2018年01月12日
昨日の痴漢冤罪のテレビドラマの批評 (今の社会で怖いのは警察と病院)
2017年12月27日
死亡した都築詠一氏の評論を芭蕉の俳句から検討 (時代性社会性の理解なしで芸術は理解できないことについて)
都築詠一氏の全文を参考
2017年11月10日
なぜ心の青雲の都築詠一氏は昭和天皇を批判したのか? (明治維新にその根があり光厳天皇を賛美することになった)
2017年10月09日
「青雲の心」の詩-高みへ 都築詠一を思いて・・・
2017年09月28日
龍安寺石庭,鎌倉五山を語る (心に青雲の都築氏の見方から詩を作る)
常照寺を訪ねた「心に青雲」の都築詠一氏 (常照寺(光厳天皇),鞍馬山(義経),大原の幽居)
2017年09月27日
「心に青雲」都築詠一氏の人となりをふりかえる (自分とにたものがあり世代も同じだった)
2017年09月26日
「心に青雲」の都築詠一氏が誉めていた光厳天皇の跡をたどる
人間は死ぬと美化されやすいのはなぜか? (都築詠一氏が死んで語るもの)
2017年09月24日
心の青雲」の陰謀論はうけいれがたかった (でも都築詠一氏は日本の英霊となった?)
2017年09月22日
心の青雲の都築詠一氏の映画批評は面白かった (敬愛するベートベンを見て)
2017年09月21日
「心に青雲」の都築詠一氏の早期英語教育の弊害について
2017年09月20日
「心に青雲」の都築詠一氏の死亡で生じた著作権の問題 (確立していないインターネットのルール)
「心に青雲」の都築詠一の遺したもの (その死は何を語っているのか?)
2017年09月19日
看護のための「命の歴史」の物語を読む (都築氏の相互浸透などの思想の基となった本)
2017年09月17日
死から偲ぶ俳句と短歌 (心に青雲の都築詠一氏を偲びて・・・)
2017年09月16日
病気とブログと私 (心に青雲の都築氏の病気との戦いそして死)
2017年09月12日
都築詠一氏の芸術論などの再検討 (習うから技を創りだす・・・)
2017年09月07日
死後にひびく言葉 (「心の青雲ー都築詠一氏へ献げる詩)
2017年09月06日
談論サロン天寿道(掲示板より) (立ち歩くことによって人間になったー「心の青雲」の認識論)
「心の青雲」都築氏死亡の波紋 (インターネット利用はどうすべきなのか)
2017年09月05日
「心に青雲」の都築氏のプログの記事はログは残っていました
「心に青雲」の都築詠一氏の文体 (歩くことの効用から抜粋)
2017年09月02日
「心に青雲」都築氏の死亡で考えたこと (実績で決まる死後の評価)
2017年08月30日
「心の青雲」都築氏の死亡について (大成せずに死んだ無念が残る?)
2017年02月01日
心に青雲の著者の心情-戦争とは何であったのか? (レールモントフの詩より考察)
2017年01月18日
「心に青雲」の日本語と英語の解釈について (文化の基に言葉がある)
2015年10月30日
「心の青雲」の著者が求めるものは何なのか (鞍馬山に上り義経と一体化する)
2015年06月18日
「心に青雲」では自然循環論を言っても東京の暮らしは全く反している (文明人はみな自然と相反して生活している)
「心に青雲」では自然循環論を言っても東京の暮らしは全く反している
そういう時期に森に入ると、すごい腐臭がただよっている。
森中に白いコメがまいてあるようになっているが、それは腐ったシャケの死骸にウジがうごめいているのだ。
熊がいて鮭が登ってくる川がある森はとても元気だそうだ。
鮭が海の栄養素を運んで来て、その死骸は山に還元されていくからだ。
http://kokoroniseiun.seesaa.net/
C・W・ニコル氏のことを「心の青雲」でとりあげている。これは自然には無駄なものは何もないということを無駄にしないということを具体的な例でとりあげたからわかりやすい森と川と海は別々なものではなく一つの生命体として連続して連環してあるというのはわかる。
でもそこで問題になるのは文明人の矛盾しているのは自分もそうだが東京という大都会で暮らしているとその生活がそうした自然の連環的な生命のリサイクルの中にあるのとは全く違ったものとして生活している。
東京でそういう森も川も海もないのである。だからそういうところでそうした自然を認識するのかとなる。
東京だと最も自然とかけはなれた生活をしているのである。
そういうことに感心するのはわかるけど現実の生活は全く正反対の生活をしている。
田舎だと山を神としたのは山から田んぼに水が流れて稲を実らすからである。
それで春になると山から神がおりてくるというのは水が流れて田んぼをうるおし稲を実らすからそうなる
そして死ぬと山に還るというのはそうした稲作と深く関係した生命の循環的思想はその生活から生まれたのである。
田舎では田んぼがあるから農民でなくても何かそういうものを意識する。
ところが東京のような大都会になるとそもそも田んぼもないのだから意識しようがないのである。
でも江戸時代では江戸の回りは自然豊かであり農民が住んでいて糞尿を農民が肥料にするために取りにきていたのである。
農業は肥料がともかく一番大事だからそうなった。
つまり江戸だったら都会で生命の循環的生活をしていたからそれは具体的なものとして
実感としてわかる。
でも今の東京でそうした自然のことは理屈としてわかっても実感としてはわからない
遠くの世界として感心しているだけであり現実の生活は正反対なのである。
毎日膨大なゴミが捨てられているしそれが家事では一仕事なのである。
それは東京でなくてもどこでも同じである。
文明人としてみんな生きているのでありそのシステムの中で生きている。
人間はつくづく自分もそうだが言っていることとしていることが必ず矛盾してくる
「心の青雲」の著者は東京に住んでいる。すると東京電力の電気を利用しているしそれを供給した場所がフクシマでありそのためにフクシマは住めなくなるまでになった。
循環的生命論を言うなら東京はそれと全く反した所に生きている。
東京を維持するには膨大な電気が必要である。文明を維持するにも必要である。
そのために石油が必要になり原子力が必要になる。
もちろん田舎でもそうした文明の中に生活しているのだから電気は必要である。
ただ東京にはどれだけの電気が必要なのか?
それだけのエネルギーを消費することはすでに循環的生命の世界とは正反対の社会なのである。
そして放射能はたいしたことはないと最初から言っていた。
それはわからないにしてもそれも無責任だろう。
東京に電気を供給するためにフクシマで事故が起きた、そして放射能はたいしたことがない、普通に生活すればいいとか言うのは無責任になる。
だから何かそうした自然循環論の生命論を説いても矛盾している
それは自分にもあるし何か矛盾していることは必ずある。
自分も資本主義を批判しても資本主義でもうけているから得しているから資本主義が実際はいいとなる方なのである。
だから人間は口で言うのと理論とは必ず矛盾してくる
要するに東京のような所に住んでいる人は自然とは切り離されているからもともと自然とは関係ないのである。
でもフクシマでは田畑があり海があり漁業があり林業がありと自然と関係しているから放射能汚染で致命的打撃を受けたのである。
東京の人もまたフクシマの事故には関係していたし現に東京の水源も汚染されたとかあるそして東京は東京で都会は都会で田舎は田舎で地方は地方で暮らせとかはならない、
フクシマなら東京から離れているから汚染しても東京までは及ばないという感覚でフクシマに原発を作ったことがそもそも疑問だった。
東京の電力は東京で作ればいい、原発も東京に作ればいいというのも正論だったのであるそうすればかえって今回のような津波のような事故にはならなかったのである。
もちろんフクシマにはフクシマの問題がありそれはこれまでも書いてきた。
それより原発は広範囲に影響するから日本全体の問題でもあった。
いづれにしろ生命循環論を語るなら東京に住んでいて語っても説得力がないことは確かである。
体内に「生命の歴史の水」を保持するということである
人間の特徴は歴史的存在であり日本人は人種のことではなく日本の歴史の中で作られたのである。
歴史というのは例えば原発事故で三野混沌の極貧の生活を見直されたように常に歴史をふりかえり対比して現代を見るのである。
自然にも歴史があり津波にも歴史をみればこの辺でも大きな津波に襲われて四〇〇年前に七〇〇人溺死の記録があった。
そういうことが全く忘れられていたから歴史をふりかえることが忘れていたからこれだけの被害があったともなる
人間は一時代を一世代を生きただけではわからない、長い歴史を連続したものとして人間をみるとき人間がどういうものか理解する。
動物は歴史をもたないから進歩も発展もないとなる、いつも同じなのである。
歴史は必ずそれが教訓でありその教訓からいかに学ぶかが人間なのである。
だから最近七年間いろいろと苦労して諺というのがいかに今でも通用しているかわかったそれは庶民が伝えたにしろ人間とは今も昔も変わらないものがあるから通用している。
「遠くの親戚より近くの他人」というときその遠くは隣の村でも車もないのだから遠かった。
これは別に交通が便利になっても変わらなかった。
遠くの親戚というより東京でも何か大地震などが起きた時、即座に助けられるのはやはり近くであり遠くではできないし外国が助けるとは限らない、つまり東京でも何かそうした大災害にあわないと田舎などどうでもいいとかなる。
でも今回の東北の災害でわかったように想定外のことが必ず起きるということである。
だから災害の観点から社会を見直すことも必要になったのである。
ただ科学にも詳しいとなるとそこで浸透というのは化学反応のようにイメージしているのだろう。「朱に交われば赤くなる」というのは化学反応でもあるからだ。
2014年10月22日
心に青雲のユダヤ、キリスト教批判の疑問 (宗教団体自体がユダヤと同じではないか?)
心に青雲のユダヤ、キリスト教批判の疑問
(宗教団体自体がユダヤと同じではないか?)
バウハウストの創設した秘密結社イルミナティは、18世紀のことではあるが、それ以前にもユダヤは黒い貴族だとか悪魔主義だとかの秘密結社活動を行なってきた。それらがユダヤ教やキリスト教をつくりだしたものと思う。
http://kokoroniseiun.seesaa.net/(黒死病の闇)
プログの主催者の言っていることは共感することが多い。ただそれがすべてユダヤやキリスト教批判になり悪の根源はユダヤとなっている。
確かにアメリカを動かしているのはユダヤだとかなり今の資本主義はユダヤ人が作り出したのだという説もいろいろ調べればそういうことはありうる。
ユダヤ人とは何かとなれば純粋の旧約聖書のユダヤ人ではないだろう。
ローマ帝国に敗れて離散してからはその末裔だとかではない、ユダヤ教を信仰する一団だとなる。
最近読んだ本で「一万年の進化爆発」で今の金融を担うユダヤ人はアシュケナージユダヤ人だという。これはドイツのユダヤ人という意味である。ドイツから東欧やロシアに移り住んだ人たちである。
その人たちはホワイトカラーになった。
14世紀の中頃、賃金や給料や報酬によって生計をたてたのは約15パーセントであり残りは独立した事業者であり彼らはポーランド、リトアニア共和国の管理階級だった。
読み書き能力に加え専門職であるにはビジネスマンと同じく複雑な取引の技能を必要とした。
アメリカに移住した人たちもそうである。その人たちはそういう頭脳労働集団を形成していった結果、ノーベル賞をとる科学者を輩出してきたという、その原因が歴史的にたずさわった頭脳労働集団として形成された結果そうなったという分析も興味深い。
農業とか職人集団だったらそうはならなかったのかとなる。
アシューケナーユダヤ人のように一つの歴史的文化的集団が形成されてそれが受け継がれてノーヘル賞級の科学者も生まれたのかともなる。なぜなら同じユダヤ人でもイスラム系は全くそうはならなかったからである。
イスラム教も一神教だからアブラハムから別れて生まれた宗教だからユダヤ教の基の旧約聖書から生まれたのである。だから同系統の宗教である。結局イスラム系でも分派したように宗教は分派してまた争うことになった。カトリックとプロテスタントでもそうである。仏教でもそうである。ともかく宗教は集団化したとき負として作用したことが大きくなりすぎたのである。それはキリスト教だけではない、仏教だってそうであり結局政治化して世俗化して権力とかかわることで問題が起きてきた。だから政教分離の法律がヨーロッパから生まれたのは必然だったのである。
日本の神道だって神社本庁が戦前の天皇制の復帰を唱えている。それも天皇教は宗教でありカルトでありそのために300万人も死んだともなる。そうした恐るべき災いが宗教から生まれたとなるから政教分離が生まれたのである。
宗教の悪しき利用は国を滅ぼすと日蓮が言っていたけどまさに今も創価をはじめカルト宗教は国を滅ぼすものであることは変わりないのである。
内村鑑三は明治にキリスト教が解禁されたとき日本はヨーロッパのキリスト教文明を根幹にすえないと日本は崩壊すると言っていた。つまり西欧文明を明治にどう解釈したのか?
日本では便利なものとして科学技術として取り入れた。キリスト教は取り入れなかった。西欧文明の基がキリスト教であるということを否定したのである。西欧文明を取り入れるにしてキリスト教を取り入れなかったら成り立たないと言っていた。
それはなせイスラムであれだけ宗教にこだわっているのかともにている。イスラム教がなければ国も成り立たないからあれだけ主張している。
ただキリスト教でもカトリックやプロテスタントがあるように一つではないのである。
内村鑑三は武士道的キリスト教を唱えたり手島郁朗氏は神道的キリスト教を唱えたのもわかりにくいのである。
ユダヤ人が世界を支配している、金融で支配しているというのは資本主義を牛耳っているというのはやはり金融業に従事する人が多いからだろう。マスコミ関係もそうである。
何か現代の中枢にかかわるからそういわれるのだろう。
それは創価でも裏で金で支配しているというのとにている。実際ほとんどの地方新聞が聖教新聞をすっているからユダヤの支配とされるのとにているのである。
でも創価だって結局自民党に使われているということもありとても世界を支配てきるような力をもつことはありえないのである。
宗教が一つの政治的集団と化したとき世俗化したのでありそれは何の宗教でも間違いの元ととなる。イスラム教でもそうである。政治は権力を行使できる。宗教がカトリックのように政治化したとき堕落した。宗教が権力をもてば権力として工作して日本も支配するようになる。それはカルト宗教団体はそこに莫大な金を集まることでその金を利用して国を支配できるとなるからである。
そういうことが目に見えているから宗教が嫌悪され危険視されるのは当然なのである。
だから内村鑑三が無教会を唱えたのはそううい集団宗教を拒否したからである。
どんな宗教にしてももともと人を殺すことは否定している。そしたら戦争などできないはずである。でも宗教の名のもとに神の名のもとに戦争でも人を殺してきたのだからそれは宗教のせいではない、人間のせいなのである。神もそんなことを命じてはいない、だから宗教が悪いのではなく人間が争いの元を作り出している。その原因はあくなきこの世に対する欲望だったり不満だったりであり宗教そのものがそうしているのではない、悪人が宗教に触れると最悪になるともいわれる。
なぜなら自分の欲望を達成するためであり怨念であり不満であり神や仏の名によって断罪して殺すこともできるからである。
正義の名のもとに膨大な人間が戦争で死んだのと同じである。
だから人間の悪意から発したものでも神の名のもとにカトリックでも死刑にしてきた歴史がある。カルト宗教はほとんどそうなのである。
「あいつは地獄に落ちる」とか絶えず言っているけどその本人がどんな人間が見ればわかる。それは普通の俗人となんらかわりない、どろどろした欲望の持ち主でありその本人が地獄に落ちるような人柄なのである。ただ宗教はそうして恐怖を与えるだけだとなるから拒絶反応だけがでるようになる。悪人が宗教をもつとき最悪になるというのはそのことである。サタンが宗教を巧みに利用するというのもそのことである。
カルト宗教団体もこの世からなくならないのは必ず不満分子がいてそれに頼る人がいるからである。それを利用して政治化して権力を左右しようとする野心家が常にいるからそうなる。またそこには大衆の大きな無知も作用しているからなくならないのである。
2014年01月24日
像ではなく言葉で考えていてはまともな文書(詩)が書けない (万葉集の時代は自然と一体化していた言葉-「心に青雲」の解読)
像ではなく言葉で考えていてはまともな文書(詩)が書けない
(万葉集の時代は自然と一体化していた言葉-「心に青雲」の解読)
像ではなく、言葉で考えるのはダメである。言葉(文字)で考えて、それを言語として表出しているとまともな文章は書けないということだ。
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中華人民共和国と呼称するあの国は、「人民」と「共和」は日本語である。
「人民」は、明治期にpeople の訳語として使用されるようになったが、古くは8世紀ごろに日本で使われていたとされる。
「共和」は周の時代(紀元前1046〜256)の暴政を敷いた脂、(れいおう)の故事からくる。
脂、は財産を独占して周囲に分け与えることをせず、大乱が起きた。王が王宮を逃げ出したため、やむなく2人の臣が政を預かって国を立て直した。そのときの元号が「共和」だったので、それにちなんでrepublicの訳語として引っ張って来たのだ。
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万葉集は全部もともとは大和言葉である。その大和言葉を漢字にあてて残した。その時日本には文字がなかったのである。でも言葉はあったのである。原始的な民族でも言葉のないものはない、人間である限り言葉はある。話し言葉が書く言葉の前にあった。
だから日本人の源流を探る時大和言葉のもっている意味を探ることがわかりやすいとなり本居宣長が大和言葉と唐言葉を分けたのである。
その時日本人は相当に混乱した。それは実際は今でもその混乱をひきづっている。
漢字のもっている意味をなかなか理解しにくいし中国で発明されたものでも日本人の使っている漢字の意味は全然違ったものとなっているのだ。ただ「心の青雲」のプログの作者が述べているように「人民」「共和」がすでに奈良時代辺りから使われているとするとそんなに古いものかと思った。
「人民」「共和」は普通は明治以後に生れた造語された言葉だと思うのが普通だからである。そもそも人民という感覚は江戸時代にはないはずである。ただ民(たみ)という日本語はあったのである。
やまがたに 蒔ける青菜も 吉備人と 共にし摘めば 楽しくもあるか 仁徳天皇
高き屋にのぼりて見れば煙けぶり立つ民のかまどはにぎはひにけり(新古707)
西暦五世紀初め頃の大王。応神天皇の子とありあの仁徳天皇のあの巨大な前方後円墳の主なのかと驚く。この時すでに吉備がでてくるのだから吉備も古いのである。
仁徳天皇の古墳の大きさは近くに行ってみてもわからない、空から見ないとわからないのだ。前方後円墳という形もわからない、特に回りに人家が密集しているからあそこにあれだけの大きな古墳があることが当時の様子がわからなくなくしている。
みちのくの正式な歴史は奈良時代からすると近畿はそれよりさらに古いからその古さから歴史を実感できないから東北では日本の歴史を実感できないということがある。
東北は常に辺境にあったからである。
こういう歌はそもそも中国にはありえないだろう。中国は民とは目をつぶすという象形文字の意味だという、民は見えないようにて奴隷のように従わせるという意味だろう。
これは日本でも見ざる聞かざる言わざるということが人民に強いられていた江戸時代にはそういうことがあったから中国だけではないともいえる。ただすでに「人民」「共和」という観念が生れていたのか?
それは日本という国がそもそもそうした「人民」とか「共和」という観念を持ち得たからなのか?そんな古い時代からそういう観念を持ち得たのか、ただこの言葉は日本人が新たに作り出した漢字だとすると日本の社会にその言葉を受け入れる素地があったともなる。中国ではそういう素地は全くないからだ。つまり天皇とは中国の帝王とは違うものだった。でも仁徳天皇の古墳を見ればどれだけ巨大な権力の持ち主かと思うのが普通である。
古墳というのが何になのか?権力の象徴なのかというとこれまたわからないのである。
東北などでは南相馬市の原町区の桜井古墳も大きいが誰のものかなど全くわからないのである。
ともかく言葉は「像ではなく、言葉で考えるのはダメである。」というときこれは本当である。そのことで前にもいろいろ書いてきた。石と岩の詩を自分が書いた時、それは故郷にある具体的な現実に存在する石と岩なのである。その石と岩にも個性があり名前をつけたのである。the stone the rock なのである。
万葉集時代の感覚はみな具体的な回りの自然を基にして言葉でも歌でも作られている。
だからある言葉は密接に回りにある具体的な自然のものと結びついていたのである。
恋愛の歌でも現代のとは違っている。像としての自然感覚が具体的な像として体に身についていたのである。
奥山の岩本菅を根深めて結びしこころ忘れかねつも 笠女郎
まず現代ではこんな感覚になる恋愛歌などありえないのだ。だから当時の女性もまた現代の女性とは感覚的に違っていた。自然の原始性が身についていたとなる。
自分は石とか岩をテーマにしているからこの歌の意味が良くわかるし詩にもしてきた。
現実に奥山の岩を写真にして紹介してきたように田舎ではそういう場所がどこでもまだあるのだ。
万葉人は自然⇒人事社会であり現代人は人事、社会⇒自然を歌う傾向がある。自然の具体的な像をもっていないのである。また東京のような所に住んでいればもちえようがないのである。そもそも自然から離れて芸術はありえないのだ。だから現代芸術でも思想でも歪んだものとなる。宗教でもカルトになるのは自然から離れた都会で生れたものだからである。そこには自然から岩とか山とかから発想される自然が欠けているのだ。
科学時代になったときますます自然から離れたものとなり自然を心としない自然から遊離したものとなっていった。
ものとは心でもあるからものと心は遊離したものではなく一体のものだった。ものとは自然のことでもあった。神道とは明治以降の祭り上げられた天皇とは違った自然と一体化する日本人の心にあった。
いづれにしろ東京のような大都会ではそもそもが像として結び得る自然がない、だから言葉が言葉にならない、言葉はただ商業のために工業のように数字のようになっているのである。だからロゴスも破壊され無秩序になりカオスになっている。毎日高層ビルを見上げていれば高層ビルが実際の具体的なものでありその他にはないのである。
富士山にしても浮世絵では確かに見えていた。でも高層ビルの都会になるともう何かぽつんとしか見えない、江戸でも富士山はだから日常的に像として結びついていた。
今は高層ビルがとおっていて見えないのである。
2013年05月12日
「心に青雲」で紹介された『トゥルーマン・ショー』を見る (権力、マスコミによって操作されている人間-原発も同じだった)
「心に青雲」で紹介された『トゥルーマン・ショー』を見る
(権力、マスコミによって操作されている人間-原発も同じだった)
なぜ見る気になったかというと、911事件の映像がことごとくCGでつくられたもので、現実には貿易センタービルに飛行機は激突していなかったことを知ったからである。
以前にも書いたが、私は2001年9月11日の深夜にテレビの中継(?)を見ながら、これはアメリカの自作自演だと見抜いた。だがそのとき流されていた飛行機がビルに激突する映像までが、あらかじめ用意されていたCG作品だったとは気がつかなかった。
つまりわれわれが現場で起きていると思っていたものが、実は作り物だったのである。それで、昔観た映画『トゥルーマン・ショー』を思い出
した次第である。これはまさに『トゥルーマン・ショー』の世界ではないか、と。
私たちの世界は、もしかしてトゥルーマンのように巨大な書き割りセットの中にいて、ユダヤ金融マフィアあたりから与えられた生活を送っているのであり、それを〈彼ら〉が面白そうにどこかで眺めているかのような気がしてくる。
ボストンマラソンの爆発事件にしても、徐々にわかってきたのはニュースに出ていた負傷者たちの多くが偽物であったことだった。
http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/359849294.html
ここで無料で見られる
http://freemovielib.blog47.fc2.com/blog-entry-436.html
インタ-ネットでは絶えず本でも過去の映画もDVDで紹介される。こんな映画あったのと面白そうだなとアマゾンで結構買った。でも映画は中味が見れないので面白いものが少なかった。本ではだいたい検討がつくが映画は検討がつかない。でも映画の種類もこんなに多いのかと驚く。
この映画は現代の文明の問題を鋭く映像化したので高く評価できる。
この映画は一人の人間が生まれてから成長して死ぬまでも監視カメラで追われ続けスタ-にされていた。そのすべてがセットであり俳優だった。妻もその仕組みの中に入ってだましていた。妻も映画として見せるために与えられた俳優だったし友人もそうだった。すべてが回りの家も風景も映画のセットだったのである。そのセットを操るのが一番トップにたつ監督であった。その命令は絶対だったのである。だから3.11のニュ-ヨ-クに飛行機が突入したのも実はCGだったとかにもなる。明かにボストンマラソンはFBIによって仕組まれたものらしい。それはプログで分析しているからわかりやすい。
ニュ-スの映像でもそれが作られていることがあるのだ。テレビ局のやらせが問題になった。
マスコミはトル-マンショ-のようにスタ-を作り上げる。マスコミに出る人はマスコミの報道する側で操作されて作られるのである。マスコミで有名になる人もそうである。誰もかってにテレビに出ることはできないのである。たいがいは芸能プロダクションに所属している人だという。それは事前に決められた人である。
これを見ればテレビからは我々はもはや真実が何なのかわからなくなるだろう。NHKで報道されることだってすべてが報道されるわけではない、必ずタブ-がありそのことは報道されない、NHKも大衆を国民を操作するメデアなのである。トル-マンショ-のようにすべてが操作されているのをみている。情報は権力をもつものによって操作されているのだ。巨大な権力というとき背後にいろいろある。カルト宗教団体もそうである。オウムだってオウム王国をめざして権力奪取をめざしていた。日本国をのっとろうとしていた。その一つの武器としてサリン製造があった。創価なども創価王国建設のために権力を我が物にしようと地方新聞社に聖教新聞をすらせている。莫大な財力があるからできることである。幸福の科学でも政治に進出したから同じである。だから創価では維新は幸福の科学が入り込んでいると対抗意識をもつ。自分たちの権力が脅かされているからだ。どっちにしろ権力を目指していることでは同じである。創価ではだから教員とか公務員とか司法関係とか権力をもつものに入り込ませる。創価大学はそういう日本の権力中枢を掌握されために作られたのである。東大が法学部で司法を支配するのとにている。
別にこういうことは創価だけではない、権力をもつものに情報は操作されているのだ。マスコミはその巨大な権力にとりこまれたものにすぎない、それが明確化したのは今度の原発事故だった。東電の権力は国家並だったのである。何兆円もの資産をもっていた。賠償金も天文学であってもそれができていることに驚いた。市町村をいくつも買えるほどの資産をもっていたのである。それだけの巨大な権力だからマスコミなど簡単にとりこむことができた。政治家もその走狗となってしまった。天下りで警察官僚までとりこみ、原発に反対させなかった。フクシマ原発でも何らか検察までかかわっていた。その背後にはアメリカの意図がありユダヤがかかわっていたか心の青雲ではなる。
ユダヤはわからないにしても何か大きな権力が背後にありその意図通りに操作されていることは確かなのである。遂にトル-マンショ-では嵐まで天候まで人工的に作り上げるセットのなかにあったのだ。これはしきりに心の青雲などの主催者が言う、人工地震だったのである。地震まで操作できるという世界にいるのかとなる。地震を起こせる力があれば世界を支配できることにもなるからだ。
ユダ金とか「心の青雲」ではしきりに批判しているけどそれほどの支配力がユダヤ人にあるのか疑問である。まさに世界を支配するほどの力がユダヤ人にあるとしたユダヤ人は聖書の時代から以前として世界を支配する中心民族だともなるからだ。ユダヤ人だけは今まで国土ももたないのに滅びていない、エジプト文明を作った民族やマヤやインカ文明を作った人種は滅びている。残っていてもその文明を作った人たちの力は完全に喪失している。ギリシャ人もあれだけの天才をだしたのに今は菜の花のとロバの国になりヨ-ロッパの保養地にすぎない、なんら生産的なものがないのである。もちろんノ-ベル賞の学者など一人もでないのである。ユダヤ人は以前として優秀な人材を出している。
それは何なのだろうとなる。ユダヤ人といっても本当にユダヤ人の子孫なのかというのもわからない。キリストはユダヤ教を否定した人である。それはヒンズ-教を否定して仏教を起こした釈迦とにている。そして別にキリスト教側でもユダヤ人が本来のユダヤ人に立ち返れば世界が変わるという人もいる。だからあれほどユダヤを憎みまたキリスト教を憎むまでなっているのはなぜなのか?
キリスト教団体を憎むのはわかるがキリストそのものを憎むのがわかりにくい。
一体この世を支配しているものはそもそも何なのかというときそれは闇の主なるサタンでありユダヤ人ではありえない、ユダヤ人だけにそんな力がありえないのである。
いづれにしろトル-マンショ-というのは一区画が映画のためにセット化されていた、人間もすべてそうである。でもそもそもこの文明社会はトル-マンショ-とにているのではないか?全く自分で生きていると思ってもそれは誰かに操作されたものでありニュ-スでも情報でも自ら見たものでもないからテレビの映像をCGの方が真実のように見させられるのである。人間の一生はすでに死ぬまで決められている。そこに冒険も意外性もなにもない、トル-マンショ-と同じではないか?そういう疑問をもった人が上野霄里氏とかニ-チェとか天才的アウトサイダ-になった。文明そのものがトル-マンショ-なのである。文明によって計算され仕組まれた人生を生きることに対抗するには文明から脱出してトル-マンショ-のようにその囲まれた壁を破らねばならない、それは遂に天才的狂気的なエネルギ-が必要になるのだ。
ただ原発事故ではそうしたアウトサイダ-でなくても情報は権力に操作されていたことが地震と津浪で明確になった。安全神話は東電と政府が一体となり国民を操作していたのである。それに逆らうことはトル-マンショ-のようにできなかったのである。例えば言論の自由があるから反対する本も出ていたのである。その本すら実は原発の安全神話のために権力側に許可されてでていたという。ロスチャイルドから情報の提供がありそのくらいの批判は許されていた。だから結局原発に反対する情報はすべて権力側によって操作されたものだったのである。心の青雲では歴史の見直しをしている。あういう見方があるのかと新鮮なものがあった。歴史でも一人の天才的な人が出れば見方が変わるということがある。結局こういう人が出たのはインタ-ネット時代になったからである。
こういうことは公にはされないものだったのである。自分もそうでありアウトサイダ-になればそうなる。出版でもなんでも情報は巨大な権力に操作されている。インタ-ネットすらアメリカが作ったものとすると操作されるということがある。膨大な世界の情報がアメリカに分析され操作されることもある。だから中国ではグ-グルに批判的なのである。