2015年03月24日

失われた伝説の森の村(詩) (森におおわれていた飯館村)


失われた伝説の森の村(詩)


 
(森におおわれていた飯館村)

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人知れず花は草にうもれ咲き
石は頑なに太古の沈黙を守りぬ
森に覆われた村の家々は
一軒一軒隠されて森につつまれぬ
私はたずねぬ一日人も通らぬ木暗い道を
深い森に神秘の蝶は美しい羽根を広げ
ひそかに息ずき森に消えぬ
山鳩は睦み合い森につつまれ眠りにつく
その高原の村に銀河は流れ星々はきらめきあいぬ
ああ しかし今は人が住まぬ村となれり
住人は去り葦が茫々と茂るのみ
人散り散りになり消えにしや
いづこにありて故郷を思ふものなれ
人々の暮らしもここには絶えぬや
ただ寥々と葦笛の歌のみが奏でられる
森深く千歳の岩は再び沈黙に返る
伝説としてのみその村は語られるのみかも
石と石はなお相寄りてここに残りぬ
その村のことをなお語りつづけるや
石と石はやはりなお村の住人のごとく
ここに残りてなお動かざるかな
その一つの石は臥牛石なりしも
牛を飼い牛と共に暮らしありしも
そこを訪ねればやはり人の如く語るものかも
ただ失われた伝説の村の物語を・・・
ああ かつてはここにありしとなつかしく
帰れざる人々は哀しくも思うのみかも


飯館村は7割が森であった。だから江戸時代から森林資源が豊富だから争いも起きた。
玉野の木材資源の争いは有名だが飯館村でもあった。
飯館村は江戸時代から森の村だった。
飯館村は森林資源も豊富だが意外と平地も多く稲作の面積が広い。
でも高原で冷害があった。標高が高いから夏だと涼しいのである。
八木沢峠を越えて見ればわかる。あれだけ高いということである。
八木沢峠ではなく大倉から入ることもできる、ただ共栄橋のところにでると新しい道ができて車が通り安くなった。

でも自分はあそこに道がないとき通っていた。そこには隠されるように小川が流れていたあそこは神秘的な所だった。未だ人が入らないという山陰にあった。
自分としてはあそこが道になったのは残念だった。
今になると人が住んでいないからあの道を作っても無駄だったように思える。
ただ七曲がりの道は車では行きにくいから車を通りやすくするために道路を造ったのである。
大倉からでも相当な峠道でありまるで秘境への道のようににもなっていた。

一方川俣から来るとそんなふうには見えない、川俣は街であり道路沿いには食堂とか暗たし家もずっとあったからである。
福島市から来ても秘境という感じはしない、ただ南相馬市など浜通りから来ると山深いところを通るから感覚的に相当違っているのだ。
特に高の倉ダムから入る道は確かにやっと車一台くらい通れるにしても森の中の道であり一日車一台くらいしか通らない、その森の道をぬけてゆくと家がある所にでる。
その家も森に隠された家である。飯館村はそうして森の中に家があるのが多かった。
あんなところに家があるというのも不便であり家があること自体不思議に思った。
あそこは森の中の本当に暗い道なのであ。舗装もされていない原始的な道だともなる。

人間は森があるということは森林資源としても有効だが人間の心に相当影響する。
昼なお暗い森が亜ということはそこは瞑想るき場であり心を静める場所になる。
だからそういう場所をもつことは心に作用する。
だから森がないとか自然がないところに生活していると自分は住んでいられない
心鎮める場所がないからである。
ビジネスだけの工業と商業だけの世界では心が疲れてしまうだろう。
だから良く東京のような所に住んでいられるものだと思う
特に自分は隠者的傾向が強いからそうなる。
飯館村もそうだが丸森もまさに森とあるごとく森が深いのである。
そこで森にまよって抜け出れなくなったとき恐怖した。
延々と森がつづいていたのである。日本は山国であり森が多い国である。
外国でははげ山が多い、日本は森におおわれた国である。

ともかく飯館村からは人が去り葦原にうもれ原始の森がおおいそこに放射能の廃棄物が埋められる。そこには人が住まなくなり葦と森におおわれてしまうのか?
それは原始の状態にもどるということにもなる。
葦原でもやがて日本では木が生えて森になってしまうのである。
最近一年くらい飯館村に行っていない、やはり休む場所がないと行きづらい。
飯館村で意外なのは工場がありそこでは人が通っている、住んでなくても通う人が結構いるのである。
つまり農業だけではない牛を飼うだげではない工場もありその工場は放射能の被害がないから人が通っている。
第一次産業は放射能で汚染されたから致命的だった。
工業なら影響はほとんどないから仕事ができているのである。
だから飯館村は無人の村とも違っている、人が普通に出入りしている。
でも家があっても人は住んでいないのである。

飯館村の人が仕事がなくなりギャンブラーになったというときそれもまたこの辺で補償金をもらったため起きたことである。
ただ飯館村でもまでいな村とか原発とは関係しないだろう。
南相馬市では働きに言っている人が結構いたから関係していた。
飯館村となると原発のある双葉は遠すぎる。
川内村は三分の一が原発で働いていたから関係が深かった。
飯館村はそういう村ではなかったのである。

それにしても飯館村は伝説の村になった。津浪で一瞬にして消えた村も伝説になる。
こんなふうになるとはイメージすらできなかった。
ただ森とか山とか川とか自然そのものがなくならない。
石でも残っている、自然を破壊するのはダムとか道路工事とかの方が影響が大きいのである。
飯館村は常磐高速道路ができることを待ち望んでいた。観光客が来るのを待ち望んでいた都会の人にとって森の村でありオワシスとなった。
それも消えてしまったのである。
ただ森はあるのだから森を活かすことはありうる。
自分の想像では電気も水道がなくても放射能など気にしない人が住むようになるかもしれない。それは昔の自給自足的な生活になる。
ただ放射能を気にする人は住まない、水が汚染されたことは致命的だともなる。
水を買っていては自給自足にならないからである。
除染しても七割が森なのだから焼け石に水であり放射能がへるまでほうっ,ておくしかないとなる。
そうなると百年とか人が住まないで原始の森にかえる、ただ森がはげ山にはならない
木の放射の汚染は簡単にはとりさることができないからやっかいなのである。

とにかく

飯館村が原初の葦原になり伝説化した
(葦笛の詩として引用構成)

これ相当に読まれている。自分でもこんな詩があったことは不思議である。
なぜか飯館村の人たちの心境に一致していたのだろう。
ただ詩はむずかしいから普通は関心ないけどこんな状態だから読んでいるのだろう。



タグ:飯館村
posted by 老鶯 at 14:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2014年07月17日

飯館村は放射線量が高いから住めるのだろうか? (放射線量で虫食いのようにされた市町村はばらばらになる)



飯館村は放射線量が高いから住めるのだろうか?


(放射線量で虫食いのようにされた市町村はばらばらになる)



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飯館村は佐須の牧草地で5マイクロも二カ月前頃計ってあった。
だからあそこが警戒区域解除地域になれるものかと思う。
今では5マイクロだとずいぶん高いなと思う。
草野地域では7マイクロあった。ただその辺は半分に減った。
ただ佐須の牧草地で5マイクロあったのだから高いと思った。
佐須は最初ホットスポットがあり25くらいになったのには驚いた
田んぼの畦の道の泥がたまったところだった。

確かに牧草地ではない道の方だと半分以下にはなっている。
でも牧草地がそれだけ高いとなると牛は飼えないだろう。
そもそも飯館村はいくら除染したって回りが70パーセントが森林なのだから
放射線量が下がらないと言われる
その森も一部だけ除染したがほんの一部しかできないから結果的には効果がない
つまり飯館村は除染しても住めるような放射線量にできるのだろうかという疑問である。なぜそのことを考えたかというと住めるとしているのが
南相馬市では一マイクロシーベルトでもむずかしいとか子供がいる家庭では住めないとか流出しているからである。

石神では一マイクロだったがそれでも除染していて高いんだよと言っていた。
一マイクロで高いとするとそれと比べると飯館村は実際は3倍とか5倍とかになる。
そもそも飯館村は放射線量を見ると住めるように思えないのである。
専門家はいろいろ言うけど自分は素人でわからないにしても
ただなぜ南相馬市では一マイクロでも住めないとか騒いでいることからすると
飯館村はとても住めるような放射線量ではないと思うのである。
一部分除染したところで放射線量は一部で減っても全体では減らない
だから飯館村の人自体が除染が無駄だから村外で暮らす補償金をくれと言っている。
それは一億円とか言っている
その人は村外で牛を飼いたいと言っているからだ。

この点小高などは一マイクロにもならない、0・2と0・3とかだろう。
南相馬市でも山側をのぞいて0・2くらいである。
ただ放射線量というのは変わらないものがある。
自分の家の室内でもまだ0・2だったりする。
前からも0・2くらいだったがそれ以後は減っていないのも不思議である。
つまりそういうレベルで放射線量を考えているとき、なぜ飯館村では
佐須などは牧草地で5マイクロもあるのに警戒区域解除指示地域とかなっているのが理解できない

そもそも飯館村でもそうだが村全体を町全体を放射線量で分けてここは住めるとか住めないとか東電や政府から指示されるのか納得いかないだろう。
だって地面はつながっているし水だって流れてくるし地面が区切られない
放射線量だって虫食いのように区切ってここはいくらだから住める住めないという議論が納得いかないのである。
それは補償金でもそうだった。東電で放射線量で計り地域を分断した。
隣が補償金をもらって道へだてた隣がもらえないというので怒るのも当然である。
村全体、町全体、市全体を維持されなければ住めないなのである。
市町村でここは住めるここは住めないここは立ち入り禁止だとなったから市町村に住む気になれないだろう。そもそも地面がつながっているのたから放射線の影響が受ける。
空だって区切ることはできないのである。
補償金を与える方ではどこかで区切らなければ無際限に出すわけにいかないからという。でも市町村が行政でも何でも生活するとしたらそんなふうに虫食いのような状態では行政もままならないし住民だってそんな所に住めないのである。

例えば飯館村が南相馬市と関係ないかというと関係ある。地面がつながっていて水が流れてくる、その水は飯館村の山林から流れてくるのだからなんらか放射性物質も流れてくるだから飯館村を放射性廃棄物の処理場にして補償金を一億円くれという個人としての意見もわかるがそうして飯館村の土地が政府やその他の団体に勝手に売られたらどうなるのか?放射性物質の廃棄物処理場にされて南相馬市もそこから流れてくる水で汚染されことにもなる。
だから一地域だけのエゴや一個人のエゴだけでこの問題は解決しない。

そもそも原発事故はあまりにも狭い範囲しか考慮しないで作ったことに問題があったのだ地元の地権者とか漁業権者とかあとは回りの村や町に金をばらまいて作れるとかなっていた。それが飯館村や福島市や郡山市などまで事故の影響があったのだ。
それは南相馬市などより放射線量が高いが国では補償しないので不満がある。
南相馬市の問題も南相馬市が一つになり合併したのに三つの区域に分かて補償されたことが問題だった。それなら南相馬市として合併した意義もなにもないことになる。
いくら放射線量の影響があってもそこに住むとなれば虫食いのような状態の中で住めるわけがないのだ。そこは塀をめぐらした一区画に強制的にとじこめられる牢獄みたいなものになる。そんなところに誰も住みたくないだろう。

ともかく放射線量にふりまわされて市町村が分断さればらばらにされた。
飯館村は本当に住める状態にそもそもあるのだろうか?
不思議なのは菊地製作所や一部工場が飯館村ではつづけられている。
そこでは若い人も通い働いている。福島市などから通っているのだ
今回の原発事故では第一次産業は影響が大きかったが工場などは放射能汚染とはあまり関係なかった。

そして飯館村は意外と工場が多い地域だったというのも外からわかりにくかった。
田舎に農村地帯に住んでいるといくら今は第一次産業のしめる割合が一割にみたないと言ってもその土地利用はやはり広いからそうは見ないのである。
田畑のある田園風景が心をなごませて魅力あるものにしてきたのである。
ただ現代は工場の方が会社の方が重要でありそこが復興の要になっている。
復興というとき、農業や林業や漁業はなかなかむずかしい、工業の方が放射能汚染からの復興はしやすいとなる。

でもそういう世界は何か田舎のように見えなくなるのかもしれない
浜通りでは大地に米の実りがあり松原があり海では漁船が出て魚がとれる海の幸が得られるそういう風景になじんできたからソーラバネルとか風力発電の風景にはなじめないのである。小高の人は自分の土地が許可なくソーラパネルにされていたと怒っていたのもわかる。農地はソーラパネルの風景になったらそこは田舎なのだろうかとなる。

 
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飯館村は田畑の面積が意外と広い地域だった

この松は前らか切られてなくなっていた。

ここも今は草ぼうぼうである。
posted by 老鶯 at 19:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2014年06月06日

GREEN IITATE(飯館村の抽象画) (人間は歴史的にも長く住み続けた所を簡単に捨てられるものなのか)


GREEN IITATE(飯館村の抽象画)

(人間は歴史的にも長く住み続けた所を簡単に捨てられるものなのか)

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飯館村の紋章

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森の都

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飯館村に行ったらグリーンイイタテとか書いてあった。前にそんな詩も書いた。
飯館村は70パーセントが森であるからそうなる

飯館村は地形的にも山の村はして個性がありそれで南相馬市と合併しなかった。
それで飯館村の独自性を保つことができた。
だから飯館村がなくなるなどということをイメージすらできなかった。
飯館村には会社とか工場が結構あって働き場もあったらしい。
農業だけの村でもなかった。
ただ所得としては一番低かった。
飯館村にも外部から入ってきている若い人もいた。

飯館村は何か特徴がないのだが広々としていい気分になるところだった

家が一軒一軒離れていて森につつまれるようにありそれがぜいたくだと見ていた。
だから福島市でも団地のような所に住むようになったり
京都に移住した人も鬱になったというのもわかる
そこは全然環境が違っているからそうなる
田舎も人間関係は嫌なのだけど東京や大都会の混雑した所は嫌なのである
自分は大学時代で性格的に静かな所を好み人間関係も得意でないので田舎に帰った
そもそも人間嫌いでありあんなに人間が混雑している場所にはいたくない
田舎はそうした環境では相当にぜいたくである
東京などには何もない空間が一番贅沢なのである
実際はあれだけ混雑していればそういう空間こそが一番価値あるものになる。


相馬藩内は海があり山があり自然的には恵まれた所だった。
会津の方だと山家あっても海がないからものたりないものを感じる
そこに住むとなるとどこがいいとなるといろいろな条件がある
そこの気候も問題になる。
浜通りは海があり涼しいということがあった
最近の温暖化で35度に普通になるとそんなところに住みたくないとなる
寒さでも極端な寒い所は嫌だし雪のふる会津とかも嫌だとなる
すると暑からず寒からずの浜通りがいいとなる

だから避難者も気候的な問題で浜通りに帰りたいとなり実際帰ってきている人もいる
気候の問題は体にかなり影響するから深刻なのである

浜通りとかでも芸術的感性を磨くにはいい場所だったとなる
芸術的感性だって一朝一夕に作れないのである
長い間住んでいると自ずとその風土と一体化して文化が生れる
それはその人の個性というよりはその土地が作り出してゆくのである。
そんなもの飯の種にならないというのもそうだが
やはり現代ではかえってまた田舎が見直されるという価値観が変わる時代にもなっている
経済的には恵まれていなくてもそれに代わりうる価値が田舎に見いだす人もでてきている

ただ放射能汚染で飯館村が被害が大きかった時、これかどうなるのか?

人間はそんな簡単に江戸時代からも長く住んでいた村そのものがなくなるということが
できるものだろうかという疑問である。
それだけ長い間住んでいたらそこに残りつづけようとする力が働くのではないか?
例えば樹にしても石にしてもそれは人間化したものであり
単に樹や石があるということは自然のものではない人間化した樹や石が残りつづけて生きようとしている
それは津波の跡に今も残っている樹の不思議さを何度も書いた。
何か家の跡に残っている樹は普通の樹ではない不思議なのである
それは何か人間化していた樹だからそうなった
家を長年囲んでその樹は立っていたからそうなった。
だからその家と離れがたく樹も立ち続けていたのである。

近くの人は何度も言う、俺は若い時から裸一貫でこの家を建てた
この庭も作った、だからこの家に愛着がある
そういえば自分は家があってもそれは親からゆずられたものであり
何ら苦労して手に入れたものではないから
家でも住んでいる人の気持が違うものだと思った。
その庭は山のように何トンも石で組まれている
その石のようにその土地に家に愛着をもっていて動こうとしない
性格も堅い人であり何かその石にふさわしいと思った。
飯館村の人だってそういうふうに思っている人もいるだろう


だからそんなに簡単に村時代が消えるということが考えにくいのだ
人間の意志が生き続ける意志が樹や石となりそこに残る
それは人間の意志であり自然そのものである樹や石とは違っている
芸術にしてもその村が消失してしまいばありえない
土があって樹が成長して花が咲く
土はその土地に生産するものがあって花が咲く
花は芸術でありそこに土から実るものがないなら花も咲かない
だから芸術だけ存在することはありえないのである

ただ不思議なのは放射能は花には影響しなかった
花の栽培しても食べるわけではないから花の栽培をしている農家がいる
放射能汚染の土地をひまわり畑にした所もあった
ただみんながお花畑になったらそこでどうして食べていけるのかとなる

ともかく飯館村は一体どうなるのか?
避難地域となったところの問題は一家庭とかを復興させることではない
全体の町とか村を復興させることだからむずかしいものとなる
それには町とか村全体の一丸とならないとできないだろう
ところが実際は補償金をもらって他で牛を飼いたいとか
もう他で新しい生活をしたいという若い人や様々に分裂しているのである
つまり現代はかさえあればどこでも暮らせる
だから歴史的にあった長年住んだ村でもこだわりがなく捨てるということがあるのか?
この辺は以前として様々なもことが問われる場所になっているのだ。

posted by 老鶯 at 10:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2014年02月05日

飯館村には人の記憶は残りつづける (牛がいなくなっても臥牛石が残る)


飯館村には人の記憶は残りつづける

(牛がいなくなっても臥牛石が残る)



冬日さし飯館にあれ臥牛石牛も鳴かずにここに残りぬ
十頭の牛の名覚え仮設にそ暮らして長く雪の積もりぬ
石ふたつ動かざるかなともにあり寒さに耐えし高原の村
北風の唸り吹きつつ石五つ離れざるかも山の村に住む
鹿島より佐須は遠しも久しくも我は行かじも春また行かむ


人が消えた飯館村の夏
http://musubu2.sblo.jp/pages/user/search/?keyword=%90%CE%8C%DC%82%C2


ここに牛が臥したような大きな石があった。臥牛石となる。あいのさわであったがこれは良くとれていない。とり方がまずかった。本当に大きな牛の背のようだったのである。
また行ってとってみよう。



飯館村はどうなってしまったのか?すでに一年以上は行っていない、人が住まなくなった家はなおも点在している。だけど冬の灯はともらない、冬の灯というと街に住んでいるものとは違う、何か飯館村となると人も一体感がでてくるだろう。
もちろん現代は山の村でも昔とは違う。でも飯館村として南相馬市に合併しなかったのが今になると良かった。つまり飯館村としての個性を作れて村づくりができたのである。
地理的にも南相馬市とは離れていることもあった。小高と鹿島はもともと地理的には一つだったから南相馬市になってもそれほど違和感がなかった。ただ原発事故では小高は小高の事情ができたし原町は原町、鹿島は鹿島の事情ができて分断されたから小高は小高町のままの方が良かったといっている。原発の賠償金を浪江のように一致して請求できるからである。

飯館村は標高がかなた高く高原の村であり南相馬市の平地よりずっと寒い。だから飢饉の被害も大きかった。でも耕地面積はかなり広い、米作りが盛んだったとも言える。
平地が思った以上多いのである。それから木材資源が江戸時代から豊富でありそれで入会権で飯樋で争いがあったことでもわかる。

飯館村は今までは牛の村でもあった。飯館牛が売りだった。だから牛を飼っている家が多かった。だから避難した人が仮設で十頭もの牛の名を覚えていたのである。

牛でも名前が呼ばれれば人間化している。一方病院では番号で呼ばれたとかなり牛より人間扱いされないということもある。ペットの方が人間より大切にされているとかホームレスが不満を言うのもわかる。ただ十頭の牛の名前を覚えるということは結構むずかしいと思う。牛はだいたい似ているからどこかで牛の個性を区別して覚えないとできないことだろう。みんな同じだったらなかなか区別ができない、ただ牛の個性がどこにあるかはわからない。ただ犬でも猫でもみんな何かしら違いがある。もちろん黒い猫はクロだとかなり区別しやすい、牛はみんな同じに見えるのである。

犬でも猫でもそうだがこれは自分で飼ってみないとわからない。
野良猫に餌をやって猫を観察していると猫のことが具体的感覚としてわかってくる。
猫は相手をみて探っている。ただ自分をどんなものと近くしているのかはわからない。
餌をくれるから近づいて来るが絶対に触らせないし餌をとるにも一定の距離を保っている。いじめられてなつかなくなったのである。
動物を知ることは通じ合うことはなかなか簡単にはできない、猫と犬は対象的である。
犬にはあまり神秘性を感じないが猫には感じる。猫は結局謎めいているのからである。

エジプトではあらゆる動物が神となった。それは動物を非常に身近に生活と一体となって見ていたからである。だから牛のミイラまであったのである。エジプト人にとって動物は神秘的な神でありそれが人間の日々の生活に組み入れられていたのである。

動物が身近だった時は人間と動物の交流は深く動物と結婚する話しはいくらでもある。
先祖も動物だったというのが一般的でありそれぞれの部族がトーテムをもっていた。
猿のトーテムだとすると猿を日々の生活で深く観察していたのである。鷲でもそうであり今の人より動物は人間に近かった。最近この辺は荒地になりカヤネズミとかが増えてノスリがふえたのである。七羽集まっているのもみた。するとノスリを深く観察することになる。

いづれにしろ人間と動物は戦前でも宮沢賢治の小説のように深い関係があった。そうでなければあのような童話は書けない、江戸時代から残っている民話でもそうである。

そういう動物との交流が現代では欠落した。そこで動物というものがわからなくなってしまった。機械との交流の方が主になってしまったためでてある。昔は車の代わりが馬だとすると馬には詳しかった。この辺では相馬野馬追いかあるから馬を飼っているところがあるから馬を見る機会が多い。でも馬も飼ってみないと馬のことはかわらないのである。
人間はやはり野菜でも自分で栽培してみると実地に経験していると何かわかる。

だから街中に住んでいる人は回りが田んぼでも農家のことがわからないということがあったのだ。

自分は牛とか馬がみじかにいても触るのも怖いのである。だから動物と通じ合わない、ただ詩を書いたりするときはただイメージ化して創造で書いている。
牛でもやはり高村光太郎のような「牛」の詩はなかなか書けない、その時代でないと書けないものがある。何かそうしたものを書く基盤が失われて動物のこともわからなくなった。狼のことなどもう想像の世界でしかわかり得ようがなくなっている。

ともかく飯館村は人が去ったとしてもそのあとあとまでそこに人が住んでいるという記憶はなかなか消えないだろう。それは原発の避難地域ではみんなそうである。そこに江戸時代から人が住んでいたからである。

だから例え牛の鳴く声が聞こえなくなっても臥牛石が残りなおそこにまだ人が住んでいた記憶が残り続ける。つまりそれだけも原自然に還えるとか言ってもそこに住んだ人間の記憶は残りつづけるしもう元の原自然に還るということはありえないと思う。
石一つが残っていても過去の人間の住んだ記録となる。もともと人が住まないところにあった石とは違うものとなっているのである。

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2013年11月21日

飯館村の木材をめぐる争いの原因は何だったのか (入会権が戦国時代の戦争の基になっていた)


飯館村の木材をめぐる争いの原因は何だったのか

(入会権が戦国時代の戦争の基になっていた)

入会山は、地方により、カイト山(垣内山)、仲間山、惣山(そうやま)、モヤイ山(催合山)、総持山(そうもちやま)、込山、村山などと、共有の意を示す語を含む名で呼ばれた。
草刈場は、地方により、秣場、馬草場、萱場、茅場、草場と、多くに「場」のつく名で呼ばれるものがあった。
他の村落の入会地と区別するものとして、内山、内野、内原と、内外の「内」を冠する地名で呼ばれる場合もあった
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A5%E4%BC%9A%E5%9C%B0

原発事故で問題になったのは漁業権だった。漁業権はもともと入会権を基にしているのだろう。本当は漁業権は海に境界がないのだから定めにくい、取り締まるのもむずかしい。漁場にしても一定していないのだから変わりやすい。すると山林や馬草や家の屋根をふく萱などを村で所有するのとは大分違っている。海はもともと所有しにくい、所有しにくいものは財産になりにくい、それが海の特徴だった。
検地の結果として土地の私有権が定められた。もともと土地も私有されていない、公有的な要素が大きかった。古代では国のものだった。江戸時代前も荘園とか領主のもので中で私的に所有されてはいない、江戸時代になり検地がなされて本百姓が生れ私的所有権が確立した。結果として税を納めることになった。

飯樋御出陣(奥相茶話記)(天正十八年六月十八日)

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飯樋に割木とあるのは境界の木である。割山というのも入会権の山を現している。まさに木材資源をめぐって割れる山だったのである。


御城内造営の事ありて良村を草野山にて選びとらせたまふ草野は適地の境なれば岡田兵庫に四篠但馬を相副て置ければ但馬かの村木を奉行す採所の不可なりとて兵庫但馬を叱する但馬憤り深し兵庫義たねへ訴え但馬草野より城下に召して住せしめんとし給ふところに家挙げて伊達領川俣に走る、川俣に桜田卯兵衛玄番封境を守りて但馬子あり兄を織部といい弟を内記といい父子三人にてかねて飯樋の者どもかたらい恨をはらさんとすこれ故に飯樋に逆徒多しとて大亀興一郎を飯樋に移さる・・・・


飯館村の飯樋(いいとい)で起きたこの事件何のなのか?
図解したようにこれは木材資源をめぐる争いである。飯館村は木材資源が豊富であった。それで御城内造営の事ありて岡田氏と但馬氏にそれをまかせて遣わした。岡田氏は中村城に別に岡田館とあるくらいで重臣である。ここで但馬氏とは伊達領の川俣に兄と弟がいたから元からいた土着の勢力だったのだろう。
岡田氏と争いになったのは自分たちの入会権が山を木を所有する権利が失われることで争った。この時、伊達領と相馬領はまだ明確に分かれていない、但馬氏が領有していた山であり木であった。だから但馬氏には川俣に兄弟がいたことでもわかる。
ここでの争いはそもそも伊達領と相馬領の争いではない、但馬氏という元からいた土着の所有者が領有していた土地であり山であり木であることから起こっていたのだ。

大亀氏というのは但馬氏の兄弟が遣わして暴挙にでた。それは一つの戦争であった。

戦争はこの入会権が元で起こっていることが多い。戦国時代が起きたのはそうした入会権をめぐることに発している場合がある。それは領主同士の争いというより村人の入会権をめぐる争いに領主が加担したのである。この場合も藩主の義胤に訴えている。義胤が家来を遣わして平定している。それで死んだ家来もいる。飯樋に塩の番屋があり牢屋もあった。だから牢屋に入れられたということも書いてある。大亀氏という名前も南相馬市の原町区の人で知っているのも奇妙である。この姓は変わっているから覚えられやすい。

この時伊達藩自体はかかわっていない、でも伊達藩の川俣の内記という但馬氏の弟は死んでいる。だからこの争いはそれなりに大きな事件であり記されたのだろう。
なぜ戦国時代が起きて熾烈な争いになったかというとそれはこの入会権が元で村人同士が争いになり領主に訴えて大きな争いに発展したとする見解がある。ドラマばかり見ていると歴史は非常に偏った見方になるのだ。歴史というのは信長だ、秀吉だとか面白い劇的なものばかり見ているがもっと細部を見ないとわからない、それは学問的になるから庶民には受けないのである。小さな事件でも必ず大きな事件の基となっているからだ。


この木をめぐる争いは玉野村での境界争いは有名である。上杉と伊達と相馬の三つ巴の争いとなってた。境界争いも木をめぐる争いが多かったのである。御蔵島には20数軒しか住んでないがその一軒でも境木というのをもっていた。それは自分の家の木だという所有権の主張なのである。木は薪となり炭となり家の材料にもなり資源として貴重なものだったのである。だからこそ争いも起きた。
世界戦争でも石油とかの資源をめぐることが多いように人間の歴史でも資源の争奪戦が戦争の基になっていた。


飯館村では飯樋は重要な地域であった。あそこには大きな墓地があった。飯館の田んぼの面積も広い、川俣は耕地が極めて少ない、飯館は平らな所がかなりあり米の収穫高も多いし今でも多かった。川俣はもともと織物が主産業であった。

飯樋には大きな墓地があった。あの墓地は明治時代の以降のものであったが飯館村もこうした古い歴史がある。この事件は天正時代なのである。ここも玉野村と同じく木材資源をめぐって境界争いが起きたのである。その原因は但馬氏という在地の勢力が存在していたところに相馬藩の岡田氏が進入して争いになったのである。 ここで合力が行われたのである。この合力が基で大きな戦争にも発展した。飯館村はもともと未開の地であり相馬藩から新郷士が入ってきたところだからこうした問題が起きる素地があった。
山中郷となるのは遅いのである。ただその後野馬追いにも山中郷では参加している。

飯樋の墓地の広しも松風の鳴りて冬日さし誰そ眠りぬ

飯館村はこれからどうなるのか?あそこの墓地は広かった。そういう墓も捨てられるのか?墓をたずねるのも歴史を知ることである。
なぜか、土盛るだけの墓もあった。そういうのは墓石を建てられないからなったのか?昔だったらそうだろう。でもそれは明治時代以降の墓である。土盛っただけの墓だったらいづれは消えてしまうからだ。

相馬藩玉野村の境界争いはなぜ起こった?
http://musubu.sblo.jp/article/33335256.html

百姓たちの戦国(其の四 近江全域を巻き込んだ隣村戦争
http://harada-iory.cocolog-nifty.com/seikoudoku/2011/06/post-0552.html

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2013年10月26日

飯館村佐須の乳神の碑から現代を考える (牛乳がない時代は乳が頼り)



飯館村佐須の乳神の碑から現代を考える

(牛乳がない時代は乳が頼り)


●乳神の碑の伝説


(耕野の名所・旧跡と伝説より抜粋)

旧丸森西中学校の近くに、石に乳が彫られた「乳神」という石碑があります。
「丸森町史」にも載っていますが詳しい場所まで記されておりません。
http://zuiunzi.net/igu/dousozin/titi.html

「大正年間に建立、県道角田線字羽抜の八雲社内にある。明治大正年間のころ、子供を産んでも乳が不足だったり、出なかったり、又乳房の病気にもなり困っているお母さんたちがいたので、同部落の一條利吉という人が、妻の胸を見ながら刻み乳神を祀った。
http://zuiunzi.net/igu/dousozin/titi.html

老杉の根方に小さな泉があり、堂の中に姥神の石像を安置してある。用明天皇の妃玉依姫が下紐石の上でお産をした時乳の出がわるかったが、神託でこの泉を発見し飲んだところ乳が出たという。乳母神像の乳房を削り取って粉にして御飯に炊き込むと産婦の乳が出て、嬰児も丈夫になるという。お礼参りに奉納する縫いぐるみの乳房が沢山堂にかかる。
http://www.nichibun.ac.jp/YoukaiCard/C0410888-000.shtml

木の根本に上がるはしごが掛けられていますが景観を損ねるだけで必要だったのでしょうか。乳神様(金勢様)は、大きな岩の上に立つウッ コの大木に抱かれるようにしてある。子供が授からなかったり、お乳が出なかったりする女性が、子宝やお乳がた くさん出るよう祈願した。
http://p.tl/GQlv


ひとつ気がかりなのは…
おっぱいが張りにくくなってきたことだ…
このままおっぱいが出にくくなって
断乳、になるのだろうか。
不本意な断乳、悔しい。
昨晩は一応マグマグに母乳をしぼって置いてきたが
娘は飲んでくれたんだろうか。
よく寝ただろうか。


●牛乳のない時代は乳が頼りだった


乳神というと何を語っているのか?もともと人間は乳で育っていた。乳を飲まなければ子供は育てられないのが普通である。乳が出ないということは昔は相当な深刻なことだったろう。でも今は乳が出なくても何にも困らない、牛乳があこり牛乳が余って捨てているのが現実だし米だってあまって減反政策になっている。こういう時代だと乳のありがたみもうすれるしモノのありがたみも薄れる。もったいない・・・というのは戦前から戦後十年の時代感覚だった。今は膨大な食料でも捨てている。古いものは使わない、新しいものと買った方がいい時代になるとモノを大事にしない、そこで人はもはやモノを与えても何を与えてももらっても感謝しない時代になった。もらって当たり前でありそれ以上にたりないたりないと文句ばかり言っている。そしてついに盗んだ方がいいとなる。実際そういう人に犯罪にあった。もちろん現代はあらゆるものに金がかかるから金が欲しい欲しいというのはわかる。格差社会でもありその格差が大きいのも問題である。でも人間があまりにも金、金、金・・となったときモラルが崩壊していたのだ。


このところの自分の問題もあまりにも金ばかり要求してくる。お前は金を出せばいいんだ、あとは用はないとまでなっている。それは現代の風潮であり自分だけに起こったことではない。なぜなら親子の間でも求めるものは金だけになり金のない親は相手にされないとかまでなっている。現代の生活で金を否定はできない、ただその金を求めることが限りなくモラルの荒廃が起きた。原発事故でも原発が金のなる木だから地元でも積極的に誘致したのである。原発に政治家でも官僚でもマスコミでもそこが金になるということで賛成して促進させた。原発事故の原因はいろいろあるにしてもやはり何か根底にはモラルの荒廃も関係していた。津浪でも必ず誰かが悪い人がいてそのひとか津浪の原因だったと伝説で残されている。そういうパターンがあり自分もそういう経験したからそう思った。

人間のモラルが荒廃する時、自然からでも人間からでも災いが生まれてくるという思想は人間の歴史がはじまって以来常にあったのである。

乳神のことだけど飯館村の佐須に行った時、一軒家の畑に小さな「乳神の碑」があった。その家は辺鄙な所の一軒屋だった。それで乳神とは何だろうと思った。キーワードで調べるとそれなりにある。丸森町にあるのは大正時代だから新しい、江戸時代からあったし
乳がでないというこはやはり深刻な問題だった。例えば聞いた話では同じ世代の人が
自分は親戚の人の乳で育ったという、兄弟が多く母親が乳が出なくなったのだろう。
乳が出なければ戦後でもそうなったということである。つまりその頃牛乳がさほど普及していないしモノ不足だったのである。それで自分も牛乳を得るために自分の父親が並んで買っていたという話を聞いた。ともかく戦後十年は焼け野原から出発したのだからモノが何にもない時代だった。小さな飯台が一つあるくらいの質素なものだった。それは一般的に共通した生活だった。だからまさに乳もないという時代だったのである。
乳が出なければ誰かの乳をもらうほかないとなる。そういうことは江戸時代から人間がはじまって以来されていたことである。貴族でも武家でも乳母がいたのはそのためである。ただそれは乳が出ないというのではなく家来との絆を深めるためにあえてまかせていたのである。なぜなら乳を子供にやるということはその子供が自分の子供のように思えてくる、愛情をもつようになる。するとその家に仕える気持か違ってくるのだ。


●飯館村の大倉と佐須


大倉と佐須は山の中の辺鄙な村であり大倉から佐須は結構離れている。不思議なのはなぜ明治になって大倉と佐須は民情が違うから合併しなかったという。おそらく大倉と佐須は江戸時代でもそんなに交流がなかったのだろう。それは日本の村は複雑であり村と村が仲良くしていない、隣り合う村でも利害の対立があり敵対していたという、それは水の配分などでもめたり何か資源をめぐって争いもあった。狭い土地に住むとそういうことが起こりうる。狭いと資源がないと貧乏だと互いに姑息になるということがある。日本人はウチとソトを分けるという時、そうした村の狭い地域での生活が影響していたのである。
それを可能にしたのが狭い地域でも自給自足であり隣の村でも頼らないで生活していたからである。だから佐須のような大倉のような狭い地域で自給自足できたことが今になるとなかなかイメージしにくくなっているのだ。佐須と大倉は山の中であり田んぼなども少しあるだけである。佐須はもともと焼き畑の意味だった。飯館村には草野辺りとか飯樋町・・・辺りだと広い田んぼがあり飯館村は山だけではない全体では広い地域であり米も相当とれていたのである。

飯館村と原発はほとんど関係なかった。までいな生活の村という時、そこは原発の恩恵はない村だった。それか不運にも風の影響で放射能の村になってしまったのである。
飯館村ではその時牛の村にもなっていた。飯館牛は有名だった。牛乳もふんだんにある。ただおそらくその乳神の碑は明治以降か大正以降か昭和の戦前のものだろう。丸森町で乳神の碑を大正時代に建てたということで想像がつく、それから飯館村でも相当に戦後でも開拓に入った人たちがいた。浪江の津島も戦後、復員した人などが開拓に入りそれで協力したから村のつながりが強いというのもわかる。だから飯館村でも意外と辺鄙な所は戦後開拓に入った人たちが結構多いのである。ただ一方で大倉は鎌倉時代から人が住んでいて古い。江戸時代からの歴史かある。飯館村は相馬藩の山中郷になったとき人口も増えていった。相馬藩の郷士が役人として農民として入ってきた。塩の道で二本松に塩を運んでいたから塩を管理する役人が60人とか住んでいた。それも多いと思うけどそれだけ塩の役割が大きかったのである。乳であり塩であれそうした物の大切が失われた時代には昔を偲ぶ事がまた必要なのである。

大倉を越えて佐須かな春の日や行合道に我がい出むかな


残雪の吾妻峰仰ぐ佐須をすぎ行合道に我はい出にき


鹿島より佐須は遠しも何かあれ畑に一つ乳神の碑

真野川の源遠く佐須なりき山津見神社ここに古りにき

真野川の流れに佐須と大倉は結ばれにしや春の日暮れぬ

http://musubu.sblo.jp/article/27979058.html

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これ建てた人の名前は書いてあるがよくわからない
隣の祠はもっと古いものだろう
そこに新しく碑を建てた



佐須というとむしろ霊山の方が交通としては近いから行合道とは佐須の人たちが名付けたものなのだろうか?それでもあそこは坂が急だからそんなに簡単に出れないし交流もできない、つまり閉ざされた地域だった。山津見神社があるがあれも古い、狼を祭っているということは何かふさわしい。不思議なのは山津見という地名が松川浦の浦に面した所にあった。それが何を意味しているの。山津見神社はやはり海との交流がありそこに祭られたのかなぞである。ただお浜下りというのは春になると行われていた。大倉から車で下ってきたのである。それにしても飯館村とかがなくなるとそうした交流もなくなる。
今の時代、限界集落のような村はなくなった方がいいというけど飯館村がなくなることは相当な損失だろう。その村の価値は経済的効率からだけでは計れない、今になると放射能廃棄物の村とかいいイメージがなくなったのである。その放射能の廃棄物処理場にしてでも除染なとどしないで金でも一億でももらった方がいいというのも現実的な意見だった。
除染など誰のためにしているのか、会社のためにゼネコンのためにしているのか、大成建設が除染していたが放射能測定器の下の土をとって放射線量を低くしていたのである。

佐須では驚いたのは田んぼの畦道の泥がたまった所で20マイクロシーベルトがあるホットスポットがあったので驚いた。やはり高い所があると思った。ただ自分の近くでも南相馬市内でも樋の下は泥がたまりそこは10マイクロシーベルトとか高い。屋根には放射性物質がたまりそれが流されて泥にたまり高くなった。そしてセシウムは泥になって流されると予想して田か実はセシウムの濃度は変わらなかったと科学者が言っている。すると真野川のダムの下の泥には相当なセシウムがたまっている。それば泥とって流れだしていないのである。するとその水を飲むと安全なのかという心配かある。汚染水になっていないかという心配である。こういうことを指摘している人はいない、飲み水はみんな心配しているからである。飯館村は一見南相馬市と関係していないようで密接に関係している。
水の問題でもそうだし放射性廃棄物が埋められてもそれが地下水にしみだしてくるから流れてくることがある。だから果たして放射性廃棄物処理場にしていいのかとなる。
飯館村だけの問題ではない、その観点もぬけているのである。

飯館村暮らしも絶えむ佐須にある乳神の碑思う秋のくれ

ともかく今や人が住んでいないとしたらどうなるのか?そこを思うことすらできなくなる。ただまだ人の住むと違ってくる。
ただそこに江戸時代から人が住んでいたということは簡単にその記憶も消えるとはおもえないのである
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2013年10月03日

飯館村佐須の歴史と伝承から飢饉の考察 (比曽もやはり焼畑地名だった)




飯館村佐須の歴史と伝承から飢饉の考察

(比曽もやはり焼畑地名だった)

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●相馬藩の天明の大飢饉

八戸藩の収穫[編集]
1782年(天明2)7,243石(表高2万石)
1783年(天明3)19,236石
1784年(天明4)16,457石(耕作しない)


天明2年(1782)に奥羽地方で冷害が起こり死者11万人の被害が出た。天明3年(1783)には浅間山の噴火が起こり噴煙が日光をさえぎり、東北と関東での凶作になった。噴灰が川底に堆積することで洪水を起こし被害を与えた。天明年間(1781から1789年)は浅間山の噴火の影響により日本全体が平年よりも気温が低い寒冷期であった。

 


天明には相馬藩内の餓死者はすでに8,500人を越えていた。その後16,000千人死者及び行方不明者を出した。相馬藩はなんの備えもなくその飢饉と荒廃ぶりはとりわけ深刻だった。
さらに山中郷は一番深刻だった。


栗、柿、楢、樫の実、椚の実を食べた


椚(くぬぎ)の実
http://ameblo.jp/eizo-blanding/entry-10352996544.html


原釜村にては38人、尾浜村にては17軒死絶え・・


越後など役人を派遣して女子を買い入れこれを領内の困窮者で妻のない者にめとらして子を産ませ援助した。


天保7年の凶作では内高10万石をこえる相馬藩の収納高はわずか457石にすぎず江戸商人からの借金、大阪、秋田からの米の調達、領内の富民からの献納米、さらには材木の伐採、売却で今回は相馬藩内に餓死者はでなかった。

天明の飢饉は一番悲惨であった。これは全国で起きたし関東東北が被害が大きかった。浅間山の噴火で日がささず低温になったという。これは江戸時代の初期であり飢饉による備えがなかった。その後の天保7年の凶作では対策をして餓死者は出ていないのである。
つまり流通とか備蓄とかしていれば飢饉も餓死者がでままでにはならない、そういう深刻な経験を積んで餓死者をなくしていった。


栗、柿、楢、樫の実、椚の実を食べた。


ここに栃の実がない、栃餅とかは会津の方でとれる。これはうまいのである。椚(くぬぎ)の実はどんぐりとは違う、でもやはり実であり食べられた。こういうものに今は関心がない、そもそも人間は食料でも日頃食べていなければ関心がなくなる。それでたいがい木でも地名化したの実用に役立てたものであった。それは染料でもいろいろありそれか地名化した。なぜか椚平(くぬぎたいら)とかの地名が一時放射能で話題になった。初めて聞く名なので椚とは何なのだうと思った。それはやはり椚の実が食べられるということがあった。それて椚が他にも実用的側面から椚平と地名がついたとき名づけられたのだろう。
椚の木がたくさんあるということもあった。でもそもそも椚の木に今なら誰も注目しないだろう。


それからなぜ原釜村にては38人、尾浜村にては17軒死絶え・・・とかあるだすう。山だけではない、海側でも餓死者がでた。海だったら魚もとれる買いもとれる。それでなんとか飢えをしのぐことができるだろう。でもその時は魚も不漁だったとなる。漁師の逃散はあまり聞かないけどやはり不漁になれば農民と同じく餓死者まででる。


天明の飢饉の頃は魚も不漁だったところが多いようです。カネに困ると借金したり持ち船を売ったりして、とりあえず食料を確保し、それも出来なくなれば、夜逃げで他の地域に逃げ活路を求めようとし、逃げていった先で死ぬことも増えます
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7759251.html


いつれにしろ天明の飢饉は全国に及んだし全体に波及していたのである。そういう中でも江戸には米が集まったから江戸では餓死者はでていないというのも不思議である。普通だったら飢饉になれば自分たちが食べる米を第一にするから他の藩に売らないとかなるし農家でも食料となるものを売らないと思う。でもかえって米の価値が上がって飢饉の時も米を高く売りつけていた。飢饉に対して藩が有効な対策をとっていなかった。そさだけ江戸初期でありまだ人々の生活は安定していなかったのである。

興味深いのは

越後など役人を派遣して女子を買い入れこれを領内の困窮者で妻のない者にめとらして子を産ませ援助した

こんなことして人を集めていた場合もあった。結局これほど困窮していたということでてある。このことは相馬藩の戸籍を記録したものがあり
その出身が越後や越中とかの人がいる。そういう人は強制的に連れてこられたのか?
津島では中国人の嫁が鉈で夫を襲った。こんな山中ではなく都会に出たいと襲ったのである。
時代が変わっても同じようなことがあるのだ。この天明の基金では親族までその肉を食べたというから悲惨を究めたのである。

●比曽も焼畑地名だった

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地名に興味があると津島に行く椚平とかに下冷田とかいう地名がある。これか何か寒冷地を示す地名で心に残っている。ただ地名といってもなかなかわかりにくい。佐須は明確に焼き畑の地名でありこれは全国にあり地形的にも真野川の源流地域であり隔絶された場所だった。


蚊野の名は火野から生まれた。(地名語源辞典)火野とは山林を焼き払って種をまく焼畑農業が行なわれた土地のことである。


津南町では反里(そり)、そして反里口(そりぐち)があります。
いずれも『ソリ』は古語で、焼畑を作った所です。


関連情報として「反田」姓や「ソリ」という地名については、「反田とは傾斜地にある田」(『日本名字家系大事典』)「反田は傾斜地の田や焼畑を意味する」(『角川日本姓氏歴史人物大辞典 19 山梨県』)という記述や、「ソリ、ソレとは、(焼畑を)毎年連続耕作しないで、数年ごとにソラシ、ハズシて休閑させるという意味の語か」(『地名語源辞典』)という記述をあわせて紹介する。


比曽とは比曽原という地名などありこれは佐須と同じく焼き畑地名である。火は焼畑であり焼くからそうなる。ソはソルであり焼畑からてた言葉である。火とソルが合体してヒソとなったのである。あの辺は草野からさらに奥地だから佐須と同じく焼畑の地名にはふさわしい場所である。ただその後あの辺でその明治以降でも戦後でも開拓に入っている人たちかいる。津島はそうだった。だから地名自体が古く江戸時代から歴史があっても昭和からの開拓者もいるのだからまぎらわしくなるのだ。


●飢饉の原因


○幕藩制の欠陥


 幕府は天明6年(1786)に2分の1に、翌年には3分の1に酒造制限を強化し、酒の原料である米を食糧として流通させた。しかし、幕府は米に余裕がある藩に対し飢饉で苦しむ地域へ強制的に余剰分を送るように命じるという権限はなく、そのような命令を出す考えがなかった。

 例えば、天明6年(1786)は例年の三割程度の収穫減だが例年通りの収穫があった地域もある。幕府の命令で、強制的に余剰米を流通させればこれだけの餓死者は発生しなかったはずである。 


飢饉の原因
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=271634


それでは、凶作の年はどのような物を食べたのでしょうか。作物の生育期間の低温や日照不足によって不作となる凶作年は、米だけが不作となるのではなく、麦や稗などの他の穀物も不作となることが多くありました。こうした場合に備えて、家毎に蕎麦そばや稗ひえ、干し大根などを井楼いろう(大箱)や梁上りょうじょう(まげ、焚き火の上)に貯蔵し、凶作時の備えをしていました。


この頃の天候では簡単に不作にもなるので、飢饉対策・万一の食料確保でサツマイモやその他の方法も工夫されて行きます。
千葉県の幕張でも、天明(1783〜88まで続く)・天保(1833〜39まで続く)の大飢饉にも、このあたりで餓死するものは皆無だったそうです。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~nakanisi/rekisi.html


ここから抜粋
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7759251.html


沖縄に伝わったサツマイモはその後九州に伝えられた。導入に貢献した人物は薩摩指宿の浦人(海辺に住む人:漁師)
利右衛門(後に前田)である。利右衛門は宝永2年(1705)水夫として琉球に渡ったが、その折に持ち帰ったといわれている。 この結果同地における「享保の大飢饉」を救ったと考えられている。利右衛門は現在同地で「甘藷翁(からいもおんじょ)」と呼ばれ、 利右衛門ゆかりの地に徳光神社が、またこれ以外の2箇所に頌徳碑が建てられている他、
大隈半島など県内の各地に供養塔が建てられ崇敬されている。余談ではあるが、 このイモから搾った「利右衛門」は、今や鹿児島産の銘柄の一つとして、左党の間では知る人ぞ知る逸品でもある。
http://www.nodai.ac.jp/journal/research/suzki_s/0805.html


天明年間の少し前に、南部藩に対して幕府から多額の上納金の要請があり、そのときは支払ったが、二度目はなにがなんでも断る口実をつくるために、関東で浅間山の噴火によってやや凶作があったのを幸いに、南部藩でも大変な飢饉があったことを演出した。大量の餓死者があったことにして、表の帳面には大量の人口減があったことにし、実際は別の数字を書いた裏帳簿があったことが確認されている。人が減れば年貢収入も減ったことになり、あらゆる帳面をとりつくろうことになる。
http://nire.main.jp/sb/log/eid218.html


飢饉は防げるものであったことがこれらの引用でもわかる。ただまだ江戸初期でしりそれだけの備えをする力かなかっただけなのである。日本には自然災害が多いけど自分の住む場所も街て一番低い土地なので二回も洪水にあって被害を受けた。でも堤防を強化してからは洪水はなくなった。自然災害も飢饉も備えがあれば防げる。天保7年の凶作では餓死者が出ていないことでもわかるのだ。

日本は飢饉があるのはと米の不作になることが主要な要因である。それで沖縄でとれていたサツマイモを薩摩藩の漁師が取り入れて飢饉に備えた話は面白い。沖縄は南国だからサツマイモ栽培に向いていた。紫のサツマイモが沖縄ではとれる。焼酎にもなる。
もともとサツマイモは南国産である。例えばベトナムでは地下壕に入りアメリカ軍と戦った。その食料がサツマイモだったのである。このサツマイモは南国産だから育つのが早い。

高温性植物で強光と日照りで良く育ちます。食糧不足の際でも育つ野菜として知られており、肥料なしでも育ちます。

サツマイモはやせ地でも育って、収穫量も多いので初心者でも育てやすい野菜の一つ!たくさん採れ過ぎても貯蔵しておけるので便利です


これはベトナム辺りだと日差しも強いか早く育つのである。だから食料があるから戦いたともなる。こういうふうに飢饉の備えができてきたからもう日本でも飢饉はなくなった。
ただ今度の放射能問題は備えがなかった。あのような奥地まで放射能が関係するとは思わなかった。放射能にはどう対処していいかわからないのである。やはり土とか水とか空気でも基本的な生活のベースになるものが汚されると生活そのものが破壊される。
飯館村にしても原発のことなどあまり考えなかった。そこが現代の盲点だった。



あとがき



赤字木(あこうぎ)に住む人から前にメールがあった

比曽(ひそ)に住む人からコメントがあって今回この文を書いた

アグリの店長からコメントがあった

浪江で東京に避難している人からのコメントがあって浪江の橋について書いた


飯館村にしろて浪江にしろ避難しているのだから帰れないのだから深刻である。
天明の飢饉よりはいいと言ってもそれはあまりにも異常な悲惨なことだったから
比べることはできない、ただ江戸時代からの歴史が比曽(ひそ)でもあるということが見逃されているのだ。
今回はなにか津波でもそうだが400年前の歴史がどうだったかそれが命にかかわっていたのである。
今は歴史はそんなに重んじられていない、でも土地の歴史を知ることが命にかかわっていたということを知ったのである。
山中郷も相馬藩ないであったのであり歴史が江戸時代から記されていた。
そこに住む人の思いがそうした歴史とともにあるというのも見逃せないのである。
たからなかなか簡単に移住するというのもできないということはあるだろう。
ただそこにはいすいろな複雑なものがありいろいろ迷いる、逡巡しているというのが現実だろう。

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2013年06月17日

飯館村の喫茶店の椏久里(あぐり)の思い出 (二年過ぎて飯館村を思う短歌十首)


飯館村の喫茶店の椏久里(あぐり)の思い出

(二年過ぎて飯館村を思う短歌十首)


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珈琲の香りの満ちて飯館の喫茶店の窓秋の蝶かな

飯館の喫茶店に入り秋日さし珈琲飲みつパンの味かな
人々のここに集いて様々に話せし日やそれもなくなりぬ
飯館に住みにし人の様々に思うことあれ二年のすぎぬ
飯館に住みにし人の何思ふ思いで深く帰れざるかな
嘆けども仮設暮らしの身につくや飯館は馴れ二年のすぎぬ
故郷は遠きにありて思うもの思い出深き暮らしなるかも
庭広く花々映えぬその家も人の住まずに夏も淋しき
川俣に来ればここに暮らしあり古き農家に春の日暮れぬ

川俣に別れし道は山木屋につづくとあわれ春の日暮れぬ

飯館村に行けばよる場所というと椏久里(あぐり)という喫茶店しかない、あそこは単なる喫茶店ではなかった。特製の自家製のパンを作っていたのである。それがおいしかったのである。飯館村だったらとれているのは米だから米パンでもいいかなと思うがやはりパンは麦でないと味が出ない。
飯館村では外からもあの店にはよっていた人が多い。だから今になるとあの店は価値があったなと思う。この辺で起きていることは未だに信じられないことである。津浪で村ごと消失するとか原発事故で町や村がなくなるなど想像もできなかった。そしてもう二年もすぎたのである。

仮設暮らしも二年すぎるとそれなりになれたということもあるかもしれない、しかし不思議なのは飯館村で暮らした歳月は長いしそんな簡単に忘れられるものではないだろう。他でもそうである。

そこに暮らした時間が長ければ長いほど思い出は深いものとなる。だから仮設暮らしの人々がどんな心境でいるのか不思議である。いくら自分がその代わりに短歌にしてみても本人の思っていることはまた違っている。飯館村の特徴はみんな一軒家でありそれも森につつまれていて庭も広々としていた。人間の住まいとしては理想的だったのである。だからそういうところから仮設とか都会に暮らすとその相違が大きいのである。広々とした家や庭やその回りは森につつまれている。そういうところから都会や仮設で暮らすのはあまりにも違いすぎるのだ。

思い出というときそれは今生きている人だけではない、飯館村は江戸時代からの歴史があるからそこに生きていた人たちは死んだ人の思いがこめられている。飢饉の時は苦しんだからその人たちの苦しい思い出も残されている。そういう思い出が失われることはどういうことになるのか?
葦が茂り原始の状態に還るのかとなると一旦人のすんだ所はそうはならない、人の思いがこもった場所だからそうなる。もし原発事故で人がすまなくなった町村はどうなるのか?過去は忘れられる。そこに人が住んでいれば過去を思い出すことができるがその土地を離れたらできない、その土地と共に思い出が歴史が刻まれているからだ。


いづれにしろ時間がすぎて価値がでてくるものがあり一旦失われて価値がでてくるものがある。思い出というのはそういうものである。その時
はその価値がわからないのである。青春などもたちまちすぎてしまう。その時はしかしその価値がわからないのである。そしてものの価値は思い出はその場所とともにある。場所が意外と大事なのである。椏久里という喫茶店は飯館村という山村にあったことが価値があった。都会にあったら他の喫茶店と変わりないだろう。福島市に古民家を改造して再開してもそこには場所の価値がないのである。相馬市の花屋のことを書いたけどあそこも場所の価値があった。駅前の店は前は場所の価値があった。今でもス-パ-は便利でもモノを買うという価値しかないのである。


啄木の短歌の特徴は故郷であり何でもあれつまらない日常的なことが何か人生で貴重なものになった。それが彼独特の天才的感受性で短歌にしたのである。それはすでに15才のときにできたのだから天才だったのである。そして27才で死んだからすでにその時60才くらいの心境になっていた不思議があるのだ。故郷のことでもあれだけ思い出深いものになった。故郷は遠くにありて思うもの・・まさにこの辺の不思議は住んでいた場所から離されたからそうなってしまった。いろいろなものを見直すことになったのである。それは一人一人また思い出があるからわほからないにしろ一旦長く住んだ場所を離れたらそのことを思い出深いものとして見直すことになるのだ。


だから椏久里(あぐり)という喫茶店はもう二度とあそこでコ-ヒ-が飲めないのだから思い出だけになったから不思議であり価値が大きくなったのである。なぜなら人生でも青春が失われれば老いれば二度と帰ってこないと同じなのである。その時は二度と帰ってこないのである。二度と帰ってこないものはそれだけ価値が大きい。もう二度と経験できないからそうなる。つまり椏久里で飲んだコ-ヒ-にしろパンの味にしろそれを味わうことができなくなったのである。福島市でできるかとはできるが飯館村の場所で味わうコ-ヒ-の味とパンの味は違っていたのである。その場所が味を深めていたのである。

いづれにしろ川俣にでると暮らしがあったが飯館村にはもうない、その相違が大きいのである。
暮らしがあってこそ思い出がありうる。その暮らしもまでいな暮らしとか目指していた。
所得も福島県では一番低いものであった。だから原発マネ-は入っていなかったから飯館村は悲劇の村になった。ただ警戒区域になっていないから人が入れるので他とは違っている。
全く無人の村とも違っているのだ。ただこれからどうなるのか?
やはり人が帰って住む人もでてくる。でも前のようにもどることはないのか?みん,な模索中でありわからない、ただ一旦離れてみて思い出が深くなりその価値を見直したということはある。
つまり当たり前であったものが実は金では変えられないような価値があったということがあるのだ。いくら補償金をもらってもそうした価値は金ではとりもどせないことがあったのである。


 盛岡の中学校の露台(バルコン)の欄干(てすり)に最一度我を倚らしめよ


これとにていたのが椏久里(あぐり)だったのである。啄木には啄木調が作ったから独特だった。芸術でも印象派という手法が生まれたときそれは芸術の新たな分野が生まれた。そういうことができるのはやはりどんな分野でも天才なのである。でもそのあとにそれをまねする人が普通の人でもでてくる。ともかく啄木の短歌は60才以上の老境になって作れるものであった。だから凡才である自分でも今になって啄木調の短歌が作れたとなるのだ。

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2012年07月17日

飯館村が原初の葦原になり伝説化した (葦笛の詩として引用構成)


飯館村が原初の葦原になり伝説化した

(葦笛の詩として引用構成)


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●葦が日本の原初の状態


この葦原だが古事記の記述によると日本は豊葦原 の瑞穂の国 とよあしはらのみずほのくにとされている 言葉のとおり豊かな広々とした葦原のようにみずみずしく 美しい稲穂が実る国ということであろう弥生時代になって人 々が低地に定住して米作りを始めると河川の氾濫平原や湿地 はもっとも米作りに適した土地として豊かさを象徴する存 在になったに違いない当時の地形と現代の地形ではかなり の違いがあると思われるが現代の沖積平野のほとんどが氾 濫河川敷や葦原の低湿地だったと考えられる

根の家で生活する農民達がヨシで編んだ魚籠を用いて漁をして おり壁土の材料として稲ワラの代わりにヨシを利用していま した 日本でもヨシズの材料として古くから利用されているが
http://fjfj.enokorogusa.com/BiotaHatogaya/BiotaHatogaya03.htm


日本では稲刈りの後に芦刈が行われ、各地の風物詩となっていた。軽くて丈夫な棒としてさまざまに用いられ、特に葦の茎で作ったすだれは葦簀(よしず)と呼ばれる。また、屋根材としても最適で茅葺民家の葺き替えに現在でも使われている。日本神話ではヒルコが葦舟で流される。最近では、葦舟の製作も市民活動として行われるようになってきている。ちなみに、南米で葦舟といわれるのは、この葦ではなく、カヤツリグサ科のフトイの仲間を、古代エジプトにおいては同じくカヤツリグサ科のパピルスを使っている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%B7


世界中で葦が原初の風景であり原風景だった。パピルスが葦でできていたことでもわかる。ナイル河畔にも葦が繁っていた。葦船は日本にもあった。葦の用途は広いのである。葦は海岸地帯にも生えるのは塩分にも強いからであり葦がいろいろな効能がありそれは知らなかった。

ヨシ生態のおぼえがき
http://www.lberi.jp/root/jp/31kankou/3113kenkyureport/syoho_bi/09/09-05.pdf


●葦(あし)が古い地名の発音で葦(ヨシ)は平安時代以後の発音


日本の国を『豊葦原(とよあしはら)の国』(日本書紀)とも呼ばれていました。平安時代までは「アシ」と呼ばれ、今でも「アシ」と呼ぶ地方もあります。正式な名称(植物学名)は、「ヨシ」(竹と同じイネ科の仲間)と呼びます。

葦牙とは、葦の芽のことをいう。その二柱の神がつくった島々は「豊葦原の千秋の長五百秋の水穂の国」といわれた。これにより、日本の古名は豊葦原瑞穂の国という。更級日記では関東平野の光景を「武蔵野の名花と聞くムラサキも咲いておらず、アシやオギが馬上の人が隠れるほどに生い茂っている」と書き残し、江戸幕府の命で遊郭が一か所に集められた場所もアシの茂る湿地だったため葭原(よしはら)と名づけられ、後に縁起を担いで吉原と改められた。


平安時代までアシと西では言っていた。もともとはアシと言っていた。ところがアシが縁起が悪いとしてヨシになった。ということはアシと発音するのは地名的に古くヨシと発音するのは新しいとなる。吉原は新しい呼び名である。吉田もそうである。


●片葉の葦の謎


、柳田國男の説くところの日本の生贄の風習である片目片足をつぶし、生贄のしるしとした伝承。それを証明するかのように片目の魚と神、片葉の葦と神の伝説は日本中至る所にある。そしてそれらが産鉄民と繋がる事は歴史家の間では今や常識、片目の神は北欧、エジプト、日本と、世界的に神の条件のひとつでもある。片葉の葦は「かたわの足」である、産鉄族は火を扱い片目になったり片足になったり体を酷使するためにそうなりやすいのである。またはたたら吹きの強い風のために葦の葉が一方に偏ってしまった。
http://www.musubu.jp/manoirie.htm


これは自分が前に書いたが産鉄族にかかわる伝説でありその後の親鸞とかの伝説ではない、別なものに変化して全国に残っている。ここも産鉄族が深くかかわったから伝説が残っている。これは全国くまなく残っているのだ。


●葦に関する詩


枯れみだれた葦(あし)の穂波
ごうごうと鳴りひびく一眸(いちぼう)の原。
セメント 鉄鋼 電気 マグネシユウムら
寂莫(せきばく)として地平にゐならび
蒼(そう)天下 終日人影(じんえい)なし。
(小野十三郎)



葦笛と風の恋

悩みも苦しみも 呑みこんで 笛は輝く
その内に風はみなぎる
風はやどす 土の声を
消え去りゆく とおいひかりを


葦笛と風は 深い谷さまよい
葦笛と風の 目覚めを月みつめ
その甘い調べ 花とともにひらく 花とともにひらく
http://sironekoq.exblog.jp/992968/


これはオリジナルではない、翻訳したとあるがやはり著作権がある。引用するのはまずいかもしれない、つまりどこまでオリジナルなのかわかりにくい、オリジナルなものを出さないと本当は発表できないだろう。インタ-ネットは自分のも勝手に引用されている場合がある、引用は創作的範囲で可能であり創作がなければ引用はできない、ただ引用だけしているのは著作権違反なのである。

葦笛の詩については古来多い。それだけ葦自体がなじみ深いものだったからである。


風はやどす 土の声を
消え去りゆく とおいひかりを


これは飯館村を象徴するような詩になっていた。消え去りゆく遠い光を・・・消え去りゆく村人のことを言っている感じもする。「風がやどす、土の声を」飯館村には人が住んでいないから風と土の声だけが残された。その土の声は放射能の声だったというのも不思議である。
葦笛と月はあっている。深い谷をさまよいというのも飯館村の山間のことであり深谷という地名もある。飯館村が葦繁る原初の状態にもどってしまったのである。もともと自然が豊だから余計にそうなったのである。一方で小野十三郎の詩は大阪の詩でありそこも葦原だったのだがそこはまさしくセメント 鉄鋼 電気 マグネシユウム・・・の工業地帯になった。飯館村とかこの辺はもともと自然が豊だから津浪の跡でも葦繁る自然にもどったのである。そのことを写真を出して何回も書いてきた。思うに飯館村とか津浪の跡は物語化゛伝説化した地帯になるのかもしれない、元の自然に還り人間のことが伝説的に語られることになる。


"Selected Poems of Rumi" Jalal al-Din Rumi, Maulana : R.A.Nicholson
index > 『ルーミー詩撰』

『ルーミー詩撰』 メヴラーナ・ジェラールッディーン・ルーミー


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「葦笛の歌」1


葦笛を聴け、それが奏でる物語を、
別離を悲しむその音色を。

葦笛は語る、

慣れ親しんだ葦の茂みより刈り取られてのち、
私の悲嘆の調べには、男も女も涙する。

別離の悲しみに私の胸は引き裂かれ、
愛を求めて、痛みは隠しようもなくこぼれ落ちる。

誰であれ遠く切り離された者は切実に願う、
かつてひとつであった頃に戻りたいと。

どこにいようとも私は嘆き悲しみの調べを奏でる、
不幸を背負う者たちの、私は友となり慰める。2

それぞれの思いを胸に、誰もが私の友となるが、
私が胸に秘める思いにまでは、思いいたる者などいない。

私の音色は私の嘆き、胸に秘めるこの思い、
だが耳も眼も塞がれた者に、光が届くはずもない。

魂は肉体の覆いなどでは断じてない、
また肉体も、魂の錘などでは断じてないのだが。

それでも、未だ誰ひとりとしていないのだ、
魂をかいま見ることを許された者など。

葦笛の調べは燃え盛る炎、それはそよ風などではない。
この炎を胸に持たぬ者など、一体何ほどの者であろうか!

これこそは愛の炎、これこそが葦笛の愛。
これこそは愛の熱、それは葡萄酒にも見出せよう。

誰であれ別離を嘆く者の、葦笛は無二の友となる、
葦笛に課された嘆きの深さが、我らの心の眼を開く。

葦笛を聴け、それが奏でる物語を、
別離を悲しむその音色を。

別離の悲しみに私の胸は引き裂かれ、
愛を求めて、痛みは隠しようもなくこぼれ落ちる。

誰であれ遠く切り離された者は切実に願う、
かつてひとつであった頃に戻りたいと。
http://www.levha.net/rumi/selected_04.html


飯館村の人の気持ちはこうなっている。原発避難民の気持ちがこうなっているのも不思議である。故郷からの別離、家族との別離に引き裂かれている。故郷は葦がぼうぼうと繁る場所になってしまったのである。ただそれが大阪のような都会的なものとは違う、自然がもどったのだから月などとマッチして美は残っているから伝説的になるのである。


「放射能」や「原子力発電」や「人間と自然」などの「この事件」で発見した凄いことを展示して研究する場所にしてもいい。「飯館村」は世界的に有名になった、それをシンボルとして残すことを考えよう
http://www.k-system.net/mandala/?p=137


飯館村はどうなるのか、今でも老人が一部野菜を栽培してそれ子供にやったら子供はそれを棄てたという、飯館村は警戒区域になっていないからいい、他は警戒区域で立入禁止になっているから入れないのだ。放射能汚染は自然の美は破壊されていない不思議である。都会化は大阪のようにズタズタに自然を破壊した。すると大阪のような大都市より自然の美が残っているからましではないかともなる。ただ避難民化した人たちはそんなことは言っていられないだろう。かけがいのない故郷を失ったのだから・・


●自作の詩


葦に埋もれた村

葦が生い茂り
田畑は消えぬ
葦が風にさやぎなり
月の光に灯は消えぬ
原初の日にここはもどる
人の声は聞こえず
牛の声も聞こえず
石は再び深い眠りにつく
誰か見えぬ詩人(うたびと)のここに残り
葦笛の楽を奏するや
その音のもの哀しくも切なく
今はただ森に山にひびくのみかも
人家の灯は消えて
蛍袋がその灯なのか赤々と咲く
かつてここに我は棲みしと語るもあわれ
ただ葦原は風にそよぎぬ
いづこへと人は去りしや
村は葦に埋もれ人は帰らじや
詩人の一人残り葦笛を奏するのみかも


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飯館村は本当に不思議としかいいようがない、津浪の被害にあった地域もそうである。まるでポンペイの跡のようになった。だから伝説的な場所となってしまったのである。ただ大都会と違うのはもともと自然豊だから自然がもどり自然に埋もれるという浄化の作用があった。放射能汚染したのが水や土を汚しても外観なんら変わりない、美が同じ様に残っている不思議があるのだ。都会には美が消失してヘドロとか工場地帯の煤煙とか自然の美はない、自然に埋もれるということはない、石油タンクとか美観をそこねるものが延々と残っている。だから大災害がきてもそのあとはやはり無惨な人工の跡が残る。田舎のように自然に埋もれるということはないのである。




インタ-ネットは編集して読むものである。これだけ葦というキ-ワ-ドから書けたのは収穫だった。
知の世界はやはり興味があったときどれだけ深く広く知識を深めることかできるかが問題になるのだ。もし世界の知識が公開されてこのうよに編集できればいながらにしてアレキサンドリアの図書館を有すると同じになるのである。
posted by 老鶯 at 13:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2012年07月11日

飯館村の部をカテゴリ-にまとめる


飯館村の部をカテゴリ-にまとめる

飯館村の部をここにまとめました、今はここでまとめて読んでください
あとでこちらにも追加します
http://musubu.sblo.jp/category/1556933-1.html

posted by 老鶯 at 14:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

人が消えた飯館村の夏 (写真と俳句、短歌)


人が消えた飯館村の夏

(写真と俳句、短歌)

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葦が繁り草ぼうぼうとなった田んぼ

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緑濃く磐の反るや朝の鳥
三十ほど睡蓮紅し松一本
石一つ木蔭に涼し森の奥
夏の蝶旅ゆく道に死ににけり
飯館に古りし碑一つ菖蒲かな
人消えてヨシキリふえぬ飯館村

鳥の声万緑に木霊し日は暮れぬ

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この辺までクリック拡大!

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蝶が死んでいた

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朝日さし藪甘草のここに咲き我が喜びてまた来たるかな

飯館に蛍袋のまだ赤く色づかぬかもまた我が来たらむ
街に出て夏菊の家に明るしも人住まぬ村淋しかりけり
夏菊の咲きつづくや燕のみ飛び交い行き交う車かな
飯館に葦の茂りてヨシキリの住みつき人の住まずなりにき
ヨシキリの声のみ高くひびきけり人住まぬ村陽差しの強し
道の辺の一本の木影なして村人帰る待ちにけるかな
家に入る道を装う夏の花華やかなりしも人は帰らじ
この道に我がもの顔に歩けるは猿の群れかな人は消えにき
人も来ぬ池に咲きにし睡蓮を松見守りて夕暮れにけり
夏草を踏みしたずぬは我のみや木蔭の深く石は動かじ
大きなる鳥の隠れる夏の森茂みの深く人住まぬ村

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牛の背の石である、この石は飯館村の象徴的石になった
本当に牛の背とにているのだ。

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これは子牛の石である

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これは亀石となるのか?面白い形である。

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あいの沢にはひっそりと睡蓮のみが咲いていた


クリック拡大!



飯館村に大倉から行った。草茫々となり葦が茂りヨシキリの声だけが高くひびいていた風景も不思議である。何か自然にもどったというより荒れ果てたという感じがする。草茫々の中に空家がある。
ただ飯館村で救われているのはまだ幹線道路は通じているしひっきりなしに車が通っている。ガスリンスタンドだけが営業していた。自由に出入りできるから死んだ村とも違う。浪江とかは警戒区域で入れないから死んだ町、ゴ-ストタウンになってしまった。人が入れれば違う。人が一人でも入れれば死んだものとはならないのかもしれない、あいの沢も草ぼうぼうになっていて道は苔で青くなっていた。そこには睡蓮がひっそりと咲いていた。大きな石がある所にはやはり石はどっしりと動かない。あの石は牛に見えた。牛の背中に見えた。いい石たとつくづく思った。牛の村だったけど今や残ったのは牛の石である。牛の名前を書いて十ほど仮設で偲んでいた人がいた。


飯館村はあいの沢でも7から8マイクロシ-ベルありなかなか帰れる算段がつかないだろう。やはり高すぎるのだ。老人は帰れるというけど姥捨山になると老人が言っていたことがわかる。店もない、もともと病院もないような所でどうして住めるのかと思う。食料くらいは運んでくれるかもしれないがていのいい姥捨山になることは確かである。でも帰れないとなるとこれからどうするのだろうとか心は毎日揺れているだろう。そしてだんだんもう帰れないのか、では他でなんとか生活をしていこうという決断する人が増えてくるだろう。他で牧場を浪江の人と組んではじめた人がそうだった。いつまでも中途半端な状態ではいられないと決断したのである。


いづれにしろ人の住まない村の風景は何なのだろうと思う。飯館村の町のところにでると夏菊が光を受けて明るく咲いていた。しかし人は住んでいないのである。人が住んでいてこそ花も映える。自然のままでも映えるがもともと人が住んでいて映えるものがある。家までの道に何か花のようなものが咲いていた。しかし人が住まなければその花も死んでしまう。一本の樹でもそれは人間化した樹であり村人が帰るのを待っている樹なのである。ただもともと森が深いからその森がさらに深くなり大きな鳥がその森に隠れてしまった。それは自然にもどったという感じになる。全体が自然にもどればそうなる。猿も道にでてきたけど人が近づいても恐れない、人があまり来ないから恐れなくなっているのだ。


川俣まで行こうきしたが行けなかった。日ざしが強かった。体力もなくなっているし電動自転車の電池もきれるから行けなかった。途中月館に行く別れ道に文化の古い碑があった。飯館村ではなかなか江戸時代の墓とか見つからなかった。ここに江戸時代のものがあったなと注目した。飯館村は江戸時代から相馬藩の山中郷としてあったから古いのである。ただ墓に江戸時代のものがみつからなかったのはやはり新しい人の方が多いともいえるのかもしれない、それにしても草ぼうぼうとなり葦が茂りヨシキリの鳴く声が高くひびいている光景は不思議である。あのような状態がいつまでもつづき人は帰ってこないのだろうか?飯館村は放射線量からするとかなり深刻である。栃窪に出ると人が住んでいるけど田畑は草茫々だから同じである。相馬市に出ると田畑も普通であり何ら変わりない、津浪の被害地帯は同じである。いづれにしろいつまでも仮設にいるわけにはいかない、これからどうするのかそれぞれが決断が迫られる。住み続けるのか他に住む場所を求めるのか迫られる。この辺だって小高の人が仕事もなく居すわることはできない、小高に帰る他ないとなる。一部原町鹿島に家を建てて住むようになった。でも大方は帰る他ないのだろう。

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俳句というと写生で追記をしてきたが「三十ほど睡蓮紅し松一本」というのは写生そのものだった。30くらい紅い睡蓮が咲いていてあそこの幹線道路は車がまだ行き来している。まだ死んだ村ではないのだ。道がだけは生きているのである。あいの沢は人は全くこない、たずねたのは自分だけだったのも不思議だった。蛍袋はまだ色づいていない、蛍袋が色づくときは梅雨の時期なのでなかなか見れない、人の住まない村に灯火のように蛍袋が色づき咲くというのも不思議である。


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除染しているのは大成建設だった

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キクチス-パ-に止まっていた車
香川県からも来ている。
福島の原発の作業には九州からかなり来ていて磐城の歓楽街がにぎわっているとか
まだこの辺もそうした人たちが来ている。


飯館の村の部をカテゴリ-にまとめた
http://musubu.sblo.jp/category/1556933-1.html

posted by 老鶯 at 14:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村