の管理人となるのが役所の人でも村民でもそうである。
それが人間の生活する村なのかとなる、でも現実問題としてはそれしか方法がない
そして土地をもっている人は権利があり活かしたいとなるからソーラーパネル工場になる元の自然に環るわけではないのである。

ともかく人間が作る技術でも必ずいい面と悪い面が生れる、別に電気が悪いものではない石器でも発明したときそれは必ず人殺しに利用されたし鉄器でもそうである。
原子力でも核兵器にもなるが平和利用として原発は言いものだとされていたのである。
でも実際は原発は恐るべき害をもたらすものだった、石炭でも二酸化炭素を出すとか
石油でも温暖化するとかあるがではソーラーパネルが自然を破壊しないかというとこれも実際は景観を破壊するし消去できない廃棄物を出すのである。

そんなことを言うと炭とかをエネルギーにしていた時代が良かったともなる、それが一番自然と調和する生活だったと成る、現実に戦争の引揚者が飯館村に大量に入り一万人近くの人口があったことに驚くのである。
そんなに大勢の人間が飯館村にいたのか?飯館村で生活できたのかとなる
その時は本当に自給自足的な生活であり炭を燃料としていた時代だかである。
それで一万の人口を飯館村で養い生活していたということは今になるとイメージできないその時は木材があるからそれを売ったり石材は今でも売っている、何か地元のものが資源となり生活が成り立っていた、だから炭焼きの時代にもどればいいとかなる
そうすれば飯館村の牧歌的風景は貴重であり人々も訪れる、それは外からくる人には言える、でもそこで実際に生活するとなると収入がないとできないからソーラーパネル工場になってしまうのである。
roubokuuuuuuu123456.jpg

ここで死にたいんだ、執念の老木



posted by 老鶯 at 11:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2017年04月06日

飯館村考(歴史をさかのぼり現状をみる)


飯館村考(歴史をさかのぼり現状をみる)


dateeeeee1.JPG

●みなみそうま(南相馬)と記された古文書があった

真野川をさかのぼり真野ダムにでる、そこは大倉である。ここは岩松氏が相馬氏などが関係して岩松氏が滅ぼされてその奥方が逃げた場所であり湯舟とかの地名が残っている
奥方が妊娠してそうなったとかある。大倉に逃れてきて悲劇の死をとげた。
草野は岩松氏の所領にあった。ただ相馬氏の岡田氏とか伊達氏もかかわり所領争いがあった地域である。前は大館とかがあり中世の館があり飯樋問と大館が明治に合併して飯館になった歴史がある。

地名にも歴史があり由来がある。面白いのは相馬岡田文書に

ゆつりかわたすそうまの小次郎たねもりのあとの事

下総(しもつさ)のくに、みなミそうまのうちいつみ(泉)のむら、ならひのむつのくになめかたのこおりおかたのむら(岡田の村)、このところは五郎たねやすそうりょうしきとして永大知行すべし


しもつさの国ミなミそうまのむら、かなやま(金山)、かミやなと、ふなつ(船津)
ならひにミつの国なめかたのこおり(郡)おかたのむら(岡田)やつうさぎ(八兎)
いといのかりくら、(飯樋、狩倉)かのところはたねやすちうたい(重代)さうてん(相伝)のしりょう(私領)たる間・・・

ここにみなみそうま(南相馬)として出ていることである。すると南相馬市の由来はここにある、ただその領域は小高中心なのである。
もともと小高に相馬氏の城がありそこが相馬氏の中心であり拡大した、それで鹿島はその小高から北であり北郷となっていたのである。当時のみなみそうまとは小高中心であり原町の領域、中ノ郷は入っていないのである。
ただ歴史的にみなみそうまというのが古文書に記されていたことは重要である。
ではなぜみなみそうまなのか?この時むしろ北を意識してみなみそうまと記したのだろうか?わざわざみなみそうまと記すのはなぜなのか?
つまりみなみそうまとは今の南相馬市とは領域が違っている、原町(中の郷とか北郷(鹿島)は入っていないのである。小高を南相馬としていたのである。
ただすでに南相馬市(南相馬)という名称があったということである。
すると南相馬市は歴史的地名なのかとなる。ただこれがどうしてみなみそうまになっていたのか?その解明が必要になる

●伊達市になったとき感覚的その領域が拡大した

伊達市というとき

1898年(明治31年)1月19日 掛田村が町制施行して掛田町となった。
1928年(昭和3年)1月1日 小手川村が町制施行して月舘町となった。
1940年(昭和15年)4月1日 長岡村が町制施行して伊達町となった。

2006年(平成18年)1月1日 伊達町、梁川町、保原町、霊山町、月舘町が合併して伊達市となった。

伊達町があったとしてもその前に伊達町はなかった、長岡村だったのである。伊達市というとどうしても伊達政宗をイメージする、相馬市とか南相馬市だと相馬氏を意識するようになった。
それで佐須の峠を越えるとき伊達市に入るとなり感覚的に前とは違ったものとなる
前は霊山町だったから霊山神社があり南北朝の由来にもとづく地名として意識していた。た、伊達市になると南北朝時代から伊達政宗と相馬氏が争った戦国時代になる。
ここから伊達市に入るというとき伊達政宗の時代を意識するのである。
それが地名の大きな影響なのである。もともと

伊達と相馬の境の桜 花は相馬に 実は伊達に

といわれたように境が意識されていたし現実に境があった。飯館村では岩松氏の所領ともなり相馬氏の所領ともなり伊達氏も領地争いにかかわっていた。

「草野通率一族」とあるように相馬一族のものが草野村の一部を所領していた

「草野通」とあるようにこの村を一筋の道があって行方郡と伊達郡(小手保9を通じて知られていた

これは地理的にも今でそうである。原発事故避難区域になっていてもこの草野通だけは交通として閉鎖されず通じていたのである。これはやはり地理がわからないと歴史も理解できないのである。

●前田は草分けの地、注意すべき戦後入植した人たちが多いこと

maedaaaa1234.jpg


前田 
maedamappp1.JPG

豊栄は戦後入植した地名


iidatemoriiii1.JPG

ここに入植した人が住んでいた

キャプチャ.JPG

山津見神社から前田に出たが前田というときそこは必ず草分けとなった農家がありその前田から村が発展したのである。
前田には江戸時代の古い碑が並んでいたことでもわかる、他でも大原の前田という地域は大原の奥にありそこに南相馬市立病院で同室だった斉藤氏が住んでいた。
その家は代々つづいた古い家だったのである。その人はすでに死んだ
その前田からさらに八木沢の方へ遠田という地名があることでも前田を中心にして大原があり拡大したことがわかる

佐須というとき佐須は焼き畑の地名である。他にヒソとかもそうだった。最初に入ってきたのは焼き畑をする人たちだった。縄文時代から人は住んでいてもそのあとは焼き畑をしていた。飯館村というとき何か新しい感覚になるけど古い村から成り立っている

比曽村には氏神を祭る社があり中に古い鉦が下がっていて延亭2(1745)年の年号と先祖の菅野伝左衛門の銘がありました

比曽村にこんなに古い由来があったのかと驚く、ともかく飯館村は広いのである。
何十年も前に一回くらいか比曽村とか長泥村を通った記憶がありそこにも古い碑があったのである。
葛尾村にも元禄の碑があったからあそこも古い、草野になると鎌倉時代からはじまり館がありそれが今の飯館村になっている。

ただここでまぎらわしいのは飯館村の人口をみると

iidatepopu1.JPG

戦後開墾に入った人たちが多くそれが混同しやすいのである。一万人近く飯館村の人口があったことに驚く、それは戦後引揚者が生活の場がなく農業で生活するために辺鄙な山村にも入ってきたからである。
例えば自分が知っている人でも小池でも町に近い所に開墾に入っている、菅野漬け物の倉があったところにである。そんなところが開墾する場だったのかとなる
それだけ戦争が終わり仕事がなく開墾に入った歴史がある。
それは全国的にそうであり浪江の津島でもそうでありそれで苦労したので団結力があると報道されていた。
第一一万人も飯館村に生活していたということが驚きなのである。どんな生活をしていたかとなると相当に貧しい生活である。炭焼きとかが主流となっていたのだろう。
それは現金収入にもなり豊になった人もいたからである。
あとは木材とか石材の供給地でありそれなりに生活できていた。その後は牛を飼うようになった。

この戦後入植してき来た人たちは山村に多いことを注意する必要がある。飯館村でもそういう場が多いからだ。豊栄とか共栄橋とかの地名は開墾に入った場であり昔からある地名ではないのであく。戦後開拓に入った人たちがなづけた地名である。
それで豊栄辺りで聞いてみたらやっぱり戦後開墾に入ってすみついた人であった
その人はそこに避難解除になり住んでいる、息子は川俣の会社に勤めているという。
もともとは農家であり牛などを飼っていた。
今飯館村で仕事しているのは菊地製作所とかの小さな工場である。他は仕事をしていない
牧場があり牛が放牧される広い土地がありそこは何にも使われていない、そこがこれから何に使うのか?ソーラーバネルとかになりやすいのである。
すると飯館村の景観は破壊されるし昔の飯館村とは違ったものとなる

飯館村のモニタリングポストでは佐須とかで0・6とかある、でもモニタリングポストの放射線量は実際の半分なのである。なぜなら土をけずりとって設置していたからである。
自分もその脇を計ったら倍だったからである。
そもそも名もあのヴらなモニタリングポストが必要だったのかとなる、放射線量をごまかすためにかともなる、それも本来の復興のために金が使われなかったということなのである。
ただ飯館村はもともと放射線量が高かった、草野で7くらいもあった、だから今でも0・6とあっても実際はその倍にもなるとなると今では相当高いともなるからそこに住むのが嫌だというのが理解できるのである。
それで裏山の木を切って除染したのに一億円かかったというときその一億円をもらった方がいいというのもわかる。除染してもまた山から森から放射性物質がでてきて減らないからである。だからなんのために除染しているのかとなる
無駄な金かゼネコンに流れただけだともなるからだ。

それで村に居残る派と補償金をもらい村を出る人に分かれ争いになった。
ただそうなると一体江戸時代からある古い村はどうなるのか?元の自然に環るのかとなると還らない、そこはソーラーバネルとか放射性廃棄物の処理場とかにされる
なぜなら土地をもっている人がいるしその人たちに権利があり金にしたいとなるからだ
ただ荒地にしていても金にならないからである。
小さな工場だけが仕事しているというとき農業ができないからである。
農業がない飯館村がイメージできない、ソーラーバネルを見るだけとなったら飯館村の魅力はなくなる。だからこれからの村造りをどうするかとなるとその解答は簡単に出ないのである。
でも何軒かは人が住みはじめたから人が住まないことには村も活きてこないのである。

sasuuuuuu11.JPG

佐須で0・7は高い、この倍にはなっている
posted by 老鶯 at 10:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2017年04月05日

避難解除した飯館村の春をめぐり短歌十首と俳句


避難解除した飯館村の春をめぐり短歌十首と俳句

shadowwssss11.jpg
真野川の上流
roootssss1.JPG
根元石
neukusttt11.JPG

根付き石-ここには人は住まなくなった

remainssss1234.JPG
滑の残雪
aumanewnewww1.jpg
クリック拡大ー残雪の吾妻嶺
iidatemoriiii1.JPG
森につつまれ一軒一軒ある家
rrrrsnow123445.jpg
クリック拡大
maedaaaa1234.jpg
前田の古い碑ー江戸時代のもの 

roubokuuuuuuu123456.jpg

前田の墓地にあった老木、

俺はここに残って死にたいんだ

そんな執念のような木に見えた


 


大倉や春の日さして根元石
飯館にまた人住まむ春の雲
春北風(はるきた)や峠を肥えて伊達に行く
前田には古き碑並び残る雪
春日さし老木の墓地に残るかな
飯館に春田のなしも悲しかな
春日さし石あたたむる動かざり


川上の春の流れの清しかも瑞枝の影のやわらきかな
清流の磐打ちひびき流るかな残れる雪のここに清しき
天上に浮かびしごとく残雪の吾妻峰仰ぐ神々しかも
山津見の社や遠く奥深し残れる雪に住む人ありぬ
知られざる道に誘われ春の日や遠くに行かむ山を望みて
八石山石切り場かな飯館に営みありて春の日さしぬ
前田より開けし土地や古き碑のここに並びて梅におい散る
広々とと飯館めぐり春の日や深く息して帰りけるかな
飯館の広々として春の鳥さえづりつつもわたり飛ぶかな
根付く石ここ離れじも淋しか春は来れど人住まぬ家
飯館に春の灯ともれ人影にほのぼのとして村も活きなむ

飯館の佐須から霊山に行きまたもどり山津見神社から八つ石をめぐり前田に出て臼石から草野を回り大倉から真野川に出て帰ってきた
つくづく山津見から前田の方には行ったことがない、飯館村は本当に広いからまだ行っていない道がある。
前に阿武隈高原の魅力が道にあると書いた、道が縦横にありどこまでもある。
その道を春の日がさしてきままに誘われ自転車で行くとき気持いいのである。
ただ介護十年で自由が奪われたので行けなかった、三食用意するとなるといつも追われていてゆっくりできないからである。
いつ帰ってもいいなと思うと楽であり追われることもなくなったのである。

飯館村は奥深いからところどころまた雪が残っていた、やはり寒い所なのだと思った。
あたたかくなったから雪は残っていないと思ったからである。
ただ最近まで寒い日があったから雪が残っていても不思議ではない
佐須から峠を越えて伊達市に入り霊山から望む吾妻峰は雪が厚く最高の景色であった
山は見る場所によって相当に印象がちがう、季節によってもそうである。
福島市から吾妻嶺を見てもそんなに美しく見えないのである。それも富士山でも同じである。場所や季節によって山の見え方は相当に違うのである。

今回は大倉の奥に木の根元にあったから根元石とか草野から大倉に出る所の石は根付き石とかなづけた。ぽかぽかと春の日がさしていた、そして石はそうして春の日がさして気持ちよく動きたくないとなる、老人になると特に動きたくなくなるのだ
「ここがいいな、ぽかほか春の日にあたたまって」とかなる
老人になるとそうして慣れ親しんだ所がいいのであり移動するのが不幸になる
だから大内村とかで70ハーセントも帰るとか飯館村でも30パーセント帰るというとき老人が多いからだろう。老人は慣れ親しんだ所に帰りたいのである
原発事故の酷さはそういう場を奪ったことにもあった。老人に過酷だったのである。

ともかく飯館村は何軒か避難解除になって住む人がいた、でももう住まない人もいて空家になっている、根付き石の所にある家も壊されていた、人が住まないということはどういうことになるのか、そして普通だったら春田になっている、春田というときこれから田に水が流れて田植えがはじまるという時期の田であり単なる荒地ではない
今はその春田がなく荒地になっている、そういう暮らしが消えるときそこは何なのだろうとなる、飯館村は広いから牧場とかあり土地が広いからそこをどう利用するのかとなる
ソーラーパネルとかになりやすいのである。

次回も飯館村に行って感じたことを書く
posted by 老鶯 at 10:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2016年12月09日

飯館村考(高倉から長泥、比曽への道) 江戸時代から原発事故までの考察)


飯館村考(高倉から長泥、比曽への道)


江戸時代から原発事故までの考察)

hisomap1111.jpg

kusanomappp111.jpg

●江戸時代の飯館村

飯館村というとき歴史がそれなりに古い、大きな杉木立の居久根があり氏神を祭る社があり中に古い鉦が下がっていて延享2の年号と先祖の菅野伝左衛門の銘がありました。

1747延享
1750寛延
1751宝暦
1764明和
1772安永
1781天明

1747延享 から歴史が始まるから古い、比曽はヒソであり焼き畑に入った場所である。佐須もそうである。なぜなら草野が中心部でありそこからまた離れている山中にあるからだ。佐須もそうである。地名というのは何か人間の営みと自然と関係して命名され残されている。
ただこれは何か地図を見てもわからないのだ。飯館村自体が本当に広いから地理をわかるのは容易ではない、それは狭い地域でもそうなのである。

飯館村は中心部の草野と飯樋(いいとい)とその周辺部から構成される
草野は臼石とか二枚橋とかも含まれる、館東とか地名があるのももともと大館と飯樋が明治以降合併して飯館村になった。
草野は最初は伊達氏に半分くらい属していた。飯館で何か伊達と争いがあった。
戦山(いくさやま)とかあるのはそのこととかんけいしているかもしれない

大倉は鎌倉から来た南相馬市の鹿島区の岩松氏が大倉を所領としていた。館とつく地名は中世の江戸時代の前の館でありそこが城の役目を果たしていた。
だから館、楯とつく地名がある所は古いのである。
南相馬市だと今の市街を形成した原町の市街は雲雀が原の野馬土手があったところで原っぱだったのである。あそこが中心部ではない、その周辺の深野とかその他が古い場所である。
郷土史というとき村の新旧とか時代を知ることがまず第一なのである。その市町村でどこが一番古い場所かである。
飯館村の場合は草野になる、なぜならそこは上田が多かった、いい田が多かった。
飯館村というと山が多いから山だけのように見えるが広い平地もありそこに田が作られ米がとれた。一番とれたのは草野地域でありそれでそこに人が一番多く住み中心地になった

次ぎに飯樋が飯館村の二番目に人口が多く集中したところである。江戸時代には塩の道の番所があり60人もの役人が勤めていた。そしてそこで伊達藩と相馬藩が森林資源をめぐって争いがあった。玉野では伊達藩と米沢藩と相馬藩が三つ巴で森林資源を争ったことは有名である。飯館村は伊達藩と争う境界であり境目付とか横目付とかが多いのである。
江戸時代でも村と村は自給自足体制で合同しないから境畑とか境がつけば何か村と村の境だった。
飯館村はそうした境の土地だから比曽でも川俣の山木屋に近くそうした争いが生まれる土地だった。山木屋となると三春藩の領域とも接する、山木屋から三春へ自転車で行ったことがあり三春に通じているのである。
ただ飯館村は広いからふりかえってもその地理がわからなくなっている
大倉から佐須から霊山の道はわかりやすいが比曽はわかりにくいし頭の中で位置が混乱している。
高の倉ダムから道なき道というか森の中をゆく道がある。高の倉の奥に行ったら長泥であり通行止めになっていた。長泥は放射線量が高く住めない地域になっていた。
すると高の倉も放射線量は高かったとなる、国見山で7マイクロシーベルとあったからだ

●明治以降の比曽からも原町に通じていたトロッコ(森林鉄道)

明治以降の飯館村の歴史は今に通じる、やはり木材資源や石材や資源がある村としてあった。もともとは自給自足体制経済である。だから交通として馬を利用していたがその飼料となるのは草でも山から供給できた。今なら車でもガソリンが必要になる
馬が足となっていた時代は長い、だから馬頭観音の碑が今でもいたるところにある。
それは明治以降のものであり大正時代以降も多いのである。江戸時代はかえってまれなのである。馬車屋があったように運搬はもっはら馬だったのである。
つまり馬は野馬追いのように軍馬ではなく運搬用とか耕作用として使われていたのである
それが変わったのはトロッコが森林鉄道ができたときからである。この森林鉄道は網の目のように全国にめぐらされていたのだ。例えば浪江の高瀬川そいの岩をくりぬいて葛尾村の落合まで通じていた。それだけ木材の需要とか石材の需要があったためである。
それは原ノ町機関区から蒸気機関車で東京に運ばれたのである。
常磐炭鉱だと石炭がエネルギーとして運ばれた、それから森林でおおわほれているから飯館村は炭焼きをした人は金持ちになり羨まれたとかある。
街でも炭で煮炊きしたり暖をとっていた、自分の家でも囲炉裏があったのである。
すると炭の需要が大きいから山村でも生活できていたのである。
それで大倉の老婆が「わたしは相馬の女学校に行っていたんです、鹿島の親戚の家から鉄道で通っていたんです」と言っていた。
相馬の女学校というとき入れる人は相当な金持ちでありほんのわずかしかいなかった。
たいがい尋常小学校くらいである。自分の姉は頭が良かったから女学校に入りたかったができずに看護婦の免許を東京でとった。看護婦もその頃簡単になれない、東京まで行って試験を受けねばならなかったのである。
まず相馬の女学校出たというだけでこの辺では大学を出たという感じになるお嬢様になるその大倉の老婆はそんな感じは全くなくなっていた。
ただ当時山だと金持ちがいた、山持ちは金持ちになっていたのは木材が利用されていたからである。

いづれにしろこのトロッコはいたるところにあり目だっていたのである。
それで何か自分の姉が葛尾村の親戚に行くとき歩いて行ったことを何度も話していた。
そこでもしきりにトロッコのことを語っていたのである。
そのトロッコで面白いのは高の倉に鉱山があり石炭を掘っていた、比曽の人が働きにそこに行った、
芥川の小説にも「トロッコ」という題の小説を書いている、トロッコはどこにでもありなじみがあった。石炭を掘り出してもトロッコで積み出していたからである。

塵労じんろうに疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している。…………

まさにそのトロッコの道は細々と残されている、その森林鉄道をたどって探すマニアがいる。この時トロッコは坂は馬でひっぱった。原町までは坂道が多いから下るのは楽だったそして街にでて買ったのは米だったという、だから米には不自由しなかったという。
それは闇米で帰りは藁に隠して運んだ、馬にひっぱらせて上って行った。
まだ馬はかなり使われていたのである。森林鉄道というときトロッコであり人力だったのである。
ここで興味深いのは飯館村が米がとれていても比曽とか長泥となるととれるのはわずかでありその米は原町から運んだものだのであった。
要するにあのような山中の村でもなぜ生活がなりたつかというと外との交流があったからである。一見孤立して自給自足に見えても確かに水とか炭とか木材とかで自給していたが塩の道があったように外部との交流なしでは山村でも暮らせないのであるる。
自給自足の村だったというとき基本的なものはそうだが全部はそうではなかった。
その辺が誤解しやすいのである。

うちの母は腸捻転で亡くなったけど亡くなるとき「おなかが痛い痛い」と言ってトロ(トロッコ)にのせて原町に下って各医者を回ったけど手遅れでトロに乗って帰ってきた。その時は死んでいた。
(もどれない故郷ー長泥)

こういう話は全国にあったろう。辺鄙なところでは病気は死につなかる。、北海道の雄冬という地域でもおんぶして子供を連れてゆくうちに死んでいたとか不便な場所はそうなりやすい。救急車もない時代だったのである。
電話一本で救急車が来るということかいかに便利であり助かることか今になるとそのありがたみを感じないのである。人間はそうした過去の苦しみを忘れるのである。
ここでは原紡で働いていたことも書いてある。その時原町紡織は軍需工場になっていた。自分の母親が働いていたときは糸取りであり絹織物を作っていた。
パラシュートとか帆布とか軍服を作っていた。
原紡というときこの辺の中心的役割を果たした工場だった。

今になると飯館村が原発事故で住めなくなったというときやはり原発で働いていた人もいたし山中でも山菜だけをとって暮らしていたわけではないのである。
大内村でも原発から近いから三分の一が原発で働いていたから成り立っていたのである。そこが何か誤解しやすい、今は木材でも国内のものを使わないから何か山村と街とか都会とのつながりを感じなくなっているのである。
そうなると山村はなんであるんだ、都会の人が税金をはらい馬鹿高いインフラを維持しなくてはならないとなり不満になる。
別に炭をエネルギーとしていれば山の清水で水道も使わないし最低限の生活は維持できるそれが今のように何でも電気になれば車でも一人一台もつとなればガソリンも必要になる飯館村だってとても金がないと生活できないのである。
まず飯館村だったら自分は住めない、車がないから住めないのである。買い物すら車がなかったらできないからである。

最近自分はユニットバスを作ってもらったけどこれも水の使う量が増えたりガスも使う量が増えたりやはりエネルギーを多く消費するようになる、でも風呂であたたまってあとは眠れるからいいし運動したあともあたためるといいとなり一旦こういう便利なものを使うとやめられなくなる、車でもそうである。

●飯館村の贅沢は一軒一軒の家が森につつまれていた

ただ自分の場合、別に飯館村に行ったとしても原発事故前はその生活のことを考えなかった。自分が飯館村と一番親しい場所は大倉から入った人も住んでいない森となっていた地域である。そこには森に隠され清流が流れていたのである。
あそこは人の手が入らない神秘的な場所だったのである。そこには大石があり春にはキクザキイチゲが残る雪のように咲いていたのである。
そこが自分にとって一番印象的な場所だったのである。
それから高の倉ダムから長泥や比曽に出る場所も長い森の道で暗い、夏でもそこは影なして涼しいとなる。そういう場所があることが何か心に安らぎを与える
それをイメージするとき心の中にやはりその奥深い森の影が反映されるのである。

飯館村の一番の特徴は何かというとき、何か目だったものがないのだが深い森の村だったとなる。そして一軒一軒が森の中につつまれるようにあった。
それが贅沢だなといつも見ていたのである。都会のようにこの辺の街でも街になると家々が接して狭いからである。
一軒一軒の家が広い庭と森につまれてあったのである。だからそのことがかえって贅沢なのである。
東京辺りだと電車にのるのも満員電車でぎゅうぎゅうづめになる、田舎だったらこの辺だったらがら空きとかなる、それが贅沢なことなのである。
ただ反面経済的活力はなく「死者の眠る街」と書いたが生者も眠る街になってしまうのが問題なのである。田舎の方がエネルギー効率が悪いというのもそうである。
人が集まりすめばまとめて住めばそれだけエネルギーは効率的に使える
飯館村のようにあんなに広いところにぽつんぽつんと家があり住んでいればエネルギー効率は悪くなる,でもそういう場所に住むということは都会から見れば贅沢なのである。

田舎の良さは本当はそうした自然と一体となり生活を充実させることにあった。それは別にそういうまでもなくそういう暮らしをするほかないのが田舎だった。
最近だからここに一本の樅の木がある、その陰に隠されるように家がある、街から離れているから農家だとなるが今は必ずしもそうではない、でもこの一本の樅の木が真っ直ぐにたっているとその陰に家があるとき村や町でも支えているのは農家であったとか意識する飯館村などはそうした道々でも木がいくらでもある。
そうした自然と一体化するアイディンティティ化するのが田舎なのである。

一本の樅のすぐに立つ冬の陽の没りて陰にそ家のありしも

樅の木は田舎ではどこにでもみかけるのである。飯館村では奥の誰も入らないような所に重厚な樅の木があった。それは古い神殿の石の柱のように見えたのである。
飯館村のような所になると一軒一軒の家に重みがでてくる。存在感がある。
都会にはとてもそうした存在感を豪邸に住んでももていないのである。
家はなにか家だけでは成り立たない、見晴らしのいい場所とか自然が反映する場所に建っていれば価値は百倍にもなる、それが都会には得られないのである。
飯館村には古い家が残っているというときそれは森林があり木材が豊富だから作れた。
自分の家も木材は橲原からとられたもので柱もいいものだという、飯館村などになると大黒柱になりさらに重みがあるものとなる
だからそういう家から離れるのは捨てるのは嫌だともなる。

●万葉集の歌から飯館村をイメージする

あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室(やど)は座(ま)せども飽かぬかも

右は、聞かく「左大臣長屋王(ながやのおほきみ)の佐保の宅(いへ)に御在(いでま)せる肆宴(とよのあかり)の御製(おほみうた)なり」といへり。

板葺の黒木の屋根は山近し明日の日取りて持ちて参ゐ来む

黒木取り草(かや)も刈(か)りつつ仕(つか)へめど勤(いそ)しき奴(わけ)と誉(ほ)めむともあらず

これらの万葉集の歌は飯館村をイメージすればイメージしやすいとなる
現実にそういう古い家が残っていたしその材料は身近にありとることができた。明日にでももってこようというのはそのためである。
そういう自給自足の中での生活の充実があった、でも反面すでに自給自足でもそれが豊だと意識しないということもある。
その土地の黒木でも草(かや)でもとって働き仕えてもほめてくれないというのはそのことだろう。何か別なことならほめるとなる、現代なら米などありあまっているとか米を作る人などほめない、余って困っているんだとかなるだけなのと同じである。
減反政策などもそれと通じている、つまり都となればそれだけすでにそうした黒木であれ草(かや)をとっても価値ある労働とはならない、別なものが価値あるものとなる。
それは今なら車とか電気製品とかいろひいろありすぎるから米は価値がなくなる、木材でも外材になり価値がなくなる、それで本来の価値が自然と一体化した生活の価値が低下させられる、それが高じて原発を作り事故になり飯館村のような所が最大の被害地になったのである。

●までいなとは(真手とは)

飯館村ではまでいな村作りを盛んに言っている、でもこのまでいなとは何か?
ていねいにおそろかにしないということである。
片手だと何か軽くなるが両手だと真心をこめて対処するとなる
ただこれはどういうことなのか良くわからない面もある。

「左右手」を「まで」と読ませています。この謎を解いて下さい。


(答え)「ま」=「真」で「完全なもの」。「左右手(両手)」で「真手」となるわけです。普段から両手で何かすることを「真手(まで)」と言っていたのでしょう。それを「〜するまで」という助詞の用法に当てはめたのです。

「諸手」「二手」で「まで」と読ませています。

◎左右の臣。羽の臣。鏡臣と剣臣。

『あまのこやねと ものぬしと まてにはへりて みちものへ』ホ27
『おしくもと くしみかたまと まてにあり たねこはみこの おおんもり』ホ27

「まつ(和つ)」の名詞形。
ここでは「A: 合う/合わす・匹敵する・対になる」などの意。
また「まつ(和つ)」+「て(方・手)」の合成。

原文: 大海尓 荒莫吹 四長鳥 居名之湖尓 舟泊左右手

作者: 不明

よみ: 大海(おほうみ)に、あらしな吹(ふ)きそ、しなが鳥(どり)、猪名(ゐな)の港(みなと)に、舟(ふね)泊(は)つるまで

・・・・まで(真手)は待つことにも通じている、しながとりとは何か悠長に待つものの例えかもしれない、嵐よ、吹いてくれるな、猪名(ゐな)の港(みなと)に、泊つるまでは吹いてくれるな、何かそうした祈りみたいなものがこの歌にはある。
歌は祝詞でもあったからそういう言霊の祈りとしての歌が感じられる
両手を合わせて祈る姿なのか、真手というとき真直 (まなお )とかもあり大和言葉の原始性があるのかもしれない

これを現代的心境にこの辺をイメージすると津波だ原発事故で避難したり翻弄されたが嵐にあったが港に船は泊まりそこで休みたいともなる
ただその港に住んでいた村や町に帰れないということにも通じている
ともかく万葉集には一つ一つの歌に深い意味があり日本の自然と一体化したもので同じものが作れないことにある。

飯館に我が帰りたしも帰れじに時はすぎゆく今年も終えむ

こんな心境にもなる、いづれにしろ飯館村がどうなるのか?草野辺りにコンパクトシティ化タウン化して生き残るのか?
二千人くらいの規模蜷というがそれまた村を維持することは容易ではない、老人は帰りたいと言ってもそれを支える若い人が流出したことが致命的なのである。
それは限界集落とにているのである。飯館村だけの問題ではない、全国的な地方の衰退が極端なものとしてこの辺で津波と原発事故で起きたのである。

posted by 老鶯 at 13:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2016年09月01日

塩の道の旧家で飯館村の現状を聞く (家を壊しても新しい家が建っている)


塩の道の旧家で飯館村の現状を聞く

(家を壊しても新しい家が建っている)

fukkou122.jpg

塩の道の旅館だったという旧家

fukkou1.jpg
これだけ広い所に家が建つ

五人で分けた山.jpg


五人で所有しているという山、旧家の前のやまである。



夏から秋になる塩の道で九代つづく旧家の人がいたので話して飯館村がどうなっているのか聞いた。

「この家は古いんですか」
「九代目です」
「そんなに古いんですか、すごいですね」
「この前の土地は自分の土地です、今度ここに復興住宅が建つんですよ」
「こんなに広い土地に復興住宅が建つ、50件くらい建つのかな、鹿島区でも復興住宅が50軒くらい建った所がありますよ、ここもそのくらい広いみたいです」

そもそも飯館村については良くわからない、これだけの広い土地に人が住むとなるとそれはどういうことなのか?飯館村では千軒の家が取り壊されたとかテレビで写していた
途中で家が取り壊されて土台しかないところを見た

「家が壊されて何もないところ見たんですがもう帰ってこないでしょう」
「いや、あそこも新しい家が建ち帰るんですよ」
「ええ、帰ってくるんですか?」
「隣の家も直しているようですがここも帰るのかな」
「ここも帰りすますよ、アバートがあるけどまたアパートが建てている、あそこも自分の土地なんですよ、トラックや重機を置いてあるけどここも自分の土地だよ」
「ええ、そんなに土地がある」
「ここの前は田んぼで自分の土地だったんです」
「こんなに広い場所を整地した」

考えてみると飯館村はやはり若い人は帰らないし深刻だと思っていた。なにしろ小高などと比べると不便だからである。それが意外とそうでないみたいなのだ。家を壊したのは新しく建てるためだったのか?避難区域になったところでは楢葉の竜田駅前の家は壊していたが住むないと言っていた。新しく家を建てないのである。飯館では壊して新しい家を建てるのか?福島市に建てた人もいるが飯館村に古い家を壊して新しく建てるのか?その辺はもう一つのみこめなかった。

「自分の息子は保原にいますが帰ってきます」
「本当ですか」
「小高辺りでは帰らないみたいですけど・・・・」
「いいといなどは帰らないよ」
「あそこは離れているからか、でも結構家が多かったですが・・・」
「この草野には帰る人が多いよ」
「草野は幹線道路があることが強みなことはわかっていたが・・・」
「アグリのコーヒー軒パン屋も福島市に本店を建てて飯館に支店を開きますよ」
「ええ、そうですか、休む所がなくて困っていたんですが・・・」
「今でも結構帰って家に住んでいる人はいます」

これを聞いて意外だった、飯館村はみんな帰らないと思っていた。ここで生活するにも何をするのか菊地製作所はあったとしても農業がないとしたら何で生活するのだろう
だからここに復興住宅を広い土地に建てるということがわからない
おそらくここに集めた方が暮らしやすいためなのか

「まあん農業はやれないよ、牛をだめだよ、花栽培している家はある」
「花は放射能と関係ないですから、大内村辺りでも勧めているみたいです」
「ここは水がいいし涼しいからトルコキキョウなど有名だったんだよ、沖縄辺りまで出荷していたんだよ」
「それは聞いていましたが花栽培ならできる」

でも考えてみると花栽培だけで村の生活が成り立つというのも考えられなかった。

「道の駅があったけど売るものに困る、他から買って置くのもな」
「村でとれた特産品でも置かないと商売になられない」
「この前でソバ屋をやれと知っている人に言ったいるんだよ」
「この幹線道路には店があればそれなりに入る、ここに復興住宅が建てば食べる人もいる」

それにしてもこの広い土地の隣はソーラーバネルが並び回りは放射性物質に汚染されたフレコンバックと宿舎のプレハブである。一つあるコンビニには行列ができていた
除染関係の人でにぎわっている。

その家は塩の道にそってあった九代つづいた古い家なのである。

「ここが塩の道だったんだ」
「幹線道路は六号線のようにあとからできた」
「ここは旅館だったんです、塩の道の宿屋だったのか?」
「作見の井戸というのも有名ですからここが塩の道で古い道だった」
「この辺は古い家が多いよ、野馬追いに出る家も近くにいる、4騎くらい出ているよ」
「ええ、今も出ている、相馬藩として飯館村は江戸時代には出ていた」
「今でも出ていますよ」
「草野はやはり飯館村では古い所だから」

飯樋(いいとい)は離れているから帰らない、中心部から離れると不便になり帰らない、小高でも街内に復興住宅が建った、だから街内に集めると介護でもやりやすいし生活しやすい、あそこでも農業をすることはむずかしい。
飯館村はさらに農業することはむずかしい、放射能汚染が他より高いからである。
でもなんか飯館村の良さはまでいな生活として素朴な村という良さがあった。
ただ福島県でも最低の収入の村だったのである。

自分が飯館村で今度行って感じたのは栃窪村は実りがもどり古い碑でも何か全体が復興した感じになる、つまり田んぼがあり実りがあるときそれが一番復興したと感じる
それが飯館村には全くない、荒地であり農業も牛もいなくなったし菊地製作所があるだけでありこれが山の村なのかとなる
農業がない村が村なのかという疑問がある。そこに素朴なものはなくなる。
何か自然でも花でも樹でも飯館村は全体の雰囲気が来たとき違っていたのである。
ソバナの花が咲いていれば何かそういう自然の花が飯館村にはにあうし他では感じないものがここでは感じる、浜通りなどの市町村にはそういうことが感じない
飯館村には特別自然が純朴なものとして感じる不思議があった。
だから農業がなくなる飯館村はこれからどうなるのか、何か前の本来の飯館村が失われのではないかと思った。
第一その話を聞いた人は何か落胆したような感じではない、何かそんな雰囲気はない
子供も帰ってくるしあれだけの土地が売れたとすると補償金でも入ってきたしそれで前より金が入ってかえって余裕があるのかもしれない
もちろん福島市に家を建てた人もいるから相当な補償金が飯館村にも入ったのである。

「飯館村は合併しなくて良かった」
「南相馬市では合併して補償金でもめているからそういうことは言える」

飯館村は南相馬市として合併することも検討されていた。しかししなかったからこそ補償金でもめることはなかったのである。
要するに補償金の額が多いからそれで得している人も飯館村にも相当いるのかもしれないでもそれが現状を見るとき自分はこれが貧しくても素朴な飯館村なのか?
その良さが失われていないか?まずフレコンバックばかりの風景とかソーラーバネルでも景観を乱している、農業がないことがそうさせる
ソーラーパネル工場なのかともなる。そんな村で塩の道など偲べるかともなる

「飯館村は木材が昔から豊富だった、炭の材料として塩と交換した」
「あそこの山は五人で共有している山なんだ」
「あの山ですか」
「五人で共有しているから勝手にできない」
「昔から江戸時代から山は共有して勝手にできなかった」
「他にも山は個人ではもてない、みんな共有なんだよ」
「明治になって私有になった、それが山を破壊する原因にもなった」
「二枚橋の郵便局で大きな範囲で山をもっている」
「それは役所から払いさげられたもんかも、明治になってそういうことがあった」

山はもともと共有であり個人で勝手にできなかった、入会権があり山は共有であり個人では勝手にできないものだった。それが明治時代以降変わったのである。私有が認められるようなった、それで山が個人の所有として無数に分割されてしまったのである、
ただ五人の山だというときそれは明治以降に五人で山を分けた、隣の山も何人かで所有しているとかなると明治以降五人で分けて所有した。もともとは村全体のものだが三人であれ五人であれ分けてやがて個人所有になった。そして無数に個人所有に分割された。
木材をめぐって飯館村でも伊達藩とか争いがあった、木材は当時の燃料だから貴重だった

「この塩の道を通じて塩が運ばれ飯館から木材が運ばれた」
「この道を馬で運んだ、自分の家は旅館だった」
「そういえば他にも飯館には馬と人が泊まった家があった、ここもそうだったのかな」
「ここは旅館だったんだよ,そうかもしれないな」
「ここは塩の道なんだ、蔵を俺は直した、あの紋を見ろシダヤという屋号だった」
「立派な紋だ、太とあるからシダヤなのか」
「蔵も直さないとだめなんだよ」

ここの家はシダヤという旅館だった、屋号があり家紋があり9代つづく旧家である。
でも前の田んぼは売りそこに復興住宅が建つとここが新しい街のようになるだろう。
この変化も大きいし何か飯館村の素朴さが失われる、でも金は入ってくるから余裕であり得したと喜んでいるのかもしれない、何か暗い表情ではないのである。そこが意外だったのである。そして飯館村のまでいな生活とか独自のものが失われてゆく
そうなると飯館村の魅力を失われてゆくのかという疑問はもった。
つまり栃窪村のように田んぼに実りがもどったとき古い碑も生き村全体が復興したという感じをもったからである。
ここに復興住宅ができて街のようになってもどんな生活があるのか?
それも疑問である、何かその人たちが生活できるものがあるのかとなる、農業はないとしたら何で生活するのか?菊地製作所にしても人が減っているというからである。
なんかその人から聞いただけでは飯館村の現状はまだわかりにくかったのである。


posted by 老鶯 at 09:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2015年12月08日

飯館村考(もう30年50年とかたたないと復興はできないだろう)



飯館村考(もう30年50年とかたたないと復興はできないだろう)


世界は世界観はどこでも空間と時間から作られる。それは縦軸は時間であり横軸は空間である。人間の思考は空間認識と時間認識で作られている
時間認識は歴史となり空間認識は地理となる。だから地歴という科目になったのである
それは空間と時間は切り離せないからである。
一つの場がありそこに人間の営為があり時間が積み重ねられて歴史となる
故郷とはそういう場と時間によって作られた場所である。
故郷というとき相馬藩内とか一つの場として形成されたアイディンティティ化されたものがある
その範囲は狭いからアイディンティティが形成しやすい場所であった
伊達藩とかなると大きいからアイディンティティを形成しにくい、それは政治的に大きくなり政治的境界を作ったからである。福島県でも浜通りは一体感があるが中通りとなるとない、阿武隈高原にさえぎられてなくなる


会津は会津藩であれ歴史的にも地理的にもそうである。
そして相馬藩内でもその土地土地によって村々によって住む場所か違っている
海側の漁村と山側の山村に住むのでは相当に感覚的に違ってくる
だから飯館村の大倉村と佐須村が隣り合って近いのに民情が違うから明治になって合併することに反対したのである。
江戸時代になるとその場その場で村々で自給自足していたから別な場と時間を生きていたのである。だから江戸時代の方が多様な世界に生きていたとなる
それは言葉でも隣り合う村でも微妙に違って方言化していたことでもわかる
隣村でもそんなに交流しないからそうなる


明治以降そうした江戸時代の土地に根ざして生活していたアイディンティティが失われたそれは交通の発達も原因していた。鉄道の発達が全国を交流させた。関所もなくなり気軽に切符一枚でどこにでも行けるようになったのである。
江戸時代から生きて鉄道に乗った人は驚きだったろう。一気に異空間に旅たてるようになったのである。そこには相当な恐怖感とか違和感があった。
見知らぬ土地へ行くときは常に恐怖がつきまとっていた。

佐保さほすぎて 奈良の手向たむけに 置く幣ぬさは 妹いもを目離めかれず
相見あひみしめとそ  長屋王


峠は故郷と異郷とを分かっ結界である。人が未知の世界へ分け入
る山の神や渡津の神が人の生命を奪うとする思考は、境界の意識と
る境として神威への畏怖を感じ神を奉斉して通る場所である。

峠を越えることは相当な恐怖だった。別世界異界に行くことだった
親しい愛する妻と別れることはとなりの村辺りでも何か遠い感じになるからこの歌ができた。歩いて峠を越えたということをイメージしなければならない、今だったら車であり妻と離れるのが解放された気分になるだろう。
自分も故郷の閉鎖された環境から離れることは解放感になったから旅ばかりしていたとなる
それだけ閉鎖された所で長年生活するということはその土地に密着して生きることになる
飯館村とか川内村とかは都市から原町でも福島市でも離れている、そして標高が高いから八木沢峠のような急峻な坂がつづく、その坂を越えたとき確かに別世界に入り空気も違っているものを感じるのである。

そうした土地に密着した生活から時間軸と空間で場で作られてきたのが村であり町であるその村や町が失われることは何かその場で培われた時間軸と空間の一つの世界が失われることにもなる。
それは飯館村だけではない、日本全国の限界集落などがそうである。
そういうところが今は価値がない、都会からするとインフラに税金がかかるから消えた方がいいと今は盛んに言われる
でもそれが都会の人にとって回りにとっても損失なのである。
経済的な面から見ればそうなるが精神的な面から見れば飯館村があることによってそこがオワシスのように癒しの場となっていたのである。
高原の空気は澄んでいたし森につつまれた癒しの空間だったのである。
例えそこに人が住んでないくても森があり山があることで癒しの空間を作ってきた。
それは人間にとって欠かせないものとして山があり森がある
都会にはそうした空間がないからビルだけになっているから殺伐としたものとなる


までいな生活というのもそれは飯館村の価値観を作る他とは違う村作りを目指していた。そして山菜料理を食べているというときそれは自給自足の延長としてあった。
それは買うものではなく自ら山に入りとる縄文時代の延長としての生活があった。
だから補償金をもらっても何でも買うとなると米まで買うとなると不安になるというのもわかる。
そもそもそういう自給的な生活がなくなったら飯館村に生きる価値がない、その生活は都会と同じだとなってしまう。確かに菊地製作所とかは今でも残っていて通っている
それが村を支えているとなるがそれだけではもう他と変わりないのである。
つまり自給自足的な生活がなければ本当は村に生きる価値がなくなっていた
都会に出れば何でも買えて贅沢はできてもそうした自給自足のまでいな生活はまた別な価値があった。
放射能汚染でそれができなくなったときさらに帰ることを絶望的にしたのである。
除染しても効果がない、補償金一億円もらって他で新しい生活をしたほうがいいとなった都会の方がぜいたくできるし便利だとなるからだ。
結局人間は何か得るものがあれば失うものがある、時代的にもそうである。
江戸時代は貧乏で嫌だといってもそこには今にない価値観があり得るものがある
そして現代とは互いに田舎でも信頼できない社会である。
田舎といっても今は昔とは全く違う金の力がもの言うのは同じである。
なぜアメリカに投資してアメリカのことが気になりカナダに投資してカナダのことを気にしている自分にも言える
何かそこに人間的な規模を越えた非人間化した社会で生きているのである。

保証人が必要だっていうのは、 
それだけ、世の中は信用できない人が多いってことなのかな。 
戦後の昭和史を見た限りでは、就職に『保証人』が必要な企業なんて、 
金融関係以外はほとんどなかったみたいです。 
会社にわざと迷惑をかけるような悪い社員がいることも事実みたいだから、 
会社側からいえば、仕方ないんやろけど。 

自分も身寄りがなくなってこのことで嫌になった。何でも保証人なのである。
その保証人がないために親戚でも脅してきたのである。
入院しても手術するにも何でも保証人なのである
就職するのにも保証人であり保証人のない人は部屋も借りられないとか
老人ホームにも入れないとかもう生きていけなくもなっている
保証人がいないということはホームレスになり野垂れ死ねということにもなっている
それだけ人間と人間が信頼できなくなったのが広域的グローバル社会である。
それいい点があったとしてもまたそれによって失われたものも大きい
もう江戸時代の五人組で保証される、連帯責任の方がいいともなる
時代が変わるとかつて封建的なもので平等でないとか差別されたことにもそれなりの
その社会でのいいものとして機能していたものがあったともなる
原発事故の避難区域で金しかなくなったのもそういう社会になったためでもある
金さえあればどこでも暮らしていいという社会になっていたからである。
今の市町村にはかつての村のような連帯とかつながりがすでになくなっていたのである。

今は贅沢で便利であるが失ったものもある。
例えば原町と小高とか鹿島とか新地になると不便になる
医者も二軒とか買い物でもスーパーは一軒とかイオンに行くと一割りは物価が安くものが豊富にあるとか差が大きい、現代の標準的生活をするとなるとまず4,5万の都市の規模が必要なのである。
それでも敢えて不便な所に住むというのも別な価値観に生きるということがある
それが意識できないとなるとそこにはもう生活できないとなり補償金をどれだけ高くもらうかしか今や関心はなくなったのである。


そして何か補償金をめぐってここの人間のエゴがむきだしになった。それは飯館村だけではない、もう金しかないと極端化したのである。もらうだけはもらうしかない
飯館村の人も福島市でギャンブラーになったとか荒廃した。
飯館村でも別に馬券売り場とかありギャンブルしていた人はそれなりにいた。
でもそういうことが目立つことなく隠されていたから良かったのである。
別に自分は村の人と交流もなにもなかった。
別に村の人と交流がなくてもその生活が隠されていたときそこは別世界になっていたのである。
それが原発事故後はその人々のエゴが剥き出しになり求めるものは金しかなくなった
隠された人間の醜さがむきだしになって現れてしまったのである。
そこで語られるものが補償金しかないのである。
村長がさらに寄付金を募るというのもまたそうである。これ以上金が必要なのかとなる
その金で何をするのかとなる、まさか村民に配りその人たちがギャンブルにまで使うのかと思ってしまうのである。
小高の人は鹿島の競輪場の券の売り場ち通っている、そんな生活に何の実りがあるのか、そんなことをしていれば精神を荒廃してゆくだけである
いづれちしろ残念だけど飯館村は住めないとしたら元の森に埋もれて30年後とかた50年後とかの時間をまてば放射能もへりまた住む人がでてくるだろうと願うほかない
放射能汚染をとめることは時間をかけないとできないのである。
だからもう飯館村でも時間が解決するほかない、今は補償金だけが関心であり村民も住むのは無理である。


第一津波の被害地でも店をはじめようとしたが買う人がいないとなりやめた。
原発の避難区域でも外に出る人は半額にして残る人に多く補償金を出せばいいと書いたが考えてみればそういう場所に残っても金が一億もらってもそれを今度は有効に使えないとなる、つまり回りには金を使えるものがない、荒野に一億円もっていても使いようがないのである。そして水さえ飲めない環境では本当に価値あるものがなくなったとなる
だから外に出る人をとがめることもできないとなる
小高とか他の地域とは飯館村はまた事情が違っているからである。


とにかく現代の町とか村は第一次産業主体だとすると崩壊しやすい、解体しやすくなっていたのである。それは自給自足の生活とは違う、田舎でも山村でもグローバルな世界に生きているからである。
国さえも捨てて外国に住むという人もいる社会である。
菊地製作所が残ってそこが働く場所として飯館村を支えているというのもそうである。
エネルギーにしても江戸時代からしたら何千倍か何万倍か知らないけと消費している社会である。
炭焼きとかがエネルギーだった社会とはあまにりも違ってるのだ



タグ:飯館村
posted by 老鶯 at 18:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2015年09月06日

一年ぶりに飯館村に行き思ったこと (初秋飯館村の短歌に写真など)


一年ぶりに飯館村に行き思ったこと


(初秋飯館村の短歌に写真など)



iidaaa1212.jpg
じさばらの滝
iidaaa3333.jpg

滑の流れ

iidaaa9999999900000111222333444555666777889900.jpg

じさばら渓谷の山紫陽花

iidaaa99999999000001112223334445556667778899.jpg

飯館の原野化した原にミソハギが咲く

iidaaa9999999900000111222333444.jpg
iidaaa1.jpg
iidaaa999999990000011122233344455566677788_FotoSketcher.jpg

iidaaa9999999900000111222333444555666777.jpg
iidaaa9999999900000111222333444555666.jpg
iidaaa9999999900000111_FotoSketcher.jpg


iidaaa9999999.jpg

ここに化と見えるから江戸時代ものか?

iidaaa9999999900000111222.jpg
iidaaa88888.jpg


飯館に芙蓉に木槿農家かな
飯館や十輪ほどの秋薊
あいの沢初秋の石や蛙鳴く
何語る社一つや秋の蝉


橲原の道をたどれば黒揚羽一羽飛びつつ消えにけるかな
橲原に山紫陽花や雨ぬれしあと日のさして苔水々し
八木沢の峠越えゆく蝉の声ひびきて今日は曇りけるかな
飯館の道の辺あわれ芒に野菊ワレモモコウかな
飯館に空家一つや郵便箱木槿の咲いて人すまじかも
夏草に埋もれてあわれ道の辺に馬頭観世音飯館の道
作見の井戸見ることもなく五年すぎ村人何を思う秋かな
蝉の声ひびくもあわれ飯館に生きて死なむと思いしものを
葉山への社の道や夏草に埋もれて誰かお参りに来なむ
石一つ除染のあとに現れぬ平たい石や何と名づけむ
蛙石臥牛石久々に来てそを見れば何か心の落ち着きにけり
飯館ははや一本の樹を見ればほのかに赤く色づきにけり
飯館の広くもあれや知らぬ道萩の花咲き月見草咲く
飯館の奥の深きや森深く家一軒や桔梗の咲きぬ
滑にそい流れとどろき早しかな我が自転車に下りくるかな

iidaaa9999.jpg
空き家に郵便箱に木槿

iidaaa77777.jpg
この石は除染のあとに現れた



あいのさわ

iidaaa5555.jpg
この丸い石は顔に見える

iidaaa4444.jpg
牛の背のような大きな石

iidaaa666666.jpg
早くも色づいた樹


除染の風景
modoro11.jpg
iidaaa9999999900000111222333444555.jpg

iidaaa222.jpg
パノラマ写真

前田辺り

クリックして拡大するときれいに見えます


芙蓉の咲く村

ゆったりと芙蓉の花が映える
木槿も咲いて農家のありぬ
家は家は森に隠されて
花のみがその色も濃く映えている
その広い空間が癒しになる
素朴なるものがそこに映える
芙蓉の花はあどけなく一日
煩わされることなくゆったりと咲く
赤と白と花は調和して咲いている
花のみがそこには淀みなく映えている
その空間は広々として牛がもうと鳴き
花のみがゆったりと己が色を出して咲いている

iidaaa121244.jpg



飯館村に八木沢峠を越えて一年半とかぶりに行った。コンビニができたというので行った自転車は暑さに弱い、今年も暑くて行けなかった。
そして雨がつづいて行けなかった。でもかなり走ったけど涼しいから疲れなかった。
自転車はやはり夏は向いていない、体力が消耗する。
秋になると涼しいからかえって気持がいい。
橲原渓谷を通って八木沢峠を上った。橲原渓谷の道は荒れてしまった。車が震災以来通行止めだから通っていないからだ。
今度のカメラは流れや動きあるものをとるのに優れている。だから滝とか流をとった。
カメラは今は何するにも欠かせないのだ。
まずカメラで記録してふりかえり俳句とか短歌にしているからだ。

飯館の不思議はいつも何か雰囲気が違っている。街といってもスーバーが一軒とかパチンコ屋も歯医者も何もないのである。
ただ飯館は本当に広いなとつくづく何回も行っているのに思った。
今回はあいの沢から前田とかに出た、そこも広い山間だった。
そこにも家が何軒かあった、ただ今は除染の工事だけである。
それにしても今は飯館村は除染の土をつめた袋がどこでも置かれている
そして道の脇は除染している。
それにしてもいたるところ除染しているから除染はとてつもない労力が必要だと思った
そもそも飯館村は森が七割であり広いからである。
だからあそこも飯館村の領域だったのかとはじめて知ったのである。
ただなぜか葦は茂ってないないで萱が芒が多くなっていた。
葦は除染のために切ったためかもしれない、八沢浦などはまた一面の葦原である。

除染はどれだけの効果があるのだろうか?
あれだけしているのだからそさなりに効果はあるのだろう
でも森からまた放射性物質が流れてくるからどうなのか?
あそこでまた米とか野菜を作れるのか?牛を飼うことはあきらめただろう。
すると他でも小高ですら放射線量が低いのに帰らないとなるなと
村民は帰るのだろうかとなる、工場があってそこだけは働く場としてある
ではその他の農業とか林業とかはどうなるのかとなる
そしてもともと飯館村には病院もないし不便な場所だったから帰らない人も増えてくる
だから一旦田んぼでも放置したらそれを復興するのはむずかしくなる
前々から金にならないとかばかりどこでも農業は言われて来たからである。
跡継ぎもいないとかなりこの際やめて補償金もらって他で暮らした方がいいと考える人もいるのもわかる

ただ飯館村とか村には村の良さがありそこで生きたものはまたそこで死にたいともなる。老人は帰りたいというときそれは一種の生物的本能でもある
飯館村に蝉が鳴いていた、するとそこで蝉がなくようにその地に死んでゆきたいともなるその心境は老人でないとわからない、つまり老人と若い人の差はそういう精神的な面でも大きな差がある。
別にどこでも死んでいいとかにはならない、都会とかで東京の高層ビルで死にたいとは思わないだろう。
つまり田舎と故郷で見逃されているのが死に場所としての自然がある故郷であり田舎なのである。このことはあまり注目されていないのである。
何か生活が不便だとか経済的側面だけが強調されて精神的な側面が注目されない
もちろん病院がなければ年寄りは病気になるから暮らせないというのも現実である。
実際にだから小高でも夫婦で妻の方が病気になり子供の所で暮らすようになったから帰らないとなる。飯館村でもそういうことが起きているだろう。
それでもどこで死にたいかとなるとた別問題になるだろう。
いづれにしろ老人の問題は死と切り離されずある、そこが意外と注目されないのである。それで原町の90何才かの人が他にもう移りたくないと墓に入りたいと自殺したのも冗談のようであるがやはり精神的なものが大きく影響していたのである。
他にも移りたくないと自殺した人もいたことでもわかる。
人間は故郷とか自然の中で家で死にたいというのが本能的なものとしてある。
それが人間も機械ではなく生物であるからそうした本能をもつのである。

あいの沢では例の石を見たときほっとした。一つは何か円く顔に見えるしもう一つは牛が寝そべっているような大きな石である。何かあそこにきてほっとしたのである。
飯館村自体の自然がなくなったわけではない、だから自然環境保存村とかとして残す方法もある。
だからそこにはキコリの宿のような宿泊所が必ず必要なのである。コンビニができただけで行きやすいとなったからである。
それでもそこに村民が住んでいないなら成り立たないともなる
飯館村は赤宇木村とかと規模が違う、6000千人の村はそれなりに大きいのである。
赤宇木村とかはあそこの道を通っても村として意識できなかった
家が隠されて見えないこともあった。飯館村は面積が広いから大きな村なのである。
そしていいのは森に家が一軒一軒隠されていて家も人間も目立たないのである。

だから人間の生活を隠したということでヘシオドスの言う平和な村になっていた。
そういう場所では花とかが自然がかえって映えるのである。
それでいつも飯館村に来たときなにかここのアトモスフィア(雰囲気)とか空気まで違う感じになっていたのである。
前は大倉から来る道から七曲がりの道がありもう一つの新しい道路がなかった。
その時森におおわれて道があっても人が通らない昼も暗い道があった。
そこに清い流れがあり春になるとキクザキイチゲなどがひっそりと咲いていた
そしてそこには大きな石がありそれしか目立つものはなかったのである。
だから自分はあそこが道になったことは残念だった。
飯館にはそういう神秘的な人の手がつかない自然のままの所があった。
飯館はとにかく広いから隈なく行くことはできない
今回は前田の方とかに出たがそこは始めて行く場所だったことでもわかる

ともかち赤宇木村でも廃村になるというときその村の記録を残そうとして聞き歩いていることが放送された。
飯館村はどうなるののか?何か村に残された社とか碑とかが忘れられて本当に草に埋もれてしまうこともあるだろう。
信仰の問題は別としてそれは文化財なのである。そういうものも失われてとどうなるのか人が住まなくなるとそういうものを死んでしまうというより幽鬼のようにそこから彷徨うものがでてくるようになる
廃村になった廃墟の村ではそうなっているし前に大原の廃屋を紹介したけどそこも幽霊屋敷のようになり不気味なのである。
例えば大原に一本の老木がったけどそ大原も歴史が実際は古い
するとその老木に人間をみるのである。大原の人で病院で知り合った人がそうだった。
その人はそこで死ぬまで農業をしていたのである。
その人は数年前死んだ、老木は何かそうした人間をイメージして残っているのである。

津波で本当に不思議だったのは庭に残っている二本の樹があるとしたらそれがまるで夫婦のように離れがたくそこに立って残っていたことなのである。
その樹が人間に見えたのである。村でも一旦人間が長く住んだ場所は純な原生の自然とは違ったものになっている。人間化した自然なのである。
だから村の樹でもそれが人間化して見えるものがある
人間が住まなくなるとその樹も人間がいないので一段と取り残されたように淋しいものとなっているのである。
それで廃村とか廃墟になったところは幽鬼が死んだ人の霊魂が彷徨っているような異様なものとなっているのである。
自然に帰るとかはならない、そこにはやはり人間的なものが異様なものとなっても残っているのである。そこにも限界集落でも廃村化してゆくことの大きな問題がある。
別にそんなところ経済的に損になるだけだからなくしてもかまわないと都会の人が言うが経済的側面からしか人間を語るべきではない、人間は経済的なものだけでは計られないものがあるからだ。


タグ:初秋飯館村
posted by 老鶯 at 11:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2015年09月05日

100年後の誰かへ〜浪江町赤宇木村の記憶〜(NHK)を見て (これから全国で廃村化してゆく象徴なのか?)

]
100年後の誰かへ〜浪江町赤宇木村の記憶〜(NHK)を見て


 
(これから全国で廃村化してゆく象徴なのか?)


kazezumain111-thumbnail2[1].jpg

kanagoo122.jpg

kanagoo1.jpg

かなごいし

aaaaaaaaaattt.jpg

kanagoo12234.jpg

 再び114号に戻って西へ。ここは、大字赤宇木(あこうぎ)字塩浸(しおびて)。難読の地名で知られる。
 写真上の石井商店のところを右折して山に入れば、手七郎(てしちろう、てっちろう)を経て飯舘村長泥(ながどろ)に下る。また、そのまま富岡街道を進めば津島の町を経て、川俣町、福島市に至る。
浪江の塩浸は塩の道だったことに由来しているという。かつて浪江の浜では製塩が行われ、その塩がこの街道を通って中通り方面に運ばれていた。そして、この塩浸で、塩と食料品の交換が行われていたという。 ここが浜通りと中通りをつなぐ交通・交易の要衝だったことが窺える。
http://fukushima20110311.blog.fc2.com/blog-entry-95.html

塩浸(しおびで)の由来としてはあそこに小さな川が流れていて浪江から馬で俵で塩を運んできた時、その川に落として水に浸ったためにその名がついたとどこかに書いてあった。あそこに小さな店があり疲れて休む場所だった。
あそこからは津島が近いが一方の道は手七朗へとつづいている。
NHKの放送で赤宇木には80軒あったという、あまり家が見えなかったけど道からはずれた所の奥にあったのだろう。
塩の道は普通にあるがあそこで興味深かったのはかなごいしを探していてそれが見つかったことである。
カナゴイシとは製鉄で残された金糞でありノロとも言われた。だから金糞山とのろ山とかあるし金糞とついた地名がある。製鉄に関する地名は無数にある。
河童は山とかで製鉄にたずさわる人が伝説化したのだという。金糞を川で探していたからだという、他の説明では水酸化鉄が葦につき非常に大きくなったものを金糞と呼ぶとあるあそこで興味深かったのは盛岡の宮古から運ばれた鉄の記録が残っていたことである。
するとあそこで鉄を加工したのか、鍬とか鎌を作ったいたというが鍛冶屋の記録がないとするとどうなのか?
宮古から鉄が請戸に運ばれたことは岩本氏の研究で知られている
でも赤宇木の塩浸に運ばれたということはなぜなのかとなる。
葛尾村の葛尾大臣は製鉄事業で財を成したことは知られている。
でも塩浸にその宮古からの鉄を運んでいたというのはなぜだろうとなる。
その鉄を加工したという鍛冶屋などの地名も記録もないとしたらわからない。
ともかく製鉄に関することは全国に残っているからめずらしくはないのである。

鉄滓は「金糞」と呼ばれて近くに廃棄されていたので、鉄滓の出る所の近くには何らかの製鉄遺跡があったと考えられます
https://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp020609.htm

南向き斜面に製鉄炉2基、木炭窯2基、廃滓場(はいさいば)2基が確認され製鉄に必要な施設が揃っている。
製鉄炉から流れ出た鉄滓(てつさい 製鉄の過程ででる不純物 金クソ)を谷川に流し落とした模様。
http://lib.city.kashiwazaki.niigata.jp/hidamari/kashiwazaki/photo/2005/20050828/seitetuiseki.html


赤宇木では日露戦争で栗を陸軍に売って栗がなくなって困ったという話が残っていた。
あの辺はあれだけ山深いから栗がとれた。椚平(くぬぎ)という地名もクヌギはとんぐりである。栃の実もたべられていた、栃餅が有名である。山には何かしら糧になるものがあった。だからこそ人が縄文時代から住んでいたとなる。あの辺でも飢饉があり天明時代の碑じゃないかと山の中に埋もれていた。
ただ天明という時代が刻まれていないのが見えないから不明である。
南無阿弥陀仏の供養塔などがあったから飢饉と関係しているかもしれない
ただ飢饉というとき伊達藩でも東北でも米の不作で飢饉になったのである。
米は商品として江戸に送られていた。米をその時商品作物として作っていて不作になったとき他の食物を得ることができなくなった。稗とか他のものを作っていれば飢えをしのげた。だから山の方が何かそうした米だけに頼らないとすると飢饉からまねがれたとも言われる。
飯館村でも飢饉があったというとき米がとれないからそうなった。
縄文時代は飢饉というものがなかったかもしれない、多様な食料に頼っていたからである飢饉というとき米がとれないということで致命的になったのである。


あそこを通った時常に下冷田という地名が心に残った。

「冷田」とは、文字通り暖まらない田のようです。原因として、日照が悪ければ日影という地名か使われますので、これは違うようてす。では、水が冷えるのでしょうか。水温が低ければ、稲の成育に大きを障害となることは想像に難くありません
前の様な条件下で稲を育てるには、水温の管理、米自体の品種改良など苦労が多かったと想像されます。 品種に関連しますが、ヒエダは「稗田」とも呼ばれます。稗は、米に比べれば雑穀とされますが、環境条件の悪い場所でも収穫できます
http://www.kumagaya-bunkazai.jp/museum/dokusyo/timei/hieda.htm

まさにあそこはこういう条件の悪い場所だったのである。飯館村だと広い平野があるがここも高原であり冷田となる自然条件にあった。それで飢饉があった。
自分の曾祖父は津島から葛尾村に出てそこに柏原というところがある。津島から意外と近いから赤宇木というのも何かその辺とも関係していた。
赤宇木の悲劇はあそこから原発の煙突が見えていた。そして風にのって放射性物質が雨と雪がふりもろに被爆してしまった不運があった。
とにかく10とか20マイクロシーベルトとかなると高い、もう百年は住めないと言っていたそれで記録を残すために80軒住んでいた人たちを訪ね歩いて記録している。
その一人に101才の女性がいた。その人が田植え歌を歌ったのには驚いた。
自分の母も百歳だが過去のことをあんな歌を歌うことはできない,認知症であり過去のことも思い出せなくなっている。
ただ顔をみるとあんなふうに皺くちゃにはなっていない、それにしても百歳の人はどこにでも今はいる
ある人は東京の高層ビルに住んでいた。いつも高いビルの窓から大都会の東京を見ているこれもあまりにも環境が違うから精神的にもその衝撃が大きいだろう。
特に老人になってからはとても都会に溶け込めないからである。

こうして廃村になるのは原発事故が起きた所だけではない、限界集落が各地にありそこもこうして廃村になり廃墟の村と化してゆく、そういう場所が廃墟趣味の人によって写真にインターネットでいくらでもある。
何かそこには捨てられた墓とか碑とかがあり幽鬼が彷徨っているような異様な雰囲気になる。
赤宇木村の歴史も古く位牌でも江戸時代のものがあった。それだげ代々受け継がれて来たのである。その歴史が途絶えるときそこは幽鬼が彷徨うものとなる。
なぜなら時々村の人が帰ってそうした古い碑とか墓に花をささげたりしているがそれがなくなるとそこには死んだ人が幽鬼となって彷徨うような異様なものとなってしまう。
一旦人が住んだ場所は人が住まない自然とは違う,何か死んだ人の霊魂が彷徨っているような状態になるのであり気持悪いものとなってしまう。
津島もまた放射線量が高かった。あそこでは戦後開拓に入った一団があった。
それで結束が強いという、飯館村でも戦後開拓に入った人がいた。鹿島の小池でも引揚者が開拓に入った人を知っている、小池といえば街から近いのである。
そういう場所まで働く場所も求めて開拓に入ったのである。
だから赤宇木村でも開拓に入った人がいたのかと思うがその辺はわからない
ただ一軒一軒が赤宇木村の歴史だというときそういう小さい村は一軒のもっている意味が大きくなるのである。10万とかの都会になればそうはならない、もう特別な家でないかぎり無視されてしまうだろう。

赤宇木村が山中と江戸時代の鉄が運ばれた記録に記されていることは相馬藩の山中郷内だったのか、しそこは浪江の標葉郷である。津島が山中郷だからあそこも山中郷内に入っていた。
津島では中国人の妻が夫を鉈でおそったということがあった。それは中国人の妻が都会に住みたいということでそうなった。あんな山奥だとは思っていなかったからだ。
それも不思議なことに今はどうなっているのか?
避難して都会に出たかもしれない、そしたら願いがかなったことになるのも不思議だとなる。
それから戦争で死んだ村人のことも語られた。それは日露戦争からはじまり太平洋戦争ではかなりの数が戦死して語られていた。あのような村でも死んだ人の数が村にしては多いのである。それだけあの戦争では大量に日本人が死んだのである。
その人たちの霊も村がなくなると祀る人もなくなり帰る場所もなくなってしまうとういこともある。
ともかく一つの村の歴史が途絶えそこが廃村になることが何を意味しているのか?
それはここだけではない、全国に限界集落があり老人だけの村があり消滅してゆく
それは市町村までも将来消滅してゆくという人がいる。
そういうことがこの辺では先取りして現実化しているのである。

今野さんという人が村の記録を集めていたが前に赤生木からメールが来た人かもしれないやはり今野さんという姓だったからだ
小高の鳩原村の出身の人も知っているがあそこも街からはずれているからあそこに住んでいた女性は鹿島区の仮設に住んでいて帰らないというから廃村になるかもしれない
あそこには小学校もあった。ということはあそこで学んだとなる。
小高に関しては放射線量がこの辺と変わらず低いのである。
赤生木とかとても住めない放射線量である。だからなぜ帰らないのだろうとなる。
それは帰ると住んでしまうと補償金がもらえなくなるからである。
あと一年伸びたから帰らない、その間帰らないで補償金もらっていた方がいいとなる。
それで地元の人には批判される。小高は十分に帰って暮らせるのだけど補償金もらうために帰らないのである。
補償金がかえって人々を分断して復興させなくなくしてまったという皮肉があったのである。

塩浸に我は休みぬ
請戸より遠き道のり
運ばるる塩と鉄
その跡たずねてあわれ
山中深く残る碑も
人住まず忘れられむや
かすかに虫の鳴く


posted by 老鶯 at 09:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2015年03月24日

失われた伝説の森の村(詩) (森におおわれていた飯館村)


失われた伝説の森の村(詩)


 
(森におおわれていた飯館村)

iitateeee123.jpg


regendddsss123.jpg


人知れず花は草にうもれ咲き
石は頑なに太古の沈黙を守りぬ
森に覆われた村の家々は
一軒一軒隠されて森につつまれぬ
私はたずねぬ一日人も通らぬ木暗い道を
深い森に神秘の蝶は美しい羽根を広げ
ひそかに息ずき森に消えぬ
山鳩は睦み合い森につつまれ眠りにつく
その高原の村に銀河は流れ星々はきらめきあいぬ
ああ しかし今は人が住まぬ村となれり
住人は去り葦が茫々と茂るのみ
人散り散りになり消えにしや
いづこにありて故郷を思ふものなれ
人々の暮らしもここには絶えぬや
ただ寥々と葦笛の歌のみが奏でられる
森深く千歳の岩は再び沈黙に返る
伝説としてのみその村は語られるのみかも
石と石はなお相寄りてここに残りぬ
その村のことをなお語りつづけるや
石と石はやはりなお村の住人のごとく
ここに残りてなお動かざるかな
その一つの石は臥牛石なりしも
牛を飼い牛と共に暮らしありしも
そこを訪ねればやはり人の如く語るものかも
ただ失われた伝説の村の物語を・・・
ああ かつてはここにありしとなつかしく
帰れざる人々は哀しくも思うのみかも


飯館村は7割が森であった。だから江戸時代から森林資源が豊富だから争いも起きた。
玉野の木材資源の争いは有名だが飯館村でもあった。
飯館村は江戸時代から森の村だった。
飯館村は森林資源も豊富だが意外と平地も多く稲作の面積が広い。
でも高原で冷害があった。標高が高いから夏だと涼しいのである。
八木沢峠を越えて見ればわかる。あれだけ高いということである。
八木沢峠ではなく大倉から入ることもできる、ただ共栄橋のところにでると新しい道ができて車が通り安くなった。

でも自分はあそこに道がないとき通っていた。そこには隠されるように小川が流れていたあそこは神秘的な所だった。未だ人が入らないという山陰にあった。
自分としてはあそこが道になったのは残念だった。
今になると人が住んでいないからあの道を作っても無駄だったように思える。
ただ七曲がりの道は車では行きにくいから車を通りやすくするために道路を造ったのである。
大倉からでも相当な峠道でありまるで秘境への道のようににもなっていた。

一方川俣から来るとそんなふうには見えない、川俣は街であり道路沿いには食堂とか暗たし家もずっとあったからである。
福島市から来ても秘境という感じはしない、ただ南相馬市など浜通りから来ると山深いところを通るから感覚的に相当違っているのだ。
特に高の倉ダムから入る道は確かにやっと車一台くらい通れるにしても森の中の道であり一日車一台くらいしか通らない、その森の道をぬけてゆくと家がある所にでる。
その家も森に隠された家である。飯館村はそうして森の中に家があるのが多かった。
あんなところに家があるというのも不便であり家があること自体不思議に思った。
あそこは森の中の本当に暗い道なのであ。舗装もされていない原始的な道だともなる。

人間は森があるということは森林資源としても有効だが人間の心に相当影響する。
昼なお暗い森が亜ということはそこは瞑想るき場であり心を静める場所になる。
だからそういう場所をもつことは心に作用する。
だから森がないとか自然がないところに生活していると自分は住んでいられない
心鎮める場所がないからである。
ビジネスだけの工業と商業だけの世界では心が疲れてしまうだろう。
だから良く東京のような所に住んでいられるものだと思う
特に自分は隠者的傾向が強いからそうなる。
飯館村もそうだが丸森もまさに森とあるごとく森が深いのである。
そこで森にまよって抜け出れなくなったとき恐怖した。
延々と森がつづいていたのである。日本は山国であり森が多い国である。
外国でははげ山が多い、日本は森におおわれた国である。

ともかく飯館村からは人が去り葦原にうもれ原始の森がおおいそこに放射能の廃棄物が埋められる。そこには人が住まなくなり葦と森におおわれてしまうのか?
それは原始の状態にもどるということにもなる。
葦原でもやがて日本では木が生えて森になってしまうのである。
最近一年くらい飯館村に行っていない、やはり休む場所がないと行きづらい。
飯館村で意外なのは工場がありそこでは人が通っている、住んでなくても通う人が結構いるのである。
つまり農業だけではない牛を飼うだげではない工場もありその工場は放射能の被害がないから人が通っている。
第一次産業は放射能で汚染されたから致命的だった。
工業なら影響はほとんどないから仕事ができているのである。
だから飯館村は無人の村とも違っている、人が普通に出入りしている。
でも家があっても人は住んでいないのである。

飯館村の人が仕事がなくなりギャンブラーになったというときそれもまたこの辺で補償金をもらったため起きたことである。
ただ飯館村でもまでいな村とか原発とは関係しないだろう。
南相馬市では働きに言っている人が結構いたから関係していた。
飯館村となると原発のある双葉は遠すぎる。
川内村は三分の一が原発で働いていたから関係が深かった。
飯館村はそういう村ではなかったのである。

それにしても飯館村は伝説の村になった。津浪で一瞬にして消えた村も伝説になる。
こんなふうになるとはイメージすらできなかった。
ただ森とか山とか川とか自然そのものがなくならない。
石でも残っている、自然を破壊するのはダムとか道路工事とかの方が影響が大きいのである。
飯館村は常磐高速道路ができることを待ち望んでいた。観光客が来るのを待ち望んでいた都会の人にとって森の村でありオワシスとなった。
それも消えてしまったのである。
ただ森はあるのだから森を活かすことはありうる。
自分の想像では電気も水道がなくても放射能など気にしない人が住むようになるかもしれない。それは昔の自給自足的な生活になる。
ただ放射能を気にする人は住まない、水が汚染されたことは致命的だともなる。
水を買っていては自給自足にならないからである。
除染しても七割が森なのだから焼け石に水であり放射能がへるまでほうっ,ておくしかないとなる。
そうなると百年とか人が住まないで原始の森にかえる、ただ森がはげ山にはならない
木の放射の汚染は簡単にはとりさることができないからやっかいなのである。

とにかく

飯館村が原初の葦原になり伝説化した
(葦笛の詩として引用構成)

これ相当に読まれている。自分でもこんな詩があったことは不思議である。
なぜか飯館村の人たちの心境に一致していたのだろう。
ただ詩はむずかしいから普通は関心ないけどこんな状態だから読んでいるのだろう。



タグ:飯館村
posted by 老鶯 at 14:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2014年07月17日

飯館村は放射線量が高いから住めるのだろうか? (放射線量で虫食いのようにされた市町村はばらばらになる)



飯館村は放射線量が高いから住めるのだろうか?


(放射線量で虫食いのようにされた市町村はばらばらになる)



120717iidatesai[1].gif

飯館村は佐須の牧草地で5マイクロも二カ月前頃計ってあった。
だからあそこが警戒区域解除地域になれるものかと思う。
今では5マイクロだとずいぶん高いなと思う。
草野地域では7マイクロあった。ただその辺は半分に減った。
ただ佐須の牧草地で5マイクロあったのだから高いと思った。
佐須は最初ホットスポットがあり25くらいになったのには驚いた
田んぼの畦の道の泥がたまったところだった。

確かに牧草地ではない道の方だと半分以下にはなっている。
でも牧草地がそれだけ高いとなると牛は飼えないだろう。
そもそも飯館村はいくら除染したって回りが70パーセントが森林なのだから
放射線量が下がらないと言われる
その森も一部だけ除染したがほんの一部しかできないから結果的には効果がない
つまり飯館村は除染しても住めるような放射線量にできるのだろうかという疑問である。なぜそのことを考えたかというと住めるとしているのが
南相馬市では一マイクロシーベルトでもむずかしいとか子供がいる家庭では住めないとか流出しているからである。

石神では一マイクロだったがそれでも除染していて高いんだよと言っていた。
一マイクロで高いとするとそれと比べると飯館村は実際は3倍とか5倍とかになる。
そもそも飯館村は放射線量を見ると住めるように思えないのである。
専門家はいろいろ言うけど自分は素人でわからないにしても
ただなぜ南相馬市では一マイクロでも住めないとか騒いでいることからすると
飯館村はとても住めるような放射線量ではないと思うのである。
一部分除染したところで放射線量は一部で減っても全体では減らない
だから飯館村の人自体が除染が無駄だから村外で暮らす補償金をくれと言っている。
それは一億円とか言っている
その人は村外で牛を飼いたいと言っているからだ。

この点小高などは一マイクロにもならない、0・2と0・3とかだろう。
南相馬市でも山側をのぞいて0・2くらいである。
ただ放射線量というのは変わらないものがある。
自分の家の室内でもまだ0・2だったりする。
前からも0・2くらいだったがそれ以後は減っていないのも不思議である。
つまりそういうレベルで放射線量を考えているとき、なぜ飯館村では
佐須などは牧草地で5マイクロもあるのに警戒区域解除指示地域とかなっているのが理解できない

そもそも飯館村でもそうだが村全体を町全体を放射線量で分けてここは住めるとか住めないとか東電や政府から指示されるのか納得いかないだろう。
だって地面はつながっているし水だって流れてくるし地面が区切られない
放射線量だって虫食いのように区切ってここはいくらだから住める住めないという議論が納得いかないのである。
それは補償金でもそうだった。東電で放射線量で計り地域を分断した。
隣が補償金をもらって道へだてた隣がもらえないというので怒るのも当然である。
村全体、町全体、市全体を維持されなければ住めないなのである。
市町村でここは住めるここは住めないここは立ち入り禁止だとなったから市町村に住む気になれないだろう。そもそも地面がつながっているのたから放射線の影響が受ける。
空だって区切ることはできないのである。
補償金を与える方ではどこかで区切らなければ無際限に出すわけにいかないからという。でも市町村が行政でも何でも生活するとしたらそんなふうに虫食いのような状態では行政もままならないし住民だってそんな所に住めないのである。

例えば飯館村が南相馬市と関係ないかというと関係ある。地面がつながっていて水が流れてくる、その水は飯館村の山林から流れてくるのだからなんらか放射性物質も流れてくるだから飯館村を放射性廃棄物の処理場にして補償金を一億円くれという個人としての意見もわかるがそうして飯館村の土地が政府やその他の団体に勝手に売られたらどうなるのか?放射性物質の廃棄物処理場にされて南相馬市もそこから流れてくる水で汚染されことにもなる。
だから一地域だけのエゴや一個人のエゴだけでこの問題は解決しない。

そもそも原発事故はあまりにも狭い範囲しか考慮しないで作ったことに問題があったのだ地元の地権者とか漁業権者とかあとは回りの村や町に金をばらまいて作れるとかなっていた。それが飯館村や福島市や郡山市などまで事故の影響があったのだ。
それは南相馬市などより放射線量が高いが国では補償しないので不満がある。
南相馬市の問題も南相馬市が一つになり合併したのに三つの区域に分かて補償されたことが問題だった。それなら南相馬市として合併した意義もなにもないことになる。
いくら放射線量の影響があってもそこに住むとなれば虫食いのような状態の中で住めるわけがないのだ。そこは塀をめぐらした一区画に強制的にとじこめられる牢獄みたいなものになる。そんなところに誰も住みたくないだろう。

ともかく放射線量にふりまわされて市町村が分断さればらばらにされた。
飯館村は本当に住める状態にそもそもあるのだろうか?
不思議なのは菊地製作所や一部工場が飯館村ではつづけられている。
そこでは若い人も通い働いている。福島市などから通っているのだ
今回の原発事故では第一次産業は影響が大きかったが工場などは放射能汚染とはあまり関係なかった。

そして飯館村は意外と工場が多い地域だったというのも外からわかりにくかった。
田舎に農村地帯に住んでいるといくら今は第一次産業のしめる割合が一割にみたないと言ってもその土地利用はやはり広いからそうは見ないのである。
田畑のある田園風景が心をなごませて魅力あるものにしてきたのである。
ただ現代は工場の方が会社の方が重要でありそこが復興の要になっている。
復興というとき、農業や林業や漁業はなかなかむずかしい、工業の方が放射能汚染からの復興はしやすいとなる。

でもそういう世界は何か田舎のように見えなくなるのかもしれない
浜通りでは大地に米の実りがあり松原があり海では漁船が出て魚がとれる海の幸が得られるそういう風景になじんできたからソーラバネルとか風力発電の風景にはなじめないのである。小高の人は自分の土地が許可なくソーラパネルにされていたと怒っていたのもわかる。農地はソーラパネルの風景になったらそこは田舎なのだろうかとなる。

 
s-matuhaza[1].jpg

飯館村は田畑の面積が意外と広い地域だった

この松は前らか切られてなくなっていた。

ここも今は草ぼうぼうである。
posted by 老鶯 at 19:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2014年06月06日

GREEN IITATE(飯館村の抽象画) (人間は歴史的にも長く住み続けた所を簡単に捨てられるものなのか)


GREEN IITATE(飯館村の抽象画)

(人間は歴史的にも長く住み続けた所を簡単に捨てられるものなのか)

greeniidate11111.jpg

飯館村の紋章

greeencityyyyy1.jpg

森の都

iitatemojiii1222.jpg

飯館村に行ったらグリーンイイタテとか書いてあった。前にそんな詩も書いた。
飯館村は70パーセントが森であるからそうなる

飯館村は地形的にも山の村はして個性がありそれで南相馬市と合併しなかった。
それで飯館村の独自性を保つことができた。
だから飯館村がなくなるなどということをイメージすらできなかった。
飯館村には会社とか工場が結構あって働き場もあったらしい。
農業だけの村でもなかった。
ただ所得としては一番低かった。
飯館村にも外部から入ってきている若い人もいた。

飯館村は何か特徴がないのだが広々としていい気分になるところだった

家が一軒一軒離れていて森につつまれるようにありそれがぜいたくだと見ていた。
だから福島市でも団地のような所に住むようになったり
京都に移住した人も鬱になったというのもわかる
そこは全然環境が違っているからそうなる
田舎も人間関係は嫌なのだけど東京や大都会の混雑した所は嫌なのである
自分は大学時代で性格的に静かな所を好み人間関係も得意でないので田舎に帰った
そもそも人間嫌いでありあんなに人間が混雑している場所にはいたくない
田舎はそうした環境では相当にぜいたくである
東京などには何もない空間が一番贅沢なのである
実際はあれだけ混雑していればそういう空間こそが一番価値あるものになる。


相馬藩内は海があり山があり自然的には恵まれた所だった。
会津の方だと山家あっても海がないからものたりないものを感じる
そこに住むとなるとどこがいいとなるといろいろな条件がある
そこの気候も問題になる。
浜通りは海があり涼しいということがあった
最近の温暖化で35度に普通になるとそんなところに住みたくないとなる
寒さでも極端な寒い所は嫌だし雪のふる会津とかも嫌だとなる
すると暑からず寒からずの浜通りがいいとなる

だから避難者も気候的な問題で浜通りに帰りたいとなり実際帰ってきている人もいる
気候の問題は体にかなり影響するから深刻なのである

浜通りとかでも芸術的感性を磨くにはいい場所だったとなる
芸術的感性だって一朝一夕に作れないのである
長い間住んでいると自ずとその風土と一体化して文化が生れる
それはその人の個性というよりはその土地が作り出してゆくのである。
そんなもの飯の種にならないというのもそうだが
やはり現代ではかえってまた田舎が見直されるという価値観が変わる時代にもなっている
経済的には恵まれていなくてもそれに代わりうる価値が田舎に見いだす人もでてきている

ただ放射能汚染で飯館村が被害が大きかった時、これかどうなるのか?

人間はそんな簡単に江戸時代からも長く住んでいた村そのものがなくなるということが
できるものだろうかという疑問である。
それだけ長い間住んでいたらそこに残りつづけようとする力が働くのではないか?
例えば樹にしても石にしてもそれは人間化したものであり
単に樹や石があるということは自然のものではない人間化した樹や石が残りつづけて生きようとしている
それは津波の跡に今も残っている樹の不思議さを何度も書いた。
何か家の跡に残っている樹は普通の樹ではない不思議なのである
それは何か人間化していた樹だからそうなった
家を長年囲んでその樹は立っていたからそうなった。
だからその家と離れがたく樹も立ち続けていたのである。

近くの人は何度も言う、俺は若い時から裸一貫でこの家を建てた
この庭も作った、だからこの家に愛着がある
そういえば自分は家があってもそれは親からゆずられたものであり
何ら苦労して手に入れたものではないから
家でも住んでいる人の気持が違うものだと思った。
その庭は山のように何トンも石で組まれている
その石のようにその土地に家に愛着をもっていて動こうとしない
性格も堅い人であり何かその石にふさわしいと思った。
飯館村の人だってそういうふうに思っている人もいるだろう


だからそんなに簡単に村時代が消えるということが考えにくいのだ
人間の意志が生き続ける意志が樹や石となりそこに残る
それは人間の意志であり自然そのものである樹や石とは違っている
芸術にしてもその村が消失してしまいばありえない
土があって樹が成長して花が咲く
土はその土地に生産するものがあって花が咲く
花は芸術でありそこに土から実るものがないなら花も咲かない
だから芸術だけ存在することはありえないのである

ただ不思議なのは放射能は花には影響しなかった
花の栽培しても食べるわけではないから花の栽培をしている農家がいる
放射能汚染の土地をひまわり畑にした所もあった
ただみんながお花畑になったらそこでどうして食べていけるのかとなる

ともかく飯館村は一体どうなるのか?
避難地域となったところの問題は一家庭とかを復興させることではない
全体の町とか村を復興させることだからむずかしいものとなる
それには町とか村全体の一丸とならないとできないだろう
ところが実際は補償金をもらって他で牛を飼いたいとか
もう他で新しい生活をしたいという若い人や様々に分裂しているのである
つまり現代はかさえあればどこでも暮らせる
だから歴史的にあった長年住んだ村でもこだわりがなく捨てるということがあるのか?
この辺は以前として様々なもことが問われる場所になっているのだ。

posted by 老鶯 at 10:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2014年02月05日

飯館村には人の記憶は残りつづける (牛がいなくなっても臥牛石が残る)


飯館村には人の記憶は残りつづける

(牛がいなくなっても臥牛石が残る)



冬日さし飯館にあれ臥牛石牛も鳴かずにここに残りぬ
十頭の牛の名覚え仮設にそ暮らして長く雪の積もりぬ
石ふたつ動かざるかなともにあり寒さに耐えし高原の村
北風の唸り吹きつつ石五つ離れざるかも山の村に住む
鹿島より佐須は遠しも久しくも我は行かじも春また行かむ


人が消えた飯館村の夏
http://musubu2.sblo.jp/pages/user/search/?keyword=%90%CE%8C%DC%82%C2


ここに牛が臥したような大きな石があった。臥牛石となる。あいのさわであったがこれは良くとれていない。とり方がまずかった。本当に大きな牛の背のようだったのである。
また行ってとってみよう。



飯館村はどうなってしまったのか?すでに一年以上は行っていない、人が住まなくなった家はなおも点在している。だけど冬の灯はともらない、冬の灯というと街に住んでいるものとは違う、何か飯館村となると人も一体感がでてくるだろう。
もちろん現代は山の村でも昔とは違う。でも飯館村として南相馬市に合併しなかったのが今になると良かった。つまり飯館村としての個性を作れて村づくりができたのである。
地理的にも南相馬市とは離れていることもあった。小高と鹿島はもともと地理的には一つだったから南相馬市になってもそれほど違和感がなかった。ただ原発事故では小高は小高の事情ができたし原町は原町、鹿島は鹿島の事情ができて分断されたから小高は小高町のままの方が良かったといっている。原発の賠償金を浪江のように一致して請求できるからである。

飯館村は標高がかなた高く高原の村であり南相馬市の平地よりずっと寒い。だから飢饉の被害も大きかった。でも耕地面積はかなり広い、米作りが盛んだったとも言える。
平地が思った以上多いのである。それから木材資源が江戸時代から豊富でありそれで入会権で飯樋で争いがあったことでもわかる。

飯館村は今までは牛の村でもあった。飯館牛が売りだった。だから牛を飼っている家が多かった。だから避難した人が仮設で十頭もの牛の名を覚えていたのである。

牛でも名前が呼ばれれば人間化している。一方病院では番号で呼ばれたとかなり牛より人間扱いされないということもある。ペットの方が人間より大切にされているとかホームレスが不満を言うのもわかる。ただ十頭の牛の名前を覚えるということは結構むずかしいと思う。牛はだいたい似ているからどこかで牛の個性を区別して覚えないとできないことだろう。みんな同じだったらなかなか区別ができない、ただ牛の個性がどこにあるかはわからない。ただ犬でも猫でもみんな何かしら違いがある。もちろん黒い猫はクロだとかなり区別しやすい、牛はみんな同じに見えるのである。

犬でも猫でもそうだがこれは自分で飼ってみないとわからない。
野良猫に餌をやって猫を観察していると猫のことが具体的感覚としてわかってくる。
猫は相手をみて探っている。ただ自分をどんなものと近くしているのかはわからない。
餌をくれるから近づいて来るが絶対に触らせないし餌をとるにも一定の距離を保っている。いじめられてなつかなくなったのである。
動物を知ることは通じ合うことはなかなか簡単にはできない、猫と犬は対象的である。
犬にはあまり神秘性を感じないが猫には感じる。猫は結局謎めいているのからである。

エジプトではあらゆる動物が神となった。それは動物を非常に身近に生活と一体となって見ていたからである。だから牛のミイラまであったのである。エジプト人にとって動物は神秘的な神でありそれが人間の日々の生活に組み入れられていたのである。

動物が身近だった時は人間と動物の交流は深く動物と結婚する話しはいくらでもある。
先祖も動物だったというのが一般的でありそれぞれの部族がトーテムをもっていた。
猿のトーテムだとすると猿を日々の生活で深く観察していたのである。鷲でもそうであり今の人より動物は人間に近かった。最近この辺は荒地になりカヤネズミとかが増えてノスリがふえたのである。七羽集まっているのもみた。するとノスリを深く観察することになる。

いづれにしろ人間と動物は戦前でも宮沢賢治の小説のように深い関係があった。そうでなければあのような童話は書けない、江戸時代から残っている民話でもそうである。

そういう動物との交流が現代では欠落した。そこで動物というものがわからなくなってしまった。機械との交流の方が主になってしまったためでてある。昔は車の代わりが馬だとすると馬には詳しかった。この辺では相馬野馬追いかあるから馬を飼っているところがあるから馬を見る機会が多い。でも馬も飼ってみないと馬のことはかわらないのである。
人間はやはり野菜でも自分で栽培してみると実地に経験していると何かわかる。

だから街中に住んでいる人は回りが田んぼでも農家のことがわからないということがあったのだ。

自分は牛とか馬がみじかにいても触るのも怖いのである。だから動物と通じ合わない、ただ詩を書いたりするときはただイメージ化して創造で書いている。
牛でもやはり高村光太郎のような「牛」の詩はなかなか書けない、その時代でないと書けないものがある。何かそうしたものを書く基盤が失われて動物のこともわからなくなった。狼のことなどもう想像の世界でしかわかり得ようがなくなっている。

ともかく飯館村は人が去ったとしてもそのあとあとまでそこに人が住んでいるという記憶はなかなか消えないだろう。それは原発の避難地域ではみんなそうである。そこに江戸時代から人が住んでいたからである。

だから例え牛の鳴く声が聞こえなくなっても臥牛石が残りなおそこにまだ人が住んでいた記憶が残り続ける。つまりそれだけも原自然に還えるとか言ってもそこに住んだ人間の記憶は残りつづけるしもう元の原自然に還るということはありえないと思う。
石一つが残っていても過去の人間の住んだ記録となる。もともと人が住まないところにあった石とは違うものとなっているのである。

posted by 老鶯 at 22:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2013年11月21日

飯館村の木材をめぐる争いの原因は何だったのか (入会権が戦国時代の戦争の基になっていた)


飯館村の木材をめぐる争いの原因は何だったのか

(入会権が戦国時代の戦争の基になっていた)

入会山は、地方により、カイト山(垣内山)、仲間山、惣山(そうやま)、モヤイ山(催合山)、総持山(そうもちやま)、込山、村山などと、共有の意を示す語を含む名で呼ばれた。
草刈場は、地方により、秣場、馬草場、萱場、茅場、草場と、多くに「場」のつく名で呼ばれるものがあった。
他の村落の入会地と区別するものとして、内山、内野、内原と、内外の「内」を冠する地名で呼ばれる場合もあった
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A5%E4%BC%9A%E5%9C%B0

原発事故で問題になったのは漁業権だった。漁業権はもともと入会権を基にしているのだろう。本当は漁業権は海に境界がないのだから定めにくい、取り締まるのもむずかしい。漁場にしても一定していないのだから変わりやすい。すると山林や馬草や家の屋根をふく萱などを村で所有するのとは大分違っている。海はもともと所有しにくい、所有しにくいものは財産になりにくい、それが海の特徴だった。
検地の結果として土地の私有権が定められた。もともと土地も私有されていない、公有的な要素が大きかった。古代では国のものだった。江戸時代前も荘園とか領主のもので中で私的に所有されてはいない、江戸時代になり検地がなされて本百姓が生れ私的所有権が確立した。結果として税を納めることになった。

飯樋御出陣(奥相茶話記)(天正十八年六月十八日)

iriaikenn111.jpg
warikiiiii1.jpg
クリック拡大

飯樋に割木とあるのは境界の木である。割山というのも入会権の山を現している。まさに木材資源をめぐって割れる山だったのである。


御城内造営の事ありて良村を草野山にて選びとらせたまふ草野は適地の境なれば岡田兵庫に四篠但馬を相副て置ければ但馬かの村木を奉行す採所の不可なりとて兵庫但馬を叱する但馬憤り深し兵庫義たねへ訴え但馬草野より城下に召して住せしめんとし給ふところに家挙げて伊達領川俣に走る、川俣に桜田卯兵衛玄番封境を守りて但馬子あり兄を織部といい弟を内記といい父子三人にてかねて飯樋の者どもかたらい恨をはらさんとすこれ故に飯樋に逆徒多しとて大亀興一郎を飯樋に移さる・・・・


飯館村の飯樋(いいとい)で起きたこの事件何のなのか?
図解したようにこれは木材資源をめぐる争いである。飯館村は木材資源が豊富であった。それで御城内造営の事ありて岡田氏と但馬氏にそれをまかせて遣わした。岡田氏は中村城に別に岡田館とあるくらいで重臣である。ここで但馬氏とは伊達領の川俣に兄と弟がいたから元からいた土着の勢力だったのだろう。
岡田氏と争いになったのは自分たちの入会権が山を木を所有する権利が失われることで争った。この時、伊達領と相馬領はまだ明確に分かれていない、但馬氏が領有していた山であり木であった。だから但馬氏には川俣に兄弟がいたことでもわかる。
ここでの争いはそもそも伊達領と相馬領の争いではない、但馬氏という元からいた土着の所有者が領有していた土地であり山であり木であることから起こっていたのだ。

大亀氏というのは但馬氏の兄弟が遣わして暴挙にでた。それは一つの戦争であった。

戦争はこの入会権が元で起こっていることが多い。戦国時代が起きたのはそうした入会権をめぐることに発している場合がある。それは領主同士の争いというより村人の入会権をめぐる争いに領主が加担したのである。この場合も藩主の義胤に訴えている。義胤が家来を遣わして平定している。それで死んだ家来もいる。飯樋に塩の番屋があり牢屋もあった。だから牢屋に入れられたということも書いてある。大亀氏という名前も南相馬市の原町区の人で知っているのも奇妙である。この姓は変わっているから覚えられやすい。

この時伊達藩自体はかかわっていない、でも伊達藩の川俣の内記という但馬氏の弟は死んでいる。だからこの争いはそれなりに大きな事件であり記されたのだろう。
なぜ戦国時代が起きて熾烈な争いになったかというとそれはこの入会権が元で村人同士が争いになり領主に訴えて大きな争いに発展したとする見解がある。ドラマばかり見ていると歴史は非常に偏った見方になるのだ。歴史というのは信長だ、秀吉だとか面白い劇的なものばかり見ているがもっと細部を見ないとわからない、それは学問的になるから庶民には受けないのである。小さな事件でも必ず大きな事件の基となっているからだ。


この木をめぐる争いは玉野村での境界争いは有名である。上杉と伊達と相馬の三つ巴の争いとなってた。境界争いも木をめぐる争いが多かったのである。御蔵島には20数軒しか住んでないがその一軒でも境木というのをもっていた。それは自分の家の木だという所有権の主張なのである。木は薪となり炭となり家の材料にもなり資源として貴重なものだったのである。だからこそ争いも起きた。
世界戦争でも石油とかの資源をめぐることが多いように人間の歴史でも資源の争奪戦が戦争の基になっていた。


飯館村では飯樋は重要な地域であった。あそこには大きな墓地があった。飯館の田んぼの面積も広い、川俣は耕地が極めて少ない、飯館は平らな所がかなりあり米の収穫高も多いし今でも多かった。川俣はもともと織物が主産業であった。

飯樋には大きな墓地があった。あの墓地は明治時代の以降のものであったが飯館村もこうした古い歴史がある。この事件は天正時代なのである。ここも玉野村と同じく木材資源をめぐって境界争いが起きたのである。その原因は但馬氏という在地の勢力が存在していたところに相馬藩の岡田氏が進入して争いになったのである。 ここで合力が行われたのである。この合力が基で大きな戦争にも発展した。飯館村はもともと未開の地であり相馬藩から新郷士が入ってきたところだからこうした問題が起きる素地があった。
山中郷となるのは遅いのである。ただその後野馬追いにも山中郷では参加している。

飯樋の墓地の広しも松風の鳴りて冬日さし誰そ眠りぬ

飯館村はこれからどうなるのか?あそこの墓地は広かった。そういう墓も捨てられるのか?墓をたずねるのも歴史を知ることである。
なぜか、土盛るだけの墓もあった。そういうのは墓石を建てられないからなったのか?昔だったらそうだろう。でもそれは明治時代以降の墓である。土盛っただけの墓だったらいづれは消えてしまうからだ。

相馬藩玉野村の境界争いはなぜ起こった?
http://musubu.sblo.jp/article/33335256.html

百姓たちの戦国(其の四 近江全域を巻き込んだ隣村戦争
http://harada-iory.cocolog-nifty.com/seikoudoku/2011/06/post-0552.html

posted by 老鶯 at 16:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2013年10月26日

飯館村佐須の乳神の碑から現代を考える (牛乳がない時代は乳が頼り)



飯館村佐須の乳神の碑から現代を考える

(牛乳がない時代は乳が頼り)


●乳神の碑の伝説


(耕野の名所・旧跡と伝説より抜粋)

旧丸森西中学校の近くに、石に乳が彫られた「乳神」という石碑があります。
「丸森町史」にも載っていますが詳しい場所まで記されておりません。
http://zuiunzi.net/igu/dousozin/titi.html

「大正年間に建立、県道角田線字羽抜の八雲社内にある。明治大正年間のころ、子供を産んでも乳が不足だったり、出なかったり、又乳房の病気にもなり困っているお母さんたちがいたので、同部落の一條利吉という人が、妻の胸を見ながら刻み乳神を祀った。
http://zuiunzi.net/igu/dousozin/titi.html

老杉の根方に小さな泉があり、堂の中に姥神の石像を安置してある。用明天皇の妃玉依姫が下紐石の上でお産をした時乳の出がわるかったが、神託でこの泉を発見し飲んだところ乳が出たという。乳母神像の乳房を削り取って粉にして御飯に炊き込むと産婦の乳が出て、嬰児も丈夫になるという。お礼参りに奉納する縫いぐるみの乳房が沢山堂にかかる。
http://www.nichibun.ac.jp/YoukaiCard/C0410888-000.shtml

木の根本に上がるはしごが掛けられていますが景観を損ねるだけで必要だったのでしょうか。乳神様(金勢様)は、大きな岩の上に立つウッ コの大木に抱かれるようにしてある。子供が授からなかったり、お乳が出なかったりする女性が、子宝やお乳がた くさん出るよう祈願した。
http://p.tl/GQlv


ひとつ気がかりなのは…
おっぱいが張りにくくなってきたことだ…
このままおっぱいが出にくくなって
断乳、になるのだろうか。
不本意な断乳、悔しい。
昨晩は一応マグマグに母乳をしぼって置いてきたが
娘は飲んでくれたんだろうか。
よく寝ただろうか。


●牛乳のない時代は乳が頼りだった


乳神というと何を語っているのか?もともと人間は乳で育っていた。乳を飲まなければ子供は育てられないのが普通である。乳が出ないということは昔は相当な深刻なことだったろう。でも今は乳が出なくても何にも困らない、牛乳があこり牛乳が余って捨てているのが現実だし米だってあまって減反政策になっている。こういう時代だと乳のありがたみもうすれるしモノのありがたみも薄れる。もったいない・・・というのは戦前から戦後十年の時代感覚だった。今は膨大な食料でも捨てている。古いものは使わない、新しいものと買った方がいい時代になるとモノを大事にしない、そこで人はもはやモノを与えても何を与えてももらっても感謝しない時代になった。もらって当たり前でありそれ以上にたりないたりないと文句ばかり言っている。そしてついに盗んだ方がいいとなる。実際そういう人に犯罪にあった。もちろん現代はあらゆるものに金がかかるから金が欲しい欲しいというのはわかる。格差社会でもありその格差が大きいのも問題である。でも人間があまりにも金、金、金・・となったときモラルが崩壊していたのだ。


このところの自分の問題もあまりにも金ばかり要求してくる。お前は金を出せばいいんだ、あとは用はないとまでなっている。それは現代の風潮であり自分だけに起こったことではない。なぜなら親子の間でも求めるものは金だけになり金のない親は相手にされないとかまでなっている。現代の生活で金を否定はできない、ただその金を求めることが限りなくモラルの荒廃が起きた。原発事故でも原発が金のなる木だから地元でも積極的に誘致したのである。原発に政治家でも官僚でもマスコミでもそこが金になるということで賛成して促進させた。原発事故の原因はいろいろあるにしてもやはり何か根底にはモラルの荒廃も関係していた。津浪でも必ず誰かが悪い人がいてそのひとか津浪の原因だったと伝説で残されている。そういうパターンがあり自分もそういう経験したからそう思った。

人間のモラルが荒廃する時、自然からでも人間からでも災いが生まれてくるという思想は人間の歴史がはじまって以来常にあったのである。

乳神のことだけど飯館村の佐須に行った時、一軒家の畑に小さな「乳神の碑」があった。その家は辺鄙な所の一軒屋だった。それで乳神とは何だろうと思った。キーワードで調べるとそれなりにある。丸森町にあるのは大正時代だから新しい、江戸時代からあったし
乳がでないというこはやはり深刻な問題だった。例えば聞いた話では同じ世代の人が
自分は親戚の人の乳で育ったという、兄弟が多く母親が乳が出なくなったのだろう。
乳が出なければ戦後でもそうなったということである。つまりその頃牛乳がさほど普及していないしモノ不足だったのである。それで自分も牛乳を得るために自分の父親が並んで買っていたという話を聞いた。ともかく戦後十年は焼け野原から出発したのだからモノが何にもない時代だった。小さな飯台が一つあるくらいの質素なものだった。それは一般的に共通した生活だった。だからまさに乳もないという時代だったのである。
乳が出なければ誰かの乳をもらうほかないとなる。そういうことは江戸時代から人間がはじまって以来されていたことである。貴族でも武家でも乳母がいたのはそのためである。ただそれは乳が出ないというのではなく家来との絆を深めるためにあえてまかせていたのである。なぜなら乳を子供にやるということはその子供が自分の子供のように思えてくる、愛情をもつようになる。するとその家に仕える気持か違ってくるのだ。


●飯館村の大倉と佐須


大倉と佐須は山の中の辺鄙な村であり大倉から佐須は結構離れている。不思議なのはなぜ明治になって大倉と佐須は民情が違うから合併しなかったという。おそらく大倉と佐須は江戸時代でもそんなに交流がなかったのだろう。それは日本の村は複雑であり村と村が仲良くしていない、隣り合う村でも利害の対立があり敵対していたという、それは水の配分などでもめたり何か資源をめぐって争いもあった。狭い土地に住むとそういうことが起こりうる。狭いと資源がないと貧乏だと互いに姑息になるということがある。日本人はウチとソトを分けるという時、そうした村の狭い地域での生活が影響していたのである。
それを可能にしたのが狭い地域でも自給自足であり隣の村でも頼らないで生活していたからである。だから佐須のような大倉のような狭い地域で自給自足できたことが今になるとなかなかイメージしにくくなっているのだ。佐須と大倉は山の中であり田んぼなども少しあるだけである。佐須はもともと焼き畑の意味だった。飯館村には草野辺りとか飯樋町・・・辺りだと広い田んぼがあり飯館村は山だけではない全体では広い地域であり米も相当とれていたのである。

飯館村と原発はほとんど関係なかった。までいな生活の村という時、そこは原発の恩恵はない村だった。それか不運にも風の影響で放射能の村になってしまったのである。
飯館村ではその時牛の村にもなっていた。飯館牛は有名だった。牛乳もふんだんにある。ただおそらくその乳神の碑は明治以降か大正以降か昭和の戦前のものだろう。丸森町で乳神の碑を大正時代に建てたということで想像がつく、それから飯館村でも相当に戦後でも開拓に入った人たちがいた。浪江の津島も戦後、復員した人などが開拓に入りそれで協力したから村のつながりが強いというのもわかる。だから飯館村でも意外と辺鄙な所は戦後開拓に入った人たちが結構多いのである。ただ一方で大倉は鎌倉時代から人が住んでいて古い。江戸時代からの歴史かある。飯館村は相馬藩の山中郷になったとき人口も増えていった。相馬藩の郷士が役人として農民として入ってきた。塩の道で二本松に塩を運んでいたから塩を管理する役人が60人とか住んでいた。それも多いと思うけどそれだけ塩の役割が大きかったのである。乳であり塩であれそうした物の大切が失われた時代には昔を偲ぶ事がまた必要なのである。

大倉を越えて佐須かな春の日や行合道に我がい出むかな


残雪の吾妻峰仰ぐ佐須をすぎ行合道に我はい出にき


鹿島より佐須は遠しも何かあれ畑に一つ乳神の碑

真野川の源遠く佐須なりき山津見神社ここに古りにき

真野川の流れに佐須と大倉は結ばれにしや春の日暮れぬ

http://musubu.sblo.jp/article/27979058.html

SASUMURAPP1.jpg

これ建てた人の名前は書いてあるがよくわからない
隣の祠はもっと古いものだろう
そこに新しく碑を建てた



佐須というとむしろ霊山の方が交通としては近いから行合道とは佐須の人たちが名付けたものなのだろうか?それでもあそこは坂が急だからそんなに簡単に出れないし交流もできない、つまり閉ざされた地域だった。山津見神社があるがあれも古い、狼を祭っているということは何かふさわしい。不思議なのは山津見という地名が松川浦の浦に面した所にあった。それが何を意味しているの。山津見神社はやはり海との交流がありそこに祭られたのかなぞである。ただお浜下りというのは春になると行われていた。大倉から車で下ってきたのである。それにしても飯館村とかがなくなるとそうした交流もなくなる。
今の時代、限界集落のような村はなくなった方がいいというけど飯館村がなくなることは相当な損失だろう。その村の価値は経済的効率からだけでは計れない、今になると放射能廃棄物の村とかいいイメージがなくなったのである。その放射能の廃棄物処理場にしてでも除染なとどしないで金でも一億でももらった方がいいというのも現実的な意見だった。
除染など誰のためにしているのか、会社のためにゼネコンのためにしているのか、大成建設が除染していたが放射能測定器の下の土をとって放射線量を低くしていたのである。

佐須では驚いたのは田んぼの畦道の泥がたまった所で20マイクロシーベルトがあるホットスポットがあったので驚いた。やはり高い所があると思った。ただ自分の近くでも南相馬市内でも樋の下は泥がたまりそこは10マイクロシーベルトとか高い。屋根には放射性物質がたまりそれが流されて泥にたまり高くなった。そしてセシウムは泥になって流されると予想して田か実はセシウムの濃度は変わらなかったと科学者が言っている。すると真野川のダムの下の泥には相当なセシウムがたまっている。それば泥とって流れだしていないのである。するとその水を飲むと安全なのかという心配かある。汚染水になっていないかという心配である。こういうことを指摘している人はいない、飲み水はみんな心配しているからである。飯館村は一見南相馬市と関係していないようで密接に関係している。
水の問題でもそうだし放射性廃棄物が埋められてもそれが地下水にしみだしてくるから流れてくることがある。だから果たして放射性廃棄物処理場にしていいのかとなる。
飯館村だけの問題ではない、その観点もぬけているのである。

飯館村暮らしも絶えむ佐須にある乳神の碑思う秋のくれ

ともかく今や人が住んでいないとしたらどうなるのか?そこを思うことすらできなくなる。ただまだ人の住むと違ってくる。
ただそこに江戸時代から人が住んでいたということは簡単にその記憶も消えるとはおもえないのである
posted by 老鶯 at 14:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2013年10月03日

飯館村佐須の歴史と伝承から飢饉の考察 (比曽もやはり焼畑地名だった)




飯館村佐須の歴史と伝承から飢饉の考察

(比曽もやはり焼畑地名だった)

SASUUUU11.jpg


比曽.jpg


●相馬藩の天明の大飢饉

八戸藩の収穫[編集]
1782年(天明2)7,243石(表高2万石)
1783年(天明3)19,236石
1784年(天明4)16,457石(耕作しない)


天明2年(1782)に奥羽地方で冷害が起こり死者11万人の被害が出た。天明3年(1783)には浅間山の噴火が起こり噴煙が日光をさえぎり、東北と関東での凶作になった。噴灰が川底に堆積することで洪水を起こし被害を与えた。天明年間(1781から1789年)は浅間山の噴火の影響により日本全体が平年よりも気温が低い寒冷期であった。

 


天明には相馬藩内の餓死者はすでに8,500人を越えていた。その後16,000千人死者及び行方不明者を出した。相馬藩はなんの備えもなくその飢饉と荒廃ぶりはとりわけ深刻だった。
さらに山中郷は一番深刻だった。


栗、柿、楢、樫の実、椚の実を食べた


椚(くぬぎ)の実
http://ameblo.jp/eizo-blanding/entry-10352996544.html


原釜村にては38人、尾浜村にては17軒死絶え・・


越後など役人を派遣して女子を買い入れこれを領内の困窮者で妻のない者にめとらして子を産ませ援助した。


天保7年の凶作では内高10万石をこえる相馬藩の収納高はわずか457石にすぎず江戸商人からの借金、大阪、秋田からの米の調達、領内の富民からの献納米、さらには材木の伐採、売却で今回は相馬藩内に餓死者はでなかった。

天明の飢饉は一番悲惨であった。これは全国で起きたし関東東北が被害が大きかった。浅間山の噴火で日がささず低温になったという。これは江戸時代の初期であり飢饉による備えがなかった。その後の天保7年の凶作では対策をして餓死者は出ていないのである。
つまり流通とか備蓄とかしていれば飢饉も餓死者がでままでにはならない、そういう深刻な経験を積んで餓死者をなくしていった。


栗、柿、楢、樫の実、椚の実を食べた。


ここに栃の実がない、栃餅とかは会津の方でとれる。これはうまいのである。椚(くぬぎ)の実はどんぐりとは違う、でもやはり実であり食べられた。こういうものに今は関心がない、そもそも人間は食料でも日頃食べていなければ関心がなくなる。それでたいがい木でも地名化したの実用に役立てたものであった。それは染料でもいろいろありそれか地名化した。なぜか椚平(くぬぎたいら)とかの地名が一時放射能で話題になった。初めて聞く名なので椚とは何なのだうと思った。それはやはり椚の実が食べられるということがあった。それて椚が他にも実用的側面から椚平と地名がついたとき名づけられたのだろう。
椚の木がたくさんあるということもあった。でもそもそも椚の木に今なら誰も注目しないだろう。


それからなぜ原釜村にては38人、尾浜村にては17軒死絶え・・・とかあるだすう。山だけではない、海側でも餓死者がでた。海だったら魚もとれる買いもとれる。それでなんとか飢えをしのぐことができるだろう。でもその時は魚も不漁だったとなる。漁師の逃散はあまり聞かないけどやはり不漁になれば農民と同じく餓死者まででる。


天明の飢饉の頃は魚も不漁だったところが多いようです。カネに困ると借金したり持ち船を売ったりして、とりあえず食料を確保し、それも出来なくなれば、夜逃げで他の地域に逃げ活路を求めようとし、逃げていった先で死ぬことも増えます
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7759251.html


いつれにしろ天明の飢饉は全国に及んだし全体に波及していたのである。そういう中でも江戸には米が集まったから江戸では餓死者はでていないというのも不思議である。普通だったら飢饉になれば自分たちが食べる米を第一にするから他の藩に売らないとかなるし農家でも食料となるものを売らないと思う。でもかえって米の価値が上がって飢饉の時も米を高く売りつけていた。飢饉に対して藩が有効な対策をとっていなかった。そさだけ江戸初期でありまだ人々の生活は安定していなかったのである。

興味深いのは

越後など役人を派遣して女子を買い入れこれを領内の困窮者で妻のない者にめとらして子を産ませ援助した

こんなことして人を集めていた場合もあった。結局これほど困窮していたということでてある。このことは相馬藩の戸籍を記録したものがあり
その出身が越後や越中とかの人がいる。そういう人は強制的に連れてこられたのか?
津島では中国人の嫁が鉈で夫を襲った。こんな山中ではなく都会に出たいと襲ったのである。
時代が変わっても同じようなことがあるのだ。この天明の基金では親族までその肉を食べたというから悲惨を究めたのである。

●比曽も焼畑地名だった

YAKIHATA111.jpg


地名に興味があると津島に行く椚平とかに下冷田とかいう地名がある。これか何か寒冷地を示す地名で心に残っている。ただ地名といってもなかなかわかりにくい。佐須は明確に焼き畑の地名でありこれは全国にあり地形的にも真野川の源流地域であり隔絶された場所だった。


蚊野の名は火野から生まれた。(地名語源辞典)火野とは山林を焼き払って種をまく焼畑農業が行なわれた土地のことである。


津南町では反里(そり)、そして反里口(そりぐち)があります。
いずれも『ソリ』は古語で、焼畑を作った所です。


関連情報として「反田」姓や「ソリ」という地名については、「反田とは傾斜地にある田」(『日本名字家系大事典』)「反田は傾斜地の田や焼畑を意味する」(『角川日本姓氏歴史人物大辞典 19 山梨県』)という記述や、「ソリ、ソレとは、(焼畑を)毎年連続耕作しないで、数年ごとにソラシ、ハズシて休閑させるという意味の語か」(『地名語源辞典』)という記述をあわせて紹介する。


比曽とは比曽原という地名などありこれは佐須と同じく焼き畑地名である。火は焼畑であり焼くからそうなる。ソはソルであり焼畑からてた言葉である。火とソルが合体してヒソとなったのである。あの辺は草野からさらに奥地だから佐須と同じく焼畑の地名にはふさわしい場所である。ただその後あの辺でその明治以降でも戦後でも開拓に入っている人たちかいる。津島はそうだった。だから地名自体が古く江戸時代から歴史があっても昭和からの開拓者もいるのだからまぎらわしくなるのだ。


●飢饉の原因


○幕藩制の欠陥


 幕府は天明6年(1786)に2分の1に、翌年には3分の1に酒造制限を強化し、酒の原料である米を食糧として流通させた。しかし、幕府は米に余裕がある藩に対し飢饉で苦しむ地域へ強制的に余剰分を送るように命じるという権限はなく、そのような命令を出す考えがなかった。

 例えば、天明6年(1786)は例年の三割程度の収穫減だが例年通りの収穫があった地域もある。幕府の命令で、強制的に余剰米を流通させればこれだけの餓死者は発生しなかったはずである。 


飢饉の原因
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=271634


それでは、凶作の年はどのような物を食べたのでしょうか。作物の生育期間の低温や日照不足によって不作となる凶作年は、米だけが不作となるのではなく、麦や稗などの他の穀物も不作となることが多くありました。こうした場合に備えて、家毎に蕎麦そばや稗ひえ、干し大根などを井楼いろう(大箱)や梁上りょうじょう(まげ、焚き火の上)に貯蔵し、凶作時の備えをしていました。


この頃の天候では簡単に不作にもなるので、飢饉対策・万一の食料確保でサツマイモやその他の方法も工夫されて行きます。
千葉県の幕張でも、天明(1783〜88まで続く)・天保(1833〜39まで続く)の大飢饉にも、このあたりで餓死するものは皆無だったそうです。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~nakanisi/rekisi.html


ここから抜粋
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7759251.html


沖縄に伝わったサツマイモはその後九州に伝えられた。導入に貢献した人物は薩摩指宿の浦人(海辺に住む人:漁師)
利右衛門(後に前田)である。利右衛門は宝永2年(1705)水夫として琉球に渡ったが、その折に持ち帰ったといわれている。 この結果同地における「享保の大飢饉」を救ったと考えられている。利右衛門は現在同地で「甘藷翁(からいもおんじょ)」と呼ばれ、 利右衛門ゆかりの地に徳光神社が、またこれ以外の2箇所に頌徳碑が建てられている他、
大隈半島など県内の各地に供養塔が建てられ崇敬されている。余談ではあるが、 このイモから搾った「利右衛門」は、今や鹿児島産の銘柄の一つとして、左党の間では知る人ぞ知る逸品でもある。
http://www.nodai.ac.jp/journal/research/suzki_s/0805.html


天明年間の少し前に、南部藩に対して幕府から多額の上納金の要請があり、そのときは支払ったが、二度目はなにがなんでも断る口実をつくるために、関東で浅間山の噴火によってやや凶作があったのを幸いに、南部藩でも大変な飢饉があったことを演出した。大量の餓死者があったことにして、表の帳面には大量の人口減があったことにし、実際は別の数字を書いた裏帳簿があったことが確認されている。人が減れば年貢収入も減ったことになり、あらゆる帳面をとりつくろうことになる。
http://nire.main.jp/sb/log/eid218.html


飢饉は防げるものであったことがこれらの引用でもわかる。ただまだ江戸初期でしりそれだけの備えをする力かなかっただけなのである。日本には自然災害が多いけど自分の住む場所も街て一番低い土地なので二回も洪水にあって被害を受けた。でも堤防を強化してからは洪水はなくなった。自然災害も飢饉も備えがあれば防げる。天保7年の凶作では餓死者が出ていないことでもわかるのだ。

日本は飢饉があるのはと米の不作になることが主要な要因である。それで沖縄でとれていたサツマイモを薩摩藩の漁師が取り入れて飢饉に備えた話は面白い。沖縄は南国だからサツマイモ栽培に向いていた。紫のサツマイモが沖縄ではとれる。焼酎にもなる。
もともとサツマイモは南国産である。例えばベトナムでは地下壕に入りアメリカ軍と戦った。その食料がサツマイモだったのである。このサツマイモは南国産だから育つのが早い。

高温性植物で強光と日照りで良く育ちます。食糧不足の際でも育つ野菜として知られており、肥料なしでも育ちます。

サツマイモはやせ地でも育って、収穫量も多いので初心者でも育てやすい野菜の一つ!たくさん採れ過ぎても貯蔵しておけるので便利です


これはベトナム辺りだと日差しも強いか早く育つのである。だから食料があるから戦いたともなる。こういうふうに飢饉の備えができてきたからもう日本でも飢饉はなくなった。
ただ今度の放射能問題は備えがなかった。あのような奥地まで放射能が関係するとは思わなかった。放射能にはどう対処していいかわからないのである。やはり土とか水とか空気でも基本的な生活のベースになるものが汚されると生活そのものが破壊される。
飯館村にしても原発のことなどあまり考えなかった。そこが現代の盲点だった。



あとがき



赤字木(あこうぎ)に住む人から前にメールがあった

比曽(ひそ)に住む人からコメントがあって今回この文を書いた

アグリの店長からコメントがあった

浪江で東京に避難している人からのコメントがあって浪江の橋について書いた


飯館村にしろて浪江にしろ避難しているのだから帰れないのだから深刻である。
天明の飢饉よりはいいと言ってもそれはあまりにも異常な悲惨なことだったから
比べることはできない、ただ江戸時代からの歴史が比曽(ひそ)でもあるということが見逃されているのだ。
今回はなにか津波でもそうだが400年前の歴史がどうだったかそれが命にかかわっていたのである。
今は歴史はそんなに重んじられていない、でも土地の歴史を知ることが命にかかわっていたということを知ったのである。
山中郷も相馬藩ないであったのであり歴史が江戸時代から記されていた。
そこに住む人の思いがそうした歴史とともにあるというのも見逃せないのである。
たからなかなか簡単に移住するというのもできないということはあるだろう。
ただそこにはいすいろな複雑なものがありいろいろ迷いる、逡巡しているというのが現実だろう。

posted by 老鶯 at 11:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2013年06月17日

飯館村の喫茶店の椏久里(あぐり)の思い出 (二年過ぎて飯館村を思う短歌十首)


飯館村の喫茶店の椏久里(あぐり)の思い出

(二年過ぎて飯館村を思う短歌十首)


aguriiiii1111.jpg

iidatekoffee.jpg

珈琲の香りの満ちて飯館の喫茶店の窓秋の蝶かな

飯館の喫茶店に入り秋日さし珈琲飲みつパンの味かな
人々のここに集いて様々に話せし日やそれもなくなりぬ
飯館に住みにし人の様々に思うことあれ二年のすぎぬ
飯館に住みにし人の何思ふ思いで深く帰れざるかな
嘆けども仮設暮らしの身につくや飯館は馴れ二年のすぎぬ
故郷は遠きにありて思うもの思い出深き暮らしなるかも
庭広く花々映えぬその家も人の住まずに夏も淋しき
川俣に来ればここに暮らしあり古き農家に春の日暮れぬ

川俣に別れし道は山木屋につづくとあわれ春の日暮れぬ

飯館村に行けばよる場所というと椏久里(あぐり)という喫茶店しかない、あそこは単なる喫茶店ではなかった。特製の自家製のパンを作っていたのである。それがおいしかったのである。飯館村だったらとれているのは米だから米パンでもいいかなと思うがやはりパンは麦でないと味が出ない。
飯館村では外からもあの店にはよっていた人が多い。だから今になるとあの店は価値があったなと思う。この辺で起きていることは未だに信じられないことである。津浪で村ごと消失するとか原発事故で町や村がなくなるなど想像もできなかった。そしてもう二年もすぎたのである。

仮設暮らしも二年すぎるとそれなりになれたということもあるかもしれない、しかし不思議なのは飯館村で暮らした歳月は長いしそんな簡単に忘れられるものではないだろう。他でもそうである。

そこに暮らした時間が長ければ長いほど思い出は深いものとなる。だから仮設暮らしの人々がどんな心境でいるのか不思議である。いくら自分がその代わりに短歌にしてみても本人の思っていることはまた違っている。飯館村の特徴はみんな一軒家でありそれも森につつまれていて庭も広々としていた。人間の住まいとしては理想的だったのである。だからそういうところから仮設とか都会に暮らすとその相違が大きいのである。広々とした家や庭やその回りは森につつまれている。そういうところから都会や仮設で暮らすのはあまりにも違いすぎるのだ。

思い出というときそれは今生きている人だけではない、飯館村は江戸時代からの歴史があるからそこに生きていた人たちは死んだ人の思いがこめられている。飢饉の時は苦しんだからその人たちの苦しい思い出も残されている。そういう思い出が失われることはどういうことになるのか?
葦が茂り原始の状態に還るのかとなると一旦人のすんだ所はそうはならない、人の思いがこもった場所だからそうなる。もし原発事故で人がすまなくなった町村はどうなるのか?過去は忘れられる。そこに人が住んでいれば過去を思い出すことができるがその土地を離れたらできない、その土地と共に思い出が歴史が刻まれているからだ。


いづれにしろ時間がすぎて価値がでてくるものがあり一旦失われて価値がでてくるものがある。思い出というのはそういうものである。その時
はその価値がわからないのである。青春などもたちまちすぎてしまう。その時はしかしその価値がわからないのである。そしてものの価値は思い出はその場所とともにある。場所が意外と大事なのである。椏久里という喫茶店は飯館村という山村にあったことが価値があった。都会にあったら他の喫茶店と変わりないだろう。福島市に古民家を改造して再開してもそこには場所の価値がないのである。相馬市の花屋のことを書いたけどあそこも場所の価値があった。駅前の店は前は場所の価値があった。今でもス-パ-は便利でもモノを買うという価値しかないのである。


啄木の短歌の特徴は故郷であり何でもあれつまらない日常的なことが何か人生で貴重なものになった。それが彼独特の天才的感受性で短歌にしたのである。それはすでに15才のときにできたのだから天才だったのである。そして27才で死んだからすでにその時60才くらいの心境になっていた不思議があるのだ。故郷のことでもあれだけ思い出深いものになった。故郷は遠くにありて思うもの・・まさにこの辺の不思議は住んでいた場所から離されたからそうなってしまった。いろいろなものを見直すことになったのである。それは一人一人また思い出があるからわほからないにしろ一旦長く住んだ場所を離れたらそのことを思い出深いものとして見直すことになるのだ。


だから椏久里(あぐり)という喫茶店はもう二度とあそこでコ-ヒ-が飲めないのだから思い出だけになったから不思議であり価値が大きくなったのである。なぜなら人生でも青春が失われれば老いれば二度と帰ってこないと同じなのである。その時は二度と帰ってこないのである。二度と帰ってこないものはそれだけ価値が大きい。もう二度と経験できないからそうなる。つまり椏久里で飲んだコ-ヒ-にしろパンの味にしろそれを味わうことができなくなったのである。福島市でできるかとはできるが飯館村の場所で味わうコ-ヒ-の味とパンの味は違っていたのである。その場所が味を深めていたのである。

いづれにしろ川俣にでると暮らしがあったが飯館村にはもうない、その相違が大きいのである。
暮らしがあってこそ思い出がありうる。その暮らしもまでいな暮らしとか目指していた。
所得も福島県では一番低いものであった。だから原発マネ-は入っていなかったから飯館村は悲劇の村になった。ただ警戒区域になっていないから人が入れるので他とは違っている。
全く無人の村とも違っているのだ。ただこれからどうなるのか?
やはり人が帰って住む人もでてくる。でも前のようにもどることはないのか?みん,な模索中でありわからない、ただ一旦離れてみて思い出が深くなりその価値を見直したということはある。
つまり当たり前であったものが実は金では変えられないような価値があったということがあるのだ。いくら補償金をもらってもそうした価値は金ではとりもどせないことがあったのである。


 盛岡の中学校の露台(バルコン)の欄干(てすり)に最一度我を倚らしめよ


これとにていたのが椏久里(あぐり)だったのである。啄木には啄木調が作ったから独特だった。芸術でも印象派という手法が生まれたときそれは芸術の新たな分野が生まれた。そういうことができるのはやはりどんな分野でも天才なのである。でもそのあとにそれをまねする人が普通の人でもでてくる。ともかく啄木の短歌は60才以上の老境になって作れるものであった。だから凡才である自分でも今になって啄木調の短歌が作れたとなるのだ。

posted by 老鶯 at 13:35| Comment(2) | TrackBack(0) | 飯館村

2012年07月17日

飯館村が原初の葦原になり伝説化した (葦笛の詩として引用構成)


飯館村が原初の葦原になり伝説化した

(葦笛の詩として引用構成)


ashiharaaaaa111.jpg


●葦が日本の原初の状態


この葦原だが古事記の記述によると日本は豊葦原 の瑞穂の国 とよあしはらのみずほのくにとされている 言葉のとおり豊かな広々とした葦原のようにみずみずしく 美しい稲穂が実る国ということであろう弥生時代になって人 々が低地に定住して米作りを始めると河川の氾濫平原や湿地 はもっとも米作りに適した土地として豊かさを象徴する存 在になったに違いない当時の地形と現代の地形ではかなり の違いがあると思われるが現代の沖積平野のほとんどが氾 濫河川敷や葦原の低湿地だったと考えられる

根の家で生活する農民達がヨシで編んだ魚籠を用いて漁をして おり壁土の材料として稲ワラの代わりにヨシを利用していま した 日本でもヨシズの材料として古くから利用されているが
http://fjfj.enokorogusa.com/BiotaHatogaya/BiotaHatogaya03.htm


日本では稲刈りの後に芦刈が行われ、各地の風物詩となっていた。軽くて丈夫な棒としてさまざまに用いられ、特に葦の茎で作ったすだれは葦簀(よしず)と呼ばれる。また、屋根材としても最適で茅葺民家の葺き替えに現在でも使われている。日本神話ではヒルコが葦舟で流される。最近では、葦舟の製作も市民活動として行われるようになってきている。ちなみに、南米で葦舟といわれるのは、この葦ではなく、カヤツリグサ科のフトイの仲間を、古代エジプトにおいては同じくカヤツリグサ科のパピルスを使っている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%B7


世界中で葦が原初の風景であり原風景だった。パピルスが葦でできていたことでもわかる。ナイル河畔にも葦が繁っていた。葦船は日本にもあった。葦の用途は広いのである。葦は海岸地帯にも生えるのは塩分にも強いからであり葦がいろいろな効能がありそれは知らなかった。

ヨシ生態のおぼえがき
http://www.lberi.jp/root/jp/31kankou/3113kenkyureport/syoho_bi/09/09-05.pdf


●葦(あし)が古い地名の発音で葦(ヨシ)は平安時代以後の発音


日本の国を『豊葦原(とよあしはら)の国』(日本書紀)とも呼ばれていました。平安時代までは「アシ」と呼ばれ、今でも「アシ」と呼ぶ地方もあります。正式な名称(植物学名)は、「ヨシ」(竹と同じイネ科の仲間)と呼びます。

葦牙とは、葦の芽のことをいう。その二柱の神がつくった島々は「豊葦原の千秋の長五百秋の水穂の国」といわれた。これにより、日本の古名は豊葦原瑞穂の国という。更級日記では関東平野の光景を「武蔵野の名花と聞くムラサキも咲いておらず、アシやオギが馬上の人が隠れるほどに生い茂っている」と書き残し、江戸幕府の命で遊郭が一か所に集められた場所もアシの茂る湿地だったため葭原(よしはら)と名づけられ、後に縁起を担いで吉原と改められた。


平安時代までアシと西では言っていた。もともとはアシと言っていた。ところがアシが縁起が悪いとしてヨシになった。ということはアシと発音するのは地名的に古くヨシと発音するのは新しいとなる。吉原は新しい呼び名である。吉田もそうである。


●片葉の葦の謎


、柳田國男の説くところの日本の生贄の風習である片目片足をつぶし、生贄のしるしとした伝承。それを証明するかのように片目の魚と神、片葉の葦と神の伝説は日本中至る所にある。そしてそれらが産鉄民と繋がる事は歴史家の間では今や常識、片目の神は北欧、エジプト、日本と、世界的に神の条件のひとつでもある。片葉の葦は「かたわの足」である、産鉄族は火を扱い片目になったり片足になったり体を酷使するためにそうなりやすいのである。またはたたら吹きの強い風のために葦の葉が一方に偏ってしまった。
http://www.musubu.jp/manoirie.htm


これは自分が前に書いたが産鉄族にかかわる伝説でありその後の親鸞とかの伝説ではない、別なものに変化して全国に残っている。ここも産鉄族が深くかかわったから伝説が残っている。これは全国くまなく残っているのだ。


●葦に関する詩


枯れみだれた葦(あし)の穂波
ごうごうと鳴りひびく一眸(いちぼう)の原。
セメント 鉄鋼 電気 マグネシユウムら
寂莫(せきばく)として地平にゐならび
蒼(そう)天下 終日人影(じんえい)なし。
(小野十三郎)



葦笛と風の恋

悩みも苦しみも 呑みこんで 笛は輝く
その内に風はみなぎる
風はやどす 土の声を
消え去りゆく とおいひかりを


葦笛と風は 深い谷さまよい
葦笛と風の 目覚めを月みつめ
その甘い調べ 花とともにひらく 花とともにひらく
http://sironekoq.exblog.jp/992968/


これはオリジナルではない、翻訳したとあるがやはり著作権がある。引用するのはまずいかもしれない、つまりどこまでオリジナルなのかわかりにくい、オリジナルなものを出さないと本当は発表できないだろう。インタ-ネットは自分のも勝手に引用されている場合がある、引用は創作的範囲で可能であり創作がなければ引用はできない、ただ引用だけしているのは著作権違反なのである。

葦笛の詩については古来多い。それだけ葦自体がなじみ深いものだったからである。


風はやどす 土の声を
消え去りゆく とおいひかりを


これは飯館村を象徴するような詩になっていた。消え去りゆく遠い光を・・・消え去りゆく村人のことを言っている感じもする。「風がやどす、土の声を」飯館村には人が住んでいないから風と土の声だけが残された。その土の声は放射能の声だったというのも不思議である。
葦笛と月はあっている。深い谷をさまよいというのも飯館村の山間のことであり深谷という地名もある。飯館村が葦繁る原初の状態にもどってしまったのである。もともと自然が豊だから余計にそうなったのである。一方で小野十三郎の詩は大阪の詩でありそこも葦原だったのだがそこはまさしくセメント 鉄鋼 電気 マグネシユウム・・・の工業地帯になった。飯館村とかこの辺はもともと自然が豊だから津浪の跡でも葦繁る自然にもどったのである。そのことを写真を出して何回も書いてきた。思うに飯館村とか津浪の跡は物語化゛伝説化した地帯になるのかもしれない、元の自然に還り人間のことが伝説的に語られることになる。


"Selected Poems of Rumi" Jalal al-Din Rumi, Maulana : R.A.Nicholson
index > 『ルーミー詩撰』

『ルーミー詩撰』 メヴラーナ・ジェラールッディーン・ルーミー


--------------------------------------------------------------------------------

「葦笛の歌」1


葦笛を聴け、それが奏でる物語を、
別離を悲しむその音色を。

葦笛は語る、

慣れ親しんだ葦の茂みより刈り取られてのち、
私の悲嘆の調べには、男も女も涙する。

別離の悲しみに私の胸は引き裂かれ、
愛を求めて、痛みは隠しようもなくこぼれ落ちる。

誰であれ遠く切り離された者は切実に願う、
かつてひとつであった頃に戻りたいと。

どこにいようとも私は嘆き悲しみの調べを奏でる、
不幸を背負う者たちの、私は友となり慰める。2

それぞれの思いを胸に、誰もが私の友となるが、
私が胸に秘める思いにまでは、思いいたる者などいない。

私の音色は私の嘆き、胸に秘めるこの思い、
だが耳も眼も塞がれた者に、光が届くはずもない。

魂は肉体の覆いなどでは断じてない、
また肉体も、魂の錘などでは断じてないのだが。

それでも、未だ誰ひとりとしていないのだ、
魂をかいま見ることを許された者など。

葦笛の調べは燃え盛る炎、それはそよ風などではない。
この炎を胸に持たぬ者など、一体何ほどの者であろうか!

これこそは愛の炎、これこそが葦笛の愛。
これこそは愛の熱、それは葡萄酒にも見出せよう。

誰であれ別離を嘆く者の、葦笛は無二の友となる、
葦笛に課された嘆きの深さが、我らの心の眼を開く。

葦笛を聴け、それが奏でる物語を、
別離を悲しむその音色を。

別離の悲しみに私の胸は引き裂かれ、
愛を求めて、痛みは隠しようもなくこぼれ落ちる。

誰であれ遠く切り離された者は切実に願う、
かつてひとつであった頃に戻りたいと。
http://www.levha.net/rumi/selected_04.html


飯館村の人の気持ちはこうなっている。原発避難民の気持ちがこうなっているのも不思議である。故郷からの別離、家族との別離に引き裂かれている。故郷は葦がぼうぼうと繁る場所になってしまったのである。ただそれが大阪のような都会的なものとは違う、自然がもどったのだから月などとマッチして美は残っているから伝説的になるのである。


「放射能」や「原子力発電」や「人間と自然」などの「この事件」で発見した凄いことを展示して研究する場所にしてもいい。「飯館村」は世界的に有名になった、それをシンボルとして残すことを考えよう
http://www.k-system.net/mandala/?p=137


飯館村はどうなるのか、今でも老人が一部野菜を栽培してそれ子供にやったら子供はそれを棄てたという、飯館村は警戒区域になっていないからいい、他は警戒区域で立入禁止になっているから入れないのだ。放射能汚染は自然の美は破壊されていない不思議である。都会化は大阪のようにズタズタに自然を破壊した。すると大阪のような大都市より自然の美が残っているからましではないかともなる。ただ避難民化した人たちはそんなことは言っていられないだろう。かけがいのない故郷を失ったのだから・・


●自作の詩


葦に埋もれた村

葦が生い茂り
田畑は消えぬ
葦が風にさやぎなり
月の光に灯は消えぬ
原初の日にここはもどる
人の声は聞こえず
牛の声も聞こえず
石は再び深い眠りにつく
誰か見えぬ詩人(うたびと)のここに残り
葦笛の楽を奏するや
その音のもの哀しくも切なく
今はただ森に山にひびくのみかも
人家の灯は消えて
蛍袋がその灯なのか赤々と咲く
かつてここに我は棲みしと語るもあわれ
ただ葦原は風にそよぎぬ
いづこへと人は去りしや
村は葦に埋もれ人は帰らじや
詩人の一人残り葦笛を奏するのみかも


iidatehotaru1111.jpgiidatemonnnn111.jpg

飯館村は本当に不思議としかいいようがない、津浪の被害にあった地域もそうである。まるでポンペイの跡のようになった。だから伝説的な場所となってしまったのである。ただ大都会と違うのはもともと自然豊だから自然がもどり自然に埋もれるという浄化の作用があった。放射能汚染したのが水や土を汚しても外観なんら変わりない、美が同じ様に残っている不思議があるのだ。都会には美が消失してヘドロとか工場地帯の煤煙とか自然の美はない、自然に埋もれるということはない、石油タンクとか美観をそこねるものが延々と残っている。だから大災害がきてもそのあとはやはり無惨な人工の跡が残る。田舎のように自然に埋もれるということはないのである。




インタ-ネットは編集して読むものである。これだけ葦というキ-ワ-ドから書けたのは収穫だった。
知の世界はやはり興味があったときどれだけ深く広く知識を深めることかできるかが問題になるのだ。もし世界の知識が公開されてこのうよに編集できればいながらにしてアレキサンドリアの図書館を有すると同じになるのである。
posted by 老鶯 at 13:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2012年07月11日

飯館村の部をカテゴリ-にまとめる


飯館村の部をカテゴリ-にまとめる

飯館村の部をここにまとめました、今はここでまとめて読んでください
あとでこちらにも追加します
http://musubu.sblo.jp/category/1556933-1.html

posted by 老鶯 at 14:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

人が消えた飯館村の夏 (写真と俳句、短歌)


人が消えた飯館村の夏

(写真と俳句、短歌)

iwaaaaa22222.jpg

ashiharaaaaa111.jpg

葦が繁り草ぼうぼうとなった田んぼ

natugikuuuu11111111111.jpg
hanamichiii1111.jpg

緑濃く磐の反るや朝の鳥
三十ほど睡蓮紅し松一本
石一つ木蔭に涼し森の奥
夏の蝶旅ゆく道に死ににけり
飯館に古りし碑一つ菖蒲かな
人消えてヨシキリふえぬ飯館村

鳥の声万緑に木霊し日は暮れぬ

suirennnmatu11.jpg

この辺までクリック拡大!

iidatekohi111.jpg

natuchou1122.jpg

蝶が死んでいた

hotarufukurooo111.jpg

onetree11111.jpg


朝日さし藪甘草のここに咲き我が喜びてまた来たるかな

飯館に蛍袋のまだ赤く色づかぬかもまた我が来たらむ
街に出て夏菊の家に明るしも人住まぬ村淋しかりけり
夏菊の咲きつづくや燕のみ飛び交い行き交う車かな
飯館に葦の茂りてヨシキリの住みつき人の住まずなりにき
ヨシキリの声のみ高くひびきけり人住まぬ村陽差しの強し
道の辺の一本の木影なして村人帰る待ちにけるかな
家に入る道を装う夏の花華やかなりしも人は帰らじ
この道に我がもの顔に歩けるは猿の群れかな人は消えにき
人も来ぬ池に咲きにし睡蓮を松見守りて夕暮れにけり
夏草を踏みしたずぬは我のみや木蔭の深く石は動かじ
大きなる鳥の隠れる夏の森茂みの深く人住まぬ村

koudhiishi111.jpg

ushisestone.jpg

牛の背の石である、この石は飯館村の象徴的石になった
本当に牛の背とにているのだ。

koudhiishi111.jpg

これは子牛の石である

kameishi111.jpg

これは亀石となるのか?面白い形である。

suirennnntanka.jpg

あいの沢にはひっそりと睡蓮のみが咲いていた


クリック拡大!



飯館村に大倉から行った。草茫々となり葦が茂りヨシキリの声だけが高くひびいていた風景も不思議である。何か自然にもどったというより荒れ果てたという感じがする。草茫々の中に空家がある。
ただ飯館村で救われているのはまだ幹線道路は通じているしひっきりなしに車が通っている。ガスリンスタンドだけが営業していた。自由に出入りできるから死んだ村とも違う。浪江とかは警戒区域で入れないから死んだ町、ゴ-ストタウンになってしまった。人が入れれば違う。人が一人でも入れれば死んだものとはならないのかもしれない、あいの沢も草ぼうぼうになっていて道は苔で青くなっていた。そこには睡蓮がひっそりと咲いていた。大きな石がある所にはやはり石はどっしりと動かない。あの石は牛に見えた。牛の背中に見えた。いい石たとつくづく思った。牛の村だったけど今や残ったのは牛の石である。牛の名前を書いて十ほど仮設で偲んでいた人がいた。


飯館村はあいの沢でも7から8マイクロシ-ベルありなかなか帰れる算段がつかないだろう。やはり高すぎるのだ。老人は帰れるというけど姥捨山になると老人が言っていたことがわかる。店もない、もともと病院もないような所でどうして住めるのかと思う。食料くらいは運んでくれるかもしれないがていのいい姥捨山になることは確かである。でも帰れないとなるとこれからどうするのだろうとか心は毎日揺れているだろう。そしてだんだんもう帰れないのか、では他でなんとか生活をしていこうという決断する人が増えてくるだろう。他で牧場を浪江の人と組んではじめた人がそうだった。いつまでも中途半端な状態ではいられないと決断したのである。


いづれにしろ人の住まない村の風景は何なのだろうと思う。飯館村の町のところにでると夏菊が光を受けて明るく咲いていた。しかし人は住んでいないのである。人が住んでいてこそ花も映える。自然のままでも映えるがもともと人が住んでいて映えるものがある。家までの道に何か花のようなものが咲いていた。しかし人が住まなければその花も死んでしまう。一本の樹でもそれは人間化した樹であり村人が帰るのを待っている樹なのである。ただもともと森が深いからその森がさらに深くなり大きな鳥がその森に隠れてしまった。それは自然にもどったという感じになる。全体が自然にもどればそうなる。猿も道にでてきたけど人が近づいても恐れない、人があまり来ないから恐れなくなっているのだ。


川俣まで行こうきしたが行けなかった。日ざしが強かった。体力もなくなっているし電動自転車の電池もきれるから行けなかった。途中月館に行く別れ道に文化の古い碑があった。飯館村ではなかなか江戸時代の墓とか見つからなかった。ここに江戸時代のものがあったなと注目した。飯館村は江戸時代から相馬藩の山中郷としてあったから古いのである。ただ墓に江戸時代のものがみつからなかったのはやはり新しい人の方が多いともいえるのかもしれない、それにしても草ぼうぼうとなり葦が茂りヨシキリの鳴く声が高くひびいている光景は不思議である。あのような状態がいつまでもつづき人は帰ってこないのだろうか?飯館村は放射線量からするとかなり深刻である。栃窪に出ると人が住んでいるけど田畑は草茫々だから同じである。相馬市に出ると田畑も普通であり何ら変わりない、津浪の被害地帯は同じである。いづれにしろいつまでも仮設にいるわけにはいかない、これからどうするのかそれぞれが決断が迫られる。住み続けるのか他に住む場所を求めるのか迫られる。この辺だって小高の人が仕事もなく居すわることはできない、小高に帰る他ないとなる。一部原町鹿島に家を建てて住むようになった。でも大方は帰る他ないのだろう。

]
俳句というと写生で追記をしてきたが「三十ほど睡蓮紅し松一本」というのは写生そのものだった。30くらい紅い睡蓮が咲いていてあそこの幹線道路は車がまだ行き来している。まだ死んだ村ではないのだ。道がだけは生きているのである。あいの沢は人は全くこない、たずねたのは自分だけだったのも不思議だった。蛍袋はまだ色づいていない、蛍袋が色づくときは梅雨の時期なのでなかなか見れない、人の住まない村に灯火のように蛍袋が色づき咲くというのも不思議である。


morinoieeee111.jpg

jyosennnn111.jpg

除染しているのは大成建設だった

kagawaaa111.jpg

キクチス-パ-に止まっていた車
香川県からも来ている。
福島の原発の作業には九州からかなり来ていて磐城の歓楽街がにぎわっているとか
まだこの辺もそうした人たちが来ている。


飯館の村の部をカテゴリ-にまとめた
http://musubu.sblo.jp/category/1556933-1.html

posted by 老鶯 at 14:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村