2022年11月23日

精神知的発達障害者やニートとは何なのか (適切な治療教育がされないー認知症と似ているがまた違っている)


 精神知的発達障害者やニートとは何なのか

(適切な治療教育がされないー認知症と似ているがまた違っている)

●計算できない、漢字が書けない、文章が理解できない

言葉の遅れが気になる
勉強についていけない
集中力・落ち着きがない
他者との関わりが苦手
発達障害の種類とグレーゾーン
発達障害の3つの種類


読み書きや計算など、特定の学習が苦手
目から入ってくる情報をうまく処理できず、図形や似たような文字を理解しづらい
文章のどこを読んでいるのか分からなくなる
読み書きに他の人よりも努力が必要なため、疲れやすい
計算や読み書きが必要な場面で困る
その場で書類に字を書くのが難しい など

その人は50歳になるけど数の計算ができないという、どうして数の計算ができないのか学習できなかったのか、その辺がわかりにくい、その人が言うには常に親に殴られたとか頭でけられたとか言う、何か親が虐待していたとなる
兄弟も二人いしても嫌っている、この家族も理解するのがむずかしいと思った
そもそも他者の家族は簡単に理解しにくいのである、そしてまともな家族がまれだともなる、何らか問題をかかえているのである、私自身の家族もそうだったからである
ただこの人がかかえたものが精神知的障害だからさらに理解しにくくなる
でも見た目は普通の人だし話しもできる、だからどこが障害なのかよくわからないのである

認知症になるとこのような症状がみられる、数が計算できない、だから自分の持っている金を把握できない、銀行から金がおろせないとなる、知的障害がある
だからこのことに驚いたのである、でも私が認知症を介護してきたことでわかったことはこれまで経験してきたことで正常に生活してきたのだから何かそうした知的な計算ができないということはあってもわかることがある
だから全く心が通じなくなることはないと後でわかってきた
何か感情的な面では普通なのである、喜んだり悲しんだりすることがありそれは普通の人と同じなのである、だから認知症になると相手の態度が問題になり敏感になる
何か馬鹿になったからと馬鹿にしているとか冷たくしているとかわかる
すると怒ったりするのである、特に優秀だった人はそうなりやすい、馬鹿にされることを敏感に感じて怒るのである、でも子どものときから発達障害とか精神障害者はそうしたことはない、常に馬鹿にされてきたしうとまれてきたし虐待もされてきたからである
それで怒ったり相手に暴力をふるったりしないまたそれだけの力もないのである

●算数とかでも教え方が影響するー暗記教育しかなかった時代

ともかく発達障害でも精神知的障害でもいろいろあるから判断するのはむずかしい
でもなぜ親がそんなに実の子供をいくら障害者でも虐待したのか理解できない
その家は夫婦仲が悪くなにか常に母親に夫が暴力をふるっていたらしい
でも息子までそんな虐待をするものなのかということが理解できない
相手は障害者だからである、その人が言うには私が計算などできないのは適切に教えられなかったからだと言っている、それはあるのかもしれない、確かに知的障害があっても
教え方があり理解できることはある
それは自分自身でも算数と数学が嫌いになったのは生まれつきというより教え方が悪いとなそうなる、おそらく小学生とかの段階ではそうである
私が受けた教育は算数だったら暗記しかなかった、そして後はソロバンだったのである
これは全く機械と同じ暗記教育だったのである

算数でも後の数学でもこれは思考訓練として教えるられるべきものだったのである
私は自ら興味をもって勉強したことは高校までなかった、だから勉強嫌いであり劣等生で終わった、ただ三流大学に入れたのはたまたま家族に恵まれて金がありは入れたのであるなぜなら団塊の世代は第一中卒で集団就職していた時代だからである
中学だと4,5人しか大学に入っていないからである
なぜ自分自身が教育に興味をもつのかというと教え方がありそれは先生でも思考すること創造することでもあるからだ

数の計算にしてもそうなのである、計算でも暗算ではなく考えるものとして学んでいたら違っていた
27+35となるとめんどうだが20+7+30+5と分解するとわかりやすくなるのである
別に20+30+7+5でもいいわけである、また7がめんどうなら5+2にする
そうするとわかりやすくなる、また数字を図形化して教えると具体的わかりやすくなる
つまりなんらか学ぶ方法があり教え方がある、それが学校だと一様になり暗記教育になり勉強に興味を持てくなる
例えば数字とは何かという根本的なことすら理解できない、●でも■でも色でも違っている、大きさも違っている、でも同じ一っ個にする、一となる、だからこうした単純なことでも数字化することの意味が何なのか教えていないし自ら学んでいないのである
今なってそんなことを考えたのも遅かったとなる
ただ思考するにもこうして訓練が必要だとなる、普通の人だったらそうなる
まれにいる天才だったらそんなことを教える必要もなくすぐ理解するからむしろ教育自体必要ないともなる

●先天的なものなのか後天的環境の作用もある

その人がなぜ発達障害になったのか?

●生まれつきなのか

●後天的なもの環境の影響なのか

確かに生まれつきがあったのがもしれない、でも後天的な環境にもあったかもしれない
親の理解がなく虐待されたことで余計に学ぶこともできなくなっていたのかもしれない
何か人間に対して恐怖を抱いているからである
ただ何もわからないというのではなくわかっている、だからどこが悪いのと見られることは確かである
数の計算ができないのとなると確かに社会では働けないとはなる
でも別に他に数の計算が出来なくてもできることはある
その人はいい体しているから力はある、だから重い物を持つということはできる
指導する人次第では仕事をさせることができる
その他でも話しは通じるのである、でも計算ができないということが大きな障害にはなるそれは小学生並みの計算とか文章が読めないとかある
何かこれも認知症と似ていると思った、計算ができない、漢字が読めない、漢字が書けない、文章が読めない・・・でも認知症よりわかっている
認知症だとももっとわからなくなっているからである

先天的後天的なものが人間に影響する、でも後天的環境の影響も人間は大きい
いくら才能が先天的にあってもそれを伸ばす環境がなかったら才能は発揮できない
子供の時、一冊も本が家になかった、するととても自主的に勉強などできないのである
だから教育では家庭環境とか親とかの影響の方が学校より大きいかもしれない
学校はどうしても個々人に対応できないからである

そして現代文明はあまりにも複雑であり精神障害になりやすい、それは先天的なものではなく後天的にである、だからニートが110万人もいるというときもそうである
この問題は特殊な例外ではないからである、これだけの数がいて確かに責めることは容易である、でもなにかしら現代文明の問題として生まれたのである
現代社会に適応できない、それは甘いだということもわかる
社会はもともと厳しいのだ、そんな甘ったれことは許されるのかということもある
それは贅沢なことだと言われる、ただでは例えば自分が経験した流れ作業のようなことを機械かロボットのような仕事が嫌になるのは人間として普通である
他にも自分に適合しない仕事につくこは苦痛でしかなくなる
すると鬱とかになり精神でも病むのである、逆に奇妙だがニートでも家に引きこもるたごけではなく自分のように旅ばかりしてそこに生きがいを見出す人もいたとなる
例外的でもそうなのである、どうしても流れ作業などしたくないとなりそうなったともなるからである、ただそれがいいとはならなかった
何か必ず社会から離脱しても変な方向に行くから危険でもあった
ニートは特別優れた人ではないから小人閑居して不善を成すと必ずなるからである
それが自分自身も経験しているからである、何かおかしな方向に行ってしまう危険があるからである

●文明の病弊としてのカルト、ファシズムも精神障害となる

ただ正直現代文明は病んでいる、だから病的な現象が社会全体でも起きやすいのである
それを証明したのがナチスであった、そのことはいろいろと考察されている
今ならカルト教団である、人間がアトム化してつながりがなく共同体の絆もなく一体感を得るためにそういうものが生まれた、それも集団的狂気の状態なのである
つまり文明の病的なものとした現象なのである、そこにもともとあった宗教など全くないからである、集団的狂気でありそういう中でした人間の一体化がもなくなったのである
だからニーチェも言った、個人も狂っているが集団も狂っているとただ個人の狂気は確かに問題でも集団が狂うとナチスのようになり何百万人が死ぬとなるから恐怖なのである
今でも創価とかカルト教団がそういうものだから怖い、社会を席巻してしまい巻き込まれて集団狂気になる、ファシズムになるからである
ただ集団の狂気は放置される、個人の狂気は病人とされるが集団になれば正常となりかえって批判する者は巨大集団で攻めてくるのである

いづれにしろ現代文明社会とは狂気になりやすい、ファシブムになりやすい体質をもっている、ニートも問題だか正常だとしてそうした人達を排斥することは危険なのかもしれない、もちろんお前たち怠け者ののために働くのは嫌だ、お前らは働け、社畜となっても働けというのもわかる、なぜなら社会で働くことが厳しいから苦しいからそうなる
なぜニートとか何もしないでのうのうとしているのかと反発するのわかる
だからニートを強制的に働かせろというのもわかる、日本が貧困化しているから余計にそうなる、ただこれも個々人の事情がありその対処方法はむずかしいなとる
ただ言えることはニートとか親が死んだら地獄になる
もう食べることもできなくなる、親が財産でも残さない限りそうなる
つまりその時カルマが容赦なく過酷に現れるのである、それが自分自身だった、もう死ぬ思いで親を介護したからである、ただ経済的には困っていないから救われたとはなる

いづれにしろ精神知的障害者でもそうだがそういう人達が増えてくるのが現代文明となるただもともと精神知的障害者はいた、でも現代では複雑になり社会に適合できない人が増えたことは確かである、そして親に頼り住む場所もあり食べることができるからそうなったともなる、まず昔だったらそんなことできなかったからである
だからこれは時代が作りだした現象だとなる、50年前頃にアウトサイダーという本が話題になったがそれは天才的な人のことでありニートとは別物である
でも何かしら似ているのである、天才と狂気は紙一重というけどそうである
天才と超人にもなりまた狂人にもなってしまうからである、ただその差は大きいから比較することはできない、ニートとは普通の当たり前の人であり何か劣っている人がなっているからである,アウトサイダーとなるとかえって並外れて天才であり現代文明に社会に適合できな人だったからである、その例としてニーチェとか上野霄里氏がいたとなるのである

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2022年09月30日

運がないとあらゆることがうまくいかない (教育でも家族運とか時代運とか金運とかあり才能が発揮できる)


運がないとあらゆることがうまくいかない

(教育でも家族運とか時代運とか金運とかあり才能が発揮できる)

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私たちの社会はとても不平等です、その不平等をもたらす大きな原因の一つが偶然親から配られた遺伝子の組み合わせが生む遺伝的な素質の格差だときいうことです
それからもう一つの原因は偶然の環境です、遺伝でも環境が親ガチャであり、それで9割が説明されてしまいますー

●私の家族が特殊でも私には良く作用した

人間は生まれつきの才能とかあるけど人間が最も作用するのは運である
どういう親から生まれるかというものがあるが遺伝もあるが環境因子の作用も大きいのである、そしてこの運命自体が不可解なのである、謎なのである
私自身の運命自体不可解そのものだった、家族でもそうである
でも自分にとってはこの運命が環境が幸いしたのである
そうでなければ確実にまともに就職もできず浮浪者となり脱落者となり野垂れ死にのようになっていた
実際三流大学を出て就職もできなかったからである

でも私の家族はそのことで責めることもなかったのである
最近引きこもりとかが増えて問題になっている、引きこもりをたもり人というようになった、私自身このこもり人として生きたのである
だからこれは本当に異常なことだったのである、現実に自分自身が異常化したことを気づいたのは私を育てた二人の母親が病気になり介護になって一人悪戦苦闘した時だった
そこで社会とかかわりもう死ぬような苦しみにあった
誰も助けるものがいない兄弟もいないとかでそうなった
それも余りにも恵まれた結果としてそうなったのである

人間はなんらか不可抗力の運が作用しているとこの本で書いている
それを自分の運命から理解できる、その人の遺伝は確かに大きく作用する
遺伝的資質はどうにもならないのである、外交的な人もいるし内向的な人もいるし性格も様々だからである、自分は内向的な性格でありどうしても集団になじめない性格だった
一人っ子でもあり人とうまく協調できないのである
私の母親も内向的地味な性格の人であり似ている、ただもう一人の母親は全く性格が違っていて外交的陽気な性格だったのである
でも奇妙なことはこうして相反する性格の母親に育てられて自分はたいしてなかった才能でも伸ばすことができたのである
60まで自分のおもむくままに生きていたのである、自分の合わないことはせずにすんだのである、こもり人となると異常にしても自分には合っていたのである

●共同体があって教育もありうる

私が一番嫌だったのは学校である、学校になじめなかった、何かどうも腸が過敏になっていて集団の中に異常に緊張するのである、体までおかしくなる
今でもそうである、人間嫌いであり人間がいると緊張するのである
だから私が自然と木とか石とか山でも自然に接している自然を鑑賞するということに向いていた、そこには人間がいないからである
また体力がないということも実の一人の母親に似ていた、体が細くて重いものも持てない母親だったからである、だから遺伝的には実の母親の影響がまねがれないのである
でももう一人の母親は太っていて社交的であり男優りだった
ただそれだけではなく私の家が父親が中学で死んだ時、もう一人の母と言うべき姉がいて家が維持できたのである

必ずしも家族とか家は血縁とかでも成り立たない、家を維持するということはそれが一つの最小の共同体であり家のために生きることが女性にはある
また江戸時代なら御家大事ということがありまず御家のために臣下でも尽くし働いて維持してきたのである、つまり人間には何らか共同体がありそれを維持することが優先されるそれは必ずしも血縁とかではない、一つの共同体として機能する
それが昔の村だったのである、村とは500人くらいで成立っているときそれは一つの家族も同然だったからである、それで子供の名付け親とか村の人がなり村の子供は村の家族の一員として育てられたのである
村というのはとても一家族だけでは維持できないからである

だから教育というときそういう共同体があってこそ成り立つのである、でも明治以降学校になったときそういう共同体から分離したものとして知識だけを学ぶことになったのである、江戸時代なら侍がいたとき侍が模範としてありその侍は学校教育で育ったのではない当時の社会でエリートとしてあり学校があったとしても藩校で育てられる
その土地と密接に結びついて育てられる、村でも土地土地と密接に結びついて育てられていたのである、有機的に結合した共同体があってその中で子供でも自ずと学び体得していった、学校教育はもうそうした共同体から分離して知識だけとの教育となり福沢諭吉は教育は立身出世のためとして学問をしろとなったのである
それは近代化したとき世界中で学校が教育の場となったことは共通しているのである
その前の教育というときヨ−ロッパだったら貴族階級が家庭教師を雇い教育していたのである、学校はないからそうしていた、でも貴族には蔵書があったりして学校に行かなくても学べる環境があった、だからかえって天才でも生まれ育てやすかったのである
その人にあった教育をしたからだともなる

●教育でも田舎と都会の差が大きい

教育というとき田舎と都会で相当に差がでる、ただ教育という時何か人から教えられる
先生がいて教えられるとかなるがそうではない、先生の上に本当の師がいる
それは自然である、自然が基本的に本当の師である
でも大都会になるとこの自然がないのだから自然から学べない、俳句を作るにしても四季を知らなければ作れない、自然を見なければ作れない、季語を知るには年ごとに季語となるものを自然の中で知識ではなく体感する必要がある
すると都会ではしにくいのである、季節感にして余り感じない人工的空間になっているからだ、ただ自然といっても私は別に子供の時に自然というのは感じていない
ただ子供の時は原始的生活だった、洗濯でも裏の堀川でしていた
煮炊きは竈があり炭で暖をとっていたとなる、囲炉裏が街中の生活にもあった
でも自然がどうのこうのとは子供の時感じない、ただ父親が鮎釣りとか鰻釣りしていたし川に小魚がいたからそういうことで自然は感じていたとなる
また畑などがあり田んぼもあり回りから自然を感じることはあった
でも意外と田舎に住んでいても自然を感じない、自然を知らないのである

自然を感じるようになったのは東京の大学をでてから都会暮らしをしてから都会を嫌いになり田舎に帰って自然を感じるようになった、それでつたないものでも俳句とか短歌を作るようになり意図的に自然を感じるように勤めたのである
でも土いじりなどしていないから農業のことはわからない、田舎でも回りが田畑でも農業している人は一割とか少ないのである、今はみんな会社員か工場で働いているのである
それで意外と田舎に住んでも農業のことがわからない人がいるのである
ただどうしても田舎だから自然が無意識的にも感じるようになる
でも自然はこちらから意識的に働きかけないと感じないこともある
俳句を作ることは季語を体得しなければならない、その季語も多様だから意外とこれも自然のある場所で年々積み重ねた体験が必要なのである
それは一年とかで身につかない、相当の年数がかかる、自然を知るには実際は相当な年数がかかる、木が50年で育つように自然の時間は人間の時間とは相当に違ったものだからである、徐々に時間をかけてしか自然を知ることはできないのである

空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった

このキリストの言葉は意外と理解できない、都会ではとても理解できない
鳥をなぜ日々餌を得ているのか?何を食べているのか不思議である
餌があるのか、でも日々貯えることもなく生きているのである
それは単純なことだが人間と比べるとあまりにも違いすぎるからである
人間だったら何も貯えないとしたら不安でしょうがないからである
そのこと当たり前なことでも本当に不思議だとなる
そうして貯えもせず生きていることが不思議なのである
キリストが生れ育ったのはナザレといいう辺鄙な村にすぎなかった

だから自然は身近にあった、でもそこに行ったら何もない、あまりにもありふれた村であり町だったのである、何か特別美しい場所でもなかったのである
ただそういう場所で生きていて自然を観察していてこの言葉が生まれたのである
それが自然が師となり自然が自ずと教育したのであり誰か人に教えられたものでもないのである、だから教育はそもそも人間だけではできない、先生だけではできない
自然が最大の師なのである、それは科学的なものでもそうである
自然からかけ離れたようでももともと自然の観察から生まれたものだからである
ともかく教育といっても学校だけでは先生からでもでも本質的にはできない
キリストがこのことを言っても都会に住んでいる人は何か理解しにくいからである

大都会なら食べ物は食料でもスーパーであれ買うものでありそしてその食料でもどうして作られているのか知らないからである、ただ金で買えるものとしてしか理解できないからである、こうして現代は便利になっても本質的なことを理解できない社会なのである
野菜でも果物でもどうして作られるのかわからないのである
ただ店に並んでいて買うものとしか理解できない、そこに大きな問題が生まれている
本質的なものが理解できないのである、つまり知識と現実の生産とかの場から離れているからであるただ金で買うものとなると金の方が大事になる
でも食料を生産している人がいて食料が得られるということその現場を知らないからそのありがたみも感じないのである、つまり教育といってもそうして知識だけだと記号だけを覚えることになりリアルなものとして現実のものとして理解できないのである

●戦後にはモラルの教育が消失していた

なぜ今教育の問題がうまくいかないのか?それは知識だけの教育であり実地の社会から分離して共同体から分離して知識詰め込みになったからである
教育とはそもそも学校だけではできない、また師だけでも先生だけでもできない
その基盤に共同体があって実地の社会があってできる、現代ではその基盤がなくなったから教育とはただいかに自分のみが得する、楽に生きられるかが問題になる
そして東大を出れば官僚になり上級国民になれるかとなる、それはあくまで得するという立身出世の教育なのである、戦後の教育に道徳教育はない、知識で優れたものが得するという教育しかなかったのである

それはあらゆるものがそうだった、宗教すらカルト教団になり御利益宗教になったのそうである、資本主義社会にはモラルはなくなった
ただ自己の利益をいかに計るかしかないのである、だから教育自体ができない、ただあるのは知識教育でありいかにして受験戦争を勝ち抜いていい地位につき収入をあげ得することだしかなくなったのである
戦前はいい悪いにしろ国家のためにすべてがあった、でもそこには日本的モラルがあったそれは自分だけが利益をあげる得するとかではないものがあった

また戦前と明治とか江戸時代でも特にに江戸時代になると侍が指導者であり侍を模範することがあり侍自身もそう自覚していたのである
だからなぜ明治維新が成功したとなると侍が指導者の立場に立ったからだとなる
江戸時代に育まれた人材がえてそうできたとなる、庶民の革命ではなかったのである
でも大正とか戦前の昭和になると指導者のエリートのモラルが消失した
国民国家となり大衆国家となったとき指導者は国民が大衆が選ぶものでありそれもただ数として選ぶものであり上に立つものに自覚したものはない、やはり利益があがればいい
自己のためのものとして議員でもある、何か公(おおやけ)に尽くすものとしての自覚がないのである、それは選ばれた議員でもない、ただ地位を得て得すればいいとなるとき
自己の利益追求として大衆があるともなるからである

●運の作用が大きい人間

人間の謎は意外と運が作用していることである、だからこの本でそのことを言っているので共感した、そもそもどんな親から生まれるとか決められない、それは運命である、その親から基本的に資質が受け継がれるのである、遺伝があることは確かである
でもそれですべてが決まるかとなると決まらない、環境因子があり家族というのも複雑なのである、いろいろな家族がいてその作用がある、単に実の親がいて子がいるとともならないのである、だから不思議なのは兄弟なのに全く違った人生になる人はいくらでもいるまた兄弟でも性格とか違って同じ運命にはならないのである

◎遺伝、素質

◎環境因子

◎運

ここで意外なのは運なのである、運にもいろいろある、金運とかもあるし人間関係でも人の出合いでも運命的なめぐりあわせがあるとか運が作用している
どういう人と逢うとかでその人への影響が大きいからである
金運とかもある、時代運とかある、団塊の世代は戦争が終わり焼野原から始まったけど
食べる物も満足にない時代から始まったけど高度成長時代がありみんな豊かになった
そしてそれは日本人が優秀だったからとかではなかったのである
その時国際関係でも米ソ冷戦があり日本が共産主義の防波堤としてアメリカに重んじられた、そして朝鮮戦争があり日本が物資の供給国となり経済が復興したのである
その時鉄が不足していて子供の時鉄くず拾いして売って金になったことも覚えている
戦争で鉄が不足したからそれを日本で供給したのである
その後のベトナム戦争でもやはり戦争特需が日本にあり日本は別に戦争で被害がなくても経済的な恩恵があった
だから国家でも運が作用している、時代の運が作用している

私の家が戦後店を駄菓子屋のような店を始めて繁盛したのは別に商才があったとかではない、ただ場所が良かったのである、車がないとき角にあったので場所が良くて繁盛したのである、それも運だったのである、だから何するにも運が作用している
運が悪いといくら能力があるとか優秀だとか言っても成功しないことがある
それで財産のことをfortuneが運となっている、財産でも運があって持てるとなる
だから運が悪い人はこの世でいくらでもいる、不運に若くして死んだとか才能が発揮されずに死んだとかいくらでもいる、戦前は肺病で若い人が大勢死んで国民病ともなっていたからである、それも時代が悪かった、運が悪かったとなる
なぜなら今なら肺病は治るし死ぬ人がいなくなったからである
この肺病は悲惨だったからである、手術で灰の片方を切除した人を知っている
その人は一生身体障碍者のようにして終わった、それも悲惨だったとなる

そもそも人間が才能あったとしても発揮されずに終わった人が多い、それは様々な要因があるが運が作用している、親が悪いとかもある、親ガチャも相当にある
親に恵まれないからそれで一生が犠牲にされたとかある、カルト教団とかの二世問題がそうである、親には子供は従わざるを得ないからどうにもならないとなる
そこで魂まで支配され従属されることになる
私の場合は特別親に恵まれた結果としてたいして才能もないのに発揮できたとかなる
ただ奥手であり遅すぎたとなる、もっと早めに自覚して勉強していれば良かったとはなるでもこれも時代運であり長寿社会になったとき長い目で自らを育てればいいとなる
それも時代運である、肺病でも死ななくなっても良くなったというのもそうである
何か認知症でもアルツハイマーでも効く薬が出るとかでもそうである
時代に恵まれればそういうものも直せるとなるからだ

●運命は不可避的なもの(猫の運命)

不可避という言葉の意味は、「避けられないもの」「回避できないこと」といったような意味の言葉になります。

人間は確かにその人の才能がどうかとか言うけど才能というのは何か開発しないかぎり
発揮できない、天才だと別である、天才は努力しなくても会得するのである
普通の人はそうはならない、自らを知り自らに合ったものを努力して追求しないかぎり
才能も発揮できない、その才能となるのもわずかでも最終的に大きなものとなりうる
だから人間は生まれつきは確かにある、でもそれだけですべてが決まらない
人のめぐり合わせとかも運でありどういう人と出合うとかでも決まる
そして運という時、必ず運がいいとか運が悪いというけど運もめぐるのである
ある人は運がいいとありその運が他の人にめぐってゆく

私が猫を飼っていた、その時別な猫が餌を奪いにきた、でも追い払っていた
それは黒い猫であった、でも飼っていた猫が死んだ時、その黒い猫に餌をやるようになった、でもこの猫は絶対に慣れないのである、黒いからかわいとも言えない
でも自分自身でもなぜこの猫に餌やっているのかわからないとなる
それは飼った猫が死んだからでありその猫に運が恵みがめぐってきたからなのである
人間には何かそうした運が強制的にでも作用している
不可避的なものとして現れたとなる、確かに避けることはできるでも何か飼っていた猫の代わりとなっているのである
誰かの不運が誰かにとってはいい運となる、高度成長時代の日本は朝鮮戦争があり朝鮮人は苦しんだ、でも日本人にとっては幸いしたのである
またベトナム戦争でもそうである、日本人はやはり特需のようになったからである
戦争で死ぬこともなかったのである、このように何らか人間が運の作用が大きいのである
私の父親違いの兄の父親は事故で死んだ、結果として母が再婚して私か生まれた
でも兄は私の家では五年間は一緒に暮らしたが母の実家に引き取られた
そして離婚してその後交通事故で死んだのである
だからそもそも父親が事故で死んだことは不運だったのである
でもその不運があり自分が生まれたということになる
つまり誰かの不幸が誰かの幸いになっていることがある
国家間でも他国の不運が不幸が別な国の幸運とかにもなる
そういうことがどうしてなるのか謎なのである
ただ誰でも一生運がいいとはならない、必ず不運に見舞われ苦しむことになる
そういうことでは人間は平等なのかもしれない




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2022年02月09日

学校、社会で挫折しやすい陰の性格の人 (引きこもりにも効用があるー沈黙して自然と一体化する)


学校、社会で挫折しやすい陰の性格の人

(引きこもりにも効用があるー沈黙して自然と一体化する)


人間には性格があるし好みがあるしそれにあった生活をしないと歪められる
でも家庭でも学校でも社会でもいちいちその人の性格など見ていない
そして外交的な人、コミニュケーション能力がたけた人が人気者になり目立つのである
内向的な人は好かれない、その女性はいつもにこにこと笑っている
だから店で働く接客に向いている、もともとそういう性格だからである
私自身そういう女性とかに好感をもつ、それは全般的にそうだろう
内向的な人間は学校でも社会でも好まれない、陰気臭いとかなる
積極性もないから何か率先してやれないので目立たないのである

でもそういう性格を無理やり外交的な積極的な性格にはできない、それは生まれついたものだからである、人間には生まれついたものがベースとなって作用してゆく
不思議なのはフラワーアレンジメントで気づいたことは花を挿して飾っておくと時間の経過のなかでその花の特徴がにじみだしてくる
それから花はいろいろな花があってもどんな花とも調和して咲いている不思議がある
目立たない花でも例えば葉牡丹など目立たなくでもそれもぜんたいの中で調和して必要なものとして咲いている、これは滋味だからいらないとかならないのである
滋味な花は滋味なりに全体の中で働きがあり調和しているのである
人間世界にはこういうことがない、根本的に人間社会は調和しないのである
絶えず何らかでいがみあいけなしあい衝突して調和しないのである
人間の性格でも素質でもいろいろあっても認めない、こいつは陰気な奴だとかなり排除される
まず教育でもその人の特性に沿った教育などされない、ただ一律に同じように見て機械的に対処するだけである

そしてその人の興味にそって教育などしない、EDUCASTIONが引き出すという語源があるときその人にあった性格素質を引き出す教育などないのである
どうしてヨ−ロッパには天才が多いのだろうかとなる
それは貴族社会であり貴族社会だと個々人に家庭教師がついていたのである
すると個々人にあった教育ができたともなる、だからそこで天才が生まれやすくなったのかともみる

ただ貴族社会には貴族がいても労働者階級は含まれていない
だから「アテネィの学堂」というラファエロの絵には哲学者と弟子がいるし知的探求する天才はいても労働者階級はいない、庶民はいないのである
ギリシャでもソクラテスとかプラトンとか弟子がいても奴隷が支えていたことは語られないのである
奴隷というとき家事をする召使とかがそうである、そういう人は家事労働が機械化されないとき必要だったのである
もし家事労働に追われていたら知的探求などできないからである
それで私は学校では大学でも何か興味をもてることがなかった
でも大学卒業してから自由に旅行して地名とかに興味を持ち地理に興味を持つようになったのである
人間は自由な時間があれば必ずこの世界に興味を持つ、学校で興味をもって学ばなくてもこの世界は神が創った世界は驚嘆すべき美がありそれに目覚めるのである

つくづく学校はスコーレから暇が語源になっていたことが自分の人生で理解した
高校まで受験勉強とかであり強制されるものだった、ただ大学になると勉強は強制されないのである、むしろ授業に出る者は真面目で面白くない奴だとされていたのである
それで一日マージャンしていたりパチンコしていたりする人がいた
そのつま一生が遊び人、ギャンブル人生になった人も大学出ていたのも当然だとなる
何か文系大学だとレジャーランドとかされていた、自由なのである

でも暇だからその暇をいかに消化するかが問題になったり遊び人になった人もいるのがわかる、学生運動でもそれはマスプロ大学で千人とか入る講堂で授業していたからである
授業がつまらないから学生運動に入ったりカルト教団に入った自分の様な人もいる
暇であること何か空白の時間が生まれたのである
でも自主的に興味をあって高校まで勉強していないから何か研究などできないのである
私は大学出てからの方が自主的に勉強しつづけてきたのである
勉強とは自主的に勉強しないかぎりつづかないし継続できないのである
そもそも点数をとるために勉強とか学問はするものではない、何か必要性があり興味がありするものである、試験のための勉強は教育ではないのである

ただこの暇が意外といいようで普通の人には危険である、暇をもてあますからである
それでよからぬ方向へ向かうことがある、そこでギャンブル人生になった人もいる
ゲーム人生とかにもなる、そしていかに人生で時間の浪費が最大の問題だったことに気づくである、時間は本当に貴重でありあっというまに40才ですでに白髪となりおっさんになる、ふりかえると20代が盛りであり30過ぎるとすでに下り坂にもなる
つまり老人に向かっている、そして死に向かっているのである
だから人間は20代で決まるとまでなる、20代で社会からはずれたり引きこもりになると一生引きこもりになってしまう恐怖があったのだ
なぜなら自分自身がそうだったからである、それも怖いと思った
別に引きこもりにならなくても20代でその人の方向が決まり骨格ができる
そして30くらいでその人の人生は決まるとまでなる
人間の時間は限られていることを老人になると痛切に感じるからだ

まず人間の一生となる恋愛したり結婚したり家族をもったりするとその負担が時間をかけることになるから何か自分のあった知的探求の時間がなくなる
その負担が大きすぎるのである、追われてしまうのである
だから天才とか何か芸術家とか学者でも業績を残したのは8割が独身だったとかなる
それもわかる、人間はそんなにいろいろなことはできないのである
そんな時間がないのである、女性に費やすエネルギーも膨大でありそれで時間が失われるのである
そんなことで浮かれているとあっという間に時間は過ぎて白髪の老人になり今や死ぬだけだとなってしまうのである

理系の工学部とかで機械マニアがいてその人たちは機械マニアでありそこに没頭して優秀である、でも英語とかは得意ではないしだらしいなとか社会常識もないが日本にとって貴重な存在だとしている、そういう人達はやはり機械に対する情熱があり新しいものを作りだす可能性があるからだ、でも社会常識的に見たら異常だとなる
それも問題があるにしろ何かに異常に興味をもって没頭するとそうなりやすいのである
社会常識から外れてしまうのである
ベ―トベンとかでもそうだったとかある、つまり音楽の創作に没頭した結果そうなったとなる、でもそこは天才だから大目に見られていたのである
そういうふうに興味に没頭することは何か新しいものを作りだす人となる
引きこもりがこれだこけ多いとしたら何かそういう人が生まれるのかもしれない
ただ

おそらく最大の人生の誤算は意外と人間はすでに20代でその方向が決まりあとはその余禄みたいになる
それで「若きうちに神を知れ」となる、なぜ若いうちに神を知れとなるのか、そんなこと老人になってでもできる、それができないのである
求道は命もっとも盛んな時にするべきことなのである
病人になったり老いてからするものではない、それはすでに時遅しとなっているのだ
すると20代までだからそれもあっという間に過ぎてしまうのである
そして神を知る機会を失うでのである
だから若い時神を求めない限り神を知ることは不可能に思いるのである
それで朝に道を聞けば夕べに死すとも可なりとなる
その後の人生は余禄のようになってしまうのである
なぜなら30過ぎたら40になり白髪がでてきておっさんになるからだ
すぐに50くなっけ初老となり老人となるのである
そこで少年老い易く学成りがたしとかなる
結局結婚して家族を持ち雑用に追われていると時間が奪われでそうなるのである

そういうことで高齢化というのは悪いことではない、たいし才能がなくても時間をかければ積み重ねがあると雑学であれなんであれ自分の興味にあったものを開発できるからである、そのために私は抽象画を始めたのはパソコンを覚えて60過ぎてからなのかもう70に成ってから本格的に作るようになった
全然が絵の才能がないのにソフトを操作して偶然そのコツがわかったからである
たから長生きすることはこうして何かを発見したり学ぶことで自己開発ができる時間が長くなることで天才でなくても普通の人でも何か発見したり創作できるようになる
つまり技術は日進月歩だからその技術に適合して今までにないものが生まれるのである

それで必ずしも陰の性格でも悪く働くとはならない、引きこもりが批判されるが陰の性格の人はどうしても社会に適合しにくい、でもマイペースで自分の性格にあった環境で好きなことをしていると何か発見するということ創造することがりうる
そして引きこもりでいい面に働くのはいつも他人の顔をうかがったり御愛想笑いしたり
何か会社で上司にごまをすったりとかすなくてもいいことである
私はまるで禅僧のように沈黙業をつづけてきた
するとどうなるのか?自然と一体化してゆくのである
自然を知るには一体化するには沈黙が欠かせないのである
なぜなら大地でも山でも木でも石でも沈黙しているからである
ということは自然と一体化することは沈黙しなければ一体化できないのである
でも社会でそんなことしていたら異常だと見られるのである
でも引きこもりだったらそういうことはないのである

禅寺か自衛隊にブチ込めばよかった
引きこもりだから生産性のない奴は根本から対処せんと

引きこもりは禅寺に入るのが向いている、そこだったら別に社会に適応できなくても修行することで布施されて生きることになるからだ、でも現代でぱそういう場所がなくなったのである、不思議なのは貧乏な時代にこそ古代からでも寺が多かったことである
そういう場所にいれば職業につかなくても良かった
そもそも職業は業となるように何か悪いことをすることでありそれでさけていたのである
そういうことは職業には必ずある、何かしら社会の悪とか権力にとりこまれるとか悪いことがあるからだ
知っている人の息子は勉強が嫌いで自衛隊に入った、それで訓練されるからいいともなる私自身は家族の中にいても禅寺にこもっていたと同じだったのである
ただ一日成さずば食わずとはなっていなかった、食事でも毎日与えられていたし家事もしてくれたしただ暇だけがあったのである
だから好きなことをしていたのである、これはただ特殊な事情で家族に恵まれた結果なのである、それで家族には今でも感謝して供養しているのである
介護の時でも必死になってしたのはそれだけ家族に良くされた何でも自由にやりなさいということでそうできたことで感謝している
引きこもりだから親に殺されることもあったからだ

いづれにしろ人間の不思議はマイナスがプラスに働くしプラスもマイナスに働く
陰の性格は社会的にマイナスである、でもこれも実はプラスに働く、家に籠っていても
それで沈黙業を続けると自然と一体化してくる、それで未発表の詩を百遍以上書いた
それは沈黙業をつづけた結果なのである
だから精神修養には禅宗のように座禅して沈黙することが不可欠である
なぜなら人間は口から悪いものが出るからだ、その口からでる言葉の害は恐ろしいものなのである、その言葉によって人でも殺せるし呪いとなり子の世界を汚す、それが人間の特徴なのである

「口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚すのです」。聖書

人間は最も言葉を慎むことがてきないのである、もし言葉をつつしむことができたらこの世はどれだけ住み心地が良くなるのか、それが見落とされているのである
言葉の害は恐ろしいものなのである、ある哲学者は心で殺意をいだいたら必ず殺すことになる、それだけで他者を殺すことになると言っていた
その殺意は殺意を向ける人だけではない、誰かの弱い人も関係ない人もその殺意によって害を受けて死ぬこともあるとしている
そのために中国でも韓国でも日本人に戦争で被害を受けたと日本人に敵意をむき出しにすることがある、それはすでに心でそう思うことが現実化する
日本を攻めて今度は復讐するのだとなる、それは口で言っているだけにはならないのである、それが現実化するから怖いのであく

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2022年01月14日

人間の情が喪失した社会の問題―情を育む村落共同体の喪失 (機械化社会車社会は情を喪失させた)


人間の情が喪失した社会の問題―情を育む村落共同体の喪失

(機械化社会車社会は情を喪失させた)

●情を交わす場の喪失

人間は幸不幸を感じるのは比較するときである、いい家に住んでいるとかいい車をもっているとか比較して幸不幸を感じる、あいつは頭がいいとか才能でもそうである
そこで不満が生れ幸不幸を感じる、一人っ子は親になんでも与えられるからいいと見るものもいる、でも一人っ子は遊ぶ兄弟もいないから親は不憫に思うとかなる
あらゆることが人間は比較して幸不幸を感じる

それは今だけではない、不思議に私は江戸時代が好きである、江戸時代をふりかえると
何か人間的でいい、景観もいいし旅するにも歩いて旅していたとかありなつかしくなる
今より人間的であり旅は道連れ世は情けとかなる、旅は歩いていると必ず道連れになり
そこで一時であっても人間的情を交わすことになる
車社会になるとそういうことは全くない、馬鹿野郎とか自転車で道を横切ったりする怒鳴られる、そしてその車の人はどこかへ情も交わさず去ってゆく

また鉄道だと駅の待合室が人間的な場所になる、そこで人は一時ちょっと見知らぬ人でも話ししたり合ったり別れたりする時間を待つ、また待つことが人間的時間を作りだしている、車だと道の駅があっても何かそこで待つ時間もないし話すことも情を交わすこともないのである、ただ次の目的地に早く着くとういことしかない、その土地とのかかわりもないのである
なぜなら鉄道の駅と道の駅とか特に高速道路のSAとなるとその土地とは全くかかわらないのである、鉄道だったら駅前通りができたりその土地と深くかかわって街が作られていた今は車社会になるとそうした商店街が郊外にイオンとかできてシャッター通りになった
それは車社会が作りだしたものなのである

だから必ずしも車社会が人間にとってすべていいとはならないのである
とにかく現代は情がない社会だというとき旅でもそうだが情を交わすことがなくなっているからである
例えば牛馬を農家で飼っていたりすると動物とふれる、すると動物と情を交わすようになる、それで娘が馬と結婚したという伝説も生れる
動物とふれることは情が通じるからである、だから今ペットブームになっているのは
犬猫と情を交わすことができるからである
人間より犬猫の方がいいとなるのも人間社会が非情化したからである
そうして私は特に車を嫌悪するのである、なぜなら車が情を奪うものとしてあったからである、もちろん車の恩恵は計り知れないことも確かである
ただ車が社会を変えて便利でも情無き世界としたことも確かなのである
するとどうしても車なき戦前とか特に江戸時代がなつかしくなるのである
だから浮世絵とかみると心がなごむのである
ここには人間がいたなとなる、今は車しかいないとまでなる

●旅は道連れ世は情け

ともかく人間は比較することで常に見ている、それは今という時代だけではない、時代の比較でみる、日本では江戸時代があることが現代を比較する見直すということで役にたつまた戦争の時代がありその時代をふりかえるときそんな時代に生れなくて幸福だともなるただ戦争の時でもそれが終わるとみんな協力していたとかなつかしがる人もいる
人間は一時代が終わるとそれをなつかしく思うのである
ビートルズの音楽を聴いて老人が泣いているというのもそうである
その時青春がありもう二度と青春は帰らないものとなったからである
老人は回想に生きる、だから過去が苦しかったとしてもなつかしくなるのである
これは理屈ではない、そういう時が貴重だったなとかふりかえるのは二度とそういう時が帰らないからである、そしてあとはさよならだけが人生だとなってしまうのである

やはり現代でみんな感じていることは人間に情がなくなった、情を交わすことが少なくなった、それは共通しているだろう、旅で情を交わすということもない
なぜならバイクにしても早いからである、逢ったとしてもあっというまに遠くへ行ってしまうということである、バイクはエンジンをふかして音を出すことに快感を感じている
だから電動バイクはつまらないとしている、それは自分も電動自転車で感じた
大きな音はでないがブーンとなるとき快感を覚えたからである、ただその音は低いし迷惑にはならないのである、ただそこに機械と人間の関係であり人間と人間の関係は生まれないのである
歩く旅だったらどうしても道連れになり情を交わすとなり
別れを惜しむから分去(わかれさり)という場所が地名化した
一時でも出合った人の後ろ姿をずっと見ていたとなる
そして歩く時代は逢うことが簡単にできない、一度の出合いで永遠に別れてしまうともなる、だからこそ別れを惜しんだとなる

二本の松の立ちにし街道をまた逢わんかな秋の日暮れぬ

松があるとしたらその松とも情を交わすことになるのが街道を歩いていたときなのである
いづれにしろ人間から情は喪失した、車が騒音をまきちらしバイクが爆音たてて過ぎ去り自転車が横切ると怒鳴り散らして去ってゆく、あとに残るのはそうしだ怒鳴り声は車とかバイクの爆音なのである
結局現代の文明は情を喪失させた、機械とか道具とかは極限まで改良されても何か情を喪失した社会であり殺伐としている、もうそこに人間はいない、終にはロボットがいるだけだとなる,ロボットと今は会話しているのかもしれない、インタ−ネットの会話などでも
相手が人間なのかロボットなのか見分けがつかないこともある
それは有益なこともあるが情を交わせないことが問題なのである

●義理人情もなければ宗教の愛と慈悲はありえない

そもそも宗教とは人間の情のことである、愛とか慈悲とかでも情のことである
そしたら情がない社会で宗教がありうるのかとなる
現代社会で肝心な人間の情が欠落しているのである
例えば病院に行っても設備として高価な機械があっても何か人間の情がないのである
患者を一人の人間ともみない、それで議員でも番号で呼ばれたことに怒ったのである
つまり現代人間は番号であた数字化されているのだ
医者でも看護師でも情に欠けているのだ、医は仁術から医は算術になったのもそうであるそれはカルト教団でもどこでも同じである、数を集めることが第一である、要するに番号として数として処理されるだけだとなる、それでナチスが埋まれたと分析する学者もいる

そして家族遺棄社会のように親子の情すらなくなる、それはもう人間の基本的なものが失われている恐ろしい社会だともなる
そして現代社会は深く病んでいる、精神的ストレスに苦しめられている
それはどこでも情を感じられないからである、そんなこと言っていたら生きられないということもある、情を重んじれば利益にならないということもある
ただ利益ぬきの情が人間社会に必要である、それが潤滑油になる
ただ現代社会は機械化社会であり情を育む環境がなくなったことである
それで江戸時代は貧乏でも情が交わされた社会に生きていたとなつかしむのである
それも人間はその時代に生きていなければただイメージするだけだから美化されるのである、死者が美化されると同じなのである
実際は江戸時代に生きたら地獄だったとなるのである

グロ−バル化経済社会でも物は自由に流通しても必ずしも人間と人間の情は交わすことはないし育まれない、ただ物が入ってくるだけだからである
ただ人間が直接来るとどうしても情が必要になる、相手が生身の人間だからである
そこで外国人労働者でも相手が人間だから機械や道具のように扱うと恨まれるともなる
なんらか日本人を恨んて母国に帰るとなるとあとあと問題になる
グロ−バル化したからといって国同士が親密になって友好的にもならない
それは個々人でも情が交わされていない、経済原理だけでもうかるというだけでは情は交わされない、ただ利益としてしか金になるとしか見ない、そして金の切れ目は縁の切れ目となり中国でもあれだけ友好を言っていたのに領土問題で敵対する
人間は物を入ってきてもそこに情が交わされないと友好は保てないとなる

人間の生活の意義は人倫の道を実現することにある、利潤が自己目的となれば人間の生活は利潤のための手段となり
その意義を消失するだろう
だから経済組織はあくまでも人倫の道合うようにに革新せねばならい(和辻哲郎ー倫理学)

グロ−バル化した経済では情とかではない道理を重んじるものとなった
情を重んじればグロ−バル化はありえない、情とは家族とか狭い範囲で成立つものだからである、でも宗教となると情を中心にしている、愛と慈悲は情なのである
道理を優先する社会は情が希薄化する、グロ−バル化とは情無き社会なのである
すると世界は人倫を無視したものとなる、そして国でもただ利潤を目的としているだけであり世界的人倫組織などありえないのである
だから中国と日本が五十年前に日中友好があれほどあっても今やない、中国が経済で巨大化すれば小国となった日本の領土でもとりにくる、支配しようとなる
世界化に拡大すれば人倫の道はなくなる、日中友好のときは互いにあれほど結ばれていたのにただ今や中国は日本の脅威となり日本の領土を奪われ支配される関係になる
情というのは世界関係になると成り立たないとはなる

●師弟関係の情もない、知の教育となり情は育まれれない

師弟関係でも今やない、ただ一時的な知識の教授しかない、だから先生のことを慕い何か情的に結ばれることもない、ただ受験とかで競争に勝つことしか教えられない
そのために先生がいて知識がある、そして一緒に学ぶにしても友でも受験戦争になると追い落とすことに力をそそぐ、もう友情でも育まれない、情が育まれない
知識も膨大だからそれに追われて情は育まれない、そもそも情というのは金にもならないし利益にもならないから実利がないから無視される
資本主義社会とは実利の追求であり情は余計なものになっているからだた

ただ戦前の教育では修身とか礼とか体錬が重んじられて知識優先ではなかった
だから戦前までは何か情がまだあり義理人情も活きていた、今はそれもない、同情するなら金をくれとなってしまう
ただ問題はそうして極端な知識偏重とか科学技術偏重とかから現代の殺伐な社会が生まれたのである
すると情をどうして育むのかが問題になる、でもそれが時代的にできないのである
ただこういうことを問題にして情操教育どうするのかとなるがその基盤がもともと村落共同体ならあったがそういうものも喪失した
だから情を育む基盤もないのだからどうにもならないとなる
結局いいと思っていたグローバル化と科学技術社会と車社会とか資本主義のマイナス面が大きくなったのである
だからこれらを全部否定するのではなく見直す改善する抑制するとかが必要になったのである

ただ時代の変化が余りにも大きすぎたのである
江戸時代はそんなに技術でも変わらない、変化の少ない時代だから社会だったのである
現代では継続されない、技術でも変わりすぎるし継続する価値を追求できないのである

導きしことさへ うすき老いの身に 三世の契りを残す石ぶみ

群馬県原の郷村に明治三十四年に建てたられた筆子塚

師弟の関係が三世の契りとなまでなっている、おそらくそれは情で結ばれた師弟関係だったからこうなったのかもしれない、今は学校というといい思い出が自分にはない、ただ強いられた苦行であり先生でも情でつながらないのである
近くの人も八十五くらいだけどまたすぐ近くの人が先生だった
その先生をひどく恨んでいたのである、なぐられたことを根に持っていたのである
だから現代では師弟関係でも昔のようにはないのである
それは時代と関係してそうなったともなる
私も殴られたのではないが先生に対して恨むのではないにしろ根をもつことがある
これも学校とういのは昔の寺子屋とかとはまるで違ったものになっていたからである
カルト教団の師弟関係は弟子とは奴隷であり数が多いからナチスのヒットラーへの忠誠と同じである、それは大衆化した社会で起きたことである

●情を育む村落共同体の喪失

学校とは一つの工場のようなものでありその監督が先生にもなっていたのである
それは時代の要求でそうなっていた、大量規格製品を作ると同じように生徒を工場で働く規格品を作ることが教育になっていたからである
そして教えるものが多すぎることなのである、江戸時代なら本当に読み書きソロバンであり知識量が少ないからかえって礼とかしつけとかが重んじられた、情も重んじられた
知識を教えるのではなく狭い村落共同体で生きるための知恵を授けられていたのである
そのために情で結ばれることが基本にあった、だから村落共同体は一つの大きな家族となっていたのである

取上げ親(産婆)とはべつに、出産時にへその緒を切る人)
抱き親(出産直後に赤ちゃんを抱く人)
行き会い親(赤ちゃんを抱いて家の外に出て最初に出会う人)
乳親(生後数日間、乳を与えた女性)
拾い親(丈夫な子どものいる家の前に形式的に捨てた赤ちゃんを、一時的に拾って預かった人)
名 付 け 親(名前をつけた人。たいていは自分の名前から一字あるいは複数の字を与えた)
守親(幼児になるまで子守をした人)
烏帽子親(武家の元服に立ち会う)

これだけの人が生れたときとか幼児の時かかわっていたのである
そこに自ずと情が生まれる、他人がかかわりその子に情が生まれる家族のようにもなる
子供の時から親密にふれあって情を育んでいたのが村だったのである
ただそのマイナス点は広い社会と交わる公共的なものがなかったことである

武家では乳母(うば、めのと)がいた、乳がでないと乳母を頼む
するとその乳母と我が子のようにも思える、情が生れるのである
武家社会がなぜ強い絆で結ばれていたか、戦があれば主君のために一緒に戦い死ぬとういこともあり生死を共にする、だから家族ごと一体となり御家のために尽くしたのである
だから家来でも一つの大家族のようになっていたのである
つまり情で強く結ばれた共同体だったのである
だから東国の武士が平家に勝ったのは武家では代々情で結ばれた関係がありそれで勝ったとしている
人間の強固な情の結びつきあり勝ったとしている、武器だけでは戦争に勝てないということもあるからだ
太平洋戦争では日本兵は上官と下士官が強く結ばれていなかった、上官に下士官は常に不満だった
アメリカはかえって上官と下士官の結びつきが強かった、それも負けた敗因と分析する人もいる
歴史をさかのぼると人間は情で結ばれていた、でもだんだん明治以降からさらに昭和となり戦後になると情で結ばれる関係は消失してゆく、最後は核家族となり会社の部品のようになる、その人間の結びつきは高度成長時代の終身雇用の時はあった
でもかつての武家の殿とか家臣の結びつきのようにはならない、そういうこで人間の歴史を見ると人間の歴史がどうしてこれほど変わってしまったか見えて来る

震災でも盛んに絆が言われたが現実は絆がなかったから余計に言われたのである
でも結果的には地元でも絆はなかった、かつての村落共同体のようなものは喪失していたからである
そして補償金をもらうことが復興となり分断されたのである
だから十津川部落ではみんな一致団結して災害にあっても北海道に移住して団結していたのとは大違いだったのである
例えは浪江町の電気関係の仕事をしていた人はまわりの田畑が草ぼうぼうになっていても何も感じないのである
かえって老後の資金を補償金でもらって良かったとしている
つまりもう村落共同体などは遠い昔のものになっていたのである

現代文明とはそもそもそうして人間性とかを無視するものだった
それでケージに入れられて卵を産む機械に鶏がされている
それも現代文明の効率化工場化なのである、近くの放し飼いの鶏(にわとり)が文字通り庭を歩いているときほっとした、牛も牧場にいてなごんだのである
とにかく様々な文明のマイナス面が顕著になった時代なのである
いくら科学技術が発達したからと人間を幸福にはしないことに普通の人でも気づいたのである
つまり幸不幸とは常に比較して幸不幸がある、比較して自覚される、江戸時代と現代を比較して幸不幸がありそれで何が不幸にしたかとなると情がなくなったことだとなる
でも江戸時代からみれば科学技術でも近代化した社会と比較した時、その相違に気づく
ただ人間はみんな時代の子であり江戸時代に還ることはできないし未来を生きることはできないのである



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2022年01月12日

戦前の学校教育―旧制高校は超エリート (みんな尋常学校で読み書きソロバンの延長だったーこれからの教育)


戦前の学校教育―旧制高校は超エリート

(みんな尋常学校で読み書きソロバンの延長だったーこれからの教育)

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大学は増えたから実業化しろとなるとき戦前の実業学校にしろとなる
職人の養成とかである、大学は増えすぎてその中身が劣化したからである
実際大学として通用するのは国立大学と早慶になっているからだ
後は実業に即してものでいいとなる



●尋常小学校ー女学校時代

尋常小学校の6年間が義務教育となり、かつ尋常小学校の就学率が97%を超えたのが1907年(明治40年)のことです。ちなみにこの時点で、日本に大学は3つしかありませんでした。東京帝国大学(現・東京大学)、京都帝国大学(現・京都大学)、東北帝国大学(現・東北大学)で
https://note.com/asamorikdb/n/n6f38ed881883

人間は老人になれば60以上になれば必ず過去をふりかえる、自分は何をしてきたのだろうか、何のために働いたのか?そういうことは若い時はあまり考えない
生活のためだ金のためだとかなっている、それで収入が多い方がいいとなるだけである
何が志をもって働く人はまれだろう、そういうことは戦前のエリートの帝大生にはあっただからデカションとか哲学者をまなんでいたのである
その極一部のエリートは何か就職するのでもすでにかエリートとして有利な職が地位が与えられることが約束されていたのである
だから戦前のそうした旧制高等学校は一校二高・・・とかに入れる人はまれだったのである

例えば女学校というとき(高等女学校)というときそこに入れる人は地域で選りすぐれた女性であり金持ちの家が多かったとなる
だから女学校を出たというだけで一目置かれていたのである
それで飯館村の大倉のばあちゃんが俺は相馬女学校でたとか言っていた
それを自慢したかったのだろう、ではなぜそんな山の中で女学校に入る金があったのかとなると山林をもっていて山持ちが金持ちになっていた時代があったからだ
戦前は木材でも輸入することがなくみんな地元の木材を利用していたからである
木材は炭にもしたし燃料として欠かせないから飯館村では炭焼きで金持ちになった人がいたのでる
姉は看護婦になったが意外となれないものだった、なぜなら結構勉強することが多いからである、そして試験を受けるために東京の新宿の方まで行っていたからである
ただ頭が良かったのとしっかりしていたので女学校に入れないことを悔しがっていたのである

●相馬市の女学校に通った大倉の女性

私の子供の時でも囲炉裏があり炭を利用していたから今になると信じられないとまでなるその女性は鹿島の親戚の家から相馬女学校に通っていたのだ
とても大倉からでは通えないからである、第一通うだけで大変だった
なぜならその頃汽車(電車)があったとしてもその汽車賃が高いからである
私の母は大正生れて松川浦に親戚があったが汽車に乗って行ったことを語っていた
その時代は意外と汽車が通ってもいてもめったに乗っていないのである
なぜなら汽車賃が高いからである、今ならみんな電車で気軽に乗っているけどそうはならなかった、それだけ貧乏だったとなる

そして鉄道とはもともと荷物を運ぶために作られていた、主に石炭を東京に運ぶために作られていた、北海道はたいがい石炭を運ぶものしとて作られていた
旅する人を乗せていたわけではない、何かおそらく汽車で旅した人は文人とか特殊な人達だったかもしれない、汽車賃が高いから簡単に乗れないからである
それで鹿島区の横手から梨を売るために相馬市までリヤカーで行っていた女性がいた
これも遠いから大変だと思った、でも汽車はとても利用できないのである
その頃車がないからそうなっていたのである

この図でみれば大正生れの母は尋常小学校でありそこは一番多かったのである
それはせいぜい読み書きソロバンでありあとはたいして勉強する科目がなかった
習字とか作文とか算術が主だった、だから勉強するには楽だったとも見る
つまり高等教育を受けるのはほんの一部でありあとは日常生活できる程度の読み書きソロバンだったのである

●戦前の教育は修身と体練が主であった

効率的に知識を生徒の頭に詰め込むことができる。

初等科では国民科(修身・国語・国史・地理),理数科(算数・理科),体錬科
(体燥・武道・ただし,女児には武道を欠くことができる),芸能科(音楽・習字・図画・工作・女児には裁縫を加える),高等科では以上の諸教科のほか実業科(農業・工業・商業又は水産)を加え,女児にはさらに芸能科に家事及び裁縫を加えることになっていた

戦前は修身、体錬(体育)が重んじられていた、この中に武道があった、それで今でも相馬女子高校では長刀(なぎなた)を習っているのである、それは江戸時代の続きだったのである、相馬女学校は相馬氏の城があったからそういう歴史があってそうなったともなる侍の伝統を受け継ぐものとして依然としてあったともなる、裁縫も女性には不可欠だったから科目にあった
なぜなら原町高校の前進は原町商業学校だからである、相馬市には相馬女学校とか何か伝統的なものがあることがふさわしかったとなる
ともかく今のようにあまりに多岐にわたる科目がないし何か実生活での基本的なことを学ぶ場であった、今はあまりにも複雑なものとなりすぎたのである
もしかしたら基本的教育で必要なのは修身、体錬(体育)だったかもしれない、それが学校では膨大な知識中心の教育に変化したのである

戦後の教育は効率的に知識を生徒の頭に詰め込むことができる。

生徒を教室という『監獄』に押し込んで、授業で疑問や反論を一切認めない、画一的な教育を行うことによって、上からの理不尽な命令にも何の疑問も持たず、従順に従う、経営者にとって都合がよく、質の高い『企業戦士』という兵隊を大量生産することができる。
https://jp.quora.com/nippon-no-senzen-kyouiku-to-sengo-kyouiku-no-ooki-na-chigai-ha-nande-shou-ka

戦後の教育も明治からの継続であり暗記中心の教育でありそれが一応成功していたのである、戦後の焼け野原からの復興でもこうして画一的な人間の大量生産で良かったのであるなぜな高度成長とは同じものを大量に生産することであり人間も個性重視とかならない、個性を無視した同じような規格化された人間を作ることで良かったのである
そこに創造性は必要なかったのである
つまり日本の教育は時代にあって成功していたともなる
ただ規格化した大量生産と同じように人間もそうなったのである
そこで戦争になりその原因がまた戦前の画一的国家に忠誠を第一とするものとなっていたそれが国家神道となり皇国となり戦争の下敷きとなったのである
それは戦後も同じような規格化された人間の大量生産であった

『子曰 学而不思則罔 思而不学則殆』
(学びて思わざれば則ち罔(くら)し、思ひて学ばざれば則ち殆し)

これは論語でもやはり学ぶことがどういうことか要点をついている
学ぶはまねるから来ている、暗記することであり暗唱することである
だから江戸時代でも暗唱しろと寺子屋があった跡に古い碑があった
暗唱が暗記が学ことの基本にあったのだ

でも学問とはまず学ぶーまねるーでも思わないと考えないとだめである、また考えてまた学ぶとなる、その過程で学問が身につくのである
だから論語というのは何か忘れられたが江戸時代でも論語を学びそれで人間を作っていたのである

●戦後教育も大量規格品を作り工場に配置するためであった

いづれにしや戦後の教育は高度成長時代を作るには良かったがその後は30年の停滞がありモラル的にも荒廃したのである
知識第一であり無思考であり創造性も追求していない、だからカルト教団が戦後増えたのである、これは現代文明に共通していたことでもある
ドイツにナチスが生まれたのはやはり日本的土壌と似たものがあったからかもしれない
ナショナリズムが強くあり民族意識が強いからそうなった面もあったからだ
何か軍隊的であり上意下達であり体育会系ともなる、ただ軍隊はそういうものであり
自主的に考えることを拒否する、それは警察とか自衛隊とかではそういう人が集まっている、考えることとか法律とかを嫌っているのである、それは体育系の上の命令に従うだけのロボットがいいのである、ただ体育とか体の鍛錬は必要なのである
だから戦前の教育がすべて悪いとはならない、いいとしている知識人もいたからである

いづれにしろこれからの教育をどうするのかとなるとやはり時代にあって抜本的に変えざるを得ない、高度成長時代は規格化した人間の大量生産でも良かった
でもなぜ30年も経済でも停滞しているのか?それは世界でも変化してそれに追いつけなかったからだとなる、ITでもそうだし何か製造業からソフトが中心になったとき変えられなかったともなる
創造性というときそれは一部の天才のものであり一般の大勢の庶民には関係ないと思っているがそうでもない、創造性とは創造してゆく態度なのである
創造性が大事だとなり何か常に工夫して考えて学ぶということである

『子曰 学而不思則罔 思而不学則殆』
(学びて思わざれば則ち罔(くら)し、思ひて学ばざれば則ち殆し)

真似るだけではない、思うー考えることなのである、考えるとは工夫するということにも通じている、それが日本の教育に足りなかったのである
なぜヨ−ロッパが西欧文明が世界を導く者となったのか?
それはヨ−ロッパは貴族社会であり家庭で学べる環境がありそこで天才が多数生まれている、つまり学校教育ではない、家庭で学べる創造性を発揮することができた
また家庭教師がついてその人にあった教育ができたということも天才が生まれた所以だとなる

ともかく日本は今戦後70年であらゆるものが疲弊して停滞して衰退している
教育でもそうである、もう時代に合わない教育をつづけている
そうして改革しないとじり貧になってゆく、すでになっている
それは教育だけではない、あらゆる面でそうなっているのである
だから抜本的な改革をしない限りさらにジリ貧になるみんな不幸になってしまうのである

●明治維新の西欧化で失敗をしたことから学ぶ

ただ人間が住みやすいとか幸福とは何かとなると別に最先端の科学技術志向がそうするともならない、それが原発事故でわかったのである
いくら豊かになるとしても故郷にも住めなくなるということは最悪だったからである
別に原発が無くても住むことはできていたからである

日本は日本なりの教育があり経済があり文化がある、そういう日本の伝統を見直す作業が必要になるというのもわかる
何か戦後の20数年はかえって日本はいい社会だったとしている
それは戦後十年は貧乏の時代である、どこの家でも飯台一つしかない貧乏だった
でも何かその時日本人はかえって一家団欒とかあり貧しくてもめれほど欲望に衝かれたうになっていない平和な時代だったと回想する人もいる
何か隣近所とのつながりもあり金第一とか欲望がむきだしの競争社会でもなかった
そう回想するのも昔は良かったという年よりの常套句にもなるがでもそういう面はあったのだろう

そしてバブルの崩壊で日本の物欲金第一主義が崩壊した
それから30年も経済は低迷している、
すると過去に回帰するのが日本がである、過去に回帰する歴史があるのが日本なのであるアメリカとかにはないからである、日本に江戸時代があったということが大きな遺産なのである、だから江戸時代を知ると心がなごむのである、それは東京でも江戸は全然違った風景なのである、今になると東京には行きたくない、何か魅力あるものがない
景観でも高層ビルと車の洪水と騒音の中で人間的なものもないのである
だから今東京から人が離れて地方に移住する、東京の人口は減ってゆく
明治以来の東京中心の社会は終わる
だから教育にしても地域に根ざした江戸時代の藩校のようなものが復興するかもしれない私の試みて来たのはそういうことだからである
地域に自然に根差した本来の人間の復興である、ただそれも東電の東京中心の経済体制で原発事故で崩壊したのである

確かなことはこれからは脱西欧化アメリカ化が志向される、和魂洋才の和魂が見直されるそれはアジア的なものが見直される時代になる
ただカルト教団の仏教などは全く文化的な精神的なものとは何にも関係ない
そこには数と権力志向があるだけである、その現世利益追求は確かに高度成長時代の物欲中心の世界にマッチして会員が増えたのである
でも高度成長時代が終わりマッチしなくなった、物欲が充たされなくなったからである
そして物欲ではなく精神的和魂の充実が求められているのである
だから万葉集などが見直されるのである、ただ依然して和魂洋才は形を変えてありつづける、実際に西洋文明といっても日本では日本的に消化されなかったからである
それをアジアでは中国に先行して日本が担っていたのである
それで西欧文明の言葉を漢字を通して訳したのが日本だった、それを中国人が使っているのである、つまり日本が西欧文明とアジアの橋渡しを担っていたのである
今でも外交的にはアメリカとヨ−ロッパと中国の橋渡し役があり一方に偏ることは良くないのである、日本は両国の仲介役の立場にあるからである

西欧文明というとき内村鑑三によるとキリスト教文明でありそれを受け入れないので日本は西欧文明の受容に失敗したとなる、西欧文明を日本は機械とか道具とか工業力だと見たからである、それがキリスト教文明と見なかったのである
それで内村鑑三は武士道とキリスト教を接ぎ木したのである、手島郁郎はキリスト教と神道を接ぎ木したのである、神仏習合とも似ていたのである
キリスト教にはそういうことはなかった、習合しなかったのである
つまり機械であり道具であり実用的な技術的なものとしてしか見なかったし受け入れなかったのである、だから国家神道となりそれが戦争にも突入する要因ともなっていた
だから教育もすべて実用としての教育でありそこにモラルとしての教育は戦後は余計に修身もないのだからただ利益の追求だけになったのである
カルト宗教でも御利益の追求しかなくなった
アメリカ軍にGHQに支配されて日本の精神は骨抜きにされて今日至っている
明治維新で日本精神文化は失われ次に敗戦でアメリカ軍の支配で日本はモラルなき国となったのである
教育だけで日本を変えることは不可能である、日本国家自体の変革が要求されている
そういう大きな時代の変わり目なのである、戦後70年であらゆるものを変えないと日本は没落するだけでとなる
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2021年10月02日

内発的動機と外発的動機で仕事や勉強の態度が変わる (継続できるのは内発的動機をもつ者である)


内発的動機と外発的動機で仕事や勉強の態度が変わる

(継続できるのは内発的動機をもつ者である)

お金を貰えるから、嫌な仕事でも頑張る。
仕事をサボっていると、怒られるから、真面目に働く。
クラスで1番の成績を収めて表彰されたいから、勉強を頑張る。
テストで低い点をとって恥ずかしい思いをしたくないから、一応最低限の勉強はしておく

常識を覆す、やる気を引き出す科学的方法

ここに書いてあることは自分の思うことと一致していた
前に読んでいたが忘れていた、でもプログを読み返してなるほどなと思った
内発的動機と外発的動機のこともそうだった
内発的動機だと芸術家でも成功する、外発的動機だとか報酬を第一とするから成功しない一時的に有名になったり金が入り成功したように見えても芸術家としては成功しない
肝心の内発的動機がないから報酬をもらうとそれで目的が達成されて終わる
でも内発的動機でつづているものは最後に自分自身の芸術の完成に向かう
ただその時内発的動機だとしても誰にも認められず金銭的にも恵まれないとするとつづけるのはむずかしいとはなる

これは芸術家だけではなく教育にも言える、内発的動機として勉強すればそれは継続するし終わりなき知的好奇心として独習でも勉強しつづける、でも外発的動機だと試験とか外部の評価とか有名高校大学に入ることが目的だとその目的が達成される勉強もしなくなる内発的興味から勉強するならそれは一生でも継続するのである
ライフワークになるのである

内発的動機というとき動物でもそれがあった、チンパンジーに数字を覚えさせようとしたときそれにチンパンジーは夢中になった、チンパンジーも遊ぶことができてそれが面白いからしていた、でも必ずそこで報酬としてバナナとかを与えていたらそのバナナが欲しいということになり数字を覚えることに興味を失ってしまったのである
そういうことを子供でも実験したことをここでは書いている
私自身の経験でも教育とはすべて外発的動機からしていた
また高校まで一回も自分自身で考えることをしなかった、ただ試験のためとか親に認められたい、みんなに頭がいいとみられたいとかしかなかった
つまりすべて外発的動機だったのである、何か知的好奇心から勉強していたのではない
常に試験の点数をあげるためとかあらゆることか外発的動機でしていた
そういう勉強はつづかない、内発的動機でしているのもは一生継続するのである
人間の知的探求心は無限だからである

人生何をするにもやはり内発的動機から始めないと失敗する
でも実際はみんな外発的動機で仕事でも何でもしている、日々の糧を稼ぐためにしている内発的動機と外発的動機は対立する、必ず金にならないからやめる、認められないからやめるとなるのが普通だからである
金にならないと事業だって何でも継続できないからである
この両方を備える仕事とかなかなかないだろう、現実社会ではまずは利益だとなる
利益がでないならやめるとなる、また会社でも認められない
だから例え不正でもノルマを果たせば上司に認められ会社に認められる

でも考えてみると会社でもどういう動機で働くのかが問題になる、内発的動機が問題になる、それがないとモチベーションもあがらないとなる
ただ利益になればいい、売れればいいとしかならないといづれは会社もだめになる
現代は何かこうして意味を求められる時代になる、ただ利益を上げればいいとはならない内発的動機は外部に左右されないことである、その人にとって価値があり意味があることを継続することである、ただそれを全く外部的に認められないし評価されない金も与えられないことがある、そうなると継続することが困難になる
会社経営などは利益があがらなければやめるほかないからである

外発的動機というとき事業を始めた人はただみんなに自分は優秀だということを見せるためにした、確かに会社に勤めいたときは難しい資格をもっていて優秀だったのである
エンジニアとして優秀だったのである、でも事業を始めたときその動機は自分が優秀なのだから会社経営しても成功すると思っていたのである
そこに内発的動機が欠けていたのである、外部に優秀だと見せたいと言うだけだとなる
外発的動機になり内発的動機には欠けていたとなるからだ

つまり人間は常に外部を気にしている、みんなに知られて認められたいという願望が強いでも内発的動機を持つものはそういうことがあってもやはり内発的に継続するものが大事なのである、外部から認める認められないにしろ内発的動機から追求して来たものを一生追求する、特に芸術家となるとそうなる
価値とは相対的なものでなく絶対的なのである
唯一無二になる価値になる、花でもいろいろあってもそれぞれ個性があり相対的に価値があるのではない、その花にしかないものがありそれが価値となっているのである
みんな同じだったら価値がないからである
だから誰でも作れる大量生産できるものはやがて価値がなくなる
それが日本の電器製品とかだったのであり今では韓国でも中国でも同じものを作れるから価値がなくなり売れなくなり日本は衰退したのである
もし日本でしか作れないとかまねできないものだったら依然として価値を持っていたからである

ともかく現代のようにある程度豊かになるとそうした個性が求められるようになる
なにもない時代は個性より同じものでも作って売れる、でも器でも同じものがいいとなっていたのは貧乏な時代なのである、器一つにも個性あるものを求めるようになるからだ
同じもの大量生産する時代なら個性は必要なかったのである
日本の教育もやはり同じであり工業社会に適応する規格品を作ることが教育だったのである、思考脳、感性脳、遊戯脳は必要ないものだったのである
それは大量規格製品を作る時代だったらそれで良かったのである

これからそういうことが通用しなくなった、それでみんなアーティストになれというのも時代が変わったなとなる、そういう時代の変化は老人になるとなかなか理解できない
ベーシックインカムとかでもそうである、働かないいで金がもらえる、そんな馬鹿なことがあるのかとふざけるなとなってしまうのである
ただ自分の場合はそういう生き方をしてきたのは違和感がないのである
ただ企業戦士として働いてきた団塊の世代とかバブル世代とかはそういうことが理解できなくなる、教育だってそうである、大量規格製品を作るのがこれまでの教育だったからである、第一個性を引き出す教育は結構手間になりめんどうになるから先生でもしたくなとなるからだ、一律に教えているのが楽になるからである

ただ正直教育にしても別に先生がいなくても教えなくても自発的動機でしている人は自主的に学べる環境を与えてやればそれだけでもいいとなる
まず家に一冊も本がないとか子供部屋もないとかそういう環境ではいくら自発的に勉強するなってもできないのである
読み書きそろばんくらいの時代ならいいが今は高度な知識社会になるとき対応できないとなる、家にそういう環境があれば自ずと内発的動機で勉強できるとなるからだ

いづれにしろこれからの時代を生きるには今までの感覚では通用しなくなる
社会自体の価値観も変わってきているしグロ−バル化しているしそれは物流だけではない知的なものでもグロ−バル化しているからである
それに対応する能力をつけないとついていけないのである
私がグロ−バル化に反対したというのは過剰な物流のことであり知的なものではグロ−バル化した方がいいのである、それがインタ−ネットで世界的な知の交流時代になったともなる、テレワークの時代になったとなる
大学でもかえってテレワークの方がいいとなるとき実は教授でも教える方でも今度は生徒によって選ばれるのである、それも飛び切り優秀でいなと選ばれないとなる
なぜなら別に個々の大学で人を集めて講義するのと違うからである

その人の興味によって最も優秀な先生からyoutubeとかテレワークで学べばいいとなるからだ、かえって講堂で多人数で講義を受けるよりわかりやすいということもあったというのは別に大講堂で講義を受けるより身につくとなる
教えるも先生も淘汰され時代にもなる、AIの授業にもなる、実際ある分野では翻訳とかではAIが優れているともなるからだ、それで普通の先生は失業する時代になる
ただ創造的に教える先生は残るとなる、創造的なことができる分野は残るとなる
先生はもう選ばれた人しかなれないとか医者でもAIが発達するとそうなる
あらゆる分野でAIとは違ったものをAIにできないものをできる人が生き残るとなるからだ
ただ友達を作るとかその他の人間的なことが育めないことがある
そのマイナス面ももあるがプラスの面も大きいしそれが時代の流れになるとき無視できなくなる、知らないですまなくなるのである
車時代に車を持たないことは時代も社会も知らないことになるから問題なのである
例え車をもっていないくても車社会だから車の知識が必要になる
それで自分自身が車ももたいなで車を知らないことで失敗したのである
身内が交通事故になって自賠責とかでも知らなかったからである
こうして自分は社会から離れて暮らしたのはいいにしてもいろいろなことを知らないことで失敗したのである


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2021年10月01日

これからの教育はどうするのか (思考脳、感性脳、遊戯脳の育成)


これからの教育はどうするのか

(思考脳、感性脳、遊戯脳の育成)

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明治維新以降の教育はヨ−ロッパ文明をまねることだった、何かを日本人が独自に産みだすことではなかった
だから暗記脳で良かったのである、江戸時代でも暗記脳教育だった
「読み、書き、そろばん」で良かった、それは自ら考えることではない、暗記することである、それで子供の時そろばんが得意だったけど何の役にも立たなかった
父親が酒店の丁稚だったので子供にも同じ教育をさせようとしたのである
つまり江戸時代でも教育は読み書きソロバンである
第一文字を読めない、書けない人がいたのだから文字を読めるということだけで知識人にもなる、侍は武道だけではない、読み書きをできていたからエリートとなっていたのである

それでタリバン兵には読み書きができない人がいるというとき権力を奪っても行政になるとそれもできないとなる、字が読めないし書けないとなると何か飛行場に入る時の検査もできない、事務ができないからだ
ただ日本人は寺子屋で読み書きを習っていて読み書きができる人が多かったのが違っていた、でも明治になっても読み書きができない人がいたのである
その人はハガキとか手紙を読めないし書けないから人に頼んでいて肩身の狭い思いをしていたのである、大正生まれの母とかなると尋常小学校で一応読み書きはできたのである
その差は大きいとなる
だから読み書きは必要である、でもこれだけ高度な知識社会になると読み書きだけではもう成り立たない、コンピュター社会になるとプログラムができないとエリートになることは不可能とまでなってきている
それで小学校の時からプログラムを教えるようになる

明治維新以降の教育は基本的には画一的に暗記させる教育である、読書百遍自ずから通じるとかなる、暗記脳教育でありそれで間に合ったでいたとなる
近くの寺があったところに小さな碑が埋もれていた、そこはどうも暗唱しろということが記されていた、そこは寺子屋がありそういうものが残っていたのかとなる
例えば漢詩とかでも文学的なものでも暗唱することが教育でありその中味を理解することよりまずは暗唱することが教育だったのである
なぜ自分が勉強が嫌いになったのか、それは確かに能力がないということもあった
でも確かなことは高校まで自分で一回も考えたことがなかったことである
試験でも暗記したことで暗記脳がいい点数をとることにもなる

それでなぜ自分が数学嫌いであり興味がなかったのか、それは何でも暗記することだったからつまらないとなっていた
でももし算数でも数学でも自ら考えるものとして勉強すれば興味あるものとなったのである、そもそも足し算の意味はわかるにしても掛け算とか割り算の意味がわからないのである、そういうことを考えたこともないのである
そして意外と与えられた問題を解くより問題を自ら作り解くことが考えることに通じて
興味を持つことだと死ぬ時期になって理解したものも遅かったとなる

要するにこういうこは能力の差があっても訓練が必要なのである
ただ特別優れた人は訓練など必要ないともなる、天才とかなるもう教えなくても理解できるともなるからだ、私が言っているのは普通の人を対象にしたものである
図形などでもそれは相当に様々に考えて理解することがある
それがただ数式を暗記するだけでは興味が湧かないのである
だから算数でも数学でも図形遊びのようなことをしていれば積み木遊びでも何か具体的なものから理解して抽象的な数字を覚えるといいのである

そこで次に必要なのは遊戯脳なのである、人間には遊ぶということが基本的にある
子供の時遊ぶ時代であり遊ぶことで様々なものに関心を広げるのである
何か遊びを作り出すことは創造的な行為である
ただこの遊戯脳は学校ではそがれのである、学校だと一つの軍隊であり集団であり一律的行動が求められるからである
また学校は工場だというときその建物を工場を模したものだというときもそうである
現代の工業社会に適応させるものとして作られたからである
それで寺子屋では学校のような整然として机が並べられていない
ばらばらになっていて先生が個別指導するようにもなっていたのである
学校という形態は明治以降に作られたものなのである
大勢の人間の規格化であり一律にして工場で大量生産するものの備えとして作られたのである
これも明治以降はヨ−ロッパに習うことだからまねることだからそれでも良かったのである

それは戦後もつづいたのである、一見日本の高度成長が電機製品が売れたことで日本がは特別優秀な民族だと世界に誇ることになったがそれは何か独創的なこと発明したことではなかったのである、日本では何か独自に発明したことがない、ものまね民族だと言われていた、それは今中国でもアメリカのコピーだと言われるのと似ている
コンピュターはアメリカが発明したものだからである
そのためにバブル崩壊以後は日本は30年間停滞しして賃金も上がらない、貧困国家になってしまったのである
つまりヨ−ロッパ文明をまねて成長したのはいいが日本独自のものを産みだせなかったことが停滞の原因だったとなる

これからの教育は思考脳と遊戯脳と感性脳を育てることである
遊戯脳というときただ遊ばせるかのかと反対されるが人間の本質として遊ぶことが重要な要素としてある、ただ動物でもそうだがチンパンジーに数を教えさせた、そしたら興味をもってしていた、チンパンジーでも遊ぶことがありそれを自ら楽しむことがある
ところが数を覚えることでその度にご褒美でバナナをくれたりしていた
そしたら関心がバナナの方に移って数字を覚えることに関心がなくなったという
何かこれは遊び自体で楽しんでいたのにバナナというご褒美をもらうことが目的になって興味を失ったとなる

これは人間にある、画家でも絵を売ることが目的になりどれだけ金が得るということが目的となり肝心の絵を追求することがなくなる
何かそういうことが人間の仕事には多い、肝心の仕事に興味を覚えるより金のためにするとういだけになり歪められる
そういうことは人間社会に日常的にあるからである
人間にとって関心とか興味が大事であり遊びも大事である、でも金にならないなら利益にならないら無駄だとされてしまう、利益が上がらないからやっても無駄だとなる
人間には本当は社会の中でも遊ぶ空間が必要だとなる
その遊ぶ空間でも遊園地とかなると遊ぶことが利益の追求になる
ともかく人間はどれだけ常に利益を求めることで本来の目的とは違って歪められるからである
第一宗教とは利益とは関係ないものであった、それがただ御利益追求となり権力となったことでもわかる、利益を得るために肝心なものが必ず歪められるのである
だから私はベーシックインカムに賛成する、つまり各自利益だけを追求するものではなく各自の興味を追求して各自の個性ある人生を生きるためにいいとなる
ただそれは理想論であり実際はそうならないにしてもその思想には賛成するのである

ともかくこれまでの教育は暗記脳しかない、創造脳をもつには思考脳、感性脳、遊戯脳を開発促進することである
感性脳となるとこれはコンピュターにはないものでありこれから重要なものになる
コンピュター化できるものはもともと創造脳とか感性脳とか遊戯脳とは必要ないものとて作られている、まずコンピュターには美の感覚をもつことができないからである
確かに計算脳があっても人間的なものとは思考脳、感性脳、遊戯脳にある
これはコンピュターにはもてないからこれからの時代では重要になる
だからこれまでの工業化の大量規格製品を作る時代の教育とは違ったものになる
そうしなければイノベーションも興らず日本は停滞したままだとなる

おそらくその見本がオランダにあるのかもしれない、オランダの教育は世界でも優れているとされるからである、少人数で自由な教育をして思考脳、感性脳、遊戯脳を高めるものとして評価されている
団塊の世代などは一クラス50人とか教室がないとか騒いでいた、それだけ人数がおおかったからそうなる、そういう時代は一律な規格品を作る教育でも良かったとなる
第一学校に行けない国とかもあり学校に行けるだけでいいともなるからだ
実際に私の家には本一冊もなかった、もし家に本があり自ら読んでいたら考えることもしたかもしれない、家で読んでいたのは貸本屋から借りた漫画本だったのである
ただ今になると知識を探求する場が拡大した、インタ−ネットとかのyoutubeの教育番組がそうである、これは相当に勉強になる、無料で学べる
だからこれから自主的に思考脳、感性脳、遊戯脳を鍛える環境が整う時、日本でも何か発明する人がイノベーションを起こす人が出てくるということはありうる

とにかく自分が本格的に勉強したのが大学を出てからだった、そこで旅をして地名に興味をもったり地理に興味をもった自ら学習することになったのである
本だけ読んでもいても今日を持つとはならない、外国を知るには百聞は一見にしかずであり実地にその場に行った人が一番実感として理解するからである
いづれにしろ日本は少子高齢化であり今までの様な大量規格製品を作り出す時代でもない創造的な能力を高めることがこれから大事になる
少数精鋭主義になる、それでオランダの教育に習うのがいいとなる
オランダは小国でも貿易では大国になったりしている、小国でも大国にもなる
ポルトガルでもスペインでもイギリスでももともと小国でも大国になったからである
中国とかアメリカは大国なのだからそこから優秀な人が必然的に出て来る
でも小国でも優秀な人を才能を育てることができるということでオランダが見本になる

100校あれば100通りの教育がある国」オランダ 日本が学べるものは?

そもそも机の配置が自由である、それは日本の寺子屋と似ている
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2021年04月20日

各人各様の異常性はなぜ生れたか? (家庭環境の影響が大きい―社会も異常化する)


各人各様の異常性はなぜ生れたか?

(家庭環境の影響が大きい―社会も異常化する)

何か自分自身が異常性に気づいたのは家族が認知症になってからである
姉は看護婦として勤めていたし役所にも長く勤めていた
だから社会人でも正常であり異常とはとても思えなかった
ただ認知症になったのは病気のためだったと見ていた
でも今ふりかえると精神の異常というより何か偏った性格があった
常に自分は優秀だと言い、他者を馬鹿にする傾向があった
その異常性に気づいたのは認知症になってからだが実際はその前に偏った性格があった
自分は常に優秀だといいそれが死ぬ間際まで「俺は優秀だ」こう言って息をひきとった
認知症になって馬鹿になったのだがそういう言って死んだから悲惨だった
姉は何か普通のしとやかな女性とは違う、まず男で相手をにらみ堂々と向き合う
そして全然男でも恐れないのである、男の方が恐れていたのである
もの凄く勝気な女性だったとなる
それはいい面に働けば男のように家を切り盛りできたとなる
やり手の社長とかにもなれたと思う
それで父が十代で死んだとき父親のようになっていたのである
だからその異常性に気づかなかったのである
ただ人間の性格は必ずかたよる、その偏ることが異常性となる

母はおとなしい内気の性格だった、それは自分と似ている、ただそれも異常なものがあった、確かに前の夫も結婚しているし社会生活を普通にしている
でも何か社会性に欠けていた、社会のことが人間の交際がどういうものかわからない
ただ店をしていてそこでずっと仕事をしていた
だから母と遊んだ記憶がない、一日中仕事に追われていたからだ
そうさせたのは家の事情があってそうなった、そもそもそういうふうに仕事に追われていたのは今のように電化されていないから家事でも忙しいからである
洗濯するにもごしごし石鹸で洗ったりご飯をたくにも竈だったとか江戸時代の生活でもあったからだ、たから当時の女性は暇なく働いていたのである  
それで花などいらないとしていたからこれも異常化していた
ただ何か社会性がなく内気でありとても家を切り盛りできる人ではなかった
金持ちだったら深窓の娘とかなっていただろう
一時はそうなっていた、家が裕福だったからである、でもそれは幼児の時でありすぐに会社経営に失敗して一家離散になった
それで苦労の連続となった

悲惨だったのは継母が入ってきていじめられたことである
弁当を作って残したら俺が本当の母親ではないから食べられないのかと言われて投げられた、そして泣いていた、その継母も異常なほど気の強い女性だったのである
その人もなんらか性格の偏りがあり異常性があった
そして最後は大学病院で解剖されて骨だけが帰ってきた
それを引き取ったの母である
その前に養老院に入っていたが何か異常化した、同室の人に嫌われていて妄想となった
眼が見えなくなり何か助けを求めた、そこで母が見に行っていたのである
そして「悪かったな」と母に言って死んだのである
最後は骨となり帰ってきたときそこに人間の厳粛なものを感じた
いくらそうして後悔しても過去はもどらないからだ 
母にしても花いらないというとき貧乏生活が長く何かそうして花をめでる余裕がないことでそういう偏屈な性格になったのは同情できる

もう一人は母親が三人変わった女性である、その変わった理由が継母がきてその息子の嫁とうまくいかない、あまりにも気丈夫なので嫁と合わない、それで息子の嫁は外に出たのである、それは5歳の時である、5歳までは育てられたのである
でもその妻は家を出て他の人と再婚した、その人は裕福だった
だから楽だった、ところが認知症になり世話するものがいず再婚した息子がいて財産争いになった、5歳の時娘を放置して出て行った母親であるが実の母親であり財産をもらう権利があった、ただ本人は認知症になっていたから悲惨である
金を欲しいだけでありなんら母とも見ていないからである

これも最後は悲惨な結果になった
育ての親は「ひどい娘だわ」と自分に言い残して死んだ、幸い介護されることもなくあっけなく死んだから良かった
第一その娘には介護などできなからである、病気の時でも捨てたのだからできない
ただなぜそうなったのかそのことが理解できない、何か貧乏で苦しんだこともない、三人母親がいても良くされたからである
その娘はまた異常化していた、それもは信じられない異常な人に変わっていた
なんら情ももたない、冷酷な人になっていた
ただその娘は別に結婚しているし子供も二人も成長している、大学も出ている
だから外から見たらいい家族だとなる
でもその異常性に気づいたのは私の家にきて「おばちゃんは金があるだから金でめんどうみてもらへ」と血相変えて去ったことである
何もしてくれとも言わないのにそうだった

つまりその女性は冷酷な情もない人に変わっていたのである
ただ私の家とか自分自身のカルマでそうなった面もあるからいちがいに批判はできない
でもなぜそんな信じられない人間になったのかそれが理解できない
その育った環境がそうしたのだろうか?
夫が何かやさ男でやけににたにたしてふがいないものを感じたからその夫の影響でそうなったのか?
何か女性は嫁いだりするとその夫とか家の影響を大きく受けるからなのかとなる
この人はもうとても正常の感覚から相当にはずれている
ただ本人はそういうことに気づいていない
概してどんな人であれ自分の異常性に気づかないのである
でもどこかでその異常性は現れて苦しめられるとなる

そういう自分自身もそうだった、第一30年間も引きこもりとして生活していたことが異常だったのである、またそういうことができたことも異常だったのである
普通だったら家族で許さないだろう、でも自分は何かそのことで責められることなかっただから仕事もせずしたいことをしていたのである
そのことで社会性がなくなり自分も異常化していたのである
そのことに気づかせられたのは家族を介護するようになってからである
介護では引きこもりでも社会とかかわるからである
つまり人間は各人各様に異常が生まれる、ただ異常と正常の差が何なのかもわからないのである
意外と自分の異常性に気づかないのである

その人は技術者として勤めていたときと優秀だった、でも自分で事業を起こして経営者になったときおかしくなった
その家庭自体を事業主になるとまきこむ、またその人は何か養子ではないがそれと似たような感じになっていた、娘と母親の家でありその家風に染まったのかとなる
まずその家はケチなのである、何か絶対に損したくないという感覚である
せこいのである、その原因はあまりにも貧乏を経験した結果そうなった
そこには同情すべきものがある、自分の母親も貧乏だったからとにかく無駄をしたくないのである、だから花などいらないとなったのである
そこの家は何かケチでこりかたまっている、別に損しろときいうまでもなく他人のために箱一つでも持ちあけたくないのである
その前に金をくれとなる、金をもらってからでないと何もしないとなる

そういうケチくさい人が商売するとどうなるのか?

それ相応の金は払う、でもその前にその人は他人のために何かしたくない
ただ成功した経営者と優秀だとして認められることでありそれを目的として事業をはじめたのである
第一自分が苦しんでいる時、借金していたのだから相手の苦しみなど考える余裕もないのである
つまりそういう人に仕事を頼むだろうか?
商売でもただ自分だけが得しようとすることは成り立たないし失敗する
そもそも人が困っている時何もしたくない人が事業などできるものだろうか?
何か人のためにやるのが事業だろう、そういう気持ちが全くない人が事業ができるのか?事業がわからないにしてもそういう家族が成功するのだろうかとなる
それで事業する人は商売人の娘を嫁にしろというときそういう家庭で育つ人だと商売のことが暮らしの中でわかるからだろうとなる

ともかくその人は人に与えたくない、与えてもらいたいとなる人だったのである
だから介護で苦しんでいても金にならないからしないとなる
でも金は自分は払ったのである
いづれにしろこうして家族にも他から来た人にも苦しめられたのが自分であった
そこで人間の悪質性を嫌というほど知ったのである
ただそれも自分自身のカルマだったとなるから相手を批判ばかりはしていられないということも確かだったのである
この人も異常化したのは事業に手を出したからである、会社に勤めていたら別に優秀な技術者として終わっていたのある

ある大工さんも異常に優秀なことにこだわる、本当に他の大工さんより腕はいいし優秀なのである、それがわかるにしても俺はお前より優秀だとマウントして気分よくしている
何か俺が勝ったとか自慢している、それは大工さんとしてまた庭作りもできるから優秀なのことはわかる、でもそれでも一部分で優秀なのである
だからこうして異常に優秀さにこだわる人がいる、それも問題と思う

ただこの異常性を追求ててゆくとそれが個々人でも家族だけの問題ではない、社会自体の異常性がある、現代社会は複雑であり社会自体が異常化する
ナチスも精神病理学の対象であり社会の異常性が作り出したのである
カルト教団とかでもそうである、オウムでもそうだし何らか宗教団体は本来の宗教とは関係ない、精神病理として現れた現象なのである
創価などでもそうである、そこも精神病理学の対象でありナチスとかとも共通したものがある、精神病理学というとき現代社会が病んでいるということである
個々人でも個々の家族でもそうだが社会自体が狂気と異常をはらんでいる
それが爆発したのがナチスでありオウムとかなる、またカルト教団でもそうである
何ら本来の宗教とは関係ない、精神病理学の対象なのである
それが病的なものだからいつかナチスのように社会を席巻して狂気に向かわせることが怖いのである
それが怖いのは個々人なら家族ならそこでとどめられる
そういう狂気の団体は社会をまきこみ大混乱におとしいれられる、現代の戦争は集団的狂気ともなるからだ

ともかく人間はかたより異常化する、第一あることに優秀だとしてもそれは一部分のことである、でもその一部分で優秀でも異常に優秀さにこだわる
そういう専門的なことで優秀なことはある、現代は専門家の時代である
その専門家とは偏った人のことである、だから異常性が社会の中で現れる
40万人がコロナウィルスで死ぬと言った学者もそうである
何か突飛なことを真面目に言うのである、こういうことは専門家時代になるとその専門意外のことは関係なく専門にこだわりすぎてそうなる

それで武田邦彦氏は機械とか物を研究する人間は頭が冷たくなると言っている
それは何か人間の情的なものが失われてしまいあたたかみが失われるからだろう
科学者にはそういう人が多いかもしれない、理系だとそうなりやすいかもしれない
その対象が物であり機械だからそうなりやすいとなる
でも牛馬でも相手にしているとそこに情が生まれる、相手が血の通った動物だからであるそれで馬と結婚した娘の伝説とか語られる、動物でも人間化する
でも機械だとそうはならないのである、ロボットだと情は通わない
知、情、意というとき情が喪失してしまったのが現代にもなる

結局社会が狂っているという時、この現代文明社会を全部理解できる人などいないからである、いくらある部分に専門家になっても社会全体ではそれはほんの一部だから偏るからそうなる、人間は文明社会で全体を生きることができなくなっている
そこでこうした偏った人が生まれてくる、法律を駆使する弁護士でもそうである
そうして理論にこだわると何か異常化している、専門馬鹿にもなる
つまり現代は全人格として成長して形成することが不可能なのである
だから部分化して専門化してかたよったものになりそれが異常性を産むのである


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