2025年03月24日

春に偲ぶ江戸【隅田川の春−浜離宮ー海を望む城】


春に偲ぶ江戸【隅田川の春−浜離宮ー海を望む城】

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春に偲ぶ江戸

春の日に隅田川に百羽の鴎
永代橋、両国橋、吾妻橋,言問橋
その名の良しや謂れあり
浜離宮の池に春の潮を入りきぬ
松のゆかしく客を接待
ここより船は外海に望む
かなた流人の八丈島のあれ
波はその断崖に打ち付け閉ざす
江戸八百八町水路は縦横に
舟は入り来舟はめぐりぬ
海の潮も上り来て屋敷の池に知る

舟はゆっくりと進む
寺の鐘は重くなり
待つ人も急がず
ゆっくりと船は進む

船宿に柳しだれてあわれ三味線のひびく
芸者が小橋をわたり艶に歩む
蔵前に各地より米は運ばる栄
仙台堀は伊達藩の屋敷のある所
江戸前の活魚を天秤棒で運ぶ
その威勢の良さや江戸っ子の一心太助
江戸城は高くも聳え富士をかなたに仰ぐ
登城する侍は威を正し大君にまみえる
日本橋の未明大名行列は出立す
江戸の夜明けや身の引き締まる


江戸城の堀には別に海の水は入ってくる構造になっていないがそれでも桜田堤までは若干海の水が入ってくる。赤坂の溜池も。使用の満ち干によって水量が変わる池であった。江戸の両国に作られた旗本の屋敷で、満潮になると庭に作られた池には海の水が入ってくるという仕組みになっていた。屋敷内にいて、海の潮の満ち干が味わえた。

海岸線の歴史。松本健一

確かに海岸に城がある。何か江戸城となると海から遠い感じがする。現代ではビルと家が密集してとても海を意識できない
東京で何か見るべきものがない、でも江戸の町は水路がめぐらされていて海の潮が入って来たのかとなる
そういう風景をイメージできない、ただ高層ビルを見上げて車と群衆を見るだかけなのかとなる

ただ東京で魅力を感じたのは隅田川である。それは明らかに海と通じていて浜離宮には春の潮が池に入ってくるのである
だからあそこでは自然を感じるからいいのである。でも今そうして昔の江戸を感じる場所がないのである
江戸城跡に皇居がある時、やはりそれは明治維新で作られたものなので歴史を感じないのである
だから天皇は京都に住むべきだというのが正論だともなる。

優艶に枝垂桜の池映る京都の御所の近くなるかな

江戸城跡には江戸城を再建すればいいという人もいる。そうすれば歴史を偲べるとなる。東京で残念なのは歴史を偲べないことだからである。大阪なら大阪城跡があるだけでも偲べる。でも江戸城の跡があっても何か大阪城のように偲べない
やはり何か歴史はその当時のものが残らないと偲べないのである


日本の城は海側に作られてその城が海より見えて目印となりまた海の海水が入って舟も入れるようになった港の機能があった
それは瀬戸内海と四国の城はそうである。東海道でも吉田城は川があり橋がかかり城がある。それは浮世絵に描かれている
私はその橋の欄干にもたれると確かに海から風が吹いてきたのである。海がかなり近い場にあった

春の風海より吹くや吉田城

ただ実際に吉田城には電車で来たのでありそれで中に枝垂桜が咲いていた。だから感覚的に海を望む城と感じなかった
何か旅はアプローチちの仕方で違ってくる。だから江戸でも隅田川へ舟で入り水路を行ったら感覚的に海と通じているとなる

海側に城があったというときこの辺でも相馬藩の最初の城は小高にありそれが浮舟城となっていた
船が浮く城というときそれは城の前に海が迫っていたことなのである。そして今の小高駅の下をくぐって津波の海水があふれた
駅の海側は津波で海になり湾となった。つまりそこは船が出入りする港だったのである。それで蔵院とかもありかなりの船が出入りしていた。それは中世のことである。だから日本の城が海岸にあるというのもわかる

隅田川も大江戸線が地下から出てきて橋を走るのには驚いた。地下鉄線が今はめぐっているとなる
そこには何か水路をめぐらされて江戸とは余りにも違っていたのである


落語の中の言葉167「船宿」






2024年06月28日

夏富士十句−富士登山で見た雲の峰


夏富士十句−富士登山で見た雲の峰

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雲の峰斜面の険し富士登山
大空や富士より高く雲の峰
夕陽さす富士に登り雲の峰
若き日に挑み上るや夏の富士
影富士の大きく映り夏登山
雄大に青々と映え夏の富士
逆さ富士湖に映し涼しかな
雲海に夏の朝日の御来光
太平洋の波のひびくや夏の富士
夏の富士四方より望む雄姿かな
富士下山鬼百合数輪林中

富士山に登ったのは一回だけだった。それも今になれば失敗したとなる。一回だけではものたりないとなる。富士山は遠くから見るだけでもいいが伊豆からとか見たがその他は見ていないのである
富士山は定点観測して写真をとるとかがいい、ともかく今や何もできない、回想するだけになる。

富士登山で印象的だったのは急な斜面をスロープを登り雲の峰に夕陽がさしている景色だった。雲の峰まじかにぐんぐんと高くなり富士山より高くなったからである。あの光景は平地で見れない景色である。富士登山はそれほど体力的には答えるということはなかった、ただその時は30代だった、40代とかになると厳しくなる。つまり厳しい登山は若いうちしかできないのである。


2024年03月09日

推理ドラマを見て飯田線のことを思い出す―武田信玄のことなど 【旅でも忘れやすいから記録するのも大事】


推理ドラマを見て飯田線のことを思い出す―武田信玄のことなど

【旅でも忘れやすいから記録するのも大事】

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東海道春の俳句二十句 (歴史は地歴だから地理の理解が不可欠)

飯田線6時間長し春日暮る

長篠を出でて豊橋春の海
豊橋に交わる線や春の月
安宿も東海道や春の月

今日見たテレビの推理ドラマのは面白かった。私は推理ドラマに興味があるのは鉄道を利用した犯罪に興味がある。なぜなら鉄道の旅が長かったからである。日本の鉄道なら80%ぐらい乗っているだろう。今回は飯田線はテーマになっていた。そこの線は全部乗るとしたら6時間以上かかっていたのである。
そしてその線に乗る人は相当に少ない。なぜなら一両か二両の電車であった。それも全部通しては走らない。別の車両に乗り換えた記憶がある。ただそこが天竜川下りで有名だとかとかまた長篠とかありそこは織田信長と徳川家康の連合軍が武田軍と戦った場所である。
そこが長篠なのかという時その地理が意外とぴんとこないのである。でも確かにそういう場所であり結局電車の旅だったら駅名だけが記録されるのである。それで地名に興味をも待ったのである。でも長篠というときここが長篠なのかというだけであった。それは地名だけで記憶されただけなのである。

長篠ゆ三河に出るや春の海

三河より名古屋に京へ春の旅

城建つや海よりそよぐ春の風

武田氏は山国であり山に閉ざされているからその山から出るとき京都を目指したとき途中で病気になり挫折して死んだ。山に閉ざされていると海の方に出たいということがある。海に出れば開放感がある。それで山国では海の見えないところは海が見えるところへ出たいとなる。

それでエチオピアというのは人口も1億以上なのだが海に面していない。ソマリアの方に港が欲しいということでソマリランドというソマリアと別の国として独立しようとしている国に港作るために借りた。ソマリランドというのはソマリアとはまた別な国として独立しようとしている。最近話題になったのは海賊が石油や荷物を運ぶ船を襲撃して3人くらい殺したとかあったからである。その辺はかなり貧乏で海賊になったということである。フーシー派が船舶を襲撃した海路の要衝である。そこが船の交通路となっているからである。

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武田氏は山国であり三河尾張は海に海に面していて海の幸が豊富だった思う。また信長が鉄の船を作っていたというのもやはり海に面していて海戦もしていたからだとなる。
福島県だと会津などは山国でありやはり海に面していないから薩摩長州など海に面していち早く外国の船とイギリスとかと戦う経験があり貿易もありそのことで会津は何か遅れてしまったのかもしれない。またロシアで黒海に面したクリミアにこだわるのはやはりそこから海に出たいということがありウクライナと争った。

つまり歴史はランドパワーとシーパワーの勢力争いだったという地政学になり日本でもそれが作用した。武田信玄と上杉謙信が塩を送ったというのも象徴的なのである。
その塩の道も松本城まであり相当に長いのである。それを山の細い険しい道を上り下りしてゆく。牛の背に塩を積んで運んだのである。だから必ず日本には塩の道があり山国では塩がないからそうなったのである。この辺では相馬藩では海に面しているところと海に面していない飯館は標高が高く山に囲まれた地域でありやはり塩の道があり塩を運んだのである。

いずれにしろ地政学から見る歴史は比較的わかりやすい。だからその地理を知るということは旅をしていればおのずと理解するようになる。だから私はおのずと旅ばかりしていて地理に興味を持つようになったのである。

ただ人間というのは本当に忘れやすい。 20年くらいすでにホームページとかプログで書いてきた過去に書いたもの忘れているこんなことを書いていたのかと自分が書いたものなのにそれも忘れていたのである。
何であれ体験したことでも10年20年と過ぎれば忘れてしまうのである。だから飯田線でも実際はいつの季節に行ったかも忘れたのである。それで私自身のプログを見て思い出したのである。豊橋で記録しているのは市電が通っていることと吉田城に行ったことである。その吉田城には枝垂れ桜が咲いていた。そして橋がり川がありそこは海に近い場所だったのである。

ともかく老人になるとこうして記憶の旅になる。そこで問題になるのは忘れてしまうことである。だからどうして記憶を蘇らせるのかとなると何かメモでもいいからまた写真だとそれはかなり思い出すのに有力な道具どうなる。特にデジタルカメラだといくらでも写真が撮れたからよかった。でも私が旅したときはデジタルカメラは出てないから記録に残されなかったのである。
とにかく旅に必要なのはちょっとしたメモでも記録することが後で役に立つそれがあとで宝ともなるのである。

2024年01月01日

2024日本列島新年の譜 【東北から東海道から瀬戸内海か韓国までの旅】


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2024日本列島新年の譜

【東北から東海道から瀬戸内海か韓国までの旅】

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日本列島四海めぐり
波打ちひびき轟きぬ
富士の嶺高く優美に
魚躍りて波しぶき船は出る
千代に八千代に敷島の
海に爛漫桜の映えて大和島
旭日東海に昇り眩しかも
海の幸山の幸恵みそめぐれ
日本列島太平洋に面して
新たに島の生まれて拡大しぬ
海の底より火を噴きて溶岩流れ
黒潮の与那国島より流れめぐる
トビウオの跳ね船は一路進まむ
神の業にそ成りぬ日本列島の栄
日本列島は若し連なり高き山々
その底に熱き溶岩の煮えたぎる
火を噴く山よその地球のエネルギーよ
地球はなお若し神の業なる命は躍動す
神は新たに領海に島を作り出す
その島さらに拡大しつづける
海に沿い桜は咲きつづく瀬戸内海
沖行く船のまじかに絶えず行く
玄界灘を渡りて韓の国古都慶州にも咲く
ここに東海を望み日本列島を望む
大河の岸辺、武寧王の煉瓦にアーチの陵墓
中国南朝の技、銀の匙に栄華の跡
若草映えて日本人の我たずぬ
島の王と呼ばれて日本との縁の深しも
済州島は溶岩の島、赤裸々に噴出して
島は形成され波は崖に打ち寄せひびく
漢拏山高く独立峰かなかなた中国を望む
韓半島も日本列島も望む
日本と韓国は古より縁の深く結ばれぬ
一衣帯水の国にして交わり深しも
今春風は海より吹きそよぎぬ
我が帰る瀬戸内海や航行する船あまた
明石の戸より大和島見ゆ
日本の栄、大阪城の万朶の桜映えぬ
花は尽きず散り花見の人も絶えざれ
夕陽赤々と輝き西の栄や秀吉の難波の夢の跡
みちのくより来りてその栄華を偲びぬ
常に栄は移り変わりゆく
群雄割拠の織り成す諸侯を治め
時を経て大江戸百都市の栄
家康治め豪壮な城そ映えなむ
その諸侯謁見の大広間雄渾な大松
大地に根付きその根の太くくねれる松
海に面して松原つづき富士山を望む
三百年の太平の世は成りぬ
そこに培うものや武士道の侍の誇り
その芯の強くも明治に伝えられぬ
庶民の文化も園芸俳句歌舞伎や華咲きぬ
日本の力よ、衰えざれその美は新たにそ
太鼓を打ち鳴らして天地にひびかむ
日本男児の心意気日本に生きる喜びよ
千代に八千代に継がれ悠久の大和の心
世界に誇るは武にあらじも
平和に成熟したる千年の文化の国
その美は荘重にして荘厳また微細なり
未来を担う熱き若者よ、新たな年に大志を抱け
未来は常に人の意志により変化し創られる
世界は固定したるものにあらじ
地も変わり海も変わり天も変わらむ
神の業は新天地を創り出す
その技の尽きることなく讃えるべしかな
神の祝福の日本列島に注がれむ
神の定めし地理の役割を果たすべしかな
西と東を結ぶ要の国は日本なり
その神の定めし地理を知りて世界の貢献あるべし
そこに神意あり天意あり地の利あり
未来のビジョンは自ずと成らむ
常に世界は定まらず刷新するが宿命
日本列島を潮はめぐり魚は躍り船は行く
新しき未来へ新しき展望を創造の世界に

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日本の地理を見るとあすかから藤原京と奈良の平城宮から京都へとう移った。大阪は戦国時代から秀吉の城となり中心となった。地理的に見ると大阪は湾になっていてまた湿地帯になっていたから飛鳥の方が高台にありそこそこが中心になった。そこからさらに平地の藤原京になり次に奈良盆地の広いところが平城宮になったのである。それから京都は千年の都となった。京都もやはり盆地であり山に囲まれた場所である。

それから日本は戦国時代になると東の方の尾張で信長天下を取る。信長は海に面していて何かそこで港を通じて商売をしていたの見ていた。だから信長には商人的気質がありはぐくまれた。
やはり海に面していると特にそこに港があると海を通じて船が行き来するから外からの情報にも触れるし海の道となり商売しやすいのである

だから信長生まれた地域が地理が信長を作ったともなるなぜなら武田信玄は相当に優れた人であったが山に閉ざされて海の方に出てきたのだが途中で病気になり京都までは登れなかった。つまり山国であり海に面していないということは地理的に不利だったのである。それは会津にも言える。海から遠く山国で山に閉ざされて薩摩長州は海に面しているからその地理的条件の違いで遅れたとなる。

家康は浜松であり地理的に終わりにも近く海に面していたから地理的に有利だった。信長天下布武の筋道を作り秀吉がその後を継ぎ家康が最後のまとめ役となったのである。
そして江戸に幕府を築いたのである。だから地理というのは人間を作るということは確かである。まず地理を見ないと歴史もわからないのである

東海道が日本の幹線となるのは地理的に明確にわかる。千年の都の京都があり百万都市の江戸と結ばれたのである。それは日本の地理の結果だったともなる。その時伊達政宗も仙台とか石巻にも寺がありそこは政宗の住居ともなっていたのである。仙台とか石巻とかは海に向かって開けていて港になる適地だった。だからメキシコからヨーロッパまで船でゆくという遠大な計画が実行されたのである。それも地位的条件によってそうなった。

とにかく日本の中心は京都から大阪へそして江戸関東へと移ったのである。その東西を結ぶのは東海道だったのであり今でもやはり新幹線が行き来して東西を結ぶ日本の大動脈となっているのである。それもやはり地理が影響してそうなったのである
地理から見ればなぜ歴史でも古代から韓国が日本と不可分に結びついていたのかそれもやはり確かに海がさえぎるのだがが行き来があり韓国から日本へ渡来人がやってきたのである。

それで済州島の漢拏山を望んだ時確かにそこから中国から韓国から日本へと展望できる島だったのである。だから地理的に今の韓国と日本は一体化する。
武寧王の煉瓦造りのアーチの墓陵でも中国の南朝の文化が技術が入ってきて作られた。それは大河のほとりにあり大陸的な景色であった。だから地理的一体感を感じるのは今の韓国までだまでにあるということである。

そして私は青春18切符で東北から東京へ東海道大阪まで行きそれから瀬戸内海沿い行き福岡からか船で韓国まで韓国の釜山まで渡ったということがある。それは遠大な旅でもあった。それから韓国から九州に来てこれで東京まで帰ってきたこともあった。だから韓国はやはり一衣滞水の身近な国であったのだ。ただ中国までも船で行ったら上海になると結構遠くなったのである
だからなかなか中国と地理的一体感を感じるのはなかなかできない地理でも人間が感じる体感できるのはやはり限られているのである。

ともかく韓国の慶州までも桜は咲いていたのである。ただ東海道は夜行列車であり富士山とかは見えないし景色も見えなかったのである。青春18切符なら別に大して金もかからなかったのである。だから必ずしも金がないから旅はできないということでもないのである

東北から瀬戸内海福岡と海を渡って韓国まで行ったということは何か達成感があり記憶に残っているのである。やはり長い旅も必要なのである。でも一か月とかなると会社員とかでは無理になっていたのである。あ私の場合は時間がいくらでもありだからこそ長い旅ができたのある。それも結局家族に恵まれた結果としてそうなったのである。だから私は家族に特別感謝しているのである















2023年10月10日

日本の地理は山が多くわかりにくい 【廃藩置県で地形とか無視して県単位では地理はわからない―東海道の旅の詩】

日本の地理は山が多くわかりにくい

【廃藩置県で地形とか無視して県単位では地理はわからない―東海道の旅の詩】


●海に囲まれていても海に面しない県

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海に面していない県

世界を空間と時間軸で見る。空間軸は人間の時間感覚ででは変わらない。でも空間軸にしても例えば日本であっても地理というのは分かりにくい。おそらく日本の地理が分かりにくいのは山が多いからである。

白雲の 龍田の山の 露霜に 色づく時に うち越えて 旅行く君は 五百重山 い行きさくみ 敵守る 筑紫に至り 山のそき 野のそき見よと 伴の部を 班ち遣はし 山彦の 答へむ極み たにぐくの さ渡る極み 国形を 見したまひて

万葉集 第6巻 971番歌/

五百重山【いほいやま】 越えて国形を見るとなる

だから不思議なのは意外と海に面している県はこれだけであり少ないと思った。これだけ山が多いのだからもっと海に面してない県が多いと思った。ただそれは県単位で見ているからである
なぜなら福島県はハマナカアイズと分かれている。でも会津になると山に囲まれていて海は見えない。福島市とか郡山市のある中通りでも山は見えないのである。だから県単位で見ると誤解が生じる。海に面してない海が見えない地域は日本では多いのである。

確かに福島県では私の住んでいる浜道りでもいつも海に面している。海を見ている。だからこうしていつも海を見ている地域と海を見えない山を見ている地域とは相当に心境的にも変わってくる。また海に面していても太平洋側と日本海側はまるで違った感覚になる。それが心に相当に影響している。
海にに面していれば広い海を見ていれば心も開放的になる。でも山に閉ざされていれば何か心も閉ざされた感じになる。でも日本は確かに海に囲まれているがまた山にも囲まれているのである。だから国のまほろばというときそこは奈良盆地であり山に囲まれた平地なのである。そういう地域もまだ多いのである。

大和は 国のまほろばたたなづく 青がき山ごもれる 大和し 美 (うるわ)し       古事記・中巻 倭建命

日本はこういう地形が多いのである。

●地理は錯覚することが多い

何か地理というとき必ず錯覚している。なぜこの辺で老人の施設に入っている人が青森に移されたというとき青森というときこれも地理的に東北の端でありそんな遠くに移されたことはなかなか行けないから面倒だと思った。
でも実際は青森でも八戸であり新幹線では2時間くらいである。でも2時間だと仙台から東京までは行かないとしても30分くらいの差で200キロくらいありそれなりに遠いと思った。
でも八戸というとき何か青森という感覚が持てなかった。青森というとき弘前市に城があった所としてイメージする。青森市でも海に面して函館に近いと見る。
だからそもそも県単位で見ることは間違っている。県単位になったのは明治以降であり馴染みがないからである。そこには無理があったからである。

福島県が明治になったとき会津県、二本松県、磐城県になる案があった。これは今のハマナカアイズである。。そして浜通りになると阿武隈山脈にさいぎられて中通りの福島市の吾妻山は見えないのである。だから福島県でも地理的一体感は無いのである。それはそもそも明治以降の廃藩置県で地理的にも歴史的にも無理があったからである。
ただ福島県と茨城県は地理的に分かれている。茨城県は平地が多いのである。でも福島県に入ると山が多いのである。茨城県はもともと関東平野の中に入っているからみちのくに入る白河の関を越えると山が多いということである。だから地理的にわかりやすい。

でも多くの県境でもそこが地形的に境界となっているわけではないのである。ただ東西を見るとき関ヶ原が地理的にも風土的にも分かれ目になっていることは分かる。関ヶ原には春でもなお雪が残っているからである。そして近江に出ると風景も穏やかで春らしくなっているのである。
明確に風土的にも地理的にも境となるところが認識できないのも多い。宮城県と山形県は面白山トンネルを境に風土も景色も違ってくる。春でも面白山トンネルを抜けると山は雪におおわれて雪が残っているからである。ただこうして県の単位でその境が認識されるのはなかなかない。宮城県と岩手県の境はどこなのか。一ノ関は岩手県でありでも平泉になるとでもその境はよくわからない。ただ平泉は一ノ関から近い。芭蕉は来たのは平泉までのである。その西行でも平泉までは来たのその奥までは行っていないのである。

とにかく日本は山が多くて地理が分かりにくい。群馬県とか栃木県とかは山だらけでありわかりにくい。栃木県だと那須は平野が広がっているからわかりやすい。でも栃木県になると会津から山続きでありどこが境なのかもわかりにくくなるのである。ただ群馬県と栃木県は関東であり関八州であり東京の延長としても見る。でも山が多くて関東平野とも違う。
ただ関東でも江戸から静岡県の方に出るには箱根の山があり箱根は天下の剣となっていた。箱根を超えると東海道になり海沿いに街道は続いている。だから山を越えると日本では別世界が開けるということにもなる。

●東海道の詩

箱根の山は 天下の険
函谷関(かんこくかん)も 物ならず
万丈(ばんじょう)の山 千仞(せんじん)の谷
前に聳え(そびえ) 後に(しりえに)支う(さそう


春の東海道

小田原城前は相模湾
後ろは天下の剣の箱根の山
反りて高く見上げつつ
明日は越えなむ旅路かな

三島の宿の賑わいや草鞋脱ぎ
旅の疲れを共に癒すかな
その先遠しも太平洋に沿い
浪は騒ぎて鴎飛ぶかな

箱根を越えてそ東海道
沖行く船見て春の日や
駿河湾に魚踊り富士の峰仰ぐ
街の家並や道は真直に燕来る

花の盛りや波ひびき
次なる宿を目指すかな
松並木その間に見える富士の峰
春光まぶし海は光りぬ

京に行く人江戸に行く人
飛脚も行き交わる宿や
それぞれの旅や身の上も語り
一時の出会いに別れけるかな

旅は道連れ世は情け
惜しむ分かれや分去
見送り遠く消えゆきぬ
その日は帰らず思い出残る

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この東海道でも静岡県があり愛知県があるとしてもその境がわからないのであ。浜名湖が静岡県であり愛知県ではなかった。そもそも県単位で見ることが難しいからである。
大井川とかはやはり日本でも境として意識しやすい。特に川留めとかあるとそこが境と意識する。

ともかく日本全国を旅したから最初は地名に興味を持ち地理に興味を持った。学校の勉強では何か特別興味を持ったこともなく暗記と試験勉強で勉強きらいになった。でも人間は必ずこの世に生きればその人なりに興味を持つことがある。一番興味を持ちやすいのは地理である。旅に憧れるのはやはりあまりにも見慣れた故郷ではなくさまざまな地球の景観を見たいとなるからである。

それで私は学校の勉強では興味を持つものもなくその後の仕事もまともな会社に就職はせず流れ作業とこばかりさせられたから仕事が嫌になり家族に恵まれてただ旅をするようになりそれが仕事にもなったのである。ただそれは特別恵まれたことでありほかの人は20代でまともな職に就かなければそのまま何も身に着かないとなってしまうのである。
そして時間の過ぎるのが早い。何かぶらぶらしているだけでも時間は過ぎてしまうのである。でも旅したことによりそれが記憶として残されているからこうして回想して書いているのである


東海道春の俳句二十句
(歴史は地歴だから地理の理解が不可欠)






2018年09月22日

東海道春の俳句二十句 (歴史は地歴だから地理の理解が不可欠)


東海道春の俳句二十句

(歴史は地歴だから地理の理解が不可欠)

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飛脚行く海風涼し裸かな

飛脚が裸なのは走りやすくするためだった,当時の旅はなるべく荷物を減らすことだった
走っていれば汗かくから裸の方が良かったのである


海望み小田原城や花盛り
春潮のひびき高鳴り小田原城
春の海伊豆半島に富士の峰
駿河湾魚打ちあぐ春の海
陽の昇り海に桜や東海道
東海道通りますぐに燕来る
春風や東海道を飛脚行く
飛脚行く海風涼し裸かな
松古りぬ東海道や春の富士
上方と江戸の行き来や花の春
大井川春の日渡り広しかな
東海道天下の攻防燕飛ぶ
商人の往来盛む燕飛ぶ
長篠を出でて豊橋春の海
豊橋に交わる線や春の月
安宿も東海道や春の月
春の月東海道の旅籠かな
欄干に旅人もたれ日永かな
春の日に舟上り城や橋渡る
残る雪関ケ原出て近江かな
関ケ原越えて近江や春の山
車窓より蓮華畑や近江富士
京に着く春満月やおいでやす
花散るや夕陽に映えし大阪城



歴史は地理がわからないと基本的に理解できない、その地理がわかることは本当にむずかしい、地理は何か錯覚したものとして見ている、地図を見ても実際の実感としての地理はわからない
では地図は無駄かというとそうでもない、地図と実地に歩いた経験があると地図も活きてくる、東海道を知るにはまず地理的にしる
でもここは戦国時代の大きな舞台となったから歴史の知ることも基本的に欠かせない

私が錯覚していたのは信長の尾張と家康の岡崎城が随分近いことだった、隣の感覚である、ということは信長と家康の連合は地理的なものとして納得がいく
家康は後に浜松城へと進出して関東へ進出する
信長の後継者は秀吉となり小田原へ進出する、小田原は要としてある地で進出することができなかった
それから武田軍の勢力が脅威となっていた
それは飯田線で長篠駅がありそこも境界であり地理的に家康の岡崎城や尾張に迫る地点だったのである
飯田線は長い、今はなんとか一両の電車が走っていたり直通ではなく乗り換えたりと不便な所であり廃線路線にもなる
でも豊橋に出るとまるで違ってくる
そこで東海道線と交わるからだ

それは山国から海の国へと出ることなのである
武田は山国であり海に出たいという願望があった
ただそこは信長や家康が支配する領域であり出れなかった
でも騎馬軍団で突破しようとしたが無惨に敗北した
歴史は確実に地理的な要因があり展開している
それは人事だけではどうにもならない、地理の制約を必ず受ける
それは世界史でも同じである
ゲルマンはドイツはライン河で区切られて別な世界だったのと同じである、ローマはライン河に遮られて進出できなかった
そこには強力な民族であるゲルマンが存在したからである

ロシアが海に憧れる、海へ出る拠点を求める、だからウクライナでも黒海がありシリアも地中海の要として勢力下に置こうとする
ウラジオストックは遠すぎるから海へ出る拠点を求めるのである
なぜ信長が天下をとったかというと地理的なものが影響している
とてもいくら優秀でも一人の天才だけで偉業は成し遂げられないのだ
名古屋を見ればわかる、いかに地の利があるかわかる、近江に出れば京都は近い、だから関が原を越えて近江に出て安土桃山城を築いたのである、関ケ原は地理的に東西を分ける場所だった
電車で行くと春でも依然として雪が残っている
でも関ケ原を越えて近江に出ると琵琶湖があり春の山が穏やかに見えたのである
そして近江富士が電車の車窓から見えた、レンゲ畑があり印象的なのである
近江となればすぐに京都なのである、京に上るには支配するにはいい場所なのである

武田軍は山国から出たが病に倒れて上京は果たせなかった
それは騎馬軍団ではあったが山国ということで海に出れなかったからである
信長は鉄の船まで作っている、名古屋湾であれ海に通じていたのである。
東北でも会津は山に閉ざされていて雪に埋もれる、でも伊達政宗が東北を支配したのはやはり海に望み開明的だったともなる
第一メキシコからヨ−ロッパまで船でわたるという壮挙を成し遂げたことでもわかる、それはやはり海に通じていたからである

東海道は日本の幹線でありそこに江戸時代も大阪から京都から江戸との行き来があり大動脈だった、それは今も変わらない
そこに日本の栄えがあった
東海道には長いまっすぐな道路があった
あれもなかなか見れない、それだけ東海道は海側であり平地がありそういう平なまっすぐな道が伸びていたとなる

いづれにしろ歴史は地理を知らずして知りえない
歴史でも文学でも地理と深く関係している
東海道と奥の細道を対比してみるとわかる、みちのくと東海道はまるで違ったものなのである、歴史的にそうである
東海道は上方から大阪から京都から常に往来があり栄えた地域である、日本で一番往来があった道なのである
そこに富士山が見えることでまた日本の中心という感覚に戦国時代以降はなったのである

ただ名古屋に近く吉田城があったがそれは川岸にあり橋がかかっていた、それは浮世絵でも描かれている
でも私が行ったときは春でも城内には枝垂桜が咲き淋しい感じだった、それはなぜなのか?
時代とともに東海道の賑わいは失われた、江戸時代なら旅人が端をたり行き来していた,でも今になると何か車社会になり車が通るが人がにぎわうという感じではない
つまりその時代の感覚は時代が変わるとわからなくなる
一見今では淋しいなとさびれているなと感じても当時は人でにぎわっていたのである、活気ある場所だったのである
鉄道の駅が車社会になる前はにぎわっていた
駅前通りがあり駅が街の中心だったのである
車社会になれば高速のSAとかがにぎわう場所になったのと同じなのである
だから飯田線から豊橋に出て吉田城まで市電で行って吉田城についたとき何かそこは取り残されたような淋しさを感じだのである
ただ今でも別に東海道は繁華な道であるがやはり歩く旅ではないし
車が中心になると吉田城でも江戸時代の東海道の城としてはその当時に見えた風景とは違ってくる

ただ小田原城は花盛りであり大手門が立派でありそして天守があり海を望む、それは当時と変わらないのである
城の魅力はやはり今でもある

大手門威を正して入るかな
天守も臨み春の箱根の山高し
その影おおい海も望みぬ
昔小田原城の栄えかな

城は建築としてやはり侍の精神を現している
建築は精神の象徴なのである、大手門から威を正して入ると天守閣が聳えて主君にまみえるのである
小田原城はいい場所にある、あそこも地理的に要だから秀吉が攻めあぐんだとなる、小田原を突破すれば関東に入るからだ
その時伊達政宗が遅れて参戦したので秀吉にとがめられたが機転をきかして一命をとどめたのである
東海道でも新幹線で行ってはわからない、地理がわからない、だから電車で行くのがいいとなる、歩くのが一番いいがそれも遠くなるとできない、東海道は混んでいるから自転車でも楽ではないからだ
車でこみすぎるところは情緒もなくなるから嫌なのである

俳句にしろ短歌にしろ詩でも文学でも歴史の理解が欠かせない、奥の細道でも平泉の栄華の跡をたずねて芭蕉が名句を残した
自然でも歴史と一体となっているとき自然もさらに映えるとなる
ただ東京はあれだけ栄えているとしても自然か映えない、というよりも自然はないのである
江戸だったら富士山がまだきれいに見えたのである
高層ビルなどがないから見えたのである、それは浮世絵にも残っている

わが庵(いお)は松原つづき海ちかく富士の高嶺を軒端にぞ見る
(太田道灌)

こういう光景になっていた、江戸はいかにも日本の中心としてあった、日本の中心は奈良であり京都であり大阪であったが近江から名古屋から関東へ江戸へ移ったのである
ただ江戸から奥の細道であり発展していないのである
ただいわき市までは複線であた常磐線でも東京と通じているという感じになる、でもいわき市からは単線になり原発事故で途中の双葉大熊はまだ開通していないから閉ざされた感じになる
いわき市から相馬との区間は新幹線もないから遅れた地域に感じるのはやはり地理的なものや歴史的なものでそうなっている






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タグ:東海道俳句