2019年07月03日
交通事故発生(近くの十字路)
2019年05月31日
人間は「灯台下暗し」が必ずある (これも人間の弱点、盲点である―原町の新しいいか焼店を見逃していた)
2019年02月18日
サイフは見つかりました (お騒がせしました)
2019年02月17日
20万入りのサイフを落とした! (これもつくづく不運ー金運がない自分)
2019年02月14日
原町の高見食堂に行って食べてみた (そこはやはり狭かった)
2019年02月13日
ビジネスホテル高見内のレストランと高見食堂は別である
2019年01月23日
南相馬市鹿島区さくらホールにドクターヘリ来る(3時頃) (交通事故負傷者をのせて福島医大に15分)
2018年12月07日
仙台の師走の一日 (どこも後継者不足で日本が終わる)
2018年11月17日
人間は身近な所を見逃している (原町のHARD OFF-ハードオフは去年から始まていた)
2018年11月01日
食事がうまいかどうかは雰囲気に左右される (ビジネスホテル高見の食堂は雰囲気がいい)
2018年06月19日
交通事故発生 (南相馬市鹿島区寺内)
2018年04月29日
コバケンの料理はそれほどでなかった (煮魚定食は貧弱だった)
2018年04月28日
常磐高速の鹿島のセディティの芸人
ヤマハ PAS ビエンタ 2018モデル (欠陥か,チエーンがはずれ部品交換に)
2018年04月24日
鹿島区にできた「コバケン」の料理はいい (鹿島は震災以後かえって良くなった)

2017年10月20日
歯でまともに食べられない影響は大きい
今度はかぶせた歯がぬけた (今日の内に歯医者に行く)
2017年10月15日
食中毒か,嘔吐に下痢
2016年07月21日
紫外線の怖さ(今年は特に紫外線が強いので日射病に注意)
2016年02月21日
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2015年12月09日
フランス人の一人旅の女性とあった (コメリの放射能汚染物質の廃棄場を写真でとったいた)
2015年08月29日
田舎でも差があり一万くらいだと限界集落化してゆく (自転車屋がなくなり困る)
田舎でも差があり一万くらいだと限界集落化してゆく
家の地区など もうどこに自転車屋あるのかしりません。
今の中学生とかどこで自転車買ってるのか不思議です
このことが自分にとっては困った。なぜなら自転車は買ってもあとの保守が必要であり自分は不器用でできない、パンク修理することもできなくなる
こうなるとパンク修理くらい自分でやれるようにしないと困る
自転車は結構自分で部品交換までしている人がいる。
構造が簡単だからできるのである。でも自分は何か機械は不得意である。
車の運転も自分には向いていない、必ず事故になっていたし死んでいたかもしれない
原付の免許をとろうとしたがこれも危険だからしていない
だから自転車屋がないということは苦しくなる
何か現代は不便なところはさらに不便になり住みにくくなる
需要がないから便利なものもできない
都会だと様々なサービスが提供できるのは人口が多いからである。
老人だけが集まる食堂ができたりもする
老人に対するサービスもふえている。
一人暮らしだと野菜が不足する、だから野菜を細切れで売っていたのは便利だと思った。なぜなら一人暮らしは野菜を無駄にすることが多いのである。
何でも一人暮らしは何か生鮮食料だと残したりして投げたするから無駄が多くなって損なのである。
通りを歩く人も今とほとんどいない、車が通り過ぎてゆくだけである。
駅前の自転車屋があったのは鉄道と深く関係していた、自転車はもともと鉄道で運ばれてきたから駅前に店をかまえた。
引き込み線があって物が運ばれてきたからである。
駅前通りも今やシャッター通りになった。
田舎では確かにみんな車をもっているから自転車屋がなくても困らないのである。
まず車がない人は必ず貧乏人であり社会的地位は低い
自分は別に車をもてるが車の運転に向いていないのである。
自分は必ず事故を起こすから乗らない、乗らずに田舎で暮らすことができたのは仕事もしなかったからである。
自分は車より自転車が好きなのである。風を切って自転車にのるとき一番幸福感を感じるだから自転車にのらなくなったら死にたいとまでなるだろう。
自転車の不思議は一台一台乗り心地が違うことなのである。
だから五台くらいあるが乗り心地が違うから楽しめるのである。
田舎に楽しみがないというのは歓楽街のことなのか?
田舎は十分に楽しめる、自転車に乗る空間が広がっている、自転車で自然と一体化できる特に電動自転車だと坂が気にならないからこれもいい、体力がない老人になっても楽しめる
そして田舎では自転車道路がありほとんど通るひともいないから悠々とどこでも乗れる
等位だったら自転車で事故が起きたり何かと狭いから何でも窮屈なのである。
まさに田舎は贅沢な空間がある。spacious(贅沢)なのである。
そもそも田舎を楽しめない人間は人生すら楽しめない人だろう
自然と切り離された人間をイメージできない、自分は大学時代に四年間住んで都会を嫌悪するようになった。
その後は性格でありほとんど隠者のような生活になったのである。
まず芸術というとき自然の感性が基本にあり俳句でも四季がない自然がないところでは作れないだろう。
そこからして田舎を嫌うとしたら芸術の基本的感性すらみがけないのである。
田舎の人間関係を嫌うのはわかるが自然と隔離された大都会に住むことで自然と遊離したら感性がみがけない
そうなるとほとんど人類が残した芸術というのを理解できなくなる
それがいかに人間を貧しくするか?
そんなことを考えない社会というのも異常である。
都会に住んでいる人はキリコのようなロボット人間に化しているのかとも思う
常に像で考えろと言う人かいるがその像が自然がないのだからイメージできないのである像とは山とか樹とか石とか自然の像のことだからである。
高層ビルを毎日見上げていたらどんな像が生まれるのかとなる。
毎日株のやりとりでパソコンの画面ばかりみていたり何か人間が機械化している
都会人の感じることはかなり浅薄になっている
それはそもそも自然という人間を形作る基本が喪失しているからである。
不思議なのはまず自分のように山とか石とか樹とかそうしたものから発想しいてる人はほとんどいない、あらゆる問題でもそうである。
農民だと意識しなくても無意識のなかに自然と通じている。
でも経済的には苦労ばかりで金にならないと嘆くばかりである。
ただ今は金のかかる時代だから田舎を余裕をもって生活するとなるとかえって資金が必要だとなる。
農業は趣味としてやるのもいいがそのために余裕で暮らす金が必要となるのが現代である田舎に作らすにもそうした矛盾がある。
田舎に対する誤解は一万の街内と500メートル離れただけの地域とは相当違っている。
500メートルはなれるとそこは農家が多く、農家のつきあいはめんどうになり拘束される
四六時中回りから看視されていると嘆く人がいる。
街内はそれほどないからである。
それかちさらに一キロとか離れると街が遠いから買い物に不便になるのである。
それで田舎では車なしでは暮らせないのである。
いづれにしろ自転車屋がなくなることは自分にとっては痛手だった。
田舎は便利な生活になるとどうしても分散する生き方は不便になる。
でも分散していたのは米を作り野菜を作る土地が必要でありその土地を得るために分散したのである。それも自然に則った生活だったのである。
その時別に車がなくても自給自足していたのである。
つまり不便でも自足していた生活だとなる
だから今でもそうした不便でもある程度自足するという心構えないと田舎では住めない
便利なもの便利なものを求めることは自足していないのである。
田舎の生活なら本当は自給自足の生活をしたときこそ田舎を知る
近くの森から燃料の薪をとり清水をくみ最低限でも田んぼと畑で食料を自足する
そうして生活したときそれが本来の田舎の生活だったのである。
今やそれをするには資金があって趣味的なものとしてしかできない
それも矛盾しているのである。
なぜかというと街から離れるとすでに車が必要でありそれにコストもかかるからである。一万の街内ならなんとか自転車でも生活できるとなるからだ。
そもそも自分にしてもカナダの国債とかアメリカに投資しているとかそんなことをしていまこと自体大きな現代の生活の矛盾である。
でもまず田舎では公務員くらいしか余裕もって生活できない、職はないのである。
ただこの辺は原発でも火力でもあったからそれなりにあった。
だから比較的豊だったのである。それが原発事故で悲惨な状態になった。
家を維持にするは相当な資産がないとできない、田舎の生活は収入が低い割りには金がかかる、だから食料くらい自給しないと割りに合わないのである。
自分はただ親の遺産があってのでなんとかやれているというだけである。
遺産とか資産がないと田舎では生活が苦しくなる。
自分は相馬藩内は意外と自然が変化に富んでいるからあきないということがあった。
双葉以南になるとあまり感じないが浪江は二つの川があり高瀬川渓谷があり風光明媚である。
原町も鹿島も相馬市も松川浦があり新地も地形的に変化に富んでいる
それから丸森も森が深いからいいし飯館村もそうだった。
山元町から亘理へ行くと何かそこは景色的に地形的に平凡になるから魅力を感じない
蔵王が見えるところで自然の変化を感じる
いづれにしろ田舎を楽しめないものは人生そのものも何も意義あるものも感じないだろうただ田舎の人間は都会の人間より劣っているというのも確かだろう
優秀な人間は田舎には残っていない、何かのんびりしたのを好むから才能ある人間は特に理系の人などは残らないだろう。
芸術家なら田舎なしではありえいな、例えば自分が抽象画をパソコンで作ったがそれも自然をイメージする力がないと感じないのである。
これ何なのだろうとなるとき何か自然をイメージするからだ。
そのイメージ力がないと鑑賞もできないとなる。
ともかく地方創生が課題になっているがこの辺はその自然が放射能で汚染されたから致命的だった。もう立ち直れない状況である。
もっとも田舎的なものが一番打撃を受けたからである。その最も基礎を成すものが失われたということはその損失は計り知れないものとなってしまったのである。
2015年07月07日
仙台へ仙石線が開通したので石巻から女川まで行く
仙台へ仙石線が開通したので石巻から女川まで行く
今日は晴れたし三日間母を施設にあづけたから出かけることにした
2015年03月20日
南相馬市の鹿島の仮設の食堂について (くつろぐ場とはなっていない)
(くつろぐ場とはなっていない)
鹿島の仮設食堂でバイキングにしたのはめずらしい。原町ではしていた。でも千円だから高い、コーヒーは無料であるからそれほど値段は変わらないかもしれない
バイキンク形式は毎日変わるから常連になっても今日は違っているなとなり来る
ただレストランとかは意外と雰囲気とかが大事である。
仮設では狭いし作りにくい、あそこは他より広いがレストランのような雰囲気が作りにくい、ただ食べるだけだとなる
まあ、仮設だと狭いのだからしょうがないとなる。
今は半分くらいは除染とか外部の人が入ってきている
それでどこでもレストランとか食堂はにぎわっている。
レストランとかは本当はいろいろなものがある。
ただ腹を満たせばいいというのも普通にある。
一般的な食堂はそういうのが多い
ただ人間は腹を満たすだけではない、そこにいろいろな付加価値を求める
もちろん腹を満たせばいいという人もいるし金をかけられない人もいる
スキヤなどはただ安く食べられればいいとなっている
あこも人手不足で時給1200円でも集まらない
この辺は特にそうだが全国的に人手不足が深刻である。
人手不足で熱海では経営難になったとか他でもそうである。
介護関係はますます人手不足になる
つくづく人手不足というとき人手は必ずしも金を高く払っても補えないということがあるまず人間はロボットのように機械のようには使えないのである
家で働いてもらうような場合、経験があるからちょっとしたことでも人を使うことの大変さがわかった。それで大損にもなった。
家で働いてもらうにはまず信頼関係が一番大事なのである。
これは簡単にできない、それなりの金を払ってもできない
例えば信頼関係ができているのはその家に十年とか働いている人なら信頼できる
その十年の間にはなんらか金だけでな人間的やりとりができているからである。
ともかくあつみ食堂は前は弁当屋だったのでその時も買っていたから料理がうまいことはわかっていた。今でも料理はいい、どっちかというとバターとかで味付けしているから若者向けというか現代風にしているのだろう。
料理はいいとして何か仮設食堂はくつろげる場所ではない空間がない
それがそんなに問題あるとは思っていなかったが何かくつろいで食事できないことを感じた
もちろんそれは個人的な好みもありかえって場末の飲み屋のような所でくつろげるという人もいる
そこのマスターとかと親しいとくつろげるとかといろいろ要素が入ってくる
つまり食堂であれレストランであれ食べるだけではない付加価値が必要になる
そして現代の商売はものがあふれているから付加価値の面が大事になる
でもそこまで考慮して商売するとなると大変な作業になる
ともかく食事は何かくつろぐ時でありただ腹を満たすだけだと人間のような気がしないとなる。
介護になってからずっと一人だけで食事であるが家で食べている方が落ち着く
ただ食事の用意がめんどうなのである。
だから家事に時間がとられる、家事はいろいろあって時間がとられる
それで外で食べた方が時間の節約になる。
食事でもレストランでも一人で食事すると嫌で一人暮らしの人が良く女性の友達を誘っているのもわかる。
その相手によっても食事の楽しさは変わる
結局人間は機械でないのだから人を雇うにしても誰でもいいとうわけではない
家で手伝ってもらうにも相性とかかえってめんどうなのである。
人手不足の時代だけとどこでも誰でもいいというわけにはいかないから人手不足はこれからもつづくだろう。
極力機械化するとしてもやはり人手が必要であり人手不足はつづくのである。
2014年09月11日
ひまわりを見て写真をとっていた京都の若い女性 (やがて津波の跡も観光地になる)
2014年09月04日
自分のパソコンの履歴 (親指シフトキーボードで文章をスムーズに書けたことがパソコン つづけることができた)
自分がパソコンに親しんだのは富士通のオワシスのワープロからだった。
これはたまたま買ったワープロがオワシスでありそこから親指シフトキーボードを覚えた。
それがパソコンでもできたのでパソコンに親しんだ
いちいち文章を打つのにてまどうとパソコンは使えない
ローマ字入力だとどうしてもスムーズに打鍵できない
親指シフトキーボードだと思考の邪魔にならないようにスムーズに打鍵できる
自分はローマ字入力だとパソコンに親しめなかったろう
だから自分はパソコンも富士通のものをずっと買っている
パソコンは今やどれでも親指シフトキーボードがあれば使える
ただこれをしていると他では不便な面がでてくるだろう。
少数者しかしていないからサービスが少ないから対応できなくなる
でもwin8でも親指シフトキーボードで打鍵できた。
ソフトを売っているところで対応していた
親指シフトキーボードからはじめるとそれをつづける人は多い
でもこれを知らない人はローマ字入力になる
ローマ字入力だと長い文章には向いていない
だから親指シフトキーボードでないとパソコンを自分は使いなかった
どうしてもパソコンでも文章がめいんになるからだ
今回win8が使えなくなったのでXPの古いパソコンでアップしようとした
そしたらやはりパソコン自体が画面が狭いとか文字が雑に見えると違っている
新しいパソコンはきれいに文字もでている
パソコン画面は広い方がいい、狭いと窮屈になる
パソコンはその人なりの仕様に使うことがある
ただソフトはあまり使わない方がいい
なるべく少なくしてシンプルにして使った方がいい
そしてパソコンで大事なのは安全性だった
突然クラッシュしたりウィルスで機能不全に陥るのが一番怖い
それが突然になることが多いからである。
reg clean proは別なパソコンにも入ってきた
こんなものがすべてのパソコンに入り混乱させる
それは今や何億という人に影響するからその範囲が広くなる
だからこれは世界的犯罪でありこういうものをで
インターネットが攪乱することは世界的犯罪であり重罪にすべきである
今やパソコンとかインターネットは世界のインフラにもなっているからだ
この世界的システムを破壊する罪は大きいのである。
パソコン
は一部のマニアの時代はとっくに終わっているからだ
明日は初期化の作業になるだろう
半日もかかるというのは困る
初期化することにはかなり抵抗があったがどうしようもない
やはり最初に親指シフトキーボードが使えないと
何もできないから困る
あとは順次そろえればできる
その親指シフトキーボードも一つの字がキーボードの一つが故障したらこれは不便で使えなくなった。
この故障にも困ったがこれは直してもらうのは簡単にはできない
サービスする場所が限られているし通販で買ったものだからである。
こういう特殊なものになるとパソコンは使いにくくなるのだ。
ただその特殊化があったからこそ自分はパソコンを使い続けることができたのである。
バソコンの怖さ (プロダクトキーをなくしてオフィスのソフトが使えないークロウドで記録が取り出せない)
reg clean proはマルウェアでウィルスとは違うと言っていたが
それも影響してパソコンのスタート画面が出なくなり
富士通のサポートに連絡した。
セーフモードでたちあげて通信もできている。
でもオフィスのソフトが使えなくなっている
そこにワードとかワンノートがあり
それがクラウドに記録されていても取り出すことができない
今度はマイクロソフトに聞いてみると
再インストールと直るというが
買った時箱に入っていたものに
プロダクトキーの番号があれば再インストールできると言われたが
その買った時箱もなげたしプロダクトキーは見つからない
前もソフトのキーをなくして新しく買ったりしていた
ここもパソコンを使う点で注意する必要がある
オフィスは三万もするから簡単に買えない
記録したものはだいだい移動したからいい
でもオフィスのワンノートに記録したのがクラウドになって
取り出せないのだ
クラウドというのがわかちらないので使っていなかった
新しいものはわかりにくくなるからこまる
ここではプロダクトキーがいかに大事になっているかわかる
これがないとお手上げになってしまうのである。
記録さえ移せば初期化してもなんとかなるが
記録したものが取り出せない、消えることがパソコンの一番の怖さである。
ただ今回わかったことは富士通であれマイクロソフトであれ
直接聞いて答えてくれたので助かった
有料とかなっていたので電話をかけなかった
料金は今のところとられていない
富士通はサポートはいい
それも一年の保証期間があと三日くらいで切れる時だったのである。
ともかく完全にクラッシュしたのは違うから助かった
パソコンはやはりわからないところはすぐ聞いて対処した方がいい
マイクロソフトでも聞けるとは思わなかった。
ソフトの会社は電話しても通じないのが多かったからだ
パソコンはやはり会社だったら詳しい人がいるからすぐに聞けるからいい、
個人でしているとやはりわからなくなったら富士通のすぐに聞けるようにしておかないとまずい、つまりクラッシュする突然アクセスできない
壊れることがパソコンでは一番怖いからである。
2014年08月30日
windows 8が最新のアップディトすると画面が真っ暗になり起動できない
この修復はプロに頼むほかない、電話で解決できればいいが
約一年使ってまたパソコンのトラブルである。
2014年07月29日
2014年05月28日
「新田川温泉はらまちユッサ」でバッグを忘れた
「新田川温泉はらまちユッサ」でバッグを忘れた
八木沢峠の麓の太古を回り飯館村へ行った。
その帰りも八木沢峠を下ってきて原町のユッサに回って食事した。
その時、バッグを忘れたのでカメラも入っていたから
その写真が出せない
すぐ気づいて電話したらあったので明日とりにゆく
ちょうど150円で天ぷらを出していた、いろいろな野菜天ぷらであり
安いなと思って食べた。
ここでこんなのを安く出しているのかと思って聞いた
それは水曜日の午後5時からだけ特別出しているそうである
だからそれを知って来ている人もいるようである
あの天ぷらだけで天ぷら定食になるから得である。
原町ユッサの湯に入ったことはない、750円にもなったら入りにくいだろう。
でもあそこは鹿島からも近い場所である
だから行きやすいということはある
あそこはオカズまで食券を買ってからだからめんどうだった
何かちょっとめんどうだとそれに気をとられてしまう。
なれればいいのだがはじめてだととまどい気をとられたのである。
他でも湯だと靴を入れるのともう一つ中にも脱衣場で鍵をかけて
貴重品を入れるからめんどうである
意外とこうしたことが手数がかかるとわかりにくくなり本当は利用しにくい。
食券にするのは出す方では計算とか便利でしいても
利用する方では不便な場合がある
それがほんのちょっとした手間でもそうなる
外国旅行ではそういうことでわからずに失敗の連続だったから
自分では外国旅行はしたくないとなる
簡単なちょっとした手続きでわからなくなるのだ
そして人が教えてくれないということがまたかえって不親切に思えるのだ
現代の社会は人と人がやりとりする前に機械が介在してめんどうになるのである
バソコンでインターネットを利用するにしてもそうである
だから今はスマホとか携帯とかでインターネットを読んでいる人が多くなった
読むだけならその方が簡単だからである
近間だったら忘れ物として本当になくしたことはない
どこに忘れたかだいたいわかるから必ずとってくれている
でも自分は何かに気をとられて忘れるから困る
2014年05月06日
コメントについて
コメントについて
コメントはまれにしかないので見ていないことがあった
コメントされればみんな一応反応として出している
ただ答えるとは限りません
忙しいのでコメントに答えることがめんどうになるからです
通りすがりの・・・とか言われても答えようがないです
自分のプログはそうした今までの文字の会話の場とも違っています
ただ反応があればうれしいのでコメントはなくても
こんな反応があったとかとして出しています
ともかく自分はプログは書き続けています
書くことがここに書いているだけではなく他にもあります
プログはその時々の情報を自ら書いて発信して情報を蓄積するのにいい
だからコメントがなくても書き続けている
あとで役にたつこともある
つまり日にちが記されるのであの時点でこんなことを書いていたのかと
自分で参考にもなるから書いている
ともかく人間は忘れやすいからこうして日記で何でも書いておくのがいい
だから東松島の鳴瀬川の土手を下りた白萩や浜市などの写真が貴重なものとなった
なぜなら津浪で家も通りも松も流されてしまったからである。
ただ一本だけ松が残っていた、その写真が一致したのでわかった。
こうして記録として大事になることがある
2014年04月02日
今日の予定 (母のショートスティ、仙台から松島へ、津波の被害を見る)
今日の予定
(母のショートスティ、仙台から松島へ、津波の被害を見る)
母のショートスティ 2日間泊まる
途中野蒜などの被害地を見る
それから石巻から女川の被害地をみる
泊まりは一日だけ
ショートスティがとれたので一泊して野蒜などの被害地を見てくる
どういうわけかあの辺を旅行した写真入の記事が常時アクセスあることが謎である
あの辺は結構家が密集しているから被害が大きかったのだろう
まだどうしても津波の被害か関心になる。この辺では旅行を観光を楽しむということにはなっていない、
だから実際に女川辺りの街全体が被害にあったところはまた違っている。
この津波の被害も実際に見てみないと実感できない、テレビだけではわからないことがある。
すぐ近くの津波の被害にあった人の家に行った。その話を聞くと水害の被害とは津波の被害は違う。
床下から水があがって床上になり家を壊す他ないと言われたという。
海岸から3,4キロ離れていたした被害がないと思っていたがそうではなかった。
その人はそこに住めなくなり避難した。
そししてボランティアなどがきて泥さらいや瓦礫の処理をしてくれて助かったという。
ボランティアは一生懸命やっていたという。
近くの親戚などは見ているだけで手伝ってくれなかったとか言っていた。
津波の被害は実際にあった人でないとわからない
近くでもたいしたことがないと見ていたのである。
まず自分は二週間は自分のことで追われていて津波の被害者のことを見ていない
みんな放射能騒ぎもあり自分のことで精一杯だったと思う。
だからその時、知り合いの人に助けられたことにその人は恩義を感じていた。
いづれにしろ津波原発事故の後遺症は長くつづく、何があったのか近くでもわからないことが多いのである。
今になって冷静に語る人がでてきているのだ。
昨日も今日も忙しい、まだ常に何かちに追われている状態がつづいている。
2014年02月08日
今年も不運がつづく (水道管が壊れ大量の水もれるときいなかった)
今年も不運がつづく
(水道管が壊れ大量の水もれるときいなかった)
今年もなんか不運だった。
遠隔操作でプロバイダーを変えて失敗したり母がトイレに行けなくなり入院した。
入院したら医者から退院許可がおりたから
ケアマネジャーと退院のことを相談してくださいと言われてショックだった。
そして今日は最大の不運だった。
入院している間に仙台に行った。約一年ぶりだった。
何やかにや追われて行けなかった。介護していると外出ができなくなる。
その外出した時に水道管が壊れて大量の水もれをしていたのである。
仙台にいるからそのことに気づくことはできない。
ただ最近知り合った人が電話でしらせてくれた。
その人は近くに住んでいるから5時ころきてそのことを知らせてくれた。
じも水漏れを知ったのは隣の人だった
その人が水道管の元栓をとめてくれた。
これは助かった。
大量の水漏れでどのくらい水道料がとられるのか不安である。
今まで水道管が壊れるなどありえなかった。
何の原因かわからない、台所が凍ったということもない。
それで水が出なくなったの原因なのかわからない。
大きな太い水道管から水がもれたのだから
こんなこと水道を設置してからない、もう40年間もないだろう。
それが自分が仙台に行ったとき壊れたのだからよほど不運である。
温水器も40年使って壊れたし家自体老朽化しているのだろう
本当に一人暮らしはどんな危険が待っているかわからない
突然病気になり入院して一カ月病院から出れなかった
そのとき家は火事場泥棒にあい大金を失った
今回も自分が留守のときに起きた
一人暮らしでは留守にすると何が起きるかわからない
だから電気のブレカー落とし水道の元栓を切ることは必ずしなければならない
ブレカーも落とすことがなかった
それに気付かなかったのである。
だから一回電気を消し忘れ仙台に行ったとき、火事になる恐怖を味わった
火事になったら大迷惑になるから大変である。
こういうことは経験を積まないとわからない
家族がいるときはこんな心配はなかったからである
介護したりして一人暮らしだと何か起きるかもわからない
そして隣の町でも意外と緊急の時は役に立たない
車で10分でも何かめんどうなのであり手間なのである
だから遠くの親戚より近くの他人というのは本当である
その遠くの親戚は今では東京辺りはをイメージするが
実は隣の村のことだったのである
隣の村でも車もない時は遠くなっていたのである
今日は大雪であり水道は出ない
市に知らせたら水道科は今日は休みだという
確かに今日は土曜日だった
これも不運だった
近くの水道屋来ると言ったがこの雪で来なかった
でも回りが平常なので水道が出なくてもすぐには困らない
明日になれば買い物もできるからである
ただこの寒さで電気がとまったら大変なことになる
暖房できなくなるからだ
石油ストーブは置いていないからだ
今ふりかえると津波原発事故のときは電気も水道もとまらなかった
そこで二週間の米のたくわえがたまたまあったのでしのいだ。
でも水道がでないと水をもらう必要があり苦しくなった
ご飯をたけないということがあった
だから水の貯えも必要だった
緊急時の貯えは何かしら必要である
ただ回りは平常であれば買いものもできるからしのげる
ただ外から物資が入らなくなりここでは苦しんだ
交通が遮断されてそうなった
それが今は正常なので自分がこうなっても数日間のしんぼうというだけである
ともかく緊急時の備えは必要である
それでも電気がとまり水道がでないとなるとパニックになる
ただ今回のように回りが正常だったら買い物もできるから困らない
大雪になると車もスリップするとか危険である
自転車もスリップしやすいから危険になる
今はここは雪はやんだみたいが
明日はなんとか水がなくてもしのいで月曜日まで待つほかない
皮肉なのはこのもらった水が一本あったというのも何か暗示している
緊急のために水を供えておけよということなのだろう
これ一本だけがあった
40年間壊れない水道管が壊れた
原発は40年で大事故になった
400年間なかった大津波で大被害になった
災難はこうして長い期間の中で起こる
「災害は忘れたころにやってくる」というのは本当である
水道管が壊れて、温水器が壊れた、原発が壊れたというのは
一つの原因は明らかに古くなって壊れたということがあった
人間が作ったものは古くなり機械でも危険になり事故が起きる
人間も古くなると老人になると病気になると同じなのである
この世では災難は400年単位とかなれば必ず起きる
それも想像もつかないものが起きることは確実なのである
だから備えをしなければならないのだしていないのである
70年代に建設されたコンクリート構造物が2005年から2010年ころに一斉に崩れ始める
http://www.asahi-net.or.jp/~pb6m-ogr/ans040.htm
機械でも古くなれば故障が多くなる。そういう原発がマ-ク1の原発が他にもあるし
40年とか使っている原発があるけどそのままにしている。コストの面からしたら古くても使っていたのである
2013年11月11日
冬の虹を今とってきた (冬薔薇の写真もとった-写真なしでありえなくなった写生俳句)
冬の虹を今とってきた
(冬薔薇の写真もとった-写真なしでありえなくなった写生俳句)
一陣の風の荒しや冬の虹
故郷に老いて友あれ冬の虹
長々と消えるまで見ゆ冬の虹
幅広く切れ端残る冬の虹
冬の虹余韻の深く消えにけり
粗末なる住宅の庭冬薔薇
風荒らし雨滴のつきし冬薔薇
冬薔薇凍れるごとく二輪かな
今日も一日で天候の変化があった。最初は雨であり北風がふきつけた。かなり寒かったから冬になったことをみんな意識した。炬燵も必要になった。それから午後からやはり北風がビュビュ-吹いた、黒い雲がかかり虹がかかった。それは夏の虹とは違って幅広いが三分の一くらいしか虹はたたなかった。でも長くかかっていた。今年は虹を結構見る。
秋の虹も見た。今日は雨風であったが夕べ近くは晴れになった。ただ風は吹いていた。
虹はやはり縁起がいいような気もする。今年は虹をいくつも見たから縁起がいいかもしれない、体が回復したことで今年は余裕だった。ただ縁は二つ切れたけどあの人たちとはもうかかわりたくないい、人間はかかわる人間によって幸不幸があり運不運もある。
不運な不吉な人間も結構いしてこういう人間にかかわると親戚であれ何であれ必ず不幸になる。不幸にさせられるのである。実際に家の中には強盗だった入ってくるから怖い。
ある人はただ金だけを要求する。地獄まで金を要求し続ける。それが当然だとも思っている。こういう人とつきあっていたらきりがない、そんな人が結構いるのだ。
この薔薇は近くの家の庭の薔薇だった。いかにも冬薔薇らしいと思い写真にとった。写真でわかったのはそこに雨滴がついていた。それは肉眼ではわからなかったのである。
このソニーのRX100M2はやはり写真の醍醐味がわかる。写り方が今までのと違ってプロ的に感じるのだ。だから写真撮るのが楽しくなった。平凡な景色でも違って見えるのである。この辺で住宅というと4000円くらいで入れる一軒家の住宅である。でも古いが庭があったりしてそこに覗いたら冬薔薇が咲いていた。庭がもてるからいいとなる。そういうところで冬薔薇のようにつつましく暮らしている人がいればいいとなる。今日来た人などはそうかもしれない、ただ不満ばかり言っている人が多い。
ともかく今日の天気も変わり安かった。今年は秋が短くすでに冬になったのだ。
日本の天候は変わりやすいから狭いところに閉ざされていても変化がある。
大陸のような砂漠のようなところだと変化がないから飽きてしまうだろう。
日本は天気の変化が激しいし四季があるから狭い所に一カ所に閉ざされていても飽きないということはある。
2013年10月25日
秋雨の情緒(今年の気候は変則的だ)
庭広く舞いつつ去りぬ秋の調
二羽舞いぬ小雨にぬれつ秋の蝶
言い残すことなおあれや残る虫
秋雨にぬれて烏や里に住む
秋雨に鴨も雀も吾もぬれる
窓の辺にしばらくあれば一二枚木の葉の散りて雨しととふる
秋の薔薇三輪残り吾が町の駅の淋しく雨しととふる
普通秋雨というと9月だけと今年は梅雨が8月まで長くつづきそのあと秋になったのかと思った。でも一時お盆が過ぎても暑かった。9月も暑い時があった。そして10月まで台風がきた。何か温暖化で今年は今までになく変則的なのである。
だから今は秋雨なのかと思う。そんなに強い雨ではない、しとしとふっているからだ。
烏が一羽電線にとまり雨にぬれながらとまっている。そういう姿はいつもみている。すると烏に人間も共感する。雨にぬれて買い物にゆく途中で見るから余計にそうなる。
人間と同じように烏も同じ里に故郷に住んでいると感じる。
都会ではそういう感覚がなくなる。自然の生き物でもそうは感じない、故郷の同じ一員のようには感じないのである。
石にもいろいろな個性がある。その個性に気付かないのだ。石の形もあり大きさもある。自分がみていたのは隣の大きな石なのである。形が平べったく隠れてある。隣の庭は広いから自分の部屋から見える。するとその石を意識するのである。自分の家の庭でなくてもいつも見ているものは心に深く知らずと記憶されているのだ。
石でも樹でも長く見ていると人間は自然の事物と一体化する。そういうふうに人間も自然の一端にあるのだから自ずとそうなってゆく。ただ自然はどこにでもあり故郷にだけあるのというのではない、ただ長くいるとどこであれ自然と一体化してゆくのである。
啄木があれだけ故郷を思ったのは東京という大都会にいて自然にふられることがなかったからである。もし自然豊かな所にいたらその自然に共感していたのである。
それでもあれだけ故郷を思うということは感性がよほど豊かだったのだろう。
なぜあれだけ感性が豊かだったのか普通では考えられない、感性は実際は長い年月で作られていたのである。あんなに若くてあれだけの感性をもっていたことか不思議なのである。感性というのも訓練であったのが自分だったからである。
今は冬も近くなっている。でも台風が来ているから秋である。確かに晩秋という感じがしない、秋深むという感じもしない、でも木の葉散りはじめている。それでも秋深むという感覚になれないのが今年である。
庭は一つの自然であり金持ちの家でも隣に大きな庭があると自然を感じるのだ。
豪邸には妬みが起きるが自然はかえって恩恵を与える。隣が大邸宅でも森のうよになっていたら都会でもそこが自然になるのだ。それが自然の不思議さである。
2012年11月15日
田舎では落とし物は戻ってくる(家の中に入ってくる人が一番危険)
田舎では落とし物は戻ってくる
(家の中に入ってくる人は一番危険!)
サイフとかカ-ド入れたのを自転車から落としていた。一瞬盗まれたかと思ったが今までにそういうことはなかった。ス-パ-に3,4回忘れてももどってきたし他でもわざわざ電話してきてくれて店もあった。それで5千円お礼したこともあった。今回は金は2,3千円しか入っていなかったがキャッシュカ-ドが一枚入っていたのですぐ連絡した。そのあと警察から連絡来て落とし物をとりにゆくことになった。仙台で落とし物したときも警察に届けられていた。案外落とし物は日本では届けられる。そもそももしかしたら落とし物はたいして金など入っていないからかもしれない、大金が入っていたらどうなるのか?その辺がわからないけど日本で落とし物が帰ってくる割合はかなた高いだろう。これが外国だったらほとんど帰ってこないかもしれない、そういう点、日本は安全である。狭い所だから落としていたらすぐもどれば落ちているものがそのつまにしていればわかる。そういうことも何回かあった。今回は人が通るところなのでそういうことがなかった。ともかく落とし物がかえらないことはなかった。ただ田舎が安全かというと家の中に入ってくるものはやはり金がからむことだと今は相当に危険である。あんな大胆な人が田舎にいるとは思わなかった。
今でその人ととは狭い田舎だから会っている。警察に届けても証拠がないということでとりあわない、警察は意外と犯罪では頼りにならない、なぜなら盗みでも何でも明確な証拠がない限り警察ではとりあげない、めんどうになるからだ。めんどうなことには警察はかかわりたくないのだ。なぜ尼崎の角田に警察がかかわらなかったのか不思議に思うだろう。それには何かかかわりたくないものがあったのだ。それは何かわからない、在日だカルト宗教団体だとかの巣窟でありそういう背景が何かあったので警察はかかわらなかった。あれだけの犯罪でもそうなのである。警察は証拠がはっきりしているものでないとかかわらない、それを決めるのは検察官であり警察官ではない、書類の手続きやら何やら今は人を犯罪者にすることは大変な労力がかかるのだ。だから今の時代は大きな犯罪でも見逃されているのが非常に多いのだ。
あれだけの犯罪でも見逃されていたということでもわかるのだ。殺人ですらかなりのものがつかまらないし見逃されているのだろう。もう一つは犯罪の範囲が広がりすぎたのである。世界まで広がったらなかなかつかまらない、そして人権に配慮するから犯罪者をつかまえにくいのである。
江戸時代がなぜ安全かといったら狭い範囲、村の中で生活しているから安全なのである。よそ者はめったに入ってこないしよそ者は必ず注意して見られているから犯罪できないのである。今は田舎ですら外国人が車で入ってきたりできる。関所があるわけでもない、誰だかわからない人が入ってくるのである。ただ実際問題として人間一番怖いのは内部の人間である。戦国時代でもそうだが内部に送られた密偵とか内部にまぎれこんで攪乱するとか内部でとりいって信頼されてあとで裏切られるのが一番怖いのである。だから角田の事件はわかりにくいけど家族の内部に入って内部を牛耳られたからあのような悲惨なことになった。そういうこと人類の歴史が始まって以来教訓として残されていた。
トロイの木馬である。木馬が贈り物として城の内部にもたらされた。それが何なのだろうといぶかっていたが城の中に入れてしまった。家の中に入れてしまったのである。城の中に家の中に敵を入れてしまったのである。これほど危険なことはなかったのである。角田の事件もやはりわからないあまりにも残酷なものにしてもやはり家に引き入れて起こったことなのだ。これは田舎でも今は関係ない、やはり金の力がものいう時代だから家の中にはよほど信頼する人でないとまかせてはいけない、家の事情もわかりそれが本当に危険なことなのである。老人などは特に危険である。
結局この安全管理は人間にとって盲点だった。会社経営している人などは借金している人は信頼してはならないとか言っている人がいる。金持ちは貧乏人とつきあうなとか世間に通じている人は言っている。人は簡単に信じることは命取りになる。ただではその信頼関係はどうして作れるかというと非常に今はむずかしい。村のような狭い範囲だったら互いに顔見知りであり江戸でも狭い範囲で生活しているから顔が金の代わりになる。あとで払うよと言っても顔で信用される。今は例えばコンビニなどでは外から人が入っているから監視カメラで見ている。店長は監視カメラを管理している人なのである。それだけ盗む人が多いのかもしれない、ただその金額は極めて少ない、家の中に入ってくる人はその家の財産がねらわれるから怖いのだ。貯金通帳もねらわられる。ボケ老人だとそうなる。
これは田舎でも今は金の世の中になっているから危険である。田舎も昔の田舎とは違っているのだ。やはり金がものいうことは田舎でも今は同じだから金にこだわる。人間関係も金を通じてしかありえない社会となっているからだ。
まあ、自分の場合はあまりにも世間にうとすぎたのである。坊ちゃんだといえばそうであった。そんな悪い人がいると思えなかったのである。もちろん悪の判定は簡単にできないにしろあまりにも人を信用しすぎたのである。それは田舎ではそんなことしないという先入観があったのだ。それが変わってしまったのである。ただ30年間くらい何も問題が起きなかったこと自体ふりかえるとあまりにも恵まれていたことだった。身内が認知症になってからすべてが狂ってしまった。そこからいろいろな問題ばかり生まれたのである。それで今はショ-ペンハウエルの本は一番読んでいたがまた読み返してなるほどなと思う。人間というのは災いがいかに多いかである。その災いこの五年間で嫌というほど経験した。だから今願っているのは災いのないことだけである。津波という自然災害もそうだけど
原発事故もありこれほどの災いはなかった。今はただ石のように何も災いの起きないことがどれだけ幸福なことか再認識した。便りがないのはいい便りだいうのは本当である。絶えず便りがきたとしても悪い知らせであり災いが人間を通じてもちこまれるのだ。いい便りなどほとんどないのである。
石のように何も起こらないことが幸福なことである。それを今回ほど願ったことはない、結局原発事故の災いはこれから放射能被害などどれだけ長い期間つづくかわからない、もううんざりしている人も多い。でもここに住んでいる限り逃れられない問題なのである。
アンケ-ト
百万サイフに入っていたら警察に届けますか?
一千万だったらどうですか?
金額によって人間の心理はかなり変わるだろう。
例えば百万であれ一千万であれ盗んだ人は返さない
もう十万くらいだったら返すが
額が大きくなると返さない
額によって犯罪の度合いが決められていたのだ
「死罪」では、強盗傷害や十両以上を盗んだ窃盗犯に科せられた
これは相当に厳しい、江戸時代は刑罰が厳しいことでもなかなか犯罪できない社会だったのである。今は十両など盗んでもわからない人が多いしつかまらないしそんなこと日常的に起こっているのだ。
2012年11月12日
浪江町の赤字木(あこうぎ)の方からメ-ルがきました (一カ月読んでいませんでしたのでここでも返事します)
浪江町の赤字木(あこうぎ)の方からメ-ルがきました
(一カ月読んでいませんでしたのでここでも返事します)
浪江町の赤字木(あこうぎ)の方からメ-ルが来ました
その返事を一か月以上していませんでした
メ-ルを都合で読んでいませんでしたのでここでそのことを書かせてもらいました
ここのところ入院したりしてメ-ルを二か月くらい見ていませんでした
それでさくらのサ-バ-から重要な連絡が入っていたのもみていませんでした
あと一時間ですべて消されるところでした
メ-ルで困ったのは迷惑メ-ルが多すぎることです
そのためにメ-ルを見るのが嫌になって見ていなかった
メ-ルはやはり定期的にみている必要がある
プログでメ-ルだしましたとコメントで連絡すると必ずみます
プログでのコメントの方が毎日見ているのでわかるのです
メ-ルは毎日見ていなかった、一か月とかみないことが結構ありました
赤字木の人は避難して仮設に住んでいます 曽祖父が「相馬藩政史」にかかわったようです
「手書き原稿を始め参考資料等、数多の古文書も保管しておりました」とあるから由緒ある家の方だったようです
先祖代々の歴史と努力を一瞬にして葬り去ろうとしている国策には怒りを禁じ得ません。
やはりこれだけの歴史を山中郷の赤字木でももっていたのだからそこを放射能で追われたというのは怒りになる。一見外から見ると浪江とかは歴史がないように見える、特に双葉とか大熊はそうである。それでも江戸時代からの歴史がある。浪江は古代から標葉郷として四つの郷があったのだから古代からの歴史があった。ただ双葉、大熊は古代ではない、相馬藩になってから開墾されたのかもしれない、ただそれだけの積み重ねた歴史があるのだからその怒りは理解できる、ただ赤字木が山中郷になっていたのは知らなかった。浪江の標葉郷の方だと思っていた。
メ-ルはこれからなるべく読みますが毎日は読めないです、迷惑メ-ルで嫌になるのです
他にメ-ルアドレスを増やそうとしているのですがうまくいかなかった、その準備中でした
プログの方にメ-ル出したよと一言連絡してくれれば必ず読みますのでよろしくお願いします
注意
メ-ルを出して返事がないと思っている方、連絡してください
今回赤字木として出しましたが個人情報が出されるのが拒否する時は連絡してください
2012年09月03日
天使にも悪魔にもなる看護婦(師)のことなど (人間は最後までプライドをもつ)
天使にも悪魔にもなる看護婦(師)のことなど
(人間は最後までプライドをもつ)
脈をとる看護婦の手の
つめたく堅き日もあり。啄木
病院とか病気は非日常的なものを作り出す。特殊な感受性を作り出す。啄木は天才的な感受性をもっていたから病気になりあれだけの短歌を最後に残した。正岡子規の俳句も病気から生まれたのである。また死を常に意識していたから平凡なものでも違って見えた。今は看護師だけどこんなふうになかなかここまでは感じない。自分は病気が病気だけにオムツとか必要とした。そのとき看護婦にひどくしかられた。手術の後に汚してしまったからだ。頭がまだ朦朧としているときだった。そのときなぜそれほどそのことが気になったのか、頭に来たのか、それは相手が孫のような女性だからであった。プライドがひどく傷つけられたのである。そもそもオムツ自体がプライドを傷つけるものである。
一時的ならいいが長くなると悲惨なことになるのはそのためである。
つくづく人間はプライドに最後まで生きる。それは認知症でもそうだった。認知症の最大の特徴は最後までプライド失わない、馬鹿になってもプライドを失わないのである。馬鹿になっても馬鹿にされると怒りそれが暴力の原因にもなっているのだ。人間は馬鹿になってもプライドだけは失わない、プライドを傷つけられた時、命をかけて相手を殺すことも普通に起こる。韓国と中国があれほど日本を憎むのは民族のプライドが傷つけられたからである。それは消えることがないのである。犯罪も人間としてのプライドが傷つけられるから起こる。金がないということもあるがそれより人間としてのプライドが金がないということで傷つけられることが原因なのである。
今回もプライドを傷つけられたから看護婦に対して不快感をもった。看護師にはやさしさが必要というときこのやさしさもつことはいかにむずかしいものかわかっていない、看護師も最初は天使だけどあとで悪魔になるというのもそのためである。やさしくしようとしても現場で常時そうはいかなくなる。看護師でないにしても老人に嫌悪感をもっている若者も多数である。あとはただ機械的に仕事して月給もらえばいいとかなる人もいる。ただ看護師とか医者の問題は医療的技量もあるが人間的やさしさが必要だというとき今回のようにプライドを傷つけられるとコミニケーションができなくなることが深刻なのである。何か症状を訴えることもしにくくなる。その人が怖いとなるからだ。つまり病人は弱者である。その弱者をいたぶることはあまりにも容易なのである。認知症の看護とかそのほかこの五年間は弱者のみじめさを味わってきた。この世で弱者をいたわることはない。
弱肉強食の世界である。だから火事場泥棒なども経験した。
相手の弱みにつけこむことは日常的に起こっている。最近の日本でも経済が弱くなった日本は怖くないと回りから責められていることでもわかる。医者がなぜ一般的に傲慢になるのか、相手が弱者だからそうなる。病気になり弱ったときにしか接しないからそうなる。相手が弱者だから自分の命令に従わねばならないとなり上下関係ができてしまう、医者でも看護師でも不満があっても逆らえないとなる。そして病院は外にはでれない刑務所であり管理される。だから物体のように管理されて死ぬということがある。体はみるが人間のプライドは病院や看護師や医者は重んじないのである。だから重症になるとその人の意志すら伝えられなくなり尊厳死などは病院ではありえないのである。病院では体はみても人間の精神はみないのである。こういう問題は高齢化や死をどう迎えるかで起きている。家で死ぬというときそこが尊厳を与えられているからだろう。病院ではありえない、特に身寄りがない人などは病院では悲惨である。
誰もみてないからさらに弱者となりそのとき実験台にされたりと医者や看護師はそのとき悪魔に変身してしまうのである。
2012年09月01日
無事手術終わりました
無事手術終わりました
自分の場合は前立腺肥大でも特別大きく普通は一時間半で終わるが二時間かかって出血も多く手術の後で輸血した。麻酔で頭が三日ほどくらくらした。
でも点滴も終わり尿も出るようになったのであとは楽である。
この病気は尿道を圧迫して尿がでなくなる病気である。
最悪は尿がでなくなり腎臓に影響して腎不全になり死ぬこともある。
南相馬市立病院に一カ月入院したのはそのためだった。
昔はじいちゃんが小便でなくなって死んだと言っていたらそれは前立腺肥大で死んだらしい。昔はこんな軽い病気でもかなりの人が死んでいた。
管入れて小便をとれないとするとそうなる。これは年取るとなる病気だからこういうことはありうる。
相馬総合病院は泌尿科で有名らしい。院長先生が泌尿科であり三人も専属の医者がいる。毎日手術している。南相馬市立病院
では若い医者が一人であり簡単な治療しかできない。病院によってこれほど違うのかと思った。
ただここは迷路のようになっていて見晴らしは良くないので快適とは言えないのが残念である。でも海が見える所が三階に一カ所あった。今日わかった。
それほどここはわかりにくい病院である。
一般的に泌尿科はみんな軽度で病気のように思えない、たいがい二週間で退院している。自分もうまくゆけばそうなるがわからない。同じ病室のものはみなそうなので毎日暇だから話しして暇つぶしして笑っている、病人には思えないのである。ただ場所が場所だけにいやなのである。
ここには津波で家を流された新地の人や浪江の請戸の人がいた。その人は深刻ではないのも不思議である。土地は買い上げて
もらえるとかこのさい職をやめてのんびりするとか、仕事しないから太ったとか請戸の人は特別室であり金持ちらしい、息子に家を建ててやるとかでも土地が高くなっているとかそういう人はやはり余裕がある。余裕があるのは家族が死んでいないからである。
ここの階には丸森、新地、相馬市、小高、浪江やいわきとかの人がいた
それらの人は元気だから話しできる。新地の古老のような人がいた。
実際に城跡の保存とかしている、なんか聞いたことがない話しを聞いた
話しがうまいから新地の生きた古老である。
なかなか通信できなかったが場所を変えてできた、
コメントは遅いのでできない
まあ、苦しい時はすでに過ぎたからパソコンもできる
暇だから文章書くのには向いている
2012年08月21日
明日から入院です
明日から入院ですのでプログはしばらく休みです
病院からも送信してみますが遅いので長い文は無理です
何回か送信できればいいほうでしょう
2012年08月19日
病院に持っていくもの(通信実験)
病院は暇だからノートパソコンで通信できるといい
古いので遅いしうまくいかなかった
今回は用意していくので前よりはいいかもしれない
病院から最後のメッセージをアップします
冗談ですけど・・・
2012年08月11日
さくらのプログに宣伝が入り「HTML」のコピ-するとエクスプロラ-がダウン
さくらのプログに宣伝が入り「HTML」のコピ-するとエクスプロラ-がダウン
さくらのプログに今度はアップロ-ドするとき、そこまで下に一行宣伝が入る
そのために不具合が起きた。「HTML」のコピ-するとエクスプロラ-がダウンする。
何度もやり直さないとコピ-できない、「HTML」をコピ-して二つのプログを作っていたので困った。こんなところまで宣伝を入れるのはせこいなと思った。
インタ-レスマッチの宣伝もしないのに消えないのである。
インタ-ネットの世界は安いから何らかこうした宣伝でもうけないかぎりもうけられない,
だからここまでせこく宣伝しているのだ。
いちいちアップロ-ドするとき宣伝でてくるので目障りなのだ
それで何もないならいいが不具合になっているから困るのだ。
プログは毎日書いているからスム-ズに書けないと困るのである。
今のところ、入院とかで他に移れない、退院したら移らざるを得なくなる。
今は本当に宣伝から逃れられないのだ。宣伝が収入源になっているのはさくらのプログでも
安すぎるからそうなるのである。レンタルサ-バ-でも管理するのが結構人件費など金がかかる。
だからどうしてもどこでも宣伝を収入源としようとする。
ただ利用する方にとっては困るのだ。
利用者がなんといってもプログはサ-ビスでしているのだからどうにもならんだろう
他に移ってやってくれとなる。もっと金払っているならこうはならないのである。
2012年07月13日
最近アマゾンで買ったもの(ニッチなものが売れる) (情報は連鎖して買いものもある時代)
最近アマゾンで買ったもの(ニッチなものが売れる)
(情報は連鎖して買いものもある時代)
最近買ったもの
電波時計だから時間をあわせる必要がない、温度計とアラ-ムがついている。アラ-ムは最初ピッピッピッ・・・と単調になりづけ今度はピピピピと激しくなり続ける。一様な音ではないのがいい、だからこれは小さくも目覚めやすい、持ち運びにも便利である。1800円では安かった。
36GBのUSBメモリ- 1600円
これも安いから買った。それほどいいものではない、近くの電器店では倍以上している。
見逃していたのは岩切が重要な中世に栄えた要所だったことである。奥大道の要所だったから歴史が積み重なっていたのだ。それを見逃していたのである。この本も知らなかった。仙台のこうとう台公園の近くの喫茶店をかねた古本屋に置いてあることをインタ-ネットで知った。でもアマゾンで安く買えた。これも情報の連鎖で買い物しているのである。ともかく岩切には一回行ってみる必要がある。
岩切について
http://www.city.sendai.jp/kyouiku/bunkazai/panfu/pdf/53.pdf
この年になるとあらゆるものの整理になる。人生自体が整理になる。本も整理することになる。こんな本読んだなとか読み返している。これはこういうことだったのかと深く読める。意外と本は何があるかわかりにくいのだ。そして地方では本は買いにくいものだったのである。今はアマゾンで古本でも何でも買える、アマゾンでないと買い物がかなりあるからアマゾンを利用する人がふえたのである。ただ余りに高いもの大型のものは買わない方がいい、軽いと思ったバッグが形は良かったのだか重かったとか手にとれないので失敗する場合がある。だから一万くらいまでの買い物に向いているのだ。椅子などでも大きさや座り心地まではわからないのである。
自分の場合は変わったいたにしろ家は余りにも居心地が良すぎるところだったのだ。二人の女性が仕えていたし何不自由がなかった。今思うとつくづく楽だったな幸福だったなと思いかえす。その期間も実に長すぎたのである。今になってそれがすべて反転した。自分をみてくれるものは一人もいない、これも自業自得だった。人間は何であれ結局自業自得である。借金で苦しんでいる人は本当は自業自得である。金がないのに金を使っているからそうなる。病気すら自業自得なのかもしれない、酒を飲み無理をしていたら必ず年取ると体に影響して病気になりやすいのだ。これはすべてとは言えないがそういう傾向は一般的にある。不摂生の結果として病気になってくる。
原発事故だってこれも地元の人にも責任があり自業自得だと他から言われるのも一理あり否定はできない、原発で利益を他よりも得ていたのだから地元も悪いとなる。これは日本全体自業自得だともなる。そんな危険なものを放置していたのは国民に責任があるともなる。自分のようなものは自由に生きてきたのだから野垂れ死にしろと言われてもしょうがいかもしれない、それも自業自得である。本当は責任を他者のせいにするのは間違っている。いろいろ境遇があるにしろそうかもしれない、そして時間はもどってこない、後悔してももどってこない、青春などたちまち過ぎて遠い夢の世界になる。この世で一番貴重なものは時間でありその時間が一番消失しやすく取り戻すことができないのだ。だから青春を浪費したものは一生を浪費したともなる。
老人が一番欲しいものはとかキ-ワ-ドでくるがモノを欲しがっていると思っているが老人が欲しいものは時間であり時間で得られたものだったのである。時間など何もしないでも何をしてもすぐ過ぎてしまうのである。女性はたちつち老いて美貌を失うのも早い。それでも60代になっても化粧して男を求めているのが業なのだろう。実際は皺を隠しているが近づけば見える、若いときの姿はもうないのである。老人になるとこうした悪あがきがふえてくる。あきらめきれないのである。いくら若返ろうとしてもできないのである。老人はやはり心の方にその精力をシフトする、集中することになる。
外見はもうどうにもならない、ただ精神的に気品があれば体はだめでも美しいということがある。そういう美しさを目指すべきだったともなる。ともかく失われたときこそ千金の価値があったのである。
2012年07月12日
相馬市の病院へゆく (この辺の福祉の問題など-やがて施設も病院も入れなくなる)
相馬市の病院へゆく
(この辺の福祉の問題など-やがて施設も病院も入れなくなる)
老鶯や鯉ゆうたりと小泉川
今日は相馬市の病院に行った。手術の日が決まった。施設に家族もあづけられる。手術自体は2,3週間でありたいしたことないみたいだ。でも手術だからそれなりに大変だということがある。ともかく介護していて介護する人もいないのだから何でも大変なのである。介護して一人は死んだけどそのために病院にも行けずに悪化させたのである。幸い癌とかでないから助かった。体力的には落ちてない、普通の生活ができる。老人をみていると歩き方でわかる。歩き方をみていればこの人の体力がどれくらいかわかる。老人は見た感じでわかるがそれは歩き方と姿勢なのである。ぴんと背筋が張ってすいすいと歩いている人はまだ老人には見えない、例え白髪でもはげていてもである。ところが歩き方を見ているとやっと歩いているような感じの人は年だな、老人だなと見てしまう。自分は歩き方から老人には見えないだろう。すいすい歩けるし背筋も張っている。姿勢は悪くないからだ。それでも介護保険を納める年齢になっている。60代とか個人差が大きくなる。十歳くらいは違って見える。
60以後は年に関係なく歩き方を見てその人の体力の度合いを計るといいかもしれない、やっぱり人間は歩くことが基本なのだ。歩けなくなったら途端に老いてしまうだろう。
30年一人暮らしている相馬市の老女がアイネットのことを言っていた。緊急時の連絡のシステムである。その女性は福祉関係で無料で入っている。隣近所は全くあてにならない、都会と同じだと言っていたことは自分もつくづくそうだと思った。ちょっとしたことも頼めない、隣近所は無縁化している。頼りになるのは福祉サ-ビスでありここが機能しなかったら例え何なろうが隣近所は放置される。
死んでいてもわからないだろう。これは田舎でもそうであり社会自体がそうなってしまったのだ。
だから福祉サ-ビスが機能しないと悲惨なことになる。「おにぎり食いたいと・・・」と言って生活保護を受けられなかった人が都会で死んだ。昔だったら隣近所に言っておにぎりくらい食べさせてあげたろう。貧乏でも米をわけあったとかある。それが今の時代は全くなくなった。だからこそおにぎり食いたいと言って死んだのである。誰もおにぎり一つあげることもできなかったのである。そういう社会になっているということなのだ。隣近所は本当に無縁化してしまったのである。
ただ金があればアイネットとか隣近所の役割をするサ-ビスを受けられる。これもまたまさに隣近所が全く無縁化しているからこそ商売として成り立つ、そういうサ-ビスが仕事になるのもまさに現代を象徴しているのだ。何でも金を通じてサ-ビスを受ける社会なのである。だから一面金のない人はこういう社会ではさらに無縁孤立化してゆくだろう。ただ金だけでは何もできるわけではない、それは自分が痛感した、近くだと思って頼んだら犯罪にあった。もう金しかその人は求めていない、その現実に唖然としたしこれが現代社会なのだと痛感した。それは田舎でも都会と同じなのである。
農家辺りではまだ多少は隣近所は違っているかもしれないが街内どこも同じである。
不思議なのは隣近所でも何か困っても「福祉関係に頼んでください、民生委員に頼んでください」で終わりである。家族が認知症になったときも誰もかかわらなくなった。ただ病院に入ったとき看護師などがかかわってくれたのである。施設に入ればかかわってくれるのが現代であり隣近所は全くかかわらない時代である。それでもこの辺では福相とかの会社で募集しても人がこないとか働き手が流出していることが深刻な問題となっている。病院でも看護師、医者がたりないとか介護関係もたりないとかそういうことが深刻になってくる。
だからみんなが「福祉に頼んでください・・」というときその本人もそう言われる。重篤になったらやむをえないにしろちょっとしたことも頼めないのである。金がない人は特に苦しくなるはずである。金がないなら助けてやっても損なことはないのだ。打算的にしろ恩を与えることでもいい、人は助けて損になるはずがないのだ。何も得られないにしろ損にはならない、重篤になっている場合は別である。ついで買い物してやるとか留守だったら家をちょっとみてやるとかである。そういうことすら頼めないのが現実である。人によるにはしろそういうのが現代社会であることはまちがいない。
ともかくこの辺の状態といろいろと深刻である。自分は住むところがあるからまだよかった。他の人は飯館村でも住む所を奪われたし一体これからどうしていいのだろうと途方にくれているだろう。
津浪の被害にあった人もそうである。岩の子で津浪の被害にあった人がいた。塩害で田んぼがだめになったとか聞いた。様々な負担がのしかかっている。だから自分たちのことで精一杯だというのもわかる。そして若い人が流出することはこの辺ではいかに深刻なのことかまだ自覚していない、老人とか高齢者や病人ばかり残されことになる。その時「福祉の方に相談してください」だけでは解決しえなくなる。それだけの余裕がないし病院だって重症の人すら早めに出され自分で食事の用意すらできないような人が病院から出されていることが放送された。そううい時代になってくる。「福祉で頼んでください」で解決すらならいい、その福祉への期待が崩れることがあるのだ。だからなんだか三年も胃ろうで病院に入っている人などが増えてくるとそのあとに入れことができなくなる。そういうふうに病院でも施設でも手当てしているとあとにつかえるものが困ることにもなるのだ。いいところで死んでもらわないともうあとがもたないという事態になりつつあるのだ。とにかくこの辺ではこれから病院でも福祉関係でもまともなサ-ビスが受けられなくなる可能性が強いのである。そういう自覚にまだ欠けているからのんきなことを言っている、今度は自分の身にふりかかてっくる。
今やここに残り暮らすことは今までとは違っている。何らか互いにここに残るために協力するとかそういうことが必要になってくる、在宅介護だってもう施設に入りきれない病院ではめんどう見切れないからそうなっているのだ。だから隣近所の無縁化社会はこれに拍車をかけるから「おにぎりください・・」と言っても誰もくれない、餓死してゆく人が増えてくる。だから最低のセ-フティネットで現物を供給する場を作るのはいいかもしれない、アメリカではそうしている。生活保護だってふえる一方なのだからこんなことつづくはずがない、限界がきているからだ。ともかくこの辺ではまともな福祉サ-ビスも受けられなくなるかもしれないからそういう自覚をして残るほかないかもしれない、でなければ福祉サ-ビスのいいところに金ある人は移るほかない、都会の年金生活者は福祉サ-ビスのいい市に移住しているのだ。つまり現代は金があれば移住しやすい社会である。だからこそ若者もこんなふうな状態になるとこの市長村はもう未来がない、こんなところで暮らしていてもいいことはないと移住する人がふえてくるのだ。そして残されるのは老人とか病人とかばかりになる。でもそれを補佐する福祉が維持できるかと言ったら若い人がいなくなるのだからできないのである。
小泉川の所は情緒があり鯉が泳いでいるのがいい、相馬市は駅前から開発などしない元のままの街だった。そこが原町と違っていた。細い路次が多く城下町の名残がある。
2012年04月29日
タンポポ(耕されない田畑がタンポポで埋まる)
タンポポ
(耕されない田畑がタンポポで埋まる)
年老ゆも鳴き合いひびく夕雲雀
たんぽぽや子供の顔に輝きぬ
タンポポの耕さぬ田畑に満ちにけり
草原に春の夕風海近し
耕されない田畑に一面にタンポポが咲き満ちている。ハコベのようなものも咲き満ちている。あとは一部耕されているが草原化している。草原だと風も夏の感じになる。海まで見通しが良くなったから風が海から気持ちよく吹いてくる。この景色はまた北海道なのである。北海道は牧場で草原なのである。一面にタンポポの咲いている所がにているのだ。この景色も悪くないと思うがこういう状態でそのままにしておくわけにはいかないだろう。
ソ-ラパネルの仕事も山の木を切ったりして大変ならしい。何か仕事を生み出すにしても簡単にはできない。みんなこの先、福島県などはどうなるんだろうと心配する。田畑の仕事がなくなったら農家の人はどうなるんだろうとか他からも心配になる。ただハウスでいろいろな花を栽培している家があったけど花は放射能の影響はない。水田がなくなっても一面に花が咲いたらかえって美しいともなる。ひまわりは相当植えてあるから一面のひまわり畑になる。
タンポポが辺り一面咲いている。そのタンポポにかがみ子供が遊んでいる。その時自然と子供は一体になっていた。その花に近づける顔にタンポポも明るく輝いて咲いている。畠打つとか耕しとか人間と自然が一体化するとき調和して美しいのである。
my cultivating homeland in spring
humanbeing and the earth in one body
以前として家の方が整理できない、本は乱雑に積まれているしまだ地震で壊れたところや掃除しないところがある。一人は寝ているのでなかなか咲きに進まない。一年間すでに整理に追われている。
近くの人が死んだ。老夫婦であり二人とも病気みたくなっていた。夫が先に死んだけど妻ももう一人では生活できない、90近い人が買い物している。回りにはそんな人ばかりである。老々介護とかよたよた何とか歩いている高齢者である。この辺は津浪、原発事故で病院や福祉関係のサ-ビスの質が落ちた。これから施設に入るのは容易ではない、国では在宅介護にしようとしているが今や少子化や家族数が致命的に少ない、その中で一人倒れられると介護する人大変なことになる。自分は二人も介護する人いたが一人は苦しかったけど死んだので助かった。もし二人も介護していたら自分も倒れた。少子化というのは高齢化して二人でも四人でもその少子化した子供がみなくならねばならぬ。
その重荷はとても背負いきれないものとなる。兄弟もいないとなれそうなるのだ。昔のような大家族だったらなんとかのりきれる。少子化やら高齢化やら一人暮らしの増大はこれから悲劇を生む。
90近い人が多い、その人たちはどうしても病気とかになり倒れる、それが見えているのだ。百までも健康な人などまれだからだ。その時老々介護とかなり共倒れになる人も多数でてくる。
近くで死んだ人は子供が親のめんどうみなけれならなくなる。一か月くらい子供ではなく近くの人がめんどうみていたという。子供でも離れていると今はめんどうみないのである。だからといって近くの人がめんどう見るなどとは今はならない、少子高齢化はやはりえびつな社会構図なのである。
2011年10月12日
自分に起きたちょっとした事件の謎(犯罪は田舎でも増えている?)
自分に起きたちょっとした事件の謎
(犯罪は田舎でも増えている?)
犯罪が増えているとか増えていない主観なんだよ、自分のみにふりかかったら犯罪が多いなと思う
そうでない人は犯罪はあまり関係ないんだよ、犯罪を身近に感じて犯罪を知るんだよ
今回のことも変だった、小さなバッグを忘れた、それを知ったのが自転車でしばらく離れてからだった。忘れた場所はわかっていた。そこにもどってみたらなかった。それで近くのス-パ-に行ってみたら届けられていた。そのス-パ-に忘れた記憶はなかったが一応たずねてみたのだ。5分くらいしかたっていないからわかっていた。そしたらバッグがス-パ-に届けられていた。近いからス-パ-に届けたのだ。
「お礼をしてくださいよ」と店員に言われた。
店員に電話番号と名前が書かれたメモを渡された。
そのス-パ-では金がなくて外でカ-ドで一万下ろして使った。2千円内の出費だったろう。その時一万なのだから一万を使うはずがない、バッグが届けられていたしお礼をしろとも言われたので電話した。出たのは20才以下の高校生くらいの男子だった。そのバッグは通信販売で買ったばかりであり一万した。あとはカ-ドとデジカメが入っていた。あとは何も入っていない、でも全部で5万くらいとして一割の5000円払った。失敗したのは電話したときパッグの中味を見ていなかった。金が減っていることにきづかなかった。確かに一万をス-パ-に出したのだから2000円しか残っているはずがない、かといってぬきとられたとも思えない、わざわざ届ける人がぬきとるわけもない、するとス-パ-のバッグをわたし人がぬきとったのか、それとも自分に何か落度がありなくなっていたのか?その辺がわかりにくい、金はス-パ-でしか使っていない、・・・・その辺が謎になっている。ス-パ-内で忘れたならス-パ-の責任になるがその外になると警察に届けるものだった。ス-パ-に届けるものではななかった。ただ警察すら忘れ物の金をぬきとっていた事件があった。これはぬきとりやすいのである。小額だったら全くわからないのである。
バッグを届けた人に5千円をわたした。母親と一緒であり顔を見たらとても金をぬきとって届けるような顔ではなかった。すがすがしい顔をしていた。それも母親と一緒に来ていたからあの人はぬきとるようなことはしないと思った。人間はやはり表情を見るとわかるということがある。ただそれは人間を良くみれる人でないとむずかしい。人間の表情をよはとることはむずかしい。 するとス-パ-の店員がぬきとったのかとなる・・・それが有力だが自分の落度もある。小額をぬきとる犯罪がありそれはわかりにくくされて誰も訴えないということがあった。それは巧妙な犯罪である。犯罪者はそういう所に頭が働くのである。乱暴な犯罪はよほどせっばつまった人がするのだろう。
自分は最近どうしてか犯罪にあった経験があり犯罪を考えるようになった。これは額が少ないからどうでもいいことだがそれでも何か最近田舎でも犯罪が増えているかもしれない、せちがない、世の中になっている。余裕のない社会になっている。ともかく格差もひどいし時間給とか派遣という労働の仕方が労働倫理を壊している。まともに正直に働くことが馬鹿らしくなっている。自分も時間給とか派遣の働き方は大問題だと思う。それは底辺の労働のモラルを壊してしまったから犯罪は増えていると思う。ただこういうのは統計的には客観的にはわからない、そして警察に検挙されない数も膨大である。警察では小さい犯罪にはかかわらない、はっきりとした証拠がないかぎりかかわらない、それは大きな犯罪でもそうである。今は明確な証拠がない限り警察は動かないのである。結局犯罪がふえたとか増えないは主観的なものである。犯罪にあった人は犯罪のことを真剣に考える。あわない人は考えない、他人事であり面白がるだけである。それは殺人事件でもそうである
推理としては
●届けた人がぬきとった
●ス-パ-の店員がぬきとった
●自分が何かしらで金をなくした
何かで落としたのかもしれない、その可能性もある、ただ一カ所だけよって使ったあとは使っていない、それも何百円だけである。そのあとは自転車で去っただけである。
推理としてはこのどれかである。自分の過失も十分にある、そういうことも前にあった。
だから疑うのは良くないが最近犯罪にあったので主観的にそう思ってしまった。
2011年08月23日
コメント一つ削除しました
要請がありましたので一つのコメント削除しました
メ-ルを読まないときあるので・・・コメントを削除してくださいと書いてください
メ-ルが読めないのは宣伝が多すぎて開いていないです
実名など出して困る人があると思いますから削除するときも実名は出しません
インタ-ネットはいつまでも残るので困る人がでてくるかもしれません
プログでは相手のことが良くわからないので最初は匿名で書き込みをして
あとでメ-ルなどで連絡するといいようです
連絡は匿名でコメントでしてメ-ルを出したよと書いてください
2011年08月10日
南相馬市ニュ-ス
解除されても補償がなくなると困る人もでてくる。原町区は会社などすでに移動している所がある
その人たちが解除されてもどってくるのか?医療は正常化してくるのか?
ケ-ズ電気とか山田電気がまたはじまるのか?
原町区は解除されても20キロ圏内の小高は解除されないだろう。
すると以前として立入禁止区域が南相馬市内にあり正常化しない
立入禁止区域は何か国境のように線引きされて嫌なんだよ
だから原町区は正常化しにくいんだよ、解除されてもまだ変則的になるんだよ
2011年06月18日
相馬総合病院に検査入院(2日間)
明日は相馬総合病院に検査入院です、二日間です。老化の病気です、泌尿器系統です
ガンの検査もするらしいです、でもこの癌ですぐに死ぬようなことはないようです
80以上とかなればかえって治療などしない方がいいとも言われています
まだその年にならないから手術とかなるようです、でもこれも病気は病気です
今南相馬市の原町区ではニュ-スでもわかるように治療をまともにできません
入院もできません、一週間に二三回とか私立でも開いていません、ただ治療費は無料です。
原町区の緊急避難準備地域というのは本当に変です、福島市や郡山市の方が放射線量が高いですから避難地域すべきなんだけどできない、政府で補償しきれいですから・・・
でも1000名くらい避難していた、やっぱり危険な領域になっている
相馬総合病院は東北大の医者や研修生来ています、南相馬市立病院は福島医大です
相馬市は宮城県の方が交通的に便利である。電車にしても原町駅始発-仙台駅であった。
今は代行バスが亘理まで出ている。新地が相馬市と合併しなかったのは伊達藩とのつながり深い武家の家があって主張したからだというのも他からはわかりにくい、江戸時代の境にはそういことをひきづっている。双葉町辺りも相馬藩の境だった。夜ノ森は余の森だったから、相馬藩主の余の森だった。つまりどこの境でもそこには歴史の興亡の場となったからそうなる。
末続駅と新妻一族の村だったということを書いたがあそこも相馬藩と磐城藩の興亡の地点だからそうなった。
そして今南相馬市と相馬市の間になって境となっているのが鹿島区だとなる。ただ相馬市は原町の倍の距離あるから経済的に結びつくにも問題がある。でも病院が機能しないことは住みづらくなる。実際に緊急な時があり入院もできないとなると大変である。救急車が相馬で受け入れられず福島まで行ったとかそうなると大変である。高齢化社会は病院がまともに機能しないなら早死になってしまうだろう。病院が良ければ長生きになる。医療の進歩とか病院の設備の良さとか福祉の良さとかで長生きしているのだ。すでに85才で近くの人が胃ろうになって3年くらい生きている。前より良くなったというから驚きである。胃ろうになると死期も早くなると思っていた。そうでもない人もいる。これも医療の進歩と手厚い介護あるから長生きになる。
ともかく明日は検査入院である。
2011年02月17日
現代の貧乏や借金する人には責任がある(目黒の老夫婦殺傷事件は韓国に愛人がいたため?)
現代の貧乏や借金する人には責任がある
(目黒の老夫婦殺傷事件は韓国に愛人がいたため?)
ローン返済に行き詰まり、差し押さえで家を失う恐れのある家庭は220万戸に上ると試算する。これは米国史上最大のアフリカ系米国人の富の喪失となる恐れがあると同氏は考えている。借り手がより適切な助言を受け、より適切なローンを組んでいれば、大部分は避けられた喪失だ。
http://www.asyura2.com/07/hasan49/msg/700.html
そもそも金もないのに借金させていた。そのことが世界的不況の引き金となった。現代の貧乏とかには大いに疑問があるのだ。なぜなら昔の貧乏のことをいろいろ書いてきたが米が食えないから米が食えれば満足だ、飢死しないからいいとか、戦後10年くらいも卵も食べられないという貧乏があった。また外国でもそうだがトルストイなども大貴族でありその下に多数の貧民をかかえていた。貧乏でもそうした格差が極端な場合は同情すべきものとなる。地主が羨望されたことはやむをえなかった。その格差が大きすぎたし豊になる手段もなかったからである。
しかし現代の貧乏は米が食べられない人はいないだろう。昔の貧乏から比べると金持ちの生活になっている。結構贅沢するために貧乏だと言っている。金がないと言っている。福島県のいわき市の東京の目黒まで行って殺人した人は韓国に愛人を作っていてその子供が病気だったらしい、それで困って殺人まで犯したとか言っている。これも実に身勝手な話しである。そんなことをして金がないと他人を殺してゆく人に同情はできない、もし難病の子供がいて困っていて金が欲しくて殺人を犯したとなれば同情する、でも韓国にまで愛人がいてその子供のためとなれば同情しないだろう。65才でそんなことをしていたのもまず60代から70くらいまでは倫理感がまるでない人が多いのだ。そして犯罪が国際化するのも特徴である。70歳の女性が麻薬の運搬人をしていた。金がないからだというが60代でも70でも犯罪も国際化するのがこれからの特徴である。60以上の犯罪はいろいろな面で増えてくる。これは貧乏というだけではない、贅沢したいための犯罪なのである。海外旅行したくて自分の家に放火した若い女性もいた。これも今食べるものがないから盗んだとかではない犯罪である。
今は金がないというときそういう分相応な暮らしをしていて貧乏なのではない、贅沢したいために貧乏なのである。自分が接した人でもなぜそんなに借金までしなければならないのか?車を一人一台もっていて減らすこともできないし贅沢もやめられず借金するとなるとそういう人に同情するのも馬鹿らしいとなる。どん底に貧乏で飢死するような人は今はほとんどいない、生活保護もあるし最低限は保証されている。生活保護している人も金がたりないたりないともっと金が欲しくてアルバイトしている。なぜなら子供に塾に通わせるとか貧乏人ではできないことをさせようとしているからである。別に子供が優秀なら今なら高校くらいは出れるようになっている。しかし塾に通わせるというのは生活保護では無理でもしようとしている。今貧乏だ金がないというとき明日食べるものがないという米を食べるものが贅沢だという貧乏ではない、より贅沢するために金がない、金がない、貧乏だというのが多いのだ。だから今の貧乏な人には同情できない、借金する人もずいぶん身勝手だなと思ってしまう。昔の貧乏なら同情すべきとなるが今はそうはならない、貧乏でも個々に事情があるからすべてとはいえない、でも何かそうした身勝手な貧乏を主張して借金やら犯罪までに走る人が多すぎるのだ。60代からは物欲中心に生きていたから貧乏にがまんできないこともあり犯罪に走るのである。
もちろん今の雇用状態、フリ-タ-とか派遣とか時給制というのは問題がありそこに貧乏の原因があり改善すべきだというのはわかる。いつの世にも不公平があるのはさけられない、だからといって今は貧乏だからと言って同情すべきような貧乏とは違う。自分も別に金持ちではない、普通の暮らしをしている。車もないのだから金持ちとは言えない、でも今の貧乏だという人には同情できない、極端なホ-ムレスとかは違っているが普通に暮らしている人は貧乏だと思えない、もちろん持ち家をもっているとか格差はある。それにしてもそうした貧乏だからだと同情して手痛い目にあってから同情しえなくなった。現代は金持ちになれる機会がそれなりにもたされている。地主と小作のような他に働き場所もないような戦前のような社会ではそうはならない、金持ちになる機会が極端に制限されていたからである。現代は金持ちに本当になりたかったらなれるという可能性が大きい社会である。貯金だって節約すればできる、それでも贅沢したいから金持ちにならないということがあるのだ。「俺たちは貧乏だ、社会のせいだ、金持ちは俺たちをこき使いもうけているんだ・・・」とか恨みつらみを言うけどそれがすべてなのか今は疑問なのである。「あなたたちにも金がない責任はあるんじゃないですか」というところが多分にあるのだ。だから現代の金にまつわる犯罪は本当に今日明日食べるものがなくて飢死しそうで起こす犯罪とはまるで違うのが多いのである。外国まで愛人をもってそのために殺人まで犯す、そうした犯罪が多いしこれからも60代以上の人で増えてくる。